読者から天武・持統の諏訪遷都について詳しくとのご要望があったので、過去記事を転載し、筆者の最新意見を書き足しておく。
天武・持統の信濃遷都計画・転載記事
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/50923280.html
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天武・持統の昔、長野は次期首都候補地だった。
『日本書紀』天武十三年二月(684)
「三野王(みののおう)、采女臣筑羅(うねめのおみ・ちくら)等を科野に遣わし地形を看させて曰く「是の地を都とせんとするか」と。」
同年四月
三野王、科野国地図を提出。
三野王、科野国地図を提出。
十四年
科野に行宮造営
持統六年三月(692)
持統天皇伊勢行幸を計画。反対勢力、三輪朝臣高市麻呂(みわのあそん・たけちまろ)諫言「農事のさまたげとなるおそれあるによりて中止されたい」と。
三輪朝臣、官を辞すも、天皇強行。通過地点である伊賀、伊勢、志摩国に官位をさずけ、その年の調を免除。同行した警備の騎士、荷物運搬係り、さらに科野行宮造営にあたったヨホロ(丁・労働者)等の一年分の調を免除。破格の待遇である。
「過ぎます志摩の百姓の男女、年(年齢)八十以上に、人ごとに(それぞれもれなく)稲五十束を賜う。近江、美濃、尾張、参河(三河)、遠江(とうとうみ・静岡)の国の、共をした騎士の戸、諸国の荷丁の本年の調をも免除」
五十等児乃嶋(いらごのしま=今の伊良湖・愛知県渥美半島突端の湖だが、海から見ると島に見える)より女帝の船出を案じて柿本人麻呂詠む。
潮騒の 五十等児の嶋辺漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き嶋廻(しまみ)を
しおさいの いらごのしまべこぐふねに いものるらむか あらきしまみを
しおさいの いらごのしまべこぐふねに いものるらむか あらきしまみを
大宝二年(702)、皇位を軽(文武天皇)に譲り、太上天皇となっていた持統は九月、伊賀、三河、尾張、美濃の諸国に行宮を造営させる(『続日本紀』)。都(藤原京)を出て伊勢の円方(まとがた・的潟という潟湖がある津)まで陸路で出立。ここから三河の御津(みつ)まで船で。*伊勢行幸ではなく三河の行宮へ行ったのである。「はじめて美濃国に木曽山道を開く」。帰国後まもなく持統逝去。
さあて・・・。
天武の嫁さんである持統女帝はなぜ伊勢行幸と言いながら三河行宮へ向かったのか?ここが今回の大問題である。
天武の嫁さんである持統女帝はなぜ伊勢行幸と言いながら三河行宮へ向かったのか?ここが今回の大問題である。
三河は天武天皇が、科野遷都のための中継地としていた場所である。当時木曽信濃へ行くには・・・
大和→志摩御津港あるいは的潟→渥美半島・伊良湖→矢作川→豊川→木曽が最短距離だった。
そして、天武の后である持統は天武の科野遷都の意思を継ごうとしているわけである。
だから三河に行宮を設けさせ、伊勢へ行くと見せて実は三河から科野へ向かったのだ。
三河、尾張から科野へはこのときすでに木曽路の原型である矢作川から豊川を経由遡上する通行路があった。木曽路開通の記事が直後にあることから、おそらく木曽街道があった可能性もある。
「天武は東アジアの国際情勢悪化(天智、白村江敗北直後の混乱)に備えて国家の体制を律令の制定によって強めるとともに、都を信濃へ遷す計画をたてた。」(森浩一『日本の深層文化』「第二章 野の役割を見直す」)
木曽路が開かれる前までは、三河から川をいくつか経由しながら伊那郡へ遡上する南信濃路が重要なシュ通路だったと森は言う。
伊勢行幸を行った天皇はあとにも先にも持統天皇だけだった時代が長く続いている。すなわち伊勢神宮は天武・持統が信濃下見に行くためのカモフラージュに過ぎないわけである。しかも伊勢神宮は女帝擁立のための「言い訳」でもあった。男神であったはずの太陽神・アマテラスを女神にしたのも、ひとえに女帝傀儡政権のための建設。だから『日本書紀』はもともと為政者の大本営発表だった。
三輪朝臣は大和三輪山の祭祀一族であるから、伊勢への行幸にも不満があったし、遷都されては三輪山祭祀の権威が失墜することもあって猛烈に反対したわけである。
伊勢の志摩半島にある鳥羽国際ホテルの真下に?贄遺跡という海村遺跡が埋もれているそうであるが、ここの海人・海部一族は渥美半島までの渡しをしたのではあるまいか?
長野、信濃とくれば筆者は諏訪神社に持統が送り込んだ阿蘇大祝を思い出す。諏訪は日本列島のど真ん中にあって交通の難所であった。そこに遷都のための準備として行宮造営し阿蘇氏を送り込んだ。そこでは風の神事が執り行われ、日本大風鎮護と考えられていた。これが「諏訪の風祝」「薙鎌神事」である(吉野裕子)。
長野県民のみなさん、惜しいことに遷都はありませんでした。その後、藤原政権の揺らぎによって国内の喧騒のほうが大変なことになってゆき、心配した唐も諸国乱れ、新羅は建国で忙しかった。東アジア諸国それぞれが違う方向を向いてよくなってしまい、日本も国風文化、律令制度安定、政権抗争へと流れは遷都どころでなくなる。結局、聖武天皇が遷都したのは平城京・ナラの都であった。
今回少しこれに追加しておく。
信濃遷都の背景には、天武つまり大海人皇子の湯沐(ゆのうながし=うば、養父)だった多品治(おおの・ほむじ)の影響もあったのではないか?なぜならば三野王はつまり美濃(岐阜県)の人であり、多品治も美濃の人だったからである。こういうところからも多氏がそもそも海人、海部であることが感じられる。
森浩一が書いたように、東アジアの不安定な情勢から、天武は都をさらに山奥へ移したかったようだ。そしてその諏訪湖は大風、天変地異を抑える要衝でもあり、そのために前もって持統は、鎮魂氏族であった阿蘇氏を諏訪神社神長として投入している。阿蘇氏が多氏との関係をしきりに言うのは、こうしたことがきっかけであっただろうと推測する。つまり多氏も阿蘇氏も決して神武直系とか末裔とかいう、古い氏族ではなかったのだという筆者の考え方の背景もここにある。あくまでも壬申の乱に勝ったために登場する新勢力だと。
計画はしかし三輪君ら旧態勢力によって大反対され、立ち消えになった。
天武や持統がなぜ伊勢にこだわったかと言えば、鳥羽あたりから伊勢湾横断する海路があって、鳥羽には海人遺跡や海女が存在した。彼らはもともとが「渡し」であり、尾張、三河へ最短距離で人や物資を運んでいたわけだろう。今の鳥羽国際ホテルのある丘陵あたりがその遺跡跡である。超えれば伊勢湾、目の前が知多半島突端になる。木曽街道は矢作川、あるいは天竜川を経て諏訪に直結しているのである。この街道を三野王は開発した。
つまり伊勢信仰はもしかすると、あくまでも諏訪遷都計画のための中継地だっただけであり、海上交通の安堵のために古くから海人族からの信仰を集めた聖地だった可能性が高い。今も度会氏がここを祭るのは彼らもまた海人族だったからだ・
アマテラスを祭ったのは、遷都の隠れ蓑に過ぎなかったとしたら、考えすぎか?
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