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弥五郎どんから邪馬台国主要氏族が出てくる

 
今回大作です。じっくり秋の夜長に熟読願いたし。Kawakatu
 


 
弥五郎どん・隼人関連地

武雄神社
愛知県知多郡武豊町上ケ12
中央須佐之男命
左 大巳貴命・少彦名命
右 弥五郎殿命(いまたねつぐのみこと・神社でも詳細不明。読み方は大和岩雄氏の指摘から)
長尾七宮・・・大山祗命・豊受姫命・日本武命・菅原道真公・菊理姫命・火結乃命・大物主神
http://ameblo.jp/jicchoku/archive2-201012.html
 
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羽豆(はづ)神社
愛知県知多郡南知多町師崎明神山 1
建稲種命「尾張氏の祖神」
境内社:両皇大神宮、住吉社、春日社、厳島社、月読社、海神社、蛭子社、三狐社、八王子社、天神社、津島社、八幡社
 
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※『続日本紀』700年6月3日条、『薩末比売・久売・波豆・衣評督衣君県、助督衣君弖自美、また、肝衝難波、肥人等を従へて、兵を持ちて覓国使刑部真木らを剽劫す。是に竺紫惣領に勅して、犯に准へて決罰せしめたまふ』とあるが、ここに大隅隼人の首魁として巫女の波豆の名がある。読み方は知多半島の突端にある岬・「はず」と同じである。またそのあとの衣評督衣君県は「えのきみ」はこれまた尾張氏の人である(下記石神白龍大王社に詳細)
 
 

はず神社・浙江省百越羽人船文銅斧の「羽人」に由来する地名か?
 羽津(羽人の出城や軍港)は、伊勢湾各地に点在する。
    羽城(名古屋市熱田区伝馬町)、呼続城=羽城(名古屋市南区)、岐阜羽島、羽津城(四日市羽津町)、羽城(碧南市羽根町)、羽豆神社(知多半島師崎)
 
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幡頭神社 ( 三河の吉良町宮崎宮前/蛭子岬)
   注). 幡頭=幡豆=羽豆=羽頭=羽津とは同意語?
祭神: 建稻種命(第二代尾張国造)
 ※日本武尊東征の折、海軍を指揮。帰路、海上で遭難し遺体が蛭子岬に漂着。
 ※羽津(羽人の出城や軍港)は、伊勢湾各地に点在する。
    羽城(名古屋市熱田区伝馬町)、呼続城=羽城(名古屋市南区)、岐阜羽島、羽津城(四日市羽津町)、羽城(碧南市羽根町)、羽豆神社(知多半島師崎)
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B1%A9%BF%CD&sk=0
 
 
 
石神白龍大王社
愛知県名古屋市
神紋: 八曜紋 古代の海軍との関わりが?
○八曜紋は、妙見信仰の北斗七星に由来?
 ※古来、海洋民族は北斗七星を航海の指針として
   大洋を移動。
○ご神体の塞石(石神)が幡豆(羽頭)産である。
 ※大和軍東征の折、海軍の戦闘部隊と輸送
   船団の主力は三河であり、名和の船津神社から
   成海神社までの浜に集結し出陣した。

※衣浦湾を見下ろす入海神社は、東京湾入口の走水海で荒れ狂う海に身を投じた弟橘姫を祭る。

【考察】
塞ぎ石に遠く幡豆産の石を用いた事象に、そこから古代の越(ベトナム)に栄えた東山文化からの流れと、尾張氏創生期の地方国家統一の経緯と深い関係があると推測できる。

①中国の浙江省甲村から出土した羽人船文銅斧の図柄には、頭上に羽根を付けた3名の羽人が櫓走船を操っている。三河の羽頭の語意には、この羽人との関わりが推測できる。

  ※近くの天竹神社(西尾市)には、崑崙人(天竺人=インド人)渡来(漂着)伝説も残る。

②尾張は、名古屋南部を拠点していた乎止与命が、三河湾を支配していたの海洋民族の娘:真敷刀婢に生ませた建稻種命と、尾張北部の小針田の豪族:大荒田の娘、玉姫との婚姻を成立させた事によって統一された。
http://ohodaka.exblog.jp/7008512/
 
 
 
津島神社
愛知県津島市神明町1
 
祠官は紀姓堀田氏である。
境内には摂社として弥五郎殿社があり、
祖神武内宿禰と大穴牟遅命を奉斎している。
 
社伝によると、正平元年(1346)南朝方の忠臣堀田弥五郎正泰が創建したと伝えている。正泰は正平四年に河内四條畷において武家方と戦って戦死した。

 系図によれば、京都の八坂神社の執行職を務めた俊全の子俊重が尾張津島天王の祀宮職の始めと記されている。そしてその子重遠が堀田阿波守を称して津島天皇祠官を務め、以後かれの子孫が祠官職を務めた。近世大名の堀田氏も紀姓を名乗り、津島神社祠宮堀田氏の一族といわれている。
 
Kawakatu注釈
※堀田弥五郎正泰なる人物は歴史上記録は津島神社社伝以外になく、果たして実在の人物かどうか不明である。ほかのサイトもすべてが社伝をそのまま受け売りした記事を書くが、それを疑うものはいないようである。津島神社の名前は、このURLサイトでは、欽明年間に対馬からここへ入った人々が祀るためだという。祭神は牛頭天王とあるのでスサノヲの民間伝承(異説)である蘇民将来つまり全国で言う「山王」「白岳」神であると思われる。
 
福井を本貫とする織田信長が祖廟とあおいだとあるから、つまりこれは白山信仰である。そして親王伝承も付随するので、間違いなく堀田氏というのは、対馬海人族であり、その素性は紀氏でも実体は推して知ることができる。紀の海民から出たのであろうか?
 
Kawakatuの民俗古代学的な方程式では貴種流離譚=放浪職能民=渡来or海人となる。
 
ゆえにこの弥五郎殿が正体を武内宿禰としてあることは、まったく鹿児島の矢五郎どんと同一なので、堀田氏にとってそれは祖神となるのだろう。弥五郎泰なる人物はおそらく伝説的創作人物であると筆者は判断する。これも熊襲・隼人系である。
 
 
彌五郎殿
愛知県矢作町字羽城
十四等級弥五騰社(やごとしゃ)
津島神社より勧請。
元の名は弥五郎殿。
この事実は「やはぎ」の矢にも関与する。なぜなら矢作地名は薩摩半島の山・矢筈岳(やはずだけ)に由来する隼人・靫負地名であるからだ。「やはず」とは弓矢の矢の羽側グリップエンドに彫り込まれる弦をかけるための溝である。弓矢製作者地名でもあり、全国に存在する。
 
 
 
 
熊襲・隼人関連地図
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 カラー●が弥五郎どん祭りのある神社がある地域
 

(岩川)八幡神社
鹿児島県曽於市大隅町岩川5745
通称岩川八幡(イワガワハチマン)
郷社
御祭神
•玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)
•仲哀天皇(チュウアイテンノウ)
•応神天皇(オウジンテンノウ)
•神功皇后(ジングウコウゴウ)
•武内宿禰命(タケノウチノスクネノミコト)
•伊勢神(イセノカミ)
•保食神(ホショクノカミ)
•春日神(カスガノカミ)
•熊野神(クマノノカミ)
•伊邪那岐神(イザナギノカミ)
•菅原神(スガワラノカミ)
弥五郎どん祭
 
 
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鹿児島・宮崎南部にはほかに数ヶ所弥五郎どん祭りがある神社がある。
 
 
 


 

その他・三河・尾張・美濃と隼人地名
三河の地域が伊勢神宮に供える幣帛や神衣を準備することや、美濃の南宮神社の境内社だけでなく、近くの養老町などに「隼人・早扉・早戸」などと表記される神社があって、「つわもの」としての隼人の痕跡が認められることを述べた。

  実は、このような神社がある地域は古くは「笠の郷」と呼ばれていたとのことで、現在では大垣市上笠から養老町下笠にかけ、栗笠の集落とか笠郷小学校などを含む一帯になる。

  「岐阜県の地名」は、この笠の郷や、木曽・長良川沿いの笠神村、笠田村、加佐美山など「笠」のつく地名について、〈美濃国には、現大垣市域の笠毛村・笠木村・笠縫村など、ほかにも笠の字を付けた地名が多い。これらは、慶雲三年(七○六)七月より養老四年(七二○)一○月まで美濃守に任じられた笠朝臣麻呂が任国で開発した村落に笠をつけたものといわれる。〉(同書 二六二頁)
 
  と、笠氏の人である「麻呂」なる人物が、国守として美濃国に貢献した実績が「笠」の地名を生んだとするようである。

  笠朝臣麻呂の美濃での活躍はちょうど隼人反乱の時期になるが、七二○年、大隅守・陽候史麻呂殺害事件に対する隼人討伐軍の副将であった笠朝臣御室は麻呂の弟になる。

  美濃国の笠という地名が国守笠朝臣麻呂にちなむものであるとすれば、麻呂以前、古く美濃地方に笠氏はいなかったことにもなろう(吉備由来でやってきた)

  笠氏については、「瓢箪と縣守」のあと、天智天皇とのかかわりで六四五年に麻呂の父の名が、六六七年には麻呂の叔父の名が載り、次には天武天皇・六八四年の「朝臣の賜姓」のとき、すでに麻呂が笠臣の氏上であったとされるが、他の五十一氏と共に「笠臣」とあるのが記・紀に載る全てである。
 
 


 
笠臣氏
  筑紫には、筑紫で没した斉明天皇を弔う観世音寺の建立が、子にあたる天智天皇の発願によってなされていたが未完成のままで残っていた。麻呂は、天智天皇の念願を果たすために筑紫に赴いたことになるが、後に太宰帥として赴任した大伴旅人や、筑前守であった山上憶良などと共に筑紫歌壇を飾る一人となり、この頃、高橋氏とした「薩摩国目高氏」もその歌会に出席していたことになるが、万葉集には麻呂の歌も七首が載る。麻呂は、笠氏の中で最高に名をなした人物のようで、極位は従四位上であった。
 
  万葉集には、笠朝臣金村、笠朝臣子君、笠女郎などの歌も載る。笠女郎は薩摩守として経歴を持つ大伴家持と関係のあった女性の一人であるとされるが、家持への恋情を歌ったなかに、〈詫馬野に 生ふる紫草 衣に染め いまだ着ずして 色に出にけり〉(萬葉集 一 252頁)という歌がある。
 
  この歌の「詫馬野」は、倭名抄の薩摩国高城郡に詫万郷があり、現川内市に遺跡を残す薩摩国府の東北部に比定され、「紫草」は日向・大隅など南九州の特産物として毎年大量に納付された税物であったことが延喜式に載る(式下 92頁)。
 
  笠女郎のこの歌は、薩摩国という共通した環境を二人の男女が互いに経験したことによってのみ理解され、伝えたい思いも更に深まるというもので、笠女郎は家持について来ただけかもしれないが、あるいは笠氏の一人として薩摩国に居住していた可能性もある。
 
  大伴氏や巨勢氏、笠氏が隼人征討軍の指揮者に選ばれたのも、彼らの本貫が南九州にあり、土地の事情を把握していたからに違いない。
 
  笠氏と南九州の関係について、確たる事実は笠朝臣御室の隼人征伐しかないのであるが、笠氏が有木氏と同じく南九州族であれば、美濃の「笠」の名が付く地域に隼人神社があることからも、そこでの麻呂の歴史的な活躍を支えたのは隼人であったと考えられないこともない。
 
  七一四年、木曽路開削の功に対して、笠朝臣麻呂は田六町と使用人に相当するような七○戸を与えられているが、同時に麻呂を助けた門部連、山口忌寸、伊福部君の三氏も位階を進められたり、田を賜っている。
 
  これらの名は、隼人系の人々ではないかと思わせるところがあるが、その一ヶ月半後の記録には、「隼人はくらく荒々しく馴れ親しむ心がなく、未だ憲法もよく知らない。それで、豊前国の民二○○戸を移住させた」などと載るのであった。
 
  とにかく、いかに有能な官僚といえども、協力者がなくてはその能力を発揮することは不可能であり、特にこのころは「氏上」云々などと氏族を単位としてことが運ばれる時代であれば、「笠臣国造」と国造としての伝承はありながら、その国を比定できないということは、あるいは「隼人十一郡」などという特殊な地域に笠氏の本貫があったからではなかったか。
 
  隼人神社のある「笠の郷」一帯は、倭名抄では建部郷や佐伯郷という靫負の存在や、物部郷や富上郷という物部集団の存在をうかがわせる郷が存在する多藝郡のうちにある。
 
  多伎郡とも表記されたこの多藝郡は、日本武尊が東征のあと伊吹山の白猪に化身した山神を侮り、山神の怒りを得て病にかかりこの地に到着したとき、〈今吾が足得歩まず、たぎたぎしく成りぬ〉(記 二二五頁)と、歩行困難になり「たぎたぎしくなった」と言われたので「この地を名づけて当芸という」との地名起源説話がある。
 
  しかし、出雲のあたりの「アタカヤヌシたき姫」と同じく、北薩川内市あたりの古称である高城郡にちなむものであって、隼人神社を中心としたこれらの地域に「弓の名手」として、あるいは「鉄の工人」として古くから隼人が居住し、笠沙の「長」の末裔である笠朝臣麻呂の手足となった可能性は大いにある。
 
 
 
 
  次は、『武芸とか牟下津』とか表記される『武儀(むぎ)の地』が気になるところである。
 
  岐阜郡上八幡は優雅な盆踊りで有名であるが、その八幡町の奥の山々から流れ降る長良川が、谷あいの少し開けた場所に出たところが現在の美濃市から関市となるが、この平野で支流の一つである『武儀川』が合流する。
 
  これら鵜飼が伝えられ、阿多の「長屋」を思わせる長良川の上流域と、その支流武儀川の流域一帯が古代の武儀郡になる。
 
  二二五頁の地図に示したように、古来、美濃紙や関鍛冶で有名なところで、六七二年の壬申の乱では身毛君廣なる人物が天武方の功臣としてあり、雄略天皇のときには、吉備国をけん制するために派遣された身毛君が日本書紀に載り、一帯を取り仕切る一族として身毛氏が繁栄していたようであるが、三河の「衣」地域の猿投神社の祭神でもあった日本武尊の兄・大碓命が始祖とある。
 
 
  前に、鹿児島県川内市の「麦之浦」に国司原という地名があることなどから、そこに薩摩国の国衙か高城郡の郡衙があった可能性があるとし、「牟木太郎」なる人物が見え、同族らしい「大前」氏の存在も知られることなどから、この地の牟木氏・大前氏を、物部氏系譜に見える麦入宿禰・大前宿禰の親子と同族ではないかとしたのであった。
 
  ここで、更に、美濃の「武芸・身毛」氏の本貫も、あの三河の猿投神社一帯の人々と同じく南九州であって、薩摩高城の「麦・牟木」氏が長良川沿いに拠点を持ちながら、そこの鮎を土地の大神に御食として供していたことから身毛氏と表記されるようになったことを想定してみたいのである。
 
 
  瓊瓊杵尊の埋葬地として日本書紀に載る「筑紫日向可愛之山陵」は、明治政府によって川内市新田神社裏の亀山に比定されたのであるが、ここに「可愛」の表記が伝わったことは、「可」は古代によく見られる略字であって、正しくは「阿愛」と表記され「あえ」と呼ばれて、神々への饗応を意味する「あえの事」に奉仕する「御食津国」であったのではないか。
 
  つまり、川内市は「大神を阿愛る御食の国」であったもので、「身毛」と表記されたものが訛って「麦」とも表記され、「阿愛」が簡略化され「可愛」と表記されるところとなっているのではないか。
 
  身毛の族人が、大王家の一機構である物部に編成・組み入れられて物部麦入宿禰となり、子の一人は大前宿禰の祖となったが、本貫の薩摩では中世まで勢力を保持し、長良川沿いでは身毛氏・武藝氏となり、あるいは笠朝臣麻呂もその族人としてあった、ということにならないであろうか。
 
  美濃の武藝郡には「笠神」という集落がある。倭名抄での武藝郡生櫛郷とされ、「生櫛」は神前に捧げる斎串を意味すると説くものもある。
 
 その東隣が有知郷で、ここに武儀郡の郡衙はあったとされ、現美濃市の市街域になるようである。すぐ北には「安毛」と書いて「阿多が家」を思わせる「あたげ」と称する村や、「曾代」という村もある。
 
  笠神にある神社には、奈良の葛城鴨の地に祀られ、土佐でも取りあげた阿治志貴高日子根が祭神としてあり、笠神村の北西にそびえる五三八メートルの天王山は、記・紀出雲神話の「國譲り」の前段階で、「葦原中国の平定」のために高天原から派遣された「天若日子」の物語の舞台として伝わる。
 
 
  ただ、列島上に同族とされる三大勢力が、南九州、山陰、東海にあったが、主導権は南九州勢にあったことをかたる最古層の伝承ではなかったかと想像するだけである。
 
  ここには、弥生時代開始時期の代表的土器とされる遠賀川式土器が出土しているので、古くから海人族の往来があった地域に違いない。
 
 
  あるいは海人族とするよりも、ここでも鵜飼い漁が特徴的である
 
 
  その山ぎわに「身毛・笠・宇知」などの名や、記・紀神話にかかわる伝承までも認められることは、この地域が、笠朝臣麻呂などよりはるかに古い時代から、阿多族とかかわりがあったとせざるを得ない≫。
 
 


 

笠臣国造 ( 吉備 )
かさのおみのみやつこ・かさのみやつこ【国造】
[笠臣国造 ( 吉備 )]

笠臣国造(笠国造)とは笠臣国(現・岡山県西部~広島県東部、笠岡市中心)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(15代)の時代、元より笠臣国の領主をしていた鴨別命(かもわけのみこと)の8世孫である笠三枚臣(かさみひらのおみ)を国造に定めたことに始まるとされる。鴨別命は御友別の弟で、福井県小浜市の若狭彦神社の社務家である笠氏(笠臣)の祖と言われ、岡山県の吉備中央町にある鴨神社では笠臣(かさのおみ)が祖である鴨別命を祀ったと言われている。新撰姓氏録の笠朝臣(かさのあそみ)の項では、孝霊天皇の皇子・稚武彦命(わかたけひこのみこと)の後裔氏族であり、笠臣は鴨別命の後裔氏族として書かれている。また日本書紀には鴨別命が熊襲征伐の勲功により応神天皇より波区芸県主に封じられたとされているが、波区芸(はくぎ)がどこかは不明である。
http://www.nihonjiten.com/data/263286.html
 

鴨別
『日本書紀』によると、鴨別は御友別の弟とされる[1]。『日本三代実録』元慶3年(879年)10月22日条では、吉備武彦命の第三男で笠朝臣の祖とする。
また『新撰姓氏録』右京皇別 笠臣条では、鴨別を稚武彦命の孫とする。なお同書では、吉備武彦について稚武彦命の子とする伝承を記すが(右京皇別真髪部条)、それとは別に孫とする異伝も記している(左京皇別下道朝臣条、右京皇別廬原公条)。
 
『日本書紀』応神天皇22年9月条、『日本三代実録』元慶3年10月条に基づく関係系図
『日本書紀』神功皇后摂政前紀では鴨別は吉備臣祖と見え、熊襲国討伐に遣わされたと記されている.

