Quantcast
Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
Viewing all 1881 articles
Browse latest View live

今年のもうひとつのクリスマスカード

$
0
0
 
イメージ 1
 
あっちのブログとは色違い。
 
もうひとつやな。
 
 
イメージ 2
 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1
 

正月に寝て読む本2014版

$
0
0
 
 
Kawakatuが今度の正月用に借りてきた本
 
 
ジャック・ニニオ 『錯覚の世界 古典からCG画像まで』新曜社
岡田尊司『マインド・コントロール』文藝春秋
片山一道『骨考古学と身体史観』敬文社
高橋正樹『花崗岩が語る地球の進化』岩波
金成陽一『まだあるグリムの怖い話 グリム・ドイツ伝説集を読む』
加藤 徹『本当は危ない『論語』』NHK出版
広瀬和雄『古墳時代像を再考する』同成社
 
 
 
最近はもう、考古学者や文献史学者や民俗学者の書いたものでは物足りなく(もともとそうだが)、科学の範疇の地層や鉱床などの地質学、岩石からのアプローチに目が向いている。歴史は人の動きであって、それなら必要なのはなぜ彼等が鉄を求めて、どこをどう探し、さらにではなぜそこに鉱床があって、日本列島のどこに分布し、それには因果関係や同じ民族がそれを求めて移動した・・・そいう視点が最も歴史学の基礎に持ってなければならないものじゃないかと思っている。
 
ひるがえって、日本の考古学者や史学者や研究者に、どれだけ地質までさかのぼる人がいるかと考えると、日本の歴史学は遅れているとしか言いようがなくなる。
 
論語と孔子は、昨今、中国の人民に急速に復活しはじめている。儒教は徳川幕府がそうだったように200年くらいは、武士の血なまぐさい戦争好きを押さえ込めたが、幕末に「志士」という言葉が論語から復活し、いきなり争いがはじまって、明治になった。永久とも見えた徳川の平和をつきくずしたのは、孔子の儒教理論の裏側にある頑迷で排他的な危険思想を生む部分である。つまり儒教にも光ばかりでなく影の部分が潜んでおり、そういう意味で、今の中国に生まれ始めた孔子への復活は恐ろしいのである。アヘン戦争でも中国は英国の科学に屈したが、あれも哲学は一級品なのに科学性、客観性がなかったためで、その根本には儒教の技術者差別思想が満ちていたからであろう。
 
マインドコントロールは、そうした歴史上の大崩壊・大転換をさせてこなかった、信仰や観念や教育の中にしのびより、人心を崩す技法であり、そこに往古の為政者たちのノウハウがあったはずである。
 
骨考古学は、これまでの考古学者では考え付かない、列島の弥生人の人骨種類の雑多さを語っている。われわれは弥生人という学校教育の偏ったひとつくくりの考え方で、弥生民族がまるでひとつだったかのように錯覚している。しかし実際の弥生人骨は実に多種多様で、地域ごとに別種がちょこちょこ入り込んでいたことを証明しているのである。つまり一般の遺跡・遺物・古墳からしかものを考える発想のない考古学者地たちよりも、実証性が一段上、より細密で、「人」にたどり着くには最上の科学である。
 
主として苦手な理科系の著書を選んだ。漠然とした文科系史学では答えを出せないでいる部分を明確にできるはずである。以前は、鉄の歴史や水銀鉱脈などもかなりここに書いてきたが、花崗岩ほど鉱物成分を多く包含した石はない。花崗岩さえ知っていれば、豪族たちの欲したもの、誰がそれを追いかけて、どこまでいったか、要するにヤマトタケルとは誰なのかが明白になる素材であろう。中国地方、際手・宮・福島・茨城・四国の人々はこれをもっと読むべきだろう。「阿武」地名とはについても詳しい。鎌足も阿武山に葬られた。つまり目的が鉄の氏族だったからだろう。
 
グリム童話は実は頭を休めるために借りたが、昨夜ぱらぱらとめくっていると、どうもここにも古代からの人間のどうしようもない差別意識などが山盛りで、人の性格を知るにはよさそうな本だ。
 
 
 
諸氏も、とりあえず正月ほどゆっくり書を読めるときはない。お読みください。
 
 
 
ちなみにかつて『論語』は中国では『書経』『史記』を最高の「バイブル=書」とし、論語は二流の書物であった。中心的思想になるのは宋代になってから、多くの注釈書が出るようになってからだ。つまり為政者にとっての戦争容認のための理由づけが儒教と孔子と論語には満ちていたのだ。さらに論語は孔子が書いたわけではなく、その死後に弟子が思い出して書いていった孔子発言集で、論語はむしろ儒教のための副読本でしかなかった。論語の危険性は中国人は充分しっており、読み間違えたり、妄信すると必ず災厄を呼ぶと考えていた。ところが、今の底辺の基礎学力の足りない人々が、これを勝手に解釈し、妄信し始めている。小学生にはしつけの本ではあるが、これを曲解する大人には猛毒である。理解力の低いものには気軽に読ませぬほうが身のためであろう。ばかは単純で、すぐに差別を楽しみ始める外道である。小学校で差別やいじめが増えるのも、むしろ儒教思想の残存、隔世遺伝だといってもよい。それを安易に教えようとする教育者などは、まさに右思想の代表であるかもしれない。実に危うい、あの小男は。
 
 
ご注意を。
しつけるとは、逆に言えば「自由を奪う」ことでもあることをお忘れなく。儒教思想がつきつめてできあがった明治政府が第二次大戦まで行き詰めたこともお忘れなく。
 
 
 
では次回、花崗岩鉱床から何が見えるか?お楽しみに~~~~
 
 
 
イメージ 1
 
 
 
 
イメージ 2
 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1

日本の花崗岩帯分布図と製鉄・砂鉄・たたらおよび阿武地名はエジプト語起源か

$
0
0
 
 
阿武地名由来
ちょっと意外な話だが・・・。
外国語である可能性がある。
 
Abu
「アブ」とは何か?語源、由来。
アブ石で検索すると・・・。
エジプトでは花崗岩をアブ石と呼ぶ。アブとは「洗練された」という意味で、宮殿の名前にも「アブ・シンデル」などと使われ、御影石の宮殿である。
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-tbtop&p=%E3%82%A2%E3%83%96%E7%9F%B3%E3%80%80%E8%8A%B1%E5%B4%97%E5%B2%A9&ei=UTF-8
 
 
どうやらアブとは磨くと輝く花崗岩(日本で言う西日本の御影石や関東の稲田石のこと)であるらしい。そのエジプト語の石材名称が日本に来たなどありえようか?
飛鳥時代の中国~百済~飛鳥経由のペルシア人工人の来訪なら可能性はある。
建築に関わった工人ゆえに、石材にも詳しかったであろう。
 
これはまだ妄想であるが、ありえる話。
 
 
 
イメージ 4
 
 
 


 

日本語でアブを考えると?
「阿武国造」は「あむ」と読み、「あぶ」の前は「あむ」だった。
あむ→あぶ、琉球で「あん」。
あむとは「浴びる」「編む」「危険な」「虫のアブ」「あぶみ」などがあって方言で地名起源もないまぜになっているままである。答えは花崗岩の工人の間の俗語であろう。工人の多くは海外からやってくるので、半島や中国やの技術者の間では、大本産地の呼称が伝わっただろう。それがエジプト起源の「アブ」ではないか?
 
たとえばバイブルといえば聖書だと思っているが、実は広く書物、紙を著す「ビブロス」からで、そのまた大本はエジプト語のパピルス→ペーパーである。しかもパピルスはラテン語でパンパスなので南米までもが草原をパンパと呼ぶ。ともに葦やススキの仲間で、パンパスはパンパース=紙おむつの素材・語源である。
 
 
妄想抜きでやってみると・・・。

阿武町・・・山口県阿武郡阿武町。阿武国造の記録があって読み方は「あむ」である。
http://www.nihonjiten.com/data/263341.html
花崗岩地層で古代~中世のたたら製鉄跡が非常に多い。奈古、福田村地名がある。
奈古=サナギ=スラグ、福田=吹く田。
 
 
阿武隈・・・宮城県南部から茨城県北部にかけて広がっている高地 。阿武隈山地(あぶくまさんち)とも呼ばれる。花崗岩のメッカである。中生代白 亜紀前期の阿武隈花崗岩類鳥曽根岩体は宮城県から福島県まで連なって存在する。福島の地名も「吹く州」で、製鉄地名である。
 
阿武山・・・高槻市奈佐原地区の古い呼称。阿武山古墳は中臣鎌足の墓でろうという。「なさはら」が「さなはら」の転倒であるならば、ここはたたら製鉄の金クソ=鉄滓=スラグ地名であるか。阿武山古墳の石室は阿武山の花崗岩製である。つまり阿武山も花崗岩地名になる。
 
阿武野・・・沖縄県庵野・あんの・風化の進行した領家花崗岩や和泉層群等の脆弱な地質

あんのは「あぶの」で、西九州方面から奈良時代大量に入ってきた人々の名前阿武野を琉球語発音でそうとしか言えなかった?「あむろ」これも「阿武炉」でたたら従事者名ではあるまいか?
「あむ」は古語で「浴む」で湯浴みすることになるのだが、製鉄炉などの溶解した鉄も古代には「湯」と呼び、浴むは製鉄にフィットする。

このように「阿武」地名は花崗岩地層で、たたら製鉄に関連した地名である。
これを日本の花崗岩鉱床分布図で照らし合わせてみる。
 
 
 
イメージ 1
 
 
 
このように阿武地名は花崗岩のある場所に点在する。

なぜなら花崗岩は多種多様な鉱物の入り混じった石材だが、その大半がアルミニウムや砂鉄、石英、長石、雲母などによってできた集合体である。花崗岩地層は主として東日本よりも西日本の、瀬戸内地域、中国地方に広がっており特に、兵庫県神戸市御影、出雲、安芸、吉備などに集中する。東日本では阿武隈花崗岩地層、茨城県の筑波花崗岩などが有名。みかげいしというのは、磨くと光るのでついた名前。稲田石は地名。
 
