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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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三角縁であることと神獣鏡はなんの因果関係もない

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三角縁神獣鏡と言うとなにかと
 
「卑弥呼の鏡か?」
 
となる風潮だが、
 
こと神獣鏡に関する限り三角縁である必要は関係ない。
 
三角縁に倭国内でなっていくのは、
 
鏡を大きくしたからだけの理由である。
 
大きくなると金属化鉱物はひずみが生じる。鋳造中に割れてしまう。だから強度な縁をそえたに過ぎまい。
 
神獣のデザインは卑弥呼の鬼道にみあったデザインだ。
 
 
3世紀初頭から中旬にかけ、倭は三国の争いの前は、北魏とつきあっていたのは間違いなく、そこから神仙思想を取り込んでいた。
その神仙思想とは中国南部の呉越の思想である。だから北朝復活を目指す魏の思想ではない。
ところが三国志最後に魏が勝ち、北魏を滅ぼす。
しかたなく卑弥呼たちは魏に朝貢したのである。
 
だが卑弥呼が欲した「好物」である神仙思想の神獣鏡は魏の客観思想には不向きで、どうしても滅ぼした呉から古い漢鏡を取寄せねばならなかった。そこで、足りない分は呉人工人を俘囚にして倭国へ送り込み、好みに合った神獣模様を作らせたのであろう。すると工人によってデザインに微妙な違いが生じたはずである。陳氏と張氏での違いに、倭国の好みが入り込み、中国にはない神獣鏡ができあがる。
 
 
三角縁神獣鏡というくくりの言葉は今後必要ないと言える。それは誤解を招くだけである。重要なのは三角の縁ではなく、神獣という神仙思想の道教的デザインだけなのだ。これをなるほどと思えないようなやからはもう古代史から去れといわねば成らない。つまり歴史をやるには基礎学力が足りないのだ。
 
 
理屈がわからない、そういう人は学問すべきでない人。
 
 
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南至邪馬臺國、水行十日陸行一月の解明と倭とはどの倭か?

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『三国志』「魏書」東夷伝倭人条「南至邪馬臺國、水行十日陸行一月」記事
 
倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市糴
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
東南至奴國百里 官曰兕馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸
 
南至邪馬壹國 女王之所都
水行十日陸行一月
 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
 
続いて全道程距離数記事
 
次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國 此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
 
 


 
 
■邪馬台国の魏朝貢直前の東アジア・公孫氏燕国と倭国と魏
 
概略
1漢の末期に公孫氏は遼東地域の濊・韓の討伐を命ぜられた。
 
2公孫氏は濊を滅ぼした後、韓・倭を属國とした。
 
3やがてこの影響で漢がもろくも滅び、魏・呉・蜀の三国時代になると、混乱に乗じて半ば独立国家として振舞うようになった。
 
4その後、公孫淵は魏と通じつつ密かに呉とも通じるなど、巧みな外交を見せる。この経緯から233年、呉から「燕王」に任じられた。しかし、心変わりして呉の使者を殺害し、その首を魏に差し出した。この功績により、大司馬・楽浪公に任じられている。この頃から倭の日本海側丹後・出雲・古志などは公孫氏燕国と交流し、やがて3世紀後半には近畿地方も日本海ルートでの交通を燕を通じて開始した。その証拠となるのは天理市東大寺山古墳出土の中平年号入り鉄剣である。
 
5「遼隧の戦い」しかし、こうした公孫淵の二枚舌外交は、魏の強硬路線を招いた。 景初元年(237年)、毌丘倹は曹叡の名で公孫淵に出頭命令を出した。しかし公孫淵は従わずに迎撃の構えを見せ、一戦に及んだ毌丘倹を撃退した。この結果、公孫淵はついに自立を宣言し、燕王を称した。賈範・綸直らがこれを諫めたが、聞かずに処刑した。また文武百官を置き、年号を紹漢元年とした。領土は帯方郡と楽浪郡であった。翌2年(238年)、魏は司馬懿に命じてこれを討たせた。
 
6このため公孫淵は呉に援軍を求めた。呉は前述の恨みから、嫌味を書いた書簡を送り返したが、それでも魏への牽制には役立つとみて、援軍を差し向ける。また、公孫淵は鮮卑の族長を単于に任じ、味方に取り込もうともした。しかし呉の援軍が間に合わず、止むを得ず単独で戦うも魏軍に大敗、籠城するも遂に降伏した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AD%AB%E6%B7%B5
 
 
 


 
 
■倭人字磚と曹操一族の2世紀からの付き合い

これに先立つ2世紀に倭人と魏の交流していた痕跡が曹操宗族墓から出た倭人字磚である。

■曹操出生地で見つかった磚に「倭人」の文字
「安徽省亳県(あんきしょう・はくけん)所在の曹操宗族墓群の中の「元宝坑村一号墓」から、多量の字磚が出土したが、その中の一枚に倭人という字を含む文章があった。この「元宝坑村一号墓」は一族の曹胤(そういん)の墓と言われ、築造年代は後漢の建寧年間(168~172年)であることが分かっている。
 
「倭人有り。時を以って盟することあるや否や」
 
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(注)盟する・・・同盟・連盟の盟であり、「盟する」とは「互いに神前において誓約して、よしみを結ぶ」ことである。後漢書で述べるが、建寧年間を含む「桓帝と霊帝の統治期間(147~189)には倭国において「乱れ(大乱)」が生じ、その結果、女王ヒミコが邪馬台国の王となって収まったのだった。
 「倭人有り」の倭人はその頃の倭人で、この文が果たして、倭国の混乱した状況を受けて作られたものなのか、それとも列島の倭国の状況とは無関係の、大陸における倭人の活動の一端を表した物なのか、どちらとも言い難い。
 ただ、倭人が2世紀の半ば頃に確かに大陸のそこ(安徽省亳県)に居て、後漢人(といってもやがて魏を建国するのだが)と同盟を結ぼうかと言えるような立場にあったことだけは史実と見てよい。」http://kamodoku.dee.cc/siki-ronkou-jisen.html
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/52380542.html
 
 


 
 
公孫氏燕と倭が通行していた時代が3世紀前期~中期、その後倭は燕を滅ぼした魏へ急展開で近づく。それが邪馬台国の女王卑弥呼であると魏志は書いた。そのルートは帯方郡を経て、ここで一旦とどまって朝貢許可を得るという段階的なものである。このルートを魏志は間逆に使って倭国へ使者を送ってきたと考えてよいだろう。ということは倭国側も魏志にある壱岐対馬ルートで帯方郡に入ったのだ。となるとつまり倭国とは筑紫であって、それより東の国ではありないこととなるまいか?
 
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倭人伝は帯方郡から女王国の都までの全工程距離を万二千里であると書いている。この距離はほぼ、倭人伝道程距離数を足した距離数に合致している。
 
では問題の水行十日陸行一月も、当然、帯方郡から邪馬台国までの全距離の合計と筆者は見るのである。すると邪馬台国は不弥国からさほど離れない場所=豊地域ではないかという仮説が成立できるので、今度は豊と中継地である吉備との関係を見ると、宇佐は吉備の大元という宇佐氏伝承に行き当たることとなる。
 
すなわち筑紫か大和かといった二元的手法ではなく、豊・吉備・北四国・畿内・近江・紀伊・伊勢・尾張・東海そして日本海側出雲・丹後・若狭・古志とつなぐことができるのちの古墳時代(4~5世紀)の海部(紀氏・久米氏ら)の海運コース、及び遺物としての神獣鏡の模様の類似がこれに酷似しているのである。これは偶然だろうか?
 
文献では応神天皇の四世紀前後に、新羅から帰ってきた神功皇后と応神の大和入りを淀川で阻止する腹違いの子・忍熊・香坂王の乱として記紀が書きとめている。ちょうど卑弥呼死後、臺與を担ぎ出す前の倭国再び乱れる時代にここがこ合致する。

これは大和旧勢力と応神とのせめぎあいで、それぞれに従った在地勢力が、その後の5世紀以後のうちつおみとしての力を持ちえた文献事実に実にうまくつながる。海部ひとつをとっても久米~紀氏~安曇へと変化して行く流れにみあうのである。
 
 
魏と付き合い始めたその倭とははたして日本列島のどこの倭人かである。
倭人だけなら九州にも日本海にも近畿地方にも、まして半島の南部から東北にまでいておかしくない。
 
 
卑弥呼の「鬼道」は公孫氏から直接受け継がれた神仙思想で、その大元は呉越のものである。その絵柄として神獣鏡が存在する。多種多様の鏡である。それを魏がくれたわけである。「汝の好物を」とあえて書いてある。わざわざ見つけてきてという意味である。つまり魏がやぶった呉から取り寄せた、それはいろんな種類の神仙思想の絵柄の鏡のアソートであろう。決して一種類に限定できたはずはない。だから三角縁だとかではなく、絵柄が重要なのである。神獣鏡の、それも倭で作られたものでなく呉にあったものつまり漢時代からの鏡である。ところがそれが最も古く出てくるのは筑前の玄界灘沿岸地域の伊都国近くの遺跡・王墓からなのである。
 
 
邪馬台国は筑紫玄界灘方面から南下し豊前宇佐を経て、瀬戸内海を吉備まで移動したはずである。そこから改めて難波から淀川を経て近江へ入り、そこからまた南下して山城経由で大和盆地に入るのであろう。あるいは紀ノ川、大和川経由である。
 
だから2世紀の唐古・鍵、3世紀の纏向からまず祭祀に使われた吉備型の円筒埴輪が出る。その絵柄が弧文である。弧文の大元はゴホウラガイの貝輪の組み合わせである。それはやはり最古はどうしても筑紫西部地域の弥生遺跡から出てくるのである。これが畿内で直弧文になり、海部がこれを九州に逆に持ち込む。なぜならその直弧文とは弧文に×をして寸断してあって、アンチ弧文=アンチ再生の絵柄だからである。その直弧文は大和がへこませて送り込んでくる=左遷=中央国司の墓に貼り付けられているからである。つまり在地海人族たちは中央からきた吉備系氏族に対して蘇らぬようにしたのである。なぜか?それはいやだったからではなく、正反対に追悼したのである。もう差別を受ける大和に戻らなくてもいいように。
 
 
さて装飾古墳を筑紫国造家は持たなかった。海人族の太陽信仰の絵柄である装飾を持っておらず、かわりに塞の神としての石人を持つ。
 
そしてその同盟国は文献は火と豊を巻き込むと書いたが、それはなぜか非常に離れた場所、豊国ならば太平洋側の臼杵の古墳に石人があって装飾がここもない。火国で石人を持った古墳など皆無である。このあたりはまた別に解明してみたい。
 
 
 
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宇治川決戦・忍熊VS応神 その協力氏族の分析・つまり邪馬台国狗奴国氏族の類推は可能

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忍熊王の反乱(宇治川決戦)概要
 
息長帯比賣命は朝鮮半島遠征を終えて、
筑紫の宇美にもどり品陀和気命(応神帝)を無事出産した。
その後大和へ凱旋しようとするが、大和では仲哀帝のもう一人の妃である大中津比賣命所生の皇子香坂王、忍熊王兄弟が阻止しようと待ち構えている。
 
斗賀野(兵庫県武庫郡辺り)で戦いの行方を占うために誓約狩をした兄の香坂王は猪に襲われて死んでしまう。弟の忍熊王は難波吉師部の祖伊佐比宿禰を、息長帯比賣側はワニ臣の祖難波根子建振熊命をそれぞれ将軍として戦った。
 
戦いは山代あたりで一進一退となった。
建振熊命は、「息長帯比賣はすでに崩御してしまった。もう戦う理由はない。」と伊佐比宿禰に呼びかけて自軍の武装を解除した。伊佐比宿禰も武装解除に応じた。
 
忍熊王軍の武装解除を見届けた建振熊命軍は隠し持った武器をとりだし突如攻撃を仕掛けて忍熊王軍を滅ぼしてしまった。
 
ヤマトタケル以来大和朝廷伝統のだまし討ちをここでも行ったわけである。
敗走した忍熊王と伊佐比宿禰は逃げきれずに琵琶湖に沈んだ。」
 
 
 


 
 
忍熊王はヤマトタケルの子の仲哀天皇の子。応神とは腹違い(母 は彦人大兄の女・大中姫(おおなかつひめ、大中比売命)。景行天皇の孫娘)というシチュエーションになっているが、これは新羅血脈(実際は伽耶系葛城倭人王権)で九州で生まれた四世紀前半の王権(河内王朝)がヤマト(三輪王朝)を乗っ取るお話である。
 
2~3世紀の設定になる崇神~景行~ヤマトタケル~仲哀の三輪桜井市王権がここで断絶したことを言っている証拠場面。だから神功皇后は臺與(イヨ・トヨ)かとなるわけ。
 
これを魏志に当てはめるなら、3世紀後半の卑弥呼の死後、臺與が立てられるまでの「倭国再び乱れる」の時代に合うだろうか。
 
時代的には4世紀前半だろうからちょうどよい。
 
 
森浩一は「とがの・菟餓野」の場所をかつての大阪湾の海の底だった今の大阪市北区兎我野とみている。ここで忍熊王たちは誓約狩(うけいがり・祈狩)をして神宮皇后らを待ち受ける。これは狩りによって勝敗を占う「狩占 かりうら」である。
 
菟賀野は上町台地の最北端で、今の神戸市垂水区に対面していた。狭い瀬戸になっている。住之江の海(茅沼の海・ちぬのうみ)に入るにはここを通るしかない。
 
中村修は記紀記述から応神側と忍熊側のそれぞれに協力した勢力を書き出している。
 
 
忍熊王側
奈良市忍熊町             忍熊王
京都市山城紀伊郡           葛野城首かずのの・きの・おびと
大阪府吹田市岸部~茨木市吉志部山   摂津吉志五十狭茅宿禰・熊之凝
大阪市住之江             住吉氏
大阪市北区兎我野~神戸市灘区都賀野  ?
赤石=明石、淡路島
菟道=宇治市
滋賀県犬上郡(琵琶湖東岸)       犬上の倉見別・建部の祖?ヤマトタケル子孫
および東国
 
敗走地
滋賀県大津市逢坂
大津市膳所栗林(くるす)
大津市瀬田
 
 
 
 
応神側
大阪府羽曳野市誉田          応神天皇誉田別命
奈良県葛城              葛城高額姫・葛城氏
奈良県五條市今井町宇智(うち)     武内宿禰
奈良市・京都府宇治市木幡       和邇臣氏
京都府山城              息長氏・紀氏?
兵庫県尼崎市             務古むこ
兵庫県西宮市             広田国
神戸市中央区             活田長峡いくたのながお国
神戸市長田区             長田国
神戸市東灘区住吉又は大阪市住吉    大津渟中倉長峡ぬなくらながお
和歌山県               紀伊水門、日高、小竹宮しののみや
 
データは若干編集追加してある。
 
氏族で割り出せば忍熊側が琵琶湖東部の犬上、紀伊郡の葛野の紀首、摂津の難波吉師、住江の住吉、東国の尾張海人族となるが、この中で琵琶湖東岸の犬上氏というのは古墳の連続的造営=息長系であることから見て一見矛盾するように見える。
 
