Quantcast
Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
Viewing all 1881 articles
Browse latest View live

ツタンカーメンのラピスラズリ・クフ王の赤色花崗岩

$
0
0
イメージ 1

ツタンカーメン王の黄金のマスクに使われたラピスラズリ



古代オリエントにおいて「天空の青い石」「蒼天のかけら」とも言われたラピスラズリは、金銀に次いで高価で貴重な石であった。それは中国が溺愛した碧玉・翡翠を凌駕する王家の石でもあった。日本では「瑠璃 るり」と呼ばれ奈良時代から大切にされてきた西アジアとの外交のあかしである。
ラピスはラテン語で「石」 (Lapis)、ラズリはペルシア語からアラビア語に入った "lazward"(ラズワルド: 天・空・青などの意でアジュールの語源)が起源で「群青の空の色」を意味している。顔料や絵の具の「群青色」はこの石から作られる。
東洋では七宝(しっぽう)のひとつに数えられている。

エジプトのファラオや女王たちはどこからその原石を取り寄せたのか?

◆ラピスラズリの産地
古代の記録による噂
・イランのマザンデラン
・アゼルバイジャンのディズマル
・中国新疆ウイグル自治区ホータン

しかしこれらの地域で、いまだにラピスラズリはひとかけらも出ていない。つまり過去の人々が秘宝のありかをそうやすやすと記録するはずがないのだし、それは言い換えれば「記録のあやうさとだまし」を言い当てる言葉でもある。

一方現実の現代の産地はいくつかある。
・バイカル湖南部
・インドパミール高原
・パキスタン クエッタ地区
・アフガニスタン バダク(フ)シャン ケラノムンジャンの四つの地域

この中でオリエントの古代遺跡から発掘されたすべてのラピスラズリ原石の産出地はアフガニスタンだけである。
大城道則『古代エジプト文明 世界史の源流』講談社 2012

ということはそれを用いて作られている
ツタンカーメン王のマスク
紺玉帯(正倉院収蔵)
中尊寺金色堂の留め金具
メディチ家の紋章(伊ウフィツィ美術館収蔵)
ルイ14世の塩入れ(ルーヴル美術館収蔵)
などもみな、アフガンから取り寄せられたラピスラズリで作られていたということなのである。

イメージ 2

世界のラピスラズリ産地 (World locality)http://www15.plala.or.jp/gemuseum/gemus-lpslzr-2.htm

では、流通経路は?
どこかに中間加工所はあったか?

◆加工場所
「ラピスラズリはエジプトやメソポタミアの遺跡を始め、古代オリエントの居住跡のあらゆる層でラピスラズリが出土している。
ただしラピスラズリは古代世界においてバダフシャン地方でしか産出されない。


アフガニスタン国境に近いイラン南西部シャアリ・ソフタ、ここではこの地では産出しないはずのラピスラズリ、オニキス、カーネリアン、ターコイズなどの原石が見つかっている。
ヘルマンド河下流に位置するこの居住跡は最盛期にはおよそ1万人以上が生活していたと考えられている。

原石の他、加工済みの石、加工工具などが見つかっているところから、この地は石の加工場所であったらしい。



ヒンドゥークシュ山脈/パキスタン
さらに面白いことに、ここで加工されたものは多種多様で、消費地となる民族にあわせたスタイルに作られているということである。
ここからペルシャ湾に向かって下ったテペ・ヤヒヤの遺跡でも同じような状況らしい。」
文と画像 ラピスラズリ「天空の破片」http://www.cromagnon.net/blog/topic/lapis/


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

古代文明を知るために。このような遺跡で使用された意匠の原石をたどることは、その文明の目の届いた範囲を知るすべになる
のだ。つまりそれはその文明のつきあいの広さの目安であり、その文明の力量、繁栄度の目安なのである。

エジプト文明を語るとき、筆者はこれまで、シュメールやメソポタミア、アッシリアやヒッタイト、西アジア・イランなどの文明ほどに、エジプトが果たして世界に与えた影響とはそれほどあったのかが疑問であった。インド、中国も含めたそれらの四大文明や、それ以前の文明地域ほどにエジプトは流通においてさほどの影響を示していない気がしてきた。その影響は狭い地中海沿岸にとどまり、狭くギリシアやローマまでにsか届かなかったのではないのか?アフリカ北部の閉じこもった特殊で奇妙な文明に見えてしかたがなかった。しかし石材の流通経路から見たとき、エジプトの影響がアジアにまで及ぼうとしていたことが少し見えた気がした。

エジプトのクフ王ピラミッドの「王の間」では一本60トンもの花崗岩がふんだんに使われていた(百本ほど)。しかもこの花崗岩は紅色の「赤い花崗岩」であった。この巨石はどこから来て、どのようにして王の間まで運び上げられたのかは、かつてNHKがテレビで紹介している。

イメージ 4

『NHKスペシャルエジプト発掘 解き明かされる四つの謎』NHK出版 2009より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆クフ王ピラミッドの赤い花崗岩産地
ワイズマンの仮説では、クフ王の赤い花崗岩は、アスワンから運ばれたと言われている。
「王の間全体、そして王の石棺をつくっている赤色花崗岩は、アスワンの採石場から運ばれてきたものと考えられます。
それは、アスワンが赤色花崗岩の一大産地であったからです。

花崗岩は、大ピラミッドの大半を占める石材である石灰岩に比べて、相当に硬く、重い石材です。したがって、この石材を運搬・加工するには、大きな労力と技術が必要でした。
つまり、王の間と石棺の外観が質素に見えたとしても、それは、私たち現代人の感覚に過ぎないのです。

大ピラミッドの王の間は、「とんでもない巨費をかけた贅沢の間」だったのです。

根拠もないジョークのような話として、ツタンカーメンの黄金のマスクの価値が300兆円だという試算があります。もし、それが真実であれば、クフ王の石棺の価値は600兆円以上かもしれません。私は以前から、観光客がべたべた触れる場所に、なぜ石棺を放置しているのか、理解ができずにいます。あの石棺は、一枚岩をくり抜いたものなのです。
石英の粉を使った金属製(青銅製?)の丸いのこぎりで、気の遠くなるほどの時間をかけて何本も円柱状に抜いていったという
説があります。

ウナス王の玄室にはピラミッド・テキストが彫り込まれ、王家の谷の新王国の王たちの玄室はカラフルな絵や文字が彩色されています。しかし、そうした手間を、大ピラミッドの王の玄室は、はるかに上回っています。
少し先のことになりますが、いずれ王の間の建設方法について取り上げたいと思いますが、「驚愕」の一言です。

大ピラミッドの王の間の玄室は、当時最高の技術が投入された、非常に価値の高いものでした。とくに、王の石棺は、至急保全措置がなされることを期待しています。あれこそ、人類の至宝であり、

ツタンカーメン王の黄金のマスクの倍以上の価値(といっても700億円くらいでしょうが)があるものでしょう。

王の間が閑散としているのは、盗掘にあったせいです。何もなかったというのは、印象に過ぎません。
すぐ近くのヘテプへレスの墓の副葬品以上の多くの副葬品が存在していたことでしょう。」
http://wiseman.blog.so-net.ne.jp/2011-08-07-3



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なぜ赤い石だったのか。
日本の古墳時代でも、ある一時期、阿蘇や二上山の凝灰岩ピンク石、紅石が使われた時期があり、それにはある種の「密封」「再生させない呪力」が込められたのではあるまいかと推定している。だが、赤い色にはむしろ反対に、外部からの魔を防ぐ意味があったとすべきかも知れないという思いも常に心の反対側に存在する。

年末から正月にかけて、しばしエジプトを扱ってみたい。

押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ
↑  ↑  ↑
blogramランキング参加中!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




葛上郡馬屋戸地名と聖徳太子・記紀ロジックの読み方・年末あいさつ

$
0
0
「永暦元年(一一六○)に鋳造された梵鐘に「葛上郡字馬屋戸」とみえている(吉野・世尊寺旧蔵の鐘)。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/write.html

この梵鐘とは奈良県金峰山寺(きんぷせんじ)銅鐘の銘文(寛元二年 1244)のことかとも思うが、そうではないかも知れない。いずれにせよ奈良県にそういう地名があったことは間違いあるまい。

厩戸皇子の諱である「うまやと」については、まずほかの皇子の諱が多く乳母に関わる地名からとられたというょ慣習から見て、「うまやと」もまた地名であった可能性は非常に高い。(遠山美都男2012)

地名諱の意味つけにキリストのエピソードを盛り込んだのはあとのことだろうと思われる。

大事なことは葛上郡が葛城氏の居住地であったことである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天智天皇の幼名は葛城王である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

そういうことも考え合わせて、聖徳太子像が作られることも頭にいれておかねばならない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


諸氏、今年もいろいろとお世話になりました。
よいお年を。


押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ
↑  ↑  ↑
blogramランキング参加中!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



年賀状

$
0
0
年末から新年への切り替わりどきはネットもメールも混み合うし、のんびりしたいので、早めに年賀をしておきます。(テレビもつまらないこともあり)


新年挨拶。

旧年中は楽しく過ごしました。来年も楽しく過ごすつもりです。
当然のこと。


    一茶も詠んでいることだが


    めでたさも ちう位なり おらが春



イメージ 1


淡々と粛々と

        これという思い込みもなし おらが春


イメージ 2



押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ
↑  ↑  ↑
blogramランキング参加中!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



黒きヘビに出遭うパワースポット巡りから帰還す

$
0
0
年始からあちこち、近場のパワースポットをへめぐっていた。

巡り歩いたのは

1 白岳神社
2 直入中臣神社
3 熊群神社
4 谷天満社
5 谷不動明王など
主に巨石信仰と修験道、あるいはそれに伴ったであろう鉱山探索の痕跡である。

いくつか画像だけ貼り付けておく。
どうもメガネの調子が思わしくなく、目がしょぼつくので、なかなかネットを開く気になれないで困る。
文章を書くのは、いずれ目にあうメガネができてからにしたい。
そういうことなので更新は少なくならざを得ない。


・・・・・・・・・・・・・・

白岳信仰は巨石信仰に始まる。山頂の巨石に神を見る形態で全国的に統一されている。ただしその開始を古く太古にまでさかのぼってよいかどうかはよく吟味すべきだろう。
長崎の白岳神社や、わが近場の山には、あきらかに鉱山関連氏族の名前の痕跡が伝わっており、鉱脈探査と修験道の融合が、さて、太古からの巨石信仰とつながって切れ目がなかったか、となるといささか疑義もある。

イメージ 1


イメージ 2


イメージ 3


イメージ 4


イメージ 5


イメージ 6


イメージ 7

イメージ 8


ここでカラスヘビに出くわした。
イメージ 9

西日本の暖冬の証明である。
東日本は例年、この真冬の時期は寒波にやられ、見る影もない寒さであようだが、九州の太平洋側の暖かさは異常なほどである。啓蟄もまだまだというこの季節にヘビを見るとは。

カラスヘビはシマヘビの黒化した固体で、シマヘビに比べると目にする機会はぐっと少ない。
巳年に希少種に出遭うとは、なんとも縁起がいい。
しかもヘビ=巨石を祭るここで出遭えたのは怖いほどの奇遇だと言える。

好天と春のような陽気に誘われて、冬眠から目覚めたのであろうが、変温動物のこととて近寄っても微動だにしない。カメラを近づけるとようやく蠢動をはじめ、警戒と威嚇のために細い尾を立て。細かく震わせ始めた。


さてこの山頂の社は麓に遥拝のための下宮が置かれている。
イメージ 10


中腹に養蜂場がある。


イメージ 11



山頂からの眺望
イメージ 12



押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ
↑  ↑  ↑
blogramランキング参加中!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


