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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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東九州宇佐海人族は吉備王権を作ったか?

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吉備と宇佐の関係資料
 
1 「国前(くにさき)国造、志賀穴穂朝吉備臣と同祖。吉備都命六世午佐(うさ)自命   定賜国造」『先代旧事本紀』国造本紀
 
2 豊国(とよくに。大分県~福岡県豊前地域)の国前臣は日子刺肩別命(ひこさしか  たわけ)のことであり大吉備津彦命と若日子建吉備津日子命。「孝霊記」
 
3 「豊国別命、吉備別祖」『先代旧事本紀』天皇本紀景行六十年条
 
4 「古の菟狭(うさ)国の神都は備前なり。備前・備中・備後・美作(みまさか)は   古の菟狭国第一の神都にして、第二は九州」宇佐国造家伝承 宇佐公康『宇   佐家伝承が語る古代史』36P
 
5 本来皇室しかもらえない品位を宇佐神宮と吉備津彦神社だけがもらっている。
  「奉る(八幡)大神一品、八幡比羊()神二品」『続日本紀』
  「八幡比羊神授一品」『文徳実録』
  「特授備中国吉備津彦神授四品」同上
  「在備中国四品吉備津彦神授三品」同上
  「奉授 備中国三品吉備都彦命二品」『三代実録』
 
先にも書いたことだが宇佐赤塚古墳から出た三角縁唐草文帯二神二獣鏡は、全国で備前市の丸山古墳と宇佐赤塚でしか出ていない。二枚しかない。
 
宇佐は国東半島の西側の付け根にあって、北は豊前市の海人系・豊前石塚古墳などから英彦山を越えて田川郡・筑豊に通じている。国東から豊後の南北海部郡へとひろがる海部の統率者として宇佐神宮も存在する。宇佐市安心院(あじむ)町の町名は安曇由来とも言われる。また「院」は中世の別所地名のひとつでその主体は海人族=吉備邪馬台国の敗北がそうさせた?である。
また吉備には波多村があるが、宇佐のそばにも幡地区がある。特に豊前は秦人のメッカである。これは宇佐の海人族と秦氏の船のえにしを思わせる。
 
このように宇佐を中心とした豊の国は吉備と非常にえにしが深い。
 
国東半島の古墳はヤマト纏向とほぼ同じ3世紀後半の下原(しもばる)古墳をはじめとして最古級古墳が多く、~5世紀まで存続した。一方大分市から佐賀関の北海部郡にある大古墳群はそれよりも遅く4~5世紀に作られる。さらにそれより下がって臼杵に古墳群ができるが、ここは筑紫同系統の石人を持っており、筑紫国造家と同盟した豊であると思われる。
 
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ツヌガアラシトとアメノヒボコの循環コーを見ると、九州から吉備、吉備から畿内、そこから淀川水系で琵琶湖~福井~日本海出雲という交易ルートが見えてくる。瀬戸内海を通る限り愛媛松山、福山、吉備、讃岐、淡路島、淀川・紀ノ川・大和川というルートがあったことがわかる。淀川水系に入るには播磨、淡路島からの上下進入路があるが、その両方をさまざまの海人族が共有していたのだろう。特に吉備からは讃岐、播磨、淡路島と経由する。今でも瀬戸内長距離航路は大阪~神戸~松山を停泊して別府に着く。これらがすでに数千年前からあった瀬戸内の最も安全なルートだったのだろう。
 
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国東先端に位置する姫島はヒボコ・ツヌガアラシトの妻が通った航路である。対面する半島側に伊美がある。大分市の千代丸古墳とよく似た線刻画を持つ伊美鬼塚古墳がある。また内陸部の玖珠町にもよく似た線刻画を持つ鬼塚古墳がある。
 
ある地域をひとつの氏族でくくってしまう傾向があるが、決してそうではなく、複数氏族の同居が同地域にはある。吉備とつながっていただけでなく、筑紫国造や出雲や大和や東海ともつながる地域が豊である。なぜなら九州の瀬戸内航路の玄関であり、さらに実は朝鮮半島への出口でもあった。現代でも韓国へ直通のビートル号が就航する。朝鮮密航者の目的地としても新潟に次いでナンバー2なのである。筆者は大分港の市場そば漁港でよく朝鮮の国旗をつけた船を眼にしている。近くの市場に魚を卸すのである。外洋航行の荷揚げ港も大分市である。九州の石油やバナナがここに最初に水揚げされる。太平洋航路と瀬戸内航路のかつては集散港が別府湾である。こうした複雑な状況から九州独自の肥後系装飾古墳がそれほど入り込めなかったのである。古代から勢力圏が大きく分断され飛び地化されたのが大分である。ゆえに文化的に一色では染め表せない。言葉も瀬戸内系で九州弁ではない。いい換えるとコスモポリスだった。伽耶に似ている。
 
 
 
東九州国東の出土品
 
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安岐にある安国寺集落遺跡は3世紀の環濠遺跡であり、中国馬王堆と同種の遺物が出ている。
 
大分市大在・佐賀関にある海部公の古墳群は日本最古級では全国に二つしか出ていない船形埴輪を亀塚から出している、いまひとつは有名な三重県松坂市の宝塚古墳である。
 
古墳年代で見ると、3世紀~5世紀初頭まで国東が先んじているが、5世紀中盤には海部地域が圧倒的に大きな古墳を作り始め、さらにそれが筑紫国造系に変化。ということから岐部→吉備→大和政権へと豊国が変化していくことが見え、吉備の滅亡記録とまったく合致する。
 
南海部郡の臼杵市はあきらかに6世紀直前までは筑紫国造家に組している。臼塚古墳から石人が出た。ほぼ5世紀後半を境に全国的に西日本各地の古墳は大変化する。人集団の勝手な造営だったものが東へ移動して、吉備様式の遺物が現れ始め、吉備系国司らしきものが入り込む。それが筑紫国造家滅亡の前にはみなヤマトからの国造の古墳に変わるのである。
 
このように政権はころころと変わった。これが山尾和久が言う激動期の古代である。しかも各地で複雑な利害関係から、さまざまの氏族の同族関係が、地域ごとに結ばれた。けして二大勢力だけの単純な構造ではない。ヤマトで味方でも、地方では敵などざらにあった。それが人間関係である。それが歴史なのである。教科書は単純すぎる。まるでのーたりん歴史学である。
 
 
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やはり吉備・豊・伊予・讃岐・紀・葛城がヤマトの邪馬台国連合であろう。それを雄略以後の中継ぎ政権が滅ぼしていった。つまりあとのヤマトは狗奴国である。
 
 
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海人族資料1 瀬戸内海人族氏族国別一覧(播磨・吉備・安岐・讃岐・伊予・豊前・周防・長門国)

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資料出展 松原弘宣 『古代瀬戸内の地域社会』同成社古代史選書1 2008
 
 
記録されている瀬戸内国別氏族
 
 
1播磨国
 
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2吉備国
 
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3安岐・周防・長門・豊前国
 
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4 伊予国
 
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5讃岐国
 
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海人氏族資料2 瀬戸内氏族分布(大伴・久米・佐伯・海部・和気・凡直氏)

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1大伴氏の分布
 
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2和気氏・別氏
 
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3佐伯直氏・佐伯部
 
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4海部直、臣、君、公氏
 
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5 凡直氏・采女氏
 
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6久米部・久米氏
 
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付録 瀬戸内の評
 
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松原弘宣 『古代瀬戸内の地域社会』より
 
 
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呪・あちめあちめ/あらざらむ/うらやましげなるもの

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傀儡子や磯良舞いの神楽では、最初に意味不明の発声がある。
これはいわば、磯良を呼び出すための呼び声である。

「阿知女々々々於々々・・・」
という。

「あちめあちめ」と呼ばれて、磯良が「おお」と返事するのである。
折口信夫は細男を「才の男」と考え、才は海系、大人(おおびと)は山系と考えた。
もしその根源が同じなら、たとえば隼人の巨大な人形である「おおひとやごろう」と「神相撲」は、「やられた側の祭りとやったがわの鎮魂となるわけで、双方の隼人征伐の記録と一致する。

鹿児島に八幡信仰を持ち込むのは宇佐の辛島氏であるから、当然といえば当然であろう。

シャーマニズムにもやはり北方系と南方系があるが、いずれも根っこは同じとかんがえてもいいのではあるまいか。底辺での迷信は、やがて中央で権威と形式を持たされ、見場のよい呪術へと発展するが、始まりはやはり民衆の「民間信仰」がきれいに整理されただけのことである。その分どうしても形式化、形骸化の宿命は否めない。これは仏教や神道もまったく同じ事だろう。
見場のよい、体裁のよいものとなったと言っても、根本の理念になんの相違もない。あるのは権威か秘め事かの違いだけである。

権威は自分たちの作り上げたもののように言うが、実際は中国からの借り物の仏教という名の容器に、古い民間迷信をかっこうよく配置しただけのことかも知れない。

本地垂迹と言えば難しく高尚だが、要するに、民間の神をインドの神に置き換えたわけである。

「才の男」とは「境界の人」となろう。
一般に境界を「さかい」と呼ぶように、山里には「境目」がちゃんとあった。
ある不可視の一線を越えると、ちょうど映画「フィールドオブドリームス」でグランドのラインを越えて老年にかわった医者プレーヤーのように、日本人もしきいをまたぐときは、そこを踏まないようにし、踏むと祟りがあるなどと言う。
動物の鹿や猿も、山里に降りてくると人間に殺される。
これを人間の側から言えば「客人=まれびと」となり、動物なら食ってよい、神の与えたもうた「にえ」「みけ」となる。日本人が・・・いや太古の人が獣を食らうとき、その獣は神饌となる。それは「いいわけ」である。
動物をほふる(ほふるという言葉自体が「祝う」と書く)時、首を落とす。
それが平気でできる者などそうはいない。
心になにがしかの罪悪感がわいてくる。
天をあおぐ。
そして神に許しを請うのである。
これが最初の祈りであろう。

「あちめあちめ」の「阿」は接頭語か?中国では人の名を呼ぶとき、接頭語の阿をつける。
「阿Q正伝」という小説の阿である。
今の映画では、香港人の多くがキリスト教の名を持っていて、「阿マーク」とか言っていて面白い。

では知女とはなんだろうか?
知る女・・・これは巫女ではあるまいか?
なんでも知っている・・・それは知識の豊富なことを指すと同時に、知識によって苦しむ者もさしていると考えられる。
例えば孔子は、あまりに深い知識のために終生不機嫌で、知識を得ようとしない輩や婦女子に、たいそうひどくあたったと言う。
日本で不機嫌の人と呼ばれたのは小説家・二葉亭四迷である。
彼も又、豊富な知識に悩まされ、小説家としては大成できず、戯作者と呼ばれることをつねに嫌っていた。「くたばってしまえ」などというどう見てもアイロニーに富んだ言葉をペンネームにして、つい売れてしまったがための不機嫌であった。結局、不遇のママ洋行帰路の客船上で病死する。

巫女、シャーマンの迷信と簡単に片づけられないものがある。
呪いとはつねに幸福への回避の言葉でもあり、そこには陰陽がある。
呪を悪に使えば祟り為し、善行に用いれば結界と成る。
白魔術あれば黒魔術ある。

物部の呪文はあちめではなく、「ふるべゆらゆらとふるべ。ひふみよ・・・」である。
 


 
 
呪とは何だろうか?
それは現代人のようにスポット巡りで体感できるものなのだろうか?
言霊を解せぬ私たち現代人に、ふとその言霊を教えてくれるものが呪文や和歌に隠されている。

呪・・・
それが念じ続けて成就するものなら浅田真央の演技にも呪は垣間見えたのだろう。
あらざらむ この世の外の 思ひ出に
   今ひとたびの 逢ふこともがな
           和泉式部(56番) 『後拾遺集』恋・763
情念の中にも呪がある。
和泉式部は愛の生霊だったと言えるかも知れぬ。
 


 
 
●枕草子 第一五八段 うらやましげなるもの…
■清少納言・『枕草子』「うらやましげなるもの」

 
「稲荷に思ひおこしてまうでたるに、中のみやしろのほど、わりなうくるしきを、念じのぼるに、いささか苦しげもなく、おくれて来るとみる者どもの、ただ行きに先立ちてまうづる、いとめでたし。二月午の日の暁にいそぎしかど、坂のなからばかりにあゆみしかば、巳の時ばかりになりにけり。やうやう暑くさへなりて、まことにわびしくて、など、かからでよき日もあらんものを、なにしに詣でつらんとまで、涙もおちてやすみ困ずるに、四十よばかりなる女の、壺装束などにはあらで、ただひきはこえたるが、「まろは七度詣でし侍るぞ。三度は詣でぬ。いま四度はことにもあらず。まだ未に下向しぬべし」と、道にあひたる人にうちいて下りいきしこそ、ただなる所には目にもとまるまじきに、これが身にただいまならばやとおぼえしか。

