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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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謡曲「花筺」でわかる継体大王の出身地

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ここからは100万アクセス間近を向かえての記念記事になります。


この10年間のご愛読に感謝して、お送りいたします。


Kawakatu輩





世阿弥作 謡曲「花筐」はながたみ

イメージ 3
能 花筐 シテ照日の前



越前市(旧武生市・今立郡今立町合併)余川町にある「越前の里 味真野苑」の継体大王と照日の前「花筐」像http://hitorikimamani.cocolog-nifty.com/buraritabi/2009/06/post-d5a9.html
http://tohgensya.blog71.fc2.com/page-1.html


イメージ 1


継体大王は考古学発掘に習って、ちゃんと頭に広帯二山式冠、手には捩じり式環頭太刀を持っている。照日の前は世阿弥が空想で作り出した虚像の登場人物である。「照日」の名前から、おそらく源氏「葵」から発想した謡曲「葵上」の「照日の巫女」のイメージが念頭にあったと思える。
世阿弥にとって女の呪性の代表なのだろう。

旧・越前国今立郡 いまだてのこほり は継体母である三尾氏振姫(ふりひめ)がいたとされる三国町(旧三尾郷)からも、また琵琶湖に直結した小浜の三尾からも、滋賀県高島市の水尾のいずれからも隔絶した土地で、なぜ世阿弥がここを舞台にしたかは不明である。ただ、万葉集などで知られた、聖武天皇の命によって味真野で暮らす(流刑された?)中臣宅守(なかとみのやかもり)と、都に残された妻、狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)のふたりの、味真野での悲話があり、この時代を異にする空想物語の舞台にはうってつけだったからかも知れない。能「花筺」の構成はまったく同じような悲恋悲話になっている。



狭野茅上娘子を娶ったときに越前国に流罪となる。罪の詳細は不詳。天平13年(741年)帰京し、天平宝字7年(763年)従六位上から従五位下に叙爵[1]するも、天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱に連坐して除名された。Wiki


謡曲「花筺」(はながたみ)
 この謡曲は世阿弥の作と云われているが、その中に挿入されている「李夫人の曲舞(くせまい)」と云われる曲舞は、その父観阿弥の作をそのまま用いたものと見られている。
 物狂いとなった狂女を主人公とした狂女物と云われるもの中でも、最も典型的な構成と云われている。
 

【あらすじ】
 
 主人公(シテ)は「照日の前(てるひのまえ)」 と云う女性。継体天皇がまだ越前の味真野(あじまの)に居て、大迹部(おおあとべ)の皇子と呼ばれていた頃の妃(きさき)である。彼が都に上って皇位を継ぐことになった時、彼は照日の前を越前に残したまま大和へ旅立つが、その時、彼女に、日頃使い慣れた花筺(はながたみ)に文を添えて形見として贈り、私を信頼して待っていてくれと言う。花筺(はながたみ)と云うのは、摘んだ野の花を入れる竹籠、すなわち、花籠のことである。
 
 しかし、その後、何の便りもないままに、彼女は物狂いして狂女となり、形見の花筺と文とを持って、供の女一人を連れて都に向かい、継体天皇の玉穂宮に至る。
 おりしも、天皇は秋の紅葉狩りに出掛けており、彼女らは、その帰りの行列に出会う。行列の先払いの役人が、そこに立っている狂女を追い払おうとして、手に持っていた花筺を払い落とす。彼女は狂いたち、狂乱して激しくののしり、泣き叫び、泣き伏す。
 
 天皇は狂女を照日の前とは気付かず、車の前で狂女の舞を舞えと命ずる。
 そこで、彼女は「李夫人の舞」を舞う。これは、中国前漢の第七代孝武帝が、世を去った寵姫李夫人を思慕し、仙術をもって一夜その魂を呼び寄せる物語の舞である。
 天皇は、照日の前が差し出す花筺を受け取り、まさしく自分が越前の頃に愛用していた品であることを見て、今は正気に戻った彼女を伴って宮殿に帰る。
 やがて、彼女は、後の安閑天皇を生んで「照日の宮」「筺の女御」と呼ばれた。
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/kwch-lit/hanagatami.htm








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継体大王今城塚古墳石棺内部の復元したもの
ちゃんと広帯二山式冠と捩れ式環頭太刀を入れてあった。



