1 縄文人にも身分や階級はあった
■縄文時代は、現在の私たちが想像する以上にとても豊かな社会でした。そして「平等な社会」だったと考えられています。平等という言葉にはいろいろな意味があるのですが、ここでは次のふたつのことを意味します。
①貧富の差がなかった
②身分の差がなかった
■「貧富の差」というのは、分かりやすく言えば、「お金もちとそうでない人の差がなかった」ということです。
■「身分の差」というのは、エライ人とそうでない人の差がなかった、例えば「王様とその家来」みたいな関係はなかったということです。
■どうしてそんなことが分かるのか?縄文時代の竪穴住居の大きさやつくりには、大きなちがいがないのです。もし貧富の差や身分の差があれば、当然お金持ちやエライ人は大きな家に住むでしょう?それが見られないということです。
■埋葬が共同墓地で行われているということからも平等であったことがわかります。同じくエライ人やお金持ちがもしいたら、そんな人たちはふつうの人よりもりっぱなお墓に埋葬されますよね。(今でもそうです。)それに副葬品といって、死者といっしょに埋めれているさまざまな宝物も見られません。のちの時代の話になりますが、エライ人のお墓ほど、この副葬品が立派になります。
http://nihonnoayumi.jugem.jp/?eid=72
①貧富の差がなかった
②身分の差がなかった
■「貧富の差」というのは、分かりやすく言えば、「お金もちとそうでない人の差がなかった」ということです。
■「身分の差」というのは、エライ人とそうでない人の差がなかった、例えば「王様とその家来」みたいな関係はなかったということです。
■どうしてそんなことが分かるのか?縄文時代の竪穴住居の大きさやつくりには、大きなちがいがないのです。もし貧富の差や身分の差があれば、当然お金持ちやエライ人は大きな家に住むでしょう?それが見られないということです。
■埋葬が共同墓地で行われているということからも平等であったことがわかります。同じくエライ人やお金持ちがもしいたら、そんな人たちはふつうの人よりもりっぱなお墓に埋葬されますよね。(今でもそうです。)それに副葬品といって、死者といっしょに埋めれているさまざまな宝物も見られません。のちの時代の話になりますが、エライ人のお墓ほど、この副葬品が立派になります。
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この意見は、今でも大多数の日本人が信じている縄文社会の定説であろう。
しかし・・・(実はこういうことはあまり言いたくないのだが)縄文時代にも墓、副葬品に格差があったことは考古学者の間ではもう定説化している。
しかし・・・(実はこういうことはあまり言いたくないのだが)縄文時代にも墓、副葬品に格差があったことは考古学者の間ではもう定説化している。
1997年、千葉県下太田貝塚での新発見があった。約100体超の縄文中期~後期の人骨が谷底の低湿地から出土。たえず湧き水が湧いており、人骨を酸化から防いできた、酸性火山灰土の多い日本では珍しい大量人骨の発見だった。中期人骨は屈葬、後期人骨は伸展葬をほどこされていた。縄文時代でもこのように、時期によって葬り方に相違があったことがわかる。ここが中期から後期にかけての共同墓地であることは先の常識の書くとおりだ。しかし、同一時期なのに丁寧に葬られた遺骨と、ふとつの穴に十把ひとからげに放り込まれた遺骨も出てきたのである。これが縄文人の常識を大きく覆す身分階級社会がすでにあったからなのか、あるいはそうではなく、病人などだけが穴に無造作に放り込まれたのかが問題になる。
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結論から言えば答えは前者だった。病死したものなら、感染を防ごうとしてむしろひとつひとつを厳重に密封していくはずである。そうでなければ全部を積み上げて焼却しただろう。しかしひとつの穴には大量の死骸が放り込まれている。ならば戦死者ではなかったか?これも違っていた。いくさの痕跡は遺体にはなかった。つまり、縄文時代中期以後、すでに縄文社会には階層と身分の違いがあったということになるのである。
その理由とはなにか?
