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乙巳の変
「皇極4年(645)6月12日、板蓋宮で入鹿を殺した中大兄皇子たちは、諸皇族、諸臣を従え飛鳥寺にはいって備えを固め、入鹿の死骸を甘橿丘邸宅の蝦夷のもとに届けさせた。邸宅の各門の警備にあたっていた渡来系の一族、東漢直らは一戦を交えようと軍装を整えるが、皇子側の説得工作により抵抗を断念する。翌13日、蝦夷は編纂中の天皇記、国記などの重要書類や財宝に火を放って死に、蘇我本宗家はあっけなく滅亡してしまう。その日のうちに、蝦夷、入鹿の遺骸は墓に葬って差しつかえないという許可があり、服喪(ママ、「副葬」)も許されたという。いったい誰が二人を葬ることを許され、喪に服したのだろう。その後、その人たちの身の振り方はどうなったのだろうか。」
これまでの学説や伝承での蝦夷・入鹿の墓
■第一候補 水泥古墳御所市大字古瀬小字ウエ山
「江戸時代享保17年(1734)に書かれた大和志という書物には「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」とあり、現在の御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳とが、日本書紀にいう蝦夷、入鹿の双墓に当たると古くから言いならわされてきたことがわかる。
この水泥古墳は直径約14m、高さ約5mの円墳で、長さ10.7mほどの横穴式石室をもつ。石室内には玄室に一つ羨道に一つと、二つの石棺が納められている。追葬されたと見られる挨道部の石棺は、蓋の縄掛け突起正面に直径30cm程の6弁の蓮華文が津き彫りにされている。この石棺と蓮華文の取り合わせは、飛鳥時代に仏教文化が人々生活のいろいろな場面に浸透していった様子を物語る、一風変わった資料ということができるだろう。石室は古い時期に盗掘にあっていて、古墳の主だった人物を推定する手掛かりとなるような遺物は、何一つ残されていない」
http://www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/soga/soga09_4.html
「水泥古墳は、約100メートルの間隔を隔てて存在する水泥北古墳と水泥南古墳を併せて、2基一括で昭和36年に国指定史跡に指定されている。
【水泥北古墳】6世紀中ごろ(古墳時代後半)
西尾邸内にある、直径約20メートルの円墳で両袖式の横穴式石室を有する。
石室は、全長13.4m、玄室の長さ5.6m、同幅約2.9m、同高さ約3.3mの大規模な石室で、花崗岩の大きな石を用いて構築している。6世紀中頃の築造である。
現在すでに棺はないが、小規模なトレンチ石棺材となる凝灰岩の破片が出土したので、元は石棺が安置されていたと推測できる。また、副葬品などは知られないが、追葬時に瓦質円筒状の配水管を使用していた。
【水泥南古墳】6世紀後半(古墳時代末期)
南古墳は六世紀後葉に築造された、直径25mの円墳とみられる。北古墳に比べると規模は小さいが、横穴式石室が南方向に開口している。石室の全長は約15m、玄室の長さ4.6m、幅2.4m、高さ2.6mである。玄室の床面には拳大の礫が敷かれていた。
※いずれも終末期一歩手前。馬子のあとくらい。入鹿の時代は終末期になる。
石室のこの礫床の下部には排水溝が造られていた。排水溝は石室のほぼ中央を溝状に堀り、溝の中には拳大程度の礫を詰めるものである。この溝は羨道部を通って石室外に出るが前庭部の発掘調査の結果、さらに南方に方向に延びたのち、東に曲がって谷の方向に続くことが判っている。
石室内には、玄室と羨道にそれぞれ1基ずつの家形石棺が置かれている。
玄室のものは二上山の凝灰岩を、羨道のものは竜山石(兵庫県加古川流域で産出する凝灰岩)を使っている。
特に注目されるのは、羨道にある石棺蓋の縄掛け突起である。小口部の縄掛け突起には蓮華文(ハスの花をかたどった模様)があり、古墳文化と仏教文化の結合の一例として著名である。また、側面の縄掛け突起は削られて小さくされた痕跡が残っている。
蘇我氏なら方墳ではないのか?円墳は??
年代も入鹿の生きた7世紀初~中盤の50年近く古く、早すぎる?終末期古墳の一歩手前であるから、入鹿より蝦夷、八角形なら斉明。
蝦夷(6後半~7中盤)がそんなに早くから墓を?しかもまだ生まれてもいない子供の分のものも?北古墳はまず無理。南古墳なら蝦夷が生まれてすぐ作ったことになってしまうが?
