広瀬和雄など、ラジカルな巨大古墳論理から歴史を語ろうとする学者は多いが、概してその巨大な古墳群がなにゆえに巨大に造営されねばならなかったかを語る者は少ない。しかし、そういう単純なものの見方は元来、日本人の死生観にはまったくふさわしくないものである。
立派な墓が作られたからといってその被葬者もまた朝廷にとって立派な人物だったとは限らない。むしろ絢爛豪華、壮大な建造物・遺物こそが「敗者の鎮魂」のためのものと考えてみるのが筆者には日本人的であろうかと見えてならない。
なぜならば、敗者の霊魂は過去、必ず勝者に祟ったからである。これを筆者は「神霊の監視」と呼んでいる。
古くは山口県土井ケ浜の渡来人骨の葬り方がある。おそらく在地勢力と争って死んでいった人々であろう彼等の遺骨は、きれいに西を向けて埋葬されており、巫女王らしき人物には、シャーマンの象徴である鳥(鵜)が抱かされていた。
西を向くということは日本海のかなたにある黄泉という考えもあるが、故郷である大陸でもあろうし、さらには蘆原中津国である東側を向かせなかったと考える方法もあるだろう。現地人は彼等を敵ながら丁重に葬った、いや、強敵だったからこそ祟らぬように、丁寧に葬ったのである。これは敗者、死者が古代、祟ると考えられたからにほかなるまい。
出雲大社しかり、大神神社しかり、宇佐神宮しかり、鹿児島神宮しかり、北野・大宰府の天満宮しかり、およそ荘厳で地域一番の巨大な社には、必ず祟り神として死者が祭られている。
箸墓(箸中山古墳)がなぜ巨大であるかをここで考えてみよう。三世紀後半の最初紀の古墳をなぜあのように大きくする必要があったか?『日本書記』は箸墓の被葬者を大物主の神妻となった倭迹迹日百襲媛命(やまと・ととび・ももそひめ)であると書いている。
1 倭迹迹日百襲媛命は
大物主神の妻となるが、大物主の本体が
蛇であることを知って驚き、倒れこみ、
箸が陰部に刺さって死んだ
箸が陰部(ほと)に刺さって死んだと書かれた女性は彼女と、アマテラスの機織女だけである。強力な祟り神であった大物主(ヤマト先住氏族たちの祖霊)によって殺されたということは祟られた=逆に考えれば祟り神になってしまう可能性があるということだ。たとえばその墓の本当の被葬者があの邪馬台国の卑弥呼だったしても、これまた狗奴国によって死んでしまった祟り神に変わりはない。考古学で考えようと、文献史学で考えようと、民俗学で考えれば、彼女たちは必ず祟る神になる必然性を持っていることになる。まして武埴安彦たちの襲来を彼女は予言した。予言できたとはすでに生前から尋常でない「鬼」の存在である。
「ととひ」とは「飛ぶ鳥」であると昨今は意見がでている。ヤマト・飛鳥を象徴する名前。「ももそ」とは多くの民の酋長でシャーマン女王である。ヤマト・飛鳥の女酋長である。要するに土井ケ浜のシャーマンと彼女は同じなのである。
『日本書記』が書いたことは話半分にしておけば、箸墓の「はし」とは地名「はじ」に由来する。だから土師氏の女性が被葬者である可能性も否定できない。大物主というのはヤマトの国土の先住民の祖霊であって、当然、新参の勢力に反発して敗れた敗者の祟る神霊である。
このように立派な、権威的な、巨大な、荘厳なオブジェを持つものの多くは、勝った側から見て祟る存在になる。祟るからそうされた。祟らずによい心霊となったなら守護神といわれるはずである。だがこの姫も大物主もオオクニヌシでさえも守護神などとは誰も口にしない。これはおかしい。祟る神霊がケの側ならば、守る神霊はハレの側のそれぞれ神霊の一端に過ぎない。それが片側だけ言い募られるのは、そう書いた、そう言っている側の理論でしかない。敗者にとって祟り神は守護神のままであるはずであろう。それをさせないのは為政者が、出雲千家のような国造、鎮魂者を送り込んで過去を封じ込めさせたからにほかならない。あとの住民は過去を知らないままにされ、神とはすべてがハレの存在だと思い込まされたのである。民衆を無知のままにマインドコントロールすることほど政治がやりやすくなることはない。これは政治的負のマインドコントロールである。うまくいくと無知たちはなんの疑いもなく自爆戦争にも出征していく。その証拠が第二次大戦。
伊勢神宮のアマテラスは、なぜ崇神によって宮中から伊勢へ追いやられたのか?同時に倭大国魂もまた場所を山の辺へ移された。さらにそこに眠る倭比売の社になにゆえに三輪山の三輪鳥居が置かれるのか?それはヤマトの為政者が変わったからにほかならない。敗れたから祭られたからに相違ない。
日本の神社の祭神の大半はこのようなゴーストである。
さて、日本最大の巨大古墳は仁徳天皇陵(大仙・大山古墳)である。なぜあのように馬鹿みたいにでっかいのか?考えたことはおありだろうか?それだけ立派な人物だったからだろうか?あるいはこれまで言ってきたような、敗者だったからだろうか?