会津と京都・日本人と東北人・新島襄と八重

$
0
0


諸兄すでにご理解のように、人類のすべての思想、考え方には、必ず表裏がある。その思想・観念の良きところは常に裏側にある悪しき部分と同居する。

宗教・信仰もおしなべて同じである。

東洋思想に古代から存在し続けた孔子の儒教は、わが国近世において、主として武家社会において国学・朱子学として日本の方向性を内向きにし、それは西欧に向かって開かれなかった江戸幕府の存続の柱となった。儒教の内向性はまさに武家社会の閉じられて官僚的な、狭い世界観には最適であり、それがつまりは武士道の本体であった。儒教は中国を古代思想の相も変らぬ「眠れる獅子」にし、朝鮮半島を卑屈な負け犬根性と男尊女卑の根付く国にした。内にこもらせたうえに、中華理念の正当化に使われた。

ゆえに明治の西欧に向かって開かれた視野にとって、その古い時代の儒教思想の根強さは、南朝鮮ほどではないにしろ、維新を契機に政府が払拭したい悪しき観念の代表ともなったであろう。


イメージ 1




しかるに、東北、会津でそれはきわめて遅れてしまったと言わざるを得ない。
そもそも会津藩が儒教・国学に力を入れねばならなかった背景は、まずは転々とした藩主・管理者の歴史と、維新前に赴任した松平家の徳川幕藩体制遵守という儒教思想そのものである。徳川幕藩体制下の直轄地、天領ほど、当然、武家官僚体制は遵守される傾向にあるのは当然である。幕末においては、新進の西欧軍備を欲するようになるのだが、ついに会津は、薩摩や長州のようには、勤皇・維新への道を突き進むことができなかった。オヤカタが佐幕の権化である松平家では、いたしかたあるまい。

しかし原因はそればかりではなかった。
縄文の野生の思考は西日本においては江戸近世以降、完全に消えてゆく。渡来文明による国家統一の流れが速かった西日本では、縄文からの反骨はすみやかに根絶やしになり、融和が早かった。
東北の地においてそれが遅くなったのはひとえに、その気候環境の厳しさによった。
まさに東北、北海道は日本で最後に「日本になった土地」だったのであり、江戸幕府が持ち込む儒教思想もまた西より遅れたために、理解のバリエーションが増えるのも遅くなる。頑迷な初期儒教導入の理解度から、広がりとゆとりと持つようになる「こなしの時期」を迎える間もなく、会津福島以北は文明開化を迎えてしまう。そこに戊辰戦争・白虎隊の勃発登場する理由があった。

明治維新がなにゆえに西国諸藩によって始まるかの答えはここにしかあるまい。北国はどうしようもなく遅れてきたのだ。雪と厳寒と反骨が融和を阻止してきた。あがらいがたい歴史である。

新島八重を同志社学生時代の徳富蘇峰が「ぬえ」と揶揄したのも、儒教の権化であった会津出身でありながら、正反対のキリスト者であり、ハイカラなイギリス生活者であった新島襄とのミスマッチな婚姻への、当時の日本人の常識から見た素朴な疑問からであり、蘇峰のその素朴な常識こそが、実は民主化思想にほど遠い男尊女卑そのものであったことは滑稽である。

男尊女卑こそは儒教思想の第一の悪しき部分だった。

南朝鮮がそうしたよに、強力に根付きすぎた儒教思想を変えるには、正反対の思想を強要するしかない。それが往々にしてキリスト教の博愛主義であった。しかし富国強兵による西欧型帝国主義を目指す明治政府は、維新直後一旦解放したキリスト教を、皇国史観の邪魔として再び迫害し禁止することになる。
新島襄と八重の結婚生活はそういう時期に始まるゆえに、困難が多かった。

砲術家の家に生まれた八重は、勝気な性格で男勝り、容姿は夫が手紙に書いたようにぶさいくであった。体格は平均的日本人女子よりもやや大きく、女の身で、父・兄の砲術に興味を持つ。生まれながらにして彼女は確かに「ぬえ」であった。
最初の夫と別れた後、今度は帰国インテリの新島に見初められ、京都へ移住する。その京都がまた、平安からの神道・仏教・道教・修験道、渡来文化と縄文文化の入り混じった怪奇な土地柄であった。キリスト教も革新思想も、京都は平安の国風思想で取り込んでしまうような、新進に許容度のある反面、内面はまったく平安の雅(みやび)でオブラートしてしまう場所であった。
古さと新しさが反発しながら同居する。
そのためか、新島襄のイギリス譲りのレディ・ファーストは、それを堂々と受け入れる妻・八重をして、悪女悪妻の汚名を着せてはばからなかった。彼女もまた薩長を差別し続けた。当時の日本でなら、どこでもそうだっただろう。日本人は本場・本物がそうするのを見ないうちは、容易にそれを受け入れられぬ男尊女卑が根付いた国だった。それは武家が江戸時代に民衆に押し付けた観念である。「論語」の偏愛がそれを招いた。論語と儒学こそは江戸幕府の政治理念、統一理念の根幹だったからである。

会津は被差別者だった渡来系技術者が多く連れられてきて、蝦夷縄文人と同居するお国柄である。つまり官僚主義的な上下関係はそこから始まっており、おしなべて北関東以北の東北文化とはそうやってできあがっている。西日本から見れば、そこは今でも「異界」なのである。南関東・・・東京以南までがようやく「日本」なのであり、それより北は正真正銘の「和の国」の外だという思いがいまだに残っている。福島でも特に会津は古墳時代からそうであり続けたと言ってもいいだろう。ちょうど沖縄やアイヌと同じ蝦夷の国家に、西からの融和する国家体制が遅れて入り込んだ、日本の「属州」であり続ける。京都にやってきた八重はまさにその代表的存在であったと言える。

いずれにせよ「論語」思想が懐古趣味によってクローズアップされるようなことは二度とあってはならない。果たして、NHK大河ドラマは最終的に何を言いたいのかよくわからない。震災と原発事故からの復興を勇気づけるためならば、なにゆえに会津なのか?なにゆえに変われなかった古き会津なのか?に注目しつつこの一年、この番組を注視せねばなるまい。それは儒教思想の復活や皇国史観の復興になってしまいはせぬか。危険をはらんだ右の思考性を国民放送は選ぶのか?押し付けはごめんこうむりたい。

押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ
↑  ↑  ↑
blogramランキング参加中!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



パワースポット巡り2 直入中臣神社

$
0
0
 
正月の九州異界巡り、二番目は直入中臣神社。
 
 
                      イメージ 6
 
 
イメージ 1
 
 
なおり・なかとみ・じんじゃ
直入中臣神社
[所在地]
 大分県由布市庄内町阿蘇野(字中村)3784番地 【地図
[御祭神]
 ○直入中臣神(なほりなかとみのかみ)
  ・武甕槌神(たけみかづちのかみ)
  ・經津主神(ふつぬしのかみ)
  ・許登能麻遅媛神(ことのまぢひめのかみ)
  ・天之兒屋神(あめのこやねのかみ)
  ・天美津玉照比賣神(あめのみつたまてるひめのかみ)
  ・天押雲根神(あめのおしくもねのかみ)
 
 
 
イメージ 2
 
 
 
「なおりなかとみのかみ」と読ませる。
直入郡は「なおいり・ぐん」と読ませるので、この「なおり」はなぜなのかをちょっと調べておきたい。
 
まず、中臣氏諸伝では直入神とは天種子(あめのたねご)の命のことである。
 
種子の祖父が天児屋(あめのこやね)の命でいずれも中臣氏の祖人になっている。
 
  
        ┌フツヌシ       ??┤        └アサカ姫┐             ├┬アマノコヤネ──┐ツハヤムスビ─??─ヰチヂ─┘│        ├オシクモアメタネコウサマロ┐              └(タケチノコリ) │     ┌・・・─・・・─・・・─・・・┘                       ├ヒタチ  └・・・─オオカシマトヨケ─??─ヲハシリタケミカツチヒメ───┘
 
系図ではこのように物部氏の祖フツヌシの命から中臣氏は生まれたことになっている。
もっともこの祖人系図は景行紀を書くときに、ライバル蘇我氏を熊襲に充てていると考えることで、かなり疑念が解消されるように思う。あくまで個人的見解であるが。
 
景行とヤマトタケルの九州巡行を、史実とは考えないで、乙巳の変をモデルにした、大和飛鳥での勢力争い平定に置きなおしてみよう。反抗勢力としての蘇我本家を葛城王=中大兄と中臣鎌足が誅殺する。
これが九州に置き換えられると景行天皇の熊襲征伐になる。
大昔の神代にも、同じようなことがあったんだよ。だから蘇我氏討伐は当然の結果だよとなる。
 
景行やヤマトタケルのような大和の全国平定に、必ず物部氏や中臣氏(大伴氏も)がついていって手柄をたてたということがわかればいいのである。その征伐とはつまり蘇我氏配下残党の反発を抑えるための小競り合いだと言える。
 
直入中臣神社はそもそも「石神明神」で、巨石信仰があった聖地だった。そこに中臣氏系列の渡来系末端が鉱山開発のために入ったのであろう。そのい証拠にここの巨石は「蹴石」と呼ばれてきた。「けりあげる」「けあげ」は土地開発地名である。今は広く阿蘇野と呼ぶので、熊本の阿蘇地方から阿蘇氏末端が入って開発したことがわかる。だから阿蘇氏の中で、人吉あたりの熊襲が阿蘇国造家によって平定された、そのおこぼれたちが落ち武者か配下になってここに入っただろう。中央では中臣氏が阿蘇氏祭祀の管轄下にあったので、中臣の神をここに祭ったのだろうと思われる。
 
 
 
イメージ 7
 
 
 
 
 
イメージ 3
 
 
 
 
 
あくまでも個人的見解に過ぎない。
 
 
 
ここは久住連山の東端、黒岳の裾野になり、熊群山・花牟礼山など「むれ」のつく山々に囲まれる山間僻地である。「むれ」は朝鮮語でむらの語源とも言う。おそらく暗がりを指す「むろ」の語源でもあるだろう。暗所である。
 
巨石が暗所に群がっている地名であろう。その巨石がみな阿蘇凝灰岩や、火山弾の飛沫した名残である。それを熊とか牛と見た地名は多い。パワースポットに多い巨石がよく人為的な置かれ方をしたという見解があるが、あまり信用していない。飛んできた火山岩や溶岩流の「置き忘れ石」ではないかと思う。そういう場所をのちに修験者が入って、若干の手を入れることはよくある話である。
 
古代人、それも特に農業に関わった弥生以後の人々は、冬至と節分と夏至の方角を重視した。というのは節分は一年の始まりの田植え開始時期を、冬至は一年の終わりの収穫の時期を、夏至は一年でもっとも日の長いとき、つまり生命の絶頂期を、それぞれ示す基準点になる日ゆえに、そのときの日光の差す方角を聖なる方角とする傾向があり、それはいわば古代の天体カレンダーでもあった。
 
この嗜好性には必ずしも全国規模の統一があったとは言えない。冬至を重視する人もあれば、夏至を重視する人もあり、節分を重視する地域もあった。これによってすべての日本人の原始信仰を表現しようとするのは、なかなか難しいだろう。
 
ちなみにこの社は北を向いており、地形が優先したとも思える。
 
 
そもそも古墳や神社の向きはばらつきが多いので、さまざまな信仰があったと、つまりいろいろな地域からの来訪者がこの島国に来ていると見るのが、まともな脳みその考え方である。
 
 
みんながみんな同じ方角や場所を聖地を見たと考えるほうが、ちょっと全体主義的だと筆者は思っている。人間はそんなに単純ではないし、日本人も一種類ではないのだから。
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
 
 
 
イメージ 6
 

Festina lente/カエサルの「悠々として急げ」提督紋章Festina lente

$
0
0
 
西欧の紋章は象形文字の名残から始まったのだという。
ヨーロッパで最初に出版物に記録掲載された象形文字はフランチェスコ・コロンナ(Francesco Colonna 15世紀イタリアベネチアの修道士)が作品中に挿入した絵図だと言われている。
 
