祟りや疫病や災害をもたらす神を往古人は邪神(じゃしん)と呼んだ。それを信仰することを「邪教 じゃきょう」と呼んできた。しかし、それは間違いである。それはあるひとつの信仰を正しいとせねばならない側の人間から観た一方通行の正邪の押し付けであり、その神はむしろ「異神 いじん」「異教 いきょう」と呼ぶべきである。
あるいは「魏志」にはそれは「鬼道 きどう」とも書かれている。道教から観て、それがひとつ古い形の神仙思想の代物だったために、自分達の「宗教」がその古い「信仰」から派生したことを消すために、あえて区別してそう書いたのだ。多くはシャーマニズム、かんなぎたちが信じてきた、本道の成文化した正道宗教よりも数千倍の遠大な時間、それは信じられてきた原始信仰である。日本では平安の時代になってもまだ御霊とか祇園として、新参信仰の陰陽道(実はこれもまた道教では邪教である)によって調伏されねばならぬ存在であり続けた。
御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死、謀略によって暗殺死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のことである。
=祇園信仰
=祟り神(たたりがみ)
=疫病神
=牛頭天皇(スサノヲ・蘇民将来)
=宿曜教で黄幡(おうばん)神
=宿神
=ミシャグヂー
=五郎の神 など
=五郎の神 など
=エジプトでアヌビス神=死者の肉体を食べに来る神
=死神
御霊の音が似ているために「五郎(ごろう)」の名を冠したものも多く見られ、鎌倉権五郎神社や鹿児島県大隅半島から宮崎県南部にみられるやごろうどん祭りなどの例が挙げられる。
全国にある五郎塚などと称する塚(五輪塔や石などで塚が築いてある場合)は、御霊塚の転訛であるとされている。これも御霊信仰の一つである。
柳田國男は、曾我兄弟の墓が各地に散在している点について「御霊の墓が曾我物語の伝播によって曾我五郎の墓になったのではないか」という説を出している。
天皇は中世には祇園の御輿御所近くを通る際にはその怨霊を恐れて方違を行う慣例があった 。これは「祇園会方違」、「御霊会御方違行幸」、「方違行幸」などと言われ、特定の呼称はなかった 。ただし、この方違は単に激しい雑踏を避けるためのものであったとの異説もある 。
谷川健一著『祭りとしての安保』によれば、60年のデモは祝祭であり樺美智子の死は祭りの際の生贄で(但し、儀式としての葬式はデモ主催者によって却下されている)、その後の岸内閣の総辞職は時の為政者が御霊を恐れたためという。
Wiki御霊信仰 (検索に「祟りなす神や疫病をなす神を信仰したこと」と入れるとこれが出る。つまり特にそういうものを総括した用語は今のところ宗教用語にはないようだ)
そこで筆者はそれらを総括してこう呼ぶことにしている。
辟邪信仰
へきじゃしんこう
辟邪神
ゆえなくも死した者、氏族は祟りなすという一般信仰とは真逆の思想は、かつて学者・宗教者によっては「ありえない」「平安時代以降の風習」「怨霊である」などとほとんどの学説が古代史の通念にはまだ存在しないとされていた。その開始は菅原道真左遷後に藤原四家がことごとに突然死や病死したという記録が最初であるとされてきたのであるが、実は記紀にもそれらしき祟りなす怨霊らしきものは登場しており、もっと以前からあったどころか、むしろ世界中でとうの大昔からそうした祟りを恐れる風習はあったといわざるを得ない。
いや、唯一絶対神が中世直前になって考え付かれる以前の多神教時代には、むしろ善行をなす神々よりも「自然神」つまり災害神こそが最大の関心事だったのであり、災害こそが祟りなのであった。日本の神々でも実は祟り神や災厄神のほうが多く祀られているのであって、記紀成立以降にそれが記紀の神々に変えられた、上から覆いかぶさって元々の古い神々は消されたということになる。
