岡山県吉備の造山古墳群千足古墳仕切り石の直弧文と肥後型石室
肥後北部に多い肥後型石室と直弧文
九州式の石室で5~6世紀最も隆盛するのが石床・石障という独特のスタイルと、直弧文(ちょっこもん)である。
石床とは大和のような石槨に棺を置く方式ではなく、遺体を直接置くための床である。考えれば密閉型の石棺が発明される前の、開放的・家族的な石室だと言える。九州では石床に大小のしきりがあって小部屋になっており、つまり家族を後から追葬できる自由な造り。
その床と石室をくぎる衝立が石障・仕切り石である。四方に立てた壁石の中で、前部の仕切り石はやや低く作られ、真ん中が船の甲板横の壁のようにえぐれてさらに低くしてあることが多いので、お参りにやってきた家族は死者を見ることができる。ずっとあとになって見に行けば、つまり被葬者の肉体が死後どう変化していくかがまるわかりになることになる。
柳沢説ではこれは逆にして、広帯二山式冠の蝶形金具の形だと自説を言うが、広帯二山式冠は継体大王の下賜した威信財であるという説があってふさわしくなかろう。筆者はあえて逆さにし、仕切り石の形象だと考えたい。下にある継体大王の包囲網分布図を参照。
この方式で前障に直弧文がある、あるいは石棺に直弧文がある墓の石室には、壁画は同居しないので、いわゆる装飾壁画を持つ氏族とは別の出自を持つ人々の墓であると考えられるが、なぜか双方は近いところに同居して造営されている。その地域で比較して、大きい墓にだいたい直弧文が貼られており、小さいものに壁画があることが多いので、両者は上下関係でつながった「氏族」集団であったと考えられる。
このように、九州有明海沿岸部の墓とまったく同じ様式の墓が、海で離れた吉備地方にも存在(千足古墳など)し、そこが吉備王家の大型古墳であろう造山古墳がある地域であるということ、そしてその造山の中から阿蘇凝灰岩製の石の破片(灰色とピンク)が出ていることから、九州と吉備の深い関係が見えることになる。
筆者が考えるのは、まず吉備王同族の隆盛が3世紀前にあり、それが纏向へと移住した痕跡があること。それが盾築遺跡で出る吉備型円筒埴輪=特殊器台と特殊壷であり、弧帯文~纏向の弧文への変化に見て取れることであるが、吉備隆盛時代には彼らが肥後・八女地域ですでに国造のような存在になっていた可能性が高いということである。
大和では3世紀以降移住しただろう吉備氏一族が、葛城氏とともに河内の王家によって弾圧を受けていくのが5世紀あたりで、この頃には半島で葛城氏らが管理していた伽耶(任那日本府)が葛城ソツヒコの奮闘むなしく新羅によって滅びたと『日本書紀』が言っており、考古学とよく符合する流れになっている。
その葛城氏の古墳からも直弧文が描かれた靫埴輪が出ている。
こうして考えれば、直弧文が敗者に貼られたレッテルだろうとうすうす感じてくるのである。吉備、葛城、そして肥後・筑紫の順である。
直弧文と肥後石石棺の分布図
どうしても筑後・肥後と吉備には氏族的えにしが見えるのである。
6世紀、継体大王がそれまでの河内王家の後を引き継ぐ格好で大和に招請されて、筑紫君の反乱と書かれた動乱が突如九州の筑後地域で起きたらしい。うまくできすぎた流れになっている。ところがその継体の墓であろうとされる摂津の今城塚古墳からも、なんと阿蘇ピンク石の破片が出てきた。摂津はもともと紫金山古墳から直弧文のある鹿のあご骨が出ていて、では継体とは本当に北陸や近江から来た人なのか、筑紫にゆえんのある人なのではないのか?という大逆転の発想が、筑後の人々から出てくるのである。
時代は何百年も離れているが、顔のある石製品が筑後と吉備から出ている。
筑後のは筑紫君磐井の墓であろうという岩戸山古墳から出た武装石人の顔面部分だと思われる。吉備の弧帯文石の顔は、まわりをすべて弧帯文という×のない渦巻きで張り巡らされている。この渦巻きは再生と永遠を現す模様で、吉備王家の存続の願いがこめられていると思われるが、ここに×を書き加えれば、その再生願望の遮断となるのではないかというのが筆者の持論だ。
磐井の祖父あたりの年代の墓である広川町の石人山石室に、形式は家型で大和的なのに、屋根に直弧文が張り巡らされた石棺がある。磐井は豊、火を巻き込んで乱を起こしたというが、豊とは長湯横穴墓や臼杵市の石人のある地域であろうし、火とは肥後のことである。
あまりにもできすぎた感のある『日本書紀』の書き方で、どうもあとからの創作くさいのである。
継体や磐井が本当に存在して争ったのだろうか?
そもそも新羅を攻めるために大和側は筑紫に軍を送ったが、なぜ磐井の乱は半島に直接対面する筑前ではなく、筑後で起きたのだろう?それに対して学説は、磐井の本拠地が筑後だったからだとするが、筑紫国造というものは往古から伊都国のある糸島地域にいるものであり、筑後は東シナ海に向いて中華への玄関である。矛盾する。
こういう方向の矛盾は、神功皇后伝説でも出てくるし、天孫降臨でも出てくる。半島に向いているといいながら、その場所が太平洋側だったり、新羅征伐にいくのに、なぜか筑後川という有明海に注ぐ大河の上流である朝倉だったりと、奇妙な場所指定がなされているのである。
そもそも筑紫君のことを『日本書紀』は国造と書いている。これはひとりの単なる君である地方豪族磐井を、なにか筑紫全体の支配者・王であるかのごとく思わせるトリックではないか?それによって大和が完全に既存の筑紫王家を掌握したんだぞと言いたて、書き立てているような気配がないか?そのために、どこの馬の骨かもわからない継体という豪族を、飛鳥の前の河内王家の最後に無理やり持ってきて、実はあいつは大和の王家とは本来血縁もない奴で、それが一番古い由緒ある筑紫を滅ぼしたのであって、われわれのしたことじゃない、と言い逃れしていると見えてしまうのである。
つまり継体は飛鳥最後の為政者となった藤原氏が勝手に創作した、本当は磐井そのものだったのではないのか?と。
継体の墓である今城塚と磐井の墓である岩戸山は、実は相似形のそっくりさん古墳で、しかも今城塚の鶏埴輪などと岩戸山の鶏型石製品はそっくりであり、ほとんど埴輪が出てこない九州の古墳では岩戸山周辺の八女古墳群だけから円筒埴輪が出る。また岩戸山の別区は今城塚にもあり、頂上に同じように裁判などの事跡が置かれていた。どちらかが実在し、どちらかが二人にされて、同時に滅ぼされた・・・!?
継体は死後、子どもが継ぐが、『百済本紀』はそれを「天皇と皇太子二人とともに死んだ」と書くのである。磐井の死のすぐあとの出来事なのである。そして登場したのが欽明と蘇我稲目である。ここからが飛鳥時代となるのだ。
できすぎだと思いませんか?諸君。
御所市葛城地区宮山古墳出土靫埴輪の直弧文
磐井・葛城襲津彦・吉備王
敗者には直弧文が貼られた?