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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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風の祭とは何か?二百十日によせて

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二百十日(にひゃくとおか)
9月1日頃(2014年は9月1日)。
立春から数えて210日目。
  
「この時季は稲が開花・結実する大事なときですが、台風が相次いで襲来し、農作物が被害を受けてしまうことがよくあり、厄日とか荒れ日などと言われています。一つの目安として警戒を呼びかけていたようです。
立春から数えて220日目の二百二十日も厄日と考えられています。
二百十日は伊勢の船乗りたちが長年の経験によって凶日としたといわれていて、雑節として暦に記載されたのは江戸時代で、八十八夜とほぼ同じ頃です。先人たちの経験に基づいた生活の知恵が暦となっているのですね。
農作物を風雨の被害から守るため、各地で風鎮めの儀式や祭が行われていて、風祭りもその一つです。
 
  
 風祭り(かざまつり)
 風害から農作物を守るため、神に祈願する祭り。全国的に行われているようですが、関東・中部・東海地方では、風祭りと共に風神・風宮の伝承が色濃くあるようです。二百十日前後に行うところが多いですが、正月・2月・4月・7月・8月に行う地方もあります。」
http://koyomigyouji.com/24-210.htm#sa

二百十日は歳時記の上では春秋、初夏にも点在しており、日にちがあいまいな歳時のひとつだ。
ただ季節風や台風を意識した節目であり、特に9月は稲穂が実る時期で、風には気を使うので、秋がメインであろう。
 
 
 
 
風祭(かざまつり、かぜまつり)
日本各地において、毎年二百十日前後に行われる嵐を鎮めるための祭り。二百十日は台風来襲の特異日のため、収穫前の農作物が被害に遭わないよう祈願することを目的とする。富山県富山市のおわら風の盆等が代表例である。地方によっては屋根や竹竿の先等に風上に向けて鎌を立てる「風切り鎌」の風習も見られる。「風祭り」とも書く。
神奈川県小田原市にある地名。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E7%A5%AD
 
 
かざまつり【風祭り・風祭】
農作物を風害から守るために神に祈願する祭りで日本の中央部に多い。二百十日前後に行われることが多いが,正月・7月に行う所もある。竜田神社の風の神祭りが有名。かぜまつり。風日待(かざひま)ち。
http://kotobank.jp/word/%E9%A2%A8%E7%A5%AD%E3%82%8A%E3%83%BB%E9%A2%A8%E7%A5%AD
 
『日本書紀』天武帝四年(六七六)
「風神を竜田(たつた)の立野(たつの)に、大物忌神を広瀬の河曲(かわわ)に祀る」

『令義解(りょうぎのげ)』
「謂ふこころは、また広瀬・竜田の二神なり。沴風(しんぷう)を吹かさらしめ、稼穡を滋(しげ)く登(みの)らしめんとす。故にこの祭あるなり。」
『日本書記』記事について、風を祀る意義が水田稲作における風害防除を祈るものであることを明らかにした注釈
 
『日本書紀』
持統天皇五年(691)八月
「降雨の多い災難のとき使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせた」
 
◆しなの地名由来
「「科野」の語源については諸説あるが、江戸時代の国学者である谷川士清は『日本書紀通證』に「科の木この国に出ず」と記し、賀茂真淵の『冠辞考』にも「(一説では)ここ科野という国の名も、この木より出たるなり。」と記しており、「科の木」に由来する説が古くから有力とされている。また賀茂真淵は「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」や「級」に由来する説を残している。他に「シナとは鉄に関連する言葉」とする説もある。風神(シナトヘノミコト)説もある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%9B%BD
 
「しなの」を「風の強い国=科戸辺神の国」としたのは吉田東伍(1907年『大日本地名辞典』)である。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55045433.html
 
のかも知れない。

「風の祝」を詠んだ歌に付いての検討を進めてきた。
清輔の「風の祝」の歌4首「信濃なる,伎蘇路の桜,咲きにけり,風の祝に,隙間あらすな」,清輔の「今朝見れば,伎蘇路の桜,咲きにけり,風の祝に,隙間あらすな」,家長の「信濃路や,風の祝に,こころせよ,しらゆふ花の,匂ふ神かき」,
正徹の「秋に吹く,木曽路の風の,祝子も,隙間厭わぬ,風や涼しき」
を取り上げた。これら4首の表意,裏意は,以下のように対比される・・・
http://www.geocities.jp/jp_kozoku_ken/Kazenohahuri-koh.htm
 
 
 
