前記事で見てきたように京都の秦氏の祭る神社には秦氏オリジナルの神というものが祭られていないようだ。それらの祭祀の形態は先住氏族のもとからそこにあったものの取り込み、ほかの地域の神の勘定の二種類があった。
では先に大荒神=大地母神だと分析した伏見稲荷の「うかのみたま」についてもう一度考えてみよう。
◆うがのみたま
実は稲荷の神の祭神が倉稲魂・・・宇迦之御霊ウガノミタマと言い始めたのは中世になってからだそうである。『古事記』では宇迦之御霊はスサノオの子どもだとされている。
『延喜式神名帳頭註』が引く『山城国風土記』逸文では
実は稲荷の神の祭神が倉稲魂・・・宇迦之御霊ウガノミタマと言い始めたのは中世になってからだそうである。『古事記』では宇迦之御霊はスサノオの子どもだとされている。
『延喜式神名帳頭註』が引く『山城国風土記』逸文では
「風土記に曰く、伊奈利と称するは、秦中家忌寸等の遠祖 伊侶具(いろぐ)秦公、稲梁を積みて富裕有り。乃ち餅を用いて的と為せしかば、化して白鳥と為り飛翔して山峯に居りて子を生みき。・・・」という有名な逸話が載せられている。しかしここには伊奈利の祭神の説明はない。どんな神なのかは「稲梁」を積んだ・・・つまり藁小積みとしか書いていない。
一般的に稲荷とは「稲が成る」だと言われている。
けれど稲荷は山の名前であり、前からあった地名である。「いなりの神」はつまり地名であって本当の神の名前ではないのだ。それで中世になってから稲荷の神とは「うが」つまり食物・コメであるとなっていった。
一般的に稲荷とは「稲が成る」だと言われている。
けれど稲荷は山の名前であり、前からあった地名である。「いなりの神」はつまり地名であって本当の神の名前ではないのだ。それで中世になってから稲荷の神とは「うが」つまり食物・コメであるとなっていった。
◆うが
「う」は「宇佐」などの宇で、宇宙、屋根を指す神・自然神を表すだろう。
「か」は「け」=毛=ミケで御食(みけつ)である。ツはなくてミケでも同じである。
豊前に「三毛門みけかど」地名がある。宇佐の手前なので御食の入り口という地名である。
豊前には上毛・下毛(こうげ・しもげ)という郡があった。「け」は食事、食べ物、転じて木製の茶碗も「笥」である。
気比の浜にイルカがうちあげられ、それが神からの「みけ」だという話がある。つまり「け」とはニエでもある。
だからこの神格は豊受とそっくりである。神の神饌を用意する神官・巫女つまり伊勢ならば斎王である。
だから「うが」も「うけ」と同じく「神のための食」という意味であろう。
「う」は「宇佐」などの宇で、宇宙、屋根を指す神・自然神を表すだろう。
「か」は「け」=毛=ミケで御食(みけつ)である。ツはなくてミケでも同じである。
豊前に「三毛門みけかど」地名がある。宇佐の手前なので御食の入り口という地名である。
豊前には上毛・下毛(こうげ・しもげ)という郡があった。「け」は食事、食べ物、転じて木製の茶碗も「笥」である。
気比の浜にイルカがうちあげられ、それが神からの「みけ」だという話がある。つまり「け」とはニエでもある。
だからこの神格は豊受とそっくりである。神の神饌を用意する神官・巫女つまり伊勢ならば斎王である。
だから「うが」も「うけ」と同じく「神のための食」という意味であろう。
とするとよくわからなくなるのは、その食を差し出す神はどこにいるのか?とならないか?
