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室井恭蘭 むろい・きょうらん 『信濃秘史』『妖魅本草録』 架空の国学者

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◆室井恭蘭 むろい・きょうらん
架空の人物
諸星大二郎(もろほし・だいじろう)が漫画に登場させている江戸時代の国学者という設定の想定。
その作品には『妖魅本草録』 土耳玄書院 昭和31年(1956)(もちろん大嘘) 『信濃秘史』などがある。
土耳玄(「とるくろ」とでも読むか?)書院などももちろん架空の出版社である。

諸星作品に登場する架空の人物及び架空の書物一覧は以下の通り
諸星大二郎「暗黒神話」
   『信濃秘志』/室井恭蘭
諸星大二郎「妖怪ハンター・シリーズ」
   『古墳の呪的文様』/稗田礼二郎
   『朱唇観世音縁起』
   『世界開始の科の御伝え』
   『妖魅本草録』/室井恭蘭
   『民間伝説に顕れたる怪異植物について』
http://www.asahi-net.or.jp/~sy6y-szk/sf/fictitious_book_in_sf.txt

架空を逆手にとって「見つけた」「読んだ」というさも事実のように仮冒して楽しんでいるサイトがこれ。
祭竒洞http://d.hatena.ne.jp/anachrism/comment?date=20090517

こういう洒落を楽しめてこその伝奇愛好家と許容してやるべしなのだが、けっこう騙される人も多そうである。
例えば以下のように、おおまじめに考察している記事もある。
 
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 ◆ヒトニグサ(人似草)
  芋ニ似テ 大キナル根茎ヲ有シ シバシバ五又ニ分レテ 小児ホドノ大キサニナル 山中ニ自生ス
 マレニ 大人ホドノ丈ニ成長シ 手ヲ振リテ 村民ヲ招クト云フソノ姿 人ニ似タルヲ以テ 人似草ト云ヒ
 村民ラ 気味悪ガリ見ツケ 取リテモ 食ウ事ナシ
 室井恭蘭 『妖魅本草録』
「動物の死体に生える茸で、その形は死体の生前の姿に似る、と言われている。
人間ほどもある大きな茸で、オイデオイデをするなどとも言う。
近年の研究により、これは粘菌の一種であることが判っている。
粘液状から菌糸状となる際に動物の死体から骨格形成に関連した遺伝子を取り込む習性があることも判明しており、生前の姿に似るのはそのためではないか、と言われている。」
http://wiki.livedoor.jp/sss9991/d/%A4%A2%A4%EC%A4%B3%A4%EC%A3%B1
いや、かくいう筆者も危うく・・・。
本当は騙されていたほうが楽しいのが人生なのであろう。

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次回から幽霊や妖怪が見えてしまうという、災害による脳障害について、柳田國男の「遠野物語」などに見える超常現象を題材に、いくつか書いてみたい。幻視とはすなわち脳の病いである。上記の架空記事などをものすることはジョークと妄想と病いの三つに大別するとジョークに入る。しかしまあ、「愉快犯」には違いないな。
 
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災禍と超常現象/『遠野物語』の見直し

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例えばエドガー・アラン・ポーの「メエルシュトレエムに呑まれて(大渦に呑まれて)」
A Descent into the Maelström  Edgar Allan Poe 1841
は、渦潮に飲み込まれた漁師が生還したものの、頭髪が真っ白になるという奇談である。
 
 

大災禍では、ままにこういう外見上の大変化が人間に起こるようだが、もっと重要なことは、災禍によって被るヒトの脳心理の傷の方である。
 
3・11の東北大震災以降、太平洋側東北人の間には、死者の幽霊が見える、あるいは夢にうなされるという、心理的なダメージが表出しており、柳田國男『遠野物語』を再認識する動きがあるという。
 
 

●参照・・・「東日本大震災 悲しみ語り継ぐ 116年前の物語、娘へ」毎日新聞 平成24年三月十一日記事
 
 「保険外交員の長根さんは母享(きょう)さん、妻のり子さん(51)、璃歩さんと4人で2階建ての家に住んでいた。
 
 大地震に襲われた時は仕事で隣の宮古市にいた。勤務先にいた妻の無事はメールで確認できた。娘がいる中学校は高台に建っている。78歳の母は自宅にいるはずだが、近くに高さ8メートル以上の防潮堤がある。さほど心配はしていなかった。
 
 だが、戻った街は真っ赤に燃えていた。翌朝ようやく自宅に向かうと、防潮堤は壊滅していた。駆け寄ってきた近所の女性が泣き崩れた。「勝くん、母さんが流された」
 
 膝が悪かった母は裏山への階段を上りきれずに流されたという。がれきだらけの自宅跡に座り込んだ。百余年前の先祖の姿が自分と重なった。
 
 東北の伝承を集めた「遠野物語」の第99話に、明治三陸津波(1896年)で妻と子2人を亡くした男「福二」が、妻の幻影に誘われ浜に一晩立ち尽くすという話が収められている。福二の4代後の子孫が長根さんだ。
 
 物語は福二のその後を「久しく煩(わずら)ひたり(長く病んでいた)といへり」と結ぶ。そのせいか、父も祖母もこの話をしたがらなかった。教えてくれたのは母だ。「本買え。遠野物語にうちの話がある」「先祖のことだから、しっかり覚えとけ」
 
 長根さんは母を捜して遺体安置所を巡り歩いた。体の一部しかない遺体。焼けた遺体。7月上旬、訪れた安置所で赤ちゃんの亡きがらを見た。目を見開き、手を伸ばしたままだった。「抱っこして」とせがんでいるように見えた。「おまえは何のために生まれてきたのか」。涙が止まらなくなった。これ以上遺体を見ると自分がおかしくなると思い、安置所回りをやめた。
 
 数百もの遺体を見ながら、思ったことがある。「自分の先祖以外にもたくさんの悲しみがあったはずなのに、その物語はどうなったのだろう」
 
 明治、昭和の大津波を経て被害の記録は残されたが、悲しみは風化したのではないか。福二のことを伝えた母の思いを、自分なりに理解した。
 
 「ただの教訓ではなく、じいちゃん、ばあちゃんから口で伝えられた話こそ力を持つ。一人一人が血の通った物語を語り継ぐことでしか、次世代の悲しみはなくせない」」
 
 
 
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『遠野物語』などの民俗学伝承を集めた伝奇物語的な民話コレクションには、ご存知のように多くの貴重な妖怪との出会い秘話が蒐集されているが、その中に、いくつか災禍、地震などによって生まれた伝承・伝説・妖怪であろう記事が散見できる。
 
 
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99話
「土淵村の助役北川清と云ふ人の家は字・火石(あざ・ひいし)に在り。代々の山臥にて祖父は正福院と云ひ、学者にて著作多く、村の為に尽くしたる人なり。清の弟に福二と云ふ人は海岸の田の浜へ婿へ行きたるが、先年の大海嘯(おおつなみ)に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。
 
夏の初の月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布(し)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりし我妻なり。思はず其跡をつけて、遙々と船越村の方へ行く崎の洞のある所まで追い行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑ひたる。
 
男はと見れば海波の難に死せり者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今は此人と夫婦になりてあると云ふに、子供は可愛くは無いのかと云へば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物言ふとは思われずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。
 
追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。」
 
 
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郷土史家であり学者という高いインテリジェンスを持つ人の弟である福ニが見たのは、大津波に呑まれて死んだ妻の亡霊だった。
 
柳田が聞き書きしたこの『遠野』の記事を、北川福ニの四代目子孫の母親が今度の震災前に奇しくも読み、「ほれ、ここにうちのことが書いてある。先祖のことだからしっかり覚えとけ」と息子に教えている。しかしその教訓むなしく、脚が悪かった母親自身が、階段を登りきれずに津波に流されてしまったという。
 
 
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●参照2 「水たまりに目玉、枕元で『遺体見つけて・・・』『幽霊見える』悩む被災者」産経新聞 平成24年一月十八日

「「お化けや幽霊が見える」という感覚が、東日本大震災の被災者を悩ませている。震災で多くの死に直面した被災者にとって、幽霊の出現は「心の傷の表れ」(被災地の住職)という見方もある。だが、行政に対応できる部署はなく、親族にも相談しづらい。心の傷を癒やすよりどころになろうと、宗教界は教派を超えて取り組んでいる。
 
 1月初旬、仙台市の仮設住宅に住む70代の夫婦が市内の浄土宗寺院、愚鈍院をお参りに訪れた。いつも通りあいさつを交わした中村瑞貴住職に、夫が「実は…」と口を開いた。始まったのは「お化け」に関する相談だった。「仮設住宅に何かがいる。敷地で何かあったんじゃないかと思う」という夫に、中村住職は「供養しましょうか」と応じた。仮設住宅でお経を唱え、供養を終えると、「誰にも相談できなかったんです」。夫はホッとした表情でそう打ち明けたという。
 
 「水たまりに目玉がたくさん見えた」「海を人が歩いていた」…。被災者の“目撃談”は絶えない。遺体の見つかっていない家族が「見つけてくれ。埋葬してくれ」と枕元に現れたのを経験した人もいる。」
 
 
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いずれ後述するが、柳田の弟子が船旅の帰路に「海坊主」を見たことを書いている。そういう超常現象を見てしまうのと同じことが、被災者の間に頻繁に起きているのである。
 
これは先述のごとく、災禍による突発性の脳挫傷や脳梗塞に似た症状である。妄想を見てしまう現象は、このように急激なショックによって引き起こされることがある。それまで後戸に隠されてきた心の闇が突然に、津波のショックによって無理やり開かれた結果であろうか。
 
先天的にこうした霊魂を見ることのできる人を、霊能者とかシャーマンと呼んでいる。
これまではその謎を、超常現象であるとか、特殊能力とかいうあいまいな言葉で神秘化するばかりだったが、脳神経外科などの医学的なダメージとして分析解明していくことが、実は上記のような災禍による心的ダメージと脳内科的ダメージとの連動によったのではないかと想定可能な症状を治療するための、大切な視点になるだろうと思う。
 
引いては、霊能力が解明されれて、それが脳内外傷によるものであると証明できれば、霊能力の多くへの理由なき差別も、病気として認知され、彼ら自信の積年の悩みも解消されていくのではあるまいかと、老婆心ながら期待する。
 
心の闇や他者との著しい部分を、神に助けをゆだめたり、逆に開き直って神の言葉が聞こえる特殊な才能と思い込まねば生活してゆけない人々への、根本的救いが柳田の100数十年も前の記録から見えたように思う。
 
 
 
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カタストロフィーとワープ/折り紙と布ナプキン/日本人の頭の構造

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●カタストロフィー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内、 検索 カタストロフィー、カタストロフ(catastrophe)
フランスの数学者ルネ・トムが創作した数学の専門用語で1972年にカタストロフィー理論として発表されて以来、様々な科学分野で議論され一般的に知られるようになった。英語に近い読み方ではカタストロフィーとなり、フランス語読みに近いとカタストロフと表記されることが多い。 一般的には破滅や破局と言った意味に捉えられることが多いが、学術的な意味とは異なる。
環境に多大な変化が訪れること。変化に追従できないものは絶滅への道をたどる。
フィクションなどにおける悲劇的な結末のこと。上記と合わせ、きわめて破滅的なニュアンスを持つことが多い。
カタストロフィー理論の略。
 
 
●カタストロフィー理論
(カタストロフィーりろん、カタストロフ理論、Catastrophe theory)は、力学系の分岐理論の一種を扱う理論。不連続な現象を説明する、画期的な理論として一時注目をあび、さかんに研究、議論された。
カタストロフィーとは周期的な秩序だった現象の中から不意に発生する無秩序な現象の総称。
ルネ・トムの『構造安定性と形態形成』(Structural Stability and Morphogenesis , 1972年)により提唱された。
これでは何のことやらわからない。
 

筆者は文系なので、カタストロフィー理論は力学のほかに心理学でも応用されるから、ここでは誰にもわかりやすく簡単に書きたい。
「愛と憎しみのような相反する感情が突然 入れ替わること」
でどうだろうか?
言うならば民俗学では「逢う魔ヶ時(おうまがどき)」みたいな、昼と夜の間みたいで、しかもそれが突然起こること。だから一般用語の意味の大転換とか、弛緩から急激に緊張感あふれる場面への転換みたいなことか?
映画などで使われたこの言葉は、やはり行き詰るような残酷劇みたいな使われ方だと思う。
歴史学や考古学や人類学ではイヴェント(オルドバイ・イベントとか)かな?
大転換期。
 
ま、そういうことが物理学上、力学上あるよというのがカタストロフィー理論であるらしい。
 
わかんないよね。
力学的な図にするとこういう感じ。
 
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これを中沢新一が日本語で書いたもの。
 
 
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・・・。
 
実は自分でもよくわからないので、自分なりに勝手な解釈をしてみよう。
数式や言葉で書いたってわからないから、全部図解します。
 
 
筆者が思うにですよ、さっきのルネ・トムの図を実際に紙で作ってみるとこういうものになる。
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とまあ、よくわからんがそういう感じだと思っておいてやってください。
 
 
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◆日本人の観念と造形に見るカタストロフィー的歴史観・死生観
 
●折り鶴の中のトポロジック
 
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日本人が大好きな折り紙。
中でも折鶴はたいがいの日本人が誰でも折れるポピュラーなもので、その折り方はこういうものである。
この図の中で、4~5へ行くときの袋折り、そして12でひっぱりだしてきて一旦ふくらんだものをぺしゃんこにして成型する作業の二ヶ所で、どうも日本人は無意識のうちにカタストロフィー理論的な事件を平然とこなしているようなのである。
 
多分、こういう部分が西欧人が折り紙に驚嘆するわけがあるように見るのだ。(違うかもしれないが)
 
茶道で使う袱紗(ふくさ)の畳み方にも、こういう部分がある。
風呂敷の使い方にもあるような気がする。
 
紙でやると絶対折り目が入ってしまいもとにはもどらない。それが折り紙の宿命なのでふくさで途中までを折ってみた。
 
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布で折ると気付くのは、紙で折るよりもシルエットがたおやかに優雅にできるということだ。
 
写真の三角形に折るところまでは、なんてことのない、外国人でも子供でも簡単にできてしまう普通の「折り」である。ところがその次に、三角の片方の頂点を持ち上げて、押し付けるようにしてやると、そこに空間が生まれ、袋状になる。それを下にひしゃげさせてやると、とたんに三角から四角形に形状が激変する。
この袋折りをした時に、筆者は子供の頃「不思議な瞬間」を感じ取っていた。
奇妙に、落ち着かない、無理なことをやってしまっているような、居住まいの悪い感覚である。これが心理的カタストロフィーではないか。この作業は日本人でナイトできないかも知れない・・・。そう思っていた。
 
さらにその四角形の頂点をめくりあげると、中からなんだか凧のような形状が現れて、どこかしら女性の脚のように見えてくる。そのめくりあげたスカート・・・いやいや、四角形の頂点にくっついてきた三角形に折り目をつけて、今度はおなごのおみ脚の方を、きちきちと左右二度ずつ折りたたむと、熨斗(のし)のような形状になる。その上にある三角形を引っ張り出して、一旦ふくらんだようになったものを、今度は押し付けてまた元に戻してやると、ここには絵がないが、さっきの降り方図解の12番目に到達するのである。ここもカタストロフィーを感じるところだった記憶がある。
 
なにかこう、不器用な人なら絶対うまくいくはずがないんじゃないかという予感?がする?
そういう子供なら緊張する部分である。
 
なんで三角だったものから四角ができちゃったのか、なんとなく納得がゆかず、居住まいが悪いのである。
もちろんうまくいったら、もう「えへん」となってすっかり忘れてしまう感覚。
 
わかりますか?
 
