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高木神2 日下部氏の源流狗奴国・熊襲/検証・現場資料付き

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福岡県朝倉の高木神社群のひとつ http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kyusyu1201.htm
このサイトは渡来人研究会。
かわかつ、くくち、わらびて、とらいじんの四人で一昨年いった九州紀行の記事である。
 
「なるほど英彦山も高木神なのですね。実は昨年、朝倉の旧高木村の地を訪問した際、地元の人と話していると興味あるエピソードを聞きました。その地には都落ちした皇孫が代々居を構えていて「英彦山の宮司が代替わりするときには必ず挨拶に来る慣習があった」と言うものでした。字名にも宮をうかがわせるネーミングが色々残ってるそうです。あまり注目されない山深い集落が高木神を通してて重要な鍵になるのかもしれませんね。」
1記事へのコメントから。実際に高木に行った蕨手(わらびて)氏の言葉。
 
 
 
 
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◆豊前・筑紫地域に集中する高木神社
高木神社 田川郡添田町大字津野6717番の1
高木神社 田川郡添田町落合3583番
高木神社 田川郡添田町津野2227
高木神社 田川郡大任町大行事118番
高木神社 田川郡大任町大行事2496-1
高木神社 嘉麻市熊ヶ畑1075番
高木神社 嘉麻市桑野2588番
高木神社 嘉麻市小野谷1580番
高木神社 嘉麻市桑野1399番
高木神社 嘉麻市平217番
高木神社 久留米市田主丸町豊城1088番
高木神社 宮若市黒丸1572番
高木神社 京都郡みやこ町犀川上伊良原字向田308番
高木神社 京都郡みやこ町犀川下伊良原字荒良鬼1594番
高木神社 築上郡築上町船迫字水上1133番
高木神社 筑紫野市大石字上ノ屋敷569番
高木神社 筑紫野市天山字山畑241番
高木神社 朝倉郡東峰村小石原鼓978-8
高木神社 朝倉郡東峰村宝珠山24番
高木神社 朝倉郡東峰村小石原655番
高木神社 朝倉市佐田377番
高木神社 朝倉市黒川1806番
高木神社 朝倉市黒川3328番
高木神社 朝倉市佐田2953番
高木神社 朝倉市江川1201-1
高木神社 朝倉市杷木白木172番
高木神社 朝倉市杷木赤谷744番
高木神社 朝倉市杷木松末2784番
高木神社 朝倉市須川1683番
※高樹神社 久留米市御井町字神籠石121番
http://rara.jp/kunakoku2/page912
 
 
 
 

◆肥前高木氏の系譜
「肥前の高木氏について、史料のうえで確実な初見は、寿永二年(1183)十一月に高木氏(藤原朝臣宗家)が大般若免三町を河上社に寄進したことがあげられる。宗家は源平合戦に際しで源氏方に立ち、文治二年(1186)八月、源頼朝から改めて本領である佐嘉郡深溝北郷内甘南備峯の地頭職に補任され(「高城寺文書」)、幕府の御家人となった。建久六年(1195)八月二五日付けの「大友文書」には、肥前国押領使大監藤原宗家(朱書で当国押領使高木大郎大夫)とも見えるが、これは偽文書の疑いがあるといわれる。こうした諸事情によって、高木氏の実質的な先祖は宗家とみることができ、宗家の頃までの高木氏の草創段階が不明であって、系譜の裏付けもないわけである。
 
 2 そもそも、高木氏が何時から佐賀郡高木村に居住したのかという問題がある。
  国立公文書館に所蔵の『佐賀諸家系図』下巻の「藤家高木系図」には、高木宗家の祖父の貞永について、「大城三郎大夫」という称号が記載される。貞永の子には高木宗貞、草野永経、北野貞家の三人がいたとされるから、この記載が正しければ、高木氏の起源は意外に新しく、平安後期ないし末期になって初めて、肥前の高木村に遷ってきて住みつき、そこで地名に因り高木氏を名乗ったことになる。

このことを傍証するように、高木一族とされる諸氏は、殆どみな宗貞の後裔に位置づけられる。竜造寺氏については、宗貞の叔父からの分れだが、出自を秀郷流とも称するから別の系譜所伝をもっていた。東高木の八本杉にある高木八幡宮は、久安年中(1145~51)に貞永がはじめて祀るところと伝える。その社記によると、高木越前守貞永が佐賀郡高木庄に下向してきて、夢の中の八幡大神のお告げにより、朝日の昇る像を旗の紋とすべしとされ、同宮を創祀したといわれる。ここでも、高木氏の高木遷住は貞永のときとされるから、貞永ないしは宗貞のときの遷住は、ほぼ信頼してよいのだろう。

貞永についての「大城(おおき)」という呼称は、『和名抄』の筑後国御井郡大城郷の地名に因むものであり、当地は筑後川中流域(北岸と南岸にある)の現久留米市北野町大城あたりとなる。高木氏の有力氏族に於保氏があり、系譜は宗家の甥の於保次郎宗益から始まるとされるが、於保の地名も筑後にあって御原郡於保村(現小郡市北部の大保)ではないかとみられる。大保の東隣の井上に因むとみられる井上氏も、草野支流に見える。なお、於保次郎宗益の弟・尻河六郎宗康の子に平野次郎宗季が見える。
 
さて、草野も北野も筑後国御井郡の地名であり、とくに草野氏は筑後の在庁官人で在国司・押領使職を世襲した有力な武家であって、系図に宗家の従兄弟と見える草野次郎大夫永平は、『東鑑』文治二年閏七月条にも見える。草野氏はその先祖を天智天皇御宇の草野常門と伝えるから(「草野系図」)、古代から草野を氏としていたことが知られる。他の地の例から見ると、草野は草壁すなわち日下部に通じることが多く、例えば豊前国仲津郡の蒭野(くさの)郷が平安期には草野荘(福岡県行橋市の草野一帯)となり、この地に日下部氏の有力者が居住していた。このことは『本朝世紀』長保元年(999)三月七日条に見えており、記事には蒭野荘の前検校と見える早部信理(法名寂性)は「日下部信理」の誤記と分かる。筑紫では、筑前国には嘉麻郡に草壁郷、筑後国にも山門郡に草壁郷があって、ともに日下部の居住地であったとみられる。

このように、筑後にも筑紫国造一族の日下部君が居たから、草野氏の本姓は日下部(姓は君か宿祢)だったと推せられる。日下部氏は筑紫の有力氏族であったから、大宰府の官人にも見える。寛弘八年(1011)十二月の根岸文書に「権少監日下部」、長和三年(1014)の尊勝院文書に「権掾日下部」、永承七年(1052)の大宰府官連署に「大監日下部」と見えるほか、大宰府の観音寺の牒には、寛弘三年(1006)に「検校少弐藤原、別当大監藤原、少典日下部」とあり、長和元年(1012)八月の文書にも「権少監日下部是高」と見える(『観世音寺古文書』)。こうした事情だから、藤原隆家が権帥として在任した時代の大宰府の官人として日下部氏がおり、それが後に筑後や肥前の在国司職を世襲するなかで、藤原隆家の後裔と称するようになったと推される。
高木八幡宮の上記社記に見るように、草野一族や竜造寺・鍋島・上妻などの諸氏が太陽の昇る様を象った家紋である「日足紋」を用いたのも、その日下部姓出自に因るものとみられる。また、筑紫国造は大彦命の後裔の阿倍氏族と称したから(国造本紀、孝元紀)、これが訛って草野氏の先祖が陸奥から来たとか安倍宗任の後裔ともいわれたことにつながる。 」
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/takagi.htm
 
 
 
 


 
 

このように高木は日下部から出る。
その日下部のさらなる派生元をたどるのは、考古学的に可能である。
それは日下部氏が倭五王時代の靫負大伴氏が管理した靫負部(ゆげい・べ)であることが文献上確実なため、そのステータスシンボルである靫(ゆき。靫負軍団が弓矢を入れて背負う道具)を装飾古墳で追いかければよいのである。
 
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京が峰横穴墓群の靫

日田・朝倉から九州山地に沿うように斜めに南下すると球磨川中流の人吉市に到る。ここに大村横穴墳墓群などがあって、それらの壁に靫が彫られている。出発点である朝倉や日田周辺には靫負部の中にあった靱を作る集団靱編部(ゆぎあみ・べ)のステータスである同心円紋=的が描かれる古墳が集中する。
 
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浮羽郡日ノ岡古墳
 
的は「いくは」とも読み、「いくはのおみ」を探すと大和で大伴氏同族として久米氏とともに、王家の門を弓で守護した記録がある(宮廷いくは門守備的臣)。つまり的臣もまた大伴・膳氏の靫負部のひとりである。これらの記事は大和が九州での倭五王と大伴膳の事跡を取り込み、さも大和の宮殿を彼らが警護したかのように捏造してある(確信ありだが一応うしろに「カモシレナイ」ととけておく)カモシレナイ。しかし日下部氏も大伴氏も膳氏もみな、
九州における「倭王」の警護団である。
 
人吉こそが日下部の源流である。つまりそこは南九州に多い川上神社信仰のメッカになる。
 
 
 
◆川上神社
この神社群も全国的にあるが熊本・鹿児島が最も多く、川上とは熊襲首魁だった川上タケルのことである。これを「ひじり川上」といい、あるいは大人(おおひと)、弥五郎などと別称する。いわゆる現地先住氏族で抵抗勢力と記紀が書いた熊襲である。

球磨川沿線はそれらの日下部・川上・熊襲の痕跡と靱のデザインで満ち溢れている。そして例の免田式土器発祥地なのだ。
 
球磨川へ南下する途上に、幣立宮(へいたてぐう)、猿丸太夫神社(祠)、阿蘇山の古墳群、阿蘇神社、阿蘇国造神社、ストーンサークル、修験の痕跡、石造文化遺跡、石橋、ヤマトタケル景行天皇の巡幸の痕跡、城南町の古墳群、クルソン渓谷、石人、装飾古墳、平家落人伝承地、高木神社、新羅神が神霊スポットのパノラマのように集合している。その線がすべて日田・朝倉、そして田川へと向かうのである。地名山門郡。
この山門郡の地名こそは狗奴国が新天地である近畿で盆地に名づけたものであろうと見える。
筆者は邪馬台国が敵である山門狗奴国そすぐそばにあったと考えてもあながちおかしくないと思う。
というよりも卑弥呼先祖が長江から西九州へ甕棺や水田や横穴墓や銅器を持って西九州三田(神崎郡吉野ヶ里)に入ったあと、
最初に隣接した狗奴国との和合をめざして裏切られた可能性があるからだ。

とまれ、
日下部の痕跡はこの道の途中、熊本県高森町の草部(くさかべ)吉見神社に地名を残している。
日下部吉見とは阿蘇神社の系譜では別系統として合流「させられている吉見系日下部氏の系譜である。
草とは熊襲が旅をする人々だったから「旅草」として吉見神社の地名となっている。その吉見神社そばに緒方三郎神社が存在する。三郎は大分の大神氏出身を自称する宇佐神宮の神人(じにん)集団である。彼らは五箇庄平家部落の人々を五木上流へ隠れさせたとなっており、謎の武家集団である。蛇の子孫。
このように日下部が北上して、靫負となりつつ、靱編集団を日田に残し、さらに田川で秦氏に出会ったことから、高句麗渡来人とも合流し高木・鷹栖信仰が生じた。この信仰をそのまま、大和朝廷は置き換えて、アマテラスへつなげたのであろう。そうすることで先住先の王家である狗奴国との大和における正統性を言いたかったのである。
 
なお、松田聖子という稀代の魔性を輩出した蒲池氏については昨日の1記事の参考サイト文中に言及があるのでここでははぶく。Kawakatu
 
いずれにせよはっきりしたのは、飛鳥以降の大和朝廷とは九州~瀬戸内~河内を本拠とした倭五王=狗奴国を策謀によって除外し、その信仰もまた名前を変えて皇室系譜としてしまったわけである。
 
 

 
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Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
 
 

高木神3 熊襲狗奴国日下部一族の東征コース地図

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転載不可
 
 免田(あさぎり町)には金鍍金鏡が出た才園古墳(さいぞんこふん)があり、熊襲が決して記紀が書くような蛮族だったわけではないことを森浩一も口を酸っぱくして書いている。
同様に、日田だんわら古墳では、日本に一枚しかない金銀鉄鏡が。
その理由はこの地図で一辺に氷解する。
日下部氏となっていった狗奴国が、中国南朝とのえにしがあったからなのだ。
 
これが狗奴国東遷ルートである。
ということはその途中のどこかに必ず第一次邪馬台国が存在する!
邪馬台国は狗奴国に破れ、「以って卑弥呼死す」なのであるから、邪馬台国が東遷できたはずはない!
 