西日本の学校の校庭は主に、花崗岩が流水や土石流で溶け出した河口の土を使うため、非常にざらざらした怪我しやすい土質になっているが、関東では花崗岩がないため関東ローム層は土質がやわらかく怪我をしにくいという違いがある。(高橋正樹)
 
また以前も書いたが、阪神淡路大震災では、御影の花崗岩が割れて、車ほどの大きさのかけらが町中を飛び回って落ちてきた報告がある(高橋)。非常に割れやすい、裏を返せば大量の鉱物を河口部に流しだす。「まさご」は花崗岩から出るもち鉄=砂鉄を含んだ砂のことで、海岸に堆積し、「白砂青松」の美観を作り出す。だから海岸線の白く美しい松原などでは、だいたい砂鉄、クローム砂鉄がとて、赤松を植えることでたたらの炭が焼かれていた。たとえば広島県福山市、宮城県松島・亘理地区、福井県気比松原、静岡県美穂の松原など名勝海岸はみな砂鉄と松とたたら製鉄・刀鍛冶などが往古から多い。
 
つまり「白浜」地名も鉄と関連して注目したほうがいい。浜の真砂はつきぬとも・・・の歌舞伎名せりふの現場は和歌山県白浜町や熊野灘。もち鉄産地である。

注目すべきなのは最近、花崗岩地層と大気中に拡散する放射性物質の多さが比例するという地質学会の報告であろう。http://www.geosociety.jp/faq/content0313.html
花崗岩は非常に表面が細かい凹凸が多く、さまざまな成分を受け止めてしまう性質がある。

また金峯山などの地名は花崗岩地名であるので、そこが修験のメッカであることと鉱脈探査は結びつくことになる。山梨県甲府北郡昇仙峡谷などは金峰山花崗岩体からできている。吉野の金峰山同じく花崗岩。熊本市金峰山同様。金とは鉄ゆえに金峰などは=鉄、花崗岩と覚えておくことが大事。
 
つまり役行者の一番困ったところとは金=鉄を牛耳ってしまったところである。だから朝廷はこれを捕らえようとする。別に鬼を使ったというわけではない。道教の天文トンコウの中にも鉱物を不老長寿の薬とするわけで、鬼とは製鉄工人のことであり、天狗とは鉱山師や修験者のことなのである。

貴重な鉄を取られては、豪族たちは武器や農具に事欠くこととなる。だから役行者伝説を作り出して、葛城氏族の残党を一網打尽にする口実にしたわけである。

次回に続く。
 
 
付録
もう少し詳細な分布図
 
イメージ 2
 
 
 
イメージ 3
 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1

製鉄とチタン鉄鋼系花崗岩・磁鉄鉱系花崗岩

$
0
0
 
ところで、花崗岩には大きく分けて、いわゆるたたら製鉄に使われる砂鉄=磁鉄鉱系花崗岩とチタンを多く含むため磁力がないチタン鉄鋼系花崗岩がある(実際にはもうちょっといろいろある)。
 
 
Ishihara・久城原図による花崗岩の系列別分布図(高橋正樹著書から)
イメージ 1
 
 
ネット上に存在する花崗岩の系列別分布図
イメージ 2
 
 
イメージ 3
 
 
 
これを元に編集したもの
 
イメージ 4
 
一目瞭然、磁鉄鉱系列は日本海側および三陸地方の特色ある花崗岩帯である。
この花崗岩帯から流出した砂鉄は、対馬海流に乗って岩手県に及ぶ。この流れはちょうど「なき砂」の分布域とも合致する。
 
一方チタン系は瀬戸内・中部など中央構造線の泥質地層の北側(山陽側領家帯)に帯状に存在し、泥質片岩の持つ豊富な有機物を起源とする炭質物を含むためか磁気を持っていない。これをもって製鉄するのは大規模な設備が必要になるので、たたら製鉄には向かない。
 
双方を見分ける方法は磁石を近づければよい。チタン鉄鋼は磁力が低いため磁石にはくっつかない。
 
「チタンは酸化物が非常に安定で侵されにくく、空気中では不動態となるため、白金とほぼ同等の強い耐食性を持つ。室温では食塩水海水)などに対し高い耐食性を示し、少量の湿気が存在する場合は塩素系ガスとも反応しない。そのため純チタンはやや接着性に劣るが、逆に表面の汚れやごみなどの付着物を容易に取り除ける。しかし高温ではさまざまな元素と反応しやすくなるため、鋳造溶接には酸素窒素を遮断する大掛かりな設備を必要とする。炭素窒素とも反応してそれぞれ炭化物窒化物を作り、これらは超硬合金の添加物としてしばしば利用される。」
 
 
そのまま製鉄に使えるのは砂鉄(磁鉄鉱)を含んだ花崗岩層である。なにになぜチタン系花崗岩層を人々は経巡ったのか?
これは時代にもよるが、チタン鉄鋼系列花崗岩にも少量ではあるが磁鉄鉱が含まれていたからだろう。
 
記紀で、出雲が最初に征服される理由のひとつが砂鉄であろう。
 
ちなみに出雲地名の由来はさまざまあるが、出雲は実は花崗岩にこれも多く含まれる黒雲母の産地でもある。雲母は和語では「きらら」で、中世吉良氏の名前の由来でもあるわけだが、雲母の出るところという意味があったかも知れない。
 
 
イメージ 5
 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1

弥生人骨の偏在性/北西部九州の弥生人骨の縄文性・骨考古学と身体史観

$
0
0
 
 
イメージ 1
弥生人骨の偏在性を示す発掘人骨の各地における一覧表
 
 
資料は1998年のもので、決して最新とは言えない。
現在ではもっと多くの人骨サンプルが発見されている。
しかし、北部九州・日本海西部地域の群を抜く例証数は、要するに弥生時代の発掘が日本で最も進んでいることをあらわしている。他地域では発掘に鈍感なのである。これはほかの遺物にも言えることだろう。
 
ただ、九州と同じように発掘に熱心な近畿地方の弥生人骨の少なさはやはり特筆すべきもので、あれほど熱心に掘り返しても、なかなか出てこないことを示している。それはなぜだろうか?
 
第一には弥生時代に近畿では、まだ半数以上が縄文時代の人が圧倒しており、そもそも渡来系弥生人の進入が少ないこと。
 
第二に、近畿の土壌の腐食率である。
 
 
腐食しやすい土壌ゆえに、古墳時代には石棺による密封が近畿でいち早く始まったと考えることも可能であろう。
 
 
 
 
「同じ九州でも、西北部九州の「弥生人」骨は、まるで「縄文人もどき」。縄文人骨と共通する特徴が多く報告されている」片山一道『骨考古学と身体史観』
 
 
つまりそれが九州北西部と北東部の人種の相違を如実に示すのである。
那珂川より東部から遠賀川流域では朝鮮半島系渡来人の人骨が、先住していた縄文系海人族とは隔離して出土するのに対して、北西部の佐賀県や長崎県や天草などでは、縄文的な・・・すなわち同じ海人系白水郎族と考えられる、長江文明人と在来縄文人が仲良く同居して混血するのである。
 
半島人の排他性、と言ってしまうと語弊はあるだろう(それもあるかも知れないが・・・)。なぜなら遠賀川からは半島系稲が流出していくからだ。彼等はあくまで日本海沿岸にこだわって北上し、いち早く青森まで到達する。
 
一方、北西部九州の縄文的人骨を持つ人々は、入ってきたのは早いのに、なぜか遅れて南下し、太平洋を北上すると考えられるのである。近畿にはこの双方が時間差で入り込むと考えられる。
 
 
南九州弥生人は貌は縄文的だが、異常に背が低く(男154センチ)、北部弥生人とはあきらかに違う。後頭部は絶壁で、どちらかというと今の琉球人に似る。
 
 
 
このように「弥生人」は多種多様で、その中には在来の先住民族もいたわけである。弥生時代だから、弥生人とは全部渡来系だとか、弥生人だから全部半島系だということではないのである。
 
これは多元的な物の見方、歴史の見方を示唆している。
ぼくたちが教わってきた歴史は、あまりにも一元的だったということなのである。
 
 
 
 
イメージ 2
 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1
 
 
 
 
PS
沖縄の決断
安部という男は、難解な問題をすべて沖縄県内の問題に一瞬で転嫁させた。狐のようにこずるい、頭がよい。しかしその安部が、今、なにゆえにことさら東アジアを挑発するのかは謎である。
勝てぬいくさの宣戦布告をしてしまったのではないか?
 
 
正しい歴史認識とは、マスコミがあおりたてるような、そんな簡単なものではない。もっともっと民族の奥底にある、古いところまでつきつめていかねば、彼等の不満は見えてこない。せいぜい先の大戦でのことだけだと思ったら大間違いである。そんな浅薄な問題ではない。古代史こそがそこに立ち入るヒントを与えている。人骨は多くを語ってくる。そういうことに科学や考古学は役立たねばなんの意味もない。
 
 
次元が違う史観を、つまり民族哲学をこそ、古代史は語らねば成るまい。人類の歴史である。政治はあまりに無知である。無知だからこそ災いを好む。
 
 
 
危うい。
 
 
 
 
 

マインド・コントロールと古代王権

$
0
0
 
大滝詠一を偲んで
 
 
 
 
そもそもこの世界に巫師(かんなぎ・シャーマン)が登場する以前から、われわれ人類には支配されたいという願望がある。それは近縁の猿社会のボスによる統率を見ればうなづけるだろう。
 
マインド・コントロールは「洗脳」というマイナスイメージで語られることが多い。
しかし一般社会でも、マスコミでも、あるいはかつて筆者も身を置いた広告業界でも、クライアント、対話者をある意味マインド・コントロールしようという、これは悪意ではない洗脳が満ち満ちており、またそれが与える影響や過程を分析することは、逆に、さまざまな支配から自立するノウハウを提供してくれもする。
 
