『日本書記』によれば、
「允恭天皇5年(416年)7月に地震があったが(最古の地震記事である)、玉田宿禰は先に先帝反正の殯宮大夫に任じられていたにもかかわらず、職務を怠って葛城で酒宴を開いていたことが露顕した。玉田は武内宿禰の墓(御所市宮山古墳か)に逃げたものの、天皇に召し出されて武装したまま参上。 これに激怒した天皇は兵卒を発し、玉田を捕えて誅殺させたのである。この事件を直接の契機として、大王家と葛城氏の関係は破綻したとみられる。
允恭天皇の崩御後は、王位継承をめぐって履中系王統・允恭系王統の対立が激化したと推測される。
『日本書記』が言っている登場人物が本当にそういう名前で存在していたかどうかはわからないし、葛城氏が衰退してゆく理由を後付けした創作記事だという意見もあるが、少なくとも葛城氏が允恭~雄略という大王のいたという時代に衰退して滅亡してゆくだろうことを証明する遺物はある。それは石棺の素材の変化である。
允恭~雄略の5前~5末のあいだ、近畿の古墳で中心を占めていた兵庫県揖保郡の竜山石石棺が、その直後くらいから阿蘇の菊池川産凝灰岩の石棺に変わるのである。竜山石の石切り場は物部氏の所領であり、竜山石は物部氏、葛城氏は二上山の石は、彼等の石棺のみならず大王家の石棺として、大王の関係者、親族の墓から出ていた。ところが葛城氏が5末にいよいよ衰亡すると、石棺に阿蘇の石がはるばると運ばれてくるようになった。「王者の石」が変わったのである。しかも竜山石石棺が長持型だったのが、阿蘇石では舟形(北肥後型とも言う)石棺にがらりと変わったのである。素材だけでなく様式まで変化した。これを近畿での政権交代に結びつける考え方はおかしくない。整合であろう。
ちょうどその頃の九州、特に有明海沿岸の肥前・肥後の古墳に継体大王の威信財である先にあげた三つの遺物が登場してくる。そしてそれに先立って決定打になっていたのが、例の二山式の基本形王冠とワカタケル大王銘文入り鉄剣の登場だった。雄略らしき大王、つまりオオハツセノ・ワカタケ大王と記紀が書いている大王の時代に江田船山の被葬者は国司のような管理者として肥後中部に送り込まれ、はるか離れた北関東の稲荷山古墳の被葬者と同等の鉄剣や古いシンプルなタイプの広帯二山式冠を贈呈されたのである。彼はあきらかに火の君とは別種の菊池川の盟主=火中君(ひのなかのきみ)であろうと推定できる。火中君は記録上、火君の弟であるともされているが、別種であったかも知れないのだ。
その後、菊池川の灰色石が、雄略没後しばらくして突然、赤い石に取って代わられ始める。これがいわゆる馬門石=阿蘇溶結凝灰岩ピンク石である。この石こそは継体大王の時代に絶頂期を迎えた新たな王者の石である。最初は岡山県の造山・築山古墳に登場すると、兵庫から四国を経て一気に淀川沿線を北上していく。最終的に琵琶湖南東部の三上まで到着している。それが円山・甲山古墳石棺である。
阿蘇ピンク石は九州有明海の宇土半島から大分県臼杵市まで、転々として露頭が存在する。つまりこのラインは中央構造線の別府~八代構造線に該当するが、宇土半島以外では材質がもろく加工に耐え切れないものが多い。それで宇土を牛耳っていた氏族は八代~葦北という熊本では南部の球磨川河口部にいた火の葦北国造であろうと推定可能なのである。(5~6世紀当時、まだ阿蘇氏は派遣されている記録がなく、また阿蘇氏が在地氏族だったとしても、阿蘇北部には進出していない。阿蘇氏の墓からピンク石石材は出ておらず、さらに5~6世紀九州の特徴的装飾古墳も一基しか持ていない。
つまり思うに、阿蘇氏は持統天皇時代に派遣され、国造として先に存在してきた吉見系草部を飲み込んだ新参氏族だと考えられる。阿蘇氏の祖神伝承はもともと草部系阿蘇氏が持っていたものを取り込んだものであろう。本来、阿蘇南部の草部吉見氏こそが雄略~継体時代の日下部の大本で、それは大伴氏の臣下として靫負(ゆげい)集団となっていた。球磨川沿線の古墳から日田市、朝倉市までの古墳の弓の的・円文の装飾を持つ古墳がそれであろう。)
