転載民族学伝承ひろいあげ辞典「君は新しい考古学についてゆけるか?邪馬台国移動説と甕棺移動の視点 」
2012年6月9日
◆1 甕棺発生地を特定する
北部九州の「西側」つまり北西九州に多い甕棺埋葬。
その風習は弥生時代以前から来ている人々がいて、佐賀県や長崎県、そして福岡県の「那珂川の西側(最近東側奴国でもいくらか見つかった)を中心に、その世界的な派生地から移動してきた風習だと考えられる。
それは那珂川の東側には少なく、遠賀川以東には皆無である。
実証図説→★甕棺墓の分布と神話と狗奴国
北部九州の「西側」つまり北西九州に多い甕棺埋葬。
その風習は弥生時代以前から来ている人々がいて、佐賀県や長崎県、そして福岡県の「那珂川の西側(最近東側奴国でもいくらか見つかった)を中心に、その世界的な派生地から移動してきた風習だと考えられる。
それは那珂川の東側には少なく、遠賀川以東には皆無である。
実証図説→★甕棺墓の分布と神話と狗奴国
那珂川東岸以東の弥生墓の中心はあくまでも周溝墓である。
つまり一言で「北部九州」と呼んできた、過去のざっくりとした区分けでは、すでに弥生時代を語れないと言える、と以前筆者は書いた。これは森浩一の説を筆者が発展させた考え方で、多くの学者はあまり言及していない。
北東部九州のそれまでの風習は支石墓で、これは韓半島から来た海洋民的な(=つまり「倭人」)風習である。
先に書いた「日本人のルーツ全候補」であげた三ヶ所に、この三つの墓制は見事に合致している。
まとめると、弥生時代直前に、こういう順序で複数の人が来ていたことになる。
★日本人のルーツ・その全候補地
つまり一言で「北部九州」と呼んできた、過去のざっくりとした区分けでは、すでに弥生時代を語れないと言える、と以前筆者は書いた。これは森浩一の説を筆者が発展させた考え方で、多くの学者はあまり言及していない。
北東部九州のそれまでの風習は支石墓で、これは韓半島から来た海洋民的な(=つまり「倭人」)風習である。
先に書いた「日本人のルーツ全候補」であげた三ヶ所に、この三つの墓制は見事に合致している。
まとめると、弥生時代直前に、こういう順序で複数の人が来ていたことになる。
★日本人のルーツ・その全候補地
◆甕棺墓はどこからきて、どこへゆくのか?考証
●それは黄河からやってくる
「アジアでは、まず黄河文明期の中国に現れている。ほとんどが乳幼児のものであり、成人のものは華北西部のみに分布する。また、東南アジアでも紀元前数世紀の頃から、ジャワ島やベトナム中部(サーフィン文化)を中心に甕棺墓が行われていた。これについては、海洋民の習俗だったとする見方がある。さらに南インドにおいても、紀元前数世紀頃の甕棺墓の跡が発見されている。」
●それは黄河からやってくる
「アジアでは、まず黄河文明期の中国に現れている。ほとんどが乳幼児のものであり、成人のものは華北西部のみに分布する。また、東南アジアでも紀元前数世紀の頃から、ジャワ島やベトナム中部(サーフィン文化)を中心に甕棺墓が行われていた。これについては、海洋民の習俗だったとする見方がある。さらに南インドにおいても、紀元前数世紀頃の甕棺墓の跡が発見されている。」
●近畿のイネに朝鮮半島にはない遺伝子発見
「水田稲作農耕が朝鮮南部から渡来伝播したと、特に考古学の分野から強く主張された。
それは長江中・下流域で起源した稲作農耕が、山東半島から西朝鮮を経て南部朝鮮、北部九州に伝播するという、いわば回り道をしたコースであった。
しかし長江中・下流域と西日本とは、照葉樹林文化を共有し、6,000年前には縄文稲作が直接に伝播した、という先史を持っていたはずである。
「水田稲作農耕が朝鮮南部から渡来伝播したと、特に考古学の分野から強く主張された。
それは長江中・下流域で起源した稲作農耕が、山東半島から西朝鮮を経て南部朝鮮、北部九州に伝播するという、いわば回り道をしたコースであった。
しかし長江中・下流域と西日本とは、照葉樹林文化を共有し、6,000年前には縄文稲作が直接に伝播した、という先史を持っていたはずである。
★日本のイネの中に朝鮮半島にない遺伝子があった★
水田稲作農耕の長江中・下流域からの直接伝播の可能性を指摘したのは、イネの遺伝子に詳しい農学者佐藤洋一郎である。
佐藤が、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した、2,200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったという。」