 
応神側には和邇、息長、葛城、紀氏などがついた。これはあくまでも近畿圏で応神についたものであり、それ以前から応神に同行していたのは武内宿禰の葛城系氏族と神功の息長系であるから、在地でヤマト忍熊側を裏切るのは和邇だけとなる。
 
地域的には、
忍熊側は主として桂川・宇治川・琵琶湖東岸、東国
応神側は河内、紀伊、葛城
真ん中の奈良盆地北部、木津川、摂津淀川は重なって、まだらに加担している。
 
つまり畿内はどちらにつくかばらばらでまとまっていないことになる。
これこそが倭国内の乱れた状態を示す。それは東アジアの政治的構図をそのまま反映していることになるだろう。燕についていた畿内が、魏につくか呉につくか・・・といった国際状況をそのまま代理戦争にしたのが宇治川決戦だったと言えるのである。
 
 
 
面白いのは、この段階で神功皇后の父方・息長氏は山城にいて琵琶湖東部にはおらず犬上氏がいてなぜか神功・応神側でなく忍熊側に加担(あり得ない)、京都府南部の紀伊郡には紀氏と葛城氏が同居していることである。さらにもし邪馬台国がヤマトにあったなら当然、応神に加担したはずの吉備の名前が出てこない。さらに筑紫王権も出てこないし、丹後も。ここが奇妙ではある。
 
またこのいくさに勝利した応神は、この直後に武内宿禰の居城である福井県の敦賀(角賀)の気比で気比大神と名前を交換して、王権樹立を宣言している。いわゆる「神名の交換」がこれである。日本海海人族を完全掌握し、ヤマト側唯一の外交ルートだった琵琶湖~日本海~新羅ルートを奪ったという宣言である。これで三輪旧王家は外交ルートと港を失い、完全に王権は転覆したことになる。しかもこのエピソードはのちに継体大王がここから登場することも正当化してあり、応神がいかに母方である息長氏を重視したかがわかる。
 
要するに息長氏は琵琶湖東部に落ち着くまでは日本海古志・気比の王統だったわけであり、鏡の同笵鏡関係から言うと、日向~薩摩を出自とする南九州の王であることが見えてくるのである。その宇智の系譜から紀氏・葛城氏が出るのである。
 
だから記録にはないが応神には南・北の九州海人族や九頭竜川三尾氏らも加わっていたと見る。以前紀氏と久米の分布や神獣鏡などの分布図を添付しているが、それらの分布が双方の勢力のいた地域に出ており、同じ地域でもふたつに分かれていた痕跡がある。
 
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やはりどらについた豪族も
 
1 日本海気比~九頭竜川~琵琶湖東岸
2 播磨・淀川~琵琶湖東岸・木津川山城
3 紀ノ川流域~葛城
4 東国尾張~上野
 
そして応神には最初から筑紫・豊・吉備・北四国勢力(のちの海部)がついていたと思われる。
 
このことから充分に、邪馬台国・狗奴国の対立とその氏族は想定可能だと考える。
 
いずれにせよこの四世紀にヤマトが邪馬台国か狗奴国か知らないが勝者となった。
ここから大和朝廷への道ははじめて始まる。
 
それ以前に全国を制覇していたヤマト王権はまだ成立していないのである。
 
 
 
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敗者の古代史/記紀の中の戦争・反乱記事はヒントになる

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森浩一『敗者の古代史』では、記紀にある古代の戦争や反乱から、敗者がどのようなその後をたどり、それが古代史の多くの謎を解く鍵になることが明確に例証してある。
 
 
 
 
 
 
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タイトルをあげておこう。
 
1 饒速日命と長髄彦 にぎはやひとながすねひこ
2 タケハニヤス王とミマキイリ彦の戦争 前編
3        〃          後編
4 狭穂姫と狭穂彦 さほひめとさほひこ
5 熊襲の八十梟帥と日本武 くまそのやそたけるとやまとたける
6 劔御子としての忍熊王  つるぎのみことしてのおしくまのみこ
7 菟道稚郎子と大山守   うじのわきのいらつことおおやまもり
8 飛騨の両面宿儺     ひだのりょうめんすくな 
9 墨江中王と曽婆訶理   すみのえのなかつのみことそばかり
10大日下王と押木珠縵   おおくさかのみことおしきのたまかづら
11市辺忍齒別王と皇子たち いちべのおしはわけおうとみこたち
12筑紫君磐井       つくしのきみのいわい
13物部守屋大連      もののべのおおむらじもりや
14崇峻天皇と蜂子皇子       はちこのみこ
15山背大兄王と一族の死  やましろおおえのおう 
16蘇我氏四代
17有間皇子と塩屋連鯯魚  ありまのみことしおやのむらじこのしろ
18大津皇子と高市皇子の運命(壬申の乱)  おおつとたけち
19大友皇子の死とその墓
 
 
古代これだけの反乱やいくさやクーデターがあったと記紀は正直に書いている。
ないのは継体大王の死と安閑・宣化の突然死くらいであろうか。これは『百済本紀』が短く書いている。もちろん白村江の敗北もちゃんと書かれてある。不名誉なことがらでも書いてあることになる。
 
『旧事紀』や『続日本紀』や風土記や中国正史にも同じような記事がある場合、それは史実と判断できる。
 
 
そしてこの中で、筆者はこれまでにわずかに
ニギハヤヒ、物部守屋、筑紫君磐井の乱、山背大兄、蘇我氏乙巳の変、壬申の乱、両面宿儺、そして昨日やっと忍熊王の反乱を書いただけである。ほかのいくさにあまり興味を持ってこなかった。しかし今後はタケハニヤス彦から始めていく必要があるだろう。
 
それらの記紀の伝承が果たして事実かどうかも含めて、考古学的にそのいくさが検証でき、さらに結果的に謎の四世紀や3世紀の謎につなぐことができる資料かどうかを検証していかねばならない。
 
 
古代史ファンの中には、はなっから記紀も続日本紀も万葉集さえも、文献すべてをうそとして、読まないで済ます人もたくさんいる。しかし考古学者からの再検証では、記紀の雄略以後はだいたい正確とする意見もあり、神話や蘇我氏や聖徳太子や天武部分の潤色のほかは、発掘と合致する場合も多いことがわかってきた。考古学と文献をかみ合わせようとすることを、これまでは否定的に捉えてきたが、これだけ考古遺物が増えてくると、かなりそれらを裏付けている遺物や遺跡があらわになってきた。
 
 
読み飛ばしてきた部分に多くのヒントがありそうである。
 
 
まだまだ遣り残していることは山ほどあると、故人である森先生に教わったことであった。
 
 
とりあえずは、応神・忍熊戦争の前の崇神時代まで遡るべきだろう。それは1,5~2世紀をもっと知ることになる。
 
 
 
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現代に継承された縄文技術

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現代に伝承された縄文技術
 
■クリ山の価値
●中世には栗山は付加価値絶大
網野善彦「中世荘園の財産目録で栗林はほかの山とは別評価されていた」
栗は実もさることながら縄文時代から中世を通じて材木として高評価されていた。栗山さんは大地主だったのである。今ならさしずめマツタケ山を持っているようなものだろう。
 
●三内丸山の「縄文栗」栽培
「農耕の起源は、栗?今から訳5500年前から4000年くらい前まで。(縄文中期) 縄文時代で、栗で有名なのが 青森県三内丸山遺跡です。日本最大級の縄文集落跡。 三内丸山遺跡からたくさんの栗の柱と大粒の栗が出土した。
三内丸山遺跡では、栗の巨木を柱に使った建造物があり、遺跡の周辺の森は大半が栗の林だったことがわかっています。三内丸山遺跡は 栗とともに栄えた 定住型都市型社会だったようです。
 
 
栗が栽培されていたと言う根拠。
その1 静岡大学農学部教授佐藤洋一郎氏のDNA分析により 野生種では見られないDNAパーターンの一致があった。
 
その2 現在の山を見ても、山栗が自然に林をつっくているところは無い。生態学的に見ると栗は弱者なので、自然に栗の純林ができるということはないので、人為的に育てられた林と考えられると言う。
 
その3 山にある芝栗は実生栗で実生栗から大粒の栗は取れない。現在は 接木で 良種を選抜し栗畑を作っています。大粒の栗が出土したことから ひょっとしたら 接木の技術をもっていたかも。
 
その4 1500年もの間 栗林があったこと。
長い間栗を栽培していれば 土地はやせてしまう。
肥料をあたえなければ長期間栗林を維持することは無理。
 
 現在のところ、三内丸山遺跡の栗栽培は プレ農耕と言う位置づけになっているようです。
 研究が進めば いつか 農耕の起源は栗  と言うことになるかも知れません。
 現在、青森では ほとんど栗を栽培していませんが 当時は 現在より平均気温が約2℃高いため 現在の茨城のような気候だったと思われ 盛んに栗を栽培していたようです。」
http://www.kurihiko.com/kuri0/kurittenanda/nihonnnobunka/nihonnobunka1.html
 
 
●押出(おんだし)遺跡の勝ち繰り(搗栗)
山形県押出遺跡出土の炭化物は、分析の結果動物の血や肉や野鳥の卵をつなぎとし、食塩で味付けし、野性酵母で発酵させたクッキーである。同じ場所で炭化したかち栗が出ている。それは現代の東北で食べられているかち栗とまったく同じような外見を持っている。
 
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  押出遺跡から出たかち栗と鬼グルミの殻
 
かちぐり【搗栗】 
「乾燥させたクリの実を臼でついて殻と渋皮をとったもの。江戸前期の《本朝食鑑》(1697)などは天日で干しあげたものをつくとし,後期の《草木六部耕種法》(1823)などは1昼夜ほど〈あく〉につけてから同じようにしてつくるとしている。〈搗栗子〉の語は奈良時代から見られ,《延喜式》には,丹波その他の諸国から貢納され,神祭仏会などの料として〈平栗子〉〈干栗子〉〈甘栗子〉〈生栗子〉などと併記された例も見られる。」
http://kotobank.jp/word/%E6%90%97%E6%A0%97
 
 
●栗材、クリの実は旧石器時代から利用されていたという。縄文前期には実は大型化していき、後期になると今のクリと変わらぬほどに大きくなっている。そして自然分布域からはずれた北海道石狩平野の低地からも出土するようになっている。つまり栽培され、品種改良され、移動繁殖された証拠である。(森浩一)
 
 
●先見の明
1957年、酒詰仲男は「日本原始農耕試論」(『考古学雑誌』掲載)で縄文人は栗を栽培していたと発表している。
その後の縄文遺跡の発掘でも栗花粉は大量に見つかっていて、考古学者の間ではかなり以前からささやかれていた。
 
■栃の実・どんぐり・胡桃の加工
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                現代の菓子・かちぐり
 
 
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             縄文の栃の実
 
 
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■牡蠣の養殖
縄文時代の貝塚から、木片がくっついた牡蠣殻がよく出ていた。
1996年、東京都北区の中里貝塚では縄文時代のマガキ・ハマグリの干し貝加工場が見つかる。翌年、イヌガヤの杭を使った牡蠣養殖場跡が出土した。これも数十年前に酒詰が予測したとおりになった。
 
現代、牡蠣もさることながら、海の真ん中に棚を作ってアサリも養殖されているという。砂のないアサリらしい。
 
 
■馬と梨
長野県飯田市で高句麗渡来らしい古代梨(山ナシ)の化石が見つかっている。南牧村では天然記念物の山ナシの山が存在する。長野のあのあたりでは更埴市が杏林で知られているがヤマナシもあったとは知らなかった。
 
 「私は知らなかったが、南牧村には、この畑のヤマナシ以外にも、南小学校前のヤマナシや地元で「思いやりのヤマナシ」と親しまれている大きなものがあり、ヤマナシで有名である。こうしたヤマナシは、春に花を愛でるほか、実は少し渋みがあるので、砂糖や焼酎に漬けて食用にもする。また、喘息の薬にもなるという。
 さて、ヤマナシというと山梨県が思い起こされるが、信州とも深いつながりがある。平安時代の延喜式(えんぎしき)にナシを都に貢進する国として、因幡、甲斐と並んで信濃があげられている(諸国例貢御贄など)。平安時代の各地域の特産を紹介するなど博学的知識の宝庫でもある藤原明衡(ふじわらのあきひら・?-1066)の『新猿楽記』(しんさるがくき)にも「信濃梨子」が見える。

 この平安時代の「梨」は単なる名産にとどまらず、棗(なつめ)などと同様に一種の仙薬(不老長寿の薬)として扱われていたのではないかと、森浩一先生は指摘する。

 長野県では古代の大遺跡である飯田市恒川(ごんが)遺跡群や更埴市屋代遺跡群からヤマナシの種子が出土している。

 森先生は、これらの遺跡はいずれも信濃の馬文化の中心的地域にあるので、ヤマナシ=仙薬だとすれば、あるいはヤマナシは馬文化の担い手であった渡来系氏族が持ち込んだものかもしれないという(『この国のすがたを歴史に読む』大巧社)。
 そういえばここも「南牧」である。単なる偶然か……。しかし、雪のちらつく発掘現場の私の心はなぜか少し慰められた。」http://homepage3.nifty.com/kamosikamiti/sonota/saizensen/H14aut.html
 


 
※ちなみに山梨県の地名由来は・・・
「バラ科ナシ属の「ヤマナシ」 という木が多いことからという説が通説となっており、奈良時代には既に「山梨郡」として 見られることから妥当な説である。」
 
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野生のヤマナシ
 
 


 
 
さて、その長野県飯田市周辺の遺跡からは馬の殉葬遺構がたくさん(30頭近く)出る。どうやら高句麗系高井氏らが持ち込んだか?

