音韻から地名を見分けようと言う論説の代表を貼り付けよう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(118)
「倭人伝」中の倭語の読み方(61)
「倭人伝」中の倭語の読み方(61)
「21国」の比定:(27)支惟国(その二)
「支惟国」の候補地として上がっている比定地のうち、「吉備国」は私の立場からは除外することになる。その地域には既に「好古都国」「鬼国」「鬼奴国」を比定している。
「支惟国」の候補地として上がっている比定地のうち、「吉備国」は私の立場からは除外することになる。その地域には既に「好古都国」「鬼国」「鬼奴国」を比定している。
「已百支国」の訓みについて論じたとき、古代では「ワ」と「ハ」ははっきりと違う音として区別されていたことを確認したが、「ヰ」と「イ」もそうだったと考えて間違いないだろう。ウィキペディアから仕入れた知識だけれども、次のようである。
『古代ではヰは[wi]と発音され、イは[i]と発音されて区別されていた。…13世紀なかばに入るとイとヰは統合した。』(「…」には統合に至るまでの経過が文献を用いて詳論されているが省略した。)
倭人は音を転写するとき厳密な漢字採用をしたのではなく、類音を用いたに過ぎないという論もあるかと思うが、私としては倭人は「ヰ」と「イ」をまったく異なる音として転写すべき漢字を選んでいたと考る。その立場で考えるとどうなるか。
「支惟」は「キヰ」である。「基肄」はどうか。『諸橋大辞典』によると「肄」の音は「①イ ②シ ③エイ」だから「基肄」は「キイ」「キシ」「キエイ」のいずれかとなるが、いずれにしても「キヰ」ではない。「紀伊」の「伊」は万葉仮名にもなっているが、「イ」の音しかない。やはり「キヰ」ではない。両方とも「支惟国」の比定地にはできない。
きい[城井]
『和名抄』豊前国仲津郡に「城井郷」で見え、福岡県京都(みやこ)郡みやこ町木井馬場が遺称地。「紀伊」と同義という説があるが、「きい(紀伊)」と「きゐ(城井)」は別語であり、「きゐ(木井)」の意で、木で囲った井泉の意かと思われる。
『和名抄』豊前国仲津郡に「城井郷」で見え、福岡県京都(みやこ)郡みやこ町木井馬場が遺称地。「紀伊」と同義という説があるが、「きい(紀伊)」と「きゐ(城井)」は別語であり、「きゐ(木井)」の意で、木で囲った井泉の意かと思われる。
「城」の音は「ジョウ」だけだが、万葉仮名「キ(乙類)」として使われている。「井」の音はセイ(漢音)・ショウ(呉音)だが、「井」も万葉仮名「ヰ」として使われている。
『日本歴史地名大系』によると「仲津郡」の郡域は「およそ現在の行橋市東部、京都郡の豊津(とよつ)町・犀川(さいがわ)町に相当する」。ウィキペディアの「みやこ市」を調べたら
「2006年3月20日 豊津町・犀川町・勝山町の3町が対等合併し、みやこ町が発足。」
とあった。みやこ市のうち御所ヶ岳と飯岳山を結ぶ線の北側が京都郡(勝山町)の領域であり、その南側全体(豊津町・犀川町)は仲津郡の領域である。「城井」は下の地図の犀川町辺りのようだ。
http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-1789.html
「2006年3月20日 豊津町・犀川町・勝山町の3町が対等合併し、みやこ町が発足。」
とあった。みやこ市のうち御所ヶ岳と飯岳山を結ぶ線の北側が京都郡(勝山町)の領域であり、その南側全体(豊津町・犀川町)は仲津郡の領域である。「城井」は下の地図の犀川町辺りのようだ。
http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-1789.html
音韻にこだわる論説であるが、筆者は古代音韻にはさほど区別は明確でなかったと考えている。もっとアバウトでよいだろう。
この「き」を「きい」という表現に変化してゆくことについては、関西に長く住めばわかるけれど、「き」一文字、一音では落ち着きが悪い言葉を、関西弁ではほぼ伸ばす癖がある。「間が悪い」は「まーが」あるいは「まんが」とする。「木」は「きー」、「蚊」は「かー」である。つまり「きい」の「い」が「イ」か「ヰ」かで悩むのではなく、単に「イ」が伸びただけなのである。選択する余地はなく「紀伊」も「城井」も「基肄郡」もすべて音は「イー」である。つまり木部=紀氏の居住地が「き」であり「きい」なのである。子供の「いーーだ」と一緒である。要するに「い」なら「い」がそのまま伸びたんだから考える必要もなく「き」でも「み」でも「り」でも二文字目は「イ」なのである。「ヰ」がのびれば当然、二文字目は「ヰ」である。
「きー」がなぜ「紀伊」などの二文字になったかといえば、これもまた簡単な話で、律令施行以降に地名を「良字、二文字表記」にせよとのお達しがあったからに他ならない。
そもそもこのような簡単なことで何を延々と思い悩むのか、さっぱり理解できない。
地名などはそもそも民間、地域住民の都合のいいわかりやすい名前でできている。中国人が漢字で厳しい使い分けをしていたことと、日本語の地名の音韻では比較しようもないほど、日本の地名はいい加減であろう。