 
 
 
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完成した折鶴。
 
日本人は器用だからと言いたいところである。
アメリカ人みたいな不器用者には、絶対無理なんだと、昔から日本人は自慢してきたはず。
 
しかしですな・・・。
西欧人は折り紙は作れないが、こういう器用な造形美を作り出している。
 
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これはレストランの布ナプキンである。
いかがだろう、折り紙よりもシルエットがふんわりと優雅で、立体的なふくらみがフェミニンに見せていないだろうか?
 
 
これは素材の違いがそうさせているのは当然である。
筆者が袱紗で作っている間でも、絹のやわらかでふくよかな曲線は、心を落ち着かせ、豊かにしてくれた。
一概に素材や不器用さに違いを求めていいものか?
 
アメリカ人は確かに無骨で粗野で、繊細さに書ける国民性の人が多いが、そういう人ばかりでもない。
彼らは折り紙はへたくそだ。しかしとんでもない発想で折り紙を作る人がいるのである。
その形は、日本の折鶴とはまったく別の造形になることがある。
 
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これをへたくそだ、無骨だと言うのは簡単である。
まるで飛行機だとか。
 
 
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ついでだから、次にリンゴの皮をむいてみよう。
 
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もう日本人だけが世界の中で着想が違うことに気がつくのである。
 
 
 
次にフトンやブランケットの畳み方を見てみよう。
 
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いかがだろう?
フトンの畳み方ひとつでも民族によってさまざまなやり方があり、日本人がオブジェをコンパクトに、機能的にデフォルメする天才であることが見えてきませんか?
 
日本人の畳み方、三つ折式はほかのどの世界にもないのではあるまいか?
 
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それを器用だけで終らせてはだめだと思う。
これは日本人の縄文から受け続いてきたデフォルメしてゆく生活感覚、自然との融和、などの心理的な観念、特に神への思いとか、大自然への畏れ、なによりも狭い国土の島国人民ならではのこまやかさと捉えてみるのである。
 
例えば「うずたかく盛り上げたゆえに太秦といふ」という秦氏献上物記事から考察すると、うずたかくもりあげるやり方も東西でかなり違う。
 
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もちろん素材が違う。
ソースのような粘性のある液体は日本では存在しない。
しかし高くすることが高級、あるいはおめでたいという感覚は日本人も西欧人も同じく持っている。
 
しかしながらその手法が、日本の新鮮は積み上げるのに対し、西欧人は平面をねじりあげて、空気をいれ、ゴージャズに見せるのである。
 
 
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次に元に戻って、三角形のカタストロフィー折りの、日本人が使ってきたほかの応用を見てみよう。
 
●円柱あわせ包み
 
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確かに器用である。
筆者も茶筒などこうやって包むことが多い(筆者は若い頃ラッピングを仕事にしていたことがある。どんな形状のものでも包装紙で包んできた)。
 
この茶筒を包むやり方は、カタストロフィー理論の三角形のひだを連続することによって、円形を作っていくやり方で、ちょうど幾何学の直線による曲線を作り出すグラフィックによく似ているのである。
 
 
 
さて、こうしたまっすぐな線分で構成されてきたのが西欧の貨幣経済であると中沢は言っている。つまり先進国の貨幣経済、資本主義経済の根幹は直線的な流通形態である。
 
しかし世界中の島人たちがやってきた、縄文的な経済は、多くが宇宙的な、トポロジー的なつながりでできている。繁栄への一直線の最短距離ではないけれど、どこからかある日突然の来訪者があって、突然の交流や歓迎・・・つまり市という祭りが沸き起こる。そういう島の経済や、死生観が、実は明治以前までの日本にも存在したのである。日本人は明治維新以来、しゃかりきになって西欧の文明や宗教を物真似してきた。その過程で、縄文から続いてきた曲線が作り出すカタストロフィーあふれる野生の思考をどんどん捨て去ってきた。
 
今、それをどうやって復旧すればよいのか。
 
 
 
ここまで図でしめしてきた日本人独自の技能を、すでにどれひとつできなくなった若者が確かにいるはずである。壊れてしまった円環をいかにして取り戻せばよいのか。
 
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牛乳の紙パックの注ぎ口
あれも日本人の着想である。
開いて押せば口が突き出してくる。
西欧人は注ぎ口用のグッズをパックに突き刺さなければ、あそこをきれいに開くことができないのだ。
頭の構造がまったく違うのである。タテとヨコほどに違う。
 
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災禍と超常現象2/白髪水と山姥

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◆白髪水(しらが・みず)
【洪水】より
…洪水神話水害治水【高橋 裕】
【日本の洪水伝説】
 「農業技術の未発達な時代には,洪水とそれにともなう泥海はこの世の終末と意識された。東北地方ではかつてあった最大の洪水を〈白髪水〉と呼び,その直前に白髪の老人が予告したり出水のおりに水の上を下ってくると語られた。木曾川下流域では大増水の際,〈やろかぁー,やろかぁー〉という叫びが聞こえ,これに応答すると水が浸入するという〈やろか水〉の伝説が語られている。」
『世界大百科事典』平凡社
 
「東北地方の人たちは、これまで言うとあるいは思い出されるかも知れませぬが、秋田の雄物川でも、津軽の岩木川でも、岩手の北上川でも、会津の阿賀川でも、またその他のいい佐奈川でも、昔のいちばん大きかった洪水を、たいていは白髪水、または白髭水と記憶しているのであります。」
柳田國男『女性と民間伝承』 
 
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以上の説明をあわせ考えると、どうやら東北地方では洪水や湧き水を「白髪」に例える習慣があったようだ。この白髪は、老婆の白髪や、地域によっては翁の白髭(しらひげ)のような水が激しく動くときの白波・飛沫のことであるらしい。地域の巫覡(ふげき)の多くが老婆や老人を選んでいた風習の名残ではないかと柳田は想定している。
 
このことはすでに江戸時代の旅行作家で博物学者の菅江真澄も『栖家能山(すみかのやま)』寛政八年五月一日に、

「太郎次郎が館(やかた)とて そのはらからやここに栖家したりけん 柵は白髪水というに押し流されて そのあたりの人もふる館という所にうつりて その村のみいまもなおあり」

という記録がある。
白髪の老婆にたとえた洪水なので、その地名やいわれのある場所では、だいたい山姥(やまんば)の目撃譚も多く、どうも山姥と洪水には連想のつながりがあったようだ。
 
 
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有名な話は『遠野物語二八話』の注に記録がある。
「北上川の中古(古代史の一時期)の大洪水に白髪水というがあり、白髪の姥を欺(あざむ)き、餅に似たる焼石(やけいし)を食わせし祟りなり」
 
二十八話の話自体も、この注釈にまずは等しいもので、
 
「二八 始めて早池峯に山路(やまみち)をつけたるは、附馬牛村の何某という猟師にて、時は遠野の南部家入部(にゅうぶ)の後のことなり。その頃までは土地の者一人としてこの山には入りたる者なかりしと。この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に仮小屋(かりごや)を作りておりしころ、或(あ)る日炉(ろ)の上に餅(もち)をならべ焼きながら食いおりしに、小屋の外を通る者ありて頻(しきり)に中を窺(うかが)うさまなり。よく見れば大なる坊主なり。やがて小屋の中に入り来たり、さも珍しげに餅の焼くるを見てありしが、ついにこらえ兼(か)ねて手をさし延べて取りて食う。猟師も恐ろしければ自らもまた取りて与えしに、嬉(うれ)しげになお食いたり。餅皆(みな)になりたれば帰りぬ。次の日もまた来るならんと思い、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじえて炉の上に載せ置きしに、焼けて火のようになれり。案のごとくその坊主きょうもきて、餅を取りて食うこと昨日のごとし。餅尽(つ)きてのちその白石をも同じように口に入れたりしが、大いに驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。のちに谷底にてこの坊主の死してあるを見たりといえり。」
 
というものである。
 
こちらは餅を食いに来るのは山姥ではなくって、「大なる坊主」になっているが、話の筋はまったく同じで、結局はそれが祟って大水になったことになっている。本編の「大なる坊主」とはいわゆる山の神「だいだら坊」かと思われるが、別名はデイダラボッチとかダイダラボッチ、大多、大太、デーダラ坊などとさまざまで、よく耳目に知られたところでは宮崎駿の「もののけ姫」に登場している。この妖怪は山をひとまたぎにするのだが、明治ゴロの東京のど真ん中でも、ひとまたぎして消えた話もある。いずれ別記することと思う。
 
注にある山姥の話は柳田の『山姥と石餅』として記録がある。
この類型は長崎県や和歌山県など全国に広範囲にあるのだが、やはりいずれも古代から海人がいた地位にリンクするともみえる。やはり28話と同じ早池峰山には、神仏習合の時代に早池峰の妙泉寺の住職が餅を焼いていると山姥が現れ、餅を全部食べてしまう。和尚はなんとか仕返しがしたいので、今度は餅によく似た石を焼いて食わせ、酒といつわり油をいれておきこれをまんまと飲ませたところ、山姥は苦しみながら山に逃げ込んだが、その後三日魅晩暴風雨が続き、大津波と大洪水になって寺を押し流してしまった。大洪水の直前に津波の波頭の上に白髪の翁が立って歌を歌いながら流されていった。それで人々はこの洪水を白髪水と呼び始めた、という。
 
話の類型としては洪水ではないが、淵に住む蛇がおせんという女に化けて出る話、その女が洪水のときに波頭に立ち、流されながら蛇体に戻った話などもあって、それからその洪水や淵を「おせんが淵」とか「蛇」の名が洪水につけられていたりする。
 
また長野の安曇野、松元平(まつもとだいら)など、かつて湖水だった盆地では、道祖神もよく置かれており、これも地震や洪水に関連していることが多い。さらに九州の耶馬渓では道祖神はよく大水に流されて下流に流れ着き、集めて祀った話があり、道祖神がもともとあった地域は上流のほうで、そこは今、山移(やまうつり)などといわれており、かつて大地震や洪水で山が崩れたあとかとも思える。
 
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水を白髪に例える地方は東北でも太平洋側に多く、不思議なことに同じ太平洋側の高知県本山町奥白髪などに点在する。
 
◆白髪山/白髪自然水
 「白髪山は石鎚連峰の一支峰で標高1470m、藩政時代にはこの地を支配した野中兼山が、樹木の伐採を禁じたので手つかずの自然が残っている。頂上は蛇紋岩の露出する岩場と数千本におよぶ天然ヒノキやコメツガなどの白骨林が広がり、特有の景観を描いている。またシャクナゲの群生や紅葉の美しさでも知られ、高山植物も多く、訪れる人は高地の自然を満喫することができる。頂上からの展望も雄大で、遠くには四国山地の連山、眼下には雲海がうねっている。

 このような自然の山間に湧き出す清水を集め遠く導入し、訪れる登山客の渇きを癒すよう、登山口に給水所が設けられている。誰が言うともなく「白髪自然水」の名が付けられた。神秘な自然の山岳のイメージと、白髪の名に由来する長寿と健康のイメージから、水筒に詰め持ち帰る登山者も多く、水目当てという人も増えている。 」
http://www3.ocn.ne.jp/~t.koba/tosa14.htm
 

東北地方は鎌倉時代頃まで「生蛮地(せいばんち)」と言われてきた蝦夷やアイヌのいた地域であり、彼らがすべて俘囚として西日本へ移住させられたわけではなく、縄文時代から住み着いてきた蝦夷たちのほとんどは、依然としてここに住まい、生活してきた。その証拠が地名のアイヌ由来が多いことである(半分ほど残っている)。同時に海岸部には九州から北上した南方縄文海人も住んでいたわけで、はるか南の太平洋南岸の土佐などに白髪地名が残存し、やはり洪水話があるのも、地震や津波が東南海でプレートがつながっていて、地震が多かったことと関連して、言い伝えが行き来した結果であろう。
 
 
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 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
 画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
 民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
 あさきゆめみし ゑひもせすhttp://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/
 
 

新宿区の縄文人骨11体/岡山の紀元前矢じり

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南方遺跡:中国戦国期の矢尻出土 国内初の「双翼式」 直接持ち込まれた?--北区 /岡山

 岡山市教委は、北区国体町の弥生時代の集落跡・南方遺跡から、中国戦国時代(紀元前5~4世紀)の青銅製の矢尻「双翼式銅鏃(そうよくしきどうぞく)」が出土したと発表した。中国戦国時代の矢尻は兵庫県や長崎県などで出土しているが、この形式は初めてという。
 
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 ◇儀式に使用か
 市教委文化財課によると、矢尻は長さ3・7センチ、最大幅1・4センチ、厚さ最大2ミリ。弥生時代中期中葉(紀元前2世紀頃)の溝(幅8メートル、深さ1メートル)から見つかった。先端から両翼が長く伸びているのが特徴で、実戦用のものに比べ重さが3・7グラムと軽く、軸が細いことなどから儀式用に使われたらしい。弥生時代中期は製作時期から約200年たっており、同課は「宝物として大切に受け継がれたのでは」と見ている。
 ◇「貴重な発見」
 矢尻を鑑定した小林青樹・国学院大栃木短大教授(東アジア考古学)は「同様の矢尻は古代中国文明の中心地・中原地域(黄河中流域)の王族墓から出ているが、中国でも希少」と指摘。「表面の摩耗も少なく、直接持ち込まれた可能性は高い。同遺跡などが中国と関係があったことを示す貴重な発見だ」と話した。
 ◇あす現地説明会
 現地説明会は2日午後1時半から。問い合わせは同課(086・803・1611)。【江見洋】
2月1日朝刊
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130201-00000209-mailo-l33
 
紀元前2の溝から紀元前5~4の中国の遺物。岡山弥生人と中国黄河文明のつきあいがもうその頃からあったか。

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4000年前の生活は?新宿区で縄文時代の人骨発見!(13/01/31) .
 