大室にしても根塚にしても長野県北部の古墳は、合掌式や積石塚やらが仲良く住み分けており、喧嘩になっていない。筆者が地元の社会科教師Oさんの案内で松本を訪問したときは、野生のオニクルミが自生していることが気になっていた。これは18世紀頃に朝鮮から持ち込まれたテウシクルミ(菓子胡桃)が地元で雑交配したものが主流であるらしい。http://kanon1001.web.fc2.com/foto_sinrin/K_kurumi/oni_gurumi/oni_gurumi.htm

長野県では今、雑交配種であるシナノグルミが栽培されている。
 
 
■タケノコ
竹とタケノコの北上についてはすでに隼人の手になるだろうと何度も書いたのではしょる。
 
 
■その他の東北縄文人の栽培植物
大麦、ヒエ、アワ、ソバ、大豆、シソ、エゴマ、ヒョウタン
南方系と北方系が入り混じっているところが味噌である。
 


 
 
 
 
追加
ここまでは現代人が聞いてもそれほど違和感ない食生活。それらのほとんどは山の民としての縄文人の実生活で使われてきた技術で、そのまま現代にでんしょうされていると名久井文明は書いている(『伝承された縄紋技術』吉川弘文館 2012)。
 
名久井があげている現代に伝承された技術には、
木の実の乾燥、保存技術、灰汁抜き技術、炉上乾燥による保存・貯蓄、つまり燻製・燻煙技術、木の割り方、木の皮の加工(たとえば現代の茶筒にも使われている桜の皮など)、また籠・網類の編み方、網代、あゆやななど。
 
 
筆者はそれらに加えて、簡易製鉄、サトイモ食、丸木舟造船や船釘、野外炉の作り方などなど、あらゆるサバイバル活動の大元に縄文文化がそのまま受け継がれてきたと考えている。
 
 
 
 
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に記事と画像を追加して再掲載。
 
 
 
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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学校の歴史授業は古代史と近現代史に重点を置け

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昨今の若い人たちの中には、日本がアメリカと戦争をしたことを知らない人がいるという。そんな馬鹿なと思うが、理由を聞いてなるほどだった。
 
日本の高校の歴史授業は古代史から始まって平安・中世戦国・近世・近代・現代へと順を追うが、規定の時間内ではどうしても近現代史までに時間がなくなってしまう。
だから明治以後の歴史認識がちんぷんかんぷんだと。
 
 
近現代史は一種の政治・経済史になるのでいかんせん面白くないし、確かに受験にはあまり出てこないので教師もおざなりにしか教えない。だから今の朝鮮半島や中国との歴史認識でのすれ違いが理解不能・・・。
 
 
であるならば、歴史は古代史=日本人とは?をまず教え、平安・中世・近世を選択課題にしてみたらどうか。大学では史学といっても分化科学だからそういう選択がなされてより専門的に学ぶことができる。
そして近現代をもっと重点的に教えたほうがいいのではないか?
 
 
 
そうすれば朝鮮やら中国がいま、何を求めて日本を敵視するのかの理由もうすうすはわかるだろうし、極端な右に偏ったいびつな感情も、論理的に理解されてきて、かなり中庸の、本当の世界的視野のある隣国関係、つきあいかたもわかると思われる。
 
 
現実世界で生きてゆくには近現代史は必須である。にも関わらず学校はそこを流す。これじゃあまともに海外に対する気遣いは生まれ得ない。日本だけでなく、帝国主義時代の世界各国が、いかに途上国に理不尽な略奪・暴行・放火・殺人行為をしたか。それがすでに過去のことで、今後は忘れることから明日がはじまるということを近現代史ほど内在させている科目はない。そしてその情報は、やがて長じて日本人の由来を知りたくなった(ある程度の学識があるものなら必ずそうなる)ときに、実は役にたつ。なぜなら人間は歴史を繰り返し、古代史は近現代の縮図であるからだ。
 
 
いかに?
 
 
(そもそも受験のための授業なら塾ですればよかろう。最も多感で吸収力のある時期に、丸暗記すれば受かるような試験に意味はないのではないか?勉強したいものは自分でする。社会とは学問で出世する世界でもなく、学歴ならそれに見合うものだけ学べばよいのである。早く方向性を指し示せない学校という存在に疑問符もある。もっと能力別に区別し、分化させたほうがいい。小学校から格差を押しておくほうが強い子になる。甘やかしすぎではないか?)
 
 
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だいたい戦国や剣豪など陳腐で人殺し美化ではないの?
 
 
 

敗者の古代史 タケハニヤス彦のねらいは時期大王・倭国大乱=葛城王家VS吉備王家か?

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崇神十年、孝元天皇皇子の武埴安彦命(タケハニヤスヒコ)が反乱した。タケハニヤスヒコは山背から、妻の吾田媛(アタヒメ)は大坂から、同時に大和に攻め込もうとした。このとき、実際に防戦した将軍は、春日王家ワニ氏の彦国葺(ヒコクニフク)と、孝霊天皇皇子の五十狭芹彦命(イサセリヒコ)であった。
 
建(武)埴安彦の「反乱」(反乱と史書が書くときは大概、勝者側の理論で書かれるので反乱になるが、実際は時期大王を選ぶ後継者争いであろう。つまり倭国大乱であると言える)

「崇神天皇10年、謀反を企て本人は山背より妻の吾田媛は大坂から大和を挟撃しようとそれぞれ軍を率いてきた。 しかしそれを予見した倭迹迹日百襲媛命の進言により、大坂へは四道将軍の吉備津彦命が派遣され吾田媛を迎え撃ちこれを討った。 山背へは同じく四道将軍の大彦命と和邇の祖先彦国葺命が派遣され両軍は川を挟んで対峙する事となった。 矢の射ち合いとなり、まず先に放った武埴安彦の矢は当らず、次に彦国葺の放った矢は武埴安彦の胸に当り死亡した。これによって武埴安彦の軍は崩れ、半数以上が斬られるなど鎮圧された。」Wiki武埴安彦
 


 
崇神10年の解釈はなかなかやっかいである。
「記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。258年没説を採った場合、崇神天皇の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半と重なることになる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
いずれにせよ卑弥呼直前のヤマトの実力者王のひとりであろう。

ちなみに応神天皇は西暦?
「実在性が濃厚な最古の天皇とも言われるが、仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説などが出されている。その年代は、『古事記』の干支崩年に従えば、4世紀後半となる。」

記紀の年代観は、『古事記』では考古学の年代観よりもだいたい120年(干支二巡)前倒ししてあるというのが戦後の主流である。
記紀の紀年観http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/kinenron/kinenron1.htm

だから崇神10年は記紀紀年観では紀元前1世紀ころのシチュエーションだが、考古学的には西暦3世紀前半、応神と忍熊王のいくさではだいたい4世紀後半になる。とはいいつつも、記紀の天皇の配置自体疑問点もあり、古い事績を二つに分けて二人作ったりしてあるので、研究者によって解釈が異なることがある。筆者は崇神は卑弥呼の前、応神は卑弥呼の後というくくりで捉えているが、それくらいの感覚でいいのではないか?崇神は纏向遺跡の王であると言っていいので、3世紀前半で確実。応神は存在したかどうか疑問の渡海系始祖王で4世紀前~中だと考える。つまり崇神~応神の間には景行・ヤマトタケルの挿入がある。これで約100年ばかり年代を稼いであると見えるのである。そして神功皇后~仁徳までも挿入で100年稼いでいる。古墳と土器編年、及び記事の水増しを勘案すると、それぞれの中を取って、魏志の、~卑弥呼~倭国また乱れる~男王~臺與~の、前が崇神的な王がいて、直後が応神的な王がきたと見る。どっちにせよ、崇神までは畿内の王だったと言えようか。東アジア史の中で国際的な国王だとしてよいのは卑弥呼と臺與しかおらない。記紀の天皇は記紀の8世紀の歴史観で書かれた大王である。
 


 

さて、
タケハニヤス彦は京都の南山背の王である。
山背の地名は最古は「開木代」と表記してあり、木を切って山を切り開いたという地名である。しかしこれではとても「やましろ」とは読みにくい。これは「ひらききのしろ」とも読めるが、筆者の大学の友人に京都の人で「ひらき」君がいた。平木である。おそらく古くから山背に住んできたのであろう。

南山城とは木津川両岸地域である。山地の中を木津川が走り、往古は山部が置かれた山岳地帯で、「きづ」地名も木を切り出す津のあった地名になる。実際、木津川は中世にも杣・番匠の里で、船材や建築材を丸太に切って流すので有名であった。いわゆる筏と木屋場である。巨椋池を中継して大阪、京都へ木材を送れるという立地である。大和への交通の要衝でもある。名産はイノシシと木材そして木津川の幸である。和束~田原が山地部の中心。木津川の水源は伊賀である。だからこの川を使って東国へ出られたはずである。ちょうど奈良なら吉野のような場所になる。

巨椋池の南部一帯は一時筆者が住んでいたからわかるが、低湿地で海抜が低く、あまりいい環境でなく、近年まで台風などで木津川は簡単に決壊してきた。京都でも南部は巨椋池がどかんと邪魔をして秀吉の干拓まで開発が遅れたし、明治以後も部落問題などでかなりややこしく遅れてしまう。要するに動物解体や染物業者、竹加工業者、テキヤ、やくざものの温床だった。奈良から見て鬼門の方角であり、とはいいながら奈良盆地北部までは京田辺市からすぐなので、阿多隼人などの守りを置いた土地。その阿多の地名を名乗るのがタケハニヤス彦の妻・吾田媛(あたひめ)である。
 
 
 
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南山背地形図
 
 
 
父親は欠史八代天皇のひとり孝元天皇となっている。一方崇神は「みまきいりひこ」なので、「御馬騎」=桜井市の支配者である。纏向・巻向の地名・駅名は「みまき」つまりみまきやま=御馬騎山=三輪山(三諸山)のふもとということで、纏向遺跡から出た水路などはみな、崇神天皇らしき人々が纏向瑞垣宮(みずかきのみや)に住んでいた頃の施設だろうと思われ、宮の名前「水かき」にふさわしい遺跡だと言えるだろう(森浩一など)。そこに南から隼人・ウチの系譜の妻を持つタケハニヤス彦王が切り込んできたわけである。
 
 
 
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孝元天皇といえばその子供は阿倍氏・阿閉(あえ)氏、膳氏らの祖である大彦の父、ヤマトトトビモモソ媛とは兄妹でもあるそうな。妻はウツシコメ命(鬱色謎命)。この「うつ」とはウチであろうか。記の別表記では「内色許売」。物部氏の流れの穂積氏の祖、あるいは物部氏の祖であるとなっている人。しかし「うつ」であるなら本来葛城系武内宿禰の流れであるはずなので筆者は、葛城系と政治結婚した人の系譜と見ている。
 
 

だからこのいくさは奈良盆地北部の勢力と京都南部~奈良南西部葛城まで含めた一派の、卑弥呼直前の頃の敵対関係を言っていると思う。魏志で言えば最初の「倭国大いに乱れる」時代になる。おそらく真ん中の纏向や唐古・鍵の王が崇神なのであるなら、それは吉備系であろうか。吉備と葛城が争って王を決めようとしたのであろう。そして吉備系崇神が勝った。だからこそ纏向遺跡から吉備系の円筒埴輪が出るし、従属的に葛城氏が使う弧文円盤が出る。そして東海・丹後・筑紫・讃岐などの土器も出るということは、崇神的人物が葛城・隼人系内の氏族を押さえ込んで大王となってから、ヤマトは大きく成長したわけである。ヤマト説の立場からは、これが続く3世紀の卑弥呼登場に結びつくとも言いたいところ。
 
いずれにしても崇神時代までに、九州に最初あった邪馬台国はトヨ、イヨ、讃岐・・・しまなみ海道を伝って備後、吉備、播磨を経由して摂津から木津川に入り南下して奈良に入ったはずである。淀川ルートの摂津には筑紫津があり対岸には南山背の八幡市、ニギハヤヒが遡上した天野川のある交野市、継体が宮を置いた枚方市樟葉(古代糞端 くそは、糞尿を処理する人がいた土地)がある。この淀川ルートは仁徳の皇后・葛城磐之姫の里帰りコースにもなっているので、大和川遡上よりも使用された度数が高かったと考えている。ちなみに仁徳の妃には吉備海部直の娘、黒日売がいて、葛城・吉備双方から嫁をめとった状況がわかる。当時の二大勢力から嫁を採らねば大王にはなれなかったことになる。仁徳の即位前にも反対勢力の菟道稚郎子との皇位争奪戦が起きている。
 
 
 
2~3世紀の九州から近畿地方への海上ルート
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タケハニヤス彦の母は南山背高安地域の姫である埴安姫である。この氏族は玉の氏族らしく、父親は青玉(かけ)といい、別の名は河内青玉である。高安郡に玉祖(たまおや)郷がある。『新撰姓氏録』に河内神別として河内の玉祖宿禰とある。八尾市に玉祖神社があるので、タケハニヤス彦はやはり河内・葛城の血脈でいいのではないか?「はに」は土のことなので土器関係の氏族だろうか?それがどうやら物部氏や葛城氏とつるんでいたわけで、物部氏のほうはニギハヤヒの系譜であるから、崇神たち吉備系(言い換えると元は豊ー北部九州から来た一族)が神武の流れならば、かつての敵同士である。それがヤマト・山背に同居してすみわけ、おそらく共同体的な地域だったのがヤマトであろう。纏向からは吉備系祭器が出るし、葛城的な弧文円盤も一緒に出ているので、双方が常々は敵対しながら、時に団結しているといった様相が見て取れる。ここにあとから応神のような半島由来の北部九州筑紫経由の氏族が入ってきて忍熊王が敵対したのであろう。
 

なお3後半~4世紀の墓である椿井大塚山古墳があるが、3世紀前半のタケハニヤス彦では時代が合わなくなる。あれは紀氏関連か息長関連の大筒木氏関連であろう。
 

さて系譜ではタケハニヤス彦と大彦は腹違いだが兄弟であるので、ミマキイリ彦の将軍だった大彦は兄弟で争ったこととなる。モモソ姫にしても甥に当たるタケハニヤス彦と吾田媛の陰謀を歌から察知してミマキイリ彦にちくってもいる。どうなってんだ?であろうが、当時の「共立王」の関係から察すれば、そんなことは当たり前、もっとも戦国時代でもそんなもので、「兄弟は他人の始まり」のようなことで、決して中が言い訳ではなかった。方向性や出自、母方の思惑などがからんでくると、人間は兄も殺すし、父でも子でも殺すのである。崇神とタケハニヤス彦も系譜上は甥と叔父である。要するに3世紀にはいろんな在地氏族との婚姻関係が複雑に絡み合い、系図だけでは割り出せない母方の強い影響下にあったのが王統のようである。

ただ、森浩一らは、妻である吾田媛の隼人系(あた・あいらは南九州霧島山系の地名)であることは、それ以前の神武天皇の現地妻が阿多の吾平津媛(あたのあいらつひめ・トヨタマヒメの妹)にしたことからの流れではないかと見ている。『日本書記』成立前の文武天皇のときに隼人が乱を起こしている。『日本書記』記事には、言語学者・森博達の指摘では、文武時代に書き加えられた挿入記事が多いという。隼人にはいくさで女性が中心的役割を果たす風習があった。700年の乱でも、首謀者は女性巫覡である薩末比売・久売・波豆(さつまひめ・くめ・はづ)と三人が女酋である。なお、「くめ」は久米の族長、「はづ」は愛知県知多半島に地名があってどうやらみな隼人の各地族長だったようだ。それが三河湾に地名があるのは、一緒に決起した助督衣君弖自美(えのきみてじみ)が尾張・三河の人だったからだと思え、つまり隼人は尾張氏や三河の海人族らと交流、あるいは支配関係で結ばれていた気配があるとは、以前書いたことがある。