それは人間を操り動かす悪意にもなれば、考えようによっては生活の潤いやクオリティを高めることも可能なものであると、岡田尊司も書いている。
 
 
テロリストによる9・11の自爆も、一種マインド・コントロールされて起きた。オウム真理教のサリン事件もそうである。ある小さな集団の内部で、それまでごく普通だった、いやむしろインテリだった人々がいともたやすく「そうしなければならない」「それが使命なのだ」と変わってゆく。その手法こそは邪馬台国の卑弥呼のような巫女女王の手法でもあったはずである。
 
来年はそこを分析したいと考えている。
 
 
 
旧年中は当、民族学伝承ひろいあげ辞典をお引き立ていただきましてありがとうございました。来年も跳ねる馬、駆ける馬のように面白い記事を書いていければ幸いです。なにとぞお引き立てのほどよろしくお願い申し上げます。
 
 
 
イメージ 1
 
 
 
では、みなさまよいお歳をお迎えください。
 
 
 
亭主かわかつ敬白
 

 
PS,
 
  歳が行く 歳行く前に 君逝けり
          大いなる滝の瀬音を ひびかせながら
 
 
                追悼大滝詠一
 
二十代の後半を、ぼくはあなたの歌に心を支配されていた。
早すぎる。突然すぎる。リンゴで逝くとは最後までおしゃれだったね。
 
 
 
   
  イメージ 2 
  Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1

迎春・謹賀新年 新年第一和歌・俳句

$
0
0
 
今年が始まり、昨年が終わった。
ただそれだけこと。
 
 
諸君、諸氏、今年もよろしく。
 
 
 
 
イメージ 1
 
 
 
 
   去年今年 貫く棒のようなもの      虚子
 
 
   なにひとつ 変われぬものに 夢ありや   Kawakatu
 
 
   門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし  一休
 
 
   門松を 作れる子らに明日あれ めでたいこと めでたいこと Kawakatu
   
 
 
    年の内に春は来にけり 一とせを 
         去年(こぞ)とやいはん  今年とやいはん     在原元方
  
 
 
  年の内に 逝く人もあり 来る人も    Kawakatu
 
 
 
   年の内に 勝つ者もあり 負くる者もあり 
              およそ世間はみな非情なり  Kawakatu
 
 
 
 
 眠たいぞ 年の初めは 眠たいぞ とにもかくにも一度寝るわい Kawakatu
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 いくさなき今年でありますように。
 
 
    
 
        歳月 (唐)元稹(げんしん)
   一日今年始
   一年前事空
   凄凉百年事
   応与一年同
 
 
    一日 今年始まる
    一年 前事は空し
    凄涼たり百年の事
    応(まさ)に一年と同じなるべし
    この日で今年も始まるが
    かえりみれば去年のことは空しく感じられる
    百年を重ねてもこのさびしさは変わるまい
    この一年も同じことに違いない
 
 
新春の私ののぞみ
朝日長者伝説の地を訪ね感応すること
 
不断鶴
 今、朝日台から千町無田に下ったところに長者屋敷の跡と呼ばれている場所がある。以前、ここから弥生後期の土器や鉄器が出土した。今も長者の子孫という十数戸が住んでいる。

 広い自然林の中に「年の神」という茅と竹で作られた祠があって大きめの丸石と小石が祀られている。
 
 これが長者屋敷の屋敷神だという。そして、この雑木林はいまだかって木を切ったことがないという。
 切ったり持ち出したりすると朝日長者のタタリを受けると怖れられている。
 
 その近くには鶴の墓の石碑が立つ。長者が飼っていた夫婦の鶴で、子を産むと親はどこかへ去るが、つねにとぎれることなくつがいの鶴が住んでいたという。だから不断鶴(たたづる)といって大切にしていた。

 ところが、文政6年(1823)、菅原村の猟師・権左衛門が鉄砲でこの鶴を撃ち殺してしまったのである。代官所の検死まであって「松の木で箱を作り埋めた上に石塚を置くべし、追って沙汰があるであろう」ということであったが、その後、それこそ「なんの音沙汰」もなかった。
 
 台座だけの鶴の墓をあわれみ、昭和22年になって、かってここに住んだことのある大分市長・三好一の揮毫による墓石が、やっと台座の上に乗せられた。

 しかし、地図を頼りに訪ねてみたが、ひっそりと淋しい限りであった。
 これも、くじゅう朝日長者の七不思議に数えられている。

 鶴を撃った猟師・権左衛門がその後どうなったのかは分からない。 
 
 
 
 
 
イメージ 2
 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1

スピリチュアル「褻の初詣」/朝日長者年の神」/ハレの初詣・ケの初詣

$
0
0
 
みなさんあけましておめでとうございます。
新春初記事の書初めであります。
昨日二日は一般に書初めや初詣三社初参りなどと申しまして、日本人みんなが、新年第一になにかを始める日であるようでありますが、筆者は「褻(け)」の詣(けのもうで)の初日と決めておりまして。
 
イメージ 5
久々に新春ポチ袋も貼っておきますか。
イメージ 6
 
元日に参るのを晴れ詣とするならば、二日目は、筆者のように民俗学的見地で神社をまわる者には仕事始めであるわけであります。
 
神の社である神社にも、ハレとケのやしろがございますな。さらには「後戸(うしろど・うらど)」のやしろもございましょうが、これはそもそもハレの社の裏側に、神職・僧職らによって密やかに祭られておりますので、表裏一体化しております。もちろんその「うらど」の神こそが日本の為政者階層にとっての実は「真の祭祀形式」であるわけですが、一般人はそれにまずもって気づかないようになっています。
 
ところが地方には、「ケの社」らしきものが、つまり中央では本来、裏に置かれるべき神が、堂々と外に独立して祭ってある場合がございましてな。これらを正月二日に、筆者は毎年めぐっておるわけでして。
 
 
正月早々「褻」とは縁起が悪いじゃないかと申される方もおありでしょうが、ハレの神なるものは要するに為政者側の言い分で出来上がっておりますから、平民にはあまり意味のない場所になります。元日やらのハレの門日(もんび)には、まあ、世間の通り相場に従って各地の一ノ宮や、大社にちゃっとおまいりしておくのが建前で、本気で参っておく=鎮魂・鎮撫しておくべきなのは褻の方であることは言うまでもありません。なぜならば、褻の神とはたとえば代表が出雲大社や三輪山(大神神社)や北野・大宰府の天満宮などでございますが、つまり「祟りなす神」だからであります。
 
今年のそれは筆者在所の北西方にある「年の神」「朝日神社」「白鳥神社」の三社鎮護でございました。おりからの好天で、気温が平地で15度にもなり、標高1500Mの峠でも、車窓を全開放してもなお風ぬるし、でございました。
 
しかしいざそこから100Mのぼりますともう景色は一転して、雪景色なのであります。
 
 
イメージ 7
 
 
イメージ 1
 
 
 
ここは阿蘇野と申し、おおみそかに書きました「朝日長者」の里なのでございます。朝日長者伝説については先に書いておきましたね。いわゆる稲魂が白鳥(しらとり)になって的にしたモチから飛んでいく=稲魂の死 譚でございます。
 
●長者伝説
全国にある地域に集中的に言い伝わっている中世以後の民間伝承でしょうが、実はその基層には古代から、おそらく山へ入り込んでいった縄文海人族や鉄の民、先住山の民=縄文採集民らが言い伝えてきた古伝承が存在します。たとえばわが大分県には真名の長者(炭焼長者=製鉄・炭焼き)・朝日長者(稲魂)・くたみ長者・百合若大臣・般若姫・平家伝説などなどいくつもの伝承があり、中でも白鳥伝説朝日長者については『豊後国風土記』にすでに原型が残されております。同様の伝説は京都や愛知や岐阜や北関東やなどに点在しますので、おそらく同じ人々が移動しながら伝えていった説話でありましょう。
 
 
 
イメージ 2
同じ九州とは思えぬ景色でありますが、この地には往古、弥生遺跡が出ておりますし、隣接する活火山久住硫黄山の硫黄は奈良時代の献上記録もございますし、久住山ろくには多くの縄文遺跡が出ておりますから、かなり古くからゆえあってこのような高地に人が入ったことは間違いありません。稲作で繁栄したという朝日長者もそのひとりでしょう。ただ、古い時代にこの地で水田が行われていた可能性は低く、満足に水もなく、渡来技術である灌漑なしにはありえないことで、おそらく朝日長者は秦氏のような稲魂に深く関わっていた渡来系の移民であったことでしょう。
 
 
話の簡単な骨格は、千町無田と呼ばれるこの高原に入って音無川・鳴子川などの水路を引いた氏族がやがて稲作で豪農となって驕り高ぶり、大事にすべきコメで餅をつき、それを弓矢の的としたら、餅が白い鳥=霊魂となって飛んで行き、以後、稲は枯れ果てて衰退した、というもので大変わかりやすい伝承になっています。この説話は『日本書記』も取り上げおりますから、飛鳥時代あたりにすでに豊後から人が中央へ行っていた、それが秦氏系渡来人だっただろうと推定可能。
 
 
イメージ 8
 
その後、この地には有明海の久留米方面から阿蘇を越えて北上してきた落ち武者たちが入り、今に至ったわけで、阿蘇野という地名もそこからでしょう。それはもう中世以後、たぶん鎌倉以後の話になりましょうか。いや平安末期くらいかと思えます。地元の人に聞いても、ここの土壌は下が泥炭の湿地帯でまったく稲作には不向きだったと聞いております。ただ伝説の舞台である田野は、ここら少し北側の別区画にあり、そこに朝日長者が最初に入ったのでしょう。土壌は違うそうです。今、そこには久住夢吊大橋のかかる渓谷が迫っており、かつては渓谷にはさまれた陸の
孤島のような僻地の扇状地でございます。そこに白鳥神社が建っております。
 
イメージ 9
 
 
千町無田の旭に朝日神社があり、田野には白鳥神社です。
一方は水田ができない無田地名、一方には水田地名である田野というのが味噌。
 
 
さて、この大きい二社とは別に、無田の広大な畑地には「年の神」を祭る稲わらで作られた祠がございますそうで、今回の目的はこれであります。ところがこれがなかなか見つけにくい。
 