 東京都新宿区は30日、住宅街のマンション建設予定地から約4千年前の縄文時代のものとみられる11人分の人骨が見つかったと発表した。7人分は保存状態がよく、区は縄文人の暮らしぶりが分かる貴重な資料としている。当時の人の顔立ちを調べるため顔を復元することも検討している。
 
 区によると、現場は新宿区市谷(加賀町)の住宅街。昨年11月、マンション建設のため民間業者が発掘調査し、人の脚の骨を発見。その後、約300平方メートルの地中から縄文式土器とともに次々と人骨が見つかった。埋葬されていたとみられる。近くに竪穴住居の跡もあった。
 
 国立科学博物館が一部の骨を鑑定した。付近は武蔵野台地と呼ばれ、骨が溶けやすい酸性の土壌といい、新宿区文化観光課の担当者は「貝塚などを除き、整った人骨が見つかるのは珍しい」と話している。
 
関東地方で縄文人だけならそうでもないが、東京都内でそれも、11人分とは。
今後のDNA分析資料として貴重品。
 
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縄文海進時代は東京湾のすぐそばの、峡谷。
 
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災禍と超常現象3 遠野の「不地震地」と鹿島の「金輪際」と阿蘇の鯰宮

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◆遠野「不地震地」13ヶ所
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伊能嘉矩(いのう・かのり 1867~1925 遠野横田村新屋敷出身・在住の人類学者)
「遠野史叢」第四篇「猿ヶ石川流域に於ける不地震地」1924に12ヶ所の記録がある。
すべて岩手県。
1)和賀郡谷内村大字田瀬大野 糠森(ぬかざわ)の神塚
2)上閉伊郡(かみ・へい・ぐん)宮守村大字宮守字塚沢 地森(じもり)
3)同郡小友村字山谷土名石鍋 行灯森(あんどんもり)及び字鍛冶ヶ沢土名(どめい?現地地名の意味か?) 時洞(ときんぼら)の行灯森
4)同郡鱒沢村大字上鱒沢字花輪
5)同郡綾織村大字綾織字山口土名大橋 経塚森
6)同郡附馬牛(つきもうし)村大字附馬牛字大出(おいで) 早池峰(はやちね)神社新宮境内のサンキヤウ?山峡?
7)同郡松崎村大字駒木字上野(かみの) 地震ヶ森
8)同郡土淵村大字土淵字元土淵
9)同郡土淵村大字栃内字北野 シャウヅカ(しょうづか)森→「遠野」113解説参照
10)同郡青笹村大字中沢瀬内の陣が森
11)同郡上郷村大字清水(すず)川 石神稲荷境内
12)同郡上郷村大字細越字岩崎 経塚
 
これに『遠野物語』113の一ヶ所を追加する。
13)同郡土淵村和野(わの) ジョウヅカ森

一一三 和野にジョウヅカ森という所あり。象を埋めし場所なりといえり。ここだけには地震なしとて、近辺にては地震の折はジョウヅカ森へ遁(に)げよと昔より言い伝えたり。これは確かに人を埋めたる墓なり。塚のめぐりには堀あり。塚の上には石あり。これを掘れば祟(たたり)ありという。
○ジョウズカは定塚、庄塚または塩塚などとかきて諸国にあまたあり。これも境の神を祀りしところにて地獄のショウツカの奪衣婆(だつえば)の話などと関係あること『石神問答』に詳(つまびらか)にせり。また象坪などの象頭神とも関係あれば象の伝説は由(よし)なきにあらず、塚を森ということも東国の風なり。
これで13ヶ所である。
 
 
●不地震地とは?
不地震地(ふじしんち)とはここは地震が来ても揺れないので避難場所にせよという、遠野地元民の言い伝えのある場所である。
 
●鹿島の金輪際・要石
この言葉の大元は茨城県の鹿島神宮の金輪際(こんりんざい=要石 かなめいし)に由来する。
鎌倉時代初期の『鹿島宮社列伝記』に鹿島神宮要石は滋賀県竹生島(ちくぶ・じま)とともに「金輪際 こんりんざい」であると記録があるので、だいたい鹿島宮タケミカヅチが地震かふせの神になっていったのもそのあたりであろう。
 
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そもそもタケミカヅチは雷神であって地震には当初無関係な神格である。ところが茨城一帯は地震が多く、民間でそういう信仰が芽生え始めた。そして江戸時代前ほどに今度はタケミカヅチが具体的な動物を要石で押さえるという迷信が生まれた。
 
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それが当初はウナギや龍であったものがなぜかナマズになる。いくつかのナマズが地震の前に暴れたなどの逸話が江戸などを舞台に記録されている。ウナギは今でも祟りがあるとして食べない地域も結構残っているが、ウナギをうまいものとして食べてしまったら、さほど祟りもないので、今度は代わりの生き物が必要になる。そこで地震の前に騒ぐとしてナマズに白羽の矢がたったようだ。
 
しかし鹿島神がナマズを押さえつけているという物言いは、江戸時代ではまだ全国区ではなく、関東一円に限られていた。その後も東日本では定着するが、西日本では特に関西では瓢箪=豊国廟の秀吉が押さえつけてくれるとなっていた。
 
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鎌倉時代の「伊勢暦」には「地震蟲」とういう空想上の生き物が地下で蠢いて地震が起きるとなっている。
 
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●金輪際という言葉の意味 
「金輪際」という言葉は仏教用語から生まれている。意味は大地の最も行き着いた地の底ということなので、地震の神がいる場所にはふさわしかった。今は「金輪際酒はのまねえ」などと使われているので「絶対に」、「天地神明に誓って」という使い方である。
 
鹿島の要石も、当初は下にナマズが押さえられているという言い伝えではなかった。要石は地底まで深く根付いていて、鹿島の神と要石が地震から日本中を守っている、という伝承だけであった。ナマズが東日本に持ち込まれたのは江戸時代以後のことで、それは人の手による放流からである。
 
●ナマズ=地震の神は阿蘇国造神社が大元
ナマズと災害の関係で最古の記録は実は西日本から出てくる。『筑前国風土記』逸文に「山田村に鯰淵があって、日本が危ういときに集まり現れる」とあるので、これは阿蘇の鯰伝説の伝播からであるに相違ない。鹿島には鹿島の多くの神社建設で渡来人や阿蘇の宮司が入っている。阿蘇氏の配下にいた宮大工あたりからのナマズの広まりであろう。また『今昔物語集』には、はやくもウナギとナマズが災害などを予言する魚として登場する。
 
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 阿蘇国造神社境内の鯰宮のナマズ
 
そもそも鹿島や香取に要石が置かれた理由は、そこが地震が多かったからであるので、いくら不地震地と指定したところで無理な話である。平地の森の中がほとんどということは、揺れない場所というよりは、人家の倒壊などから身を守るにはそこがよいということである。つまり今で言う公園である。
東北大震災ではかつての上閉伊郡・・・今の大鎚町は多くの犠牲者、死者、建築物の流出があり、上の13ヶ所もろともに津波によって壊滅させられてしまった。
 
 
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地震前の大槌町
 
 
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地震直後の大槌町
 
 
                           押せば金運開けます
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鹿島様/草似王

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鹿島様(かしま・さま)
 
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「鹿島様は武神(いくさがみ)を象徴した藁人形で、東北地方の村落に多く祀られているのだそうです。
村落の入口に置いて、邪悪な霊や疫病の侵入を防ぐ目的があるという点では、道祖神に似ています。」
 
いろいろと説はあるが、一言で言えば「村内に訪れる疫病などの災厄を、村の入り口で防ぐ未知の神」(畑中章宏2012)。人の形にワラで作った巨大な道祖神、塞の神だと言える。
 
秋田県に多い。
秋田県の鹿島祭り一覧
 
秋田県湯沢市旧岩崎村では、今の栄町に一体、末広町に一体、緑町に一体の三体が、それぞれ北南西の入り口の守護神として置かれる。
この道祖神は、衣替えがなされるときに簡単な酒宴を開き、それを「鹿島まつり」という。
ワラはかつては各戸から一把ずつ持参していたが、今ではワラも少なくなってわざわざ購入しているのは、全国神社の注連縄と同じである。
伊豆・房総に多い鹿島踊りが東北にあるかどうかは知らないが、どちらにせよ茨城県の鹿島神宮のタケミカヅチを象った、最初は地震封じの魔よけだったかと思える。
 
◆鹿島信仰
江戸時代全国に広まった地震よけ行事各種の総称
 
鹿島人形
鹿島流し
鹿島踊り
鹿島送り
鹿島様
 
など、人形を立てる祭りや、踊り、さらには人形を川に流すなどの形態が、関東から東日本一帯に存在する。
いずれも鹿島神宮を大元にした民間信仰である。
菅江真澄『軒の山吹』に秋田で、文化七年1810に大地震があって、以来、地震がない(それまでは少なかったのだろう。しかし房総から茨城、福島は地震が実は多いので、当時の迷信である)鹿島神宮を慕ってか島流しという舟祭りがさかんになったとある。
 
鹿島様はその鹿島人形の秋田における尊称である。高さは3~4メートルに造る。こういう巨大な人形を祀る風習自体は全国に存在する。鹿児島県大隈半島には熊襲の首領だった川上聖大人があるし、伊豆の大仁の地名もやはり大きな山の神に由来したものだろう。一般的にはこれらはダイダラボッチ、ダイタと呼ばれる。
 
ダイタは古墳時代の九州地方の石人にその前例があり、死者の遺骸を守る魔よけから始まったと考えられる。
菅江真澄はこれらを「草似王」「鹿島人形」として紹介した。江戸期にはこれらは厄病除けの神に変化し、「かしま」「におう」「しょうき」「どんじん」などとも呼ばれて、さまざまな厄除けの怖い神の名前で呼ばれている。
特殊なのは菅江がコレクションした「草似王」で、その由来や地域が気になる。(『雪の出羽路』)
 
こうした道祖神や儀式は、どうやら鹿島だけでなく西九州の精霊流しや鄙流し、塞えの神信仰、猿田彦などが入り混じって、西から伝わった結果ではないかと見える。
 
いずれにせよこうした道の神の大元はすでに古墳時代から存在したもののバリエーションであり、江戸時代までに全国に同じような形態と魔よけ信仰が伝わり、各地に影響を残したといえる。
 
 
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年縞/教科書が書きかわる発見

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◆年縞
●水月湖堆積物が年代測れる基準に 5万年前まで世界の化石測定可能
「ラムサール条約に登録されている三方五湖の一つ水月湖(福井県若狭町)の湖底堆積物からデータ収集をしている中川毅・英ニューカッスル大教授ら日欧の研究グループは18日、化石など古い物体の年代測定が数百年単位で精密にできるようになったと発表した。5万2800年前までさかのぼることができ、世界のどこで採取された化石でも精密な年代を測定し、過去の気候変動も調べることが可能な“物差し”が出来上がったとしている。
 
 水月湖でのボーリング調査に参加している中川教授らが文部科学省で発表。米科学雑誌サイエンスにも10月19日号で発表した。
 
 水月湖の湖底の堆積物には、プランクトンの死骸や土が季節ごとに積もり、年輪の一種「年縞(ねんこう)」が形成されていることが1991年に確認されている。93年、2006年の学術ボーリング調査の結果、年縞の保存状態は良く、過去5万2800年分の記録が得られている。
 
 さらに湖周辺の樹木から落ちた葉が化石となって大量に含まれているという。葉の化石に含まれる炭素のデータと年縞を組み合わせて照合すると約170年の誤差で年代が測定できるという。170年というのは地質学的にはわずかといえる。
 
 これにより、世界のどこで採取された化石でも、その中に含まれる炭素を測定し、水月湖の物差しに当てはめると、その化石の年代が判明するという。
 
 中川教授は、水月湖に保存状態の良い年縞ができた理由として、直接流れ込む川がなく大水で混ざることがなかったことを挙げた。また、周囲が山に囲まれているため強風で大波が立たず、湖底に酸素が行き届かなかったことから、生物がすまずに砂をかき回すことがなかった点も指摘。「良い条件がそろっていた。水月湖が地質学的に過去5万年の標準時になる」と述べた。
 
 研究グループはほかに青森県の小川原湖や秋田県の一の目潟、長野県の深見池でも同様の堆積層を見つけており、解析を進めている。 」
 
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「古い物質の年代を調べるのに用いられる放射性炭素を使った測定法は、これまで、 1万2000年余り前のものまでしか、正確に測ることができませんでしたが、 日本人の研究者などでつくるグループが、およそ5万年前まで測れる 新たな手法を開発し、国際的な注目を浴びています。
 
古い物質の年代の測定は、物質に含まれる放射性炭素の量を、その時代の 樹木などに含まれる炭素のデータと比較することで行われていますが、およそ1万2500年前までしか正確に測ることはできませんでした。
 
こうしたなか、日本やヨーロッパの合わせて10近くの大学などの研究者で 作るグループは、日本の福井県にある湖の底の地層に含まれる樹木の葉の 化石などの放射性炭素の量を利用することで、およそ5万3000年前まで 正確に測ることが可能になったということです。
 
この新たな手法は、放射性炭素を用いた年代測定の国際基準にも おり込まれることが決まり、19日に発行されるアメリカの科学誌 「サイエンス」に掲載されることになっています。
 
研究チームのリーダーで、イギリスのニューカッスル大学の中川毅教授は 「考古学や気候変動の研究など、あらゆる分野での年代の信頼度が 飛躍的に向上することになるだろう」と話しています。 」
▽記事引用元 : NHKニュース 10月19日 4時43分
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121019/k10015855131000.html
Science Science 19 October 2012:  :Refining the Radiocarbon Time Scale
 http://www.sciencemag.org/content/338/6105/337
 
 
 
●年縞ってなんだ??
 