しかし筆者は隼人が単独でもっと古くから(縄文時代から)山背の木津川に入っており、そもそも隼人の乱に出てくる毛人というのが熊襲のことで、例の南海産貝のとりひきですでに淀川を中心とした東西貿易の基地にしていたと睨んでいる。船の民の行動力や範囲は常識を越える。弥生時代には東北や南北海道にまで貝を運んでいる。そもそも淀川を自在に往来してのは隼人や久米だったとしても少しもおかしくなく、それが葛城・物部・尾張氏族とすでに南九州で婚姻関係があったとしても不思議はないと見る。なぜなら神武東征のエピソードは最も早くから稲作と製鉄が入った西九州の江南系氏族が南下して太平洋ルートのために隼人・熊襲・尾張などの力で北上してくる話だからだ。また「竹取物語」に竹が出てくるのも隼人が竹の根をここに運び込み、それが根付いたのであるし、竹取の翁とは平安時代当時では賤民(中世には茶筅と呼ばれた)竹加工職人であり、それは彼らの祖が敗者だったからである。つまり建埴安彦に手を貸した隼人の妻の子孫で、文武時代に敗北した歴史の敗者だから差別されたのである。そして南山背の八幡市には今も内里という地名があり、梨の山地だが、被差別部落であった。その隼人の竹は岩清水八幡宮に植わっており、その竹はエジソンがフィラメントに使った竹なのである。だから竹取物語の出所は八幡市~木津川沿線相楽地方の被差別民に育てられる媛の話で、古代から隼人ら海人族に貴種の皇子が養育された風習を反映した物語なのである。

こうして見ると卑弥呼の前からすでに男の王は合議制で選ばれており、吉備系の巫王と葛城系の巫王、また丹後や若狭や近江や古志などの王の間での交代制ではなかったかと思うのである。
その形はたまに中国や半島のどの勢力につくかなどの現実的政治的事柄で、反発もした。そういう大王継承争いのひとつがタケハニヤス彦の戦いとして代表して記録されたのだろう。
記紀は女王卑弥呼の存在については一切書き残さなかった。その理由は、神功皇后なら臺與に仮託できても、卑弥呼を始祖王アマテラスに仮託することはできなかったからだろう。アマテラスとはひとえに持統女帝を感じさせねばならない女神だったからだ。不比等にとってはアマテラスが二人いるはずはなかった。ゆえに卑弥呼は消した、あるいは神功皇后とモモソ媛に一部仮託した。卑弥呼のモデルとしては巫女であるモモソ媛では荷が重く、その性格はむしろ玉依媛に近い。それに伊勢で祟る在地神や東国勢力を押さえ込む役割のアマテラスに比定するのなら大物主の妻になってすぐ死んだモモソ媛よりも、アマテラスを奉じた巫女・倭比売のほうがふさわしい。
この記事は続く
 
 
 


 
おまけ
神武東征は江南系の西九州からの南下ルート、隼人の妻を娶り日向~臼杵の海人族=倭直氏系の船を使う。葛城族もこのコース。葛城族は日本海の安曇族コースも使った。出雲・丹後・気比・富山湾・・・そして秋田・苫小牧へ。
 
応神東征は半島系騎馬民族のコース。筑紫と言ってもかつての豊である遠賀川東岸から出発する岡湊コースで遠賀川式土器コース。吉備王家のやってきたコース。
紀氏・木部コースでもある。葛城系ウチのルート。
 
日本海コースと太平洋コースは隼人も安曇も久米も使うコース。いわゆる尾張氏コースが太平洋にあり、尾張からは琵琶湖を使って若狭に出る。そこに海部氏のこの神社がある。
 
 
 
 
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敗者の古代史2 大友皇子の墓は大山崎宝積寺?天王山の由来?

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京都府南部大山崎・・・
 
そう聞くとぼくらの世代では「三川合流地」「サントリーウイスキー山崎」がまず思い浮かんでしまう。
 
あるいは歴史に詳しい人なら明智光秀と秀吉の大決戦の場。
 
あるいはミステリーファンなら水無瀬と百人一首の配置の謎・・・。
 
さて、あなたがどれとどれを知っておられるかは、歴史愛好家の尺度にもなるのだが・・・。
 
 
 
ここに天王山という有名な山があって、京都と摂津を分けている。ここがなぜ天王山なのか、なぜ天王山と言うと天下分け目の決戦を言うのか?
 
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八幡市から見た山崎
 
 
壬申の乱。
天武天皇大海人皇子と天智皇子である大友皇子=弘文天皇の瀬田決戦のあと、弘文天皇は山前に逃げ込む。その首は天武の仮宮(美濃国の野上宮)に送られ、天智ゆかりの近江国大津市の長等山(ながらやま)に葬られたたが、もともと領地があった大山崎にも臣下の手で葬られたという伝承がある。そして伝承では、ここにそれを埋めたのは近江朝の重臣・物部連麻呂であるという。
 
 
弘文天皇という名前は近江朝でだけ通用する番外天皇としてのお名前で、実際には即位したとしても近江朝内部の即位である。彼に味方したのは天智以来の重臣たちである。物部連麻呂を筆頭に、中臣連金らで、協力を頼んだ筑紫も吉備も東国も全部これを断った。一番大きな理由は父・天智のせいである。白村江の敗北だけでなく、天智天皇は乙巳の変以外はすべからくダメ政治家だったからである。つまり天智の政治に誰もが失望していた。おまけに最後の最後、死の床で大友には脅威である大海人を吉野に行かせてしまう。いわゆる「虎を野に放つような」行為で、完全に全国諸豪族は天智の治世を見放していた。
 
一方、大海人は全国海人族からの支持を受けた期待の王候補者。これでは大友側には勝ち目はない。
 
 
われわれは学校であまりにも天智=中大兄皇子の偉大かを教わりすぎている。それは『日本書記』の歴史観に毒された頭の古い教師に教わったからである。実際には諡号から見ても最高の名をつけられた孝徳大王のほうが百倍もすばらしい王だった。乙巳の変も孝徳が画策して若い中大兄をうまく乗せたのである。中大兄の出自は父も母も大王家で、当時最高に家柄。しかし血の気が多く、残虐な性格で、あまり人望がない人だった。だから必死で味方を増やそうとして蘇我入鹿を惨殺したが、結局それがまた人望を失わせた。仕方なく今度は敗北が目に見えている百済に加勢して、これまた大失敗。われわれは孝徳の外交力や厳しい政治家としての正鵠な事績を評価していない。すべては『日本書記』にだまされてきた学校の歴史教師たちの大失策である。
 
 
山崎に宝積寺という寺があって、そこに弘文天皇山陵があるということを京都の考古学の進藤千尋と言う人が明治時代に力説している。
 
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ここには御陵社という祠があって、もとは古墳だったという。それは天王山の目の前にあった。明治8年の説である。先見の明に舌を巻かされる。明治の先達の先見には今後も見直しが必要である。天皇主義の時代にそういう視点で学問していけたこともすごい。帝国主義時代の昭和初期なら非国民と言われかねない。
 
森浩一はだからここの山を天王山といいはじめたのではないかという。そしていわゆる決戦を天王山と言うのは、秀吉・光秀以前からそうであって、むしろ戦国軍記の方がここを決戦地にしたのじゃないか・・・と筆者などは深読みしてしまうのである。
 
天智と大友はとにもかくにも英雄にはなれず、その見直しは何度か奈良から平安にかけて模索されてきた。その最高の文献が藤原氏の名誉回復のために描かれた『日本書記』であると言える。それが歴然とわかるのが勝者天武の子孫、大津・高市の扱いであろう。特に大津皇子は有間皇子同等の罠にかかって暗殺された。やったのはなんとまあ、母親の立場の持統女帝。あまりにもわが子である草壁皇子の即位にこだわったあげくである。高市皇子はもくもくと持統に尽くしたが結局皇太子にもなれず静かに死んでいく。こうして天武の直系は消えてゆく。
 
死してなお、天智は祟ったと言える。ダメ王族の血脈はやがて桓武に引き継がれ、かくして天智は虚構の英雄となった。
 
 
 
 
 
参考文献 森浩一 『敗者の古代史』
 
 
 
 
次回はいよいよ女性垂涎の有間皇子の遭難。
涙なしには語れないその非業の死。
 
 
 
なお、百人一首には弘文天皇への非業の死を訴える大伴家持の一種の、王家の歴史への怨念が反映されていると言えよう。歴史の理不尽に対する没落宰相大伴氏ならではなの怨恨があふれた並べ方になっている。その起点になったのも大山崎である。
 
 
 
 
 
 
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有間皇子と塩屋連このしろの死・紀州岩内1号墳有間皇子の別陵墓

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孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日)に軽皇子(かるのみこ)が即位し孝徳天皇となる。孝徳天皇は同年の大化元年12月9日(646年1月1日)に都を難波宮に移したが、それに反対する皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)は白雉4年(653年)に都を倭京(飛鳥)に戻すことを求めた。孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄は勝手に倭京に移り、皇族たちや群臣たちのほとんどや孝徳天皇の皇后である間人皇女までも、中大兄に従って倭京に戻ってしまった。失意の中、孝徳天皇は白雉5年10月10日(654年11月24日)に崩御した。このため、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)、孝徳天皇の姉の宝皇女(皇極天皇)が再び飛鳥板葺宮で斉明天皇として重祚した。

父の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に赴いた。飛鳥に帰った後に病気が完治したことを斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、斉明天皇は紀の湯に行幸した。飛鳥に残っていた有間皇子に蘇我赤兄が近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は皇子の味方であると告げた。皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。

なお近年、有間皇子は母の小足媛の実家の阿部氏の水軍を頼りにし、天皇たちを急襲するつもりだったとする説が出ている(森浩一『万葉集の考古学』など)。

ところが蘇我赤兄は中大兄皇子に密告したため、謀反計画は露見し(なお蘇我赤兄が有間皇子に近づいたのは、中大兄皇子の意を受けたものと考えられている)、有間皇子は守大石・坂合部薬たちと捕らえられた。斉明天皇4年11月9日(658年12月9日)に中大兄皇子に尋問され、その際に「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」(天與赤兄知。吾全不知)と答えたといわれる。翌々日に藤白坂で絞首刑に処せられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%96%93%E7%9A%87%E5%AD%90
 
 
 藤白の み坂を越ゆと 白樽の わが衣手は 濡れにけるかも」
                 (『万葉集』巻9・1675 詠み人知らず)
 
 
 


 
 
 
前章・大友皇子で中大兄皇子の残虐性について述べた。有間皇子をはめたこのエピソードでも中大兄は残酷さをむきだしにしている。それは一種、乙巳の変で孝徳にはめられ、自らの手で入鹿を惨殺してしまったことへの復讐でもあっただろう。
 
大化の改新はわれわれの世代では入鹿暗殺のことであるかのように「蒸し殺す=645年」と覚えさせられたが、今の教科書では645年は乙巳の変、翌年が大化元年で646年となっている。大化の改新を推し進めたのが孝徳大王の長男・有間皇子である。(大化年号があったかどうかという諸説があるが)

孝徳大王の諡号は、8世紀に歴代大王の漢風諡号が定められたときに最高級の賛辞で作られた名前になる(森浩一)。道徳経の最高理念「孝は徳の本なり」をそのまま諡号にしてある。孝とは老をよく知り尊ぶこと、つまり親孝行の孝。
 
大王は即位すると中大兄を皇太子とし、阿倍倉梯(内)麿呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌子(鎌足)を内大臣とする難波宮を上町台地に建てる。当時の上町台地は海の中に突き出した岬である。現在の大阪市中心部はみな上町台地東側にあった住之江の海(大阪湾)を埋め立てて(梅田)存在しているわけだが、当時の淀川河口は、今となってはかなり内陸の新大阪駅の西3キロほどの場所にあった。東大阪の石切劔矢神社のある枚岡が生駒山の麓であるが、ここに日下江(くさかのえ)があった。
 
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難波宮は外海と内海を見渡せる海外に視野を置いた孝徳の外交的政治思想をそのまま反映した宮だということがわかるだろう。大阪湾から瀬戸内海を使い、海外と交易する外に向かったグローバルな都で、飛鳥や纏向や奈良とは画期的に違っている。しかも孝徳は非常に臣下の規律に厳しく、なかなか信頼できる臣下を得られない人であった。一種の理想主義者だとも言えるか。古来の神よりも仏法を重んじた。
 
有間皇子は母が阿倍倉梯麿の娘・小足媛(おたらしのひめ)。
 
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阿倍氏は今の総理大臣・安倍晋造もおそらく長州安倍氏と連行された俘囚蝦夷との遠い子孫かと思うが、大彦の子孫である。過去の総理では中曽根さんなどは群馬(上毛野)の渡来と信貴山の蝦夷長髄彦の子孫ではあるまいか?佐藤栄作もそうだったが、顔は濃いのに背が高いという二人の特徴は、縄文と渡来の掛け合わせを感じさせる。その点、俳優の岸部一徳兄弟(元GSのタイガース)は摂津の岸部の難波吉志の血を受けたか、顔立ちも背も北方系新モンゴロイドである。ついでながらオリンピックなどでいつも思うことだが日本人が国内では大きめの人なのに、外人と並ぶとやはり小さいのは、倭人=縄文人の血脈が優性残存するからだろう。三つ子の魂百までだが、いくらDNAが北方系に支配されても、表出する形状は必ずしもそうはならず、いつまでも体躯が伸びないのは興味深い現象である。
 
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阿倍氏の一派である阿閉氏は三重県の伊賀を本拠地とする。名張市に鹿高神社古墳(近鉄赤目駅)がある。大阪の阿倍氏は阿倍清明を生み出す阿倍野の氏族。奥州阿倍氏は蝦夷首長と混血して秋田氏などの元。大彦の子孫には筑紫国造家もある。阿倍倉梯麻呂の墓は桜井市の阿部丘陵の西側・文殊院西古墳だとされているので奈良の阿倍氏は纏向地方の豪族である。この古墳の磨き上げられた鋭角な石室は渤海王墓と類似点があるとされている。
 
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おまけ入鹿の墓は鬼の雪隠?
(いずれまた書くが、飛鳥の古墳で、石舞台古墳(桃源墓)は馬子の墓で、あれもかなりな石室だが、発掘では方墳で、その後封土・盛り土を乙巳の変のあとはがされたことが明白になった。入鹿の墓はどこにあるかというと、あの飛鳥谷に放置されている鬼の雪隠だと考えられる。(森浩一ら))作っている途中を掘り返され、石棺が放り出されたとなるか?
 
