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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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Julie 君をのせて Love抱きしめたい 沢田研二は戦後をすべて終わらせた

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ぜんっぜん古代史とは関係ありません。
 
ぼくは沢田研二の歌が好きでした。
 
 
 
沢田研二/LOVE(抱きしめたい)第7回FNS歌謡祭✩1978.12.19.OA
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いつごろから?
-ー中学生くらいですね。タイガースが解散してソロになり、ポプコンで「君をのせて」で出場してからです。
 
そりゃまたどうして?
ーー思春期の真っ最中だった時期と、彼がひとりで動きはじめた時期がぴったり合った。その頃から、Julieから男へ、彼も変わっていった。
 
 
 
沢田研二 - 君をのせて
 
 
 
 
ワイルドワンズの加瀬邦彦が曲を提供し始めた頃からってことですか?
ーーいや、もしかすると大野さんじゃないかな、スパイダースの。
 
井上タカユキバンドの・・・
ーーええ。ちょうど、アイ高野がひとりになってクリエイションでヒットを飛ばした頃ですね。なんていったっけ、ええと「ロンリーハート」?
 
 
 
確かそのあたりにニューミュージックもピーク?
ーーそうでしたかねえ。フォークソングが飽きられ始めた頃のちょっと前。
 
当時はまだ高校生でしょ?すでにその頃からフォークに飽きていた?
ーーええ、飽き始めてましたね。たくろうが出てきて、それから70年代から8年代の移行期にフォークロックをやりだした。曲名で言えば「元気です」の次あたりの「春だったね」ですか。この頃からPOP音楽はどんどんバラエティ化してゆく。百花繚乱です。
 
 
あなたが大学を卒業するくらいのとき・・・。
ーーええ、そうですかね。ユーミンまっさかり^^
 
 
確か南こうせつとは同郷だったんじゃあ・・・?
ーー高校の先輩です。6つ上。伊勢正三が4つ上。
 
神田川はフォークですよ?
ーーいや、あれは歌謡曲です。アリスも歌謡曲です。フォークもブルースもジャズも既成の音楽は全部ロックの波に呑み込まれようとしてた。歌詞ですねそこからは。楽曲よりも同世代のこころをがしっとつかめる歌詞の時代になってゆく。
 
 
歌詞ですか?
ーーええ、今の若いこの曲を見てください。共感できる歌詞にとびつくんです。Aikoもそうだ。共感して泣きたいのね、今の子達は。ぼく等のころのいかりとかではない。つきぬけないんです。どっちかというととどまろうとする、現状に、そして共感したい。前にじゃなく、うしろにでもなく、今なんだ。
 
 
それはいいこと?
ーーそんなことは知りませんよ。いいとか悪いとかじゃない、今です。演じていたい?今を。
 
なんか太宰みたいだな。
ーー太宰だと言ってもいいかな。高倉健かも。演じる、今の自分を。
 
それってまるであなたのような・・・。
ーーさあ。演じて浸る?
 
現実的じゃない。
ーーそうそう、それでいいのです。利休と言ってもいい。現実では実現できないからです。沢田研二がすべての窓を開いた。かっこよく、ゴージャスで、中性的音楽世界の窓を。フォークは古い世界です。一昔前にいったん戻した音楽。Julieが開いたのはそんな古めかしい古代ではなくて、ロックやヘビメタに通じる音楽のかっこよさだった。単純です。愛と恋。原点でしょう。音楽の。詩的世界の。そして楽しく、明るく、かっこいい。陶酔もある。麻薬でしたね。高校二年のとき、ぼくはこれから女性の時代になるんだなあと、Julieに教えられた気がするのです。そして実際そうなりました。政治も経済もそうならざるを得なかった。男どもが現実から逃げ始めた。そうすると女性にぎっている虚構の経済力に頼らざるを得ない。
 
戦後、ワコールが急速に伸びたのは、戦時中にはありえなかった模造アクセサリーからなんです。つまり夢ですね。女性や子供達の欲しいものでワコールは大成長したんです。沢田研二はそういう模造ダイヤやルビーだったんです。つまり沢田研二によって戦後は完全に終わった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ランクリよろしく!!
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装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
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帽子と差別

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久木 かおり/身体コミュニケーションと帽子
帽子にまつわるエピソード
そして、いくつかの「帽子にまつわるエピソード」があります。愛の帽子、幸福を招く帽子、生きている帽子、幻の帽子、差別の帽子、宿命の帽子、の6つのエピソードがあります。
愛の帽子について、ルイ17世とリシュリュウ枢機卿の時代である17世紀のフランスでは、騎士が、つばの広い帽子で、ダチョウの大きな羽をサイドから後頭部にかけて垂れ下がるようについている帽子をかぶっていました。騎士がこの愛の帽子に分類されているのは、騎士は女たちの前では精一杯つっぱって見せていたからです。この時代、フェンシングが盛んで、羽飾りは右腕の邪魔にならないように左側か、後ろにつけられていました。この17世紀の習慣より、現代の帽子の飾りは左側についています。そしてフランスでは、毎年11月25日に「聖カトリーヌ祭」といわれる帽子の祭りが行われます。参加者はさまざまな工夫の凝らした帽子をかぶります。それが、ハイヒール帽子やコルセット帽子といったユニークな帽子だったのです。主役となるのは、その年に25歳となる未婚の女性です。昔、聖カトリーヌが妃の頭に天使の冠をかぶせることでその心を開きました。そのためにこの冠が思いを遂げる帽子とされ、聖カトリーヌ祭が開かれるようになりました。現在、パリモード界に受け継がれ、毎年開かれる各メゾン主催のパーティのクライマックスは、帽子のコンテストとなりました。16世紀中頃のヨーロッパでは、未亡人の帽子と呼ばれるハート型の帽子が登場します。これは、未亡人となったフランス人の二人の妃が好んでかぶったためそう呼ばれます。それと一緒に、禁欲的なイメージを持つマントやコートも着用されるようになりました。未亡人は、二年間髪を覆い隠し、再婚しない限り黒いマントを着用し喪に服し続けました。他人に顔や姿を見せないようにすることが、亡き夫への貞節の証だったのです。
次に幸運を招く帽子には、青い帽子があります。ヴェネツィアでの花嫁は、地中海を思わせるようなコバルト・ブルーの帽子をかぶっています。昔から「青い鳥」「青い花」といった青には幸せや理想を象徴していると言われます。このように青い帽子は、自分と自分を祝福してくれる人に幸せがやってくるようにという思いがこめられているそうです。
次に幻の帽子ですが、17世紀にビーバーの帽子が大流行しました。そのためにビーバーの生息数が激減し、深刻な問題となりました。そして姿を消すという運命をたどることとなったのです。大航海時代が生んで新しい時代の波にかき消されたビーバーの帽子は、幻の帽子となったのです。
次に差別の帽子ですが、16世紀半ば以降のイギリスでは、ベレー帽というのは「町民の帽子」として広く普及しました。エリザベス1世の時代では、中産階級の七歳以上の者は日曜と祭日に帽子を必ずかぶるように義務づけられていて、違反者には罰金を科するという法律が制定されました。ルネッサンス期のヨーロッパでは、階級によって就く職業が決められていただけでなく、職業ごとにかぶる帽子や色も決められていました。例えばフランスでは黒が貴族階級の色でした。また、イギリスでは白い帽子も身分の高い婦人にだけに許されていました。
次に宿命の帽子についてですが、これには「キャロット」という「ロミオとジュリエット」でジュリエットがかぶっている半球型の帽子で真珠の純愛帽子と呼ばれる帽子があります。これには、いくつもの真珠がちりばめられていて、純愛を象徴するかのようであります。この頃、真珠をちりばめたキャロットに熱をあげていたのは、貴族の若い娘たちでした。そして、古代ローマ時代には、結婚式の前夜に、頭にかぶって眠りについたという赤い糸を編んで作ったヘア・ネットの前夜の花嫁帽子というものがあります。また、花嫁は炎のような赤か黄色のベールを着用しました。赤とは、悪霊を寄せ付けない色とされていました。そしてカトリック教徒では、花嫁のベールは白か紫でした。映画「ロミオとジュリエット」でも、礼拝堂での二人だけの結婚式にジュリエットが薄い紫色のフードをかぶっています。現在では、純白または白に近い生成り色のベールが多いです。教会で女性がベールをかぶるようになった理由は、1世紀頃から、キリスト教会により始まりました。女性の髪は淫らなものとされ、教会に入るときは必ず、髪を覆い隠さなければいけないとされました。以来、カトリックの宗教的な集まりの席では、女性はベールをかぶるのが鉄則となりました。次に18世紀末に「二角帽子」(黒いフェルトやビーバーの皮でつくられている)で民間や軍隊で最も好まれたナポレオンの帽子があります。18世紀、男性の帽子の主流とは、「三角帽子」といわれるものでした。これは上流階級のしるしとされ、普段はわきの下に抱えて持ち歩く折りたたみ式となっていました。18世紀の下層階級の人々は、エッジを巻き上げない帽子をかぶっていました。18世紀の末には、先ほどあげた「二角帽子」が人気となります。今日でもフランス、イギリスの海軍の上級士官たちの帽子として残っています。
 