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  パイプに取り出された水月湖の年縞

「年縞とは、湖底に堆積した層が描く縞模様のことです。
春から夏に珪藻が繁殖してできた白い縞と、秋から冬にかけて粘土鉱物が堆積した黒い縞がセットになり、
樹の年輪と同様、1対の縞が1年の時間を表します。
年縞の中には、花粉やプランクトン、火山灰や黄砂などが含まれているため、それを分析することで、過去の気候変動を年単位で復元できます。誤差がわずか数年という年縞は、環境と文明の関係を探るのにうってつけです。
1年単位の環境変動を記憶したバーコード状の年縞は、まさに地球の歴史を刻んだ「ジェオ・ゲノム」と言えます。
下記サイトから引用しました
。」http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111081216
http://www.kepco.co.jp/insight/content/column/column106.html
http://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/41/research_11.html
 

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NHK教育放送「サイエンスゼロ」で昨夜遅くに、この研究を三代に渡って引き継いでいる学者(ニューカッスル大学・中川毅教授)が出演していた。
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サイエンスゼロ「湖に眠る奇跡の堆積物」2013年2月3日放送http://www.nhk.or.jp/zero/contents/dsp415.html
http://www.nhk.or.jp/fukui/zero/
 
 
非常に興味深い話であった。二月九日(土)昼12:30から再放送があるから是非ご覧いただきたい。
「年縞 ねんこう」の発見で、C14測定では±数百年もあった年代の誤差が埋まり、ほぼ正確な年代が出せるようになった、というノーベル賞級の発見である。誤差は±100年以内にまで縮まったのである!
 
中川教授はこのほかに湖底の年縞から大量の、何万年分の植物の花粉や黄砂粒も集め、何十万個もの数を数え!しかもそれを分類することで、春秋の季節風の吹く位置まで算出している。季節風は日本列島に多大な気候の影響をもたらす風で、その吹く位置がゴビ砂漠からだと東日本に寒波がきて大雪になるとか、タクラマカン砂漠からだと温暖な風が列島に吹き寄せて暖かい春一番になるとか、そういうダイナミックな変動にまで研究が向いている。湖底のミクロの視線と、グローバルな気候変動と、双方向にアンテナを広げる稀有な研究者であり、非常に役に立つ科学をやっておられる。
 
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 中川氏と水月湖ボーリングを行った安田教授の講義 
 「90年代になるまで、文書記録以前の時代の年代測定には、放射性炭素同位体という方法がとられていました。けれども、この年代測定法では、統計上の誤差が±50年から100年もあるという欠点がありました。50年、100年の間に歴史は大きく変わってしまうことがある。私は、気候の変動が文明を変えるという説を唱え続けていたのですが、放射性炭素同位体の測定方法では、誤差が大きすぎ、気候と文明の正確な関係を捉えられないと長い間悩んでいました。
 ところが、91年に、私は福井県の水月湖の湖底で年縞を発見し、この悩みを解決することができました。水月湖のボーリングは、水深35メートルの湖底で行い、78メートルの連続した堆積物を得ることができました。
 その堆積物からは、連続したバーコード状の縞模様が発見されました。その縞模様は、春から夏にかけてケイソウが繁殖してできた白い縞と、秋から冬にかけて粘土鉱物が堆積してできた黒い縞が一つのセットになってできていました。つまり、年輪と同じように、1つの縞が1年の時間を表しているわけです。年縞の中には、花粉、ケイソウ、プランクトン、粘土鉱物、あるいは大型の植物遺体まで含まれるため、気温や水温だけでなく、植生の変化、海面の変動、洪水や地震の回数まで復元できるのです。」
安田喜憲(国際日本文化研究センター教授)
gooWEB講義「環境考古学」 全6pのうち3pより
 
 
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水月湖の特殊性は、例の三方原発で話題になった地下を通る三方断層の揺れに伴う、数十万年に及ぶ地盤沈下で、普通なら湖に堆積していく葉っぱや泥の堆積のせいで、数万年で埋め立てられてしまう潟湖のはずが、なぜか湖周囲の土壌が徐々に沈下したために、湖が浅くならないという、非常にまれな、恵まれた?環境だったせいで、湖底には何十万年分の年縞が存在するということ。

このために、世界中の考古学者たちが、すべての考古遺物の年代を再調査し決定するための、なんと世界基準に指定されているのである!素晴らしい。そんな湖が日本にあったとは。
年縞の縞模様から、何面年分の植物の葉を数えだす、それだけでも大変な作業である。
どうやら今後、教科書は世界的に書き換えられていくことになりそうである。
 
 
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関連記事
●年代値の補正  
http://www.paleolabo.jp/ineilnoie.html
●弥生時代の開始年代について
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/news/index.htm
 
●関西電力 湖底に眠る堆積物から地球の気候変動を探る
 
 
最新のC14AMS年代法とこの年縞の基準値によって大変革が年代測定法におきているようである。
水月湖の資料数値で世界中の遺物の見直しが今まさになされている最中である。
 
 
 
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元岡古墳群G6号金象嵌太刀公開/太刀授受したのは筑紫国造鞍橋君 被葬者はその孫か? その1

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金象嵌の大刀:福岡・西区の元岡古墳群から出土、博多区・市埋蔵文化財センターで公開 1400年前の輝きが魅了 /福岡   
毎日新聞 2月3日(日)14時10分配信
 
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◆元岡古墳出土庚寅年金象嵌銘文入り太刀の意義 
 ①数少ない文字象嵌を施していること、
 ②さらに数少ない紀年銘を入れていること、
 ③さらに唯一鍛錬した日付まで入れていること、
 ④この日付より製造年(西暦570年)がほぼ特定できること、
 ⑤これにより日本書紀の「日本は553年に百済に暦博士の派遣を要請、翌年、暦博士が来日した」という記述が裏付けられること
 ⑥この時もたらされた暦が、中国・南北朝時代の宋で作られた「元嘉(げんか)暦」と確認できること
http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/cat_10003841.html
 
 
この発掘に関する当ブログ過去記事http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54153520.html
今回、この太刀が公開されたので、少し被葬者を空想してみよう。
 

◆太刀紀年にある西暦570年前後の事件
479年雄略天皇死去。後継者争いおこる。
507年大伴金村らが越前より男大述王を迎え、継体天皇として即位させる。
509年欽明生まれる
512年大伴金村百済に任那4県を割譲した問題が再燃して失脚する。
513年五経博士来日して儒教を伝える。
527年筑紫国造磐井乱。翌年鎮圧
    その後河内物部氏筑紫に入り支配体制の開始?
528年北九州に糟屋(かすや) 屯倉を置く※1
531年継体及びその皇太子?ともに崩御。
       安閑即位。武蔵国造の乱
       安閑2年 535年 穂波(ほなみ)屯倉   (筑紫の国)
       安閑2年 535年 鎌(かま)屯倉      (筑紫の国)
       安閑2年 535年 湊碕(みさき)屯倉    (豊の国)
       安閑2年 535年 桑原(くわばら)屯倉   (豊の国)
       安閑2年 535年 肝等(かと)屯倉   (豊の国)
       安閑2年 535年 大抜(おおぬき)屯倉   (豊の国)
       安閑2年 535年 我鹿(あか)屯倉      (豊の国)
       安閑2年 535年 春日部(かすがべ)屯倉  (火の国)と次々に設置。「筑紫より西はおまえにまかす」と物部尾輿と約束をか        
                 わしたはずだが?北部九州はどんどん大和の支配下へ。
       安閑元年 534年 横渟(よこぬ)屯倉  (埼玉県比企郡吉見町)
       安閑元年 534年 橘花(たちばな)屯倉(神奈川県川崎市・横浜市東北部)
       安閑元年 534年 多氷(おおひ)屯倉  (東京都多摩地域)
       安閑元年 534年 倉樔(くらす)屯倉  (神奈川県横浜市南部)と東国も乱の後続々屯倉が。
       上記安閑の強烈な重要地方支配体制への欽明勢力(旧河内王家直系子孫)の反駁により二朝並立の動乱期に?
536   宣化 都を檜隅の廬入野(ひのくまのいおりの)に遷す ?信憑性疑わしい? 
537   新羅が、任那に侵入したので筑紫にいた?大伴狭手彦(さでひこ)を遣わし任那を助ける 
538 百済聖明王 高句麗南下とそれに押された新羅と衝突し、首都を扶余(ぷよ)へ。多くの仏教寺院建設
539   欽明 天国排開広庭命(あめくにおしはらきひろにわのみこと)即位?都を礎城郡(しこのこおり)の礎城嶋に置く 
541   欽明、百済に任那復興を命ずる 
551   「聖明王、百済、新羅、任那の兵を率いて高麗を討ち故地を回復」日本書紀? 
552   ○百済国から高麗、新羅との戦いへの援軍要請あり
552年(欽明天皇13年)百済聖(明)王の使者仏像と経論数巻献じ上表して仏教の功徳をたたえる(仏教公伝)
                             蘇我氏と物部氏の死闘開始(蘇我稲目対物部尾輿)
553   欽明14年百済国から、高麗、新羅との戦いへの援軍要請あり 良い錦2匹毛氈1領斧300口捕虜の男2女5を奉る
 
554   欽明15年5月内臣、軍船を率いて百済に向かう
    百済の聖明王、新羅に殺される
    弓の名人に筑紫国造がいるー尊名として鞍橋君と附ける(要検証)※2
 

555 16 百済王の後継者に、貴方の国では祖神を祀らない、前科を悔い改め神の宮を修理し神霊を祭れば国は栄えるでしょうと後継者は父王の為に出家したいと
556   欽明17年1月、筑紫国造兵士1000名を送り百済を救援する 
557   欽明18年3月、百済の王子余昌、王位に就く(威徳王) 百済の王子余昌、王位に就(威徳王)
562   欽明23年、任那日本府、新羅に滅ぼされる 
○新羅討伐の詔下る 
○大将軍紀男麻呂宿禰(きの・うまろの・すくね)新羅討伐へ派遣 
○大伴連狭手彦(おおとのむらじ・さでひこ ※3 を高麗討伐へ派遣
570年3月22日(欽明32年3月1日)蘇我稲目死去(百済が?元岡古墳被葬者の死に対して金象嵌太刀製造した?)
                     4月、江渟臣裙代(えぬのおみもしろ)は、道君が高麗の使人漂着の事実を秘匿していることを             天皇に奏上する。
                     4月、朝廷は道君に命じ山城国相楽郡に相楽館(さがらかのむろつみ)を建てて客館とした。
                     4月、朝廷は東漢氏直糠児(やまとのあやのうじのあたいあらこ)、葛城直難波(かずらきのあた            いなにわ)を(越に?)遣わし                     
                            て、高句麗の使節をむかえいれた。
                      5月、朝廷は、膳臣傾子(かしわでのおみかたぶこ)を遣わして、高麗の使人をもてなした。この            ときに、道君が高麗の使人への旅費を横領していることが発覚。朝廷に報告された。
                      7月、高麗の使人、近江へ行く
                      7月、朝廷は、許勢臣猿(こせのおみさる)と吉士赤鳩(きしのあかはと)に命じ、飾り船で、琵琶             湖北岸に高麗の使人の迎えに遣わした。
571年欽明324月、欽明天皇崩御
571  ○新羅に使を派遣し任那が滅びた理由を問責する 
572 敏達元年 敏達天皇即位 
○百済大井(奈良県広陵町百済)に宮を造る  
○王辰爾(おうじんに)欽明31年漂着高句麗使節の国書(烏羽の表)読み解く 
  5月1日、高麗の使人、このころ未だ相楽館にとどまる
                      5月15日、王仁爾(おうじんに)が高麗の使人の国書を読み解く
                      6月、高麗の使人のリーダーである大使が部下に殺される。
                      7月、高麗の使人帰国
584   蘇我馬子、石川の宅に仏殿を造る 
585   31用明 ○橘豊日皇子が即位 
○蘇我馬子、大野丘の北に仏塔を建てる 
○物部守屋・中臣勝海ら仏塔、仏殿を破壊する 
587   ○用明天皇崩御し、泊瀬部皇子が即位 .
○蘇我馬子、物部守屋を河内で倒す(用明2年5月) .
○聖徳太子、四天王寺建立発願 .
○蘇我氏、法興寺(飛鳥寺)建立発願 .
588   32崇峻 ○蘇我氏、法興寺(飛鳥寺)建立開始
582年任那日本府滅亡
※参考年表
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/suruga/japankokogaku2.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E7%A8%B2%E7%9B%AE
http://egf.air-nifty.com/hyoryu/H0570a.html
http://www9.plala.or.jp/kinomuku/5nenpyou1.html
 