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部下に厳しかった孝徳は心を許せる部下をなかなか持てず(深謀遠慮しすぎる性格)、大化二年に塩屋連鯯魚(このしろ)、神社福草(かむこそのさきくさ)、朝倉君、椀子連(まろこのむらじ)、三河大伴直、蘆尾直(すすきおのあたい)の六人を「天皇に順うにより賛美」した。

このうち有間にも付き従ったのが鯯魚である。最後まで付き従い、藤白坂で斬殺されている。
 
塩屋連とは紀州日高(御坊市あたり)の氏族である。椀子は東国に多い氏姓で丸子かとも思え、蝦夷俘囚の族長の名であろう。この当時、すでに蝦夷から大和に来て、王家に属するものがいたわけである。これより前、継体大王の妃の子に椀子皇子(祖父三尾連カタヒ・母倭媛)がおり、北陸三尾氏の元を作っている。蝦夷一家をめのとにした皇子であろうが、この話は北陸出身の継体の母が三尾(三国)氏出身ゆえの付加記事だろう。三国は継体が大和へ向かったあと三国から御国と地名変更した。そこにとどまって継体の貿易のために三国の津を守ったのが三国氏である。こういう小さな記事からも、古くから大和には地方豪族の長が集っていたことがわかる。
 
 
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孝徳と有間の重臣はみなこのように地方豪族が多かった(六人中四人)。孝徳は東国や北陸を重視していたのである。崇神や継体がそうだったように北陸の港は筑紫に頼らずに半島へ向かうための重要な場所であり、尾張や三河や三野(美濃)の伊勢湾は太平洋を通じて南北に出るための重要な港である。
こうした海洋ルートを地理学から想定してゆくと、大和・飛鳥・難波がその真ん中にあって、中枢が置きやすい立地であったことに納得するのである。
 
 

さて鯯魚の出身地である御坊の日高川は、その地名も蝦夷風であるが、下流右岸に堅田に弥生前期遺跡があり、塩屋地名は製塩地名であるから海人族のメッカ。御坊といえば醤油なので渡来系職人も多かった。弥生~奈良の小型土器~鉄釜による製塩遺跡が五ヶ所ある(尾ノ崎遺跡)。塩屋連氏はつまり名前のとおり製塩氏族である。岩内古墳群からは南海のスイジガイを象った銅釧=巴形銅器も出ており、九州水人と紀州海人族の深い関係を物語る5世紀初頭の古墳群。
 
終末期古墳であるが、古墳群はまず塩屋氏のものと思われるものの、その中で異彩を放つのが1号墳であろう。
 
 
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内部に漆塗りの木棺が安置され、方墳盛り土に、紀州では終末期以外でもまったく見られない古来の版築工法が使われている。終末期古墳はまずもって天皇とその親族、皇族、功臣だけが作れたものゆえ、紀州日高といった遠隔地にそれがあるのは、おそらく有間の功臣だった塩屋連鯯魚死んだ跡、塩屋氏らが中央とは別に有間をしのんで葬ったものだろうと思われる。有間の遺骸は、首だけ持ち帰っただろうから、胴体だけが当地に仮埋葬されたと思われる。豪華な銀装の太刀が副葬品となっていた。
 
 
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岩内1号墳調査中の故・森浩一氏
 
陵墓とは別に、このように飛び地のようなところに陵墓伝承があるのは、大友皇子と有間皇子など、非業の死を遂げた歴史上の貴種であろう。あるいは筑紫国造家磐井の墓なども豊前・豊後にあるのではないか?推測するにそれは大分県臼杵市にあると筆者は見ている。
 
 
 
 
 
紀伊日高といえば、神功皇后と応神がこの日高で、太平洋を土佐周りでやってくる武内宿禰の船団と合流した記録がある。忍熊王との決戦地宇治へ向かうための合流で、やはり紀伊が大和へのひとつの寄港地であることがわかる。
 
 
さて前置きが長くなったが、有間は中大兄の脅威を感じて、病気と自称して紀伊の牟婁(むろ)の湯に湯治に向かう。これは今の白浜温泉の南東にある湯崎温泉であろう。帰ってき斉明天皇にここを薦める。ところが斉明天皇が牟婁へ行くときに中大兄がついてきた。中大兄のほうでも有間の陰謀をうすうす見抜いてボディガード兼、あわよくばやってくる有間勢を返り討ちせんという腹である。天皇が留守の間に中大兄重臣の蘇我赤兄(あかえ)が天皇の失政を三つあげて有間をそそのかす。まんまとそれにのった有間は中大兄の謀略に気づかず、赤兄を誉めそやし、天皇討伐、政権交代をほのめかしてしまう。

翌日、赤兄らの軍隊は有間の居宅を囲い込みこれを牟婁へ連行。中大兄がその陰謀を問いただすと有間は「天と赤兄が知っている」と答える。
 
都へ護送するさい、中大兄は密かに腹臣・丹比小沢連国襲に命じ、藤白坂(海南市)で皇子を絞殺させてしまう。ここで鯯魚らも殉殺された。絞め殺したとは前例のない残虐さである。
 
 
辞世の句

 磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む (2-141)
 
 

    家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る (2-142)
 
 
 
しかし、密かに絞め殺されたのであれば辞世の句は詠めるはずもなく、有力な一説ではこの二首は後世に哀れんだ誰かが挿入したものではないかとされる。
 
孝徳と中大兄の確執さえなかったら有間は絞殺などという怨念あふれる殺され方もしなかっただろう。ことほど左様に、中大兄の執念はおぞましい。その血脈が平安の桓武以後の朝廷に受け継がれたことは、なおさら恐ろしい。
 
 
 
近年、東アジアは非常な不安定で、今の情勢は第一次世界大戦直前の昭和初期に非常に似通ってきている。中大兄の残虐な血が、再び怨念の世界情勢を呼び覚まさねばよいのだが・・・。日本は信頼できる頼る先を見失い始めており、中国はロシアに歩み寄って行く。朝鮮半島と日本列島は、米国からはあまりに遠く、目の前にあるのは露中の刃ばかりである。まずい、非常にまずい。肌寒さがいや増す。震撼する事態が10年のうちに起きる気配が刻々と近づいている気がする。
 
 
 
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敗者と被差別

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敗北した氏族は当然のごとくにそのあと差別された。
 
 
それは決して怠惰な生き方をしてきたからではなく、敵対したためにそうなった。
 
 
敗北したからそうなった。
 
 
怠惰かどうかは、その後の生き方次第である。
 
 
 
少なくともそうなる前には、彼らは君たち以上に、歴史と立ち向かい敗北したのである。
 
 
 
そこから見えてくるのは、むしろ、ぼくにとっては、人の優しさである。
 
 
 
 
差別は決して、彼らの孤立を望んでされてきたのではない。
 
 
孤立とは自らがそう思うことから始まってしまう。
 
 
そうだ、韓国のように思い込むことがむしろ孤立を深めてゆく。
 
 
心とは開放されることを常に望んでいる。
 
 
古代を知るとはそうした差別と被差別、人間の行動原理をいう普遍的な事象を知ることだ。
 
 
古代史とは日本人とは何か、どこから来て、どこへゆくのか・・・過去から未来をつむぎだす学問である。
 
 
 
 
省みられることのなかった人々こそが歴史を作る。積み重ねる。
 
 
 
絶対に史書だけが歴史なのではない。
 
 
 
考古学的発掘には、ときとしてそうした、逆転の構図を内在する真実がある。
 
 
それは大衆の生き様の中にも内在し、決して消え去ることはない。
 
 
君が歴史をやるならば
 
あるいは日本人を知りたいのなら。
 
 
 
 
絶対に、かくされてきた歴史の不都合に背を向けてはならない。
 
 
 
 
なぜなら、その不都合と差別は、
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明日にもぼくたちに襲い掛かるかも知れぬ不都合だからである。
 
 
 
 
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敗者の古代史・筑紫君磐井はどこへ逃げたか?石人分布図

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武装石人の分布
 
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■福岡県 (筑紫国)
石人山古墳(せきじんやま) 福岡県八女市広川町大字一条字人形原
岩戸山古墳(いわとやま)  福岡県八女市吉田字甚三谷(石馬・靫・石獣など複数)
石神山古墳(せきじんざん) 福岡県みやま市高田町上楠田
鶴見山古墳(つるみやま)  福岡県八女市豊福字鶴見山
 
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■熊本県(火(肥・氷)国)
臼塚円墳         熊本県山鹿市石字臼塚
江田船(舩)山古墳(えだふなやま) 熊本県玉名郡和水(なごみ)町(旧菊水町)江田
清原古墳群 (せいばる)  熊本県玉名郡和水町江田(石製靫もあり)
チブサン古墳       熊本県山鹿市大字城字西福寺(現物東京国立博物館) 
三の宮古墳(さんのみや) 熊本県荒尾市原万田  
参考・木柑子二ッ塚古墳  熊本県西合志町(様式に違いあり)
など(ほか3ヶ所?は情報待ち。全9ヶ所)
 
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■大分県 (豊国)
臼塚古墳 (うすづか)   大分県臼杵市(旧南海部郡臼杵)大字稲田
下山古墳 (しもやま)   大分県臼杵市大字諏訪
 
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■レリーフによる石人
鍋田横穴群・27号墓    熊本県山鹿市鍋田
長岩横穴群108号・101号  熊本県山鹿市長岩志々岐台地南側 
 
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■その他
伝世品や流出品が日田市などにあり。
 
■石馬
岩戸山古墳(旧福島城址・現在岩戸山古墳資料館)その他多数の石造物
調査当時の詳細画像http://inoues.net/museum/iwatoyama_museum.html
石馬ヶ谷(いしうまがたに)古墳 島根県米子市淀江町天神垣神社淀江町歴史民俗資料館所蔵
筑紫君との関係はないか?
 
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筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳には古墳別区が作られた。別区とは祭祀などをするための張り出し部で舞台のような突き出したどたんぼであるが、この様式は摂津の継体大王の今城塚古墳にも存在する。岩戸山の場合、ここに多数の石人・石馬・石獣・石鳥・石製武器などが置かれて放置されてあった。
 
その中に非常に珍しい「解部(ときべ)と盗人とイノシシが裁判をしている」石造があったと記録にある。『釈日本紀』(鎌倉時代末)が引用した『筑後国風土記』逸文(720年代成立か)である。
 
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「上妻(かみつやめの)県(あがた)。
県の南二里に筑紫君磐井の墓墳有り。高さ七丈、周六十丈なり。墓田(はかどころ)は、南北各々六十丈、東西各々四十丈なり。石人・石盾各々六十枚、交陣(こもごも)つらなりて行を成し、四面に周匝(めぐれ)り。東北の角に当たりて一つの別区あり。
 
 号づけて「衙頭(がとう)」と曰ふ。衙頭とは政所なり。其の中に一石人有り。縦容(おもぶる)に地に立てり。号けて「解部(ときべ)」と曰ふ。前に一人有りて、裸形にして地に伏せり。
 
 号せて「偸人(ぬすびと)」と曰ふ。生けりし時に、猪を偸みき。仍りて罪を決められるを擬る。側に石猪四頭有り。「贓物(ざうもつ)」と号く。贓物とは盗物なり。彼の処に亦石馬三疋・石殿三間・石蔵二間有り。
 
 古老伝えて云えらく、雄大迹(おほど=継体)天皇のみ世に当たりて、筑紫君磐井、豪強暴虐にして、皇風に偃(したが)はず。生平(いけりし)時、預め此の墓を造りき。
 
 俄かにして官軍動発(おこり)て襲わんとするの間に、勢の勝つまじきを知りて、独り自ら豊前国上膳県(かみつみけ・のあがた=豊前市上毛郡)に遁れ、南の山の峻(さかし)き嶺の曲(くま)に終はてぬ。
 
 是に官軍、追ひ尋まぎて蹤を失いき。士(いくさびと)怒り泄やまずして、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕おとしき。古老伝えて云えらく、上妻の県に多く篤疾あつきやまひ有るは、蓋し玆これに由るか、と。」
 
 
言葉は鎌倉末期の用語で書かれているわけだが、「解部」とは裁判官である。生贄に用いていたイノシシを盗んだ男が、そばに盗んだ証拠品であるイノシシも置かれていた。男は裸である。裁判官はおそらく磐井本人かと思う。
 
6世紀の大和にはまだ裁判システムなど存在しなかった。それだけ筑紫がまだまだ最新鋭の政治機構を海外から取り込める実力者だったことになる。部分的にそれは大和を凌駕していたわけだ。こういう筑紫の最先端の一面は、実は平安から鎌倉時代以後も、輸入品の最新鋭さなど文化面で中央を圧倒していた。それは博多や筑紫野が日本最大の国際貿易港だったからである。
 
平清盛も博多の筑紫の国衙・郡衙には手を焼いたという。幕府の輸入品を転売したり私物化していたからである。今城塚の別区は岩戸山の影響を受けたとさえ考えられている。
 
このように筑紫は江戸時代に長崎にその坐を奪われるまで長く、日本一の貿易国だった。
 
さて、継体に敗れた磐井は豊前に逃げたと風土記は書いた。そして「独り自ら豊前国上膳県(かみつみけ・のあがた)に遁れ、南の山の峻さかしき嶺の曲に終(はて)ぬ。」
 

豊前の南の険しい山々の一隅に隠れて死んだというのである。「はてぬ」であるから死んだのであろう。豊前の南の山々とは英彦山山系のことであろう。越えれば豊後の日田などへ出られる。さて、いずかたであっただろうか?果たして磐井は単騎で逃げただろうか?もしそうならば岩戸山古墳は遺骸なき仮墓だとなってしまう。
有間皇子や大友皇子の例を見ても、いくさや反乱で首を切られても、胴体は現場にほったらかされたようである。風土記の言いたいのはそういうことかも知れない。ならば磐井戦争の決戦場は豊前上毛郡だったことになる。今の豊前市太平村あたりで、目の前には山国川が流れる。秦氏のメッカである。宇佐のすぐそば。対岸はあの黒田如水官兵衛の中津市(下毛郡)である。そこから山方向へ南下すると八面山に行き当たる。越えれば紅葉のメッカ耶馬渓である。そうすれば日田市がすぐそばになる。
 
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しかし日田には装飾古墳はあっても、磐井のシンボルである石人のある古墳はない(伝世された石人ならあるが、それは岩戸山から持ってきたものである。)
日田市ならもう豊前でなく豊後国である。
 
磐井はどこに消えたか?
 
筆者は筑紫や豊前から隔絶した豊後国南部の南海部郡臼杵市に宇佐から船で消えたのではないかと勝手に妄想している。というのは臼杵市のような火からも豊からも隔絶した、九州島の東の果てにある場所に、なぜか石人を持った前方後円墳が二基存在するからである。臼塚・下山古墳である。
ふたつは臼杵湾を眺める太平洋に面した高台にある。
 
そもそも、筑紫君磐井が「巻き込んだ」火と豊とは、それぞれの国のどの地域のものだったかはまったくわからない。しかし石人があれば、まずそこが同盟者だったと考えてよい。つまり記録は火と豊を巻き込んでと書いてはいるが、それが火君だとか大分君だとかは言っていないわけだ。すると二国全体が加担したのではなく、ある地域のもの・・・たとえば勝手に動けた海人族とか・・・なら個別に加担できるわけである。
 
逃げ込むなら、それらの同盟者で一番遠隔地を選ぶのが普通ではないか?
 
