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積石塚とは?/都塚古墳は高句麗系女性馬子の母の墓である

 
今日は考古学を面白くしてみよう。例によって専門家が言わないKawakatu珍説である。
 
 
 
 
◆都塚古墳 みやこづか・こふん
奈良県明日香村 6世紀後半(550年前後・飛鳥時代初期・古墳時代末)
一辺の長さが41~42mに土を積み上げた5段以上の形で高さが約4.5m以上と推定している。(古墳終末期としては大きい方)
 
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古墳の周辺には、古墳を守るための堀(盗掘・悪霊防止)の跡も発見された。

古墳の中には長さ12mの石室があり、入口を介して石棺(家型石棺で突起の形状からも6世紀後半)を取り寄せて納入したものと推定される。
研究を率いた米田文孝関西大教授は「このような階段状のピラミッド古墳は百済と高句麗で見ることができましたが、それよりも1世紀前に作られたものであり築造方法も異なり、朝鮮半島から流入されていないものと推定されている」とし「追加の確認作業が必要である」と伝えた。

日本経済新聞は、今回発見された古墳が飛鳥時代の豪族であった​​蘇我馬子の墓から南東に400メートル離れたところ位置しているとし、蘇我家の墓である可能性があると推測した。
 
都塚古墳位置関係図
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毎日新聞より(南入りの石室。つまり石舞台に尻を向けている)
 
 
 
 
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縄掛け突起、天辺の台状が時代を語っている。7世紀には天辺はもっと広くなって台形蓋となり、突起も形式的に小型化あるいはなくなる。あきらかに古墳終末期直前の石棺。
 
 
 
 
◆高句麗式積石塚墓まとめ
ほかの類似する積石塚
 
●太王陵古墳・将軍塚古墳
(5世紀後半。世界遺産高句麗首都古墳群のひとつ洞沟古墓群(5~7世紀?)の中にある)
中国集安市 (旧高句麗)及び朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌市と南浦市にまたがって所在する高句麗後期の古墳群=北朝鮮では高句麗古墳群と呼ぶ。壁画古墳としても有名。
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太王陵
 
 
 
 
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将軍塚(横口式石室)
 
(二つの名前を逆にしているサイトがありました。これが正解)
 
 
どちらかが広開土王(好太王)の墓とされる高句麗型積石塚の代表
近くに広開土王碑文がある。
広開土王は5世紀前半の人。調査で2003年5月に太王陵から「辛卯年好太王□造□九十六」という文字が刻まれた青銅の鈴が出土したことで、韓国考古学者は太王陵こそ広開土王墓に間違いなしとなった。
ただし「好太王」という諡号自体は、「王の中の王」という一般名詞で、即位当時まだ18歳だったので好太王=広開土王とは言えないとも(東潮2003)。
今回の奈良の都塚古墳は飛鳥時代前半つまり6世紀後半の蘇我稲目の時代に相当するので、高句麗の積石塚の方が100年古い。
 
 

 
●韓国石村洞古墳群の積石塚
高句麗が南下した5世紀後半以降の高句麗南下侵攻の影響下で百済地域生まれた古墳様式。
 
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日本が飛鳥時代に高句麗式積石塚を取り入れるとすれば、ここが最寄になるだろう。ただ、7世紀奈良時代の終末期古墳であるキトラや高松塚に高句麗様式の壁画が導入されている。時代的に見ると積石塚様式が先にきて、100年ほどあとから壁画となる。

しかし、これが九州の積石塚・壁画古墳で比較するとまた時代観が違ってくる。 下段の久留米市祇園山古墳参照。
 
 
 
●岡山県上房郡北房町大字下呰部258 大谷1号墳
 
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五段式切り石積で高句麗・百済様式に似る対面式古墳の代表
飛鳥時代7世紀・横口式石室(都塚は横穴式)

積石塚には王墓級のピラミッド・ジッグラト様式のものもあるが、長野県大室古墳群のような円錐形もあり、階級によりさまざまあったようである。瀬戸内海では讃岐・阿波を中心に3~4世紀には登場しており、5世紀の階段式積石塚よりも前から、石積み様式はもともと古くから半島北部にあったのだと思われる。
 

