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森浩一氏死去 同志社大名誉教授、独自古代像示す

森浩一氏死去 同志社大名誉教授、独自古代像示す

京都新聞 8月9日(金)23時29分配信
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森浩一氏死去 同志社大名誉教授、独自古代像示す
森浩一氏
 日本を代表する考古学者で、幅広い視野で日本文化の基層の解明にあたり、考古学や古代史の社会的関心を高めた同志社大名誉教授の森浩一(もり・こういち)氏が6日午後8時54分、急性心不全のため、京都市内の病院で死去した。85歳。大阪府出身。自宅は京都市東山区本町15丁目778の18。葬儀・告別式は近親者ですませた。喪主は妻淑子(としこ)さん。後日、お別れ会を開く予定。

 17歳で大阪・和泉黄金塚古墳を発掘調査。以後、同志社大在学中を含め数多くの調査に参加した。豊富な経験と深い学識に基づき、考古学や古代史の通説を再検討。考古学と文献史学を総合した「古代学」、出土遺物だけでなく遺跡全体のありようを重視する「遺跡学」を唱え、独自の日本古代像を提示した。

 弥生時代、コメの蓄積が社会階層の分化と権力者の発生を促したとする従来のコメ中心史観に対し、海沿いの多くの古墳や銅鐸(どうたく)鋳造など高度な技術の存在を根拠に交易や水上交通、生産技術を掌握した豪族の存在を主張。古代の権力や社会へ新しい見方を示した。

 邪馬台国論争では九州説に立ち、三角縁神獣鏡が中国・魏から倭の女王卑弥呼への贈り物とみる説を批判。国産説を打ち出した。遺跡保護に早くから取り組み「いたすけ古墳」保存運動(55年)は以後のモデルとなった。80年代以降は地域の歴史や文化を広い視野でとらえ直す「地域学」を提唱した。

 65~99年に同志社大で教員を務め、研究成果は広く市民にも伝えた。著書に「考古学と古代日本」「記紀の考古学」など。京都新聞では「現代のことば」「京都学事始め」などを連載した。
 
 
 
ご冥福をお祈り申し上げます。
残念です。
このブログを導いてくれた恩人であった。
 
合掌
 
 
 
 
 
 
 

森浩一作品一覧

 
 
 
著作
古墳の発掘(中公新書 (65))(中央公論社 1965.04)
古墳時代の考古学―シンポジウム(學生社 1970)
古墳―石と土の造形(カラーブックス212) (保育社 1970.12/DX版1973)
黄金塚古墳 (美術文化シリーズ) (中央公論美術出版 1971)
井辺八幡山古墳 (和歌山市教育委員会 1972)
古墳文化小考(三省堂新書 1974/社会思想社1979/08)
古墳と古代文化99の謎 (サンポウ・ブックス)(産報 1976)
考古学入門 (カラーブックス)(保育社 1976)
古代史の宝庫 (朝日新聞社 1977/12)
考古学の摸索 (学生社 1978/03)
古代史津々浦々(小学館ライブラリー)(1993年02月、小学館)
1997年05月小学館ライブラリーから再刊
考古学からみた古代の韓国と日本(共著)(1993年03月、學生社)
南海の王国琉球の世紀―東アジアの中の琉球(共著)(1993年04月、角川書店)
考古学―その見方と解釈〈上〉(1991年06月)、〈下〉(1993年04月、筑摩書房)
日本神話の考古学(1993年07月、朝日新聞社) 1999年2月朝日文庫から再刊
森浩一の語る日本の古代 (1)(1994年02月、大巧社)
考古紀行騎馬民族の道はるか―高句麗古墳がいま語るもの(1994年03月、日本放送出版協会)
考古学と古代日本(1994年03月、中央公論新社)
平安京の不思議―古都に眠る歴史の謎を訪ねて(1994年03月、PHP研究所)
稲と鉄 さまざまな王権の基盤 (共著)(日本民俗文化大系)(1994年11月、小学館)
古代史の窓(1995年09月、新潮社) 1998年8月(新潮文庫)から再刊
食の体験文化史 (1995年09月、中央公論新社) 1999年10月中公文庫から再刊
天皇陵古墳(1996年01月、大巧社)
食の体験文化史〈2〉(1997年04月、中央公論新社)
2000年9月に、中公文庫から再刊、(続・食の体験文化史に改題)
邪馬台国と吉野ケ里(共著)(1997年07月、學生社)
考古学へのまなざし―地中から甦る本当の歴史(1998年06月、大巧社)
僕は考古学に鍛えられた (1998年12月、筑摩書房)
食の体験文化史〈3〉(1999年01月、中央公論新社)
考古学入門(カラーブックス)(2000年、保育社)
空からみた古墳(共著)(2000年5月、学生社)
日本史への挑戦―「関東学」の創造をめざして(共著;網野善彦)(2000年8月、大巧社)
巨大古墳―治水王と天皇陵 (2000年8月、講談社学術文庫)
僕が歩いた古代史への道 (2000年10月、角川文庫)
記紀の考古学(2000年11月、朝日新聞社) 、2005年5月に朝日文庫から再刊
関東学をひらく―調査ノート1999‐2000(2001年03月、朝日新聞社)
語っておきたい古代史―倭人・クマソ・天皇をめぐって (2001年05月、新潮文庫)
地域学のすすめ―考古学からの提言 (岩波新書) (2002年7月、岩波書店)
僕と歩こう全国50遺跡 考古学の旅(2002年08月、小学館)
わが青春の考古学 (新潮文庫)(2002年09月、新潮社)
僕の古代史発掘 (角川選書)(2003年02月、角川書店)
魂の考古学―時のすぎゆくままに(2003年10月、五月書房)
山野河海の列島史(2004年2月、朝日新聞社)
海から知る考古学入門―古代人との対話(2004年12月、角川書店)
ぼくの考古古代学(2005年3月、日本放送出版協会)
「東海学」事始め―東海の歴史を歩く(2005年07月、學生社)
回想の食卓(2006年9月、大巧社)
京都の歴史を足元からさぐる 洛東の巻(2007年07月、学生社)
古代史おさらい帖―考古学・古代学課題ノート (2007年10月、筑摩書房)
京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻(2008年03月、学生社)
京都の歴史を足元からさぐる 北野・紫野・洛中の巻(2008年10月、学生社)
森浩一、食った記録 編集グループSURE
日本の深層文化  (2009年7月 ちくま新書)
倭人伝を読みなおす(2010年8月ちくま新書)
 
対談
対談古代文化の謎をめぐって(共著;上田正昭, 大林太良)(社会思想社 1977/01)
馬・船・常民(共著;網野善彦)(1992年05月、河合出版) 1999年10月講談社学術文庫 から再刊
対論 銅鐸(共著;石野博信)(1994年06月、學生社)
森浩一対談集 古代技術の復権 (小学館ライブラリー)(1994年07月、小学館)
古代史を解く『鍵』キーワード(共著;門脇禎二)(1995年10月、學生社)
この国のすがたを歴史に読む(共著;網野善彦)(2000年3月、大巧社)
京都学ことはじめ―森浩一12のお勉強(2004年10月,編集グループSURE)
対論 日本人の考古学(共著;佐原真)(2004年10月、學生社)
古代史への挑戦―「関東学」の創造をめざして (: 2008年12月 ちくま学芸文庫)
 