 
 ついでながら、筑紫君と記録にはあるが筑紫国造磐井である。
国造としての筑紫君は大彦の子孫。
しかし一方で多氏とも言う説もある。
ここで決定はしがたいが、多氏の系譜はどちらかというと海人系で装飾古墳を持つと思われ、火君・大分君系であるので、装飾古墳を一切持たない筑紫国造家は別であろうので、自称どおり大彦子孫をとりたい。
 
本拠地は有明海側ではなく糸志摩半島である。伊都国系譜になる。ここに装飾古墳はない。八女や久留米は記録にある決戦地で、同盟者のいた土地であるが、やはり装飾古墳はない。熊本県北部の中央部で両方を持つのはチブサン古墳だけである。やはり装飾古墳と筑紫国造には縁がない。むしろ江田船山などと同じ、派遣されてきた国造組であろう。臼杵市にも装飾古墳はない。筑紫「君」と在地豪族の名前を持つが、中央官人だったことに疑念はない。攻めてきた上毛野との話し合いに「同じ釜の飯を食った間柄ではないか」と責めるシーンがあり、ともに中央で官僚だったに違いないのである。
 
つまり継体の時代には筑紫君は伊都国時代の王ではなくなっていたわけである。
 
ということは継体以前の応神王朝の間までに、筑紫の王家はとっくに筑紫を出ていたかと思われる。どこへ?もちろん吉備やヤマトであろうよ。あとから来た国司豪族が、在地の系譜を詐称することは阿蘇君のカムヤイミミ系譜取り込みですでに解説済み。
 
 
 
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Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1

[転載]中国南部の支石墓発見・世界のドルメン支石墓分布図

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前の記事の支石墓派生地について、では世界に広がるこの海洋民的な墓制は、白水郎の本拠地だった中国南部海岸地域には本当にあるのか?を検証したい。
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1603556/05/54777505/img_5?20140322160307
世界の支石墓(ドルメン)分布図


◆支石墓とは、その分布域は?
「支石墓(しせきぼ)は、ドルメンともいい、新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種である。基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとる。
支石墓という形態がもっとも早く発祥したのは、おそらく西ヨーロッパだったと考えられる。しかし、西ヨーロッパの支石墓が世界各地へ伝播したのではなく、それぞれの社会発展状況に応じて、全く別個に世界の各地域で支石墓が発祥したとする見方が非常に有力となっている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E7%9F%B3%E5%A2%93


「支石墓(コインドル)は先史時代の石墓の一種として英語ではドルメン(Dolmen)といわれます。支石墓(コインドル)は巨石記念物のひとつとしてピラミッド(Pyramid)、オベリスク(Obelisk)等、エジプトやアフリカ大陸の各種石造物とイギリスのストーンヘンジ、フランスのカルナクの列石などが巨石文化の産物であります。
韓国の青銅器時代の代表的なお墓の中の一つである支石墓は、世界的な分布を見せていながら地域により時期と形態が違うように現われています。全国に約30,000基余りの支石墓が分布されていると知られており、その中で世界遺産の登録された高敞(ゴチャン)、和順(ファスン)、江華(カンファ)の支石墓遺跡が高く評価されています。

又、支石墓は先史時代の文化が把握できる重要な遺跡で、当時の政治や生活などの研究にも重要な資料になっています」
http://www.tabijin.com/unesco_08.html
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1603556/05/54777505/img_1?20140322160307

支石墓は本来、そのまわりを礫(小石など)で囲まれるのが普通だが、現状その多くが、礫が風や波で紛失したと言われる。

◆世界分布
中東では、イラン高原やゴラン高原(現イスラエル)で支石墓が営まれたとされる。
インドには古代の巨石遺跡が約4000箇所ほどあるが、明確に支石墓と見られるものは、紀元前1000年頃の南インドに出現した。
その他、インドネシア・南アメリカ・北部アフリカに見られる。
その多くは海岸部に存する。

●東アジアの支石墓とその分布
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1603556/05/54777505/img_2?20140322160307

「紀元前1500年頃に遼東半島付近で発生し、その周辺(現在の中国吉林省付近)へ広まった。当初は、地上に支石を箱形に並べ、その上に天井石が載るというテーブル状形態を示しており、天井石の下部では葬祀が行なえるようになっていた。中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西北部に分布する。紀元前400年頃から次第に支石が低くなっていき碁盤式といわれ、朝鮮半島西側の中南部と北部九州に見られる。また、青銅器(銅剣など)の副葬も見られ始めた。

紀元前500年頃、支石墓は朝鮮半島(無文土器時代)へ伝播した。遺構は半島のほぼ全域で見られ(約4-6万基とされる)、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれている。南へ伝播するに従い、支石は地下へ埋設されるようになり、天井石が地表近くまで下りている。大韓民国では、高くそびえるもの(テーブル式)を「北方式」、低いもの(碁盤式)を「南方式」と分類しており、両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。また、天井石が碁盤状を呈するなど多様な類型を示していることも、朝鮮半島の支石墓の特徴である。紀元前後になると、銅剣(細型銅剣)が副葬されるようになった。

朝鮮半島において、分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の全羅南道)である。同地域ではもっとも多い場所で500-600基の支石墓が群集している。支石墓は朝鮮半島の先史時代を大きく特徴づけており、2000年には高敞、和順、江華の支石墓群が世界遺産に登録された。

日本では、縄文時代最晩期の九州北西部に出現している。朝鮮半島南西部の強い影響があったと想定されているが、日本の支石墓は朝鮮半島のものより小型化が著しい。また、屈葬の採用や甕棺を伴うことなど、一定の独自性も認められる」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E7%9F%B3%E5%A2%93


●日本の支石墓源流は中国南部海岸部にあり・浙江省沿海地区の支石墓群
最近の調査からは、中国南部、長江下流域でも支石墓が見つかった。
「(中国の支石墓は)浙江省沿海地区と山東省にあり、 中国社会科学院考古研究所の研究. 員安志敏先生 の観察では浙江省の支石墓と日本の九州の支石墓は形. 式の上で共通の特徴を持っ ており、 日本の支石墓は江蘇省・ 浙江省. 一 帯の古代文化の影善を受けて形成され たと」いう。
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=R7lm-w5bzUMJ&p=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B5%99%E6%B1%9F%E7%9C%81%E6%94%AF%E7%9F%B3%E5%A2%93&u=202.231.40.34%2Fjpub%2Fpdf%2Fjs%2FIN2510.pdf#search='中国浙江省支石墓'

●浙南石棚墓群(浙江省温州地市瑞安)
 1993年に浙江省温州地市30を超える石棚墓が発掘され、春秋時代の器物が多数出土した。石棚墓とは日本でいう支石墓のことである。これは、紀元前1700年~紀元前256年頃にかけて江南地方で営まれた墓制で、石棚墓の下には甕棺も埋葬されている。その形状や葬送様式などから、九州北部や朝鮮半島南部に展開する支石墓のルーツかとも考えられる。 

 紀元前1500年頃になると遼東半島から吉林省南部地域にも出現するが、これは、支石を箱形に並べた上に高くびえる形で天井石を載せたもので、テーブル式と呼ばれる。一方、朝鮮半島南部に支石墓が出現するのは紀元前500年頃からで、数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せたもので、碁盤式と呼ばれている。韓国では、高くそびえるテーブル式を北方式、低い碁盤式を南方式と分類しており、両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。」
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/e/feb38310affc1341db8f81b06fa43f45

どうやら朝鮮半島の支石墓と九州の支石墓では、どうやらその伝播してきた大元が違っていたようである。
九州のは江南系、朝鮮のは遼東系であるそうだ。

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1603556/05/54777505/img_0?20140322160307
浙南石棚墓群(浙江省温州地市瑞安)の画像
画像サイト↓ 
「浙南石棚墓群是目前已知的中国南方地区唯一的石棚墓群分布区,是世界巨石文化重要组成部分,对研究商周时期中国沿海地区社会生活性质、经济状况、对外交流和文化面貌提供了宝贵的实物资料,是当时浙南沿海地区流行的一种墓葬形式。」http://blog.sina.com.cn/s/blog_574dff1c0100g7va.html



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以上の記事から再検証するに、筆者の白水郎江南起源は今後正論となりそうな気配濃色である。

東アジアの派生地は今のところ中国東北部の遼東半島説が定説であるようだ。

これが朝鮮半島の全域に登場する。

ところがあにはからんや、これが紀元前500年頃で、日本ではすでに弥生時代になっている。
確かに世界の支石墓の大半が朝鮮半島に爆発的に生まれて集中した。
しかしながら九州北部海岸部の支石墓は半島に先立って縄文時代晩期に隆盛を始めているので、海を西から順にやってきたかと見え、日本への派生は中国遼東半島とほぼ同時期か、あるいは早かった可能性が非常に高い。その派生地は江南、長江河口部である。

ということは半島の支石墓は逆に、遼東と玄界灘沿岸日本の双方からの伝播だったのかも知れない。どっちにせよ倭人のしたことであろう。

海洋民が先に選んだのは、どうやら半島沿岸ではなかったようだ。これは水耕稲作の日本への先の伝播を後押しする考古学的発見である。

その後の隆盛はひとえに朝鮮半島が独占している。
けれどその分類からは、北部九州沿岸の支石墓は、中国南部、長江起源であることになる(要今後の発掘待ち)だろうか。

海洋民族と言ってもいろいろ”流派”があったようだ。


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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

ビジュアル世界の支石墓

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アイルランド
 
 
 
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フランス・ブルターニュ
 
 
 
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スペイン
 
 
 
 
 
 
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朝鮮
 
 
 
 
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日本・佐賀県金立遺跡
 
 
 
 
大事なのはブルターニュ。
支石墓をいくつも横に並べている。そうしていくと古墳の石室に似て来る。
 
 
 
海洋民族にはある共通の死生観がある。
 
 
 
それがなぜなのか、それは同一民族の太古の船による移動があったからなのか?
 
 
 
ドルメン・支石墓の西の果てがアイルランド、東の果てが日本である。そうなのか?それでいいのか?もっと東にそれは到達していないのか。今後の発掘に期待しよう。
 
 
 
 
 
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予告編・そがのいるか~~~の墓はいずこ?

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石造物は歴史の証拠品。
次回、蘇我入鹿の墓はどこだ?
 
そんなのいるか~~~でありますよ。
 
 
 
馬子の石舞台は土盛りをはがされたことが近年の調査であきらかになっております。乙巳の変以前に死んでいる馬子でさえそうされたわけです。石舞台の周囲には石をつめた四角い土盛りと周溝(しゅうこう)があったことも発掘で明白です。
 
では惨殺された朝敵とされた入鹿、蝦夷に墓は果たしてあったのでしょうか?
 
それは必ずあります。有間皇子も大友皇子も、どのような敵役であろうともちゃんと臣下が手厚く葬った墓があります。ただ入鹿の場合、それがちゃんとした墓であるかどうかなのです。首塚伝承はあっても、切られた胴体を祭った墓、つまり墳があったはずなのです。
 
それはどこかを次回探ります。
 
「そなのいるか~~?」
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「あほ、いるに決まってまんがな~~~~うらめしやあ」
 
 
 
 
昨今、斉明天皇の石棺という説が出た鬼の雪隠、鬼の俎、益田岩船などなど、飛鳥の同時代の石造物から探すことができますぞ。
 
 
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追加資料・大分県日田市にある石人

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おまけ資料として日田市誠和町陣ヶ原の鏡坂(NHK中継所そば)に置かれてある二基の石人について。
以前かわかつワールドブログだったかに訪問記録を書いたはずだが、ブログを削除したのでよそ様の記事を貼り付けておく。
 
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石人  大分県指定有形文化財

「二基のうち一基は、扁平(写真向かって左側)、他の一基は円体の石人である。
 
扁平石人の頂部は、45cm、表に人面、裏に矢をさした靭を素朴に刻んでおりもと筑後八女の磐井(いわい)の墓、岩土山古墳に立てられていたものである。
 
天保(1830年~40年)ころ、これが久留米候(ママ、「侯」)から中津の僧大含に贈られました。大含から隈町の山田氏に贈られて嘉永7年(1854年)鏡坂に置かれた。
 
下部の台石は、そのときのもので広瀬淡窓(たんそう・松下村塾出の学者)の詩と青邨の由来を記した銘が刻まれている。後、さらに現在の場所に移された。
 
円体石人(向かって右側)は甲冑の姿を模し、後年の作であるが、由来もよくわかっていない。
 
この場所は、地元の人でもはっきりと知らない。実際、分かりずらい。陣ヶ原の石人といえば、とりあえず方向は特定できる。日田市街から銭渕(ぜにぶち)橋をわたり右折。100m先のローソンの左脇に「石人」の案内板。そこを左折。そして陣が原の方へ上がってゆき3本目の道を左折。山なりに上がって頂上付近の右側に石人がいます」
http://www.bungobunka.com/pro31.html
 
 
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後年になって誰かが岩戸山の磐井の姿をした石人を模造したか?
 
 
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こちらが岩戸山にあったものを久留米侯が寺に贈呈したもの。
 
 
 

 
 
追加
日田市には石人を持つ古墳はないと書いたが、一基だけ天満古墳群の2号墳に置かれてあったそうだ。画像なし。
 
 
(わが大分県のサイトで、考古学に関して詳細に調査して発表している在野サイトは今のところなし。まことに残念。また石人の分布図もほかになし。よって、より詳細な地図を次に掲載しておこうと思う。  Kawakatu2014・3末)
 
 
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石人資料修正・石人の分布図と一覧表

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石人が置かれていた古墳の分布図
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一覧表
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熊本県文化財調査報告書2002年
 
 
石人全32基
■大分県 (豊国)
臼塚古墳 (うすづか)   大分県臼杵市(旧南海部郡臼杵)大字稲田
下山古墳 (しもやま)   大分県臼杵市大字諏訪
天満2号 (てんま)      日田市
 
■ 宮崎県  (日向国)
野地古墳         宮崎県延岡市  (臼杵と同族の日向海人族であろう)
 
■福岡県 (筑紫国)全10基
石人山古墳(せきじんさん) 福岡県八女市広川町大字一条字人形原
岩戸山古墳(いわとやま)  八女市吉田字甚三谷(石馬・靫・石獣など複数)
石神山古墳(いしがみやま) みやま市高田町上楠田
豊福古墳群・鶴見山古墳(つるみやま)  八女市豊福字鶴見山
乗場古墳 伝承      八女市
御塚古墳 伝承      八女市
童男山(どうなんざん)  八女市
弥平山古墳(やひらやま)伝承 大牟田市
 
■佐賀県
西原古墳         佐賀市 岩見型盾※いわみがたたて→別に記事あり

■熊本県(火(肥・氷)国)
臼塚円墳         山鹿市石字臼塚
清原古墳群 (せいばる)  玉名郡菊水町~和水町江田(石製靫もあり)
※この古墳群のひとつ江田船山には石人はなかった。(肥後の森古墳館担当者。電話確認済み)

チブサン古墳       山鹿市大字城字西福寺(現物東京国立博物館) 
三の宮古墳(さんのみや) 荒尾市原万田  
参考・木柑子二ッ塚古墳  西合志町(様式に違いあり)
参考・木柑子高塚     菊池市
西原古墳         菊池市
袈裟尾高塚古墳(けさおたかつか)菊池市
小野崎 古墳不明     菊池市
富の尾          熊本市
北原 1号         城南町
石之室          城南町
天堤(あまつつみ)    竜北町 
姫ノ城          竜北町
中ノ城(なかのじょう)  竜北町
今城大塚         御船町
八代大塚         八代市
竹の島          有明町
 
 なお現在、理化学的分析で、石人破片の再研究が進展中とのことである。
楽しみにしておきたい。
 
この資料をいただいた蕨手(Warabite)氏に感謝と拍手
ちなみに「蕨手 わらびて」とは装飾文様のひとつ蕨手文からの名乗りである。
相変わらずの仕事と家庭の板ばさみの超多忙の中、手間をかけさせました。ありがとうございます。
 
 
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やっとこれで蘇我入鹿の墓に取り掛かれる。
 
 
 