白い鶴の伝承地、「不断鶴(ふだんつる?ふだづる?読みは不明)」にはすぎに行き着きましたが、そのすぐそばにあるはずの年の神には看板や表示がないのです。「ふだんつる」とは白鳥伝説の白い鶴の子孫二羽がここに生きていたというものですが、それは地名説話であり、実際は「つる」は地形のツルですので、津留(川の港)とか地形が弦のような扇状地であろうかと思えますね。「ふだん」とはではなにかと問われますとにわかにはわかりえません。http://yamanaminavi.jp/stories/detail/67
おそらく「死なない」という意味ではないかと・・・。
 
イメージ 10
 
 
 
まず朝日神社から細い街道を左折してかなり北上すると、阿部酒店の前にY字路になったわかれがあり、それを左へ降りていきますと、うっそうとした森になっており道が凍結しておりました。
 
イメージ 11
 
このカーブの両側は縄文クリの林が残っております。見上げるとまっすぐなクリの木で、こういうクリの木はなかなか珍しい。クリはだいたいほっておけば曲がりくねってしまいますが、この木はまっすぐ天にのびていました。つまり人の手が入っている、つまり果実よりも建材としての樹木だろう。ということは往古は縄文人的民族がいたはずです。
 
イメージ 12
 
さて「不断鶴」石碑にすぐ到着。
石碑はかつて大分市長が建てたもので、案内板もちゃんとあり、遺跡地図もあります。しかしこの簡易地図はなかなかわかりにくく、住民ですら年の神の在所をはっきりと教えられない・・・教えてくれない?あるいは知らない人が多い。
 
 
イメージ 13
 
 
年の神は石碑の手前にあるのか、先にあるのかがよくわかりずらい。地図では50Mほど手前にあるらしいのですが、何べん往復してもわからない。おまけに足元は凍結していますから、運転に気をとられて左右を見落としてしまいがちです。
 
じゃあ、先かと、進みますと、すぐに音無川に行き着き、さらに進めばもう本道に出てしまいます。また後戻り・・・。そうやって五往復もしてようやくその入り口があることに気がついたわけなのであります。それはさっきの栗林のカーブに密やかにあったのでありました。
 
 
イメージ 14
 
 
イメージ 15
 
 
 
イメージ 3
 
なんの看板もない、小高い土手に小さな小さな階段と、聖域を示す木の柱が二本。
これでは見落としてもいたしかたありません。
 
 
次回へ続く。
 
 
イメージ 4
 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1

褻の初詣続き/年の神祠

$
0
0
 
 
イメージ 1
千町無田・年の神
 
 
イメージ 8
 
 
 
さて、ようやく行き着いた年の神祠は、それはそれは奇怪なものである。
ご神体は丸い石を一個置いてあるだけで、説明版には年の神とは大国主命の御子である「大歳の神」であると書いてある。
 
記紀はこの神のことを御歳神(みとしのかみ)とも書くが、物部氏の系譜であるニギハヤヒの娘としても「御歳神」があり、民俗学で「としがみ」と言えば稲魂。
「とし」とは音読みで「さい」ゆえに「さいのかみ」「さえのかみ」ともされる。
 
 
全国に年の神、大歳神社、大年神社などは点在している。またそれをことほぐ祭りや催事もたくさんある。鹿児島では「としどん」、「田のかんさあ」などとして、わらに仮面の「鬼」のような姿で登場する。
 
北関東では「鹿嶋さま」、東北では「なまはげ」などと、やはり鬼の姿で登場し、節分などのいわゆるお水取りでは追儺の鬼ともなっている。
 
一年のふしをあらわす神格で、稲魂でもある。
 
 
ここの年の神の置かれる場所をみると、やはりY字三叉路の少し先に置かれてあり、どうみても「塞の神」でもあるようだ。
 
 
 
イメージ 2
 
 
九州が「出雲の国の支配地である」と書いてある。
この場合の大国主神とはいわゆうる、出雲が九州を支配するというよりも、ヤマトの三輪山の大物主=大国主のことを言うのだろうか?
歳神であるならば、出雲はそもそも縄文先住民海人族であったもののべ族の国であったが、そこをヤマトが攻めて譲らせる。これは本来はヤマトでの物部氏つまりニギハヤヒとナガスネ彦の敗北を、ヤマトの西にある出雲を黄泉として鎮魂して祟らぬように大社を建てるという観念の、要するに置き換えである。
 
出雲は九州によってむしろ同族関係を持った同盟国だったであろう。
 
その背景に縄文海人族・安曇がいたことは間違いあるまい。それをたとえばタケミナカタとしてもよかろうと思う。
 
記紀の主張する引佐浜での出雲の国譲りは、中臣氏の神タケミカヅチが物部氏の祖霊を象徴するフツノミタマ剣を持って降りてくると書くのだが、そんなはずはない。『日本書記』成立時に藤原氏が時の為政者だったからそうなっているだけで、実際に出雲にやってきて治め始めたのは半島系渡来人だったはずである。出雲族としての物部(ナガスネ)や葛城・鴨族(事代主)がそこから国を譲り、それからヤマトに入って、また三輪山を譲らせたと見ることもできる。鳥取の青谷の戦闘遺跡や、九州西北部の戦闘遺骸や、土居が浜の遺骨などはみな、渡来人と在地倭人がいりまじってのたたかいが出雲~鳥取の浜辺で起きていたことを想起させている。
 
 
 
 
イメージ 3
 
 
 
 
 
イメージ 4
 
 
 
 
イメージ 5
 
 
お賽銭を丸石の上に置いて、さて、ここは拍手でよいのかな?と少し戸惑ったが、神である限りは拍手でよかろう、しかしこの神は敗者ならば死拍手、勝者なら一拍でよかろうか?などとさまざま想起させられてしまった。
 
 
全国で四拍手する神社は三箇所しかない。
伊勢神宮内宮、出雲大社、宇佐神宮である。
それはすべてが実は中に敗者を祭ったからであろう。
だから伊勢内宮の神は実は、天皇家の神ではなく、天皇家が鎮魂して祟り封じせねばならない祟り神であるはずで、その仕事をするのがアマテラスなのであるに相違ない。アマテラスが天皇家の祖神であるなどと言っているのは『日本書記』と『古事記』だけで、ほかになんの証拠もない。それは藤原氏にとってそのほうが都合がよかったからに過ぎない。『日本書記』自身も、アマテラスの前に造化五神を登場させ、それらがそもそもの国魂、宇宙の創造の神であり、アマテラスを太陽神としている。宇宙の根源の五神が太陽も造化させるわけなのだから、ここまでは整合なのに、あるとき彼等は消え去ってアマテラスが国家神になってしまうのである。
 
だから最初は、五神こそが国家神だった、その派遣しているヤマトの国魂は大物主のような神格であるはずである。ヤマト大国魂と言い換えてもいい。それが先住者の国魂であったこと、それが渡来によって征服されて追いやられたというのが伊勢神宮へのアマテラス追いやりになって言い換えてあるのが崇神紀なのだ。
 
 

 
 
この年の神はおそらく弥生の稲作渡来人がここに入る以前の原始的信仰形態を、これまで6000年ばかりにわたって残存させてきた貴重な祭祀形態であるように見えた。まさにスピリチュアル・スポットであった。
 
 
 
イメージ 6
 
今年も感応する初小旅になった。
 
 
  しらとりの 飛び行く先に 太古あり
 
 
イメージ 7
 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1
 

黒田官兵衛の人心掌握イリュージョン/軍師とマインドコントロール

$
0
0
 
イメージ 2
 
クリックすると新しいウィンドウで開きます
黒田官兵衛孝高(よしたか)像
 
 
黒田官兵衛のエピソードをご紹介します。

備中・高松城攻略で冴える官兵衛の戦術

秀吉の大阪城
岡城の件で黒田官兵衛は織田家への忠義が認められ、小寺家から独立し、羽柴秀吉直属の武将となりました。不自由な身体ながら、官兵衛は輿に乗って出陣したと伝えられています。
 
中国征伐は続いており、天正10年(1582年)、秀吉と官兵衛は織田信長の命を受け、毛利氏配下・清水宗治の守備する備中国高松城に軍を進めていました。
備中高松城は低湿地を利用した平城(沼城)で、鉄砲・騎馬戦法にも強く、守るに安し、攻めるに難し厄介な城。どうやって攻めるか思考する秀吉に、官兵衛は近くを流れる川を堰き止め、城を水没させるという「水攻め」を進言します。秀吉はこの奇策を取り入れ、早速堤防を築きました。さらに梅雨の大雨も味方し、高松城は湖上に浮かぶ孤島と化します。
 
この奇策は成功し、水攻めのため、物資の補給路を断たれて兵糧米が少なくなった城内は動揺、毛利氏の援軍が来ないことも重なって兵の士気は低下。さらに水が城内まで入ってきたため、ついに城主・宗治は秀吉軍との講和に踏み切ります。

中国大返し「秀吉様、今こそ天下を取るときです」

秀吉は講和条件として、「五国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)」の割譲と城主宗治の切腹を要求します。
 
高松城攻略は、ほぼ成功と思われた矢先、天正10年6月3日(1582年6月21日)深夜、秀吉軍に不審な人物を捕らええます。それは明智光秀から毛利への密書を持った間者でした。そこには「信長が明智光秀の謀反により、本能寺で落命した」と書かれていたのです。動揺して泣き崩れる秀吉。しかし、官兵衛は秀吉にそっと告げます。「秀吉様、天下を取る機会が訪れました」と。
 
我に返った秀吉は宗治を切腹させ、講和を取り付けると、明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返します。備中国高松城から山城国山崎までの距離は約200km。
 
官兵衛は、先駆けを走らせ、秀吉の居城・姫路城まで、帰路に沿っての松明や炊き出し、替え馬・渡し舟などを手配、徹底させました。また、織田家配下の武将たちが光秀側につかないように「信長は生きている」との情報を流すのです。
 