 

※1●九州の屯倉の歴史
「九州の屯倉は、磐井の乱後に数多く設置されています。
継体天皇の治世21年(527年)6月に近江毛野臣(けののおみ)は六万の軍隊をひきい任那へと向かいました。新羅に破られた加羅国を取り返し任那を復興する為でした。筑紫国造磐井は前から反逆の意志を持っていてスキをうかがっていたそうです。それを知った新羅は密かに磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍が海を渡るのを遮る事を求めます。磐井は筑紫、火国(後の肥前、肥後)、豊国(後の豊前、豊後)の勢力を集め毛野臣の渡航を遮ります。
そこで朝廷は物部麁鹿火(あらかひ)を将軍として派遣、翌年11月に磐井軍を破り斬殺しました。その後、磐井の子の葛子(くずこ)は父の罪に坐して殺される事を恐れて糟屋(福岡市東部)の屯倉(みやけ)を献上しました。」
http://web.joumon.jp.net/blog/2009/03/000765.html
 

※2●筑紫国造鞍橋君 くらじのきみ http://kotobank.jp/word/%E9%9E%8D%E6%A9%8B%E5%90%9B
 ?-? 6世紀の豪族。百済王余昌と同時代人。
筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)。欽明(きんめい)天皇15年(554)百済(くだら)(朝鮮)王子余昌が新羅(しらぎ)(朝鮮)にきずいた山城久陀牟羅塞(くだむらのそこ)(慶尚北道北西部)が新羅軍に包囲された際,弓矢で奮戦し余昌を救出。このとき矢が鞍の前後の橋(くらぼね)を射とおすほどの力があったため,余昌から鞍橋君の名をあたえられたという。
 
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※3●大伴狭手彦略伝
「宣化天皇2年(537年)、新羅の任那侵攻に際し朝鮮半島に派遣され、任那・百済救援に活躍。肥前国松浦郡の娘子(おとめ)との悲恋説話はこの時のもの(肥前国風土記逸文、万葉05/0868~0875)。欽明天皇23年(562年)、大将軍に任命され、兵数万を率い、百済の計略を用いて高句麗を討つ。逃亡した高句麗王の宮に進入し、多くの珍宝・武器などを奪って持ち帰り、七織帳を天皇に献上した。武具並びに捕えた美女媛とその従女は蘇我稲目大臣に送り、稲目はこの二人を納れて妻としたという(書紀の分注には11年とある)。なお861(貞観3)年8月の伴善男の奏言によれば、狭手彦は金村の三男で、宣化天皇の代、新羅を征し、任那を復興し、百済を救けた。欽明天皇の代、高句麗の侵攻を受けた百済救援のため大将軍に任命されて高句麗を討った、という(日本三代実録)。」
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/sadehiko.html

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◆以上の資料から元岡古墳被葬者を推定すると・・・
筑紫国造鞍橋君【くらじのきみ】

となるだろう。
 
その2その理由と重要な発見に続く
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その2 大発見鞍橋君は筑紫熱田神社宮司 多氏・物部氏・海部氏と筑紫国造の相関関係

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理由
1 百済は新羅との抗争に、倭国へ援軍を要請する見返りに仏教や漢字博士、五経博士を贈っている。この太刀もその一部であろう。

2 ならば贈られた被葬者は新羅との戦いに功績のあった筑紫の倭人豪族であると推定できる。そして贈ったのは鞍橋君に命を救われた百済王余昌である。
3 欽明はそれに対して大伴らを援軍に送る

4 この時代、大伴氏は磐井の乱物部氏によってかつての九州の統治権を失って低迷期にいた。だから新羅遠征は大伴氏にとって名誉挽回のチャンスだった。倭五王時代の大伴大連は火・筑紫・豊の武人や国造たちの元締めである。そもそも筑紫に大伴氏の指示に従う大和派遣氏族は多かった。例えば葦北国造など。

5 しかし570年頃にはすでに聖明王も狭手彦も死んでおり、百済王は余昌(威徳王・昌王・明王)になっていた。

6 570年に狭手彦を重用してきた蘇我稲目が死去し、馬子が大臣になるこのときの筑紫国造はすでに磐井の筑紫君一族から別の大和派遣氏族に代わっていた可能性がある。それが筑紫(竺紫)物部氏だった可能性があるだろう。その国造の名は筑紫国造鞍橋君である。彼は百済王余昌の命を救っている百済にとっての大功労者である。

7 するとその後、大和で蘇我氏と激しく対立した河内物部本宗家よりも竺紫(つくし)物部氏のほうが勢力があった(大陸との交易に筑紫は有利)わけだし、百済王がそちらへ直接贈り物をしたわけも合点がいく。
8 象嵌紀年銘文入り太刀を贈呈されている氏族は、ほかに熊本の火国造(江田船山古墳)、埼玉の武蔵国造(稲荷山古墳)であると推定できるので、そもそも彼らと同じ大彦子孫を名乗っていた筑紫国造家は同族である。(これによって謎の氏族だった多氏も当然、大彦所以を考えうることになろう)大彦子孫の系譜は阿部氏祖大毘古五代孫田道命(たみちのみこと)が筑紫国造になったとある。筑紫物部氏も筑紫に入ればこの系譜を大陸との古くからのつきあいで名も通っているから使ったはず。すると百済・新羅とは非常に古くからのつきあいである。
特別な太刀を贈られることに無理はない。

9 そもそも大和でも物部氏は巨大な墳墓をあまり作らない氏族である。元岡G6号墳も径18メートルと小さい。
いずれにせよ被葬者候補は
1筑紫国造鞍橋君(第一候補ピカイチ)
その実体である竺紫物部氏?
大伴狭手彦の子孫?
のいずれかではあるまいか?ま、楽しい妄想ですがね。
 
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ちなみに・・・
鞍橋君の名前、「くらじ」であるが。実は・・・
福岡の新北にある「熱田神社の宮司家(金川家)の先祖は鞍橋君(筑紫国造)であり、
尚且つ鞍橋君は、筑紫国造磐井氏の一族
なのだという。
「くらじ」で思い出すのが尾張の熱田神宮に高倉下(たかくらじ)命があるが、この人物は神武に剣をさしだして援けたいわれがある、尾張氏の祖人でもある。では「たかくらじ」とは「くらじのきみ」由来であるか?!
ならば欽明時代の筑紫国造とは尾張氏と関わるか?尾張氏は物部氏と海部氏と同族である。
尾張氏・物部氏・海部氏・筑紫国造つまり多氏の相関関係は今後の課題になった。
 
 
 
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『2013年、中国で軍事クーデターが起こる』楊 中美, 文海ほか

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『2013年、中国で軍事クーデターが起こる』楊 中美, 文海ほか
出版社:ビジネス社
 
「習近平が党総書記と国家主席に就く時代(2013~18年)には、改革・開放30年の経済成長を可能にした「人口ボーナス時代」が終焉する。生産年齢人口(15歳以上65歳未満)の補充ができず「人口オーナス時代」が到来する。中国社会の危機が極大化する2013年~2018年には、人民解放軍が歴史の舞台に上り、全局を左右する役割を果たす。残念ではあるが、私が60数年の人生を懸けて中国研究に勤しんできた経験から導き出した答えである。」
(「はじめに」より)
 
 
 
新田論講演会 4月 『中国でクーデターが起こる』 4/7 .
http://www.youtube.com/watch?v=c5-EgNCzC8E
 
 
 
 「楊中美『2013年中国で軍事クーデターが起こる』は2010年に出た本だが、今回の事態を正確に見据えていたようだ。
 この本の中で楊は、習近平政権に刃向かうものとして、薄煕来と李源潮の二人をあげている。
 このうち薄が打倒され、彼の軍関係の工作も破たんしたいま、習近平政権はまずは大過なく出発が可能になった。
 胡・温両氏も、敵対勢力を排除し、軍を完全に屈服させ、しかも習近平らの背景にいた江沢民が余命いくばくもまくなって、江沢民はの権力再編が必然となっている今-薄煕来の行動もこの一環だったかもしれない―習近平と連合を組んで、今までにない体制を中国に構築できるかもしれない。
 ちなみに李源潮にかんしては以下の記事もあり、まだひと波乱あるかもしれない。
 ただし2011年9月の記事なので、現時点では大きく李の力も変わってきている可能性がある。
「中国共産党18回大会までまだ一年以上残しているが、人事に関する臆測は後を絶たない。中国の消息筋は、李源朝・中央組織部長の昇格が最も有力で、5年前の曽慶紅氏のように、「18回大会」の後、中国共産党内で「最も実力ある人」になる可能性が高いとしている。中時電子報が伝えた。
 
■「李源潮」写真特集
 消息筋によれば、中国共産党内の各勢力がポジション争いのため積極的に動くなか、現在最も有力なのが李源潮氏で、「18回大会」後に現国家副主席の習近平氏、国務院副総理の李克強氏に次いで3番目の「実力者」になるとの見方が一般的だという。
  現在61歳の李源潮氏は江蘇省漣水県出身。1983年から中国共産主義青年団(共青団)中央書記処書記を務め、一時は胡錦濤・現国家主席と同列に並んだこともあった。
  李源潮が手腕を発揮し始めたのは、2000年に出身地・江蘇省の共産党委員会副書記に就任してからであり、江蘇省トップ在任中の5年間、省別GDPで江蘇省は広東省とトップを争ったという。
  李源潮氏は現在、中央組織部部長として中国共産党組織人事を取り仕切っており、副省級以上の人事はすべて李氏の承認を得なければならない。 中国政界では近年、江蘇省籍もしくは同省出身者が相次いで抜てきされており、背後には李源潮氏の影があるとされている。
  消息筋は、2002年の中国共産党16回大会の後、同じく中央組織部長であった曽慶紅氏が政治局常務委員に昇格するとともに、中央書記処書記、中央党校校長、国家副主席などの職を兼務し、一時実権を握ったと分析。李源潮氏も「18回大会」において上記ポストに就く可能性が非常に高いものの、年齢上の理由から、曽慶紅氏と同様、任期は1期のみになると予測している。(編集担当:中岡秀雄)」
http://blog.goo.ne.jp/baileng/e/45e9628b3b4eb255e74f08eea6ec0c93
 
 
 

本日報道では、中国軍隊はすでに中国政府から独立性を強めてきているとのこと。
今回のロックオン事例も、すると想像通り、海軍の勝手な行動であると見えてくる。

中国国内は強烈な右傾化で、もうぱんぱん状態。
ちょうど日本の2・26事件のようなもので、このままいくと尖閣沖で、近々、中国海軍は本当に銃撃してくる可能性が高まったといえる。
 
アメリカ軍は今後、韓国・日本との連携を深め、中国の動向に厳しい監視を加えていくと発表している。
クーデターが起きれば、極東は再び100年前の状況に急変する。
そうなれば、やがて中国共産党も壊滅し、連合軍側の植民地になって、おとなしくなるだろう。原始国家からの脱皮のための痛みがやがて始まる。井の中のかわずにとっていい勉強になるだろう。
 
まことに原始的国家であることよ。
 
 
 
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百済禎嘉王・福智王日本逃亡伝説

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●百済禎嘉王・福智王日本逃亡伝説

 「昔、百済の国において大乱が起こり、禎嘉王(ていかおう)と、その子の福智王(ふくちおう)とが、乱を避けて、女官・従者と共に日本へ渡った。彼らは日向の国の小丸川の河口、現在の高鍋町の蚊口浦に上陸する。禎嘉王は小丸川の上流、現在の南郷村の神門(みかど)に居を定め、王子の福智王は下流の、現在の木城町の比木(ひき)に住む。

 しかし、まもなく、追っ手がかかり、禎嘉王は現在の東郷町の伊佐賀で防ぐが、矢を受けて戦死する。
 いま、南郷村の神門神社には禎嘉王を祀り、木城町の比木神社には福智王を祀る。なお、小丸川河口の高鍋町の鴫野にある大年神社は、禎嘉王の妻にして福智王の母なる之伎野(しぎの)を祀ると云う。」
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/kwch-lit/hyuga.htm
 
 
『高山彦九郎日記』寛政4年閏2月12日 宮崎比木村
「十二日、快晴、椎ノ木村酒店より戊の方十丁斗道中嶋村を過ぎ比木村に入る。石鳥居社南向き比木大明神百済国福智王子を祀る。百済より此所へ隠れまし墓も有り社領七十五石社家四十三入社僧長照寺真言宗も義也。森は杉桧の大木多くし楠の大木も亦多し、一の鳥居のあたり楠根の張りたる所六間余なる有り、これより南半町斗り福智王の墓有り、五輪塔壱尺七、八寸の丸石也、古からず。比木昔は火木と書きけるに火事多かり
けるによりて比木に改むると云ふ。別当持の社也、社後高城川流る、中嶋村より社前迄松並木五丁斗り続く、松虫せみの声にて鳴く、高鍋城主秋月佐渡守殿参勤交代共に参詣有る。福智王の父は延岡城下より西六七
里きじのみかどに祀りて有り、毎年、鉾と太刀ときじのみかどへ渡りて中酉の日祭りありて帰らる。父へ省するの意なるよし、九月中の日、高鍋城下宮田大明神へ神輿入りて村々を廻りて帰社、是をお里廻りと号す、十一月初めの申の日鴫野大年大明神へ神輿入る、宮田は姉神、大年は母神也……以下略
(役所の「師走祭調査報告書」P121からコピペ)」
http://zaru3386.blog.fc2.com/?mode=m&no=83
 
 
 