 
<訳文>
うらやましいもの…
 思い立って伏見稲荷にお参りしたところ、中の御社のあたりが道もけわしくて息苦しいのを我慢して昇ってゆくと、自分よりあとのものが、なんの苦しそうな様子でもなく、らくらくと先にお参りに行く。うらやましいことであった。
 二月の午の日のことで、明け方早々に出たのだが、坂を半分くらい登ってきたところでもう午前十時ごろになってしまった。だんだんと暑くさえなり、つくづくといやいなって、
「何もこんな苦労しないでも世間にはお参りしない人さえあるのに、どうしてこんなことを思い立ったのかしら」
とまで思いこみ、涙さえこぼして、休んでいると、三十すぎとみえる女で、壺装束などと、旅じたくしない普段着のすそをはしょったものがきて、
「私は今日は七回お参りするつもりなんです。もうこれで三度。あと四回はらくですよ。昼すぎの二時には、下山できますでしょう」
と、道ずりのひとに話しながらおりてゆく。こうゆうひとはめったにないであろうが、その時は自分もああいう女のひとになりたいと思った。http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/7030/tabi1/4-7/158dan.html

 
■『古今著聞集』
和泉式部が稲荷に参る途中、田中明神の辺りで時雨れてきたので、稲刈りをしていた童から襖(アオ、上着)を借りて参詣を済ませ、帰りには晴れてきたので童に返した。次の日、式部がふと見やると、部屋の隅に“大きやかなる童”が手紙をもって佇んでいた。手紙には「時雨れする稲荷の山の紅葉は あおかりしより 思いそめてき」とあった。この歌に心打たれた式部は、童を部屋に招き入れた
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/inari-sankeiki.html

 
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「(清少納言について)わかっている経歴のなかに”晩年は京都近郊の月輪山荘に住む”とあって、ぼくをはっとさせた。」
「『枕草子』の一五八段「うらやましげなるもの」に清少納言の稲荷詣の体験が語られている。」

 
「和泉式部の稲荷参りは鎌倉時代中期にできた『古今著聞集』にでている。」(森浩一)

 
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・・・・和泉式部は好色の美人である。
田で逢ったわらべが翌日には大童(おおわらわ)に変化して式部の家を訪ねる。式部はこれを家内に引き込むという話である。
つまり肉欲を求めていた式部と稲荷の神の交合=感応を示す稀有な告白小説。
 
 
 
 
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これはジュージューか。
 
 
 
閑話休題の一ページであった。
 
 
 
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古代史バカでもわかる集団的自衛権の行使と海部と琉球縄文人

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集団的自衛権(しゅうだんてきじえいけん、英語:right of collective self-defense、フランス語:droit de légitime défense collective)とは、
他の国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利。
その本質は、直接に攻撃を受けている他国を援助し、これと共同で武力攻撃に対処するというところにある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E7%9A%84%E8%87%AA%E8%A1%9B%E6%A8%A9
 



古代史で具体的に言えば白村江の戦いがわかりやすいか?

百済が高句麗や新羅に攻め込まれて困って倭国に救援を頼んできた。いろいろと貢物を送ってくるので、しかたなく時のヤマトの王・天智が救援に向かわせたのは各地の海部である。安曇氏らであった。いわゆる百済の近攻遠交作戦によってヤマトには集団的自衛権がにわかに生じた。なぜそれが当時の「自衛権」だったかと言うと、百済などの半島南岸地域はそもそも昔は倭国の領地だったからで、同じ白水郎の国家伽耶が滅びて百済に集団移住している。そういう歴史的えにしがあったので百済王(昌王~聖王=聖明王)は倭国を頼ったのである。もちろん新羅も高句麗もこと中国を考えればその親方に北方をおびやかされていたわけで、同じように援助を頼んできた歴史がある(斉明女帝前後)。痛し痒しの極東事情。

倭国には飛鳥時代までそういう集団的な攻撃ができる国家集団=いくさをする専門の「部」がなくあったのは5世紀あたりの靫負とかの国内防御網だけである。それが海を越えた地域にまで、号令いっか援助してきたのはそれまでなし。個の小集団による援助はあっただろうが。
 
海人が「人」で「個」であるのはつまり自衛隊だったのではない。あくまで勝手連である。それを掌握して海部を置くということはつまり海上自衛隊をヤマトが組織したということ。(あくまでも倭国がとはここまででは言わない。飛鳥の政権がである。このさいヤマト政権でなく飛鳥時代はアスカ政権でよかろう。)
 
天智のひとつ前は、おじの孝徳さんが大阪湾の上町台地に難波の宮をおったてて、海外進出の拠点にしようとしたわけだが、腰抜け天智はそりゃまだ早い、国力がないとして、勝手に渡来の集中する近江に別政権を作って引っ込んでしまう。孝徳は要するに蘇我氏が懸命に作ってきた海外交流のノウハウそのもをぶんどったことになる。だから乙巳(いっし)の変の首謀者は当然孝徳大王だったということがわかる。簡単な図式。ということは変の頃には中大江皇子や中臣鎌子=鎌足は傀儡に過ぎない。史書は、特に『日本書記』は天智を祖とする史書ゆえに、変=クーデターは天智=中大江皇子の手柄にしたかった。当然藤原不比等にすれば父親の鎌足も持ち上げたい。
 
だから、難波宮の上にぶったっているNHK大阪なんか孝徳の土地にあるわけだから、今でも右よりに行きたくてしょうがないわけだ。そもそも先の大戦でもNHKをはじめとする放送界はこぞって軍部に歩み寄り大本営発表ばかり流してきた。あれらは軍部政権の広報「部」という傀儡だったわけである。戦後もやれブラジル、やれ北朝鮮だとしきりに移民を薦めた。日本政府は敗戦でからっけつになり少しでも「いらぬ口」を間引きたかった。ついでに政治犯や穢多ヒニンや密航者や在日やら、不貞のやからをまとめて追い出すことで国家の贅肉をそいでしまいたいわけだ。それに乗っかって嘘八百を並べ立て、宣伝しまくった急先鋒がNHKやら五大紙・特に朝日である。
 
だから今回の集団的防衛権が決定される直前に、いやに右よりな奴を会長として放り込んだ首謀者は安倍ちゃんに相違ない。理事のすべてから辞表を集めておくなんてえのはまるで軍部の強制みたいなもので、そんあことは民間ではよくある。。。なんていう言辞にはまさにファシズム、そんな民間会社なんていまどきあるかよ。こいつらは要するに戦争ごっこが景気をよくするという期待感しかない。外国へ行かされて命をなくす自衛隊員こそいい迷惑。また、いまや自衛隊員をだんなにしようなどというおちゅむてんてんな「かっこいい」「亭主はいつも留守になるから」みてえないやらしい亡者のようなばか女どもが増えていて、安倍ちゃんますますほくそ笑む。
というわけで海部が山部なんかをひきつれて(要するに別に死んだってかまわねえ被差別の部民なんだ部っていうのは)対馬の海から船出した。このころから宗像の沖ノ島祭祀は国家的になっていくわけである。だからあとになって国家の救援をした功績で天武なんかの嫁を出せるようになったわけ。でもそれ以前なんかはいいようにナビゲーターとして使われてきた海部に過ぎない。安曇なんか出雲から信州に追い出されて居住権をやっと確保できたなんて書かれていて、もっと前から政権のタクシーがわり。
 
集団的自衛権なんてえものがいるのかというと個でも十分「部」は機能する。しかしそれでは軍部の独自の行動が規制できねえからあくまで政府は集団で把握しておきたい。右向け右じゃなきゃ意味がない。部はいつも道具である。
 
古代に海部などが置かれた地域はおとなしく従った地域である。しかし置かれていないのにちゃんと海人郷があったところはだいたい言うことを聞いていない。えらいもんだ。だから熊襲や隼人や蝦夷なんかの毛人たちはなんどもなんども攻め込まれて従順にならされる。その大元が今発掘でおおわらわの沖縄の先土器~縄文前期の遺跡の奴らだろう。こいちゅらはね、なんと一万年前から日本海の富山あたりまでオオツノハタガイの腕輪を持ち込んでいる。中には体のでかい朝鮮人もまじっている。
 
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小竹貝塚で縄文前期の人骨91体 http://blogs.yahoo.co.jp/yasukita154/68973964.html
 
・縄文前期(約6750-5530年前)の小竹貝塚で人骨が91体出土。
・ミトコンドリアDNAの分析により、南方系と北方系のDNAが混在。
・渡来系の弥生や現代の日本人に多い型はみられない。
・約13トン分の土器、1万点の石器。
・九州でみられるオオツノハタ製の装飾品「貝輪」が日本海側で初出土。
・国内最古級のヒスイ、関東の土器、岐阜・長野産石材を用いた石器が出土。
・オオツノハタは小笠原諸島と琉球諸島近海の貝http://bigai.world.coocan.jp/pic_book/data34/r003313.html

・これまで見つかっているのは縄文後期の遺跡。
http://www.city.ichihara.chiba.jp/~maibun/note/notebook26.htm
今回は縄文前期。しかも日本海側。
 

北方系と南方系が混在したDNAの持ち主。しかし渡来でも倭人でもない。それがすでに縄文前期の1万年ほど前に日本海を遡上して来ていたということ。しかも90人以上の人骨とともに。あんたこりゃあ一大事のイベントですよ。
 
 
 
歴史がまたまたひっくり返った。
 
 
 
 
集団的自衛権からはじまってとりとめもなく書いてしまった。
 
ま、いいかたまには。
 
 
           ただいま白土三平『カムイ伝』読み直し中・・・
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伊勢湾尾張・美濃の海人族とき鳳紋鏡

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「尾張は東国への、
豊後は九州から朝鮮半島への、出雲・隠岐は日本海交通
のそれぞれ基点的要衝である。
 
さらに言えば、隠岐を出雲の勢力圏と見なせば、この三カ国に紀伊を加えた四カ国にだけ、後に海部が設置されることになる。」
中村修『海民と国家形成史論』第二章「東九州海民とキビ王権」
 
 
四世紀 忍熊王の反乱は淀川水系における3世紀からの旧来キビ政権と新参応神渡来王権のせめぎあいを描いている(塚口義信)。
 
 
伊勢湾海民とヲハリ政権
古代、縄文海進残存の時代、伊勢湾中心部には「甘蜂間(あはちま)の海」があった。筆者はこれを「あわしま」と読むことで泡のごとく消えてしまった=干上がった海と解釈している。実際、今伊勢湾にこの湾はすでになく、岐阜県は海と港を失っている。その湾にはいまや名古屋が立地しとるんだがや。どえりゃあ街になっちまったがや。
 
 
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美濃の弥生遺跡は
 
地図No.8荒尾南
9今宿
37瑞龍寺山(ずいりょうじやま)
12日野
と木曽川沿線にあり
 
尾張では
3門間
4西上免
6山中
7二夕子(ふたご)
9河田
14一色青海
15堀之内花ノ木
22森南
24大淵
などいわゆる海部郷の甚目寺あたりに集中する。
 
尾張が木曽川、揖保川、長良川の基点であることがここに海民を集合させてきたが、以前は木曽川河口部が「あはちまのうみ」であった。今は安八郡というのがその名残の地名である。
 
ここにあとからヤマトのヲハリ田から入ってきたのが尾張氏である。そして集結していた烏合の海人族(隼人・安曇など)をとりまとめて首長に納まる。
 
ごらんのよいに尾張・美濃地域に河川上流地域にはほとんど弥生遺跡がない。ここが海人族の集合地帯があったことはあきらかである。
 
 
 資料・東海土器の拡散
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資料2・濃尾平野の古墳
 
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海部郡佐織町の奥津社古墳(古墳地図のピンク地域下)は前方後方墳だが出土した三角縁神獣鏡は
 
●張氏作銘四神四獣鏡・・・椿井大塚山・香川県西山と同笵鏡
●日月銘獣文帯四獣鏡・・・福岡県石塚山と同笵鏡
●波文帯竜虎鏡・・・・・・大阪府黄金塚と同笵鏡
 
である。この地域ではここと美和町二ツ寺神明社古墳(前方後円墳)とが双璧の大古墳だ。尾張の海部郡はこの地域に置かれていた。今では海からだいぶん入った場所になる。今、木曽川と呼んでいる地域はほとんどが海の底である。いきなり揖保川も日光川も長良川も河口のある川だったのだ。今はすべての河口は木曽川河口に集約し、ほかは木曽川の支流になってしまっている。
 