イメージ 3
 
フランソワ・ラブレー作『ガルガンチュワ物語』にそのことが記録されている。
 
「古代エジプトの賢者がたが、そのいわゆる象形文字というものでものを書かれた際には、はるかに違ったやりかたをしたようだ。象形文字と申すものは、画としてそれに表された物象の特性を会得しておらぬ者には検討もつくまいが、会得している者はおのおのその意味を解するというていのものであったのだ。この象形絵図に関しては、オルス・アポロンがギリシア語でギリシア語で二巻の書を著しているし、ポリフィルスが『狂恋夢(ソンジュ・ダムール)』の中でさらに詳しく述べている。フランスでは、その名残が「提督の紋所」に見えるが、これはオクタウィアヌス・アウグストゥスが最初に用いたものである」(訳・渡辺一夫 1972)
 
フランチェスコ・コロンナによって15世紀に書かれたと推定されていて、実在する書物『Hypnerotomachia Poliphili(ヒュプネロトマキア・ポリフィリ)』(ポリフィロスの夢幻世界)は「コロンナの暗号書」とか「フランチェスコの暗号」(現代ファンタジー推理小説の題名。こっちはもうひとつ面白くない)とか呼ばれて、西欧ではなかなか人気があるオリエント関連の書物である。
澁澤龍彦は早くもその著者『胡桃の中の世界』所収の「ポリフィルス狂恋夢」の中でこの異形の、世界最長の書物を「夢の中でさまよいながら、壮麗な古代風の庭園や神殿や、さまざまな建造物や、神話の怪獣や水精や、また愛神ウェヌスの盛大な祝祭や儀式などに次々に遭遇する。あらゆるエピソード、あらゆる寓意が、古代風の意味を帯びている」「異教的な官能を謳歌した物語」と表現している。
 
「『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』は1499年12月、アルドゥス・マヌティウスによってヴェネツィアで印刷された。作者は匿名だが、オリジナルの各章の最初にある、複雑に装飾された文字は折句になっていて、通して読むとイタリア語の「POLIAM FRATER FRANCISCVS COLVMNA PERAMAVIT(修道士フランチェスコ・コロンナは心からポーリアを愛する)」と読むことができ、そこから修道士フランチェスコ・コロンナが作者だと解釈されている。しかし、研究者の中には、レオン・バッティスタ・アルベルティ、あるいはロレンツォ・デ・メディチを作者とする者もいる。ごく最近では、印刷者のアルドゥス・マヌティウス、あるいは同名異人のフランチェスコ・コロンナとする意見も現れた。挿絵画家についてはさらにはっきりせず、出版当時にはベネデット・ボルドンと考えられていた。」
 
作者名がどれであれ、コロンナはエジプトなどを訪問したのか、実に多くのヒエログリフや謎の暗号を採集しており、数々の学者や文学者がその紋章を引用しているので、おそらく欧州貴族の紋章のヒントはこうした象形文字の組合せから考案され、欧州にも古代には存在していた象形文字を組み合わせて作られていったのだろうといわれている(矢島文夫『オリエントの夢文化  ――夢判断と夢神話』2007)。
 
実際、コロンナのこの作品中に挿入された象形文字は上の画像のようなものだったのだが、この一部分(碇と海豚)がそっくりそのままベネチアの大出版家で大富豪でったアウグス・マヌティウスの社紋になっている。
 
イメージ 4
 
このイカリにイルカの模様は、あちらでは「提督の紋章」と呼ばれており、おそらく最古級の貴族紋章だと言える。なぜそう呼ばれるかと言えばその「提督」とは初代ローマ皇帝オクタウィアヌス・アウグストゥス(ユリウス・カエサル=シーザー)が用いたからである。このマークのイカリは泰然自若とした威厳と海の支配者を示し、撒きついたイルカは敏捷に行動する征服者を表しており、渡辺一夫はこれを一言で「悠々として急げ ラテン語Festina lente(フェスティーナ・レンテ=ゆっくりと急ぐ日本語の格言で言う、急がば回れ)」であるとしている。
 
イメージ 2
 
コロンナ家はイタリアの大貴族一家であるので、フランチェスコが一修道士だったとは考えられず大出版家マヌティヌスが匿名で書いた作品だったが、おそらくコロンナ自身、あるいはマヌティウス自身の身分を隠した名前ではあるまいかと思うが、それよりも彼が用いた中世欧州最古の紋章がエジプトとも深く関わったカエサル(クレオパトラ女王との愛憎)にも使われたということは、やはりエジプト象形文字からの古代からのアイデアであろうと思われて興味深い。
 
「悠々として急げ」は日本の作家・開高健(かいこう・たけし)の作品にも使われている言葉である。
「急がば回れ」と訳すよりもやはりこっちのほうが威風堂々としたイメージが出てよろしかろう。
分厚い、世界最長の小説であるが、一度は読んでみたい本のひとつである。
 
 
 
イメージ 1
 
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
 画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
 民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
 あさきゆめみし ゑひもせすhttp://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/

秦氏本系帳逸文全文

$
0
0
 
 
◆本系帳とは
奈良時代後期以降、各氏族に造進させた氏族系譜。761年のものが最も早い。799年のものは814年に「新撰姓氏録(しようじろく)」としてまとめられた。
「秦氏本系帳(はたうじ・ほんけいちょう)」はその中の秦氏(はたうじ)の作ったもの。原書は残っておらず逸文のみ存在。

沖森卓也/編著 佐藤信/編著 矢嶋泉/編著  『古代氏文集 住吉大社神代記・古語拾遺・新撰亀相記・高橋氏文・秦氏本系帳』 山川出版社  2012から転載
 
 
1 「本朝月例」掲載の逸文
イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 3
 
2 「年中行事秘抄」より
イメージ 4
 
 
以上で秦氏が鴨氏との婚姻によって山背での賀茂祭祀を創始したことが理解できればそれでよいだろう。
ただ、本系帳の性格から、この逸文が秦氏自身の手によって編纂されたことは、この文章のすべてが信頼できるかは別問題である。
 
イメージ 5
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
 画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
 民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
 あさきゆめみし ゑひもせすhttp://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/

YとVの方程式

$
0
0
 
イメージ 7
 
 
 
 
考古学で発掘される古代水祭祀場は、必ずと言っていいほど三川合流地のY字型部分に、小礫(こいし)を広げて河川に突き出すようにしつらえてある。これはもうずいぶん前に実例を使って解説したことである。
 
イメージ 1
 
これを導水施設と呼ぶが、その水辺に突き出した形状は、女陰に突き立った男根の姿を意味している。
 
哲学的宗教民族学者・中沢新一は、ここから発展させて、空から鳥の目で俯瞰して、全世界に散らばるY字地形、Y字路(三叉路)に聖なるオブジェが置かれると考えた。この視点を中沢は”アースダイバー”の目であるとして、多くの例証を空撮写真や地形図を添えて解説している(『アースダイバー』『野生の科学』)。
 
中沢の思考は単純明快にして、されど位相幾何学・数学的にものを捉えるので、一見。とてつもなく哲学的に見えてしまうが、実は、言っていることはいつも簡単である。
 
世界中、洋の東西のを問わず、聖なるオブジェが置かれる場所には共通性があり、オブジェが持っている意味合いはすべて同じ願いで貫かれていると言っていい。
それは図式にすれば凹凸の合体であり、意味にすれば永遠なる生命への希求である。
 
 
イメージ 2
 
 
三叉路に置かれることの多い日本の道祖神も、山頂の元宮も、インドのリンガとヨニも、ギリシア・ローマに多いオイディプスが父親と出会った ダウリアの三叉路のような聖地も、三大宗教の派生地となったメッカも、ありとあらゆるパワースポットは、おしなべて地形ではY字と、岬のような突端に存在すると中沢は言うのである。
 
 
 
◆三叉路に置かれるリンガとヨニ
イメージ 3
 
インドのリンガ
 「男根」の意で、ヒンズー教における男神一般のシンボルだが、通常はシヴァ神のシンボルとされている。「リンガ・ヨーニ」の像は、今もなお生命原理の最高のシンボルとされ、男女の性器の交合を表している[1]。「リンガ・ヨーニ」の像に相当する言語表現が、「ハスの中の宝石」である。
 リンガは、ときには、「至聖所」cellaに祀られている男根柱の形をとることがあった。至聖所は、神殿の中心であって女神を表しており、今でも「子宮」garbha-grhaと呼ばれている。スターヌ(「柱」)という異名を持っていたシヴァは、「宝石」(すなわち、男根の先端の穴を表す目)を額の中央につけ、リンガ柱から顔を出す形で表現されていた。これは、リンガ全体が男性の姿に変容する様子を、視覚的に示したものである。初子を神の子とするため、石で造られたシヴァのリンガを使って花嫁の処女性を奪うことが、ヒンズー教のしきたりだった。Firstborn. 神殿娼婦たちも、同様のリンガの儀式によって「神の花嫁」にされたのであり、この儀式は、古代の中東、ギリシア、ローマにも見られ、共通のしきたりになっていた。以上のような実物大のリンガのほかに、大きな柱の形をしたリンガもあり、こちらの方は巡礼の対象になることが多かった。シヴァのリンガの近くでは、数々の奇跡が起こると言われていたからである。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/lingam.html
 
 
 

 ◆Y字とV字のパワースポット
イメージ 4
 
 
 
 
 
◆永遠希求からトポロジーへ

イメージ 5
 
 
俯瞰する目で、地図にある聖地や遺跡を眺めると、先土器~縄文~弥生~古墳・・・・近代に至るまで祭祀場や神社や聖地がこうした場所で一致することが多い。
それは同時に墓場であったり古墳であったりもする。
 
◆東京タワーと芝古墳群
東京タワーがある芝界隈を歩くと、すぐに縄文遺跡と古墳が同時存在することに気付く。そして地図で芝の地形を見れば、そこが台地のはじっこであり、かつてはそこまで海岸線が来ていたことに気付くはずである。
ぼくたちは学校の知識から広大な「関東平野」が広がる関東地方だと思い込んでいるが、関東平野の大半は関東ローム層の台地なのであり、奥には多摩から上昇する関東山地がある、よそより広めの山里であることに気がつかない。縄文海進の時代には芝から東は海であることも気がつかずに暮らしてしまう。しかし台地の端っこにはちゃんと貝塚が山ほどある縄文遺跡が大量に存在する。
 
その突端の、「かつての岬」の先端に神社や祠がまだあって、●●廟とか神社になっている。そこは海から見えたランドマークだった聖地である。
 
この突端の岬こそは男根である。母なる羊水の潜むヴァギナへつき立つ石棒そのものである。だからそこに祠が置かれる。YとVは女陰と男根、石窟と石棒であり、それは縄文から現代に至るまでまったき信仰の対象として変化は存在しない。
 
◆天空のリンガ=山
ここまでのアースダーバーの視点を、今度は見上げる平地からの視線に置き換えると、神社のある山のいただきは、YとVの合体構図を天空に見立てたものであることがわかってくる。
 
イメージ 8
 
空が海で、山は岬となるわけである。
 
 
このように古代人はYとVの形状に異常に永遠願望を託してきた。
記紀に登場する木股神とか、考古学で発見されるV字型(石見型)木製品、あるいは縄文時代の石棒と女陰石などの組合せもみな、そこから作り出されてきたのである。
 
今後、あなたの街を散策するときには、こうした地形のY・Vを考えながら歩かれるのがいっそう面白い人生の生き方になるでしょう。
 
イメージ 6

クラとポトラッチ/新しい経済共同体社会をまさぐる

$
0
0
 

【クラ(kula)】

マリノフスキー
『西太平洋の遠洋航海者』(1922)



クラでは何が行なわれているのか?