大阪湾・・・
八尾市~堺市は、渋川物部本宗家の本拠地になる。
その領地である渋川に弓削地名、八尾市に弓削神社が存在する。
日下部氏は大伴氏、秦氏、海部氏・尾張氏そして物部氏たちと同族となった熊襲である。
つまり熊襲は大和朝廷に平定されたのではない。
物部氏に加担して東征し、ヤマトで王族となるのである。
それをさらに追いやった氏族が竹内宿禰系葛城連合=隼人である。
そしてそれをまた政略で追いやるのが飛鳥政権蘇我氏である。
それがまたまた藤原氏によって暗殺され、ようやく今の大和朝廷系皇室が登場する。
 
 
 
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熊本市弓削神宮・上弓削神社
画像サイトのんびりと古代史 http://blogs.yahoo.co.jp/hachimituwine/11120996.html
 
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Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
Kawakatuワールドなんでも拾い上げ雑記帳http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/
公開ファイルhttps://box.yahoo.co.jp/guest/viewer?sid=box-l-fvgengtor7cxqhm2yl67btflty-1001&uniqid=1fdad918-856d-4ca3-b548-8fd1cee36ef3#du%3D1fdad918-856d-4ca3-b548-8fd1cee36ef3%26ds%3Dbox-l-fvgengtor7cxqhm2yl67btflty-1001%26tu%3D2f6031c4-8123-4594-9459-b3c41f641e11%26ts%3Dbox-l-fvgengtor7cxqhm2yl67btflty-1001%26vt%3Dpublic%26lf%3Dlist%26ls%3D1%26lm%3D20
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
 
 

高木神4 九州を出た日下部の痕跡

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◆大阪府八尾市弓削神社
「本日訪れたのは、弓の制作を専業とする弓削部(ゆげべ)を統括していた古代氏族・弓削氏(ゆげうじ)が氏神を祀ったとされる弓削神社である。さらに足をのばして、称徳天皇・弓削道鏡時代に平城京に対する西の京として造営された旧蹟の跡に建つ由義神社も訪れた。
筆者が八尾市に興味を抱く理由は、物部(もののべ)氏が支配した地域だからである。物部氏は、元々は大和王権のもとで兵器を管理する氏族だったが、弓矢や馬具を制作する集団とそれらを統括する氏族を配下に持ち、大伴氏とならぶ軍事氏族として成長していった一族とされている。
物部氏は河内国の哮峰(いかるがのみね)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされる饒速日命(にぎはやひのみこと)を遠祖とみなしてきた。西暦587年に勃発した丁未の変(ていびのへん)で、蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)が一族の存亡をかけて戦い、物部本宗家が滅亡したことはよく知られている。その物部本宗家や、弓削氏、矢作氏、鞍作氏といった武具制作集団を統括する一族が居住していたのが、現在の八尾市やその近辺である。 」
 

 
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◆同じく由義神社
「八尾市には、弓削神社の他にもユゲ神社がある。由義と書いて「ゆげ」と読ませる由義神社である。八尾木北5丁目に鎮座するこの神社は、祭神として素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀り、少彦名命(すくなひこなのみこと)を配している。
神社の境内に置かれた『由義神社由来』によれば、この神社は「由義宮の跡地に建立され、その規模、格式ともに近隣に比を見ない堀を巡らし、森をようした荘厳な式内河内5社の1社で立派な旧社であった」とされている。由義宮とは、称徳天皇・弓削道鏡時代に、平城京に対する西の京として造営された宮である。道鏡が関係しているとなれば、弓削氏と縁がない訳でもない。 」
BGM付きサイトにつきご注意 http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2007_12_27.htm
 
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同じ八尾市に良く似た名前の神社が存在する。
「ゆげ」と「ゆげ」である。
弓削は守屋で知られた物部氏本宗家の本貫地になる。
一方、由義神社は弓を作った氏族ゆかりの地である。
どちらも先に書いた大伴氏と日下部氏の役名である靫負(ゆげい)に近い読みである。
ここまでは書かなかったが「ゆげ」とゆげい」は同じ弓矢に関わった氏族地名ではないか?
弓削=靫負。

弓削という地名は「弓を削る」であるし、「ゆげい」はゆきを負う、靫とは弓矢を入れる道具である。
特徴的なのは、矢のやじり側を上に向けて立てる入れ物ということで、それでは矢を抜くときに手を切ってしまう。だからこの道具はわざと磨いたやじりを太陽に照らさせて敵に見せる、威嚇のための道具で、実用品ではない。やじりを下にして羽を上にするいれものは中世には胡籙(ころく)と呼ばれたが、古代にはおそらく文字を変えて「靱」であろうと思う。日田市のゆぎあみ町は「靱編」で実用品を作った氏族の地名になる。それが靫負日下部氏の配下である部民・日下部である。
 
このように渋川物部氏の本拠である弓削に、弓を作る氏族がいたことが神社からわかる。

八尾、堺などいわゆる南河内地方と、枚方・交野市などの北河内地方はみな物部氏の領地だった。守屋の乱まではである。
 
聖徳太子は守屋を弓矢の達人の矢で射落とさせている。弓矢の氏族が同じ弓矢の氏族によって撃ち落された。これはつまり政権交代を意味した寓話である。象徴的に物部氏が弓矢の靫負集団を持っていたことをにおわせたのである。
 
九州で靫負部を管理していたのは倭五王宰相である大伴氏であった。東国の靫負部も大伴氏同族の膳(かしわで)氏の配下にありこれを膳靫負というが、膳氏は西国では大彦の子孫である。大彦の子孫には筑紫国造家がある。その筑紫の君は多氏出身だと自称している。多氏=大伴=膳=物部その下の日下部氏となるのである。
この構図が倭五王、河内王権の上下関係である。
 


 

◆堺市草部 日部神社
(くさべじんじゃ)は、大阪府堺市西区草部(くさべ)にある神社である。式内社で、旧社格は村社。
彦坐王・神武天皇・道臣命を主祭神とする。彦坐命は日下部首氏の祖神である。日下部首氏はこの一帯を拠点としていた豪族で、一族には浦島太郎もいたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE
 
ビンゴ!である。
日下部氏の神社である。
しかも彦坐王(ひこいますのおおきみ)とは息長氏・神功皇后・応神天皇の祖先である。また道臣命(みちのおみのみこと)とは大伴氏の祖神である。
この神は九州では由布院町川西に蹴裂権現(けさきごんげん)として祀られている。
日下部氏と息長氏にはどのようなえにしがあるのだろうか。今後の検証に譲る。

「当社は明治時代に鶴田村大字草部字輪之内にあった日部神社、同字寺山の八坂神社、大字原田の熊野神社、大字上の菅原神社を合祀したもので、社名と主祭神は式内社である旧日部神社のものを採用している。他に旧八坂神社の素盞嗚尊、旧熊野神社の伊弉冉尊、旧菅原神社の菅原道真を合せ祀る。」
息長氏はのちに合祀されたためかもしれないが、河内王朝を立ち上げた応神天皇ならばその警護隊である日下部氏が祭るのは当然である。大伴氏は九州での直属の上司なのでこれも当然。

泉州は物部氏と大三輪氏の領地である。泉北は大三輪氏、泉南は物部氏と考えられる。そこに日下部氏がやはり神社を持っている。このように日下部氏は海部氏、尾張氏、物部氏という河内王権の主体氏族と同族となっていた。

京都府宮津市近辺には海部氏の籠(この)神社、日下部氏の浦島神社が同じ海岸線に並んでいる。堺市の浦島子孫伝承も同じく日下部氏=水之江の浦島子の祖先で海部氏同族でつながるのである。
 
このほか枚岡市の日下も関係しているかも知れない。ここにはニギハヤヒを祀る石切剣矢神社がある。
剣と矢、物部氏と日下部氏の合体であろうか?この日下地名は聖徳太子ゆかりの舎衙(くさか江)の地名であり、生駒山の麓になる。かつてはここは大阪湾の港であった。
枕詞・・・ひのもとのくさか
つまり日本国号はここから出てくる。日下をは太陽が昇る真下である。
ここで、高木神は太陽神を含む造化三神に変わっていったのかも知れない。するとそれは物部氏によるのか、あるいは藤原氏の改名か?
 
 
 
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Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
Kawakatuワールドなんでも拾い上げ雑記帳http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/
公開ファイルhttps://box.yahoo.co.jp/guest/viewer?sid=box-l-fvgengtor7cxqhm2yl67btflty-1001&uniqid=1fdad918-856d-4ca3-b548-8fd1cee36ef3#du%3D1fdad918-856d-4ca3-b548-8fd1cee36ef3%26ds%3Dbox-l-fvgengtor7cxqhm2yl67btflty-1001%26tu%3D2f6031c4-8123-4594-9459-b3c41f641e11%26ts%3Dbox-l-fvgengtor7cxqhm2yl67btflty-1001%26vt%3Dpublic%26lf%3Dlist%26ls%3D1%26lm%3D20
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
 
 
 
 


 
 

◆兵庫県姫路市高之木神社
 兵庫県姫路市花田町高木字宮止筋149番
ここに聖神社が合祀されており、姫路の重要産業だったなめし皮が、靫負によってつくられるシカ皮の靱・靫から始まったことを忍ばせている。ここは高木神信仰が東征してきた一時的な寄港地だったのだろう。
http://himeji.jibasan.jp/leather/history/01/03.html
 
 
高木神社は関東まで山ほどあるけれどほぼすべてが日下部氏関連神社であろう(例外もあるか)。
広島県府中市高木神社・・・旧備後国。出雲の神を祭る神社である。
福井県福井市高木神社
東京都目黒区高木神社
東近江市・野洲町高木神社
 
きりがないが、豊前国企救郡(きくぐん・今の北九州市小倉周辺)には企救物部氏がいたことがわかっている。いわゆる「聞く物部」である。その時代は定かでなく、もしや継体天皇の筑紫磐井平定のときの大和からの移住者かと思っていたが、それは記録では竺紫物部とかかれており、豊前では場所が違うことになり、もしやそれ以前の最初の物部氏がいたところかとも考えられる。もしここで田川の日下部氏との合体が起きたとすれば大伴氏から物部氏へ日下部が委託移動した?九州では大伴直属だったが、九州を出るときに物部氏が海部氏と同族ゆえに舟の便宜で委託したか?
 
 

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隕鉄ビーズエジプトで

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ネックレスに鉄隕石ビーズ=古代エジプト遺跡で発掘-ロンドン大

 
 
 
1911年に古代エジプト遺跡から発掘されたネックレス。金やめのうなどのビーズのほか、腐食した鉄のビーズ(写真中央)が含まれていたが、材料は鉄隕石(いんせき)だったと英ロンドン大チームが発表した(ロンドン大提供)
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古代エジプトの遺跡から1911年に発掘された約5000年前のネックレスを詳細に分析したところ、鉄隕石(いんせき)がビーズに加工されていたことが分かった。英ロンドン大の研究チームが20日、考古学誌ジャーナル・オブ・アーキオロジカル・サイエンスに発表した。

 当時は鉄鉱石から製鉄する鉄器時代に入る前で、金属は銅や青銅が使われていた。しかし、鉄隕石を熱してたたき、薄く延ばしてチューブ状に丸める技術が既にあったと考えられるという。

 ネックレスは鉄隕石のほか、金やめのう、ラピスラズリなどのビーズで構成されているが、鉄隕石のビーズは腐食した状態で見つかり、材料がよく分かっていなかった。

 ロンドン大のペトリー・エジプト考古学博物館に収蔵されていたこのビーズをX線や中性子線などで分析したところ、鉄のほかにニッケルやコバルト、ゲルマニウムなどが多く含まれており、鉄隕石と判明した。
 鉄隕石は隕鉄(いんてつ)とも呼ばれ、岩石質の隕石と同様に、主に小惑星から飛来したと考えられている。(2013/08/20-08:14)
 
 


 
隕鉄  最古の製鉄は隕鉄を使ったとされている。世界最古のヒッタイトの剣も隕鉄製。
 
世界で初めて(高度な)製鉄技術を確立したのはヒッタイト帝国だと考えられてきたのですが、2005年に入ってアッシリア期の鋼が確認されたことで、製鉄の起源は根本的な見直しを迫られることになりました。トルコのカマン・カレホユック遺跡で出土した紀元前18世紀(アッシリア植民地時代)の鉄片が鋼(はがね)だったことが判明した。カマン・カレホユック遺跡というのは、トルコの首都アンカラの南東約100キロに位置する、遺丘で、紀元前約2300年から、アッシリア植民地時代、ヒッタイト帝国時代などを経て、オスマン・トルコ時代まで約4000年間にわたって集落が営まれたとされています。
 
カレホユック遺跡から出てきた鉄片は2点で、幅はいずれも約1センチ、長さは約1~2センチ。紀元前18世紀の建物跡から1994年に出土したもので、蛍光エックス線分析によって明らかになった炭素の含有量(0・1~0・3%)からも、鋼であることが裏付けられているそうです。鋼は、鉄鉱石から不純物を取り除いただけの普通の鉄よりも、適切な量の炭素を混ぜて精製するため高度な技術が必要とされています。これまで確認されていた最古の鋼は、やはり同遺跡で出土した紀元前14~12世紀のものだったので、このあたりが現在わかっている限りで最古の鉄の都という看板は下ろさなくて良さそうです。
 
 
 
最古の製鉄はアッシリア植民地時代のカマン・カレホユックで紀元前18
 
 
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「高木神氏族と狗人」/日下部氏再考・装飾古墳編年から

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香春岳
右手前から奥へ一の岳・二の岳・三の岳
三の岳には採銅所と豊比売を祀る古宮八幡がある鷹巣の森が見える
一の岳は石灰岩を切り出されて半分以下になっているがこの麓には香春神社
と鏡山・河内王古墳が存在する
秦氏の新羅神である息長帯大姫大目命を祀る。
 
 
九州古史譚2 高木神氏族と狗人
2013-06-05 / 古代妄想

 豊前、田川の香春(かわら)。豊前国風土記によると、昔、新羅の神が海を渡ってこの河原に住み、郷の北に三峰あり、古く、一の峰に唐土に渡っていた神「辛国息長大姫大目命」を祀り、二の峰には天津日大御神の御子の「忍骨命」、三の峰には神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母の「豊比命(とよひめ)」を祀っていたという。
 採銅所の鷹巣ノ森と呼ばれる小山に香春神社の元宮とされる「古宮八幡神社」が在る。今はここに豊比命が鎮座する。この宮の元は三の峰の麓、「阿曾隈(あそくま)の社」であり、香春の地主神であるという。
 そして、この宮は宇佐八幡宮の放生会の出発の地とされ、ここで鋳造された銅鏡が八幡神の正躰として宇佐八幡宮に奉納されたという。

 宇佐八幡宮の放生会は、宇佐神の前身とされる香春の神が、宇佐へと移動した記憶を伝承するものという。豊比命は続日本紀に八幡比神であると記され、宇佐の元神とされる。

 豊比命とは神武天皇の外祖母、とあるから、鵜葺草不合命を産んだ豊玉姫のことであろうか。また、豊比命とは「豊の比神」、豊国の地主神。邪馬台国の「台与(とよ)」をも彷彿とさせる。
 その豊比命が何故か「阿曾隈(あそくま)」。阿蘇の神であるという。そして、神紋を阿蘇の鷹羽として、奉祭氏族を日(火)の神祇、日置氏とする。また、香春は高良であるという。神社覈録には高良は加波良(かわら)と訓べしとある。
 
 さても、難解な神祇である。が、この香春には九州の古史が集約されている。
 
 九州北半、遠賀川流域において、英彦山などに纏わる根強い高木神(高皇産霊神、高御産巣日神)信仰があった。天忍穂耳命を祀るとされる英彦山の山頂域が、高木神祭祀の旧地とされ、英彦山神領の48の大行事社が高木神を祀り、英彦山の本来の祭神は高木神であるとされた。

 高良玉垂命を祀る高良山においても、地主神の高木神がもとは山上に在り、本来の祭神であったとされる。
 そして、高木神信仰に拘わり、「鷹」の神祇とよばれるものがある。
 
 洞海湾岸の八幡(やはた)で、鷹羽の神紋を掲げる「鷹見神社」群の存在がある。遠賀川流域では、直方の神奈備が「鷹取山」であり、鷹羽郡を古名とする田川では地主神を弓削太神なる高木神とする。

 香春の地主神は「鷹巣ノ森」の古宮に祀られ、九州の神祇の地、宇佐においても、八幡祖神は「鷹」の姿で駅館川の畔に現れたため、「鷹居社」にその神霊を祀り、宇佐八幡宮の創始譚に繋がる。

