京都大学人文科学研究所・岡村秀典
漢鏡の時期別区分
1.漢鏡1期(前二世紀前半、前漢前期)
2.漢鏡2期(前二世紀後半、前漢中期前半)
3.漢鏡3期(前一世紀前半から中ごろ、前漢中期後半から後期前半)
4.漢鏡4期(前一世後葉から一世紀はじめ、前漢末から新の王莽の時代)
5.漢鏡5期(一世紀中ごろから後半、後漢前期)
6.漢鏡6期(二世紀前半、後漢中期)
7.漢鏡7期(二世紀後半から三世紀はじめ、後漢後期)
8.三世紀の三角縁神獣鏡をはじめとする魏鏡
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出典:岡村秀典著『三角縁神獣鏡の時代』。1999年発行。発行所 ㈱吉川弘文舘
※この人の区分が正しいかどうか、あるいはこの区分によって畿内論者が導き出そうとしたがる「三角縁神獣鏡は卑弥呼の時代の鏡」論が正しいかどうか、などの各論はここでは言及するつもりはない。問題のある区分法であることは百も承知で(ほかにいい時代区分と分布地図がないから仕方なく)使わせてもらう。
考古学の発掘統計にとって大事なことは、図面や分布図が示している、おおまかだが、ひと目で見えてくる客観的なその時代性だけある。九州説がいいとかヤマト説がいいというのは、筆者にはどうでもよいことで、これによってなんの結論も見出せるとは思っていない。単なる漢鏡の時代区分の一説であると捉えればよい。ただの便利な図でしかない。ただしこの人の時代区分にはいくらか人的恣意的偏見がないとは言えないかも知れないので、分析に注意を要する。ヤマト説、畿内説仮説にはどうしてもそういう部分が刷り込まれ、隠されているくらいの危機感は持って臨んだほうがよいかもしれない。
これで見る限り、漢鏡4~6期(前一世後葉から一世紀はじめ、前漢末から新の王莽の時代~二世紀前期・後漢中期)の間は、圧倒的に北部九州地域に漢鏡が集中する。ほかの地域は5期に増え始めるが6期にはまた激減している。(北部九州内でも多少の東西への増減が見えることもお忘れなく)。
7期からがいよいよ卑弥呼の時代である。
2世紀後半から3世紀はじめ、後漢後期。
7期はさらに三段階に区分される。
第一段階 2世紀後半~
第二段階 ~3世紀初頭
第三段階 3世紀中~後半
卑弥呼と同時代になるのは第二段階~第三段階である。
見る限りでは確かにこの段階から北部九州では遺跡から漢鏡は消えてゆくが、一方だからといって畿内が、確かに北部九州に比べて突然増え始めるのだが、かつての北部九州ほどの数量の漢鏡があるともいい難いのがわかる。それはおそらくメインとなる漢鏡そのもの畿内での嗜好が、北部九州とは違っていたことと、渡来する漢鏡そのものが少なくなってきたこととが関係するだろう。2世紀中盤までの九州人の嗜好は方格規矩鏡や連弧文鏡あるいは内向花文鏡であったのに、あきらかに畿内では斜縁神獣鏡~画文帯神獣鏡などのいわゆる「神獣鏡」へと一変したのである。神獣鏡の特徴は絵柄の具体性であり、その内容は明確に鬼道=神仙思想の題材を用いてある。これは大変な矛盾した嗜好なのだということにまず気づかねばならない。
この時代、神仙思想と言えば中国では長江流域の呉を中心とする人びと(倭種・倭族のちの少数民族やベトナム北部越人)の宗教観であり、同時に神仙思想は呉の孫権が東北部の公孫氏燕国との共闘、挟撃作戦のために神仙思想の鏡を下賜していたはずの時代である。つまり神獣鏡そのものが漢鏡と言うよりも、呉鏡だと言っていい絵柄なのである。それを公孫氏を通じて畿内乃至は卑弥呼がもらっていたというのは特に奇妙ではない。しかし呉のライバルである魏が、公孫氏を打ち破って滅ぼしてから、そこへ朝貢したものが欲しがった、魏にいって呉の思想を描く鏡を欲しがる、それ自体が疑問視されてこないのは奇妙なことである。それは魏にとって気持ちのいいものだっただろうか?同じ神仙思想ならばなぜ彼らは九州のような、正式の古い鏡を欲しなかったのか?
畿内も北部九州も後漢を再興するのは呉か魏か公孫氏かという日和見をしていた時代があったはずである。遠隔地である畿内は、しかし公孫氏を通じてしか中国情勢がわかりにくい位置にあり、どうやら最終勝利者となった魏が、漢を復活して、後漢鏡や神仙思想をも共有する国家だと勘違いしたのではなかろうか?
