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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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ギリシア×ペルシア戦争まで遡ってイスラム世界を知る

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ダレイオス1世(古代ペルシア語: 𐎭𐎠𐎼𐎹𐎺𐎢𐏁 - Dārayavahuš - ダーラヤワウシュ, 英語: Dareios I, 紀元前558年頃 - 紀元前486年) はアケメネス朝ペルシア第3代の王(在位:紀元前522年 - 紀元前486年)。通称、ダレイオス大王。

インド遠征[編集]
詳細は「:en:Iranian invasion of Indus Valley」を参照
紀元前521年、パンジャーブ・シンドを征服。紀元前520年、ペルセポリスの建設に着手。
紀元前518年、ガンダーラを征服。

スキタイ征伐[編集]
スキタイ人征伐のため南ロシア平原に侵攻したが、スキタイの焦土作戦に苦しめられて撤退した。

ペルシア戦争[編集]
イオニア植民市の反乱を機として、ギリシアとの間で、約50年に及ぶペルシア戦争を開始させた。しかし、戦争の途中でダレイオスは死去し、戦いは息子のクセルクセス1世に引き継がれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B91%E4%B8%96


ペルシア戦争
(ギリシア語: Περσικοί Πόλεμοι)は、紀元前499年から紀元前449年の三度にわたるアケメネス朝ペルシア帝国のギリシア遠征をいう。ペルシャ戦争とも呼ぶ。「ペルシア戦争」とは、ギリシア側からの呼称である。学者によっては勝者の名を冠してギリシア戦争、ギリシャ戦争、あるいはフェアに両陣営の名をとってギリシア・ペルシア戦争(Greco–Persian Wars)、ギリシャ・ペルシャ戦争と呼ばれることもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89


・紀元前500年から紀元前449年にかけて、アケメネス朝ペルシアとポリス諸都市からなるギリシア連合軍がペルシア戦争を起こした。
・ペルシア戦争は、紀元前500年にアケメネス朝ペルシアのダレイオス1世の圧力を受けていた小アジア西岸イオニア植民市が反乱を起こしたことが原因となった。中心となったのがミレトスという街で、この反乱をアテネが支援したことにより、アケメネス朝と開戦した。
・ ペルシア戦争は、紀元前492年、紀元前490年、紀元前480〜479年にかけて三回にわたる戦争が行われた。
 
・紀元前490年には、アテネ東岸のマラトンに上陸したアケメネス朝軍を、ミルティアデスが指揮したアテネ軍が撃破したマラトンの戦いが起こる。ギリシア軍の勝利をアテネに伝えるために、伝令が命をかけて走りぬいた故事が、マラソン競技の起源。
・紀元前480年には、スパルタ王レオニダスが率いたスパルタ軍が全滅したテルモピレーの戦いが起こる。

・テルモピレーの戦いの同年、紀元前480年に、テミストクレス率いるアテネ海軍と、ペルシア海軍がサラミスの海戦を起こした。この戦いでは三段櫂船という軍艦が活躍し、アテネが勝利した。
 
・紀元前479年には、プラタイア(プラテーエ)の戦いが起こり、アテネ・スパルタ連合軍がペルシア軍を撃破し、この勝利の結果ペルシア戦争のギリシアの勝利が決まった。紀元前449年のカリアスの和約で集結する。
 
・紀元前478年には、ペルシア軍の再侵攻に備え、アテネを中心としたデロス同盟が結成された。デロス同盟の最盛期は約200のポリスが加盟したが、紀元前454年以降にはデロス同盟の軍資金の金庫がデロス島からアテネに移され、アテネが権力を掌握した。
http://manapedia.jp/text/2457


十字軍の小アジア(アナトリア)遠征
トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位1081年-1118年)が、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端(1095年)。このとき、大義名分として異教徒イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還を訴えた。この時皇帝アレクシオスが要請したのは東ローマ帝国への傭兵の提供であり、十字軍のような独自の軍団ではなかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D



十字軍はキリスト教圏の諸侯からなる大規模な連合軍であった。宗教的な情熱が強かったはずの第1回十字軍ですら、エデッサ伯国やアンティオキア公国などの領土の確立に走る者が出ており、第4回十字軍に至っては、キリスト教正教会国家である東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(現イスタンブル)を攻め落としてラテン帝国を築くなど、動機の不純さを露呈している。のみならず、同じカトリックの国であるハンガリーまで攻撃し、教皇に破門宣告されている。

もともとはエルサレムの回復を目的としていた十字軍であるが、後には、キリスト教徒から見た異教徒やローマ教皇庁から異端とされた教会や地方の討伐軍をも十字軍と呼ばれるようになった。このような例としてはアルビジョア十字軍などが知られており、ヨーロッパにおいても非難されることになる。

また、十字軍は純粋に軍人だけで構成されていたわけではなかった。従者のほかにも巡礼者や女・子供、娼婦など雑多な人間が混じっていた。騎士は巡礼者らの保護に努めたが、戦闘時には足手まといになる場面が見られた。

十字軍とともにエルサレムをめざす民間の巡礼者(武装巡礼団等)の運動も活発化したが、その純粋な信仰心が報われることはほとんどなく、途中で命や財産を奪われる者が多かった。
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なぜ中東とギリシアは戦い始めたか?
最初はペルシアアケメネス王朝がギリシアにしかけたギリシアの植民地主義への抵抗からである。続いて十字軍は西欧側の侵略植民地主義を契機にし、やがてこれが宗教対立へと曲折していく。こうなると民族戦争、異教徒排除戦争であり、完全なキリスト教側の排他主義=憎悪を根深いものにしてゆくしかない。そもそもそれは宗教的異教徒排除とともに、実は人種差別に根付いている。地中海諸国は、いや人類とは、「隣同士」「似たもの同士」でこそ争う生き物で、似ているから憎しみ遭うのである。ということは、レバント人たちと地中海欧州人が、そもそもは同じ原人類から枝分かれした民族だったことを証明していることになるだろう。それはユダヤ人もまったく同じである。つまり古代エジプト以前のセム系などの旧アフリカ民族から彼らが分かれたり、混血してできあがっていった「兄弟」だったからにほかならない。

レバント人やペルシア人、パキスタン人などの、人類史上最速で定住をはじめた現民族が、例えばスキタイやインドを攻め始めたのも、おそらくそういう似たものへの排他主義があったからではあるまいか?アジアやアフリカへの偏見が遅れるのは、遠いこともあるが、まったく異なった血と文化を、互いが干渉しあわずに利用できる、遠い異人種だったからに他ならない。あまりにも違うものとは人類はこれまで戦う機会がないのである。日本人と中国・朝鮮民族が争うのは、やはり似ているからだし、隣接しているからだ。

しかし科学が発達し、人類の発祥が西アジアを核として東西分岐したことなどがあきらかになってくると、人類みな兄弟====なら全世界が敵・・・となっていったとしても歴史的には異常な行動ではなくなってしまう?

兄弟は殺しあう、そして他人の始まりというのが、実は人類史の中の戦争や対立のほとんどを占めてきたのである。

こうした流れを一旦止めるためには、人類以上のまったく異なった存在が登場する必要がある。地球外生物とかとにかく別世界の、別な価値観の高度文明の持ち主が登場すれば、それまでの民族対立は一旦切り上げて、一致団結して立ち向かわねばならなくなる。しかし、宇宙人やら、溶解集団やらが現実に登場する望みは今のところないから、今の対立は存続せざるを、得ないわけである。

広い目で見るならば、なんだっていいから、今のうちに地球人はひとつのイデオロギーで団結しておく必要があることになるので、それがイスラム教だろうがキリスト教だろうが一向にかまわない、となるのであるが、それはしかし当然、地域によって価値観が違うので遅遅として地球同盟など完成するはずがない。ということはもし地球外からそれらを凌駕する脅威が訪れた場合、必然的に人類は支配されてしまうことになるだろう。

そうならないためには、例えばかつての東西冷戦のときのような、力の均衡が安定をもたらしてきた自由主義対共産主義のような古い対立が不可欠なのであるが、いかんせん、現代の過激派の多くは国単位の既成価値を持たないゲリラ集団ばかりなので、国対国のどんぱちではなくなった。アメリカ的なピンポイント作戦もすでに国家の拠点のない過激派には通用しなくなっている。つまり果てしなき局地戦が世界中に飛び火していくだけなのである。こんなやっかいな大儀なき仁義なき戦いを、世界の軍隊は経験したことがない。唯一、アメリカが大失敗したベトナム戦争というゲリラ抗戦があったが、アメリカは結局撤退してあきらめてしまった。中国と南越でかつて似たような戦が起きたが、中国人お得意の人海戦術もまた、南越のゲリラ作戦で大被害をこうむっている。将棋盤の上での対等な対立構造が描けないゲリラとの戦いは、必ず泥沼化し、どちらかが殺し合いに精根尽きるまで続くのだ。

敵は殺虫剤でどんどん強敵になってゆくハエやゴキブリのような存在である。しかも民間人も武装しており、ベトナム同様、誰が誰かもわからない戦況で、さらに海外からの「とにかくおれは真っ赤に燃え尽きたい」みたいなパンクな外人部隊が、にわかムスリムになって入ってくる。理屈などどうでもよい、ただの殺し屋集団である。ルールがないのだから休戦もあるはずもない。まるで不死身の殺戮集団である。次から次へ、倒しても倒しても起き上がって攻めてくる。ゾンビのような奴らである。囲い込んで一気に消し去ることが難しい。隔離してもよそに感染し増殖する。そういう奴らが、地球上で最も環境のよくない砂漠地帯を拠点にして点在しているのだから、攻めるほうはあたら燃料ばかり使わされる。おまけにその燃料を生んでいる油田がそこには存在する。これはつまりエネルギー資源への挑戦でもある。ここをまず乗り越えてしまわないと、攻めているんだか、ただ燃料を使い果たしているのかわけのわからない混沌にしかならない。殺せば殺すほど、あっちは原油で儲かるなんてことになりかねないのだ。

そんな異界に、日本のような、八方美人にならねば生きていけない摩訶不思議・おたく国家が乗り込んてって「おれはこっちに味方するぞ」などと大声張り上げたところで、何ができるはずもない。そもそも欧米と中東の2500年以上の戦いに、極東の小島ののほほん無知国家日本が何もいい格好する必要もない。外野はだまっとれ、と向こうが言っているのに、のこのこと資金援助していますよ~~~っとパフォーマンスしたがる必要なぞまったくないのだ。そもそも日本には大儀がない。門外漢である。そもそもオバマが、ブッシュのやり方を批判して中東に知らん振りしてきたがためにこういうことになったのである。なんで俺たちがそんなことに金を払ってまで参戦せにゃならん?誰が税金をそんなことのたにほいほい出すか。誰が支援金出してもよいと言ったか?おまえか?安倍を選んだのはおまえか?筆者は過去、一度たりとも自民党に投票したことなどないぞ。

ジャーナリストなんかも大嫌いだ。従軍ジャーナリストなんかもっと嫌いだ。帰ってきていい暮らしできて、もう怖くて行きませんと言って置きながら、テレビで「従軍カメラマン」のベレー帽かぶってるなまずなんか大嫌いだ。従軍していないならただのカメラマンだろう。なんのために世界中に脅威を知らせる必要が日本人などにあるだろうか?そんなことは当事者たちにさせておけばいいし、弱者を救いたいのなら、彼ら全員をこそどこか別世界に隔離してやればよいではないか?そうなると困るのだろう?異教徒を受け入れたくない国ばかりだろう?となりに人食い人種がもし住んでみなさい。それと一緒なんだろう?偽善者じゃない人間などいるはずないじゃないか。差別を絶対しない奴なんかいるはずもない。それが人間だからだよ。
カブトムシとゴキブリは同じ昆虫だからって、あなたはどっちも飼いますか?カブトムシはすぐ死ぬし、なかなか増えないし、触っても汚くないから好きなんでしょう?ゴキブリは不潔で山ほど卵もって、どんどん増えて、しかもなんでも食べるよ。テラテラしていてカシャカシャしていて、ごそごそ、夜中に徘徊しますよ。それって差別でしょう?蛇、蜘蛛、サソリ、ゲジゲジを楽しく共同生活できますか?じゃあ、あなたも差別してるんでしょう?

十字軍も、セルジュクトルコもフン族も蒙古も、全部同じ人類ですよ。どっちが悪いっていえますか?しかし、過激派には言えますよ。言えますか?おまえらだけは別だって。人殺しがしたいだけの狂人集団だと面と向かって言えますか?言えますよね。親族がアメリカの大財閥で、政治的には名ばかりのテロ集団であるアルカイダとは、彼らは違うんですからね。いわばアルカイダは貴族のテロだが、イスラム国はただの戦争おたく集団ですよ。殺戮中毒が帝国を夢見たとき、そこには戦慄しか生まれない。








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フン

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フン族とは誰か?
不明である。
騎馬遊牧民匈奴だとも言われるが、その正体はわかっていない。



いずれにせよ5世紀、彼らが東からやってきて、ゴートつまりゲルマン民族は押し出され南下し、ローマへ大量に異民族の血が入り込んだことは間違いない。

フン族欧州移入の要因は気候変動である。寒波による不作がそうさせた。
そして欧州中部、南部の混血を推し進めることになった。そしてこれが今の欧州人の元をなすことになる。

フンがスキタイであろうと匈奴であろうと、欧州人の混血に深く関わったことは否定のしようがなく、彼らと最初に欧州中央部で対峙したのはかつてのケルトの末裔だった東ゴート人だった。



これから少しフンの大王のことを書いてみよう。






同時に日本史では、武士の台頭の大元になる藤原純友のことを、書いてみる。



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フン族と民族大移動とそして現代IS発生の因果関係を一気に理解する

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フン族は一言で理解しようとするならば

「中央アジア騎馬遊牧民連合体」である。


345年以前の紀元前から、中央アジアのカスピ海沿岸の某所で、徐々に、東西から集散してできあがっていった国土を持たない、騎馬による移動生活をしてきた多くの民族が、3世紀の世界寒冷化によって各所で離散や侵略を受けることで南下逃亡離散融合拡散を繰り返していく事態が頻繁に起こっている。彼ら「おちこぼれ民族」が集まっていって、徐々にできあがってゆく騎馬民族集合体の中から、4世紀中葉にアッティラという英雄が生まれ出た。彼がゲルマン民族の大移動とイスラム帝国出現の契機となる最初のユーラシアの侵略大王である。

遺伝子的には、骨の分析で、遺跡によってアジア系とテュルク系民族が出てくる。
言語学的には、歴代の登場人物たちの名前がテュルク系イラン言語の意味を持つものが多い。ゆえに中心民族はトルキスタン・・・つまりテュルク・ペルシア人を中心として、コーカソイドが大量に混じった人々(スキタイ的)に、その他の東西民族(モンゴロイド)の混合体であると判断される。(参考 『アッティラ大王とフン族 <神の鞭>と呼ばれた男』カタリン・エッシャー/ヤロスラフ・レヴェディンスキー 2011)


遺跡
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アッティラ以前~アッティラ時代までのフン族の侵略コース
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フン族侵入によるゲルマン諸民族の移動とその後の建設国家
及び、フン族がササン朝ペルシアに与えたイスラム国家樹立への影響

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ゲルマン民族が移動してローマ人と混血することでできあがった現代欧州諸国家
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まとめるヒストリア世界文化史http://matomeruhistoria.ldblog.jp/archives/30782717.html




これらの図によって、大学受験程度のざっとした3世紀~現代欧州史は一発でご理解いただけるはずである。

さらに、ここで重要なのは、フン族の移動させた民族は東西ゲルマン人たちばかりでなく、ササン朝ペルシア人にも多大な恐怖心と、新たな「王国ではない新帝国」の必要性を考えさせた結果、ムハンマドが登場し、イスラームの名の下に、もっと強力な世界王国への野望をアラブ・ペルシア民族に植え付けたことなのだ。その結果、中東からイベリア半島にまで広がるイスラム帝国が誕生したことになる。

フンというのはあるいは「ホン」「ハン」で、諸国語ではほぼ共通して「小さな父」とか「ハーン」つまりモンゴルの大王の名称となっていく。つまり中央アジアの遊牧民集合体フンの勢力が衰えて以後、東では突厥・匈奴・スキタイ・ウイグルなどへと離散参入が起きたと考えられる。

ゴート民族が去った後の黒海沿岸には、ウクライナ人やパキスタン・トルクメニスタン・アフガニスタンなど「スタン」を名にする小国家が誕生したが、すべてテュルク系つまりスラブ系でもあるが遊牧騎馬民族による国家である。