 英彦山の開基伝承では、英彦山の神を「鷹」の化身とし、この山を「鷹」の神祇の本地とする。
 英彦山南麓の日田の地名伝承が「日」と「鷹」の神祇、日高(ひたか)の神話であった。高良山においては、古名を「高牟礼(鷹群山)」とするなど、「鷹」の神祇が九州北半を縦断する。

 これら「鷹」に纏わる社は鷹羽の神紋を掲げ、鷹巣や、鷹取など「鷹」地名を散在させる。古く、根源的な信仰。(*1)
 
 英彦山の本来の祭神が高木神であり、英彦山の神が「鷹」の化身であることは「鷹」の神祇が、高木神に由来するということ。もとより、小郡あたりの羽白熊鷲(はしろくまわし)伝承においては、高木神は「鷹」の姿で現れ、横隈の「隼鷹神社」に祀られていた。

 「鷹」とは高木神の「たか」に由来する。高上ゆえに天空高く在って疎薄。そして猛禽ともされた神の異名。

 遠賀川の下流域、鞍手の剣(つるぎ)岳を中心に「剣」の神社群がの存在が在る。この地の「剣」の神祇は、物部氏族の兵伎の祭祀。確かに、この域には物部氏族の痕跡が濃い。

 饒速日命(にぎはやひ)の降臨において供奉したとされる物部二十五部人のうち「二田(ふつた)物部」は鞍手の二田郷(新多)の在、「筑紫贄田(にえた)物部」は鞍手の新北(にきた)郷に在ったとされる。また、鳥見物部が遠賀の鳥見山、横田物部が嘉麻の横田、筑紫聞物部が企救郡の在とも比定される。

 そして、祖神の饒速日命が、鞍手の南域、粥田荘の惣社の天照神社に祀られる。また、北域の岡垣や芦屋あたりに祀られる大倉主神は饒速日の御子、高倉下命(たかくらじ)ともされる。

 また、この域の物部氏族の痕跡は、高木神信仰域と重なり、高木神氏族に纏わる。(*2)
 物部氏族において、飛鳥期の大連、物部守屋は母姓を仮冒して弓削大連を称したという。その「弓削氏族」の存在が遠賀川中流域の田川に在る。後藤寺の春日神社は、氏神として弓削太神、「豊櫛弓削遠祖高魂産霊命」と呼ばれる高木神を祀る。

 弓削氏(ゆげ)は弓を作る弓削部を統率した氏族。また、後藤寺の北、伊方(いかた)の伝承では、里の民は弓に長じて、天皇の軍の先鋒とされたと伝わる。この域は古く、弓に纏わる地。
 
 英彦山の南麓には矢に纏わる「靱編連(ゆぎあみ)」の存在がある。豊後風土記に日田の靱編郷の日下部君等の祖が靱部(ゆきべ)として欽明朝に仕えたとある。「靭」とは矢を入れる容器。靱編連とは靭を作る氏族。また、下流域の浮羽は「的(いくは)」に由来し、ここも靱部とともに矢に拘わる域。

 日田の地名由来は「鷹」の飛来伝承であった。この地も「鷹」の神祇、高木神の信仰域。国造本紀などにある比多(ひた)国造は高木神の5世孫である剣根命(つるぎね)の後ともされる。(*3)
 
 これら高木神域にみえる戦闘集団の痕跡。高木神氏族は、その猛々しさゆえに「鷹」をトーテムとしたのであろうか。
 
 そして「鷹」の神祇に、天忍穂耳命の祭祀が重なる。
 八幡の王子宮や、香春の二ノ岳、添田の岩石山などから英彦山へ「天忍穂耳命」の神霊が連鎖して祀られている。本所の英彦山は、国の曙の地ともされる九州北部域の神奈備。天忍穂耳命を祀ることから日の御子の山、「日子山(ひこさん)」とされる。

 高木神信仰域では皇祖を天孫の「瓊瓊杵尊」ではなく、天忍穂耳命としている。神話での天忍穂耳命と高木神の女(むすめ)、栲幡千千姫命の婚姻に由来するのであろうか。
 神話は天忍穂耳命に纏わる氏族が、高木神由来の民を婚姻をもって帰属させたという事象を投影させたもの。 それは「日」と「鷹」の神祇の重なり。「日」の神とは天照大神。天忍穂耳命は天照大神の御子ゆえに日の御子とされる。(*4)
 
 この「日」と「鷹」の神祇の重なりとは、高良域の御井あたりでの事象の投影であった。
 阿蘇の古い民は「鯰」をトーテムにする。「鯰」の祭祀を残す手野の「国造神社」は阿蘇神社の元宮とされる。ここに、阿蘇祖族の日下部氏族(草部吉見氏族)が奉祭する阿蘇の母神「蒲池比(かまち)」が祀られるという。
 そして、この阿蘇祖族の日下部氏族は「狗人(く、こう)」に纏わるとされる。「狗人」とは、のちの為政者に熊襲(くまそ)として忌避される民。

 また、日下部とは「日」に纏わる祭祀の氏族ともされる。「日(火)」の神祇、阿蘇神社群も「鷹羽」の神紋を掲げ、古くは阿蘇山も「鷹山」と呼ばれていた。
。」(後略)
 
 
(*1)「弓の神祇 田川の弓削大神。」「矢の神祇 日田の靱編連。」「鷹の神祇 八幡の鷹見神社群。」等、参照。
(*2)「剣(つるぎ)の神祇 鞍手の剣神社群。」
(*3)「矢の神祇 日田の靱編連。」参照。
(*4)「日の若宮 遠賀川流域の天忍穗耳命。」参照。
(*5)「日と鷹 高良の日下部氏族。」参照。
(*6)「九州古史譚1 古層の神々。」等、参照。
(*7)「江南の女神 連鎖する九州の比売神信仰。」参照。
http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/e/d1cc201baa508296b5b36664ec6ee4c2
 
 
 


 
筆者はこの資料はさらに科学的検証を必要とした試案であろうと理解している。
 
なんとなれば、
1 九州の円紋や靫紋についての編年では、円紋は南部から北上し、靫紋は北部から南下したという年代観が九州考古学でのおおまかな見方である。
 
2 大分県日田市の靱編部は文献からは確かに日下部首であったが、この氏族は伝承では都からやってくるとされている。
 
3 竺紫(ちくし)物部氏の九州来訪は、『日本書紀』では6世紀の継体大王が筑紫国造・磐井(いわい)の乱で、大伴氏に代わって物部氏が制圧に成功したことで、継体から河内の物部本家・麁鹿火(あらかい)が「筑紫より西はおまえが」統治したということになっている。ということは記紀史観を正しいとする立場からは、九州の物部氏は6世紀以前から九州にいたはずはないとなる。
 
 
記紀史観の時間枠と、装飾古墳の時間枠、ヤマトタケルの熊襲征伐などを勘案すれば、一般的には、日下部氏とは尾張氏の同族である高倉下との血縁関係と、大伴氏のヤマトでの衰弱とともに物部氏に移管された。そして海部氏とも同族化していったのは尾張での海部との合体があったためだったというのが正論となる。
 
装飾古墳の靫など弓矢装飾が、日田からむしろ人吉へ南下していく年代観は動かしがたく、それは靫負日下部こそがヤマトタケルとともにヤマトから田川にやってきて、熊襲を征伐して南下したと観るのが正しいことになってしまう。ヤマトタケルは尾張熱田で草薙剣=尾張軍事部隊を借り受けている。この中に尾張海部や日下部がいておかしくない。
 
ということはここまでの筆者の高木神派生分析は破綻したこととなってしまうのか?
いや、そうとは限るまい。
 
 
続く
 
 
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日下部氏の出自、日下部の出自は別

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日下部氏は、9代開化天皇の皇子・彦坐命の子、狭穂彦命の後(日下部連・甲斐国造)とも、吉備氏の大吉備津彦命の子の大屋田根子命の後とも、16代仁徳天皇の皇子、大草香・若草香王の御名代部ともいわれ、各地に存在するのだが、実態のつかめない謎の氏族である。しかし、天皇位を狙える立場という共通点からも、吉備氏と同族という可能性は高い。また、大屋田根子命の兄に、吉備氏系の日奉部氏(火葦北国造家)の祖の三井根子命がおり、同じ「日」を奉斎するという意味からも、「部」という名からも、天皇家と同等の家に奉仕する部曲かと思われる。
 
また、但馬国造の日下部君の祖とされるのは、沙穂彦・沙穂姫の異母弟、山代之筒木真若王の子で、船穂足尼(ふなほ?のすくね)。その甥っ子の息長宿禰王の娘が、仲哀天皇の皇后・息長帯比売(神功皇后)である。但馬というのは、神功皇后の母方の祖先、天之日矛を祀る出石神社(兵庫県出石郡)があり、興味深い。
記紀は、神武天皇が、難波の海から船行して日下(くさか)の蓼津(たでつ)に上陸したと伝えるが、この「日下」とも関係あろうか? そこは現在の東大阪市日下町(生駒山の西麓)で、古代は大阪市から妃が東大阪市にかけて「草香江(くさかえ)」と呼ばれる広大な入り江になっていたそうで、中世まで「勿入渕(ないりそのふち)」として片鱗を留めていた。神武天皇が天児屋根命を祀らせたという枚岡神社(大阪府東大阪市出雲町)があり、春日大社が創祀される時、祭神を勧請したので「元春日」と呼ばれ、香取・鹿島(つまりは卜部・中臣・藤原氏)とも関係が深い。
 
饒速日尊が生駒山の上空から遥かに日の下を見て、「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)」と名付けたという、「日の下の草香」とも関係するか?

<本拠地>
奈良県佐保町周辺

<有名人>
沙本毘売命・狭穂姫(さほひめのみこと)
春日建国勝戸売(かすがたけくにかつとめ・女性)の娘の沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)と、日子(彦)坐王の娘。11代垂仁天皇の皇后。誉津別(ほむつわけ)皇子の母。
実兄沙本毘古王にそそのかされて、垂仁を小刀で刺そうとするが、垂仁が小ヘビの夢を見て発覚。兄と共に稲城に篭り、自ら火ををかけ誉津別皇子を出産、天皇軍に皇子だけを手渡して、兄と共に没する。
産屋に火をかけて出産するというのいは、木花之開耶媛命と同じであり、当に海人の儀礼といえよう。三品彰英氏の「古代祭政と穀霊信仰」によれば、稲城というのは稲穂を積み上げた山で、稲城を焼くのは収穫儀礼で、焼いた稲の山から新たな穀霊が生まれて来るという、古代の農耕祭儀の思想を表しているという。沙本毘売命の「沙本」は「早穂」つまり「稲穂」の意味で、誉津別皇子の名にも「ホ」つまり「稲穂」の文字が入っているのは、木花之開耶媛命の御子、ホデリ・ホスセリ・ホヲリも同じであり、海人と稲作文化の繋がりと示していると思う。つまり、最初に海人が伝えた稲作は、焼畑による陸田栽培であった証拠と思う。
沙本毘売命は自らが死ぬ前に、自身の代わりにと、異母兄の丹波道主命の5人の娘(日葉酢媛命・渟葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛・竹野媛)を天皇の妃に推薦して受け入れられている。その内、日葉酢媛命が皇后に立った。この沙本毘売命は丹波道主命や水穂之真若王の腹違いの妹であり、息長氏と大変関係深い。
 
沙本毘売命は、奈良の東の地の姫、春と織物の女神の「佐保姫」ではないのか? 祖母の名に「春日」が付くのも、それを暗示させる。春日はもともと「滓鹿」と書く。「志賀島」「鹿児島」「鹿嶋」「値嘉島」の「鹿」であり、春日の若宮神社は「細男舞(磯良舞)」の伝承地である。和邇氏の祖・日子坐王の娘であり、当然、和邇氏の同族である春日氏とも関係も深く、海人系であることに間違いはない。
 
 
沙本毘古王・狭穂彦(さほひこのみこ)
沙本毘売命の同母兄。上記の叛乱を起こして没したが、日下部連・甲斐国造の祖とされる。
垂仁天皇の皇后で、妹の(沙本毘売命)が実家に帰っている時、彼は妹に「お前は兄と夫と何れがだいじか」と訪ねる。妹の皇后は「兄が大事です」と答える。「容色を以って人に仕えていては、色香が衰えれば寵愛は終ってしまう。兄の私が皇位につけば、枕を高くして百年でもいられるよ。どうか私の為に夫の天皇を殺して欲しい。」と、妹に匕首(小刀)を渡したという。

父の日子坐王から和邇氏・息長氏の強大なバックアップを得、母の沙本之大闇見戸売から呪術的なバックアップを得ていただろう沙本毘古王は、恐いものなどなかったろう。しかし、こんなに簡単に帝位を狙えるということは、阿倍氏系11代垂仁天皇の頃にはまだ、大和朝廷の王権が充分に安定していないことが分かる。
 
(ホムツワケの部分は字面の関係で省いた。)
 
日下部連使主(くさかべのむらじおみ)
息長氏系21代雄略天皇が、近江国蚊帳野で、17代履中天皇の子、市辺押磐皇子を騙し討ちにした時、その子の弘計王(後の顕宗天皇)と億計王(後の仁賢天皇)を護って、息子の吾田彦と共に、丹波国与謝に逃げ、更に播磨国縮見山に逃れた。そして追手に分からないよう、そこで全ての証拠を隠滅し、自殺する。息子の吾田彦は、顕宗・仁賢兄弟に長く仕えたという。

息子の吾田彦の「吾田」は、「吾田の笠沙」の吾田である。つまり久米氏(隼人)と関係があるということだ。
佐用姫(さよひめ・弟日姫子)

肥前国松浦の人。大伴狭手彦(佐堤比古・大伴金村の子。28代宣化朝の人)の恋人。万葉集や風土記にその名が見える。「小夜姫草紙」などでは、奥州白河にまで旅し、琵琶湖の弁財天となる不思議な姫。詳細は「松浦の小夜姫」参照。「肥前国風土記」は、この姫を日下部氏の祖と伝える。
「蛇」と係わりがあるというのが、沙本毘売命と同じで興味深い。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kusakabe.htm
 
 
 


 
 

『日本書紀』はあくまでも中央の伝承記録であって、氏族も皇族にえにしを求める仮冒(虚構)を出自にほどこすののが当然の書物。ゆえに『日本書紀』記録の日下部出自を頭から信じ込むことはヤマト至上主義史観でしかない。
ヤマトが8世紀までに、幾多の先王朝を乗っ取り、かつ血縁を結びながら飲み込み、政略で取って代わるためには、彼ら、皇室よりも歴史の古い地方紙族との正面切っての争いを避けるしか生きていけない存在だったと思うことである。
今につながる皇室はそうした戦いを展開するような実力者ではなく、あくまでも地方氏族、ヤマト氏族による和合から共立されたかんなぎ系譜なのである。そこで氏族は地方におけるもっと古い伝承を探す必要がある。
 
