参考文献 荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』2013 吉川弘文館
世間には古代史ファンはごまんといるらしいが、中には、一事が万事、地元が一番志向の強烈な御仁も多くおられて、『日本書記』が嘘だと誰かの著書が書けば、もう「それじゃあ王家がどこから始まっていてもおかしくない」とか「地元こそが大和の前の王家」だと思い込んでしまわれる「やから」みたいな人種もおられるようだ。
古代史はだいたい九州と大和の二大王家の論争で大半を占められており、その他の地方の方々には、確かに面白くないだろう。しかし、だからと言って、考古学史料が両地域に他を圧倒する量で出てくることを無視して、やれ東国だ、埼玉だ、丹後だ、豊浦だ、出雲だと声高に、よそさまのところまでわざわざ出向いていって叫んでしまうのは、第三者から観ると実に滑稽に見えてしまう。
記紀に嘘があると言っても、その嘘を作り出せるもともとの古い伝承とか、人物のモデルの伝説が基盤になっており、ただそれを編纂時ころの政治に都合よく改竄しただけのことで、基層にあった歴史の大筋までも書き換えたりしたら、当時の知識人はそれを正史として受け入れたはずがないのである。
嘘も方便とも言うように、記紀の全部がでたらめでできあがっているわけではない。考古学と一致する遺物や遺跡はちゃんといくらか出てくるのだから、飛躍しすぎてもらっては困る。
もしその地域が、大声で主張するほど往古から王族がいたという実力地域ならば、必ず記紀にもそれが反映されたはずである。例えば外戚関係を結んでいる地方豪族の名前は必ず記録にあるだろうし、当然、大王・天皇にその地域の女性が嫁いでいるものである。
また天皇の名前に豊浦(とゆら)や三国などの地名が反映されていても、それが必ずしも畿内や筑紫以外にもあるからここの出身者に違いないというのも間違いである。その地名は王家が子どもを養育するのにあずけた、その地方出身者の豪族が中央に住んでいたから名前に反映されるわけで、わざわざ丹後や豊浦につれて帰って育てていたわけではない。(継体大王の母・振媛だけは例外)
さて、そうした思い違いのないように、一度、記紀が書き記した天皇の妃の名簿を作ってしまおう。つまり、当時の畿内とそれに準じた地域(近江、伊賀、紀伊、播磨の四国)以外の遠隔諸国(これを当時の人々は「外国 げこく」と呼ぶ)から妃となった女性の一覧表である。
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これらの国名をまとめると、伊勢国・尾張国(東海道)、丹後国(山陰道)、吉備国(山陽道)、越前(北陸道)、日向国、筑紫国(西海道)の諸国からに絞られている。それ以外の諸国からはひとりも妃にはなっていない。これは言い換えれば、記紀8世紀までの大和朝廷の支配の完全に及ぶ地域がまだこれくらいしかなかったことを示していると言えるだろう(荒木)。
ことに、筑紫・日向のような西日本の遠隔地からの妃の名があるのに対して、同様の遠隔地である東国諸国や蝦夷の名がまったくないことは、地方の妃=人質という見方からすると、東国や東北がまだまだ大和の管轄外の地域(埒外 らちがい)という認識に置かれていたことがわかるのだ。
特に日向(のちの薩摩国を含む曽於、曽の国=宮崎県南部~鹿児島県全域)の出身者の多さは、それだけ朝廷が熊襲以来、曽の君一族を手ごわい強敵国家と認識していたことの裏返しであろう。2世紀まであれほどの実力者だった筑紫一帯からは、わずかに宗像君の娘がひとり、それも記紀編纂時代の天武だけへの嫁入りであることを思うと、6世紀にはすでに実力を落とされてしまった筑紫君らの、すでに怖い相手ではなくなっていたことも想像できる。
なぜ日向及び薩摩地域を、歴代天皇は妃に選んだのだと書くのだろうか?