 
あはちまの海の西側扇状地は不破の関につながる西国世界との通行路にあたる。昼飯山前方後円墳と粉糠山前方後方墳が中核であるが、重要な遺物が出た古墳として南部の梅津地区に象鼻山1号墳がある。梅津地区ではここが最古の古墳であるが、ここから双鳳文鏡(き鳳鏡)が出土している。もう一度この鏡の分布図を見ておこう。
 
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地図の三ヶ所に前方後方墳がある。古墳No.4、5、10だ。
それぞれ
4 岐阜県象鼻山1号
5 岡山県岡山市七つぐろ(土+丸 この漢字字源にもなし当て字だろう)古墳
10栃木県那那須郡珂川町の那須八幡古墳
 
である。
これらの被葬者は同族・血縁と見てよかろう。おそらく尾張氏である。ほかの様式の違う古墳の被葬者は同盟者である。
 
 
●き鳳鏡
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「夔鳳鏡とは中国・日本の古代の銅鏡・鉄鏡の一。向かい合う2羽の鳥をかたどって配した文様がある。後漢から六朝(りくちょう)時代に用いられ、日本でも前期の古墳から少数が出土。」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/53763/m0u/
 
「糸巻座(いとまきざ)と呼ばれる大きな鈕座の四葉形の先端が鋭く突出して内区を4等分し、各々に向かいあう一 対の鳳凰(ほうおう)が描かれる。その表現は極めて平面的で、2世紀初頭頃に出現した平彫(ひらぼり)文様表現系の鏡の 代表と言える。
鳳(きほう)鏡には鳳凰を一対に描く双鳳式のものの他に、単独で描く単鳳式のものがあり、前者に元興元 年(A.D.105)と永嘉元年(A.D.145)の紀年鏡がある。
鈕が大変珍しい形をしている。側面から見ると星雲文鏡などに近い連峰(れんぽう)状に連なる山の形が見え、 頂部には2匹の龍がとぐろを巻いている。これは環状乳神獣鏡の古い形式にも見られる形だが、類例 は極めて少ない。 日本では神戸ヘボソ塚古墳、栃木那須八幡塚古墳などから出土している。」http://www.murakami-kaimeido.co.jp/kokyo/kan/kan_07.html
 
象鼻山1号墳き鳳鏡(双鳳紋鏡) http://www2.plala.or.jp/cygnus/s2.html
 
 
中国紀元前2世紀頃の漢鏡で、日本では福岡県須久岡本の弥生遺跡から出ている。
須久岡本と言えば魏志の伊都国のあった地域が近い遺跡である。だからこの鏡も西から東へ、3世紀~5世紀に兄弟鏡として拡散。それは魏と尾張氏たちの古いえにしを示していることとなる。つまり尾張氏も伊勢湾移住以前は西からやってきたことになる。そして異なった古墳様式の同居は尾張氏が画一的民族・氏族だけの同族集団ではなく、複数の民族・氏族が合体して尾張にやってきたも示唆している。
 
古墳の様式から邪馬台国と狗奴国と早計に言うことは無理かも知れないが、少なくとも尾張氏の伊勢湾~東海~東国の古墳様式からは、他地域では見られない他民族の合体が考えられ、その傾向は西日本でも豊前地域に顕著である。それはおそらく双方が古来重要な港だったからにほかなるまい。
 
弥生時代からすでにあはちまの海には、邪馬台国とか狗奴国を超越した民族の集散があったと言うことだろう。そもそもヤマト学者の考えるような短絡な邪馬台国はヤマトだ思考では単純すぎるのであろう。
 
尾張氏はヤマトでは物部氏・海部氏と同族である。では葛城氏や紀氏や平群氏といった武内宿禰血族とはどうだったのだろうか?その謎のヒントは「おわり」という氏族名にあるだろう。
 
「おわり」はヲハリで、のちに「おはりだの宮・小墾田宮(小治田宮)」が築かれた地名になる。飛鳥時代に推古の宮が置かれるずっと前から尾張氏はここの主張だったのだろう。明日香村の雷丘(いかづちのおか)周辺で蘇我氏の居住地である。
尾張氏を伊勢に追い出したのはだから葛城血流の蘇我氏ということになろうか。
両者には皇別と神別の違いがある。
 
葛城・紀氏グループと尾張氏グループは双方とも交互に妃を出している。ということはある時期に尾張氏は紀氏海部グループから東へ押し出され、赤坂・美味を抜けて熱田にやってきた。ちょうど和邇氏が天理赤坂に一時期住まい、そこから近江湖西へと移住したのに似ている。この系譜は断夫山古墳の尾張型埴輪を伴わず、氏族の違いを語ってくる。もちろん熱田の尾張氏が尾張王権であろう。
 
 
また別に、「おはり」は尾張りで、台地の突出部という地形由来説がある。「尾」は台地の隠語であるが鉄鉱脈も尾であるところから尾張氏も鉄氏族であっただろう。草薙剣の伝世はそれを物語る。すると氏族名由来を奈良ではなく尾張の「おはり」に求めることも可能になる。
 
だが筆者はやはり明日香村由来を取りたい。また尾張氏の祖である高倉下命が紀州熊野で神武にふつのみたま剣を手渡すからである。
 
北部九州~キビ系である紀氏と、南九州系である尾張氏には種族的相違があったのではあるまいかとも見るが、しかし豊前でも豊の海部郡臼杵地区でも異種海人族の同居を示す蛇行剣や地下式横穴墓の同居があった。とにかく海人族はコスモポリタンで民族を超えてしまうので横のつながりが見極めがたい。このあたりはいまだ不明としておきたい。
 
 
 
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鉄は熱いうちに打て/ぱくぱく、くねくねするんじゃねえ

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そもそも弱体政権。そもそも女を差別する儒教がちがち社会。
だからぱくぱく、くねくねと旧態依然の古代人脳みそ権威たちに媚を売る。
 
一方、中国でも、慰安婦問題のものまねで弱体共産政府が右往左往の金瓶梅じゃなくてしゅうきんぺー。
 
さらに同盟国であるはずの小浜も、右往左往。
あっちへころころ、こっちへころころ。早くクリン金トンに代わってくれ。
 
あのね、鉄は熱いうちに叩いておかにゃ効果はないのよ。
日本を叩きたかったら熱いうち・・・もっともっと大昔にやっとかなくちゃ。
時代錯誤している。
 
 


 
 
竹島や尖閣なんてのはいい交換アイテムだと思えばいい。交渉のネタに転嫁するくらいの図々しさが安倍ちゃんにほしい。なんでもかんでも金をかき集め、ぜえんぶ市民国民におっかぶせ、その金を対中、対韓戦争にでもつぎ込むのか?
 
 
 
古代史に置き換えると、ちょうど倭国の乱か。
魏が邪馬台国を利して、呉を牽制しつつこれを倒した勢いで、今度は東夷の朝鮮半島を狙い始める。ところが北方に樹立され始めた北魏がいち早く高句麗に攻め込んだ。なんやかんやしているうちに魏はあっけなく倒れ、晋に変わる。これが謎の四世紀の始まりで、日本では応神と忍熊の争い。半島諸国はにわかに南下。どさくさにまぎれて新羅が勃興しついに統一という流れ。
 
金瓶梅は魏、ぱくぱくくねくねは百済である。
終焉は目前にせまり、それぞれ姑息な手段で日本を悪者に。
そいうポーズをとっていなければ存続できないえせ民主主義国家。
若者を教育で洗脳しておとなしい日本を悪者にし、なんとかおのれを存続させ、あわよくば世界の世論で列島を手中にの皮算用。
 
しかし本気で喧嘩するには金も足りずノウも足りず、人もいうことを聴かない。
 
国内におびえ、虚勢を張り、結果的に経済戦争で負けて政権交代にいたる。時間の問題。70年も前の帝国主義時代のできごとをむしかえしてももう鉄は固まってしまっている。
 
天罰におびえる毎日が、ますます焦燥感を生み、まるで睡眠不足の卑弥呼である。以って死すべし。
 
 
まるでやからだ。
 
 
 
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百済の乱予告編

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なぜ天智は白村江にでばったのか、なぜ近江に立てこもったのか?
その真実を海部評設置から分析します。
今夜書くつもりができあがってしまいまして・・・。
 
 
 
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PS
 
Hisabetuと古代史 も
 
またやります。
 
 
必ずやりますから。
 
 
 

天智天皇の百済の役後評設置に見るそのみじめな事情と近江遷都と聖徳太子でっちあげ

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百済の役とは白村江の戦いを含んだ唐・新羅連合軍による百済占拠事件を指す。 
 
 
「663年の白村江の戦いで敗北した天智朝政権にとって最大の関心事は唐軍の動向であり、通説的な見解としては唐の軍事的侵攻に備えるのが天智朝の最大の課題であったと考えられている。A中大兄は即位せずに称制のまま政治を執ったこと B防衛上飛鳥の地より近江大津の地が有利であるため近江遷都したと考えられること C瀬戸内海沿岸各地に山城を中心とする防衛施設を建設していることなどを論拠とするものである。
 
・・・・ただ、かかる瀬戸内海を中心とする防衛施設の建設、中大兄の称制、近江遷都ということが、唐の軍事的侵攻に備えるだけのものとする見解には若干の疑問をもつ。すなわち白村江の戦い以後の唐を中心とする朝鮮半島の政治状況によりすると唐軍がわが国へ軍事的侵攻をするとは想定できないからである。
 
 663年の白村江の戦いに勝利した唐は、ただちに高句麗への軍事行動に突入することはせず、664年に新羅王法敏と旧百済の太子餘隆※1との間に和平の盟約を結ばせて南朝鮮の安定をはかり、665年には泰山における封禅(説明省略)に新羅・百済・倭などの人々を参集させ唐帝国の威勢を天下に誇示しているのである。そして666年に高句麗の泉蓋蘇文(せんがい・そぶん)が病死したことを契機に唐の高句麗への軍事行動が開始され、668年に高句麗は滅亡した・・・」(松原弘宣『古代瀬戸内の地域社会』第二章P62)
 ※百済の太子餘隆・・・よりゅう。別表記で「徐隆」。余隆=武寧王は祖先だが別人。百済の役の時の王・義慈王の子。
義慈王は高句麗と共同し新羅を攻めていたが、逆に・新羅同盟を成立させてしまい、660年に唐に滅ぼされた。孝(徐孝)、泰(徐泰)、隆(徐隆)、演(徐演)、豊(徐豊璋)、勇(徐勇)[1]百済王善光(徐善光))の6人の王子の名が確認できるほか、庶子41人がいた[2]
 
 
つまり、白村江直後の唐は南朝鮮地域の安寧で忘却されており、倭を攻撃するようなゆとりは当時の唐にはなかったということである。
 
663~668年の間に唐は三度使者を倭国に派遣しているし、高句麗も唐・新羅連合軍の攻撃に援助を求めて二度使者を倭国に送っている。唐は高句麗と日本の共同戦線を牽制しようとしたのである。ということは天智は唐が倭国には攻めてこないことを知っていたはずである。(松田好弘・松原弘宣)
 
 
ではなぜ天智は難波や飛鳥よりも内陸の近江に引越し、あえて軍事的緊張感を継続させたのか?
 
