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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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二人の現津神 3 御杖代とのんのんばあ?

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今上天皇は第125代天皇ということになっている。
そして出雲国造は現在、第84代目である。
このふたつの現津神の子孫がこのたび婚姻される。
 
さて、出雲国造の始まりは「『先代旧事本紀』の巻10『国造本紀』によれば、第10代崇神天皇のとき、天穂日命(あめのほひのみこと)の11世の孫である宇賀都久怒(うかつくぬ)を国造に定めたとある。『古事記』によれば、无邪志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・遠江国造も天穂日命の子神・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)を同祖とする。」WIKI出雲国造(こくそう)
 
 
 
第十代天皇のときに初代が生まれたとすると、一代が30年間程度の着任期間だとして85回代わったのだから・・・単純計算で85×30=2550年間存続している。(実際にはせいぜい一代20年ほどか?夭折も多かったし、暗殺もあって・・・しかし出雲国造家にはそういうことがなかったと見て30年)
 
 
天皇は125代なので125×30で計算すれば=3750年間続いたことになる。
 
第十代天皇のときに国造家が始まったのだからその分を差し引くと・・・
1200年の差になるが、では1200年間を30年で割ってみると=40代となって第十代では合わなくなってしまった。
 
 
 
さて、ここにも『古事記』『日本書記』のロジックが存在するのであろう。
十代の天皇の間が40人分の年代がかかったことに(単純計算ではあるが)なっている。しかし天皇は9人である。神武~開化までの9代9人がそれぞれ、計算上は1200年÷9人=133年生きさせねば系譜が合わなくなる。ということは彼らはまだ人ではなく神と人のあいだの人=現人神にする必要がでてくる。当時の平均寿命はせいぜい30年、栄養のいきとどく貴族でも50年だからそれはありえない。それでもう少しあいまあいまに空想の人が必要になる。ヤマトタケルとか神功皇后とか応神天皇とかである。
 
 
 
『古事記』も『日本書記』そういう干支一巡の思想で始まっていて、あきらかに嘘である。ということは国造家の系譜は、少なくとも天皇家の1200年間ほどの造作は入っていないもの、と捉えられることとなるだろう。「あまり嘘はない」系譜である。(まったく嘘がない系譜等この世に存在しない。)
 
 
 
少なくとも出雲国造家は確かに2000年以上存続した希な家柄であり、もしかすると天皇家以上に純粋な日本人の家柄である。なぜなら天皇家には外戚も入ったし、なにより女帝がいたし、渡来系もいた。系譜の存続とはむしろそうしたかつがつつながれて当たり前であるが、すると国造家の純粋培養男系系譜は世界唯一のものである可能性が出てくる。
 
 
 
 

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話はガラリと変わる。
「のんのんばあ」の話である。
 
 
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「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は「杵築―日本最古の神社」(一八九〇年九月)で、こう記している。
 「神道の計り知れない悠久の歴史を考えれば、『古事記』などは、現代の言葉からはほど遠い古語で書かれているとはいえ、ごく最近の出来事の記録集にしかすぎないであろう。……神道を解明するのが難しいのは、つまるところ、西洋における東洋研究者が、その拠り所を文献にのみ頼るからである。……ところが、神道の本髄は、書物の中にあるのでもなければ、儀式や戒律の中にあるのでもない。……風変わりな迷信や、素朴な神話や、奇怪な呪術のずっと奥に、民族の魂ともいえる強力な精神がこんこんと脈打っている。日本人の本能も活力も直感も、それと共にある」(『新編・日本の面影』角川書店)。
国家神道の対極に置かれ、消滅・弾圧の対象とされた土俗的な民間信仰の中にこそ、神道の本髄があるとの指摘は、神社を主体と考える神道論とは異質な民族宗教観を提示する。
 ハーンは出雲に住み、のち松江出身の妻・小泉節子(一八六八~一九三二年)が語る民話を聞きながら『怪談』を書いた。原書の題名がKaidanでなく出雲語訛りのKwaidanであることにも、それが滲み出ている。節子(セツ)は、杵築大社で代々上官を務める社家・高浜家の養女であった養母・稲垣トミから、出雲の神々や様々な霊・魂、祈祷や神楽囃、狐や狸や貂が化けたりする話を聞いていたという(長谷川洋二『小泉八雲の妻』松江今井書店)。
 その小泉節子と同時代に生きた諸喰(松江市美保関町)出身の影山ふさ(一九三四年頃没)から見聞きした「風変わりな迷信や、素朴な神話や、奇怪な呪術」がベースとなって、妖怪漫画を書き始めたのが、境港出身の水木しげる氏である。
 