しかし、魏の曹操は神秘的な呪術を信じない人であった。
当然、漢鏡に興味はなく、神仙思想にも興味はなかったはずである。
一方、二世紀まで北部九州が欲した鏡である方格規矩鏡や連弧文鏡(内向花文鏡)は前漢から後漢にかけてあった神仙思想を示す幾何学的絵柄を配置した正式な漢の鏡である。その歴史は中国では、後漢の中頃から三国時代を経て六朝時代に及ぶ時期に製作された神獣鏡よりも古いものなのである。つまりこの時点で、畿内側の神仙思想は古くからあった正式な鏡ではないことになる。知らなかったと言ってもいいかも知れない。なぜ畿内の人びとは神獣鏡にこだわったのだろうか?それは畿内の歴史が浅かったからであり、中国の知識に乏しかったせいであろう。だから畿内は倭の新参国家だという考古学の分析と合致することになる。
簡単に言えば北部九州は歴史が古かったために、前漢鏡を正統とした人びとの国家であり、同時に公孫氏はそれらを重視しなかった、呉も正統な鏡は公孫氏にも畿内倭人には与えなかったということが見えてくるだろう。しかし2世紀中盤までの北部九州にだけは正式な鏡を与えていたことになるわけである。
では邪馬台国の九州からの移動が畿内に起こったのではないかという意見(東遷説)は鏡からは成り立たないのだろうか?
土器編年から見れば、北部九州の土器は畿内ではほとんど皆無である。鏡の相違、土器様式の相違は東遷説を生み出せない様相を見せていることは否定できない。
つまり九州の王族は畿内へは行っていないのである。
ところが畿内や日本海、瀬戸内海諸国からは九州へ行っていた痕跡がある。九州から諸国の人びとは海外へ出て行っていたということであり、つまりどうしても北部九州の玄界灘に面した地域は、少なくとも畿内共栄圏の港になっているのである。
近年の魏鏡論者の意見によれば(福永 1994a、岸本 1993、1995)、三角縁神獣鏡にも様式に変遷があるといわれだしてきた。三角縁は国産鏡である。その手本になっているのは後漢以後の斜縁(=半三角縁)、平ぶち神獣鏡であり、特に画文帯神獣鏡であろうと考えられる。三角縁を考案したのは、魏が送り込んだ呉の工人たちであろう。倭人好みの巨大化に耐えうる強度を持たせるための工夫である。三角縁神獣鏡の絵柄の相違は、3世紀後半以後~4世紀のポスト九州王朝を畿内が手にしたことを証明する遺物だと言える。
それにしても納得できにくいのは北部九州のその後の正統漢鏡の皆無になってしまうことである。あれだけの力を持っていた北部九州王国は、なぜ3後半~4世紀に消えてしまったのか?それだけ呉に一辺倒だったために、呉が敗北して大ショックだったというのはわかる。それが衰退してヤマトの傘下になった契機だったということだろう。
それとも畿内ではないどこかへ四散していったのか?あるいは全員がヤマトに屈し、帰順し、追従したのか?その答えは4世紀に一気に増え始める前方後円墳が示していることだろうと思える。
倭人伝が倭国を南海上にあると書いた理由は、すでに書いたことだが、魏の挟撃思想から出たものである。魏を受け継いだ西晋は『三国志』の時代の話として、魏にとって倭が、呉の目の前の海にあってけん制しているぞという虚構が都合がいいと判断したのだろう。実のところ魏の祖先たちのほうでも、倭が南北どちらを選ぶか長い間情勢をながめてきたのだろうと思う。曹操の故郷は山東半島のすぐ北側だった。南にはもう呉がある。曹操は呉と倭の1同種 2長いつきあいの歴史を知っており、常に身近に見てきたのである。それだけに倭の水人を仲間にすれば呉にとって脅威になることも熟知していたと考えてよかろう。卑弥呼の使者が来たときは魏王と曹家たちは「やっと朝貢に来たか」「待ちわびた」「これで海の盟主にもなれた」、である。
まことに残念なことだけれど、今のところ、九州王家は4世紀までに衰亡し、畿内に従ったとしか言いにくい様子である。その後、では復活はなかったといえば、これまた残念なことだが、6世紀継体大王時代になってもそれはなく、磐井の敗北まで、独自性を持ち続けてはいたが、政治よりも経済の港としての博多の平安末期までの静かな繁栄しか聞こえてはこないのである。
今のところそう考えるのが整合であるように、九州人ではあるが、考えないわけにはいかないようである。反論無用。今のところであるあくまでも。
B型ゆえにまた明日には気持ちが変わっているかも知れない。
いまひとつ疑問がある。
それは倭五王時代の大古墳時代になって、漢鏡はやはり畿内には少し出るが、なぜか河内にはほとんど出ないことである。伝世されたということなら、河内政権は河内には存在しなかったということになるのだろうか?あるいはすでに神仙思想に興味がなくなったということになるのだろうか?それとも倭五王たちは本当に異民族だったのだろうか?^^;
筆者は倭五王の巨大古墳埋葬は、どうも納得がいかない。ヤマトとは別の王家であることを隠匿するためにヤマトが前方後円墳に仕立て上げたのではなかろうか?
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