伊勢なら内宮のアマテラスに差し出す。しかし稲荷の宇迦御霊は対象がわからない。
伊勢なら内宮のアマテラスに差し出す。しかし稲荷の宇迦御霊は対象がわからない。
宇賀神はヘビで女神の顔を持つダキ二天やカーリーや西王母であり大地母だと書いた。
それが倉稲御霊だと書いたのだから稲荷の神とは「うがじん」=「いなだま」=「いなり=「大地母」=「斎王」である。おそらく大王・為政者の唯一神に対して食事の世話をするのが稲荷神であろう。
それが倉稲御霊だと書いたのだから稲荷の神とは「うがじん」=「いなだま」=「いなり=「大地母」=「斎王」である。おそらく大王・為政者の唯一神に対して食事の世話をするのが稲荷神であろう。
◆とようけ
豊受大神は若狭の海部氏が奉さいする神で、伊勢内宮の食事の世話役だというが、海部氏は愛知県で尾張氏と同族である。ということは物部氏とも同族であろう。その祖神は天火明命(あめのほあかり)である。この後にニギハヤヒという物部氏の祖神の父親がくっつく。祖神ではない。「祖神の父親」である。ここは注意が必要だ。
豊受大神は若狭の海部氏が奉さいする神で、伊勢内宮の食事の世話役だというが、海部氏は愛知県で尾張氏と同族である。ということは物部氏とも同族であろう。その祖神は天火明命(あめのほあかり)である。この後にニギハヤヒという物部氏の祖神の父親がくっつく。祖神ではない。「祖神の父親」である。ここは注意が必要だ。
この神は海人族としての物部氏を匂わせているといえまいか?
そしてホアカリ命はまた尾張の熱田神宮の祭神でもあるから、尾張氏の祖神でもある。ややこしいが要するに南九州からきた南方縄文系海人族の神なのである。そして豊受という名前で若狭の籠神社の祭神になっている。つまり若狭と尾張と石上の三者は同族であり、習合したひとつの祭神をもっていたと言ってよい。ずばり言うとそれは隼人らが祭る神であることになる。それが尾張一族と海部氏と物部氏の祖神なのだ。するとそれは大山積ということにならないか?あるいはその娘でもいい。コノハナサクヤであろうか?大山積こそがニギハヤヒ、天ホアカリなのか?これは謎である。
そしてホアカリ命はまた尾張の熱田神宮の祭神でもあるから、尾張氏の祖神でもある。ややこしいが要するに南九州からきた南方縄文系海人族の神なのである。そして豊受という名前で若狭の籠神社の祭神になっている。つまり若狭と尾張と石上の三者は同族であり、習合したひとつの祭神をもっていたと言ってよい。ずばり言うとそれは隼人らが祭る神であることになる。それが尾張一族と海部氏と物部氏の祖神なのだ。するとそれは大山積ということにならないか?あるいはその娘でもいい。コノハナサクヤであろうか?大山積こそがニギハヤヒ、天ホアカリなのか?これは謎である。
それはさておき、稲荷はしかし秦氏という渡来氏族が祭る。だから海人族の神かどうかはやや違うことになるだろう。ダキニとかカーリーとか弁財天とかあるいは大地母などというのはインドの外来の観念で付会であろう。あとからそうなった。どうも稲荷本体には当初、神格がない。あとから全部が全部、くっつけられた信仰ばかりではないか?つまり「稲荷の神」そのものは大王を助けて補佐する官僚としての意味合いしかないのではないか?それが「宇迦之御霊」ではないか?
天皇家のアメテラスにはすでに豊受が存在する。では秦氏の稲荷は誰を補佐し、食事の世話をするのだろうか?尾張氏、物部氏、海部氏たちはやがて不遇の時代となる。すると稲荷はとってかわっているだろうか?表立っては何も変わってはいない。伊勢の外宮の神は今もまだ豊受大神である。
稲荷とは誰の世話役なのか?どうも秦氏には神祇の理屈が通用しない。つまりそれは形骸化したものか、そうでなければ仏教の神への供物係りだとしか見えない。
稲荷とは誰の世話役なのか?どうも秦氏には神祇の理屈が通用しない。つまりそれは形骸化したものか、そうでなければ仏教の神への供物係りだとしか見えない。
◆園神・韓神
「そのかみ・からかみ」という言葉は『古事記』でこう説明されている。
「そのかみ・からかみ」という言葉は『古事記』でこう説明されている。
「大年神、カムイクスビ神のむすめ、「イノ比売」を娶りて生める子は大国御魂神。次に韓神、次に「ソホリ神」。次に白日神。次に聖神。」
「園神」がない。いや「ソホリ神」というのが正体不明ゆえにこれが園神かも知れない。
つまり「その」とは「ソウル」である。半島の宮都。それは「そほおり」「くじふる」と同じく聖なる場所という意味がある。すると園韓とは朝鮮の聖地という意味になる。
つまり「その」とは「ソウル」である。半島の宮都。それは「そほおり」「くじふる」と同じく聖なる場所という意味がある。すると園韓とは朝鮮の聖地という意味になる。
対して中国の聖地ならば漢神だろうか?京都に綾部、園部という隣接する土地がある。
◆『江家次第(ごうけしだい)』平安時代
「園韓神の口伝が言うには、件の神は、延暦以前からここにあって、遷都の時、造営使がよそに移そうとしたら神託があって「まだここに鎮座して帝を鎮護したい」と言ったという。それでその後宮内省に鎮座した」
「園韓神の口伝が言うには、件の神は、延暦以前からここにあって、遷都の時、造営使がよそに移そうとしたら神託があって「まだここに鎮座して帝を鎮護したい」と言ったという。それでその後宮内省に鎮座した」
つまりやはり宮都と天皇を鎮守する外来の神だということになろう。
都そのものだと言ってもよい。首都を護る渡来人の地霊でもあろうか?