・それは、

トロブリアンド諸島の交換(交易)ネットワーク
のこと。

マリノフスキーとクラ




クラ航海のカヌー



・誰もがクラに参加できるわけではないし、勝手に交換してはいけない。

・隣の島の人びととクラを行うために、カヌーの船団を組織して、危険な航海を成功させなければならない。

・出発の際には、安全祈願の呪術を行う。

・交換される財(ヴァイグア)は二種類。
・特別なヴァイグアを所有することは名誉であり、危険な航海をともなうクラに参加することが、
英雄的な行為として認識されている。

・それは「交換のネットワーク」であると同時に、信仰や儀礼、神話や物語、信頼や名誉などが
埋め込まれた複雑な関係でもある。

・クラで交換されるヴァイグアは、貨幣のような働きをするが、けっして貨幣ではない。

クラ交換(交易)は、取引であっても、売買ではない。


⇒クラは地理的広がりからいっても、その構成要素の多様性からいっても、極度に大きく複雑な制度である。

それは多数の人びとを結びつけ、たがいに関係しあった諸活動の巨大な合成物をその内容とし、こうして一つの有機的全体を形成する。

クラは、財の交換(交易)という経済活動というだけでは捉えることができない。

それは、島と島を結ぶ社会秩序の形成と持続の機能も果たす制度でもあるのだ。


まとめ

トロブリアンドでは、交換(交易)は、呪術、威信、冒険などの社会活動からは切り離されない。

それは、利益を得るために行われる独立した経済活動ではない

http://www2.obirin.ac.jp/okuno/CA15.html
 
つまりクラとは勇気の代償である。名誉とか金メダルといえばよいだろうか?
勇敢な行為を達成できたものに対して、貝輪という貨幣価値のある宝物が与えられる。
だからと言ってその貨幣は、私たち貨幣経済社会に生きているものにとってのモノと交換できるシロモノでもない。
 
????????????????????
 
名誉を得るための大きな祭り=イベントそのものが村の価値観であり、政治であり、それが村人を結びつけ(まるで高校生の文化祭のための集合する組織のような無償のパッションに似ている)、組織を作り出し、そうした構造の中で衣食住も助け合う(東北人の日常のように、食べ物を分かち合い、価値観や悩み事をも分かち合う)生活様式。
ただし、貨幣経済社会におけるシェアハウスのような、小さな助け合いやお金に関わらない非利害関係=形骸的な悩みの分かち合い=キズナではなく、全生活におよぶ人生の絆による生き方。
 
 
例えばモンゴルなどの遊牧民や縄文人のような、貨幣による経済ではなく自給自足が完全に存在する古代・未開社会でしか存続は不可能であろう形態だろうか。
 
 
 

【ポトラッチ】


・アメリカ北西太平洋岸のトリンギット、
ハイダ、チムシアン、クワクワカワク
などの集団



クワキウトル(クワクワカワク)の舞踊



クワキウトルのポトラッチ





・ポトラッチとは、
子どもの誕生、首長の就任、
葬儀などで、近隣部族を招いて大量の財をふるまう習慣

 =
競覇的贈与

・贈与をおこなうさいのモットー
気前のよさ、寛大さ

・食料や毛布などを提供することで、贈り手の威信が高まる。

贈り物を受け取った相手もうかうかしていられない。

受け取ったもの以上のものを送り返して、
自分の威信や面子を保たなくてはならない。

・人びとは、威信や面子を高めるためにより大量の財を贈る。

受け取った相手はまた贈り返す。

贈り返された相手はまた・・・
そのうち、お返しを期待していないことを示すために、
持っている財を破壊する。

すると、相手は、より以上の財を破壊する。

それを見た相手はまた・・・

ヒマラヤスギの皮から作った強力な糸で織ったブランケット、沢山の飾りをつけた篭、毛皮、服を贈ったり、破壊した。
貴重な魚油を燃やして、豊かさをひけらかすこともあった。
棒で奴隷をなぐり殺して、その数を競い合ったことも合った。
一人の女性が何ヶ月もかかって織り上げるブランケット4000枚以上の値打ちがある、所有者を守護する銅版を破壊し、海に放り込むこともあった。
それを見た者たちは、「おお、あの首長はなんて気前がいいんだ!」と感動した。



ポトラッチ
を行うような
人間の心性とはどのようなものか?
 




ジョルジュ・バタイユ



エミリー・ブロンテ、ボードレール、
ミシュレ、ウィリアム・ブレイク、
サド、プルースト、カフカ、ジュネを
取り上げて、文学作品とは、邪悪の極限に
迫ることだと論じる。






 『呪われた部分』

経済活動を人間の生命活動の一環とみなして、
人間は過剰なエネルギーを
「蕩尽」する、
熱狂的な動物であると考えた。

蕩尽
(consumation)とは、
  
エネルギーを溜め込んでおいてから、
あるときに一気に破壊して、目くるめく陶酔を味わうこと


  
セックス、死、戦争、経済
・・・は、
その意味で、
人間の「呪われた部分(la part maudite)」という
本性から湧き上がる活動
なのである。

贈与は、たんに、金銭・物品などを
贈り与えるだけの行為ではない。


そうした行為を含む経済行為は、
人間の本性と関わる行動なのである。
 
 
いわゆる貨幣交換とか物々交換によらない贈与による経済社会?
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
さて、東北大震災以来、東日本を中心に新しいキズナへの欲求、新しい共同体へのあり方が問われ始めている。これまでの西欧型資本主義経済に親しんできた先進国の人々が、今すぐにこうした古代未開社会の金銭なき生活を始められるかというとかなり難しい。金銭による交換社会に染まるのは簡単であるが、そこから抜け出すにはその国家の政治・経済体系のすべてを変えるリボリューションに成長させねばならなくなる。世界の流通から隔離された世界でならそれは可能であるが、日本は世界経済の流れの中にすでにどっぷり浸かっている。
 
こうした日本の中では、特異な日本的な助け合いが残存している地域がある。東北である。
東北人の「もちより文化」は縄文的な野生の思考の残存だと言える。
大震災、原発事故があった福島海岸部に、ようやく一年経ったばかりで、もう首長が「復帰宣言」を出したり、汚染した故郷に早く戻りたくてしょうがない心根の源は、おそらく、もともとこの地域にある互助社会の影響からにじみ出るものではなかろうか。
 
困っていたら大鍋に煮物をたっぷり入れておばちゃんが持ってくる。そういう自然の助け合いの心理は、東北の厳然として厳しい環境なしには生まれてこないものだっただろう。助け合わねば生きていけないから、誰かが困ったら、もうやもたてもたまらずやってくる人がいる。そして互いに生活を補い合う。
 
そういう東北の野生の志向を、果たして弥生人である現代日本人が真似できるか?
稲作によって安定社会を古代から営んで来た西日本人に真似できるか?
阪神淡路のときにそれは成立した。異常事態で成立した。しかししかしそれが西日本全体にまで及んだ痕跡はない。
 
つづく
イメージ 1
 

新しい共同体社会をまさぐる/補足

$
0
0
 
「東日本大震災のあと、アニミズムという言葉が浮かんでくる理由は、何となくわかります。それは阪神淡路大震災の後にそこで起こった現象と、三陸沖で起こった大津波と、福島で起こった原発の事故、その一連の出来事の中で、大きく浮かびあがってきたものとは、無視できない異質性があります。阪神淡路大震災の後は、人間のつながりが非常に印象的でした。人間同士の助けあいや、相互互助の精神が大きく浮かび上がった。ところが、東日本大震災で露わになってきたのは、人間同士の助け合いという側面だけではないものでした。人間と自然との間のつながりとか、人間が海や森や里山を通じて、自然との関係をつくってきたものの本質は何だったのか、そのことが大変印象的な形で露わになってきたような気がします。
 
日本の歴史を見てみますと、西日本と東日本では、文化的にもDNAの細かい構造においても違いがあると言われていますけれども、とくに文化や精神的(メンタリティ)な側面に関しては、大きな違いがあります。東日本と呼ばれている世界は、平安時代くらいまでは蝦夷(えみし)の勢力というのがたいへん強かった。今で言うと、名古屋の熱田神宮辺りが境目だと言われていますが、あの辺りまでがいわゆる縄文文化地帯と呼ばれるものです。2500 年くらい前になりますと、西日本に大陸や朝鮮半島から新しい技術を持った人々が大量に移民、移住してきました。この地帯ではそれ以降、稲作を持った弥生系の人たちの文化が主流になっていきます。
 
ところが東日本の方では、こういう時代が無く、もともと狩猟・採集を行っていた「蝦夷」と呼ばれた人々の住む広大な地帯ですが、その文化が鎌倉時代や室町時代まで、かなり長い間大きな影響力を持って持続し続けます。つまり、東北文化としてかたちづくられてきたものは、このように北方から日本列島へ入ってきた人々による狩猟・採集文化がベースになっている。そこに、稲作の文化が入りこんできた。さらに近世には、藩による開発が進んで、いわゆる「東北文化」が形成されるようになってきたわけです。東北文化と呼ばれているものは、西日本に展開した日本文化とはちょっと色合いが違うものがあります。今回の大震災で、私たちの目の前に露わになってきたものは、この東北文化のベースの部分なのでした。
 
二つほど、大変印象的だったことがあります。一つは、大震災の直後から、三陸沖の海岸沿いの村々が大津波でひどい被害を受け、漁村も大打撃を受けましたが、その時の報道で漁師の方々が話をされる中で、「海は怖いでしょう?」とアナウンサーが聞くと、漁師さんたちは、「海は怖いけれども、海は自分たちにとってお母さんみたいにとても大事な存在なんだ。大津波のときは巨大な化け物のようになって人間に襲いかかってきたけれども、今はもうこんな静かな海になっている。そして、そこにたくさんの魚がいるんだ。俺たちは、船団を連ねて、その魚の群れの中にこれから一日も早く出かけたい。」と言っていました。そして、「魚の群れの中へ船を突っ込んで…」というところで顔付きが変わるのがわかりました。今までは悲痛な表情で災害を語っていた人達の表情が変わって、魚群に、網を入れ竿を入れ、魚が次々と引き上げられてくる。そのときの喜びを語り出すのですね。そして、「自分たちがこうやって釣り上げた魚を、日本全国の人たちに配ってやりたい」と、何人もの漁師さんがされていたのがとても印象的でした。(後略)」
 
京都環境文化学術フォーラム「グローバルコモンズを目指して」―東日本大震災の経験から考える未来への道―<基調講演>テーマ「たたかうアニミズム」2011 年 2 月 11 日 中沢新一氏:人類学者、明治大学野生の科学研究所所長
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・
 
東北人には、中世以降、あとから入った開拓民でさえ、すでにそこにあった蝦夷たちの野生の思考を受け入れる風土が根付いていた。それは蝦夷と同化し、ともに暮らしてきた三陸海岸などの漁民・・・つまり壱岐対馬から熊野紀伊半島、太平洋沿岸をさかのぼって伊豆・三浦半島~房総半島~三陸海岸へとすでに縄文時代にたどりついていただろう海人族との共同体理念である。
 
同じように大自然に敢然と立ち向かう野生の申し子たちである。
日本人の底流にある自然との協調を、明治以降の貨幣経済の中でも残存させてこれた彼らの共同体意識。
西欧人のように大自然を征服するのではなく、厳しすぎる環境を神とし、貧困と苦難をご加護とし、押し黙り、もくもくと、そして頭を下げて焼畑にまい進し、荒海へ乗り出して獲物を獲て、また山々へ入り込んで野生動物を獲て、女たちは里山では山野草を採集し、海岸では海藻や貝類を採集し、栗をそだて、どんぐりをひろい、そして海と山(蝦夷と海人)がそれを交換しあわねば生きられなかった世界。つまり縄文の生活が大幅に残存できた世界。
 
そういう生きかたが今、再び問われている。
ワークシェアによるワーキングプアの現代日本に、この東北的な助け合う文化を取り戻せないか?そう中沢は模索するのである。
 
いわゆる貨幣経済社会からの転換である。
 
しかし、東北はかつて出稼ぎの世界でもあった。東京へ金を稼ぐために出かけねば、貨幣経済に毒された昭和を生き抜けなかった。それが次第に東京のための下請け産業(かつてはタバコなどの官幣産業)が作られてものづくりの世界になっていった。電力を作り出す原発はその最大の貢献度で存在した。それはつまり貨幣経済=弥生の志向についに毒されたということだ。
 