この葦北国造の出自は以前も何度か分析したが、高木恭一の言うとおり、吉備の造山古墳の王家の兄弟、あるいは同盟者である。
問題は吉備という場所が、三世紀の纏向遺跡の重要意匠であった弧文や、葛城氏の遺物に多く描かれた直弧文(ちょっこもん)の大本になる「弧帯文」の発生地であり、その直弧文が九州では筑紫磐井のいた周辺の石棺で多用されたことである。吉備の築山古墳ではピンク石とこの直弧文が同居しており、九州とのえにしが深いことがわかる。
どういうことになるかというと、記録では葛城氏とともに滅びたはずの吉備王氏は、そうではなく阿蘇ピンクの継体時代でも力があったということなのだ。そして有明海では、古くからの草部吉見を押さえ込んで大伴氏とともに雄略~継体時代まで、肥前肥後を納めていた国司であったとなり、その吉見系とは熊襲の本拠地であった人吉~免田地域にもともとばん居していたふるい氏族だということになるのである。そういう氏族は記録では熊襲しかいないではないか?熊襲の中の球磨族は記紀では何度も何度も攻め込まれ滅びたとされている。
しかし本当は吉備王氏=大伴氏?の臣下となって靫負日下部氏となり、吉備に往来し、もしかすると吉備王氏そのものが球磨族だった可能性すら出てくるのである。それはつまり、やはり纏向遺跡は邪馬台国ではなく、狗奴国の遺跡であることを示唆し、しかもその3世紀の記紀のいう大王・崇神(みまきいりひこ)とは狗奴国王だったことすら示唆していることとなる。これが筆者の唱える神武天皇=崇神天皇=狗奴国王卑弥弓呼(ひみここ・・・本当の名前は文字の転倒で弓弥卑呼=ゆみひこ)である。
球磨族の王ならば弓矢の達人であろう。ならばこの名前がふさわしい。南を東にしていいというのなら、男王の名前も転倒していたとして何が悪かろう。まして神武伝説に弓は登場し、そこにかけつけたのは葛城氏・尾張氏=高倉下や金のカラス=賀茂氏ではないか。まさしく弧文・弧帯文の氏族である。そして最後まで反抗したのは物部氏である。だから守屋の遺骸は森之宮から四天王寺に移されて、ピンク石を呪文の石としたあとの蘇我氏によって密閉されたのだ。その石が四天王寺のピンク石であろう。ところが時代はめぐり、その蘇我馬古の娘だった推古天皇と竹田皇子もまた阿蘇ピンク石によって移築されて密閉されてしまうのである。これこそ因果応報!
さてこの地図を見ていただきたい。
これでは筑紫君磐井が継体にはむかったのは当然である。
継体は肥前・肥後を取り込み、管理することで磐井の勢力範囲を極端にせばめ、新羅への道を閉ざしたのである。『日本書記』の言うような肥・豊を巻き込んでというようなことは起きておらず、肥とは吉備から雄略時代にやって来ていた管理者にはむかう旧勢力である火の君残存勢力のことなのだ。今後、豊の地域からも継体の威信財が出たとしたら、これはもう磐井は風土記が言うように豊前に逃げるしかなくなる。ところが見てわかるように豊前地域にも継体は威信財を送っている。豊という『日本書記』の言う地域も、日田市から豊後の勢力だけであることが見えてくる。
筑紫国造包囲網は雄略の時代から江田船山という布石があり、さらに葦北国造が加わることで、旧態火・筑紫・豊の古代からの強力な三者連合体を徐々になしくずしにしていったのだ。筑紫地域に装飾古墳が存在しない理由はこれだったのだろう!
この流れは3世紀の九州でもう起こっていたのであろう。だから邪馬台国=ニギハヤヒと物部連合体は大和へ逃げたのである。それを狗奴国は追いかけてゆく。唐古・鍵へと。そして纏向に新都市を樹立したのであろう。
ということは倭五王政権末期の允恭・雄略・武烈そして継体までは、九州にあった狗奴国の子孫であり、筑紫一族は邪馬台国残存勢力だったということになるのだろうか?それとも100年の間に、そういう互換関係はまったく消えてしまったのだろうか?そして応神~の三代と允恭の間には、どんな亀裂があったのだろうか?
いよいよ課題は浮き彫りになってきた。
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