シンポジウム
古代日本金石文の謎 (エコール・ド・ロイヤル 古代日本を考える)(1991年11月、學生社)
大王陵と古代豪族の謎(エコール・ド・ロイヤル 古代日本を考える)(1992年10月、學生社)
日本像を問い直す―「海と列島文化」完結記念シンポジウム (1993年11月、小学館)
継体大王と尾張の目子媛―新王朝を支えた濃尾の豪族たち(1994年02月、小学館)
ヤマトタケル―尾張・美濃と英雄伝説 第2回春日井シンポジウム(1995年12月、大巧社)
壬申の乱―大海人皇子から天武天皇へ―第3回春日井シンポジウム(1996年11月、大巧社)
飛騨―よみがえる山国の歴史―飛騨国府シンポジウム(1997年08月、大巧社)
日本像を問い直す(小学館ライブラリー)(1997年09月、小学館)
瀬戸内の海人たち―'97しまなみシンポジウム(1997年11月、中国新聞社)
渡来人―尾張・美濃と渡来文化―第4回春日井シンポジウム(1997年12月、大巧社)
古墳時代の考古学 (シンポジウム 日本の考古学)(1998年03月、學生社)
縄文時代の孝古学 (シンポジウム 日本の孝古学)(1998年05月、學生社)
旧石器時代の考古学 (シンポジウム 日本の考古学)(1998年05月、學生社)
弥生時代の考古学 (シンポジウム 日本の考古学)(1998年09月、學生社)
古代史のなかの女性たち―第5回春日井シンポジウム(1998年11月、大巧社)
瀬戸内の海人たちII―'98しまなみシンポジウム(1998年12月、愛媛新聞)
継体大王と渡来人―枚方歴史フォーラム(1998年12月、大巧社)
旅の古代史―道・橋・関をめぐって 第6回春日井シンポジウム(1999年11月、大巧社)
継体王朝―日本古代史の謎に挑む 第7回春日井シンポジウム(2000年12月、五月書房)
東海学の創造をめざして―考古学と歴史学の諸問題 第8回春日井シンポジウム(2001年11月、五月書房)
東海学が歴史を変える―弥生から伊勢平氏まで 第9回春日井シンポジウム(2002年11月、五月書房)
検証・古代日本と百済―枚方歴史フォーラム(2003年4月、大巧社)
東海学と日本文化―地域学をめざして 第10回春日井シンポジウム(2003年11月、五月書房)
地域学から歴史を読む―第11回春日井シンポジウム(2004年12月、大巧社)
水とまつりの古代史―第12回春日井シンポジウム(2005年12月、大巧社)
伝説に歴史を読む―第13回春日井シンポジウム(2006年12月、大巧社)
歪められた古代史(井上清と共編)(毎日新聞社 1973)
終末期古墳―論集 (塙書房 1973)
馬 (日本古代文化の探究)(社会思想社 1974)
鉄 (日本古代文化の探究)(社会思想社 1974)
墓地 (日本古代文化の探究)[社会思想社 1975)
考古学ゼミナール(共編)(山川出版社 1976)
池 (日本古代文化の探究)(社会思想社 1978/2)
鏡 (日本古代文化の探究)(社会思想社 1978/9)
古代王権と玉の謎(1991年07月、新人物往来社)
古代通信(1992年06月、學生社)
海と列島文化(1)-(10)(総索引)(共編)(1990年07月-1993年02月、小学館)
日本の古代遺跡(1)―(52)(1982?-1996年、保育社)
日本の古代(1)―(15)(別巻) (共編)(中公文庫)(1995年01月-1997年02月、中央公論新社)
味噌・醤油・酒の来た道 (小学館ライブラリー)(1998年1月、小学館)
古代探求―森浩一70の疑問(1998年07月、中央公論新社)
地中に眠る古代の播磨(1999年12月、神戸新聞)
海人たちの世界―東海の海の役割 The14th Symposium of Kasugai (2008年5月、中日出版社)
 


 
 
「敗者の日本史」というものの存在を教えられたはじめての考古学者。
彼以前にそうした視点は古代歴史学には存在しなかった。
どの著作、どの文章を読んでも、すべてがヒントになり、新発見に結びついた。
正しい日本史の読み方を教えてくれた偉大な学者だった。
ご実家は、学生時代に住んでいた今熊野のすごそば、京都市月の輪。
平易で読みやすく、天啓に満ちた調査区の数々。
昨夜から奇しくも『日本の深層文化』を再読しようとしていたところだった。
 
 

オルドス式短剣鋳型の日本出土・騎馬民族は来たのか?安曇族か?

 

滋賀・高島で国内初の「双環」銅剣鋳型出土 上御殿遺跡

京都新聞 8月8日(木)23時49分配信
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滋賀・高島で国内初の「双環」銅剣鋳型出土 上御殿遺跡
出土した双環柄頭短剣の鋳型(高島市安曇川町三尾里・上御殿遺跡)
 滋賀県文化財保護協会は8日、高島市安曇川町三尾里の上御殿遺跡で、弥生時代中期から古墳時代前期(紀元前350~紀元後300年ごろ)に作られた、柄の頭部にリング状の装飾(環(わ))が二つ施された青銅製の短剣「双環柄頭(そうかんつかがしら)短剣」の石製の鋳型が出土したと発表した。中国北方で見られる春秋戦国時代(前770~前221年)の「オルドス式短剣」に類似する。国内で見つかったのは初めてで、朝鮮半島でも確認されていない。
 
 
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中国の影響示す銅剣鋳型出土…滋賀・上御殿遺跡

 
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出土した石製の鋳型。中央の銅剣は鋳型を参考に作った復元品(滋賀県高島市の上御殿遺跡で)=大西健次撮影
 滋賀県高島市の 上御殿 ( かみごてん ) 遺跡で、弥生時代中期(紀元前2世紀~後1世紀)頃の銅剣の鋳型が出土したと、県文化財保護協会が8日、発表した。
 銅剣を復元すると、中国北方で出土する春秋戦国時代(紀元前770年~同221年)の遊牧民族の短剣と似ており、日本では出土例のない珍しい意匠。中国大陸から直接影響を受けた可能性もあり、青銅器文化の伝来ルートについて、論議を呼びそうだ。
 同協会によると、鋳型は石製。遺跡内の傾斜地で2個1組(ともに長さ29・5センチ、幅8・8センチ)が互いに合わさった状態で出土した。
 鋳型に使用した痕跡はないが、製作できる銅剣の長さは28・5センチ、幅は1・8センチ。持ち手の 柄 ( つか ) の先端はハサミのように二つの輪(直径2・3センチ)をかたどった特徴的なデザインで、中国北部の内モンゴル自治区などにある遊牧民族の墓で出土する短剣と似ている。
2013年8月8日23時06分  読売新聞)
 
 
 
◆オルドス式剣とは
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【銅剣】より
…この剣は剣身と柄とを同鋳し,西方起源の触角式柄頭飾をもつものが多い。剣身に断面円形の脊,関に舌状突起をもつカラスク式銅剣と,剣身の断面が菱形のオルドス式銅剣とがある。カラスク式銅剣が古い型式であり,中国中心地域で銅剣が普及する契機を与えた可能性がある。…
 
 
 
 
◆オルドス青銅器文化とは
オルドス青銅器文化(-せいどうきぶんか)とは、紀元前6世紀から紀元前1世紀の頃、内モンゴル南部のオルドス地方など、陰山山脈万里の長城にはさまれた地域に栄えた文化。旧地域名綏遠(すいえん)から、綏遠青銅器文化とも呼ばれる。大量の青銅器を出土することで古くから知られる。近年になって墳墓の発掘調査も行われている。青銅器はスキタイ様式に強い影響を与えた、モンゴル高原西部から南シベリアに分布していた遊牧民からの影響が見られる。歴史上記録のある匈奴、特に西戎と関係がある。
 
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なぜ滋賀県で?
騎馬遊牧民だったオルドス青銅器時代の短剣と冠頭がよく似た遺物である。
奇しくも、森浩一氏が亡くなったとほぼ同じ時間に報道があった。
 
江波さんが生きていたらなんと言っただろう?
 