佐藤が、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した、2,200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったという。」
では菜畑や岡山の古い水稲米も調べたのだろうか?なぜ畿内だけの数値?という疑問もある。
いずれにせよここからは、従来の朝鮮半島経由説では説明できない・・・つまり長江ダイレクト由来説の復活が起きねばならないだろう。それはありえたという証拠である。
いずれにせよここからは、従来の朝鮮半島経由説では説明できない・・・つまり長江ダイレクト由来説の復活が起きねばならないだろう。それはありえたという証拠である。
●纏向遺跡から見つかる「甕棺」風墓制
★近畿の甕棺風土器棺http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53450097.html
★近畿の甕棺風土器棺http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53450097.html
■纏向遺跡の土器棺墓 (桜井市大字太田)
「土器棺墓は6基が確認されている。すべてが太田微高地から出土しているもので、在地産の広口壷や複合口縁壷が使用されており、大きさは直径40㎝程度のものから90㎝程度のものまでばらつきがある。埋葬される小児の体に合わせたサイズのものが使用されたと考えられ、副葬品の出土例は全く無い。」
http://remains.anmae.net/?detail=1237679647
築造時期:古墳時代前期初頭
墳 形:纒向型前方後円墳丘墓(葺石・埴輪無し)
規 模:全長約96メートル・後円部径約64メートル、後円部高さ9メートル、周濠幅約21メートル。
埋葬部:未調査
出土遺物:
土師器(布留0式)
木製品
甕棺(周濠外堤部より東海系壺片で蓋をした中部瀬戸内系土器棺埋納。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%94%B0%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3
墳 形:纒向型前方後円墳丘墓(葺石・埴輪無し)
規 模:全長約96メートル・後円部径約64メートル、後円部高さ9メートル、周濠幅約21メートル。
埋葬部:未調査
出土遺物:
土師器(布留0式)
木製品
甕棺(周濠外堤部より東海系壺片で蓋をした中部瀬戸内系土器棺埋納。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%94%B0%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3
これに先立って岡山県には陶棺という豪華な陶器質土器の大きな棺も存在する。主に岡山北部の美作地方と中心部の一部古墳から出る。甕棺と陶棺の関係も考えておく必要があるだろう。吉備の王族が甕棺から発展させた豪華な棺を吉備に特化して発達させたという分岐移動論である。この中のやや下層の人たちが吉備~纒向へ移住していた可能性はなかったか?
もちろん北西部九州から纒向への直接移住もあるだろう。
しかし例証がまだまだ少ない。一般住民であるなら、もっと沢山出ねば納得できないし、古墳からも出ている。太田微高地の六基の人々のリーダーが吉備系あるいは北西部九州から移住した人で、実は前方後円墳の始まりを告げたのかも知れない。
しかし例証がまだまだ少ない。一般住民であるなら、もっと沢山出ねば納得できないし、古墳からも出ている。太田微高地の六基の人々のリーダーが吉備系あるいは北西部九州から移住した人で、実は前方後円墳の始まりを告げたのかも知れない。
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◆豊前はアジール
福岡県福岡市の博多を東西に二分する那珂川の東西で、弥生時代の渡来があった以後から、両地域には文化的にも人種的にも違いがあったのではないか?という、かつて筆者が森浩一の言葉から天啓を得て何度かこのブログに書いてきた。アジールである。
●アジ-ル
アジールあるいはアサイラム(独: Asyl、仏: asile、英: asylum)は、歴史的・社会的な 概念で、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリアのことを 意味する。ギリシア語の「ἄσυλον(asulon:侵すことのできない、神聖な場所の意)」を 語源とする
つまり豊前は聖域、共有するべき独立した縄文世界だったといえる。.