 
「中大兄の指導下でなされた百済の役の敗戦の結果により生じた国内的な不満や責任問題を、対外緊張を高めることで外(ママ)らせよう(そらせよう?)としたことに主たる意図があったのではないか」(松原)
 
 
国内に唐が攻めてくるぞと言う緊張感を感じさせることで、敗戦の不満の出るいとまを与えず、追求を逃れるためだというわけである。このとき天智は瀬戸内各地に評を置いている。そして筑紫・瀬戸内をはじめとする海岸部に山城・防塁(水城とか神護石とか呼ばれてきた)を各地の氏族に作らせてもいる。これは侵略の危機感に乗じて地方を中央集権にまとめてしまおうというはかりごとだというわけである。
 
また中央の中・下官僚にはそれまで19しかなかった階位を一気に26にまで増やしている。足元の不満分子に階位を与えて懐柔したということになる。
 
百済の役にさいして大将軍に任命されなかったのは大伴・阿部・紀などの古くからの旧王家=倭王政権以来の氏族であった。
 
彼らは飛鳥王権では不遇であったが大豪族であることは変わらない。影の影響力は非常に強い。だから天智は彼らの本拠地である飛鳥にはいられなかった。だから飛鳥政権が伝統的に受け入れて放り込んできた渡来人の多い近江はふさわしかった。さまざまな知恵者もいたからだし、なにより筆者は鎌足の領地が山科から近江大津にあったからではないかと見ている、実際天智の墓は飛鳥藤原京の真北、京都の山科に造られた。そこの背後は鎌足の鉄鉱山があった将軍塚裏遺跡のある逢坂山のすぐそばである。
 
いずれにせと天智は敗北の言い訳をしなければならない立場にあって、危険な立場にあったと言うことも可能である。いつ敗戦の責任で暗殺されるか知れない。そこで藤原氏と百済王一族のお膝元に逃げ込んだでいいのではないか?実際、異伝では天智には山科遭難の伝承(山科に狩にいき履を残して消え去った)があるわけである。かかる非常時に狩りにいくようなゆとりもあるはずはなく、この伝承はようするに天智が危機的状況にあって、いつ殺されてもおかしくないという意味に受け取れる。そういう不満分子が飛鳥にはいたということである。つまり天武のクーデターは起こるべくして起こったのだ。その背景には天智への不満を持った飛鳥政権下では不遇であり続けた旧王権氏族と海部・尾張・葛城・出雲などの敗者たちということになるだろう。(天智が百済の役以降、天武あるいは飛鳥旧王権の宰相たちの手で暗殺された可能性はひじょ~~~~に高いが、『日本書記』はそれをあえて書かなかった。)
 
 
「評 (ひょう)」は斉明天皇時代の大化の改新以後おかれ始めた郡である。
 
「評(こおり、ひょう)とは、古代朝鮮および古代日本での行政区域の単位。『日本書紀』は「大化の改新」の時に「」が成立したと記すが、「郡」と言う用語が用いられるのは、大宝律令制定以降であり、それ以前は「評」を使っていた文書(木簡類)が見つかっている。」
 
 
瀬戸内の評
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百済の役では五万人もの倭人軍隊が朝鮮半島に行き、評制度もまた百済に応用されているのである。これは半島にとっては一大画期だった。これは当時の日本の社会体制の一部がそっくりそのまま半島南部に入ったということなのである。
 
四国愛媛の越智国造はこのときとばかりに仏教建築を増やし、評を越智郡に置くように申請している。天智はそうとう破格の地方豪族への優遇措置をとらざるをえなかったようだ。はるか東国の福島県の那須では石碑がのちに立てられ、持統天皇に遡る歴史が那須国造評にはあるんだと堂々と言わせている。こうした国アイデンティティあふれる碑文の多くはだからこの時期が多いのだろう。伊予の太子碑文や羊太夫碑文なんかもそうかも知れない。再考証の余地がある。
 
 
要するにどうしたって敗戦王であった天智の立場は弱い。だからもうなんでもかんでもやっている。ちょうど今のNHK会長が理事たちに辞表を書かせたような恥じも外聞もない行動に出たのである。その中のひとつがあの聖徳太子聖人化であろう。国家が一丸となるためには自分の祖先の正当性をまず言い出す。すると中国や蘇我王権に立ち向かえたのは厩戸だけだとなっていく。だから馬子のことはあまり悪くは言えず、代わりに入鹿が権利を占領したんだという書き方をしている。天智が暗殺されたとしても書くはずがない。
 
しかしよくよく考えれば厩戸こそいい迷惑。だって彼は天智が殺した蘇我氏の子なのだから。だが旧王族に使えてきた飛鳥の豪族たちにはかなりの効果が望めたのであろう。久米氏などは厩戸の弟・久米(来目)皇子の筑紫の久米郷地名由来を否定しないでいるが、実際には久米(来目)部がいたからの地名であろう。久留米なんぞも久米+久米皇子が来たというような由来もあったかも知れない。
 
 
天智の大王としての権威はこのように地に墜ち果てようとしていたわけである。天武が登場するのは当然の結末だった。
 
だからこそ『日本書記』では、藤原不比等は父鎌足の復権と、天智王権の正統性を、これでもかと言い張る必要があったことになろう。女帝傀儡政権の精神的基盤はここにあった。天智は聖徳太子を聖人化したが、不比等は今度はその天智をこそ聖人化・祖人化したわけである。面白いでしょう?歴史は繰り返す。しかしどっちにしたって海人氏族は再び差別されていくことになるわけだ。大海人皇子=天武が
やっと打ち立てた海人系王家はひっくりかえり、大伴氏も紀氏もそれぞれ不遇な平安時代を迎えることとあい成った。
 
 
  大伴の 名に負う靫帯びて
 
   万代に恃み(よろずにたのみ)し心いづくか寄せむ 大伴家持・万葉集

 
昔の大伴氏は偉かったなあ~~~という歌である。
 
この和歌と大伴氏と久米氏の関係についてはいずれまた。
 
 
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久米と大伴/歌こそ見ゆる名こそおしけれ 久米歌と家持和歌から

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久米歌
 
<古事記 中巻 神武天皇 三より>
 宇陀の高城に鴫罠張る
我が待つや鴫は障らず いすくはし鯨障る
前妻が肴乞はさば たちそばの実の無けくをこきしひゑね
後妻が肴乞はさば いちさかき実の多けくをこきだひゑね
 ええ しやこしや こはいのごふそ
 ああ しやこしや こは嘲咲ふぞ

<現代語訳>
 宇陀の高地の狩り場に鴫の罠を張る。
 私が待っている鴫はかからず、思いもよらない鯨がかかった。
 古妻がお菜を欲しがったら、肉の少ないところを剥ぎ取ってやるがよい。
 新しい妻がお菜を欲しがったら、肉の多いところをたくさん剥ぎ取ってやるがよい。
エー、シヤコシヤ。これは相手に攻め近づく時の声ぞ。
アー、シヤコシヤ。これは、相手を嘲笑する時の声ぞ。
 
 
<古事記 中巻 神武天皇 四より>
 忍坂の大室屋に人多に来入り居り 人多に入る居りとも
 みつみつし久米の子が 頭椎い石椎いもち 撃ちてしやまむ
 みつみつし久米の子らが 頭椎い石椎いもち 今撃たば宜し

<現代語訳>
 忍坂の大きな土室に、人が数多く集まって入っている。どんなに人が多くても、
 勢い盛んな久米部の兵士が、頭椎の太刀や石椎の太刀でもって、撃ち取ってしまうぞ。
 勢い盛んな久米部の兵士が、頭椎の太刀や石椎の太刀でもって、今撃ったらよいぞ。
 
 
みつみつし久米の子らが 粟生には 臭韮一本
そねが本そね芽繋ぎて 撃ちてしやまむ

<現代語訳>
 勢い盛んな久米部の兵士が作っている粟の畑には、臭い韮が一本生えている。
そいつの根と芽を一緒に引き抜くように、数珠繋ぎに敵を捕えて、撃ち取ってしまうぞ。
 
 
みつみつし久米の子らが 垣下に植ゑし椒 口ひくく
吾は忘れじ 撃ちてしやまむ
<現代語訳>

 勢い盛んな久米部の兵士が、垣のほとりに植えた山椒の実は、口がヒリヒリする程辛い。
 我々は、敵から受けた痛手を忘れまい。敵を撃ち取ってしまうぞ。
 
 
 
神風の伊勢の海の生石に 這ひもとほろふ細螺の
 い這ひもとほり 撃ちてしやまむ

<現代語訳>
 伊勢の海に生い立つ石に、這いまわっている小さい巻貝のように、
敵のまわりを這いまわってでも、敵を撃ち取ってしまうぞ。
 
 
 
楯並めて 伊那佐の山のこの間よも い行きまもらひ戦へば
吾はや飢ぬ 島つ鳥鵜養が伴 今助けに来ね

<現代語訳>
 楯を並べて伊那佐の山の木の間を通って行きながら、敵の様子を見守って戦ったので、
 我々は腹がへった。鵜養部の者どもよ、今すぐ助けに来てくれ。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kumeuta.htm
 



久米氏には来目氏表記がある。
久米部の統率者である。
大伴連氏と同族の氏族と、それ以外の久米部にわかれる。雄略時代に大伴氏の配下となる?

あるいは諸説に、大伴氏は来目から出たとも。
『日本書記』星川王の乱条に、星川関係者の河内三野縣主小根は星川反乱の罪を逃れるため、大伴室屋大連に「難波来目邑大井戸田10町」を、草香部吉士漢彦に田地を贈ったとある

『日本古典大系・日本書記』頭注には久米氏は「紀伊国名草郡岡崎村」と本拠とする氏族の可能性が示唆してある。
久米氏は海部としての久米部を管理するよう指示された氏族であろうから、その出身を畿内に求めるのも致し方ないが、久米部そのものの出自は筑紫に久米があり、また南九州奄美に久米島があり、南海の海人族と見てよかろう。船の民であったことは「みつみつし」の歌などから間違いあるまい。
 
記録にある瀬戸内の久米
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大伴家持には
大伴が久米と古くから同族であるという和歌があり、またあきらかに海軍的な「海行かば」の歌もある。
大伴の 遠つ神祖の その名をば 大来目主と 負い持ちて 仕えし官  万・4094
大久米の 丈夫健雄を 先に立て
仕え来る 祖の職と 言立てて    万・4465

大伴氏は雄略・継体まで、西国の靫負集団(ゆげいしゅうだん・弓矢で相手を威嚇する門番)を統率しており、同族には佐伯氏、東国支配の膳氏とも同族で、佐伯氏と紀氏の関係から、紀氏とも婚姻があったと考えられるが、もっとも古い同族が久米氏である。その上下関係は諸説あるが、5世紀までに大伴>久米となったと見てよかろう。
 
久米の名前の由来も諸説あるが、聖徳太子の弟・久米皇子は久米氏をめのととしたからであろうこの名前を持っており、例の新羅けん制のための筑紫遠征した場所に久米がある。この由来はもともと久米部がいたからであろうと筆者は考える。しかし文献は久米皇子由来であると記録している。

雄略が滅ぼした葛城氏と、その後の王権の関係修復に、久米氏はかなり尽力したといわれ、それを支えていたのが大伴氏だとも言う(高橋富雄)。
 
雄略以後~継体直前の『日本書記』記録はあまり齟齬がないと考えれば、久米氏が雄略時代以後登場するのも、その頃から久米氏が畿内にやってくる、それを根回ししたのが大伴氏ということなのかも知れない。
 
この時代から衰退した吉備を紀氏とともに再建して行ったのも久米氏である。鉄製さんを掌握し、これを基盤として大伴連金村は継体大王を擁立できたと見られる。凡直氏が牛耳っていた四国伊予に割り込んだのも久米氏である。継体が多くの海人氏族に推挙された理由も久米や安曇や海部や紀氏や物部氏や尾張氏らの根回しがあったかも知れない。そもそも越前気比から九頭竜川までは継体母方の三尾(みお)氏の本拠地で、奇しくも先日、琵琶湖安曇川(高島市三尾(水尾))の遺跡から新たに古墳後期の円墳が出た。父方息長氏も安曇と関わる海人氏族ゆえ、継体の海のネットワークは全国規模である。
 
畿内では伊勢湾を中心にして広く居住。久米氏はだから尾張氏や紀氏らともえにしを持っている。

つまり久米氏は記録にはないが応神天皇の登場とともに大伴氏・膳氏・靫負集団、安曇、紀氏・尾張氏・吉備氏などとともに瀬戸内海を東上してきた古い王家の関係者であろう。それよりももっと古く畿内に入った倭直・物部・葛城などとも深いかかわりを持つのは、船の民ゆえである。
 
同じ海人出身者でも王家に入り込む氏族と、からめてから傍観しつつ時あれば、洞ヶ峠から出て形成有利なほうに味方するものもある。なかなか氏族をひとくくりで結論することは難しい。

ただある時期・・・久米氏で言えば久米舞を奉納した時期から、政権に加担し配下として帰順したことはどの氏族にも言えることであろう。地名残存率の高い久米は、大伴氏が衰亡しても生き残った氏族だったと言える。
 
いずれにせよ、同じ地名を名乗っていたからと言って、すべてが同族だと決めてしまってはなるまい。久米に入って名乗る別氏族も当然ある。先にいた久米の地名が、久米がいなくなってあとから来た氏族がそのまま名乗るなどは、中世や戦国時代にもざらにある。佐藤が全部藤原氏だったわけでもなく、鈴木がすべて伊勢の人だったわけでもない。藤原にもピンからキリまであれば、部民もあれば、まったく無関係なただの権威取り込みのおまじないのような名乗りもある。
 
氏族をひとくくりにしたい研究者や愛好家も多々あるが、話は半分に聞いておくべきである。
 
自分のルーツは自分で探し出すしかない。人に頼っても他人の系譜で満足してしまう場合が多い。

とにかく菊池山哉・喜田貞吉らが言ったように、日本人の大半は渡来ではなく、縄文からの倭人=海人・山人が渡来と混血したものなのである。それが中国人や朝鮮人とは違う日本人だけのアイデンティティだということはお忘れなく。元をたどれば南海の島人先土器時代人にまで遡れる。稀有な人種であるぞよ~~~。誇っていい。
 
久米の大元は羽人だったやもしれんな。
 
 
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公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1