高島には過去、鴨稲荷山古墳を見にいった。
そのすぐそばになる。
高島と言えば安曇川。そして鴨氏であるが、この時代なら先行した安曇族の日本海交流でもたらされたかと思う。
 
 
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ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

安閑神社神代文字再考

 
 
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滋賀県高島市
安閑神社
神代文字石碑(現物)
 
高島市で8日に発掘されたオルドス式短剣の冠頭の二つの輪の形を考えるとき、参考にしたいのがこの奇妙な絵模様の石碑ではないだろうか?
 
中国風の雲竜文とわらび手文を思わせる絵柄。
 
たとえば東北蝦夷の蕨手刀(わらびてとう)や、古墳から出る刀の冠頭に、二つのワッカがグリップエンドの装飾に用いられる。そうした双円形の、まるで今のはさみのグリップのような形は、なぜつけられるのだろう?
 
もちろん冠頭(かんとう)というものの機能は、刀を持つときに手から刀がすっぽぬけないようにするためのつっかえである。
 
その形状や意匠はさまざまで、ハート型冠頭などがある。
 
高島鴨地域の銅剣のグリップエンドも二つの円形で剣の最後を飾っている。
 
それが安閑神社そばで出た石碑の絵柄にあるうずまきや蕨手模様と何か関係はないか、それも大事な視点なのかも知れない。
 
ここに安曇が先住し。日本列島の西の端っこにあたる近江で、縄文と交叉し、日本海を通じてオルドス文化や、さまざまの東アジア大陸の文化と舟でも交差したとするならば、琵琶湖にもまた独自の渡来文化があり、そこからやがては息長氏や三尾氏、継体大王という一族が出てくるというのは、彼らが実は安曇海人族だったかも知れないという疑問を導くのではないか?
 
 
 
 
もしやこれは文字なのではないか?そしてやがては読み解ける何かを書いているのではないか?
 
 
 
 
 
 

奇祭・姫島盆踊り猿丸太夫y踊り・キツネ踊り

 
 
 
 
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お盆の二日間にかけて
夜通し行われる
絶海の唯一の村・姫島
多くの踊りの中でキツネ踊りを見るために
訪れる人もいるけれど
一連の踊りの背後で村人によって延々と歌い継がれる音頭が
実は憑依を導く
 
 
歌えとせめかけられて
歌いかねたよこの座敷

座敷は祝いの座敷
鶴と亀とが舞遊ぶ

亀のじようは色は黒けれど
目元良ければ様殺す

殺しはこの町に二人
どれが姉やら妹やら

もろたら妹をくれた
妹みめがようで姉まさり

さそなら妹もさそが
同じ蛇の目唐傘を

唐傘柄もりがしても
お前一人はぬらしゃせぬ

一人か連れ衆はないか
連れ衆は後からかごで来る

来る来るござると言えど
切れたおかせで口ばかり

おかせは口にもあおが
私とおまえは今ばかり

今おおて又いつあおか
おおはうどんげ定めない

今おおて又いつあおか
九月九日のよどの晩

うどんげに定めのないは
船に櫓かいのないごとく

かしなれろかいをそえて
私はろもおしゃかいもねる
 
島風が吹き渡る
 
七不思議を見て回る
 
回るには自転車しかない島
 
タクシーすらない
 
アメノヒボコの妻・アカルヒメが祭られる
 
 
 
名産は車海老のみ
 
 
 
 
 
 
それでも人は集う
 
八月十四日
 
 
 
 
 
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ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

奇祭2・復活広隆寺牛祭り

奇祭3/奥三河花祭・新野雪祭り

 
 
 
 
 
 
 
 
伝統的祭には夏の祇園精霊会系統と冬の追儺祭系統があり、春秋に田植祭りや仲秋祭・豊穣収穫祭系統が執り行われる。
 
中でも死人の増加する夏冬はことに盛大に神への生贄をささげる必要があり、祭や祭事は念入りに、盛大に執り行われてきた。
 
そのすべては神を怒らせない=災害や天災や疫病を「かぶす」意味がある。
生贄は神への食事、歌舞音曲は神の目を楽しませるためゆえに、デフォルメされたわかりやすいものが多い。
 
動画二つは花祭り系の追儺である。北陸から東海にかけて中部地方に集中する霜月祭の亜種である。
 
中部地方から東海、上信越は渡来人が多く来訪し、しかも畿内の影響をあまり受けない、古来の祭り方が多く残存する。ささら、こきりこなどの渡来系楽器を使うところは双方に共通する。
 
動画を見たら、関連動画も見ておくほうがいいだろう。
思わぬ拾い物に出会うことがある。
 
 

奇祭4/マユンガナシ

 
琉球の来訪神=精霊の祭はほとんどが今もって秘密裏に行われるのでまず動画どころか画像も少ない。
マユンガナシだけは動画があった。
 
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われわれ「倭種」民族が島人文化をひきつぐものであることがこの祭からわかる。
こうした祭の類似は遠く東北の青森や岩手にまで同じものを残しており、中世の伝承では蘇民将来という中央でも人口に膾炙した言い伝えも残った。
 
半島南部の渡来した人々も、その多くはそもそも海岸島嶼にいた倭種である。つまり島人=海人族として同属であるからこそ、彼らは最初から日本海を行き来して交易していた人々なのだ。
 
史学は昔からこうした平民視線での古い交易に思いを致さなかったと言える。渡来考察のほとんどを文献に残る王族や貴族たち名前の残るものだけを中心に、国と国単位の歴史だけを価値あるものと考えてきた。
 
ところが、為政者の歴史は時代が変わり、王権が動くと立ち消えてしまうのに対し、平民の中では根強くいまに残そうとして続けられた祭や風習や言葉が多い。それこそヒントの山を、権威的大和史学は省みようとしなかった。初めてこの視線に気づいたのは柳田や折口など民俗学者や人類学者だったのである。
 
この書庫にそういうさまざまの来訪する神々の祭の一覧がある。おそらくもっとあるだろう。
この儀式は民間における追儺行事の古い様式になるのだろう。
 
 
 
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奇祭5/神を喜ばせるお田植祭/会津高田伊佐須美神社・阿蘇神社御田祭

お田植祭の多くはおそらくもとは生贄祭事を内在させていたはずだ。
 
神を喜ばせるノウハウはほかにもある。
うまい食事としての生贄、滑稽・エッチな舞、卑猥な万歳、早乙女のあらわな足を見せ付けるなどなどである。
実にさまざまのやりかたを平民たちはおおまじめに考え出した。涙ぐましい努力である。
 
それほど「神は人を喰った」のである。
 
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うらわかい生娘が白い足を露にし、神を期待させる。
なんの期待だったか?
当然、神事のあと彼女たちを「食う」期待感だ。
 
往古、早乙女は生贄だったのである。
 
 
 
 
 
それは阿蘇御田祭の「うなり」も同じである。
頭の上に神饌を乗せ、灼熱の田園を歩いてニエを運び入れたあと、彼女たちも懐剣で自ら、隠れた間にある神の前で首をかききり自害していたと記録も語っている。
 
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現代も災害で人々は食われる。
夏の水害などもそうだし、大地震もそうである。
彼女たちは
そうした災厄を封じ込めるために神に喰われた
理不尽だった祭の人間によってえさとなっていったものなのである 
 