そこに津波と放射能がやってきて、頼みの綱だった下請け産業も立ち行かぬところまで追い込まれてしまった。だから縄文からの野生は復活したのである。
 
しかしながら、東北の行き方はなんとか今後二十年の新しい日本の方向に光を差していると思いたい。
この与えられた苦痛と逆境を、むしろチャンスと思える、そういう乗り越える日本人になっていかねばならないのだろう。
 
イメージ 1

ゴボウとコンブ/復活する縄文生活のヒント

$
0
0
 
世界でも日本人だけが食べるものとして表題の二つをあげておく。
もっと集約して言えば根菜と海藻である。
 
根菜そのものは世界でも食べられるものはあっても、ゴボウを食べるのは日本人だけであり、昆布やワカメやところてんを常食にするのも、沖縄を含めた日本列島でだけであろう(例外はあるけれど)。
 
これに芋と魚の干物を加えれば、もう完璧な食生活だと言う。
 
イメージ 1
朝食・定食・弁当に定番のキンピラゴボウ
 
 
 
イメージ 2
保存食としてのコンブの佃煮
 
 
 
この食生活は実は弥生人由来のものではない。
縄文人・・・特に東北蝦夷の山菜生活であり、海人族の海藻文化が合体したものである。
彼らは縄文時代の先住民である。その食文化が、焼畑から西日本の稲作に変化してもなお存続し、そればかりかついには日本中がゴボウとコンブをおかずにする風習となった。
 
つまり蝦夷や海人族たちは、西の渡来文化に取り込まれたのではなく、逆に東の食文化が西を席巻したことになる。それは居住空間でさえそうなので、海人的な高床式住居は現代和風建築の基礎になっている。
古墳の石棺でさえ船形の時代が古く存在した。
 
私たちの中に、まだ縄文のかすかな残照を見る思いがする。
これらの自然食品はスーパーで買わずとも、実は山野河海でまだまだ採集可能な、自給自足食品のひとつだ。
中国人は臥薪嘗胆と言って逆境を熊のにがい肝をなめて耐えしのいだというが、それはメンタルな話であって、実際の食生活は究極のサバイバルとなるとやはり山野や海岸でのゴボウやコンブである。
 
さて、このサバイバル時代、金ではない価値観をあなたは何に求めるだろうか?
 
 
 
今日はここまで。てけれっつのぱっ!
 
イメージ 3

縄文時代のブーメラン?

$
0
0
 
 
イメージ 5
 
 
◆仁田尾遺跡出土三日月形石製品
 
イメージ 1

仁田尾遺跡(にたお);鹿児島県鹿児島市石谷町
 
イメージ 3

素材;安山岩
全長;16.6センチメートル
縄文時代前期
保管者;鹿児島県埋蔵文化財センター
埋蔵文化財データベース管理コード
NTAO-R003230
 
 
 
全体は磨いてあり滑らか。
別名ブーメラン型石器。

同時代の磨製石器や打製石器はまずもって打ち割ったそのままの見かけのものが大半であるが、この石器に限っては磨き方が非常に丁寧で完成度が高い。
 
 

埋蔵文化財センターの話では、特に刃物のようにしてある部分はなく、全体が滑らかな作りになっているそうで、
発見時は片側が一部欠けている状態で出土したそうである。
鹿児島市石谷町仁田尾は南九州西回り自動車道の建設によって開発があり、遺跡は今の松元ICに隣接した仁田尾保育園近くの土地にある。
 
イメージ 2
薩摩半島の中央部で、周囲を台地に囲まれた土地だが、同時代の海人族の存在を教えるけつ状耳飾も出ている。
地形図 http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?lat=31.60302170&lon=130.46183728&ac=46201&az=152.3104a&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=鹿児島県鹿児島市石谷町仁田尾後
 
さあ、いったい何に使ったものだろうか?
愛称の通りにブーメランだったのか?
投げて帰ってくるかは「やってみたことがないからわからない」という答えだった。
遺物だから実験するわきにもいかないのは当然だが、もし戻ってくるなら、こいつはすごい航海者が鹿児島までやってきていたことになる・・・か?想像力を掻き立てられる面白い発見である。
 
 
 
イメージ 4
 
 
 

螺旋/一万年後の再会/収束する人類文明

$
0
0
 
イメージ 1
 
「講談社学術文庫で、マリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』が発売されている。
この本は、図書館にある古びた中央公論社の世界の名著というシリースでしか読んだことがなかったのだが、このたび、1冊の本として出版された。めでたいことである。文化人類学の不朽の名著なので、簡単に入手できるようになったのはたいへんありがたいことだ。講談社に感謝したい。
この文庫には、解説を中沢新一が書いている。「クラと螺旋?新しい贈与経済のために」というものだ。トロブリアンド諸島出身のジョン・カサイプロヴァという詩人であり作家であった人の語った話について書いている。「空とカタツムリ」という話である。内容は省くが、結論をいうと、クラはかたつむりのように螺旋状に広がり、無限に拡大する円運動である。他方、西洋の経済はリニア=線形であり、広がらない。そういう例えばなしによって、現代の経済を批判し、伝統社会の互酬的な経済を称揚している。」
http://2ch.money03.com/2010/05/post-94.html
その中沢が紹介している「空とカタツムリ」のお話はこういうものである。
 
概略
空が自分の広大無辺さに酔いしれていると、眼下のちっぽけなカタツムリがささやいた。
「空さん、あなたは確かに大きく広い。けれどわたしにはもっと大きく広いものを背負っている」
すると空は反省し、「たしかに君の背負っている家は螺旋であり、それはぼくよりも宇宙規模まで永遠に広がっていく空間を形作れる。しかも反対に、ミクロの空間へも向かっている。本当に君にはかなわない」
 
イメージ 4
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
螺旋はミクロとマクロの双方への永遠を同時に表現した図形であり、それを完璧に持っている自然界のものと言えばまずは巻貝しかありえない。
だから縄文の昔から、人々は海岸で食料として得た巻貝の殻を、食べるために割ったとき驚愕した。そこには永遠があったのだ!

カロッサの詩にある「見えた、何が、永遠が」であった。

巻貝の螺旋は一方はマクロの無限な拡大へとねじれつつ広がる空間を内在させ、一方は限りなくミクロへの収束へとねじれ、その奥に見えない暗い後戸(うらど)を内在させている。

片方は宇宙に向かい、片方は超新星のブラックホールのように、分子の世界へ人の目を吸い込む。

そのような形状はそれまで人類には作り出しえず、それまでの永遠の形状であったはずの水面の渦巻きをはじめとするすべての自然の形状を圧倒し、凌駕した。人類はここから位相幾何学を生み出し、人工物としてのネジやバネも作り出せた。経済では、クラという永遠の輪廻を産み出した。
 
 
イメージ 3
 
 
巻貝の渦巻きこそはメビウスの輪やエッシャーへの最短距離にあり、古代人の死生観の大元になった。
だから彼らはその貝殻を蓬莱の宝物だと思った。
それはお金になり、腕飾りとなり、首飾りとなり、実用的なコップとして使われ、ついには弥生人までもがそれを欲し、古墳時代人は、それを運んでくれる海人族が北へ漕ぎ去ると、模造品を金属で作り始めた。
 
イメージ 5
 
 
イメージ 6
イメージ 7
 
悠久の時は流れた。
一万年後、人類は再び自らの細胞内に螺旋を見つけて驚愕する。

遺伝子DNA・・・・
古代人が巻貝に見た永遠の生命の復活と輪廻・・・生と死を引き継ぎながら受け渡されてきた種としての「永遠の継続」の姿が、実は私たちの生命の根源に螺旋として元から存在していた。人類は地を這うカタツムリこそが自分であったことにようやく気付いたのである。それが人類の発見と科学の頂点だった。
神はそれさえ気がつけば、あとは凋落と冒涜しか私達が生み出せなくなることを知っていた。
 
 
 
現代、まさに人類は神の予測どおりの冒涜を繰り返す、最下位の生物となった。それが永遠を見た人類と、永遠である神との60万年のゲームだったのだろう。人類は負けたのである。

すでに終った時間を私たちはひた走っている。
螺旋の宇宙をも飲み込むほどのアウター・アドヴェンチャーはもう終っている。わたしたちは今、反対方向の暗黒のブラックホールに向かって、吸い込まれている最中である。頂点にまで達したと気付かぬまま、そして吸い込まれ始めていると気付かぬまま、人類60万年の絶頂期は終了しつつある。
地球と太陽が微笑んでいる。
次はどの生物とゲームしようかと。
 
 
 
イメージ 2
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
 画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
 民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
 あさきゆめみし ゑひもせすhttp://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/

縄文時代に直弧文はあったか?巻貝形土製品絵柄の難問

$
0
0
 
◆全国に三個しか完品出土例のない巻貝形遺物
最古は岩手県宮古市の約3000~4000年前のもの。
 
 
1 新潟県村上市山北町上山遺跡出土巻貝形土製品
画像は『原色日本美術』小学館 1966より http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/39309072.html?type=folderlist
縄文時代(後期)/前2000~1000年
長16.6
重文
イメージ 1

新潟県村上市山北町(さんぼくまち・旧岩船郡山北村)上山遺跡出土
「大型巻貝をまねた特異な土器。器全体に配された”瘤状の小突起”を”刻目のある隆帯”で結び,その間にミミズばれ状の”隆起線文”を巧みに配している点に文様の特徴がみられる。全体に赤色顔料が塗布されて,その形の特異性が強調されており,祭器等特殊な用途が考えられる。このような貝をまねた土器は他に二,三例発見されている程度である。」
 
 「縄文時代の造形物のなかには、粘土でイノシシや蛇などの動物の形をまねたものがあり、縄文時代中期後葉以降にそれらを立体的に表現する土製品が作られる。貝を模した例はイノシシについで数多く作られた。本例のような巻貝形土製品は後期後葉の東北地方の各地で複数確認されている。
 本例は岩礁性(がんしょうせい)の海岸に棲息する巻貝を模した土製品で、殻口を注ぎ口とした容器の機能を備えている。巻貝の外形を上手く作り、さらに同時期の瘤付土器の文様を巧みに取り込み、隆帯で螺旋文様が、瘤を貼り付けて刺が表現されるという、縄文人の造形力が遺憾なく発揮された土製品である。また内外面に塗られた赤彩は、本例が造形力に満ちた容器としてだけではなく、儀礼的な側面もまた合わせもつことを強く意識させる。」
http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=J38390
 
イメージ 2
 
 
 
 
2 新潟県村上市元屋敷遺跡出土巻貝形注口土器
 
イメージ 3

県文
人面付注口土器などとともに出土
旧朝日村奥三面(おくみおもて)遺跡群の内のひとつ元屋敷遺跡出土
奥三面遺跡群→http://inoues.net/club2/asahimura.html
 
イメージ 7
 
 
イメージ 8
 
 

3 岩手県宮古市近内中村出土巻貝形土器
 
イメージ 4

宮古市出土巻貝形土器。
縄文時代後期、およそ3000年前。
平成6年度出土。
全長23.5cm。

「今までに全国で報告されている3例と異なり左巻きで無彩色。
祭祀儀礼に用いられたと考えられています。
縄文工芸の極致と賞賛されています。」
 
「宮古市内には470ヵ所の遺跡がある。それらは数千年前の縄文時代のものから、千年ほど前の平安時代、500年前の中世の館跡、そして新しいものでは江戸時代の遺跡がある。平成7年近内中村・縄文時代後期(約4000~3000年前)の遺構から全国的にも珍しい巻き貝形土器が出土した。この土器がどのぐらい珍しいかと言うと国の重要文化財となっている新潟県上山遺跡の縄文後期の層から昭和36年(1961)に出土した巻き貝形土器と、巻方が左右対称なことを除いて瓜ふたつなのである。巻き貝形土器は通常の暮らしに使われた器ではなく、何らかの儀式に使われたものと考えられ、新潟上山遺跡に続いて昭和41年(1966)に宮城県伊具郡岩ノ入遺跡で出土したものと、この近内の3点しか出土例はない。
 