 



邑阿自(おほあじ)
「豊後国風土記」の日田の郡、靫編の郷の段で、29代欽明天皇の世に、日下部君らの祖、邑阿自が靫部として仕え、ここに家宅を造って住んでいたとある。
「播磨国風土記」の揖保の郡・日下部の里は人の姓によって名付けたとあるので、ここにも日下部(氏)が住んでいたことが分かる。
 
 


 

くれぐれも氏族に関して知っておきたいのは、部を名乗る氏族の場合、氏と部にはまったく別の出自が伴うことである。なぜなら氏は部を管理するために中央が派遣した中央氏族だからだ。要するに日下部や額田部自身の出自は、必ずしも日下部氏や額田部氏とは同根ではないということ。そして氏がその部を管理するのは、ある程度、過去における部の出てきた地方にえにしがあったものであろうということだ。
 
日下部が出てくる場所は中央ではなかったはずで、まず候補地の一番目が尾張の海部郡(あまぐん)である。
次に堺市草部町、次に丹後若狭湾の水之江。次に播磨揖保郡、次に松浦、次に人吉となる。

九州では豊後に海部郡(あまべぐん)がある。ここには自らを熊襲であるという古い言い伝えがあり、森浩一氏の父親はここの佐賀関の出身である。その南、臼杵市に筑紫君のステータスである石人を持つ古墳が二基ある。
この石人が大昔からここにあったものなのか、あるいは日田から移動されたものかは知らないが、日田のように筑紫隣接地に石人がなく、はるかに遠い東海岸部にあるというのが、どうも釈然としない。
 
全国の多くの「姫」伝説が、この参考サイトの考えるように海人族由来であると決定する充分な証拠はあるとは言えないが、確かに伝説的姫は九州海岸部に多く、海人系である隼人にも阿多津姫がある。しかし熊襲には姫伝説がないようである。

装飾古墳の編年問題であるが、九州の装飾古墳もそのほとんどは九州山地近縁にはなく、海岸部平野に集中する。そしてその絵柄の中心はやはり船、鳥、太陽、星宿、カエル、太陽とあくまでも江南の長江文明で使用されたアイテムに近似している。日下部氏や的臣は円紋を多用するが、同時に靫をステータスにしており、日田から南下する途中にはそのような古墳が皆無である。靫の絵柄が南下して人吉へ向かうコースは九州山地ではなく熊本平野という中央より西側でだけある。ほかの地域へは筑後川や海岸を通って伝わっており、飛び地のように点在する。すると山間地を真っ直ぐに南下した装飾古墳氏族はおらず、それが熊襲の北上だったことは間違いがないのである。その証拠が免田式土器の北上する年代観である。
 
弥生時代末期の頃、彼らが九州を豊前まで、陸地中央部を歩いて北上したのはまず間違いなかろう。それは山間部の盆地伝いである。先の地図の道である。
 
記紀の記述どおり、景行天皇が船で不知火までやってきて、ヤマトタケルが内陸の山間部から球磨川へ降りていったのならば、ヤマトタケル=日下部弓集団は、熊襲を真っ向から出会うことになるわけである。
記紀が書いていることが、もしヤマトではなく、九州で起きたことの置き換えだったら?と考えてみる必要はないだろうか?

出雲の出来事は大和でおきたこと、あるいは鳥取での置き換えである。新羅王子アメノヒボコとの戦いも出雲ではなく、なぜか播磨国風土記が伝えている。記紀はまだ狭かった畿内の版図を押しひろげ、日本統一を前倒ししているのである。そのときに場所も入れ替えている。出雲や九州にまで遠征しているわけではあるまい。過去の地方王朝の成立譚を山ほど取り込み、ヤマトの事跡と言い張っているだけの主観的歴史観に過ぎない。
 

 
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地図でみる生駒山の信仰と物部氏

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物部氏の痕跡は生駒山山麓に、南北に長く広がる。
南は八尾市・堺市といういわゆる南河内一帯~北は枚方市・交野市にまで連なる。
 
南の核は石切剣矢神社である。デンボの神様、天照國照彦天火明櫛玉饒速日命とその皇子であるウマシマジ命を祭っている。今は物部氏のというよりも民間信仰のメッカであるが、代々宮司は物部氏支流の穂積氏が勤めてきた。
 
北は肩野物部と呼ばれた交野市の磐船神社が中心。
 
 
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聖徳太子時代までの物部氏の版図は、さらに北上して京都市の稲荷山南部、藤森神社にも広がっていたと思われる。また奈良市では三輪山の北部一帯~天理市石上(いそのかみ)にも石上神宮と古墳群が存在する。
 
こうしてみるとやはり物部氏の本体は大和よりも河内であったことがわかる。
継体大王時代には磐井の乱での功績で、本宗家か筑紫へ多くが移動している。
近畿の領地は守屋の乱以後、すべて蘇我氏のものとなり、それが秦氏などに割譲されていった。
以後、竺紫物部氏が事実上の本宗家になってゆく。
大阪の四天王寺には守屋の敗残者の祭祀者が入れられ、守屋の霊も、当初の東成区のカササギ森の宮(環状線森の宮駅前)から四天王寺へ移され、今でも守屋の霊を祀る祭が彼らの子孫によって執り行われている。
 
守屋の領地には多くの軍事倉庫とその集団の神社が点在し、靫負集団の痕跡や馬牧なども点在している。
それらは蘇我氏滅亡後は天皇の領地となり、交野は狩猟区となり、そこからまた藤原氏などへ切り分けられたようだ。天野川にそって、私市は天皇の領地地名である。そこから磐船街道で168号線へ向かうと、右手に磐船神社があり、ニギハヤヒを蛇神として祀ってあり、さらに南下するとナガスネヒコゆかりの鳥見に出る。168号を東へ行けば京都府綴喜郡の京田辺市に出る。筒木は息長氏の領地であり、継体天皇の山背の宮があった。
 
 
東大阪市の石切一帯が日下である。
日本国号の元となった重要な津であった。
 
現在大阪市があるほとんどの敷地は、かつての大阪湾=住之江の海の下で、かろうじて上町台地だけが湾に浮かぶように南北をつなぎ、北の端は今の兵庫県垂水である。
この囲まれた湾を環境考古学上、古河内湖と呼ぶ。縄文海進である。住之江湾は今の枚方市よりさらに北の八幡市~淀まであったと考えられ、古地図では岩清水八幡宮のある男山は巨椋池の中に浮かんだ島のように描かれている。木津川、宇治川、桂川が合流するこの場所は、かつての大湿地帯で、行く手をはばむ葦の原であった。埋め立てられたのは秀吉の時代である。おそらく男山まで物部氏の領地だったのだろう。
八幡市は今でも土地が低く、少し前は台風で船がでることもあった。
 
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休日をうっちゃるアイテム・日本列島環境地図あれこれ

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すべて古代史に関係する重要資料であるが、ほとんどの歴史好きと自称する人種が、まったく省みようとしない地図あれこれ
 
 
あなたのひまな時間をうっちゃるための楽しい地図各種
 
じっと見ていれば古代史ヒントが「あっ!」と見えてくること請け合い。
 
 
日本の火山
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九州の火山
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火山帯と温泉分布図
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日本列島の樹林帯(縄文時代)
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日本列島の地質と花崗岩分布
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最後に2013年豪雨が降った地帯と豪雪地帯
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これでだいたい住環境としての向き不向きを判断できるだろうと思う。
花崗岩が多いところは、大地震が来たら簡単に地盤がくずれる場所でもあるし、製鉄地帯でもあるし、農業にも不向きな地質になりやすいし、落葉樹林に向いているし、地質基盤が脆弱なために河川決壊や落盤や土砂崩れに弱い地質が上に乗っかっている。すると森林破壊するともとにもどりにくくなる(西日本)。
縄文人が樹木を切り出して西日本には住めなくなったから東へ戻ったという視点も出てくる。
 
今年の豪雨地帯と、通常豪雪地帯は一致する。
毎年真夏には、東日本は天候不順が多く、西日本は安定している。この東西と言う見方が、今年はあきらかに南北へと変化している。豪雨と旱魃の境目ははっきろと日本列島を南北に区分けしている。つまりこれは縄文文化、蝦夷という民族が住んでいた環境なのである。
 
北日本、つまり日本海側は理不尽な環境を一年中おしつけてくる地域であり、関東から以北の太平洋側は地震と竜巻が非常に多い地域。首都が近畿にあった理由のひとつである。東京は非常に危険な地盤と環境に置かれていると誰が見てもわかるはず。
 
 
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鹿深臣と甲賀郡・主観的郷土史からは真実がなかなか出てこない

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「敏達十三年(584)秋九月 百済より鹿深臣きたり、弥勒石仏一躯あり」『日本書紀』
敏達天皇13年(584年)百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていた。それを馬子が請うてもらい受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出した。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信尼を導師として禅蔵尼、恵善尼を得度させた。馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬った。馬子は石川宅に仏殿を造り、仏法を広めた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E9%A6%AC%E5%AD%90
 
 
鹿深臣(こうかの臣)→甲賀臣(『元興寺縁起』)
滋賀県甲賀(こうか)郡の地名の元になった百済系渡来人。
かぶか、かふか→かうか→こうか
百済に「こうか」なる地名あるいは人名は?不明。
甲賀の語源が鹿深臣だと決定する根拠は?不明。
逆に甲賀に入って地名を名乗った可能性は?帰化人の習慣から80%
では鹿深臣は甲賀地名由来でない確率は?80%

この渡来人と信楽焼きや甲賀御庭番などとの関係は?まったく不明。
 
そもそも近江全体が渡来人によって作られた国である。
伊香連、坂田酒人君、息長君、犬上君、依知秦公、佐々貴山君、 蒲生稲寸、安直、甲賀臣、小槻山君、近江臣、小野臣、和邇部臣、三尾君、角山君・・・すべてが渡来系。
先住の縄文人を追い出して渡来が棲みついた近江国は近畿におけるリトル朝鮮(関東では北関東群馬・栃木・埼玉)であるので、特に鹿深臣・甲賀臣がとりたてて甲賀郡全体に何らかの影響を与えたと言う証拠は見られない。
 
甲賀杣(そま)との関係を県文化財保護課の研究員が発表しているようである。杣とはキコリのこと。
ということは木を切り出す番匠(ばんじょう)のことである。ならば近江国蛭谷君ヶ畑の木地師に轆轤を教えた惟喬親王とはこうした渡来氏族のことか?さあ?

甲賀はそもそも「こうか」と発音するのが古い。「かふか」は単なる日本語の音訓表記に過ぎない。読みはあくまでも「こうか」である。「かふか」が「こうか」に訛ったとなどという説は本末転倒である。地名の音訓は表記の前にある、これは常識である。
ほpとんどのサイトが主観的意見に終始しており、客観的意見を書いているものは皆無である。これがいわゆる郷土史というものの実情である。
 
コネタであった。
 
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Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
Kawakatuワールドなんでも拾い上げ雑記帳http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/
公開ファイルhttps://box.yahoo.co.jp/guest/viewer?sid=box-l-fvgengtor7cxqhm2yl67btflty-1001&uniqid=1fdad918-856d-4ca3-b548-8fd1cee36ef3#du%3D1fdad918-856d-4ca3-b548-8fd1cee36ef3%26ds%3Dbox-l-fvgengtor7cxqhm2yl67btflty-1001%26tu%3D2f6031c4-8123-4594-9459-b3c41f641e11%26ts%3Dbox-l-fvgengtor7cxqhm2yl67btflty-1001%26vt%3Dpublic%26lf%3Dlist%26ls%3D1%26lm%3D20
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邪馬台国分析用図解資料1

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封泥
 
 
 
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出展 「邪馬台国九州と近畿」 2010年平成22年 
九州国立博物館トピック展・大阪府立弥生文化博物館共通資料
 
 
 
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放射性物質流出と海産物/将来の日本へ、世界へ

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Home> 特集> 水産物の放射能汚染から身を守るために、消費者が知っておくべきこと
(一部は紙面の容量のつごうで割愛しています。原典にあたってください)

水産物の放射能汚染から身を守るために、消費者が知っておくべきこと

海に放出された放射性物質はどこに向かうのか?

福島原発からは、大量の放射性物質が海洋投棄されました。海洋に排出された放射性物質の中で、量が多いのはヨウ素とセシウムです。これらは水溶性なので、水に溶けて、海流と一緒に移動します。放射性物質の移動パターンは大きく2つに分けられます。
  1. 外向きの流れに取り込まれ、外洋へと向かいます
  2. 沿岸流に取り込まれ、沿岸伝いに拡散していきます
 

1)外向きの海流

放射性物質を含む海水が、外向きの海流に取り込まれると、太平洋の真ん中へと流されていきます。その過程で周りの海水と混ざって、どんどん 薄まっていきます。福島の原子力発電所の海水がどのように移動するかを文科省のJAMSTECがシミュレーションをしています。
発電所前の海水の濃度の実測値を参考に排出された放射能濃度のシナリオを作ります。高濃度汚染水の排出を抑えた4月9日以降、低い値が続いています。
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これらの汚染水がどのように流れていくかをシミュレーションしたのが、次の図です。
5/1には、福島沖にセシウムが広がっています。放射性セシウムの基準値は90Bq/Lですから、灰色と水色の境目の線は、海水中のセシウムの濃度が9.0Bq/Lになります。海産魚は、環境の100倍ぐらい放射性セシウムを濃縮しますから、魚の汚染は900Bq/kgまで進行することになります。魚の暫定基準値は500Bq/kgですから、この値を超えます。海水の汚染が基準値の10%以下であっても、そこに生息する魚から基準値を超える汚染が検出される可能性があります。海水の放射性物質の計測では、検出限界が10Bq/Lぐらいですから、海水から放射性物質が検出されなくても、魚の汚染が暫定基準値を上回る可能性はあります。水産物の安全性を知るには、海水の汚染を計測するだけでなく、魚の汚染を直接確認する必要があります。
 