紀年銘入り銅鏡・正しい縁神獣鏡研究とこれまでの役にたたない研究・紀年銘鏡研究の肝

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■三角縁神獣鏡の絵柄の種類

三角縁銘帯三神五獣鏡
三角縁銘帯四神四獣鏡
三角縁銘帯四神四獣鏡
三角縁銘帯二神二獣鏡
三角縁三神三獣三炉鏡
三角縁唐草文帯三神三獣鏡
三角縁獣帯三神三獣鏡
など
 

それぞれの絵柄による各地の同笵関係を詳しく調査していかねばならない。(どれがどの鏡の兄弟かなど。つまり大元を探す努力。)

今後、邪馬台国論等の証拠品として神獣鏡を扱う著作・レジュメの中で、単に三角縁神獣鏡と一括して論じているような資料・解説・論考は証拠としては使えない、役立たない、そしてもう古い。読む必要がないしろものになる。同じ紀年銘入り鏡の兄弟研究、及び同笵鏡に使われている模様ひとつひとつの共通点を論じて、まずはその氏族を探り当てることから始めるべきである。最初から大上段に邪馬台国の鏡だという十把ひとからげなとっかりでは手順としてまったく意味がない。

また同じ絵柄であっても、それぞれ同位体鉛分析による素材の類似調査も加えねばならない。またそれに伴うほかの遺物、たとえば鉄製品との組み合わせも言及していなければならない。さらにその古墳の築造年代と位置関係、墳形などによって、当時の各地の氏族間の共栄関係をまず論じ、そこからようやく邪馬台国論が始まらない書物はダメ本だとせねばなるまい。

その組み合わせは山ほどあるだろう。しろうと探偵にはとても無理。そのひとつひとつを丁寧に資料化していないくせに邪馬台国・古代を語るものを、これからは鏡の参考資料として扱うわけにはいかない。そんなものはもう前世紀の遺物である。

そうすると、これまでの権威的研究書のすべてが、もうダメということに気づくはずである。
 
いまだにそのような正しい論考大作や正統なサイトに筆者は出会っていない。
それを作ろうと考えても、全国の専門的資料のすべてを読み上げて、編集するだけの知識や資料やゆとりのすべてが筆者にはない。それでも少しでもと思い、ざっとした恥ずかしいものだが以下に貼り付ける。


 
 
■紀年銘入り銅鏡出土地一覧
A、 魏の年号を有する紀年銘鏡全10面
●青龍三年(西暦235年)銘
1、 京都府京丹後市(旧弥栄町と旧峰山町 にまたがる)太田南5号墳(方・中期前半)・方格規矩四神鏡
2、 大阪府高槻市安満御所の町・安満宮山古墳(長方形・前期初頭)・方格規矩四神鏡
3、 出土地不明・方格規矩四神鏡
 
●景初三年(西暦239年)銘
4、 島根県大原郡加茂町大字神原 神原神社古墳(方・4C中期)・三角縁神獣鏡
5、 大阪府和泉市上代町 和泉黄金塚古墳(前方後円・前期末)・平縁神獣鏡
 
●景初四年銘(西暦240年なお景初四年は実際にはなし)
6、 京都府福知山市東羽合・広峯15号墳(前方後円・4C後半)・斜縁盤龍鏡
7、 宮崎県西都市高鍋町・伝・持田古墳群(不明・4~6C)・斜縁盤龍鏡
 
●正始元年(西暦240年)銘
8、 山口県周南市大字富田字竹島・竹島御家老屋敷古墳(前方後円・4C前半)・三角縁神獣鏡
9、 群馬県高崎市柴崎町・蟹沢古墳(円・初期4後半~5?)・三角縁神獣鏡
10、兵庫県豊岡市森尾市尾・森尾古墳(方・3後~4前)・三角縁神獣鏡

 
B、呉の年号を有する紀年銘鏡 全2面
●赤烏元年(西暦238年)銘 
11、山梨県市川三郷町大塚・鳥居原狐塚古墳(円・中期5中)・平縁神獣鏡
●赤烏七年(西暦245年)銘 
12 宝塚市安倉南1-4-15 ・安倉高塚古墳(円・前期4C頃)・平縁神獣鏡
 
C、晋の年号を有する紀年銘鏡
元康?年(291~299年)銘全1面
13、京都府木津川市(旧相楽郡)山城町・伝・上狛古墳(円・4C前?)・平縁神獣鏡
・・・・・・・・・・・・・・・
 
内訳
魏年代紀年鏡全10面
呉年代紀年鏡全2面
晋年代紀年鏡全1面
計13面 2014年3月現在
 

 
1 すべて、卑弥呼~臺與の時代の10年間に収まる鏡である
2 椿井大塚山古墳からも黒塚古墳からも紀年鏡は出ていない。
3 全13枚のうち5枚が日本海側で出土している。さらに魏年代鏡に絞れば10枚のうち4枚が日本海側。そしてすべてが海岸部あるいは淀川水系で出ていることは重要である。このルートは船の民が関与したわけである。
4 中国にはない三角縁神獣鏡だが、必ずその原本はどこかになければならない。朝鮮からの渡来工人がオリジナルで考え出すはずはなく、半島にその元になる絵柄があるはず。
 
 
おまけ資料
■象嵌銘文入り鉄剣出土地一覧
銘文入り鉄剣は全国で8例、金象嵌のしかも紀年銘入りはそのうちわずかに5例。さきごろ新たに発掘された元岡古墳のものを入れると古墳時代の銘文を持つ刀剣の出土例は全国で8例ある。そのうち金象嵌の紀年銘を持つ刀は5例である。そのほとんどは国宝や重要文化財に指定されている。
 
●=金象嵌 ○=銀象嵌
1●奈良県 東大寺山古墳出土鉄刀、金象嵌「中平年」(184年~189年)
 2●奈良県 石上神宮の七支刀、金象嵌 「泰和四年」(369年)
 3○千葉県 稲荷台1号墳(5世紀中盤)出土の「王賜銘」鉄剣、銀象嵌、5世紀
 4○熊本県 江田船山古墳出土の鉄刀 約75字 銀象嵌(6世紀)
 5●埼玉県 稲荷山古墳出土の鉄剣銘、金象嵌、辛亥年(471年)
 6○島根県 岡田山1号墳出土の鉄刀 「各田了臣」銀象嵌
 7●福岡県 元岡古墳群G6号墳(7世紀の古墳)金象嵌「庚寅」(570年)
 8●兵庫県 勝福寺古墳の刀の柄の模様、金象嵌、6世紀前葉※刀の身ではない

 
 
 
 
これに基づいてまずは地図に配置して分布一覧を作っている。
絵柄・銘文などによる同笵鏡関係も鋭意調査中。
というか、どこかにすでにやった人はいないか連絡を乞う。
 
 
 
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先週気になった考古学ニュース三つ・日本人起源解明への大発見?

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沖縄で旧石器時代の貝器発見 国内初、日本人起源論迫る
2014年2月15日10時41分
 「日本最古の人骨が密集する沖縄地域のサキタリ洞遺跡(沖縄県南城市)で、約2万年前の旧石器時代の貝製道具(貝器)が国内で初めて見つかった。県立博物館・美術館が15日、発表した。同時に人骨も出土し、骨と道具がそろった国内最古の例となる。骨はあるのに文化遺物が出ないといわれた沖縄旧石器時代の謎を氷解させ、人骨と道具の両面から日本人起源論に迫る成果だ。
出土したのはマルスダレガイ科やクジャクガイなどの貝の破片39点。道具の証拠となる使用痕が確認できた。同じ地層から人間の歯と足の骨も出た。同じ層の木炭を測った放射性炭素年代をもとに計算すると2万~2万3千年前の値が出た。ツノガイの破片2点はビーズのように使ったとみられ、旧石器時代では国内初の貝製装飾品だという。
 
 サキタリ洞遺跡の南1・5キロの八重瀬町からは、国内で唯一全身骨格がそろう「港川人」が見つかっている」

このツノガイの貝輪や人骨に対応しているのが先に紹介しておいた富山県小竹貝塚の縄文前期のオオツタノハガイ貝輪と91体の人骨である。
http://www.asahi.com/articles/ASG1J4JPXG1JPUZB00G.html
 
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「縄文時代前期の貝塚としては日本海側最大級の小竹(おだけ)貝塚(富山市呉羽町北、呉羽昭和町)から発掘された人骨が少なくとも九十一体に上ることが分かった。富山県文化振興財団が十六日発表した。これまで国内で見つかった同時代の人骨の総計八十体を一カ所で上回り、国内最多。(豊田直也)
 
 頭上に直径約五センチの小さな土器を載せた状態で埋葬された人骨や土器の中に収められた子供の骨も見つかり、国立科学博物館人類研究部(茨城県つくば市)の坂上和弘研究主幹は「縄文前期の死生観を考える上で大変貴重な資料となる」と話す。
 DNA鑑定の結果、ロシアのバイカル湖周辺や北海道の縄文人に多い北方系と、東南アジアから中国南部に多い南方系の人が混在していた。

 死亡時の推定年齢は、十代後半から二十代が十五体と最多で、当時としては極めて高齢な六十歳以上の人骨もあった。縄文後期・晩期の推定平均身長一五八センチを大きく上回る一六五センチ以上の個体も見つかった。
 九州や伊豆諸島以南に生息する貝殻を使った腕輪や東北地方の土器のほか、長野、岐阜、新潟各県で産出する石や国内最古のヒスイを使った石器も発見され、他地域との交流があったことも判明した。
 シバイヌほどの大きさの犬の骨二十一体も出土し、人と犬の深い関わりを裏付けた。石器の先端が刺さったイルカのあばら骨も見つかっており、イルカ猟の貴重な資料となりそうだ」
http://blogs.yahoo.co.jp/neggy_0313/62780534.html?from=relatedCat
 
旧石器時代終末期のサキタリ洞穴から新石器縄文時代開始直後の富山湾。時間差は約4000年ちょっと。これまでの考古学では琉球の港川人は奄美の海を渡れなかったとされてきた。これは日本人起源に関わる大発見。ミッシングリンクがつながるか?
 
 


 

イスに座る縄文時代の土偶…青森の遺跡で出土
イスに腰かけたような姿をした類例のない縄文時代の土偶が、青森県西目屋村の「水上(2)遺跡」で出土したことがわかった。」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140226-00000691-yom-soci
 
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イスに座る人物は古墳時代には埴輪でよく見かける。たいてい人物は巫女である。この縄文の土偶人物も巫女のような人だろう。どうも縄文と弥生の交流があったか?だからこういう様式がひとつの定型品として長く縄文世界で伝世されてきて弥生と出あうことで西日本・東国にも伝わった?もうエニシング・ゴーズですな、古代史は。
 


 
 
弥生時代の方形周溝墓など発掘 橋本市東家遺跡・東家館跡 和歌山
「和歌山県橋本市東家の東家遺跡・東家館跡から、弥生時代の方形周溝墓や古墳時代の竪穴住居跡などが同市教委と市遺跡調査会の発掘調査で見つかった。古代からの郷土史をたどる上で興味深い資料になりそうだ。3月2日午後1時半から現地説明会が行われる。
 
  発掘調査では、弥生時代中期(約2千年前)の方形周溝墓(一辺9~10メートル)が初めて確認され、溝から土器が出土した。古墳時代の竪穴住居跡も約20基見つかり、大規模な集落があったとみられるという。さらに、南北朝や室町時代の大規模な溝や建物跡なども出土した。
  同遺跡ではこれまでにも13~14世紀ごろの中国製磁器や、室町時代の幅約5メートル、深さ1・3メートルの大溝などが発掘されている。調査担当者は「弥生、古墳時代の昔から、人々はここで生活し、今の私たちにつながっている。そのことを感じてもらえれば」と話している。」
 
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橋本市は紀ノ川最奥部で吉野に隣接する。詳しく言えばこの遺跡は紀ノ川の北側、つまり葛城山山ろく地域にあることになる。ここが重要。駅前の住宅密集地である。丹生方面ではなく川を挟んだ葛城側。さらに重要なことはおとなりの駅があの隅田だということ。
古墳時代以前から紀ノ川沿線に海人族が入っていたという証拠で、古墳はそこから発展してヤマトに伝わるか?西九州~吉備~紀ノ川~ヤマト。
隅田八幡宮の画像鏡には紀氏が関わったと考えられる。百済王武寧の名前「志麻」と継体大王の名前「おおどおう」がある鏡。
 
 
 
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日本海でも東海でもなく最古は「北海」

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『日本書記』垂仁天皇二年(西暦213年)是歳
 
「意富加羅国王子、都怒賀阿羅斯等・・・北海(ほっかい)より廻りて出雲を経て此間に至れり」
 
 
意富加羅=伽耶
北海=日本海=韓国が言う東海
垂仁天皇=『日本書記』年譜で言う第11代天皇。崇神の皇子。伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)
 
 
 
 
これが日本海の呼び名に関した「世界最古の記録」である。
 
さらに、
天平五年(733)『出雲国風土記』意宇郡・出雲郡・神門郡条・・・「北海」
『豊後国風土記』・・・「北海」
『備後国風土記』逸文・・・「北海」
 
 
 
日本海とは帝国陸軍による帝国主義軍部政府が名づけた呼称だと思われているが、実は決してそういうわけではなく、帝国主義以前にすでに外国人製作の客観的な地図にも「日本海」と記されている。
 
1602年、宣教師マテオ・リッチ作成「坤與万国全図(こんよばんこくぜんず)」には東海=北海の海域には明確に「日本海」とある。
 
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これが最古の第三者西洋人による記録である。当時の東アジア盟主とされていた中国の北京で作られたことが重要。つまり中国は「日本海」名称になんらの干渉もしなかった=認知していたこととなる。
 
 
日本人が作成した最古の地図では享和二年(1802年)、山村才助『訂正采覧異言』でここにも「日本海」。
 
ちなみに双方とも太平洋を「小東洋」「東洋」と記している。
 
 
西日本が中心地であった古代日本では、日本海は倭国の北にある海であった。
 
 
 
 
 
 
以上のことからも、当時、新羅王子記事でさえも「北海」を用い、朝鮮半島も一切これに対して異論はないまま約1000年間過ぎてきたのであったことが明白。
ちなみにこの記録を覆せるような記録は世界中にひとつたりとも存在していない。
 
 
1000年などという時間枠は、気が遠くなるほどの時間であって、その間にこれまでいくらでも異議申し立てのゆとりはあったはずの長期間であることをお忘れなく。主観的主張には説得力がない。
 
参考文献 上田正昭『森と神と日本人』藤原書店 2013
 
 
 
 


 
 
 
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伏見はなぜ紀伊郡だったのか?/木部・紀氏は木地師・杣になったか?