同書応神天皇22年9月条によると、天皇が吉備に行幸した際に吉備国を分割して吉備臣祖の御友別子孫に封じたといい、この時に鴨別は「波区芸県」(はくぎのあがた:比定地未詳)に封じられたという。
また『新撰姓氏録』右京皇別 笠朝臣条では、応神天皇の吉備行幸の際の伝承として、天皇が加佐米山に登った時に風が吹いて笠が吹き飛ばされたが、これを鴨別命が大猟の前兆であると進言し、果たしてそのようになったので「賀佐」の名を鴨別に下賜したという。

後裔氏族
前述のように、『日本書紀』神功皇后紀では鴨別を吉備臣の祖とし、応神天皇紀では笠臣の祖とする。
 
また『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
右京皇別 笠臣 - 笠朝臣同祖。稚武彦命孫の鴨別命の後。
国造

『先代旧事本紀』「国造本紀」には、次の国造が後裔として記載されている。
笠臣国造 - 軽島豊明朝(応神天皇)の御世に初めて鴨別命八世孫の笠三枚臣を封じて国造に定める。のちの備中国西部周辺にあたる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%A8%E5%88%A5
 
 
 
関連
葦北国造(肥)
あしきたのくにのみやつこ【国造】
[葦北国造(肥)]
葦北(葦分)国造とは葦北国(現・熊本県水俣市、八代市、葦北郡周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると景行天皇(12代)の時代、吉備津彦命(きびつひこのみこと)の子である三井根子命(みいねこのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。国造本紀には葦分と名が記され、また記紀では火葦北国造とも表されているので、火国造の支流とも見られている。
三井根子命後、日奉(ひまつり)部・日奉直・日奉宿禰等を賜姓され、後裔としては達率日羅(にちら)、万葉歌人・日奉部与曽布などが著名である。三井根子命の子・刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけひありしと)は大伴金村によって朝鮮に使わされた国造で、その子・日羅は日本では刑部靱負の職(軍隊の長)、百済では達率(高官の1つ)となり、武人・賢人として知られる。葦北郡津奈木町にある将軍神社は日羅(将軍)を祀っており、逸話も多い。宇土半島にある鴨籠古墳の被葬者は、その棺の大きさから葦北国造の息子と考えられている。
http://www.nihonjiten.com/data/263387.html
 


 
 
 
吉備臣氏
 
忌部氏と伊部焼き
また、備前は伊部焼(いんべやき・備前焼)と呼ばれる朱泥によるせっ器 (素地がよく焼き締り、吸水性のない焼物。土管・瓶・井戸側・火鉢などの大形物に用いる。)の産地でもある。伊部焼自体の歴史は鎌倉時代以降とされるが、ある程度硬い須恵器は、土師器と違って「窯」を使って焼かれるのだが、その窯跡が総社市奥ヶ谷で見つかっている。その発見によって須恵器窯が備前にが導入されたのは、5世紀中頃になってからのことと考えられているのだ。岡山県備前市伊部という地名にも名を残す伊部は、「斎瓮(いわいべ・いんべ)」で、祭祀に用い、神酒を入れる神聖な甕のことである。「古事記」の孝霊天皇の段に、「大吉備津彦命と稚武吉備津彦命とは、二柱相副ひて、針間の氷河(ひかわ)の前(さき)に忌瓮(いわいべ)を居ゑて、針間を道の口として、吉備国を言向け和したまひき。」とあることからも、古代から、備前で斎瓮が焼かれていたことを物語っていると思う。

また、「朱泥」というのが「丹土」を思い起こさせて、大変興味深い。「真金吹く」は、「吉備」ともう一つ「丹生」にもかかるのだが、吉備氏の奉斎する神社の鎮座地には、「丹生」や「遠敷(おにゅう)」の地名が見られる。こんなところにも、枕詞の秘密が隠されているのではないか。

このように吉備氏は、作金者(かなだくみ)としての賀茂氏・息長氏、土器製作としての和邇氏・越智氏の両面を兼ね備えており、岡山県総社市新本(しんぽん)の国司(くにし)神社には、全国で三ヶ所だけの「赤米神事」も残っている。そして、四道将軍も遣唐使も陰陽師も出している。当に、典型的な海人族と言えるのではないだろうか
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kibi.htm
 
 
 

<奉祀する神社>
吉備津彦神社(岡山市一宮)   ※備前国一の宮
 祭神&祖神 大吉備津彦命(比古伊佐勢理毘古命)
社家      吉備氏
 
 
 
吉備津神社(岡山市吉備津)
祭神&祖神 大吉備津彦命、倭迹迹日百襲姫命、稚武吉備津彦命、御友別 他
 社家      吉備氏
 
 
若狭彦神社(福井県小浜市、上社は龍前、下社は遠敷) ※若狭国一の宮
 祭神 上社:若狭彦神(彦火火出見尊)、下社:若狭姫神(豊玉毘売命)
    遠敷明神・白石大明神とも
祖神 鴨別命
 社家 笠氏

 備中吉備津神社(岡山市吉備津)
祭神 大吉備津彦命、千千速比売命、倭迹迹日百襲姫命 他
 祖神 大吉備津彦命
 社家 賀陽氏
 
 剣神社(福井県丹生郡織田町) ※越前国二の宮
 祭神 素戔嗚尊、気比大神、忍熊王(都留伎日古命)
神功皇后摂政十三年、忍熊王の創建と伝えられる。継体天皇の三国、気比神宮(越前国一の宮)にも、非常に近い地理関係だというのが興味深い。

剣神社という名の神社は福井県に多く、山口県・徳島県・鹿児島県などに分布しているが、祭神は、素戔嗚尊、倭建命、経津主命、安徳天皇とまちまちである。

滋賀県大津市の瀬田で死んだはずの忍熊王の、その後の消息を伝えるのがこの剣神社である。
 
社伝は、「神功皇后13(873)年2月、忍熊王は都を去って越の国に入り、角鹿(敦賀)の海を渡って梅浦に着き、当地を害する梟賊を討伐せんとして霊夢を見、息長氏系の五十瓊敷入彦命(いにしきのいりひこのみこと・11代垂仁天皇の第一皇子。
 
母は日葉酢媛命。倭比売の兄。)が鳥取川上宮(大阪泉南郡阪南町)で作った剣を、伊部臣が座ヶ嶽の山頂に祀っていたものを得て、賊を平定。
 
忍熊王は、神剣を素戔嗚尊の御霊代として斎き祀り、この地に社を設けた。後、郷民が忍熊王の偉業を称え、都留伎日古命(つるぎひこのみこと)として慕い奉り、父神の気比大神と共に配祀した。」と伝えている。

この場合の父神は忍熊王の父の仲哀天皇を指すと思うが、気比大神の伊奢沙和気(いざさわけ)の名は、息長氏の祖・天之日矛の神宝「胆狭浅(いざさ)の太刀」から来ているといい、元来は「剣の神」であったと思われる。気比大神は、素戔嗚尊の神剣「草薙剣」を賜った、倭建命ではなかったか? 祭神の一人、素戔嗚尊が八俣大蛇を切った「天羽斬剣」は、冒頭に述べた通り吉備の地にあるとも言われ、興味は尽きない。

因みに、織田信長の「織田」姓もこの丹生郡織田の地名から来ており、信長は越前平定の後、一族の氏神として神社の保護に尽力している。
 
白山神社(石川県鶴来町)
祭神 菊理媛神(白山比大神)、伊弉諾尊、伊弉冉尊
 祖神 上道保命
 社家 上道氏
社家は吉備上道臣の裔というが、確証はない。とはいうものの、白山の開祖である泰澄は海人系(秦氏)だし、阿倍氏の氏寺の文殊院も菊理媛神を鎮守としていることなどから、可能性は高いと思う。
 
気比神宮(福井県敦賀市曙町) ※越前国一宮
 祭神 伊奢沙別命(気比大神・御食津神)
    仲哀天皇、神功皇后、日本武尊、応神天皇、玉妃命、武内宿禰
 祖神 大吉備津彦命
 社家 角鹿氏・鶴岡氏
祭神の関係で息長氏に入れたが、創建当初の社家は、角鹿国造家の角鹿氏だったと思われる。その証拠に、大吉備津彦命の5世孫、角鹿玉手という人が「角鹿神祭」を勤めており、その子孫の多くも「大神禰宜」を勤めている。
 
 

<有名人>
 
 大吉備津彦命(おほきびつひこのみこと・吉備津彦命)
五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)
7代孝霊天皇と意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おおやまとくにあれひめ・倭国香媛)の子。倭迹迹日百襲姫命の弟。

 四道将軍(記紀伝承で、10代崇神天皇の時、四方の征討に派遣されたという将軍。北陸は大彦命、東海は武渟川別命、西道(山陽)は吉備津彦命、丹波(山陰)は丹波道主命)。
記紀には母の出自はないが、名に「おほやまと」「やまと」とあるので、倭・大倭氏と思われる。因みに、孝霊天皇の祖母(孝昭天皇皇后)は、尾張氏の世襲足媛(よそたらしひめ)である。神武から開化までの和風謚号に、「倭」や「大倭」が付くことが多い。存在を否定された闕史八代の天皇ではあるが、この辺の天皇を祖とする海人系の氏族は多いのである。内膳を勤めた者が多いところからも、推測できると思う。

この方の子供には、日奉部氏(火葦北国造家)の祖の三井根子命と、日下部君の祖といわれる大屋田根子命がいる。
 
 
倭迹迹日百襲姫命(やまととびももそひめのみこと)
大吉備津彦命の姉。
 箸墓の主と言われ、天照大神や卑弥呼だという説もある。大物主の妻で、夫の正体である蛇の姿を見て、箸で陰部を突いて亡くなったとされる、巫女的な皇女。
大物主の妻といえば、越智氏の勢夜陀多良比売である。陰部を突いてという亡くなり方は、誓約に勝ち誇った素戔嗚尊が、斑馬の皮を逆剥ぎにして忌服屋(神御衣を織る神聖な機殿)に投げ込んだ際、天照大神自身、又は稚日女尊(生田神社祭神、天照大神の幼名ともいう)、又は機織女が、梭(緯糸を通す操作に用いる、織機の付属具。)で陰部を突いたという記載と似ている。斎機殿に籠って機を織るというのは神妻としての巫女の表現で、木花之開耶媛命も機織をしていた。
稚日女尊を祀る生田神社の初代祝は、弟の五十狭芹彦命と名前の似ている五十狭茅宿禰の子、海上五十狭茅である。この符合、何か隠されているように思うのだが????
 
 
稚武吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと・稚武彦命)
7代孝霊天皇と、意富夜麻登玖邇阿礼比売命の妹の蝿伊呂杼(あえいろど)の子。
大吉備津彦命の異母弟であり、従兄弟。
 
 
 針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)
稚武吉備津彦命の娘。12代景行天皇の妃で、櫛角別王(くしつぬわけのみこ)、大碓命(おおうすのみこと)、小碓命(をうすのみこと・倭建命)、倭根子命(やまとねこのみこと)、神櫛王(かみくしのみこ)を産んだ。

因みに景行天皇の母は、息長氏の丹波道主命の娘、日葉洲媛命である。
 
 
 
 
倭建命・日本武尊(やまとたけるのみこと)
小碓命(をうすのみこと)
息長氏系12代景行天皇と針間之伊那毘能大郎女の皇子。
 父の景行天皇が美濃国造の大根王(おおねのみこ)の娘、兄比売・弟比売の姉妹を召されようとしたところ、兄の大碓命が横取りした上、天皇との朝夕の会食にも顔を出さなくなった。天皇は小碓命を使いに出して詰問させることにしたが、小碓命は兄を捕えて手足をもいで殺した上に薦に包んで投げ捨ててしまった。天皇は小碓命の乱暴を恐れ、またその力を生かすために熊襲征伐を申し付けた。叔母の倭比売命(母方が息長氏)に衣装をもらった命は、女装して熊襲の宴席に潜り込み、熊襲兄弟を首尾よく刺し殺した。この時瀕死の弟建は命に敬服して、「倭建」の名を献じたという。命はさらに「山神、河神、穴戸神を言向け和し」、最後に出雲建を打ち倒して都へ凱旋する。

ところが天皇は矢継ぎ早に東国への遠征を命じたので、命はまたもや叔母の倭比売命を訪ねて、天叢雲剣(草薙剣)と火打石の入った袋を貰って、気を取り直して出発。相模国造に騙された時には、この剣と火打石が命の窮地を救う。また、走水(はしりみず)の海では暴風雨に巻き込まれが、妃の弟橘比売(穂積氏の忍山宿禰の娘)が入水して嵐の神を鎮め、命の危難を救った。

 安房・甲斐・信濃を経て尾張に至り、妃の美夜受比売(尾張氏)のところに剣を置いて、伊吹山の神の平定に向かったが、山の神の毒気にあたって瀕死の状態となり、能煩野(三重県鈴鹿市)で天皇の坐す都を偲びながら、永遠の旅路に入られたという。

 倭建命の魂は大白鳥となって天翔け、妃や御子たちはその白鳥を追いながら四首の歌を詠み、この歌は天皇の御大葬の時に歌うのである、と「古事記」は伝える。

倭建命は、多くの海人系の女性を妃としている。弟橘比売は穂積氏、美夜受比売は尾張氏、布多遅比売は息長氏系の水穂之真若王の子孫、大吉備建比売は吉備氏である。何度も助けてくれる叔母の倭比売命も息長氏系だし、母親の分からない御子に息長田別王(おきながたわけのみこ)という方もいらっしゃる。倭建命の遠征は海人族を傘下に組み入れる為のものだったといえるだろう。

息長帯比売(神功皇后)の夫、14代仲哀天皇は倭建命の子だが、倭建命の弟、13代成務天皇には、穂積氏の女性を母に持つ和訶奴気王(わかぬけのみこ)という男子がいるにもかかわらず、何故に皇位は仲哀が継いだのか? この王の名は古事記にしかなく、日本書紀には「成務天皇の子に、男子がなかった」としている。和訶奴気王は早世したのかもしれないが、書紀のボカシ方が気になるところだ。
 
 
 吉備武彦命(きびのたけひこ・吉備臣日子・大吉備建日子)
稚武吉備津彦命の子、大吉備津彦の甥。
倭建命が東征する際、12代景行天皇が随行させた副官。
 
 
 
 
大中津比売命(おおなかつひめのみこと)
日子人之大兄王の娘、伊那毘能若郎女の孫。14代仲哀天皇の妃。
15代応神と帝位を争った、忍熊王(おしくまのみこ)と、香坂王(かごさかのみこ)の母である。
 
 
 
忍熊王(おしくまのみこ)
14代仲哀天皇と、大中津比売命(おおなかつひめのみこと)との第一皇子。
神功皇后が三韓遠征から凱旋して戻ってくる時、弟の香坂王と共に、なんで弟の誉田別尊に従えるかと、吉師の先祖の五十狭茅宿禰と、和邇氏と同族と言え、なんと政敵の応神の息長氏の水穂之真若王の子孫で犬上君の先祖の倉見別(くらみわけ)を将軍として、東国の兵を起こさせた。武内宿禰と和邇氏の難波根子建振熊命が率いる軍に、完全な騙し討ちで敗れ、腹心の五十狭茅宿禰と共に、近江(滋賀県大津市)の瀬田の渡りで入水自殺した。数日後、遺体は下流の宇治川で発見されたという。
 
 
 
吉備御友別(きびのみともわけ)
吉備武彦の子。
15代応神天皇が吉備に行幸された際、膳夫として饗を供した。その功績で、一族が分封に与る。
 
 
吉備兄媛(きびのえひめ)
御友別の妹。15代応神天皇の妃である。
 吉備の父母を恋しがったので、応神が淡路の三原の海人八十人を水手として、吉備に里帰りさせた。因みに淡路は阿曇氏の本拠の一つである。兄の功績に肖って織部を賜っている。記紀の時代、吉備にはその子孫らがまだいたと記載がある。
この姫の記述は「書紀」のみで「記」にはなく、倭氏の黒日売の記述が、天皇が一代違うが「記」のみにあることから、この吉備兄媛と黒日売は同一人物であろうと言われている。応神・仁徳同一人物説の根拠の一つとなっている説話である。
 
 
 鴨別命(かものわけのみこと)
御友別の弟。若狭彦神社社務家である笠氏の租。
神功皇后の熊襲征伐の際、最初に派遣されて熊襲を討った。
 
 
笠県守(かさのあがたもり)
笠氏の系図によれば鴨別命の7世孫だが、鴨別命は御友別の弟なので時代が合わない。たぶん鴨別命の息子であろう。
16代仁徳天皇紀、吉備中国の川島河の川股に竜がいて、毒を吐いて人々を苦しめていたのを、瓢を用いて退治した話が載っている。瓢(ひさご)は水の呪術に関係が深く、神功皇后なども用いている。尚、天・光の枕詞「ひさかた」は、「ひさご形」だという説がある。
 
 
吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)
21雄略天皇の時、天皇と自分に見立てた鶏や女を戦わせたとして、不敬の罪で誅殺されている。この時、同族70人も連座させられている。
 
 
吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)
御友別の曾孫。稚媛という美しい妻があり二人の男子をもうけていたが、21代雄略天皇がその美貌を聞き及んで、田狭を任那の国司に赴任させた上、稚媛を召してしまった。それを知った田狭は、任那から日本と仲の悪い新羅へ亡命しようとするが、雄略は更に意地の悪いことに、田狭と稚媛の息子の弟君を征新羅将軍に任命してしまう。出撃したものの困った弟君は、風待ちと称して大島に留まって月日を重ねた。そこへ父の使いが来、謀叛の計画を伝えるが、発覚を恐れた妻樟媛によって殺されてしまう。
 
 稚媛は雄略との間に磐城皇子と星川稚宮皇子を産んだが、天皇を憎んでいたのだろう、雄略が死ぬと、息子星川皇子に帝位を狙う様に諭し、大蔵の役所を占拠させるが、力及ばす包囲され、稚媛、異父兄の兄君(田狭の長男)と共に焼死してしまう。吉備上津道臣らは、星川皇子を救おうと軍船四十艘を率いて海上をやって来たが、間に合わなかったという。

こうしてみると、暴れん坊雄略天皇は吉備臣を目の仇にしている。それは彼らが元々、帝位を狙える家柄にあったからではないのか?
 