 
帽子とマナー
かつてヨーロッパでは、紳士を見分ける方法がありました。{もし、その人物が家の中に入ってきて、帽子を脱ぐようなら真の紳士である。帽子を脱がないのなら、紳士のふりをしている男である。そして、帽子をかぶっていない人物は、紳士のふりさえすることをあきらめている男である}と判断されました。そして、19世紀の帽子に対するエチケットが3つあります。①知人に会ったときはとる、②女性の前では脱ぐ、③車を運転している時に知人に会ったときは持ち上げてみせる、といった3つがありました。そして、ヨーロッパの習慣では、たとえエレベーターの中であろうと男性の場合は、室内では必ず帽子をとらなければいけないとされていました。しかし今では、帽子を「脱ぐ」というのは、「くつろぐ」といった意味になっています。今回帽子のマナーについてもう少し調べてみました。広辞苑を見ると「脱帽」の意味として、1.敬意を表すために、帽子を脱ぐこと。2.比喩的に(その相手には、とてもかなわないとして)敬意を表すこと、とありました。
帽子はかぶるものですが、脱ぐときにその人の人品が問われることになります
 
 
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ノーコメント
 

在所 ついこのあいだまであったってことを知っているだけでいい、ヒントになる

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なぜ?と考えてもいいし、へえで終わってもいい。
 
 
 
人間はそういうもんだと知っておいて、
 
 
 
歴史は見える。
 
 
 
知っておいたほうがいいが、あえて声高に言うことはない。
 
 
 
そのほうが分かりやすくなるのが古代史。
 
 
 
なぜなら古代史は西日本の、特に北部九州と関西地区という、それこそ古いの歴史
 
 
 
だからである。当然、そこには「敗者の歴史」がある。
 
 
 
竹田は竹細工地名。
 
 
京都の竹田には羽束師がある。
 
 
 
 
 
これ以上はノーコメント。知るも知らぬも、あなたの知識欲や人生観次第。
 
 
 
 
ジュリーの歌を扱っていったって、いずれ、芸能や音楽のすべては
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そこにたどり着かざるを得なくなる。それが古墳のそばにあるってことも
 
 
 
 
 
 
 
 
やってたら気づかないやつの方がおかしい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いや、人の生き様とはすべからく悲しく切ない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
切ないのだ、歴史とは。
 
 
 
 
 
 
 
 
それが見えたら、ようやく、あなたもぼくも歴史の第一歩に踏み込んだことになる。
 
 
 
 
そんなことは教科書には書かれていない。
 
 
 
 
 
 
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天の鳥船の歌

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Irish Roses: Women of Celtic Song-The Skye Boat Song
 
 
 
 
 
 
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もう何も言うこともない
ただ
感じればいい
そう
それがむかし
 
 
 
 
 
 
 
感じる
それが最もてっとりばやい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
感じない?
では
探せ
キミが感じられる何者かを
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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日々 吉田山田/あるがままの難しさ

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特にこの曲でなければばらなくはない記事。
むしろなぜこの曲に、今の日本人の多くが共感してしまうかが気になる曲のひとつ
つまりこの国はまだ平和であり、そしてなによりも今、身も心も崩れ去ろうとしているということかも知れない。少なくともこの楽曲の使用しているコードにはだが、日本人の琴線を動かすノウハウがあることは認めるが、安易な「逃避」しか感じられぬ。売るためにはうまい曲に仕上げてある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
あるがままとは心の開放ではないかとこのごろ思う
 
 
 
 
 
町田樹というスケーターの演技を見ていると、とても固い。
 
見るものをしなやかに開かれた世界へと導かない。
 
氷上の哲学者だと人は言うけれど、なぜかがんばるほどに演技が萎縮する人だ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
哲学はスポーツに必要がない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
愛や同感の心をうまく表現できないものはたくさんいる。
 
 
 
 
 
 
 
 
肩肘を張るからそうなる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「俺は」「あいつとは」
そう思うから意固地になる。依怙地になるから肝心なときにうまく愛を表現できなくなる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本人の中ではあふれかえるほどの慈しみの心が満ちているけれど、それを上手(じょうず)に出せない。
 
 
 
するとまるでチンピラように人から見えることになってしまう。
 
 
 
 
 
小さなやくざにすらなれず、人と自己を比較し、「なぜ?」の煩悩に囲い込まれてゆく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本当はまっすぐなはずの思いは、いつしか捻じ曲がる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そういう人は山ほどいる。ぼくもそういう人になっているときがある。
 
 
修正するためにどうするかを考えてしまう。
 
 
 
 
 
 
 
 
修正しようとする必要はない。
 
 
 
 
 
 
こころに
 
 
 
 
 
うまれながらの慈愛があるのなら
 
 
 
 
 
 
いつのまにかそれは修正されていく。
 
 
 
 
 
人は何かで生きていこうとする。
 
それはその人の自由である。
 
なんで生きようとそれはかってだ。
 
それを否定することなんか誰にもできはしない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
たとえ悪事や株やサギや保護で生きていようと、それに石もて打つ権利等、誰にもない。
 
 
 
 
 
 
ただ、ぼくはぼくの道を歩く。そこには阻害など存在しない。
 
 
 
 
 
 
その道はゆがみ、下ってゆく
 
 
 
 
 
けれどこころはどんどんと登ってゆく
 
 
 
 
 
 
そう、思えばいいのだ。
 
他人がどう生きようが、関心はない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
素直にただ
 
 
時の過ぎるのに身を任せていたら
 
 
いい。
 
 
 
 
 
 
あがらわずに
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なにをあせるのだろう?
 
 
 
 
 
 
 
何をひきくらべ、卑下するのか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そんなことなど自分さえちゃんとしていればないのも同じである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

筑紫は「ちくし」である

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筑紫の読み方について、以前は「つくし」であると書いてきたが、それは中央史観の「尽くす=極限」、魏志の「極南界」を信じ込んできた筆者のあきらかな間違いで、倭人伝には「竹志」ともあるように、「竹」の音に素直に「ちく」と読むべきだったのだ。
 
はっきりさせておこう。筑紫は「ちくし」が正しい。
 
 
 
 
参考 森浩一『敗者の考古学』
 
 
 
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ヨナ抜き音階の海洋民族性

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「前回の音楽を中心と した論考において, 小泉文夫が日本の4種類の音階 について、 明治の初めの段階ですでに発見されていたのにそのことについて触れていないのは不思議だと述べた部分があるが、 その後、 彼の書いた論考の中に ちゃんと触れているのを発見した。 しかもそれを(彼は)批判しているのである。 筆者の不明をここに修正しておきたい。 また日本語の構造特性から他の諸言語では, 詩形が頭音量および脚韻によって枠組みが構成されているものが多いにもかかわらず, 日本語の詩形はシラブル(音節)数によって構成されている事を追記しておき たい, ちなみに, イ蓼候句は5, 7, 5であり,短歌は5, 7, 5, 7, 7 のシラブル配分によって構成されている。 またかって庶民によっておおく歌われた都都逸は, 7, 7, 7, 5である。
 
なお音楽に関して もう一つ追記するとすれば、義務教育段階における音楽教育の変化についてである。
 
最近になってやっと文部省は義務教育段階における音楽教育に関して, 本来の日本の音楽に関しても教育しておかなければならないと考えるようになった事は, すでにご承知のとう(お)りであるが、 聞いて見ると、日本の音階として、 レミソラ ドレと言う風に教えているようである。しかもこれをヨーロッパ音楽の音階であるドレミファソラシドと対比すれば、ファとシの音カぎ抜けている事をとらえて、ファが第4音でありシ(導音)が第7音であるところから、 四七 (ヨナ) 抜き音階とも呼んでいる。」()内、編集はKawakatu
 
 
 


 
 
日本の民謡とケルトの民謡には「ヨナ抜き音階」という共通性がある。
代表曲はこれであろうか。
 
Julie Andrews Sings Auld Lang Syne
 
 
 
