すでにこのことは昨年、このサイトが取り上げていることだが、
「殺された長屋王」
もちろん同じことを書こうとはみじんも思わない。
中田興吉『倭政権の構造 王権編』は、鎌倉時代の『字鏡抄』に「若翁」と書いて「たふれぬ」と読ませている例証を取り上げている。
先年、考古学的にもこれを証明する遺物が出ているが、木簡「長屋親王宮鮑大贄十編」には何箇所も「若翁」文字が書かれていた(東野治之)。
「たふれぬ」あるいは「たふれす」などと読ませているらしい。
『隋書』倭国伝
原文
王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:一曰大、次小、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。
大意
王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大といい、次に小、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がない。 軍尼が一百二十人おり、中国の牧宰(国守)のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き、今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。
「雞彌」は「きみ」。王后。
「利」は「和」の書き間違いだろうという説が主流。
この記述部分にある「和哥弥多弗利」の読みである「わかみたふり」に非常に近いもので、国内では「若御若翁」などと表記したのだろうと思わせてくれたわけである。
「太子を」とあるのでこれは大王の「ひつぎのみこ」の呼び名だったのだろうと思われるのだが、中田は、「若翁」は「王族の子女を指すのに用いられたのであり、特に年少の者に限って用いられた」のだから「(当時の意味では)太子とは限らない」と書いている。「王の子供」全員が「わかみたふり」なのだということあり、必ずしも後継者に限ったことではないと。
太子は、当時、「ひつぎのみこ」と読む。だから隋の史書はなぜそう書かなかったかが問題になる。
中田は、わかみたふりに、ひつぎのみこと言う意味もあったのだと言うのだが、どうも納得しにくい。「ひつぎのみこ」と倭国側が言ったのなら、ちゃんとひつぎのみこと書いたはずだ。ならば倭国側は・・・つまり馬子が?「太子はわかみたふり」であると言ったとしか考えられまい。ならばそれは「嘘を言った」とも考え及ぶ。
開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北 孤 號阿輩雞彌
ここでは倭王は「あま」「たりしほこ」と言うとあり、その号は「あはきみ」つまり「おほきみ」だとある。
「おおきみ」は倭国での「大王」の読みである。
この大王で「おおきみ」というのは一般的に、5世紀後半の稲荷山出土の鉄剣の銘文に、「ワカタケル大王の世」とあるので、これが最古とされるされてきたというのだが、和歌山の隅田八幡宮が所蔵していた(常は東京国立が借りている)人物画像鏡(隅田鏡)に「大王」とあり、書かれている内容はほとんど同時代でも、作られた時代は鏡の型式や銘文の文字から見て、稲荷山鉄剣よりも隅田鏡が古いのだ、と中田は書いている。
「たりしほこ」は「たりしひこ」などとも読まれている。「あま」は「天」と。すると「あめ(ま)・たらし・ひこ」となってくる。ところがそんな名の大王は記紀に出てこない。これも馬子が答えたのだとすると、これまた嘘かとなる。
「あめの」も「たらし」も「ひこ」も名前でもなく、ただの高貴な人という意味しかない尊称でしかない。尊称をコラージュしたもので、だからといって、そういう尊称は大王の号「おほきみ」で充分であって、そもそも名前としても答えておらず、尊称はそう言ったということだけだ。けれど飛鳥のその当時の大王は女帝推古だから「ひこ」では男王になってしまいおかしい。「あめ」のあとには助詞「の」がつくはずだがそれもない。これは姓と字を別々に聞かれたのなら仕方がないわけだが。
中田が隅田鏡のほうが古いと言う理由は、日十を允恭大王の世だと解釈すると、ワカタケルの雄略より隅田のほうが古いという解釈であろう。
筆者は、隅田鏡の「男弟王がおしさか宮にいるとき」というのが、ではなぜこの鏡は和歌山の紀ノ川沿線の隅田八幡宮にあったのかが以前から不思議でならない。
で、これはもしや当時、朝廷が二つあって並立していたのではないのか?と疑っている。というのは紀ノ川河口部の北側にある淡輪古墳群の大きさが、どうも允恭あたりから河内とは別の倭王権だったのではないか?そこに継体大王になる前のオオド王はすでに来ていて、宮が隅田あたりにあったのか?と思いついたのである。
ちょうど隅田八幡は北上すれば葛城山麓に出る場所にあって、これは紀氏・葛城連合体の王家だったのではないかと。
すると蘇我馬子が、それを隠したかったとも考え付くのである。その後の紀氏や葛城氏の史書での扱いを見ると、どうもそういう対立はあってもおかしくなく、もしや蘇我氏を滅ぼしたのは彼らが背後で・・・?
まだこの辺は考えがまとまっていない。
それにそもそも「たふれぬ」とはどういう意味なのだ?
「たぶれたやつ」か?
「たふる」とはなんだろうか????なぜそう読ませるのかさっぱり見当もつかない。どこに皇子の意味があるのか?みこはみこでよいではないか?
それに「若」が重複する理由もまた、さっぱり「わか」らない。