 神と村人をみだらな姿で喜ばせたあげくに死んでいった人身御供である
 
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道<Tao> 老子は超越している 

 
『老子』第一章~第五章
道(みち)の道とすべきは、常(つね)の道に非(あら)ず。名(な)の名とすべきは、常の名に非ず。名無きは天地(てんち)の始め、名有るは万物(ばんぶつ)の母。故(ゆえ)に常(つね)に無欲(むよく)にしてその妙を観、常に有欲にしてその徼を観る。この両者は同じきに出でて而(しか)も名を異(こと)にす。同じきをこれを玄(げん)と謂(い)い、玄のまた玄は、衆妙(しゅうみょう)の門なり。
 
天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ。みな善の善たるを知るも、これ不善(ふぜん)のみ。故(まこと)に有と無相(あい)生じ、難と易相成り、長と短相形(あらわ)れ、高と下相傾き、音と声相和し、前と後相随(したが)う。ここを以(も)って聖人は、無為の事に処(お)り、不言(ふげん)の教えを行なう。万物ここに作(おこ)るも而(しか)も辞(ことば)せず、生じるも而も有とせず、為すも而も恃(たの)まず、功成るも而も居(お)らず。夫(そ)れ唯(た)だ居らず、ここを以って去らず。
 
賢(けん)を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざらしむ。得難(えがた)きの貨を貴(たっと)ばざれば、民をして盗(とう)をなさざらしむ。欲(ほっ)する可(ところ)を見(しめ)さざれば、民の心をして乱(みだ)れざらしむ。ここをもって聖人の治は、その心を虚(むな)しくし、その腹を実(み)たし、その志を弱くし、その骨を強くす。常に民をして無知無欲ならしめ、夫(か)の知者をして敢(あ)えてなさざらしむ。無為をなせば、則(すなわ)ち治(おさ)まらざる無し。
道は冲(むな)しきも、これを用(もち)うれば或(ま)た盈(み)たず。淵(えん)として万物の宗(そう)に似たり。その鋭(えい)を挫(くじ)いて、その紛(ふん)を解(と)き、その光を和(やわら)げて、その塵(ちり)に同(おな)じくす。湛(たん)として存(そん)する或(あ)るに似たり。われ誰の子なるかを知らず。帝(てい)の先(せん)に象(に)たり。
 
天地は仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。聖人は仁ならず、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗となす。天と地の間は、其(そ)れ猶(な)お槖籥(たくやく)のごときか。虚(むな)しくして屈(つ)きず、動きていよいよ出ず。多言はしばしば窮(きゅう)す。中(ちゅう)を守るに如(し)かず。
 
超簡単明解意訳
宇宙、森羅万象のすべては自分で成る様にして出来上がった。その道理に従って生きなさい。さすれば為政者として大成する。
これを道TAOを言い、成るようになるためには無のように低い姿勢で民衆目線でありなさい。
天然自然の摂理に慈悲や仁徳などありゃあせん。合理的で無駄がなく、ぶれもない。すべては計算どおりにできている。人をすべるものはすべからくそうなりなさい。じねんと物事を成るように、反発やこざかしい反論に耳をかしなさんな。
大自然のおっちゃんの言うとおりにしておればちゃんと世界は平和になるのや。
みながこれは美しい、これは正しい、善行だと言っているものはみな悪なんじゃ。そんなものは所詮は人間世界の価値観に過ぎず、宇宙の理念からはほど遠いんじゃ。慈悲とか慈愛とか環境保全とか動物愛なんぞは、すべからく人間の作り出した表面的価値観でしかなく、そんなものなどは自然のじねんと成す偉大な行為の前では、一瞬にしてコッパ微塵にくだかれちゃうじゃないの。時間の無駄である。
なすべきことは、おまえひとりの力と時間では決して大成できないのだから、宇宙的時間枠でものごとに当たることじゃよ。
 
 
 
みたいな?
 
 
 
 
『老子』は「道」と「徳」の二つを説いている。
道とは宇宙の理念、道理、徳とは王者、為政者の姿勢である。
だから「道」と「徳」=道徳と思うのは誤解である。
書き様は超越した人間に特有の極端な表現が多いので、ほとんどの人が誤解している。
難解ではなく、越えているのである。
ついていくのは大変難しい。
まず自分が平民であることを忘れて、為政者・経営者の立場に立つこと、そして宇宙の道理によってすべてが動かされており、それには逆らえないこと、だからこそ自然体で無になれ、と言っているようないないような。
 
少しづつ読んでいこうと思うが、最後まで理解できないだろう。筆者ごときでは。
私では知能指数が足らないと痛切に感じる。
しかしそれもまた忘れて前に進むしかない。時間は前にしか進まない。それも自然の摂理である。
 
 
 

 

無為自然/孔子問礼

 
 
 
 
「「孔子」が礼について「老子」に教えを乞うたことがありました。
老子は戒めて

「古代の賢人は空言のみ残って、骨は朽ちている。
君子など時流に乗れなければ、あちこち転々とするだけだ。
そなたの驕気と多欲、もったいぶった様子とかたよった思考を取り去りなさい」
と教えたといいます。
 
孔子がもったいぶった態度をとって、
ある種傲慢だったことは、いろいろな文献に見られますが、
面と向かって、その態度を批判したところが、「老子」の凄さですね。
 
孔子はその感想を
「鳥や獣や魚など、様々な動物はそれぞれ捕らえる方法がある。
しかし竜だけは、風雲に乗じて天に昇ってしまうため、捕らえようがない。
老子もまた竜のような人物だといえようか。」と弟子に語ったとされます。
孔子も老子のことを尊敬していたことが伺えますね。」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1323300178
 
 
 
この逸話を「孔子問礼」と言う。
 
 
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諸星大二郎『孔子暗黒伝 Ⅰ赤気篇』より
 
 
 

「「孔子問礼」
この伝説は奇妙なものであるが儒教側からは老子が孔子に教えたことが奇妙なことで、老子を孔子の上におくために道家がつくった物語であるとされてきた。しかし、道家にとっても話しの筋が通らないことで、老子が「道」でなく「礼」を教えたことは奇妙なことである。老子三十八章でも礼は末のこととされてるからである。道や仁義を教えたと言うのであれば私も道家の作り話であるとすることに不信は抱かなかったろう。道家にとっては関心がない礼とはどんな概念なのか? 
 
まずは日常の立ちふるまいの礼儀作法であろう、それから冠婚葬祭の儀礼であろう、さらに国の王朝儀礼でもある。ここまではわたしも予想したことであったが。しかし、それに止まらず政治制度・法律制度を含み、周と諸侯の国家・宗族関係をも規制するものらしい。それが本当なら周王朝文明そのものであることになる。そうであるなら、『孔子家語』に孔子が礼を習い終えて「周より魯に帰りて、道いよいよ尊し。遠方より弟子の進むこと、蓋し三千。」(『史記』の孔子世家にも異文あり)と誌されていることは周で老子に学ぶことで孔子は学問の大本を完成したのであり、儒家にとって重大な意義ある出来事であったのである。
 
さて、『論語』の子張編では次のように記す「衛の公孫朝が子貢に問うて云う、孔子はだれのところで学ばれたのでしょうか。子貢云う、文武の道(周王朝の文明)はまだ完全に衰退したのではなく、人々が伝えています。賢者は多くを知っており、賢人でなくとも少しは知っています。ですから、周の道はどこでも残っているものなのです。どこそこで学ぶ必要はありません、決まった師につく必要もないのです」。
 
ところが、『呂氏春秋』の「当染」では正しい教えを受けることが大切であると説かれる話の中で次のようにある。
「孔子は老タン・孟蘇・キセイシュクに学ぶ。さて、魯国の惠公は臣下の宰譲に、郊廟の礼について周国の桓王に教わるよう請わせた。そこで、桓王は請いに答えて史角を魯国に派遺した。魯国の惠公は史角を魯に永住させたので、その子孫が残っていて墨子が礼を学ぶことができた。」」
 