蝦夷の服属が平安時代にまで下がるのに比べて、隼人つまり阿多君らの服属帰順は記紀のイの一番に置かれている。いなかったとは言え、天孫の子孫第一番である神武の妃がすでに阿多の小椅(おばし)君の妹、吾平津媛(あいらつ・ひめ)である。
「あいら」は今の鹿児島県と宮崎県境にある霧島地方の地名である「姶良」のことである。つまり熊襲のうちの曽於族の割拠していた土地。当時まで、熊襲というと、全国で最強の民族だったのだ。それは大和へ弥生人が移住する際に、まず筑紫島で最強の氏族だった熊襲を「懐柔した」という意味である。滅ぼしたのではない、懐柔したのである。滅ぼしてしまうことは日本古代史ではまず記事がない。滅ぼしてしまえば、在地の陸地や海の情報はもう一切手に入らなくなるから、帰順するものはいくらでも仲間にしたのであろう。そしてそれはまた、隼人を帰順させねばならなかった人々と言うのが筑紫島の北部や北西部に入った渡来人であったことをも証明するわけである。
紀元前3世紀頃から中国や朝鮮から移住してきた種族は、考古学と人類学の骨相分析や遺伝子分析では、大きく二種類あり、ひとつは長崎県や佐賀県や有明海、ひとつは福岡県遠賀川や小倉一帯の種族だったと考えられる。つまり東シナ海側地域と玄界灘側地帯の住民となった二大種族である。
地理的に見て、前者は東シナ海を、後者は壱岐対馬経由でそれぞれやってきた人々かと考えるのが普通だが、なぜか畿内論者の大半は、どちらも朝鮮半島から来たと言っている。おかしな話である。形質的には前者は縄文人と混血しているが、中国系で、後者は縄文人とは混じらずにいた朝鮮系人種であるらしい。
そして双方の内、早くに日本海を遡上していったのは遠賀川の人々であることは遠賀川式土器の遡上が示すとおりであり、北西部の中国系の人々は有明海にかなり長くとどまり、おそらく有明海沿岸でつながっていた薩摩西部の原住民との交流をしていったと筆者は考えている。つまり神武の日向の媛を娶るという東征説話の流れはこの民族がやったことではないか?
宮崎県南部には西都原・持田の二大古墳群があるが、西都原の古墳群は特に、その形状等にバラエティがあり、いろんな種族が同居していた可能性があると見ている。
さて、次に吉備系の妃であるが、吉備は妃の名前にもあるように蚊屋(かや)とも呼ばれており、「かや」はそこがかつて半島南端の金冠伽耶=カラに由来する地名と考えられる。吉備にとって日本海の出雲と、若狭は重要な港だった。そのことは出雲からは吉備系土器が、若狭の管理者として吉備系の人物が嫁をめとって入ったという記事があるので、間違いあるまい。また吉備系氏族は、直弧文によって筑紫の有明沿岸の人々とも深いつながりを見せる。おそらく肥後の国造家に取って代わる氏族が吉備王の末裔であろう。吉備の古墳には九州系の石室、装飾、直弧文を持つものが多く、また豊前の宇佐とも兄弟関係を持っているのが吉備津彦神社である。大和では、天皇氏族よりも先住者であり、纏向遺跡から出る祭祀土器は吉備系である。記録では雄略大王時代までに、葛城氏とともに滅んだことになっているが、肥前・肥後やその他の地域に、枝族が国司として赴任していたはずである。卑弥呼が吉備系である可能性は非常に高い数値を遺物が示している。とすればこれもまた、邪馬台国所在地が大和か筑紫の肥後あたりに分かれての論争の種になるだろう。
丹波国は考古学的にも多くの遺跡や遺物を出す地域であるが、惜しむらくは古墳時代以前のものがもっと欲しい地域である。それは越前地域も同じである。いずれも日本海に面し、半島に近い。筑紫を経由せずに日本海の周遊する海流に乗って交流が可能な場所にある。
さて最後は尾張である。ここは近江を越せばすぐに岐阜で、「あはちまの海」は今の名古屋湾である。現在の名古屋市の大半は、実は古代には海の底である。尾張の氏族は記録上、神武東征にも登場するので、日本でも最古級の海の氏族のたまり場だったのが伊勢湾・名古屋湾であろう。若狭の海部氏は同族である。そしてヤマトタケル伝説にもあるように、熱田は天皇家の三種の神器である劔も管理し、壬申の乱ではまず軍備を期待される氏族だった。尾張氏はつまり武器・軍隊・水軍の親玉だったわけだ。だから当然、妃を何度か出すことになる。それだけ怖い存在だったわけだ。しかもバックにまつろわぬ東国世界を控え、武蔵あたりにまで親派を持っていただろう。埼玉や千葉や茨城の遺跡群が、そもそも尾張系のものである可能性は高い。
