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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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季節はずれのかぐや姫

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今宵「大雪」だそうな。
 
筆者の住む九州で大雪などまずは20年に一度、それも北国から見ればほんの名残雪程度でしかないだろう。
 
暖かい夜だ。
木枯らしも吹かない。
 
ならば、ひととき、過去の記事一覧から今宵は「かぐや姫」でも読んでいただこうか。
 
 
右のリンクから竹取物語分析を選択されてもいい。
 
 
 
なにしろ、今日は庭を当たって疲れてしまった。
早々にほろ酔い加減。
 
今しがた湯を浴びてなおのこと、身も心もゆったりした気分なのである。
 
諸氏、すまぬ。ジョセフィーヌ、今宵はダメじゃ。
 
 
 
 
 
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かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html.
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
画像が送れる掲示板
http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

人類学二題/本土でなぜ人骨は出ないか?

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40万年前のヒトDNA解読に成功
 ドイツやスペインの研究チームが、スペインの洞窟で発掘された約40万年前の人骨からDNAを抽出し、塩基配列の解読に成功した。人類最古のDNA解析結果が、初期人類の進化の謎を解明する手掛かりになると期待されている。
 
  共通の祖先を持つ初期人類ネアンデルタール人とデニソワ人は、それぞれヨーロッパとシベリアに分布していたと考えられている。今後は、両者の拡散ルートの見直しが迫られることになるだろう。
 
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  20世紀後半、スペイン北部のシマ・デ・ロス・ウエソス(Sima de los Huesos)洞窟で、約30体分の初期人類の骨格化石が発見された。当初、ヨーロッパに分布していたネアンデルタール人との関連性を指摘されていたが、母親から子どもに受け継がれるミトコンドリアDNAを大腿骨から抽出して解読したところ、シベリアのデニソワ人とのより近縁な遺伝関係が判明した。
 
 「ゲノム配列がデニソワ人に類似しているとは」と、ドイツのライプチヒにあるマックス・プランク進化人類学研究所の人類学者で、研究チームを率いたマティアス・マイヤー(Matthias Meyer)氏は困惑を隠さない。

 「ネアンデルタール人とデニソワ人の進化の歴史は非常に複雑で、他の初期人類との異種交配さえ疑われている」とマイヤー氏。

  両者ともヒト属の旧人で、その出現時期は、現生人類がアフリカから世界各地に拡散した6万年前よりさらに何十万年も遡る。我々の直系の先祖ではないが、DNAに両者の痕跡がわずかに残っており、異種交配の可能性が指摘されている。

  ヒト属のDNA解読は、およそ12万年前の化石にとどまっていた。

  今回は、一定だった洞窟内の気温が幸いして良好な状態に保たれたDNAと、遺伝子解析技術の飛躍的な進歩が相乗効果を発揮したとマイヤー氏は説明している。
 
 
 
  今回の研究成果は、「Nature」誌オンライン版に12月4日付けで掲載されている。
Karl Gruber for National Geographic News
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20131205002
 
 


 
 
 
旧石器人骨からDNA 国内最古
琉球新聞 2013年12月2日(月) 21時45分掲載 .
※リンク先が削除されている場合があります。

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白保竿根田原洞穴遺跡から出土した旧石器時代の人骨の一つ。これら人骨の一部から国内最古のDNAが抽出された=沖縄県西原町で2011年11月10日、井本義親撮影(毎日新聞)

白保出土の2万年前人骨からDNA 国内最古
 【石垣】石垣市の白保竿根田原洞穴遺跡で発掘された約2万年前の人骨1体から、国内最古となるDNAが検出された。旧石器時代の人骨が見つかった同遺跡に関する講演会が1日、石垣市民会館で開かれ、国立科学博物館人類史研究グループの篠田謙一グループ長が同日、発表した。当時の人のルーツや現代人とのつながりを考察する上で重要な資料となりそうだ。(琉球新報)
 
 


 
 
日本の本土で先土器時代の人骨があまり出ない理由は、土壌。
日本の土壌は、火山灰や黄河の黄砂などが堆積しており、豊かで、反面強い酸性である。だからカルシウム成分の残存が難しい。
 
よほどの好条件で保存された骨でなければ、すべてとけてしまう。
 

一方貝塚では、貝殻の炭酸カルシウム成分のために 酸性土壌が中和され、土壌が有機物由来の考古遺物を保護する作用を持つため、人骨や獣骨は保存されやすい。
だから縄文人の骨はよく出るが、弥生人以降の人骨や、先土器時代人の骨はほとんどとけてしまって出てこないのである。
 
 
これは日本の考古学、人類学にとっては手痛い状況である。沖縄ばかりで人骨が出る。先日、新潟で4世紀古墳から人の歯が出たニュースがあったが、あれは運よくそういう好条件下にあったからである。
 
 
石棺に入れて古墳に埋葬された古墳時代は、今度は盗掘によって人骨が持ち出されて不明になる。まことに土壌と人情には遺跡・遺物は泣かされる。
 
 
 
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かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳 
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白保竿根田原洞穴遺跡/南方系古モンゴロイドは日本本土までこれたか?それが今後の宿題

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昨日の人類学発掘記事の沖縄の人骨DNAにもう少しこだわってみたい。
 
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篠田氏は日本や周辺諸国の古人骨DNA解析を基に、日本人の起源を研究している第一人者。スペイン征服以前のアンデス先住民のDNA研究にも携わる。琉球列島に住んでいた人々の系統が中国南部や東南アジアと関連深いことなどを明らかにしている。
  篠田氏の分析によると、2万年前の人骨は女性で、南方系のつながりがあるとみられる。白保の人は東南アジアから海を渡って北上したグループの一員だったと考えられるという。

  篠田氏は2万年前の人骨を含む10体の人骨を分析し、そのうち5体で有効な分析ができた。「正式に論文にまとめるのは先のことだ。2万年前の人骨は1体だが、何体かのDNAが集まれば、さらにいろいろなことが分かってくると思う」と話した。

  同遺跡からは、年代が特定できたものとしては国内最古となる2万4千年以上前の人骨も出土している。今年に入ってからも、1万6千~1万8千年前の地層から頭部の骨など重要な資料が次々と出土し、東アジアにおける人類進化の解明につながると期待が高まっている。
http://web1.ryukyushimpo.jp/news/storyid-216064-storytopic-1.html
 
 
 
篠田健一は日本の古代人骨のDNA研究の第一人者として有名である。彼の以前の分析では、日本人の大半のルーツはバイカル湖であったことはすでに何度か書いた。
北方系新モンゴロイドの母方DNAの遺伝子を、調査した古代人~現代人人骨のほぼ85%の日本人が受け継いでいる・・・それですべてが決定したかのように外野は思い込んでしまったが、篠田は「今後の発掘次第である」と書き。筆者も同じことを書き、そして南方系遺伝子が来ている可能性を、残りの15%の古モンゴロイド的要素から「まだまだ捨てたものではないのだ」と言ってきたつもりだ。
 
そしてとうとう東南アジアや中国少数民の遺伝子に類似するものを持った人骨が、篠田自身の手で発見されたわけである。
 
 
 
この人骨が発見された白保竿根田原洞穴遺跡(しらほさおねたばるどうけついせき)は、沖縄県石垣市八重山列島石垣島)にある旧石器時代から断続的に続く複合遺跡である。
 
 
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このサイトの画像を見てわかるように、
しかしながら石垣島のある八重山諸島(南琉球地域)と琉球本島(北琉球)の間には全長270キロに及ぶ海が存在することを忘れてはならない。沖縄にも北と南の文化、言語の相違があり、決定的に人種が隔離された歴史を持つのが八重山なのだ。
 
言葉が違う、人種も違うのである。
 
さらに、この海を渡って沖縄本島にたどり着けたとしても、さらに本島から奄美、奄美から鹿児島までの間には、名にし負う流れの荒い海流を通す海峡が待ち受けている。
 
縄文時代後期~弥生時代、古墳時代以降にかけて、確かに本土と沖縄本島の間には「貝の道」があった。けれど先土器時代に舟があったと言える証拠はまずもってなく、たとえ氷河期であっても、これらの長大な海峡がつながっていなかったことは、港川人遺伝子と縄文人遺伝子の似て非なる部分のあることからも、「つながっていなかった」ことが言えてしまう。
 
 
石垣島から沖縄本島へたどり着けた人間がいたかどうかがこれからの課題である。
 
ひとつひとつを埋めていくしかない。それがいつか、新しい発見の積み重ねによって、奄美、鹿児島までやってこれた証拠を今後も求め続けねばなるまい。
 
 
可能性は常に先送りしてゆくしかない。
なにも今、こうだった、などと誰が決められようか?
 
 
なに、楽しみが先へ伸びただけのことである。かくしてぼくらの夢は終わらない。
 
 
 
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故郷の山並みを求めた一族/地名

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ふるさとは遠くにありて思ふもの・・・
 
さて古代人もそうだったろうか?
 