また音韻で「邪馬臺」を「やまと」か「やまたい」かなどと考える手法こそ実にこっけいである。まして臺が壱だとかいう勝手な妄想もまことに無意味で、本当のところなどわかろうはずもない水掛け論で、時間の無駄である。そんなことを真剣に考え続けているなんて?タイムマシンでも作って言ってくればいい。そのどっちでもない可能性だってある。ばかばかしい。
まじめで頭のいい人と言うのは、つきつきめてつきつめて、結局ばかみたいな結論ばかり出してくる。まるでオームに入信した東大出みたいなところがあるから、はたから見てきると、むしろおばかっちいに見えてくる。まったくおら、かんだりーずら(伊豆方言 疲れる)。
こういう論説は堂々巡りでしかない。結局、回答を導き出すには考古学などの科学を持ってくるに限る、実になやみが晴れてくる。簡単である。
まず豊前城井郡は竹並横穴墓群で、地下式横穴墓も多く、隼人の剣が出てくる場所であり、居住者は隼人、秦氏、紀氏などである。
次に紀州はもちろん紀氏のメッカである。紀ノ川沿線の古墳群から、北部九州装飾古墳に描かれる双脚輪状文そっくりの帽子をかぶった人物埴輪が出ている。両者は紀氏の部であることで間違いあるまい。
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●双脚輪状文型の特殊形象埴輪が出た遺跡・古墳
1 和歌山県和歌山市岩橋・井辺八幡山古墳
双脚輪状文部分が破損状態で出土形象特殊埴輪 1個の部分と推測された 6初 前方後円墳
2 和歌山県岩橋千塚古墳群のうち大日山35号墳
冠帽をかぶる人物(男女?あるいは親子?各1) 6前 前方後円墳
3 和歌山県大谷山22号墳 双脚輪状文特殊埴輪2個 6前 前方後円墳
4 香川県公文山古墳 双脚輪状文付き特殊形象埴輪 一個 不明 不明
5 奈良県荒蒔古墳 天理市荒蒔町糸杭139. 6前 帆立前方後円墳
その出身地が前の記事に書いた肥前国基肄郡周辺である。
●双脚輪状文が描かれた古墳 所在地 土器編年 墳形
1熊本県釜尾古墳(横向き) 川流域釜尾市 6世紀後半 ●
2福岡県王塚古墳(縦向き) 遠賀川流域 6世紀初~中 前方後円墳
3弘化谷古墳(横向き・円紋に脚)筑後川流域八女市 6世紀中 ●
石人山のある古墳群にある古墳群は4前~7前まで存続
4横山古墳(下向き)菊池川流域鹿本郡植木町移築再現5後~6前 前方後円墳
5福岡県丸山(塚)古墳(不明消失)八女市詫間田?
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双脚輪状文のデザインの基盤はスイジ貝の形状である。
この貝はやがて大和では巴形銅器となって「隼人の盾」の魔よけとされた。
この貝はやがて大和では巴形銅器となって「隼人の盾」の魔よけとされた。
つまり紀氏と隼人の合体がスイジ貝産地の南九州であり、彼らはともに北部九州へそれを運びこみ、やがてゴホウラ貝・イモガイなどの腕輪とともに、その意匠を大和へ持ち込んだということがはっきりしているのである。
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つまり貝輪や双脚輪状文、あるいは紀州型石棺や石室という物的証拠のルーツと行き先を考古学の発掘から点と線で追いかければ、紀氏や隼人の行った道筋は時代を追って完全に復元できるというわけである。紀氏については非常に足跡がたどりやすい氏族・部族だったと言える。物的証拠を残す氏族はたどりやすい。古墳と土木の秦氏や土師氏などもそうだ。どこから来てどこへ行ったかが、まあどんな素人でも数年勉強すれば全部見える。わかりやすい氏族である。
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言語学や文献史学による文学的な試行錯誤など100年やっても「だろう」の範疇を一歩も出ることはできない。時間の無駄である。科学で考えれば瞬時に答えは出てくる。ただし、今後の発掘で、その範囲や順番に微調整は生じることもあるだろうが。
問題は、これまでの文学部的な命題と、自然科学の発掘や分析結果とを結びつけて考えようと言う柔軟な発想を持てるかどうかで、答えの道は何百倍も画期的に短縮される。そのことに気づかない在野の研究家がいかに多いかである。
彼らにはその着想がない。だったらいつまでもいつまでも、そういう迷路でぐるぐるしているのが好きなだけなんだろうと、ぼくなどはすぐ思うのである。できればそういう頑迷な頭の方からのコメントなどは御免である。そういう着想ができない人は、研究などやめて庭の手入れでもするほうがよほど嫁はんが喜ぶ。なんなら家事の手伝いをすると、いつ嫁はんが家を飛び出しても安心である。
考古学だけではない、ありとあらゆる学問から古代史を見ようとしない人の意見などは、筆者などには寝言でしかない。知ってることの総量に差がありすぎるので、相手にならない。そしてそういう筆者の数倍の知識をお持ちの研究者なら山ほどいる。う
上には上がつねにいる。
ぼくも目からうろこを落とされている。
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
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