こうしたことからも、これらすべてがフン族の残り物、残照国家であると考えてよいだろう。またポーランド・スロバキア・ハンガリーのような北欧国家もまた、かつてのゲルマン民族移動後に、フン族が消えてから再編成されていったものでハンガリーのハンはもちろんフンの混血を意味している。そしてこれらの寒冷地に、かつてあったイスラム国家を追い出して建国したのが、かつてのフン族に滅ぼされ追われてきた東ローマ帝国である。その名をロマノフ王家のロシア帝国と言う。クレムリンの建築様式がイスラムモスクのままである理由はここにある。そして今、ロシアは再び黒海のウクライナ周辺国家を併呑しようと野望を描いている。

また中国新彊におけるウイグル民族=かつての匈奴・スキタイ民族の民族運動も、まったく同様、チベットやブータンも論外ではない。やがてこれらの旧帝国の復活の野望をとりまとめる大勢力が、既存の欧米型資本主義社会を脅かす連合になる可能性も考えておくべきであり、そのメンタル面の指導的中心になろうとしているのがイスラム教であることも決して忘れてはならないのであろう。




かくて歴史は必ず繰り返す。





次回は、久々にケルトに戻って、考古学的に。




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ガリア人の水の祭殿は日本の水祭祀場にそっくり

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ケルト系民族だったガリア人は、水を聖なるものとして祭殿を建てている。
フランス、オワーズ県のグルネイにあるその遺跡を復元したものがこれ。

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これを見て筆者がすぐに思い出したのは、日本の三重県松阪市にある宝塚古墳出土の建造物埴輪。

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あるいは同じ導水施設遺構では大阪府にもこのようなものがあった。

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日本のは、いずれも湧水を山から引き出して来て作るが、ガリア人のは湧水をそのまま囲ってあるのだろう。


飛鳥には水の祭祀場としてこういう有名なものがある。

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古代人は東西で、みな聖なる水を、つまり生命が湧き出す場と感じ取り、そこで水の中に再生し連続するリーインカーネーションを神のわざとしたから祭殿を作ったのである。

それは水が作り出す永遠のしるし=水の斑紋=渦こそがコスモスだと理解したからである。


グルネイでは、祭殿を囲う環濠の中に、一定距離をおいて動物と人間の供儀が行われている。つまり人柱である。こういうところも聖地の結界としての人身御供が東西にあったことを教えてくれる。あの皇居、江戸城の堀の中の人柱を思い出す。


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藤原純友の乱 1

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藤原純友は中央貴族だった藤原氏の、それもかなりの身分の出である。
それが、なぜか伊予の三番目の地位の地方官吏として派遣されている。
このあたりは実は非常に大事なことであろう。

純友が平安京に向かい、海賊の頭領として侵略したのは、平将門の関東での決起と呼応しているはずである。その証拠に、将門が殺されるやいなや、純友は軍艦を引いて、伊予日振島に舞い戻っている。


皇室中心主義の体制に不満を持ちえたのは、関東の田舎ものだった平氏よりも、実は体制の中心にあった藤原氏の、末端や中枢にこそ他出するのである。仲麻呂しかり広嗣しかり悪佐府・頼長しかりである。皇室体制の実態を誰より知って、誰よりも憂えているからこそ、つまり知識人だからこそ、憤懣は表出して当然である。


実際、茨城の田舎武士だった平将門には、そもそも朝廷に逆らおうという思いはまったくなく、ただ帰国したら親の在所をすべて、腹違いの伯父らに占領されていた不満から立ち上がっただけで、あとは流されるままに、民衆の中央への反感が彼をして関東の大魔王にしていっただけだったのに、純友の影響で、徐々に、将門も中央の既得権益にまい進してゆく政治体制のばかばかしさに自意識を高揚していっただけだったのであろう。


そもそも中央藤原氏の、それもかなりのよい家柄の出自の純友が、なぜ伊予の守でも介でもなくジョウだったのか、にもかかわらず、侵略を開始したとたんに天皇が彼を従五位下という上級官位を与えたのかというところに、天武~平安まで不安定な天皇支配体制は見えすぎているのである。要するに、平清盛が出現するまで、古代から、この国の中央集権などは有名無実なものだったのだ。


朝廷などと歴史では習い、まるでそれが卑弥呼の時代から奈良時代を経て、平安時代までながながと存続していたなどという既存大和中心主義史観そのものが、実は純友の乱によって、「んなものうたかたの夢」であったことを証明しているのに、史学中心論理は、あくまでもそれを認めたがらないのである。

すべてがつながっていたとしたほうが、大和にとって都合がよく、『日本書記』史観に整合だからだったからにほかならない。それが歴史の教科書の書き方なのである。



純友の翻意に対して、中欧が伊予に送り込んだ新しい守=知事は紀氏であった。紀氏はそもそもが紀州海人族の元締めだったのだから、瀬戸内海人族にもその素性は聞こえていた。だが純友は、その紀氏の伊予守たちが止めるのも振り切って「われは巨海に漕ぎ出す」と言い残して、広い海原へつきすすみ、瀬戸内海人族海賊の盟主となった。紀氏のなかで四国の知事となった有名人には、あの紀貫之がいるように、紀氏は古代に帰順してから、そのように地方海岸部の官吏としてしか存在を得ていない。聞きたくないことかも知れないが、紀貫之は、左遷された土佐へ出向き、期間を終えて京都へ帰国するときには、すでに70代。記録では、瀬戸内の海賊によほどおのののいていたらしく「最大の恐怖は海賊だ」と書いている。なぜなら、当時の中央派遣の官吏は、任務地に於いて搾取するだけ搾取して金銀財宝やらを抱え込んで船で帰京するので、襲われるのが最もこわかったのだ。しかし、左遷されたものとしては、赴任先で財を肥やして帰国し、おちぶれたわが氏族のためにそれを使うのはこれまた当然でも在った。


海賊はそれらを狙って私腹を凝らすしかほかに生きる算段もなかったのである。
それはひとえに中央帰属社会が腐っていたからにほかならない。平安中期から清盛までの時代、貴族世界は政治と言ってなにもしておらず、ただただ天皇にこびて私腹を肥やし、既得権益だけにまい進していたのだった。これでは武家の反発がおきぬはずがない。


源平藤橘(げんぺいとうきつ)の武士氏族の中で、源平はどちらも天皇を祖としたが、藤原氏と橘氏はただの貴族で、宰相家でしかない。しかし藤原氏があれほ多く子孫や、うそにせよ「藤」姓子孫を持つ理由は、その権力のためである。

ちなみに関東藤原氏の祖先を筆者も持ってはいる。けれど、関東武士はその素性も怪しく、どこまで本当かどうかは疑っておくほうがいいと思っている。純友も、また将門が助けた藤原玄明(はるあき)も、国家の倉庫を襲い略奪するような野党である。武士などはそもそも、そういう賊徒から出てくる、いわざ地回りのやくざのような存在である。そんなものにどのようなほまれがあろうとも、所詮は山出しの田舎ものでしかなかった。知恵を働かせて、たとえば仏教門徒のように天下御免の荘園を持つという悪知恵がなかったら、それは中世と呼べるような時代の代表選手には決してなれないやからでしかなかったのである。


西欧における騎士と武士の違いは、あちらがもともと貴族だったのに対して、こちらはその貴族にはなれなかった落ちこぼれ=階級制の敗者だったのである。ただの官僚の用心棒だったに過ぎない。だからこそ、ハングリー精神は地方開拓者として独自で歩き出すしかなく、つまりは在地農民と同化して平民の縄張り守護者となるしか道はなかったのである。


純友は海賊の長となることで、中央政権の腐敗に鉄槌を打とうとした。



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藤原純友の乱2 意外な真相? 純友と修験道と秦氏

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そもそも将門・純友の乱についての記事は『将門純友東西軍記』『将門記』『神皇正統記』『本朝世紀』『扶桑略記』「和漢合図抜萃」「元亨釈書」「古事談」『歴代皇紀』の「将門合戦状伝」 『摂政忠平宛将門書状』など多数の史書・書簡の断片記事をまとめることで歴史的事実だったことにされている。「東西軍記」のような軍記には多少の誇張やひいきがあるが、『扶桑略記』は一応、六国史の解説本なので信憑性は高いと見られるし、書簡はもちろん彼らが本当に存在していたことの証拠になる。ただし、なにぶん記録は後付で書かれるので、どうしても謎の部分が出てきてしまう。
藤原純友の乱については、このように始まる。


天慶2年12月(940年1月)腹心藤原文元に備前介・藤原子高、播磨介・島田惟幹を襲撃させる。子を殺害し、妻を略奪し、次に摂津を襲う。備前、播磨をまず襲ったのは、京への最短コースだった淀川ルートの確保のためと考えられるので、純友の平安京占領計画は間違いなく計画されたことだったのだろう。

これが藤原純友の乱の発端になった。朝廷は翌天慶3年(941年)に純友に従五位下に叙すことで、懐柔策として乱を抑制しようとした。その際に文元にも官職(備前介)が与えられたという。天台座主・義海は同年8月には石清水八幡宮以下の十二社に文元らの討伐を祈らせている(『日本紀略』)。

純友の副将には、系譜がまったく不詳の藤原恒利(つねとし)なる人物がおり、結局、最後に彼が大将純友を裏切って朝廷側に、秘密基地だった伊予宇和島の沖にある日振島の場所を教えたばかりか、恒利自身が乗り込んで一味を灰燼に帰していて、そのほうびで中央で官職をもらっているのだが、その後、恒利自身の消息はまったく記録から消えている。伝承では鳥取、備前の池田氏の祖となっているけれど、そうした地元の伝説はもちろん後世の付会である。純友にもそうした後裔伝承を持つ氏族は多く、英雄にあやかろうというものであまり信憑性はないだろう。

そもそも、藤原純友自身の出自にさえ、藤原北家子孫を否定するものがたくさんある。栄耀栄華を極める道長以来、平安時代の藤原氏は、もうあまりにも子孫が多くなって、諸派・諸流、妾腹、落胤、勝手な血縁自称まで入れていけば、いくらでも自称、他称は可能なのである。将門の助けた藤原玄明にしても、明玄という実在の藤原氏人物から作り出された想像人物かも知れないのである。

そこで純友よりも恒利を中心に、彼らの出自を系図にしてみたら、おかしなことに気がついた。

藤原鎌足-不比等-房前(北家祖)-冬嗣 
これが純友の出自であるという藤原北家の最初の構造になっているので、ここから始よう。

冬嗣から分かれて三系統は
冬嗣-良世-恒佐-懐忠-邦昌-邦恒・・・
-長世-遠経-良範-純友(七男)・・・
-良仁-恒実(長男)
-有実(次男)-保家---恒正--恒利?まったく不明。もともと海賊だともいう。

「恒」という文字がついている者がいる系統と純友の系譜である。
恒利の祖先については名前の一文字からのまったくの想像でしかない。貴族の名前は、武士とは違って、あまり諡号の送り名習慣にはとらわれていないようである。してみるとどうも、藤原恒利なるものが中央藤原氏とどう関係があったのかは疑わしいとせざるを得なくなるのである。また純友自身も、北家直系の冬嗣系譜であったかどうかも、どうも疑っておくほうがよいかもしれない。北家直系子孫が伊予のような地方官吏の、しかも三番手の掾(じょう)だったというのも、そのほうが納得しやすいだろう。

純友が、実際には伊予水軍の越智氏出身だった可能性を言う説もある。

なによりもこの系図を正しいと見ると、純友と恒利の存在年代が三代以上も離れてしまうのである。そこで冬嗣のもう一分流である良世の息子・恒佐(つねすけ)に「恒」の文字を発見。彼は別名を「土御門大臣」とも呼ばれており身分も上位にいる。北家にはふさわしい地位で、しかも陰陽師土御門を別名に持っているわけである。実は恒利系譜の祖・有実は兄(恒実)がいて次男なので分家である。その子供に保家(やすいえ)という人がいるが、この藤原保家で検索するとまったく別人の藤原氏の人物にたどり着いてしまう。それが持明院保家だった。この人物はなんと土御門家を主とした人である。

さてここで寄り道して、土御門とは例の安倍清明のような陰陽師集団の長である。藤原氏が中臣神道の一派から出たことはつとに知られるが、その中臣神道というのはもともと、中臣氏が従属してきた物部神道の分派だと言ってもいい。奈良~平安時代に、神道は仏教と混交していくわけだが、そこから生まれたのは新羅系密教の渡来民間信仰である修験道だ。

そこではたと気づいた。
四国宇和島から遠くないのが豊前英彦山である。

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ここの開祖は忍辱(にんじょく)という伝説的始祖であるが、又の名を「藤原恒雄 ふじわら・かんゆう」といって、継体天皇時代に英彦山を開いたとされているのだ。しかし英彦山のはじまりは不明で、いつの時代から始まったかはよくわかっていない。英彦山にはもともと聖地が原始信仰の聖地があったらしいが(縄文時代の遺跡もある)、修験道としては865年、宇佐法連という、これまた伝説的人物(豊国法師か?)がここを再興させたと言われ(「英彦山縁起」)、865年に従四位上を受けた記録がある。階位を受けたのは公式記録なので、9世紀には間違いなく開山されていたのだろう。その後11世紀になって中興された。純友と恒利という乱の首謀者がふたりとも行方知れずになってしまったのが900年代中盤で、英彦山の再興から中興までの間のすっぽり不明な100年間がちょうどここに相当してしまうのだ。

あとはご想像に任せたいが、英彦山にはもともと、秦氏の祭っていた豊前香春岳の神である天忍骨命(あめのおしほね)を祭る廟があったとも伝承がある。今は英彦山神宮祭神は天忍穂耳命で、その名前は実によく似ているから、同一神だろうとすでに筆者は著書にも書いている。

そもそも豊前・筑豊・豊後は秦氏の多かった土地柄であるので、修験道の開基に秦氏もかなり関わったことは想像に難くない。香春の神の息長帯大目にせよ、豊姫にせよ、三つの神を祭る八幡・宗像系祭神様式は玄界灘~伊予灘~豊後水道を基点として、瀬戸内経由で大阪住吉神社までを原初の範囲としている。これは四国大三島信仰の大山積=越智水軍・村上水軍の神・・・を中継地として海人ネットワークの祭る形式である。純友が本拠地とした宇和島海は豊後水道に面して、非常に水流が速く、冷たい海で、さらに大三島のあるしまなみ海道もこれまた島々が多く連なり、水流が狭い島の間を走り抜ける航海危険地帯で、隠れ家にするには宇和島は非常に要衝である。記紀ではそれを「はやすなと 速吸瀬戸」と表現している。その名前の姫が、愛媛県宇和島の対岸である大分県佐賀関半島には祀られている。

純友らが隠れ家にするには宇和島は最高の立地である。そしてこの宇和島周辺佐多岬周辺が今も漁師たちの大事な居住地であったり、四国唯一の伊方原発があることなど、古代から少々やっかいな人々の住まう地域だった・・・つまり修験者や原始信仰や渡来人や秦氏には深く深く関わった地方だということも大事なことになるだろう。

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平将門の伝説は実際にあった史実を元にやや誇張した軍記ものであるが、藤原純友の話は、筆者はどうも出来すぎた、彼らのような貴種伝承を持ちたがる職能民特有の眉唾話が基礎に潜んでいる気がしてきたのである。


少なくとも、英彦山のような山深い高山なら、その後の純友らが隠れ住み、修験道に隠れ蓑を求める場所にはふさわしかろう。継体天皇が滅ぼした筑紫君磐井も、豊前に隠れたと風土記は書いていることだし、豊前一帯に秦氏の古墳や遺跡は蔓延している。そればかりでなく隼人や安曇の伝説の、ここは宝庫である。




ちなみに、香春岳すぐそばにある河内王古墳のある鏡山は、「梓弓 あずさゆみ」の歌を額田王女の母・鏡女王(かがみのおおきみ)が詠んだ場所である。「あずさゆみ」とは往古の巫女の鳴らした琴弓のことで、つまりかんなぎ、シャーマンの大事な神がかり、憑依の道具だった。要するに鏡の巫女とは卑弥呼のようなシャーマンのことになる。日振島の名前も、「日=太陽」と捉えてみたら面白くなる。灯台のようにかがり火で船を誘導したというのが由来であるが、とりもなおさず、それは光りや明りで誘導するものの島と言う意味である。



次回、関連で、『源氏物語』「葵」の「照日の巫女」の持つ梓弓及び、『風姿花伝』「秦河勝神楽の祖」の部分、さらにスサノヲ=牛王権現すなわち動物解体のセンミンの隠語か?をくみ合わせて、民間信仰の奥底にある被差別と血の匂い、祭祀と穢れを明らかにする。乞うご期待!