 
 
ヨナ抜き音階とは
「四七抜き音階」とも表記し、ヨナ抜き長音階を西洋音楽長音階に当てはめたときに主音(ド)から四つ目のファと、七つ目のシがない音階(ドレミソラ)のことである。雅楽の呂旋法がこれに当たり、西洋音楽関係者が日本音階の特徴として名付けた物である。なお、ピアノなどにおける黒鍵部分の5音にも相当する。
 
 
 
昔は西洋の音階のドレミを、日本では「いろは」で表し一番目のドを「い」としていた。すると「ヨナ」はドレミの四番目のファと七番目のシのことになる。四七を抜いた音階のことである。言い換えれば日本には西欧の半音がなかったということになる。長唄とか謡曲にはファとシはない。いやなかったというよりも、半音よりももっと微妙な音階を使って音楽を表現していたというべきである。雅楽の音階のように楽譜のない、ファジーな音階である。滝廉太郎の「荒城の月」を楽譜どおりに歌うときの、あの難しい四分の一半音のような・・・?わからんかなあ。「花の宴」の部分なんだが。とにかくすごいことなのだねそれは。NHKドラマ「坂の上の雲」で広瀬中佐のところをちゃんと見た人ならわかると思うが。そういう民族はないのねほかに。
 
 
正しい「荒城の月」
 
 
 
 
ケルト民族と日本民俗の共通性は海洋民族であることだろう。
琉球の音階のようにド・ ミ・ファ・ソ・シだけで構成される音階も五音音階で日本の独特の音階の中に含まれる。こうした使用音階の特徴は長い年月ほとんど変化しないでやってきたものなので、貴重な、しかも民族文化の基層部分を明らかにする大事な民俗学的史料となる。
 
 
 
次回、ではなぜ海洋民族がヨナ抜き音階を持つにいたるのかを、民族の共通性や歴史の類似から語ってみても・・・いいかな~~~~?すごい発見がそこにはあったりして??
 
ああ、目から鱗を落としたいねえ!
 
 
 
 
 
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クリスマスとは夜大いに励む冬至祭である

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クリスマスとは冬至祭のことです
初期キリスト教徒は一月六日を、「キリストが洗礼を受けた日」=「救世主が世に現れた日」=救世主キリストの誕生した日「主の公現」としていた。そののち、「イエスは生まれながらに救世主であった」という解釈から 1月1日が誕生日に。一年の始まりが太陽暦の正月元日なので、創始者イエスの生誕をたまたまこじつけただけ。

そして、ニケヤの公会議(西暦三百二十五年)で、 キリストの誕生日を十二月二十五日と決定、 教皇ユリウス一世が「イエスの誕生日は十二月二十五日である。」と布告し、 キリスト教国全体でこの日を降誕祭として祝うようになった、という経緯がある。クリスマスが十二月二十五日に祝われた最古の記録は、三百五十四年と言われている。
 
なぜ12月25日にしたかというと、そもそもの12月25日は、ミトラ神の生誕日だった。ローマ帝国にミトラ教が伝わったのは、 ポントゥス王国がポンペイウス率いるローマ帝国海軍に敗れたとき、捕虜になった兵士から一気に流行した。そのミトラ教の神の誕生日を、ローマがキリスト教を取り込んで、世界征服のために利用し、欧州全土に無理やり広めたときに、ミトラ神の誕生日と北欧諸国の冬至祭の時期が近かったので、12月25日を代用したわけ。だからイエスの誕生日はクリスマスの日ではないことは確か。キリスト教による欧州世界の統一をもくろんでいたローマ帝国の政治的戦略のひとつである。
ましてイエスが紀元元年の誕生であるのもうそで、事実は西暦3世紀の生まれ。誕生日説にはこのほか3月、4月などもあり、これは春が古代の一年の始まりだったからのこじつけ。
ここまでの参考サイト http://www.pleasuremind.jp/COLUMN/COLUM002.html
 
 


 
 
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今朝の初雪。九州だって雪は降る。暖かい太平洋側にもちゃんと雪は来る。今は空は真っ青で雪はあっというまに消えてしまったが、北部ではかなりの積雪。地形の生み出す不思議である。季節風は太平洋側には普段は入り込まないが、今回は一時的に冬将軍が南下して瀬戸内まで入り込んだため大分市でも積雪。「九州はあったかい」?冗談じゃありません。盆地や山間部は冬の間中雪に閉ざされているし、九州の北側西側は季節風を直接受けていつも寒い。あったかいのは宮崎、大分南部、鹿児島東部の、しかも平地だけですぜ。山は真っ白だ。冬はどこにいっても冬ですよ。沖縄だって14度くらいでもコタツ出してダウン着ているんだからね。
 
 
 
 
 
さて、異教徒である日本人にとってのクリスマスはどう捉えたらいいのだろう?
一番簡単なのは神道にちゃんとある冬至祭だと捉えること。これは北欧や世界各地に残っている古い冬至まつりのすべてに共通するので一番ふさわしい。つまり12月の下旬から正月を経て春分までの期間に往古から世界中で執り行われてきた古代の伝統的民間信仰である「太陽神の祭」だと解釈すればよろしかろう。
 
特に海洋民族である古代ケルト民族=原ヨーロッパ民族(日本で言うなら縄文人や海人族、人類起源でいうならわれわれ新人の前に栄えたネアンデルタール人みたいな存在。あらゆる欧州人の遺伝子の大元・基層にある原種民族のひとつ)はもともと冬至と夏至を強く意識した原始信仰を存続させてきた。それはなぜか東西アジアの原種民族にも共通する新興なので、そもそもは人類発祥の土地であるアフリカから西アジアに最初からあった人類最古の信仰だったと言えるだろう。
 
つまり農耕儀礼、狩猟儀礼に関わる食べること、生きていくことのサイクルを左右してきた人類史60万年の経験が作り出した太陽カレンダーを基盤とした宇宙信仰である。だからキリスト教・道教・仏教・ヒンドゥー教・回教のような、あらゆる新しい宗教の共通基盤になっているものだ。これこそが全人類共通の絶対唯一神だとぼくは考えている。世界の教義宗教のすべてはこの原始信仰のカレンダーの上に乗っかって、それを修正しようとして生まれてきた新興宗教なのである。

クリスマスという名前は「キリストのミサ」の略で、中世、あのマルティン・ルターの宗教改革の一環で、冬至祭はキリストの誕生日であると変えられたと考えていい。ドイツ人が考え出した。あの厳格な民族である。ここは朝鮮民族とよく似ていて、外から来たキリスト教を一旦取り込んでしまうと、先祖たちが信じてきた太陽信仰の神を完膚まきまでに自分の手で消し去ろうという厳格主義者ならではの手法で、ローマなどより数段キリスト教を徹底的に受け入れてしまうのであろう。朝鮮民族が中国に迎合するあまりに儒教の権化となったように。
 
ハイテンション民族特有の本家を凌駕する徹底したコピー貫徹主義である。ドイツ人のその潔癖性は、千年後にはキリストを告発したユダヤ人の迫害へと向かったのであるから、まず間違いない。つまり人類の特性のひとつとして、一旦新しい概念・観念を受け入れてしまうと、押し付けた側がいつかは困ってしまうほどに徹底して真似をし、真似た挙句にそのよそ様の概念・観念の、今度は盟主にまでなってゆく、というものがあることがわかるだろう。
 
ミイラ取りがミイラにどころか、ミイラ製造メーカーになってしまうようなものである。これは日本人の戦後の西欧文化のコピーにも見ることができる傾向だ。本家欧米を上回ってエコノミック・アニマルと化し、ついに自動車産業ではトップになってしまった。自分たちが何十万年持ちながらえてきた伝統的原始信仰を捨て去り、押し込め始めると、本家のカトリックキリスト教の狭義解釈まで改変したのがルターであり、ピューリタンである。その子孫の国家こそはアメリカ。その最重要産業である自動車産業を略奪したのが日本である。オモシロイ。

日本人が真似したクリスマス。そもそもは冬至祭りだった。だから25日に関わらず今月末ならいつだって祝っていい。そして冬至祭の太陽信仰の根源にあるのは生命の再生、祖霊の復活、つまり子作りなんであるから、現代日本のクリスマスにはエッチ・・・というのはあながち間違った選択肢ではないことになっちゃうんである。クリスマスにはどんどん励め。弘法大師も仰っている。「真言の仏の奥義は男女がまぐわうごときもの」。

いざ励め。さらば救われん。信じるものはいざ励め、なのである。オーイエス。
 
 
 
 
 
 
 
 
横浜の「九州の文化を楽しむ会」の菊池さん、「全国邪馬台国連絡協議会」資料と別冊宝島「邪馬台国と卑弥呼特集」とどきました。いつもおおきにね。会費いくらでしたっけ?
 
