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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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あなたの中の縄文度・弥生度/幕末人の顔写真に見る骨格

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今日二つの記事を書く。
ひとつは縄文と弥生の骨格や土器移動やDNAから、われわれ日本人の大勢がどこからやってきて、どの道を通って広がったか。
 
ひとつは縄文住居遺跡の位置から見る、石器時代人の危機管理本能。
 
まず幕末の人たちの顔写真を興味深く見ていただこう。
 
 
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明治時代の外来好古家たちは、客観的科学を日本に持ち込んだが、中でもシーボルト、モース、アーネスト・サトウ、そしてチェンバレンなどは考古学・人類学史でもよく草創期の人びととして名前が出てくる。
 
この写真はチェンバレンに影響を与えたとされるエルヴィン・ベルツが、その日本人渡来混血説のために収集したものである。
 
ベルツの渡来混血説は、日本人を基層をなすアイヌ※と薩摩型・長州型に分類し、薩摩型は丸顔で庶民的形質、長州型をほっそりとした体型、面長の貴族的形質で、前者をマレー系、後者を蒙古系と大別しようとした古い時代の珍説である。チェンバレンはこのベルツの大別を使って、薩摩型を渡来第一波、長州型を渡来第二波と考えた。
 
確かに長州人の顔つきは細長く、また山口県や山陰なども含めて、中国地方はあまり混血していない半島渡来系の顔つきに見える。しかし薩摩型を渡来第一波としているのは、ようするに先住縄文型と今なら言うべきだろう。
 
 
細かい点はさておいても、この写真の顔つきは、平民(三段目右二人)の横に広い顔つきと武家の細面を比較するにはうってつけである。明治初期までは日本人はほとんど血が混じらないでやってこれた。だから弥生と縄文の混血以降の、日本人の地方や階級による顔つきの違いは、現代人とは随分異なっている。それゆえに非常に貴重な資料になっている。
 
 
 
人類学や遺伝子学のこれまでの諸説は、日本史の中にある考古学の論調とは常に別々に存在し、微妙に違うスタンスを示してきた。しかしそれぞれが歴史を重ねてゆくうちに、次第に各分野の意見に接点が見え始めている。現代、考古学では、渡来人は少数で何度かにわけて、それも地域地域で別の人びとの集団がやってきた、その中心地帯は半島南部の伽耶であろうという説が大勢を占めている。
 
かつての日本人による日本人起源説には、常に、渡来混血説とその半面でメンタルな単独人種願望が並立してきたと言える。もちろん単独人種ではなかったことは、弥生渡来の前に先住縄文がいたことで、論を待つまでもなく自明の理であった。しかしイデオロギー的には明治以降、日本人が西欧科学を取り込んで西欧化していきたい半面に、天皇中心主義、万世一系妄信主義があったわけで、この二律背反する混在は、前者を畏怖しながら、同時に日本人としてのアイデンティティだけは失いたくないという、いわば民族主義的な根深い意地の問題だったと言えるだろう。つまり精神のバランスをとるための科学と迷信の同居である。その迷信こそが帝国主義の原動力でもあったわけで、言うならばそれは主観的、民族主義的、ある種危険な方向へ向かいやすいという一面を持っていることを忘れてはならない。北朝鮮のような排他的「孤立の思想」だとも言える。思うのは各個人の自由ではあるが、妄信で国家を動かされては国民はついていけない。
 
 
※明治時代の西欧研究家がやたらアイヌにこだわったのは、自分たちに顔つきが似ていたからであって、アイヌはあくまでも少数民族で、今では日本人概要の移動混血とは切り離しておくべきである。アイヌを持ち出すのは話が混乱するだけなので、アイヌの起原は日本人起原とは別に扱うほうがよかろう。
 
 
 
では顔つきではなく、骨格やDNAでの比較図を見てみよう。
 
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上から北部九州(金隈遺跡)弥生人、半島西部地域同時代人、中国山東省同時代人
 
 
北部九州渡来人の骨格は、あきらかに中国よりも半島人に近い。そして山東省人の骨格はかなりバラエティに富んでいるが、半島人はだいたい類型的で、日本人はまたバリエーションがある。これは半島渡来人が北部九州にまずやってきたことを語っており、そこから縄文人その他との混血が起きたこと、あるいはそれも含めて半島以外からも渡来がなかったわけではないことも示唆している。
 
 
 
 
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日本人の縄文・弥生の割合に最も近いのはやはり半島南部人である。細長い顔つきで短頭で胴長短足で、毛が薄いといった人々が、真逆の人びとと混血している。西日本の初期はこの先住縄文人とはおそらく半島伽耶にも存在する海人系人種だったと考えてよいだろう。つまり東日本・北日本のような北方から南下した縄文人とは別の人びとであろうし、縄文人にすら複数の人種がいたことは間違いない。
その東・北からの縄文人と、九州や日本海沿岸からやってくる弥生人が、出会うのは近畿地方なのである。だから従来のように、日本人を東西のざっくりした捉え方で考えるのは古いのだといわざるを得ない。弥生と縄文の混血する人種がすでに三ヶ所で異なるのである。
 
 
 
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しかもこのように北部九州だけ比較しても、最初から骨格にバリエーションがある。
 
 
 
考古学から見た北部九州弥生混血種族の移動拡散。
 
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土器の類似で見た拡散ルートにも複数あり、すでに弥生初期において、日本人はいくつもの混血パターンを持っていると考えたほうがいい。
 
その結果として現代日本人の顔つきのバラエティ豊かさが生まれた。またそれは姓の多様さ、方言の多様さ、生活様式の多様さにも影響し、さらに時代を追って、移住者も増え、国家的な開拓民の大移住も複数回起きている。その日本らしさを今知ろうとするならば北海道などは、非常にいいサンプルになるだろう。全国からの移民が混在した中で、共通する北海道文化を生み出しつつあるのだから。古代日本の最適な踏み絵になるのである。
 
 
 
混血は常に現在進行形である。国境と同じく、どんどんステレオタイプ化してゆく方向性、運命にある。テレビがそれに拍車をかける。こう複雑な混血がわかってくると。日本人学もしろうとの手にはもう負えなくなってしまっている。
 
 
 
なにしろ建国の前から私たちは複雑にまじりあって作られた。外から人がほとんど入らなかった地域があるならば、そこは今後、民俗学だけを喜ばせていてはいけないだろう。貴重なサンプルになる。そんな場所がまだありますか?あなたの近くにはいかがです?たとえば椎葉村や戸隠村のような秘境でさえも、今は民族移動されてしまっている。明治時代の学者たちがうらやましい。
 
 
画像資料 古代学協会編 下條信行監修『列島初期稲作の担い手は誰か』すいれん舎 2014
 
 
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