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ダウトを知ってますか? 対立と戦争の歴史を分析する 吉備国邪馬台国説付録

 
 
 
 
 
対立の歴史を読む
 
 
●対立解消のノウハウ
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思考プロセス入門(5) 対立解消図の作成方法 より
http://ik-consul.jpn.org/archives/1837
 
 
●対立や戦争はどうして始まるのか?
現状維持を 望む人々と、現状打破を望む人々によって対立がはじまる
 

頑迷で保守的な、けれども反面、意外に論理的ではない、感情的・主観的、また又聞き的な思い込みが、真実や客観性を凌駕することが多い。野鳥が卵から生まれて最初に見た相手を母親と思い込むように、意外に人間も、最初の印象、思い込み、伝聞を一生信じ込んでいることが多い。

 
その「常識」だった事柄が、あるときそうではないかも知れないと感じたとき、ヒトの確信はもろくも崩れてしまうものである。普通の人なら、「そうだったのか」と気づいて考えを改めてことなきを得る。むしろ、真実を教えてくれた相手を尊敬の念で素直に受け入れる。しかし、そうではなく、「そんな馬鹿なことがあるはずない」と考える人は、必ず相手が喧嘩を売ったと考え、報復しようとする。「俺はこう教えられてきた」「そう信じてきたから、これまで平和だった」などを常套句にし、客観的真実から逃避することで、主観的に自己を正当化しようとする。
これは、幼少時から、その人が基礎学力を身につけるのが苦手で、客観性や科学にコンプレックスを持ち、主観性ですべてを理解しようとする性格である場合が多い。いわゆる論理性の欠落である。右脳で考えられず、左脳を駆使するとそうなる。女性化と言ってしまうと差別だと言われるだろうか。今の時代は言葉の選択に苦労する。かといって「泣き喚いてまで」主張するほどの大論考でもない。
 
 
 
●ダウトがザブトンになるような誤解から対立は起こる
あなたは「ダウト」というカードゲームをやったことがあるだろうか?
 
ダウト
 
ゲーム名の「ダウト」とは英語・ドイツ語で「疑わしい」という意味の言葉で、英語でのゲームの別名I Doubt ItのDoubt(ダウト)の単語から来たゲーム名である。それが関西地方ではなぜか、「ザブトン」と曲解され、真ん中に本当に座布団を敷いて(=花札の場の真似か?)行い、名前の由来もその座布団からだと思い込んでいる人がとても多い。これはまったくの勘違いである。
 

そのダウトの曲解を借りて、ちょっと遊びで、対立の構造を図式にしてみよう。もちろん、そういう喧嘩にまでなるほどの対立が、実際に起きているわけではない。これはゲームなので、大半の人は名前などどうでもいいと、和気藹々やっているのが現状だろう。もっとも昨今はこういうトランプ遊びもPCゲームですたれてしまったかも。
 
 
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対立は往々にしてだが、マイノリティ(少数派)の中で起こり、保守性や頑迷さを尊び、変革を嫌う日本人には、ささいないざこざを引き起こす。正解や真実を追究するマイノリティと、まったく逆に奇抜な思いつきや信じ込みを曲げないマイノリティの間に、いさかいが起こる。

そしてそれをそれぞれの野次馬が後押し(サポーター)することでいさかいは、まま、戦争へ向かってしまいかねないことになる。知性と無知の対立、客観と主観の対立、科学と宗教の対立、ガリレオとローマ教会の対立・・・などなど、似たようなことは枚挙にいとまがない。そういうときは人はどうしてきただろう?
 