 
 
 
老タンというのが老子の名である。
「老子は、姓は「李」、名は「耳」,字は「耼」(または「伯陽」)。楚の国の苦県(現在の河南省鹿邑県)、郷の曲仁という場所の出身で、周国の守藏室之史(書庫の記録官)を勤めていた。孔子(紀元前551年 - 紀元前479年)が礼の教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。
 
「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる[15][16][17][18]。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や孟子のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える。
 
出身地についても疑問が提示されており、『荘子』天運篇で孔子は沛の地(江蘇省西北)に老子を訪ねている。また「苦い」県、「(癩=らい病)」の里と、意味的に不祥の字を当てて老子の反俗性を強調したとも言われる。曲仁についても、一説には「仁(儒教の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と唐代の道家が書き換えたもので、元々は楚の半属国であった陳の相というところが出身と書かれていたとも言う。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%AD%90
 
 
 
 


 
 
 
老子を敗北者の思想と言うものがいる。
彼が人生で科挙に失敗したためであろうか。
先に書いたように、宇宙の理念こそが道である、というような天文学者的な「哲学観」こそは、まさに中央官僚として出世できずに、厭世し放浪したおかげであり、これを敗者のものの考えとするのはお門違いである。むしろ、わが国がそうであったように、また漂泊者たちもそうであったように、敗者こそが哲学・真理を勝ち取る旅をしたということなのである。
それはあたかも海を回遊し、川を遡上して戻ってくるサクラマスのごとき、陸封されたヤマメの数倍のスケールの思想家になったということなのである。
 
いずれにせよ、老子はある種の伝説上の作られた教祖的色合いが強い。
例えば親鸞の教えから浄土真宗教団を創始していった弟子たちがいたようなことであるか。
イエスの教えを広めていきキリスト教を立ち上げていった使徒たちもそうだったか。
老子の場合荘子がいた。
二人は「無為自然」思想で共通する。

1 道理は無為自然とできあがる。
2 敗北と放浪が宇宙観を生み出す。
3 子供には孔子をまず教え、長じて老子が読める余裕ある心を持たせるがよい。

要するに、鉄は熱いうちに厳しく鍛えるがよいが、かといって会津のように、あまりに教え込みすぎると、いい大人になっても論語一辺倒の「石部金吉(いしべきんきち=かたぶつの代表)」になり、子供のようにかたくなに順列位階順位にこだわり大きく道をあやまる。そこそこに教えなさい。となろうか。
 
何事も行き過ぎればダメなのである。
世の中に、これは絶対間違いないなどという思想は存在しない。
右も左も一長一短はある。
間違いがないものなど人類は作り出すことができないのだ。
そういうものは天然自然の中にしか存在しない唯一の摂理なのだ。
ゆえに無為自然こそは真理だと老タンは言っているのである。
 
 
なんだ、筆者と同じこと言ってるじゃないの。
 
 
 
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造化三神


造化三神
『古事記』では、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神であるとしている。その後高御産巣日神、神産巣日神が現れ、すぐに姿を隠したとしている。この三柱の神を造化三神といい、性別のない「独神」(ひとりがみ)という。
性別がなく姿が見えないとは、つまり観念的な存在ということである。

天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)などは特に宇宙の道理そのものの存在と見られる。
こうした宇宙が地球を作り出したという考え方は科学なのであり、古代では道家の思想になるわけで、それを『古事記』が知っていたということは、当然、記紀成立の頃の8世紀での考え方なのである。
 
ということはつきつめれば記紀の書いてい神々のイメージは、大きく道教の影響下にあるもので、古くからの民間が言い伝えてきた神観念とは分けられるべき存在ということになろうか。
 
ところが、その縄文由来の祖霊信仰やミシャグジー信仰、石神等々の観念もまた、道教以前の長江周辺~東北部沿岸に行き渡っていた自然信仰に類似している。東アジア沿岸部は、こうした信仰や観念でもつながっていて、弥生時代・古墳時代の神仙思想も同じ根っこを持っている。これ
らはつまり倭種のいたところ、倭種たちが共通して持っていた同根思想なのではあるまいか。
 
 
 
 
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ビジュアル古代史1 滇(てん)王国 日本人DNAもうひとつのルーツ

 
 
 
このブログも九年目になる。
そろそろ言葉を連ねるよりビジュアルでわかりやすく、書くほうも視力も落ちているし。
 
知られざる文明、滇(てん)王国 .
http://youtu.be/rtNaycM308U
 
 
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過去記事
 
 
ジャポニカ水田稲作・甕棺・横穴墓・四散した長江DNAのルーツである。
日本の縄文時代末期に長江文明を持ち込み、やがて消えたDNAとなっていった「文明のルーツ」。
「血液のルーツ」であるバイカル湖とともに、日本のルーツ。
 
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倭人卑弥呼がもらったと同じ蛇のチュウの滇王金印(最上段画像も)
 
 
 
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ポイント復習・金印陰刻

 
これまで書いてきたことの復習である。
思いつくままにいくつかをまとめておきたい。
肉体が衰弱する前に。^m^;
 
 
古代中国の印鑑は陰刻である。
金印・王璽などすべて陰刻になっている。
現在の判子のほとんどは陽刻になっている。
陰刻とは文字そのものを彫ってあるもの。
陽刻は文字の周囲を彫って文字が浮き出ているものである。
古代の印鑑はつまり、判子のように朱肉を使って紙に押す道具ではなかった。
封泥のような泥に押して、そこの印を残すための道具だったのである。
要するに西洋の蜜蝋と同じである。
 
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過去記事・封泥
 
 
つまり「親魏倭王」の封泥の断片が出てくれば、そこが邪馬台国と関係した国であることがわかる。
 
封泥は荷物につけられ、それが運ばれた先で開封されるからである。
 
だから封泥が出てきたからといって、そこは邪馬台国にはならないのである。
 
わかりますか?
 
 

復習2/米・舟型木棺・禾偏

 
米の文字は「コメ」よりも古くは「ヨネ」。
コメとは「小芽」。クメールとは無関係。
 
長江上流域の舟形木棺と日本の舟形木棺は同根。
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禾偏は最初はアワのこと。
「禾」は今は「コメ」を示すと多くの学者は当たり前のように書くけれど、漢字は中国北部で始まったのであるからそもそもかの地で穀物の代表は米ではなく、雑穀だった。だから当初「禾」はアワを指していた(森浩一)
 
 
 
米マークなのか?日中で一致する図案。
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日本でのこの模様は、いずれも九州北西部の佐賀で出ている。ピンポイントである。これが紀元前4世紀(弥生中期後半)の出土品である。一方中国四川省長江奥地の舟形木棺のものは紀元前5世紀で、タイムラグはわずか100年しかない。だから「そこからここへそれが来た」ことがこれほどはっきり言える意匠はほかにはない。
つまり、佐賀に稲作を持ち込んだ人は、中国長江奥地から「直接」やってきた、と言っても間違いではない。
 
ではこの十字型の先のデザインは、当然、稲穂。そうでないなら祖霊を運ぶ鳥の足。
どっちにしても、穀霊=稲魂=祖霊=鳥であったことになる。
 
 
もうしてそこと同様の葬礼様式や稲作やそれから生まれる祖霊信仰=鬼道のルーツがわかる。つまり卑弥呼もここから来たのだ。長江河口まで押し出され、大海を「東へ」一直線で、百年掛けて佐賀まで来たのである。
そのあと彼女がどこへ行ったか?大和でしょう!
 