「私がいま描いているようなお化けとかいうものは、みな、のんのんばあから教わったものです」と水木氏はいう(『水木しげる記念館公式ガイドブック』朝日新聞社)。」
 
大社の史話
神と妖怪は紙一重 ―― 小泉八雲と水木しげるの世界
福岡県立大学准教授  岡本雅享
http://emisi.com/kawara/40/40okamoto.htm
 
 
 
岡本はこの文中でこう自分の原体験を述べてもいる。
 
「出雲の古志で生まれた私は、高校生の頃まで、草がざわつく時、それが風のせいか、生き物がいるのか、そうした見えないものの気配を感じ分けられた。」
 
 
これを読んではじめて、出雲には「古志」というところがるのだと知った。古志とは古代の富山湾沿岸地帯のことである。「古志から来るヤマタノオロチ」と『古事記』が書く。
 
 
のんのんばあとういうのは、要するに民間祭祀者ということである。
そういうものが出雲~因幡地方に多かったということになる。
 
 
 
千家尊紀に謁見したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、「杵築─日本最古の神社」で、こう記している。
 
 「ひと昔前まで、国造の宗教的権威は、この神々の国一円に広がっていた。……遠方の田舎にいる素朴な信者からすれば、今でも神様、もしくはそれに準じる存在であり、神代の時代から受け継がれてきた国造という呼び方が変わりなく使われている。かつてどれほど深く国造が崇拝されていたかについては、出雲の地に長年住んだことがなければ、とうてい想像できないだろう。日本以外であれば、チベットのダライラマを除いて、これほど崇拝され、民衆の信望を一身に集めてきた人は、ほかに見当たらない」
(5)ラフカディオ・ハーン『新編日本の面影』角川書店、2000 年、149 〜 150 頁。
 
 
 
 
ハーンが感じた出雲の大王は、ダライラマに匹敵する王家・・・。
チベットの独立は中国が清朝が崩壊後~中華民国を創立する独立戦争のさなかに、今のダライラマ14世の父親によって成し遂げられた。ゆえに中国は、どさくさにまぎれて勝手に独立したチベットを国家として認めない、中国の一地方としている立場である。
 
「そのころ、東アジアには四大活仏と呼ばれた中央チベットのダライラマ、西チベットのパンチェン・ラマ、外(北)モンゴルのジェブツンダムバ・ホトクト、内(南)モンゴルのチャンジャ・ホトクトは、20 世紀初頭まで世俗王侯以上の権威を持ち、聖俗の大権を掌握していた。
 
 
同じ頃、日本にも多数の生き神がおり、中でも神道の二大生き神は、政治への関与を封印されながらも、大名を上回る権威を維持していた。太陽神アマテラスの祭祀王(御杖代)=天皇と、国土創造神オオナムチ(オオクニヌシ)(1)の祭祀王(御杖代)=出雲国造である。」
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=pvzJmNiKM4EJ&p=%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E9%9B%85%E4%BA%A8&u=www.keiho-u.ac.jp%2Fresearch%2Fasia-pacific%2Fpdf%2Freview_2009-06.pdf#search='%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E9%9B%85%E4%BA%A8'
 
 
 
 
 「国造は一般に「くにのみやつこ」と読むが、第 82 代出雲国造・千家尊統むね(1885 〜 1968 年)によれば、出雲では昔から音読み、清音で「こくそう」と呼んでいる。尊統は著書『出雲大社』で、国造は大化前代において、その国の土地を領し人民を治め、祭政の一切を司り、その機能を世襲する地方君主であったとも述べている(7)。
 