 
6日(4日説もあり)に高松を発った秀吉軍は7日に姫路城に到着。全軍はここで休養をとりますが、このとき秀吉は、姫路城に備蓄してあった金銭・米穀を身分に応じて配下の将兵に分け与えたといわれています。その目的は光秀討伐。命がけではあるが、勝てばさらなる恩賞も期待できることを示したのです。
 
6月9日、秀吉は兵を率いて進撃を再開。11日には尼崎に到着し、中川恒興や高山右近ほか、畿内の武将に協力を呼びかけます。驚いたのは光秀でした。まさか秀吉がたった10日前後で引き返してくるとは思わなかったからです。
 
6月13日、秀吉・光秀軍は山崎で激突します(山崎の戦い)。結果は兵力に勝る秀吉軍が光秀軍を圧倒。光秀は敗走しますが、坂本城へ向かう途中、小栗栖で土民に襲われ命を奪われてしまいました。なお、この高松城から山崎の戦いに至るまで、わずか10日ほどでの大移動は「中国大返し」と呼ばれています。
 
 


 
イメージ 3
 
 
およそ参謀とは
1 兵法にたけて
2 人心掌握にたけ
3 時流に聡い
ものだ。
 
しかしなかなかこのすべてをもっているものは出世できない。
なぜならそのような完全無欠の性格では、王とならんとするものから疎まれ、やがて必ず親分との対立、確執、疎遠、やがては流されたり、首になったり、ひどいときは暗殺されてしまうから歴史に多くは残らない。
 
たとえばあの諸葛孔明や竹中半兵衛は、軍略家のように見られるが実は政治が本分で、どちらかといえば軍師よりも参謀向きである。源義経は軍略にはたけていたがスタンドプレイヤーで、人心掌握術は幼稚だった。
 
黒田官兵衛は、しかし非常にまれなことに、王ともなれる才覚にあふれた軍師であった。
 
その本分は、雇用主である秀吉が天下統一後重臣の前で語ったひとことに尽きている。自分の後、いったい誰があとをつぐ天下取りになれるかと聞いて、秀吉自身の答えはなんと黒田官兵衛であった。
 
当然のごとく、歴史の必然で秀吉は官兵衛を忌み嫌うようになり、半兵衛自身は失意のまま九州豊前中津にひきこもり仏門に入り如水(じょすい)を名乗った。
 
如水の名はしかし仏教用語ではなく、道徳経にある「上善如水 水のごとく善し」に由来しており、また官兵衛はキリスト教の洗礼名すら持っていた。このとき如水はすべての野望を捨て去ろうと考えたのである。
 
官兵衛の本領は人心掌握にあり、いくさは極力さけるところにある。そこが秀吉は気に入っていたのであろう。あまりにも自分と似ている、そう思ったに違いない。
 
 
中国大返しでは、金を使い、家臣どもの気合を高め、亡き信長追悼の弔い合戦に疾駆してゆく街道沿いの農民に、いち早く馬を走らせてまかないを用意させ、道沿いでまるでマラソンの給水所のように、食料を与えさせている。
 
いくさで不可欠の金銭を、このとき官兵衛は大量に使ってしまっている。しかしこの金は家臣たちへの秀吉の強いとむらいへの気持ちを伝えるに充分で、一日150キロというはやがけの疲労を気合にかえるに十二分に力を発揮した。
 
この人心操作こそは一種の「正のマインド・コントロール」である。
 
 
 
イメージ 1
 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1

今年はマイペースで記事更新が目標

$
0
0
 
ランキングにきゅうきゅうするのはあきた。
それに新発見も少なくなった。
 
今年はびびびっと感応したときにだけここを更新していきたいと思うようになった。
 
 
 
それに、冷徹な分析もいいけれど、そろそろ感応することに重点を置きたいとも思う。
 
のんびりして、まったりしているほうが、あくせく書物をあさることを上回るヒントだと、Kawakatuもようやく気づいたようである。
 
つまり毎日しこしこ書くよりも、自分があっさりあの世へいくために、感応する何かに出遭うことのほうが随分大事だと超越できたってことかも知れない。
 
 
毎日楽しみにされるよりも、いつ何を言い出すか期待される、そういう筆の重たいブロガーでいきたい。
 
 
正直、新発見はもうあんまり期待していない、筆者自身が。
 
 
遅筆になる。諸氏すまぬ。もっと熱中できる新しいジャンルに今年は出遭いたい。
 
 
 
 
 
イメージ 1

北風・冬将軍

$
0
0
北西風
現代・きたかぜ・からっかぜ
古代・あなじ(乾風)  冬に近畿以西で吹く、船の航行を妨げる強い北西季節風。あなぜ。あなし。
「風の名称辞典」よりhttp://www32.ocn.ne.jp/~gaido/kaze/na.htm
 
 
「あな-し(じ)」 「あな」は感嘆の「ああ!」「わあ!」→「あな!」に由来する驚きや感動の意味。「し」は風の古語である。「斯」「科」。陰陽道ではあなしの風は金を生み、民間では「し」は「死」「四」に通じるため北西ないしは北北西~西は金気、黄泉の方角になる。「しなの」は風の野由来。

日本列島では北西の風は冬の季節風。気象学では西高東低の冬型配置のときに等高線が南北に縦になり、その間隔が狭くなったときに強風が生じる。風は気温の高いところから低いところへ移動するので、高気圧のある北西側から南東へ向いて吹いてくる。ちょうどその位置に日本列島がある。この風の早い動きに、北にあるシベリア寒気団が活発化し、巻き込まれた寒波が降りてくる。アジア大陸方向から吹いてきて、日本海を渡る際に多くの水分を持ち込み、本州の山地にぶつかる。そのため、日本海側では多くの雪を降らせ、山を越えた太平洋側では乾燥した風となる。空っ風はこれである。
 
 
イメージ 1
典型的冬型気象配置
 
イメージ 2
今日2014年1月9日の天気図
 

一般に「北風」とはこの北西風のことで、近畿地方でこれを古来「あなじ」と呼んだ。
今風に言えば「わお!の風」という意味。
 
「あな」は穴にも通じ、金の気がたたら穴に吹くたたら風とも鍛冶(かじ)風、あるいは炭焼き風でもあった。山際では「おろし」とも言う。
 
 
大陸から吹いてくるため、途中にある砂漠の砂(黄砂)や都市の汚染した空気(PM2,5やそれ以下の微小物質など)までも大量に運ぶ。これに応じてシベリア寒気団が降りてきた場合を「冬将軍の到来」と呼ぶ。
 
まことに運の悪いことに、この強風の最も影響を受けるのが日本海側と北関東にある中央アルプスを通り抜けてきた空っ風で、大雪や突風、さらに昨今では竜巻を生み出す。一方太平洋側では大雨となり、雪は少ないが冷害をもたらすことになる。北風の影響が最も少ないのは沖縄地方、鹿児島県東部・宮崎県・大分県南部、高知県、紀伊半島南部、たまに南関東である。反対に最も被害が及ぶのが豪雪地帯である新潟県を中心とする日本海側の東西広範囲と北海道西部。
 
 
イメージ 3
 
 
いわば「鍋の風」「風邪のかぜ」だな。
 
イメージ 4
 
 
 
 
 
 

敗者で考える歴史観・神霊の監視と考古学

$
0
0
 
広瀬和雄など、ラジカルな巨大古墳論理から歴史を語ろうとする学者は多いが、概してその巨大な古墳群がなにゆえに巨大に造営されねばならなかったかを語る者は少ない。しかし、そういう単純なものの見方は元来、日本人の死生観にはまったくふさわしくないものである。
 
立派な墓が作られたからといってその被葬者もまた朝廷にとって立派な人物だったとは限らない。むしろ絢爛豪華、壮大な建造物・遺物こそが「敗者の鎮魂」のためのものと考えてみるのが筆者には日本人的であろうかと見えてならない。
 
なぜならば、敗者の霊魂は過去、必ず勝者に祟ったからである。これを筆者は「神霊の監視」と呼んでいる。
 
 


 
 
古くは山口県土井ケ浜の渡来人骨の葬り方がある。おそらく在地勢力と争って死んでいった人々であろう彼等の遺骨は、きれいに西を向けて埋葬されており、巫女王らしき人物には、シャーマンの象徴である鳥(鵜)が抱かされていた。
西を向くということは日本海のかなたにある黄泉という考えもあるが、故郷である大陸でもあろうし、さらには蘆原中津国である東側を向かせなかったと考える方法もあるだろう。現地人は彼等を敵ながら丁重に葬った、いや、強敵だったからこそ祟らぬように、丁寧に葬ったのである。これは敗者、死者が古代、祟ると考えられたからにほかなるまい。
 
出雲大社しかり、大神神社しかり、宇佐神宮しかり、鹿児島神宮しかり、北野・大宰府の天満宮しかり、およそ荘厳で地域一番の巨大な社には、必ず祟り神として死者が祭られている。
 
箸墓(箸中山古墳)がなぜ巨大であるかをここで考えてみよう。三世紀後半の最初紀の古墳をなぜあのように大きくする必要があったか?『日本書記』は箸墓の被葬者を大物主の神妻となった倭迹迹日百襲媛命(やまと・ととび・ももそひめ)であると書いている。
 
1 倭迹迹日百襲媛命は大物主神の妻となるが、大物主の本体がであることを知って驚き、倒れこみ、が陰部に刺さって死んだ
 
2 四道将軍の一人、大彦命がきいた童歌から武埴安彦命の反乱を予言したうえ、彼の妻吾田媛と二手に分かれて攻めてくるとも予言し、的中させている
 
イメージ 2
 
 
 
箸が陰部(ほと)に刺さって死んだと書かれた女性は彼女と、アマテラスの機織女だけである。強力な祟り神であった大物主(ヤマト先住氏族たちの祖霊)によって殺されたということは祟られた=逆に考えれば祟り神になってしまう可能性があるということだ。たとえばその墓の本当の被葬者があの邪馬台国の卑弥呼だったしても、これまた狗奴国によって死んでしまった祟り神に変わりはない。考古学で考えようと、文献史学で考えようと、民俗学で考えれば、彼女たちは必ず祟る神になる必然性を持っていることになる。まして武埴安彦たちの襲来を彼女は予言した。予言できたとはすでに生前から尋常でない「鬼」の存在である。
 