■第二候補島の山古墳
「4世紀~5世紀に築造された全長約200mの前方後円墳。飛鳥川と寺川に挟まれた平地にぽつんとある。(周囲には20基を超える古墳が点在)
1995年の調査で埋葬部分が確認され、その際、ベンガラで着色された土とともに玉類や石製腕飾類(※)、小刀などの鉄製品が発見されまた、その中央部には木棺や遺体が腐食したため形成されたと思われる、陥没跡や土が見つかり、大きく報道された経緯を持つ。
これに先立つ明治時代にも一度、発掘調査され、多くの出土物があり、盗掘を免れた数少ない古墳のひとつの分かっている。
※貝や石で作られることが多く、 古墳(死者)への副葬品として使用された。
修復されたものの見つかっていることから 非常に大切なものだったらしい。
主に大型の古墳で発見されることが多く、 埋葬者の地位の高さに比例している。
つまり、これが発見される古墳というのは注目すべきものである、ということになる。
この古墳、その発掘物からの注目度が高い、ということもあるが、
実は…「蘇我入鹿の墓」として地元では伝わってきた古墳であります。」
http://ameblo.jp/na8ce-nsx/entry-11002338190.html
どう見ても島の山は終末期の古墳ではない。
しかも周溝にまんまんと水がある前方後円墳で、天皇陵クラス。
ありえません。どう考えても「島の大臣」と呼ばれた祖父馬子からの発想。邸宅内に池を持ち、島が浮かんでいたから嶋大臣といわれた。
■終末期古墳とは
まず前方後円墳はヤマト地方では終わっている時期=飛鳥時代以後の古墳で、円墳、方墳、八角形墳、上八角下円(方)墳である。古墳時代最盛期は4~6中盤まで。この頃薄葬令も出ており、大王以外は大きな古墳は作れなくなる。形式は横穴式、サイズは数十メートル、周囲に池はなく小規模な溝程度。切石は鋭利になり、石棺も長持ちが4世紀~5、家型6世紀、終末期家型は鋭角に洗練される。~7世紀前半ほどでヤマトので古墳時代は終わる(東国は継続)。最終末には石棺はくりぬき式に。石槨にもくりぬき横口式(牽牛子塚古墳など)が主流。
4~5世紀築造であれば入鹿・蝦夷の6後半~645年=7世紀中ころの時代にはまったく合わない。水泥の二基も6中~後半であるが、前もって造られるものなのでぎりぎりではあるが合うか?いや無理。
しかし祖父馬子の桃源墓(石舞台古墳)は方墳である。ちょっと難しい気もする。
島の山は時代的に論外、水泥もやや苦しい。百歩譲るなら水泥には臣下の手で首のない遺骸が葬られたとなるが、古代には重要なのは首のほう。たましいは頭部に宿るとされたからである。(さから武士もボルネオの首狩族も首にこだわった)
自害した父・蝦夷はさておき、入鹿は首をはねられ、その首塚がある。これもまた伝承であり、後世の造作であろうか。
問題は首と遺骸は別々に葬られた可能性があるということなのだ。
首つまり本墓はどこだろう?
それは馬子の石舞台の土盛がすべてはがされたという近年の発掘調査から、乙巳の変のあとに馬子の墓すらそういう目にあったのに、いくら記録が埋葬を許可したと書いてあろうと、墓などそうそうは造れなかったのではないか?という疑問があるからだ。
記録では上記のように、
1「皇極4年(645)6月12日、板蓋宮で入鹿を殺した中大兄皇子たちは、諸皇族、諸臣を従え飛鳥寺にはいって備えを固め、入鹿の死骸を甘橿丘邸宅の蝦夷のもとに届けさせた。」
2「その日のうちに、蝦夷、入鹿の遺骸は墓に葬って差しつかえないという許可があり、副葬も許された」
となっている。
しかし、なぜ肝心の埋葬した墓所を書いていないのか?
馬子の墓がはがされたのであるなら、当事者はもっとひどい扱いをされて当然ではないのか?
もちろんそれとは逆に、惨殺したからこそ丁重に葬ったという考え方もあろう。祟りを恐れるならばそういうこともあり得る。ただ、蘇我氏は大王家ではなく、皇族でもない。
森浩一はそれは鬼の雪隠かも知れないと書いている(『敗者の古代史』)。
筆者としては第二候補になる。
飛鳥には製作途中で破棄されたらしき古墳石室の形状をした石造物がいくつかある。いわゆる鬼の雪隠(せっちん)もそうだし、鬼の俎(まないた)、益田の岩船などがそれである。
最近の発掘調査報告で、鬼の雪隠と俎は、斉明(皇極)女帝の改葬前の石室?の一部ではないかというのが出されている。
雪隠(上)をひっくり返して俎(下)にかぶせるとまあ、石室になるか?
雪隠の写真下部のカーブした部分が羨道入り口だろうか?
しかし底になる俎の不明な刻み込みは石棺の邪魔にならぬか?