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能葵上に登場する梓弓の弦(つる)を鳴らして六条御息所の生霊を 呼び寄せ、生霊の思いを口寄せする照日の巫女。ひきよせ、口寄せたのは葵の上の悪鬼の精の生霊であった。



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世阿弥は、能葵上で、いったいどのような幽玄を導き出そうとしたのか?それは女の怖ろしさか?あるいは後戸に隠れたスサノヲ牛王権現の本性か?

お水取り特集・梓弓鳴弦、三車火宅、風姿花伝、咒師走り、いざなぎ流、イタコ、秦河勝

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梓弓と鳴弦 あづさゆみ・めいげん
「梓弓(あずさゆみ、あづさゆみ)は、神事などに使用されるアズサの木で作られた弓。材質に関わらず弓のことを梓弓と呼ぶこともある。」

「鳴弦は弓に矢をつがえずに弦を引き音を鳴らす事により気を祓う退魔儀礼。 魔気・邪気を祓う事を目的とする。 後世には高い音の出る鏑矢を用いて射る儀礼に発展した。 鏑矢を用いた儀礼は蟇目の儀(ひきめのぎ)と呼ばれる。」以上Wiki

「イタコは「口寄せ」と呼ばれる降霊の際、霊を招く巫具(ふぐ)として「梓弓」を用いる事例が知られている(すべてのイタコが用いるというわけではない)。
イタコは梓弓の弦を棒で叩き振動させ(鳴弦)、口琴にも似た音を鳴らしながら霊界に入る。
  神道の退魔儀式である「化生調伏儀式」では、「もののけを 引き離してぞ 梓弓 引き取りたまえ 今日の聞き神」の呪歌とともに弦を弾き鳴らし、巫女をトランス状態に誘う道具として用いられる。  また狩猟においては、「射止める」ほかに「狩の前に弦を鳴らし、音で場を清める」意味がある。 音(波動)で場を清めるのは、チベット密教の儀式で「シンギングボール」が使われることと同一だ。  弓は「神がかり;降霊・憑霊の道具」として位置づけられており、神の意志を現す力を持つため、人知を超えた物事を判定するト占の呪具として利用されてきた。」

「和歌で「射る」・「張る」・「引く」・「つる」・「矢」・「音」・などにかかる枕詞」
以上http://www.monster-sound.com/s/koepie/azusayumi.htm

関連
「祭り矢・祭り弓という神事が日本各地で催されていた。年始に行う事が多く「鹿討の神事」などとの共通性もみられ、その地域の1年の吉凶を占うものであり、神社の境内などで弓術の的と同じ物を、選ばれた福男が射抜くことにより行われた。的は金的・銀的などがあり、射ぬいければ祝的となり、五穀豊穣や大漁追福が約束された。また地域によっては、神職が行う事もあり、これらに使用された弓矢を梓弓と呼ぶ場合もある。」
梓巫女
「梓巫女と呼ばれる古神道や古くからの民間信仰による、いわゆる祈祷師が存在し、神社に属せずに特定の地域や渡り巫女として、吉凶の占いや厄落としや口寄せをしていた。このときに使用された道具が梓弓と呼ばれ、小さな葛(つづら)に入れ持ち歩いていたので小弓であった。」

梓の木
「「あずさ」という樹種は古代の「梓弓」の材料として言及されるが、現在は稀な方言として以外は廃れている。そのため、古代における梓の実体については、系統的にも大きく異なる諸説があったが、現在はほぼ確定している。
ミズメ(ヨグソミネバリ) Betula grossa - カバノキ科の落葉高木。白井光太郎による[4]。正倉院の梓弓の顕微鏡的調査の結果などから、通説となっている[5][4]。
キササゲ[5][4] Catalpa ovata - ノウゼンカズラ科の落葉高木。中国の「梓」と同種とする。『大和本草』(1709) より[6]。
アカメガシワ[5][4] Mallotus japonicus - トウダイグサ科の落葉高木。『物類称呼』(1775)・『本草綱目啓蒙』(1803–1805) より。本来「梓」に関する説だったのが転じたか[2]。
オノオレ[5][4](ミネバリ) Betula schmidtii - カバノキ科の落葉高木。ミズメと同属。『古今要覧稿』(1821–1842) より。
リンボク[5][4](ヒイラギガシ) Prunus spinulosa - バラ科の常緑樹。
このほか、方言として
アサダ[4] Ostrya japonica - カバノキ科の落葉高木。
ナナカマド[4] Sorbus commixta - バラ科の落葉高木。
ニシキギ[4] Euonymus alatus - ニシシギ科の落葉低木。
などを意味する。」 Wiki梓

中世にはマユミを用いたように記憶していたから、梓とは真弓のことでもあろうかと憶測したが、ここには真弓はなかった。

いずれにせよ、しなりのいい、強靭な樹木の、どうやら慣用的呼称だったようで、現実にアズサという品種はないようである。ただし、解説にあるように、正倉院保管の梓弓にはミズメという樹木が使用されていることから、古典で梓と言えば、まずミズメを指していたという説が有力である。中国で梓(Shi)と書けばノウゼンカヅラを意味し、版木に使われる百木の長、良木のキササゲと決まっている。また梓は中国で天子の棺おけに使用され「梓宮 しきゅう」とも呼ばれ、墳墓を意味していた。日本ではアカメガシワが代用されたのでこれも梓と呼んだ。また木材で器具を作る木地師や指物師(さしものし)も梓と呼んでいた。広く大工を指す隠語でもある。

(ちなみに箪笥や木目細工を作る指物師は物差しを使うので「さしものし」であるが、大工のうちに入る職種で、宮大工や木工匠、建具師(個別に香具師「やし」ともいう・隠語でかきつばたとも)なども広くは匠として一括される。さしの苗字を持つ人は先祖がそうした人だった可能性もある。指原、指物、指物師、指物谷などの姓名がある。仏師なども匠に入るだろう。一定地域にそれらの姓が集まっている傾向があるのは、中世から近世に職能民・技術者が荘園や城下に集められた名残である。例、鍛冶屋町の鍛冶さん、甲斐さんなど。「かい」は山の谷を意味するが、鉱山師や鍛冶屋に多い)


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では「あづさ」という呼び名には、どのような意味があったのだろうか?
梓 漢音「し」 は魔よけの樹木である。天子の墓を梓宮と呼ぶのは、この場合はキササゲの木で墓が造られたためである。また「梓里」と書いて「しり」は母親の胎内、ふるさとを意味し、「梓人 しじん」は大工、指物師などの工作技能者の総称となっている。「梓匠輪輿 ししょうりんよ」大工と車造り職人のこと(「孟子」)。以上、角川「新字源」から

ミズメ
「サリチル酸メチルを多く含み、枝を折ると独特のにおいがする。「夜糞」という名もこのにおいによるらしい。」Wiki

サリチル酸メチルとはつまりサロンパスのにおいの素。鼻どおりをよくするようなミント臭がある。こうしたことからその臭い匂いを魔よけとしてきたのであろう。

鳴弦とは今でも天皇家の祝賀や即位の儀式で鳴らされる弓。音で邪・魔を祓う。平穏のじゃまになるものを邪魔と言う。それを祓うのは天皇の最重要な癖邪祭祀で、古来、シャーマンたちの重要な「儺追い」の作法である。

梓弓の出てくる古典文学
伊勢物語 「あずさ弓」
世阿弥 能「葵上」

和歌
梓弓引けど引かねど昔より  心は君によりにしものを (伊勢)

  万葉集 巻第二
99 梓弓 都良絃取波氣 引人者 後心乎 知人曽引 (久米禅師)
あづさゆみ つらをとりはけ ひくひとは のちのこころを しるひとぞひく
梓弓に弦をとり付けて引く人は、将来の変わらぬ思いをわかっているからこそ、あなたの気をひこうとするのだよ。

  万葉集 巻第四
 海上王が答え奉った歌一首
531 梓弓 爪引夜音之 遠音尓毛 君之御幸乎 聞之好毛
あづさゆみ つまびくよおとの とほおとにも きみがみゆきを きかくしよしも
梓弓を爪弾く夜音のように、遠く微かであっても、貴方のお出ましを耳にするのは嬉しいことですよ。

  古今和歌集 巻第二 
127 梓弓 春たちしより 年月の いるがごとくも 思ほゆるかな (凡河内躬恒 =おほしこうちのみつね)
 立春の日からは、矢を射るように、早く時間が過ぎてゆくように思えるものだ。
 (弓に弦を「張る」を「春」に掛ける。)

  古今和歌集 巻第十二 
610 梓弓 ひけば本末 我が方に よるこそまされ 恋の心は (春道列樹)
 弓を持ち弦を引くと、その両端が自分の方に寄ってくる。そのように引き寄せたい。 夜ともなればいっそう恋心が増すことだ。
 ("本末" とは弓の下「本」と上「末」のこと。)

 鞍作村主益人、豊前の国より京に上る時に作る歌 
梓弓引 豊国の鏡山 見ず 久しならば 恋し けむかも (万、巻3-311)

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鳴弦の儀


要するに弓の弦を引くことで出る鳴弦の震えによって邪魔を祓うのであるが、すべての芸能の最古の始まりは、人類がまだ猿、猿人だった頃から物を叩いて出る音からなのであると、どうやら世阿弥はわかっていたようだ。サルが手を使い、物を使ってたたき出す音こそは、地球上最初の人工的鳴動だった。それ、その行為を、世阿弥は巫女に梓弓を持たせることで、源氏葵の中の六条御息所の中に潜む、女のどうしようもないねたみ、悪辣なる性(さが)が生霊と化すことを表現したのである。



「三つ車に法(のり)の道、火宅の門をや出でぬらん
夕顔の宿の破れ車 遣るかたなきこそかなしけれ」

壷折れ腰巻姿のシテ六条が登場してこう謡う。
六条は法華経にある「三車火宅」さんしゃかたくの喩えをとつとつと語り始めるのである。

「三車火宅
(さんしゃかたく、譬喩品) ある時、長者の邸宅が火事になった。中にいた子供たちは遊びに夢中で火事に気づかず、長者が説得するも外に出ようとしなかった。そこで長者は子供たちが欲しがっていた「羊の車(ようしゃ)と鹿の車(ろくしゃ)と牛車(ごしゃ)の三車が門の外にあるぞ」といって、子供たちを導き出した。その後にさらに立派な大白牛車(だいびゃくごしゃ)を与えた。この物語の長者は仏で、火宅は苦しみの多い三界、子供たちは三界にいる一切の衆生、羊車・鹿車・牛車の三車とは声聞・縁覚・菩薩(三乗)のために説いた方便の教えで、それら人々の機根(仏の教えを理解する素養や能力)を三乗の方便教で調整し、その後に大白牛車である一乗の教えを与えることを表している。なお檀一雄の「火宅の人」のタイトルは、この三車火宅を由来としている。」Wiki 法華七喩



源氏葵で六条は自分への寵愛を薄れさせて葵上に心を移した主人公を呪い、その呪いはいつしか無意識のうちに生霊となって、葵を呪い殺そうとしてしまう。その現実を法華経の火宅にたとえ、恨みの鬼となっている自分に、六条はあるときはっと気づかされてしまう。人の心の中に巣食う、そうした、どうしようもなく浅ましく、卑しい恨みツラミの心根を自分も持ってしまったことに愕然とするのだ。葵上はこのとき子をはらみ出産間近で、気分が優れずふせっていたが、どうもそれ以上にアヤカシノ力が介在している気がして、高僧を呼び物の怪を祓おうとする。その高僧たちが呼び寄せたのが強力な呪力を持っていた照日の巫女であった。彼女の交霊術こそは「梓弓の上手」であった。


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鳴弦には邪魔、癖邪とともに、悪霊、神霊をおびき出す呪力もあったわけである。これは 高知県東部の物部村に今も伝わるイザナギ流取り上げ神楽の、祖霊を神とした「ミコ神」「タカ神」のマツリにある儀式様式や、全国で「梓巫女」と呼ばれる口寄せ巫女がやることに、根が通じている。鳴弦や水音響く中で弓を鳴らして(いざなぎ流「水クラエ作法」)霊魂を降臨させる。

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本来は祖霊を下ろして交信し、子孫の誕生をうながすおめでたいハレの儀式であるが、イタコたちはこれを用いて死者の魂と呼び寄せて会話する。そもそも古墳時代からそうした儀式、祭祀は存在していた。その証拠に談山のぼり口にある古墳からは鉄製の弓が出土している。これはあきらかに梓弓のレプリカであるし、神功皇后三韓遠征を占う際には武内宿禰が琴を鳴らして霊魂を誘っている。つまり「琴線を揺らす」とは、音によって霊魂の降臨をうながす作法なのである。

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もちろんこれは本当に霊魂が降りてくるわけではない。見るものの心を揺らすとは憑依させる作業なのである。憑依とは見ただけで共感、共鳴、圧倒されてしまう宣伝効果抜群の聴衆感化手法では最高のものと言える。ところがその巫女のノウハウである憑依を、現代の神道では拒否している。つまり国家神道と民間シャーマニズム信仰の違いはこれである。

さて、しかしながら巫女、シャーマンの本来の憑依とは、祖霊の交霊術だけであったのではなく、そもそもは森の精霊たちを呼び寄せ(来訪させる。これが来訪神である)、そのスピリッツを自らに憑依させ、身に着けて神の代弁者となり託宣するのが本来であった。いわゆる神がかりである。

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『風姿花伝』「秘すれば花、秘せずば花ならず」の奥義にも、実はこうした憑依の作法が書き出され、それは記紀アマテラスの天の岩屋戸隠れのアメノウズメの踊りこそが申楽の始まり、奥義だとしてある。アメノウズメは伊勢の猿女君の祖であるが、このとき頭には縵をまきつけ、手には笹を持って、桶を伏せて太鼓とし、これを踏み鳴らして激しく踊る。なまめかしいストリップダンサーである。桶を踏んで音を出し=鳴弦・反閉、裳すそのひもをしどけなくたらして乱舞し=憑依、走ったり=咒師(しゅし)走り、右に左に旋回し=右旋左盤 て、神がかり、トランス状態になろうとする。これが能の、神楽の奥義であると、始まりであると花伝書は言うのである。そして、その申楽を神楽とはいわず申楽と言うのは、神では不遜ゆえに示す偏を取り去って、

神-示=申

で申楽にしたとへりくだり、その「さる」とは物まね、猿真似することから始まるのだと稽古事の本質をずばりと言い表した。さらに、その神楽・申楽の開祖は、
「日本国においては、欽明天皇の御宇に、大和の国泊瀬(はつせ)郷の河に洪水の折節、河上よりひとつの壷流れ下る。三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲客この壷を取る・・・」などとまるで桃太郎伝説のようなことを言い始め、杉の鳥居の下から生まれたのが自分の祖先だといい募ってある。中からみどりごが生まれ、内裏の御門の前に夜中にすっくと立ち「我はこれ、大国秦の始皇の生まれ変わりなり。縁あって顕現した」などと言わせる。

「秦河勝(はだのこうかつ)これなり」
「上宮太子、守屋の逆臣を平らげ給ひし時も、河勝が神通方便の手にかかりて守屋は失せぬ」

と、これでもかと秦氏血脈を持ち上げる。世阿弥はさらにその秦氏の中の伊賀の杉の子服部の子孫が父観阿弥であり、自分自身の名は秦の三郎元清であると堂々と署名する。幼名は鬼夜叉。観世三郎元清と改名した。しかし実際にはどこの馬の骨かも知れない犬神人いぬじにんでしかなかっただろう。とにかく申楽はそもそもが聖徳太子が始めて河勝に舞わせた神楽なのであり、河勝こそが申楽の祖で、その奥義は物真似であって、それをつきつめたのが自分の開発した能であると豪語するのである。

しかしそもそも文芸史においては申楽は散楽に元をとった庶民の芸能である。その源には中国や朝鮮の神仙思想があって、そこに道教的な神秘主義、太陽を鏡として、そこに呪力を見出した弥生人、古墳時代人の鬼道が存在していた。つまり祖霊の降臨や、死者再生、輪廻転生の法こそが大元にある。世阿弥の芸能理論は、そうした往古からの民間の世俗的信仰形態と、足利家によってもたらされた新たな知識・書物によるところの歴史的発見をコラージュした、貼り絵のごときものに仕上がったのである。そしてただ激しく憑依するだけであったシャーマンの神楽を、論理に基づく整然としたものに凝縮し、分解した憑依ダンスのエキスを、ひとつひとつ速度を落としてスローモーション化することによって幽玄を加えたのが能である。これを洗練とファンは言うのである。