■クリミア戦争勃発のきっかけ
「フランスが海峡を通って一隻の戦艦をコンスタンティノープルに派遣したので、カトリックの僧たちが聖地の管理権を得ることになった。
 
ロシアはトルコ国境に軍隊を送り、カトリックの僧は管理権を少しばかり失うこととなった。
 
緊張が増し、各国が圧力をかけ、お互いに相手を疑い始めるようになった。」
p48 「戦争はなぜ起こるか」 A・J・P・テイラー 新評論
 
 

政治的世界では「既得権益」が大きな影響を与えて戦争につながるケースが多い。これは一般的な小市民社会の議会、あるいは町内会・自治会内部でさえそうである。スケールの大小に関わらず人間が集団で生活しはじめると、必ずこの問題が起こる。中国の今の変形中華思想も結局は既得権益としての海の領土への固執の現れで、帝国主義、富国強兵思想である。古すぎるわけだ。
 
 
●対立の要因「既得権益」
また、対立する既得権益は、必ず流言飛語と造られた噂話、告げ口を誘い出し、極端な時代には、相手に呪いをかけて殺害しようという行為まで出現した。いわゆる中国の、敵に似せた人形を刃物で刺してその人物の屋敷の床下に埋めるなどの呪詛であり、日本では人面土器や墨書での呪いがあった。流言飛語では、崇峻天皇がああいった、こう言ったなどが蘇我馬子の耳に入り、馬子が甥である崇峻を惨殺している。しかし記紀がそう書いているからと言って、それが確かに馬子の仕業だったかは、実はわかるはずはない。それはあくまでも蘇我氏を殺した側の言い分である。

また、卑弥呼の時代では、大陸の国家対立が、そのまま、まだひとつにまとまった国家のなかった列島の畿内や九州、全国の地方各村落に影響し、それぞれの地域で地域を二分する対立が起きた。これを解消するには、大陸の魏と呉のどちらかの決着を待つしかないのだが、倭国は魏か呉かの既得権益で大いに迷ったあげく「大乱」となり、「邪馬台国」という「ある地域」では、しかたなく巫女を中間調停者として共立して、「神の意思」としての魏呉戦争の決着を待つことに落ち着いた。対立した二者にはクニを保とうという目的での一致があったためである。これをいち早く達成できた卑弥呼の国が、だから列島では北部九州よりも早く魏への朝貢をなしえたわけであるが、ではなぜ先進地であった北部九州が出遅れたのかについては、先進地だったからという答えしかありえない。階級的ヒエラルキー社会と、領土拡張の武器・水田をほぼ同時に、どこよりも早く手にした北部九州では、対立の決着は武力の決着まで続けられる。二者択一しかなかったのである。その証拠となるのは甕棺の矢じりや青銅器のかけらの残る遺体である。進んでいたがために北部九州は戦いにあけくれ、魏を選択するのが遅れたのである。
 
 
●花田清輝の「対立のままの統一」
その決着がついて魏が政権をとってすぐに卑弥呼は使者を送っている。つまり縄文と渡来が和合することで始まった畿内では、ヘテラルキーな、武力決着を選ばない、西洋史では遅れた共立社会だったために、花田清輝の言葉で言うならば「対立を対立のまま統一する」止揚行動が可能だった。実に皮肉なことである。
 
 
●「和」こそが縄文のヘテラルキー
厩戸皇子がのちに憲法としたとされる「和」とは、まさしく、このことである。
さらに、卑弥呼は、それでも呉を信奉し続ける狗奴国王との長いいくさに負けそうになったとき、自らの命を「以って死す」ことによって責任をとり、今度は邪馬台国対狗奴国の内乱が始まることとなる。そして魏の加勢を借りて邪馬台国が「宗女臺與」を立てることで、狗奴国も納得し、ここから新たな共立社会が開始されたことになる。
 
 
 
●内乱は和思想でおさまる、しかし対外戦争は?
このように見てくると、戦争や対立を起こさないためには、むしろ3世紀近畿のような、あいまいで、保守的頑迷ではなく、融通無碍で、つかみどころのない、原始的、後進的、日和見的だが、殺しあわぬ方向性が一番よい、ということになる。

ただ、3世紀の対立は、あくまでも外からの侵略戦争ではなく、また白村江の戦いのような他国への加勢戦争でもなく、国内の内乱である。他国の侵略者に、倭人のような「共立思想」はなく、いくさは勝ったものがすべてを手にする。侵略戦争や加勢援助するいくさに、畿内倭人的な3世紀の和合ヘテラルキー思想など、まったく通用しないことは忘れてはならない。
 