 
 
 

 
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すべてすっきり解明STAP細胞問題

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STAP細胞はなかった。
ないはずである、S教授の仕込んだ細胞をそれと知らずにSTAPと思い込んだ小保方の「思い込み」だったのだから。
 
始まりはS教授の一方的な小保方偏愛、バックアップ開始からだった。
その頃から教授は理研内で仲間に「俺は小保方晴子を徹底的にバックアップする」と公言していたほど小保方のとりこになっていた。つまり恋は盲目。しかしその偏愛は不倫であった。ゆえに彼が小保方研究室内の冷凍庫に保管してある試験管に、ESPのごときすぐに反応するものを混入させていることは、当初、小保方はまったく知らずにいたのであろう。論文もS教授のネーミングと巧妙な記事の改変で欧米でも受け入れられてしまった。これが小保方の嘘の始まりである。「STAP細胞はあります」そう言ったあの会見のときまで、彼女はまだ完全にそれを信じていたのだ。だからはっきりと「ある」と言ってしまった。それが彼女とS教授の悲劇である。
 
だが、この事件の最重要な部分である「なぜ?すりかえられ、なぜ、教授は自殺したのか?」の追及を、いったい今後誰がやるというのだろう?答えはもう出てしまっている。細胞はなかったし、論文捏造の本人は死んだし、これ以上の解明は教授の家族には地獄、小保方の未来も地獄にしてゆくだけである。
 
 
 
この問題はこれで充分。完全解明されたと筆者は考える。
 
 
やれ二人ともうそつきだ、人間としてどうだこうだ、そういう低次元な声がネットにあふれかえってはいるけれど、そういう空しい個人攻撃になんの意味も存在しない。慈愛のない人々は各論や攻撃を好むが、人間とは生きていかねばならず、さまざまな間違いを犯すものである。最重要な鍵はこの場合、誰が嘘をついていたかではなく、人が人を愛してしまうその切なき「魔が刺す」背景である。これは科学のこむづかしい論理等とは無縁の、人間ドラマだったということなのだ。
 
 
 
いずれ十数年先に、忘れた頃にSTAPは別の名前で登場し、それは理研の名誉挽回の一手として今後内密に研究が進められるはずである。
 
 
 
こうしてひとりの権威的教授とひとりの女性研究者の生命は絶たれた。死んだものには家族があり、生きたものにはこれからの将来がある。これ以上「誰が石もてふたりを打てる」だろうか?権威と名誉の裏側に起こった切ない悲恋としておくのがよいではないか。刑事ドラマではないのだから、あえて悪人を仕立てる必要等ない。ひとつの面白く興味深い知的なドラマが今、終わったのだ。よくできたメロドラマだった。事実はまさに小説より奇なり、である。
 
 
 
 
 
 
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易経二十四節季

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『易経』に曰く、
「天文を観てもって時変を察し」
「天文を観、俯してもって地理を察す、この故に幽明の故を知る」
 
=日月星辰の位置や動きから季節の移り変わりを知る。=暦法
 
 
食べてゆくためには収穫や狩猟採集に最適な時期を知る必要場あり、そのためには暦を知る必要がある、ということである。つまり地上の周期的変化を自然現象・・・つまり宇宙の摂理=神=天がそれを知らせるのだという考え方である。
 
 
 
また、
「天象を垂れ吉凶を見して」
 
=天は天文現象を通じて将来の吉凶を知らせる=占星
 
 
 
このように天文にはカレンダーと未来予測という二種の天啓があるとしてある。
この二つを把握するものが神の代弁者としての王・人間の支配者であった。民衆は王によって支配され、王は天文によって支配されていた。これを則天武后前後の時代には天皇(てんこう)とも言う。
 
 
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これを陰陽=日月、と五元素=五行の相関関係によって把握しようとしたのが中国古代である。これを暦法といい、陰陽五行説と言う。その中に二十四節季がある。
一年を十二の節気に区分し、その中間点に中気を置くことで全体で二十四の気に分配する。
 
二分二至(春分・秋分と夏至・冬至)
四立(立春・立夏・立秋・立冬)
の八節の期日をきめるために「表」と呼ばれる棒(西欧でノーモンという)を立て、影の長さによって太陽の高さを測った。つまり日時計である。
 
天の運動を客観的に観測し、その法則を求めることで、一年の予測を立てる。そのほかに動植物の生態情報もここに加えより緻密な予測にしていた。天の規則的な動きを受動的に捉え、王は天の法則にしたがって為政者となった=天命 とする。ゆえに王は「天子」であった。天の摂理を科学する・・・つまり統計学である。過去のデータを積み重ねて、未来を予測したのだから、今の気象学となんら根幹は変わらない。
 
 
支配者たる天子は、神の命=摂理を受けて政治を行った。つまり王とは宇宙の摂理が指名したと考えたのである。
 
占星術は反対に、天の摂理を積極的に受け入れようとした。異常事態、天変地異を過去のデータから予測し、王に奏上せねばならず、ゆえに国家機密であった。だからこそ、どんなに小さな異変でも記録されたために、現代天文学の「何年ぶりの」という表現を可能にした。天の動きを過去の動きから前もって予測するのが占星術である。国家や支配者の運命を天の異変から占うことを公的占星術=天変占星術と、誕生月の星の位置から個人の運命を占う宿命占星術=ホロスコープ占星術とがある。前者はアジアで、後者はギリシアで広まった。前者は天の異変に注視し、後者は星の規則的運動を注視する。これが西欧の科学・哲学とアジアの道教の相違となる。天を律する宇宙神は、アジアでは人間社会を動かす災害神となり、西洋では時計職人のように規則的運動を律するインナーな征服者であった。
 
 
宇宙が時計仕掛けであるがために西欧では客観的科学が生まれたが、東洋では主観的易経として大成したのである。
 
 
 
参考文献 池内了 『宇宙論と神』2014
 
 
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なぜ科学はアジアで発達しなかったのか?

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インドでも中国でも、ギリシアのような客観的科学が発達した気配は見えない。人類が今のバングラデシュあたりで東西に分岐して、双方、同じように宇宙の摂理が神であることに行き着くのに、なぜかアジア人は自然科学を持たないでやってきた。
 
 
中国ではその神としての宇宙をあいまいに「天」としただけで、その構造や運動を一切論じていない(例外はある)。二十四節季にも書いたように、西欧では時計仕掛けのように正確な天動を不思議として、徹底的に天文学を発達させた結果、数学と化学が発生した。あれほどキリスト教に熱心な人々が、12世紀以後に天動説を捨て、地動説へと大変換している。これが欧州史の中世から近世への大転換の画期となったことは間違いない。ガリレオ以前、以後でそれほどの観念の違いが生まれた。
 
中国にも宇宙構造を論じようとしたものはあるにはある。
「蓋天説」や「渾天説」であるが、せいぜいどれもこれも子供の稚戯のごとき荒唐無稽で主観的な論でしかない。
 
インドにはかの『リグ・ヴェーダ』があるがこれまた観念的で、具象性は皆無である。
 
日本となると、もう完璧に星も月も恋愛や情緒的な抒情詩の対象でしかなく、宇宙そのものに言及する散文等一切登場しなかった。奈良も平安もあったのは基調学ではなく陰陽道という占いの司だけである。江戸時代まで西欧的な気象学はない。あるのは天変地異の記録ばかり。
 
なぜか?
 
 
人類が分岐して東西へ分かれたあと、到着した場所の広さに圧倒的差があったからではないか?
 