蘇我蝦夷・入鹿親子の墓は益田岩船か鬼の雪隠

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そがのいるか~~ですけど、クリックしてみ
 
 
乙巳の変
 
「皇極4年(645)6月12日、板蓋宮で入鹿を殺した中大兄皇子たちは、諸皇族、諸臣を従え飛鳥寺にはいって備えを固め、入鹿の死骸を甘橿丘邸宅の蝦夷のもとに届けさせた。邸宅の各門の警備にあたっていた渡来系の一族、東漢直らは一戦を交えようと軍装を整えるが、皇子側の説得工作により抵抗を断念する。翌13日、蝦夷は編纂中の天皇記、国記などの重要書類や財宝に火を放って死に、蘇我本宗家はあっけなく滅亡してしまう。その日のうちに、蝦夷、入鹿の遺骸は墓に葬って差しつかえないという許可があり、服喪(ママ、「副葬」)も許されたという。いったい誰が二人を葬ることを許され、喪に服したのだろう。その後、その人たちの身の振り方はどうなったのだろうか。」
 
 
 
 
 
 これまでの学説や伝承での蝦夷・入鹿の墓
■第一候補 水泥古墳御所市大字古瀬小字ウエ山
「江戸時代享保17年(1734)に書かれた大和志という書物には「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」とあり、現在の御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳とが、日本書紀にいう蝦夷、入鹿の双墓に当たると古くから言いならわされてきたことがわかる。
 
この水泥古墳は直径約14m、高さ約5mの円墳で、長さ10.7mほどの横穴式石室をもつ。石室内には玄室に一つ羨道に一つと、二つの石棺が納められている。追葬されたと見られる挨道部の石棺は、蓋の縄掛け突起正面に直径30cm程の6弁の蓮華文が津き彫りにされている。この石棺と蓮華文の取り合わせは、飛鳥時代に仏教文化が人々生活のいろいろな場面に浸透していった様子を物語る、一風変わった資料ということができるだろう。石室は古い時期に盗掘にあっていて、古墳の主だった人物を推定する手掛かりとなるような遺物は、何一つ残されていない」
http://www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/soga/soga09_4.html
 
 
「水泥古墳は、約100メートルの間隔を隔てて存在する水泥北古墳と水泥南古墳を併せて、2基一括で昭和36年に国指定史跡に指定されている。
 
【水泥北古墳】6世紀中ごろ(古墳時代後半)
  西尾邸内にある、直径約20メートルの円墳で両袖式の横穴式石室を有する。
 石室は、全長13.4m、玄室の長さ5.6m、同幅約2.9m、同高さ約3.3mの大規模な石室で、花崗岩の大きな石を用いて構築している。6世紀中頃の築造である。
 現在すでに棺はないが、小規模なトレンチ石棺材となる凝灰岩の破片が出土したので、元は石棺が安置されていたと推測できる。また、副葬品などは知られないが、追葬時に瓦質円筒状の配水管を使用していた。

【水泥南古墳】6世紀後半(古墳時代末期)
  南古墳は六世紀後葉に築造された、直径25mの円墳とみられる。北古墳に比べると規模は小さいが、横穴式石室が南方向に開口している。石室の全長は約15m、玄室の長さ4.6m、幅2.4m、高さ2.6mである。玄室の床面には拳大の礫が敷かれていた。
 
 ※いずれも終末期一歩手前。馬子のあとくらい。入鹿の時代は終末期になる。
 
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  石室のこの礫床の下部には排水溝が造られていた。排水溝は石室のほぼ中央を溝状に堀り、溝の中には拳大程度の礫を詰めるものである。この溝は羨道部を通って石室外に出るが前庭部の発掘調査の結果、さらに南方に方向に延びたのち、東に曲がって谷の方向に続くことが判っている。

  石室内には、玄室と羨道にそれぞれ1基ずつの家形石棺が置かれている。
 玄室のものは二上山の凝灰岩を、羨道のものは竜山石(兵庫県加古川流域で産出する凝灰岩)を使っている。

  特に注目されるのは、羨道にある石棺蓋の縄掛け突起である。小口部の縄掛け突起には蓮華文(ハスの花をかたどった模様)があり、古墳文化と仏教文化の結合の一例として著名である。また、側面の縄掛け突起は削られて小さくされた痕跡が残っている。

これは、追葬時に石棺を石室内に搬入するに際して、羨道側壁に縄掛け突起が当たったため、削ってしまったものであろう。
  平成7年度の調査で、高杯・はそう(瓦へんに泉)・台付はそう(瓦へんに泉)台付長頸壺などの土器(須恵器)や、羨道にある石棺内から金銅製の耳飾り(耳環)が出土した。」
http://goseshikankou.jp/syousai/siseki%20kofun/kosenomiti/midorokohun/midorokohun.html
 
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蘇我氏なら方墳ではないのか?円墳は??
年代も入鹿の生きた7世紀初~中盤の50年近く古く、早すぎる?終末期古墳の一歩手前であるから、入鹿より蝦夷、八角形なら斉明。
蝦夷(6後半~7中盤)がそんなに早くから墓を?しかもまだ生まれてもいない子供の分のものも?北古墳はまず無理。南古墳なら蝦夷が生まれてすぐ作ったことになってしまうが?
 

■第二候補島の山古墳
「4世紀~5世紀に築造された全長約200mの前方後円墳。飛鳥川と寺川に挟まれた平地にぽつんとある。(周囲には20基を超える古墳が点在)

1995年の調査で埋葬部分が確認され、その際、ベンガラで着色された土とともに玉類や石製腕飾類(※)、小刀などの鉄製品が発見されまた、その中央部には木棺や遺体が腐食したため形成されたと思われる、陥没跡や土が見つかり、大きく報道された経緯を持つ。

 
これに先立つ明治時代にも一度、発掘調査され、多くの出土物があり、盗掘を免れた数少ない古墳のひとつの分かっている。

※貝や石で作られることが多く、 古墳(死者)への副葬品として使用された。
 修復されたものの見つかっていることから 非常に大切なものだったらしい。
 主に大型の古墳で発見されることが多く、 埋葬者の地位の高さに比例している。
 つまり、これが発見される古墳というのは注目すべきものである、ということになる。
この古墳、その発掘物からの注目度が高い、ということもあるが、
実は…「蘇我入鹿の墓」として地元では伝わってきた古墳であります。」
http://ameblo.jp/na8ce-nsx/entry-11002338190.html
 
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どう見ても島の山は終末期の古墳ではない。
しかも周溝にまんまんと水がある前方後円墳で、天皇陵クラス。
ありえません。どう考えても「島の大臣」と呼ばれた祖父馬子からの発想。邸宅内に池を持ち、島が浮かんでいたから嶋大臣といわれた。
 
 

■終末期古墳とは
まず前方後円墳はヤマト地方では終わっている時期=飛鳥時代以後の古墳で、円墳、方墳、八角形墳、上八角下円(方)墳である。古墳時代最盛期は4~6中盤まで。この頃薄葬令も出ており、大王以外は大きな古墳は作れなくなる。形式は横穴式、サイズは数十メートル、周囲に池はなく小規模な溝程度。切石は鋭利になり、石棺も長持ちが4世紀~5、家型6世紀、終末期家型は鋭角に洗練される。~7世紀前半ほどでヤマトので古墳時代は終わる(東国は継続)。最終末には石棺はくりぬき式に。石槨にもくりぬき横口式(牽牛子塚古墳など)が主流。
 
 


 
 

4~5世紀築造であれば入鹿・蝦夷の6後半~645年=7世紀中ころの時代にはまったく合わない。水泥の二基も6中~後半であるが、前もって造られるものなのでぎりぎりではあるが合うか?いや無理。

 
しかし祖父馬子の桃源墓(石舞台古墳)は方墳である。ちょっと難しい気もする。
島の山は時代的に論外、水泥もやや苦しい。百歩譲るなら水泥には臣下の手で首のない遺骸が葬られたとなるが、古代には重要なのは首のほう。たましいは頭部に宿るとされたからである。(さから武士もボルネオの首狩族も首にこだわった)
自害した父・蝦夷はさておき、入鹿は首をはねられ、その首塚がある。これもまた伝承であり、後世の造作であろうか。
 
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この塚があった場所は奇しくも鎌足と中大兄の密談が行われた蹴鞠会の会場で、ケヤキ(槻 つき)の広場であったというので、そうした因縁から出た風聞であろう。
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-5/2011_03_01.htm
 
 
問題は首と遺骸は別々に葬られた可能性があるということなのだ。

首つまり本墓はどこだろう?
 
それは馬子の石舞台の土盛がすべてはがされたという近年の発掘調査から、乙巳の変のあとに馬子の墓すらそういう目にあったのに、いくら記録が埋葬を許可したと書いてあろうと、墓などそうそうは造れなかったのではないか?という疑問があるからだ。
 

記録では上記のように、
1「皇極4年(645)6月12日、板蓋宮で入鹿を殺した中大兄皇子たちは、諸皇族、諸臣を従え飛鳥寺にはいって備えを固め、入鹿の死骸を甘橿丘邸宅の蝦夷のもとに届けさせた。」
2「その日のうちに、蝦夷、入鹿の遺骸は墓に葬って差しつかえないという許可があり、副葬も許された」
となっている。
 
しかし、なぜ肝心の埋葬した墓所を書いていないのか?
 
 
馬子の墓がはがされたのであるなら、当事者はもっとひどい扱いをされて当然ではないのか?

もちろんそれとは逆に、惨殺したからこそ丁重に葬ったという考え方もあろう。祟りを恐れるならばそういうこともあり得る。ただ、蘇我氏は大王家ではなく、皇族でもない。
 
森浩一はそれは鬼の雪隠かも知れないと書いている(『敗者の古代史』)。
筆者としては第二候補になる。 

飛鳥には製作途中で破棄されたらしき古墳石室の形状をした石造物がいくつかある。いわゆる鬼の雪隠(せっちん)もそうだし、鬼の俎(まないた)、益田の岩船などがそれである。
 
最近の発掘調査報告で、鬼の雪隠と俎は、斉明(皇極)女帝の改葬前の石室?の一部ではないかというのが出されている。
 
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雪隠(上)をひっくり返して俎(下)にかぶせるとまあ、石室になるか?
雪隠の写真下部のカーブした部分が羨道入り口だろうか?
しかし底になる俎の不明な刻み込みは石棺の邪魔にならぬか?
 
 
 
「奈良県明日香村教育委員会が9日発表した越塚御門古墳の発掘成果を受け、研究者からは、同村の観光地でもあるむき出しの石室「鬼の俎2 件(まないた)」「鬼の雪隠(せっちん)」が、越塚御門に隣接する牽牛子塚古墳に改葬される前の斉明天皇陵だったのではないかとの見方が出ている。
 
 板状の石「鬼の俎2 件」とドーム状になった石「鬼の雪隠」は現在、なぜか約30メートル離れた場所にあるが、組み合わせれば越塚御門の石室と同じ構造になる。東側でも明治時代に俎状の石が見つかっており、古代には東西二組の俎と雪隠があったとみられている。
 
 これに着目する京都橘大の猪熊兼勝名誉教授(考古学)は「越塚御門の発見はこの時期の天皇家が俎・雪隠型の石室を採用していたことを教えてくれた。斉明天皇と娘間人皇女は牽牛子塚に改葬される前、東西の俎・雪隠にそれぞれ葬られていたのだろう」と話す。
 
 奈良芸術短大の前園実知雄教授(考古学)は「俎・雪隠は斉明天皇が改葬された後、壊されたのだろう。だから離れ離れになっているのではないか」との見方を示した。」
http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010121001000024.html
 
 
 
 
壊されて離れ離れ・・・?ちょっと納得できない。
いくら用がなくなったからと言っても女帝の墓をそこまでばらばらに壊す必要があろうか?

たぶれ心の女帝ゆえにそうされたか?有間皇子の変に際して、蘇我赤兄は天皇の3つの失政を挙げた。 大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、長く溝を掘って公糧を損費したのが二、船に石を載せて運び積んで丘にしたのが三である。神功皇后のモデルともされ、朝鮮出兵の途中、仮宮の九州朝倉で崩御して、遺骸は飛鳥河原で喪に付したという。その墓は牽牛子塚古墳に改葬される前はどこにあったかが不明だった。
 
天智称制6年(667)の陰暦2月27日、「斉明天皇と妹の間人皇女はしひとのみこを小市崗上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に合葬し、同じ日、娘の大田皇女おおたのひめみこを陵の前の墓に葬った。」とある。これが最初の墓か改葬かだ。もし最初の墓で、「合葬し」たのなら既成の墓だったはずだ。越智の丘である。越智は伊予海人族氏族地名である。高市郡越智のことだ。
 
ここに天皇という地名があり、車木ケンノウ古墳が岡の上にある。記録が正しいのなら改葬だったとしても最初の埋葬地だったとしても、高市郡明日香村大字越の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)よりもこっちが墓だったのでは?再調査で円墳が八角形だとされればまず斉明陵であろう。
 
牽牛子塚古墳の石室はくりぬき式で、最新の技術で造られているので、斉明には確かにふさわしいわけだが・・・。問題は「岡の上」であろう。牽牛子塚古墳の立地は駅前の越の岡の上にあり、八角形である。やはり考古学の言うとおりここでよさそうだ。これが改葬されたほうの墓であろう。だが元の古墳は?
 

さて、斉明陵はまた検証するとして、鬼の雪隠がひっくり返されてあるのは蝦夷か入鹿のほうがふさわしいようにも見える。これが筆者の第二候補。森浩一の第一候補である。しかし、斉明の元の墓がふさわしいように見える。
 
 
筆者は益田岩船を入鹿・蝦夷の石室の第一候補にあげたい。(あるいは益田が元斉明で、雪隠の方が入鹿の可能性もある)
盛り土もなく、二つの羨道らしき穴がうがたれている。
 
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画像を横にしてみるとあきらかに石室の羨道である。
右側の三角部分が屋根になり、底はフラットに削られているので、それが天地であろう。
 
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飛鳥の亀石同様の縞の刻みが入っており、あきらかに斉明=皇極や蘇我氏の同時代のもので、石工は百済からやってきた建築博士ではないか?飛鳥時代の終末期古墳の石室や石棺の石造技術は突然熟練する。切石が鋭利で、きれいに磨かれる。あきらかに渡来技術によって洗練されているのである。
 

だからこの岩船や、鬼の雪隠などは間違いなく蘇我氏同時代の、それも石にこだわった皇極女帝の頃のものでまず間違いはない。
 
 
飛鳥時代の終末期古墳は石室はほぼこういう形である。
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益田岩船のような天地が一枚岩のくりぬき形式はほとんどなく、支石墓のように足組みと天井石は別々の組み合わせ式がほとんどだ。しかし女帝と蘇我氏の時代にのみ、百済のペルシア人かも知れない建築士と石工が来ているのである。
岩をくりぬくという技術はなまはんかなものではなく、その前後にありえない技術。
 
巨石をくりぬいて入り口石(石槨 せきかく)を一枚岩で作り、しかも内部に石室を二つ作ろうとする財力は、天皇か大王のようだと言われた蘇我親子くらいしか考えられない。石室は間仕切りされただろうから、その形式も全国的には非常にわずかしかなく、普通は柱で仕切る。そこにエンタシスを使ったとしたら間違いなく百済工人の仕事だが。
 
横口式石槨を持つ終末期古墳
牽牛子塚古墳 - 八角墳、斉明稜の可能性大、凝灰岩をくり抜いた横口式石槨
高松塚古墳 - 径18メートルの円墳、横口式石槨
中尾山古墳 - 対角長約30メートルで三段から五段の八角墳、横口式石槨
束明神古墳 - 対角長約36メートルの八角墳、凝灰岩製の横口式石槨
マルコ山古墳 - 径20メートルの円墳、凝灰岩製の横口式石槨など
 
 
 
それが乙巳の変で製作を中止することになって、盛り土を剥ぎ取られ?石室入り口石ごと横倒しされ、放置されてきたのではあるまいか?岩船山の頂上で石室は泣いている。
 
 
 
 
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サクラと日本人 /サクラはいつ梅にとって変わったのか?/正しい桜の愛し方

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日本人が梅からサクラへ心変わりした、その時期は特定できるだろか?
 