 
 

賀陽采女(かやのうねめ・若媛とも)
御友別の9世孫。34代舒明天皇の采女。三島真人の祖となる賀陽皇子を産む。
大海人皇子という名から、天武天皇を賀陽皇子と同一人物であるとする説もある。しかしながら、天智・天武・賀陽皇子らの父、舒明天皇の謚号は「息長足日広額尊」であり、息長真手王の娘、広姫の孫にあたる海人系の天皇である。天武の和風謚号にも「瀛(おき)」の字が入っており、息長氏系の壬生(乳部)がついていた可能性もある。
 
賀陽氏はこの賀陽采女(若媛)の祖父、賀陽高室に始まる備中吉備津神社の社家であるが、その五代前の御友別の子、仲彦が既に賀陽国造になっている。「賀陽」は岡山県上房郡賀陽町にその名を残すが、「加悦」とするならば加羅(伽耶)つまり任那のことであり、天之日矛との関連が想像される。
 
 
 
 
 
 吉備真備(きびのまきび)
奈良時代の官人・文人・陰陽師。717年(養老1)遣唐留学生として入唐、735年(天平7)帰国。「唐礼」「大衍暦経」などを将来。橘諸兄に重用されたが、のち九州に左遷。その間、遣唐副使として再び渡唐。恵美押勝の乱平定に貢献。従二位右大臣に累進。世に吉備大臣という。著「私教類聚」「刪定律令」など。(695?~775)

 海人系の陰陽師としては、他に、安倍晴明、津守連通などが有名。
真備の前年に16歳で唐に渡った安倍仲麻呂と、交友関係にあったと思われる。阿倍氏も吉備氏も海人系であり、陰陽師を多く排出しているところにも共通点がある。また、阿倍氏の陰陽道の師匠筋にあたる賀茂氏にも、大宝元(701)年に遣唐使中佑として唐に渡った賀茂朝臣吉備麻呂(きびまろ)という人がいる。賀茂氏には「吉備」と名前に付く人が多く、賀茂姓は吉備氏が孝謙女帝(阿倍内親王)の時代に賜ったという説もあって、大変面白い。陰陽道の道教的思想は、彼らが伝えたのであろうか。それとも、海人の血ゆえに既に土壌があったのか?

「今昔物語」に、聖武天皇(藤原宮子の子)に一夜の寵を受けた女性が黄金千両を貰い、程なく亡くなったが、その女性が葬られた石淵寺に悪霊が出て、寺に参った者は一人として生きて帰ることがなくなってしまった。陰陽道に通じていた吉備大臣が石淵寺に行って悪霊に会ってみると、悪霊は、「自分の墓に黄金を埋めた罪で蛇身の罪を受け苦しんでいるので、墓を掘って、黄金の半分で法華経を写して供養し、残りの半分はあなたの財として下さい。」と言う。墓を掘ってみると黄金を入れた壺があり、大蛇がとぐろを巻いていた、という話が載っている。

蛇が法華経で成仏するというのは「小夜比売草紙」に関係があり、黄金と蛇の構図は、八百比丘尼や朝日長者の埋蔵金伝説にも関係する。
 
和気清麻呂(わけのきよまろ)
奈良時代の官人。本姓、吉備磐梨別公(きびのいわなすわけのきみ)。備前出身。
 道鏡が宇佐八幡の神官と結託して皇位を望んだ時、藤原一族の意を請けて、勅使として宇佐八幡の神託を受け、阻止。ために道鏡の怒りを買い、名を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改めて大隅に流されたが、道鏡失脚後召還されて、光仁・桓武天皇に仕え、平安遷都に尽力。民部卿・造宮大夫・従三位。護王神社に祀る。(733~799)

吉備磐梨別公の祖は、阿倍氏系11代垂仁天皇の子孫で、吉備磐梨別意富己自(おおこじ)という。越智氏の冒頭で述べたとおり、伊予の御村別氏の祖は、息長氏系の12代景行天皇と阿倍氏の高田媛の子、武国凝別皇子(くにこりわけのみこと)で倭建命の異母兄弟にあたり、倭建命と大吉備建比売の子、十城別王(とおきわけのみこ)が伊予別(いよわけ)君の祖で、両氏は後に「和気氏」を名乗っている。景行天皇は垂仁天皇の子であり、備前出身というのを重要視して、異論もあろうが和気氏を吉備氏系としてみた。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kibi.htm
 
 
ここまですべて引用。
 


 
 
以下、Kawakatuの考証
 
以上、各種サイトをランダムに、弥五郎関連から始めていった結果、最終的には吉備臣と熊襲と葦北国造にたどり着けた。また吉備臣氏笠臣からは物部、尾張、和邇、忌部、春日、息長、葛城鴨などの大和地方初期から入っていた氏族が関連性が深いことも見えてきた。これらの氏族が熊襲・隼人ら南九州氏族との深い因縁を持つことも見えてきた。さらに武内宿禰=黒尾神としての弥五郎どんの性格も見えた。

また愛知県の知多半島一帯という尾張氏の版図にある武雄に、なぜか弥五郎殿が別の読み方で祭られていたのはしてやったりであった。しかし残念なことに多氏だけはなぜかこれらの詳しいサイト情報にはからんでこなかった。やはり多氏は謎であり、古代史を解きほぐすための鍵である。しかしその資料はまったくない。太安万侶が『古事記』を編纂したこと、その父・多品治が岐阜三野にいた騎馬軍団であったが、その「ほむじ」の名は、どうも「ほむじわけ・白鳥伝説」との関係があるのではないかという着想を得られただけである。「ほむち」「わけ」の名はやはり吉備の「わけ」から出るのではあるまいか?また「ほむち」は応神天皇の「ほむた」とも相にていることも、吉備の祭祀遺物が纏向から出ることと合わせて、どうやらこれらの氏族すべての連合体としての邪馬台国女王の担ぎ上げが起きたことを匂わせるとの感をいよいよ強くしたのだった。
 
 

やはり多氏は日本古代史の何か琴線に触れるようなところを握っている。だから安麻呂も、「多氏『古事記』」の肝の部分を明確に書けなかった、あるいは改竄された可能性がある。
 
 
 
 

弥五郎分析付録・矢萩・矢筈地名全国分布図

 
 
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Kawakatu作
 
KawakatuHP新論説集
15 矢筈・矢作 地名分析から古代の謎がすべて見えた!
     付録・鹿島と杵島
 
薩摩半島頴娃(えい)探訪から始まった矢作・矢筈コレクションが
今になって役にたつ。
なんでも分析しておくものである。
そして実地に開聞岳まで
走破したことがむくわれた。
 
 
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日本はアジアなのか欧米なのか?

 
いつも思ってきたことのひとつがこれだ。
 
 
日本はアジア世界なのか、西欧世界なのか?
民族的にはアジア民族。
言語的にはウラル・アルタイ民族。
政治的には西欧文化を享受。
 
 
 
さて、歴史の中にある西欧文明による支配という概念がある。
筆者は歴史と言うものから考えていくと、日本と言う国のどっちつかずが少し、怖い時代になりはじめたとひしひしと感じる。
 
 
 
たとえば世界がひとつになるという視点で考えればどうなるか?
 
 
 
今すぐに中国との連携は、ほとんどの日本人ならとんでもない話だろう。筆者も心情的にはまったく同感と言うしかない。
 
 
しかし1000年先に世界がひとつになるために、ゆっくりとではあるが、アジアはひとつになってゆく必要があることも否めない。
 
一旦、西欧とアジアの二極分化の数百年をはさんで、ようやく世界の一元化はなしえるのではないかという思いは、いつも心の中に置いている。
 
 
 
 
 
 
もし、日本が中国との連携を勧め始めると、ほかのアジア世界はどうするだろう?と想像してみてほしい。アジアの独立。西欧の支配的世界から、今世界で対等に立ち迎えられるのはアジアしかないのではないか?するとアメリカのお山の大将的動きや、ヨーロッパの支配的、威圧的、宗教にまで干渉しようとしてきた長い歴史を持ってきた西アジアは、それを賛美するかも知れない。すると・・・
 
 
世界観は大きなビッグバンを迎えることになるはずである。
 
 
なにもかもキリスト教の正義を押し付けてくる欧米のやりかたに、そろそろアジアは飽き飽きし始めていることは間違いない。
 
 
 
 
史観の180度の変換がこれから日本に求められている。
 
 
 
 
これまでの主観的好き嫌いから、ぼちぼち世界のアジアとしてのアイデンティティをアジア人自身が作り出してゆくときなのかも知れない。
 
 
 
 
 
世界が、地球がひとつの平和世界になってゆくために、近道を考えるときなのかも知れない。怨念を越える勇気が求められている。そんな気がする。
 
 
 
 
もちろん、そのころに筆者はすでにこの世にはいないことだろう。
 
 
 
 
それだけに、今が分岐点であるとひしひしと思う。ロシアも含めてアジア世界が既製の西欧史観を塗り替える時代が、始まったのかも知れない。
 
 
 
 
どっちが得かようく考えなければなるまい。
中国は今は西欧的倫理観から見れば×だが、日本がアドバイスできるようになれば一気にまっとうな国家になるかも知れない。そうすると韓国も北朝鮮もインドも東南アジアもロシアも、文句のつけようがなくなる、そんな気がしているんだがねえ。
 
 
 
 
 

日本語とモンゴル語・朝鮮語

 
 
日本語の文法はウラル・アルタイ語と同じである。
主語が来て、目的語が来て、最後に述語が来る。
この文法は西はバルカン半島~東は日本までユーラシアを帯状に拡散している。
その道は騎馬遊牧民・・・つまりテュルク=トルキスタン民族の移動した証拠である。
 
 
モンゴル人の相撲取りは、日本の相撲界に入ると世界中のどの民族よりも早く、日本語をマスターできる。それはモンゴル人の言語の文法がアルタイ語文法だからである。単語は違うけれど、主語・目的語・述語の順番が同じだからだ。
 
だから白鵬の日本語はへたな日本人の高校生より立派な日本語なのである。
 
 
朝鮮語もまったく同じ構造なので、日本に住んでいる韓国人はすぐに日本語が話せるようになる。ちょっと発音には難があるが。
 
朝鮮語にも日本語同様「助詞」がある。西欧人はこの助詞がないので、日本語をマスターするのはかなり手を焼くらしい。主語と目的語、名詞と動詞をつなぐ「てにおは」である。
 
 
中国語にはまったく助詞がなく、文法も西欧からインドまでのものになっており、言語構造がまったく違う。それは中国人の東アジアでの、東アジア人としての特殊性を物語ることになる。つまり中国人は東アジア人であるにも関わらず、テュルク語文法の影響よりも、西欧・インドの文法をより多く取り入れた民族であって、それはどういうことかというと、ステップロードからやってきた民族の子孫ではなく、海の道で移動してきた民族に影響されて言語を構築していたところへ、あとからテュルク騎馬遊牧民がやってきたということになるだろう。
 
言い換えれば江南民族がいたところに、漢民族や扶余族が侵入し、今では漢民族がそれらを追い出して中心に座ったにも関わらず、言語はアーリア系コーカソイド系文法だということになって、日本や韓国やモンゴルとはまったく逆の現象を起こしたということなのだ。日本人はアルタイ語文法の人々がオーストロネシア島嶼言語の人々の中に入ってきたが、残された基層言語にはなぜか島嶼系の単語が多い。もっと簡単に言うと、縄文人の中に弥生人が入ってきたのに、単語は縄文、文法は弥生になったのである。中国は反対に、古モンゴロイド言語の中に新モンゴロイドのアルタイ語民族が入って前者を追い出したのに、文法は古モンゴロイドのままで、基層の単語は新モンゴロイドのものを使ったとなるか?
 
 
ここまでの参考文献
上垣外憲一『ハイブリッド日本 文化・言語・DNAから探る日本人の複合起原』2011
 
古代朝鮮は四つの国家があって、そのうちの最も新しい国家である新羅が半島を統一。高句麗・百済・伽耶民族のほとんど、特に王族のすべては日本に移住せざるをえなかった。それでどうなったかと言えば、王族が抱え込んでいた武将、技術者も全部くっついて日本に移住したのである。
 
新参者の新羅の文化は、それら三国の王族たちの最高の文化を奪い取り、同化させることができなかったことになる。それで懸命になって中国の文化の模倣を始めるしかなかった。だから今の新羅の後裔である韓国には、日本のような斬新に元のものを変化させ、昇華させる文化が生まれなかったのであろう。中国のコピーと言われる理由はここにあるのだが、それにしても百済や高句麗や伽耶が持っていたオリジナルな扶余文化を知らぬまま、中国からの文化を合理的に改変したり、オリジナリティを加えられなかった発想の貧困は始まったのだし、せっかくあった芸能や漆器などの文化を、昇華させられず、詩歌や歴史書や散文芸術も勉強できずに、稚拙な自らの文化を卑下して、中国文化の奴隷になってしまったのはまことに残念な話である。
 
 
しかも言語まで漢語に支配され、もともとの優美な朝鮮表記や音さえも、あまつさ
苗字までも、すべてのオリジナリティを易姓革命の名の元に中華風に統一してしまったのである。それはひとえに新羅という国が、野蛮人であったからだということになってしまうのである。
 
 
その新羅が半島をひとつにしあと、日本では白という文字をつけた地名や人名が爆発的に増えている。白幡さんとか新羅神社の「しろ」「しら」がすべて新羅由来なのではなく、高句麗人も百済人も渡来した民族が、下の国家を名前にしようとしてもすでにそこは新羅になっていたために、仕方なく「白」を「しら」として用いることになったのである。
 
スサノヲを祀る東京の氷川神社の周辺に白をつけた苗字の人々が多いのは、そこに高句麗からの敗北者が多く入って、もともと半島に広く信仰されたスサノヲを祀ったからである。氷川とは出雲の斐伊川のことであるから、高句麗渡来人王族達の日本で最初に入った港が出雲の斐伊川だったということがこれでわかるのである。
 
 
 
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箆(へら)状垂飾・管玉・玦(けつ)状耳飾 縄文人と中国東北部文化人との接触

 
 
 

環日本海の玉文化の始源と展開 2.「東アジアにおける玦状耳飾をはじめとする装身具セットの起源と展開」


川崎 保
(財)長野県文化振興事業団
長野県埋蔵文化財センタ 調査研究員

 玦状耳飾研究はすでに多くの研究史がある。とくにその起源についでは大陸起源説と日本列島自生説の二つに大別できる。大陸起源説ではおもに江南地方起源説が有力であったが、近年では中国東北やロシア沿海州などの北方起源説が注目されてきている。

 筆者はとくに玦状耳飾だけでの研究ではいわゆる「他人の空似」という日本列島自生説の批判をかわせないと考えていて、これを克服するためにも玦状耳飾と同様な玉質の石材で作られている装身具をセットとして合わせて研究することによって、大陸起源説と日本列島自生説のいずれがより合理的であるか、また大陸起源説であれば、どこのどういう文化の影響のもとに日本列島の玦状耳飾をはじめとする石製装身具のセットが成立したかを考えている。

 日本列島で玦状耳飾が出現した段階(縄文時代早期末)にすでにこれに管玉や垂飾がセットとして伴っていることがわかってきている。縄文時代早期末の玦状耳飾はほぼ円形で中央孔が大きく、孔側は比較的扁平なドーナツ形(浮輪形)のもの(藤田富士夫のいう「環状型」)である。垂飾は、まだ類例は少ないが、箆状垂飾もこのセットの一つであった可能性が高い。

 東アジアの中でこのセットを比較してみると、ロシア沿海州の早期新石器時代のルドニンスカヤ文化に属するチョール夕ヴィ・ヴフロータ洞穴、中国黒龍江省小南山遺跡や興隆窪文化に属する遼寧省査海遺跡などにもこのセットが見られる。
 とくに箆状垂飾(中国ではヒ状器)は、おもに中国華北以北でしか見られないものである。またロシア沿海州ではチョールタヴィ‐ヴフロータ洞穴以外にも数例の類例が知られている。

 まだ、厳密な年代などを比較しないといけないが、仮に日本列島の玖状耳飾が大陸起源の可能性が高いとすれぱ、現段階ではその発生段階では北方からの影響が大きかったと考えている。

 ただし、玦状耳飾などの縄文時代前期から中期にかけての石製装身具セットはさらに多様に発展しており、前期後葉に出現する「の」字状石製品(垂飾)のように北方の影響とだけでは理解できないものも存在しており、従来から指摘する江南地方などの影響も検討していかなければならないだろう。
 
 
 
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●縄文人渡海交流を示す三点セット
○玦状耳飾(けつじょう・みみかざり)玦状とはローマ字のCのような一部が欠けた円環型を言う。
 
○管玉(かんぎょく)
 
○箆状垂飾(へらじょう・すいしょく)
 
 
 
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玉で作られた中国東北地方の玦状耳飾
 
 
 
 
 
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信州で見つかった玉
 
 
 
 
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三内丸山遺跡の玉製のへら状垂飾
 
 
 
 
この三つの遺物が日本の三内丸山遺跡、そして中国内モンゴル区などの興隆窪文化の遺跡から出てくる。それは両者間の、今からだいたい6000年前以降からの、深い交流を指し示す遺物であるとされる。
 