現在、福島沖に対流しているセシウムが、今後は沖に流されていきます。JAMSTECは6/15までのシミュレーション結果を公開しています。5/31の時点での予測はこんな感じです。三陸方面と茨城方面の2つの経路があります。この間で、どこを通るかは、現時点では確定していません。幅広い可能性があると言うことです。ヨウ素は半減期が短いので、この時点で検出不可能になります。魚に取り込まれた放射性ヨウ素も減少しますので、ヨウ素のリスクは大幅に減ります。
6/15になると、セシウムが広域に拡散し、薄まっていきます。水色の領域は、0.9-9.0Bq/Lです。濃縮が100倍として、魚の体内の濃度は90-900Bq/kg程度ですから、完全には安心できないのですが、この先の汚染は少ないと思います。新たに汚染が蓄積することよりも、すでに生態系に取り込まれた放射性物質が食物連鎖を通して、移動をしていくプロセスに注意が必要です。
福島周辺海域は、親潮と黒潮のぶつかり方によって、海流の方向が大きく変わります。シミュレーションの予測の精度は高いとは言えません。5/1以降の結果は、目安程度と考えて下さい。福島と隣接する県が汚染水の通り道となる可能性があります。福島、宮城、茨城の周辺海域は、しばらくは注意が必要です。
 

海域と安全性に関する考察

福島周辺の冷たい水は黒潮の温かい水と混ざりませんので、黒潮が大きく離岸しない限り、犬吠崎よりも南に汚染水が進入するのは難しいと思われます。外向きの流れに取り込まれた放射性物質は、親潮にぶつかって南下した後、黒潮にぶつかって太平洋の真ん中に押し出されます。下の図は、文科省JAMSTECの予測図の一つです。図のオレンジの点線の上が親潮系、下が黒潮系の海水なのですが、汚染水が黒潮系の流れに進入できず横に流されていくのがわかります。南下してくる汚染水に対して、黒潮が壁のように立ちはだかっているのです。点線より上の親潮系は、海流次第で、汚染水の通り道になり得ます。一方、黒潮系の水が汚染水を跳ね返します。ということで、点線の上と下とで、汚染リスクが大きく違うのです。
 
親潮系(茨城以北)→要注意?
  • 汚染水の通り道になる可能性がある
  • 暫定基準値を上回る魚(いかなご)が発見されている→食物連鎖の懸念
黒潮系(千葉以南)→しばらく安心か?
  • 汚染水の通り道になる可能性が低い
  • 暫定基準値を上回る魚が発見されていない
 

2)沿岸流 (沿岸の局所的汚染)

放射性物質を含む海水の一部は、外側の流れに乗らずに、沿岸に滞留します。ゆっくりと希釈されながら、沿岸を漂います。大気から陸上に落ちた放射性物質が、雨に流されて、河川から海へ流れ出してきます。原発近傍の沿岸地域では、放射性物質が海底の砂や、海草類に取り込まれて、汚染が長期化する可能性があります。
 

福島原発周辺の海底土の汚染について

5/3に、福島原発から10km北の小高区沖合い3km地点の海底土の汚染が報告されました。セシウム137が1400Bq/Kgですから、すでにセラフィールドの1980年代の値に匹敵します。今後は、河川を通じて、陸上に落ちたセシウムが沿岸域に流出してくるので、汚染の長期化が懸念されます。また、現在は、ヨウ素とセシウムのみ計測されています。プルトニウム、アメリシウム、ストロンチウムなど他の核種の調査が必要です。
http://www.tepco.co.jp/cc/press/betu11_j/images/110503m.pdf
 

放射性物質の核種について

放射性物質には、ヨウ素やセシウムなど、様々な種類があります。それぞれ、挙動が違います。
 

生態系における放射性物質の濃縮について

海洋に放出された放射性物質は、プランクトンや魚に取り込まれます。その後、放射性物質は食物連鎖を通じて、海洋生態系を循環します。生物の種類によって、放射性物質の取り込みやすさが異なります。それぞれの生物が、放射性物質を体内に蓄積するかは、濃縮係数というパラメータで表現されます。
濃縮係数=生物の体内の放射性物質の濃度/環境の海水中の濃度
イカタコ9
植物プランクトン20
動物プランクトン40
藻類50
エビカニ50
貝類60
100
イルカ300
海獣(トド)400

食物連鎖を通じた放射性セシウムの移動(捕食者への時間遅れの汚染蓄積)

チェルノブイリ事故で汚染されたキエフの貯水湖では、餌となる小型魚(上)のセシウムの値は事故の後すぐに上がったのですが、捕食魚(下)のセシウムの値は翌年になって跳ね上がりました。食物連鎖を通じて、上位捕食者に時間遅れで放射性物質が伝わったのです。Chernobyl’s Legacy: Health, Environmental and Socio-Economic Impacts
チェルノブイリの事故後で、日本近海の表層海水の汚染のピークは1月後、スズキの汚染のピークは半年後、マダラの汚染のピークは9ヶ月後でした。(海生研ニュース No.95 p7より引用)。
下の図は茨城のヒラメから検出されたセシウム(Bq/kg)です。生態系に取り込まれたセシウムが徐々にヒラメに蓄積されつつあるようです。チェルノブイリの時と同じことがおこるなら、今後も高次捕食者に汚染が蓄積されていき、半年~1年後にピークになるでしょう。継続的に汚染状況を確認し、汚染がどこまで進むのかを見極める必要があります。

汚染からの回復

魚が放射性セシウムで汚染されたからといって、その魚を未来永劫食べられなくなるわけではありません。チェルノブイリの湖でも、被食魚は事故後2年、捕食魚は事故7年後で、日本の暫定基準値(500Bq/Kg)よりも低い値まで汚染が減少しました。海産魚は、淡水魚よりも、放射性物質の減少が早いと考えられています。その理由は、湖は閉鎖系なので、水中の放射性物質の濃度が下がりづらいことと、淡水魚は浸透圧調節のために、カリウムやセシウムなどのイオンを体内に取り込むのに対して、海産魚は体内の浸透圧調節のために、カリウムやセシウムなどのイオンを積極的に排出するからです。チェルノブイリの事故で、日本近海の海産魚の放射性セシウムの濃度が上昇しました。事故以前の濃度レベルに回復するのに要した時間は、スズキで1.7年,マダラでは2.5年でした(海生研ニュース No.95)。
海産魚の場合、水槽実験では、体内の放射性セシウムの濃度が半分に減るのに50日かかることが解っています。たとえば、基準値の倍のレベルまで汚染された場合には、(餌がクリーンであれば)基準値まで下がるには50日程度かかるいうことです。福島のイカナゴからは、14000ベクレルという高濃度のセシウム汚染が観察されています。基準値の28倍ですから、半減期が50日として計算をすると、1年せずに暫定基準値よりも下がることになります。詳しくは、こちらの説明をご覧ください。排泄の速度は魚の種や、代謝コンディション、餌の汚染度合いなど、様々なファクターが聞いてきますから、あくまで目安程度です。
水産庁の公式見解では、「たとえ放射性セシウムが魚の体内に入っても蓄積しません」となっていますが、楽観的過ぎると思います。放射性セシウムは魚を含む生物に蓄積されて、数ヶ月から数年のオーダーで生態系に残ることが、野外調査および水槽実験から知られています。くれぐれもご注意ください。

ポイント

  • 海水の汚染の流出を食い止めるのが重要→安全性の議論ができるのは、汚染の進行が止まってから
  • 魚は環境の100倍の濃度にセシウムを濃縮する→海水からセシウムが不検出でも安心できない
  • 放射性物質は、食物連鎖を通して循環する→食物連鎖を通じた移動に注意
  • 海水魚に蓄積されたセシウムが半分になるのに50日かかる→数ヶ月~数年オーダーで汚染は残る
  • 汚染の度合いから、浄化に必要な時間の予測は可能
 
 
 


 
 
 
 
ぼくの素人考え
海産物はすでに全地球的に危険が建前であると思うが、放射物質は、すでに子孫を作らない世代は少々取り込んでもすぐには影響もなく、安全だとは言えずとも食べても大丈夫だろう。しかしそれ以下の世代には、海産物が世代を重ねるごとにどんどん危険量は増してゆくから食べないにこしたことはないだろう。
 
ということは、海洋食料を産業とする業態にとって、今後の将来性は風前のともし火であるとしか言えなくなる。
 
 
ということは早急な税率引き上げが必要であることも否めない。
 
もしこのまま原発の放射性物質流出を日本が止められないままでいると、世界中が日本をダメ国家として糾弾するだろうことは目に見えている。
 
 
遠洋も近海も、日本海も、大西洋も、すべてが海流輪廻の仕組みから切り離された地域であるとはいえない。
 
そういった意味で、日本は痛恨の過失を犯し、世界に冠たる地球環境破壊者と、未来に世界の教科書に書かれる運命と責任を背負ってしまったことになる。
 
 
これは日本の未来にとって致命的に暗澹たる未来をもたらす、先の戦争以上の「最悪の犯罪」を・・・・
 
 
 
 
あとはもう言葉にならない。
 
 
 
 
未来の若者に幸あれ。
ざんげではすまない罪を犯したことを許せ。
 
 
 

スポーツと寿命

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不老長生という言葉が中国にある。
養生という言葉もある。
 
スポーツ活動と心筋症(突然死を含む)
「重量挙げ、レスリング、砲丸投げなどの静的運動(等尺運動ともいいます。いわゆる筋肉トレーニングが主体の運動です。)では、筋肉が急に縮まるような運動なので、心臓には圧力の負担がかかり、心臓の壁が厚くなって、重量も増えてきます(求心性肥大)。一方、マラソン、水泳などの動的運動(等張運動ともいいます。いわゆる持久力トレーニングが主体の運動です。)では、心臓から一回に送り出す血液の量が増えるため、心臓には血液量(容量)の負担がかかり、心臓の容積が増えます。結果として心臓は拡張という形で大きくなり、それに伴って心肥大となります(遠心性肥大)。」
 
 
いわゆるスポーツ心臓という症状である。
肉体を鍛えるプロスポーツマンが意外に長生きしないという主観的意見がある。
 
 
過激なスポーツの選手は
活性酸素の害で様々な障害や短命に

春山茂雄・田園調布厚生病院長著:「脳内革命」(サンマーク出版刊)から
 
 
  いい呼吸をしながら、楽な運動を長時間やると、酸素がたっぷり供給され、脂肪はどんどん燃えてくれます。脂肪を燃やす運動として最適なのはウォーキングです。私の病院ではマンツーマンで小1時間やってもらいます。これでずいぶん効果を上げています。
  ゆるやかな運動は脳内モルヒネも分泌させます。これが運動そのものを心地よいものにしてくれる。食事をしてから少し休憩して、それからウォーキングをすると、多少の食べ過ぎであっても、脂肪はどんどん燃えてくれます
 
■ 歩行が1日トータルで1万3千歩が目安
  なお、ウォーキングの量は1日トータルで1万3千歩が目安です。日常的にも歩きますから、ウォーキングでは8千歩から1万歩でよい場合もあります。これは個々のライフスタイルから計算してみてください。
 
■ 誰か仲間と行うことが長続きのコツ!
  問題はゆるやかな運動が、現実的にはなかなかこまめにできないことです。よいとわかっていても、なかなかできない。私の病院では患者さんに怠けずに続けてもらうために、相手をする人間をつけているのです。」
 
 


 
 
もっとも検索でヒットしたのはこの病院サイトだけなので、一概にスポーツすべてがダメなんだとはなかなか統計がないようだ。
 
翻って、狩猟生活と農耕生活では、これはもう圧倒的に農耕安定生活の長寿・・・・とはなっていない。
寿命とは個人のものであって、同時にその民族、集団、民族のものでもある。
縄文の狩猟生活でも、弥生の農耕生活でも、寿命に大差がないのは、医療がないことや衛生観念の欠落、流行り病が起きるなどなど、古代から明治初期あたりまでほとんど変わらない。日本人の平均寿命はこの間、ほとんど18歳で動いていない。え?18歳?まさか・・・と思うだろうか?
 
平均寿命はあくまでも平均であって、個体によっては非常に長生きする人もいる。そういう人は歴史に記憶された時代なので、文献などからは古代人が長生きでなかったことがなかなか伝わらない。戦国時代でも信長が舞ったように「人間五十年」が普通なんじゃないの?と思うだろう。しかしこれはあくまでも武家などの特別な人々の人生観であって、民衆は30そこそこで死んでしまう。それでも長生きだったのである。つまり統計すると幼児の死が非常に多かったので平均がぐっとさがるのである。
 
10歳までに死んでしまう乳幼児・児童は総数の半数を大きく上回る。
 
これを「神に食われた」と考えた時代が久しかった。
神に食われるを丁寧に言うと「召される」である。
 
神に召されるとは、往古にはまさに食われた=突然死・病死・災害死だった。
 
 
昨夜、プロ野球の土橋さんが77歳で亡くなった。
野球選手で100まで生きた人を筆者は知らない。
99まで生きて死んだスポーツ選手の話題もついぞ聞かない。
ニュースで死亡年齢を聞いてきたけれど、スポーツ選手は多くがかなり早く死んでいるようで、もちろん有名選手しか報道がないから、無名の人やアマチュアがどういう実態かは統計が見てみたい。
 
 
少なくとも激しい運動を毎日毎時やらねばならない運動選手の場合、当然肉体は酷使される宿命にあり、当然肉体疲労も激しい。もちろん遺伝子もあるし、条件次第ではそうでもないのだろう。だが張り切り過ぎないほうがいいのは確かのようである。
何か最近はチャリティTVというとマラソン完走が流行であるが、寿命を縮めているというしかない。そこまでして感動を売り物にして、義援金を募らされ、場合によっては笑いものになるのが、彼らの仕事だというのなら、もう少し本業の芸を磨いてもらうほうがありがたい気もする。そもそもそういう作られた主観的な感動とは無縁なので、さっぱり見る気もないが。
 
散歩は非常にいいそうである。
しかしそれではテレビ的には絵になるまい。
大汗かいて、能力以上のことをやって見せるから見るものは感動するんだろう。
考えてみたら見世物ではある。しかも見苦しい見世物が多い。
 
 
暗黙のうちに、視聴者はそれを求め、押し付けているわけである。
その対象者がもし画面の中で昏倒し、死亡でもしなけらば、このアホなバカサワギは終るまい。
 
 
狩猟民族でさえ、狩猟に頼りきっていたわけではない。ちゃんと畑作も貝の採集も、ドングリ拾いも、クリなどは栽培していた。確かに狩猟は目立つ行いではあるが、人間は主食が必要で、あまり目立たない採集のほうが、つまり女性の保守的作業のほうが毎日の食生活を守ったのだ。男どもは馬鹿騒ぎして狩猟冒険に出かけるが、獲物などはとれるかどうかわかったものではない。つまり目立つけれど狩猟は祭のようなものである。男意臭い大集団で大挙して何日も出かけ、ボウズは当たり前だったわけだ。要するに男とは、お祭騒ぎして名誉のために生きていた動物である。
 
弥生時代に農耕が定着したからと言って、その狩猟を男たちがまったくやめたわけでもない。こういうところをこれまでの学問は、両極に置きすぎている。そのほうがわかりやすいからそうしてきたが、見直されるべきである。
 