■継体大王の威信財
継体大王とその関連氏族との連携を証明する考古学的遺物=威信財を、水谷千秋は次のように明確に示した。
 
1 阿蘇ピンク石製石棺
2 広帯二山式冠
3 捩じり環頭太刀
4 三葉文楕円形杏葉
5 尾張型埴輪



継体次男の安閑の母親と言えば尾張目子媛であるので、まったく地域が違う。継体の二人の息子がもし、応神系直系の手白髪皇女(たしらか、手白香)の子だったなら、百済紀にあるような継体死後すぐに殺されるようなことはなかっただろう。 しかし結果は二人は殺されたとしか思えず、即位したのはやはり手白香の子・欽明だった。そうした悲運の天皇のイメージも、この謡曲には含まれてえうのだろう。ということは世阿弥の思いは、強く継体と尾張氏の血脈へ親しみや哀れの気持ちで満ちてもいたはず。それを、尾張の娘とはわからぬように、あえて越前のそれらしい場所に舞台を持ってきたわけだろう。世阿弥は歴史的事実をよく知っていた人だったということになる。そして当時の力関係で生じる中央旧態勢力が不適切だと判断した尾張氏と継体の関係の深まりという背景を隠したわけである。それは継体自身を受け入れられない雄略系譜の正統の血の継続を願った旧態勢力の陰謀が実際にあったということではなかろうか?

安閑・宣化兄弟の墓を『日本書記』はどうしても息長氏ゆかりの近江琵琶湖へ置こうとしたようだ。母方三国三尾氏の血が渡来の血であることを隠したかったのではないか?継体の出自が近江説と越前説に振り回される理由もそこにあるようだ。それはやはり息長氏正統血脈の無理やりのこじつけであろう。不比等にとって、女帝の時代を確立するためには、欽明~天智の血統が先の王家雄略とあとの王家継体との合体によった正統なものでなければならない。すると東国尾張のかつての敗者・海部の血脈はどうしても外戚として低すぎることになる。まして継体が越前三尾から来たなども、絶対に認めたくないのだ。そこで三尾氏中継港だった琵琶湖西岸の高島の真東に居住していた息長氏の正統性はどうしても捏造してでも創っておかねばならない。

そこで雄略からずいぶんと遡って空想された応神と、その母神功皇后が作り出されることとなったのではないか?息長氏と葛城氏から誕生した神功皇后 息長帯姫伝説は、こうして創作され、3世紀前後の部分に挿入された。雄略より前の河内王朝天皇は実は架空ではないか?『日本書記』編纂もまた最初は雄略紀から書き始められ、あとでそれ以前が付け足されたのだから。だから中国『宋書』の倭五王記事と記紀の天皇がどうもしっくりかみ合わない。かみ合うのは雄略=ワカタケル=倭王武だけである。

応神が新羅から来たとも、もちろん書けるはずがない。天皇家はあくまでも倭人、大和の純潔民族の王なのだ。渡来では絶対あり得ない、という、藤原不比等の体中にあふれていた万世一系のイデオロギーゆえである。わが大王家は正統なのだ。すべては卑弥呼以前からの倭人の血脈から出るのだ・・・。それこそが天孫アマテラスの直系なのだ・・・。『日本書記』にはそれが満ち溢れて、さらに書物からはみだし横溢している。

ところが・・・あとの時代になって、天武直系である桓武の血には渡来人と土師氏の娘・高野新笠の血が受け継がれてしまった。不比等ののぞんだ『日本書記』イデオロギーは、ここで完全に大どんでん返しを食らうことになる。これはまるで戦後日本の美智子妃殿下の登場以上のショックを不比等子孫たちに与えたことだろう。時代は代わった。

継体祖先の彦主人までの系譜は、実にあやふやである。世阿弥はうすうすそこに気づいていたのかも知れない。なぜなら秦氏は雄略・継体の忠実なしもべ氏族としてはじめて歴史に登場してくるのだから。それが伏見深草の秦大津父(はたのおおつち)である。しかし彼はまだ東国や伊勢や近江と商業的な通商をする輸入業者でしかない。その血脈はおそらく、3世紀に巨椋池南部の宇治や深草から出てくる弥生遺跡群の、オンドル煙通路などを持った渡来系弥生人からのものだろう。飛鳥時代に葛野太秦周辺に理想郷を造る河勝の酒公血脈とは微妙に違うのではなかろうか?大津父の登場は雄略の5世紀で、そのエピソードはどこかしら中国の太公望伝説のような仕上がりで、真実かどうかは不明である。応神と若狭に関与する武内宿禰の関わりもどこかできすぎている。日本海交易のためのルート確保の歴史を述べてあるのだろうが、どこかまだ真実味に欠ける。神功皇后伝説も日本海と瀬戸内海の両方にちらばっていて、それぞれが記紀伝承を在地に持ってこようとしている強引さがある。