 
●興隆窪文化
「興隆窪文化(こうりゅうわ-ぶんか)は中華人民共和国内モンゴル自治区から遼寧省にかけて紀元前6200年頃-紀元前5400年頃に存在した新石器時代紅山文化に先行する遼河流域の文明(遼河文明)のひとつとされる。
 
興隆窪文化は、ヒスイなどの玉製品(玦 : けつ)の出土する文化としては中国最古のものであり、なおかつの出現する文化としても中国最古のものである。また興隆窪文化の遺跡からは平底円筒状の、比較的低い温度で焼いた土器陶器)が出土する[1]黄河文明のほかに、先史中国の新石器文化が南の長江流域および北の遼河から発見されているが、興隆窪文化は遼河文明の一つとして重要である。
 
興隆窪文化の遺跡においては、集落が計画的に築かれた痕跡も見られる。住居が列をなしている状態が3つの遺跡から発見された。またいくつかの遺跡ではひときわ大きな建物が発見されたほか、に囲まれた環濠集落も見つかっている。」
 
 
 
 
 
三内丸山と、対面する緯度にある中国東北地方との縄文中・後期の交流は、これまで円筒土器や玦状耳飾の一致から言われてきていた。しかしそれだけでは弱いと考えていた川崎は、あらたに箆状垂飾という決定打を発見。管玉とあわせて「三点セット」だと論じた。つまりこれらによって日本の縄文人にはすでに、日本海を横断する船舶と、その能力があったことは確実になった。
 
これにさらに円筒土器もあわせてより確実視するのが上垣外憲一である。
 
「中国東北部では、日本の縄文時代早期に相当する時期くらいに円筒土器が出現する。三内丸山遺跡は円筒土器文化の拠点的集落跡であるが、よく似た形の土器が中国東北部の狩猟採集文化の遺跡から大量に見つかっている。形が似ているだけでなく、文様のつけかた、区分、容量までよく似ている。」上垣外『ハイブリッド日本』第三章70p
 
 
 
 
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7000年前の興隆窪文化の円筒土器
 
 
 
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6000年前 三内丸山の円筒土器
 
 
 
 
少なくとも7000年前には、日本の東北や日本海沿岸の縄文文化と、中国東北部の文化とは舟でつながっていたと二人は明確に考えている。
 
 
 
 
そのためには、両者には共通言語があったはずである。東アジアエスペラントともいうべき言語である。
 
 
それは朝鮮半島南部の海岸部倭族と対岸の対馬・壱岐・隠岐・玄界灘沿岸・日本海沿岸の弥生人の間にも、当然あったはずである。貿易用共通言語、共通単語である。それを上垣外は倭人の「リンガ・フランカ」=共有言語であると言っている。
 
 
 
次回そのリンガ・フランカとは?
 
ここから日本語と朝鮮語の共通起原を、今回はるかにまさぐってみたい。
 
共通したトルコ地域のテュルク系膠着言語から両者がいつ分岐したのか?
どこでまったく異なった発音を持っていくようになるのか?
弥生人の言葉と縄文人の言葉は、いったいどうやって日本語へ変化していったのか?
 
 
 
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日本語と朝鮮語の微妙な違い リンガ・フランカ 共通語 どこでいつ分岐したか?

 
 
「リングワ・フランカもしくはリンガ・フランカ(Lingua franca)は、「フランク語」、「フランク王国の言葉」を意味するイタリア語であるが、それから転じて、共通の母語を持たない人同士の意思疎通に使われている言語のことを指すようになった。現在では、「共通語」や「通商語」の意味で使われることが多い。
本来のリングワ・フランカは、実際にレヴァント地方で用いられた、ロマンス諸語、ギリシャ語、アラビア語の混成語である。特に典型的なサビール語(Sabir)は、イタリア語を土台に、アラビア語、ペルシャ語、ギリシャ語、フランス語などの単語や表現が混交したもので、近代前期に地中海地域の交易用に用いられた。フランスの劇作家モリエールの17世紀の戯曲『町人貴族』でリングワ・フランカの台詞が登場する。

現代の言語学用語としてのリングワ・フランカは、広く外交や商取引で使われる通商語、あるいは共通語という意味で用いられる。ピジン言語やクレオール言語といった複数の言語の混合によって成立することもあるが、ある地方で政治的・経済的に大きな影響を持つ言語がリングワ・フランカとして用いられる場合もある。」Wikiリングワ・フランカ

リングワあるいはリンガはフランス語で「言葉」「言語」、
フランカは英語のフランクである。つまりざっと言えばアメリカ英語はイギリス英語のリンガ・フランカだとなる。もちろんキングスイングリッシュのリンガフランカにはスコットランド英語やアイルランド英語も時代によっては広義で入るだろうが、同国内での場合現在は方言と言われる。

貿易や交流のために、ある程度の共通単語による片言言語である。

例えばボルネオなどにあるピジン・イングリッシュは、発音的にはオーストロネシア膠着言語の訛りがあり、文法的にはブレイク英語。それでも英語外国人には通じる。
カーゴ文化が入ることで、貿易や交流の必要上生まれた。
 
さて朝鮮語と日本語にも、ある時代、リンガ・フランクがあった時代と地域はあったはずである。それは中国ともあっただろう。文法の上で朝鮮語と日本語はまったく同じアルタイ語膠着言語なので、文法を変える必要はどの時代にもない。あったのは共通単語である。それは商品の名前・・・例えば魚や米などの食品に顕著に現れたはずだが、残念ながら今の韓国には往古の古朝鮮語の痕跡はない。あるのはむしろ金属・・・銅はカルで、古代日本と共通だった可能性がある。これも銅がある一時期に交易品だったからである。ほかにもいろいろあるがそれはまた別記事に各論で述べいきたい。

日本語と朝鮮語の起原は、バルカン半島騎馬遊牧民であるテュルク民族・・・つまりアナトリアやアッシリア時代以前にまで遡るおよそ10万年前に文法が確立した言語体系が、偏西風・季節風、歴史的排除や貿易の必要性などに左右されつつ、西から東へ移動し、結果的にバイカル湖親モンゴロイド遺伝子との合流から分岐してゆく。この時点でテュルク系言語と東アジア系のツングース系言語の融合が起きる。これも一種のリンガ・フランクを生み出したことだろう。

その後、シベリアの気候が生み出す複雑な部族の中で、それらは膠着語という共通性だけを残しながら東西南北へ拡散していった。新モンゴロイドたちが移動して場所場所でこの言語は各部族と出会うたびに細かく変化してゆく。そのうちのひとつは凍った旧石器時代のサハリンから人とともに北海道へ渡り、ここでもまた先着・後着の各部族間でリンガ・フランクが生まれ始めるのであろう。それが縄文東北言語となるが、日本海側と太平洋側で蝦夷の名前が違っていたように、言葉もまったく統一されてはいなかったはずである。

言い換えれば縄文人とて、決して一種類の民族ではないということになる。ツングース系が中心ではあっても、三々五々、北日本にはさまざまの移住があったはずだ。もちろんアイヌのような別系統の移住者もいたわけである。また南日本の縄文人はやはり東北と同じほど古くから鹿児島などに存在しており、同じ言語の人々だったとは思えない。琉球諸島は台湾経由の港川先史時代人がいたが、それでも諸島の南北に広い海があって、沖縄本島以北と八重山諸島を分けていた。これは氷河時代にもつながっていない。また沖縄本島から奄美大島までの間にも広い海が存在している。だから鹿児島の縄文人のやってきた道は、いまだに判断が難しいのである。この二つの空間が埋まるのは貝の道と琉球への上野原や西九州縄文土器南下によっているので縄文中期以後だろう。
 
いずれにせよ、船の交流が7000年前の中国東北部まで及んでいたことは、これまでの縄文世界=地域外へはあまり出て行かない狩猟採集生活という常識は完全に崩れているといわねばならず、アイヌ民族がアムール川にもいたように、相互交流はそこまで遡ったと言える。
 
これは決して弥生時代の話をしているのではなく、先土器時代、いや旧石器時代という1万年~3万年前の話なのである。民族は太古でも孤立はしていなかったのである。

さて、では弥生時代だが、半島東部海岸部、南東部(プサンなど)海岸部という、あまり日本史にはなじみのない地域の縄文時代後期に、同じ釣り針が出る、熊本の曾畑式土器が半島のものと似ているという事実はすでに書いたことである。しかも太平洋側には沖縄にしかなかったはずのひょうたんの種が届いていた。

これが弥生時代ともなれば、類例はもっと多くなる。まして漂着を言い出せばはるかインドや南島、インドシナから甕棺というまったく同じ墓が登場。それどころか解釈しだいでは西アジアから綿すら届いたとも記録がある(尾張地方に韃靼人など)。西アジアの今のイスラム世界などは往古から欧州よりも早く船とラクダによる貿易国家だったのだから、もう来なかったほうがおかしいと思っているほうがいいだろう。

考古学的には、山東半島にライという民族がいて、それが春秋時代に太公望が起こした斉によって滅ぼされたときにこの遺伝子はダイレクトで海を渡って西九州に入ったという証拠が日本人の少数だが遺伝子に残存しているのである。
また母系D遺伝子は広くアジアに分布するが、派生元はバイカル湖であり、そこから日本とチベットにだけ拡散したD4遺伝子が存在する。イネでは中国にしかない遺伝子が日本の米に遺伝している。これらは半島南部を経由せずに西九州の菜畑に入ったのである。

だからと言ってほとんどの遺伝子やイネや遺物がそこから来たわけではない。ほとんどの遺伝子は朝鮮半島のむかしの北部・高句麗から百済の地域と極めて似ており、言語もまた高句麗を分岐点としたものが南下したと考えられる。この分岐は約2万年5千年以上前に起こっており、縄文とか弥生とかのタイム感覚からは隔絶しているのだから、それを持って朝鮮語と日本語の類似は渡来人や縄文渡海に始まるとか、日本語は朝鮮人が入り込んで教えたからだとかとは、まったく時間帯が隔絶する。

ほかの言語の類似・・・例えば欧州の英語とドイツ語の類似などは、方言の違い程度ほどそっくりであるが、朝鮮語と日本語の類似は、それから比べると単語にまったく似ているものが少ない。基層語というものがあるが、さかなとか、やまとか、うみとか、かわとかである。これがかなり違うということは、両者の相違は方言という範囲にはおさまらない、もっとはるかに古い時代の分岐を語るのである。しかし朝鮮言語学者が目を丸くして「異常なほど」似ているとかつて言ったように、東アジア社会の中でという限定つきで両者は似ている。

問題は五十音の多い少ないである。
日本語は五十音に少しの古い音の残存がある程度だが、朝鮮語は66音ほどもあり、それが日本で使われたのは奈良時代だけである。つまりそれらの発音は高句麗・百済王族が白村江敗北で移住して、宮中で書記官だったころだけの「万葉発音」なのである。

さらに朝鮮語には、日本語には絶対ない「子音」や「っ」の発声だけで終わる単語が実に多い。「カルビ・クッ」などだ。これを聞くと、日本語はむしろハワイ語のほうが似ているとさえ思えてくる。すべてに母音がつき、子音では終わらないからだ。子音で終わったり、しゃ・しゅ・しぇ・しょなどの音があったり、「っ」とか「とぅ」などの音が含まれていると、あるケースで判別が非常に難しい。それは船の上、海の上での舟と舟との間での言葉の交流のときである。海の潮の音、風の音は、不明瞭な発音を生まない。明確で単純な母音を求めるのだ。
 
つまり朝鮮語が高句麗のような内陸部で分岐して伝わったように、それは「陸の言語」だということであり、日本語はそれ伝わった2万年前に、もうすでに海の言語とハイブリッドしていたと考えるしかなくなるのである。
 
 
 
 
 
 
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騎馬遊牧民と日本人 モンゴル語・朝鮮語・遺伝子などから日本人起原のまとめ

モンゴル語(モンゴルご、Монгол хэл、Mongol hel、ᠮᠤᠨᠭᠭᠤᠯ ᠬᠡᠯᠡ、mongGul kele)は、モンゴル諸語に属する言語であり、モンゴル国の国家公用語である。モンゴル諸語は、テュルク諸語及びツングース諸語とともにアルタイ諸言語と呼ばれることがある。
ブリヤート語やオイラト語(カルムイク語)などとともにモンゴル諸語に属する。
モンゴル諸語は、テュルク諸語及びツングース諸語とともに次のような特徴を持つ。
母音調和がある
固有語の語頭に流音(r, l)が立たない
いわゆる膠着語で接尾辞型の言語である
語順類型はSOVである
英語の「have」(有する)を直訳できる動詞が存在しない
 
 
モンゴル語は日本語や朝鮮語と同じく膠着言語、バイカル湖周辺に数万年前にたどり着いたウラル・アルタイ民族とツングース系新アジア民族との混血から生じた民族である。
 
 
その伝統的衣服はデールといい、打ち合わせがダブルになったもので、草原の強風や寒冷地には向いている。この打ち合わせはなぜかほかの騎馬遊牧民であるスキタイやトルキスタンにはなかった。
 
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スキタイの民族衣装は日本風のあわせで、首があいている。
寒そうだが、騎馬にはこのほうが機動性がある。
 
 
 
 
朝鮮語と日本語
バイカル湖でテュルク系膠着語と新アジアモンゴロイド語(ツングース原語など)とがハイブリッドすることで四散。南下して中国東北部の南つまりのちに高句麗の首都が成立したあたりで、25000年前に高句麗原語と日本語原語に分岐。日本語族は東のオホーツク海を目指しサハリンから北海道へ向かい、縄文人の祖先となる。
 
高句麗原語族は半島を南下して海岸部へ。ここで西日本の縄文人と出会い倭人共通言語で交流した。この倭種・倭人と言われた種族の派生元は山東半島以南である。
山東半島にはもともと來(草冠がつく。らい)という部族がいたが、春秋時代に斉によって滅亡し、一部が済州島を経由して西九州に到達。その証拠は遺伝子と中国にしかないイネの遺伝子である。
 
 
日本人の特徴的遺伝子
朝鮮民族との違いを見るための遺伝子ハプログループは
 
A5・・・最も古い新モンゴロイド遺伝子で、インディアンやイヌイット、欧州先住民にもあるA系統から分岐。バイカル湖旧石器時代人が持っていたAは拡散と混血をしながら東アジアに拡散・分岐してゆくが高句麗あたりでA4から分岐。半島を南下して海岸部へ向かい倭人と接触。
 
D4・・・最も広く、古く、もっとも亜種が増えた遺伝子Dはアジア一帯に古くからあってバイカル湖で分岐拡散。中国ではD4は山東半島にあって、ここから日本とチベットへだけ拡散。朝鮮にはない。
 
 
M8a・・華北人の遺伝子。朝鮮人にも1.7パー、日本人は1.2パー
篠田謙一
 
 
 
 
日本と中国にしかないイネの遺伝子
 
RM1-b  山東半島から済州島経由で西九州菜畑に到着し拡散、池上曽根・唐古・鍵で出土あり。
佐藤洋一郎
 
 
 
日本人の中の漢民族の遺伝子は江南と山東半島から来ている。
長江のイネと稲作もまた黄河文明=華北騎馬遊牧民が南下して四散した長江文明人の四散で、山東半島~渤海を渡って楽浪ができたあたりから南下し、済州~五島経由で西九州菜畑へ、また対馬経由で福岡東部の遠賀川周辺へ。それぞれ別々のコースで東へ向かう。
 
 
 
 
結果的に列島中央部に人種と文化のジャンクションとして至便だった近畿地方に次第に民族の実力者が集中しはじめたのが弥生時代。ここで縄文人九州海人族とハイブリッド下したのが今の日本人で、遺伝子は複雑に混合した民族となる。当然言語もハイブリッドしている。
 
 
 
言語
膠着語
ウラル・アルタイ語文法
ただしほかの言語とは違い、日本語だけは子音だけでの発声はなし。
外来語でいいにくい言葉の頭に「う」をつける  「Ma」を「うま」→馬
この類型はアフリカネグロイド以来のもので「ん」が頭につく単語が多いのに似ている。またボルネオや南太平洋諸島等のネグロイドと同じである。
 
 
朝鮮語と中国東北部で分岐した日本語族は東へ向かい、東北・北海道縄文人の祖先となる。その後弥生時代直前あたりから渡来人の高句麗系朝鮮語民族とハイブリッド。その前に九州の玄界灘の南北岸と島々で両者は共通言語での交流をしている。
さらに南九州に五島経由?琉球経由?かどうかどちらか不明な、あるいは双方の倭族?系古モンゴロイドの渡来あってこれが九州縄文人=倭人=原海人族である。
 
 
時代と歴史的必然によってそれらすべてのリーダーは中心部に集まり倭国ができはじめる。場所は大阪湾。その後は孤立性を保ち、受け入れた文化を高度に改良しながら、言語もある一時期の朝鮮系発音の混交もありつつも元にもどしながら継続したのが日本人で、世界に冠たる優秀なハイブリッド民族の最高傑作となった。
 
 
万葉かな=上代特殊仮名遣い
これは高句麗と百済が白村江で敗北した後に朝廷の書記官となった短時間の朝鮮語発音の代用で、あくまでも彼等だけが使った表記法。つまり万葉カナから朝鮮語から日本語が生まれた、などというのはあきらかな間違い。
日本語は2万5千年前にすでにツングースとテュルク膠着語から分岐。これはバイカル湖遺伝子A5の分岐とまったく合致する。高句麗となる地域つまり中国東北部南部でまずは縄文人の元となる原日本人が朝鮮人と分岐して縄文人になったのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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日本の中世はいつから始まっていたか?いや日本に古代はあったのか?

 
みなさんが学校で歴史を学んだ常識として、日本の中世史の始まりは、いつになっていただろうか?
 
筆者は昭和30年前後の世代であるが、教科書をめくると平安時代が終わって、鎌倉時代からが確か「中世」という中表紙があったように覚えている。昔は「いいくにつくろ鎌倉幕府」つまり1192年ほどからが中世になっていて、誰もそれを疑わずに授業を聞いていたのではなかろうか?
 
