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弥生墳丘墓はなぜ古墳ではないのか


弥生時代の墳丘墓を古墳ではないとするのは、あくまでも大和考古学の決め付けである。それを言い出したのは近藤義郎である(1977年論文「古墳以前の墳丘墓」)。彼はしかし岡山大学の名誉教授。その意味は、それまで「裏日本」とされてきた出雲地方の独自の墓である四隅突出墓を、日本海地域に限った特徴ある墓であるという意図で、大和の前方後円墳=古墳とはまったく別の地方独自の墓の形式だといいたかったのであろう。

しかし、大和ではそれは都合がいいからと、ほかの弥生時代の墓も全部、弥生墳丘墓として一括して区別し、纏向型前方後円墳以降のみを古墳と規定してしまったのである。一括して十把一くくりの古墳以前の墓であり、邪馬台国時代以前のものばかりだとしたかったのである。そうすることで卑弥呼の時代の墓とは前方後円墳型だったということを際立たせたかったに過ぎない。

西欧考古学者たちは、古墳も弥生墳丘墓もどっちもBurial Moundで「先史時代の墓に被った土の丘」として同じ物じゃないかと言うのである。それは単なるシェイプ(形状)の違いでしかないと考えるのである。

前方後円墳は英語では、キーホール・シェイプティッド・ブリアル・マウンド(鍵穴型墳丘墓)であり、四隅突出墳丘墓は、スターフィッシュ・シェイプティッド・ブリアル・マウンド(ヒトデ型墳丘墓)である。世界のグローバルな視点では、それが弥生時代であろうと古墳時代であろうと、墳丘墓でしかないのだ。まったくそれでいい。


なのに、大和学会だけは、奇妙にも弥生時代の墓と古墳時代の墓を区別しておきたいらしい。つまり差別したいのである。あえて顕微鏡的区分けを押し付けてくる。世界の研究の流れに棹差すのである。それではおおざっぱすぎる。厳密に弥生と古墳時代を区分けせねばならぬと。なぜか?


九州の平原大型土壙墓や吉野ヶ里墳丘墓、あるいは吉備盾築墳丘墓、出雲の方形墳などなどは、「畿内の方形周溝墓を由来とする前方後円墳などの古墳とは異なる墓である」と大和学会は勝手にしてしまうのである。しかしそれもこれもずべて丘を持つ古墳にほかならない。いや、盾築墳丘墓などは、明らかに纏向型前方後円墳の直前モデルなのであると彼らも考えているのだから、それでは矛盾している。


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福岡県吉武樋渡墳丘墓 一目瞭然、円形周溝墓の発展型で、前方後円墳型をしている。(小田富士夫『古代九州と東アジアⅠ』より)




そもそも纏向を邪馬台国にどうしてもしたいのは、大和・・・京都大学系の学者だけである。例によって、先に大和ありきという、小林行雄譲りの恣意的決め付け学であろう。まったく百代祟るやから学者に見えてくる。




古墳は前方後円墳から始まるのではない。弥生時代の各地の独自の墳丘式墳墓が終結して、淘汰されて生まれるのである。その順番は、弥生時代の古墳の形状のすべてが土壙墓・方形周溝墓・円形周溝を経て一斉に、各地で巨大化して(ヘテラルキーからヒエラルキーへ。この3世紀まで段階では纏向型前方後円墳もそのバリエーションのひとつの試作品にすぎない)、大古墳へ向かう。

このときに、ひときわ巨大なプレ前方後円墳型墳墓を「吉備と纏向が同時」に試作し始めたのである。それが吉備の造山・作山であり、纏向の箸墓なのである。

しかし、纏向から出土する祭祀土器のほとんどが吉備型特殊器台なのであり、そこには弧帯文が描かれているのである。つまり纏向の祭祀者は吉備の人たちであり、しかし、その弧帯文とは、北部九州が大いに愛用した貝輪の渦巻きの意匠でできていたのである。


渦巻きを、安易に古い考え方で「水流」のデザイン化などと、あさはかに決め付ける学者は信用しない。水流の渦巻きが、さらに、ではなぜ渦巻きなのか?まで遡ろうとはしない連中では学問追求したとは言えない。渦巻きが単に形状の意匠化だけではない、観念的死生観を表しているところまで言及しない、考え及ばない学者など、Kawakatuは相手にしないのである。













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