一切の無駄を捨て去って=捨身虚仮、必要なエキスだけを残すがために、能は散楽・神楽を研ぎ澄ました芸能へアウフヘーベンされた。

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咒師走りの一例



しかしそのエキスとは、古来からのシャーマンの被疑である憑依のための型である。頭の中の映写器で、世阿弥は神楽の野卑たひとつひとつの所作の連続を、ストップモーションやコマ送りで仰視する能力を持っていた。つまりそれは動体視力である。そして行き着いたのが能楽の所作である。旋回するダンス、床を踏みつける大地踏みによる鳴弦、テンポの遅いリズムによるすり足、舞台の四方をくまなく踏みしめて舞い歩く、天子で言えば国土巡回と神への鎮魂の祈りである。それは相撲の力士の四股や地方巡業とも根を同じくしている。つまり、それらの所作すべては原始シャーマニズムに満ち溢れていた。神の代弁者としての照日の巫女こそは、ある種、底辺の敗北者の歴史が生み出した恨を大本にした身分、名誉の回復祈願だったのではなかろうか。その夢を、被差別者だった芸能民世阿弥は秦河勝に託したのである。新参者渡来人というあらたな希望に。あらゆる既存のマイナスに向かうしかない身分制度に、渡来人秦氏も海を越えてやってきて挑戦した人々だったからにほかならない。能の最重要な哲学は、価値観の転覆である。

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追儺の集大成であるお水取り=修二会が始まる。
三月十四日は旧暦の節分である。なぜ三月なのに二月堂なのか?それは旧暦を新暦に置き換えたからにほかならない。本来、太陰暦の二月の行事である。一年の始まりの春の節気に、それは火と水と咒師(しゅし)走りによって開始される。密教の秘儀である。何ゆえに夜それらは行われるのか?もちろん秘すれば花ゆえである。暗黒の後戸の中で、火を燃やし憑依は深まる。暗闇の冬を終わらせ、新たな昼のとびらを開くための、あれは天の岩戸開きなのだ。永遠の繰り返しを続けてきた人類30万年の歴史がまたそのときから動き始める。そしてうきたつような芽生えがはじまり、あらゆる生命が再生される春がやってくる。これを中国では春節と呼ぶ。

それが本当の正月である。

英語で春をなぜスプリングと呼ぶのか?ばねのようにすべてがはずむ季節だからだ。あらゆる生命が再生される季節、つまりアマテラスが再生される。

次回、牛王宝印とは何か。







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牛玉宝印、牛の胆石

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牛玉宝印
「寺院・神社から発行される一種の護符。しばしば起請文の料紙に用いられる。和紙に〈二月堂牛玉宝印〉〈多賀大社牛玉宝印〉〈熊野山宝印〉などの文字が独特の字配り,書体で書かれ,仏の種字(しゆじ)(梵字)や宝珠などをあらわす朱印が押されたもの。木版刷りのものが多いが,筆書きのものもあり,修正会(しゆしようえ)や修二会(しゆにえ)などの初春の儀式の中で作られ,信者に配付される。牛玉宝印は本来は戸口にはったり,木の枝にはさんで苗代の水口にたてたり,病人の枕もとにはったりして降魔・除災のまもりにするものだが,鎌倉時代後期以降,起請文を書く際,その料紙に用いられるようになり,戦国時代以降はとくにしばしば使われるようになった。 」
https://kotobank.jp/word/%E7%89%9B%E7%8E%89%E5%AE%9D%E5%8D%B0-1165527





牛玉宝印は一種の魔よけ、呪文を描いた紙である。
問題は「ごおう」を、「牛王」ではなくなぜ「玉」で表記するかであるが、すなわち玉とは丸薬としての牛黄の粉を混ぜた朱印を押すからにほかならない。漢方の牛黄は牛の胆石を乾燥させたもので、これを陰陽五行では五つの気のうちの「土」に当てている。

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牛黄とは
「「牛黄」と書いて 「ゴオウ」と読みます。
さて、それでは牛黄とは何かと言うことになりますが、一言でいえば牛の胆嚢などにできた結石、すなわち胆石です。
なんだ牛の胆石かというなかれ、この胆石、牛千頭に一頭の割合でしか発見できない大変な貴重品なのです。

 中国・明の時代の偉大な本草学(生薬学)者である李時珍(リジチン)の著した『本草綱目(ホンゾウコウモク)』 にも 「薬物として高価なることこれ以上のものはない」と記されているのも、その効きめだけではなく、現在のように大量に牛を屠殺することのなかった時代では入手がきわめて困難であったためではないでしょうか。また近年、衛生管理が行届いた牧場が増えたため、胆石を持った牛が少なくなり、牛黄は益々貴重な生薬となってきています。 牛黄は約一センチメートル~四センチメートルの不規則な球形、または角のとれたサイコロのような形をした赤みがかった黄褐色の物質で、手に取ってみると意外に軽く、割ってみると、木の年輪のような同心円状の層があります。また口に含むと心地好い苦みと微かに甘みのあるものが良品とされています。値段が高いため古来ニセ物が多く、カレーの黄色の素として有名なウコンを練固めたものや、白泥に牛の胆汁を混ぜて作ったものなど色々あったようです。現在は科学的な分析法で品質評価をするため、このようなものは殆ど輸入されなくなりましたが、ニセ物がなくなったわけではありません。特に粉末にしてしまうと区別が難しくなるため『日本薬局方(ニホンヤツキヨクホウ)』では粉末にしたものは適合品とは認めていません」
http://www.navi.gs/goou/towa.htm

その効能は?
「牛黄に関する最も古い記載は 『神農本草経(シンノウホンゾウキョウ)   』にあります。そこには「驚痛寒熟(キヨウキヨウカンカンネツ)、熟盛狂痙(ネッセイキヨウケイ)   。邪(ジャ)を除き、鬼(キ)を逐(オ)ふ」と記されています。これは主として急に何物かに驚いて卒倒して人事不省になってしまった者や、高熱が続き、痙撃を起こしたり、そのた めに精神に異常をきたしたりした者の治療に使用し、死人のたたりの鬼気を逐い払う作用があるとしています。これは即ち邪や鬼といったもので現される病気を駆逐したり、病気にかからないようにするといったように治療のみならず予防医学的にも使われていたようです。中国の梁の(5~6世紀) の時代の陶弘景(トウコウケイ)の著した『神農本草経集注(シンノウホンゾウキヨウシツチユウ)』には、漠の時代の『名医別録(メイイベツロク)』の引用として「小児の百病、諸癇熱(カンネツ) で口の開かぬもの、大人の狂癲(キョウテン)を療ず。久 しく服すれば身を軽くし、天年を増し、人を して忘れざらしめる」 と記されています。 これは子供の病気ならどんなものでも、高 熱を発して歯をくいしばって口を開かなく なってしまう者や、大人なら精神錯乱を治 し、長期間にわたって服用すれば新陳代謝 を盛んにし、寿命をのばし、物忘れしなく なるということでしょうか」
http://www.navi.gs/goou/nanini.htm


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「幼い頃、父親から、「嘘をついていないかどうか、東大寺の「ゴー」飲ませる。もし嘘をついていたら、喉から血を吐いて死ぬ」といわれたことがある。子ども心にとても恐ろしかった」鈴木裕介東大寺檀家七十代目

東大寺修二会ではこの牛玉宝印を版木で刷って配布するが、これは神仏への起請文だといわれているが、いわゆる護符、魔よけである。『太平記』には牛玉宝印の誤った使用で人が神罰に当たり吐血死する話が載っている(巻第一「資朝・俊基関東下向の事、附御告文の事」)。まずは仏教説話で、あくまでも神仏をそまつにするとこうなるぞ、という戒めである。

東大寺そばに70代に渡って住まってきた鈴木氏の、父親から言われた「ゴー」とはつまり「牛玉」のことであり、太平記に描かれた武家の儒教的な思想の記事の受け売りであるが、それが代々受け継がれてきて「ゴーを飲ませるぞ」という言葉だけで、子どもには神罰・仏罰の確かにあるのだということが伝わったわけで、寓話としての効き目は抜群だった。まあ、迷信が生きていた時代だからこそ有効な道徳上のしつけ譚である。実際にゴーが、つまり牛黄が吐血させることなどないばかりか、むしろそれは解熱剤だった。そもそも牛であろうと熊であろうと、魚であろうと、動物の肝や胆汁はひどく苦くて、ちょうど節分のイワシの頭のように、邪気を祓うと信じられていたわけだ。結石の玉なので牛玉、そこに「牛黄」の音をあてたわけだ。





苦味や臭みやとげが魔物や鬼を祓うというのは世界共通で、クリスマスのひいらぎや針葉樹のとげとか、北欧のドラキュラを追い払うニンニクなど、どこでもそうである。人がいやなものは鬼もいやがるだろうという、まあ、単純な子供だましでしかない。イワシや肝を家につるしておけば、烏や猫がにおいに誘われてやってきてしまうだろうから、ついでに、烏は神の使いとなり、猫は魔女の使いにされたり、福の神にされてしまう。おなじ動物が邪と聖の両面で象徴的に扱われた。つまり正邪は裏表ということだ。

ちなみに節分に東アジア・日本では豆をまくが、西洋ではナッツをまく。春にまずは種まきをして邪を祓うのは世界共通なのだ。いずれも鬼にとっては「つぶて」となるが、どっちの種であり、栄養価・ミネラル成分が高く薬でもあった。このミネラルとか鉄分と言う点も牛黄が持っていた重要な成分で、お水取りに先立ってまず福井の水が運ばれるのも、そもそもミネラルウォーターとしての薬効が信じられたからだろう。金属・鉱物を漢方が勧めているのはそういう意味だ。昆布やわかめを食すのと同じである。なんとなれば貝類などは非常にミネラルを食べるので、昨今発表されたマツカサガイの爪に鉄分が非常に多くて、自然界で最も堅いのがこれだと学説が変わったなんぞのニュースがあるくらい、食べれば健康によいわけである。

起請文というのは、神仏との誓約の証である。戒めを破りませんという約束、契約を交わすという意味がある。修二会は一年の始まりの天の岩戸開き儀式だから、一年の最初にまずは神仏に誓うのであるから、神はその代わりとしてお守りをくれるわけである。これは約束を守るならおまえを保護してやろう、災厄から護ってやろうと言う交換条件であり、悪く言えば地回りのやくざが正月の門松などを買えと言ってくることとたいしたかわりはない。信じるなら救ってやるというキリスト教の基本条項とまったく同じで、武士がやはり地方の農民を野党などから護ってやるかわりに米や農作物を搾取していたというような、要するに、交換条件であり、悪く言えばフィフティ・フィフティなんだぞという押し付け的な自分たちの正当化でしかない。実際は宝印も門松も買わされているのは弱者である平民だけで、一方的である。世の中そうそう野党がやってくるわけでもないし、昔は「七人のサムライ」みたいな事件が、いつでもどこでも起きたと思うのは映画の見すぎである。ところが神仏が強いのは、自然災害はつねにやってきて、簡単に人の命を奪い去り、農作物を枯らしてしまっていたので、護符は大変にありがたい転ばぬ先の杖となった。まことに宗教は、やくざの上前も奪うのでずるい。

信仰というものは、相手が無知でバカだった時代には有効性をいかんなく発揮する。例えば中東など、いつまでたっても宗教が有効性をいかんなく発揮して、法から分離しないままである。韓国などでは儒教がいまだに蔓延して、国家を国民を悩ませている。自分の会社の決まりを護らない社員を叱り付けただけで法廷に呼びつけられ、有罪になってしまうなど、法治国家ではありえない。浮気、不倫しただけで姦通罪を適応されたり、大統領がやめたとたんに監獄に入れられたりまことに民主主義とはなにかを儒教ほど破壊するものはない。また、キリスト教でも白豪主義や人種差別、魔女裁判、赤狩りなど、わけのわからない偏った時代が中世だった。子どもを生まない、結婚しないだけで魔女扱いされ、リンチにあっていたわけであるから、宗教は実に恐ろしい部分をはらんでいるのである。博愛主義といいながら邪教・異教を作り出し、一方的に十字軍などといって侵攻し、異教徒の国家を奪おうとしたのである。そういうことをしてきたから、今頃になってイスラム教はまだそれを忘れずに仕返しをしてくる。日本のかつての軍部の考え方もいわばカルト宗教的な侵略主義だったが、西欧のまねをしただけである植民地主義・帝国主義の過去を、いまだに根に持って忘れないというのも、どっちも奇人変人である。そういうものを護ってはくれない護符ならあまりたいした意味はなかったわけであり、肝心なことよりも、とにかく門徒や氏子が反駁せぬように都合よくまるめこむには、宗教は抜群の力を発揮したのである。つまり迷信こそは国家の宝であり、それを看破してしまえる教育などは絶対に権力者が平民に教えるわけがなかったのである。



さて、民俗学の松尾恒一は牛黄を誰が取り出していたのかについて、いわゆるヒニン・被差別者をとりあげて分析している(『儀礼から芸能へ 狂騒・憑依・道化』2011) 。


いわゆる牛馬を供儀として殺し、神仏への捧げ者としていた人々は、つまりのちに動物解体業者(カワダ)となっていく。彼らは神社における祭の、神への捧げもの=災害で死んでいく人間=いけにえの代用品 としての牛馬を、頭部だけ落として神前に捧げるのであるが、残った胴体は川に捨てていた。しかしそうすると夏の盛り等とくに、肉は腐って病魔を呼ぶことになるので、ないないで回収し、食っていた。それで穢いものとされて差別されたのだが、自分たちは自らを聖なるもの、清い存在としてそういう名前を自称したのであった。よい名前、清い名前を名乗ったのは、つまりは世間の常識では不浄の身の上である自分達を慰めた行為になろう。地名で清川なんぞはまさにそういう牛馬を投げ込んでいた所以の名前である。彼等が牛の肝・・・内臓まで食うようになるのは、明治時代、肉食が平民に広まる過程で、肉が高価で食えなくなり、しかたなく内臓を喰うしかなくなったことが大きいが、そもそもフランス料理やジプシー料理や黒人のソウルフードなどにトリップ料理が多いのは、そもそもから被差別者しか食べないのが肉や臓物だったからにほかならない。


肉食にはほとんどよいところがない。食べれば血気盛んになるのだが、なりすぎて人が人を殺すようになってしまう。つまり元気過剰である。栄養価が高いが、その分、食物繊維を多く摂取せねばバランスがとれず、ビタミンCは内臓の生肉にしか存在しないので、どうしても品が悪いものの食べ物だった。それで世界中で肉食は忌み嫌われてきたのだ。しかも一頭の牛を育てるためには、牧草が山ほど必要なので、自然破壊を招くことになる。往古は野生動物を食っていたから循環になにも破綻はなかったが、犠牲や食料のために大量の肉が必要になると、どうしても野生動物だけでは足りなくなり、人口で牧畜するようになった。すると森林が伐採されて地球環境をぶちこわすことになる。ところが人間は面白きもので、野生動物を殺して食べるのは野蛮なことだとしていき、養殖肉こそが正しい食べ物だとしていくようになった。当然、地球は温暖化する。特にハレの日だけはかつての野生を食してこれは「ジビエ」だと高級化。まことにあさましい生き物である人類は。それを宗教上破綻のないようにしていこうとした。だから今度はアジア人やらが魚や鯨やイルカを殺して喰うのは野蛮人であると決め付ける。そうやって常に仮想敵国を作ろうとするのが実は宗教なのである。



だから人類はまず、宗教、信仰を捨てていくべきだと気づくのである。だから三権分立が登場したわけである。こうして宗教が政治から引き離された時代を近代と呼ぶのである。実際には、世界で近代などいまだに実現させた国はない。人類はまだ、古代人、中世人に毛がはえた程度にしか近代化していない。



だって、肉を食い、内蔵を食い、地球を破壊し、海を汚し、平気な顔で生きている。







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摩多羅神の正体を解明する

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摩多羅神=金比羅権現(マカラ=まだら)である。


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●マカラ(Makara)
「インド神話に登場する怪魚。愛神カーマの旗標であり、ヴァルナ神の乗り物(ヴァーハナ)とされる。カーマのシンボルであるマカラは門や装身具の装飾に用いられた。象のような鼻、とぐろ巻く尾を持つが、イルカやサメ、ワニの類ともされる。水を操る力を持つため、マカラの棲むとされる川や湖、海といった場所(マカラーヴァーサー)が崇拝の対象となった。また、大乗仏教の説話においては、これに遭遇した際には観世音菩薩の名を唱えれば難を逃れる等とされている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%83%A9_(%E7%A5%9E%E8%A9%B1)
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54865879.html