王の肉体を食うアヌビス神
古代エジプトでは、誰もが死後の生命を信じていた。死後の世界は、死者の社会的地位によって異なるが、誰もが死後の生活に必要な道具を用意した。これらの道具の大半は家具調度品で、化粧道具、玩具、楽器、武器も墓から出土されている。また死者に対して食物を供え続けることが必要だった。墓によっては、穀物や魚、肉、菓子、果物、ブドヴ酒などの料理が、柩の近くに供えられた。この他に、さまざまな種類の供物品目を記した石碑を墓の中に置くことによって、実際の食物にはない呪力が与えられた。
古代エジプト人は死後も生命を保ち、永遠に生き続けるが、そのためには墓に供物が捧げられる必要があった。そして死者の魂はこれを得るために定期的に墓に戻ってきた。
このように死者が死後も食物を食べられるようになるには、遺体を出来るだけ完全に保存することが必要とされた。これがいわゆるミイラを作る目的であり、葬儀準備に欠かせないものであった。ミイラ作りは、初期の時代には自然乾燥にまかせていたが、建築技術が進んでマスタバといわれるレンガ製の陵が作られると、遺体の乾燥が抑えられて腐敗するようになった。そこでエジプト人は、遺体保存の技術を必要とするようになったのである。
日本の「常陸国風土記」行方郡「夜刀の神」条にも土着の神が新しくやってきた国司が信じる神の名の元に「神やらい」された話があるが、西欧のケルト伝説、ローマ帝国が書いた「ガリア戦記」にもまったくそっくりな話がある。観念の、古代から中世への切り替わりを意味する寓話であり、ここからいわゆる国家の神が地方の神を追いやって、支配をしてゆくという指針になる話として、東西世界で共通に挿入されるのである。
夜刀の神とそれを退治する箭括麻多智
シーザーがケルトや北欧を手に入れるために作り出した話もこれだった。根強い在地の原始信仰の神たちを、新しい支配者の神がそれにとって変わったという神話である。
一般の人間は、自分たちにとって幸をもたらしてくれる神だから立派な神社に祀られている、神とはそういう正、ハレのイメージのものだと思っている。それが常識だと考えさせられている。それは言うならば氏子として生まれてきたときから、神社を通じて知らずに刷り込まれる国家からのマインド・コントロールだと言える。例えば天照大神は日本の国土神で八百(やおろず)の神々の最高の位置にいる女神だと思わされる。古い地縁的社会ほど、そういう傾向が強い。もちろんそれは先の大戦でおじいさん世代に刷り込まれたものであり、当時の植民地略奪戦争には都合のよい意図的な思想だ。しかし記紀で見ればアマテラスの上にはさらに五柱の国土創作神(造化三神など)が存在しているし、アマテラスは当初あくまでも巫女神でしかない。巫女神である限りは必ず鎮魂し、封じ込める相手の神がいるはずである。記紀はそれを弟神スサノヲとして出雲に代表させて登場させる。(崇神記では大和の大物主もまた巫女の鎮魂のために神婚している。この姫も言わばアマテラスをイメージしてあると言える)ところがこのスサノヲの方が実は現実の民衆の信仰を圧倒的に多く受けている。なぜならばそれが人間の実生活に多大な災害をもたらす災厄神だったからにほかならない。
ところが奇妙なことに、その方程式で言うならば、スサノヲに殺されたヤマタノオロチもまた、全国でとまではいわぬが少なくとも出雲や古志では祟らぬように祀られていてしかるべきであるのに、それがないのはなぜか?ここに答えられる研究者がいるだろうか?
ヤマタノオロチなどというものが存在しなかったからではないか?