仁徳天皇が敗者で祟る神になったのなら記紀にそういう伝承があるはずである。しかし記紀は仁徳を徳の高い、民心にこまやかな偉大な王だったと書いている。たたりのことなど一言も書いていないし、また大戦争で負けたなどとも書いていない、ならばなぜあのような張子の虎のような特大古墳にしたのか?
そもそもそのような大王の伝承がまったくなかった、知らなかったのではあるまいか?
大阪湾からかつては見えていた古市・百舌鳥の古墳群。誰が見るのか?誰に見せるのか?海外・海内からの賓客に、である。「見せる古墳」である。八世紀の文献が「偉大で徳があって非の打ち所がないような」過去の=今の王家の祖先と決め付けた河内の王たち。それこそが記紀史観・皇国史観・万世一系を体現するための優勝カップのごとき存在。どうだわが国の力は・・・そいう意味の「箱もの」なのではなかったか?国威を見せ付けるためのオブジェ。そもそも本当に墓なのか?である。
出雲大社はなぜ48Mもの高さを誇ったのか?国を譲ったからである。
鹿児島神宮や枚聞神社は、なぜあのような遠隔地であるにも関わらず立派なのか?
朝廷が隼人を無残に殺したからである。
宇佐神宮はなぜ応神天皇を祭り、四拍手させるのか?それが先の王家への鎮魂だからだ。
歴史上あきらかに敗者となった筑紫国造磐井の岩戸山古墳は、なぜ九州一番の大きさなのか?残酷に殺したからである。
鹿嶋神宮はなぜ伊勢に次ぐ高い社格なのか?そこより北にいた蝦夷の霊魂を鎮魂するためである。さらには摂政である藤原氏がそれを実行したからである。
四天王寺はなにゆえに物部守屋の霊を祭るのか?朝廷である自分たちが殺したからである。
蘇我馬子の桃源郷古墳石室はなぜあのように巨大なのか?子孫を殺したからである。
ここで注意せねばならないのは、河内の大古墳以後の古墳が、すべて巨大ではなくなることと、本当に偉大で実力者だったからこそ大きい墓を持っている人もいるということである。その見極めは中に収められた遺体の扱いや埋葬品から類推可能であろう。そもそも墓は巨大である必要などないしろものである。なぜなら日本では狭い国土の邪魔になる。大きくしたのはそれが祖霊の祭りの舞台だったからにほかならない。その手法には、正の鎮魂と負の鎮魂があったはずである。世界中の神秘を見ても、ブッラクマジックにはホワイトマジックがあり、陰と陽、表と裏があるのは人間の死生観の常である。
要するに靖国の戦犯鎮魂もそれが国にとって迷惑な祟り神だからにほかならない。
日本人だけのこれが死生観、祭祀ノウハウ。つまり日本人はくそまじめだという証拠なのである。本気で祟りを信じ、心から押し込めようとしてきた。大陸で取り愛ばかりが常でやってきた殺伐とした連中に理解できるはずがない「おたく文化」に最大の根幹こそはこの畏怖の心である。小心者なのである。しかしなにかのはずみで小心者は「窮鼠猫を噛む」存在になることがある。その原因を作るのはいつも巨大な虎たちのいわれなき差別と侵略なのだということだ。われわれは率先して他国を侵略したりしたことがない。それをしたのは「サル」=秀吉だけである。もちろんサルは人ではない。
でっかい=偉人とはあまりに一元的であさはかで、人のなりわい、心の機微にうといおろかなものの見方だと言えよう。
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