 
春の風祭
4月1日豊川風まつり 四月
  小坂井風まつり
3日新潟県阿賀野市ふるさとだしの風まつり
29日 那珂川町花の風まつり
 
秋の祭り
7月1~15日京都市千本ゑんま堂 風祭り
8月20日山形県櫛引町春日神社風祭りhttp://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005403214_00000&p=box
丑年と未年の8月最終日曜日 長野県諏訪大社式年薙鎌打ち神事
8月31日山形県西村山郡河北町沢畑風祭り太鼓
     千葉県横芝光町風祭り
8月下旬栃木県下野星宮神社かかし祭(本来風まつり)
8月最終日曜日 千葉県香取神社風祭り
9月1日 越中八尾おわら風の盆
11日 越中おわら宇奈月
13日 (土)  岸和田だんじり祭(→14日)
10月26日豊岡市竹野三原谷の川の風まつり
不明 静岡県駿東郡旧大御神(おおみか)村角取神社の風まつり記録あり
ほか全国に点在
 
 
 

持統天皇紀に云わく
「、『日本書紀』に、持統天皇の五年(691年)八月、長雨が続いたため使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとあり、『日本書紀』における諏訪大社初見の記事である。」
http://marishi.weblogs.jp/blog/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%A4%A7%E7%A4%BE/
 
「『日本書紀』にある持統天皇が天候回復を祈願した、須波神、水内(みのち)神という、タケミナカタとは別に中央に認められた風水神だったのではないだろうか。」
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/Mijakuji.html
 
「諏訪にタケミナカタを祭ったのはそらく持統天皇であろう。
それは蛇神であったが、なぜそうしたかと言えば、諏訪湖を巨大な風穴に見立て、そこからあらゆる災厄を招く風が吹き出てくると考えられていたからだろう。このとき、持統が「風の祝(かぜのほおり・ふうしゅく)として送り込んだのは多氏血脈を自称した阿蘇氏であった。
 
この阿蘇の風祝はそのまま諏訪に居つき、神長官守弥氏となり、諏訪氏となり、やがて金刺氏と名乗ったといわれている。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53264504.html
 
 
 

「風と死霊を結びつける考え方は柳田国(國)男にはじまる。柳田國男は「風位考」で、、まず「アナゼ」に着目した。戌亥から辰巳に向かって吹く風をアナゼといい、日本海側では出雲から南に下って九州の海岸。瀬戸の内海、東は摂津の西宮に及んで、紀州の日高郡にもあるという。そしてアナゼはアナシともいい、アナは昔から驚きの音であったから、これを悦(よろこ)ぶ風と解するのはむつかしく、予想せぬ風であるゆえに、常に不安を抱いて神に禱(いの)ることになったのであり、大和の纏向の穴師山(あなしの・やま)をはじめ、和泉、伊賀、伊勢、若狭などの穴師神社は、もと風の神を祀ったものと解される。大和の穴師山の地形からいって、あの山が風神(ふうじん)の本拠地であったと想像するにかたくない。都の西北に当たる竜田・広瀬の両社が風神を祀るのも、日本という国が西北から悪風を受けることと無関係ではないとしている。」(萩原秀三郎『鬼の復権』「タマカゼとカミの去来」)
 
三省堂「全訳読解古語辞典」によれば「あな」は感嘆符である。
凡例→「あなものぐるほし」更科日記
    「あなや」雨月物語・吉備津の釜
    「あなむざんや」平家物語・実盛
あとに続く言葉を強調したり、単独で驚き、恐怖、感情の高まりを表現する言葉で、「ああ!」「あれ」「まあ!」に当たる古語。
大和纏向の穴師には大兵師神社(穴師坐兵主神社 あなしにます・ひょうず・じんじゃ)があることはすでに何度か述べている。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B7%EA%BB%D5&sk=1
http://white.ap.teacup.com/kawakatublog/284.html
 
 

「その「あなし」地名は北西の風である「アナジ」「アナゼ」から来ていると柳田は推測した。
そして筆者は「戌亥の隅」は仏教が来るまでは鬼門だったと考察した。→
「西は陰陽の酉であるが、北北西は戌亥。申、酉、戌の方位は金気の方角とされ、山師は非常に好んだが、実は仏教以前には北北西は鬼門である。鬼門を北東とするのは、仏教が丑寅の方位を北東とする中国からの伝承をそのまま使った。それで丑寅は牛と虎だから鬼は頭に角を持たされ、下履きは虎の毛皮をはかされる。
だから戌亥の隅は鬼が去る(申)方角というのが古い。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%D8%FC%B0%E7%A4%CE%B6%F9&sk=0
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
さて風祭りは春と秋の季節風を押さえ込むための祭祀である。記録におけるその始まりは天武天皇紀四年に遡る。このときと、すぐあとの持統五年の風祝を龍田に送ったというのが最古になる。その送り込まれた風祝(かぜのはふり)という祭祀者は筆者は阿蘇氏だと考えている。つまりカムヤイ耳命を祖とした多氏大祝(おおはふり)を、ヤマトの多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ・奈良県磯城郡田原本町)から全国にも派遣したと思うのである。その土地は筑紫は阿蘇山阿蘇国造神社、中国は龍田神社、中部は諏訪湖の諏訪大社、東国は香取神社ではないかと思う。これらの神社と風・雨祈祷には、当時の宰相である藤原氏の中臣神道を多氏が直接受ける存在であったことが想像できる。