ヨーロッパは狭い。すぐに突端へ行き着く。しかしアジアは広大で、行き着いたベーリング海からさらにアメリカ大陸まで移動の道は延びている。
 
 
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つまり定住の速度が東西であきらかに差がある。
言い換えればアジア人にはアドベンチャーする広大無比な土地を山ほど持ったために、冒険することで枚挙にいとまがなかったことになる。農耕と定住がヨーロッパより遅れたのはひとえにアジアの広大さにゆえんがあるだろう。
 
一方、欧州人は西アジアですでに簡便な耕作で済む小麦を手にし、狭い方向へ移動拡散していった。小麦は農作が簡単である、荒れ野に種をまき、水やりするだけ。しかしアジア人が手にしたイネは、大変な重労働と半年以上のつきっきりの管理が必要。これでは哲学するひまもなく、まして宇宙の摂理の分析などと言う「おたく」な作業のひまがなくなる。しかもそれぞれの穀物の調理時間にも大差があった
。米の調理時間はパンの調理時間と明確に異なる。いっぺんにたくさん焼いておけばいいパンと、三度三度炊かねばならぬ米の差は、あきらかに時間の余裕、余暇に大差がつく。それだけアジア人の女性は一日の大半を飯炊きに追われてきたのである。これでは男女平等もなかなかはじまるはずはない。
 
主食に時間をかけないで済んだ欧州では、酒を飲み語らいあう時間が多かった。夜通し空を見上げて話すことは、「なぜ天空は、なぜ星は」である。「なぜ」。このなぜが観念的宇宙観からやがて緻密で詳細な顕微鏡的原子・分子へのインナートリップの始まりとなった。しかしアジア人たちはいつまでも観念的にしか天空を見上げない。自分達の移動のための道具でしかない。天の星星がどこにあるとき自分はいま、どこにいるのか?実はそれはケルトなど海洋民や、ラクダでの移動を恒とした民族特有の山あて、星あてのノウハウである。そして一番重要なことは、それら天や自然が荒れるのはいつなのかである。だから気象の異常を予測することのほうが大事だった。
この役にたたないことへの興味、「なぜ?」を考えるゆとりを持つのがアジアは完璧に西欧に遅れた。科学の始まりは金にならない不思議の研究から始まったのである。
 
 
 

 
 
科学者は、最初、まず科学とは神を否定するところから始めるが、分析してゆくほどに神の存在を意識するようになるのだという(池内了2014)。
 
そして科学は神を遠くへ追いやってゆく宿命をもつが、進めば進むほどに神は上昇し、宇宙へと遠のいたように見えて、必ず新たな難題をふきかけてくると感じるのだと言う。
 
アインシュタインは「神はサイコロ遊びはしない」と豪語した。つまり神の行いには必ず摂理があり、その摂理を人類は解明できると言ったのである。しかし「神はサイコロ遊びがすきかも知れない」と言い返す学者(ボーア)もいた。これはつまりアインシュタインの相対性理論VS既存の量子論の象徴的言辞であるという。だが、神はどちらが正しいとは絶対に言わない、どっちでもいいとしたままである。
 
科学とは事象を切り刻み、細分化する学問である。西欧科学は時間が一定方向へ進むように、人類も絶対後戻りしないという信念のもとに始まる。一定の法則=摂理は神のようなあいまいなものの規則ではなく、自然の法則、宇宙の法則の方程式があるのだと決め付けるのである。だから必死にその方程式をまさぐってきた。そうすると解明されれば解明されるほどに、神と言う存在なしにはそれは起こらないのではないか?との疑心暗鬼にとらわれていくのだ。これで決定!と叫んだ夜に、もう眠れないのである。「あれ?やっぱりこの部分は神かな?」と思い始めるらしい。ということはまだまだ科学には先の余白が山ほどある、言い換えれば将来があることになる。
 
 
ノーベル賞は昨今、実利的・・・金になる・・・研究に賞を与える傾向にある。なぜなら・・・おかしいとおもわないかい?ノーベルの資金源であるダイナマイトから得られる資金は、いったいどれくらいあるのだろうって。毎年何人もの受賞者に大金を出すほど、ノーベルに資産があるのだろうかって。資金源が少なくなれば、当然、賞は経済に関わる実利的研究へ向かう。企業からの献金が期待出来るからだ。そういう意味で、われわれが理解しやすい、目に耳につきやすい学問は、「役にたつ」科学ではあろうが、実は宇宙論や哲学のほうが、世界を大きく動かす根本論理なのではなかろうか?それが実存以後、古代や中世のように目立たなくなったのは、神を「もうわかった」としていこうとし始めてからなのだ。信仰を追いやり、暗闇をLEDのようにぎらぎらと照らし出し、神を地球から追いやっていこうとするのが科学である。そしておごったあげくに大自然に仕返しされる。戦争を生み出し、遺伝子を操作し、試験管の中から子供を生もうとする。いきつくところ、必ず神はサイコロを振り、しっぺがえしをしてきた。殺虫剤でも死なない害虫、ワクチンが効かない病原体、ウイルスを次々と生み出す。ひとつの種がほろびれば奇天烈な実験?新種を作り出す。それが摂理である。まだまだ人類は神に翻弄され続ける。いや、実は神のしっぺがえしは最近では十倍返しどころではなくなってきている気がする。そうは感じませんか?諸君。
 
 
 
 
 
次回はクリスマスにちなんで再びケルトについて。
 
 
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クリスマスカード

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来年はちょっとブログ以外でもがんばるつもりです。
 
 
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[転載]ハタの民とは

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「ハタ」の氏族を、古代の日本人はどう捉えていたかというと、「波多」「はだ」の人である。
「はた」「はだ」とはなにかと言えば、浪を越えてやってきた帰化人のすべてである。

ヤマトの葛城山山麓には、もともと弥生時代から葛城の民が住まっており、彼らと久米・阿曇・
隼人らは同族関係を結んでいた。葛城が北部九州からやってくるとき、南部九州の海人族を頼ったからである。葛城や鴨が出雲系と言われるゆえんは、そもそも弥生時代から北部九州に来ていた長江渡来民が出雲を良港として入ってきていたからである。

葛城山麓には同じ武内宿禰末裔としての波多臣が存し、ふたつは同族となっている。的臣もしかり、紀氏もしかりだった。4世紀あたりに渡来した秦の民は「波多臣の祖人伝説」である弓月君を、同族化することでとりこんだ。そもそも波多臣自身が海を越えて渡来した民人であり、朝廷もまたそれら海から渡来した民を「はた」「はだ」と呼んだのである。つまり総称である。

漢氏だけが「あや」と呼ばれたのは秦とは別のものということを明確にしたいがための自称である。彼らも大きくはハタノ民なのである。

松尾神社の祭神を見れば二柱の神があって、ひとつは古くからの南九州海人族の神・大山積、いまひとつは大宝元年に勘定された宗像の市木嶋比売(いつくしま・ひめ)となっている。市来嶋姫は宗像族の報じる女神の「中津嶋」に祭られるもので、北部九州玄海灘の宗像氏一族が祭る。これは松尾の隣に月読神社があって、これを壱岐氏らが祭ったことと大いに関係がある。これはしかし秦氏の中でも中心的だった山城の葛野や松尾の秦氏だけの観念であり、つきあいである。そもそもは天孫降臨に関わった大山積の海人族こそが彼らが祭る神であった。当時の海外からの渡来に際して、もっとも貢献した舟人は本来、隼人阿曇や久米をいった南九州系海人族であり、それこそが玄海灘の海人族=あま=倭人だった。それが大宝年間までに宗像をくわえるのは、宇佐が宗像三女神を迎えたのとまったく同じことで、半島系海人族宗像氏がその時代に台頭しはじめたからにほかなるまい。

そして深草の秦氏はこれまたまったく実業・商人系の別の神である稲荷を信仰した。深草が山城秦氏の同族であったならばこうした商人系信仰を持つはずはない。ということは秦氏はひとつの氏族ではなかったことを如実に示している。また豊前の秦部の影響も宗像神の信仰に影響したことは間違いなく。これはもともと無関係だった豊前秦部を山城秦氏が秦の民と認可したためであろう。つまり鉱物氏族秦氏という通念は、ここから出てくる。

「はた」とは渡来人全般のことである。

そしてその中で「秦氏」とは、京都市北西部の山城秦氏である河勝一族だけを指すのである。







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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

[転載]稲荷と園韓 

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前記事で見てきたように京都の秦氏の祭る神社には秦氏オリジナルの神というものが祭られていないようだ。それらの祭祀の形態は先住氏族のもとからそこにあったものの取り込み、ほかの地域の神の勘定の二種類があった。

では先に大荒神=大地母神だと分析した伏見稲荷の「うかのみたま」についてもう一度考えてみよう。

◆うがのみたま
実は稲荷の神の祭神が倉稲魂・・・宇迦之御霊ウガノミタマと言い始めたのは中世になってからだそうである。『古事記』では宇迦之御霊はスサノオの子どもだとされている。
『延喜式神名帳頭註』が引く『山城国風土記』逸文では