倭人伝には伊都国と奴国の存在が記録されているが、ちょうど両国は那珂川をはさんだ西と東に分けられる。
倭人伝の三世紀より前、一世紀には奴国王は金印を授受している。当初は東側の奴国のほうが伊都国に先行して中国とのえにしを持った。それまでの倭人、倭国と言えばまずもって朝鮮半島の北側にある燕とのえにしが深かったようだ。大和地方でも東大寺山古墳の被葬者は一世紀の中国年号紀年銘文の入った鉄剣をおそらく燕を通じて北朝から下賜されたようである。
そうした主流の中で奴国はほかに先んじて中国本土との交流に成功したパイオニア国家である。
当時、この差は非常に大きかっただろう。
森浩一が遠賀川の東西で、東側豊の地帯は文化が古いまま残存したと描いている。この一文は今でも筆者の脳裏に強い印象を残して消えない。
那珂川の東側の奴国文化圏の人々はどうもやがて遠賀川の東へと移動したような気配である。
磐井の乱の際に、継体大王が物部尾輿に対して、勝ったらおまえはチクシより西を、自分は東を治める」と約束しているのだが、森はこの言葉には間にあるはずの豊がない、とも書いている。新幹線で博多と山口県下関の間には今、小倉や門司があり、ここもかつては豊前である。今はもっと細かい地域名になったので、間に筑豊が存在するが、そこもかつては豊前だった。
磐井が豊前に逃避したという風土記逸文が言うのは、彼に味方した火(佐賀・熊本)・豊(大分・福岡の東側)のうち、豊というのがこの豊前地域の国だったからで、そこは周防灘に面して関門海峡を牛耳り、四国・周防にまで目が届く海人族のメッカであった。そして4世紀にはここに新羅系工人(秦部・秦人・秦人部)が入って八幡信仰の基層が産まれた。だから宇佐の八幡信仰とは在地縄文海人族文化と新羅・伽耶系渡来文化が融合して成立するのであろう。
倭人とはまずもって弥生時代に渡来した大陸の人々よりも、縄文時代から海に生きてきた海人である可能性の方が高いと思われるようになってきた。
倭人伝が書き残した倭人もそうした縄文時代からの海人である。
すると那珂川の西、糸島半島~唐津・長崎にかけて住んでいたのは伊都国ほかを形成する渡来人国家であっただろう。それで中国北朝に属した邪馬台国は伊都国に中国の出先機関代用地としての一大率を置いたのだろう。すると奴国側とは墓制も違うこともあり、人種も政治動向もひとつでなかった可能性が非常に高い。
そうした東西の流れから察するに、北部九州をひとつの文化圏としてひとくくりにするのは大間違いであろうという見方が考古学を中心にぼちぼち出始めているようだ。
つまり大和学者が言うような古代は大和を九州が飲み込むとか反対に大和によって九州が統一されたとか、九州王朝説論者が言うような九州王朝が独占した世界だったのでなく、日本の表玄関としての博多湾を、双方も、あるいは広く蝦夷・琉球に到るまでが共有して、せめぎあい、切磋琢磨していたコスモポリス(伽耶のような)だったと見るほうがいいのではないだろうか?
特に伽耶がほろんでからは、秦氏も葛城氏がつれてきたとかかれた様に、彼らはそもそも伽耶にいたコスモポリタンだと見たほうがよかろう。伽耶の任那がなくなったので、半島の倭人たちは博多に移住し、そこが日本府の代わりになったはずである。そういう博多に大和が食指を伸ばさなかったはずはないのだから、ちょうど幕末の京都のような呉越同舟する多元的な文化圏の共有地だったはずだ。
そうした場所だったからこそ、女王の共立も、のちの筑紫国造の反発も起こるのは時間の問題だったろう。一発触発の危険な場所でもあった。
あとは継体大王が果たして磐井をやったかどうかが難問である。ここさえ決まれば、大和が筑紫を併呑したのか、それとも逆だったか、そして飛鳥以降の日本史がつながるのであろう。今の日本史はここが切れたまんまでまだ決まっていないのである。
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