しき【磯城】
奈良盆地中東部一帯を指す地名。師木,志貴などにもつくる。《日本書紀》神武即位前紀には磯城邑(しきむら)がみえ,兄磯城(えしき),弟磯城(おとしき)という有力豪族がおり,後に弟磯城が磯城県主となったとある。磯城県は4~5世紀ころの成立とみられるが,その地域が中心となって奈良時代の城上(しきのかみ)郡,城下(しきのしも)郡ができる。崇神天皇の磯城瑞籬宮(みずがきのみや),垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや),景行天皇の纏向日代宮(ひしろのみや),欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)などが営まれたことが《日本書紀》にみえ,この地域は磐余(いわれ)地域とともに狭義のヤマトの主要部分を占め,古代の政治・文化の中心であった。
「「磯も城もないのに、なぜ磯城郡なのだろう」と不思議に思い、帰ってから広辞苑を引くと《しき【磯城・城】 石で築いたしろ。石のとりで》とあった。「城」だけで「しき」と読むとは、これも新発見だった。その後、磯城郡川西町に「式下(しきげ)中学校」という学校があることを知った。磯城と式、これも何か関係ありそうだ…。
そのまま20年以上が経過したが、先日買い求めた『奈良の地名由来辞典』(東京堂出版)にちゃんと載っていた。
《磯城 しき (磯城郡)古代の郡名。県名・邑名。十市(とおいち)・城上(しきじょう)・城下(しきげ)郡から成る。城上・城下は、磯城上・磯城下の二字化したもの。一に式上・式下とも書く》《「崇神紀」には「磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)」とみえる》《シキは石城で石を堅く固めた所の意。磐余(いわれ 岩村―石寸)と同意の語か》。」
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奈良県の「し・き」は「風の来る場所」が真の意味だったと考えている。鉱山の間歩(まぶ=坑道)を業界では「敷 しき」と言う。「遠い敷」と書いて「おにゅう」と読ませるのは福井県の地名であるが、「おにゅう」とは水銀もしくはミネラル水の湧くことからの美称で、暗に水銀鉱山、あるいはベンガラ鉱床、ないしはミネラル成分の多いかつての湖沼地がひあがった土地をさす。
鉱山から出た鉱石は鍛冶屋によって加工されるので、当然風(たたら風=北西偏西風)が必要である。磯城の土地は東の三輪山山塊から西にむかってゆるやかに下っており、中央部はかつては古奈良湖があった湿地帯である。従って北西風を受け入れやすく、風は生駒や金剛の山地を越えると奈良湖へ駆け下りて、今度は下から三輪山に向けて吹き上げることとなる。これはたたら製鉄には最適の地形。
もうひとつの説は、纏向古墳群の存在で、こちらは石を積み上げて敷き込む葺石(ふきいし)で固めた城という意味になる。纏向古墳群は奈良だけでなく、全国的にも最古級の古墳群で、日本でも最初に作られ始めた場所。「礒」には「いそ」「いし」の意味があり、もともと石のごろごろするところはみな「礒」である。この場合は磐余(いわれ)地名同様の意味になり、ともにヤマトの中核となった都市=城という意味になる。「城」は漢語でももともと城郭に囲まれた都市という意味である。
「磐余」は5世紀前半の第17代履中天皇が灌漑用の溜め池を作らせた。それが磐余池である。『日本書紀』には、履中天皇2年11月条に「磐余池を作る」とある。しかし、その池の名は当初は磐余市磯池いわれいちしのいけと呼ばれていたようだ。
ここにも「礒」の文字が使われていて、池を作るのに石を用いたことを匂わせてある。「市」とはものを集積して商う、ないしは分配したという土地になる。今の市場の市であるが、それが転じてそういう人やものが集まる場所を市(まち)とするようになる。
弥生時代後期になると奈良湿地もかなり干上がって宮や市が造れる様になったのであろう、崇神天皇以降の宮はみなこの磯城に造られ始めていると記録は言っている。ただその北部に隣接した唐古・鍵については記録には登場してこないのは不思議である。前1~1世紀半ばまでここは中心部だったはずなのだが。どうも唐古・鍵については言い伝えがなかったようなのである。しかしここも実は大字は石見で、石が関係したようである。湿地を埋め立てるのに、どちらも石を放り込んでいたのではなかろうか。
ところで、水田を造るとき水をどうするかは大変な問題である。湿地なら簡単だろうと思うだろうが、石見周辺には古代・韓人に造営させたため池が山ほどあり唐古池も鍵池も皿池も人口のため池である。灌漑施設は纏向を代表する遺構でもあるが、水を自在に手繰ろうとするならば、傾斜の下にある奈良湖から水をくみ上げていたのでは重労働になる。普通なら丘陵側にある湧水から導水の樋や水路で導いてくるほうが楽なはず。三輪山からの湧き水がなかったらここは都も水田も考えられない場所だったと思う。
往古からウオーターフロントには必ずと言っていいほど先住民が先に住んでいるものである。これを懐柔したときから彼らは「葛」の民・・・つまり従属した奴婢=被差別民となるのである。
水辺、池辺、川辺、海岸、水際、湖沼地は世界中でそういう場所である。動物界でさえ、肉食獣のえさになるのは水辺に集まる草食獣。つまりそういう弱者が磯城や磐余や唐古・鍵の土台を作らされたということは容易に想像できる。え????あなたは想像できなかった?そりゃあまあ・・・かわいそうに。よほどいいところにお生まれになられたんでしょうねえ。被差別なんかないと思っているお人よしなんだろうなあ・・・。
聖なる場所、聖なる建造物を作るのは王族だが、基礎を作るのはつねに、今も、ブルーカラーの工人である。それは渡来・先住の民なのだ。法隆寺だろうと伊勢神宮だろうと大阪城・二条城だろうと、造るのはいつも差別された技術者たちである。
だからそれら建造物ができあがると、彼らは用済みとなり追い立てられる。そして周辺に、都をとりまくように住み着くのである。それがまた決まって水辺や聖域間近の空き地である。
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庵戸宮(廬戸宮)いおとのみやあとClik here to view.

そして彼らの中から優婆夷・優婆塞、ひじり、カルト宗教がにじみ出るように出てきては消えるのである。その生命力の大元になるのが「恨」の根性である。
古墳巡り、神社巡りをする人なら、ほんの一・二年も歩き回ればすぐ気づくはず。古墳のある地域が全国的にどこかしら似ている。町並み、雰囲気、複雑な迷路。血の匂い・・・。あやしげな宗教結社。まとわりつくごとくにひしひしと身に迫る、それらの影・・・。それが「うしろど」というものである。必ずしも彼らは遠隔地に押し込められたわけではなかった。同化し、聖職に身を隠したりして、かろうじて都市中心部に居残ったのである。
伏見稲荷大社などはそれが如実に残されている。
ひとり旅には十分気をつけなさい。とくに女性の歴史ファンが増えている。ひとりでは入ってはならぬ場所はまだまだあるぞよ。
神隠しは今もなお、特定地域に残っているかも知れません。
むやみに結界を越えてしまうと、磯城ならぬ死期を近づけるやも知れませぬ。
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