 他県の遺跡では雑多な土器郡と混じり合って破損して発見されているが、近内では竪穴式住居跡から猪の土製品などと一緒にほぼ完形品として発見されている。巻き貝形土器は全長23.5センチ、幅11.5センチ、重さは370グラム。濃い褐色で全体にイボ状の突起やらせん模様がある。関東方面に生息するボラ科の貝をかたどったとみられるが、巻き型は実際のものと逆の左巻きである。近内から巻き貝形土器が発見されたということは、はるか昔の縄文時代に新潟県で発見された物と同一の制作者が流れきたのか、あるいは製品として同じ物が交易品として流通したのかいずれにせよ縄文時代の何かをつないでいた架け橋があったという物的証拠でもあり、この近内の巻き貝形土器は、国の重要文化財の土器と従兄弟的な物品であることは間違いないと言える貴重なものである。」
http://miyapedia.com/index.php?title=%E5%B7%BB%E8%B2%9D%E5%BD%A2%E5%9C%9F%E5%99%A8
 
 

4 その他破片出土地
宮城県丸森町岩ノ入遺跡
秋田県藤株遺跡
山形県泥部遺跡
岩手県花泉町中神遺跡
北海道千歳市キウス遺跡
と東北、北海道内陸部広範囲に類似品破片が出ている。

詳細研究と分布PDF→www.domaibun.or.jp/nenpo8.pdf
 
イメージ 5
画像は青森県藤株遺跡出土巻貝形注口土器http://dalaz.exblog.jp/i2
 
「この中で元屋敷遺跡例は多量に出土し、土偶、石棒類の多量出土から祭祀儀礼行為の高まりを示し、新潟県と東北地方で同土製品の出土例が見られ女性器を象徴とした要素が垣間見る事ができるという。」
http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/43278241.html
 
 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
これらの巻貝形土製品類が、上記引用文にあるように女性器(生殖の根本)をイメージしたものであることはまず間違いないことであるが、気になるのは縄文時代にはありえないはずの表面に刻まれた「直弧文的な」装飾である。

特に1と3のふたつの土器に顕著で共通感が感じられる。
 
直弧文(ちょっこもん)は主に西日本の古墳時代の絵柄であり、日本でしか出てこないオリジナル装飾と考えられている。

縄文後期の北日本にそれがあるはずがない意匠なので、一般にその絵柄は”刻目のある隆帯”で表現されるようである。
 
 
◆隆帯文(りゅうたい・もん)
http://www.asahi-net.or.jp/~XN9H-hysk/jousiki/gaiyou.htm
隆帯紋・隆線文は非常に種類が多いが、基本的に文字が示すとおり、帯のように流れる線分が浮き彫り(陽刻)にされる絵柄である。しかし種類の多さからか、これという定型が存在しているわけではなく、言うならば隆線文の中の幅広な、浮き彫りされた(=隆起した)線文の総称でしかない。いわゆる隆線文土器でさえその種類は雑多で、定型がないといってもいい。古墳時代の直弧文や弧文のような「これが」という絵柄概念があいまいな言葉なのである。少なくとも盾築墳丘墓の弥生末期(2世紀)~古墳時代の模様ならば直弧文に分類されるところを、縄文時代にはそれはありえないので便宜的に巻貝の絵柄にこれを用いているのだろうと思う。隆起した帯状文の総称。
 

つまりこの二ヶ所から出た巻貝形完成品の模様は実は正しい名前のない絵柄だと言ってもいいだろう。そもそも縄文式土器と弥生式以降の土器では作り方も違うし、絵柄の分類方法も違うので(縄文土器は模様をパーツにして貼り付けるのが基本、弥生式は描く。例外あり)、同じ言葉は使えないのだ。しかしこの隆文は縄文中期までの貼り付けたものでなく、どう見ても刻んで描き出された陰刻になっている。
 
 
●そこで、ではこれが直弧文じゃあないのか?と疑問を持った人は、困ることになる。
せいぜい纒向遺跡の3世紀前半からではないかという直弧文が縄文時代後期の3000年前の、それも西日本から隔絶した東北で存在したなどとは、縄文専門家も弥生・古墳専門かも、絶対認めることができないからである。それが学問の縦割り思考の限界なのである。

これがプレ直弧文であることを認めさせるには、時間的・地域的にそれをつなぐ中間例証が必須になることは言うまでもない。
 
巻貝が、その内在させているラセン形を以って「生命誕生と再生の根源」の象徴であることはナンビトも否定できない。それは古代人の死生観である「生=死」の形象である。それは母親の産道の表現なのであり凹の図形である。

ということはこの土器の表面に描かれる隆帯もまた、当然それに類似する観念を表したものであるはずだ。
からみつく蛇であればそれは父親の男根のデフォルメであろうし、永遠の輪環を表しているならば当然、途中で途切れた絵柄にはならず渦巻きや螺旋形にならねばならない。しかしこの隆帯絵柄も直弧文も帯が一定間隔の長さで切り取られた帯になっている。
 
切れてはからみつき、切れてはつながる・・・そういうからまりあった連続なのである。
切れているということは永遠ではない・・・ひとりの人間の生命が決して永遠ではないということを弥生人のように縄文人も知っており、それが決して再生してくるものではなく、むしろ分断される死の数々がつらなりからまって、一族の種が輪環していく・・・リーインカーネーションを意識した絵柄だということになる。
 
そこには古代人すべてに共通した「諦観」がすでにあり、それを前提にした「永遠」がすでにあることになるだろう。そのつながってゆく永遠とは、中国の神仙思想にある不老長寿への願いなどより、はるかに宇宙的観念であり、まさに巻貝の螺旋が作り出すマクロからミクロへのインナー・トリップ・・・インド哲学のごとき広大無辺な極地に、彼らがすでに太古から到達していることを示しているのである。
 
しかし、もしこの巻貝土器表面の隆帯文を直弧文であると証明したなら、それこそ考古学界はひっくりかえることだろう。まずすべての学者を納得させるにはt百年ほどかかるかもしれない。誰かがやらねばならないことである。
 
いずれにせよこの巻貝形土器の源流は実物の巻貝である。その巻貝への思いが日本の南北でとも生まれた。しかも常識に反して、それは考古学的には、沖縄や西日本で形象化するよりも、1000年も早く北日本の縄文人が思いついたという結果になる。ということは?
 
イメージ 6
 
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
 画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
 民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
 あさきゆめみし ゑひもせすhttp://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/
 
 
 

八幡放生会ではなぜニナ貝を放生するか/荘氏死生観か仏教戒か?

$
0
0
 
◆「荘氏」の死生観
 「自生自滅していく変化ないしは作用だけが真実、・・・。この生滅変化の道のみが永遠である。この永遠の流転たる道を、荘子はまた大槐、天籟、大通、造化、命、物化、化、時、陰陽、天とも呼んでいる。しかし結局この道は渾沌なる言葉が語っているように、何の秩序も統一もない非合理極まる流転である。(p176)
 
 荘子にとっては、与えられた生を全うすることが第一義的である。それは生に執着するという意味ではない。荘子は偏頗な執着を嫌う。愛着の発生は同時に道の欠けることである。彼が養生をいい、保身を語るのは、与えられた現在を、それが現在なるが故に十全に活かそうとするためであって、決して与えられたるものが「生」なるがためではない。已に善悪、美醜、有用無用の対立を一如と見てきたが、ここで生死の一如を説く。道とは、方生方死方死方生、生ずれば滅し滅すれば生ずる一持続である。
 
 (内篇:大宗師篇の「子祀・子輿・子犂・子来の四人の語り」を持ち出し)生のみに愛着することは、一つの惑いではなかろうか。死を悪むということは、若くしてその故郷を離れ遂にその故郷に帰ることを忘れてしまった者の愚と一般ではなかろうか。
 
 (内篇:斉物論篇の瞿鵲子長梧子の話を持ち出し) 夢見る時には誰も、その夢なることを知らない。夢を非現実というならば、現実もまた、死者から見れば夢に過ぎないかも知れない。夢と現実と、生と死と、悉く道はまた通じて一つなるものではなかろうか。
 
 (再び、内篇:大宗師篇の「子祀・子輿・子犂・子来の四人が語り」の続きを持ち出し)俺の左肘が鶏になったら、時をつくって鳴いてやろうよ。・・・・結構な話だ。一体、時は暫くも停らず、人間に生まれるのも運命なら、その形を失うのも順当だ。時に安じ、順に処れば、別に嬉しくも悲しくもない。これが昔からの懸解:解脱というもんだよ。
 
 この話を見れば荘子の死生観が最も明瞭に窺える。方生方死方死方生というように、彼は確かに死は更に新しい生の初めであると考えていたのである。しかし、その死後の生たるや決して、いわゆる霊魂不滅とか永生とかいうのではなく、この現実の世界に生命の種々相が分散離合しつつ、果てしなく変化を続けていくという意味に外ならない。 養生主の結句は、・・・火とも言うべき道の不断流動を指すのである。一見したところ、仏門にいう輪廻転生と類似するが、同一ではない。・・・善悪の彼岸に立つ荘子には、何らの罪悪感も介在していないし、個体的に持続する魂などというものは更にない。形体も心も、悉くの存在が、時々刻々に変化して止むところがないのである。 」
前田利鎌「臨済・荘子」岩波文庫より抜粋
http://mohsho.image.coocan.jp/sohji-shiseikan.html
 
 
 
◆放生会の巻貝放生
放生会(ほうじょうえ)
「放生会(ほうじょうえ)とは、捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式である。仏教の戒律である「殺生戒」を元とし、日本では神仏習合によって神道にも取り入れられた。収穫祭・感謝祭の意味も含めて春または秋に全国の寺院や、宇佐神宮(大分県宇佐市)を初めとする全国の八幡宮(八幡神社)で催される。特に京都府の石清水八幡宮や福岡県の筥崎宮のもの(筥崎宮では「ほうじょうや」と呼ぶ)は、それぞれ三勅祭、博多三大祭として、多くの観光客を集める祭儀としても知られている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E7%94%9F%E4%BC%9A
 
ここには「仏教の殺生戒を元とする」とあって、八幡信仰が持つ放生会の起こりを仏教に求めており、それが八幡信仰の神仏混交をある意味象徴する儀式であることを想定している。ただし「荘氏」の死生観は仏教以前から、そういう近似した観念がすでに存在していたことを知らしめてくれる。
単純に殺生を戒めるのは仏教の観念から、と言い切ってしまうわけにはいかない。
 
 

八幡放生会(仲秋祭)では放生する生き物は蜷(にな)貝である。
http://www.city.usa.oita.jp/site/kanko-event/5902.html
 
イメージ 3

ニナ貝は地方ではニシ貝とも呼ばれ苦味が持ち味の小さな細長い巻貝だ。
しかし九州地方ではニナと言えば、もっと広く、食べられる巻貝類で小さなもの(イシダタミやニシ貝のたぐい)もすべて「にーな」「にな」「がんがら」などと呼んでひとくくりにしている。
しかし放生会では海蜷(ウミニナ)を用いることが多い。
 
ニナガイ
Batillaria multiformis は、吸腔目ウミニナ科は極東アジアの汽水域に生息する塔のような(キセルのような)小型巻貝で、河口部の淡水と海水が混じるところを好み群集するため、干潟に多く採集が容易。. 宇佐八幡では和間浜で、大善寺玉垂宮秋の大祭では境内のクスノキに住み着いたものを獲るとあるので、この貝はどうやら陸上でも生息できるらしい。宇佐では鮮魚店で売られていて食べるようだ。(ちなみにホタルの主食であるカワニナは生食厳禁。ジストマがいるから必ずゆでて食されよ。そのほか河のものすべては同じく生食厳禁)
仲間にナンバンギセルなどがあるようにその長い形状は煙管によく例えられる。

●なぜ数あるいきとしいけるもの、食品の中で蜷なのであろうか?
今書いたように
1 採集が容易な貝である
2 塔のような細長い形状が仏舎利塔を思わせる
3 ねじれが死生観を象徴する
4 海蜷には隼人の霊魂が宿るから
5 食用としてはポピュラーでないうえにいくらでもうじゃうじゃいるから。
などが考えられる。
隼人の霊魂が宿ると言うのは、宇佐が隼人粛清(虐殺)の中心に中央によってされたからで、宇佐限定の理由であろうからここでは省く。
 
 
ここまでこのブログとつきあってこられた方なら、巻貝=永遠の輪環であることはもうおわかりのことと思う。
しかしではなぜ巻き貝類の中でも蜷なのかは、誰もわかるまい。
永遠のねじれを内在させる貝ならば、むしろヤツシロガイの方に筆者などは完璧なねじれを見る。
 
イメージ 4
                   完璧な渦巻き・螺旋を外観に持つヤツシロガイ
 
 
 
イシダタミだってかまうまい。いわゆる夏の風物詩ニーナ(伊豆地方ではイイッコという)だっていいはずだ。ヤサラ(ツメタガイ)だってよい。しかしなぜかどうしても海蜷なのである?
 