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乗り物ゆえに日本では船の象徴として金比羅になる。
東南アジアでは象であり、中東ではラクダになる。

インドではワニであり、時としてバクでもある。ワニの長い口が長い鼻になる。
このワニは日本では因幡の白兎を飛び越えさせた架け橋=船で、和邇氏のことである。「わに」は日本海ではサメのことだが、この場合そうではなく船で朝鮮から渡ってきた渡来氏族を指す。丸氏、和迩とも書く。また「わに」は渡来人の代表としても使われ、のちに百済来た博士の名前にも「王仁」と書く人がいるが、この名前が実際のものだったかは定かではなく、渡来した人という意味だった可能性もある。和迩氏を丸とも書くのは「和→倭→わ→輪」からであろう。和とは丸い形状=丸くなる人→団結した人で「大和 やまと」になる。倭人の倭は小さい人、背中が丸まっているせむし。侏儒。でこれも丸になる。だからのちに日本と改名したときに「丸=日本人」のイメージは日の丸=太陽で都合がよかったのかも知れない。

また丸には生命力と完全なる存在の意味もあり、船の名前に魔よけ的に使われ、貴族の名前、子どもの幼名にも「まろ」「まる」は使ったが、「おまる」とも言うように排泄物もまたまるであった。とぐろ状に丸くなるからだが、とぐろを巻くのは蛇であり、これまた再生と生命力の象徴である。まあ、強い子どもの名前が「まる」だと思えばわかりやすい。和邇氏もあやかったのだろう。



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インドのマカラは口から聖水を吐き出す。生命のもと。


ギリシアで美の神アフロディーテがインドでは愛神カーマになった。つまりローマのビーナスのことで愛欲の女神。仏教ではそれは仏陀の教えに反する「欲望」「煩悩」であるから神仏混交では荒神=摩多羅神(またら-じん)となる。アフロディーテとその子どもエロスの姿だと考えられたのが双魚宮(Pisces)つまり魚座である。羊座と魚座が組み合わさってマカラになる。 組み合わさることがつまり「斑=まだら」なのである。つまり=混血、渡来の血の混じる人を指す。だから秦氏たちも摩多羅神を祭るのだ。

●磨羯宮(まかつきゅう)
「黄道十二宮の10番目である。
トロピカル方式では、獣帯の黄経270度から300度までの領域を占める。つまり冬至から大寒の間、太陽はここに留まる。

磨羯宮は四大元素の土に関係していて、金牛宮・処女宮と一緒に地のサインに分類される。磨羯宮と対極のサインは巨蟹宮である。

磨羯とはインド神話に登場する怪魚マカラのことであり、この磨羯宮という名称は既に平安時代の日本で宿曜道用語として用いられていた。

インドでは、ギリシアから西洋占星術が伝えられた際、その象徴である「上半身が山羊で下半身が魚」というイメージを二つに分けて、この宮をヤギで表す流派とマカラで表す流派の二つが生じた。

やがてインド占星術が成立するとこれが密教経典に取り入れられたが、この際にこの宮をマカラで表す説のみが採用され、「磨羯宮」と漢訳された。これが中国や日本などに伝えられ、後に伝わった西洋占星術でもこの名称が用いられるようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%A8%E7%BE%AF%E5%AE%AE


関連 
ガンガーの乗り物がマカラ
●ガンガー(Gaṅgā, गंगा, 恒河(ごうが))
「ヒンドゥー教に伝わる、ガンジス川を神格化した女神。現地のひとは、川自体も「ガンガー」と呼んでいる。「母なるガンガー(Gangamataji)」とも呼ばれる。乗り物(ヴァーハナ)はワニのクンビーラ。」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC




●金比羅大権現
「象頭山(ぞずさん)松尾寺[1]の縁起によれば、大宝年間に修験道役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされる。象頭山金毘羅大権現は、不動明王を本地仏とした。

クンビーラ(マカラ)は元来、ガンジス川に棲むを神格化した水神で、日本では型とされる。クンビーラ(マカラ)はガンジス川を司る女神ガンガーヴァーハナ(乗り物)でもあることから、金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現は祀られていた。」



ギリシア占星術で上半身が山羊で下半身が魚=カプリコーン


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●山羊座(白羊宮)
西欧占星術で黄道十二宮のひとつ。(なお、西欧神秘伝統で用いられる十二宮とは、黄道と天の赤道が交わる点である春分点を基準に、全天360度を30度ずつに分割した領域を意味するものであり、実際の星座の領域とは全然異なるものである。)http://anima-mystica.jpn.org/course/00-005b.html 

「これらの宮のイメージは、一般的によく知られる星座としての「牡羊座」「雄牛座」「双子座」「蟹座」「獅子座」「乙女座」「天秤座」「蠍座」「射手座」「山羊座」「水瓶座」「魚座」と対応する。

十二宮の考え方が生まれた2000年以上前には、春分点は牡羊座にあったため、白羊宮の領域と実際の星座の牡羊座は、ほぼ重なっていた。しかし、春分点は地球の歳差運動により、少しずつ西へとずれていってしまう。その為、黄道十二宮の考え方が生まれてから、2000年以上の長い年月が経った事により、現在、白羊宮とされる領域は、実際には星座一つ分、西になる魚座に移動してしまっているのだ。」 http://anima-mystica.jpn.org/course/00-005b.html

つまり春分を指すのが山羊座。山羊座と魚座が組み合わさったものがマカラ。

山羊座の姿が上半身羊で、下半身がとぐろを巻いた魚=カプリコーンであるのは?
●白羊宮


「白羊宮は十二宮の最初になる宮である。星座としては、牡羊座に対応する。その由来は、ギリシア神話に登場してくる、ゼウスが使わした金色の毛の羊の伝説から来ている。この宮は占星術的に春の訪れ、ものごとの始まりを告げる、活発なエネルギーを示すものである。象徴記号は、一般的に牡羊の角と頭をかたどったものとされている。 」
http://anima-mystica.jpn.org/course/00-005b.html

●双魚宮
星座としては、魚座に対応する。その由来はギリシア神話では、山羊座同様に宴会中に攻め込まれ、魚に姿を変えて逃げ出した、アフロディーテとその子であるエロスの姿であるとされる。この魚座は2匹の魚がリボンで結ばれた姿になっているが、これは2人が逃げ出すときに離ればなれにならないようにリボンで体を結び合ったものである。占星術的には神秘性、聖性、感受性を意味するとされる。象徴記号は、2匹の魚とそれらを結びつけている紐をかたどっている。





このように摩多羅神=金比羅=渡来混血者、来訪者、船の象徴が解明された。

岩手県毛越寺(もうつうじ)常行堂に伝わる摩多羅神はこうなっている。
「しかして摩多羅神ノ御堂に入りぬ。宝冠の阿弥陀仏ませり。此みほとけの後裡(ウシロ)の方に此の御神を秘斎奉(ひめいつきまつれ)り、摩多羅神は比叡ノ山にも座り。まことは天台の金比羅権現の御事をまをし、また素戔烏尊(スサノヲ)ともまをし奉る也。また太秦の牛祭とて王の鼻の面(おもて)をかゞふり、たかうな(高台?たかうてな、御幣?)などをいなだき牛に乗り・・・」(菅江真澄『かすむこまかた』天明六年)

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比叡山は天台宗の総本山。後裡とは後戸のことで寺の本尊をまつるうてな=戒壇の裏側のスペースで、修二会などでは芸能のための道具を置いていた。修二会での芸能はみな、寺ではなく檀家一同と芸能者たちだけで企画され、資金もすべてボランティアだった。寺が催すのはお水取りに関わる儀式だけであり、ほかは全部、神人たち有志の寺を借りてなされたいわば民間レベルの鎮魂でしかない。太秦広隆寺大酒神社の牛祭もそもそもは広隆寺とは別の、民衆の融資による鬼やらい、鎮魂、追儺である。牛に後ろ向きに乗って白い鼻の高い面をかぶる理由は、それが摩多羅神=象頭山金比羅の姿だからである。その姿で本尊の摩多羅神の前を通り過ぎるときに聴衆が罵声をあびせるのは、いわゆる修二会や花会における「乱声 らんじょう」である。

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乱声とは・・・
「①舞楽の前奏曲・登場楽の一類。竜笛(りゆうてき)または高麗笛(こまぶえ)・太鼓・鉦鼓(しようこ)で奏する。小乱声(こらんじよう)・新楽乱声・古楽乱声・高麗小乱声・高麗乱声など。小乱声を除いて,笛の追吹(おいぶき)・退吹(おめりぶき)(数人が同旋律を少しずつずらして吹奏)が用いられ,にぎやかにはやし立てる感じがある。競馬(くらべうま)などの勝負の節会(せちえ)の祝勝の奏曲にも用いられた。

② 鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らしてときの声をあげること。 「常に太鼓をうて-をす/平家 9」 」大辞林

要するに気合であり、梓弓による鳴弦と同じく、降霊・交霊をうながす音、歌舞音曲の合いの手である。

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このようにすべてを探っていけば摩多羅神の正体は明白になる。
摩多羅神=マカラ=まだら=荒神=スサノヲ=渡来神=訪問神=ハイブリッド・混血者=既成の観念の破壊者・よそ者=挑戦者=乗り物に乗ってやってきたもの=ときに波に乗って海から来たもの=秦氏・・・被差別・・・こうして世阿弥は登場する。その芸能の中に潜むものは、実はサンスクリットの秘儀が混交=摩多羅した密教の咒師たちの禹歩などの鎮魂所作なのである。そして修二会、修正会、花会、花祭、鬼会では牛玉宝印の魔よけが造られ、シイシから進入しようとする邪気や鬼を防ぐのだ。鬼門封じだから猿なのだ。秦氏も中央でそうした扱いに置かれた差別さるべき存在だったのだろう。

西欧の白羊宮・双魚宮の混血児であるカプリコーンが、羊のいない日本では牛になった。
それを摩多羅神とした。愛欲の神つまり、秦氏が宿業を背負う渡来者だったからだ。欲望と権力を望み、地位の向上を目指さねばならない倭人貴族社会では鬼っこだったからである。差別があったからこそそこに鎮魂と癖邪は必要になる。

神社の屋根の下にある木鼻(きばな)は、そうした魔よけのひとつで四方を護っている。あれらもマカラだと言って良かろう。

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金比羅大権現



これ以上遡りたい人はこのサイトをどうぞ
ミトラ神まで遡ってくれる。つまりギリシア・ローマ以前の最古の信仰である西アジアの神の姿まで。やはりすべての大元はペルシアにある。


民族学伝承ひろいあげ辞典 玄旨帰命壇・摩多羅神




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摩多羅神まとめ

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「摩多羅神とは摩訶迦羅天であり、また吁枳尼天(だきにてん)である。この天の本誓に「経に云う。もし私が、臨終の際その者の死骸の肝臓を喰らわなければ、その者は往生を遂げることは出来ないだろう」。この事は非常なる秘事であって、常行堂に奉仕する堂僧たちもこの本誓を知らない。決して口外せずに秘かに崇めよ。」光宗(こうじゅう)『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)』



「しかして摩多羅神ノ御堂に入りぬ。宝冠の阿弥陀仏ませり。此みほとけの後裡(ウシロ)の方に此の御神を秘斎奉(ひめいつきまつれ)り、摩多羅神は比叡ノ山にも座り。まことは天台の金比羅権現の御事をまをし、また素戔烏尊(スサノヲ)ともまをし奉る也。また太秦の牛祭とて王の鼻の面(おもて)をかゞふり、たかうな(高台?たかうてな、御幣?)などをいなだき牛に乗り・・・」(菅江真澄『かすむこまかた』天明六年)




摩訶迦羅天=大黒天=摩訶迦羅と音写される。密教では,胎蔵界曼荼羅の最外院北方に属し,自在天の化身として,3面6臂で忿怒の黒色形相をもつとされる。最澄が日本に伝え,比叡山に祀ったのが最初。後世では,七福神の1つとして頭巾をかぶり,右手に小槌,左手に袋を持ち米俵の上に乗っている姿が通常のものとなり,福徳の神として民間で尊ばれている。

仏法の守護神。
元来はヒンズー教の神で,密教では大自在天の化身。サンスクリットでマハーカーラ。日本の民間信仰では大国主(おおくにぬしの)命と合一し,頭巾をかぶり,袋を背負い,打ち出の小槌をもつ福の神として,七福神の一神となる。

サンスクリットのマハーカーラMahākālaの訳で莫訶哥羅,摩訶迦羅天,また大黒神,大黒天神ともいう。摩醯首羅(まげいしゆら)(大自在天)の化身で戦闘の神。《大日経疏》においては毘盧遮那(びるしやな)仏の化身で灰を身体に塗り,荒野の中にいて荼枳尼(だきに)を降伏させる忿怒(ふんぬ)神であると説く。胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)の外金剛部院に描かれる像は,その特色を反映するかのように身色黒色で焰髪が上に逆立った三面六臂の忿怒像である。

《〈梵〉Mahākālaの訳》
1 もとインドで破壊を意味する暗黒の神。密教では、大自在天の眷(けん)族として三宝を守護し飲食をつかさどる神となり、忿怒(ふんぬ)相を示す。寺の厨房(ちゅうぼう)などに祭られた。
2 七福神の一。米俵の上に乗り、頭巾(ずきん)をかぶり、打ち出の小槌(こづち)を持ち、大きな袋を肩に担ぐ像で表される。中世以降、大国主命(おおくにぬしのみこと)と同一視されて広く信仰され、恵比須とともに福徳の神とされる。

摩多羅神=マハーカーラ(大黒天・摩訶迦羅天・吁枳尼天)⇒人を食う神⇒金比羅大権現(マカラ)⇒憤怒と破顔一笑、頭巾。エロスの象徴、ワ二、乗り物⇒乗っていた女神と混同⇒大日如来(アフロディーテ・太陽神)の化身=太陽神アマテラス

河の女神が乗るワニ=河の守護神=秦河勝

となった。


つまり日本ではいろいろな神々がまざりあって解釈され、最終的に密教も混交して理解されていった結果、底辺渡来人たちのあいだで秦河勝として代表されてしまった。






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秦氏と継体大王の関係/若狭・近江秦氏と原発乱立地帯若狭湾・敦賀半島の因果関係の謎

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滋賀県高島市と福井県美浜町の秦氏について(水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』2013 より)


近江国高島郡三尾(みお)郷の南市東(みなみいちひがし)遺跡・下五反田(しもごたんだ)遺跡に渡来人の痕跡が出土している。これは継体大王の母方出自となる三尾氏となる人々のものであると考えられる。この中に継体の父である彦主人王(ひこうしのおおきみ)の宮が含まれていた可能性があるという。このことに深く関連して近くにある鴨稲荷山古墳から次のような記載の在る木簡が出ている。



「■田廣濱 秦椋人酒公秦廣嶋 ■継」


欠字部分を補って読解すると、「はたのひろはま、はたのくらひと さけのきみ はたのひろしま ■つぐ」と読める。高島の鴨川近辺に秦氏がいた証拠品である。


また鴨稲荷山古墳と近接する鴨遺跡(奈良~平安時代)からは、

「遠敷郡 遠敷郷 小丹里 秦人足嶋 庸米六斗」
(おにゅうぐん、おにゅうごう、おにゅうのさと、はたひとたるしま ようまいろくと)


遠敷郡は滋賀県高島市とは鯖街道で隣り合う福井県小浜市のことである。遠敷は東大寺初代別当だった良弁(ろうべん)の母方出身地で、お水取りに先立ってここから「お水送り」された聖水が修二会に使われていた。この聖水が今は東大寺敷地内に井戸として引かれているとされている、その水がお水取りの水である。

小浜市にも秦人がいたということがわかる。しかも名前がどちらも「嶋」がつくので、両者は縁者であろう。

小浜と高島は安曇川沿いに今ではバスで一時間で往来できる。非常に近いと言える。丘陵がなだらかなので歩いて鯖を京都へ運んでいた。足嶋は米を京都へ運ぶときに、高島を経由していたわけである。ここから琵琶湖・宇治川で京都へ出られる。高島の安曇川地名、鴨川地名から、運搬に従事したのは安曇氏か鴨氏であろうと推測できる。

鴨稲荷山古墳の出土品は、継体大王からの下賜品と朝鮮からの下賜品で、豪華であり、石棺は畿内型の二上山白石を使った家型石棺である。近くに水尾神社があり、この「みお」は水に関わった福井三尾氏の古墳と考えられ、継体大王の関係者であろう。すると福井の秦氏と継体大王の近い関係があったことが見えてくる。


