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聖徳太子の正体を探る2 秦河勝


聖徳太子のイメージは、もう間違いないと言っていいのだが、少なくとも五人以上の人物像のコラージュでできあがっている。それが1作り出され 2さらにイメージがかぶさり 3そして過剰に神聖視された・・・この三つの時代的経過がそこにはある。


最初にその複数のモデルを書いてしまおう。


1 厩戸皇子
2 蘇我馬子~入鹿
3 秦河勝
4 物部守屋
5 天智・天武天皇
6 応神天皇八幡陣

もちろんこれだけではない。

さらに記紀の主人公である天武天皇、ローマから秦を経て朝鮮系湯で秦氏が持ち込んだイエス・キリスト、ゾロアスターのミトラ神・・・などなどなどなど。






聖徳太子が聖徳太子と呼ばれるようになるのは、記紀成立以降だと言ってよい。




そのイメージが当時の政治的背景で必要だったのは・・・

1 天智天皇(不在かも知れない人)
2 天武天皇(同   上)
3 持統女帝
4 藤原不比等
5 藤原光明子

である。


1、2の天皇は記紀が作り出したかも知れないので、それは不比等の作り出した幻影である。持統天皇が天智の娘だったかどうかも疑ったほうがよいだう。不比等は政治的には、父鎌足一代であるはずの「藤原氏」を勝手に名乗った人。つまりそこに自分自身の藤原名乗りの正当性が必要な人物である。光明子は不比等の娘で慈善事業マダムであり、そのために父不比等が作り出した「聖徳」=慈悲 のイメージを最大限利用して自分の慈善事業にカンパがほしい女性。





ではまずは秦河勝という作られた人物から考察しよう。

「はたの かわかつ」とは
1多くの渡来亡命者の代表 秦氏も漢氏も渡来系はすべて最初は「はた=海」のうじである

2川のすぐり これは人名ではなく伝説上の山背の開闢者としての水の開拓者という名前

3夢殿と広隆寺八角円堂の類似(これは円堂の建設が鎌倉時代なので証拠にはできない)
 
4蜂岡寺伝承の太子宇治橋で河勝これを迎えるの儀式的伝承(作り話)

5蜂岡寺所在地が葛野ではなく北野であること(広隆寺と北野に縁はない仮説)

6葛野=嵯峨野つまり嵐山界隈であること、嵯峨野が蜂岡であるのは、蜂=かえでの甘い汁で嵐山なのに、葛野秦氏の本拠地が太秦であること

7架空の大王である応神紀に早くも葛野が登場し、そこを秦氏が開拓していた記事




すべて信憑性に乏しい事柄ばかりでできあがっているのが河勝伝説である。



すなわち河勝は「かわのすぐり」という秦氏山背開闢の「おおさけ」神をさしている。




河勝の神格化がはげしく起こったのは中世からで、これは太子もそう。そして太子が大工の祖先であるとされたように、河勝は猿楽の祖とされたのは、中世被差別民だった職能民・芸能民たちの「貴種」祖先伝説であり、あるいは木地師の好む貴種流離譚もそこに加わる。これらがひとえに河勝を祖としたのは、彼らの多くもまたハタ、つまり渡来人だったからである。



では倭人であるはずの太子がなぜ渡来人秦氏の伝説的人物像から作られると思うのか?




1駿河の大生部多が祭る常世の神を勝手に祭ったことを、河勝が叱咤した
これは国家宗教としての仏教導入に対する地方神人たちの反駁であるから当然。
しかしその事実が河勝が行った証拠はない。記録だけである。そしてこの記事は、中央秦氏の栄達に対する地方渡来部民たちのやっかみがあるということを言っているのであり、問題なのは東国をはじめとするそういう勝手な部たちを統率するための意味のほうが大きい記事である。