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こんなの見たい奴って、間接的人殺しだよね。
 
 
 
クリックするたび寿命は一秒延びます
うそです
 
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邪馬台国研究資料2 /志麻国・肥君猪手系図・単龍文環頭剣など

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◆肥君猪手(ひのきみいで)の家系図
大宝二年・正倉院文書戸籍・筑紫國嶋郡川邊里戸籍・大領「戸主・追正八位上勲十等肥君猪手」総数124人
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古墳時代終末期702年(飛鳥時代)の九州の父性制度の代表パターンである。(北山茂夫・門脇禎二・井手正子)
 
資料小田富士夫『古代九州と東アジア Ⅰ』 同成社 2012
 
肥君(ひのきみ)は本来、肥後八代郡肥伊郷(熊本県八代市宮原町近辺。八代郡竜北町(現八代町)野津古墳群周辺)を本拠とする豪族。「百済本紀に曰く筑紫君の児、火中君(ひのなかのきみ)の弟なりという」(欽明紀17年)
 
火中君は熊本県北西部、玉名市~菊池川沿線の豪族。
 
筑紫君磐井死後、筑紫君は肥君と婚姻を結び国造家を交替したようである。(継体紀527~8年)上田正明
筑紫君を母方とする火中君の弟が筑紫君の名を復姓化国造を継承した」井上辰雄
それで筑紫国造家があった志麻郡の川辺郷へ移住し、宅蘇吉志(たこそのきし)の娘をもらって猪手が生まれ筑紫国造家として一家を成したようである。大化前に肥君は竺紫物部氏に従属し、その後物部氏が衰退して中臣氏にこの関係が受け継がれた。門脇
ようである。物部氏の前はおそらく大伴氏の配下にあったのではないかと考えられる。Kawakatu
 
肥君は火君が古い表記なので、火中君はそもそも親戚関係であろう。中の君とは次男か?吉備から熊本南部八代葦北に入った火葦北国造(吉備出身自称)とはまた別種であろうか?
「君」は在地オリジナル勢力のはずだが、国司らは中央派遣だったとするなら、河内政権時代にはじまる関係か?それが国造を勤めることは地方では一般的。いわゆる地方政権の丸投げとも言える。国司が中央勢力では在地勢力がまとまらなかった地域=旧王家?だったからだろう。
 
 
中君は四世紀以降、中央へ菊池川凝灰岩を送っていた勢力と見てよかろう。
 
 
糸島半島には九州の特徴的古墳である装飾古墳が少ない。
 
川辺は筑紫君=筑紫国造だった時代に彼らの本拠地だったようだ。
 
しかし邪馬台国時代の人口は非常に少なく、伊都国が官庁街的な場所だったと思われる。奴国の人口に比べると異常に少ないので、奴国は実生活のある都市であったが、伊都国・志麻国はどちらかといえば邪馬台国の対外的迎賓港の国だったのであろう。
 
奴国の板付遺跡より東には、半島海岸部の倭人が来ており、稲作様式が西側とは違う。埋葬形式も違う。西側は東シナ海・有明海からの江南形質の遺伝子が早くから入っており、これが縄文系と混血した痕跡がある。
東側は稲作と遠賀川式土器が東へ移動しており、あきらかに人種の違う倭人が北部九州の東西に住み分けていた。しかし西側の甕棺や江南遺伝子のコメはその後行方不明になっている。
 
 
地名に久米(くめ)、可也山(かやさん)、唐泊(からどまり)などがあり、海人系倭人の久米部や半島伽耶国由来であろう。久米を先住縄文系海人族とし、伽耶や唐を半島人由来とすれば、稲の栽培法、人骨遺伝子などと合致する。しかしここでは縄文系は西側ほど混血融合がなかったようでもある。
 
現在の北九州と博多の言葉や文化の相違はすでに弥生早期に始まっていたと見られ、秦氏などの来訪を繰り上げる可能性も出てくる。
 
 
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飛鳥酒船石遺構と導水施設の全国分布図・三井語源

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奈良県飛鳥で発見された亀石遺物などを含む飛鳥遺構は導水施設であり、その高台に置かれた酒船石は、導水施設模型であることはもう明白となったと言っていいだろう。
 
 
 
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  飛鳥酒船石遺跡の導水施設 素材は花崗岩
 
 
 
 
 
 
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                  酒船石・手前の水槽から三ヶ所に水を分ける
 
 
 
 
 
平成4年(1992年)に酒船石の北の斜面で石垣が発見され、『日本書紀』の斉明天皇の時代(600年代中盤)に記述される工事に該当する遺跡と推測されている。記述中の「宮の東の山に石を累ねて垣とす」の「宮」が、酒船石の南西にある伝飛鳥板蓋宮跡であり「東の山」が酒船石のある丘ということである。
 
 
以前、このブログでは全国に点在する導水祭祀遺構、遺物の出土例と三点湧水からの導水、三川合流地点の三角状突起地帯での水の祭祀が古墳時代から飛鳥・奈良時代を通して行われたことを解説した。
 
 
では今回はさらにそうした同様の祭祀施設のこれまでに発見された全国分布を見てみよう。
 
◆全国導水遺跡・遺構分布図
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すべての遺構・遺物に共通するのが「樋」と中心に置かれるやや広い水浴遺物(水溜遺構)である。
 
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木造が多いが、石造もある。
 
 
 
 
 
中でも注目に値するのが三重県宝塚古墳出土の遺構モデルの埴輪や八尾市心合寺山遺跡出土の導水施設付き家型埴輪や、群馬県高崎市の三ツ寺遺跡導水遺構や東京都世田谷区野毛の野毛大塚古墳木製導水遺物である。その祭祀形態はみな、水の祭祀による1 祖霊の招来祭祀 2 禊祭祀 などのためにあったと考えられる。
 
 
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◆三点湧水のシステム
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◆その古墳バージョン
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これをミニチュア版にして宮施設内に取り込んだのが飛鳥酒船石遺跡になる。
 
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さらにコンパクトに埴輪にして古墳に納めたのが心合寺山や宝塚古墳である。その被葬者が水の祭祀によって生前、地域の巫覡王(かんなぎおう)だった証拠であろう。
 
 
野毛大塚古墳出土の木樋型石製品を今回は取り上げる。
 
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拡大してみると・・・
 
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酒船石の亜種デザインになっていることがわかる。
 
酒船石遺構は背後の多武峰(とうのみね)にあったとされる飛鳥両槻宮(ふたつきのみや)の一部、あるいは両槻宮への入り口施設としての意味で作られたと学説は言うけれど、斉明天皇伝飛鳥板蓋宮跡であるとする意見も根強い。
 
 
◆三井・御井語源は三点湧水
全国に「御井」「三井」地名はある。「みい」「みつい」などと読む。
一般に三つの井戸があったところなどとも言うが、原点はこの古墳時代あたりから始まった水の祭祀の三点合流・湧水という地形にある。三川合流地の聖地としての意味合いは、当然、女子の陰部の形であったことである。
なぜならそこから子孫が生まれ出るからにほかならない。要するに三が聖数であることは間違いないが、その三つが聖なる数になったそもそもは、三つの流れが作り出す三角形の突出部が祭祀の重要地点なのである。これはのちの水分(みくまり)=分水嶺、あるいは道祖神が置かれることの多い三叉路信仰にもあてはまる。(中沢新一・アースダイバー理論)そして出雲の四隅突出墳における突出もまた祭祀場である。これらは極めて道教思想に近い観念を体現している。
 
ということは、この祭祀のさらに古い源流は弥生時代、縄文時代にまで遡ることtなり、その様式・観念の源流は地域的には中国華北・華南からベトナムドンソン文化、さらには日本人遺伝子の源流であるバイカル湖湖畔の北方系アジア民族のふるさとにまで遡れることとなるのである。日本では先に華南文化の神仙思想が九州から関東へひろまり、あとから華北の道教が畿内中心に広まっている。
 
 
 
 
◆水鳥と鹿と弓の祭祀とデフォルメ・契約する鹿と弓を持つ人
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愛知県朝日遺跡の三点湧水遺構付近からは銅鐸が出土している。(上図上から7番目ブルーの図)
すると銅鐸にはこのような祭祀場鎮撫の意味合いもあって埋められたことがわかるのである。
 
 
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                   水辺のゴイサギ
 
 
 
 
◆水の祭祀と製鉄カンナ流し遺構の関係
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非常によく似た形状になっている炭窯遺構である。
炭窯には水と同じく風を送る導風施設の溝が必要である。
あるいは製鉄遺構のカンナ流し施設でも、溶かした鉄を長大な溝に流して冷まし、中央の炉に集合させる同様の施設が作られた。これらも子供(子孫)としての炭や鉄が中心部から生まれることを女体に置き換える着想観念が工人たちに生まれ、それが民間の「神」ー祖霊信仰につながった。
 
 
◆塩堤との関係
塩もまたカンナ流し製鉄遺構や水祭祀遺構とよく似ている日光による乾燥施設を持っていた。
 
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塩堤の全国分布図(古代~中世)
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◆三点合流地に造営された街
筆者は継体大王山城の宮などは三点合流していた時代の木津川に造られたと考えている。
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このように三角地点は聖地であった。
そしてこの祭祀形態のアイテムの分布こそは、飛鳥時代のやっと芽生えた大和朝廷の版図だったと考えてかまうまい。もう一度分布図を見られたい。
 
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東は北関東~西は豊までがその版図である。筑紫はこのときまだ、中央祭祀を模倣する完全なる臣下足りえていなかったのではなかろうか?
 
参考資料 森浩一編『春日井シンポジウム 水とまつりの古代史』大巧社 2005
 
 
 
 
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装飾古墳画像鑑賞と再考 その1/鬼ノ岩屋2号墳

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別府の古墳だからサルと温泉タグだよ
 
 
大分県別府市上人
鬼ノ岩屋古墳2号墳石室 推定編年6世紀後半
 
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小田富士夫『古代九州と東アジア』より
 
 
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この部分が奥室?    蕨手氏撮影
 
 
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円紋
 
 
 
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蕨手氏撮影
 
 
 
 
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奥壁の唐草?絵柄はすっかり退色しており、実物では把握不可能。
1号墳の南西約80メートルにあり、直径約30メートル、高さ約6メートルの円墳である。石室は、単室の横穴式石室で、奥行き8メートル、玄室の天井高約4メートル。壁は石材をアーチ状に積層した構造を有する。玄室内部は、全面が赤色に塗装され、黒色で多数の円文、蕨文等が描かれている。
 

鬼の岩屋古墳群 ( おにのいわやこふんぐん)

東九州屈指の石室規模と石屋形をもつ古墳群

〈帆足 万里(ばんり)も注目した特色ある古墳〉
 別府市大字北石垣字塚原にある 横穴式石室 を主体とする2基の後期古墳。1号墳は奥室に 石屋形(いしやかた) を設けた複室構造、2号墳は巨石を駆使して築いた巨大空間の 玄室(げんしつ)をもつ単室構造の横穴式石室というように、後期古墳の代表的石室構造を併せ持つ古墳群として考古学上重要な意義をもつほか、6世紀後半~末にかけての速見郡における最大クラスの首長墓としての位置をもつ古墳群である。昭和32(1957)年史跡指定を受ける。

 別府市では 鶴見岳 の裾野の広大な扇状地形のなかで、 春木川 の北側に鬼の岩屋古墳群、南側に 実相寺(じっそうじ)の 太郎塚 次郎塚 が知られている。後者はどちらも外見上ありふれた規模の古墳であるが、このうちの太郎塚古墳から出土したと伝える、 唐草文(からくさもん)の透かしぼりが施された金銅製の 杏葉(ぎょうよう)が地元に残っており県指定の有形文化財となっている。また、同じ実相寺古代公園のなかに2基の 家形 石棺(せっかん) の残欠が保管されている。これらは、頂部平坦面の大きさや縄掛け突起などの形態的特徴から7世紀代のものと推定され、いわゆる終末期古墳の情況を知る数少ない資料として極めて貴重である。この種の家形石棺は地方では非常に珍しく、東九州では大分市 丑殿(うしどの)古墳 や福岡県勝山町綾塚古墳にその系譜をたどることができる。
〈巨大な玄室の2号墳〉
 1号墳の南西およそ100mのところに2号墳がある。こちらももとの形を推定できる墳丘は全体の約4分の1ほどにすぎないが、玄室奥壁を中心として直径26~30mほどに復元できる。

 主体部の横穴式石室はほぼ東南方向に開口し、現在全長8mである。 羨道(せんどう)部は、長さ3m、幅1.8mある。玄室との間にある袖石の外側には、奥壁に向かって左側の扉石のみ遺存している。扉石は観音開きの構造になるよう中央部に合わせ目の仕口がある。玄室の規模は、奥行き4.2m、幅3m、天井までの高さが4mあって、ほぼ8畳敷の広さの座敷に匹敵する。奥壁側には40㎝の厚さの巨大な板石を敷いて 屍(し)床としている。また、奥壁に向かって右側の袖石近くにも横幅1.1mほどの大きさの天井石を欠いた石屋形風の施設がある。
 
石室の構造は、巨大な腰石を長手に立てて使用し、その上に順次巨石を平積して間隙に割石を詰めている。玄室石積は縦断面でみるとほぼ垂直に近く 箱形石室 のようにみえるが、横断面では上部にいくにつれて60~80㎝におよぶ持送りが行われて、天井面積が縮小し巨大な天井石の重量を支える力学的工夫がなされている。また、まわし石は奥壁側腰石の直上にそれぞれ1石づつ用いただけで、あとはつき合わせで構築している。
 鬼の岩屋古墳出土と伝える 須恵器(すえき) ( 高坏(たかつき) 坏(つき) 脚付長頚壷 横瓶 提瓶)や 金環 勾玉(まがたま) 管玉(くだたま) 水晶切子玉 ガラス小玉のほか馬具の帯金具とみられるものが保管されている。
 参考文献 
[真野 和夫]
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n135.htm
 
 
 
 「伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)が「筑紫嶋(つくしのしま)」《九州》を生み、そ  のうち「豐國謂豐日別」【豐國(とよくに)を豐日別(とよひわけ)と謂(い)ひ」『古事記』
 
 
『豐後國風土記』に伝えられる「豐國」の地名譚。
豐後國者、本與豐前國合為一國。纏向日代宮御宇、大足彦天皇。詔豐国直等祖菟名手、遣治豐國、往到豐前國仲津郡中臣村。于時、日晩僑宿。明日昧爽、忽有白鳥從北飛來、翔集此村。菟名手、即靭僕者、遣看其鳥、鳥、化為餠。 片時之間、更化芋草数千許株。花葉冬榮。菟名手、見之為異、歓喜云。化生之芋、未曾有見。實至感、乾坤之瑞。 既而参上朝庭、挙状奏聞。天皇於茲、歡喜之有、即耶兎名手云。天之瑞物、地之豐草。汝之治國、可謂豐國。重賜姓、袁豐國直。因袁豐國。後分両國、以豐後國爲名。