「若狭国(福井)貢進物付札木簡」に秦氏の名前が記録されている。

遠敷郡には秦勝(はたのすぐり)2名、秦曰佐(おさ=長)1名、秦人15名、秦人部1名が、三方郡には秦勝2名、秦曰佐1名が記録されている。


小浜市から東へ17キロばかり行ったところに「田烏 たがらす」集落がある。若狭国田烏浦である。この漁村を開いたのが秦氏の人であった。鎌倉時代には刀禰(とね、町役人)職としてここに住まい、以後、代々庄屋を勤めて今に至っている。この家の古文書は二百数十点に及び、現在京都大学文学部博物館に所蔵されている。それによれば彼らの先祖は鎌倉時代初頭、三方郡耳西郷日向浦(みかたのこほり、みみにしごう、ひるがうら)に秦成重・成里・則清(なるしげ・なるさと・のりきよ)三兄弟が移住してきて開発したと記録されている。耳西郷日向浦は現在の福井県三方郡美浜町日向である。

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絶海の半島(常神半島)で、東には美浜・敦賀原発のある鶴賀半島の丹生に面す。ここには気比の松原(敦賀湾)があり、美浜・敦賀原発の存在によって進入できない道路が一本あるきり。対面する気比神宮の摂社となる常宮(じょうぐう)神社には神功皇后が祭られ、谷川健一によれば、かつては産屋(さんや)が浜に建つ海の民の居住地であった。


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たがらすのうら【多烏浦】

「若狭湾岸中央部の半農半漁の集落。現福井県小浜市田烏。17世紀後期以後〈田烏〉と表記するが,古くは〈多烏〉であった。鎌倉初期,もと耳西郷日向浦(ひるがうら)(現,福井県三方郡美浜町日向)に住した秦成重兄弟が,時の若狭国守護稲葉時貞の後援を得て移住し,開発したと伝えるが,おそらくより古く平安期から浦人の居住が見られたと推測される。その後この浦は文覚上人のはからいで神護寺領西津荘の一部とされ,文覚配流により一時後鳥羽院領となったが,承久の乱後旧に復した。 」https://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E7%83%8F%E6%B5%A6-849698

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気比は記紀に「御食国 みけつのくに」として記録され、塩や魚介の供出地で、気比大神と応神天皇が名前を交換した由緒在る土地で、気比はツヌガアラシトが開発したと伝承されている。王家に食料を出した地域ゆえに古くは敦賀一帯には都から膳氏(かしわでうじ)が国司として着任してきた。その記録である『高橋氏文』に「わかsのくにには、”むつかりのみこと”(六雁命)にながくうみのこらが遠き世の国家とせよと云々」とある。

六雁命とは膳氏の祖で、景行天皇に国を納めよと言われた人だという意味である。
若狭国造は膳氏に定めると『先代旧事紀』国造本紀にある。つまりここの秦氏たちは膳氏国造の管理下にあった漁民であったと考えられる。


継体大王の登場の影には、このように三尾氏や膳氏や息長系譜以外に、秦氏が深く関わったことは間違いない。

原発の立地と秦氏漁民居住地にも何か因縁があるのだろうか?


次回、ほかの原発立地に秦氏はいないかを探してみたい。例えば伊方などは?



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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U





全国原発所在地の確実性の高い秦氏渡来伝承と遺跡

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日本の原子力発電所一覧
日本の原子力発電所

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柏崎刈羽原子力 1~7号新潟県柏崎市青山町16-46
                                       越中国古志郡(平安・三嶋郡)刈羽郡刈羽村   
※青は墓所、三嶋は瀬戸内、刈羽は鉱山と祭祀の地名
東海 第一茨城県那珂郡東海村白方1-1
                                      常陸国那珂郡白方石神白方村字澤頭(豊受大神宮)・那珂川沿線
東海 第二茨城県那珂郡東海村白方1-1 
                                      常陸国那珂郡・那珂川沿線
※白方は「新羅から」、那珂=多氏

泊 1~3号北海道古宇郡泊村大字堀株
                                  後志(くなしり)国古宇(ふるう)郡堀株
※泊は日本海から来た地名

女川原子力 1・2号宮城県牡鹿郡女川村塚浜字前田1
                                      陸奥国(陸前国)牡鹿郡女川
福島第一原子力 1~6号福島県双葉郡大熊町大字夫沢字北原22
                                      岩城国楢葉(しねは)郡夫沢字北原
明治29年標葉郡と楢葉郡が合併双葉郡
福島第二原子力 1~4号福島県双葉郡楢葉町大字波倉字小浜作12 (敷地の一部は富岡町)
                                       岩城国楢葉郡波倉字小浜作  
   ※岩城国造は多氏同族。
 
浜岡原子力 1~4号静岡県御前崎市佐倉5561
遠江国小笠郡大字新野 
※笠は吉備笠臣
     
志賀原子力 1号 石川県志賀町赤住1 
能登国羽咋郡志加浦村赤住
志賀は奴国海人地名、羽咋も、赤は水銀や銅
敦賀 1~2号 福井県敦賀市明神町立石前
越前国敦賀郡明神立石猪ヶ池 
美浜 1~3号 福井県三方郡美浜町丹生66号川坂山5番地3 
越前国遠敷(おにゅう)郡上中(かみなか)丹生川坂山
遠敷・丹生=水銀鉱山地名 中=那珂・多氏地名
高浜 1~4号 福井県大飯郡高浜町田の浦1
若狭国大飯郡高浜神野浦
大飯 1~3号福井県大飯郡おおい町大島1字吉見1-1
若狭国大飯郡大飯字吉見
「飯」は多氏地名
島根原子力 1・2号島根県松江市鹿島町片句654-1
出雲国八束郡(島根郡と秋鹿郡一部)大字恵曇?字片句?      
伊方 1~3号愛媛県西宇和郡伊方町九町コチワキ3-40-3
伊予国宇和郡矢野保内郷伊方浦?
玄海原子力 1~3号佐賀県東松浦郡玄海町今村
肥前国松浦郡値賀(今村)村小加倉?      
川内原子力 1・2号 鹿児島県薩摩川内市久見崎町字片平山1765番地3 
薩摩国薩摩郡高江村大字久見崎


    

各地の渡来伝承と遺跡(●印に秦氏痕跡)
設置者・発電所名・号炉・所在地・炉型・出力・運転開始・備 考
●日本原子力発電 東海 ? 茨城県那珂郡 GCR 16.6 66/07/25 97年度で廃炉予定
●日本原子力発電 東海第二 ? 茨城県那珂郡 BWR 110.0 78/11/28 
秦氏眷属だった長岡氏
「長岡氏は古代豪族のひとつ。蓋氏の一族、長岡忌寸。
長岡連は渡来人系秦氏の一族。本姓不詳。常陸国那珂郡長岡より出る。文明年間(1469年 - 1486年)に長岡小六が江戸氏と戦い戦死した。なお、常陸国に家紋を丸に梅鉢とする家系あり。」参考Wiki長岡氏

地名を同じくする高知県長岡には、「秦川勝は任を土佐に受け、辞任後土佐国長岡 郡宗我郷におり、その子孫がその村の名を取り、長曽我部氏と称した」とある。このほか「なか・なが」地名と秦氏由来の海人族とは深い関係性がありうる。

また那珂国造は多氏枝族である。

☆ 式内社 常陸國久慈郡 靜神社 名神大
  茨城県那珂市静
  御祭神 建葉槌命  
相殿神 手力雄命 高皇産霊命  思兼命
「建葉槌命(タケハヅチノミコト)は別名、天羽雷命(アメノハヅチノミコト)。
天羽雷雄命・天羽槌雄神とも書きます。
靜神社のHP、靜神社を解説したサイト、その他どこを見ても、御祭神「建葉槌命」は、倭文(しづり、しどり)の祖で、織物・機織りの神、と書かれているだけです。
社名の「静」は、「倭文」からの転訛と考えられています。『常陸風土記』久慈郡には、常陸において初めて機織りをした場所が当地の「静織の里」であると書かれています。
古代において、機織りの技術集団とは即、秦氏をさしますが、常陸では何でも中臣氏と関連づける悪癖があるようです。
風土記を含め、常陸のことを書いたHPを見ても、秦氏との関連は掴みきれていません。

倭文(シドリ)布は、古代、「志豆波多(シヅハタ)」または「阿衣(アヤ)」といったそうです。
「波多」は「秦」の別表記ですし、「阿衣」とはいかにも「阿波の衣」ではないですか?」http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/46964414.html


●日本原子力発電 敦賀 1号 福井県敦賀市 BWR 35.7 70/03/14 
●日本原子力発電 敦賀 2号 福井県敦賀市 PWR 116.0 87/02/17 
 敦賀市の「白城(しらぎ)神社」(所在地・白木)、 「信露貴彦(しろきひこ)神社」(沓見(くつみ))、 小浜市の「白石(しらいし)神社」(下根来(しもねごり))などである。これらに 加え「気比(けひ)神社」「角鹿神社」「須可麻(すがま)神社」なども 新羅・加羅系の氏族が祖神を祭ったといわれている。

北海道電力 泊 1号 北海道古宇郡 PWR 57.9 89/06/22 
北海道電力 泊 2号 北海道古宇部 PWR 57.9 91/04/12 


●東北電力 女川(おながわ)原子力 1号 宮城県牡鹿郡 BWR 52.4 84/06/01 
●東北電力 女川原子力 2号 宮城県牡鹿郡 BWR 82.5 95/07/28 
「陸奥国柴田郡新羅郷が『和名類聚抄』に見え、列島北限の事例となる(現在の宮城県柴田郡川崎町に比定)。【事例1】
8世紀中葉に、陸奥国府の多賀城へ須恵器供給を行った硯沢窯跡群で、韓半島系の工人が活動した。このことを示すA1a号窯跡は、周辺窯と全く異なる半地下式構造をなし、同時期の韓半島に類例の認められる独特な窯道具が出土している(図1)註1)。」
http://www.culture.fks.ed.jp/iseki/A05/f09.html



●東京電力 福島第一原子力 1号 福島県双葉郡 BWR 46.0 71/03/26 
●東京電力 福島第一原子力 2号 福島県双葉郡 BWR 78.4 74/07/18 
●東京電力 福島第一原子力 3号 福島県双葉郡 BWR 78.4 76/03/27 
●東京電力 福島第一原子力 4号 福島県双葉郡 BWR 78.4 78/10/12 
●東京電力 福島第一原子力 5号 福島県双葉郡 BWR 78.4 78/04/18 
●東京電力 福島第一原子力 6号 福島県双葉郡 BWR 110.0 79/10/24 
●東京電力 福島第二原子力 1号 福島県双葉郡 BWR 110.0 82/04/20 
●東京電力 福島第二原子力 2号 福島県双葉郡 BWR 110.0 84/02/03 
●東京電力 福島第二原子力 3号 福島県双葉郡 BWR 110.0 85/06/21 89年再循環ポンプ事故
●東京電力 福島第二原子力 4号 福島県双葉郡 BWR 110.0 87/08/25
双葉町中通に清戸迫(きよとさこ)横穴群などの海人系装飾古墳。

「会津若松市上吉田遺跡から「秦人」(図5左)、同市東高久遺跡から「秦□人カ」の墨書須恵器坏が出土している。周知のように、秦人は、「初期の有力渡来系集団の秦氏と同族、もしくは従属していた渡来系集団」であり(吉川弘文館1990)、それらの墨書坏には、「今来」と刻書横瓶とほぼ重なる年代観が与えられる。 このことから、「今来」の外来者は渡来から数世代を経た秦人とみられ、会津郡衙周辺の関連資料の分布の広がりから、一定の人数が移住したと考えられる。

 また、そのルートは、「秦」の墨書土器が「今来」の刻書横瓶の生産窯と近距離の製鉄遺跡で認められ(新潟市新五兵衛山遺跡)、彼らが北陸経由で移住したことが証明できる」
http://www.culture.fks.ed.jp/iseki/A05/f09.html

「福島県双葉郡浪江町大字井出に「太刀洗(たちあらい)」という字がある。そこには太刀洗遺跡という遺跡があり、常磐自動車道の工事に伴って平成15年に発掘調査が行われた。その結果、炭焼窯の跡や廃滓遺構が検出され、後者からは約4tの鉄滓を中心に、製鉄炉体破片、羽口、木炭等が出土している。伴出した土師器片からこの遺跡は平安時代前半頃の製鉄遺跡と判明した。

  この遺跡がある「太刀洗」という地名の由来は調べ切れていないが、ここにも太刀洗い型のモチーフをもった説話が残されていたのではあるまいか。

  この他、太刀洗い型のモチーフをもつ説話は九州地方の北部に多く残されている。『日本伝説大系』には福岡から7、大分から3、佐賀から2、このタイプの説話が収録されている。これらはおそらく、正平14年の大保原合戦で、太宰少弐と戦った菊池武光が、血刀を川で洗ったという有名な伝承に附会されたものだろう。現在、武光が血刀を洗った川は太刀洗川と呼ばれ、福岡県三井郡太刀洗町を流れているが、残念ながらまだ私はそのきんぺんで、古代に製鉄や鍛治が行われていたことを感じさす伝承なり、考古学上の発見なりがあったという情報にぶつかっていない。希望的観測を述べると、ある程度、マクロにみれば太刀洗町ふきんは、古代に物部氏が活動していた感じがする地域であり、彼らの部民で鍛治を行っていた者たちが、そこに居住していたのではないか、などと考える。

  なお、福岡市早良区内野多々良瀬には次のような太刀洗い型のモチーフをもつ伝承がある。「荒平戦争の時、竜蔵寺勢が血刀を洗ったので、大刀洗瀬という。多々良瀬はそのなまり。(『背振山麓の民俗』)」

  「たちあらい瀬」→「たたら瀬」という音転は何となく本当にありそうな感じがするが、いちおう、この地名も付近でタタラ製鉄が行われていたことから付いた可能性があると言っておこう。」http://www5f.biglobe.ne.jp/~dayfornight/sugata/02tachiarai(1)/02tachiarai(1).html


東京電力 柏崎刈羽原子力 1号 新潟県柏崎市・刈羽郡 BWR 110.0 85/09/18 
東京電力 柏崎刈羽原子力 2号 新潟県柏崎市・刈羽郡 BWR 110.0 90/09/28 
東京電力 柏崎刈羽原子力 3号 新潟県柏崎市・刈羽郡 BWR 110.0 93/08/11 
東京電力 柏崎刈羽原子力 4号 新潟県柏崎市・刈羽郡 BWR 110.0 94/08/11 
東京電力 柏崎刈羽原子力 5号 新潟県柏崎市・刈羽郡 BWR 110.0 90/04/10 
東京電力 柏崎刈羽原子力 6号 新潟県柏崎市・刈羽郡 ABWR 135.6 96/11/07 世界初のABWR炉
東京電力 柏崎刈羽原子力 7号 新潟県柏崎市・刈羽郡 ABWR 135.6 97/07/02 


●中部電力 浜岡原子力 1号 静岡県小笠郡 BWR 54.0 76/03/17 
●中部電力 浜岡原子力 2号 静岡県小笠郡 BWR 84.0 78/11/29 
●中部電力 浜岡原子力 3号 静岡県小笠郡 BWR 110.0 87/08/28 
●中部電力 浜岡原子力 4号 静岡県小笠郡 BWR 113.7 93/09/03 
『続日本後紀』、承和14年(847年)「遠江国 蓁原(はいばら。現大井川町)郡人、秦黒成女、一たび二男一女を産む、正税稲三百束及び乳母を賜う」
勝田、勝俣。勝間田など秦氏地名と氏族。


●北陸電力 志賀原子力 1号 石川県志賀町 BWR 54.0 93/07/30 
石川県羽咋郡志賀町松尾神社
祭神は、大山咋神、中津島姫命大山咋神は、日吉大社の祭神。
もう1柱の祭神である中津島姫命(なかつしまひめのみこと)は、宗像大社(福岡県宗像市)で祀られる宗像三女神の市杵島姫命の別名とされる。『秦氏本系帳』[原 5]によれば、大宝元年(701年)に勅命によって秦忌寸都理(とり)が現在地に社殿を造営し、松尾山の磐座から神霊を同地へ移したのが創建になるという」
 