 
わかりましたか。
 
 

戦犯を祭るのは「祟り封じ」である

 
日本の、大半の神とは祟り神である。
敗北者の霊魂こそが地祇である。
それを祟らぬように社に封じ込めることを「鎮魂」と言う。
しかるに、靖国の後戸に納められている戦犯の霊魂もまた祟り神だ。
それが「二度と出てこぬように祀る」ことは、そもそも祭りの本義であり、その思想の大元は1万年以上も前から、この国にありつづけた考えかであって、正統である。
 
悪鬼である戦犯を祟らぬように鎮撫し、再び地上に出現せぬように靖国は封じ込めてある。
それがいったいなんの不都合が海外にあるのか、さっぱりわからない。
 
これを「神霊の監視」と言うのである。
 

酒豪遺伝子分布と渡来文化

 
◆渡来遺伝子分布地参考資料1
「酒豪遺伝子」アセトアルデヒド分解酵素遺伝子の分布
 
アセトアルデヒド分解酵素活性型遺伝子を両親から受け継いだ人(酒豪遺伝子)の割合が多い県民順位
1 秋田     11 山形    20 山梨    31 佐賀    41 広島
2 岩手     12 青森    22 山口    32 長崎    42 大分
3 鹿児島  12 宮城    23 愛媛    33 徳島    43 和歌山
4 福岡     14 千葉    23 島根     34 京都   44 岐阜
5 栃木     15 新潟    23 鳥取     35 滋賀   45 石川
6 埼玉     16 神奈川  23 長野    36 群馬   46 愛知
7 北海道  17 香川    23 福井     36 富山   47 三重
7 沖縄     18 宮崎    28 福島     38 岡山     
9 熊本     19 東京    28 兵庫     39 奈良     
10 高知   20 茨城    30 静岡     40 大阪     
(くれぐれも、呑める遺伝子が多いからと言って酒が好きなヒトということではありません。
呑めることと飲兵衛とは別問題ですので。のめるけど酒が好きでないヒトともおります。) 
 
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関東が意外に強いと感じるだろうか?東国武士の子孫は酒に強い?いや、東日本・・・関東や東北や北海道はそもそも地方出身者でできあがった地域でなんともいえない。奈良時代以後、大量の九州・瀬戸内の西日本人移民による開拓地だったからである。大半はその血を引いていて在地蝦夷などと温血したのが現代人東日本人の先祖である。そして半島由来の渡来人も大量に入っているのが関東・甲信越・北陸である。
 
東北と九州はイメージどおりだろうか。
中部地方・近畿地方・瀬戸内地方は酒に弱いようである。
少なくとも現代の分布図であるから、一概にそれが古代からの移住者の影響であるかどうかは言えない。
ただ、そうした「県民性」は確かに往古から続いてきたものであろう。
 
遺伝子DNA分析で著名な篠田謙一『日本人になった先祖たち』によれば、酒に弱い遺伝子の多い発信源は中国南部(江南・長江流域以南)の遺伝子だという。ということはアセトアルデヒド分解遺伝子の少ない地域=酒に弱い地域には、江南系渡来民が多く来たと考えることも可能である。
 
 
 

 
 
 
渡来人と一言で言っても、何種類もの来歴があるだろう。
『日本書紀』もににぎ命にこう言わせている「天孫には何種理もあるのだ」
 
縄文時代~弥生時代に長江からやってきた江南文化人でも、
1半島北部経由
2半島南岸経由
3ダイレクト
の三種類は考え付く。
 
江南遺伝子の最も最初に、最も影響を受けたはずなのは、日本最古の水耕稲作伝播地である佐賀県のある西九州であろう。地図を見るとなるほど、長崎・佐賀・天草・五島など西九州人はアセトアルデヒト分解率の低い地域である。ところが一般に最も渡来文化が最初で最高に花開いた土地であると思われている福岡県は酒に強い県である。酒に弱い江南由来の遺伝子は福岡を飛び越えて中国・瀬戸内地方に広がり、これが近畿・中部にまで拡大している。
 
長崎・佐賀の遺伝子は福岡には住みつかずに西日本へ移動した^^;?
まあ、早計には言えることではないが。
 
東シナ海に面した九州西部とは違って、日本海沿岸は半島に直接対面した地域で、中国東北部にも対面するので、九州とは違った渡来が起こりうる地域である。それが山間部を抜けて内陸部や太平洋側へ移住し、関東地方に多くのコロニーを作った。群馬や埼玉がそうである。
 
中部地方と滋賀・東海へは北陸富山や福井から渡来が入った。
 
つまり日本列島の渡来は、各地の単独渡来によって民族にも文化にも地域特性があったことになる。
これまで西から東への移住による渡来文化の広がりが中心にされてきたが、こうした日本海由来の北から南の渡来も重要なところである。もちろんその後、歴史的な政治上の移民も起きていることも重要である。
 
一言で言って、中央から見ると東日本は「移民と単独渡来によった開拓地」である。つまりまだまとまらない場所だった。しかも蝦夷も残存している。東国が東国としてひとつにまとまるまでには、まだまだ程遠い時間が必要だっただろう。それは将門以降を待たねばならなかったのだ。
 
 
日本列島の渡来文化の中心地は
1 近畿
2 北関東
3 東海
4 九州・日本海
である。
最前線である九州や日本海沿岸がなぜ下位になるかというと、言うまでもなく大陸に近いから、ピストンのように渡来が重なってどんどん移動していくからである。出雲大社にいつもは神がいないとはこのような意味もあるだろう。
 
そして最も多種の渡来が入れ混じったところこそが古代の大都会になる。つまり最初博多湾、次に畿内、最後に東京である。この三ヶ所以外に過去倭国・日本国の中心地がありえた場所はないというしかない。
 
 
 
                    いつも言うことだが文化と言語は別々にやってくる。
 
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京都七野(しちの)と「うずまさ」「おおさけ」本義

 
「古くから京の北部(現在の北区)に広がる7カ所の野をいった。内野、北野、平野、点野、紫野、蓮台野、上野の7カ所だが、うち現在も地名として残っているのは5カ所。もともと七野という地名はないが、七野の神を集め祭った総社として、紫野の近くに櫟谷七野神社がある。」
 
 
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京都市北部一帯をかつて七野(しちの)と呼んでいた。
ここはのちに豊臣秀吉が「新京都」として「京都」を拡大させた場所である。
言葉そのものは寛永二年(1625)に成立した京都地誌『京羽二重(きょうはぶたえ)』で使われた。
船岡山を中心に広がる広大な野である。
 
内野・・・平安京内裏荒廃後についた地名。『吾妻鏡』『増鏡』に掲載あり。
 
イチイ谷七野神社・・・七野の核だった土地であろう。平安時代嵯峨天皇のときにここには賀茂斎院(かもさいいん)があった。
 
北野・・・天満宮のある場所。往古は蜂岡。秦氏開拓地で、天満宮以前から聖地である。遣唐使派遣の際にここに天神地祇を祭った(『続日本後紀』)。ここに天神となった雷公を祭ったのは、おそらく蜂岡の蜂が=雷だったからではないかと思う。
 
紫野・点野・・・船岡山近辺を今も言う。紫野とは薬典の植物園があったためである。むらさきの花々に毒素や薬物が多く、むらさきは薬品の隠語である。
 
 
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船岡山と紫野
 
 
平野・蓮台寺野・・・いわゆる葛野である。嵯峨野もここに含まれる。
 
ちなみに葛野は「かづの」「かどの」で「かつ」の野。勝の野。勝とは秦氏の村主=リーダーの名前である。「まさ」とも「かつ」とも読まれ、「うずまさ」の「まさ」とはまさに村主がいたところという意味でもある。「太秦」は太い勝で、リーダーの中のリーダー、つまり秦氏の統率者の最上位である酒君一族を指す。河勝もまた「河のすぐり」という名前になり、保津川開拓者であることになる。
 