 「比木神社の創建の年代は不詳ですが,長く高鍋藩主秋月家の保護をうけていました。
比木は,この地に漂着した百済王子の福智王が玉を投げて居住地を占ったところで,社内には,福智王投げた杖が根付いたと伝えられるチシャキの巨木等の由緒あるものも多い。
福智王を祀る祭りの中でも神門御神幸祭は百済王族漂着伝説に因む祭典を行いながら父禎嘉王を祀る神門神社(南郷村)に向い,その後,比木の地に帰還する祭りでかつては9泊10日(現在は2泊3日)もの時間をかけて廻るという,全国でも大変珍しい祭りです。」
http://www.kyuden.co.jp/effort_water_omarugawa_omaru07.html
 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どうも宮崎の木城(きじょう)町に百済王族漂着伝説があり、神社もあるようである。
どうやって九州の太平洋側へ漂着したかはわからないが・・・。

ところが福智町は福岡田川郡に、福智山も同町にある。福知山市は日本海側の北陸である。
 
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                                       福岡県田川そばの福智山
 
 
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英彦山(ひこさん)山系の端っこにある。
 

この伝説の出展はないものか・・・?
どうやら宮崎県美郷町南郷と木城町比木に、「百済王の伝説」が伝わっているらしく、伝説を刻んだ石碑があるのだが・・・

「天平勝宝八年(756)、内乱により祖国を追われた百済の貞嘉王が大和の飛鳥にのがれ、二年後に、反乱軍の追撃を避け、
海路九州の大宰府へ脱出の途中、激しい暴風雨で難航し、貞嘉王は日向市金ヶ浜に漂着し、山奥の神門郷に住んだ。
王子の福智王は別の船であったため、高鍋町蚊口浦へ流れ着き、木城町の比木に安住した。
貞嘉王は、さらに追撃を受け、伊佐賀峠で応戦したが苦戦し、王子福智王が比木より援軍として来てくれて、ようやく勝利を得た。
しかし、そのとき流れ矢が貞嘉王に当り、王は亡くなってしまった。
神門の郷人たちは、王の徳を慕い手厚く葬り、神門神社に合せ祀ったという。
比木に戻った福智王は、余生をその地で送り、比木神社に合せ祀ったという。」
 
 
 
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「天平勝宝八年というのが口伝らしいが、さらに100年くらい古い話ではないだろうか。
奈良時代、孝謙天皇の時代では、百済の滅亡は遠い昔の話になってしまう。
きっと、白村江の戦いの後の百済からの渡来と思われる。
百済から渡来した人たちにも仲間割れがあったのだろうか。
現に、鬼室福信は百済再興のため挙兵し、日本にいる百済王子豊璋を呼び戻したが、その豊璋と意見が合わず殺されてしまった。
貞嘉王、福智王、『日本書紀』や『三国史記』にその名はみえない(記紀にもどこにもないKawa)が、渡来人の間にも仲違いがあったのだろうか。
それは私のかってな想像だけど、
この地にそんな伝説が1300年以上も残ることがすばらしい。

・・・
 
宮崎県東臼杵郡美郷町南郷区神門に、神門神社がある。
宮崎県児湯郡木城町比木に、比木神社がある。
このふたつの神社を結ぶすごい祭りがあるという。
「師走祭り」
案内によると、
この師走祭りは、百済亡命王族の親子対面を再現する祭りといわれ、その伝説を裏付けるものとされている。
親子対面の儀は、旧暦十二月十八日から二十日にあたる日程で、(後略)」
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/kiki/tenji/siwasu.html

やはり伝承と石碑だけか・・・。

「師走祭りの様子から百済の要素を除くと、日本各地にある冬至祭りのひとつだと理解できます。
百済伝説を「神社境内書上帳」「日向襲高千穂神代囲」「利国大明神書上」「高千穂採薬記」「高山彦九郎筑紫日記」の原典を引用して説明していますが、実際に百済王の名前があるのは江戸末期の「高山彦九郎筑紫日記」だけです。
違う言い方をすれば、高山彦九郎以前に百済伝説の資料はありません。

高山彦九郎は国を憂い日本中を旅した尊王の志士です。
高山彦九郎の日記が最古の資料であるならば、彼はどこで百済伝説を知ったのでしょう。
参考となるのは神門神社を訪れる前の熊本滞在の50余日のほとんどを高本紫溟氏宅に滞在していることです。
高本氏の祖は秀吉の朝鮮出兵の際の帰化人であり、日記には高本氏との濃い交流が記されています。
(宮崎県のどの神社伝承記録でも)百済王については一言もありません。
 
天野武氏の「日向の師走祭と伝説」は、第1節から第3節までは祭祀の実態を民俗学の立場から解説していて興味深いです。

百済伝説について書いているところを引用します。

第4節 師走祭にまつわる百済王伝説
 師走祭りに関わる百済王伝説は、私の調査の限りでは細部において完全な一致を見ておらず、やや違った
ものが並存し錯綜しているというのが現状のようである。ただし、それら伝統は、明治時代以降に作為的に
流布され定着をみたものではなく、控え目でも、江戸時代末期(一九世紀半ば) には、すでにある程度の広
がりをもって民間に伝えられていたと判断できるのである。そのことは、『高千穂採薬記』 (前掲) および
高山彦九郎の『筑紫日記』 (寛政四年閏二月) 〔一七九〕の該当する条や比木神社旧縁起の記録によって疑
う余地はない。
http://zaru3386.blog.fc2.com/blog-entry-87.html
 
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                               比木神社
                 
どうやら宮崎限定の伝説であるらしい。
ほかには一切第一級資料文献はない。
ではよその「ふくち」地名の由来から攻めてみよう。
 
 
●福知山市
「福知山という地名は明智光秀の城改修の際に名付けられた「福智山」に由来する。
 
和泉式部の歌「丹波なる吹風(ふくち)の山の もみじ葉は 散らぬ先より 散るかとぞおもう
 
から取り、これに明智の「智」の字を当てたという説や、或いは富士山由来の名(別名)によるとの説も存在する。福智山の「智」は1728年(享保13年)に朽木氏によって「知」の字に改められた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%9F%A5%E5%B1%B1%E5%B8%82#.E5.9C.B0.E5.90.8D.E3.81.AE.E7.94.B1.E6.9D.A5
 
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                     福知山市の福知山城
 
 
これまた、あまり信じがたい内容である。明智光秀が福知山城と名づけて、和歌に詠んだとはいっても、肝心の「ふくち」命名の由来にはなっていない。「吹く地」はわかる。かけている。つまりこれでは「風が強く吹く土地」という意味にしかならぬことになる。
 
 
●田川郡福智町と福智山
「町名は一般公募により選ばれたもので、町の北端にある「福智山」(標高901m)に由来する。」
公募?山の名前から・・・
その福智山の由来は・・・不明。
 
 
 
だいたい全国にある「ふく」地名は光秀が掛けたように「吹く」から来ることが多い。これは単に風が強く吹くだけではなく、ご承知のように金属精錬地名である。ふいごの風、そのような野だたらがあったという地名である。福島県がまさにそうである。それに「福智」という良い文字をあてたと思えるが、もしや百済王子伝承もあったのかも知れない。
しかし百済王子福智という人物の記録文献がない。
おそらく宮崎に多い山の民の考え付いた貴種流離譚ではないかと結論する。
 
 
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サンタ・ムエルテ 髑髏の聖母 Santa Muerte

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Sant Muerte 死の聖母
 
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これはご存知アステカ文明の発見物でオーパーツとも喧伝されてきた”クリスタル・スカル”(水晶髑髏)である。
現在、十数個が確認されており、そのほとんどがマヤ文明やアステカ文明、インカ帝国といった中南米の考古遺物とされている。当時の技術水準から考えてあまりにも精巧に造られているとも思えるためにオーパーツとして取り上げられるが、本当に出土品であるかどうかについて懐疑的な説がある。
話題性だけがとりざたされるが、実はすべてがにせものだという分析結果が出ている。
超常現象の謎解きにそのネタ晴らしがある。

ことほど左様に、「現代の技術では不可能」などという「謳い文句」はまずすべてが出版業界やとんでも作家の作り出す宣伝文句にほかならない
しかしアステカ、マヤ、インカなど中南米の古代人が髑髏を聖母と考えたのは、まずもって間違いのない事実である。クリスタル・スカルの真贋はともかく、中南米人の古代から連綿と続く「髑髏愛好」は間違いがなく、おいおいそれを歴史を遡って証明する。
 
 
◆現代の「髑髏の聖母」
サンタ・ムエルテ Sante Muerte
スペイン語 意味は「死の聖母」
美術研究者の加藤薫(かとう・かおる)が2012年に出版した『骸骨の聖母 サンタ・ムエルテ』新評論 2012 に詳しく紹介されている。
 
³¼¹ü¤ÎÀ»Ê쥵\󥿡¦\२\ë\Æ: ¸½Âå\ᥭ\·\³¤¦´¹\ԥê\Á\Ôú\롦\¢¡¼\È
 
加藤は考古学者でも歴史学者でもなく、単に美術品のひとつとして、民俗学的な好奇心からメキシコに渡り、そのルーツや意味を考察しているので、内容にややとっぴな部分もあるのは否めないが、この不思議な髑髏の聖母は地母神(じぼしん=大地母)信仰から出てくると見破っているようである。
 
そしてこのメキシコの人口の3パーセントまでも占める骸骨聖母信仰の始まりを
1 スペイン統治によって入ってきた欧米文化の影響
2 アステカから続く先住民の大地母信仰の一部での存続
3 鉱山起源説
などなど、すべての起源説を紹介している。
 
その飾られる祭祀場の祭壇には、東洋と同じく、水・火・土、空気=風に関わる供物(オフレンダ)があふれており、中南米人の信仰が東洋や、あるいは北欧土着の民間信仰と同じように、五行に似た構成要素を持っていることに気がつく。とにかく原始信仰というものは世界共通のきわめて原初的な、かつ人間的なチープな観念から始まるのである。それはいつもここで書いているように、永遠の生命と再生へのあこがれ、つまり大地母信仰なのである。
 
 
サンタ・ムエルテはメキシコのみならず、いまや中南米全体、欧米にまでその人気が広がってきた。メキシコの”原宿”エル・チョボや、ほかの市場だけでなく通販サイトもたくさんあるし、海外Wikiには各国語で項目が作られてもいる世界的にメジャーな民間信仰のオブジェなのである(残念ながら日本のWikiはまだ記事が存在しない)。どうやらこの髑髏趣味は中世から古代にまで遡ることができそうな、中南米人の中に残存する古代先住民から続く文化であるようだ。ということは現代中南米人の中に古代の血脈や伝承がまだ残っていることが想定できるのではないか?
 
 
以下、新しい順に古い時代へと骸骨を画像で追いかけてみよう。
そのままメキシコの歴史順序も一目でわかると思う。
アステカ文明なども、実はついこのあいだの、日本の戦国時代にあたることがわかる。
 
スペイン植民地時代
16世紀
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                 プエプラ州トラルマナルコの西洋建築にある骸骨
 
 
アステカの骸骨
アステカAztecaAztēcah
1428~1521(15世紀前半-16世紀前半)
西欧暦では中世時代の文化。
 
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アステカ ツォンパントリの壁面 骸骨
 
 
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ハラパ市ベラクルス州立人類学歴史博物館所蔵ミクトランテクトリ像
 
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                ≪ミクトランテクトリ神像≫ テンプロ・マジョール博物館蔵
 
 
ミシュテカ人
先スペイン統治期
10世紀~
 
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                   ミシュテカ人の骸骨がある骨壷
 
 
 
マヤ
バレンケの骸骨
7世紀
バレンケと言えば石棺の蓋に刻まれた”宇宙船のパイロット”であろうが・・・。
 
 
 
 
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                           バレンケ遺跡の骸骨神殿
 
 
◆レモハダス文化
7世紀
ベラクルス州
 
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ハラパ市ベラクルス州立人類学歴史博物館の埋葬様式の復刻
 
 
 
◆テオティワカン文化
前150-後650年
太陽のピラミッドの前の広場より出土。メキシコシティ国立人類学博物館所蔵
 
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◆オルメカ(Olmeca)文化の骸骨
紀元前1200年頃から紀元前後
先古典期のメソアメリカで栄えた文化、文明
アメリカ大陸で最も初期に生まれた文明であり、その後のメソアメリカ文明の母体となったことから、「母なる文明」と呼ばれる。
 
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               オルメカ・トラテロルコ遺跡の半身半骸骨偶像と儀式用仮面
 
 
 
 
このように、さまざまの民族が入れ替わって来たメキシコ。
それなのに骸骨趣味は変わらない。
ということはどんな民族であろうと「死=生まれ変る生」という観念は絶対的に共通しているということである。それこそが世界中の歴史的遺物の類似性を解く、最大の解答であると言える。
 
諸説の中の西欧の死神のイコン(正教会で用いられる画のことで、聖像)は、おそらく中南米の偶像をスペイン人が持ち帰り考案されたものであろうし、西欧で持たされた巨大な鎌をもつ姿やフード付チュニック(聖衣)は、スペイン正教会のシトー修道会などの風習が逆輸入されて、現代の中南米に入ったのだろう。もともとのデザインはこっちである。つまりカトリック正教会風俗と先住民骸骨聖母伝統のミックスマッチなのである。
聖母マリアが大地母女神となった
とも言える。そういう意味では、まるで北欧の民間信仰である冬至祭りにクリスマスがかぶったのと同じことが、ここアメリカ先住民の子孫たちにも起こったということだ。
 
現代の迷信であるサンタ・ムエルテ信仰は、つまりは新旧・西東のクロスオーバーした新しい骸骨像である。しかしながら西欧がそれを死神として畏れたり、海賊船やワイルドなバイク野郎ドモやロックンローラーのシンボルにしておいて人を威嚇しようとする風習は、あくまでもキリスト教至上主義からでる、原始のあっけらかんで自由な野生の思考に対する否定的、内向的、排他的、いずれは帝国主義・植民地主義へとつながることになる観念でしかないのに比べ、陽気なメキシカンたちの髑髏の聖母は、あくまでも愉快な着せ替えバービー人形であり、アイドルなのである。こういう原始的できわめて自然主義的な志向性は、日本人の持っているデフォルメ文化、怖いものすら「可愛い~~~」にしてしまう志向性にまったく等しい、平和な考え方である。
 