●関西電力 美浜 1号 福井県三方郡 PWR 34.0 70/11/28 
●関西電力 美浜 2号 福井県三方郡 PWR 50.0 72/07/25 91年蒸気発生器破断事故
●関西電力 美浜 3号 福井県三方郡 PWR 82.6 76/12/01 
●関西電力 高浜 1号 福井県大飯郡 PWR 82.6 74/11/14 
●関西電力 高浜 2号 福井県大飯郡 PWR 82.6 75/11/14 
●関西電力 高浜 3号 福井県大飯郡 PWR 87.0 85/01/17 
●関西電力 高浜 4号 福井県大飯郡 PWR 87.0 85/06/05 
●関西電力 大飯 1号 福井県大飯郡 PWR 117.5 79/03/27 
●関西電力 大飯 2号 福井県大飯郡 PWR 117.5 79/12/05 
●関西電力 大飯 3号 福井県大飯郡 PWR 118.0 91/12/18 
●関西電力 大飯 4号 福井県大飯郡 PWR 118.0 93/02/02 
「若狭国(福井)貢進物付札木簡」に秦氏の名前が記録されている。遠敷郡には秦勝(はたのすぐり)2名、秦曰佐(おさ=長)1名、秦人15名、秦人部1名が、三方郡には秦勝2名、秦曰佐1名が記録されている。
また鴨稲荷山古墳と近接する鴨遺跡(奈良~平安時代)からは、「遠敷郡 遠敷郷 小丹里 秦人足嶋 庸米六斗」の記載。

小浜市から東へ17キロばかり行ったところに「田烏 たがらす」集落がある。若狭国田烏浦である。この漁村を開いたのが秦氏の人であった。鎌倉時代には刀禰(とね、町役人)職としてここに住まい、以後、代々庄屋を勤めて今に至っている。この家の古文書は二百数十点に及び、現在京都大学文学部博物館に所蔵されている。それによれば彼らの先祖は鎌倉時代初頭、三方郡耳西郷日向浦(みかたのこほり、みみにしごう、ひるがうら)に秦成重・成里・則清(なるしげ・なるさと・のりきよ)三兄弟が移住してきて開発したと記録されている。耳西郷日向浦は現在の福井県三方郡美浜町日向である。参考水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』2013


中国電力 島根原子力 1号 島根県八束郡 BWR 46.0 74/03/29 
中国電力 島根原子力 2号 島根県八束郡 BWR 82.0 89/02/10 
見つからず


●四国電力 伊方 1号 愛媛県西宇和郡 PWR 56.6 77/09/30 
●四国電力 伊方 2号 愛媛県西宇和郡 PWR 56.6 82/03/19 
●四国電力 伊方 3号 愛媛県西宇和郡 PWR 89.0 94/12/15 
「秦部がおかれたと推測される記事は『続日本紀』天平神護二年(七六六)の条である。これには「伊予国の人、従七位上秦毗登浄足(はたひと・きよたり)の奏言によれば、孝徳朝の時代に大山上安倍小殿小鎌が伊予に遣わされて朱砂を採取した。彼はこの地で秦首の女をめとり、その子の伊予麻呂は母の姓に従って秦伊予麻呂と名のった」と記されている。これによって秦首が伊予国に居住していたこととともに、その来住が孝徳朝以前にさかのぼるものであったことがわかる。

 ところで、この秦毗登浄足の「毗登 ひと」は首や史にかわって使用されたものであり、とりわけ史は若干の例を除き全て渡来系の氏族に付されており、渡来系氏族に固有のカバネであった。そして秦氏の「ハタ」は新羅語のハタに由来するものと考えられている。したがって、伊予の秦首は新羅系の渡来氏族であった。この秦首は「首」の姓を有していることからみて、中央の秦氏の支配下にあったと考えられる。またそのいっぽうで、みずからの配下に秦部を従え、それを管掌する役割をもっていたであろう。そしてさきの史料では鉱産資源の採掘を目的として派遣された安倍小殿小鎌と秦首との結びつきが示されており、このことからみればその採掘にあたって渡来系の技術をもつ秦首が、これに積極的に関与したと考えられる。

つぎに、秦首と同様、中央の秦氏と結びつく系譜をもつ秦勝についてみていこう。秦勝に関する史料は天平勝宝九年(七五七)の画工司未選申送解案帳である(正倉院文書・一四)。これによれば、伊予国温泉郡橘樹郷の郷戸主として秦勝廣庭の名がみえ、秦勝が温泉郡に居住していたことが確認される。この「勝」に関して雄略紀一五年条には秦酒公が一八〇の「勝」集団を率いたことがみえ、これによって五世紀中葉から六世紀前半の頃にはすでに中央の秦氏―勝姓者―秦部という管掌形態のあったことが推測される。

 ところで、この秦勝が温泉郡の地におかれていることに注意をする必要がある。温泉郡は伊余国造の管轄した地であり、比較的早くから大和朝廷の支配下に入っていたと思われ、かつその地理的位置は重要である。つまり、温泉郡は伊予国とりわけ松山平野の中心的位置を占めるとともに大和朝廷の中継地である熟田津にも近接している。そして全国に分布する勝姓は美濃・畿内(河内が中心)・北九州に多く存在しているのであり、このような分布のあり方は、一般に畿内を中心として東西の軍事的拠点、あるいは海上交通の拠点に勝が設定されたことを示すと理解されている。したがって、伊予国の秦勝およびその管掌を受けた秦部もまたそのような意義をもって温泉郡に設定されたと考えられる。」http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=2&P_SNO=62&P_FLG1=2&P_FLG2=1&P_FLG3=1&P_FLG4=2

そもそも秦氏出身の土佐長宗我部(ちょうそかべ)氏の支配下である。
「秦河勝は聖徳太子の信任を受けており、丁未の乱(587年)にて聖徳太子と蘇我馬子が物部守屋を倒した際に功をたて信濃国に領地を与えられたので、子・秦広国を派遣した。これにより信濃秦氏が始まる[3]。後年、信濃更級郡に居住していた秦能俊(初代 長宗我部能俊)が土佐に入ったのが、長宗我部氏の始まりとされる。」Wiki
もともと長岡は「そかべ」で、長宗我部氏は地名名乗りである。
漁師町。

伊予秦氏は小千(おち)命を祖とし、これはのちの越智氏で、改名して矢野氏。四国水軍の棟梁であるので久米部と秦氏の混血であろうし、松尾大社が大山積を大山咋神と改変したことも考えうる。


●九州電力 玄海原子力 1号 佐賀県東松浦郡 PWR 55.9 75/10/15 
●九州電力 玄海原子力 2号 佐賀県東松浦郡 PWR 55.9 81/03/30 
●九州電力 玄海原子力 3号 佐賀県東松浦郡 PWR 118.0 94/03/18 
玄海町鐘崎の岬の先端に突き出た佐屋形山に鎮座する、宗像大社の摂社、織幡(おりはた)神社(織幡神社(おりはたじんじゃ)とは、福岡県宗像市鐘崎の鐘ノ岬にある神社である。式内社(名神大)、旧県社で、現在は宗像大社の摂社である。織幡宮(おりはたぐう)ともいい、地元の住民からは「シキハン様」と呼ばれている。

『宗像大菩薩御縁起』によれば、神功皇后の三韓征伐に際し、宗大臣(宗像大社の神)が「御手長」という旗竿に武内宿禰が織った紅白2本の旗をつけ、これ上げ下げして敵を翻弄し、最後に息御嶋(宗像の沖ノ島)に立てたという。武内宿禰が旗を織ったのが当地で、その旗が祀られていると伝えられる。武内宿禰は、「我死なば神霊は必ずやこの地に安ずべし」と伝言したといい、境内右手には武内宿禰が沓を残して昇天したと伝えられる沓塚がある。延喜式神名帳では名神大社に列し、宗像郡内では筆頭の宗像大社の次に記されている。鎮国寺と宗像大社三社を併せて「宗像五社」と呼ばれ、古くから朝廷の尊崇が厚かった。
織幡神社、福岡県宗像市鐘崎
主祭神:
    中座 竹内宿禰
    西座 住吉大神
    東座 志賀大神(綿津見三神)
配祀:天照皇大神、宗像大神、香椎大神、八幡大神、壹岐真根子臣


鐘崎の港の先にある鐘ノ岬の小山・佐屋形山の山腹に鎮座する。式内社、現在、宗像大社の摂社となっている。神功皇后ご一家、竹内宿禰、住吉、安曇、宗像の3海人族の神の全てを祀っている。http://www.geocities.co.jp/sundovani/Arai/101-2.htm
「かねがさき」地名は日本海一円に存在し、宗像~福井まですべて武内宿禰と応神・神宮皇后にまつわる祭神を置く。武内宿禰が旗を振った伝承でほぼ一致し、同一種族による伝播であろうかと思われるが、その旗とは要するに八幡宮由緒である八宇の旗=「やはたの神」のことを指すので、これは豊前秦氏の伝承の伝播であると考えられる。

●九州電力 川内原子力 1号 鹿児島県川内市 PWR 89.0 84/07/04 
●九州電力 川内原子力 2号 鹿児島県川内市 PWR 89.0 85/11/28 

未調査。島津氏は秦氏。

合計51基  4390.3



■注意事項
秦氏の部民は全国に存在する。その理由は殖産氏族であった葛野秦氏は全国規模で鉱物探索をする下人を多く派遣したからである。だから原発が必ずしも全部、秦氏部民がいたからだ、とは必ずしも限定してしまうのは危険であろう。秦氏だけでなく渡来系氏族に従属した人や部は多く、また繊維養蚕機織=秦氏だけだと決め付けるのは間違ってもいる。従って、以上の検証結果のすべてを鵜呑みにはせず、さらに考古学的検証などの決定打を今後も探すつもりである。

また、秦氏には秦人=首おびと・勝=かつ、すぐり、秦人部、秦部と階位がある。すべてが葛野秦氏のような氏姓制度のうえの上級官僚氏族なのではない。勝は知事、市長クラス、オビトは国司クラス、秦部は部民で血脈に無関係な従属家臣団に過ぎない。「秦氏」と言えるのは葛野秦氏だけである。おまちがえ、混同のないように。秦人、秦部がいたからといって「秦氏もいた」は早計である。秦部・秦人は半島から連れてきた技術者集団とその族長の一部に過ぎない。

いずれにせよ、中通や伊方や三方・美浜、玄海のように、秦氏やその他の渡来に関与して集散した技術者、漁師、鉱山師たち職能民や漂泊芸能民が、中央秦氏の衰亡によって次第に離散して、孤立化し、その土地に孤立・隔絶された場所に、現在、原発等の危険な産業施設が置かれたことは偶然とは言えまい。その影に明治以降の政府の被差別民保護政策という社会福祉的一面が顕著に象徴的に見え隠れするのは否めない。それはたばこ産業のようないわゆる官製作物の産地とも、漁業のような往古から租庸調免除された人々とも関係する。京都市南部や鹿児島県国分や富山県、広島県、あるいは神奈川県秦野市のようにかつての専売公社事業がいち早く置かれたこととも深いかかわりがあろう。秦氏の重要事業には製塩、河川土木事業があるように、たばこと塩が専売公社に一括された理由を考えてみることも必要だ。

機織にせよ、それらの専売・官製産業、あるいは危険を伴う産業の多くに、被差別者が動員された歴史をわれわれはわすれてはならない。それは決して差別ではなく、むしろ3K事業にすすんで参加した人々がいてこそ、今の日本の繁栄はなしえたのだという、尊敬の念であるべきだ。戦争が科学を発展させ契機をよくして来た必要悪である歴史の必然と、それらはまったく同じ次元にあり、それらの人々がなければ、誰もが底辺から国力をささえようとはしなかったであろう。国家の繁栄の礎となったものがかつてはヒニンと言われ、極貧に置かれていた。そのことを反省せねば日本の将来はない。

この際、参考地名に「かねがざき、ながおか、ながおかきょう、なか、なが」を挙げておく。
「かね」は鉱物地名、「なが」は蛇で摩多羅神地名でもある。
宗像市鐘崎(かねざき)、福井県敦賀市金ヶ崎、岩手県胆沢郡金ヶ崎町、下関市鐘ヶ崎、栃木県西方町金崎、埼玉県春日部市金崎、宮崎県宮崎市金崎、など。「金」は渡来地名。





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謡曲「花筺」でわかる継体大王の出身地

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ここからは100万アクセス間近を向かえての記念記事になります。


この10年間のご愛読に感謝して、お送りいたします。


Kawakatu輩





世阿弥作 謡曲「花筐」はながたみ

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能 花筐 シテ照日の前



越前市(旧武生市・今立郡今立町合併)余川町にある「越前の里 味真野苑」の継体大王と照日の前「花筐」像http://hitorikimamani.cocolog-nifty.com/buraritabi/2009/06/post-d5a9.html
http://tohgensya.blog71.fc2.com/page-1.html


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継体大王は考古学発掘に習って、ちゃんと頭に広帯二山式冠、手には捩じり式環頭太刀を持っている。照日の前は世阿弥が空想で作り出した虚像の登場人物である。「照日」の名前から、おそらく源氏「葵」から発想した謡曲「葵上」の「照日の巫女」のイメージが念頭にあったと思える。
世阿弥にとって女の呪性の代表なのだろう。

旧・越前国今立郡 いまだてのこほり は継体母である三尾氏振姫(ふりひめ)がいたとされる三国町(旧三尾郷)からも、また琵琶湖に直結した小浜の三尾からも、滋賀県高島市の水尾のいずれからも隔絶した土地で、なぜ世阿弥がここを舞台にしたかは不明である。ただ、万葉集などで知られた、聖武天皇の命によって味真野で暮らす(流刑された?)中臣宅守(なかとみのやかもり)と、都に残された妻、狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)のふたりの、味真野での悲話があり、この時代を異にする空想物語の舞台にはうってつけだったからかも知れない。能「花筺」の構成はまったく同じような悲恋悲話になっている。



狭野茅上娘子を娶ったときに越前国に流罪となる。罪の詳細は不詳。天平13年(741年)帰京し、天平宝字7年(763年)従六位上から従五位下に叙爵[1]するも、天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱に連坐して除名された。Wiki


謡曲「花筺」(はながたみ)
 この謡曲は世阿弥の作と云われているが、その中に挿入されている「李夫人の曲舞(くせまい)」と云われる曲舞は、その父観阿弥の作をそのまま用いたものと見られている。
 物狂いとなった狂女を主人公とした狂女物と云われるもの中でも、最も典型的な構成と云われている。
 

【あらすじ】
 
 主人公(シテ)は「照日の前(てるひのまえ)」 と云う女性。継体天皇がまだ越前の味真野(あじまの)に居て、大迹部(おおあとべ)の皇子と呼ばれていた頃の妃(きさき)である。彼が都に上って皇位を継ぐことになった時、彼は照日の前を越前に残したまま大和へ旅立つが、その時、彼女に、日頃使い慣れた花筺(はながたみ)に文を添えて形見として贈り、私を信頼して待っていてくれと言う。花筺(はながたみ)と云うのは、摘んだ野の花を入れる竹籠、すなわち、花籠のことである。
 
 しかし、その後、何の便りもないままに、彼女は物狂いして狂女となり、形見の花筺と文とを持って、供の女一人を連れて都に向かい、継体天皇の玉穂宮に至る。
 おりしも、天皇は秋の紅葉狩りに出掛けており、彼女らは、その帰りの行列に出会う。行列の先払いの役人が、そこに立っている狂女を追い払おうとして、手に持っていた花筺を払い落とす。彼女は狂いたち、狂乱して激しくののしり、泣き叫び、泣き伏す。
 
 天皇は狂女を照日の前とは気付かず、車の前で狂女の舞を舞えと命ずる。
 そこで、彼女は「李夫人の舞」を舞う。これは、中国前漢の第七代孝武帝が、世を去った寵姫李夫人を思慕し、仙術をもって一夜その魂を呼び寄せる物語の舞である。
 天皇は、照日の前が差し出す花筺を受け取り、まさしく自分が越前の頃に愛用していた品であることを見て、今は正気に戻った彼女を伴って宮殿に帰る。
 やがて、彼女は、後の安閑天皇を生んで「照日の宮」「筺の女御」と呼ばれた。
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/kwch-lit/hanagatami.htm








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継体大王今城塚古墳石棺内部の復元したもの
ちゃんと広帯二山式冠と捩れ式環頭太刀を入れてあった。



■継体大王の威信財
継体大王とその関連氏族との連携を証明する考古学的遺物=威信財を、水谷千秋は次のように明確に示した。
 
1 阿蘇ピンク石製石棺
2 広帯二山式冠
3 捩じり環頭太刀
4 三葉文楕円形杏葉
5 尾張型埴輪



継体次男の安閑の母親と言えば尾張目子媛であるので、まったく地域が違う。継体の二人の息子がもし、応神系直系の手白髪皇女(たしらか、手白香)の子だったなら、百済紀にあるような継体死後すぐに殺されるようなことはなかっただろう。 しかし結果は二人は殺されたとしか思えず、即位したのはやはり手白香の子・欽明だった。そうした悲運の天皇のイメージも、この謡曲には含まれてえうのだろう。ということは世阿弥の思いは、強く継体と尾張氏の血脈へ親しみや哀れの気持ちで満ちてもいたはず。それを、尾張の娘とはわからぬように、あえて越前のそれらしい場所に舞台を持ってきたわけだろう。世阿弥は歴史的事実をよく知っていた人だったということになる。そして当時の力関係で生じる中央旧態勢力が不適切だと判断した尾張氏と継体の関係の深まりという背景を隠したわけである。それは継体自身を受け入れられない雄略系譜の正統の血の継続を願った旧態勢力の陰謀が実際にあったということではなかろうか?