ふるさとの山を探してはるかな道を歩いていった氏族がある。
 
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まず筆者の故郷・大分県の由布山から別府市鶴見岳の遠景を見ていただこう。
 
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左が由布、右が鶴見である。鶴見岳から東へゆるやかに丘陵が続き、そこで大分市のの高崎山のシルエットがかぶるとこういう景色である。
 
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次に熊本県阿蘇市大観峰から見た阿蘇連山「五岳 ごがく」の遠景である。
 
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左端が根子岳 中央が中岳・高岳、右端が杵島岳。烏帽子岳は向こう側で見えにくい。
根子岳という山は 根子岳 (長野県) - 長野県と群馬県の境、四阿山近くにもある。
噴火によって今は低いが、古代にはもっと高かっただろう。
 
 
双方の連山景色、似ていると思わないだろうか?
実は湯布院には阿蘇氏がやってきた痕跡として、宇奈岐日女神社(うなぐひめじんじゃ、うなきひめ-、うなぎひめ-)がある。
 
また阿蘇山から北上して久住連山の東の端にある黒岳の北側を阿蘇野と言い、白鳥伝説の、長者が餅を的にして白鳥となり一家が没落するという豊後国風土記の伝承地・千町無田地区があり、その地名は阿蘇千枚田の千町無田と同じである。
 
これを結ぶと、阿蘇から由布まで、人が移動した。そして故郷と同じ景色を目標として来たのだろうと想像が可能である。
 
 
 
さて、その阿蘇五岳の杵島岳であるが・・・。
こちらはもっと遠大な移動をした山の地名である。
さきほど書いておいたが、根子岳もまた長野県・群馬県県境にまで移動している。
「きしまだけ」の場合は、熊本県阿蘇~佐賀県(肥前)杵島郡杵島山~茨城県鹿嶋郡まで移動が想定できる。
 
 
◆杵島岳 きしまだけ
阿蘇山中腹に突起する山の名前。
同じく肥前国にも同名の山があると神武紀にある。不明。
「常陸国風土記」にも茨城県鹿島にこの山があると。
 
   あらふれる 杵島が岳を 峻しみと 草採りかねて 妹が手を執る
                        「肥前国風土記」逸文
 
「あらふれる」は鹿島の枕詞であるが、この和歌では杵島に掛かっており、「かしま」は「きしま」の訛ったものかと谷川健一は『日本の地名』に書いている。
この「きしま」は大分県別府市などにも「城島」があり、もともとは「鬼島」だという伝承もある。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/24767621.html?type=folderlist
 
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阿蘇杵島岳 春
 
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同じく冬
山肌のぎざぎざは溶岩流がえぐりながら流れ落ちた跡である。
冬にはこのように非常に記憶に残る景色になるが、特徴は頂上が二股であり、なだらかなコニーデ型。
 
 
では茨城県南部を代表する筑波山である。
 
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筑波は鹿島郡ではないが、海岸部の鹿嶋郡からも見えただろう。
 
 
 
これは佐賀県杵島山
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そしてこれが長野県と群馬県境の根子岳である。
 
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なにか感じましたか?
 
この項は以上。
 
 
 
ランキングクリック減ってます。ご協力を!
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蘇我氏と阿蘇氏/息長氏と安曇氏/三尾氏と安曇と宗像氏とかいろいろ

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蘇我氏のこの表記には「我蘇る」という意味があるが、阿蘇氏の表記にも書き準は逆だが「阿、蘇る」ということが表現されている。
 
だから二つの氏族が同じかどうか、それは今後の楽しみな分析にかかっている。
 
蘇我は本当は「宗我」というのが正しいとも言われており、蘇我表記は記紀一流の皮肉であるとも思える。滅びたものが生き返るわけはない・・・、という。
 
 
中国語の「阿」は人名の前につく「~ちゃん」みたいな接頭語である。安曇もときとして阿曇で表記されている。安部と阿部などもそうである。特に意味はないのだろうが、気になる人はその区別はなぜ起こるのかが気になるだろう。
 
阿部は「あへ」、つまり神饌のことで、祭祀者氏族から始まることは間違いない。縄文系であろうと思う。安曇も縄文系倭人であろう。
 
 
 
継体大王を生み出すとされた息長氏は、古くから九州の遠賀川地域で記録に登場してくる。神功皇后話の大本は、ここで秦氏と宗像氏を関係することで出たのだろう。つまり息長氏は本来、日本海の海人族で縄文系であろう。
 
さきごろ滋賀県の坂田郡のある古墳から、また阿蘇ピンク石石棺があったのではないか?という意見が出始めている。いずれ継体大王の出自の分析で別記したい。
 
 
この阿蘇ピンク石とか菊池川産凝灰岩などは、それぞれ切り出す管理氏族があって、火の国造とか、火の中君とかに分類できる。これに阿蘇氏はかかわっていない。
 
蘇我馬子の桃源墓(石舞台)古墳の石棺が阿蘇ピンク石製品だったのではないかと書いたが、それは蘇我氏と継体の関係がなかったことから、証明しにくい。
継体一族が消えて、尾張氏の血脈も絶たれ、時代は蘇我氏と欽明大王の時代になる。
 
 
 
息長氏は安曇族だったかも知れない。
 
 
妻の三尾氏は日本海交易氏族で、息長氏とそもそも親戚だろう。安曇川の南側に古墳群があるが、これも別記する。三尾氏も息長氏も九州東部から半島の光州あたりが古巣だろう。
 
 
宗像氏と
蘇我氏、阿蘇氏、尾張氏、葛城氏、倭直氏、物部氏、中臣氏、紀氏、平群氏、巨勢氏、和邇氏、賀茂氏などは旧勢力で同族だが、蘇我氏だけはどうも秦氏・阿蘇氏つまり多氏系がまじったか。
 
 


 
それにつけてもPCアップグレードすると登録していた漢字が全部消えてしまうのはなんとかならんのか?いらいらする。
 
 
 


 
 
「新島」が3日で1・5倍 西之島近く、活発な活動
気象庁は9日、小笠原諸島・西之島(東京都小笠原村)近くの火山噴火でできた「新島」の面積が、当初の3・7倍に広がっていると明らかにした。活発な溶岩の供給があるとみられ、4日までの3日間で1・5倍に“急成長”した。

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とにかくすべての鍵を握るのは海人族つまり倭人。
 
そして渡来人秦氏である。縄文時代から彼等は関係していたのは間違いない。
 
そもそもが同族であった可能性が高く、全部、長江以南からインドネシアルーツの小さな人々だよ。古代史で朝鮮がルーツの氏族は、それほど重要じゃない。やっぱり長江、江南だね。人種も文化も言葉も文字も。
 
鉄器と米は一緒に来たか?これも課題だな。
 
 
 
 
なんかただのぼやきになってしまったか。
 
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文字の大きさ、どっちが見やすいですか?

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XPのフォントは明確で、MSゴチックは見やすかった。
新しいバージョンではフォントににじみや大小のばらつきがあって、ぼやけている。
 
この文字サイズはWin7、8、2008、Vistaで統一されてるサイズで、たぶんこのブログの10Ptと12Ptの中間くらい?
 
これをこのブログのフォントサイズの10Ptにすると・・・
 
 
 
10pt
この文字サイズはWin7、8、2008、Vistaで統一されてるサイズで、たぶんこのブログの10Ptと12Ptの中間くらい?
 
 
12pt
この文字サイズはWin7、8、2008、Vistaで統一されてるサイズで、たぶんこのブログの10Ptと12Ptの中間くらい?
 
 
8pt
この文字サイズはWin7、8、2008、Vistaで統一されてるサイズで、たぶんこのブログの10Ptと12Ptの中間くらい?
 
なんと申しましょうか、どれもこれも中途半端です。
 
 
今のこれが14pt。
 
 
あなた、どれが一番見やすい?
 
 
 
 
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猿丸太夫の墓 上・美濃市乙狩板山  下・熊本県蘇陽町
 
 
 
 
 
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継体大王を滅ぼしたのは誰か?シリーズその1 

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この巳年タグも使えるのはあとわずか
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日本の4世紀~6世紀・・・
いわゆる謎の四世紀から飛鳥時代の開始まで、古代史ファンがもっとも知りたい微妙な部分が、昨今の考古学の画期的な発掘成果を集大成することで見えてくる。
そういうシリーズになればと思う。
いわゆる謎の四世紀から激動の六世紀までが図解によって一目瞭然になればよいのだが・・・。
 
 
 
資料が多い。
それを自分なりに図解にしていきたい。
だからちょっと時間と手間がかかる。
図解は見るものにわかりやすいが、それを作ろうとするものには難関である。
 
少しずつ作っていこうと思う。
 
 
まず本日は継体大王の出自や、勢力範囲にかかわる「大王の威信財」のなかから、
広帯二山式冠の分布からはじめてみよう。
 
 
ナビゲーターはわが母校の後輩である水谷千秋の『継体大王と朝鮮半島の謎』から。
 


 
 
■継体大王の威信財
継体大王とその関連氏族との連携を証明する考古学的遺物=威信財を、水谷は次のように明確に示した。
 
1 阿蘇ピンク石製石棺
2 広帯二山式冠
3 捩じり環頭太刀
4 三葉文楕円形杏葉
 
物的証拠ということである。
 
今回はまず2の冠についてだけ書いておきたい。
 
 
◆広帯二山式冠(ひろおびもん・にざんしき・かんむり、こうたいもんにざんしき)
の全国分布図
 
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※資料図解の作成でかなり手間取っている。新しいブラウザが拒否したアイテムを取り戻すのに時間を消費してしまった。申し訳ない。
 
 
 
 
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これは滋賀県高島市の鴨稲荷山古墳出土の冠。
この冠の形式が淀川から琵琶湖に至るライン上の5世紀後半の古墳・・・つまり継体大王の時代の遺跡から帯状に出ている。
 
 
 
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この広帯二山式の冠というのは、基本は熊本県和水町(なごみまち)の江田船山古墳
(五世紀後半)を基点として、その後継体が生きている間に、特に近畿地方の淀川沿線で広範囲にラインを作って出ている。
 