 
「豊後国は、本(もと)、豊前国と合す一つの国たりき。
纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)の御宇、大足彦天皇(おほたらしひこのすめらみこと)。豊国直等(とよくにのあたひら)が祖(おや)、菟名手(うなて)に詔(の)らして、豊国を治め遣(しめ)たまひしに、豐前國仲津郡中臣村に往(ゆ)き到(いた)りき。
その時に、日晩(ひく)れて僑宿(かりやどり)しき。明くる日の昧爽(よあけ)、忽(にわか)に白き鳥あり、北より飛び来りて、この村に翔(かけ)り集(つど)ひき。菟名手、すなはち僕者(しもべ)におほせて、その鳥を看しめしに、鳥、餅と化為りき。片時の間に、また、芋草(うも)数千を許す株と化(か)はりき。
 
花と葉と冬に栄えき。菟名手、見て異(け)しきと、歓喜(よろこ)びていひしく。「化はり生ふる芋は、未だ曾(かつ)て見しこと有(あ)らず。実(まこと)に至徳の感、乾坤(あめつち)の瑞(たまもの)なり」と。やがて朝廷に参上りて、状を挙げて奏聞しき。天皇、ここに歓喜びて、すなはち菟名手に勅りたまひしく、「天(あめ)の瑞物(たまもの)、地(つち)の豊草(とよくさ)なり。汝が治むる国は豊国といふべし」と。重ねて姓(かばね)を賜ひて、豊国直(とよくにのあたひ)といひき。よりて、豊国といひき。後に両つの国に分かちて、豊後の国をもちて名となせり。」
 
 
2号墳の蔓草(つるくさ)模様の類型はほかにはまったく皆無で、どこからきたのかさっぱりわかっていない。
いずれにせよ唐草・蔓草の絵柄はそもそもは西洋のもので、それが中国を経て東アジアに広まったことは定説である。もちろん異説の入る余地はないとは言えないが。最新の考え方では、逆に東洋から西洋への絵柄の移動はあったという見方も充分に起こり得ることである。
 
源流となる類似の絵柄が中国にない。
いや近いものはあるだろう。
一般的な唐草模様は、円弧のからまりとわらびての巻きで構成されるので、永遠の生命をあらわしていると考えられる。
 
蔓草の中に双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)と右下には靫の上半分(箱のようなもの)が見える。これは熊本県や宇佐市などでも見られる模様で、おそらく太陽あるいはスイジガイといった権威的紋章であり、やがては勲章にもなったかと思える図柄である。
 
近江の高島市には雲竜文と蕨手文を組み合わせた「神代文字」と呼ばれる、推定するに古墳奥壁の一枚石が出ている(安閑神社所有)。
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そういう共通点から類推するに、別府のこの二基の古墳の被葬者は安曇族の首長ではないかと思える。
別府市にはラクテンチ遊園地方面の山の中に横穴群集墳があるらしく、鉱物や樹木の探査を安曇が行ったのではないかと思われる。
 
 
 
参考資料小田富士夫『古代九州と東アジア』
 
次回、熊本県大野窟古墳の予定
 
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触角付有柄式銅剣=オルドス式比較

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高島市安曇川町上御殿遺跡出土鋳型によるレプリカ
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慶応大学所蔵伝中国製触角付有柄式銅剣
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佐賀県柏崎遺跡出土
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韓国ソウル市中央博物館
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柏崎レプリカ
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西王母のティアラのように先端が巻いた触角。
蝶の触角のようなそれが永遠の生を表す呪模様である。
剣に束と柄がなかったら、使い手の手は傷ついて殺される。
 
グリップエンドは剣士の命を護る道具である。
 
 
 
 
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地下式板石積石室と免田式土器/南九州の土着スタイルではないのか?

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 青●=地下式板石石室墓  ピンク●=免田式土器
 
 
 
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熊本県の南部地区を代表する弥生土器の型式に『免田式土器(めんだしきどき)』がある。
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大正7(1918)年、免田西下乙字本目の源ヶ屋敷(げんがやしき)から出土し、町名が命名された。
免田式土器(めんだしきどき)
免田式はもともと『重孤文土器(じゅうこもんどき)』といわれていた。
土器の形は、胴部がそろばん玉の形のようになっていて、やや開き気味に上に長くのびた円筒状の首(長頸)をもち、胴部の上半面には、同心円紋を半分に切った紋様(重弧文)やノコギリの歯のような形状の鋸歯紋(三角紋)、短い斜め線の綾杉紋や平行紋を描いている。
 

●免田式土器の分布
熊本県を中心とする南九州に分布する。
150ヶ所で発見されているが、熊本県は95ヶ所を占める。
特に球磨・人吉では30ヶ所あり免田式の本場であることが推定される。
県外では、北九州の行橋市、鳥栖市、八女市、武雄市、
また南は沖縄本島、具志川市でも発見されている。
阿蘇市下山西遺跡・・・竪穴住居が埋もれる最後の時期に竪穴の中央部に据えてあった。
御船町南原A地点遺跡・・・弥生時代の墓に供えるような状態で発見された。
山都町稲生原遺跡・・・ある種のお祭り用の土器であったことが推定される。
鹿児島県の北薩摩地方から熊本県人吉盆地・・・『地下式板石積石室墓』から免田式土器の変化した土器が出土。
http://yumeko2.otemo-yan.net/c4032878.html
 
 
 
 


 
 
「鹿児島県の北薩摩地方(筆者は出水郡ではないかと推定)から熊本県人吉盆地・・・『地下式板石積石室墓』から免田式土器の変化した土器が出土。」は注目できる。
 
 


 
 
 
■ 地下式板石積石室
 
石室を蓋石でおおい、その上を板石で葺き、さらにその上にとう石を置くものである。(下図)
 
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■ 韓国の支石墓と地下式板石積石室の関係
支石墓は、墓の上に大石を載せた構造の墳墓であり、韓国に起源があるとされる。韓国の支石墓の形式には、北方式と南方式がある。北方式は二枚の壁石の上に巨大な板石を置くもの。南方式は下記のように三つに分類される。
 
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■ 地下式板石積石室の年代
明神下岡遺跡では、弥生中期の一の宮式の甕形土器が見つかっている。また、出水郡高尾野町の堂前遺跡では、出土土器から、弥生時代後期から古墳時代まで数百年続いた遺跡であることがわかった。
つまり、地下式板石積石室は、弥生時代中期から古墳時代に至るまで、九州西部で継続して行われた墳墓の形式である。

 
■ 墓制折衷
地下式板石積石室と同じ分布圏に、高塚(を持つ)古墳も分布している。
川内川中流の薩摩郡鶴田町の湯田原古墳では、地下式板石積石室と高塚古墳が融合したようになっている。
内部構造は地下式板石積石室でありながら、石室を地表に築き、その上に盛り土をかぶせ、
外見は円墳のようになっている。 まさに、地下式板石積石室と高塚古墳の折衷である。
石室が大きく、鉄剣や鉄鏃などが副葬されていることから、地域の有力者の墳墓と思われる。
さまざまな事情によって、異なる形式の墓制が、折衷、融合される場合があることの例であろう。

■ 九州南部の三つの墓制圏
地下式板石積石室墓圏 (九州西岸、川内川流域など)
古墳・横穴地下式横穴混在圏 (九州東岸、西都原、宮崎、都城など)
立石土壙墓圏 (薩摩半島)
 
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 ■端の陵古墳について
端の陵古墳は前回も述べたように、地下式板石積石室を持つように見える。
しかしその外形から前方後円墳にも見える。これについては、学者の間でも見解は定まっていない。
端の陵古墳は、地下式板石積石室と前方後円墳が融合した墳墓ではないか。
端の陵古墳を前方後円墳とみた場合のかたちから、築造年代を推定すると(下図)、もっとも古い古墳に位置づけられる。
 
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端の陵古墳データ
 後円部直径 35メートル
 前方部末端幅現存10メートル(測定値Ⅰ)
 前方部末端幅推定16メートル(測定値Ⅱ)
(中略)
 
 
■ 畿内の古式前方後円墳「中山大塚古墳」と「地下式板石積石室」
「中山大塚古墳」は奈良県天理市にある最古級の前方後円墳である。
大規模な竪穴式石室を持ち、墳丘は分厚い葺き石でおおわれている。
考古学者の森浩一氏は「中山大塚古墳」について次のように述べる。
「後円部には、盗掘はうけていたものの、大きな墓壙のなかに、壮大な竪穴式石室があった。
内部に刳抜式の木棺(船形か)が置いてあったと推定されるが、それをおさめた石室は、
近畿地方の前期の大型古墳によく見かける石室とは石室上部の構造が違い、
ぼくは『亀甲形魚鱗状天井の竪穴式石室』と名付けた。」(『記紀の考古学』朝日新聞社)
また、『アサヒグラフ』の『1993年古代史発掘総まくり』でも、森氏は石室の印象を
南九州の隼人が残した地下式板石積石室を巨大化したのではないか、と述べる。
 
 

■ 瀬戸内の積石塚古墳
瀬戸内海にも転々と地下式板石積石室の仲間の墳墓がある。出土品などから、弥生時代と古墳時代のさかいのころに築造された墳墓と考えられる。
萩原1号墳(徳島県鳴門市) 画文帯神獣鏡を出土
綾歌石塚山2号墳(香川県綾歌町)
鶴尾神社4号墳(香川県高松市) 獣帯方画規矩鏡を出土
西条52号墳(兵庫県加古川市) 内向花文鏡を出土
立坂墳丘墓(総社市)
以上引用http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku212.htm
 
 

大久保徹也(大久保 2002)は四国北東部を軸にしつつ、全国の前方後円墳築造動向から前方後円墳は地域ごとに自立的な築造体系があり、地域間関係を持ちつつ地域的政治秩序は並立していることを示した。 もはや、『記紀』の記述のまま、地下式横穴墓や板石積石棺墓に隼人の各「部族」を当てはめるようなきわめて素朴な理解は、現在の古墳時代研究とは大きくかけ離れている。 また一方で、戦前の皇国史観の反省の上に徹底した史料批判を行うことで古代を復元してきた 20 世紀後半の文献史研究の成果にも無頓着であったといって良い。今もって、鹿児島では考古学研究から古墳時代史像は復元できいないのである。 
 
地下式横穴墓や板石積石棺墓は5世紀代のものが多く、6世紀代以降のものは少ない。

5世紀代は本州でも古墳以外の墓制が存在するなど、列島各地で地域ごとに特徴ある埋葬施設の採用が広く見られ、九州南部の墓制のみを取り上げて独自性、異質性を強調することは適切でない。多様な墓制が共存する段階である。
 
 
 
また、近年関東・東北の地下式横穴墓の新例の報告もあり、その分布が九州南部のみに限定されるわけではないことも明らかになりつつある。
http://www.geocities.jp/noranoria/minamikyusyu38.html
 
 


 
 
 

●これまで確認された分布域
鹿児島県の北薩摩地方から熊本県人吉盆地・・・『地下式板石積石室墓』から免田式土器の変化した土器が出土。
長崎県五島列島            松原遺跡2号遺構       地下式板石積石室の祖形とされる
                      浜郷遺跡1号遺構                〃
鹿児島県薩摩郡鶴田町        湯田原古墳          地下式板石積石室と高塚古墳が融合した石室
      出水郡高尾野町      堂前遺跡
      出水郡長島町島町明   明神下岡遺跡26号遺構            〃
沖縄県
奈良県天理市              中山大塚古墳           森浩一説
類例・折衷墓とみられるもの
鹿児島県薩摩川内市宮内町    端の陵古墳
萩原1号墳(徳島県鳴門市) 画文帯神獣鏡を出土
綾歌石塚山2号墳(香川県綾歌町)
鶴尾神社4号墳(香川県高松市) 獣帯方画規矩鏡を出土
西条52号墳(兵庫県加古川市) 内向花文鏡を出土
立坂墳丘墓(総社市)
 
 
 
 
 
この石室は、支石墓のような形状を二段にして、地下に埋めたもの。
簡単に言えばそうなるが、まだ実部欝は見たことがないので、何もわからない。
いわゆる南九州や豊前に多い地下式横穴墓とは、まったく作り方が違い、おおまかに前者は竪穴式であるが、後者の宮崎に多いのは一旦掘り下げて横向きに掘ってそこに古墳の石室と同系の横穴式石室が作られる。縦に掘るのは一緒でも、まったく様式が違う。いずれにせよ、地下に埋めてしまうというのは、群集墳的である。それが集中することもあるのは、彼らが兵士だったからではなかろうか?戦場では簡便な墓になるのは違和感はない。わからないが。
 
考古学的な資料がまだまだ少ない段階では一概に何も言えないということになるが、
だからと言って地下式横穴墓や地下式板石積石室が、では南九州の5世紀ほど大量に集中する地域がほかにあるかと言えばないわけで、地元民・愛好家たちがそれらを熊襲や隼人の墳墓形式であるとすることに、これまた反論する論拠も希薄なのではないか?考古資料が少ないということは双方にとって論拠を提供しない資料であることになるだろう。
なぜそれほど明確に「ない」と言えるだろうか?筆者は言えないと見る。

仮説として地下式板石積石室が熊襲しか該当者が見当たらない墳墓形態であることは、今のところ候補がほかにない段階では間違いない。
だからあくまでも仮説であると前置きしておかねばならない。

これを証明しうるほかの遺物が地下式板石墓から出ていないだろうか?
例えば免田式土器では?
鹿児島県川内川流域にわずかしか類例はない。
しかも免田式に類似するという但し書きがつく。
あとはもう楽しい推理推測しかわれわれにはないではないか?

例えば、これが日田から南下した日下部、あるいは日下部氏の墳墓だと考えてみよう。
日下部ならば人吉市に横穴墓があり、靫や円紋や菊花文を持ったものがある。
しかし免田式土器が出るあさぎり町に装飾を持つ古墳は今はない。
あるのは金鍍金鏡という立派な遺物が出た才園古墳であるが、そこにも装飾は無い。
朱塗りのようなあとはあるが・・・。
 
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ではこれが人吉の靫負日下部を束ねた中央派遣の日下部氏のものだろうか?
ではなぜ豊前の地下式横穴墓からは蛇行剣が出たのだろうか?蛇行剣は隼人の剣ではなかったのか?
これもはっきりと決定するには資料が少ないのであるから手に負えない。

宮崎県に多く、豊前へと北上した痕跡が臼杵市などにある地下式横穴墓が阿多隼人のものだとしてはいけないだろうか?
また沖縄にまで行った免田式土器は熊襲・隼人・久米の貝交流の痕跡、あるいは狗奴国の交流としてはいけないか?

