前略
●反り子集落の分布図
岡本雅享『民族の創出』P216
岡本雅享『民族の創出』P216
「北部九州には二〇世紀に入っても、木造の小舟で玄界灘を渡っていた人たちがいる。筑前大島の漁師、中村幸三郎(1982年11月当時83歳)は大正の初め(15歳頃)、長さ二〇尺(約六メートル)で五尺肩(幅1.5メートル)、本帆と弥帆*の二本を備えた小舟で、長兄と二人、東風を待って日の出前に筑前大島を出て、本帆と弥帆を使い、無風だと櫓を漕いで、対馬経由で朝鮮半島を目指し、夕方六時にはプサンに着いていた*という。」(岡本 同書p215)
「それに対し、出雲の美保関から海路約250キロメートルの距離にあるのが越前岬だ。越前海岸には「反り子」と呼ばれてきた集落がいくつかある。慶長11年(1815年)11月の城ヶ谷相木宗文書は、反り子は慶長九年の春、出雲国から新保浦へ流れ着き、城ヶ谷に住み着いたと記す。また文化十二(1815)年の『越前国名蹟考』には「当初乗り来りし舟のそりたる故にそり子とは呼ぶなり」(鮎川浦「反り子」の条)とある。」(岡本 同書同ページ)
●島根の反子舟(そりこぶね)
「大正時代の中海の風景。写真の舟は、へさきの板が極端に反っていたことから「そりこ舟」と呼ばれ、漁に使われた」
画像と文章 島根県http://www.pref.shimane.lg.jp/admin/seisaku/koho/100nen/01.html