 
「ととひ」とは「飛ぶ鳥」であると昨今は意見がでている。ヤマト・飛鳥を象徴する名前。「ももそ」とは多くの民の酋長でシャーマン女王である。ヤマト・飛鳥の女酋長である。要するに土井ケ浜のシャーマンと彼女は同じなのである。
 
 
『日本書記』が書いたことは話半分にしておけば、箸墓の「はし」とは地名「はじ」に由来する。だから土師氏の女性が被葬者である可能性も否定できない。大物主というのはヤマトの国土の先住民の祖霊であって、当然、新参の勢力に反発して敗れた敗者の祟る神霊である。
 
 
このように立派な、権威的な、巨大な、荘厳なオブジェを持つものの多くは、勝った側から見て祟る存在になる。祟るからそうされた。祟らずによい心霊となったなら守護神といわれるはずである。だがこの姫も大物主もオオクニヌシでさえも守護神などとは誰も口にしない。これはおかしい。祟る神霊がケの側ならば、守る神霊はハレの側のそれぞれ神霊の一端に過ぎない。それが片側だけ言い募られるのは、そう書いた、そう言っている側の理論でしかない。敗者にとって祟り神は守護神のままであるはずであろう。それをさせないのは為政者が、出雲千家のような国造、鎮魂者を送り込んで過去を封じ込めさせたからにほかならない。あとの住民は過去を知らないままにされ、神とはすべてがハレの存在だと思い込まされたのである。民衆を無知のままにマインドコントロールすることほど政治がやりやすくなることはない。これは政治的負のマインドコントロールである。うまくいくと無知たちはなんの疑いもなく自爆戦争にも出征していく。その証拠が第二次大戦。
 
 
伊勢神宮のアマテラスは、なぜ崇神によって宮中から伊勢へ追いやられたのか?同時に倭大国魂もまた場所を山の辺へ移された。さらにそこに眠る倭比売の社になにゆえに三輪山の三輪鳥居が置かれるのか?それはヤマトの為政者が変わったからにほかならない。敗れたから祭られたからに相違ない。
 
 
日本の神社の祭神の大半はこのようなゴーストである。
 
 
 
さて、日本最大の巨大古墳は仁徳天皇陵(大仙・大山古墳)である。なぜあのように馬鹿みたいにでっかいのか?考えたことはおありだろうか?それだけ立派な人物だったからだろうか?あるいはこれまで言ってきたような、敗者だったからだろうか?
 
仁徳天皇が敗者で祟る神になったのなら記紀にそういう伝承があるはずである。しかし記紀は仁徳を徳の高い、民心にこまやかな偉大な王だったと書いている。たたりのことなど一言も書いていないし、また大戦争で負けたなどとも書いていない、ならばなぜあのような張子の虎のような特大古墳にしたのか?
 
そもそもそのような大王の伝承がまったくなかった、知らなかったのではあるまいか?
 
大阪湾からかつては見えていた古市・百舌鳥の古墳群。誰が見るのか?誰に見せるのか?海外・海内からの賓客に、である。「見せる古墳」である。八世紀の文献が「偉大で徳があって非の打ち所がないような」過去の=今の王家の祖先と決め付けた河内の王たち。それこそが記紀史観・皇国史観・万世一系を体現するための優勝カップのごとき存在。どうだわが国の力は・・・そいう意味の「箱もの」なのではなかったか?国威を見せ付けるためのオブジェ。そもそも本当に墓なのか?である。
 
 
出雲大社はなぜ48Mもの高さを誇ったのか?国を譲ったからである。
鹿児島神宮や枚聞神社は、なぜあのような遠隔地であるにも関わらず立派なのか?
朝廷が隼人を無残に殺したからである。
宇佐神宮はなぜ応神天皇を祭り、四拍手させるのか?それが先の王家への鎮魂だからだ。
歴史上あきらかに敗者となった筑紫国造磐井の岩戸山古墳は、なぜ九州一番の大きさなのか?残酷に殺したからである。
鹿嶋神宮はなぜ伊勢に次ぐ高い社格なのか?そこより北にいた蝦夷の霊魂を鎮魂するためである。さらには摂政である藤原氏がそれを実行したからである。
四天王寺はなにゆえに物部守屋の霊を祭るのか?朝廷である自分たちが殺したからである。
蘇我馬子の桃源郷古墳石室はなぜあのように巨大なのか?子孫を殺したからである。
 
 
 
ここで注意せねばならないのは、河内の大古墳以後の古墳が、すべて巨大ではなくなることと、本当に偉大で実力者だったからこそ大きい墓を持っている人もいるということである。その見極めは中に収められた遺体の扱いや埋葬品から類推可能であろう。そもそも墓は巨大である必要などないしろものである。なぜなら日本では狭い国土の邪魔になる。大きくしたのはそれが祖霊の祭りの舞台だったからにほかならない。その手法には、正の鎮魂と負の鎮魂があったはずである。世界中の神秘を見ても、ブッラクマジックにはホワイトマジックがあり、陰と陽、表と裏があるのは人間の死生観の常である。
 
要するに靖国の戦犯鎮魂もそれが国にとって迷惑な祟り神だからにほかならない。
日本人だけのこれが死生観、祭祀ノウハウ。つまり日本人はくそまじめだという証拠なのである。本気で祟りを信じ、心から押し込めようとしてきた。大陸で取り愛ばかりが常でやってきた殺伐とした連中に理解できるはずがない「おたく文化」に最大の根幹こそはこの畏怖の心である。小心者なのである。しかしなにかのはずみで小心者は「窮鼠猫を噛む」存在になることがある。その原因を作るのはいつも巨大な虎たちのいわれなき差別と侵略なのだということだ。われわれは率先して他国を侵略したりしたことがない。それをしたのは「サル」=秀吉だけである。もちろんサルは人ではない。
 
 
 
 
でっかい=偉人とはあまりに一元的であさはかで、人のなりわい、心の機微にうといおろかなものの見方だと言えよう。
 
 
よく理解できた人だけクリック
理解できない人は押さなくて結構です。
イメージ 1
 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1
 
 
 
 
 
 
 
 

もうひとつの四拍手本義

$
0
0
 
さて四拍手する神社の意味についてこういう見方もあるだろう。
 
 
1 神を祭る、呼び出すのに二拍手するのが正しいのなら、四拍手する神社にはふたつの神霊が祭ってあるのだ。
 
2 祖霊は四隅に降臨するものだからだ。四隅四拝の意味とは国家国土の神だけにするものだ。
 
ちなみに伊勢神宮では八拍手するなどという嘘もたまに聴くが、伊勢神宮での八拍手(八開手)は神宮神官が祭祀の時にのみ行う儀礼で、一般参拝者は行わない。伊勢に行き神職の解説をちゃんと聴けば「内宮ではしゃがんで二礼四拍手が本当」だとちゃんと言ってくれる。
全国で四拍手する神社は
西=出雲大社(島根県) 
南=宇佐神宮(大分県)
北=弥彦神社(新潟県)
そして東=伊勢内宮(三重県)である。
 
これはヤマト地方を中心にして四隅=四至(しいし)をあらわす。陰陽五行でも四隅に神が置かれ、これを国家鎮護の神宮、あるいは宗廟(そうびょう・天皇家の祖先神・祖霊)という。
 
 
 
イメージ 1
 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1
 
 
 
 
 
 

由布市大将軍神社春の大祭/全国一月十三日の祭りとその意味

$
0
0
 
 
イメージ 4
今日は 旧暦12/13 十三夜
たまたま年の干支が甲午きのえうま:こうご)で、月の干支が丁丑(ひのとうし:ていちゅう)で牛馬の日に当たったので、毎年牛馬を祭る春の大祭が行われている大分県由布市挾間町の大将軍神社をご紹介したい。
 
 
筆者近在の神社である。
京都から分祀したと言われている。
 
 
 
≪大将軍(だいじょうごん)神社 由来記≫
 
 

 
祭神
保食(うけもちの)神 伊邪那岐神 岩長姫神 阿須波神 波比岐神 市杵島姫神 
スサノオノミコト 大歳神 武岩立神 大山津見命 櫛稲田姫命 天水分神
大国魂神 倉稲魂神 崇徳天皇 菅原道真公 加藤清正公
 
由来
右保食神、伊邪那岐神、岩長姫神の三神は元京都に鎮座し
その後加賀国(石川県)篠原村に遷座ましました三柱にて、
寿永年間源平争乱、平家の余族北国に敗走するとき、
同社の社司加藤兵部太夫が災害波及を怖れこの三社神を奉体し篠原を去り豊後国姫島に移る。

 
壇ノ浦の役後更に姫島から同国洗の里に転じ、ここにて国安泰の時を待つ、
これよりこの里を時待(現在の挟間町大字時松)とす。
或夜神託あり曰く、「一里東南方に清潔なる高山ありその山頂に遷座せよ」と、
太夫霊夢を感じ直ちに同山に奉遷し、故郷の名を取り同地を篠原と名づけ小倉山三柱神と称す。

代々藩主の崇敬厚く、肥後藩十代藩主肥州太神細川越中守斎護公より神輿及び九曜紋付高張提灯の奉納あり、大友義鎮奉納の太刀等今尚保存す。

明治十二年に、阿須波神、波比岐神、市杵島姫神、スサノオノミコト、加藤清正公の五神は元篠原村内の各小社に

崇徳天皇、大歳神、武岩立神、スサノオノミコト、櫛稲田姫命、大山津見命、天水分神、倉稲魂神、大国魂神、保食神、菅原道真公、加藤清正公霊の十二神は元小野村内各小社に鎮座せしを合祀し、