 歴史学者の門脇禎二は、4 世紀後半から 6 世紀の列島には、ツクシ、キビ、イヅモ、ヤマト、タニハ、ケヌなど、独自の?王権、?支配領域、?統治組織、?外交等の条件を備えた地域王国が複数併存しており、ヤマト王国もその一つにすぎなかったが、相互の交渉・競合の中でヤマト王国が台頭し、6 世紀末から 7 世紀初め頃、諸地域王国を統合していったとする。国造は一般に、倭ヤマト勢力に服属した各地の豪族を地方官として任命したものとされるが、倭政権から「半独立状態にある者もいた」といわれるのは、その中に「豪族」レベルを超えた「地域王国の王」が国造に転じたものがあったからである。その最たる例が出雲国造だといわれる(8)。」
 
 
 

御杖代とは何か?
みつえしろ
みつえ‐しろ 〔みつゑ‐〕 【▽御×杖代】
 
神や天皇の杖代わりとなって奉仕する者。特に、伊勢神宮の斎宮(さいぐう)、賀茂神社の斎院をいう。「―と定めてたてまつり給ふ事は」〈祝詞・斎内親王奉入時〉
コトバンクより
 
 
 
「神の代弁者」が天皇であるから、まずは伊勢斎宮などはまさにそのまた代弁者となる。そして正反対の意味で代弁者だったのが出雲国造家である。
 
 
古代においてそれは祭祀によってまかなわれた。いわゆる政治を「まつりごと」というのは、結局は古代において、まだ政治と祭祀が同じ土俵にあった名残であるが、やがて王権は政治王・武力王へと委譲されていった。これが西欧歴史学の古代・中世・近代の動きである。日本でもそれに合わせた歴史観をまとめようとしたが、どうしても合致しない部分が多かった。困った明治政府は、どうしても合わない部分、平安時代を古代に押しやろうとした。だから今でも平安時代は日本史の中の古代なのか中世なのかよくわからない蝙蝠のような時代区分にちゅうぶらりんのままである。
 
 
「みつえしろ」としての天皇が、天皇らしかった時代はほとんどない。すべからく為政者側に利用されてきた存在で、そういう意味で古代史の生きた化石のように扱われてきたと言えるのではなかろうか?祭祀王と言えば聞こえはよいが、つまり傀儡でしかない。だから明治天皇はいつもおどおどしていたし、昭和天皇は「そういうことは役人が決めることだから」と決して自分の意思を口にしなかった。
 
それはひとえに祭祀者だったからである。
 
 
しかし出雲における国造家の存在は、単なる祭祀者を超えた存在だった。だからハーンは国造をダライラマに匹敵する祭祀王であると「感じ取った」のであろう。
 
 
 
 
 
 
天皇は大和以外の地方では、古代から近世にはいないも同じ存在であったが、出雲国造はそうではなかった。出雲で誰一人として国造家を知らないものはなく、つねに政治家と並んでコメントを発する存在であった。まさに国津カミの王であり続けたと言えるかもしれない。
 
 
 
 
 
出雲から境港あたりに独特の妖怪・怪異文化が生き残れたのも、かのちが西日本の中の隔離されたかのような縄文世界だったからだろう。南北の古い文化と言葉が、そのまま生き残れたまれな地域・・・ハーンもそれを肌で感じたからこそ「怪談」は生まれた。水木しげるも、そういう意味で、古代出雲の血を受け継ぐものだと言えるだろう。
 
 
 
 
 古代日本海沿岸は、蝦夷が南下し西日本までやってきたルートにある。南からは琉球の貝の道。半島からも弥生の道が延びていた。だから大和とはまた別の、もっと早い時期の南北の出会いが起きていた。そういう国家が、飛鳥時代くらいまで、まだ日本の各地にあって、いくつかがまつろわぬ国とされ、平定された。しかし、その考え方そのものが大和中心主義なのであり、そこへ明治期にはキリスト教至上主義の歴史学や、考古学、さらに戦後には共産主義歴史学まで混入した。日本には日本独自の歴史学がない。だったら造ればいい。それが敗者の古代史である。
 
 
 
 
 
 
 
 
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