 
 
 
今日はここまでである。
 
 
 
 
 
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シリーズ継体大王その2 継体のバックアップ軍団が見える考古学

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ランクリ押すって約束したじゃないの。一種の拍手ですよ。
 
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その2 継体のバックアップ軍団
 
筆者の継体~飛鳥蘇我王権への移行への考えは、蘇我氏が登場する背景となるのは倭五王、特に雄略以降から継体までの王権を欽明が継体・安閑を殺して奪取するための刺客としての蘇我となっていく氏族が出てきたためであると思っている。
 
わかりやすく言えばプレ蘇我氏が欽明のために継体王権を簒奪した結果、蘇我氏は王家の片腕となっていけたということになる。
 
そうした背景がなかったとしたら、蘇我氏の突然の登場は説明がつかない。
 
継体を担いでいたのは尾張氏、三尾氏、三国氏、息長氏、物部大連、大伴大連、土師氏、壱岐氏、紀氏、淡輪氏?、そして間違いなく秦氏である。
 
土師氏は埴窯跡を摂津の今代塚近くに持っており、物集女車塚古墳には雄略~継体の与えたであろう威信財(広帯二山式冠・捩じり環頭太刀・三葉杏葉など)が埋納されていた。秦氏の葛野の天塚古墳や枚方・寝屋川の古墳などからも同じく威信財が出ている。物集女と紀ノ川河口部の淡輪地区は同じ淡輪式模様の土器が出ている。
土師氏と秦氏は葛野で隣人であり、また壱岐氏も松尾で隣人だった。
 
尾張氏は目子姫が継体の妃だから当然バックアップ軍団である。それが飛鳥王朝からはぷっつりと熱田神宮に押し込められてしまう。ところがそのずいぶんのち、既成王権をひっくり返した天武が助けを求めたのは尾張氏や岐阜の多(太)氏だった。
 
さて、歴史は繰り返すという。また中世の武士の政権も、源平名乗りの繰り返し、どんでん返しの連続だとも言われている。古くからの二大勢力が何度も実権を奪い合うのは世界に類例は山ほどあるだろう。
 
ならば古代王権も、ある二つの勢力の融和したかに見せての、内なる奪い合い、取り合いがなかったと言えるだろうか?それがひょっとすると、往古の邪馬台国と狗奴国の大同団結後の二転三転する政権奪取劇ではなかったか?
 
 
 
さて、最新考古資料である。
今回は「捩じり環頭太刀」の分布から、雄略~継体のバックアップ軍団を類推し、昨日の冠の分布や阿蘇ピンク石石棺、三葉文楕円形杏葉(ぎょうよう、馬具)などの分布を比較してみよう。
 
阿蘇ピンク石に関しては、飛鳥王権が、雄略~継体そしてそれを暗殺した蘇我氏まで含めての、怨霊を鎮めるための赤い呪の石だったと考えられ、ほかの威信財よりも使用範囲が長期にわたっている。継体時代には、逆に近江と淀川沿線、母方安曇川の仲間(三尾氏)などにも使用を許しており、このケースは威信財だった。
 
そしてその赤い石を供出した九州宇土半島の火の葦北国造は出身が吉備であり、熊本肥後肥前を治めた氏族であり、弓の集団大伴・膳氏の直属の家臣であって、江田船山古墳や石室にピンク石を使えた豪族である。だから筑紫君磐井と徒党を組んだとされる火の君と葦北国造は別種である。
 
 
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ねじり・かんとう・たち
捩じり環頭太刀とは、持ち手に西洋のサーベルのようなカバー部分がついていて、
ねじった紐のような装飾がなされた特殊な剣である。これが海外の朝鮮半島から出ていないかただいま、検証中。
 
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二つの威信財の分布を比較してみた。
どちらも5世紀後半~6世紀前半に集中し、地域は九州と近畿淀川沿線と北関東に広範囲に分布し、ほぼリンクしている。
5世紀後半は継体の前の王朝、つまり河内王朝後半のワカタケル大王の時代なので、継体はワカタケルの威信財配布を踏襲したことになることがわかる。
 
そしてワカタケル=雄略の証拠として、江田船山古墳の鉄剣銘文と埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘文からワカタケル大王が五世紀後半の政権の大王であり、おおはつせ天皇と記紀が命名した空想上の河内王朝終末期の天皇の年代とぴったり合致する。
 
したがって雄略=ワカタケルでよく、その王権を継体が皇后として雄略の子武烈の兄弟の多白香姫を娶って継承した。それを欽明は簒奪し、プレ蘇我を用いて暗殺したと筆者は考えていいと思うのである。
 
 
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さて、三つの威信財の継体時代の古墳から出土する、それを地図上に見るとこうなっている。完全にリンクしている。しかも同じように、継体バックアップ集団のいた地域のすぐそばには尾張系埴輪出土地が寄り添っている。
 
尾張系埴輪と土師氏らの出雲系吉備系埴輪の相違は、明確に「ろくろ」を用いて作った須恵器系であることである(辻川哲郎・高島市古代史フォーラムでの発言)
 
 
さて、息長氏は継体の父方であるが、琵琶湖で坂田郡の息長あたりを根城にしており、対面しているのが安曇川のある高島である。ここは福井から来た「安曇族」であろう母方三尾氏の本拠地である。彼等が「さば街道」の元を切り開いたに違いない。
 
息長氏は九州玄界灘と半島の南岸を行き来して、安曇三尾氏と出会ったのだろう。そしてともに琵琶湖北部を切り開き住み分けた。だからそもそもは同族になっていたのだ。
 
 
 
 
これに阿蘇ピンク石石棺の出る古墳の継体時代とそれ以外の時代を頭の中で整理してみた。
 
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今日はここまで。疲れた。
 
 
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継体大王の威信財共同体と筑紫君磐井包囲網が一目瞭然。邪馬台国はやはり狗奴国に滅ぼされた!

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『日本書記』によれば、
「允恭天皇5年(416年)7月に地震があったが(最古の地震記事である)、玉田宿禰は先に先帝反正の殯宮大夫に任じられていたにもかかわらず、職務を怠って葛城で酒宴を開いていたことが露顕した。玉田は武内宿禰の墓(御所市宮山古墳か)に逃げたものの、天皇に召し出されて武装したまま参上。 これに激怒した天皇は兵卒を発し、玉田を捕えて誅殺させたのである。この事件を直接の契機として、大王家と葛城氏の関係は破綻したとみられる。
 
允恭天皇の崩御後は、王位継承をめぐって履中系王統・允恭系王統の対立が激化したと推測される。

この過程で葛城氏の円大臣は血縁的に近い市辺押磐皇子らの履中系と結ぶこととなり、允恭との対立をますます深めたのであろう。允恭系の安康天皇の即位によって劣勢に立たされた円大臣は勢力を回復すべく、次期大王として押磐皇子の擁立を画策したらしい。ところが安康天皇3年(456年)8月、天皇が暗殺され、円大臣がその下手人である眉輪王を自宅に匿う事件が起きた。大泊瀬皇子(後の雄略)の軍によって宅を包囲された大臣は、王の引き渡しを拒否し、娘と「葛城の宅七区」(記に「五処の屯宅」)とを献上して贖罪を請うたが、皇子はこれを許さず、宅に火を放って円大臣・眉輪王らを焼殺した(眉輪王の変)。大王家とも比肩し得る雄であった葛城氏は、雄略とその配下の軍事力の前に、完全に潰え去ることとなったのである」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E6%B0%8F#.E8.A1.B0.E9.80.80.E3.81.A8.E6.BB.85.E4.BA.A1
 
 


 
 
 
『日本書記』が言っている登場人物が本当にそういう名前で存在していたかどうかはわからないし、葛城氏が衰退してゆく理由を後付けした創作記事だという意見もあるが、少なくとも葛城氏が允恭~雄略という大王のいたという時代に衰退して滅亡してゆくだろうことを証明する遺物はある。それは石棺の素材の変化である。
 
允恭~雄略の5前~5末のあいだ、近畿の古墳で中心を占めていた兵庫県揖保郡の竜山石石棺が、その直後くらいから阿蘇の菊池川産凝灰岩の石棺に変わるのである。竜山石の石切り場は物部氏の所領であり、竜山石は物部氏、葛城氏は二上山の石は、彼等の石棺のみならず大王家の石棺として、大王の関係者、親族の墓から出ていた。ところが葛城氏が5末にいよいよ衰亡すると、石棺に阿蘇の石がはるばると運ばれてくるようになった。「王者の石」が変わったのである。しかも竜山石石棺が長持型だったのが、阿蘇石では舟形(北肥後型とも言う)石棺にがらりと変わったのである。素材だけでなく様式まで変化した。これを近畿での政権交代に結びつける考え方はおかしくない。整合であろう。
 
ちょうどその頃の九州、特に有明海沿岸の肥前・肥後の古墳に継体大王の威信財である先にあげた三つの遺物が登場してくる。そしてそれに先立って決定打になっていたのが、例の二山式の基本形王冠とワカタケル大王銘文入り鉄剣の登場だった。雄略らしき大王、つまりオオハツセノ・ワカタケ大王と記紀が書いている大王の時代に江田船山の被葬者は国司のような管理者として肥後中部に送り込まれ、はるか離れた北関東の稲荷山古墳の被葬者と同等の鉄剣や古いシンプルなタイプの広帯二山式冠を贈呈されたのである。彼はあきらかに火の君とは別種の菊池川の盟主=火中君(ひのなかのきみ)であろうと推定できる。火中君は記録上、火君の弟であるともされているが、別種であったかも知れないのだ。