イメージ 1
イシダタミ
 
イメージ 2
ニーナ

誰かわかる人。
 
 
まず蜷饗(になあえ)の祭りが秋であること。宇佐八幡から始まること。和間浜河口部で行われること。
はそのヒントになるだろう。たくさん獲れる、うじゃうじゃいるということは生命力と豊穣を意味するので、かつての豊の国(豊前・豊後)の国名にはふさわしい生き物ってことかな。
筥崎宮とか鹿児島神宮とか、全国的に放生会はあるがすべて八幡信仰から始まる。始まりは宇佐で隼人霊を慰めたことからである。隼人の勇猛果敢で縄文的生命力に、弥生的死生観が圧倒され、触発されたことはまず間違いない。そこには好意と嫌悪の二面性が内在するだろう。それは蝦夷への感情にも似ている。そして隼人が海に生きる大隈隼人だったことも大いに関係することだろう。これが阿多隼人なら生き物は別のものになっただろう。
 
 
イメージ 5

 

謎の地名・大阪のハナテンの由来

$
0
0
 
旧大阪市東成区放出村
放出(はなてん)
放出の地名の由来には2説ある。ひとつの説としては、古代の大阪は内陸部が湖となっていて、この地付近で湖水が旧淀川への放出口となっていたことから、水の「はなちてん」がなまって「はなちで」を経て「はなてん」になったといわれる。もう一つの説としては、三種の神器の一つ・草薙剣を剣が安置されていた熱田神宮から盗み出し逃げようとした新羅の僧・道行の乗った船が難破してこの地に漂着し、神の怒りを恐れて剣を放ったという伝説に由来するともいわれている(草薙剣盗難事件)。同地の阿遅速雄(あじはやお)神社にある石碑がその伝承を伝えている。
 
 
放生会を書くと必ずこの地名を思い出すから不思議である。
CMの♪ハナテン中古車センタ~~~は、長く関西に住んだものの耳にこびりついている。
 
上記Wiki解説では、二説とも結局は何かを放った・・・「放ちてん」(放ちてむ)が起因と見ていいだろう。
地名説話の多くはまずもって駄洒落の類がほとんどだが、ハナテンの場合は、説話の内容はともかくも、何かを放出したところでいいいのだろう。
 
大阪弁では「放ったところ」が「昔●●をここで”はなってん”やて」となるわけなので、それが「はなてん」になりやすいことになる。昔の落語のちゃんとした難波言葉ならそれは「はなったらしィわ」であるが、のちの民間での通用語ならこうなる。つまり地域・民衆に密着した変化をしたと言える。それは地名を多く使うのが地元の人間であることを考えればしごく当然である。
 
読めない地名は全国ごまんとあるが、「はなった」という和語を表記するのに漢語の放出とした例は珍しい。漢語であるということは、この地名のそれほどは古くないことを思わせる。
 
あるテレビ番組でかつて大阪の難読地名として、ここは筆頭に出ていたが、ほかに喜連瓜破とか立売堀とか杭全が出ていて非常に懐かしかった。それぞれ「きれうりわり、いたちぼり、くまた」と読む。もっともかつての大阪そのものを表す浪速(なにわ)でさえ、よその人には読めないものだったはず。なにわのもともとの文字は難波で、今はミナミの地名「ナンバ」になっている。
 
大阪の人は鴨南蛮をやはり「かもなんば」とかなまるが、なにわは「なみはや」のなまりで、文字が正しい。
大阪湾が波が荒いからである。そこに外国船が多く泊まるから、ナンバン人もなんばとなるのかは知らないが、「なんば」には逆さまという意味もあるようだ。
落語にも「あんた、前がなんばやがな」と出てくる。ミゴロが左右逆さまやで、という意味である。なぜそういうのかは「はてな?」である。
 
このように地名解読には在地言葉もよく知っておく必要がある。
 
京言葉でも『源氏』の「六条御息所」などは「ろくじょうのみやすどころ」が正しいが、京言葉の語調調節では「ろくじょうのみやすんどころ」となる。「からすまる」は「からすま」と「る」を省略するが、これは渡来朝鮮人がにがてな「ラ行」をひとつはしょって読みやすくした結果かとも思える。まことに地名人命は面白い。
 
 
イメージ 1
 
 
 
 
 
 
 

神饌図解1

$
0
0
 
イメージ 5
 
 
神饌(しんせん)・・・神への食(け)。贄(にえ)
基本的に神職と氏子によって自給自足で作られる。その資金は氏子の寄進とお賽銭などである。
伊勢神宮の場合、祭神のいる内宮(ないくう)への贄に始まり、朝廷から斎宮(さいぐう)が常駐するよになると、祭神を慰める巫女である斎宮のための贄が外宮(げくう)にも置かれるようになる。
内宮の御神饌は撮影禁止で不明。
 
◆伊勢神宮
外宮 日別朝夕大饌祭御 神饌及び干鮑・干鯛
イメージ 1
日別朝夕大饌祭 ひごと あさゆうの おおみけ さい
 外宮のご祭神が、御饌都神(みけつかみ=食物の神)の豊受大御神であることから、外宮のみにある御饌殿(みけどの)では、毎日朝夕の2度、天照大御神をはじめ、豊受大御神、各相殿神(あいどのかみ)、各別宮の神々に大御饌をたてまつります。このお祭りを「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうのおおみけさい)」といい、禰宜(ねぎ)1名、権禰宜(ごんねぎ)1名、宮掌(くじょう)1名、出仕2名により奉仕されます。御火鑚具(みひきりぐ)を使って清浄な火(忌火)を鑚(き)り、神々にお供えする神饌(しんせん)を調理します。
copyright 2000 神宮司庁(c)jingu-shicho
 
 
なぜ豊受大神が丹後からやってきたかと言うと、丹後・若狭の海の贄を収穫するものがそこの海人族であり、その贄が朝廷の大切な神への税調の重要なものだったからであり、だからこそ丹後には皇女が最初に送られた。その神(みけつのかみ)に嫁いだ神妻こそが豊受神(=巫女)なのである。
 
 
◆賀茂別雷神社(かもわけ・いかづち・じんじゃ 上賀茂)賀茂祭
内陣御神饌
イメージ 6
 
庭積御神饌
イメージ 8
 
 
◆賀茂御祖神社(かもの・みおや・じんじゃ =下鴨)賀茂祭神饌
 
イメージ 7
 
 
 
◆岩清水八幡宮 岩清水祭御神饌
イメージ 9
 
 
水別の地下鴨と男山は鴨氏と秦氏の婚姻を象徴する京都の聖地である。
 
川の合流するその洲とはまさにY字型地形の典型といえる。
一方岩清水の湧く男山も、こちらはV字型に三川合流に突き出した男根地名である。
 
イメージ 3
女陰の先に突起の砂州(河合神社)と糾(ただす)の森の茂み。ちょろちょろ流れる見瀬の小川。
まさしくできすぎたほどのおみなごのまたぐらに存在する。
 
一方淀川の三川合流地大山崎に突き出す岩清水八幡のある男山(左側山塊)。まったく男山と呼ぶにふさわしい地形。 なんと隠微でおめでたい地形だろう。
 
イメージ 4
 
 
◆諏訪神社例大祭語神饌
イメージ 10
もくず蟹(もずくかにではない)はもとは手長海老だった。
 
注;もくずがに・・・川蟹。もくずがもずくと間違われるのは、幼児や無教養なものによく起きる語韻の転倒がそのまま広く民間に定着してしまった典型的誤用である。著者・南里空海氏は著作の中で二ヶ所誤用のまま使用している。どうでもいいことだが気になる。
 
 
 
 
◆香取神宮大饗祭御神饌(鴨羽盛 かもはもり)
イメージ 11
■香取神宮 鴨羽盛
 「香取神宮の主神は経津主命。その起源は神話に始まり、国土を平定した神として皇室の崇敬厚く、旧官幣大社。関東を代表する古社である。
 晩秋に行われる大饗祭(だいきょうさい)は東国三十三国の神々を招いての饗応の祭り。香取神宮ならではの特殊神饌が用意される。水郷特産のマコモで組んだ巻行器(まきほかい)と呼ぶ、工夫を凝らした独特の容器に飯を盛る。水郷に群れる鴨を捕らえ、雌雄一対の鴨をさばき、内臓を取り出し、再び羽根を広げたように三方に飾りあげた羽盛、鴨の内臓や鮭、フカの切り身を組み合わせ、三方の上に高く盛りつけた鮭の鳥羽盛などが神饌殿で準備される。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53335540.html
 
 
 
◆阿蘇神社御田植祭(おんだ・さい)御神饌
◆率川神社三枝祭(さえぐさ)御神饌
イメージ 12
 
画像参考資料 南里空海(なんり・くみ)『神饌 神様の”食の原点”を見つめる』 世界文化社 2011
 
 
その2に続く
 
イメージ 2
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
 画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
 民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
 あさきゆめみし ゑひもせすhttp://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/

神饌図解2

$
0
0
 
                                
イメージ 1
ランキングクリックは読者の良心
 
◆談山神社嘉吉祭御神饌
 
イメージ 2
 
 
 
 
◆北野天満宮梅花祭御神饌
イメージ 3
 
 
 
 
 
 
◆和布刈神社(めかりじんじゃ) 和布刈神事御神饌
イメージ 4
「めかり」とは「め」=海藻を神職たちが海に入って刈り取り、神にささげる神事
 
 
 
 
 
◆老杉神社エトエト祭御神饌
 
イメージ 5
 
 
エトエト祭とは近江、湖東の神奈備山・三上山に春を告げるオコナイ神事。
オコナイとは来訪する神々(精霊)を迎え入れて饗する祈願。
 
 
 
 
 
 
◆住吉神社(大阪市西区野里) 一夜官女神事御神饌
 
イメージ 6
 
一夜官女・・・
のざとすみよしじんじゃ・ひとよかんじょ

2月20日
人身御供神事

中津川という川の水害になやんでいた村人たちは、毎年白羽の矢を立てた家の娘を唐櫃に入れ深夜、境内にそなえることにした。ちょうど7年目に通りかかった武士がこれを聞き、、娘に代わって櫃に入り、神の正体である大きな狒々(ヒヒ。猩々とも)を退治した。いわゆる世間に知られた岩見重太郎のヒヒ退治がこれ。

毎年、祭では「当矢」(とうや・白羽の矢が当たった家)一軒と七人の「官女」が選ばれ、神官たちが当矢の家まで出迎えにゆく。
当矢と神官が盃を交わし官女を送り出す。別れの涙。
官女たちは神官とともに神社に渡り、「別れの盃」を交わし、当矢が運び入れた神饌を入れた「夏越桶」(なごしのおけ)とともに神前に「供えられる」。
神前に向かって官女は座らされ、そのまま神事が続く。ずっと観衆に背を向けたまま祭は終わる。