ということは日本の中世は12世紀頃から、早くともその直前の平清盛あたりから中世になっていくという認識で教科書は作られていることになる。
 
 
あれ?本当にそれでいいのでしょうか?
 
 
西欧の中世がローマ帝国滅亡のあとからであるから、だいたい1世紀までには古代は終わったとされている。中国も秦・漢時代のあと、時代が乱れて群雄割拠する1世紀~2世紀からが中世だとなっている。なんと日本の中世の始まりと何百年も早いのだ。それで、もう大人になって世界に無詳しいみなさんはなんの不満も疑問もないでしょうか?
 
いくらなんでも世界史の史観から遅れすぎてはいないか?と想われないだろうか?
 
 
 
確かに日本はアジアの東のはじっこで、旧石器人がやってくるのは3万年ほど前で世界では新参者だった。それから2万数千年のちに新石器時代つまり縄文土器の時代が9千年もあって、ようやく弥生時代~古墳時代~飛鳥時代~奈良時代~平安時代と続くか、これすべてが日本史では広義の「古代」である。なかにはいまだに縄文いぜんを「原始時代」だなどとまだ思っている人もけっこう多いことだろう。
 
 
しかし・・・飛鳥時代が古代でしょうか?中世でしょうかいっぺん考えてみてください。奈良時代は古代ですか?古墳時代は古代でいいですか?王権があったと史書は書くのに、学校では古代ですね。
 
 
もしかして、日本に古代ってあったんだろうか?西欧の史学者は必ずそう言います。日本史って中世から始まったんでしょう?西欧史観からの規定を使えば、群雄割拠の時代は本当に源平合戦からなんであろうか?
 
この問題定義を著書にした学者がいるので、いずれ扱いたいと思っている。
なぜならそういう西欧歴史観によって戦後、今の教科書の日本史は区分されていて、それははなから『古事記』『日本書記』の史観とは矛盾しているものだからである。どちらが正しいのか、ではなく、もう少し近代日本には近代的で、国情に即した日本史が再編成されるべきじゃないかと感じるからである。
 
 
 
 
 
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高倉健・小田氏・波多野・常陸国那珂郡の多氏と隼人・寒田郎子

 
高倉健の死去で思い出した古代史ヒント。
 
 
 
隼人が服従した多氏=ヤマトタケルと豊前海人族の北上

「隼人は、ハヤビトと訓むべし、(中略)隼人といふ者は、今の大隅・薩摩二国の人にて、その国の人は、す ぐれて敏捷(はや)く猛勇(たけ)きが故に、この名あるなり(下略)

 この宣長の説はハヤトの名の由来を、その敏捷性に求めている。したがって、『万葉集』の「早人」の用字にも通じる説 である。

  これに対し、近代の歴史学者喜田貞吉(きださだきち)は、宣長説を批判している。すなわち、古 代の異族をよぶのに、その性状を形容したり、挙動をもって名とする例はなく、多褹(たね)人・阿麻弥(あまみ)人・国栖(くす)人・越(こし)人などその 住地の名をつける事実のあることを指摘している。
 
 
そこで、「はや」の人と解すべきで、中国の『新唐書(しんとうじょ)』倭国(わこく)伝に、「又、 邪古(やこ)、波邪(はや)、多尼(たね)三小王」のある一文をとりあげ、

  ここに邪古の国史にいわゆる夜句(やく)(屋久島)人、多尼の国史にいわゆる多褹(種子島)人なることは疑いを容 れず、しかしその中間なる波邪が、隼人を指せるものなること、また疑いを容れざるべし(『日向国史』)。
  といっている。宣長の説は、隼人の性行・行動にもとづくものであるから性行説とすると、喜田の説は地名説といえる。
  その性行説にもほかにいくつかの考え方があって多様である。たとえば、ハヤシビト(難し人)の意だとする説、ハイ ト(吠人)の意だとする説などがある。また、地名説にしても、南方をハエする古語にもとつく、南方の人の意だとする説 などがある。」
http://www5.synapse.ne.jp/shinkodo/thistimeimg/kodaihayato13.html
 
 
 
 
「はやと」は「はや-ひと」の複合語であることは間違いない。ただ「はや」の意味が確定していないままである。「はや」は『新唐書(しんとうじょ)』倭国(わこく)伝に「波邪」とあるのが古い。しかしこの文字は中国人による音の当て字である。ただ、漢字にうるさい中国人が「波」を使ったのだからおそらく隼人とは海の人だっただろうと思える。
 
「隼」の文字も当然、のちの日本での当て字であろうが、「はやぶさ」で「はやくとぶ鳥」であり、一文字では「はやし」とも読める文字である。当家の近所で寿司屋さんの大将に「隼」で「はやし」さんがいる。
 

隼人の居住地は全国にあり、九州では本拠地薩摩・大隅以外には北部の豊前地方には隼人の地下式横穴とともに蛇行剣が出土しており、日向~豊の海部の中に隼人は多く含まれていたことが忍ばれる。
 
 
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さて、俳優高倉健の死去が報じられた。
ずっと以前から、健さんの顔つきと体躯は、絶対に豊前海人族の子孫のものと感じている。そしておそらくそれは間違いがない。

 
というのは豊前長洲~中津、行橋~小倉にかけての旧豊前地域の漁師たち、一般人も、ああいう顔つきで体格の男をたくさん見ているからである。健さんも筑豊中間市出身だ。中間市はかつての豊前国と筑前国の境にある地域である。

この「なかま」という地名は、山の名前になっている。大分県中津市に「なかまどんのはたやま」が存在する。豊前なのに鹿児島弁の「どん」=殿がつく。
 
中間一族は英彦山一帯に居住し、沖縄にも移住者がいると思っている。- 中摩殿畑山(なかまどんのはたやま) 登山記 【そのⅠ】, 大分県中津市耶馬溪町  
 
彼らはおそらく英彦山修験道ともやがって関わったに違いないだろう。修験者の多くは底辺職能民の心的救済から転進していると思える。
 
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健さんの本名は「小田」である。小田氏は
1.常陸国筑波郡小田邑(現在の茨城県つくば市小田)を本拠とした大身。肥前、武蔵などに分家が存在する。小田は相模国小田原などが著名で、おそらく相模からの移住者地名ではあるまいか?あるいは逆もある。
 
2.備中国小田郡の地を名字とした氏族。応安3年(1370年)に小松秀清が地頭職を得て、小田神戸山城を本拠とした。戦国時代末に毛利氏の幕下となった。

福井の織田もその一族であろう。
小田氏は鎌倉時代、源頼朝に従って功績を挙げ、常陸守護に任じられた八田知家(八田太郎、宇都宮宗綱の子)を祖とする。知家の子の八田知重(尊卑分脈では「八田五郎」、宍戸系図では八田太郎)が小田を名のる。とされ、もとは「はった」である。八田は波多で波多野と同じである。常陸・相模・千葉一帯の八田・小田は、そもそも筑紫を大元としたので、その地名を
筑波(つくば)郡としたはずである。

考古学でも、九州北部の装飾古墳、横穴式古墳が常陸は多く、多氏大生部・茨城の元になった多氏茨田(まむた・まんだ)氏が入っている。その常陸中央部が海人地名の「那珂郡」である。
 
(卑近な例で恐縮であるが小田和正も福岡出身ではなかったか?」)
 
 
 
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この「なか」は英彦山の「仲間」、筑紫の「中間」に合い通じる。

実は、茨城県の那珂郡にある息栖神社には、当家と同じ姓名の郎子伝承がある。相模の国のなか郡から鹿島にやってきて、地元の娘とならぬ恋におち、そろって並び松ノ木となったという寒田郎子(さむたのいらつこ)伝承である。その寒田は相模の国(神奈川県)の秦野市に寒田神社があってヤマトタケルを祭る寒川六社のひとつであるが、ここは海人族波多野氏と居住地であった。波多野姓は九州では大分県豊後大野市周辺に多く、ここ三重町がある。ヤマトタケルは「足が三重に折れて」歩けなくなったと記録されている。つまり波多野氏の伝承から三重地名になったと考えうるのである。
 
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奈美松霊・古津松霊なみまつのれい・こつまつのれい
常陸国風土記の香島郡の条に、童子女(うない)の松原の伝説の記述があり、それによれば、昔、年若い僮子(うない、少年少女の意)がいて、少年は名を那賀寒田郎子(なかのさむたのいらつこ)といい、少女は海上安是嬢子(うなかみのあぜのいらつめ)といったが、土地の人は二人を神のおとこ、神のおとめと呼んでいた。二人は夜ひそかに童子女の松原で逢っていたが、いつか夜が明け、人に見られることを恥じて松の木に化身した。少年の松を奈美松とし、少女の松を古津松と名付けて今に至るまで改めていないと記されている。この遺跡は、波崎町の手子后神社の地に比定されているが、或いはこの伝承の地と地形の上で類似している中津川の地にも、この説話が伝えられていたものか。
 
 
 
 
 
 
ということは隼人の前身であろう熊襲の曽於族を打ち破ったタケル=多氏に帰順し、南九州から北上し、拡散していった人々はヤマトタケル伝承と同じく北関東の筑波にいたっているのである。
 

 
 
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LED照明器具の問題点

 
身近で感じた環境問題の経験なので、読者の多いこっちのブログに書いておきたい。
 
 
 
 
夜中に聞こえていた高周波音がようやくとまった。
安眠できない毎日が続いていた。

原因はどうやらLED照明の機種にあったようだ。
今日、隣家の明るすぎる二階LEDライトがうちの庭をあまりにも照らしてまぶしいので夜の点等をとめていただいた。するとあの高周波も消えたのである。
 
 
 
そうした経験もふまえて、LEDが与える生活への影響について拾い上げてみた。
どうやら機種によっては各地で騒音や光り公害として論争が起きているようである。
 
 
 
 

LED照明の問題点
「広い適用範囲 = 照明器具は~ 電圧 ー00~240V/AC~ 周波数 50~60Hz で作動し~ いずれの電源も、 照明器具に安定した電流を供給することができます。
 
高効率の照明器具 = 高い照射効率と安定した電源回路設計により、 全体の発光効率は 75Lm川 を超えています。
 
高い光源利用率 = LED は単一指向性の強い光源であり、 これに独自の二次的な配光システムを加えることで、 光源の利用率を高めると同時にまぶしさを抑え、 光による公害を防いでいます。
 
高い演色評価数(Ra):LED街路灯の白色製品はRaが75 を超えており~高圧ナ トリ ウム'ランプの40Raをはるかに上回っています。
 
顕著な省エネ効果 = 良質の LED チップに高効率の電源を組み合わせることにより、 高圧ナ トリ ウム ー ランプに比べて 50% の省・エネを実現しています。
 
長寿命 = 高性能の LEDに独自開発の放熱設備を採用することで、 従来のランプの 5~ー0倍もの超長寿命を保障しています。
 
送電網への干渉がない=ーカ率 〉0-95~ THD〈20%でEMー はグローバル ー スタ ンダー ドに適合しており、 送電線の電力消耗を引き下げることで、 送電網に対する高周波干渉公害を防いでいます。」
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=CrWPNm4RSLIJ&p=LED%E7%85%A7%E6%98%8E%E3%81%AE%E9%AB%98%E5%91%A8%E6%B3%A2%E5%85%AC%E5%AE%B3&u=www.secev.co.jp%2Feco%2Fpdf%2FLED_p10.pdf#search='LED%E7%85%A7%E6%98%8E%E3%81%AE%E9%AB%98%E5%91%A8%E6%B3%A2%E5%85%AC%E5%AE%B3'
 
これはLEDのいい面だけを述べている。では問題はないのか?
実際にLEDを使うのは一般市民や町内会、会社、公共施設などだろう。
その問題点をいくつか拾ってみた。
 
 
「この商品を新居の為に4台ほど使う予定だったのですが、
LEDから異音が出るそうなので二の足を踏んでいます。
調光で灯りをしぼった時にジーという異音が出るそうです。
結構気になる大きさ音のようでこれは製品として成り立たないの
ではないかと思います。この異音に対する対処方法はあるのでしょうか?
初期ロットだけこのような症状で、それ以外は異音が無いといったことは
ありえるのか。LEDシーリングライトはまだ時期尚早なのか。
色々考えています。」
http://bbs.kakaku.com/bbs/K0000139681/SortID=12289537/
 
「自宅の白熱電球と交換することで、簡単に消費電力が削減できるLED電球。身近な節電方法として注目を集めており、我が家でも導入しているが、前々から気になることが1つあった。「ノイズ」の話だ。
 
というのも、ある報道によれば、商店街の街路灯を一斉にLEDにしたところ、アナログテレビ放送の受信障害が多数報告されたという。調査の結果、LED電球が発するノイズがテレビの電波と重なっていたことが影響したらしい。
 
また、ある家電メーカーでは、許容値以上のノイズが出荷直前に確認されたとして、LED電球の発売日が突如発売延期になるといったこともあった。さらに、Webを検索すれば、LED電球に変えたらラジオの入りが悪くなった、などを報告しているサイトもある。」
http://kaden.watch.impress.co.jp/docs/column/fujilabo/20110623_453393.html
 
 
 
 

「当家の裏に引っ越してきた方の家は、総LEDに変えたようである。
隣家から感じたその問題点として、
 
1 ぶーんという周波音、さらにもうひとつオクターブの高いぴーーーという周波音が聞こえて、一日中気になる。とめてもらったらぶーんという音は消えたが、ぴーーは残った。あとはがまんしかない。

2 外まで明るすぎて、しかも単一光がかえっていらいら感がある。風情もない。
 

がある。

これはおそらくシーリングライトという品を使ってあるためではないかと思われる。

メーカーによってはちゃんと音や単一性による明るすぎを軽減してあるようなので、選ぶならそれを選んでもらいたいと思う。」
 
 
 
 
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このゆらぎのない光りに実は逆説的神経逆なでの効果があるかも・・・
点滅しないことが全部よいことだとは限らない。
 
 
 
 
 


 
 
 Kawakatu所感
明治以前、このアジア世界には人工照明など存在しなかった。人々は自然光のゆらぎと安息を満喫していた。夜空には満点の星座が広がっていた。
 
明治以後、ガス灯に始まり、電気照明が爆発的に増大したが、すべてこれらのアナログ証明で、人々はこれといった迷惑もこうむることがなかった。そしてLEDライトが実用化され、特に、地球の貧しい国家、危険地帯でそれは抜群の力を発揮するということが言われ始めている。しかし・・・。
 
 
 
機種によってはの限定付であるが、街頭や室内灯でも嫌な音や、明るすぎ単調すぎる情緒のない光りは、いくらかの問題を引き起こすものがあるということのようである。
 
 
光りはいらいらするようなものでは長く受け入れられず、神経をさかなでしかねない。そのことで新たな隣人とのトラブルにもなりかねないし、街頭などは、その町全体の問題となってしまう場合もある。せっかく高いお金をかけたのに、全部取り替えなどとなれば、すごいダブル出費になるわけである。ふんだりけったりだ。
 
 
 
私的には、これまでなにも事件のなかったような閑静な住宅地では、LEDはむしろ生活の邪魔。明るすぎる照明は、もっと犯罪率の高い都市部の公園や街頭には最適だ。また紛争地帯、開発途上の森などでも威力を発揮する。ただ学校ではおすすめできない。高周波が子供の情緒を破壊する可能性がないとは言えないからだ。
 
 
 
 
あなたにとっての便利が、他者にとってもいいことであるとは限らない。
新しい便利を買うときは、よくよく考えたうえで、ということに尽きるだろう。
今後、日本全体でこのような見えない音波による障害がどんどん増えてくることだろう。それによって子供達、老人、弱者達が精神に負担を感じる事態は十分に起こりうる。
 
 
 
 
 
 
 
 
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貴族・武士7% 平民93%

 
 
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「四民平等と秩禄処分によって身分制の再編が行われた時の日本全国総人口に占める割合は93.41%、3110万6514人が平民である」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%91
 
 
 
 

 
 
 
歴史を学ぼうとするときに上記のグラフにあるような人口比率を忘れている財や研究者によくお目にかかる。申されるに、確たる証拠もなく「当家はなんのなにがしから出た、なんおなにがしの末裔である・・・」状の物言いをされる方は多々おられる。
 
 
たとえば筆者の「肩書」は豊後大友氏六世孫・・・を使っているが、これは県史にもあきらかな出自で、まごうかたはない。家紋も大友、大友氏、府内における鎮守である春日神社大宮司も県史にあって間違いがない。
 
しかし親も自分も、近隣ではそのようなことを明らかにしたことなど一切ない。それが武士だった家のものとして、近代民主化の中では当然のことと思っている。
 
 
ところが、現代。実はそういうことをちゃんと言い述べておくほうが、よくなってきていると感じ始めている。そういう権威主義的表現は好きではなく、しかも人生の自由をいくらか奪われてしまい側面もあるからだ。
 
 
しかしながら、その意に反した人々はかなり多くいる。
いわゆる嘘の系図を権威として用い、それを利して行きようとする考え方の人たちである。
 
 
上のグラフにあるように、江戸時代の人口比率で貴族・武家はほんの7%までに過ぎない。いや実際のところ、下級武士というのをはずすと1.5%程度だったという研究者もいるのである。
 
 
「ほんのひとにぎり」である。
問題はその一握りの人々が百家あれば百人の、千家あれば千人の、一万人いれば一万人の、それぞれ家臣団の底辺にいる人々を抱えていて、その下の下の人々も、平和な時代にもなれば「うちは●●氏の同族だった」と言えてしまうわけである。
 
 
秦氏には上中下家があり、それぞれに秦人という家臣があり、その下にそれぞれ秦部が囲われていた。そのすべてを総称して「秦氏」となる。しかし大半はどこの馬の骨かもわからない被差別民までが含まれているのである。そしてそういう中原以下の層が、当然、上家を何十倍も上回る人口になる。それをして「われは秦氏」と言われてしまっては、もう秦氏という氏族そのものの伝承が、彼ら底辺ものに圧迫されかねない。そういう時代が能楽が隆盛した時代である。
 
 
 
 
 

 
 
さて、集団はリーダーを出すものだが、日本の王家というリーダーは、実は「担がれた」リーダーである。それを「天皇」「大王」などと言う。ではどうやって担がれるか?
 