 
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骸骨の正体が大地母女神である証拠は、その背後にあるこのような美しい女神が描かれることがあるからである。日本の山姥や鬼子母神も、やはり小野小町のような美しきおんなのイメージを持たされてきた。まったく違うところなどない。
 
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※偶像分析のヒント
目に瞳が描かれない、くぼんだ眼窩だけのものの多くは
死者を表すものが多い。
それは縄文土偶にも共通する。
縄文土偶もまた大地母=死者の姿をしている。
だから土偶もまた再生祈願のための破壊だった。
破壊=死、死=再生   それはつまりは輪廻であり、魂が帰ってくるようにとの願いなのである。
 
 
 
 
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 戦争や侵略が起こりえない文明とはこのように野生的な現象を押さえ込まず、そこに同和してしまう、したたかさを持っている。今の中国がやっているような軍国的帝国主義侵略主義は、大昔の西欧人のような古臭い過去の遺物的行為である。

コリマの人面犬とエル=オペーニョ文化と竪杭墓

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コリマ・ドッグが人面仮面を被っている。
 
 
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特徴的墳墓は竪坑墓
 
 
エル=オペーニョ文化El Opeño)とは、メキシコ西部に先古典期前期末頃、紀元前1500~同1300年前後に栄えた文化で同名の集落遺跡が命名の由来である。
 
 
犬=多産
 
竪杭墓は地下式横穴墓。
 
 
 
知識豊富なものは感じたものがあるはず。
ならばあんたはおばかじゃない。
 
以上
 
 
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縄文時代はいつ始まるか 序論

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この画像は 本文とは無関係
 
 

◆ 縄文時代はいつ始まるか論争
縄文時代はいつから?中央大学文学部准教授小林 謙一
から転載

「縄文時代(1)は,後氷期の環境の中で土器を持つが農耕をおこなわない日本独自の新石器文化の時代と理解されてきた。しかし,近年の研究により異なった姿がみえてきた。それは日本史のみならず,人類の発展段階として大きな問題を含んでいる。
 
 縄文時代の始まりはいつとされているだろうか?現行の高校教科書には,次のように記載されている。「縄文時代のはじまり いまから約1万年前,完新世になると,気候は温暖化し海面が上昇して,日本列島は大陸からはなれ,現在のような自然環境になった。(中略)大きく変化する自然環境に,人々は新たな道具を作り出して対応した。木の実など植物性食料を煮るために土器が作られ,動きの速い中小動物をとるために弓矢が使われるようになり,木を伐採し加工する木工具として磨製石器が発達した。(中略)縄文時代は約1万2千年前にはじまり,およそ1万年にわたって続いた」(実教出版「高校日本史 B」 平成 23 年 14-15 頁)。
 
もう一冊の日本史B ではより詳しく,約1万5千年前頃を境に地球は温暖化へ向かったこと,「約1万2千年前に土器の使用と磨製石斧や弓矢の発達,定住性の高い狩猟・採集生活」と書かれ,註として「草創期の隆起線文や爪型文をもつ最古の土器は,旧石器時代末期に発達した細石器とともに出土することがある。放射性炭素 14C による年代測定法によれば,草創期の長崎県福井洞穴の年代はいまから1万 2700 ± 500 年前」とされる(実教出版「日本史B」平成23年 29-30頁)。 
 
他社の教科書でも同様の記載であるが,東京書籍版では注釈として「縄文文化のはじまりは,放射性炭素 14C による年代測定の研究によれば,約1万3千年前と推定されている」(東京書籍「新選日本史B」 平成 23 年 8 頁),
 
山川出版社版ではさらに詳しい注釈として「放射性炭素 14C による年代測定(炭素 14 年代)では約 1 万 2000 年前とされてきた。(中略)この方法は過去から現代に至る大気中の 14Cの濃度は一定との前提に立つが,実際にはその濃度は変動していることが知られている。最近ではAMS 法(加速器質量分析計)の採用によって高精度化した炭素 14 年代を,さらに年輪年代法などの確実な方法によって補正する研究が進み,縄文時代のはじまりは1万 6500 年前にさかのぼる説が出された。ただこの補正年代を認めない研究者もいる」(山川出版社「詳説日本史 B」平成 23 年 6 頁)とされる。
 
 以上をまとめると,縄文時代の始まりの様相について,教科書にある現在の定説では約1万年前に氷河期が終わり,大型獣が滅びて替わりに照葉樹・広葉樹が森林を形成するという環境の変化に応じて,旧石器時代の遊動民が大型獣を追う狩猟中心の生活から,採取した木の実など植物質食料を土器で煮炊きして食するようになり,一定地域に定着的な生活を始めたと理解してきた。
 
しかし,この 10 年間に土器付着物の炭素 14 年代測定など研究成果が進み,青森県大平山元?遺跡の無文土器は 1 万 5000 年以上前の土器で,確実な測定例としては世界最古の土器の一つと評価できることがわかった。土器の初現は,まさに氷河期の最中にあったのである。 このように,「縄文時代の始まり」については,年代が揺れている。これまでの定説では1万年前または 1 万2千年前といわれていたのが,1万6500年前とされる説も出てきた。これは単に古くなったと言うだけではない。1万 6500 年前というのは氷河期の真最中である。とすると「暖かくなって堅果類を煮るために土器が作られた」という説明は間違いになる。
 
さらに考えると,氷河期の最中に当たる文化は「縄文時代」でいいのか?ということになろう。 さて,この問題はいくつかのレベルでの議論が組み合わさっていて,わかりにくい。
 
そこを,まず整理しておきたい。
1)土器出現の年代を明らかにすること,
2)そのときの環境や文化的な評価,
3)旧石器時代から縄文時代への画期を何に求めるか,
の3つの課題であり,

1)については一番古い土器はどの土器か,その年代をどのように決定するか,という二つの側面がある。
 
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順番にみていきたい。
1.一番古い土器は何か,何年前か? 
そもそも最も古い土器は縄文土器研究が進むにつれて次々さかのぼって発見されてきた。それは,大正から昭和前半期を中心に縄文土器編年の基礎を作った山内清男博士が,日本列島における最古の文化を探るのは一番古い土器を探すことでわかるとしたことにより,より古い層から出土する古い形の土器を探すことが大きな課題となってきたからである。 
 
1949 年の岩宿遺跡の発見により旧石器時代が確認されると,最古の土器が最古の日本列島における人類文化ということではなくなったが,縄文文化の始まりを知るための重要性は変わらず,繊維土器→撚糸文土器と最古の土器は置き換えられてきた。 一番古い土器は,考古学的な遺跡の調査によって埋まっている層位の順番,一緒に出てくる石器のタイプ,土器自体の製作方法や装飾の仕方から相対的な順番はわかり,日本列島の中でどの土器が古いか(相対年代とよぶ)は考古学的に決めることができる。しかし絶対年代は従来の考古学的手法のみではわからない。
 
そこで一定の速度で崩壊していく炭素14 という元素の量を測ることで経過時間を知る炭素14 年代測定法によって年代を調べるようになった。
 
1959 年頃には縄文時代早期撚糸文式土器を出土する神奈川県横須賀市夏島貝塚で測定された 14C 年代をもとに,芹沢長介によってその時点で世界最古の土器出現となる約 9000 年前に縄文時代が始まるという絶対年代観が提示され,14C 年代に反対する山内清男との間で激しい論争が生じた。 1960 年代には愛媛県上黒岩岩陰遺跡や長崎県福井洞穴の調査から,尖底の器形をもち口縁近くに横走する粘土紐で装飾する隆起線文土器が芹沢らにより最古とされ,14C 年代で 1 万 2000 年前とされた。 
 
その後も隆起線文土器は,旧石器時代の石器を出土する関東ローム層と縄文早期土器を出土する黒色土層との間の漸位層など古い地層から発見され,山内清男の目指した「縄文土器の底」はほぼ確定し縄文時代早期の前に縄文時代草創期として位置づけた。
 
しかし,1998 年に青森県大平山元?遺跡でそれまで旧石器時代の最後と考えられていた石刃や石槍,局部磨製石斧に伴う無文の土器片が出土し,14C 測定結果の較こう正せい年代で,1 万 6500 年前とされ,大きなニュースとなった。
 
これまで最古の隆起線文土器よりはさらに古い土器であることは共伴する石器が旧石器時代の特徴を持つことからも明らかで,土器の出現をさかのぼらせるものであった。14C 年代では 1 万 3000年前で,年代的にも確かにさかのぼるものであったが,14C 年代を年輪年代との比較から暦年に補正する較正年代で計算し,最も古く計算すると 1 万6500 年前になるという意味もあった。
 
炭素 14 年代の較正とは,以下の補正方法を指す。
年代測定を始めたリビーは,14C の量を調べて物理的な経過年数を知るために,過去の 14C の量を一定と計算して年代としたのである。しかし,実際には過去の大気の中での 14C の生成量が異なるので,正確な年代ではないことが年輪年代との比較で判明した。そのため,樹木の年輪に含まれる過去の 14C の量と対比させることで暦年代に補正する方法である。
 
過去にさかのぼるほど実年代と 14C 年代の差が激しくなり,1万年を超えるあたりでは 2000 年古くなる(2)。大平山元?遺跡は 13000 14C BP の炭素 14 年代測定値を較正しさらに古いことがわかったという面もある。ただし,現在では大平山元I遺跡の測定値のバラツキの平均値を用い,さらに改定された最新の較正曲線を用いると,大平山元?遺跡の無文土器は 1 万 5000 年よりは古く 1 万 6500 年までの間の一時点と考えるようになった。 
 
※大平山元I遺跡と類似した無文土器や隆起線文直前の可能性がある簡便な装飾と考えられる土器が,関東(茨城県後野 , 向野 A, 東京都前田耕地 , 田無南町 , 神奈川県相模野 149, 寺尾 , 勝坂遺跡)・北陸(新潟県大刈野遺跡)・東北地方(青森県大平山元?遺跡)と南九州(鹿児島県横井竹ノ山 , 加治屋園遺跡)など 10 箇所ほど見つかっており,共伴する石器の様相から大平山元?遺跡や後野遺跡などの無文土器が最古の土器と位置づけられる。」
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=w-ckcUmKNW0J&p=%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A4%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8B%E3%81%8B%E8%AB%96%E4%BA%89+%E5%B9%B4%E7%B8%9E+AMS&u=www.jikkyo.co.jp%2Fcontents%2Fdownload%2F9992655588
 
Kawakatu注※
大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)とは、
青森県外ヶ浜町にある、縄文時代遺跡である。
出土した土器片この遺跡から発掘された縄文土器に付着した炭化物のAMS法による放射性炭素年代測定法[1]の算定で16,500年前(暦年較正年代法による)とされ、世界最古の縄文土器とも言われている。
 
つづきは是非本文をお読みください。
年代法の歴史や、縄文時代の区分
果ては、今後、縄文時代という名称すらもっと区分けしていかねばならないことな、
多くのことが見えてくることでしょう。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
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年縞による基準年代が明確化され、これによってこれまでのC14及びAMS年代測定の数値が、さらに詳細な一年単位までの年代数値が割り出せて来た。これを信頼するかどうかが問題になっている。ここまで正鵠な数値を出してきても、まだ疑うものがいる。

とにかく彼や小林達雄が書いているように、縄文時代の開始は15000年前より新しくはならない、もっとさかのぼって16500年前までになるだろうことだけは確かである。従って教科書の定説数値・13000年前はこれで書き変わるのは間違いない。
 
 
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ちょっとコマーシャル Welcamおおいたキャンペーン おんせん県大分

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別府鉄輪温泉全景
 
 
 
 
 
 
\¤\᡼\¸ 2
 
全国のみなさまの地域でこんなCM<流れているのでしょうか?
見たことある人~~~~
 
今成佳奈「Welcomeおおいた Ver.2」JR九州 テレビCMソング .
http://www.youtube.com/watch?v=lnn6r3VCC5M
最後まで聞くと、やっとウエルカム大分という歌詞がでます。

いい歌なんだが検索でヒットほとんどなし。
テレビでは最後の部分だけ使って15秒CMにしてある。
本編はいろいろバージョンがあるんだが、大分県の宣伝へたのために、ネットに各種啓上していない。
まったく、のんびりしている。
内弁慶ののほほん、ご時世うとさまるだしの販売促進。
 
そのほかのいまいちな動画
 
 
Nogizaka46 (乃木坂46) News 2012.08.01 - 大分市観光特使 (畠中清羅, 衛藤美彩) .
http://www.youtube.com/watch?v=J35f5iUIdJw
ダメだこりゃあ・・・・
 

大分県が主な舞台になった作品のほかに、大分県が一部シーンに登場した作品を含む。
 映画 [編集]ただいま零匹(1957年(昭和32年))
男はつらいよ 私の寅さん(1973年(昭和48年))
男はつらいよ 寅次郎紙風船(1981年(昭和56年))
男はつらいよ 花も嵐も寅次郎(1982年(昭和57年))
国東物語(1985年(昭和60年)) - サレルノ国際映画祭グランプリを受賞
男はつらいよ 寅次郎の休日(1990年(平成2年))
ゴジラvsスペースゴジラ(1994年(平成6年)) - 別府市
顔(2000年(平成12年))
難波金融伝・ミナミの帝王 劇場版partXII「逆転相続」(1999年(平成11年))
なごり雪(2002年(平成14年)) - 臼杵市など
悲しき天使(2006年(平成18年))
22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語(2007年(平成19年)) - 津久見市など
釣りバカ日誌19 ようこそ!鈴木建設御一行様(2008年(平成20年)) - 佐伯市など
綱引いちゃった!(2012年(平成24年)) - 女子綱引きチーム「大分コスモレディースTC」を題材とした映画。
 ドラマ [編集]小京都ミステリー26 豊後一子相伝殺人事件(1999年(平成11年)) - 日田市
大友宗麟-心の王国を求めて(2004年(平成16年)、NHK正月時代劇)
風のハルカ(2005年(平成17年) NHK朝の連続テレビ小説) - シリーズ初の大分県舞台の作品
今日も地獄でお待ちしています(平成25年)NHKBS
 