わからない。
しかし、琉球と鹿児島の民族は往古、弥生時代の南海産貝のために交流していたのは間違いがないだろう?
どう見ても、ほかに氏族はいないではないか?大和の学者はなぜそれを否定したがるのだろうか?
ちょっと恣意的なんじゃないか?

わからない。(と書いておくか)
 
 
おかげさまで歴史総合で順位あがっております!
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火君の墓でいいのか?熊本最大の大野窟古墳国指定へ昇格

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野津古墳群にほど近いところにこの古墳はある。
その大きさは128メートルで熊本県最大だったことがわかり、肥後国司クラスの墓だといよいよわかってきた。
残念なことだが、戦前、この石室はオープンで、森に囲まれていたために、浮浪者?たちが住処にし、中で火を使ったために内部がすすけてしまい、すっかり色もあせてしまった。だからこれが装飾古墳なのかどうかがわからなくなってしまった。
 
 
ただ壁には朱の塗った部分があって、かすかだが模様ではあるまいか?と見えるシミが見て取れる。
分類上は装飾古墳ではないが、以前行ったとき、ここは知事クラスの墓とぴんと来ていた。
 
 
八代郡氷川町大野
6世紀
 
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石室の大きさも日本有数。
 
 
 
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九州独特の「石屋形」と大和様式の石棺を持つ。
つまりこの被葬者は大野地方以上に、もっと広い範囲の国司クラスで、北部の江田船山古墳と勢力を二分した人物だったはずである。とすると装飾はなかったとなるのが普通である。
 
在地の豪族=君は装飾を描かれるが、派遣された国司は九州でも装飾がないと筆者は分類している。
 
 
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野津古墳群
 
 
 
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この氏族分布図で考えると、どう見ても彼は肥君=火君かと思えるのだが、派遣国司だったなら君ではなく、外部からやってきた氏族だったのではないか?とすれば6世紀ならお隣の芦北が本拠の火の葦北国造の誰かだった可能性もある。あるいは日下部氏かも知れない。
 
大野には馬牧もあったようで、大野地名には大和の額田部氏が関わったとも考えている。
 
4~6世紀、熊本の君たちは阿蘇菊池川などから凝灰岩を切り出し、中央へ石棺として送っていた。
17 阿蘇熔結凝灰岩製石棺と倭王権
  阿蘇ピンク石と宇土葦北、火の国造の躍進
    飛鳥時代推古と額田部、そして聖徳太子と物部守屋まで
 
 
その歴史は4世紀の天草半島周辺・宇土半島・玉名市などに分類でき、それぞれ氷川産、菊池川産、宇土産と変遷し、年代は4世紀、5世紀、6世紀と順を追っている。だからどの氏族がその時代に肥後で勢力が強かったたが一目瞭然にできるのだ。
 
 
最後に宇土半島付け根の馬門石=阿蘇ピンク石が運ばれて継体大王や推古天皇の墓に使われた。
それが6世紀半ば、磐井の乱の前後である。切り出したのは葦北国造、切り出させたのは靫負大伴氏である。
葦北国造は吉備からやってきたと記録があり、よそ者である。
だから君ではない。
火葦北国造アリシトの弟は百済官僚になった日羅。
大伴金村を「わが君」と呼んでいたと史書記録にある。
 
 
当初、ここは火君が治めていて、途中からその弟の火中君のほうがはぶりがよくなり、次に葦北国造がそれを継承?。最後に阿蘇国造家がなんらかの形で阿蘇の君と同族化となってか、大和から入り、古い南九州の日下部集団である吉見阿蘇氏を取り込んで、多氏・阿蘇氏を名乗ったと考えられる。阿蘇氏の派遣記事は持統天皇紀に信州へ風の大祝として送り込んだとあるが、それよりは古かったか?
阿蘇山千町無田に中通古墳群があり4世紀から続いているが、これを阿蘇氏と一概に言うことは早計で、阿蘇の君、あとからきた阿蘇国造家の混生であってもおかしくない。装飾古墳が一基だけある。熊本県考古学の編年を待ちたい。
 
 
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九州の装飾古墳分布図
 
 
 
装飾古墳の絵柄は総じて華南の神仙思想のアイテムを多用している。
 
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大分と葦北・「きだ」地名新解釈と木の股神の意味/分けること・直弧文は呪符

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筆者の出身地である大分県は「おおいた」と読むが、『豊後國風土記』では景行天皇が訪問して「よろしく碩田国(おおきた)と名づくべし」とあって、もとは「おほきだ」であったらしい。
 
「おおきた」が訓である。
 
「おお=きた」に分解すると、おお=大、きた=分となる。
 
この「分ける」wp「きだ」と読んだかどうかというと表記が「段」で「きざむ」とある。
「きざむ」はもと「きだむ」であろう。なんとなれば「~などの」という言葉にも「なぞも」(~等も)が古いとあるが、など・きだ→なぞ・きざの音韻バリエーションがある。
 
そこで大分地名由来を検索してみると・・・
 
「これまで『日本書紀』・『豊後風土記』史料の「景行天皇九州巡幸説話」が定説との観がありましたが、『大分歴史事典』(後藤宗俊氏解説)によれば、事実には程遠く、確かな文献に拠る限り、「大分」の方が古く、「碩田」説話は「大分」地名の意味付けに後から作られた説話というべき、と考証しています。であれば、「大分」の字義の解釈が問題となります。半田康夫氏は、『大分県の風土と沿革』で、「分」は「段」と共に「キダ」と訓まれていたとしています。渡辺澄夫氏も『大分市史』昭和30年刊で、「キダ」は「段」で、きれめ・きざみ・だんの意、「分」はわかち・わかれの意で、分離の意味において両者はあい通ずる故、「オオキダ」は大きく(大いに)きざみ分けられた所と解される、と述べています。地形が錯綜している事から起こったのではないかというのです。「大分」の字義解釈が諸説ある中で、この説が現在比較的有力です。」
 
と、まさに思ったとおりのことが書いてあった。
すると大分は「大きく分けた国」となり、豊前豊後に別れたときのことを郡名にしたのではないかに行き着いた。
そういえば大分社と書いて「だいぶ」神社が、確か鞍手かどこかにある。あそこも元は筑紫と豊前の境目で、往古は豊前だったはずだ。それが筑紫に編入されたという記念の神社ではあるまいか。
 
 
 
すると葦北が次に思い起こされた。
「あしきた」は以前、「悪しき田」ではあるまいかと書いておいたが、「あし」「きだ」と分ければ大分と同じく、葦原を分けたという国名になる。葦の多い国土。それを分割した?
 
「葦」を「あし」と読むのと「よし」と読むのではあきらかに奈良時代の国名二文字の良字命令以後に「あし」は「よし」と読まれるようになったと考える。だから葦北はやはり葦の国家、それを段んだのだろう。
 
葦北は元、国であった。版図は八代まであった。
[葦北国造(肥)]
葦北(葦分)国造とは葦北国(現・熊本県水俣市、八代市、葦北郡周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると景行天皇(12代)の時代、吉備津彦命(きびつひこのみこと)の子である三井根子命(みいねこのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。国造本紀には葦分と名が記され、また記紀では火葦北国造とも表されているので、火国造の支流とも見られている。
三井根子命後、日奉(ひまつり)部・日奉直・日奉宿禰等を賜姓され、後裔としては達率日羅(にちら)、万葉歌人・日奉部与曽布などが著名である。三井根子命の子・刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけひありしと)は大伴金村によって朝鮮に使わされた国造で、その子・日羅は日本では刑部靱負の職(軍隊の長)、百済では達率(高官の1つ)となり、武人・賢人として知られる。葦北郡津奈木町にある将軍神社は日羅(将軍)を祀っており、逸話も多い。宇土半島にある鴨籠古墳の被葬者は、その棺の大きさから葦北国造の息子と考えられている。
 
まさに葦北も往古は「葦分kと表記して「あしきた」だったのである。
 
さらに「きだむ」「きざむ」を考えるに「き」には「岐」の文字もあり、これも分かれたという意味である。
『古事記』に「岐又之神」(木俣神・木股神、別名三井・御井の神)として「きのまたのかみ」が登場する。樹木の二股のところや洞にいる、おそらくニョインから生命が生まれることを聖なることとして神格化された神である。
 
「みい」語源で書いたが、いわゆる三川合流地点での湧水・導水祭祀でもまさに三角の股のところに玉砂利を敷いた遺跡が出てくる。そこで水鳥埴輪やはそうを用いた祖霊祭祀=死者の霊魂が天界で祖霊と交合し、降臨して新たな生命を生み出すきっかけになる・・・の場所こそが「きのまた」「川俣」なのであった。
 
で、そういう三ヶ所から水が集るところを御井・三井と言うのである。だから別名が御井の神なのだろう。
もちろん湧水が三ヶ所あって川が三つ合流する。そういう場所を水分(みくまり・みずわけ)といい、例えば京都の鴨川の三川合流点にある下鴨神社の手前に、三角州の頂点にあたる場所には河合神社がある。
 
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「かわい」とは「かわあい」である。川が出会う場所。逆に言えば分岐点でもある。
淀川の三川合流は有名であるが、ここの巨大な三角堤には何も無いようだが、対岸の男山には岩清水八幡宮と水神祭祀の神が祀られている。その男山は生駒山地の北の端にあって、巨椋池がまだあったころには、男山は池の葦の湿地帯につきだすような三角形の半島になっていた。
 
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対岸ななめ西北側の淀には興杼(よど)神社もある。
 
 
 「 與杼(よど)神社は、淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神として鎮座しています。
  祭神は、中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)向かって右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)向かって左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱であります。
 
  この神社は、僧の千観内供が応和年間(961年~963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まるとある。しかし、延喜式(901年~)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。
  元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。 (当時は、ここを乙訓郡水垂村といった)」
 
産土とは、つまりお産をする清めた砂である(谷川健一)。
だからここも祖霊と再生祈願の三角地帯なのである。
 
 
「きのまた神」で以前書いたのが、三重県松坂市の宝塚古墳などで出る権威的Y字型(V字型)杖=王杖である。
 
この形状も、また石見型と呼ばれる楯の形状もみなY(V)になっており、まさに聖なる木の股の形なのである。
ということはこの形状の杖や船のマストや、古代の鎧のような形状もみな、そうした聖なる呪府だったことになる。生命を再生させる祭が水辺で行われるのも、それが巫覡王の仕事だったからで、清める=みそぐ祭祀の意味があり、船などでは魔よけでもあろう。すると九州の古墳に置かれた石人のような兵士もまた鎧を着ており、これも魔よけであることに気づくわけである。
 
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石人は古墳の死者の肉体を守り、やってくる魔物に肉体を食べられる=腐食するのを防ぐ意味で置かれたのであろう。つまり=生命の再生補助の魔よけである。それが魔よけの形状であるならば、そこに描かれた模様もまた当然、まよけの呪模様でなければなるまい。
 
 それが直弧文である。楯に使うのは矢を受けぬための絵柄だったからだ。
つまりスイジガイやそれを象った装飾古墳の双脚輪状文も、それを鋳型にして作った巴形銅器もまた魔よけである。魔をよけるための呪符である。
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こういうつながりでいくと、水辺に水鳥やはそうが置かれたのは、それがみな水=生命=ウズを巻いて輪廻転生をうながすものだったからである。
 
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葛城氏の居棺などでこのY字型の条柵が大量に出ることがある。それで環濠の周囲を囲んだのである。
つまり条柵もまたY字型。屋敷を護るからである。
 
 
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気になった考古学ニュース

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<遺跡>ローマガラスに似たガラス玉出土 福岡

 福岡県宗像市は26日、同市田久の田久瓜ケ坂(たくうりがさか)遺跡の円墳(6世紀中ごろ)から出土したガラス玉(直径5ミリ)を分析した結果、古代ローマ帝国領内で製造されたローマガラスの特徴を持つことが分かったと発表した。玉の内部が内外2層で構成される重層ガラスで、層内に金箔(きんぱく)が施されている。国内での出土は京都府長岡京市の宇津久志(うつくし)1号墳に次いで2例目。九州では初。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130827-00000017-mai-soci
 
 
 
 

シリア・パルミラ遺跡に後漢の女性?人骨出土

 シルクロード沿いにあるシリアの世界遺産・パルミラ遺跡の地下墓(2世紀初め)で出土した人骨に、古代中国の女性とみられる骨があったことが、奈良県立橿原考古学研究所などの調査でわかった。
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伊江村・ナガラ原第三貝塚、炉跡14基が出土

 【伊江】伊江村教育委員会は28日、同村川平のナガラ原第三貝塚から縄文時代後期(約3千~4千年前)の住居跡と屋外で火を使った炉跡14基、先史時代(10世紀より前)とみられる人骨3体を含む多数の出土品が見つかったと発表した。多数の炉跡がまとまって見つかる例は「類例がなく画期的な成果」(盛本勲・県教育庁文化財課記念物班長)という。縄文期の人は狩猟・採集のため半定住生活だったと考えられているが、多数の炉跡と複数の出土品は大規模な定住地があった可能性を示唆している。

 村内で過去に竪穴住居跡は見つかっているが、縄文期の定住地だった可能性を示す遺構はなかった。貝塚は伊江島のほぼ中央南端。地表から2~3メートル下に住居跡があり、周辺と東に炉跡があった。人骨は住居跡の南、埋葬場所とみられる石組み遺構内にあった。人骨の年代は特定できていないが、地層から先史時代と推定されている。2体は大人で1体は子どもだった。
 
 
 
 
縄文時代の沖縄にすでに炉があったことは非常に重要な発見である。
琉球は日本よりも中国に近く、倭国より早く金属炉が入ったのかも知れないが、日本の縄文時代に炉などあるはずがないという発想をかき消してくれそうな遺跡発見である。
 
 
シリアやイランが送れた土地という着想は、かき消すべきだと前から言っている。中東の文化はむしろギリシアやローマの手本なのであり、それがもたらされたきっかけはパルテアやペルシアの欧州侵略である。
「中国の歴史書「後漢書」には、後漢の将軍・班超が「大秦」(ローマ帝国)と国交を開くため紀元後97年、甘英を使節として派遣、使節団は「安息」(パルティア=イラン周辺)を経て「条支(じょうし)」(シリア)に至ったが引き返したと記される。」
 
彫が深いパルテア人たちの墓は地下式であることも気になる。
 
 
 
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