その後、菊池川の灰色石が、雄略没後しばらくして突然、赤い石に取って代わられ始める。これがいわゆる馬門石=阿蘇溶結凝灰岩ピンク石である。この石こそは継体大王の時代に絶頂期を迎えた新たな王者の石である。最初は岡山県の造山・築山古墳に登場すると、兵庫から四国を経て一気に淀川沿線を北上していく。最終的に琵琶湖南東部の三上まで到着している。それが円山・甲山古墳石棺である。
 
阿蘇ピンク石は九州有明海の宇土半島から大分県臼杵市まで、転々として露頭が存在する。つまりこのラインは中央構造線の別府~八代構造線に該当するが、宇土半島以外では材質がもろく加工に耐え切れないものが多い。それで宇土を牛耳っていた氏族は八代~葦北という熊本では南部の球磨川河口部にいた火の葦北国造であろうと推定可能なのである。(5~6世紀当時、まだ阿蘇氏は派遣されている記録がなく、また阿蘇氏が在地氏族だったとしても、阿蘇北部には進出していない。阿蘇氏の墓からピンク石石材は出ておらず、さらに5~6世紀九州の特徴的装飾古墳も一基しか持ていない。
 
つまり思うに、阿蘇氏は持統天皇時代に派遣され、国造として先に存在してきた吉見系草部を飲み込んだ新参氏族だと考えられる。阿蘇氏の祖神伝承はもともと草部系阿蘇氏が持っていたものを取り込んだものであろう。本来、阿蘇南部の草部吉見氏こそが雄略~継体時代の日下部の大本で、それは大伴氏の臣下として靫負(ゆげい)集団となっていた。球磨川沿線の古墳から日田市、朝倉市までの古墳の弓の的・円文の装飾を持つ古墳がそれであろう。)
 
この葦北国造の出自は以前も何度か分析したが、高木恭一の言うとおり、吉備の造山古墳の王家の兄弟、あるいは同盟者である。

問題は吉備という場所が、三世紀の纏向遺跡の重要意匠であった弧文や、葛城氏の遺物に多く描かれた直弧文(ちょっこもん)の大本になる「弧帯文」の発生地であり、その直弧文が九州では筑紫磐井のいた周辺の石棺で多用されたことである。吉備の築山古墳ではピンク石とこの直弧文が同居しており、九州とのえにしが深いことがわかる。

どういうことになるかというと、記録では葛城氏とともに滅びたはずの吉備王氏は、そうではなく阿蘇ピンクの継体時代でも力があったということなのだ。そして有明海では、古くからの草部吉見を押さえ込んで大伴氏とともに雄略~継体時代まで、肥前肥後を納めていた国司であったとなり、その吉見系とは熊襲の本拠地であった人吉~免田地域にもともとばん居していたふるい氏族だということになるのである。そういう氏族は記録では熊襲しかいないではないか?熊襲の中の球磨族は記紀では何度も何度も攻め込まれ滅びたとされている。
 
しかし本当は吉備王氏=大伴氏?の臣下となって靫負日下部氏となり、吉備に往来し、もしかすると吉備王氏そのものが球磨族だった可能性すら出てくるのである。それはつまり、やはり纏向遺跡は邪馬台国ではなく、狗奴国の遺跡であることを示唆し、しかもその3世紀の記紀のいう大王・崇神(みまきいりひこ)とは狗奴国王だったことすら示唆していることとなる。これが筆者の唱える神武天皇=崇神天皇=狗奴国王卑弥弓呼(ひみここ・・・本当の名前は文字の転倒で弓弥卑呼=ゆみひこ)である。
 
 
 
球磨族の王ならば弓矢の達人であろう。ならばこの名前がふさわしい。南を東にしていいというのなら、男王の名前も転倒していたとして何が悪かろう。まして神武伝説に弓は登場し、そこにかけつけたのは葛城氏・尾張氏=高倉下や金のカラス=賀茂氏ではないか。まさしく弧文・弧帯文の氏族である。そして最後まで反抗したのは物部氏である。だから守屋の遺骸は森之宮から四天王寺に移されて、ピンク石を呪文の石としたあとの蘇我氏によって密閉されたのだ。その石が四天王寺のピンク石であろう。ところが時代はめぐり、その蘇我馬古の娘だった推古天皇と竹田皇子もまた阿蘇ピンク石によって移築されて密閉されてしまうのである。これこそ因果応報!
 
 
さてこの地図を見ていただきたい。
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これでは筑紫君磐井が継体にはむかったのは当然である。
継体は肥前・肥後を取り込み、管理することで磐井の勢力範囲を極端にせばめ、新羅への道を閉ざしたのである。『日本書記』の言うような肥・豊を巻き込んでというようなことは起きておらず、肥とは吉備から雄略時代にやって来ていた管理者にはむかう旧勢力である火の君残存勢力のことなのだ。今後、豊の地域からも継体の威信財が出たとしたら、これはもう磐井は風土記が言うように豊前に逃げるしかなくなる。ところが見てわかるように豊前地域にも継体は威信財を送っている。豊という『日本書記』の言う地域も、日田市から豊後の勢力だけであることが見えてくる。
 
 
筑紫国造包囲網は雄略の時代から江田船山という布石があり、さらに葦北国造が加わることで、旧態火・筑紫・豊の古代からの強力な三者連合体を徐々になしくずしにしていったのだ。筑紫地域に装飾古墳が存在しない理由はこれだったのだろう!
 
この流れは3世紀の九州でもう起こっていたのであろう。だから邪馬台国=ニギハヤヒと物部連合体は大和へ逃げたのである。それを狗奴国は追いかけてゆく。唐古・鍵へと。そして纏向に新都市を樹立したのであろう。
 
ということは倭五王政権末期の允恭・雄略・武烈そして継体までは、九州にあった狗奴国の子孫であり、筑紫一族は邪馬台国残存勢力だったということになるのだろうか?それとも100年の間に、そういう互換関係はまったく消えてしまったのだろうか?そして応神~の三代と允恭の間には、どんな亀裂があったのだろうか?
いよいよ課題は浮き彫りになってきた。
 
 
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九州で阿蘇ピンクを「石材として」使えた古墳の主こそが葦北国造の一族である

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さて、ここまで来たら、九州で阿蘇ピンク石を使えた氏族はいたかどうかである。
もしいれば、それは允恭~継体大王という「允恭系倭五王」の臣下である氏族の親族・子孫であることになる。
 
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九州で阿蘇ピンク石を石棺に使った古墳はない。
つまりその権利は河内王朝後半の允恭系を受け継いだ継体大王の親族だけだったということになる。
 
もう一度阿蘇ピンク石石棺が出る古墳一覧を見てみよう。
 
 
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そして継体の威信財の分布図
 
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奈良盆地を取り囲むようなその配置は、どうも継体が大和を奪い取ろうとした痕跡に見えてしまう。
 
継体大王が最初に近江から入った淀川沿線にそれらは集中し、やがては父方の近江琵琶湖東岸に達する。その場所は北側に坂田郡があって、息長氏の本拠地である。
そして円山古墳・甲山古墳のある三上山は二回訪問したが、息長氏は三上の氏族と親族関係を結んでいたと考えてよく、東岸南部のここから宇治川を越えて木津川に出て、大筒木氏となっていくのである。継体は木津川沿線の京田辺あたりに山城宮を建てているのであり、淀川沿線の枚方の樟葉宮、弟国(乙訓)宮もみな淀川沿線である。
 
 時代は下がって、大化の改新直前にあの中臣鎌足はなぜか継体ゆかりの摂津三島=今の茨木市・高槻市に隠棲したと『日本書記』は言っている。なぜだろうといつも考えてきたが、淀川の三島といえば継体時代に阿蘇ピンク石石棺を荷揚げしていた「筑紫津」ゆかりの地であるからではなかろうか?鎌足は蘇我氏本家を滅ぼしている。彼等の祟る怨霊を封じ込める赤い石棺を改めて注文したのは鎌足ではないか?不思議なえにしだが、実は鎌足の墓はここにあるのだ。阿武山古墳が間違いなく彼の墓である。なぜならそこからは天智天皇が鎌足の死去にともなって藤原姓と大職冠(たいしょっかん)を与えた(実際には冠は与えたが藤原姓を与えた記録はないのだ!藤原は実は不比等が自ら改名した可能性がある)という記録にある、その冠と同じ形の冠帽が出ているからである。これは詳しい人ならみな知っているところだろう。
 
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阿武山古墳出土冠帽の復元されたものとそのステータスの威信財?
 
 
実は茨木市には大職冠神社がちゃんと存在しているのである。
 
 
鎌足は馬子以下、すべての蘇我氏系子孫にピンク石を使おうとしたのではないか?
ならば四天王寺のピンク石は聖徳太子の墓である可能性も出てくる!
 
 
 
さて話を元にもどそう。
九州の有明海沿岸に、実は石棺ではなく、石室石材として阿蘇ピンク石が使われた古墳がいくつも存在する!。
 
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数年前、大王の石棺阿蘇ピンク石研究のブログ上でのパイオニアだったのは、誰あろうこの私であると自負している。熊本のこれらの地域はくまなく見て回っている。
 
これらの中でも、井寺古墳はその規模と美しさで群を抜いており、おそらくこれこそが葦北国造関係者だと考えてきた。時代は6世紀中盤で、少し葦北国造の死からは遅れるかも知れないが、息子の日羅ならどうか?
 