古代氏族には必ず武家集団と祭祀集団がよりそう格好で並び立っており、藤原氏には中臣神道が付随したが、その大元は物部神道であっただろうと思われる。千葉の香取神宮は藤原氏が物部守屋の神霊を、東国の鬼門の守りとしておいたのではなかろうか?諏訪の守矢氏と大祝が阿蘇氏系であることはつとに言われることだが、この「もりや」は、地元の縄文的伝承を持つ「もれや」とどう関するかは不明で、むしろ物部守屋に関係した名乗りではないか?龍田神社のある兵庫県揖保郡はもともと河内物部氏が石棺石材を求めた土地である。問題は大地を押さえる鯰を祭る鯰社を持つ阿蘇国造神社であるが、阿蘇の中通(なかどおし)古墳群は阿蘇国造家の墓と言われていて、ベンガラ(リモナイト)の産地でもある。

多氏がなぜ風を鎮護するのかとなるとよくはわからない。 皇別氏族屈指 の古族であり、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされながら多氏は、天武の親衛隊であった岐阜の多品治から安麻呂親族以外はほとんど氏族としての記録がない。
 
神八井耳命(かむやいみみ・かんやいみみ)は、記紀には神武のヤマトにおける長男として記録されるが、神武には南九州日向の最初の妻との間に第一子タギシ耳がいたわけで、カムヤイらはこれを誅殺(ちゅうさつ)して太子の地位を略奪したかのように描かれている。つまり記紀では、日向三代からの流れはここで断ち切られた、ということになるのである。これは万世一系を建前とした『日本書記』皇国史観では非常に奇妙なことである。その子孫が多氏であることになっている。これでは、多氏こそは神武以来の天皇血脈を、すでに記紀記録の最初からアマテラス子孫系譜を否定した氏族となってしまう。つまり藤原氏は南九州隼人系を断ち切ったのである。ここに誰も言及しない。
 
多氏がヤマト氏族の子孫であることは間違いないだろうと最近思い始めた。
河内渋川本家の物部守屋が蘇我氏に滅ぼされて最初に、大阪のカササギ森の宮に埋葬され、そこから聖徳太子がもともと神社であった四天王寺へ遺骸を移している。ここが寺になるきっかけはこれである。守屋の霊魂は風神として、今は四天王寺境内に放置されている阿蘇ピンク石石棺に埋納されなおしたと思いたい。だからそれは多氏、藤原氏のやったことで、聖徳太子時代のことではあるまい。
 
物部氏の服属祭祀集団である中臣氏が盟主守屋を四天王寺に鎮護しなおしたと見るのである。おそらく乙巳の変のかなり後のことであろう。蘇我氏が亡ぼされなければ、そうしたことは絶対起こらなかったはずである。中大兄皇子が聖徳太子という亡霊を作り出さなければ、本来、畿内物部氏に復権の道もなかったはずである。中臣氏と藤原氏は、直接祖人鎌足と中大兄が手を下してしまった守屋の霊魂をスサノヲのような自然神として東国・香取におくのである。それが持統のしたこととされた。天智にはそれが必要だったのだ。
 
鹿島と香取が今でも東北の鎮護のためにある武勇の神であるのは、鹿島が藤原氏にとっての故郷であり、香取が守屋の故郷だったからだ。両者が東国から出る縄文系先住氏族だったからである。そして天智と持統が白村江出兵後の大敗で唐が攻め込んでくると思い込んだときに、聖徳太子はかつての「東天皇」だったとして復活するのである。東天皇つまりタリシ彦とは実は蘇我入鹿だったはずなのにである。
 
このとき背後で暗躍したのがおそらく多氏である。
 
 
天智・鎌足・天武そして持統が風の神として仮託した人物こそが物部守屋であった。それは出雲を最初に手にした中原王である。つまり神話が書いたスサノヲその人なのだ。日本海から吉備瀬戸内を牛耳っていた縄文系先住海人氏族である。
 
スサノヲは八岐大蛇の生贄であった稲田姫=稲穂開花の象徴を救い、妻とした。つまり稲作を最初に牛耳った男である。そしてスサノヲ自身もまた雷雨の化身、風神雷神なのである。その大風を抑えるに、彼らは目には目をとしてその子孫である守屋を各地に祭り、かつ、同時代の蘇我王家の聖なる太子としての「入鹿」を聖徳太子としていった。入鹿は生まれながらの蘇我氏の王である三代目だった。さらに手の込んだことに、その蘇我氏を滅ぼしたのが藤原鎌足だったとしたのである。
 
 
しかし実際に蘇我氏を滅ぼし、その海外通商政治を手にしようとしたのは、中大兄の叔父である孝徳大王・木梨軽であった。
 
 
 
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