魏志には卑弥呼の朝貢に、儀は答えて鏡等を送ったと書いてあるが、倭王武の上表文を記録した「宋書」には、それに答えて使者を送ったとは書かれていない。
■ 倭王武の上表文(478年)と『日本書紀』との比較
上表文の内容と『日本書紀』を比較すると若干の違いがある。『日本書紀』には倭国が高句麗と戦ったことと、南宋に使者を送ったことは記されているが、南宋から爵号をもらったことは記録されていない。
これは、聖徳太子以降、中国と対等の立場に立った日本が、かつて爵号をもらって中国の臣下になったことを記録に残したくなかったのだと思われる。
■ 百済航路と呉音
倭王武の上表文には、倭人が百済を経由して中国との間を往復したことが記されている。漢字の読み方で呉音と呼ばれるものは、中国南朝の音の百済なまりと考えられるので、百済経由での南朝文化の伝来が、呉音が大量に日本に入ってきたことの理由と考えられる。
■ 502年(天監元年)の昇進
梁の武帝即位の際に、倭王武を征東大将軍に昇進させたと記されているが、『日本書紀』によれば、このときすでに倭王武は亡くなっている。
これについては二つの説がある。
上表文の内容と『日本書紀』を比較すると若干の違いがある。『日本書紀』には倭国が高句麗と戦ったことと、南宋に使者を送ったことは記されているが、南宋から爵号をもらったことは記録されていない。
これは、聖徳太子以降、中国と対等の立場に立った日本が、かつて爵号をもらって中国の臣下になったことを記録に残したくなかったのだと思われる。
■ 百済航路と呉音
倭王武の上表文には、倭人が百済を経由して中国との間を往復したことが記されている。漢字の読み方で呉音と呼ばれるものは、中国南朝の音の百済なまりと考えられるので、百済経由での南朝文化の伝来が、呉音が大量に日本に入ってきたことの理由と考えられる。
■ 502年(天監元年)の昇進
梁の武帝即位の際に、倭王武を征東大将軍に昇進させたと記されているが、『日本書紀』によれば、このときすでに倭王武は亡くなっている。
これについては二つの説がある。
- 実際に雄略天皇の使いは来ていないが、即位のセレモニーの記録をにぎやかにするため、あたかも倭王武の使者が参列したかのように記録した。中国人はこのようなことを好む性行がある。
- この倭王武は武列天皇のことである。
表1 中国文献の倭王武の関係記事(前回の表の続き)