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考古学常識の嘘・発掘の将来

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以前、松木武彦のヤマト縄文ヘテラルキー社会論の紹介のおりに、これまでの歴史学や考古学は、「歴史は繰り返さない」と思い込まれてきたことをあわせて書いておいた。
 
戦後歴史学は、「変化が歴史」「発展は一方方向へ向かう」「人類史は進化へ向かうだけ」だと考えられてきたという話である。松木と同じことを広瀬和雄も警告している。
 
旧跡時代同様、縄文時代もまた、このあいだまでほとんど変化しないとも考えられてきたが、実際の発掘からは、縄文の前半と後半、中期~後期はそれまでとはまったく土器や道具は様変わりしていくし、特に後期には栽培も開始され、常識はどんどん様変わりしている。大きな側面では人類の歴史は確かに前に向かって進化している。しかし進化や変化だけが歴史だという一元的な論理では、これまでと今とどう違うのか?ばかりに目が行き、その要因の解説にばかり重点が置かれ、「同じ」の側面は軽視されがちだった。
 
もちろん前と今との「同じ」ところも、実際には変わってはいるのではあるが、古墳時代の前期と中期ではどう歴史意義が違うかとか、縄文土器の変遷編年、場所移動にはどんな意味があるかなどはほとんどのしろうと好事家は知らないままである。マスコミ等で特に顕著に三角縁神獣鏡とひとくくりで語られて、「卑弥呼の鏡」などともてはやされるが、では卑弥呼の時代の三角縁はどれかと聞かれて、答えられない記者ばかりが記事をスクープにするために、書きなぐっている。それを見たり読んだりしたギャラリーは、一瞬で「そうか」と覆いこむことになる。
 
(だから考古学が歴史研究の決め付けの発信源にならぬようにしなくてはならない。テレビは特に、古代史に関して恣意的無意識の嘘や推測にあまりに光をあてすぎてはならず、視聴者は話半分で視る必要がある。)
 
 
変化のすべてが発展とは限らない。
それは停滞だったり、退化だったりもする。それが普通の人類史である。なかなかそうは考えられない人も多い。敗北者は二度と復活しないと考えられ、考証から捨てられる(「間違った断捨利」は実生活でもままある。捨てるものを間違うと、もうたどり着けなくなる。判断力がないひとの掃除である)。ところがその氏族が決して絶滅しておらず、知らぬ間に復活していることなど史書にはいくらでもある。日本史・東洋史ではそれが顕著である。チェスと将棋の違いに「手駒」があるが、死んだはずの敵の駒が、将棋では見方として活躍する。それこそがヘテラルキーならではのゲーム感覚である。
 
 
 
同様に、考古学もまた、戦後の高度成長による国土開発=日本列島改造の波の中で、偶然の、民間の開発による発掘チャンスの恩恵を受けてきたなど、あまり言う人はいない。考古学者の中には、ほんのこないだまで、「土木事業はまず考古学の許可をもらえ」と豪語してものさえいた。言うべきは正反対で、考古学は土木事業による開発で偶然見つかった遺跡や遺物を掘りあさってきたことを忘れているのである。金が動くはずもない考古学のためにあたかも歴史が動くという錯覚である。
 
大半の発掘は高速道の建設や、偶発的土木事業の掘り当てたものばかりであることを忘れてきた。そのために民主党政府以後予算がけづられ、箱物整備され、自民党政府になっても最盛期のようには復活していない土木事業の減少は、そのまま昨今の発掘激減に直結したままである。国土事業と発掘と、国や国民が本当に欲しているか、考えれば小学生でもわかるはずなのにだ。
 
 
さら、その成長期の湯水のような発掘は、研究者を遺物の山に埋もれさせるという皮肉を引き起こす。
 
「これまでの多くの日本考古学の研究は、できるかぎりの情報を集積し、それから帰納して推論を抽出する方法をとってきた。それが日本考古学の特質ともなり、優れた成果を生むとともに、資料の収集、データの集積を考古学の一目標とみなしかねない、悪しき側面形成することにもなった。しかし多量の情報の洪水は、帰納的研究法の困難な状況にたちいたらしめるであろう」田中琢 1986
 
 
資料の整理が考古学だという学者は山ほどいる。しかし、その資料に埋もれて、ただのブルーカラーになってしまっているものを研究者とは言いがたい。そこから対極的な「違う」「同じ」を見つけ出し、歴史に結び付けていく大局的な「論」が生まれねば学問でなくただの土木作業になりかねない。海外でそれをしていてもあまり問題にはならない。海外の考古学者は「考える」からだ。しかし日本人はもともと、やりはじめるととことんそれに徹してしまうところがあり、資料整理などは特にはまりこんでしまう。だから精度は確かに高く、信憑性も群を抜くが、それがかえって歴史を知るためのノウハウの一部に過ぎないことを忘れているというわけだ。
 
 
 
 
 
簡単な古代史の常識で言えば、日本国民は大半が、「卑弥呼は弥生人」だと思い込んでいることではなかろうか?
 
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「あたしゃあ、こんな扁平北方アジア人じゃないよ。もっとエキゾチックな外人顔の美人だったよ!」卑弥呼像などは作られたイメージに過ぎない。虚像である。
 
 
 
筆者は古代史を広く読み進めていくほどに、弥生人とは渡来人だけではなく、当然、先住していた縄文人も、弥生時代の日本の「住民」であり弥生人なのだと思えるようになった。まして東日本の縄文人が南下していた縄文後期の近畿では、だからこそヘテラルキーな共立社会が作られたのであって、そのイデオロギーの主体はまさに縄文のものだったのであるから、当然、巫女として確率の高い預言ができたのは渡来人より縄文人の血を引く巫女だったと考えても少しもおかしくない。われわれは弥生時代を、教科書にある九州の弥生遺跡で考えすぎている。弥生時代=九州北部だと思わせられてきた。しかしもし卑弥呼が近畿の人だったなら、当然、当時の近畿の社会構造から見て、それは九州とは違う円の思想に満ちていることに気がつかねばならない。
 
 
 
 
広瀬は古墳国家論の専門家ゆえに、近畿の古墳に関する常識のうそを例にしている。
 
 
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広瀬和雄 『古墳時代を再考する』同成社 2013 より
 
 
 
近畿の古墳は、纏向に始まり、奈良盆地を北上し、佐紀まで行ったあと馬見へと移動し、やがて西へ向かって河内へ向かった・・・みんなそう思い込んでいる。たしかに中心的な墓はそう動く。しかし古市に巨大古墳が作られていた同時代に、奈良にも馬見にも、100~200m級の大古墳はちゃんと生まれている。
 
古墳中心地の変遷が、そのまま河内王朝とか、倭五王とかの独占体制になってしまったわけではないのである。
 
 
 
邪馬台国だろうが、なんだろうが、とにかく日本の古代史を正しく復元できる人間は、もうかなり絞られている。広く浅くでも、考古学・民族学・宗教学・神話・文献・環境学。地理学・理化学・心理学・地層学・人間学をやってきたものにしか、もう手に負えなくなっているのである。難しくし過ぎたのも、やはり日本人独特の「おたく」的深入りしすぎる性格が生んできたものだろう。日本史を難しくし過ぎたのである。まるでモダンジャズの迷走である。やはり歴史は繰り返す。
 
 
 
 
だって。しょせん主人公は
 
 
               人間だもの。
 
 
 
 
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