三種類ある。
 
 
1実力者としての王
2底辺から選ばれた王
3傀儡王
 
である。
 
 
日本の大王で1だったのは、雄略と継体だけである。
ほとんどは2か3である。
3は女帝が多い。
 
さて2が問題である。
 
 
為政者王のほとんどを占めたのがこれである。
なぜ底辺から担がれたか。
底辺とはすなわり敗者で勝者から差別された人々のことになる。
それは歴史上、いつか必ず反駁し、リベンジを狙う。
ゆえにそこからあえて大王を選ぶのである。
 
これを「祟らぬように神とする」とも言う。
 
この祟りとは一族の反逆であり、そこから見えるのが日本の大王は先住民の王だったということになる。
 
 
この理屈が理解できないものに、歴史を語る権利はない。
そのような学説を「信仰」と言うのである。
 
 
 
 
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南九州墓制分布図でわかる神話の真実

 
 
久しぶりに書き込みます。
と申しますか、近頃、すっかり歴史への興味を失っていて、そろそろこのブログへの書き込みはジ・エンドにしたいかなと。
 
で、今は情景写真と情景・叙情詩の組み合わせ記事にはまっている。
数日に分けて切り取ってきた、ばらばらな巷のひとこま、季節の画像をコラージュし、文章をコラボレーションするのが楽しくてたまらない。
なにしろ罪がなく、肩が凝らない。
 
ここなどは、もう疲れるばかりで一銭にもならず、骨折り損ばかりで、つらいだけ。
 
ほっときたいのが本音。
 
もちろん、またいい知識に出会って、いつまたどこで引き出しの中にしまったものとが組み合わさって脳内花火に引火するとも限らないけれど。
 
 
なにしろほっといてもすぐに100万アクセスという「更新終了数値」にはいずれ近いうちに行き着くだろうが・・・。そのとき、やめるのか、あるいはたまに何か爆発したときだけ書き込んでいくのかは、そのときになってみにゃわからない。
 
 
 
 


 
 
 
 
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内倉武久 『熊襲は列島を席巻していた』2013より編集
 
 
 
 
この図のタイトルは「熊曽於族の古墳分布図」と内倉は命名しているが、それはやや間違っている。
 
どうせ言うのなら「熊襲」は「球磨・曽於族」で、彼らの地下式横穴や板石積み地下式横穴墓は正確には「近畿中心の考古学」では「古墳」とは言いにくい。
 
それはさておき、内倉の熊襲・隼人分析が用いている考古資料や文献資料の各論は、ほとんどが筆者が過去、ここに書いてきたヒントと重複している。偶然の一致であろうが、ほとんど同じ部分から南九州氏族に切り込んでいる。武内宿禰の内の氏族、紀氏海人族との関連性、海の道、広田遺跡、済州島などなど、ほとんどすでに筆者がここで扱ってきた同じ分析があふれている。
 
ところがまったく違うのが、鹿児島県出身の内倉にとっての熊襲・隼人は列島を席巻した実力者であり、日本全土に彼らは独立した王国を築いた狗奴国(くとこく。このよみ方も筆者仮説と同じ)であったということであろう。Kawakatuは熊襲はヤマトタケル=多氏によって管理され、多氏王家をとともに列島を北上していった内の王家の家臣団となったのだと考えている。
 
 
さて図に前方後円墳のある地域を紫色で示してみた。
この前方後円墳は、南九州の阿多君や曽君(あたのきみ・そのきみ)が大和からやってきた支配者層に帰順した証拠になるのだと、近畿考古学が言うだろう。それに対して内倉は当然反発する。Kawakatuはそのとおりだが、そもそもその支配にやってきた人々とは南九州から近畿へ移住し、近畿の先住王者となっていたところを、あとから来た北部九州由来の渡来系氏族によって王権の共有を迫られた人々・・・それが紀氏・内臣氏らである、と考えている。微妙に違いがある。
 
かつて狗奴国は列島を席巻していた・・・は正しい。
 
 
さて、薩摩半島には弥生時代の甕棺墓制がわずかに存在する。薩摩半島の西海岸、つまり開聞岳のある側・・・矢筈岳のある頴娃(えい)の地域である。旧揖宿(いぶすき)郡と言い換えてもよいか。この揖宿は、あの指宿とは違う。温泉で有名な指宿は薩摩半島南端南側海岸になる。
 
 
そして揖宿の頴娃は、かつての隼人の乱の首謀者に関わる地域であるから、揖宿郡と指宿のあいだにはどかんと立派な枚聞神社という中央権威の象徴が置かれてある。当時の神社は=監督官庁である。分かりやすい。
 
 
この甕棺墓がどこから来たのかというと、近畿考古学では当然、北部九州天孫族の祖先が南下して熊襲をやっつけて・・・となるが、実際は中国から直接きた可能性も否めない。しかし支石墓もあるので、朝鮮半島からも来ていることとなるので、まずは北部九州の東西から、景行天皇のような渡来人が熊襲の船と鉄を求めて軟化し、婚姻したと考えたほうがわかりやすい。地下式墓という隼人の墓の人々と、甕棺、支石墓の人々が「かささのみさき」のある地域に・・・である。
 
その天孫降臨神話を、もし北部九州に置き換えてしまうと、高千穂や日向地名はまあ一致する場所は見つかるけれど、困ったことに「笠沙御岬」地名は北部九州には見当たらなくなってしまう。だから「日向の高千穂の」は宮崎県北部の高千穂町ではなく、霧島の高千穂山にしておくほうがよい。なにしろ地名も姶良だから姫の名前と一致する。
 
 
 
地下式横穴墓は実は中国の山東半島の紀元前3世紀前後にも存在する。つまり熊襲とか隼人の前身たちは、”対面する”山東半島とのつきあいが、たぶん紀元前3世紀頃にはあった、と言ってよいだろうと思う。
 
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山東半島には例の曹操の先祖の本拠地があったわけで、そこに「倭人は同盟して来てくれるか」と書かれているレンガが出ているのだから、当然日本人の往来は1世紀前後からあったことは間違いがないのである。それはどうやら縄文時代の後期までに完成していると見られる。とまり隼人とか、久米とか言われた南九州の人々は
、安曇等の北部の海人族が半島を往来していた時期までに、すでに華北、漢との交流を持っていたと見てまず間違いなかろう。
 
 
 
言うならば、九州における南北の民族の相違は、そのまま近畿地方では東西にそっくりそのまま時間がずれて移動した気配がないとは言えないのである。つまり神話が言うニギハヤヒの先行、神武の後追い、のようなことが起きた可能性はあるわけだ。
 
 
紀氏になるような南九州の内の氏族=多氏に連れられてやってくる曽於族たちは、ヤマトの先住氏族を形成し、吉備を経てヤマト盆地西南部の葛城や紀ノ川周辺にいたのだろう。また物部氏や和邇氏らのように盆地東部の山の辺界隈の小高い丘陵地にいた氏族も先住者である。そして湿地だった中央部は墓場と祭祀場であり、そこには多氏がいたのだった。祭祀者は水辺に住む。再生の神が蛇だからだろう。その蛇の信仰は海人族と縄文と出雲と琉球の共通アイテムだった。
 
 
 
 
 
 
 

日本の古代に神殿はなかった 井上章一説

 
 
古代文明と聞けば「神殿」を思い浮かべるのですが、
Q; 古墳時代以前のわが国に「神殿」はあったのですか。
 池上曽根遺跡で巨大な建物跡が見つかって、神殿ではないかと言われましたが、結局神殿ではなかったのですか。
また、紀元前のころ、中国や朝鮮に神殿はあったのですか。
 弥生時代に中国大陸や朝鮮半島から日本列島に大勢の人びとがやってきましたから、もし大陸に神殿があったのなら、渡来人が神殿らしきものを作ったのではないかと、想像しています。
よろしくお願いします。
 
 
 
A; 池上曽根遺跡は、まだ確定はしていないと記憶しています。
  当初は(質問者さんの定義するところの神殿とはいかなるものを言うのかわかりませんが)「神殿か」みたいなことが言われていましたが、「どうも違うみたい」という声も大きくなってきた、という段階ではないでしょうか。
  中国朝鮮に限らず、地域のボスの権力はもっと大きなボスから認められることで維持できたわけですが、じゃあ大ボスの権力はどこから認められたのかと言えば、神以外にありえません。
  「俺が王様なのは、俺が一番強いからだ」なんて言ったら、もっと強い人が出ればその人に王の地位を譲るのが正しいことになるのですから、ずっと王様でいるには神によって権威づけるしかない。
  であれば、どこかに神を祀る場所があったはずです。質問者さんのいう「神殿」の定義に当てはまるかどうか不明ですが。
  で、人間はアフリカから拡大したのですから、全人類はアフリカ人の末裔。
  日本にも、何百回、何万回と渡来したわけですから、やってきたばかりの渡来人が神殿を作った可能性は大いにあります。
  もっとも、その元にある神様は、それ以前に形成されていた八百万の神々思想(当時はその原型)に吸収されて、ワンノブゼム(One Of Them)化してしまいましたが。
  余談ですが、アフリカからやってきた過程で、各地でいろんな習慣を拾ってきたらしく、例えば、日本人が御輿を担ぐ方式(棒の上に御輿を置いて肩に担ぐ、その前に禊ぎをする、神社の神官の着る服の飾り・・・ などはユダヤ教の風習とそっくりだそうです。
  また、「省」の名前を忘れたのですが、中国の山奥の少数部族の集落入り口には、日本の「鳥居」そっくりの門があって、横棒の上には見事に「鳥」の彫刻が数個(数羽か)載せられているモノクロ古写真を見たことがあります。
 http://okwave.jp/qa/q8104629.html
(aka族の集落の入り口にあるロッコーンや、北方民族エヴェンキ族の鳥居のことだろう Kawakatu注)
 
 
 
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エヴェンキの門
 
 


 
 
 
 
 
 
 
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池上曽根遺跡の復元された「神殿」
東西南北に明確な意味を持ってすべてが造られたと思われてきたが、その後の調査で、実際には向きはばらばらで、一定した建築哲学はなかったとされた。
 
 
 

大阪の池上曽根遺跡は紀元前1世紀頃の環濠集落遺跡だが、発掘当時、一般住居がなく、神殿や戦闘遺構しかないことから「神殿」ではないかと、一部考古学者が色めきたった。しかし、その後の調査では、京大考古学派の先走りと考えられ始めた経緯がある。

京大は、中国やギリシアの「古代」=「神殿」にこだわりつづける。なぜなら、神殿を持つ文明の始まりこそが古代があった証明であるという西欧史観に縛られ、それこそが日本にも文明の起源があったのだという証拠だと思い込んでいたのである。

中国の中世が漢滅亡の3世紀、西欧の中世がギリシア・ローマの神殿文明が滅んで5~6世紀には中世が始まったとされる、その歴史観にはまり込み、日本にも必ずそうした完璧なる古代という時代があったのだと証明したかった・・・つまり池上曽根はその恣意的歴史観のいい証拠品として大々的に扱われた時代があった。それは中国の歴史観の始まりもまったく同じだったのである。中国もまた西欧の、アジアを低く見る史観に反発感を持っており、自分たちの中世は秦・漢の終了に始まったと、西欧史観よりも中世の始まりを早くに置くことにまい進した。これは今でもそうである。北京オリンピック開会式での、文字・印刷などの中国紀元を言い募らんとした表現にそれは現れていた。
 
しかしアジアにはアジアの文明史観があって当然である。日本はいち早くその西欧史観のしがらみから抜け出て、アジア独自の史観を作り出す必要がある。紀元前の大阪に神殿はなかった。日本には古代がなく、いきなり中世から始まった、実はそういう国家のほうが世界には多いのである。ドイツもフランスも北欧もそうである。そのほうが一般的なのである。
 
池上・曽根は、近畿のヘテラルキー~ヒエラルキー社会移行期である弥生時代前期のいい見本であると今は考えられており、その人々はどうやら黄河文明で押し出された江南長江文明人、あるいは斉によって押し出された山東半島先住民の到来を示す遺物である可能性の方が高い。
 
唐古・鍵の神殿も実はそうである。仏教の着ていない時代にあのような仏教色の強い建造物はありえず、あれはむしろ縄文的な高層建造物であるか、あるいは中国で見てきた仏教高楼の模写である可能性の方が高い。3世紀纏向の一部朱塗りの「神殿」でさえ、千木のある神社構造だったと考えられる。卑弥呼と言う巫女女王が鬼道という教義宗教以前の神仙思想のシャーマニズムのカリスマ性によって共立され、文字もなく、仏教もない時代に、「神殿」「宮城」というヒエラルキー思想の政治性・宗教性に付随して生まれる権威的構造物は存在し得ないと考える方が正常な歴史観だと言えるだろう。吉野ヶ里の高床建造物もそうである。漢代以後の佛教の影響下にそれらはない。
 
中世はゴチック建築のような天に聳える権威的高層建築と政治・武力王の登場、群雄割拠の国家間せめぎあいから始まると考えるのが西欧時代区分である。それはヒエラルキー思想の始まりからという史観である。しかし、日本の3世紀までに、出雲大社以外に宗教と高層建築が合体した構造物は存在しない。
 
以上、井上章一はこのように考えるのが当然だと書いている。そうかも知れない。

千木のある宗教色の見える建造物は、長江の少数民族の住居にも多々見ることができ、しかしその信仰はいわゆる日本の神道に近い、原始信仰・自然崇拝による構造で、そもそも千木は風を切り、素通りさせるための迷信的遺物である。つまりその神は自然神=宇宙神なのであり、中国では道教の域を出ない教義なき信仰のもの。少なくとも、キリスト教・仏教・イスラム教のような新しい時代の哲学のある宗教の始まりを告げる構造物とは言えない。
 
文明が始まる地域は、四大文明と長江文明そしてアナトリア文明などの始まる6000年前~4000年前の遺跡がある地域からであるが、逆説的に言うならば、それ以外の地域はすべて未開だったということに西欧史観はしてしまったわけである。では文明と未開の違いは何なのか?明確に言ってしまえば、やはりヘテラルキー~ヒエラルキーへの完璧な移行が始まるかどうかにかかってくる。そういう意味で、日本の近畿ではじまった弥生時代は、まだヘテラルキー色が強いと言わざるを得ない。古墳時代でさえそうである。いくら一部考古学が言い張っても、近畿の弥生時代草創期が北部九州よりも早くなることはなく、ヒエラルキーの確立が九州より早く訪れるという証拠もまったく存在しない。すべての遺物・遺構は、弥生前期に限るなら圧倒的に近畿は遅れている。そんな時代の池上・曽根にいきなり漢民族的・仏教的神殿が登場したはずはないということになる。
 
 
 
 
 
 
 
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ひとつのアジア・アジア主導の歴史観 幼稚なジャイアン中華共産

 
かつて四大文明と言われ、習ってきた文明発祥地に、今は6000年以上に遡れる長江文明が加わって五大文明とも考えられてきている。8000年前まで遡れるとも言われ、世界最古のチグリス・ユーフラテスのシュメール文明と長江文明は古さの点で方を並べる。黄河・エジプトなどせいぜい4000年前で新しいじゃないか、ということになってしまう。さらにバルカン半島のアッシリア・アナトリアの鉄の文明を入れれば、最古の三大文明をシュメール・長江・アナトリアだと言う事も可能であろう。(もちろんそこに自然崇拝を超越した哲学が同時存在したとは言えないが・・・)
 
 
 
世界最古の文明は、双方ともアジアで始まったのである。
 
 
三大教義宗教もまたアジアで始まった。三大とは言っても信仰人口でのきめ方であり、仏教は現在、キリスト教・イスラーム教・ヒンズー教についで四番目であるから、人口だけでくくるなら四大宗教と言ったほうがいいだろう。しかし歴史的にはユダヤ教が最古である。
 
既成の西欧史観によってきた世界史は今、大きな見直し期を迎えている。
 
 
 
 
教義宗教は西アジアの地中海で始まるグループと、中央アジアインドの東西におけるグループとに大別できるが、いずれもアジアから発生した。西欧史観の言う、中世が宗教革命・政治王の台頭・領土拡張戦争とともに始まるものならば、古代史の本道はアジアに始まらねばならない。しかるに西欧史観で古代史は、遅れてきたヘレニズムやローマ帝国までを中心に編纂されている。それはおかしいことではなかろうか?
 
アジアにはアジアの、共通史観が創生されてゆかねばならないのではないか?
 