●祇園山古墳 (四世紀中盤?)
福岡県久留米市御井町高良山(高良大社山麓)
 
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ピラミッド型の方墳に箱式石棺(竪穴式石室・古墳時代前期)?
()内は筆者
http://lunabura.exblog.jp/16145717/
 
 
 
●相島古墳群新宮積石塚
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福岡県糟屋郡新宮市の海に浮かぶ島。相島(あいのしま)積石塚古墳群(4~7世紀長期間遺跡)
 
 
 
●階段状ではない積石塚
長野県大室古墳群(6世紀)
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●善通寺・有岡古墳群
香川県 3世紀後半~4世紀前
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珍しい円形二段式積石塚
 
 


 
 
◆ピラミッド型というよりもジッグラト型
ジッグラトまたはジグラート(英: Ziggurat アッカド語:ziqqurat)とは古代メソポタミア において日乾煉瓦を用いて数階層に組み上げて建てられた聖塔である。「高い所」を 意味する言葉である。シュメール起源と考えられている。紀元前5000年。ただし構造上の複雑さにおいて東アジアの積石塚とは根本的に構造が異なっている。観念的にはヒエラルキー社会における、天空に祖霊がありそれに近づこうとする点はほとんど同じであるが、いかんせん時代が隔絶し過ぎており、両者をつなぐには間に緩衝材が必要。つまり西アジアからキルギスを通って拡散した騎馬遊牧民という「つなぎ」が東アジアのステップロードでモンゴルまで持ち込むが、その間に、騎馬民族としての必要性から簡略化されたのだというアイデアである。もちろん今後の証明が必要な説ではあるが。遺伝子から見ればありえなくもない。
 
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都塚古墳は全国的に類例のない多段式(八段)ジッグラト型で、古墳後期様式の横穴式石室を持つ。

奈良の考古学者は「前例がない」と言っているが、瀬戸内、久留米を見れば「奈良県近畿地方でははじめて」ということであろうか?しかし積石塚だけで見れば兵庫県には存在する。
http://www.hyogo-koukohaku.jp/bank/compilation/5tpuaj0000003u9d.html
階段の多さが違うだけである。

「古墳時代にこの墓形式が存在する地域は、香川県から徳島県の一部の地域と長野県や山梨県の一部の地域に顕著に見られる。また、長崎県の対馬、山口県の見島、そのほか、宮崎・愛知・静岡・群馬県などにもみられる。 なかでも長野市大室古墳群、香川県高松市石清尾山古墳群、山口県萩市見島ジーコンボ古墳群などが著名である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%8D%E7%9F%B3%E5%A1%9A
 
 
 

つまり積石塚は飛鳥時代よりかなり以前(3後半)から、九州から瀬戸内、東海、北関東にかけてかなり取り込まれたポピュラーな墳墓形式だったと思ってよい。それが奈良考古学者が言うところの「ピラミッド型」つまりジッグラト型になるのは日本の飛鳥時代直前の5世紀後半の高句麗首都周辺であったということである。そして地方では、それぞれ単独で高句麗との交流があって近畿よりも早くから低い二段式や三段式積石墓が取り入れられていたところに、特に3世紀に吉備の勢力が大和地方に入ったことで大古墳時代が始まる。
 
4世紀の桜井地方王権勢力~倭五王時代を経て、5世紀後半から畿内でも積石塚が到来するが、前方後円墳華やかな時代であまり人気はなく、飛鳥時代の古墳末期になってそれを取り入れたのは国際的貿易政権を築いた蘇我氏だけだったということなのだろう。稲目の子・馬子までは方墳だったと見られる。
もしその後、蝦夷・入鹿が滅びなければ積石塚は日本のポピュラーな墳墓様式となっていたかも知れない。
 