「風土記に曰く、伊奈利と称するは、秦中家忌寸等の遠祖 伊侶具(いろぐ)秦公、稲梁を積みて富裕有り。乃ち餅を用いて的と為せしかば、化して白鳥と為り飛翔して山峯に居りて子を生みき。・・・」という有名な逸話が載せられている。しかしここには伊奈利の祭神の説明はない。どんな神なのかは「稲梁」を積んだ・・・つまり藁小積みとしか書いていない。
一般的に稲荷とは「稲が成る」だと言われている。
けれど稲荷は山の名前であり、前からあった地名である。「いなりの神」はつまり地名であって本当の神の名前ではないのだ。それで中世になってから稲荷の神とは「うが」つまり食物・コメであるとなっていった。

◆うが
「う」は「宇佐」などの宇で、宇宙、屋根を指す神・自然神を表すだろう。
「か」は「け」=毛=ミケで御食(みけつ)である。ツはなくてミケでも同じである。
豊前に「三毛門みけかど」地名がある。宇佐の手前なので御食の入り口という地名である。
豊前には上毛・下毛(こうげ・しもげ)という郡があった。「け」は食事、食べ物、転じて木製の茶碗も「笥」である。
気比の浜にイルカがうちあげられ、それが神からの「みけ」だという話がある。つまり「け」とはニエでもある。
だからこの神格は豊受とそっくりである。神の神饌を用意する神官・巫女つまり伊勢ならば斎王である。
だから「うが」も「うけ」と同じく「神のための食」という意味であろう。

とするとよくわからなくなるのは、その食を差し出す神はどこにいるのか?とならないか?
伊勢なら内宮のアマテラスに差し出す。しかし稲荷の宇迦御霊は対象がわからない。

宇賀神はヘビで女神の顔を持つダキ二天やカーリーや西王母であり大地母だと書いた。
それが倉稲御霊だと書いたのだから稲荷の神とは「うがじん」=「いなだま」=「いなり=「大地母」=「斎王」である。おそらく大王・為政者の唯一神に対して食事の世話をするのが稲荷神であろう。

◆とようけ
豊受大神は若狭の海部氏が奉さいする神で、伊勢内宮の食事の世話役だというが、海部氏は愛知県で尾張氏と同族である。ということは物部氏とも同族であろう。その祖神は天火明命(あめのほあかり)である。この後にニギハヤヒという物部氏の祖神の父親がくっつく。祖神ではない。「祖神の父親」である。ここは注意が必要だ。

この神は海人族としての物部氏を匂わせているといえまいか?
そしてホアカリ命はまた尾張の熱田神宮の祭神でもあるから、尾張氏の祖神でもある。ややこしいが要するに南九州からきた南方縄文系海人族の神なのである。そして豊受という名前で若狭の籠神社の祭神になっている。つまり若狭と尾張と石上の三者は同族であり、習合したひとつの祭神をもっていたと言ってよい。ずばり言うとそれは隼人らが祭る神であることになる。それが尾張一族と海部氏と物部氏の祖神なのだ。するとそれは大山積ということにならないか?あるいはその娘でもいい。コノハナサクヤであろうか?大山積こそがニギハヤヒ、天ホアカリなのか?これは謎である。

それはさておき、稲荷はしかし秦氏という渡来氏族が祭る。だから海人族の神かどうかはやや違うことになるだろう。ダキニとかカーリーとか弁財天とかあるいは大地母などというのはインドの外来の観念で付会であろう。あとからそうなった。どうも稲荷本体には当初、神格がない。あとから全部が全部、くっつけられた信仰ばかりではないか?つまり「稲荷の神」そのものは大王を助けて補佐する官僚としての意味合いしかないのではないか?それが「宇迦之御霊」ではないか?

天皇家のアメテラスにはすでに豊受が存在する。では秦氏の稲荷は誰を補佐し、食事の世話をするのだろうか?尾張氏、物部氏、海部氏たちはやがて不遇の時代となる。すると稲荷はとってかわっているだろうか?表立っては何も変わってはいない。伊勢の外宮の神は今もまだ豊受大神である。
稲荷とは誰の世話役なのか?どうも秦氏には神祇の理屈が通用しない。つまりそれは形骸化したものか、そうでなければ仏教の神への供物係りだとしか見えない。

◆園神・韓神
「そのかみ・からかみ」という言葉は『古事記』でこう説明されている。

「大年神、カムイクスビ神のむすめ、「イノ比売」を娶りて生める子は大国御魂神。次に韓神、次に「ソホリ神」。次に白日神。次に聖神。」

「園神」がない。いや「ソホリ神」というのが正体不明ゆえにこれが園神かも知れない。
つまり「その」とは「ソウル」である。半島の宮都。それは「そほおり」「くじふる」と同じく聖なる場所という意味がある。すると園韓とは朝鮮の聖地という意味になる。

対して中国の聖地ならば漢神だろうか?京都に綾部、園部という隣接する土地がある。

◆『江家次第(ごうけしだい)』平安時代
「園韓神の口伝が言うには、件の神は、延暦以前からここにあって、遷都の時、造営使がよそに移そうとしたら神託があって「まだここに鎮座して帝を鎮護したい」と言ったという。それでその後宮内省に鎮座した」

つまりやはり宮都と天皇を鎮守する外来の神だということになろう。
都そのものだと言ってもよい。首都を護る渡来人の地霊でもあろうか?

平安遷都の前から京都にあって、山背を守ってきた渡来の神・・・・つまりそれは秦氏の神のことではないか?

「大内裏は秦ノ川勝の宅」(「拾芥抄」)

つまりこの神は川勝の屋敷神かも知れない。それが平安京の前から今の内裏の場所にあって秦氏をも持ってきた・・・。これが秦氏のオリジナルの神だろう。それが屋敷を護る地主神である。
残念ながら平安京大内裏は消失してしまったので、真偽は不明となった。

ただ京都には地主神社は存在している。じしゅじんじゃ。
しかし秦氏が祭ったのかどうかは知らない。

秦氏の神とは行っても地主神であるから祖霊を祭っていたかどうか不明でもある。

そもそも山城秦氏に祖霊を祭る神社はあるのか?
秦氏はほかの氏族の信仰に仏教を習合させることを目的としていた。それこそが新しい国家神としての仏教を広め、国家の基礎を仏教の国家観念でまとめるための渡来人である。だからこそ、最初やってきたのは氏族管理者としての「秦氏弓月君」たちであり、その手下たちはまず豊前に置かれ、吉備から播磨ときて葛城に置かれる。山城に入ったのは管理者としての秦氏第一グループつまりリーダーだろう。技術者はあとから葛城襲津彦が連れ帰るのである。各地に残って開拓を始めるのは葛野や深草秦氏とは別部隊であろう。

宇佐の八幡神は最初、香春岳に祭られた辛嶋氏たちの、新羅の「カワラの神」だという。それが仏教と習合して宇佐に移動し、八幡神となり、宇佐の在地神・比売神を取り込んだ。そして応神天皇という天皇家・伊勢とは別の王家がそこに習合する。それは秦氏の既製品である八幡を朝廷の中臣氏・藤原氏があとから取り込んだためである。カワラの神は渡来工人としての秦人が信仰してきた民間レベルの荒神であり、鍛冶神だと言える。中央秦氏の信仰であるかどうかはわからないのだ。

秦氏にはやはり神はおらず、それはインドのダキニ、つまり人の心臓あるいは肝臓を食う工人たちの荒神信仰しかなかったのではあるまいか?秦氏のオリジナルの神とはなんだったのだろうか?