桂の地名も「かづの」と大いに関係している。「かつ・ら」である。
 
これら七野は愛宕山・船岡山などを擁し、越えれば丹後へ隣接した、かつての狩猟場でもあった。ここでの禁猟を命じたのは陽成天皇の元慶六年(882)のこと(『日本三代実録』)。
そのときの呼称は嵯峨野(葛野郡)。
 
このように「野」は建材森林と狩り場であり、天皇が歴代、王位に着くときには、ここに王者としての象徴となる狩りへ出かけていた。この風習は雄略天皇以来の王侯の統率のあかしとなり、鎌倉武士に伝えられた。頼朝も鎌倉で最初に狩りをしたし、あの天智天皇は山科へ狩猟に出ている。天武天皇はここ紫野薬典へ狩りと銘打って薬草狩りに出向き、あの額田王の「紫野行き、点野行き」が歌われた。桓武天皇も平安遷都最初の狩りは北野である(『『日本後紀』』)。
 
清少納言『枕草子』
「野」
「野は嵯峨野さらなり」
次にあげたのは播磨の印南野。
 
平安時代、京都の野の筆頭は嵯峨野であった。
 
嵯峨野・・・桂川さがんのの。左岸の野である。この中にできた街が嵯峨である。嵯峨天皇はここをこよなく愛したので諱になったと聞く。もとは葛野である。
嵯峨野には楓が多く、聖徳太子時代には楓野、楓岡などとある。カエデは秋に糖分をためて甘い樹液を出すため蜂が多く、そこで蜂岡とも言われた。北野に広隆寺前身とされる蜂岡(北野廃寺)があったとされる。
 
カエデはまた鉱物探査の指標でもあり、その下には銅鉱床があるとされていた。したがって嵯峨野・楓野・蜂岡は鉱物地名でもある。
 
今の渡月橋のあたりに行基が大井館を建てているのも、そうした関係ではなかろうか?往古の宗教者にとっては資金となる鉱物の探査は必須条件で、空海が高野山を開いたのも紀伊川の水銀やベンガラ、あるいは鉄や銅が目当てだったとも言われている。
 
葛野郡橋頭・・・「はしもと」と読ませる。天平十四年(742)に山背国葛野郡橋頭里戸主・秦調日佐堅万呂(はたの・つきのひおさ・かたまろ)を高橋虫麻呂が僧侶に推挙した記事が『寧楽遺文』にある。秦氏と高橋氏の関係がしのばれる。はしもととは渡月橋の橋の元であろう。ここを大堰川(おおいがわ)と呼ぶのは川堰(せき)があったためである。堰とは段になったダムであるが、これは秦河勝が作ったという伝説である。「調日佐」とは税調を集める長官という意味である。「佐」は「すけ」で中世では「すけ」は国司の次官であるので、天皇のために税調を助ける役職となる。嵯峨野の秦氏が山背北部の税調官だったということで、これは中央で大蔵だった秦氏の流れであろう。渡月橋の近くにあった館が大井であるなら、大井はこのあたりだったことになり、葛野大堰(かどのおおい)も今の渡月橋のあたりにあったこととなるだろう。
 
 
 
秦氏が、最初の入植地であった大和の葛城山麓から鴨氏らとともに山背の葛野に移住した理由は嵯峨野の銅ではあるまいか?今、奈良の蜂田もまた銅鉱床だった可能性が高い。談山神社の多武もそうであろう。
 
 
秦氏・漢氏以降の渡来が上級貴族になることは史上決してなかった。
そして彼らは野の開拓=「おおさけ=大裂」にあたることを条件に、中央の周辺にコロニーを作っていった。
これをまた「大避」と言うのであろう。天皇をはばかって近づかぬものどもの自称である。「はた」=傍=端である。
 
→上七軒
 
参考 森浩一 『日本の深層文化』2009
 
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印南野とため池と秦氏

 
 
 
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播磨平野印南野の麦秋
 
 
 
 
いなみの【印南野】 
「兵庫県南部,明石川,加古川,美囊(みのう)川に囲まれた三角形状の台地で,東西約20km,南北約15kmにわたって広がっている。〈いんなみの〉とも呼び,かつては伊奈美野,稲日野とも書いた。播磨町の大中遺跡ほか弥生時代,古墳時代の遺跡が多い。地形的には海成段丘面で,低位の大久保台地と岩岡,母里,加古の高位台地に区分されるが,台地のまわりを流れる河川と急崖で隔てられているため水利が悪く,近世初期まで開発は行われなかった」
http://kotobank.jp/word/%E5%8D%B0%E5%8D%97%E9%87%8E
 
 

「兵庫県南部の中央に位置する「印南野台地」は、瀬戸内式気候の影響を受け、降水量が少なく水に乏しい地域です。古くから水に悩まされ、さまざまな取り組みのなかで水を得るための技術が発達し、ため池やそれを結ぶ水路等が整備されてきました。東播磨地域で築造されたため池は、県下で最大規模を誇るため池を含めて1,000以上を数え、現在でも約600のため池が残されており、これらのため池群は血管のように張りめぐらされた水路網によって結ばれています。この地域のため池群や水路網は、農業水利施設としての機能に加え、人々との関わりのなかで、周囲の風景にとけ込み、地域独特の景観を形成してきました。人々は、長い歴史のなかでいなみ野の自然との共生を図り、天満大池の満水祈願信仰をはじめ、ため池にまつわる祭事や伝統行事をはぐくみ、まさに、東播磨地域ならではの固有の「ため池文化」を培ってきました。いまもなお、生活様式や生活習慣などさまざまな側面において、その足跡を色濃く残しています。」
http://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_siki/52_inami/
 
 
 
 
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ランドサットによる上空から見た印南野のため池群
http://www.maff.go.jp/kinki/seibi/midori/jigyou/kakogawa/photo/nature_l_02.html
 
 
 
 

条里制遺跡と五ヶ井堰
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東播地域における古墳と条理遺構の分布
(兵庫県教育委員会埋蔵文化財資料より作成)
 
「この地方の川沿いでは、古くから稲作が行われてたことが古墳や条里制の跡で知ることが出来ます。この遺構は大化改新以前、すでに条里制による土地の改良が進められていたことを示しています。
 聖徳太子によって造られたとされる日本最古(推古14年(607年)建造)の取水施設五ヶ井。これは加古川下流の中州を利用して堰から水を引いたもので、東岸一帯200haを潤したと伝えられています。このようなかんがいの技術が稲作生産を発展させ、その結果、富の蓄積による巨大な古墳文化がこの平野に築かれていきました。
 さらにこの堰は、室町時代に入ると5つの地域を潤したことから五ヶ井堰と呼ばれるようになり、その頃には700haもの水田を潤すまでに発展していました。そして加古川大堰が完成する1989年までのおよそ1400年もの間利用され続けていました。
 このように、川沿いの低地の地域では川から水を引くことが可能で古くから用水施設が造られましたが、一方、川より高い台地へ水を引くことは当時の技術では不可能だったため、まったく手つかずの状態が続いていました。

未開の印南野台地
 平安時代、この地方の様子を、清少納言は枕草子で次のように歌っています。「野は嵯峨野、さらなり。印南野。交野。狛野……」これは、美しい野原といえば第一に嵯峨野を挙げ、その次に印南野、交野、狛野……がつづくという意味の歌です。「野」とは、人の手が入っていない未開の地であると考えられ、水が乏しいため田畑にされることはなく、まったくといって良いほど放置された草原地帯であったことを物語っています。」
http://suido-ishizue.jp/kokuei/kinki/hyogo/touban/0102.html
 
 
 


 
 