さて、こうした記紀の歴史観を、時代別に把握する方法として、荒木は、
1 神武~景行までの実在しなかった王の創作伝承 の部分
2 応神~武烈までの実在と非実在の王の伝承が混じった部分
3 継体~持統までの実在の記憶
に分けている。
筆者もこれに近い歴史観だが、少し違うのは、継体の実在性が?であること、応神・仁徳の古墳が時代的に大きすぎ、いささか眉唾なところ、を感じている。
おおむね『日本書記』の記憶は雄略までがせいぜいのもので、それ以前はかなり創作、あるいはあとの時代の出来事を名前をかえて挿入した後付だと見ている。また飛鳥時代の蘇我氏、聖徳太子の事件なども、あとから付け足さねばならないなんらかの事情で作られていると見る。それがつまり持統に始まる女帝時代の正当性のためであろうと考えるものである。
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『日本書記』は蘇我氏の子孫をことごとく消された、夭折したと書き立てているけれど、あまりにも完膚なきまでにそれが消されてゆくので、これは藤原氏にとって都合がよすぎると見えてしまうのである。
そしてさらに、天武も天智も、実は息長氏もさることながら蘇我氏の系譜も持っているという謎がある。息長氏の広姫の先祖の書き方がおざなりで、父親しかわからず、しかもその父真手王の父以前の記録がまったくない。いきなり登場するのが広姫であるから、どうもこの系譜には疑問が多すぎる。藤原氏が消してしまいたい蘇我氏の血脈は、実は天皇たちに引き継がれていたのではないだろうか?であるのに、『日本書記』系譜は蘇我氏のすべてが死んでいったように書いてしまってあるのだ。
藤原氏にとって、祖人鎌足と戦友である天智の系譜には絶対に蘇我氏の血が入っていては困るだろう。しかし天智の娘持統の血には、蘇我系古人大江の娘・倭媛の母方の血が入ってしまっている。倭媛は蘇我馬子の直系である法提郎女の血が入っている。父親・古人は消されたが、倭媛はなんと天智の妃になれた。
また同じく蘇我系石川麻呂の娘・遠智娘(おちの・いらつめ)までもが天智の妃になった。それらの血脈をたどってゆくと、倭媛との子が壬申の乱で殺された弘文天皇(大友皇子)で、遠智の子が持統である。持統の子、草壁は病死で夭折、孫の文武も病弱でかつがつ聖武天皇へつながったが、その子孝謙には子供がなかったとされている。
つまりどちらも蘇我氏の血を引いたものが消えているのである。これで蘇我血脈はちょんになる。断絶である。
しかし、奇妙なことは、聖武天皇の妻は藤原不比等の娘である光明子なのだから、その血脈まで切れてしまっていることになってしまうのだ。これでは藤原氏正統宰相の事跡が台無しである。と、まさにそのとき登場するのが、藤原氏同族である橘氏なのである。のちの犬養氏であるが、橘諸兄は藤原家の地位に反発して決起し、一次は橘氏がその宰相の地位に納まっているのである。
つまり、系譜の孝謙に嫡子なしというのは、どうも不比等死後の橘氏の仕業ではないか?となる。
要するに、記紀の天皇古代系譜は、どうも疑わしく、時代が記紀編纂時に近いほうが、むしろ時の政権に都合よく改竄された可能性が感じられるわけである。これが『日本書記』の強すぎる政治性の所以であろう。
また、天智の血脈であるが恵まれないでいた光仁天皇の復権も実に奇妙で、後宮が山ほどいたはずの天武血脈に嫡子が消えるはずもないし、どうも持統の登場も、どこかしら無理にアマテラス=卑弥呼を持ち込みたい不比等の意図が強く出すぎている気もする。
いずれにせよ、息長だろうが蘇我だろうが、桓武の母親となった高野新笠の百済王血脈が最終的には一番濃いわけで、そのことは記紀の扱えた範囲の外なので、どうしようもなかったわけだろう。そういう部分はもう『続日本紀』『日本後紀』などの記述になってしまう。時代はすでに正史改変できない時代になっていたわけである。
妃の歴史を見ると、このようにいろいろなことが見えてくる。
妃は言うならば、強力な地方豪族から取った人質だったという話。
それを出していない地域が、過去王権を持っていたはずはないのである。
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