 
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黄河文明人の子孫だと自称する共産主義中華が、今や、東アジア世界の政治的・軍事的・経済的盟主たらんとしているけれど、黄河文明や秦・漢の文明は教義宗教というものはお隣のインドの仏教という借り物で代用しており、自らはせいぜい原始宗教である道教や儒教しか生み出していない。しかもそれらは正確には教義意宗教でもない。道教の宇宙神の思想は日本の自然崇拝に毛の生えた神秘主義信仰の一種で古代宗教であり、儒教などは人の正道を説いた政治ノウハウ以上の何者でもない。おまけにそれらのすべての始まりは黄河文明漢民族が滅ぼし、追い出した長江文明人の原始信仰を加工したものでしかない。つまり中華にはオリジナルの宗教はない。共産主義でさえ西欧の借り物ではないか。
 
従って、最古の教義宗教と最古の文明をともに生み出したれっきとした最古の文明は東アジア世界にはないのである。
 
日本・中国・朝鮮の大乗仏教も最初の南都仏教から今日まで、あいもかわらず古来の原始信仰の基板から抜け出ておらず、真の仏陀の教えとは言えない。
 
仏教とキリスト教は似ている。そしてそれよりも進んでいるのはイスラーム教である。あくまでも教義・原理にこだわるという点で、イスラームは宗教を越えたところに行ってしまった変形宗教である。
 
それ以外の信仰はすべてが原始自然崇拝の亜流で、神は宇宙・自然の摂理で、人を喰う神でしかない。それを宗教とは言わない。それはシャーマニズムである。
 
 
 
 
いずれにせよすべてはアジアから始まっている。
だからアジアは早くひとつになりキリスト教史観・哲学・科学に並立する世界を構築すべきである。そのためにはまず東アジア、西アジアがそれぞれひとつになることが先決だ。
 
 
 
科学と資源にあぐらをかいてきた西欧あんのん哲学と並立し、世界の緊張と緩和による対立安定をあと1000年以内に作り出し、土から生まれてきた資源のしがらみを解き放つ必要がある。そうでなければわれらの地球は長くは持つまい。
 
 
まずは中国は精神的成金侵略思想から抜け出さねばなるまい。早急に心的アウフヘーベンを成し遂げるべし。今のままでは幼稚なジャイアンだ。
 
 
 
 日本史カテゴリーはどのランキングサイトの登録者も、古い、狭い。
だからブログランキング日本史から登録削除した。世界から日本を見つめるノウハウのない人々と組するつもりはもうとうない。
 
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信長と卑弥呼 環濠集落と安土城・倭国大乱と応仁の乱

 
 
今、問いたいのは、いったいどっちが日本の正しい「中世の始まり」だったかだ。
 
 
 
 
 
 
現在の歴史教科書は、安土・桃山時代からを近世としていることが多い。かつて戦国時代は中世で、江戸時代からが近世だった。
 
京都の人はよく「先の大いくさと言えば?」と聞かれて「応仁の乱」と答えるというようなことが言われている。まさかそんなことはない。第二次大戦で焼かれなかった京都では、先の大いくさとは蛤御門の変というのが正しい。しかし、それとは別に応仁の乱は、日本史の中で中世から戦国時代への画期となったいくさである。その応仁の乱と3世紀の倭国大乱のふたつの戦争は、実は日本史を区分するに値する画期的な歴史変化だったと言える。つまり邪馬台国と卑弥呼の登場は、日本史の「弥生時代」などという土器区分ではなくて、そこから中世的な王権・・・つまり
1仰揚型前方後円墳
2環濠・城柵を持ったシャーマニズム神殿
3巫覡であるながら共立された武力王
という条件を備えた時代の始まりをつげているのである。
 
それが室町と戦国を分ける応仁の乱と、時代背景がまったくよく似ている。
 
日本史で、環濠や城柵といった、外敵を防御する設備を持った構造の町が登場するのは、実は弥生時代の3世紀以降と戦国時代、特に信長が始めて作った天守閣のある平城(ひらじろ)=安土城以後の二回だけである。弥生環濠集落は古墳時代には消えてしまうし、平城は明治時代には消える。平城には堀と石垣が付随するから、卑弥呼の居城?とまったく同じである。つまりこの二度は国内が争乱期だったから生まれた施設である。ちなみに高地性集落と中世山城にも類似点はあるだろう。
 
 
 
つまり日本史で、大きな内乱がこの二つの時期にだけあったからなのである。
 
これ以外では天智天皇の時代に朝鮮式山城とか神護石とか呼ばれてきた石垣と水城ができた時期、そして蒙古襲来の際の防塁ができた時期が二度あって、これはどちらも海外の外敵からの防御のための施設だった。
 
 
このように日本史では、二度の大内乱と二度の外敵襲来の危機は確実にあったことが考古学的に証明できる。これ以外では、記録では壬申の乱があるが、これが実際にあったかどうかを証明する考古学上の遺物は実は存在しないことはあまり知られていない。壬申の乱はあくまでも朝廷内部のあとめ争そいに過ぎないからだろう。次に蛤御門の変と明治維新戦争、そして日清・日露戦争のあと、最後の大いくさが二度の世界大戦である。このうち日本が国家として敗北したのは白村江と第二次大戦の二回だけ。
 
 
大局的には、日本はおしなべて、少しの戦争、少しの朝貢外交、あとはずっと鎖国状態でやってきたと見てよいだろう。ちょっと外を見て、すぐ閉めて、あとは数百年も寝ていたというのを繰り返すのが日本の歴史である。
 
 
 
 
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ヤッコカンザシ・地震隆起・阿蘇山鳴動

 
 
ヤッコカンザシは過去のプレート隆起年代の指針

ヤッコカンザシはゴカイの仲間。
海水面付近の岩石などに石灰質の管をつくり棲家とする。 水没した時に、この管から触手を出してプランクトンを食べている。この管の集まる場所は海面と岩礁のきわ。だからそこはかつて海面がすれすれまであったという証拠になる。もちろん縄文海進の推移も年輪のようにわかる。
 
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アクアガイド海の生き物図鑑(作成中)より
http://sea.ap.teacup.com/aqua-guide/14.html
 
 

これが過去のプレート地震の時期を知る指標にもなることを発見したのは産業技術総合研究所・海溝型地震履歴研究チーム長の宍倉正展(ししくら・まさのぶ)。調査現場は千葉県館山市見物(けんぶ)海岸の海岸段丘である。
 
 

「この場所は関東地震(大正関東大震災)の震源地の真上に位置しています。関東地震は、沈み込む海側のプレートと上にある陸側のプレーとの境界で起きる地震です。地震の際に陸側のプレートが跳ね上がることにより、その真上では地面が隆起する。見物海岸では、過去何度も地震によって繰り返し地面が隆起したため、その痕跡が独特な地形として残されているのです」

見物海岸のヤッコカンザシ群生痕跡は高さの違う二ヶ所に見られた。その「年輪」をヤッコカンザシの管を炭素年代法で調べると、それぞれ100年前、300年前という数値が出た。それはちょうど前者が関東大震災、後者が元禄時代に起きた関東地震の時期にジャストフィット。プレートテクトニクス理論の、海中における海側プレートが陸側プレートに引き込まれて起こる大地震によって、陸地が隆起した痕跡であることが確認されたのだった。
 
 
 

付着した年代が違う ヤッコカンザシの巣穴 室戸の地質・地形・景観室戸岬生物
「これは、大地が隆起している証拠です。隆起速度だって計算できますよ!
 何千年も前に生息していた時のヤッコカンザシの巣穴が岩石に付着しています。ヤッコカンザシは潮間帯(潮の満ち引きする場所)にしか生息していません。さて、どうやって海面から何mもの高さに、しかも色々な高さに付着しているのでしょう?これは、地震などによって大地が隆起を繰り返すことで形成されたのです。」
http://www.muroto-geo.jp/geomap/%E4%BB%98%E7%9D%80%E3%81%97%E3%81%9F%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%81%8C%E9%81%95%E3%81%86%E3%83%A4%E3%83%83%E3%82%B3%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%82%B7/
 
 
 
 
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エボシ岩付近の『ポットホール』より
http://blog.goo.ne.jp/hikaruyui/e/f9cfd03a4d13dcce08328c1dff58901b
 
 
 
 
三浦半島で. は化石ヤッコカンザシと歴史地震 との対応を検討し,. 1703 年元禄関東地震,1923 年大正関東地震の隆起の復元に. 成功して いる[宍倉・越後(2001)]
sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_23/23_021.pdf
 
 
 
「それぞれの分野にそれぞれの常識があります。例えば潮間帯の生物は深さ方向にきれいな帯状の分布を示すことは海洋生物を学ぶ者なら常識です。でも地形を学ぶ者には常識ではないのです。

元禄時代に関東に起こった大地震で、どれくらい地面が隆起したのか。従来は地形から推定していたのですが、地理学教室で2年上の先輩だった茅根さん(現、東大助教授)が、「変なものがべたべたついてんだけど、これから当時の水深が分からないだろうか」と管棲多毛類の管を持ってきました。ヤッコカンザシという、かなり特徴的な管を作る種類だったので、私でもすぐに同定できました。
 
かくして房総半島や三浦半島で元禄地震の隆起量を見直す論文を発表することになったのでした。テクトニクスの分野では、しばらくヤッコカンザシがブームになったものです。」
http://webpark1489.sakura.ne.jp/docs/profile/photo_images/picup_02.html
 
 
 
 
 
 
 
さて関連する話として、阿蘇山が鳴動を始めたようである。
筆者の住む大分県でも火山灰のために洗濯物は室内に干す日々。
阿蘇の隣接地である竹田市では高冷地野菜が大被害を受けている。

なぜ今、世界各地で火山活動が連発し始めたのか?
もう一度過去のこの記事を貼り付けておきたい。

日本の火山110・2014噴火した火山総覧
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これも過去記事で切取った記事

 「地震の多くは、細長く帯状あるいは線上に分布して発生しています。そしてその多くは、海溝沿いの地域に起こっています。
 
 大西洋の中央をほぼ南北に走っているのは、プレートのわき出し口で、大西洋中央海嶺です。(下図:1990年から2000年までの世界の地震の震央分布、マグニチュード4.0以上、深さ50kmより浅い地震)。

 これらの分布と世界のプレートの分布(下図)を比較すると、地震の震源や火山の集中しているところにはプレートとプレートの境界があることがわかります。」
http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/whitep/2-1.html
 
 
 
 
 

そんなことはもう常識となっている。
環太平洋火山帯=リング・オブ・ファイアーの鳴動と、プレートテクトニクスが大きく関わることまでは、誰でももうわかっている。

ところが、今順番に起きている世界の火山の活動が、ではいつ、何をきっかけに、次はどこの火山で、どういう理由で、起きるのか、地震学は手も足も出ない状況に変わりがない。いったい地震学とはなんのためにある学問なのか?いや、そもそも学問なのか?それは数学者と同じ、無意味なパズル遊びの、結局は自己満足のせんずり学問なのか?

NHK取材班による「NHKスペシャルMEGAQUAKE巨大地震」が本になった。そうそうたる地震学者研究者の名を連ねているけれど、どれもこれもが日本列島の話ばかりで、誰一人としてリングオブファイア全体から日本の地震や火山活動を語る記事がない。狭小で地を這うような二次元の視野と、過去への自戒、そしてさしてやむにたちそうもないわずかばかりの新発見・・・。
ますます人類の無力を感じさせる絶望的一冊である。
 
関東大震災から90年が経った。
当時の地震学者・今村明恒の自戒の一言から、なにひとつ進歩がない。

「学問の今日の程度であっても若し国内の地震学者が予め適当な注意を加ふる事があったなら、火災のごときは大部分を防止し得られ、災厄の幾分を軽減することができたであらう
、然るに事此に出でずして彼の様な大惨害を招いたのは地震学者として我々は慙愧に堪えないのである」
 

これはまるで先の原発事故における東電関係者の自戒そのままである。何も進化していない言葉がまたいつか繰り返されることは、バカでも予想できる。
 
ゴカイでさえ危機を教えている。大自然に危険へのサイン・ヒントは満ちている。少なくとも、ヤッコカンザシが示す元禄~大正地震の隆起の間隔は200年。そして90年後に東北大震災が起こった。大地震はそういうスパンで起こる。同じくヤッコカンザシによる隆起間隔が高知県室戸でもわかる。こちらはプレートの南海トラフの動きの間隔である。列島の東西で、100年おきくらいで大鳴動は起こるのである。そしてそれに付随して作用反作用を受けた火山帯にも大きな摩擦や圧迫、揺りが加わる。そこで起きるのは悪いことばかりではなく、鉱物の圧縮による貴金属や資源の誕生という悠久の時間のできごとも起こり始める。人はいくらか死ぬだろう。しかし無駄な死ではない。しかし学者たちは、その死を、地球ほどに存分に役立ててはいないのではないか?どこまで死者たちをバカにすれば気が済むのだろう?
 
 
 
 
 
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マッサン・なぜNHKか?・サントリーとニッカ・首都移転構想・歴史

 
雑感である。
 
 

NHK朝ドラ「マッサン」は民放テレビ局では制作できない。その理由は?
エコノミックニュース 11月15日(土)15時27分配信
 
 
NHK朝ドラ「マッサン」は民放テレビ局では制作できない。その理由は?
 
 「ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝と妻リタをモデルにしたNHK連続テレビ小説「マッサン」の放送が9月29日から始まった。が、そのドラマ「マッサン」は、在京大手民放TVキー局では、絶対に制作できない内容のドラマなので、ニッカウヰスキー関係者の期待は高い。なぜ民放各社で制作できないのか? その理由が端的に分かる事例が発生しているようだ。
 
  大ヒットした今年度前期のNHK連続テレビ小説「花子とアン」に続いて、「マッサン」に対する視聴者の注目・関心は高いようだ。NHK朝ドラ史上初めて外国人をヒロインにしたことでも話題になっており、スタートから5週連続で平均視聴率20%超えなど好調だ。ドラマの影響は放送開始前からニッカウヰスキー創業地である北海道の余市蒸溜所にも波及し、「工場見学ナンバー1」となった施設と言うことも手伝って、例年より多くの見学客が訪れているという。
 
  ところで、事件は東京・文京区音羽の出版社、講談社で起きた。同社発行の「週刊現代」8月25日発売号に、サントリーから角ハイボールに関する2ページのカラー広告の出稿があった。ところが、この広告の次ページから、「我が社に伝わる秘宝」とのカラー企画記事が掲載された。ここでニッカを2ページにわたって取り上げ、写真も大きく掲載した。事実上、ニッカを後押しする記事と受け取られても仕方のない構成だった。これがサントリーの逆鱗に触れたというのである。
  その企画記事は、竹鶴政孝氏を「日本のウイスキーの父」、ニッカを「ジャパニーズウイスキーの原点」と紹介し、NHKの朝ドラ「マッサン」は政孝とリタ夫妻の物語と紹介した。事実は間違っていない。
 
  しかし、「日本で最初にウイスキーをつくったのは、大阪「寿屋」(サントリーの前身)社長の鳥井信治郎である」と一貫してアピールしてきたサントリー。確かにそれも間違いのない事実だ。日本で初めてウイスキーを蒸溜したサントリー山崎蒸溜所のパンフレットでも同じように記載している。山崎蒸溜所を設計したのは、当時「寿屋」に請われて入社し、日本初のウイスキーづくりに参画し、初代・山崎蒸溜所所長の竹鶴政孝だとは、ひと言も触れられていない。
 
  そうした事実を封印してきたサントリーの広告ページの後に、ニッカ礼賛記事が載ったことは、サントリーにしてみれば、到底容認できる内容ではない(広告代理店関係者)。しかも自社が出稿した広告の隣に当てつけのようにニッカの記事が並べられ、サントリーは黙っていなかったというのだ。
 
  一部報道によると、サントリーは「今回の広告費は払わない。御社の媒体には、今後一切広告を出稿しないことも検討する」と講談社に激しく抗議したという。
 
  サントリーは日本のウイスキー事業をリードしてきたという自負がある。逆にNHKとニッカにすれば、ドラマ「マッサン」が当たれば、新聞や雑誌で報道される機会が増え宣伝につながる。が、ウイスキーの国内シェア6割を誇るサントリーにとっては、打撃にもなり得る。なんらかの対策を講じるだろうと予想は立つ。
 
  しかし、分からないのは講談社「週刊現代」の記事構成だ。編集者なら、8月25日発売号の台割を見た次点で“まずい”構成だと気がつくはず。広告部だって「ニッカの企画記事を次号送りにするなどの要請」を編集長に申し入れるはずだ。長年、業界にいればサントリー宣伝部の対応は予想できた、と思うのは筆者だけだろうか。
 
  サントリーは「ジャパニーズウイスキー」としてサントリーとニッカの製品が並列に紹介されることさえ嫌う。そんなことは雑誌出版社だけでなく、年間広告収入クライアントのトップクラスにあるサントリーに支えられたテレビ局だって百も承知だ。だから、ドラマ「マッサン」は、NHKでなければ制作できないドラマなのだ。
 
  ドラマ「マッサン」にはサントリーが「神経を尖らせている」(広告代理店社員)との噂でもちきりだ。今後、メディア各社は「マッサン」の扱いに苦慮することになりそうである。ニッカは今年創業80周年、竹鶴政孝・生誕120年で記念事業を仕掛け朝ドラに乗じて攻勢をかけてくる。サントリーは広告を盾にマスコミ各社に「ニッカ外し」の圧力をかけてくる可能性が高いと広告代理店は予想している。」(編集担当:吉田恒)
 
 
 
 
 

サントリー佐治敬三の 東北熊襲発言
「1988年(昭和63年)2月28日、TBS系列「JNN報道特集」で、東京からの首都機能移転問題が扱われた[1]。この中で、佐治敬三が、
 
「仙台遷都などアホなことを考えてる人がおるそうやけど、(中略)東北は熊襲の産地。文化的程度も極めて低い」
 
と発言した。この発言が原因で、サントリーに対し東北地方での不買運動が起こる事になった。
 
熊襲(くまそ)とは、古代の日本において九州南部にいた反朝廷派勢力をさした言葉で、東北地方の住民は蝦夷(えみし)と呼ばれていた。いずれの呼称もヤマト王権側の畿内(近畿一円)から離れた地域を下位に見る傾向から付けられた蔑称であり、ヤマトタケル神話などではともに征伐される対象として登場するため、どうあれ文明の低い「未開人・蛮族」というニュアンスの言葉である。
 
背景
 
当時は首都機能移転の議論が行われていた時期の一つであり、仙台市や南東北3県では誘致活動に熱心であった。同じく近畿地方でも新首都誘致の活動が盛り上がっており、俄かに郷土主義的な対立が高まっていた。そうした中で近畿地方の財界人の筆頭による差別発言が行われ、東北地方を中心として強い反発を招くこととなった。
 
サントリーは美術館やコンサートホールを運営するなど予てより企業メセナに多くの資金を投じ、文化的な企業としてのあり方を標榜してきた。こうした文化貢献はオーナー一族出身の社長である佐治の意思で行われていたにも関わらず、その当人から発せられた特定文化・民族に対する蔑視発言は矛盾した行為として非難の対象となった。またそもそもサントリー自体が日本を代表する大企業の一つであり、社会的な影響が大きい事も発言が重く受け止められた理由になった。
 
名指しで批判を受けた仙台市では300本以上の抗議電話が殺到し、サントリー仙台支店は対応に追われる事になった。まれに励ましの電話を受けた時、女性社員が感動して涙したと朝日新聞が報道している[4]。他に秋田県では当時の佐々木喜久治知事の指示で同県共済組合の保養・宿泊施設におけるサントリー製品の仕入れが停止される異例の事態となった。
 
、青森県では野辺地町でサントリーの原酒工場の計画が進んでおり、熊本県との間で誘致を競っていた。北村正哉知事は表立った批判を避けるなど配慮を示し、また地元でも工場設置を望む声が引き続き強いなど東北各県で対応が分かれる結果となった。抗議運動に温度差があることについて週刊新潮は「怒ったフリする東北」と題した記事を掲載している。
 