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なぜ深草は紀伊郡なのか?
稲荷山・深草一帯の京都市南部をかつて紀伊郡といった。
その理由は実はわかっていない。主観的に紀伊=紀氏としていて、秦氏以前に紀氏がいたからだろうと俗説はしているままである。
 
では本当に紀氏由来の紀伊郡なのであろうか?
しかし京都府の木部姓残存はわずかに8家族にとどまる。
木部さんの同姓の人数は京都府に 8人http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E6%9C%A8%E9%83%A8&tdfk=%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C
 
京都市北区
0
京都市上京区
1
京都市左京区
0
京都市中京区
0
京都市東山区
0
京都市下京区
1
京都市南区
1
京都市右京区
1
京都市伏見区
0
京都市山科区
2
京都市西京区
0
福知山市
0
舞鶴市
0
綾部市
0
宇治市
1
宮津市
0
亀岡市
0
城陽市
0
向日市
0
長岡京市
0
八幡市
0
京田辺市
1
京丹後市
0
南丹市
0
木津川市
0
乙訓郡大山崎町
0
久世郡久御山町
0
綴喜郡井手町
0
綴喜郡宇治田原町
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相楽郡笠置町
0
相楽郡和束町
0
相楽郡精華町
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相楽郡南山城村
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船井郡京丹波町
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与謝郡伊根町
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与謝郡与謝野町
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本当に紀伊郡は木部・紀氏由来なのであろうか?
考古学的稲荷山考察
「「お塚」の前身は古墳である。古墳時代前期頃(3世紀)から稲荷山の峰々には大小の古墳が築かれ、秦氏進出以前からこの辺りを支配していた首長の墓域であった。一の峰古墳は円墳(径約50m)・二の峰古墳は前方後円墳(長約70m)、三の峰古墳は墳形不明の前期古墳で、その他にも円墳3基(後期古墳)などがあったという。
  今、これらの古墳は姿を替えて、それぞれ「上社」・「中社」・「下社」と呼ばれ、周りには大小の「お塚」が群集していて、そこに古墳の痕跡をみることはできない。」
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/inari-inaritaisya.html
 
 

 
 
 
 
 
「稲荷山山頂の古墳は前期古墳で四世紀後半築造とされています。
ここ一ノ峯は直径50mほどの円墳だったそうです。

稲荷明神が鎮座したという記載される
711年より300年も前のことです。
そしてその古い塚(古墳)を中心にして円陣を描くように
私的なお塚群が現在も設置され続けています。」
 
 


 
 
稲荷山の古墳群が4世紀に存在し、それが秦氏よりも先だったかどうか自体解明はもう不可能になった。京都市南部~綴喜郡八幡の巨椋池周辺に弥生時代の遺跡がある。これを筆者は秦氏前身のものと思い込んできたのだが、それが木部ではなかったかと最近思うようになった。なぜなら主観的だが木部と宇治市小倉の地名由来になった木地師の関係にふと思いが至ったためである。
 
木地師のような匠(たくみ)はそもそも森林・材木をこととする杣(そま)、番匠(バンジョウ)(=きこり)から出てくるわけだが、彼らのいた地名と木部の地名とはリンクする場合がある。
 
つまり木部・紀氏そのものが当初から船の民である限り、山林とは切っても切れない関係にあり、樵や木地師になっていったとしてもおかしくない存在なのではないかという思い付きである。
 
今日のところはここまでにしておく。なにも証拠がない。
 
 
 
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法隆寺所領一覧と四国大伴・久米・佐伯・登美氏そして久米皇子及びナガスネ彦の相関関係

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本日は資料のみ。
明日以降、法隆寺所領地=庄(庄倉)の最も集中している(大半)四国北部の伊予国と讃岐国の久米関係者を考察する。
 
 
「法隆寺伽藍縁起并(併)流記資材帳 ほうりゅうじがらんえんぎ・ならびにるき・しざいちょう」(天平十九年=747年)記載の法隆寺の庄。
 
合庄庄倉・・・・・・・
右京九条二坊  1處
近江国     1處 栗太(りっとう)郡物部郷
大倭国     2處 平群郡壱處・添下郡壱處
河内国     6處 大縣郡・和泉郡・渋川郡・志貴郡・日根郡・更浦郡
摂津国     5處 西成郡・川辺郡・武庫郡・雄伴郡
播磨国     3處 明石郡・賀古郡・揖保郡
備後国     1處 深津郡
讃岐国    13處 大内1・三木2・山田1・阿野2・鵜足2・那珂3・多度           1・三野1各郡
伊予国    14處 神野1・和気2・風速2・温泉郡3・伊余4・浮穴1・骨           奈1
 
 
全46ヶ所の庄のうち北四国に合計27ヶ所59%が集中する。
なぜか?
 
 
続く。
 
 
 


 
※以前吉備と宇佐の兄弟関係を書いたとき、書き忘れたこと。
和気清麻呂が弓削道鏡の宇佐神宮神託事件のさい、なぜはるかに遠隔地である宇佐神宮にまで託宣を確認に行ったか?やはり和気氏が紀氏から出る吉備氏族で、吉備と宇佐の関係から、より神格の高かった本家宇佐を選んだのだろう。あるいはそうした巫女(大神杜売もりめ)のような巫女が吉備津彦神社にいなかったか。八幡神が皇室関連で格式が高かったこともあろうし、それ以前から八幡神の託宣に定評があったか。
 
 
 
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法隆寺と大伴・久米・登美資料2

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今日も資料の提示をしておく。
さて、これらの資料から、聖徳太子にも関わる、ある意外な結末を果たして導き出せるだろうか?大伴・久米という最古級の氏族と聖徳太子・蘇我氏・久米皇子の出自がにじみ出てくるだろうか、という、これは壮大な試論なのかも知れない。
 
書きながら考える。着想を資料が結び付けてゆく。これが筆者の、古代史の最大の楽しみ方である。
 
 
 


 
 

■鳥見(とみ) 角川地名大辞典 
とみ  鳥見 
 「鳥見・迹見・迹見・富などと表記する。富雄川沿いの古地名。 
 鳥見は鳥貝(鳥飼)を誤写した結果生じた地名か(富雄町史)。鳥飼部を二字化した鳥部(とべ)からトビ・トミに変化し、一方ではトリカヒの音も併存したとも考えられる(地名伝承伝)。 
 
 鳥名の鵄に付会して金鵄伝承が発生したものか。すなわち神武即位前紀戊午12月丙申条によれば、皇軍が長髄彦の軍と戦いを交えた折、金色霊鵄が飛来し、皇弓の弭に止まったため、長髄彦はその光によって戦意を失い敗れた。この時から「長髄邑」は「鵄村」と称され、「今鳥見と云ふは、是訛れるなり」と見える鵄邑伝承地の1つ。
 
 また「旧事紀」天孫本紀には、饒速日尊が天神御祖そ詔をうけて天磐船に乗り、河内国河上哮峰に天降し、次いで、「大倭国鳥見白庭山」に遷座したとあり、また饒速日尊は長髄彦の妹、御炊屋姫を妻とし、天羽々弓・天羽々矢・神衣帯手貫の三物を「登美白庭邑」に隠し、納め、墓とするよう夢告したしたとある。
 
 
〔古代〕登美
 大和期から見える地名。添下郡のうち。
 
① 迹見池 
 垂仁紀35年10月条に「倭の狭城池及び迹見池を作る」とあり、「大和志」は添下郡池内村(現大和郡山市池ノ内町)に比定する。
② 登美村
 「行基年譜」(続々群3)天平3年条に隆福尼院は「大和国添下郡登美村」にありと見える。同院は宝亀4年故大僧正行基法師が生前修行した40余院のうち、いまだ田を施入されていなかった「大和国菩提・登美・生馬・河内国石凝、和泉国高渚五院」に添下郡の田3町、「河内国山崎院」に2町を与えると見える登美院と同所であろう(続紀宝亀4年11月辛卯条、宝亀4年11月16日勅/三代格15)。
 また、天平宝字6年の造金堂所解案(正倉院文書/大日古編年16)に「登美銭司村」から炭14斛を運ぶ車賃として42文が計上されている。
③ 鳥貝郷
 「和名抄」添下郡四郷の1つ。高山寺本・東急本とともに「止利加比」と訓む。和銅7年添下郡の人。
 大倭忌寸果安は非常な親孝行者であり、兄弟仲がよく、また人にも恵み深かったので、「登美・箭田二郷」の百姓が皆恩儀に感じ、親のごとくに慕ったとある登美郷は鳥貝郷と同所か(続紀和銅7年11月戊子条)。
 「延喜式」神名上の添下郡10座のうちに「登弥神社」が見え、現在の奈良市石木町に比定される。郷域は現在の生駒市北部から奈良市三碓(みつがらす)町にわたり地域。
 
 なお「姓氏録」には、用明天皇皇子来目王の後を称する「登美真人(左京皇別)、饒速日命の後裔を称する「登美連」(左京神別上)、「鳥見連」(河内国神別)が見える。城上郡跡見(現桜井市外山から榛原町西峠にかけての地域)の地名にちなむとする説もある。ただし、「迹見首赤檮」(用明紀2年4月条、崇峻即位前紀)の一族で、豊城入彦命の後裔を称する「登美首」(和泉国皇別)・「止美連」(河内国皇別)は百済国の止美邑の地名に基づく。
 
 
〔古代~中世〕鳥見
 平安期から見える地名。
 添下郡のうち、鳥見川(富雄川)に沿い、上流から上鳥見、・中鳥見・下鳥見の3地域に分かれていた(長弓寺縁起/大和志料上)。
 
 現在の生駒市上町から奈良市石木町にかけての地域。当地は傍示越え(高山街道)・清滝越え(清滝街道)をひかえる河内・大和交通の要地であり、鎌倉期に春日社神供用途運上に用いられた「上津鳥見路」は清滝街道にあたるという(中臣祐定記嘉禎2年10月9日条/春日社記録1)。
 