2斑鳩宮跡の発掘から、そこに住んだのは上宮一族と母刀自古女郎だったという推定、では太子はどこに住んだのか?が不明。隣接する夢殿は、おそらくさほど古い時代からなかった。天智天皇時代あたりに作られた。なぜなら中にあったのは太子をモデルとした仏像一体で、さらしでぐるぐる巻きにされていた救世観音だった。天智には本当の太子の姿があると困る理由があった。

3 ★3法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘文後世刻印の根拠
●「法皇」という表記があるが、これは法王と天皇を組み合わせた言葉で(福山敏男1935)、天皇という言葉がまだなかった飛鳥時代のものとは思えない。

●「法興」という年号は『日本書紀』だけが記録したもので、法隆寺は法興寺と呼ばれていたからここだけに使われた年号だろうが、そもそも法隆寺が法興寺とも言われたのは『日本書紀』にしか記述はなく、しかもこういう漢風年号の使用は飛鳥時代にはまだあり得ない。法隆寺は飛鳥時代には「アスカデラ」、仏教が入ってから法隆寺、天武天皇の頃には「元興寺」である。法興という年号使用も法興寺という寺名も、実際には飛鳥時代にあるはずもない。

●「知識」「仏師」という語も見えるが、これらも飛鳥時代には存在しないはずの仏教専門用語であり、生まれたのは仏教がかなり浸透してからである。

●銘文は刻印であるから仏像鍍金後にいくらでも刻める。

●金堂改修工事のさいに三尊像が台座からおろされたさいに、そこには三尊像の四角い台座に合致しない、丸い漆の塗り残しが発見された。その後の分析でこの円形にぴったり合うのは救世観音であるとわかった(NHK)。この救世観音像を撤去して釈迦三尊像を置いたのは天智天皇であることもわかった。つまり釈迦三尊像そのものも、飛鳥時代の仏像ではなく天智天皇時代から持統時代のものとされた。

●ということは勿論飛鳥時代の仏師である止利の作品ではない。
つまり鍍金の上から刻印されたこの銘文は後世のものである。
参考文献大山誠一『天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト』NHKBooks 2009




聖徳太子はつまり飛鳥寺付近に住んでもいなかったのである。法隆寺は太子なきあとに飛鳥寺跡地に火災で再建されている。その伽藍は百済様式であり、五重塔基礎の地中からは百済昌王の署名のある仏舎利容器が見つかった。この人は少なくとも聖徳太子の時代の人ではなく、百済が台頭してきた新羅の影響で半島がみだれたと、南下してきた高句麗広開土王の時代の人である。つまり天智天皇の時代の人なのだ。

また、この金堂の天井にある止め金具が、持統天皇がそこに仏像の上に天蓋をとりつけるためのものであったこともわかった。

さらに天寿国繍帳などの太子ゆかりの遺物や記録がみな藤原光明子を前後とする時代の作品であることも否めないことがわかっている。


つまりまずは聖徳太子なる聖人は飛鳥時代には存在していない。


であるならば、そのイメージは『日本書記』が作り出さなければならなかった宗教的国家統一のためのイメージ、虚像だったことになる。


そのイメージを作り出すにはいく人かの過去の人物像が・・・それもその時代にグローバルな外交を実行しようとして消された人物でなければならず、その穢のイメージに対するハレのイメージを持たせる必要性があった。なぜなら白村江敗北という天智の大失策をごまかす必要があったからである。




日本国はここではじめての世界での戦いに大敗北を喫しているのだ。日本は風前の灯の中にあった。歴史的恥辱である。そのことを不比等は少しでもなかったこととしなければならない。天智を藤原京の真北において天子としたのもそのためである。その敗北をごまかすには聖徳太子二は中国外交で大失敗をさせておく必要があった。あの煬帝への日出るところの天子よりという大失敗作である。


そしてその負のイメージの前例があってこそ、河勝にそれをおっかぶせることができ、中央渡来人=異郷の侵入者たちへの牽制球となったのである。秦氏は王家のための月の存在に徹しなければ生き残れなくなったのである。





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