社名も大将軍宮・松原神社・保食神社と変遷を経たが大正十三年郷社昇格を機に現在の大将軍神社と改称した。
 
古くから牛馬・農耕・交通の守護神として信仰され、遠近を問わず参詣する者が絶えない。
ちなみに、豊後国志に「此祠、専祷請牛馬之疾云々」と記されている。

毎年一月と九月の十三日・十四日・十五日に大祭が行われるが、
特に一月十三日の大祭初日にたつ市は、大将軍市として、浜の市、賀来の市と共に大分郡市の三大市として有名である。
イメージ 1
 
 
≪牛馬の神様大将軍神社≫
 
大将軍神社はもとは加賀の国の篠原岳にござった神様だった。
そこに加藤兵部太夫という人がいたが、源氏と平氏の戦いが激しくなったので安全な所を探して時松にやってきた。
そこから神のお告げでこの篠原の小倉山に来ることになった。
大将軍神社はもともと牛馬の神様だったが
江戸時代熊本の細川越中守綱俊という殿様が参勤交代で野津原まで来たとき
馬の元気がなくなって進もうにもどうにもならんようになった。
そこで家来たちは相談して大将軍神社に参った。
そうして野津原に帰ってみると馬はぴんぴん元気になっていたので
さすがに大将軍の霊験はあらたかなものじゃといって評判になった。
殿様は帰りに御礼参りをし、その後神輿を奉納したんと。
 
(参考文献:挟間町教育委員会)
 
 
イメージ 2
 
 
 
 

 
 
 
旧暦一月十三日は六曜では先勝。
旧暦のまま行っているところ
尾張大国霊神社儺追(なおい)神事(二月)(国府宮はだか祭)(愛知県)
 
新暦一月十三日に行うところ
長野県野沢温泉道祖神祭りhttp://www.nozawakanko.jp/spot/dousozin.php
大分県由布市挾間町代将軍神社春大祭http://www.walkerplus.com/event/ar1044e22006/
愛媛県道後温泉・湯神社初子(はつね)祭12~13日http://www.mcvb.jp/osusume/osusume_top.html
 
北海道上磯郡木古内町みそぎ祭り
岐阜県大垣市金生山明星輪寺 初こくぞう
三重県尾鷲市ハラソ祭り
福岡県小郡市虚空蔵さん祭り
福岡県小郡市日吉神社 左義長どんど焼
この五ヶ所の各祭事へのリンクページhttp://www.walkerplus.com/event_list/20140113/eg0135/
 
 
なぜ新暦一月十三日に祭りをするか?
新暦一月十三日は旧暦では2月の節会(せちえ)期間であるので、春の始まりで、追儺、厄払いを行う「なおい」祭りが各地で行われる。邪気を払い、祖霊を迎え入れ、農耕行事の始まりを告げる祭事、つまり追儺儀式をすることで本当の新年を迎える節気とした。
 
 
イメージ 3


小正月と「かせどり」神事

$
0
0
 
 
 
昔は正月が終わると九日~15日くらいまで小正月だった。
昭和30年代まで、地方にこの行事は残っていて、小豆粥などを食したものである。
 
 
 
小正月と旧正月の違い

◆小正月(こしょうがつ)とは、正月15日の行事。
●正月が2回?
 「元日を中心とした「正月(大正月・おおしょうがつ)」に対し、1月15日(厳密には14日の日没から15日の日没まで)を「小正月(こしょうがつ)」と言います。「月」を暦の基準にしていた大昔の日本では、「満月から次の満月まで」が一カ月でした。昔の人は満月をめでたいものの象徴としていたようで、一年で初めての満月の日を「正月」にしていました。これが「小正月」の起源です。
 
●小正月は女正月?
 元日が正月として定着すると、小正月は豊作を占ったり、鬼追いをしたりと、大正月とは違う特殊な行事が中心になりました。また小正月は、お嫁さんが里帰りしたり、大正月に忙しく立ち働いた女性たちも一休みすることができるので、「女正月」とも言われています。
 
●小正月は正月の終り?
 小正月の代表的な行事に豊作祈願の意味を込めた「みずき団子(餅花)」や、正月飾りを燃やす悪霊払いの行事「どんと焼き」などがあります。一般的に小正月の終わりは20日とする地域が多いようですが、元々は悪霊払いだった「どんと焼き」が、やがて正月にやって来た年神さまを天に送り返す火と見るようになり、これをもって正月(大正月・小正月)の終わりと位置づける見方も生まれてきました。」
http://www.bunka.pref.iwate.jp/seikatsu/syougatu/syousai/kosyougatu01.html
 
 
本来旧暦だが、明治の改暦後は新暦1月15日、もしくは、2000年からは成人の日(1月第2月曜日)に行われる場合もある。
 
元日(または元日から1月7日まで)を大正月と呼ぶのに対してこのように呼ぶ。正月(字義通りには月末まで)の終わりとも位置づけられる[3]。小年(こどし)、二番正月、若年、女正月(おんなしょうがつ)、花正月。これに対して旧正月とは。
 

◆「旧正月(きゅうしょうがつ)は、旧暦の正月(年初)。
旧暦元日(旧暦1月1日)、またはそれから始まる数日間のこと。ここでの旧暦とは、中国(清)・日本・朝鮮半島・ベトナムでかつて使われていた、中国暦およびその変種のことである。
 
旧暦1月1日は、通常雨水(2月19日ごろ)の直前の朔日であり、1月22日ごろから2月19日ごろまでを毎年移動する。旧暦で平年だった年は翌年の旧正月は約11日後退し、閏月があれば約18日進む。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E6%AD%A3%E6%9C%88
 
 
 
◆こしょうがつのほうもんしゃ【小正月の訪問者】・・・民俗学で,小正月に家々を訪れ,祝福してまわる者をいう。一年の最初の満月の夜に神が来臨し,人々に祝福を与えたという古い信仰に基づく行事。ほとほと・かせどり・なまはげなど。
以上大辞林 第三版から
 
 
 
◆かせどり・・・(主に東北・九州地方で)小正月に子供や若者が家々を巡って,祝言を述べ祝儀をもらう行事。また,巡り歩く者。かせぎどり。
 
●佐賀県見島地域
見島のカセドリ(みしまのカセドリ)は、佐賀市蓮池町の見島地区で小正月に行なわれる来訪神行事カセドリとは、神から使わされた雌雄のつがいのニワトリと考えられている。毎年2月の第二土曜日の夜、土地の独身男性2人が藁蓑に身をつつみ、手甲、脚絆、白い足袋、笠を身につけ、カセドリに扮する。350年以上続いているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E5%B3%B6%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%BB%E3%83%89%E3%83%AA
http://ameblo.jp/minzokuhiroba/entry-11473033076.html
 
 
 
 
●大分県日出町大神(おおが)原山
「「かせどり」は、新たに子どもが生まれた家に『大足半』と呼ばれる縦70センチ、横30センチ、 重さ6キロもある「大きなわら草履)」を届ける行事で、 「この草履がはけるくらい立派に大きく成長するように」との願いが込められています。
江戸時代末期に始まったと言われるこの「かせどり」は 戦争などで約50年間途切れていましたが、1999年に原山ボランティアクラブが中心となって復活させ、 継承しています。
贈り手は、相手に正体を知られてはならない決まりがあり、かさや、みので体を包み、お面や化粧などで顔を隠」す。
http://community.ctb.ne.jp/wakuwaku/2010/01/post-20100114-t-kasedori.html
 
 
 
●熊本県一部地域
「カセドリの馬  子どもが伝えた正月行事の一つにカセドリがあります。1月14日の夜、作ってもらったワラの馬を各家庭に配ってまわります。この馬は神棚にまつられます。」

●山形県上山市かせ鳥
 

●宮城県加美町http://www.miyagi-kankou.or.jp/wom/o-1301
●福島県福島市, 福島県福島市, 正月十四日の夜、この名で呼ぱれる物貰いの風習が、東北 と九州の南部とに、ほぽ同じ形で行われている。奥羽の方は土地によって少しずつ名が かわるが、これをカセドリというのは福島市から二本松付近
 
 

 
 

 
 
小正月と旧正月
小正月は松の内(1/1~1/8)のあとの満月から新月までを言う。
旧正月は旧暦の大正月=松の内を言うので、毎年だいたい2月中旬。中国では春節。そのあとにくるのが小正月である。
 
 
たいした差ではないが、小正月がケの祭事なら、旧正月はハレの祭事と覚えておけばいいだろうか。
 
 
 
小正月には北欧の冬至祭とそっくりな行事が各地で行われ、なまはげ・小豆粥・としどん・甘酒祭り・花餅などなどがそれ。
 
「かせどり」は東北と九州という隔絶していたはずの地域にまったく類似した祭事が伝わっており非常に珍しい。いわゆる来訪神が子供を祝福し、接待されたり、おみやげ(神饌)をねだるお祭り。九州と東北の中間地域にないのは、それが陸地伝いではなく海を伝っていった証拠になるかと思えるので、南海の島人系精霊まつりの亜種であろう。どの地域も350年ほどの歴史とされるが、実際にはその原型がもっと古くからあった可能性もある。東北へは開拓のために入った九州人が、あとから伝えたかも知れない。あるいは逆ルート?
 
詳細は謎である。
 
 
 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1
 
 

転載・岩橋千塚と双脚輪状文

$
0
0
押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ

イメージ 6



●双脚輪状文が描かれた古墳    所在地     土器編年       墳形   
1熊本県釜尾古墳(横向き)  川流域釜尾市    6世紀後半      ●
2福岡県王塚古墳(縦向き)  遠賀川流域     6世紀初~中   前方後円墳
3弘化谷古墳(横向き・円紋に脚)筑後川流域八女市 6世紀中        ●
 石人山のある古墳群にある古墳群は4前~7前まで存続
4横山古墳(下向き)菊池川流域鹿本郡植木町移築再現5後~6前   前方後円墳    
5福岡県丸山(塚)古墳(不明消失)八女市詫間田?