雄略~継体の激動期に、瀬戸内航海は筑紫国造家と瀬戸内海人族ネットワークによって牛耳られていた。だから日本海でしか畿内・大和は朝鮮へゆけない。そこで継体時代になって継体は筑紫国造磐井になんくせをつけて滅ぼそうとした。その直後から、畿内の古墳の石棺が、それまでの王家の石棺石材である二上山~竜山石から、隔絶する肥後の阿蘇凝灰岩へと切り替わってゆく。
最初は北肥後系の菊池川の石、次に中肥後宇土の阿蘇ピンク石へ切り替わり、そのとき中肥後には江田船山古墳が作られる。そしてそれが南肥後の氷川産へとまた切り替わった。最終的に飛鳥時代欽明以降には肥後石はなくなって今度は再び近畿の石へ戻った。その期間はまさに雄略~継体が大王だった時代なのである。二上山の石が竜山に切り替わったのも、ちょうど雄略が葛城氏、吉備氏を滅ぼして、代わって朝廷中枢に物部氏と大伴氏が台頭した時代である。二上山は葛城氏のお膝元葛城山脈にあるのだし、竜山はおとなりが吉備である。つまりこのときから、中央政権の周囲は変化した。宰相クラスの氏族が大きく変わるのだ。吉備・葛城連合は衰亡して、物部・大伴連合、そして飛鳥時代には守屋も金村も消えてしまい、中枢部には蘇我氏が突然登場する。その政治的動きが石棺変化には如実に現れている。

竜山石を牛耳ったのは讃岐から揖保郡に入った物部氏石工たちである。そしてそこには播磨の秦氏がすでに存在した。継体時代、王家を助けていた深草秦氏たちはおそらく圧迫をうけているはずだ。その直後、聖徳太子と河勝が歴史に登場する。太秦の秦氏がここではじめて歴史に姿を現したのである。これは秦氏という氏族内部での政権交代でもあったはずだ。深草秦氏から太秦秦氏へ時代は大きく切り替わる。そうした流れの中で蘇我氏が藤原氏によって消されていった。そして平安京の時代になり、桓武に貢献したのが山城全域を牛耳っていた左京松尾の秦下氏の秦小黒麻呂だった。太秦の秦氏を秦上氏とすれば、秦下・中氏はあきらかに格下のはず。その祀る神を見ればなぜか九州宗像の市杵島姫と日枝の神大山咋である。河勝の系統にそのような日本独自の神道的・記紀的な神は存在していない。明白に再び、秦氏内部には勢力の移動が起こったのだ。その平安遷都の前が、天武の律令国家開始であり、天武には宗像氏の妃が入っていた。宗像氏はこの天武時代からアマテラス祭祀を沖ノ島で開始しているのである。宗大臣と呼ばれた宗像氏が、玄界灘の対馬の氏族であることはあきらかだ。朝鮮交易で充実した実力は外戚には充分であり、かつて筑紫国造家が牛耳った壱岐対馬航路を存分に朝廷に約束できた。

一方、守屋亡き後の物部氏は筑紫物部が中枢になっている。河内や肩野(交野)など継体の淀川政権に寄与していた物部氏は消滅してゆく。大伴氏も、さらに葛城系だった紀氏も、低い地位に甘んじるようになる。尾張氏は海部として東海に引きこもり、熱田は干渉され続けた。すべて継体までの宰相クラス、外戚氏族である。しかも蘇我氏は葛城の正統跡継ぎだと豪語。蘇我氏は皇室をないがしろにして朝鮮貿易を独り占めするかもしれない・・・中臣鎌足はがまんがならなかったのだろう。しかも彼らはかつての河内の盟主だった物部氏を滅ぼした。蘇我氏に代わってグローバル交易をやりたいと考えていた皇室者は孝徳大王だけだった。孝徳は鎌足と中大兄を利用して蘇我氏をまんまと滅ぼす。しかし中大兄はこれを独占と見たか、孝徳を難波におきざりにして、息長氏の本拠地近江に別宮を建ててしまう。

そこが本当に息長氏の本拠地だったかどうかが問題になるだろう。そこは実は高島の秦氏・鴨氏・和邇氏、三尾氏らの、かつての継体氏族の土地だったからではないのか?往古、河勝が聖徳太子を山城に迎えるときに宇治橋のたもとで飾り馬を立てて歓迎したとある。そこは実は秦氏太秦への入り口だった。その宇治川によって淀川と琵琶湖はつながっている。そして近江の大津がそこにある。天智の望みはもしや継体大王政治の復権だったのかも知れない。天武のあと天武の血脈はことごとく死んでゆく。そして即位したのは天智の娘である持統天皇だった。藤原氏も復権をかけて女帝にかけるしかない。



次回、継体大王の氏族がもらえた遺物と継体氏族及び秦氏に関する画像資料全部見せます。





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