都塚の位置が馬子の桃源墓(石舞台)の南400mにあるというが、もし石舞台が馬子であれば、父親の稲目がその南にあるのは奇妙なことであろう。天子南面の観念では、祖にあたる父親の墓のさらに北側の天子の位置に子供が墓を造らせたはずはない。

もちろん考古学が、文献にある人物に墓を当てはめようとする「奈良県考古学」では当たり前になっている示威的操作はすべきではないのは言うまでもないが、あえて憶測するならば都塚は稲目の妻で高句麗系の人という想定は考えられなくもない。というのも蘇我氏系譜上では稲目の先祖には満智-韓子(まち、からこ)という朝鮮名の名前があり、蘇我氏が半島を意識した人びとであったことを髣髴とさせているわけで、それがやがて馬背-稲目-馬子-蝦夷-入鹿と、次第に日本的名前になっていくのは、実際には彼らが高句麗や百済あるいは滅びていた伽耶などを出自として、突然、飛鳥直前に大和にあった先住葛城系氏族の領地だった石川という地域に飛び込んできた不明氏族だったということも高句麗・百済系積石塚を採用したことと関係するかも知れない。

馬背以前の系譜は造作という説は強い。稲目という人物がどこから出現したかもまったく不明である。のちに記録では、馬子が推古天皇に「葛城は産土であるから領地を割譲してほしい」とねじ込んだところを見ると、蘇我氏はそもそも武内宿禰系譜葛城系でもなく、どこの馬の骨かも知れない風来坊だったかも知れないのである。歴史上、そんなことは山ほどあることはご存知だろう。織田信長の父は日本海福井の織田郷から尾張に風来して来たし、徳川家康の父も阿弥乞食坊主として松平家に取り入った風来坊である。継体大王も倭五王始祖の応神もどこから登場したかはっきりしない大王だった。つまり民族学で言う「貴種流離」の民かも知れないのである。蘇我氏はつまり下克上の先駆者とも言えるのである。
 
 

◆蘇我氏と高句麗
欽明天皇二三年(五六二)八月
「八月。天皇遣大将軍大伴連狭手彦。領兵数万、伐于高麗。狭手彦乃用百済計。打破高麗。其王踰墻而逃。狭手彦遂乗勝以入宮。尽得珍宝〓[貝+化]賂。七織帳。鉄屋還来。
 旧本云。鉄屋在高麗西高楼上。織帳張於高麗王内寝。 以七織帳、奉献於天皇。以甲二領。金飾刀二口。銅鏤鍾三口。五色幡二竿。美女媛(媛名也)。
并其従女吾田子。送於蘇我稲目宿禰大臣。於是。大臣遂納二女以為妻、居軽曲殿。鉄屋在長安寺。是寺不知在何国。一本云。十一年、大伴狭手彦連共百済国、駆却高麗王陽香於比津留都。」
 
 
つまり稲目の妻は高句麗王の関係者だった可能性がある。「大伴狭手彦連(おおともの・さでひこの・むらじ)が百済国と組んで」半島に欽明政権が足場を作ろうとした時代に、稲目は軽の曲の殿(かるのまがり(石川の曲)のやしき)にいたが、550年頃、狭手彦が高句麗を攻めて王の娘・美女媛なる女性を連行して?稲目に献上した・・・様の内容のようである。つまり稲目の妻は高句麗王の娘で、おそらくこれが馬子の母ではないかと思われる。

 
蘇我氏の朝鮮名先祖の名前はこの史実から創作したものか?特に蘇我満智の名は、少し前の朝鮮木満知(もくら・まんち)の伝承を受けて作ったのであろう。そういう情報も美女媛や狭手彦たちから知ることが可能である。
従って馬子の墓の南にあるこの積石塚に最もふさわしい人物は母・美女媛ではないだろうか?
 
馬子の時代だが、高句麗から僧侶恵便が飛鳥に渡来している。馬子はグローバルな政治改革者で、あとの時代の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)=孝徳大王も難波で手本にしようとしたようだ。奇しくもその名も蘇我氏ゆかりの「軽 かる」だった。
 
 
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