広隆寺にはマタラ神という仏教のうしろ戸にいる暗黒の荒神がいる。また弥勒菩薩もいるし、三つ目の不空ケンサク観音もいる。これらは神であるが仏教の神である。つまり管理者秦氏は基本的に仏教徒なのである。
祖神であるはずの功満王や融通王を祭った社がない。月読神社も稲荷神社も松尾大社も八幡神も、みな、別の氏族のコピーでしかない。



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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

[転載]秦氏と氏族同族化 神社の謎を解明する

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★すべて「断定はしない」と断っておく。

◆松尾大社由来
『本朝月令』
松尾祭事所引『秦氏本系帳』逸文
「秦氏本系帳に云く。正一位勲一等松尾大社の御社は、筑紫胸形に坐す中部大神なり。戌辰年(天智元年のことか?)三月三日、松埼日尾[又日埼岑と云ふ](まつざきひおorひさきのみね)に天下り坐す。大宝元年、川辺腹男、秦忌寸都理(はだのいみき・とり)、日埼岑より更に松尾に奉請し、又田口腹女、秦忌寸知麻留女(ちまるめ)、始めて御阿礼(みあれ)を立てる。知麻留女の子、秦忌寸都賀布(つがふ)、戌午年(養老二年)より祝(はふり)と為す。子孫相承し、大神を祈祭す。其れより以降、元慶三年に至ること二百三十四年。」
「次に大山咋神、亦の名は山末之大主神(やますえの・おおぬしの・かみ)この神は近淡海国の日枝の山(比叡山)に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用ひし神ぞ。」
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1601717/33/53930733/img_0?20141225231353

箇条書きすると、
1 天智天皇即位元年?  松崎日尾という山の頂上?に松尾の神降臨
2 大宝元年 (701)        秦都理がこれを松尾に移して奉祭し、知麻留女という秦氏の巫女が始めて神事を執り行った
3 養老二年 (718)        知麻留女の子、都賀布を神官として
4                以来その子孫が神官を世襲し、大神を祭ってきた

※松崎日尾・日埼岑・・・・・京都市左京区松ヶ崎?あるいは松尾山頂上?はたまた日御碕?
※胸形に坐す中部大神・・・九州宗像三女神のうち中津宮の市杵嶋(比売)命
※鳴鏑・・・・・・・・・・・・・・・・やじりが二股に分かれた、音のなる矢。カブラヤ。

まず気がつくのは神の降臨が天智即位の頃と新しいこと、分祠して祭ったのも701年と、神社創建伝承にしては随分新しい話になっていることから、松尾大社の歴史は葛野に酒公一族がやってきてから150年ばかりあとのことだということ。そもそもその元宮の所在地を未知の場所にしていること自体あやしい。

宗像の海の中の島の神が祭られたのであるから最初の降臨地もやはり海に面した岬かなにかでなかったか?筆者は出雲日御碕がふさわしく見えるが?あるいは京都市北東部には出雲氏がいたので、秦氏が彼等を飲み込んでいった結果、出雲の聖地が出てきたか?

比叡山の日枝の神は今は延暦寺鎮護として知られるが、すでに延暦寺以前から日枝神はいたことがわかる。祭る氏族は不明だが推測するに鴨一族か?この由来記は秦氏が松尾を聖地とするために、先住の氏族を取り込んで、既成の神を没収簒奪、あるいは政略婚姻で同族化した痕跡であろう。ここには秦氏自身の神が登場していない。

●つまり、秦氏にはどうも最初渡来したときから独自の神は持たない一族だった可能性がある。それは外国から来たのだから日本的な神祇信仰を持っていないということで特に不思議ではない。入植して在地の風習として同化したか?これは重要である。

確かに広隆寺は仏教寺院であるし、河勝は進んで太子から仏像を譲り受けているし、境内の中にあった大酒神社にしても秦氏がというよりも、配下の工人たちが祭った可能性がある。やはり秦氏は半島にいるときから仏教の信奉者ではあっても氏族の祖霊や神を持っていない?

なお、酒の神というのは「裂け」「避け」で開闢と「さえの神」双方の駄洒落である。
別に酒が最初に松尾でということではない。酒の開祖は「ススコリ」と、ちゃんと記録がある。
「酒公」「さけのきみ」「はたのきみ・さけ」などの「酒」も当然そう。意味は開祖、守護者、祖人。
松尾の読みは「まつのお」。
松は朝鮮で王。その尾で末端氏族の意味か?
百済王家も松を名乗る。
松は渡来した朝鮮民族のステータスだったのでないか?
地名の松島、松木、松井、松山、松田。など。勝手な想像である。

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◆『本朝月令』「秦氏本系帳」所伝
「ある秦の女、葛野河で洗濯中に一本の矢が流れてきた。持ち帰り「戸の上」?に置いていたら、夫もいないのに懐妊し男子を授かった。家族は怪しんで、やがて男子が物心ついた頃に一族郎党を集めて酒宴を催したが、このときに男子に盃を渡して「この中で父と思う人にその盃を渡せ」と問うた。男子は誰にも渡すことなく、例の戸の上に置かれた矢を仰ぎ見ると、雷公と変化し屋根を突き破って昇天して消えた。」

これは『山城国風土記』逸文の「丹塗矢伝説」つまり鴨氏の伝承とまったく同じである。

「賀茂建角身の娘、玉依日売が石川の瀬見の小川で用を足していると丹塗矢が流れてきて懐妊。父賀茂建角身はいぶかしみうたげを催し、「父と思うものに酒をつげ」。子どもは酒を天に向けて差し出すと屋根を突き破って昇天」

つまりこれも松尾秦氏が先住鴨氏を取り込んでしまった例である。
鴨氏の祭神は「雷の神」であるから、松尾にも雷神は取り込まれていることになる。
こうなると松尾大社とは秦氏の山背旧族懐柔の象徴的記念碑である。
しかし、ここでもやはり秦氏独自の神の名前はまったく登場しない。

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◆松尾坐月読神社
壱岐の月読神社の分家である。渡来するときに取り込んだ壱岐の海人族(安曇や宗像?)の神を秦氏が持ち込んだと見られる。
『日本書紀』顕宗天皇三年二月
「阿閉臣事代、命をうけ任那に行った。これに月神が人に憑いてこう言った。「わが祖であるタカミムスビが天地を作ったことがある。民地=山城のこと?にわが月神を祭れ。そうすれば福慶があるだろう」
事代が国に帰りこれをお上に申し上げた。それで葛野の歌荒樔田(うたあらすだ)に月読神社を建てた。壱岐の県主の先祖である押見宿禰が祠に仕えた。」
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1601717/33/53930733/img_1?20141225231353

壱岐県主・押見とは想像するに忍海氏の人か?
阿閉臣は伊賀国阿閉郡が在所の氏族で、おそらく半島へ行く途中立ち寄った中継地の壱岐で月読信仰を知り、感応したのだろう。それを是非朝廷の側に祭りたかったのだろう。それで壱岐の祭祀氏族がすでに葛野にいたのでお上は松尾の「うたあらだ」の地に祠を建てた。
しかしここには秦氏は一切登場しない。
ただ壱岐の海人族が松尾の近くに先住していたことが想像できるだけである。

北條勝貴は秦氏が渡来するときに壱岐で月読を知って、宗像か安曇の氏族を取り込んで連れてきたかもしれないと書いている。壱岐・対馬は重要な中継港である。そこを無事に往来するには彼等海人族の援けは不可欠。まず渡海貿易を考えれば最初に取り込んでおくべきである。それが安曇なのか宗像なのかは知らないが、ずっとあとになって対馬を秦氏を名乗る宗氏が所領とする理由もこういうところにあったのかもしれない。月読は壱岐が最も古い。壱岐の祖人押見宿禰を祭祀者にしたのであるから間違いないだろう。
秦氏はやがてここに聖徳太子の霊魂を祭った。月が太陽の影の存在で、摂政を意味するのだろう。
海上交通の神である証拠は丸い石=神功皇后鎮懐石?があることからわかる。

◆蚕ノ社
『続日本紀』大宝元年四月には月読神とともに木嶋神、波都賀志神などが並んで書かれ、中臣氏にこれらを与えたとある。それ以前に木嶋坐天照御霊神社(蚕ノ社)が誰の奉祭する社だったかはわかっていない。少なくとも当初、秦氏とは無縁である(水谷千秋)。
蚕が祭られたのは中世以降、繊維問屋の三井家による新しい信仰である。
三井家が新羅系ゆえの秦=機織り語呂合わせ由緒を求めてのことだろう。
断定はしない。

◆三柱鳥居
これは長年諸説紛々であるが。やはり三井家が置いた可能性もあると最近ようやく気がついた。この形は紡績機の糸巻きなのではなかろうか。断定はしない。
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1601717/33/53930733/img_2?20141225231353

「あまてるみたま」とは天皇家オンリーのアマテラス以前に、各地の先住氏族が祭ってきた太陽神=祖霊である。近畿全域に存在する。木嶋の場合、それが誰だったのかは難しい。秦氏に同族化した氏族で思い浮かぶとすれば、壬生、丹生、阿蘇、土師、尾張などが思いつく。「このしま」=「きじま」とするのなら阿蘇氏がここにいたのかも知れない。松前健は尾張氏の太陽神・・・(つまりニギハヤヒだろう?)と書いている。不明。とりあえず秦氏渡来以前からここにあった神社であろう。断定はしない。

ちなみに尾張氏だったとするならば、ここは丹後の元伊勢や若狭の籠(この)神社と同じ神=豊受大神?で、それがニギハヤヒ?となるか?不明。いずれにせよ海人系ではあろう。秦氏はまずもって他の氏族を毛嫌いしたり、排除したりはしない氏族であろうと思う。それは彼らが軍事武力よりも商業経済の氏族だからだ。だからこそ日本最大の氏族になったのだし、「ゆうづう」の効く、融資氏族だったといえよう。いわば銀行のようなである。氏族との喧嘩の話は皆無である。(大生部は部民だった)