まず貝塚が内陸部からよく出てくる。そして予測を上回る早期の稲作生活の開始の想定である。
内陸部貝塚は海の貝殻が出てくる。これは海岸部部族と内陸部部族の通商があり、それによって貧富の差が生まれえたことを想定させる。縄文社会でも富める土地と貧しい土地の格差は当然あり、物々交換でさえも、さらなる貧富格差ができてしまうことを物語る。
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がっかりしましたか?
理想郷だと思っていた縄文社会も、人が集まればリーダーが生まれ、たとえアニミズム社会でも上下関係はあったのだ。がっかり。
貧富の差や階級の上下は、弥生時代の水耕稲作による定住生活が生み出すと思われてきた。縄文時代でも、すでに定住して陸稲や野菜栽培をしていた地域では、すでに弥生時代と大差がない社会への進化があったということになりそうである。
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2 縄文土器は世界最古の土器でよい?
世界最古の土器は、青森県大平山元遺跡出土の土器で、今から16000年前という数値がC14放射性炭素年代測定法で検出された。この数値は、西アジアの常識だった約9000年前からという数字を大幅に更新する驚異的数値だった。その後、ロシアで15000年前の土器が出土。今後の出土しだいでは最古の土器の地域も年代も変わる可能性がある。なぜ、人類の進出が早くはなかっただろう日本列島で、最古なのかは不明である。実は筆者が気になっていることがひとつある。それは南海の島人たちも縄文人も、ともに舟で移動するときに土器なども持っていくことである。
これは妄想だが、以前、南米エクアドルから出た縄文土器そっくりの破片、あるいは南米南端に存在した日本人に遺伝子構造がよく似ていたというモンゴロイドの存在。それらが魏志の侏儒國や黒歯國であったかどうかは不明だが、彼らが海を南洋の諸島から移住していたとしたら、土器も持参していただろう。彼らはまた、家族全員で移住する。女・子供も同行する「かたつむり移住者」なのである。
3 旧石器捏造問題が歴史ファンを考古学懐疑派にした。
これはまず間違いないことだろう。しかし一時が万事というのもいかがなものかと思う。また旧石器時代人の遺跡発掘でも、過去、戦後間もない頃のいくつかに疑問符は確かにつけられるものがある。
学者も人間、今でも教授昇進などのための発見合戦は確かにある。だから考古学ニュースなどの速報は、すぐに受け入れない慎重さは必要である。ただし考古学者もそのままにしているわけではなく、10数年後に新たな意見を出してくる。つまり影では何度もの再調査を行っている。あわてて発表してしまうのはだいたいマスコミである。それもお忘れなく。
4 昔の発掘は全部掘る。今の発掘はトレンチ、グリッド、埋め戻し
昔は、戦後の建設ラッシュなどで多くの新発見遺跡が見つかった。予算も多く、考古学者も、あとのことは考えずに全部掘り返していた。しかし今はそうはいかない。最小限の切込みで範囲などを探り、最小限の遺物を採取し、また埋め戻す。しかも迅速にこれを行う。跡地はもともとなんらかの建設用地だからだし、予算もあまりない。さらに考古遺物はもう研究所にあふれかえっており、学者の手に負えなくなり始めている。だから新発見の可能性はそれだけ減ってきたということ。
考古学発掘情報も、昨今はさしたる目新しいものが減ってきている。元気なのは国家が興味のある近畿と九州だけで、範囲はしかも限定され始めている。昨今は九州も元気がなくなり、奈良県の独壇場状態に近い。これでは情報は偏ってしまう。