 
また宇土半島には鴨籠(かもこ)古墳という小さな石棺を収めた墓があるが、これは息子か孫だとされ、なぜかあの直弧文で飾られている。直弧文はのろい封じの模様であるから、葦北国造家も衰退して、欽明以後、滅ぼされたかも知れない。
 
 
これらの赤い石を使えた氏族こそは、まずもって継体の派遣した吉備王子孫ではなかろうか?
 
 
これは豊前における秦氏居住地。
豊前にも継体の威信財は届いていた。
 
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それは筑紫の遠賀川沿線の古墳からも出た。
 
 
 
 
 
やがて吉備王家もまた継体・安閑・宣化の死後、飛鳥王権に取って代わられ、結果的に允恭系氏族も衰退する。そしてその前の五王の系列が復活し、そこに蘇我氏が登場するのである。ここから蘇我氏の本体、本性が見えてこないか?
本当に記紀の言うとおりの、石川宿禰の直系だったのだろうか?葛城氏の血脈だったのだろうか?ならばなぜ蘇我倉石川一家は本家を裏切るのか?
 
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井寺古墳石室の阿蘇ピンク石
 
 
 
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人吉市大村横穴墓群の靫=靫負 球磨川沿線
 
 
さあ、どんどん推理は時代を追いかけてゆく。
 
 
 
 
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青い石・赤い石/色彩に呪を求めた古代人・転載記事

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日本の古墳に使われた石にはかなり色のついた石がある。
青石、ピンク石、白石、黒石、灰色石。。。
 
どうやら日本人は往古から・・・それはなんとも不思議なことだが縄文人の昔から青、緑、赤などに特殊な感応を示してきた。
 
以下は、阿波~紀州にかけての構造線上に他出する青石=緑泥片岩製品のでる古墳の以前の記事からの転載記事である。
 
 


 
■佐賀関一帯の古墳と同じ緑泥片岩石棺(青石)あるいは石版などの出土する古墳
[[attached(1,center)]]
[http://blog.with2.net/in.php?686171/ With2ブログランキングへ]
 関西

●近内鑵子塚古墳 (ちかうちかんすづか)
 奈良県五条市近内町 ★墳丘:円墳(径85m、高さ12.5m)全面に葺石及び埴輪あり。2段築成。周溝一部残存。 ★埋葬施設:箱式石棺(墳頂部盗掘抗から緑泥片岩の板石が発見され板石には組合式にする為の溝が掘り込まれており埋葬主体の箱式石棺とおもわれる。) ★出土遺物:滑石製勾玉1点、円筒埴輪、形象埴輪、家形埴輪。 ★築造年代:5世紀前半(出土した埴輪より) ★発掘調査:戦後まもなく末永雅雄氏等で調査されている(詳細不明) ★被葬者:在地豪族
http://74589594.at.webry.info/theme/beafe45002.html
 
 
● 岡峯古墳 (おかみね)  県史跡
奈良県吉野郡下市町阿知賀
★墳丘:円墳(径15m、現状4.5m)葺石あり。     
★石室:両袖式横穴式石室(全長6.05m、玄室長2.9m、幅1.9m、高さ2.2m、前道長0.8m、羨道長2.3m、羨道幅1.08m)ほぼ西に開口。緑泥片岩の割石を小口積みにして構築。
★棺:玄室に緑色片岩の板石を組合せた箱型石棺、石棺の前に木棺もあったようだ(釘が出土している事より)
★出土遺物:石棺内から金銅装単龍環頭太刀、石棚の上から須恵器杯蓋と鉄鏃、石室内から素環頭金銅装黒漆太刀、鉄鉾等の武器類、鉄斧刀子等の工具類、金環やガラス玉などの装身具、須恵器、土師器
★築造年代:6世紀後半 ★発掘調査:1964年 ★被葬者:? ☆奈良検定テキスト掲載古墳
特徴
①玄室と羨道の間に前道を持ち玄室の奥壁に石棚をもっている珍しい構造。石棚は県下では三里古墳、槇ヶ峰古墳など数例しかないが和歌山県、紀ノ川流域に多いことから紀氏との関連が指摘されている。
②石室内は盗掘を受けていたにもかかわらず出土遺物が割合多く中でも環頭太刀はレントゲン撮影で我が国最古の唐草文様が発見されている。http://74589594.at.webry.info/201010/article_7.html
 
●今井1号墳
奈良県五條市今井
第2石室(西石室):緑泥片岩を小口積にし内法は長さ2.8m、幅0.75m
http://blog.goo.ne.jp/fineblue7966/c/c46d4fc8f77d01477cba7e673d66a0c0
 
●五條猫塚古墳
五條市西河内
埋葬施設は緑泥片岩で、板石の小口積みの竪穴式石室
出土遺物は、石室内から埴製枕、朱文鏡・甲冑類と多くの鉄鏃
http://blog.goo.ne.jp/fineblue7966/c/c46d4fc8f77d01477cba7e673d66a0c0
 
●専立寺庭園石棺
/奈良県大和高田市内本町/くり抜き式家形石棺蓋・身/二上山(岩屋峠)凝灰岩                   組合せ式箱形石棺/緑泥片岩
http://obito1.web.fc2.com/sekikan2.html
 
●鴨山古墳
/奈良県葛城郡広陵町三吉(10D96)/組合せ式箱形石棺/緑泥片岩/墳頂に露出、常時見学可
http://obito1.web.fc2.com/sekikan2.html
※奈良県ではこのように葛城地方が非常に多い。
 
●森古墳群内鍋塚古墳
大阪府交野市
http://kamnavi.jp/log/ktba0303.htm
 

関東東北
●悪戸古墳群 
福島県石川町中野字悪戸
http://www.mahoron.fks.ed.jp/bunkazai/93.htm
 
●若宮八幡古墳
埼玉県東松山市石橋
松山台地の西方、都幾川を望む台地縁辺に立地する直径30m、高さ4mの円墳。墳丘には埴輪が認められる。埋葬施設は南方に開口する複室構造の両袖型横穴式石室で全長8.65m、奥室長4.4m、最大幅2.7m、前室長2.75m、最大幅1.9m、羨道部は長さ1.5m、最大幅1.55mの規模を有す。石室は砂岩質泥岩の切石を切組積みで構築され、天井部には巨大な緑泥片岩が用いられている。
 
●穴八幡古墳
埼玉県比企郡小川町増尾字岩戸
槻川を望む標高100mの丘陵西端に築かれた一辺31.4m・高さ5.6mの埼玉県内で最大の方墳です。墳丘の周囲には二重の周堀が巡っています。周堀は内堀が幅5.7m、外堀が幅3.7~4.7mで、外堀を含めた規模は一辺61.4mと巨大な物になります。埋葬施設は全長8.2mの複室構造の横穴式石室で、玄室の奥壁は緑泥片岩の一枚石、側壁は2枚の石材を並べて構築されています。天井部は5枚の緑泥片岩が使われており、羨道の床面にも2枚の緑泥片岩が敷かれています。それに対して玄室と前室の床面には河原石が敷き詰められています。築造年代は7世紀後期。
 
●稲荷塚古墳
埼玉県比企郡嵐山町谷
長径36m・短径27m・高さ4mの楕円径墳です。埋葬施設は複室構造の横穴式石室で、羨道は破壊されて残っていません。玄室は緑泥片岩の扁平な石材を小口積みに積み上げて構築されたドーム状の石室になっています。奥壁は大型の緑泥片岩が一石立てられ天井石は楕円形の石材で前壁と接しています。石室の平面構造は胴張りというか楕円形に近い構造で、天井の構造や玄門の構造は一見すると肥後の石室に似ている印象を受けました。築造年代は7世紀後期。
 
●明戸古墳
千葉県市川市国府台3-9
石棺は、古戦場跡として知られる里見公園北西部の小丘陵に、2つの石棺が並んで置かれているのが見られます。この2つの石棺は文明11年(1479年)、太田道灌が千葉自胤を援助して臼井の千葉孝胤を攻めたとき、陣を築こうとして盛土を取り除いた際に露出して発見されたと伝えられています。2基とも蓋石はありませんが数枚の緑泥片岩を組み合わせた箱式石棺です。古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初頭)に、この地方に勢力を振るっていた豪族の墓であろうと推定されます。
 
●金鈴岡古墳
千葉県
組み合わせ式石棺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%88%B4%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3
※埼玉、千葉も銚子の潮来などから利根川を遡上した海人族族長のいたところだろう。
 

九州
●石人山古墳
福岡県八女郡広川町
石室長3.9m、幅約2m。
壁面は緑泥片岩の割石を横積み
石棺は横口式妻入り
http://www2.atpages.jp/kofuntokaare/3gouhun/page435.html
 
●亀塚古墳
大分県大分市坂ノ市王塚
海部氏の大古墳。豊後地域で現存する古墳で最大(紛失された墳丘では同じく大分市木ノ上にあった御陵古墳が最大)。竪穴式石室に佐賀関産緑泥片岩で組み合わせた石棺(Kawakatu)
[[attached(2,center)]]
などなどである。
緑泥片岩を好む氏族とは、つまり葛城や豊後海部郡の海人族だとKawakatuは考える。
 
 


 
 
クリスマスだから三色の記事である。
 
 
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葛城地域にはないピンク石石棺

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奈良盆地の阿蘇ピンク石石棺の分布
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継体時代の阿蘇ピンク石石棺が、継体グループへの許可された石棺だったとするならば。一目瞭然で葛城氏グループは継体には加勢していなかったことが見える。
 