① 登美荘
 山城神護寺領。承平元年11月27日付神護寺実録帳写(神護寺文書/平遺237)に諸国荘々田地井券契目録として「登美庄<大和国>」とある。
② 鳥見荘
 興福寺雑役免(進官免)荘園。延久2年の雑役免帳に「鳥見庄田畠三町二段百廿歩 公田也」とある。荘田はすべて公田で、曲田・薑田・庄田・上津谷・木津谷・女谷・畠田内・西庄・島東・島内・中屋内・板井・東前田・西前田・大池尻などの地尻に散在した。
 正治2年(弘安8年写)の維摩会不足米餅等定には「鳥見庄炭五百籠 続松五百把」と見え、興福寺維摩会に用いる炭・続松を上納している(興福寺文書/鎌遺15590)。
③ 上津鳥見荘
 単に鳥見荘ともいう。大乗院門跡領(菩提山報恩院領)。
 嘉暦元年11月日付季頭料段銭支配状(雑々日記/内閣大乗院文書)に「鳥見荘 定田五十七丁七反小」とある。貞和3年2月日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)には添下郡の大乗院方荘園として「上鳥見庄 六町三反小」が記され、応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(同前)にも同様の記載がある。(略)
④ 上鳥見荘
 興福寺寺門領。
 応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に添下郡の寺門方荘園として「上鳥見荘 五町八段 同庄 <松林院方> 五町七段大五十歩 同庄内千本領 六段 同庄 <竹林寺> 三町一段半」とある。
⑤ 中鳥見荘 
 仁和寺御室門跡領・大乗院門跡(竜花樹院)領。三唐臼。三碓(みつがらす)ともいう。
 下地は仁和寺御室が知行していたが、鎌倉期に竜花樹院倶舎談義供衆料所として負所米が大乗院門跡に納入されるようになった。現在の奈良市三碓町付近にあたる。
⑥ 中鳥見荘 
 興福寺寺門領。
 応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に添下郡の寺門方荘園として「中鳥見荘 十八町」とある。
⑦ 下鳥見荘 
 西山荘ともいう。大乗院門跡領(菩提山正願院領)。当荘は菩提山正願寺領で、同院主職を兼帯する大乗院門跡が管掌した。
⑧ 下鳥見荘 
 鳥見荘ともいう。興福寺寺門領(興福寺西金堂領)。
 文治5年7月日付興福寺西金堂衆申状に「鳥見・矢田庄」とある(太上法皇受戒記/鎌遺400)。当荘は矢田荘とともに小野篁の開発にかかり、篁から寄進されて西金堂の一円所領となったと伝えられる。(略) 」
   (『角川地名大字辞典』29奈良県 1990.3.8刊)
http://neno1365.jimdo.com/%E5%9C%B0%E5%90%8D%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE-%E3%83%88%E3%83%9F-%E5%AF%8C%E9%9B%84%E5%B7%9D/%E8%A7%92%E5%B7%9D%E5%9C%B0%E5%90%8D%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E5%85%B8-%E9%B3%A5%E8%A6%8B/
 

■久米御縣神社(奈良県橿原市久米町)
祭神 高皇産霊命、大来目命
「社殿の前に「来目邑伝承地」の碑が立ち、この周辺が、大和での久米氏居住地であったことが分かる。「延喜式祝詞」の祈年祭・月次祭に「御縣に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布の御名をば白して、此の六つの御縣に生き出づる甘菜・辛菜を持ち参り来て、皇御孫(すめま)の命の長御膳の遠御膳と聞こし食すが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称え辞竟へ奉らくと宣ふ」とある、官幣に与った御縣神社のうちの一つと言いたい所だが、久米は貞観式(871年完成)の頃に追加されたらしいという。しかしやはり膳夫(かしわで)に関係していることは確かだ。

北に隣接する久米寺は、空海が塔の中で大日経を感得し、のち真言宗を開いたところから真言発祥の地とされている名刹で、真言宗御室派の別格本山である。開基に関しては、聖徳太子の弟の来目皇子(撃新羅将軍・登美真人祖)によるという説と、「今昔物語」の、川で洗濯する女の脛の白いのに目を奪われて墜落し、一瞬にして神通力を失ったという、オチャメな久米の仙人によるものとする二説ある。それにしても、またもや聖徳太子である。来目皇子が登美真人の祖というのも興味深い。登美は鳥見、阿倍氏の本拠地倉梯の近くであるし、大伴氏も居住していた。また、饒速日尊の腹心、登美長髄彦の本拠地でもある。聖徳太子は、海人系ということだろうか。」
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kume.htm
 
 

■登美真人とは?
■登美藤津 とみの-ふじつ
?-? 奈良-平安時代前期の官吏。
正月王(むつきのおう)の王子。登美直名(ただな)の父。はじめ藤津王とよばれ,延暦(えんりゃく)10年(791)臣籍に降下して登美真人の氏姓をさずかる。少納言,越前介(えちぜんのすけ),治部大輔(じぶのたいふ),兵部大輔,越中守などを歴任。
http://kotobank.jp/word/%E7%99%BB%E7%BE%8E%E8%97%A4%E6%B4%A5

■登美 直名(とみ の ただな、延暦11年(792年) - 仁寿3年6月10日(853年7月19日))
は、平安時代前期の貴族。姓は真人。用明天皇の後裔で、従五位下・登美藤津の子。官位は従五位下・豊後権守。弘仁13年(822年)主膳監正に任ぜられる。淳和朝では美濃大掾・近江大掾・大和介と地方官を歴任し、この間の天長4年(827年)に従五位下に叙爵している[1]。
承和2年(835年)大判事に転じたのち、承和9年(842年)散位頭、承和11年(844年)少納言と、仁明朝では京官を歴任する。承和12年(845年)直名自身が有力檀越であった法隆寺の僧侶・善から、寺財の不当売却とその利益押領を理由に訴えられる。弁官らの審理により当初遠流の判決を受けるが、承和13年(846年)には右少弁・伴善男の主張により訴訟は無効とされ、直名は無罪となった(善訴訟事件)。
 
直名は無罪となったもの、事件後間もない承和14年(847年)正月に大宰少弐として地方官に転任する。さらに嘉祥2年(849年)8月には豊後権守に転じ[2]、同年12月には直名が謀反したとして大宰府より朝廷に対して報告がなされている[3]。その後流罪となるが、嘉祥3年(850年)罪を赦され放免された[4]。
 
仁寿3年(853年)6月10日卒去。享年62。最終官位は前豊後権守従五位下。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BB%E7%BE%8E%E7%9B%B4%E5%90%8D
 
 

■善訴訟事件(ぜんがいそしょうじけん)とは、
「承和12年(845年)に法隆寺の僧侶・善 が、同寺の壇越である少納言登美直名を告訴した事件。翌承和13 ... この頃、法隆寺は 有力檀越で来目皇子(聖徳太子の弟)の子孫である登美真人氏の保護下にあった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E3%81%8C%E3%81%84%E8%A8%B4%E8%A8%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 
 
■登美真人氏は来目(久米)皇子の子孫
男子:日田王 - 子孫は登美真人
厩戸皇子の弟、久米皇子には日田王という子がいるが、その子孫が登美真人氏だとされる。
(中田憲信『皇胤志』(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986年 による)

■とみ地名には久米部が居住
「久米は貞観式(871年完成)の頃に追加されたらしい
 膳夫(かしわで)に関係している
 久米寺
 空海が塔の中で大日経を感得
 真言宗を開いた真言発祥の地
 真言宗御室派の別格本山
 聖徳太子の弟の来目皇子(撃新羅将軍・登美真人祖)によるという説と、「今昔物語」の久米の仙人によるものとする二説
 登美は 鳥見、阿倍氏の本拠地
 倉梯の近く
 大伴氏も居住
 登美長髄彦の本拠地
ー 久米御園(くめのみその) 七拳脛命の十三世孫
 壬申の乱(672年)の功臣 天武朝で宿禰の姓を賜った
ーー 地名には
 九州の久留米、
 沖縄の久米島 久米島(くめじま) 沖縄諸島に属する島 最も西に位置する島
 沖縄本島、西表島、石垣島、宮古島に 次いで 5番目に大きい」
http://d.hatena.ne.jp/naie/20130205/1360021280
 
 
 
 
■伊予・讃岐氏族の資財で空海・真言宗登場
■伊予・讃岐の久米の資財で大伴氏台頭
■法隆寺周辺のとみに久米が居住。法隆寺所領である北四国に久米と大伴
■伴部と久米部の互助関係
■とみ地名と「とべ」「とび」「とみ」のナガスネ彦と神武東征
■久米歌と神武東征
 
さて?どうつないでいきましょうか。
 
 
 
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感応とはなにか

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感応するとはなんでしょうか?
 
あるところに磁場があります。
 
そこは1万年経ったとしても気を感じさせます。
 
 
 
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何気ない風景・・・
 
けれど、この道の先には
 
実はわたしの祖母の祖先の墓地があります。
 
初めて来た場所なのに
 
わたしはそれを感じました。
 
 
あ、ここをわたしは知っていると感じたのです。
 
あとから
 
この場所の背後に
 
母方の墓があることを知りました。
 
 
 
亡き岳父は、祖母の消息知れずだった弟の突然の望みでその墓地を探しおそらくこの近くを菩提寺の和尚とともにさ迷っています。
 
ようやく見つけた祖母の先祖代々の由緒ある墓地は、この道の背後にある斜面の奥にあり、今はこの道につながる新道になっているのです。
 
 
 
 
 
感応する、そこがスポットであります。
 
 
 
 
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シャンピニオンでトマトのパスタを食べながら
 
ひしひしと感応するものがある。
 
ここへつれて来てくれた人は偶然にここにつれてきてくれただけですが、
 
おそらく何か往古のどこかでつながっているものがあるのだと思えます。
 
 
 
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彼とは、たとえこれで縁は切れたとしても、必ずなにかのえにしがあったはずです。
 
 
 
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彼は私と同じ高校を卒業した大先輩であります。それも偶然です。
 
 
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なぜえにしを感じたかと言えば、
 
この風景を共有したからです。
 
 
 
 
感応する場に偶然ともに行った。それこそはえにしでしょう。
 
 
そしてこのしだれ桜のすぐそばにも、わたしの祖先である古庄という名の家があり、そこには三本の、樹齢数百年のしだれ桜がたっていると聞きました。
 
 
弥生月末にしだれ桜は満開になる。そのときわたしはまたひとりでここを再訪するつもりです。
 
 
これも偶然ですが、わたしはかつて十数年前、この土地を何度も探訪しています。
 
 
 
 
氏族を探していると、まことに偶然にも、無関係だと想っていた人々が、実ははるかな昔に、わたしの血脈の一部だったりすることに気づきます。
 
 
ヒントと成る感応は、それまでに何度も何度もわたしの肩を叩いていたのに、
 
今日、やっとそれに気づいたのです。
 
 
やり過ごす時間にも無駄はひとつもない、そう知りました。
 
 
ここは紫草の里。
 
 
なぜ数年前にここに惹かれたのかようやく理解できたのでした。
 
 
わたしが彼の会社に面接にいき、知り合えたのは、ある種の導きだったようです。
 
 
 
偶然と感応が謎をかってにといてくれることもあります。
 
 
彼とわたしのえにしがこれで途切れたとしても、また別の誰かが、また別の感応を与えてくれるときがくるはずです。出会いとはそういう偶然の積み重ねです。
 
 
 
 
 
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お助け/人の書いた本を読むということは

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他人が感応した、覚醒できたあるヒントを客観的に眺める行為ではないか?そうたまに想う。
 
 
これまでここに、そういう、他者が感じた多くのヒントを、だらだらと書き連ねるブログ生活だった。けれどそれを組み合わせて、ぼくはぼくなりの別の視点を述べてきたつもりなので、それらは”本歌取り”ではあっても決して「受け売り」では終わらせなかったつもりである。
 
オリジナリティ・・たとえ少々変でも・・・それがない文章は「創作」ではない。世の中の物語や小説なども、作者だけの視点があるから作品であり得る。
 
これまでに「あなたのここはおかしい」と言うご意見もいただいたが、「ここがおかしい」ということほどオリジナルであると言われていると考え、ふふんと受け流してきた。
 
先の戦争のあと、戦後は急に左へ動いた。右がダメなら左だったわけである。それが次第に中庸へと徐々に移動して行ったのが戦後70年である。そういうふうに、万事がそうだった。文学史を習った人ならわかるだろうが、文学界も、右から左へ動き、一旦は共同体とか実存とかへ傾いた。それが再び、傾きすぎた試験管を修正するように、徐々に徐々に西欧型民主主義を日本人は体得してゆく。
 
そして70年が過ぎ、今、それとまったく同じように、跡を追うように、中国や朝鮮半島が出発した。それを体験していない日本の若者は、彼らあとから来た「弟」国家を馬鹿にするが、いいか、かつて日本も大差ない三等国だったのだ。
 
共産主義だろうが自由主義だろうが、これこそは正しいなどというイデオロギーなど、どこにもない。なぜって人類全部が常に過渡期を生きているのだから。
 
 
正直言って、古代史でも民俗学でも、あまりにも多くの論説・緒論が出尽くしてきた。それでもまだ邪馬台国の所在地ひとつ誰にも「絶対ここだ!」はない。そもそも人ひとりの、個人的いき方ですらなにひとつこれが唯一絶対などはありえない。
 
君の中でこれは正しいと想ったところで、誰もがそれに追随するわけもない。それが正しいのだ。それが生物の対立理念による進化の姿。
 
 
私自身はもう60に近づいて、自分で言うのもおこがましいが、人の数倍、先達たちの「他者がひらめいたヒント」を山ほど読んできた。だから疲れる。だから脳みそも拘束されて脳梗塞にもなった。頭髪は白髪三千丈となり、知識は無駄にふえて、引き出しが山ほどでき、堂々巡りして、かえって多すぎる引き出しに悩む毎日。
 
助けてくれたのは着想だけだった。オリジナルであろうと心がけてきた。つらい。体も脳もきしむようになった。文字がゆがむほどに心も脳みそも歪み始めている。
素直だったハートは、私を重圧してくる経験と、知らなくてもいい知識とですでに破壊されかけている。
 
 
もう知らなくてもいい。
 
学歴にこだわらないでやってきた職人のように、ただひとつことだけ考えていれば、脳みそは開放される。なぜこんなに順応・馴致から自分は遠ざかるのだろう。知ることがなぜ、ある年齢から私の楽な生き方を邪魔するのか?
 