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昨日、大分市の中世大友屋敷跡にたまたま行く用事ができて、訪問したが、ほとんどが平地になっていた。土地の持ち主は、これからここに何か施設を作る申請を市にする予定であると申されており、吉野ヶ里のような自治体の公園化などはまったく計画もないそうである。こういう傾向では、例えば中世遺跡の下には弥生遺跡、その下にはさらに縄文、旧石器の遺跡が詰まっているだろう場所を、学者が順繰りに掘りまくることが不可能で、もったいない話になっている。学者も人の子、縄張り意識がある。
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5 縄張り意識がダメにした高松塚壁画
その縄張り意識が大失敗を引き起こしたのが高松塚古墳石室の壁画のカビまみれ事件だった。1970年代のことである、高松塚の大発見は大いにマスコミやファンを喜ばせた半面で、その管理は古墳全体の遺跡管理者と、石室内部の壁画管理者を別々にしてしまった。行政の不備だった。
遺跡全体の管理は異例の速さでわずか数ヶ月で文化庁が史跡指定し管理することになった。高松塚は特に、古墳全体は特別史跡、壁画部分は国宝に分けて指定されたのである。これが大失策の始まりだった。
文化庁はお役所お得意の縦割り管理。
特別史跡は記念物課が、国宝は美術学芸課が担当するのである。
しかも、保存や修復実務を扱う記念物課は奈良文化財研究所と親しく、美術学芸課は東京文化財研究所と連携が深かった。だから中にカビが生え始めても、なかなか両者の意見は同時には一致しない。右往左往するうちにどんどんカビは増えていった。2004年、壁画発見30周年を記念して、『国宝 高松塚壁画』が文化庁から発刊され、その序文で文化庁長官は「三十年経ても壁画は大きな損傷もあるいは褪色もなく」と堂々と書いてしまっている。長官が当時の内部事情など知るはずもなかったし、知っていてもそういうふうに書くしかなかったのだ。おめでたい記念著書だから。
しかし2004年6月、ついにマスコミ報道は大スクープとして壁画劣化の報道をリーク。国民に衝撃が走った。文化庁は翌年ついに「石槨解体」を表明。重い腰をあげることとなる。こういうときにはマスコミは強い味方になる。しかし解体作業はスムーズに進まず、関係者から非難ごうごう。なぜなら法律では遺跡は現地保存が決まりだった。これをおさえて福島の日本考古学協会合で協会は完全保存をしかたなく宣言。ようやく全部が切り離され保存された。今、高松塚に行っても石室内部には壁画は一切ない。
6 高松塚の影で虎塚大発見。装飾古墳はカビない
一方、キトラ古墳の場合は、壁面がもろい漆喰で覆われて剥ぎ取りは困難を極めている。実は高松塚発見で日本人が大騒ぎしていた頃、茨城県では装飾古墳が発見されていた。誰も、それに気づかなかっただろう。それが虎塚古墳である。
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この古墳の装飾は高松塚のように白色顔料で壁全部が覆われていた。しかしいまだにカビひとつ生じていない。漆喰ではなかったからである。九州の装飾古墳もそうだが、管理不足の時代に褪色や損傷は生じているけれど、カビなどはどこにも一切はえていない。これは顔料の違いである。装飾古墳のほとんどは自然顔料、つまり鉱物や墨などが使われていて、カビに強かったのである。ところが七世紀の最新渡来工人の技術で描かれたはずの奈良の壁画は、簡単にカビが生えてしまった。
まるで戦前の日本人の家屋敷と、戦後高度成長期の家屋敷の丈夫さの違いを見るようなことであった。寒冷、乾燥地である朝鮮半島と、湿潤地日本の違いもあるが、密閉を解かれてすぐにカビ始めたのは、あきらかに文化庁の杜撰な(無知ではあったが)対処にあったと言えるだろう。ま、しかしなんの沙汰もなしである。人的ミスにもなんら処置なしなのだろうか?