都そのものだと言ってもよい。首都を護る渡来人の地霊でもあろうか?
平安遷都の前から京都にあって、山背を守ってきた渡来の神・・・・つまりそれは秦氏の神のことではないか?
「大内裏は秦ノ川勝の宅」(「拾芥抄」)
つまりこの神は川勝の屋敷神かも知れない。それが平安京の前から今の内裏の場所にあって秦氏をも持ってきた・・・。これが秦氏のオリジナルの神だろう。それが屋敷を護る地主神である。
残念ながら平安京大内裏は消失してしまったので、真偽は不明となった。
残念ながら平安京大内裏は消失してしまったので、真偽は不明となった。
ただ京都には地主神社は存在している。じしゅじんじゃ。
しかし秦氏が祭ったのかどうかは知らない。
しかし秦氏が祭ったのかどうかは知らない。
秦氏の神とは行っても地主神であるから祖霊を祭っていたかどうか不明でもある。
そもそも山城秦氏に祖霊を祭る神社はあるのか?
秦氏はほかの氏族の信仰に仏教を習合させることを目的としていた。それこそが新しい国家神としての仏教を広め、国家の基礎を仏教の国家観念でまとめるための渡来人である。だからこそ、最初やってきたのは氏族管理者としての「秦氏弓月君」たちであり、その手下たちはまず豊前に置かれ、吉備から播磨ときて葛城に置かれる。山城に入ったのは管理者としての秦氏第一グループつまりリーダーだろう。技術者はあとから葛城襲津彦が連れ帰るのである。各地に残って開拓を始めるのは葛野や深草秦氏とは別部隊であろう。
秦氏はほかの氏族の信仰に仏教を習合させることを目的としていた。それこそが新しい国家神としての仏教を広め、国家の基礎を仏教の国家観念でまとめるための渡来人である。だからこそ、最初やってきたのは氏族管理者としての「秦氏弓月君」たちであり、その手下たちはまず豊前に置かれ、吉備から播磨ときて葛城に置かれる。山城に入ったのは管理者としての秦氏第一グループつまりリーダーだろう。技術者はあとから葛城襲津彦が連れ帰るのである。各地に残って開拓を始めるのは葛野や深草秦氏とは別部隊であろう。
宇佐の八幡神は最初、香春岳に祭られた辛嶋氏たちの、新羅の「カワラの神」だという。それが仏教と習合して宇佐に移動し、八幡神となり、宇佐の在地神・比売神を取り込んだ。そして応神天皇という天皇家・伊勢とは別の王家がそこに習合する。それは秦氏の既製品である八幡を朝廷の中臣氏・藤原氏があとから取り込んだためである。カワラの神は渡来工人としての秦人が信仰してきた民間レベルの荒神であり、鍛冶神だと言える。中央秦氏の信仰であるかどうかはわからないのだ。
秦氏にはやはり神はおらず、それはインドのダキニ、つまり人の心臓あるいは肝臓を食う工人たちの荒神信仰しかなかったのではあるまいか?秦氏のオリジナルの神とはなんだったのだろうか?
広隆寺にはマタラ神という仏教のうしろ戸にいる暗黒の荒神がいる。また弥勒菩薩もいるし、三つ目の不空ケンサク観音もいる。これらは神であるが仏教の神である。つまり管理者秦氏は基本的に仏教徒なのである。
祖神であるはずの功満王や融通王を祭った社がない。月読神社も稲荷神社も松尾大社も八幡神も、みな、別の氏族のコピーでしかない。
祖神であるはずの功満王や融通王を祭った社がない。月読神社も稲荷神社も松尾大社も八幡神も、みな、別の氏族のコピーでしかない。
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