葛城グループのひとつ平群には、葛城同族の・・・つまり武内宿禰氏族の平群氏以外に大伴・膳(かしわで)氏族グループの膳氏がいたが、日本海福井地域にも「かしわで」と名乗った別種の「かしわでシンパ」があって、そこには十善の森古墳という継体の威信財の冠などを与えられた氏族がいた。しかし奈良で見る限り、平群にも葛城にもピンク石石棺はまだ出ていないのである。
 
もちろん考古学の発掘は、今後どのような新事実を掘り当てるかわからないわけだが。
 
 
 
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米原市 村居田古墳の阿蘇ピンク石石棺は資料にならない

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◆村居田古墳・伝息長広媛陵墓(光運寺本堂南敷地内古墳)
むらいだこふん/でんおきながひろひめりょうこふん
 
 
 
時代古墳 所在地滋賀県米原市村居田 (旧坂田郡長浜周辺)
遺構概要集成、古墳(前方後円墳か)。<立地>平野。標高約141m、周辺の水田からの比高約2m、方位(主軸は南北方向か)、前方幅13mか・高3mか、 かつて、石室か、と石棺が発見された光運寺本堂南に13×5mの楕円形の高まり(高さ3m)が残るのみで、前方部端の名残か。前方後円墳とすれば、本堂付近が後円部に相当し、墳長は30m程度、主軸は南北方向となる、

(内部主体)棺:家形石棺か 長2.19m・高0.48m・幅1.07m、室:横穴式石室か、
乱掘:1696(元禄9)年、光運寺改築の際に石室と石棺を発見。
遺物概要集成、埴輪(円筒埴輪IV式)。 発掘概要 その他概要旧、坂田郡山東町大字村居田。 辻善之助ほか『改訂 近江国坂田郡志』1(1941)。田中勝弘『坂田郡山東町内遺跡詳細分布調査報告書』(1986)。『前方後円墳集成』(用田政晴、1992)。
http://www.isekiwalker.com/iseki/233017/
 

 


 
 
 
龍谷大学講師・水谷千秋はこのかつての古墳には阿蘇ピンク石製家型石棺があったと最新著書の『継体大王と朝鮮半島の謎』2013年に書いている。検証してみるが、いまだにネット上でその記事は見つけていない。
 
本当に阿蘇ピンク石がここにあったのだろうか?
 
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滋賀県米原市は筆者は一度だけ訪問し、伊吹山の寒風に辟易した場所である。
息長氏の本拠地で、この伝古墳も、宮内庁は息長広姫陵と指定しているが、広媛は飛鳥時代の敏達天皇(550年代)の皇后であり、出土埴輪から推定される古墳年代の五世紀末(450~470年?)とは100年の隔たりがある。そこで水谷は息長氏の中で意富富杼王(おおほどおう、継体祖父)を当てている。

「『古事記』には息長坂君(息長君・坂田君か)・酒人君・三国君・筑紫米多君(めたのきみ)などの祖としており、また「上宮記」逸文の文章系譜によれば、中斯知命(なかしちのみこと)を妃として乎非王(おいのおおきみ)を儲け、その孫が男大迹王(袁本杼王)すなわち継体天皇とされる。近年の研究では、継体天皇即位の正当性を示すために系譜作成の段階で挿入された人物としてその実在性を疑われているが、「意富富杼(おほほど)=大ホド」は継体の「袁本杼=小ホド」と対応する名であることから、本来の系譜には継体の兄として位置付けられていた可能性もある。  意富(おう)は意宇、於宇、大、太、多と古書に登場し、出雲国東部を本貫とする大国主命を氏神とする一族との関連性も伺わせる。」
※いわゆる九州~出雲の多氏か?意宇氏。
 
 

さて、実在性は薄いが、始祖ではある。継体より数十年前の息長氏の人ということにしておく。
 
 
 
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「「古墳辞典」には、『息長陵古墳群は、全長60mほどの前方後円墳(村居田古墳)と陪塚1基からなり、陪塚が現在治定の陵とみることができる。
元禄9年(1698)、光運寺本堂改築工事中に長さ2.2m・幅1.1mの縄掛突起を持った家形石棺が出現し、
 近年の石垣改修工事で多数の円筒埴輪片が出土した。』
 「米原市遺跡リーフレット12 息長広姫陵古墳」にも、同じようなことが書かれているそうだ 」http://mj-ktmr2.digi2.jp/p25om/pom25214hitozuka.htm
 
 
 
明治の乱掘で石棺が出ている。しかし実物はない。『大王の棺』で有名になった高木恭二や立命館の考古学者・和田晴吾がそう類推しているだけである。近江では琵琶湖東岸地域は広く息長氏の本拠地であり、米原、長浜地域は特に、伊吹山を越えればすぐ尾張氏の本拠地。息長氏の最初期の古墳群は長浜古墳群で、村居田古墳はその東側にやや遅れて造営されている。
 
 
 
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また、これまでの記事で、継体大王の威信財が山津照神社古墳などから出ており、垣籠(かいごめ)古墳(5世紀後半)からは尾張式埴輪が出土した。息長氏と尾張氏の連動は、ここ坂田郡に如実に見える。

南に下って野洲川地域の三上では阿蘇ピンク石石棺を持つ円山、甲山古墳があって、こちらは継体をバックアップした秦氏の中で、依知秦氏も居住。さらに伊勢遺跡という三世紀近くの祭祀建造物も出ている。
 
息長氏が日本海を、遠賀川・豊前~日本海を経て、出雲を経由し、若狭湾から琵琶湖へ入ってきたのは間違いあるまい。そして宇治川~木津川~巨椋池~淀川の摂津・枚方・綴喜郡に瀬戸内海運の港を持っていったために継体は、そこを最初の定住地としたわけであろう。
 
だから坂田郡の米原から阿蘇ピンク石石棺が出ても不思議ではない。だが、実物がないとなると、一級資料どころかただの妄想にしかならないのも事実。考古学の実証がないので、この問題は手のつけようがない。
いずれにしても、たとえ文献史学者だと言っても、証拠品もなく資料としてあげつらうのはいかがなものか?
 
 
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秦氏と継体大王/継体と淀川氏族の相関関係

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秦氏と継体の互換関係図
1 寝屋川・枚方・四条畷の秦氏と河内馬飼氏
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2池田市・大阪市豊嶋郡の秦氏
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3 継体の三つの宮(=三島)と秦氏の居住関係
 
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4 継体と近畿のバックアップ軍団の相関関係
 
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データベース 水谷千秋
 
 
 
 
※筒木宮のある木津川周辺には、山城大住の隼人と尾張系氏族が同居している。
渡来人の多いこの地域の、京田辺、八幡、大住などには秦氏もいたことだろう。
大住車塚古墳の被葬者は尾張氏か秦氏であろう。
尾張氏が隼人を片腕にして南九州からやってきたのはこれでw間違いないだろう。
それ以前には、尾張氏の祖先は西九州有明海沿岸に最初に入った長江文明人であろう。
 
阿蘇ピンク石は継体時代には継体の親族だけが使えたようである。
尾張型埴輪が出る地域には尾張氏系の埴輪製作者がいたであろう。
それが土師氏系埴輪に影響を与えただろう。
尾張~三河の須恵器はろくろを最初に使ったであろう。それが現在の瀬戸焼に続く愛知県陶器の伝統であろう。
 
船で渡来してくる尾張氏や秦氏にはそれぞれ船の倭人が手下になっていただろう。
秦氏の場合はそれは壱岐対馬の安曇であり、息長氏=多氏?もそうだろう。
その基点は遠賀川であろう。すると日本海経由で最初に日本の青森まで稲作を運んだのがこれであろう。その安曇は福井、長野から琵琶湖まで入って安曇川で三尾氏となるのかも知れない。
 
尾張氏は西九州から南九州をまわって太平洋側で愛知に到達し、やがて中央アルプスに道をつないで日本海側の若狭や気比と交流していく。そのにないては隼人であろう。
 
継体大王はこのように、海と河川を網のようにたどって海外へも交易を広げた日本海と太平洋の海運氏族の中から登場した。
 
 
おそらく即位前まで、彼の名は国内でよりも半島や中国のほうで有名だったのではなかろうか?
 
意富富杼王の血脈が、おおど王=継体を生む。おおどとは小さな意富富杼王という意味の名である。その息長こそは多氏と安曇の混血であろう。
 
 
息長の伝承は「野洲」=安として記紀アマテラスとスサノヲの対峙した川の名になったのかも知れない。その野洲川の名の大本は九州筑後川の夜須川由来かも知れない。息長は九州から来たのではないか?
 
 
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老子『道徳経』全81章 體道第一

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Kawakatu流道徳経の読み方
 
 
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老子『道徳経』全81章

體道第一
 
原文
 道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
 
書き下し文
 道(みち)の道とすべきは、常(つね)の道に非(あら)ず。名(な)の名とすべきは、常の名に非ず。名無きは天地(てんち)の始め、名有るは万物(ばんぶつ)の母。故(ゆえ)に常(つね)に無欲(むよく)にしてその妙を観、常に有欲にしてその徼を観る。この両者は同じきに出でて而(しか)も名を異(こと)にす。同じきをこれを玄(げん)と謂(い)い、玄のまた玄は、衆妙(しゅうみょう)の門なり。
 
英訳文
“A way” you can call it way is not the great everlasting way. “A name” you can call it name is not the true unchangeable name. There was no name when the world was created. After all things were created, they were named. So if you are disinterested, you could see profound forms of all things. If you are greedy, you can see only surface of them. The source of both of them is the same one. I named it “deep mystery”. And the further source of the mystery is producing all phenomena and things of the world.
 