これらの先住氏族の社が秦氏に同化していくのは、山背葛野に秦氏が入ってからわずか100年間のことである。どんどん秦氏の傘下に氏族は入っていった。殖産興業氏族の面目躍如である。

筆者は河勝以前のエピソードと聖徳太子関連エピソードは事実かどうか一応疑っている。河勝が実在したのかどうか、大津父がいたのかどうか?さて、とりあえずは疑ってみるほうがいいかも知れない。モデルはいたであろうが。飛鳥時代には蘇我氏とも裏で通じていただろう。さらに奈良時代には藤原氏とも通じたことだろう。秦氏はアメリカを支えるユダヤ系・イタリア系、最近ではアラブ系企業のような氏族で、表立っていくさには関与しない。つまり「なんたらの商人」に近い存在だった気がする。三菱とか三井はかつてよく似ているのかも知れない。そしてほとんどは大蔵官僚だった。官僚と財閥と仏教による祭司統一官僚が秦氏である。したたか。オリジナル神祇を持たなかった、というよりも既成の神祇・祭祀を仏教の下に取り込み、コントロールするために招聘されたというのが正しい見方かもしれない。

シビリアン・コントローラーとでも言おうか。なべつね?しょうりき?


次回、園韓神と稲荷神


参考文献 水谷千秋『謎の渡来人 秦氏』文藝春秋 2009


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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典


これから書くのはすべて封印

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秦氏研究で公開を封印していたいくつかの記事を一般公開した。なぜか。

そのうちわかる。

ケルト記事を書く前に。 
 
ただし、今後の記事は全部公開しない。
 
読みたければまずは友達にでもなるしかない。

ケルトと秦氏 エントリー一覧

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無謀だがこれからケルトと秦氏を比較する。
目次
 
1 首狩り
2 渦巻き
3 精銅
4 トルコ
5 陸のケルト、海のケルト
6 商売繁盛
 
順不同
 
 
 
 
記事はすべて一般公開しない。友だち公開で。
 
 


 
 
来年春ごろ、このブログはたぶん100万アクセスを達成するはずである。
前はそれで更新をやめると書いた。
だが予定は未定。
真央ちゃんの復帰宣言じゃないがフィフティ・フィフティ。
 
最近、新たな考古学発見もめっきり減っている。
書物もたいがい読み漁り、目新しい新発見も少ない。
たしかにそれはそうなのだが、そろそろこのブログをまとめて集大成の結果が欲しい。つまりプリント化ないしは別の発表の場である。
言い換えれば「賞トリ」にまたチャレンジしてみたい。
 
ま、どうなることかはわからんけれど。
 
 
想像するに、このブログをお読みくださっている人の中には、少しのマスコミ関係者もおられるように感じている。テレビ等で、どうも「あれ?こないだぼくが書いたことでは?」という発言を耳にすることがたまさかある。以前から、そうは感じていた。いや、別に吹聴したいんじゃない。そんな感じがすることがあるのだ。
 
だったらいっそ本にしたらばみたいなことなんだ。そもそもはここはぼくの亡備録として始めたが、中にはぼくの「かわかつ節」のファンもけっこうおられることは間違いない。だったらそろそろ答えなければ・・・。
なにしろ還暦なのでね。
 
 
 
 
 
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友だち申請に関する諸条件過去記事

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友だち申請に関する諸条件過去記事(「お使いになる前に」書庫より)
 
年末のこととて迎春の諸事で忙殺されてしまい、なかなか記事を書くに至っていないことをまずはお詫びします。
どうにか今日あたりから時間もできたゆえ、そろそろ序章を書き始めようかと思います。お待たせいたしました。
 
さて、友だち公開、ファン公開の記事がいくつかあります。それを呼んでいただくには上記の諸条件を以前から設けさせていただいております。なぜかと申しますと、ご存知のように、昨今、一方的に揶揄や誹謗、からかいなどのコメントを書く読者もあり、書く気がうせることが起こります。ヤフーブログでなければ、そのHP,ブログのURLなりを貼り付けて申請コメントしていただきたい。双方向でコメントが書きあえる方でないと承認できかねますので、お願いいたします。
 
 
Kawakatu 

たった今、序章を友だち公開

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ケルティック・クランと秦氏 序章
 
 
さわりだけ全公開しておこう。
 
「無謀にも」と書いた理由は、ケルトと秦氏では、地域も年代もかけはなれた両氏族ゆえであるが、意外 に両者には共通点は多い。ともに茫洋としてつかみどころがなく、あまりに多様な血脈の混入があり、広範囲に棲んでいた。もちろん似た部分だけをとりあげるだけなら、どんなクラン(氏族)にも共通性はあり、洋の東西でも共通点等やまほど見つけることは可能である。それではまるで「とんでも本」の秦氏(はだ・うじ)とイスラエルの民を比べる眉唾ものと変わらなくなる。似ていない部分もとりあげつつ、双方を「=」として扱わぬ心がけが必要だろう。そうした公平な視点で分析した結果、あれ?もしかして・・・?などと読む人に思わせられるなら願ったりである。
 
 
 
ケルト(Celt あるいはセルト)という言葉はギリシアではじめて記録され、意味は「隠れた」という古ギリシア語のケルトイ(Keltoi)と歴史家ヘカタイオス(BC550年頃の人)が記録してからである。あるいはガラタエとも言われたが、これはガリア地方の人と言う意味になる。とは言ってもガリア人すべてがケルトだったわけではない。ケルト民族がガリアに多くいたローマ時代までの通称にすぎない。ローマではあのカエサルも彼らを「ガリ」「ガラタエ」と呼び、ストラボンも、ディオドロス・シクルスも、パウサニアスも、名だたる歴史家はみなケルタエ=ガリア人と考えていた。
 
しかし、厳密に言えばケルトという氏族ないしは民族はあまりにも移動した氏族で、移動先の原住民族との混血が多く、文献上も考古学上も、また遺伝子学上も、いまだに「これこそがケルトだ」と言えないままである。まさに隠された氏族、つかみどころのない民族の、総称だと思うほうがいい。フランスのケルトのことを詳細に調べても、ブリテンのケルトとはまた違う。そこで筆者としてはケルトとしてかかれる以前の原ケルト民族を想定しておきたい。
 
「初期ケルト人がヨーロッパにはじめて出現した時期は、ヨーロッパ先史時代の区分では後期青銅器時代にあたり」「あえていえばケルト人の祖先、いわゆる「原ケルト人」が移住してきたのはかなり古く新石器時代のある時期にまでさかのぼる・・・」(木村正俊『ケルト人の歴史と文化』2012)
 

 
この続きは友だちにしか読めません。
 
果たしてどこでどう、ケルトと秦氏はつながるのか?
 
それは人類の大元を遺伝子でたどってみれば一目瞭然となるはず・・・
 
双方は多くの共通点を持つが、相違点も持つ。
 
直弧文や日本の組みひもや熨斗結びのような不思議な組みひも模様。
丸に十字のケルティック十字架。
武士と同じく首を刈る風習。
ボートにこだわる歌の数々。
 
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それら習慣の数々の分析が、東西の隔絶しているにも関わらずあまりにも似ている人類の不思議のもつれが、いつの間にか綾取りのようにほどけてゆきます。ああ、だからだったのか?目から鱗がはがれます。原点はそもそも西アジアに。ケルズの書にもそれら世界の原民族共通の生命の再生と永遠へのあこがれは見て取れなくてはならない。
 
 
 
 
 
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年賀状の前倒し/迎春祈願状

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大晦日に年賀状をゲスブするのがついに大儀になり申したゆえ、「来年はよいお年を迎えてください」状を作った。
 
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これにて来春早々のお年賀はいたしません。
よしなに。
詳細はあっちのブログに。
 
 
 
ではよいお年を「たっぷりと」
よく間違えるのが「よいお年を取って下さい」
年取ってどうするんじゃ!と言われたが、実際、そうなんだからしょうがない。
 
 
 
なお、ケルトと秦氏はすでに結論がでてます(わからない?わかるでしょ?)ので来年までお休みし、またいろいろ考えて別の事を一般公開記事で書きます。
 
 
年末年始くらいのんびりさせて^^^
だめよ、だめだめ~~~?無視。
 
 
明日はおせちで忙しい。
 
 
 
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