キトラでは確かに対応だけは早かった。
キトラでは確かに対応だけは早かった。
7 国宝だろうが重文だろうが、名前だけ
予算は出ないのである。一切。
山の管理が土地の持ち主の民間であるのと同様、遺跡も遺物も国は指定するだけで、あとは自治体や考古団体まかせが現状である。なんとなれば国がそれを執り行うには予算がかかる、その予算を負担せねばならないのは当然、国民である。小泉総理は「民間でできることは民間で」と言ったが、実は考古学の発掘も、その後、民間の専門発掘業者が請け負うようになったのだ。もともと発掘は開発のおまけである。だったら土木業者たちがその発掘部門を作ろうという機運が出た。出たのはいいが、もうからない。だから発掘途中でほったらかされた遺跡が山ほど出てしまう。するとそこは本当にほったらかしになる。地主はたまらない。お役所に何か建てたいと言ってもなかなかOKが出ない。
8 発見・発掘は学者個人にはできにくい
そもそも発掘は、あの出雲の銅剣・銅鐸大量発見もそうだが、ほとんどが民間、あるいは高速道路建設にともなって発見されてきた。考古学者の発見ではないのである。新発見は開発のおこぼれ、おまけである。だから業者が不景気なときには、当然発見は少なくなる。開発そのものが低迷するからだ。多くの有名遺跡は東京オリンピックや万国博などの大々的建設ラッシュで見つかっている。表面にいつも見えている古墳の発掘とはわけが違うのだ。学者などでは、あるだろうなあとはわかっていても、まさか重機やらを自前で動かす金はない。あっても役所はすぐには許可しない。なかったらどうするんだというのが役人の常である。補助金を出すのが困るのだ。
もし大発見だったら、実は行政は困ることもあるのである。
あの吉野ヶ里も、全然そうだった。地元では大反対の建設によってとんでもない遺跡と遺物が出ちゃった・・・だった。すると急に国が出てきて買取、国立公園になってしまった。これもとんでもないスピードだった。しかし邪馬台国とは言えないとなってきた。すると今度は奈良の纏向遺跡が出てきた。しかし今度はなかなか動かず、ついには埋め戻し。運がよかったのは大阪の曽根遺跡だった。こちらは公園化されて、ぐるぐる渦のついた高層建築ができあがる。それで今度は吉野ヶ里が「しまったあ!うちもああいうデザインにすればよかった・・・。」実に面白い。
おまけ
恐竜の皮膚の色はこれまでデザイナーの勝手な想像した色だった。それがアメリカで皮膚の色が復元できる技術が開発され、いまや、恐竜の色どころか、多くがカラフルな羽に覆われていたことがわかってきた。つまり恐竜が鳥に進化したことはもう間違いないとなったのである。そんなもんなんですよ。図鑑は大変だ。
9 科学は失敗して進化し、やがて哲学へ向かう オームも最初は科学を?
考古学、いや、科学のすべては失敗の積み重ねである。失敗するたびに民間人はそれを批判する。そして科学はやはり信用できないぞと言う。今度の原発事故でも筆者もそう書いた。しかし待てよである。失敗しなければ先には進めない。神ならぬわれわれはおしなべてそうである。科学とはなにか?哲学である。数学である。しかしそれだけではない。ソクラテスは哲学者でもあり数学者でもあおり天文学者だった。彼は仏陀やキリストの半歩あとまで迫って、ローマ兵に後ろから殺された。かれがそのまま生きていたら、もしかすると聖人、教祖にもなれていたかもしれない。事象のすべてを「なぜか?」で考えること、それこそが科学であり、それはイコールつきつめると哲学、信仰の深遠さえのぞくことが可能なものである。オームの麻原が、ビートルズの歌う「導師に帰依します、オーム」に感化され真理教団を始めたように、しかしそこには常に危険性も伴う。明暗がある。間違えて裏側の神になろうとすれば、作り出すもの、創造者ではなく、抹消するもの、殺戮者にもなってしまう。
人間はささいなことで裏にも表にも生きる弱い存在だ。だから科学には監視者が必要である。
人間はささいなことで裏にも表にも生きる弱い存在だ。だから科学には監視者が必要である。
科学と哲学が人をモハンマドにするか、キリストにするかで、世界はごらんのようにまったく違うものになってしまう。お忘れなく。
凝視せよ。
すぐには判断するな。
である。
すぐには判断するな。
である。
でないと、子供が積み上げた積み木をささいなミスでつぶすように、いとも簡単にこの地球や世界の均衡は崩れ去ってゆく。「あ?しまった」では済まされないのだ。
参考文献 山岸良一『日曜日の考古学』2013 東京堂出版
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
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