 
現代語訳
これが「道」だと言い表せる様な道は、偉大なる不朽の道ではない。これが「名」だと呼べる様な名は、真実不変の名ではない。天地が創られた時には名など存在せず、万物が生み出された後にそれらは名づけられたのだ。だから無欲な心をもってすれば、万物の深遠なる姿を見る事ができるだろう。欲望の虜のままでは、万物の上辺の姿しか見る事ができない。これら万物の二つの姿はそれぞれ名前は違えど、同じ一つの根源から生じている。その根源を「玄 – 深遠なる神秘」と私は名づけたが、その玄のさらに玄、神秘を生み出すさらなる神秘からこの世の全ては生み出されている。
Translated by へいはちろうhttp://blog.mage8.com/roushi-01
 
 


 
 
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こんな絵自体何の意味もない
いたかいなかったかもわからない人
つまりこれも偶像崇拝の一種
真理は虚像の中にあるんじゃないか?
実像をほしがることそのものが人のおろかさではあらんや?
人とはそのようにおろかにして哀れな芥子粒
 
 
 

◆體道(体道)とはなんぞや?
根源的な道を身につけること
=道を体得すること
道の玄妙な働きを理解すること(渡辺雅之編・解説新書漢文大系 「老子」)

◆玄(げん)とはなんぞや?
玄とは黒く染めた糸
老子の玄とは真理。道の深奥。暗くとらえどころなき混沌状態の、さらに奥の奥にある唯一絶対の真理が「玄の又玄」である。筆者的には「うしろど」「うらど」に似ているが、昼と夜の違いがある。
うらどはあくまで裏の真理。玄は表の真理の奥の奥。なんだ結局同じか?いや違うんだなこれが。

◆老子の言う道徳
道徳は学校の教科の道徳ではなく、それはむしろ孔子の言っているしつけやらであるが、老子の道徳は「道と徳」。
道(タオ)は真理。無為自然・・・つまりあるがままの混沌の中にかすかに見える宇宙の絶対真理である。

宇宙の摂理によってすべてのものは動かされ、あがらえない、あがらうなということ。

かといって流されて生きるわけでもなく、見つめよということになるか?
何を見つめるのか?それは己であり、宇宙である。宇宙=混沌。カオスである中に光明があるから、見つけ出せということである。つまりあんたや私には見えることなどない哲学の奥の裏の奥の又奥ゆえに、ひっくりかえせば考えないほうがよいことになる。つきつめることは無為自然とはいいがたいから、わからんもんはどうでもいい。わかるものにはわかるというもう超克した自分勝手な考え方なので、ほとんど誰もついていけない。
 
第一章ですでのこうなので、ここでやめるものが大半。どや、あんたもここでやめるか?

この第一章だけで、すでに老子の言わんとすることの99%は表現しつくしていて、あとは余禄であり、徳については孔子や荘子同様に、やや次元が卑俗になっていく。
だから「老子」そのものが、どうも第一章だけを言って、あとは誰かが書き足したか?とも見える。
 
◆名状
すべての事象・事物は人間が意識してつけた。これが西洋科学哲学の考え方で、きわめて正解。老子は名前は「万物の母」=宇宙の摂理=大地母によって天地ができたそのときから名ができたと言う。これは正解ではないのは明白。大地母が人類を生み出し、人が名前を生み出したのであるが、老子はいきなり摂理が必然的に事物に名状したとしている。

それは道=摂理・真理・自然の無為なる法則が大地を生み、大地が人を生み、混沌が徐々に明確になることで始まったと言う。
要するに、この世界のすべての事象・事物は、宇宙の法則から生じたのであって、それが言うがままに正しい道もあるので、奇をてらわず、法則のなすがままについていけば、おのずと邪馬台国・・・いやいや違った、真理は見えるのだってえこと。ということはやっぱり俺やあんたじゃ到達不可能ね。
 

 
今日はヤフーメンテナンスが入るので、ばたばたと書いた。
 
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デジブック 『神社探訪葛城編1』

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2008
葛城・物部の敗北の怨霊に感応する旅である。
 
 
 
2007~2010の間、筆者は歴史の真実を知り、敗北者の霊魂と共感するために旅にあけくれていた。
 
 
その手ごたえはこのブログにすべてあかしてある。
 
 
歩かなければ歴史は見えない。歩くしかない。読むしかない。感じるしかない。
 
そこには必ずヴィヴィットな共感があった。それは死者の霊魂が語るスピリッツであった。筆者はそう信じている。
 
 
 
課題を持って旅することが、真実への近道。ほかに何もない。
 
食い、眠り、遊ぶ。それだけ。
出遭えるのなら明日に死すともよし。
 
 
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70万アクセス感謝!デジブック 『神社探訪葛城編2』

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 2006年からあしかけ7年・・・
ついに本日70万アクセス。
 
 
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葛城の旅その2
 
 
最後に行った談山神社は藤原鎌足という、「最終勝者」を祭っている。鎌足は要するに家康である。あとは不比等の思うがままに律令政治=大和朝廷ができあがっていく。ゆえに、「大和朝廷」は持統天皇以後成立したと筆者は言うのである。それ以前はすべて飛鳥の、よくわからない人々のプレ朝廷。天皇家にとってもどこの誰かがわかっていない『日本書記』の中の登場人物。
 
 
 
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年末の重要な考古学ニュース抜粋

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1)全国有数の古墳群、岩橋千塚古墳群で最大級の前方後円墳、大谷山22号墳(和歌山市、全長67メートル)から昭和41年に発掘された埴輪の破片が、これまで和歌山でしか出土していない、矢を収める「胡ろく形埴輪」だったことが分かった。市教委文化振興課によると、国内2例目の出土といい、発掘から48年目に「真実」が判明。和歌山に独自の埴輪文化があったことを裏付ける貴重な資料となりそうだhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131217-00000060-san-l30
 
 
 
2) 長崎県壱岐市教委は14日、同市の弥生時代の環濠(かんごう)集落カラカミ遺跡で、国内で初めて鉄生産用の地上炉跡が複数見つかった、と発表した。  弥生時代では明確に確認されていない精錬炉跡の可能性があるとしている。専門家によると、日本で精錬が始まったのは6世紀後半とされており、従来の定説の見直しにつながる可能性もあるという。  市教委によると、炉跡は少なくとも6基あり、竪穴住居跡の中で見つかった。弥生時代後期(紀元1~3世紀)の複数の時期のもので、床面に直径約80センチの範囲で焼土塊が広がっており、床面に直接炉を築く地上式とみられる。炉に風を送るふいごの一部や棒状の鉄素材も出土している。  これまで国内各地で確認されている鍛冶炉は地面に穴を掘ったものだが、今回は韓国南部の遺跡などにみられる精錬炉跡に似ているという。  市教委は「カラカミ遺跡では鉄素材が多く出土していることからも、精錬炉だった可能性がある」と指摘。朝鮮半島から1次素材を輸入し、本土へ鉄を供給する中継交易拠点だったと推測している。
  カラカミ遺跡は、「魏志倭人伝」に記された「一支国(いきこく)」の王都とされる「原(はる)の辻(つじ)遺跡」(国特別史跡)とともに、一支国を構成する集落と位置づけられている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131214-00000733-yom-soci
 
 
 
3) トルコの遺跡からアッシリアの精巧なライオン像
読売新聞 12月15日(日)11時24分配信
トルコの遺跡からアッシリアの精巧なライオン像 
読売新聞
 中近東文化センター(東京都三鷹市)付属アナトリア考古学研究所が発掘調査しているトルコ中部のヤッスホユック遺跡で、アッシリア商業植民地時代(紀元前20~前18世紀頃)のものとみられる、鉛製の小型ライオン像が出土した。
  当時これだけ精巧な鉛像は珍しく、鋳造技術の高さを示す貴重な遺物となる。
  像は高さ6・6センチ、幅1・4センチ、厚さ0・3センチ。ライオンが後足で立った姿をかたどり、表面に短い平行線を重ねた模様で体の毛が表現されている。同遺跡で発掘が続く同時代の直前頃の宮殿跡を覆う土の中から出土した。同研究所によると、トルコが位置するアナトリア半島では、同時代の植民都市遺跡で鉛製の人や神の小像がわずかに出土しているが、ライオン像は初。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131214-00000702-yom-soci
 
 
 
4) 竪穴系横口式石室や馬具 観音寺狼谷山遺跡から出土 鳥取・米子
産経新聞 12月12日(木)7時55分配信  山陰地方で珍しいとされる竪穴系横口式石室を持つ帆立貝(ほたてがい)形古墳が、鳥取県米子市宗像の観音寺狼谷山(かんのんじおおかみだにやま)遺跡から出土し11日、市文化財団が発表した。石室内から副葬品とみられる馬具も見つかった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131212-00000022-san-l31
 
 
各記事リンクは時が立てば削除されます。
 
 


 
 
2) 大谷山古墳群は幾度か記事にしてきた和歌山の海人系種族の墓。
九州北部とのつながり、東海・東国とのつながりの遺物がこれまでもいくつも出ている。特に特徴的埴輪が多数。岩橋千塚、大谷古墳を中心とする大古墳群である。
 
「ころく」は実戦用の弓容器。弓の羽を上にして入れる筒である。鏃(やじり)を上にする靫は「見せる弓矢容器」でやじりが上になっている。やじりが上ということは手を怪我するわけで、つまりみがいたやじりを光らせて敵に見せつけ、味方には鼓舞させようという道具。ころくが出るということはここの人々が実戦的戦闘集団だったということ。古代にころく埴輪は和歌山のふたつだけ。
 
2)カラカミの住居内精錬炉はきわめて珍しい発掘。ここが一支国(壱岐国)の副都心で工業都市だったことになるし、この炉跡が「工場」だろう。竪穴式住居の中に精錬場があるのだからまさに工場であろう。
 
3)アナトリアとアッシリアの蜜月時代の遺物か?
 