「奈良県明日香村教育委員会が9日発表した越塚御門古墳の発掘成果を受け、研究者からは、同村の観光地でもあるむき出しの石室「鬼の俎2 件(まないた)」「鬼の雪隠(せっちん)」が、越塚御門に隣接する牽牛子塚古墳に改葬される前の斉明天皇陵だったのではないかとの見方が出ている。
板状の石「鬼の俎2 件」とドーム状になった石「鬼の雪隠」は現在、なぜか約30メートル離れた場所にあるが、組み合わせれば越塚御門の石室と同じ構造になる。東側でも明治時代に俎状の石が見つかっており、古代には東西二組の俎と雪隠があったとみられている。
これに着目する京都橘大の猪熊兼勝名誉教授(考古学)は「越塚御門の発見はこの時期の天皇家が俎・雪隠型の石室を採用していたことを教えてくれた。斉明天皇と娘間人皇女は牽牛子塚に改葬される前、東西の俎・雪隠にそれぞれ葬られていたのだろう」と話す。
壊されて離れ離れ・・・?ちょっと納得できない。
いくら用がなくなったからと言っても女帝の墓をそこまでばらばらに壊す必要があろうか?
たぶれ心の女帝ゆえにそうされたか?有間皇子の変に際して、蘇我赤兄は天皇の3つの失政を挙げた。 大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、長く溝を掘って公糧を損費したのが二、船に石を載せて運び積んで丘にしたのが三である。神功皇后のモデルともされ、朝鮮出兵の途中、仮宮の九州朝倉で崩御して、遺骸は飛鳥河原で喪に付したという。その墓は牽牛子塚古墳に改葬される前はどこにあったかが不明だった。
天智称制6年(667)の陰暦2月27日、「斉明天皇と妹の間人皇女はしひとのみこを小市崗上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に合葬し、同じ日、娘の大田皇女おおたのひめみこを陵の前の墓に葬った。」とある。これが最初の墓か改葬かだ。もし最初の墓で、「合葬し」たのなら既成の墓だったはずだ。越智の丘である。越智は伊予海人族氏族地名である。高市郡越智のことだ。
ここに天皇という地名があり、車木ケンノウ古墳が岡の上にある。記録が正しいのなら改葬だったとしても最初の埋葬地だったとしても、高市郡明日香村大字越の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)よりもこっちが墓だったのでは?再調査で円墳が八角形だとされればまず斉明陵であろう。
牽牛子塚古墳の石室はくりぬき式で、最新の技術で造られているので、斉明には確かにふさわしいわけだが・・・。問題は「岡の上」であろう。牽牛子塚古墳の立地は駅前の越の岡の上にあり、八角形である。やはり考古学の言うとおりここでよさそうだ。これが改葬されたほうの墓であろう。だが元の古墳は?
さて、斉明陵はまた検証するとして、鬼の雪隠がひっくり返されてあるのは蝦夷か入鹿のほうがふさわしいようにも見える。これが筆者の第二候補。森浩一の第一候補である。しかし、斉明の元の墓がふさわしいように見える。
筆者は益田岩船を入鹿・蝦夷の石室の第一候補にあげたい。(あるいは益田が元斉明で、雪隠の方が入鹿の可能性もある)
盛り土もなく、二つの羨道らしき穴がうがたれている。
画像を横にしてみるとあきらかに石室の羨道である。
右側の三角部分が屋根になり、底はフラットに削られているので、それが天地であろう。
飛鳥の亀石同様の縞の刻みが入っており、あきらかに斉明=皇極や蘇我氏の同時代のもので、石工は百済からやってきた建築博士ではないか?飛鳥時代の終末期古墳の石室や石棺の石造技術は突然熟練する。切石が鋭利で、きれいに磨かれる。あきらかに渡来技術によって洗練されているのである。
だからこの岩船や、鬼の雪隠などは間違いなく蘇我氏同時代の、それも石にこだわった皇極女帝の頃のものでまず間違いはない。
飛鳥時代の終末期古墳は石室はほぼこういう形である。
益田岩船のような天地が一枚岩のくりぬき形式はほとんどなく、支石墓のように足組みと天井石は別々の組み合わせ式がほとんどだ。しかし女帝と蘇我氏の時代にのみ、百済のペルシア人かも知れない建築士と石工が来ているのである。
岩をくりぬくという技術はなまはんかなものではなく、その前後にありえない技術。
巨石をくりぬいて入り口石(石槨 せきかく)を一枚岩で作り、しかも内部に石室を二つ作ろうとする財力は、天皇か大王のようだと言われた蘇我親子くらいしか考えられない。石室は間仕切りされただろうから、その形式も全国的には非常にわずかしかなく、普通は柱で仕切る。そこにエンタシスを使ったとしたら間違いなく百済工人の仕事だが。
横口式石槨を持つ終末期古墳
牽牛子塚古墳 - 八角墳、斉明稜の可能性大、凝灰岩をくり抜いた横口式石槨
高松塚古墳 - 径18メートルの円墳、横口式石槨
中尾山古墳 - 対角長約30メートルで三段から五段の八角墳、横口式石槨
束明神古墳 - 対角長約36メートルの八角墳、凝灰岩製の横口式石槨
マルコ山古墳 - 径20メートルの円墳、凝灰岩製の横口式石槨など
それが乙巳の変で製作を中止することになって、盛り土を剥ぎ取られ?石室入り口石ごと横倒しされ、放置されてきたのではあるまいか?岩船山の頂上で石室は泣いている。