それは氾濫する河や山鳴り、地すべりなどによる大災害の神格化であろうが、記紀がヤマタノオロチと表現するまで、その現象は災害神とか川の神として各地で名前付けされてきたはずである。それを例えば鬼とか魔物と呼んだとして、それを退治したもの、調伏したもの、管理できたものもまた鬼であり神であったと筆者は考えている。するとヤマタノオロチはスサノヲという祟り神によって殺されたわけであり、そのスサノヲは天孫にとっての祟り神だが、同時に民衆にとっては救いの神であるとともに、魔物を倒した魔物というややこしい観念に包み込まれることになるわけである。
実はアマテラスもまた太陽神として、あるときはあまねく地上を照らす母なる大地母であるが、あるときはスサノヲという暗雲にとまどいなやみ、岩戸の奥に神隠れしてこの世を暗黒にしてしまう日蝕=災害神でもあったのだ。ギリシア神話のゼウスが、さまざまな試練という名のいじわるを人間にして生け贄や供物を「せがんでいる」ように、原始の神とはもともとはそうした善悪両面性を持つ困り者、わがままなものだった。ゆえに前もって生け贄を捧げたのである。不遜な言い方だがそれは「神のえさ」だと言えるだろう。災害が人命を奪うものだからそうしたのである。もちろんそんなことで天災はおさまったりはしない。何万年もそう信じられていたのだ。それはシャーマンたちが引き継いできた迷信のたまものだった。教育がなかった時代だったからだ。シャーマニズムはまだ国王が政治・武力王でない時代まで、信仰を通じて民衆を統一していた巫王だったのである。そう、女王卑弥呼のように。
キリストが西欧社会の「宗教王=INRI」とされてから、わずかに2000年しか経っていない。仏陀が登場してからわずかに4000年である。つまりわれわれがそれが当然だと思わされている教義信仰の歴史はそんなものである。しかし原始信仰の時代は数万年間も続いてきた。民間ではそれはなかなか払拭されたはずがない。アマテラス信仰の歴史は実はわずかに天武・持統からの1300年ほどのものである。沖ノ島祭祀の考古学的考証でそれはあきらかである。伊勢神宮の歴史もたかだかそんなものである。神社信仰の様式も記紀以降に成立している。つまり神社と言う器は、遡っても天武を遡れず、それ以前は石や祠である。場所によってはそれもなくただの山や河や海である。原始宗教のほうが素晴らしいと思うことのひとつに、一神教がしきりに欲しがる人工の偶像が一切ないことがある。偶像とはつまり人間に模した仏像や神像のことだが、以前は動物の形で、次に半身半獣になり、やがて完全に人間の姿になる。次第に想像力が欠如していったのである。空想上の産物や自然のオブジェよりも、学問のない平民には神が人間の姿であるほうが理解されやすかった。これを神秘主義、ファンタジー、精霊信仰などとも言う。ケルト神話に登場する異界の人々、妖精、エルフなどのように空想の産物が自由に空想の翼をひろげていられた時代を「古代」といい、偶像が人間に近づいた時代を過渡期といい、ついには現実のモデルをもって人型になった時代を中世と呼んでもよかろうか。つまりそれは神を信じさせる側が狡猾になっていっただけのことである。子どものような着想でよかったものを大人が信じなくなっていったゆえである。言葉は悪いが、だますなら、より簡便な手法を選んだというだけのことである。(筆者には神の存在を信じさせる行為と巷間のサギとの違いは、ただ金や利益のあるなしでしかないと思える。)
メイリックとスミス『ブリテン諸島土着民とその習俗』1815
中央下にドルイドが立っている
それは古代信仰と中世信仰の対峙である。つまりドルイドのごとき「教祖」の登場こそが、古代幻想信仰を中世教義信仰へ脱皮させてゆく過渡期の「宗教王」なのだろう。シャーマンでもなくそれは教祖であるところは現代のイスラムのカリフにも似る。イスラーム世界はいまだに宗教王であるカリフが同時に政治王なのだから、いまだに古代であると言えるだろう。
人類の信仰のはじまりは、そもそも宇宙、地球の気象現象への畏怖からだった。それは破壊者としての神が最初だったことを指し示している。ケルト文化のストーンヘンジで、中世から神に捧げる祭が始まっている。絵画として残されている。それによれば手前では五月祭のメイ・ポールを立てる春分の祭祀、向こう側ではヘンジにひっかけた大段幕に大蛇がうねる姿が描かれて、古代からの神=陰陽物=性行為による増殖と再生の象徴=蛇が同時に祀られている。つまりそれは信仰の過渡期が中世の初期だったことがわかるのである。
よくよく考えてみればすぐにわかることだが、人間にとってやさしい、助かる、尊敬すべき存在と、正反対に災害や病気や災厄をもたらす破壊者と、あなたはどちらを先に恐れ敬うだろうか?当然後者ではあるまいか?こんな簡単なことに学者たちは何百年も納得しなかった。権威主義と先達からの申し送りの感化のせいで、マインド・コントロールされたためである。その姿はあたかも、どこかの村長の既得権益にこびりつき、住民の意思を無視して辞職しないみっともなさにそっくりである。彼もそうだが、権威主義の祟りは3代続く。まるで植民地支配への怨念を3代経っても忘れないどこかの国家のようではないか。これらもいわば祟りなす魔物だと言える。心の奥のダークサイドだ。忘れることこそが心の平穏の最短距離である。それが消えないのは指導者がダメ人間だからであろう。
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