 
●白村江敗北は集団的自衛権発動の結果?
白村江の戦いは、百済からの救援依頼で行われたので、天智倭国にとっては、まさに集団的自衛戦争である。そこにも当然、ヘテラルキーな和合は存在しえない。そうした考え方の世界だからこそ、倭国は勝てるはずもなかった。集団的自衛行為には、必ず前もって勝敗を見極めておけるだけのずる賢さが必要である。加勢するなら絶対これなら勝つという状況判断が不可欠になる。だから天智は為政者としては失格である。ダメ政治家だったと考えてよい。
 
 
●対立は外野、野次馬が引き起こす
対立は、互いに頑迷な頭脳同士が出会ったときに、まま生じてしまう。そしてそこに油を注ぐ外野が加勢すると、火種は爆発してしまいがちである。サッカーの試合後の喧嘩にしても、必ずやるのは当事者同士ではなく、本来外野であるサポーター同士である。つまりこの野次馬やとりまき、外野ほど、怖いモノはないということである。
 
 
●1~2世紀の見上げる場所への移動とヒエラルキー化への道
高地性集落が1~2世紀に瀬戸内で増え始め、高いところに為政者が住み始める。高地性墓地もできはじめ、高地性の環濠集落さえ現れる。さらに高いところに戦争疑似体験場のような投石遺跡まで出現。臨戦態勢を感じさせる時代になるわけである。それが一箇所ではなく、沿岸地の各地に発生するのは、まだ倭国に中央集権社会が興っておらず、ばらばらのヘテラルキー分散社会だったからで、2、3世紀の大乱も、やはり地域別で対立があったことの証拠になる。中国の史書が倭国大乱と書いたからとて、決して国家を二分した大きな戦争だったわけではない。各地でそれぞれが別々に二分されての小競り合いの戦いである。また、高いところに為政者が上がるのは、高所から眺望することによって客観的差配が可能になることと、身分制度が徐々に北部九州的なヒエラルキー階級社会へと動き始めた、つまり大陸の影響を徐々に列島も受け始めた証拠となろう。

平面的な墓が、次第に石積みや土たんぼの高い山形になっていくのは、そういうことである。
 
 
 
●畿内・吉備の中の北部九州的傾向の謎
しかし、畿内を見ると、それが3世紀卑弥呼の死の直後あたりから突然登場し、しかも最初から巨大なのであるから、ヘテラルキー縄文融和社会=円と平面の墓制だったヤマトは、急激なヒエラルキー化を一気にやり始めたということになるのであり、それはつまりようやく中心人物が決められたことを如実に示すし、さらにその纏向型の前方後円墳や前方後方墳とは、どこかの真似をして始まったはずなのである。しかし、纏向よりも早い時期の高い土盛りした墓は吉備・出雲にしかないわけであり、その発想が吉備・出雲の人からのものであると今は言うしかないのである。また吉備には、纏向型よりも先行して、楯築直後に作られる鯉喰神社遺跡のプレ前方後円墳まで存在するのだから、ゆるがない。

だが二つだが、吉備邪馬台国派生地説に疑問がある。
ひとつは、それまで墳頂に竪穴式で埋葬されていた棺が、なぜ横穴式、横口式へ変化するかである。ヒエラルキー思想が入り始め、それが中央集権へ大和を導いて飛鳥時代となると言うのなら、なにゆえに石室と棺を、墳丘の頂上ではない平地や地下に埋葬しはじめるのか?広大な敷地に見上げる巨大古墳をずっと作っていればいいものを、なぜ?その死生観の変化はなんの影響で?
 
また鏡の副葬も、北部九州の東部で始まったヒエラルキー思想の一環であろうが、ヘテラルキーだった吉備や纏向がなぜ真似したのか?しかも魏の思想ではなく呉の思想の強い画文帯などの神獣鏡を最高峰に選んでいる。吉備には11枚の三角縁を副葬した備前車塚古墳があるが、備前赤磐郡は吉備の中心地ではない。

これらの部分に、北部九州の影響があることが、要するに、吉備も纏向も、やはりこれを真似したのではないかという疑念が滲んでいるのである。
 
 
 
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