1988年3月9日、衆議院予算委員会で沢藤礼次郎衆議院議員は「ここまで言われたのでは東北人のプライドといいますか、大変傷つくのも無理がないわけであります」と差別発言を批判する意見を述べている[8]。一方、当時の竹下内閣の奥野誠亮国土庁長官は「首都を自分のところへ持っていきたい、その熱望の余りに口が滑ったというふうに受けとめたい」と批判する意見を述べている。
 
また本来の「熊襲」を含む地域であり、同じく畿内から離れた地域である九州では殆ど抗議運動は起こらなかった。用語はともかく差別発言の対象自体になった訳ではなく、また熊襲と定義されていた地域も一部に限られている事から当事者意識は余り抱かれなかった。むしろ青森県と工場誘致を競っていた大分県では地元の経済団体が佐治を応援する形で講演会を開き、歓迎ムード一色であったという。その大分県と誘致を競う形となっていた熊本県の細川護熙知事は発言についての言及を行わなかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E7%86%8A%E8%A5%B2%E7%99%BA%E8%A8%80
 
 
 
 

さて佐治敬三の蝦夷と熊襲の取り違えは、西日本人の東北無知・無関心を如実に示す歴史的誤解として歴史学や神話学でもよく持ち出されるエピソードである。
西日本人の佐治は熊襲と蝦夷の違いもわからなかったのである。明治時代の民俗学者喜田貞吉は蝦夷を「毛人 もうじん、けひと、けっと」などと表現している。一方、記紀には熊襲を毛深い人つまりやはり毛人としてある。たがいに中央部の渡来人子孫とは別種であるとしてあるので、佐治は混同していた可能性はあるのだが、どっちにせよ東北人や九州南部人を異人種
だと言ってしまったことに変わりはない。今なら大変なことになってしまう出来事だった。

この時から東北ではサントリー不買運動が勃発。あらゆる飲み屋、スナック、バーからサントリウイスキーその他の商品は消えてしまう。代わって当然のようにニッカが台頭。

なぜサントリーとニッカが不仲になったかは、
「1933年11月、寿屋は突然、横浜工場を売却する。購入額よりはるかに高値であったことから、寿屋にとってはよい商談であったが、工場長である竹鶴に事前に何の連絡もなかったことから、寿屋に対し不信感を持つようになる。
大日本果汁(のちニッカウヰスキー)の設立
1934年3月1日、後続の技師が育ってきたこと、帝王教育を竹鶴に任されていた鳥井の長男・吉太郎に一通りの事を教え終わったこと、最初の約束である10年が経過したことから、竹鶴は寿屋を退社」
 
から想像するほかはない。ニッカとサントリー間にとりたてて確執はなかった。
ただ竹鶴はあまりにも職人であり、鳥居はあまりにも経営者であった、それだけのことである。入社時はその違いが利点に働き、互いが相乗効果をあげたが、退社時には今度はそれが職人の理想から遠ざかっていく、それは最初からわかっていたことである。

どっちにしても、日本でウイスキーへの嗜好性は、本格洋酒の安くなったことや焼酎ブーム、安い発泡酒ビールの登場などで終焉したといってもかまうまい。ハイボールも水割りもオンザロックも、実はシングルモルトウイスキーの楽しみ方としては邪道である。しかし日本人にはショットでやる習慣はいまだに根付いてはいない。自前の蒸留酒でさ湯で割るのが日本人。それは酒に強いとされる鹿児島県人や九州人がそうするのであるから、もともとアセトアルデヒト分解力の弱い渡来系雑種の日本人には蒸留酒のショット飲みそのものが向いていないのだ。

オンザロックこそが日本人のウイスキーの飲み方のNo.1である。
 
さて熊襲と蝦夷の取り違えから見えて来るのは、西日本人と東日本人の大きな溝である。日本史上、これも二度の遷都で見えてくる。鎌倉の遷都から室町幕府の平安復活。信長の安土から家康の江戸の二度の首都変更である。東国人はあきらかに京都へのコンプレックスがある。

鎌倉時代という時代区分はよくわからないところがある。まず鎌倉のような狭い地域で、しかもあのように首都機能としては貧弱な場所で、果たして首都と呼べたかどうか?またかりにそうだったにせよ、当時の都はやはり京都のままで天皇はちゃんと御所におられたわけである。これは江戸幕府も同じ。天皇が関東に移るのは公武合体以後である。鎌倉は頼朝が源氏の武家政治の中心地として平安京の古き悪しき慣習から離れるために作られたわけだが、その源氏の世の中はわずか三代で幕を閉じ、あとは摂関家として平氏の北条家が幕府を運営。結局、足利家が南北騒乱に勝って、また首都は京都へ戻ってしまう。

次に応仁の乱から足利家は没落し、戦国時代となって信長が台頭、都を琵琶湖へ。これを受けた秀吉は大坂遷都。しかし浜松殿が今度は江戸へ遷都。そのまま明治政府も東京へ改名して、以後、東京関東人の関西嫌いが定着した。「京都は人をだめにする」「京都で学ぶと遊び人になる」などと東京大学は言い始めてしまう。まあ、しかし東京で学んでも、なる奴はえらくなるが、ならない奴は遊び人になることに変わりはないだろう。遊び人になれるほど根性があれば、大臣にだってなれとも言える。筆者の経験では確かに京都で学生になったら遊び人になったけどね。逆に言うなら京都で遊んでないから東京の政治や学問は杓子定規でつまらない、という言い方だってできてしまう。
 
関東人には関西人への、関西人には関東人への、それぞれ差別と排他はある。それはむしろ当然のことである。歴史が違う、言葉が違う、味覚が違う、住んでいる環境が違う・・・。
 
自由主義で見るならば関西はばらばらで自由である。関東はひとつの類型を押し付けて不自由である。簡単な例では関東では信号を無視したらしかられるし、列に並ばないとしかられる。これは不自由であるが平等である。関西には自由は山ほどあるが平等はない。もともと公家が作った関西とン、武家が作った関東が水と油なのはあたりまえ。鳥居と竹鶴がやはりそうだった。
 
ただし環境で考えるなら、関東・東北は冬は寒いし、雪が降り、地震はあるは、夏はクソ暑いと、かなり劣悪。関西・西日本は、夏は暑いが冬暖かく、雪は少ないし、地震も少なく、晴れた日が多くて経済活動の邪魔をしない環境である。だからなぜ東京に首都があるのか、外国人には不思議である。まして放射能の危険性も高い。ハブ空港は遠い。犯罪は多いし、危ない外国人もたくさんいる。細菌やウイルスは一番に東京に上陸する(これは首都だからしょうがないか)。東京は本州の最東端で、東アジアからも欧州からも一番遠い不便な土地である。それだけ経済的にはよくない遠隔地なのである。なぜ中心に首都がないのか?
 
いろいろなことを勘案してゆくと、ぼくは岡山県が首都には一番いいように見える。つまりかつての吉備王国である。
 
 

 
 
 
 
 
 
 
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フィギュアスケートはど演歌でもいいのか?

今年から歌が入ってもいいことになったフィギュアスケート。
ってことは「女の道」とか「ずんどこ節」とか「軍歌」でもいいのか?
 
 
羽生ゆずる、曲目はドリフのずんどこ節です・・・なんてありか?
 
 
 
 
しもた、こっちに書いてしまった。
 
 

源氏・末摘花の「ふるきのかはきぬ」と蝦夷・粛慎

 
 
『源氏物語』末摘花(すゑつむはな)
「四五人、物くふもあり。みなさむげに、ふるきものきてふるふもあり。かたはらいたければ、立のきて、たゞいまおはするやうにて打たゝき、入給ふ。・・・・かみはうちきのすそにたまりて、ひかれたる程一尺ばかり、うつくしげにめでたし。聴色のわりなう上白みたる一襲、なごりなう黒き袿重ねて 、表着には黒貂の皮衣(ふるきのかはきぬ)、いときよらに香ばしきを着給へり。」
 
 
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聴色のわりなう上白みたる一襲、なごりなう黒き袿重ねて 、表着には黒貂の皮衣(ふるきのかはきぬ)、いときよらに香ばしきを着給へり。
 
大意
ゆるし色のひどく色あせた一襲(ひとかさね)に すっかり黒くなった袿(うちき)をかさね 上 着には黒貂(くろてん)の毛皮の とてもきれいで香を焚きしめたのを着ていらっしゃる
 

ゆるしいろ【許し色/聴し色】とは。意味や解説。平安時代、だれでも着用を許された 衣服の色。紅色・紫色の淡い色など。ゆるしのいろ。→禁色(きんじき)

ここに古くはクロテンを「ふるき」と呼んだことが書かれている。「かわきぬ」とは毛皮である。毛皮は奈良の頃から朝廷や豪族の間では垂涎の貴重品で、平安時代でもクロテンの毛皮は参議以上しか見に付けられなかったほどである。毛皮の多くは高句麗や半島各国から取り寄せる交易品であるが、クロテンの多くは渤海産だったと言われている。
 
 
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エゾクロテン
 
 
 

阿倍比羅夫は遠征した東北で、多くの毛皮を持ち帰っており、『日本書記』には粛慎(みしはせ、あしはせ=オホーツク文化人の一種で大陸では「しゅくしん」と言われる民族がいたが混同されて文字だけ当てたか?)から入手した「生羆(しくま=ヒグマ)二、羆皮七十枚を献じたとある。ちょうどそのとき交易で訪れていた高句麗使たちは、クマ皮を高値で売りつけようと考えていたが、その大量の毛皮を見てビックリ仰天している。

渡島蝦夷が出羽国に持ち込んだ毛皮の記録では「雑皮」とひとからげにしてあるが、ヒグマ皮、葦鹿皮、独犴(どっかん=アザラシあるいはラッコ)などが『延喜式』に出羽・陸奥特産雑物として記録があり、天武年間での交易皮革は類推できる。

渤海のクロテンは、926年に渤海国が滅亡していることから、記録に多い10~11世紀のクロテン毛皮は渤海産とは考えにくいので、末摘花の着たクロテンはおそらくオホーツク産だった可能性が高い。つまりそれはサハリン産のエゾクロテンだったと考えられるのである。
 
 
 
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蝦夷は北海道の北東部オホーツク海沿岸のアイヌだったと考えられ始めている。そして日本の粛慎もまたオホーツク文化との関連が深い遺物が見つかり始めた。すると北海道の北東部から南下した種族が蝦夷、南西部擦文文化圏の住人が靺鞨・女真・古ギリヤ-ク民族であったろうと鈴木靖民は想定している(『日本古代の周辺史』2014)。
ただ、記録にある蝦夷や粛慎はかなり認識に混乱もあったと見たほうがよかろう。
 
 
 
 
 
  
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こもりく

◆こもりく
 
 
 
 
(かれ)、追ひ到りませる時に、待ち 懐 ( おも ) ひて歌ひたまはく
 
●隠国(こもりく)の  泊瀬 ( はつせ ) の山の  大峡 ( おほを ) には 
幡 ( はた ) 張り立て さ 小峡 ( をを ) には  幡 ( はた ) 張り立て 大峡にし なかさだめる 思ひ妻あはれ  槻弓 ( つくゆみ ) の  伏 ( こや ) る伏りも 梓弓 立てり立てりも 後も取り見る 思ひ妻あはれ  
 
●隠国(こもりく)の  泊瀬 ( はつせ ) の河の  上 ( かみ ) つ瀬に  斎杙 ( いくひ ) を打ち  下 ( しも ) つ瀬に  真杙 ( まくひ ) を打ち  斎杙 ( いくひ ) には 鏡を 懸 ( か ) け  真杙 ( まくひ ) には  真玉 ( またま ) を懸け  真玉 ( またま ) なす  我 ( あ ) が 思 ( も ) ふ妹 鏡なす 我が思ふ妻 ありと 言はばこそよ 家にも 行 ( ゆ ) かめ 国をも 偲 ( しの ) はめ
                                    『古事記』 木梨軽皇子詠みし歌二首
 
●木梨軽(きなしのかる)
允恭天皇の皇子。母は忍坂大中姫。安康天皇・雄略天皇の同母兄。允恭二十三年、立太子。同母妹の軽大娘皇女と密通し、翌年、これが漏れて軽大娘皇女は伊予に配流された。四十二年、允恭天皇が崩御すると、群臣は同母弟の穴穂皇子につき、孤立した太子は物部大前宿禰の家に匿われるが、穴穂皇子の軍勢に取り囲まれ、自決した(以上、日本書紀による)。古事記では大前・小前宿禰に捕えられ、伊予の湯に流されたあと、追って来た軽大郎女と心中したとある。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kinasi.html
 
 
 


 
 
●「こもりく」とは「籠るところ」である。隠国で「許母理久」と読む。
籠るとは、隠棲して精進潔斎し神仏に祈りを捧げることであるが、これはそもそも「まつる」ことの本義であった(久野昭2004)。
 
籠るの意味は、籠に隠れる。
「かご」は音を「こ」で、変化すると「け」となる。「こ」もる。かくれる。
「け」は食器の総称であった。→かわらけ、しょうけ、笥(け)に盛る飯を草枕
転じて「コモル」である。
 
祭とは本来、こうしてこもることだった。
 
●泊瀬(はつせ)は初瀬で、奈良県桜井市の山側、三輪山・巻向山・泊瀬山に囲まれた谷間を指す。
泊瀬川の湧水点で「初瀬」であり、最果ての「果つ瀬」であり、扇状地の奥の奥の黄泉の国である。
転じて「死に場所」。
長谷(はせ)は同意語である。長谷寺が建つ。
 
 
 


 
 土形娘子(ひじかたのおとめ)を泊瀬山に火葬(やまはぶ)る時に、柿本朝臣人  麻呂の作る歌一首
 
●隠口の 泊瀬の山に 照る月は 盈長しけり 人の常無き  万葉集 巻7 1270  詠み人知らず
 
 
  隠口乃泊瀬之山丹 照月者 盈呉為焉 人之常無
 
 
  こもりくの はつせのやまに てるつきは みちかけしけり ひとのつねなき
 
 
 
※盈=みちる
 
 
 


 
 
「許母理久乃は、「隠れ城の」にて泊瀬と云はん枕詞なり。許母理久は岩屋戸隠れなど云うごとく、人の、幽冥に隠もりて見えずなること、城は墓を奥城と云う城なり。泊瀬は上古の墓所にて山城の京の鳥部山の如くなりつれば、其の地の名も果瀬と云う。果は終る意。瀬は限りの意なり。ゆえに隠れ城の果瀬・・・。倭姫命世記に、許母理久志多備(こもりくしたび)の国とあるは、下部(地下)の国にて、黄泉の事なり」
                                     橘守部『稜威言別(いつのことわざ)』巻七
 
 
人麻呂の生きていた奈良時代(天武年間)に、泊瀬はすでに火葬の場となっていたことが考古学でわかった。
 
先日、考古学ニュースに兵庫県猪名部の火葬場遺跡が出ていたが、あれなどわずか鎌倉以後のものである。
泊瀬は奈良時代初頭から、つまり持統天皇が火葬された最初の天皇であり、最初の火葬を受けた僧道昭の時代である文武年間から始まっていたのだろう。
 
 
京都の鳥辺野(とりへの)はつまり化野(あだしの)周辺であるが、おたぎ郡周辺はやはり火葬と墓場になった。
この「とりへ」とは要するに鳥葬(チョウソウ)風習の縄文時代からあったという地名である。「あだしの」の「アダ」は「あだうち」・「あだな黒塀」の「仇」で、すさんだという意味である。転じて女のコケティッシュな風に使われる。
「おたぎ」には「あたご」が先、「お焚き火」が先などいくつか説がある。しかし「あだぎ」訛って「おたぎ」から「あたご」かも知れぬ(柳田國男)。
 
全国各地にコモル場所はある。
地名では、秋葉は火葬地名で今も火葬場は多いし、たいがい火の神カグツチを祀った秋葉神社もある(東京都秋葉原、別府市秋葉)。こういう場所はたいがい奥まった高台で、風が吹きぬける場所で、要するに鍛冶屋と同じく火がおこりやすい土地柄である。だから皮肉なことに昔から火事が多い。
 
長野県には隠れ里地名の戸隠(とがくし)がある。漂泊者が籠った地名であろう。
 
「おこも」さんという言葉は隠遁者の通称である。背中に薦=蓑やゴザを纏うゆえであるが、世捨て=死者なのであろう。古代にはそうした被差別舎から墓場の守戸・陵戸が選ばれた。それが武家の世になると漂泊するようになる。王家の庇護が失われたからだ。それらがいわゆる「瀬降り」「ポン」「わざおぎ」などへと分化していった。
 
 
和歌の大元は長歌であり、どちらも祭りの謳いから始まる。和歌の抑揚あふれる調子こそは「歌垣」からの由来を物語っている。長歌もまた節回しをつけ、本来吟遊口伝されたもので、そこから猿楽や神楽も始まっている。
謳いの大元こそは太古から続く訪問・来訪神の歓迎祭祀なのである。それは西欧ではフォークダンスやロマのフラメンコなのであり、少数民族では歓迎の手をつないで踊り謳う宴となる。ロマとは欧州ジプシーのような漂泊芸能民である。朝鮮にもそうした漂泊芸能民はあった。ゆえなくも、棲家を負われ、つまり敗北して彷徨せなばならなくなった歴史がそこにはある。
 
 
長谷寺十一面観音像は漂泊者と技能者の守り神である。
 
 
続く
 
参考 久野昭『異界の記憶 日本的たましいの原像を求めて』三省堂 2004
 
ちなみに人名の長谷・長谷川・長谷さんは泊瀬が起源の祭祀する氏族に多い。私事ながら筆者親族にも一軒あり。
 
 
 
 
komorikuno
 
 
 
 
 
 
 
先に書いたとおり、日本人は世界には少し出ては、あとは籠もる民族であった。
 
なぜなら、敗北者だったからである。
 
西日本の中心部を占めた人々は、そもそもが、大陸から追い出された人々が、こもりくの天然の要害であるまほろばに引きこもったことから始まった。われわれは敗北者の子孫から始まったのだ。
 
 
 
 
 
 
では?どうするんだ?考えろ。
 
 
おたく文化?
引きこもり?
 
 
 
 
 
どうする?
 
 
きみが考えることなのでは?
 
 
 
 
 
それでいいのか、そこから出てゆくのか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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