 
感じるだけではなぜいけないのか?
 
なぜ客観でなければぼくは生きていけないのか?なぜあえてそんなつらい道を選んだのか?
 
 
開放はいつ訪れるのか?
 
春!!
 
 
わたしの救われない貪欲を押しとどめ、一瞬の開放を与える桜。
 
 
今はもう、ただただそれだけが待ち遠しい。
 
 
疲れた、ああ、疲れた。
 
 
分析なんか、今日はいらない。
 
 
 
 
 
 
選べるなら早く
 
 
 
 
風になり桜のはなびらをそよがせていたい。
 
 
 
 
 
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もう小さな脳みそがぱんぱん。これがもう極限。
 
 
 
もう許しておくれ。
もう欲しがらない。
あとは野となれ山となれ。
静かに、満開の桜の下で眠りたい。
 
 
来訪神の悩ましい生き方とおさらばしたい。心を開放させたい。
 
体中が、脳みそじゅうがきしむ。
 
眠れない。生きていることが苦痛でしかない。
 
 
 
  うかりける ひとをはつせのやまおろし はげしかれとはいのらぬものを
 
 
 
 
優しい男にはなかなかなれない。
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1
 
 
 

宮城十二門号氏族・大伴・佐伯・多治比と法隆寺と四国の登美・久米

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■宮城十二門号氏族
世界大百科事典 第2版 宮城十二門の用語解説 -
「 日本古代の宮城の最外郭を囲む 宮城垣に開く門。大宝令では外門という。4面各3門ずつの計12門あるので,宮城十二 門と通称する。ただし平安宮での宮城門は東・西面に上東門,上西門も加えられ14門である。」
 
 
天皇の住まいでもある大内裏(宮城)の外郭を囲む壁に設けられた「門」のことを一般に禁門と言い、『養老令』では「宮城門」と呼ぶと定められ、南北に各三門、東西に各四門あって東西の最も北側に設置された二つの「通用門」を除いた十二の門を古くから総称して「宮城十二門」と呼び習わした。
 
各門に置かれた氏族を「門部 かどべ」と総称し、それぞれ、
 
丹比 山部 健部 的 壬生 大伴 若犬養 玉手 佐伯 伊福部 海犬養 猪養
らの部がこの守護に当たった。
 
この部を掌握する氏のうち、瀬戸内に領地を持った氏族は丹比(多治比、たじひ)氏、佐伯氏、大伴首(おびと)氏、犬養氏、的臣氏、山部連氏らであるが、法隆寺庄が集中した北四国では、伊予国において山部連氏の祖である久米直氏が久米郡に、及び同族の浮穴直氏が浮穴(うけな)郡に集中的に蟠踞(ばんきょ)していた。
 
またこれらの道前平野氏族と隣接して道後平野には大伴氏同族である佐伯氏や多治比氏が周敷郡・桑村郡におり、ともに同族関係にあって12門門部である大伴首氏の管理者であった大伴氏は伊予国に多大な影響力を持ちえていたようである。(松原2013)
 
また讃岐国でも、大伴部が鵜足郡と多度郡に分布し、空海を輩出する多度郡郡領・佐伯直氏と密接に関与。一方、法隆寺久米周辺に久米部が蟠踞し、壇越(だんえつ、檀家)として登美真人氏を推挙したとも見られ、大伴、伴氏は法隆寺の播磨国揖保郡水田司として影響力があった。
 
のちに法隆寺内部において壇越として寺財物などを勝手に処理するにいたったときに、伴善男や伴(良田連)宗(とものよしだのむらじ・むね)がこれを制裁している。
 
 


 
 
文献に見える久米郷及び久米部・氏のいた場所
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駿河国磐田郡久米郷
常陸国久慈郡久米郷
上総国夷隅郡(「いすみ」「いずみ」「えずみ」は蝦夷が住む場所=江角である)に 久米部。現在の和泉市・勝浦市。和泉=夷住であるか?ゆえにわざわざ和をつけ るか?えみし俘囚が入れられた地名か?
伊勢国員弁郡久米郷遠江・多気郡・飯野郡・桑名郡にもそれぞれ久米 
大和国高市郡久米郷 久米御縣神社
摂津国難波来目邑遠里小野
紀伊国紀崗前来目連  和歌山市岡崎
阿波国名方郡国府 伊予国喜多郡久米庄(久味国造久米直裔)からの移住者
伊予国久米郡 喜多郡久米郷 伊予豆比古神社
伯耆国久米郡久米郷 倭文(しづり)神社 鳥取県倉吉市志津  
伯耆国川村郡、因幡国高草に倭文社、静社
美作国久米郡久米郷 倭文神社 
周防国都濃郡久米郷・那珂郡に久米直
筑前国志麻郡久米郷
肥前国球磨郡久米郷
 

 
現代の久米地名所在地は多数あり、また「来目」「粂」表記も。
氏姓で多いのは徳島県と東海・北関東茨城県。
琉球島尻地域に久米島。
久米川 - 埼玉県・東京都を流れる柳瀬川の別名
 
 
 


 
登美
 
「とみ」は古くは「とべ」で女の巫首長のこと。女酋とも。
 
とべ→とみ→とび→とば
表記は「鳥見」「登美」「富」「鳶」「跡見」「迹見」
鳥飼とりがい部であったのが鳥部となり、「とりべ」から「とべ」へ変化したゆえに「鳥貝」も「鳥見」の「見」が誤記されて「貝」に。また「飼い」の音。
どれもが「とみ」である。
 
 
「とみ(び)のながすねひこ」
 
 
ナガスネ彦(鳥見長髄彦・鳶の長脛日子)
『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征で、抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。
ニギハヤヒの舅。
登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる。 中世、戦国の武将山形の織田家(後に織田信長を輩出)や仙台の伊達家が長髄彦の子孫であると言われている。 神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。
 
登美は戸辺、戸畔で巫女王を意味する。
従って大和先住民の王としては、実はナガスネ彦よりも妹のミカシキヤ姫の方が王と捉えられ、重要かもしれない。
 
「かしきや」とは「かしき」=かしぎ=炊飯=神の神饌を用意する斎王と解釈でき、推古天皇も「とよ・みけ・かしぎやひめ」である。つまり巫女の中にある「玉より」部分と「食膳係り」の部分のうち後者の場合は人、前者は神になっていることが多い。
 
とみ地名は大和に数箇所あり、それはすでに資料で記述した。
 
その「とみ」をなにゆえに久米皇子の子孫が名乗るか?
 
久米命は黥利目(さける とめ・入墨をした目)であったとあり、いれずみをする海人族の祖であった。「くめ」を「く女」と受け取れば、久米族の族長はもとは巫女王だった可能性がある。海人族の刺青は魔よけである。それは海中に没して魚介類を採集する行為が、一年の最初の儀式であり、また忌みごとが明けてすぐに、水没する採集を行うからでもある。この魏志も記録した倭人だけの海中水没行為こそは、のちの斎戒沐浴=禊の最初で、海人族すべてがそうしてきたのであろう。それが宮中でも取り入れられたのは、久米氏が神武以来、常に宮中で天皇の側近、めのとであったことと深く関わる。久米族の古い習慣が、宮中でも禊として取り入れられたと考えたい。
 
つまり久米は大王・天皇にとって非常に近い氏族だった。聖徳太子の弟・久米皇子が久米を名乗ったのもそういう理由で、久米氏を乳母としたためでもあるし、そこから登美直氏が登場するのも、おそらく登美=久米のいた地名であろう。
 
すると登美の名を持つナガスネ彦=久米か?となってくる。
 
 
おそらく宮中天皇になる系譜には、この久米由来の南海の海人系王があったのではないか?それは厩戸と久米の親である蘇我氏との関係を強く匂わせている。
 
蘇我は葛城系譜から登場するが、葛城氏は尾張氏などと同様に、南九州海人族だったと思える。厩戸と久米の母親の「穴穂部」の名は、石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)で養育されたことに由来すると考えられている蘇我稲目の娘・小姉君の娘である。石神も「磯の神」であるとすでに分析してある。いずれも海に関わる名前である。
 
久米島の存在、あるいは次に書く宮崎県西都市の持田古墳群から出たとされる盤龍鏡のつながりがどうも気にかかる。
 
九頭竜川沿線からもこの鏡は出ており、全国に二枚しかない。
 
 
 
西都原古墳群も持田古墳群もある意味、久米部に関わる氏族である可能性がある?
 
 
 
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たった二枚の景初四年銘斜縁盤龍鏡

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●景初四年銘(西暦240年なお景初四年は実際にはなし)
 6、 京都府福知山市東羽合・広峯15号墳(前方後円・4C後半)・斜縁盤龍鏡
 7、 宮崎県西都市高鍋町・伝・持田古墳群(不明・4~6C)・斜縁盤龍鏡
 
 
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日本海側と太平洋側、ほとんど西日本の対角線に位置する最遠隔の土地にこの紀年を間違った鏡が二枚だけ存在する。誰が、何のために?当然、双方の氏族間に類縁関係があったからだろう。船で海を運んだのと、海路途中の中継地点には類縁の氏族がなかったからかほかの土地にまったく出土していない。ただし、紀年のないこの鏡は徳島県で出ている。ではそれは誰なのか?

 
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斜縁盤龍鏡そのものは日本で多く出土している。後漢晩期(85~220)の銅鏡である。そして銘文は島根県大原郡加茂町大字神原 神原神社古墳出土の景初三年銘三角縁神獣鏡(正確には三角縁三神三獣鏡か?)とほとんど同じゆえに、同じ場所で作られたのではないかと考えられている。しかし魏年号の入ったものは二枚だけである。では斜縁盤龍鏡そのものの氏族関係は?
 

 「斜縁神獣鏡という鏡式を確立したのは樋口隆康である(樋口 1979)。樋口は後漢鏡の一鏡
式として斜縁二神二獣鏡をあげ、「内区の主文は四乳の間に二神二獣を配したもので二神は
それぞれ侍仙をともなっている。銘帯があって外区は複波鋸歯文帯からなっている」と定義
した。この樋口による鏡式設定により、その後の詳細な研究が可能になったと言える。
 
このようにして斜縁神獣鏡という鏡式が認識されるに至ったが、その年代は後漢鏡という
漠然とした範疇でしか捉えられていなかった(3)。
 
これに検討を加えたのが岡村秀典である。
岡村は斜縁神獣鏡を、彼の言う漢鏡7期(岡村 1993b)の第3段階の鏡であり、3世紀前半
代の製作であるとした(岡村 1989、1990、1999)。彼は、斜縁神獣鏡には「上方作系浮彫式獣帯鏡や画像鏡と共通する文様があること、斜縁神獣鏡の銘文 「 師命長 」 の 「 師 」 は晋室の
祖司馬師の諱で、晋代にはその字を避けていたこと、楽浪の貞梧洞八号木槨墓では漢鏡6期の内行花文鏡とともに出土していることから、三角縁神獣鏡に先行する三世紀前半の年代が想定できる」とした(4)(岡村 1999)。後に岡村は、安満宮山古墳での共伴関係を重視してその年代観を若干訂正し、3世紀前半代の中でも漢鏡7期からは時期を下げて魏鏡に含まれ
るとした(岡村 2001、2005)。」
 
 
その分布
福知山市広峰1号墳 (古墳時代前期) 前方後円墳
徳島県天河別神社古墳群4号墳と5号墳(古墳前期前葉?) 円墳?墳形不明
西都市持田古墳群に伝世 (4~6世紀) 墳形不明
 
いずれも古墳時代前期で共通する。
 
斜縁神獣鏡の銘文「 師命長 」 の 「 師 」 は晋室の祖司馬師の諱であるとされる。
 
 
するとこの鏡は魏というよりも晋の時代になって作られたか?
 
福知山市に近い京都府京丹後市(旧弥栄町と旧峰山町 にまたがる)太田南5号墳からは青龍年号の紀年鏡が出ている。この両者に関係は?
 
今のところどこにも紀氏木部や久米部の痕跡はない。
 
 
 
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ら斜縁神獣鏡が出土している(秋山 1976)。
 
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