 

 小説 [編集]恩讐の彼方に(菊池寛、1919年(大正8年))
ただいま零匹(火野葦平、1956年(昭和31年))
西海道談綺(松本清張、1976年(昭和51年))
生命燃ゆ(高杉良、1983年(昭和58年))
十角館の殺人(綾辻行人、1987年(昭和62年))
レジンキャストミルク(ライトノベル、藤原祐、2005年(平成17年) - 2007年(平成19年))
 音楽 [編集]荒城の月(滝廉太郎、1901年(明治34年))
ひとりきり(かぐや姫、1972年(昭和47年))
 漫画 [編集]県立地球防衛軍(安永航一郎) - 作中では「九州某県」と記されているが、大分県がモデルとされる。
チューロウ(盛田賢司) - 大分市内がモデルとなっている。
デトロイト・メタル・シティ(若杉公徳) - 主人公が大分県出身という設定。
 アニメ [編集]あたしンち(けらえいこ) - 立花一家の父母が大分県出身という設定。映画では、大分県で母の同窓会が開かれた
大分県の温泉地一覧
http://www.terme.jp/ooita/ooita.htm
あ行
 赤川温泉
 赤根温泉 -
 
 阿蘇野白水鉱泉
 天ケ瀬温泉
 生竜温泉
 筌ノ口温泉
 宇目温泉
 裏耶馬渓温泉
 
 宇佐温泉 
宇佐春日野温泉
大分市内温泉
 奥湯の郷
 小野屋温泉
 -
か行
 亀川温泉
 壁湯温泉
 川底温泉
 観海寺温泉
 寒ノ地獄温泉
 鉄輪温泉
 城島温泉
 杵築温泉 
 久住赤川温泉  玖珠温泉
 -
さ行
 鴫良温泉
 七里田温泉
 柴石温泉
 深耶馬温泉
 白丹温泉
 陣屋温泉 筋湯温泉
 た行
 竹田温泉
 長者原温泉 杖立温泉
 塚野鉱泉 塚原温泉
 -
な行
 直川鉱泉 長湯温泉
 西谷温泉
は行
 浜脇温泉
 堀田温泉
挟間八湯
 日出温泉-
 日田温泉
 日田三隈川温泉 別府温泉
 宝泉寺温泉
 法華院温泉
 星生温泉
 
ま行
 牧ノ戸温泉
 真玉温泉 -
  明礬温泉
 守実温泉
 -
や行
 山香温泉
 山下湖温泉
 湯坪温泉
 湯ノ釣温泉
湯平温泉
湯布院温泉
 
ら行
 竜門温泉
六ヶ迫温泉
 これらはあくまで温泉郷の名称であり、そのひとつひとつにそれぞれ数ヶ所~数千ヶ所の個別温泉営業所がある。
無名のものまですべて合計するといったい何ヶ所あるのか、温泉通でも把握できていないほどだ。
※別府温泉という通称は全の総称である。
2.1 別府温泉
2.2 浜脇温泉
2.3 観海寺温泉
2.4 堀田温泉
2.5 明礬温泉
2.6 鉄輪温泉
2.7 柴石温泉
2.8 亀川温泉
の八ヶ所とそれ以外の各町内の公衆温泉、そしてかいがけ温泉などのはなれた温泉までふくめると総数は数千ヶ所に及ぶ
源泉総数も一個ではなく、10数ヶ所あって、まさに世界の温泉のパンラマ。
とにかく手ぬぐい一本あれば、どこへ行っても温泉に当たる。
”おんせん県”を発信することにまったく異論の出るはずもない。
他者の追随を許さぬとびぬけた温泉数であるが、唯一、群馬県が異論を唱えているが格が違いすぎる。

特産・メジャー観光地
豊後牛・関サバ・関アジ・臼杵ふぐ・かぼす・柚子胡椒・全国金賞シイタケ・津久見まぐろ・日田鵜飼とアユ料理・からあげ・鶏天・うなぎ・塩麹
一村一品運動発祥地・耶馬溪紅葉・国東六郷満山・大分市おさるの高崎山・海洋水族館うみたまご・久住連山・日本一の高さにあるつり橋九重夢吊大橋・宇佐八幡宮・湯布院温泉・別府温泉・日田温泉郷、大分トリニータビッグアイ・ドームスタジアム(大分銀行ドーム)など

しか~~~し!
高速道路も拡充されたのに、目の前の四国へ行く架け橋がなく、新幹線が来ていない。
ゆえに・・・いまひとつメジャーになりきれず、知名度低し。
大分県と聞いて・・・「すべって転んでおおいたけん」だけとは情けない。
遠い。田舎。どこ?そんなお答えばかり。
そこで大分県は全国に「おんせん県」をアピールするために去年から東京で大奮闘。
たてつづけに東京のテレビ番組各局に金をばらまき?頭をさげまくって、十個以上の大分紹介番組を作ってもらった。
しか~~~~~し!!
相変わらずの低知名度なのだ。
まいったね。
 
\¤\᡼\¸ 1
 

縄文と古墳時代をデザインでつなげるか?

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北海道二海郡八雲町 赤彩注口土器
 
この洗練された古墳時代的模様は、どうやって手に入れたのか?
 
 
 
 
 
 
 
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千葉県銚子市金山貝塚出土 みみずく土偶
かぶっている太陽のような、あるいはかっぱのような、あるいは双脚輪状文のようなデザインは?
 
 
 
 
 
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岩手県下閉伊郡 岩偶
この渦巻きは、弥生のイモガイ断面模様にそっくりだが?
そもそも渦巻きは貝殻内部の螺旋だったのか、あるいは「神々の指紋」なのか?
 
 
 
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頭のかざりが内包するメビウス。
 
 
 
 
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縄文後期にこの雲竜のような意匠はオリジナルなのか?
 
 
 
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直弧文ではないのか?
 
 
 
特に東日本では、縄文人がそのまま弥生・古墳時代も住み続けたのであるから、弥生の影響があってのこととしてもおかしくはなかろう。しかし、時代は弥生人がやってくるまえのものばかりである。
 
もしや、纒向や盾築の直弧文や弧文の源流をさぐっていくと、東日本の縄文人がまだ近畿に残存していた時代に、縄文人から弥生人へと伝えられたデザインではなかったのか?
 
 
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遮光器土偶の広範囲な出土状況 分布図
 
 
 
 ここまでの画像は『土偶・コスモス』羽鳥書店 2012より
 
 
 
以下は古墳時代遺物デザイン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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ひいてはヤマト畿内に居残って弥生・古墳文化に影響を与えた縄文人子孫が、中央氏族や官僚にちゃんといたのかも知れないなどとも思えるし、そもそも大王などはそういう血脈も必要だったのではないだろうか?
 
 
 
 
 
 
 
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土偶を楽しむ

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なんの先入観もなしに土偶と縄文土器を愛でるページ
 
 
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遮光器土偶の分布はこの前の記事にアップした。
西日本の兵庫県にまで出土する。
ということは縄文人は近畿まで来ていた証拠である。
それは当時の近畿が縄文的な落葉樹気候だったということなんだろう。
その後もしばらくは近畿は縄文と弥生が交差する場所だったのであり
記紀が言うように、そこに縄文人的あるいは土蜘蛛のような人種がいたということではなかろうか?
その彼らは尻尾が生えていたとか、井戸の中から出てきたとか、手足が長いとか表現されている。
存外、記紀の記述には正しいものがあるのだろう。
 
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背中にたすきをかけている・・・
たすきがけは巫覡者のしろしで、弥生時代も古墳時代もそうだった。
埴輪でも巫女はたすきがけである。
 
 
 
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この洗練
このピュアな美観・・・
 
 
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胎児のような、母親のような、新たなるいぶきの誕生は、縄文人にとって感動的だっただろう。
このようなオブジェには、単純に男性にはない、女性だけが持つ宇宙的な機能・・・つまり男にはとうていできない「生命を生み出す」という神秘的なことへの脅威がある。
おとこたちにとって、おんなは永遠に理解を超えた聖母だったのであろう。
 
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山梨県の地蔵が岳
ここもまた空にある聖地である。
この形状を平面に置き換えれば、突端の岬や三叉路の股になる。
YとVへのあこがれは永遠の人類のあこがれであり続けた。
 
 
永遠を象形化すること。
それこそがこれからもまた人類共通の芸術テーマである。
 
変わることなど、それこそ永遠にない。
 
西洋人も、アフリカ人も、島人も、そして朝鮮人も中国人も日本人も、実は人類は皆、同じはらからなのであろうのに・・・・なにゆえに互いに奪い合うのか?
 
 
それは人類がいまだに「猿から分かれてたった60万年」の未熟者だからに違いない。
 
 
 
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ドレープと翻波式/トゥーガからトゥニカ(チュニック)の服飾史

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これは古代ギリシアから古代ローマの時代に愛用されたトゥニカ: tunicaという衣装である。
現代の服飾用語では英語でチュニックと言っている。
女性が下にパンツやスパッツを履いて着ているワンピースをチュニックと読んでいるが、最初は男性の簡易衣服で、あのシーザーやヘラクレスも愛用していた普段着。
 
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特徴的なのは腹部に巻く紐つまり縄のベルトである。
これのロングタイプにフード付マントを羽織れば修道士の着衣になる。
 
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修道士のチュニックとマント
 
 
これを着ているのは西洋の神話では神や精霊である。
つまり日本で言えばこなきじじいとかなまはげの蓑のようなものである。
 
このトゥニカ=チュニックが出てくる前は、西欧人の衣装は単にヌノッキレを体にまとったトゥーガであった。
 
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なんとなく見覚えもあるだろう。
この人物の羽織っているトゥーガの特徴は、たゆとうような波打つドレープ。
 
このように細やかなドレープができるのは、布地が絹素材せなければならない。
木綿などではこれほどの細やかな襞(ひだ)は生まれ得ない。
 
すると古代ギリシア人は絹を愛用してきたことになるが、一般的人間にはそうでもない。
像は高貴さをだすがためにきのようにドレープを刻み込んだのだ。これはだからある意味、神々の衣装なのだろう。
 
この様式が東洋にやってくるのは、かなり遅くなる。
それも実用的衣服としてでなく、宗教美術の仏の衣服としての観念的輸入であった。
 
 
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まずは中近東から西アジアでこのようなガンダーラ様式としてやってくる。
日本には平安時代になってようやく到着し「翻波式(ほんばしき)襞」と言われた。
 
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平安時代以前まで、このような西洋的なドレープは日本にはなく、もちろん衣装としてはまったく定着せずに、聖なる仏の衣装でしかなかったのである。
 
 
絹のドレープはその後西欧ではドレープカーテンを生み出し、さまざまな高尚な式典などで、会場の要所にこれが使われるようになる。いわゆる日本人が感じる、レセプションの三色旗の半円形のドレープなど代表である。
 
一方、日本式の祭典の布地は紅白の幕である。
そこには波打つ襞など存在しない。
 
この美観の相違は、かなり大きい精神性に影響を及ぼしている。
ゴージャスに思うデザインの東西の相違である。
十二単のゴージャスさには、ドレープは一切使われず、単なる色とりどりの布地を重ね着するばかりだった。
つまり曲線とひねりが、東洋の美的観念にはなく、それはあくまで神や仏の衣服でありつづけたのだった。
 
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このギリシア女性の衣服は、上着がトゥニカで、下はのちにシュミーズと呼ばれるようになるドレープスカートである。
 
襞の多いスカートは、日本や朝鮮では、女官の袴であるが、しかしその折り目正しいチョゴリの折り返しはやはり平面的で、絹地の持つ、ふわり立体的な曲線の盛り上がりをうまく引き出せていない。
 
今で言えば「フェミニンな」ラインはあきらかに西欧人のまとっていたものだけである。
 
 
以上。
 
あとはいろいろなことに結び付けて各自ご高察ください。
 
参考サイト 古代ローマの生活:服飾 http://flora.karakusamon.com/IMG2/index.html
 
 
 
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ファッションの歴史と男と女

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「アン・ ホランダーAnne Hollander(服飾史)は次のように述べている
     【今世紀(20世紀)に入って、女性が 男性服の体型を徐々に模倣し始めるようになるまでは、
                              新しい女性が着る服に新しい要素など何一つなかった。】
しかし女性服発展の 歴史の行く先に想定されるのは、女性服が男性服と同じものとなることでも、男性服を超えるこ とでもない。それは永遠に獲得されえない自由と解放の物語である。
むしろここで問題とすべきは、近代の男性服が「 おしゃれ」や着飾ることを抑圧され、ファッションの歴史から捨象されてしまっている事態なのである」
www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81002100.pdf

20世紀以降の女性の服飾史は、ホランダーが言うように、男性ファッションとスタイルを模倣していく歴史だったと言える。その最たるものは、シャネルによった男性用生地を使った女性服の作成に集約されていると言える。
 
それまでは
「フランスとファッションやスタイル(「モード」)との結び付きは17世紀、ルイ14世の治世の頃に遡る。この時代、フランスの贅沢品産業は次第に王家の支配下に置かれるようになり、フランス王宮はほぼ間違いなくヨーロッパの趣味とスタイルの権威となっていた。当時、男性のファッションは「女性的」な側面があり、男性が「女性の服装」を纏っていた。この時期の衣服は軽快さや自由さを体現しており風変わりな外観が特徴となっていた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
 
20世紀以後の現代、ではなぜ男性は、過去女性たちがやったように、女性服のフェミニンを再度取り込み、新しい男性服・・・言い換えればかつての優雅だった男性性へと回帰できぬままなのだろうか?17世紀の男性たちのように、鋼のような肉体と強固な精神性を、やわらかなウエーブにあふれた衣服で包み込まぬのであろうか?むしろ現実はその逆に、いかついスーツに、軟弱な肉体と精神性を隠そうとしているのではあるまいか?と筆者は問いただしたい。
 
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