4)東出雲、つまり松江周辺でホタテ貝式が出たということは、少なくとも3世紀に畿内型の古墳が来ていたということ。
 
 
 
来年はどんな発見があるだろう。楽しみである。
 
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緑泥片岩分布地域と海部・紀ノ川の古墳

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和歌山県の古墳についてこれまで書いた記事をまとめて転載。
大谷山から出ていた埴輪が胡籙だったことが発見報道されたことがきっかけ。
大谷山の古墳群は九州式石屋棚を持ち、太平洋側海部の特徴である青石=緑泥片岩の石棺を持つものがある。このことから継体大王時代に海部の整備があったことを匂わせるのである。
 
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岩橋千塚の石棚
 
 
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福岡県竹原古墳の石棚
 
 
 
 
 
 
 
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岩橋千塚の石室の積石状態は、百済武寧王古墳の様式に似ている。
 
 
 
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緑泥片岩(紀州青石製品の石棺)
様式は大分市最大の亀塚古墳の緑泥片岩石棺とまったく同じ。
 
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亀塚古墳竪穴式石室の緑泥片岩石棺。竪穴式石室は時代的に3~5世紀初頭形式で、五世紀後半の横穴式石室を持つ岩橋千塚はあとになる。
 
■中央構造線と緑泥片岩の分布図
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佐賀関半島~四国山地~紀ノ川沿線~伊勢・鳥羽~東海~北関東に帯状に分布している。それぞれ古墳石棺・石室、あるいは中世以降の板碑として多用されている。
地域によって名前がつけられており、武蔵青鉄平石、三波石、紀州・阿波青石と呼ばれる。方解石や雲母状に平坦に方形に割れる変成岩で、加工しやすいがややもろい。分布ラインは古代海部移動ラインと見てほぼ間違いないだろう。
 
 
 
 
緑色の石を墓に使ったのは縄文時代、東北大湯の縄文人。
緑色が鎮魂の色なのは現代でも葬式饅頭が緑色なのを考えると、どうやら日本人の伝統的感覚らしい。
 
ところが北アジアの遊牧民、ガンダーラ、パキスタン、アラビア半島などでも緑泥片岩を墓石に使う種族がいるようだ。
 
 
 
 
 
 
 
 


 
以下、和歌山県の古代史に関する過去記事をいくつか転載して貼り付けていく。
 
両面人物埴輪と胡籙埴輪 岩橋千塚大日山35号墳埴輪と紀氏と継体大王
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54388829.html

全国初!顔がふたつある人物埴輪
2011/12/12(月) 午後 8:03

 両面人物埴輪
 特別史跡岩橋千塚古墳群の大日山35号墳で頭部の両側に顔がある埴輪が出土しました。
顔がふたつある理由は評価が難しく、現段階では謎の埴輪としかいえません。 
 この古墳では、翼を広げた鳥形埴輪やころく形埴輪など全国で初めての埴輪が見つかっています。
http://www.kiifudoki.wakayama-c.ed.jp/kofun/kohun%20siryou/ryoumen%20haniwa/ryoumen%20haniwa.htm
●両面人物埴輪・両面宿儺の話
 
 

画像 「装飾古墳今昔紀行」蕨手氏より
 
 
 
岐阜県飛騨地方の説話に両面宿儺という大変な妖怪のような悪玉がいるが、この埴輪の顔はおだやかである。両面宿儺は飛鳥時代~奈良時代にかけてさかんにヤマトの寺院建築に借り出された飛騨の匠たちの反抗を示す神話であると考えられる。最初の記録は皇極女帝時代に百済から贈られた胡人=ペルシア人建築工人と斐陀の蝦夷を甘樫丘で饗応する話に始まっているから、当時はちょうど飛鳥寺建築の頃である。飛鳥寺の塔は百済王が皇極か孝徳に贈った百済王銘入り仏舎利が地下に埋められていたから、まず間違いはあるまい。飛鳥寺をエンタシスを使って建築設計したのはペルシア人で、巨木を扱ったのは縄文時代からの巨大建造物を作ってきた伝統を持つ蝦夷(えみし)であり、その蝦夷たちは富山あたりから飛騨への街道を開拓して高山に入っている。森浩一説。
 
(追記:顔が裏表にあるのは、その人が周囲の目を配る必要のある職種だったから。具体的には騎馬して弓矢を前後に撃てるような射的の名手だったからではあるまいか?Kawakatu、2013)
 
 
ただ、和歌山紀ノ川の古墳群で、日本でも類を見ない種類の埴輪が山ほど出ることは実に珍しい。北部九州の装飾古墳との類似を見せる双脚輪状文継承埴輪や力士埴輪、祭祀に用いたか鳥埴輪、美豆良のある埴輪などなど珍しいものばかりである。今後注目のこふん群である。紀ノ川を隔てて対面する淡輪(たんのわ)古墳群は倭五王のもうひとつの王家ともいわれ、紀氏の勢力が、ここから京都の桂川を経て摂津の今城塚古墳を建築した古墳製造集団を引き連れていたことはそこで出てくる淡輪技法の土器が証明している。

継体大王今城塚古墳は阿蘇ピンク石石棺、直孤文埴輪も出ているうえに、紀州と継体の奇縁は和歌山県隅田(すだ)八幡宮の画文帯神獣鏡銘文の「おおど」などの記述を証明するかもしれない遺物になるか?

もしそうなると日本史が大きく変更されかねない大事件となるだろう。
つまり王に即位前のオオド王が和歌山にいたという説が一気に浮上するかもしれないのだ。
 
 
和歌山市・岩橋千塚古墳 胡ろくかたどった埴輪 全国初出土
http://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/a828c89911ab1f67e1fd5248a872a8c0
 
 
●胡籙・・・ころく。靫(ゆぎ・靭とも書く)と同じく弓矢を入れて背中に背負う道具。やじりを上にする靭が見せる矢立であり威嚇用武具であるのに対し、胡籙は羽を上向けに入れるので実戦用武具である。
 
 
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余禄
●美豆良 みづらはその起源をどこに持つのか?
この問題はスキタイとユダヤなどの中近東が考察のポイントになるかも知れない。
http://search.yahoo.co.jp/search?b=1&n=10&ei=UTF-8&fr=ie8sc&p=%E7%BE%8E%E8%B1%86%E8%89%AF%E3%80%80%E5%9E%82%E9%AB%AA%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%80%80%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4

ここでは先送りにしておく。
騎馬して振り向き様に矢を放つ流鏑馬のルーツである安息式射法(パルティアン・ ショット)とともにいずれどこかで扱うことにしよう。
 
 
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 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1

韓国光州の前方後円墳群の被葬者の日本人は誰か?

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この問題はすでにいくらかは解決済みである。
韓国・慶北大学の朴天秀(パク・チョンス)らの在韓国学者の間で、それが倭人であることはすでに論じられている。
 
『日本書記』欽明二年(541)七月
紀臣 奈率 弥麻沙(きのおみ・なそちの・みまさ)
欽明四年九月
物部 施徳 麻か牟(もののべの・せとく・まかむ)
欽明五年三月
許勢 奈率 歌麻(こせの・なそつ・かま)
 
奈率も施徳も百済の役職である。
 
6世紀中盤に紀氏や物部氏の中で、百済に移住し、高官となったものがあったわけで、記録以外にもたくさんいただろう。なぜなら光州・栄山川流域がかつての「記紀が言うところの伽耶の倭の出先機関「日本府」があったところが近いからだ。
彼等の時代は6世紀中盤で、光州の前方後円墳の建造年代に近似値であり、まず彼等、彼等の先祖・子孫である。
 
紀臣弥麻沙は記録で、韓国の妻を娶った紀氏の子孫であろうと書かれている。『日本書記』
 
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(形状が日本のものとやや違うように見えるのは両国の復元ノウハウの相違でしかない。当然のことだが、日本は前方後円墳の本場ゆえに、復元はより正鵠であると言っていいだろう。そもそも基本的にかの国家は倭人がここにいたことなど認めたくない性格であるので、立場が違う。立場の違いとは、国家の建前で、いかんともしがたい範疇の概念だ。認めないと言えば角が立ち、認めるといえばこっちの立場が崩壊する。国家間のアイデンティティの問題は邪魔ではあるが、相手も尊重してあげるのが日本人の世界に冠たるすばらしい態度である。もちろん勧告側の復元が正しい可能性も認めてさしあげねばならない。それこそが日本がかつては扶桑だったというステータスの勇気ある継承であろう。真の「誇り高い国民性」とはそういうことである。)
 
 
 
 
 
福永伸哉(大阪大学)は、これらの人々は継体が百済武寧王の軍事支援のために送り込んだと見ており、すべて九州にいた人々であるとも書いている。物部氏は特に、磐井の戦争で九州北部に送り込まれ、竺紫物部氏となっていた。継体時代のことである。
 
 
 
 
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