これは「神饌の供進」と言い、神官以外はみな神事が終わるまで手前で控えていなければならない。つまり神が官女を「犯し」、「食らう」のをじっと待つのである。
全国夏越し祭が「虫封じ」神事であるように普通は夏の神事でなければならないが、ここでは二月に行われるところを見ると新春儀式となっているようだ。

おひつに入れられた神饌と官女は同じ「おかず」である。
その点、熊本の「うなり」の役目と同じ。うなりはもっと残酷に、猛暑の中を自らの頭におひつを乗せて運び込み、あげく神に喰われてしまう・・・つまり。言い換えるとそのまま生け贄となっていたのである。
住吉神社のこの祭には娘を嫁に出す親との別れのシーンが表されており、つまり官女が神への嫁入りをする意味合いが色濃く表現される。しかし嫁入りはすなわち「死」である。」
 
 
 
 
 
 
 
◆彌美神社(みみ・じんじゃ) 例大祭御神饌
福井県三方郡三浜町
 
イメージ 7
 
トコロの地下茎とホンダワラ
 
 
 
 
 
イメージ 8
                             トコロ
●ところ 【野老】
 
ヤマノイモ科の蔓性(つるせい)の多年草。原野に自生。葉は心臓形で先がとがり、互生する。雌雄異株。夏、淡緑色の小花を穂状につける。根茎にひげ根が多く、これを老人のひげにたとえて野老(やろう)とよび、正月の飾りに用い長寿を祝う。根茎をあく抜きして食用にすることもある。おにどころ。《季 新年》「―うり声大原の里びたり/其角」
http://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E8%80%81

※トコロは普段は食べない野草。一般は正月にだけ食す。クワイやユリネのような存在。髭だらけが翁=長寿の象徴。
ちなみにナス科のハシリドコロは地下茎がトコロによく似て、しかし有毒ゆえご注意。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/176211/m0u/
また見た目がそっくりなタチドコロはよく混同される。
http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=ie8sc&p=%E8%80%81%E9%87%8E+%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%AD#mode%3Ddetail%26index%3D2%26st%3D0
 
 
   今が走りというときに 根っこを食べて たちどころ
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
神饌の大元は生贄に始まる。
最初の贄は人である。
やがて動物、生き物から海山の食品へ。これは神への神饌であるとともに=為政者への税であった。
人生贄はやがて外来の旅行者となり、人形(ひとがた)へ変化。いくらなんでも村の人口が減っていくことに気付いたのだろう。仏教の殺生戒の影響というのはあくまでも官幣大社での、都合の良い解釈である。地元に根ざしたやしろでは、近世まで生贄、人身御供、人柱は存続する。カルトな離れ部落などではついこのあいだまであったと思われる。
 
神を喜ばす祭りとは、自然の災害が起こらぬようとの願いである。
自然神はそもそも人が大好物である。
 
饗宴してもてなすのは神に限らない。民が為政者をもてなしたという記録は、つまり民が彼にひれふした、帰順のあかしであり、逆に、為政者が民をもてなすのは、利用目的があっての事前の慰労と承諾を意味する。
おごってもらって労働は嫌だとは言えないのである。
 
最近は、一宿一飯のお返しも理解できない田舎モノも増えているようだが。
 
土産にせよ、神饌にせよ、正月の御節にせよ、捧げモノは最高の産物でなければ何も意味を成さない。
何もなければ命を捧げる。それが掟である。
 
食わせてもらってそれを裏切ることができるのは、それこそ神だけなのである。
裏切り者は死罪が当然だった。
心あるものは決しておごられたことを忘れない。
それを忘れる行為を「おごり」と言うのだ。
奢れるものは恩を知らず、必ず神罰を受ける。平家のように。
 
イメージ 9
 

桃の節句/人桃果 蟠桃/不老長寿へのあこがれ

$
0
0
 
 
イメージ 1
 
 
やや気が早いが、桃の節句の話をする。
例によって一筋縄では済ませない。
 
イメージ 4
 
                      なんじゃこりゃ!?
 
 
◆人桃果(じんとうか)
桃は元来仙人に力を与えるものとされているが、その中でも人桃果は非常に美味であった半面その姿かたちが一見して赤子のような姿をしているなど、非常に特殊だった。その姿ゆえに三蔵法師は「赤子を食べるなんてとんでもない」とためらい、その様を嘲りながら孫悟空たちは遠慮なく人桃果を食べるという一シーンがある。
http://ncode.syosetu.com/n3609j/13/
 
西遊記では主人公たちが「人桃果」という赤子の形をした果物(桃と言うのは確かに赤ちゃんのお尻みたいだ)を仙薬として食べたがる話が出てくるが、ここには節句の根底にある中国の五行陰陽が収められている。果物は、木火土金水の「木」であり、火に遭えば焦げ、土に遭えば潜り、金(金属)に遭えば落ち、水に遭えば溶ける、とされており、そのために孫悟空が如意棒を近づけただけで実は木から離れ、地面に落ちて土に潜って消えてしまった。その後、木火土金水のどれかを使って、土の中から実が返ってくるという
http://www.geocities.jp/mievbfg/momo.htm
 
 

◆蟠桃(ばんとう)
桃は糖分が多く栄養価の高いこの果物は、現代人より何百倍も人力を要した当時の人々に力を与え、不老長寿の薬と見なされていた。仙人も桃の花を食べていたし、西遊記では孫悟空は一個食べれば百年の命(千年だったかも)が与えられる(※これを蟠桃というKawa)という、しかし100年だったか1000年に一回しか成らないという桃の実をいくつも食べたので、後に矢で射られても体が鋼のように固く、矢を跳ね返した、という件がある
http://www.geocities.jp/mievbfg/momo.htm
最近、新種でこの縁起のいい名前をつけた桃がぼちぼち出ているようだ。特に人の形はしていないが、扁平で、真ん中がくぼんでいて、切るとメビウスの輪のような形をしている。まさに永遠の命へのあこがれだろう。福島や和歌山で栽培されている。
http://www.umai-mon.com/blog/tag/%E8%9F%A0%E6%A1%83/
 
イメージ 2

◆桃の効果と栄養
桃の実にはまず、食物繊維のペクチンが豊富に含まれているので、便秘の予防に効果的である。さらに、カリウムの含有量が多く高血圧予防に効果がある。 また、魚を食べて食あたりをおこしたときの解毒に効果があると昔から言われており、ことにマグロにあたったときの中毒症状の緩和には速やかに効力を発揮するそうである。
 一方、汗疹予防で知られる桃の葉にはタンニンやカリウム、ショウ酸マグネシウムなどが入っており、桃の葉を乾燥させ、布の袋に入れてお風呂を水から入れて沸かすと肌荒れに効果があるという。
http://www.geocities.jp/mievbfg/momo.htm
 
 
 
◆桃の経済効果
桃の経済効果は、どうだろうか。
日本での桃の生産高は、山梨、福島、和歌山の順に高い。
そして、桃市場。生産高3位の和歌山県の生産額は、平成9年にはなんと、51億9100万円にも上った。
http://www.geocities.jp/mievbfg/momo.htm
 
 
◆長寿願望、そのほかの食べ物では?
中国で人型をした梨の栽培が成功!!海外への輸出も検討!?
冒頭の人型果物画像がこれである。
 
 
 
驚いた話2(人間が人間を喰らう!)
http://mamorunagai.ninpou.jp/odoroki2.htm
 
 
 
中国人にとって桃は=子供=不老不死の妙薬という構図がどうやら脳裏にこびりついているようだ。
それで古くから人型の食品を模造することで、人肉食への欲望を押さえつけてきたらしい。
餅を子供に作って食べるところもあるらしい。代用食だろう。
 
桃の果実は確かに幼児にほっぺたやおしりに相似ている。
この欲望の源流は『西遊記』の桃を持ち出すまでもなく、すでに古代の桃源郷思想に見出せる。つまり不老長寿の神仙思想である。それが二次的に裏返って、子供の健やかな成育を祈るのに桃が使われた。人間はこういう正反対の矛盾を平気で行うものだ。
 
 
イメージ 3
中華デザートの”寿桃”
 

桃の節句に桃の花を供える。
女の子の健康と長寿を願って・・・。
その裏にあるものは、桃の実のように食ってしまいたいおじいさんの食欲が見え隠れしたりするのかも。
 
 人食えば わが身戻るぞ その子の頃に
 
である。
 
日本ではイザナギが黄泉のイザナミに会いに行って、追立てられ、鬼に向かって桃を投げつけて難を逃れる記紀神話がある。

また考古学的にも大和で桃の種が山ほど出ているし、桃園が実際に存在したことも発掘でわかっている。
桃には魔よけと長寿の二つの夢が託されてきた。
 
桃源郷の言い伝えなども、蓬莱思想の一種であり、異界での永遠のぬくぬくした生へのあこがれが、桃に象徴的に見ていたことは間違いない。
イメージ 6
 
『源氏』の「朝顔の巻」で、彼女の父親は桃園と呼ばれているが、これは彼の邸宅に桃園があったからである。
桃園地名は全国にある。多くは桃畑に由来することが多い。
 
大阪の化粧品会社に桃谷順天館というのがかつてあったが、上町台地桃谷(ももだに)の斜面には、天王寺から玉造にかけて、かつて桃の木が満面に植わっていたからだと聞いている。今の本社は確か港区になっているが、前は桃谷にあったのだろう。
 
 

●桃の節句の由来
 桃の節句の起原は大変古く平安時代に遡る。
「昔の日本には五つの節句(人日・上巳・端午・七夕・重陽)があり、当時この行事は貴族の間では、それぞれ季節の節目の身のけがれを祓う大切な行事でした。その中の一つ「上巳(じょうし)の節句」が後に「桃の節句」となります。

■上巳の節句が桃の節句へ
  平安時代、上巳の節句の日に人々は野山に出て薬草を摘み、その薬草で体のけがれを祓って健康と厄除けを願いました。この行事が、後に宮中の紙の着せかえ人形で遊ぶ「ひいな遊び」と融合し、自分の災厄を代わりに引き受けさせた紙人形を川に流す「流し雛」へと発展してゆきます。

 室町時代になるとこの節句は3月3日に定着し、やがて紙の雛ではなく豪華なお雛さまを飾って宮中で盛大にお祝いするようになりました。その行事が宮中から武家社会へと広がり、さらに裕福な商家や名主の家庭へと広がり、今の雛祭りの原型となっていきました。

■初節句のひな祭りは、身のけがれを祓う災厄除けの行事です。
 ひな祭りは、高貴な生まれの女の子の厄除けと健康祈願のお祝いとしての「桃の節句」が、庶民の間にも定着して行ったお祝いです。ですから単なるお祭りではなく、お七夜やお宮参りと同じく女の赤ちゃんのすこやかな成長を願う行事、いうなればお雛さまは、赤ちゃんに降りかかろうとする災厄を、代わりに引き受けてくれる災厄除けの守り神のようなもの。気持ちの問題ですが、省略せずにきちんとお祝いしてあげてください。 」
http://www.hinamatsuri-kodomonohi.com/iware.html
 
いつの時代でも、ゆとりあるものはわが娘(こ)に祝いがしてやれる。しかし近世の貧する民の間では、平然と間引きも存在した。
桃の節句にもまた、常民にとっては「この子の七つのお祝いに」と同じような、二面性があったことだろう。
桃花(とうか)まだ程遠い、ある冬の日の感慨である。
 
 わが娘 はるか武蔵で つつがなきかと
            桃の節句に 何贈るでもなく 
 
 
イメージ 5
大変よくできました、のか?
とキング・オブ・コメディ風のひとりつっこみひとりぼけにクリック!
・・・するのか?
 
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
 画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
 民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
 あさきゆめみし ゑひもせすhttp://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/
 
Viewing all 1881 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>