 
 
 
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卒業式バージョン表彰状
 
 
 
 
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画像はすべて今年2014のサクラ。東九州3月24日本日撮影。
 
 
 
◆花見の歴史
「花見は奈良時代の貴族の行事が起源だと言われている。奈良時代には中国から伝来したばかりの梅が鑑賞されていたが、平安時代に桜と変わってきた。その存在感の移り変わりは歌にも現れており『万葉集』において桜(山桜)を詠んだ歌は40首、梅を詠んだ歌は100首程度だが、平安時代の『古今和歌集』ではその数が逆転する。また「花」といえば桜を意味するようになるのもこの頃からである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E8%A6%8B#.E6.AD.B4.E5.8F.B2

●『日本後紀』嵯峨天皇812年(弘仁3年)
神泉苑にて「花宴の説」

●831年(天長8年)宮中に移り、天皇主催の定例行事へ(『源氏物語』花宴)
●吉田兼好『徒然草』

●1598年(慶長3年)3月15日 秀吉「醍醐の花見」

野外に出ての花見はこの時代の絵画資料から確認される。
 
花見の風習が広く庶民に広まっていったのは江戸時代、徳川吉宗が江戸の各地に桜を植えさせ、花見を奨励してからだといわれている。江戸で著名な花見の名所には愛宕山などがある。この時期の花見を題材にした落語としては『長屋の花見』や『あたま山』がある。

さて、和歌に詠まれる「花」が梅から山桜へ一大変化するのは『古今和歌集』からである。そのきっかけになったのはいったい何だったか?
それは嵯峨天皇からだと考えてよいだろう。
 
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古今の成立は・・・
「仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、延喜5年(905年)4月18日に奏上された」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86#.E6.88.90.E7.AB.8B
とされる。
 
 
嵯峨天皇は風雅を好み、よく花鳥風月を解した。
言い換えるとあまり国政には?だったか?
京都嵯峨野の名前も嵯峨天皇がこよなく愛して地名を変えた可能性があるらしい。それまで嵯峨野は葛野(かどの・かづの)であった。
 
 
山桜が主流になる契機は嵯峨天皇が催した神泉苑「花宴の説」からであろう。
もちろんそれまでも山桜は貴族たちの間で徐々に話題になってはいただろうが、天皇主催で行われた「花見」はやはり大きかったはずである。諸氏こぞって山桜を歌に詠み込むのが流行になった。

主役として紀友則、貫之の二人がいる。古今編者である。不遇の紀氏や大伴氏は文人として大成していくしかなかった。これも和歌でわかる一種の敗者の古代史である。
 
 

色も香も おなじ昔にさくらめど 年ふる人ぞあらたまりける  友則・古今57
 

ひさかたの 光のどけき春の日に しづこころなく花の散るらむ 友則・古今84
 

宿りして春の山辺に寝たる夜は 夢のうちにも花ぞ散りける   紀貫之・古今
 
梓弓 はるの山辺を 越えくれば 道もさりあへず 花ぞ散りける   紀貫之・古今
 
桜色に衣は深く染めて着む  花の散りなむ のちの形見に     紀有朋・古今
 
 
 
奈良時代までは中国を手本としていたので梅・牡丹を最高としたが、藤原摂関家の時代からは国風文化が盛んになる。なぜならほぼ外に目を向けなかった、中国とあまり付き合わなくなった・・・だからこそ半島のような儒教まる暗記政治にも深入りせずに済んだ・・・結果として国の花としての桜が定着するきっかけになり・・・せっかく自生している山桜に目も向けなかったし歌も読まなかった無味乾燥した半島のようにはならず、オリジナルの職人文化やわび・さびを生み出せた・・・となるわけだろうと思う。
 
 
言い換えると朝鮮は高い山岳の向こうの中国や北方異民族に戦々恐々とせねばならぬ歴史的な立地に苦悩し、しかたなく儒教・道教中心の中国政治をコピーすることで、盟主としての中国の属国になる道を選び、足元しか見続けなかったために、山桜をめでるだけの余裕がなかった・・・哀れではあるが、海に隔てられた列島に吹き寄せてくる偏西風がその山桜を日本にもたらし、国風文化という一種の鎖国状態が、かえって日本人的な個性を渡来文化に加味させることとなり、ゆったりと風雅を楽しんだということではあるまいか?
 
 
やがて桜は武士のシンボルとなり、明治政府では菊花の天皇に対するそれを助ける政府のシンボルとなる。それが戦前から軍部のシンボルとまなってゆき、ようするに花と散るとなる。要するにサムライの美学をそのまま軍隊が取り込んでしまったのだった。
 
 
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植物学的にはサクラの原種は・・・
「サクラのおおもとの原産地はヒマラヤ近郊と考えられており、北半球の温帯に広範囲に分布している。日本では、ほぼ全土で何らかの種類が生育可能である。さまざまな自然環境に合わせて多様な種類が生まれており、日本においてもいくつかの固有種が見られる。たとえばソメイヨシノの片親であるオオシマザクラは伊豆大島など、南部暖帯に自生する固有種とされる。日本では少なくとも数百万年前から自生しているとされ、鮮新世の地層とされる三朝層群からムカシヤマザクラの葉の化石が見つかっている」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9
 
このようにサクラはけっして朝鮮半島だけから来るのではなく、もとはシベリア原種にはじまる。なによりもサクラ・山桜を日本人ほど大切に思う民族はほかになく、国のシンボルでもある。
 

しかしサクラは決して日本の国花ではない
「一般に国を象徴する花として語られコインや切手の意匠として採用されてきたが法定のものではない。」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%8A%B1#.E3.82.A2.E3.82.B8.E3.82.A2

国花と言えるのは古くから皇室の紋章となった菊花である。しかしそれもあまり古くはない。これは醍醐天皇あたりから。1868年、日本の『太政官布告』195号は、菊花を最高権威の象徴として天皇のみがこれを独占し、天皇の専用の紋章とすることを規定した。ゆえに戦後の日本には正式な国花はないというのが正しい。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q115174881
 
 
 
サクラを精神性のシンボルにしたいのは一部の国粋主義者であろうか?
「同じ花なら死ぬのは覚悟、みごと散りましょ国のため」
軍歌にも歌われたがそもそもは
「花は桜木、人は武士」であって
最初からこうした「サクライメージ」は「散る」=死を常とするいくさのプロだけの観念で、平安時代の頃ははなやかで心を揺さぶる風雅の象徴であった。そこに最初に「サクラ=死」を持ち込んだのは西行法師であろう。
 
 
 
願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎのもち月の頃   西行法師・山家集
 
 
 
死生観、仏教観から出たもので、この場合のサクラは満開で、はらりはらりと散って行くもの、ぱっと散るいさぎよさの象徴ではなかったのである。
あなたがどのサクラを愛するかは、実はあなたのイデオロギーや感受性、主観性のたまものであって、サクラ本人になんの責任もない。まことに人とは小さく、こざかしい。
 
風雅による真の「サクラ愛」の局地の歌はこれではないか。
 
 

世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし 
                       在原業平・古今

 
 
 
まあ、この人くらいもてれば、心のゆとり、サクラの本性にこれほど最接近できたのだという、あっぱれな手本の歌である。サクラもここまで思っていてくれれば散って本望というもの。
 
 
 

  なりひらは 花をめでるといいながら 袖の中には おみなごの手
 
                         Kawakatu亭
 
 
これこそが男の本懐ではないか。
 
 
お粗末。
 
 

花を主義の道具にするのは無粋の中の無粋ということでありますなあ。

程度が低いんじゃないの?
 
 
 
 
 
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桜、さまざまな品種

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この季節は桜の記事を毎年書いております。
今回は数多い桜の品種の一部を。
特に名前の優雅なものをメインに。
 
 
など。
 
 
 
 
かんざん(関山)
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かんざくら(寒桜)
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おおはらなぎさ(大原渚)
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大島渚じゃないよ。
 
 
 
 
 
おかめ
 
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きざくら(黄桜)
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酒の名前にもなった。ウコン桜と同種か?
 
 
 
 
おおしま(大島)
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おむろありあけ(御室有明)
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京都御室にちなむ
 
 
 
 
たおやめ(手弱女)
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なんともはなりとした名前。
 
 
 
 
べにしだれ(紅枝垂桜)
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やまざくら(山桜)
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ようきひ(楊貴妃・八重桜)
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けんろくえんくまがい(兼六園熊谷)
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えどひがん(江戸彼岸)
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そして、そめいよしの(染井吉野)
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かわづ(河津)
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あなたのお好みは?
 
 
 

 
 
 
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河津桜
 
 
1990年代、記憶が正しければ、女性たちの間で桜色、サーモンピンクのプリーツの多い、くるぶしほどまである長いフェミニンなスカートが流行ったことがある。
 
 
流れるようなドレープに目を奪われたものだった。
 
 
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大学時代から広告業界を目指していたぼくは、当時、かなりファッションにも興味があり、アンアンやノンノが愛読書の変わった文学少年だった。やがてそういったカタログ小説として田中康夫が登場し、してやられた思いがあった。
 
 
 
 
長じて、桜を愛する年齢になり、ぼくは桜と言えばサーモンの薄紅をこそ最高と感じるようになる。
 
 
風にそよぐそのはかなさと透明感・・・。
 
 
 
 
やはりはなはさくらである。
 
 
 
 
 
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大空に おほふばかりの袖もがな  春咲く花を 風にまかせじ
                    よみ人しらず・後撰和歌集
 
 
 
 
 
 
 
 
のぼりつきて 見上げし丘の桜木の 息をも目をも奪い去るらむ
 
 
                             Kawakatu亭
 
 
 
 
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埼玉県行田市古墳の丘桜http://kazemachit.exblog.jp/5411181
 
 
 
ご閲覧、感謝。花に更なる感謝。
 
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曹操と孫権の策謀・三枚の呉年号入り神獣鏡の謎を解く 対置式平縁神獣鏡

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呉に多い対置式平縁神獣鏡
 
 
 
日本で出土している呉紀年入り鏡はこれまで二枚であったが、
B、呉の年号を有する紀年銘鏡 全2面
●赤烏元年(西暦238年)銘 
 11、山梨県市川三郷町大塚・鳥居原狐塚古墳(円・中期5中)・対置式平縁神獣鏡
●赤烏七年(西暦245年)銘 
 12 宝塚市安倉南1-4-15 ・安倉高塚古墳(円・前期4C頃)・対置式平縁神獣鏡
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/?m=lc&p=6
 
今回、京都府上狛古墳に関して呉鏡出土を追加する。
●元康元年(西暦291年) 銘
   京都府木津川市山城町・上狛古墳(円・4C前?)・対置式平縁神獣鏡
 
 
この古墳からは晋年代紀年鏡も出ている。
C、晋の年号を有する紀年銘鏡
元康?年(291~299年)銘全1面
 13、京都府木津川市(旧相楽郡)山城町・伝・上狛古墳(円・4C前?)・対置式平縁神獣鏡
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/?m=lc&p=6
 
 
元興元年は西晋が起こった年であるので、上狛から出たと伝承されてきた13とほぼ同年代の呉鏡と晋鏡をもらっていることとなる。つまり当初は呉とつきあっていた上狛古墳の主は、呉が滅ぶと魏・・・ではなく少し間を置いて新興国家の西晋と付き合い始めたことになる。
 
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しかも神獣鏡の絵柄は二枚とも同じ様式、対置式である。
呉は神獣鏡の本場だと言ってよい。神獣鏡の神仙思想による絵柄、さらに江南以南で道教が成立したことから、南朝こそが「鬼道」の派生地だと言う事ができる。
その呉は東シナ海で真東に琉球諸島に対面する。

中国出土の紀年銘鏡は全部で130枚ほどである。もともと本場にも少ない鏡である。そのうちの三枚が日本にもたらされていた(一枚は伝世)こととなる。魏の中心地である中原、黄河流域には神獣鏡と呼べる鏡がほとんど出土していない。まして銅鏡よりも実は鉄鏡のほうが流行していたという報告もある。
 
対して、呉の中心地、長江中・下流域では対置式・重列式などの各種神獣鏡が中心で、大型画像鏡や八鳳鏡も多い。つまり呉地域は神獣絵柄の派生地なのである。
魏の曹操は呉を挟撃する相手として倭を選ぼうとする。ところが当時の倭はこのように呉の死生観を絵柄にする神獣鏡を本願としており、しかも東北の公孫氏ともつきあっていた。しかし曹操はどうしても、位置的に呉の真東にあるという倭国と共闘したかったと思われる。これは曹操の祖先の代からそうであったようだ(倭人せんの出土)。そこでこう考えてみるのも面白い逆転の古代史ではあるまいか?
 
 
 
曹操はまず倭と公孫氏のえにしを断ち切るために東北地域を先に滅ぼしにかかった。そして公孫氏が滅びたことで倭国の共立体制に動揺が走る。公孫氏と呉は紆余曲折はあったけれど、最終的に同盟している。呉はこれで魏を挟撃する相方を失ったことになる。残るは倭しかない。ところが女王卑弥呼は大乱の中で共立され魏のほうを選んでしまう。これで呉の命運は終わったことに近い。
 
魏は呉がつきあっていた倭国とは別の倭国なのだと主張し、その位置を煙に巻く必要があった。
 
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そこで邪馬台国の位置を、呉の真東にある琉球に設定。するといよいよ呉にとって倭は目前の敵になってしまう。琉球とは古くからつきあっていた呉(将軍を南海に派遣の記事あり)としては、それが本島であろうと琉球であろうと脅威となった。
あるいはこう考えてみても面白い。曹操は本気で倭の邪馬台国は琉球だと信じていた。
 
 
以上、邪馬台国大和説側の論理を逆手にとって論じてみた。
西川寿勝「鏡がうつす邪馬台国体制の成立と崩壊」『邪馬台国--唐古・鍵遺跡から箸墓古墳へ』雄山閣 2010 第二章より
 
 
 
あるいは本当に、邪馬台国は沖縄にあったのかも知れない。
 
 
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