 
条里制以前から存在してきた播磨印南、滝野社のため池群の多さは日本最大の密度。
これらを作った入植者はいわゆる京都葛野からやってきた秦氏の手下の渡来人たちであろうと考えられる。
筆者には滝野社の王子ヶ池や加古川水系はバスフィッシング紀行した思いで深い土地である。
播州平野から高砂、高砂から城之崎へ、何度往復したことだろうか。
 
秦氏を追いかけることになった、筆者の、京都や豊前につぐ原点、原風景である。
どこもよく似た匂いのする渡来人の故郷と言える。
 
また豊後の佐賀関沖の豊後水道速吸瀬戸(はやすなと)と播磨灘の速水瀬戸には共通の、海人族椎根津彦伝説が存在する。

加古川の「かこ」が水夫の古語であることからも、播磨と豊後には大和倭直・倭国造の出身地であった故地としての共通性がある。面白いことであるが、江戸時代の剣豪宮本武蔵が播磨の出身であり、ライバルだった佐々木小次郎は豊前田河の出身であったという。同根の二人が、その中間の巌流島で決戦するとは吉川英治もうまく話を作ったものである。
 
 

播州平野
稲穂をたおやかになびかせながら
秋風が吹き渡っていった

昭和64年、まだ30代の頃、高砂の会社宿泊所にて筆者が作った駄作である。
 
 
 
「印南野(いなみの)は、兵庫県(播磨)の加古川東岸の台地で都と大宰府を結ぶ官道沿いに位置し、万葉集時代からの歌枕。
柿本人麻呂の「印南野を行き過ぎがてに思へれば心恋しき加古の島見ゆ」、山部赤人の「印南野の浅茅押しなべさねる夜のけながくしあれば家し偲はゆ」等十数首がある。神亀3年(726年)には、聖武天皇の御幸。
清少納言は嵯峨野に次ぐ二番目の野として枕草子に記している。但し、実際に行ったとの記録はなく、おそらく風評、万葉集等で形成された彼女の心象風景なのだろう。もともと水利が悪く茅の原野であったが、大小のため池が造られ、江戸時代には、田が開かれた。

月の出や印南野に苗余るらし   永田耕衣
 
「印南野」は耕衣のこの作品で俳枕となったと言っても過言ではない。清少納言ではないが、一度訪ねてみたい魔性のある俳枕としたのも、耕衣の力量だろう。
田植えを終えた静けさとふるさとへの賛歌。少年時代(加古川)、勤労者時代(三菱製紙高砂工場)と、五十五歳で神戸に移るまでこの地ですごした耕衣にとって、「印南野」という母の胎内のいる安らかさが、この句を導いたのであろうか。不仲の両親の母寄りの耕衣には〈朝顔や百たび訪はば母死なむ〉等敬慕に満ち溢れた母の句が多い。文字通り耕衣の「原風景」であり、「印南野」が動かないのもうぶすなの土台があるからだ。
 印南野は花菜曇りの神代から  鈴鹿野風呂
旅吟的なこの句との違いは、明白である。この二句以外に目立った佳句がないことでも、耕衣の句の偉大さがわかる。同じ耕衣の「印南野に初見の鳶や秋の風」との落差も大きい。」
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/07/2.html
 
参考文献 故・森浩一先生 『日本の深層文化』
 
 
 野は、嵯峨野さらなり。

印南野。

交野(かたの)。

飛火野(とぶひの)。

しめ野。

春日野。
そうけ野こそ、すずろにおかしけれ・・・・
枕草子「野」
 
 
 
 
 
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高木神 『日本書紀』という政治寓話は史書ではない

 
『日本書紀』には出てこずに『古事記』にだけ高木神という神が出てくる。
別名は高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、『日本書紀』では高皇産霊神と書かれる。
 
『日本書紀』は高木神がタカミムスヒであるとは書いていない。
書いていないということは『古事記』は中国南部の民間神仙思想の神であった神(檀)樹=宇宙神の思想を取り込み、『日本書紀』はそれを拒否し、改めて道教の宇宙神を取り込もうとしたということになる。
記~紀への再編集の意味はこの政治性の違いにある。
 
道教の前身である神仙思想では世界を覆いつくす大樹=扶桑の木が高く聳え、その枝のひとつひとつにカラスがとまっており、それが太陽の使者であり、祖霊・生命を運ぶとされてきた。生命樹という発想は実は西欧にもある、世界共通のものである(中国の影響をキリスト教が受けた可能性もある)。
 
 
 
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三星堆遺跡出土神樹
 
 
道教は「道」とは宇宙の自然ながらに持っている道理=摂理がこれであるとしている。
 
大和朝廷ではこの道教を中心にものを考えるので、民間の神仙思想よりも老子の思想に近くなる。
 
 
高木とは鷹来、であると考えたのは中世修験道である。鳥の中でもからすより鷹を重視した。それで高木神思想の顕現は英彦山修験道の聖地である英彦山神宮の神であることになった。英彦山修験道の源流は大元の新羅神を祭る香春岳のある豊前田河郡が中心地となり、田河の地名も当初「鷹羽」であった。
 
鷹見神社というものが全国的に修験の聖地そばに置かれるのもこのためで、高須、高巣など、バリエーションが生まれていく。
 
さて、英彦山修験道には豊前秦氏の新羅神が大きく関わるわけだが、秦氏と同族であった多氏を自称する阿蘇神社にも高木神は、阿蘇12柱の神に付加して付け加えられた。阿蘇神社は鯰神をシンボルとしたが、鯰が雷神・・・地震かふせの神であり、社の中心にではなく置かれ、これもまた高木神であるとされるのである。
 
阿蘇12神は12ヶ月を現す十二支を神格化しており、それが神樹の枝の数なのである。つまり神樹=宇宙=四季という暦を現すものであることがわかる。こよみとはすなわち宇宙の摂理の一部である。
 
 
したがって『古事記』が高木の神を皇室用に取り込んだタカミムスヒ神は、民間や道教や神仙思想の神であることをわからくしたかったネーミングになっている。これは造化三神すべてがそうである。
宇宙の摂理そのものを示すアメノミナカヌシも、神ムスヒも、宇宙にある三本の柱=時の御柱を神格化したものである。三位一体で宇宙原理を指しているので、これは老荘思想を『日本書紀』が取り込んだあかしである。一方『古事記』は在来の民間にいち早く入っていた神仙思想で留めているので、政治性がまったく違う。『日本書紀』はあきらかに政治的潤色が満ちている書物である。(史書などではない政治理念寓話である)
 
阿蘇の信仰は、そもそも草部という場所から出てきた日下部氏が奉じた神であり、多氏の源流はここにあった。
阿蘇氏はkぽの多氏=日下部氏=肥人という先住民(熊襲)の持っていた神仙思想の高木の神を吉見系氏族を従わせることで合体した氏族であろう。
 
したがって日下部氏は靫負部(ゆげいべ)であるので、九州の盆地を守りのために北上し、球磨川~幣立宮~阿蘇~小国~日田へと盆地伝いに北上して、やがて海人系物部氏となって河内の弓削に入るのである。この「ゆげ」とは弓を削る靱編部(ゆぎあみべ)の別名なのである。その舟の同族が尾張氏であり、海部氏である。だから日下部氏が海部氏のそばにあって若狭湾に浦島神社と籠神社が並ぶことになった。
 
それらの大元が熊襲である。
熊襲は球磨族と曽於族のことでともにくまびとであるが、曽於族はのちに熊襲と区別して隼人と呼ばれるようになった。その隼人こそが海部氏の源流だったと考えられ、そこから葛城氏らも出た。
 
 
 
から筆者独自の意見を書いた。
 
 
 
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