イメージ 1

イメージ 2


※これ以外に二つ候補にあげてもいいのが田代太田の円紋の中にもあるか?
さらに田主丸にもそういう候補があるようだが古墳名は秘密にしておきたい。
すると少なくとも北部九州には六ヶ所、双脚輪状文が描かれていることになる。
丸いトゲのないものとトゲのあるものがあり、この派生の相違は今後の問題。
貝殻の種類がヒントか。なにも模様の源流がスイジガイだけとは限らないということ。

●双脚輪状文型の特殊形象埴輪が出た遺跡・古墳
1 和歌山県和歌山市岩橋・井辺八幡山古墳  双脚輪状文部分が破損した状態で出土形象特  殊埴輪 1個の部分と推測された  6初  前方後円墳
  
2 和歌山県岩橋千塚古墳群のうち大日山35号墳    6前  前方後円墳
   冠帽をかぶる人物(男女?あるいは親子?各1)画像下

3 和歌山県大谷山22号墳 双脚輪状文特殊埴     6前  前方後円墳          
4 香川県公文山古墳 双脚輪状文付き特殊形象埴輪 一個       不明   不明

5 奈良県荒蒔古墳  天理市荒蒔町糸杭139.     6前  帆立前方後円墳

イメージ 3


イメージ 4



関連類似物
 岡山県金蔵山古墳 盾形埴輪にスイジガイ?意匠デザイン化
 大阪府古市古墳群仲津山古墳 円筒埴輪にスイジガイ?陰刻
 静岡県磐田市松林山古墳 スイジガイ貝輪現物            4世紀後 前方後円墳
 山梨県甲斐銚子塚古墳    同上                      前方後円墳
 長野県須坂鎧塚古墳      同上               積石円墳
 群馬県綿貫観音山古墳 冠帽をかぶる人物埴輪(円形冠帽で縁飾り後部に岩橋千塚に似た脚がある)
 大分県宇佐市貴舟平下の裏山横穴墓  日本唯一の六脚輪状文          横穴墓
イメージ 5



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

参考サイト

装飾古墳 文様の種類と解説
http://www.netpia.jp/history/monyou.htm


文献
辰巳和弘『埴輪と絵画の古代学』白水社 1992
文化庁『発掘された日本列島2009


●注目ポイント
紀ノ川氏族関連で摂津の今城塚をあげておく。家型埴輪に直孤文あり。
岩橋千塚古墳群の氏族を和歌山県では紀氏ではないかと推測している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

疑問1紀ノ川河口北部の淡輪古墳群との関係は?
   2紀氏の一族、あるいは枝族が双脚輪状文を共有していたか?
   3スイジガイ的なトゲのある円紋(Kawakatu的には金平糖型とか勲章型)
    に脚と弘化谷のようなトゲのない円紋に脚の絵柄があるのはなぜ?
   4 縦向き、横向き、上向き、下向きがあるのはなぜ?
   5 岩橋千塚や大日山35号の「冠帽」は、現実の人間も使ったのか?
     どんな素材で作られたのか?どういう意味があるのか?
   6 そもそも双脚輪状文の大元はただスイジガイでいいのか?
     鮑などの丸い貝もあるのか?それともまったく別のモデルが?

●紀氏(木氏とも。紀臣・都奴臣・坂本臣の祖)
和歌山紀ノ川下流から摂津淀川、山背桂川流域に分布が考えられる氏族。
『新撰姓氏録』では武内宿禰子孫
古墳群に靫・胡籙などの弓矢武具の形象埴輪を持つ。
『新撰姓氏録』では葛城氏同族

つまりこの人物の系譜であろうか?
●武内宿禰 たけし・うちの・すくね(一説に隼人に関わる内族族長?)
父は孝元天皇の皇孫、屋主忍男武雄心命(『古事記』は孝元天皇の皇子、比古布都押之信命とする)
母は木国造(紀伊国造)の女・影媛

子孫
羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね) - 波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部臣の祖
巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね) - 巨勢臣、雀部臣、軽部臣の祖
蘇我石川宿禰 - 蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣の祖
平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね) - 平群臣、佐和良臣、馬御織連の祖
紀角宿禰(きのつののすくね) - 紀臣、都奴臣、坂本臣の祖
久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)
怒能伊呂比売(ののいろひめ)
葛城襲津彦 - 玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣の祖
若子宿禰(わくごのすくね) - 江野財臣、利波臣、射水臣の祖
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54381765.html

紀氏の同族、葛城襲津彦の子孫には的臣が掲載されている。
また『豊日誌』には大分県日田市刃連(ゆきい)町の靭編の祖が鳥羽宿禰で、日下部の祖でもあると記載があった。
装飾の類似以外でこれら氏族と九州をつなぐ記事はこれだけである。


もちろん双脚輪状文とスイジガイなどの貝輪が完璧に紀氏に使用の源流があるとは断定できないことも言い添えておく。



イメージ 7


With2ブログランキングへ

双脚輪状文の持ち主は葛城的臣

$
0
0
 
前の記事に転載しておいた岩橋千塚古墳群出土の各種人物埴輪がかぶっていた双脚輪状文型帽子の追求である。
 
イメージ 8
 
 
PDFサイトの中によい画像が見つかった。
 
イメージ 1
 
 
 
 
イメージ 2
 
 
イメージ 3
画像出展PDFファイル http://www.kiifudoki.wakayama-c.ed.jp/kenkyukai/kofun%20kenkyukai/kofun%20kenkyukai%20siryou/kofun%20kenkyukai13/hanayama2%20soukyakurinjoumon.pdf
(このURL表示にはPDFファイル表示ソフトが必要です。)
 
さて九州の装飾古墳に多用されている双脚輪状文のルーツや形状の意味について、これまで諸説が出ているが、いまだに決定的なものがない。
 
この模様は熊本県釜尾古墳,福岡県の王塚古墳、弘化谷古墳、横山古墳の合計4つの古墳にしか見られない(暫定的・候補に丸山古墳などあり)特別な文様である。また亜種として大分県宇佐市大字山下にある貴船平下の裏山横穴墓群の一基に六脚輪状文がある。
 
イメージ 4
熊本県釜尾古墳双脚輪状文
 
イメージ 5
大分県貴船平下の裏山横穴古墳群六脚輪状文
 
 
 
 
模様の出所はまず間違いなく南海産のスイジガイからである。
 
イメージ 6
 
 
ではそれを用いた氏族とは?
これはまずもってスイジガイの貝輪をステータスとしていた氏族で間違いない。
それが九州だけでなく、紀伊半島の紀ノ川沿線の古墳群からも埴輪として出るということは、ルーツの第一番目はまず紀ノ川周辺の氏族。さらに、弥生時代から南海・琉球などと交流があった海人族派生の氏族である。
とするとこの周辺で記録にあり、古代海人族をルーツにするのは紀氏か葛城氏などの武内宿禰系氏族と想定可能。
彼等は弥生以前から南島と交流してきた縄文系倭種であろう。
それが紀ノ川方面へ北上して紀氏や葛城氏になっていったと考えられる。
 
そして古墳時代になると、額田部や忍坂部や靫負部のような河内~飛鳥地域の皇后の名代部として、「故郷に派遣された」と見てよい。もともとのルーツである地域への復帰派遣は充分に可能性が高いだろう。まったく縁故のない地域へいかされるよりも多かったと思える。また、九州は大陸に近く、また熊襲などの残留不満分子もまだ多かったから、防御の障壁としてつかわされた可能性も高い。
 
出雲などでも額田部の記録が鉄剣に刻まれている。額田部は九州だけでなく日本海にも第二のルーツがあったのだろう。名代部そのものが各地の海人族などに与えられ、えにしのあるところへ派遣された。『日本書記』が国造の派遣として書き記した話がるが、これも国造と言うよりもまだ武力的な力で地元勢力を抑え込む軍事的障壁としての派遣であろう。
 
それで双脚輪状文の主を仮定すると、葛城的臣(いくはのおみ)をまず第一に推しておきたい。この氏族は皇后の宮門を弓矢で守る部である。
 
「葛城氏の始祖である葛城襲津彦(そつひこ)は、『古事記』には武内宿禰孝元天皇の曾孫)の子の1人で、玉手臣的臣(いくはのおみ)などの祖とされる。襲津彦以降の氏人としては、葦田宿禰玉田宿禰円大臣・蟻臣の名が知られ、その系譜は断片的に復元可能である。」(Wiki葛城氏)
 
 
ただし的臣自身が墓に装飾を率先して持ったかどうかは別問題で、彼等の手下となった現地の氏族だけが装飾を持った可能性もある。しかし畿内の的臣はそもそも海人系と考えられ、部となるには身分的に相応である。そのあたりの身分的な墓制の違いはもう少し分析されねばなるまい。
 
 
イメージ 7
 
 
 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1

再掲載・海の正倉院

$
0
0
海の正倉院・宗像の沖ノ島のきらびやかな伝世品
イメージ 1

イメージ 2

イメージ 7

江田船山古墳出土品。すべてが百済王からの贈答品である。
イメージ 3

奴国・伊都国・末慮国の出土品
イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

草葉文鏡は金印を受けた奴国王の数代前の人物がさずかった(紀元前1世紀)。
イメージ 8

イメージ 9

福岡県宮地嶽神社古墳伝世品
高句麗様式の王冠はここからしか出ていない。近畿地方の王冠は百済様式で新しい。
イメージ 10

なお宮地嶽古墳石室は日本で第二番目の大きさ。日本最長は奈良県の(見瀬)丸山古墳(欽明天皇稜比定)。


 

クリッククリクリ!↓

↓       ↓          ↓        ↓
With2ブログランキングへ

 

再掲載海の正倉院2

$
0
0
このブログにこれまで添付してきた画像の中から、九州出土の国宝クラス遺物の画像をいくつか集めてみた。存分に画像をお楽しみください。

イメージ 1

■福岡県宗像大社沖ノ島純金製指輪
新羅系
1400年前ころ

イメージ 2

熊本県江田船山古墳出土金銅製耳飾

イメージ 3

江田船山古墳出土金銅製履


イメージ 4

福岡県一貫山銚子塚古墳出土鎏金方格規矩四神鏡

続く



クリッククリクリ!↓

↓       ↓          ↓        ↓
With2ブログランキングへ

Viewing all 1881 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>