安閑・宣化兄弟の墓を『日本書記』はどうしても息長氏ゆかりの近江琵琶湖へ置こうとしたようだ。母方三国三尾氏の血が渡来の血であることを隠したかったのではないか?継体の出自が近江説と越前説に振り回される理由もそこにあるようだ。それはやはり息長氏正統血脈の無理やりのこじつけであろう。不比等にとって、女帝の時代を確立するためには、欽明~天智の血統が先の王家雄略とあとの王家継体との合体によった正統なものでなければならない。すると東国尾張のかつての敗者・海部の血脈はどうしても外戚として低すぎることになる。まして継体が越前三尾から来たなども、絶対に認めたくないのだ。そこで三尾氏中継港だった琵琶湖西岸の高島の真東に居住していた息長氏の正統性はどうしても捏造してでも創っておかねばならない。

そこで雄略からずいぶんと遡って空想された応神と、その母神功皇后が作り出されることとなったのではないか?息長氏と葛城氏から誕生した神功皇后 息長帯姫伝説は、こうして創作され、3世紀前後の部分に挿入された。雄略より前の河内王朝天皇は実は架空ではないか?『日本書記』編纂もまた最初は雄略紀から書き始められ、あとでそれ以前が付け足されたのだから。だから中国『宋書』の倭五王記事と記紀の天皇がどうもしっくりかみ合わない。かみ合うのは雄略=ワカタケル=倭王武だけである。

応神が新羅から来たとも、もちろん書けるはずがない。天皇家はあくまでも倭人、大和の純潔民族の王なのだ。渡来では絶対あり得ない、という、藤原不比等の体中にあふれていた万世一系のイデオロギーゆえである。わが大王家は正統なのだ。すべては卑弥呼以前からの倭人の血脈から出るのだ・・・。それこそが天孫アマテラスの直系なのだ・・・。『日本書記』にはそれが満ち溢れて、さらに書物からはみだし横溢している。

ところが・・・あとの時代になって、天武直系である桓武の血には渡来人と土師氏の娘・高野新笠の血が受け継がれてしまった。不比等ののぞんだ『日本書記』イデオロギーは、ここで完全に大どんでん返しを食らうことになる。これはまるで戦後日本の美智子妃殿下の登場以上のショックを不比等子孫たちに与えたことだろう。時代は代わった。

継体祖先の彦主人までの系譜は、実にあやふやである。世阿弥はうすうすそこに気づいていたのかも知れない。なぜなら秦氏は雄略・継体の忠実なしもべ氏族としてはじめて歴史に登場してくるのだから。それが伏見深草の秦大津父(はたのおおつち)である。しかし彼はまだ東国や伊勢や近江と商業的な通商をする輸入業者でしかない。その血脈はおそらく、3世紀に巨椋池南部の宇治や深草から出てくる弥生遺跡群の、オンドル煙通路などを持った渡来系弥生人からのものだろう。飛鳥時代に葛野太秦周辺に理想郷を造る河勝の酒公血脈とは微妙に違うのではなかろうか?大津父の登場は雄略の5世紀で、そのエピソードはどこかしら中国の太公望伝説のような仕上がりで、真実かどうかは不明である。応神と若狭に関与する武内宿禰の関わりもどこかできすぎている。日本海交易のためのルート確保の歴史を述べてあるのだろうが、どこかまだ真実味に欠ける。神功皇后伝説も日本海と瀬戸内海の両方にちらばっていて、それぞれが記紀伝承を在地に持ってこようとしている強引さがある。

雄略~継体の激動期に、瀬戸内航海は筑紫国造家と瀬戸内海人族ネットワークによって牛耳られていた。だから日本海でしか畿内・大和は朝鮮へゆけない。そこで継体時代になって継体は筑紫国造磐井になんくせをつけて滅ぼそうとした。その直後から、畿内の古墳の石棺が、それまでの王家の石棺石材である二上山~竜山石から、隔絶する肥後の阿蘇凝灰岩へと切り替わってゆく。
最初は北肥後系の菊池川の石、次に中肥後宇土の阿蘇ピンク石へ切り替わり、そのとき中肥後には江田船山古墳が作られる。そしてそれが南肥後の氷川産へとまた切り替わった。最終的に飛鳥時代欽明以降には肥後石はなくなって今度は再び近畿の石へ戻った。その期間はまさに雄略~継体が大王だった時代なのである。二上山の石が竜山に切り替わったのも、ちょうど雄略が葛城氏、吉備氏を滅ぼして、代わって朝廷中枢に物部氏と大伴氏が台頭した時代である。二上山は葛城氏のお膝元葛城山脈にあるのだし、竜山はおとなりが吉備である。つまりこのときから、中央政権の周囲は変化した。宰相クラスの氏族が大きく変わるのだ。吉備・葛城連合は衰亡して、物部・大伴連合、そして飛鳥時代には守屋も金村も消えてしまい、中枢部には蘇我氏が突然登場する。その政治的動きが石棺変化には如実に現れている。

竜山石を牛耳ったのは讃岐から揖保郡に入った物部氏石工たちである。そしてそこには播磨の秦氏がすでに存在した。継体時代、王家を助けていた深草秦氏たちはおそらく圧迫をうけているはずだ。その直後、聖徳太子と河勝が歴史に登場する。太秦の秦氏がここではじめて歴史に姿を現したのである。これは秦氏という氏族内部での政権交代でもあったはずだ。深草秦氏から太秦秦氏へ時代は大きく切り替わる。そうした流れの中で蘇我氏が藤原氏によって消されていった。そして平安京の時代になり、桓武に貢献したのが山城全域を牛耳っていた左京松尾の秦下氏の秦小黒麻呂だった。太秦の秦氏を秦上氏とすれば、秦下・中氏はあきらかに格下のはず。その祀る神を見ればなぜか九州宗像の市杵島姫と日枝の神大山咋である。河勝の系統にそのような日本独自の神道的・記紀的な神は存在していない。明白に再び、秦氏内部には勢力の移動が起こったのだ。その平安遷都の前が、天武の律令国家開始であり、天武には宗像氏の妃が入っていた。宗像氏はこの天武時代からアマテラス祭祀を沖ノ島で開始しているのである。宗大臣と呼ばれた宗像氏が、玄界灘の対馬の氏族であることはあきらかだ。朝鮮交易で充実した実力は外戚には充分であり、かつて筑紫国造家が牛耳った壱岐対馬航路を存分に朝廷に約束できた。

一方、守屋亡き後の物部氏は筑紫物部が中枢になっている。河内や肩野(交野)など継体の淀川政権に寄与していた物部氏は消滅してゆく。大伴氏も、さらに葛城系だった紀氏も、低い地位に甘んじるようになる。尾張氏は海部として東海に引きこもり、熱田は干渉され続けた。すべて継体までの宰相クラス、外戚氏族である。しかも蘇我氏は葛城の正統跡継ぎだと豪語。蘇我氏は皇室をないがしろにして朝鮮貿易を独り占めするかもしれない・・・中臣鎌足はがまんがならなかったのだろう。しかも彼らはかつての河内の盟主だった物部氏を滅ぼした。蘇我氏に代わってグローバル交易をやりたいと考えていた皇室者は孝徳大王だけだった。孝徳は鎌足と中大兄を利用して蘇我氏をまんまと滅ぼす。しかし中大兄はこれを独占と見たか、孝徳を難波におきざりにして、息長氏の本拠地近江に別宮を建ててしまう。

そこが本当に息長氏の本拠地だったかどうかが問題になるだろう。そこは実は高島の秦氏・鴨氏・和邇氏、三尾氏らの、かつての継体氏族の土地だったからではないのか?往古、河勝が聖徳太子を山城に迎えるときに宇治橋のたもとで飾り馬を立てて歓迎したとある。そこは実は秦氏太秦への入り口だった。その宇治川によって淀川と琵琶湖はつながっている。そして近江の大津がそこにある。天智の望みはもしや継体大王政治の復権だったのかも知れない。天武のあと天武の血脈はことごとく死んでゆく。そして即位したのは天智の娘である持統天皇だった。藤原氏も復権をかけて女帝にかけるしかない。



次回、継体大王の氏族がもらえた遺物と継体氏族及び秦氏に関する画像資料全部見せます。





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継体大王と秦氏 画像資料

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なにも言わずにこれまでの画像史料を列挙しておく。


あとは考えていただきたい。


■継体大王の威信財
 
1 阿蘇ピンク石製石棺
2 広帯二山式冠
3 捩じり環頭太刀
4 三葉文楕円形杏葉
5 尾張型埴輪



1 阿蘇ピンク石石棺関係

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継体大王による筑紫国造家包囲網

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2 高島市かも稲荷山古墳出土広帯二山式冠
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広帯二山式の定型スタイルとその加工バリエーション
及びほかの時代の冠の比較


広帯二山式冠の出土地分布図
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3 ねじり環頭太刀

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4 三葉文楕円形杏葉

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5 尾張型埴輪  

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それら威信財をもらった畿内の同盟氏族の遺跡

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秦氏と継体大王の関係資料
播磨秦氏の分布
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河内・山城秦氏の分布

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九州秦氏分布図
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筑紫国造磐井包囲網と装飾古墳の隆盛

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磐井は豊前の上膳(かみつけのくに)に逃げるしかなかった。



最新版装飾古墳分布図
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筑紫磐井の敗走コース

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継体大王の威信財が出た、磐井包囲網上にある古墳群

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これをすべてあわせてみると

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筑紫国造家とその同盟氏族には装飾古墳がなく、石人が置かれる古墳がある。



装飾古墳がなかった往古の火君の版図に5世紀から次第に装飾古墳が増え始めて、最終的に江田船山古墳に国司が出現し、同時期に宇土に葦北国造が出現する。


この頃から火君の弟である火中君が切り出す菊池川産石棺が畿内に出現し、やがて葦北国造が切り出す阿蘇ピンク石(馬門石)石棺が畿内に登場。


考古学資料と文献史料がこれほど明確に合致するケースは珍しく、実にわかりやすい。継体大王がいかに瀬戸内海・壱岐対馬の半島コースをほしかったかが、肥後に入れられた吉備系国造家と物部集団の進入で明白。

こうして5世紀まで大伴氏が掌握してきた倭五王の靫負集団は姿を消し、筑紫物部氏と秦氏によって九州は牛耳られてゆく。


大分君は海部として完全管理され、肥前肥後は吉備氏によって掌握された。


筑紫・火・豊の石人連合はこうして簡単に瓦解させられた。

筑紫は3世紀からの迎賓港としての既得権益を完全に継体によって奪い取られる。



しかし、継体が死すると、欽明が飛鳥王朝を建て、
九州には再び自由が訪れる。

そのときから宗像氏が安曇・久米を掌握し始め、秦氏と婚姻関係を結ぶことで豊前に実力を発揮しはじめ、秦氏の祭った宇佐神宮には豊の比売王に代わって宗像三女神が鎮座することになった。


そしてついに8世紀、天武の即位とともに宗像君徳善が妃を出し、外戚となる。
沖ノ島のアマテラス祭祀が始まるのである。


天皇の系譜には同じ日本海海人族の息長氏の血脈が巨大な流れを形成しはじめ、藤原氏が宰相として地位を築き始めたのもこのときである。



そもそも中臣邑は今の豊前行橋草葉村にあったのだ。


宗像・藤原・筑紫物部の暗躍が始まった。


それが長い女帝時代である。

以上




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息長氏は本当に存在したのか?

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息長氏には三国真人、坂田真人、酒人真人という枝分かれ氏族が出てくるが、肝心の息長というかばねを持つ人物はその後ひとりも歴史上に現れない。また枝分かれした三氏族の後裔もまったく見えず、Wikiで三氏族を探しても記事すら作られていないのだから、書きようがないのだろう。息長本体も後裔氏族は天皇家だけで、本家にまったく後続者が見えない。

ということは息長氏などという実態はなかったのだと考えてみてもいいのか?藤原氏が作り出し、滅ぼした息長×三尾出身のはずの継体氏族をすべて抹消し、宇佐神宮にでも鎮魂、神やらいしたのではあるまいか?だとするならば、つまり天皇家の直系系譜である皇極~天智・天武~桓武系譜の母方先祖はいったいどこの誰だったかもわからないことになる。天智・天武非兄弟説が出てくる背景もそこに見え隠れする。



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敏達天皇の妃・広姫が息長氏の系譜であるが、彼女ではなく、本当は推古から皇極-天智・天武ー持統の系譜はつながっていたと考えれば、推古の蘇我氏の系譜を消すために息長広姫入内を捏造したとも考えうるのではないか?そう考えると、推古の墓になぜか60年ぶりに復活した阿蘇ピンク石石棺の意味が、なんとなく見えてくる。赤い石棺による、蘇我氏系譜の封じ込めである。




日本の国家としての正しい始まりは、天武からである。するとわが国の正式の国家の歴史は720年からで、1280年続いていることとなる。
建国記念日は天武が律令を開始した年月日にするのが正しいだろう。


それ以前のことなど、誰にもわからない。









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息長氏分析続き

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息長広姫の墓ではないだろう村居田古墳と息長氏本拠地湖東の長浜
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息長氏・気長氏(おきなが・うじ)とは?
「天武天皇の時、新たな氏族分類制度が導入された「八色の姓」。
この時最も高貴な姓である「真人」姓の筆頭に息長氏が位置付けられた。理由は、時の天皇家の祖26継体天皇は、息長氏であり、蘇我氏の血が入ってない「押坂忍人大兄皇子」の母親は、息長真手王(まておう)の娘で「息長氏」である。
 天智天皇も天武天皇もこの流れであり、天皇家にとって最も大切な氏族は、息長氏であると認定されたのだという説が強い。

他の「真人」姓はその息長氏の近い親族、及び継体天皇以降の天皇家から分かれた皇別氏族であった。と言われている。

ところが筆者の調査した範囲では、歴史上記録に残っている息長氏らしい人物は、継体天皇以降では、息長山田公なる人物唯一人である。
 系譜らしきものも残されていない。不思議である。

 一般的には息長氏は、和邇氏等と同じく天皇家をその皇族などに妃を供給する形で蔭で支えてきた氏族で、政治的には決して表に表れなかった氏族であったとされている。

 即ち天皇家の血筋を(天孫族として)常に綺麗?真っ当な状態に保つための氏族という役割に徹した特殊な存在であった。とも言われている。しかし、謎だらけの氏族である。

 記紀だけの記述では、一番天皇家にとって大切な氏族のはずなのに、その系図がすっきりしてない。その出自もよく分からない。

 何故であろうか。

 一方「和邇氏」の系図はしっかり残されており、平安時代の小野氏(小野道風、小野小町など)までかなりはっきりしている。

日本の古代史上謎とされている重要人物の多くが、息長氏と絡んでいる。
「彦坐王」「天日矛」「日本武尊」「神功皇后」「応神天皇」などである。

これらの人物の存在を正当化するために、記紀編集者らが、息長氏なる架空の人物群を導入したのである。とか、天武朝で「真人」姓に認定された息長氏関係者がその先祖を飾りたくて編集者らに圧力をかけ、記紀系図を改竄したのである、など諸説紛々である。」




「・息長氏は他の古代豪族とは異なった成立過程を経て氏族として確立された。
・初期においては「息長」という一種の特殊な技術(例えば製鉄技術)を有する集団みたいなもののリーダーみたいなものに与えられた名跡みたいなものだった。
・この名跡を婚姻、血族内の色々な関係を活用しながら、山城南部に息長の名跡を世襲する氏族が現れた。

・しかし、その山城息長氏族も跡が続かず、河内中部にその名跡が移った。この流れの血脈と神功皇后からの山城南部息長氏の血脈が応神天皇を介して合流され、これから幾つかの血族関係のある息長氏なるものが確立されその一つから26継体天皇が輩出された。

・息長氏は天皇家を支える氏族で表舞台に出ることは26継体天皇以降もなかった。
・全体的には謎の多い氏族である。記紀は敢えてその実態をあからさまにしなかったようである。

 彦坐王、神功皇后、応神天皇、天日矛、日本武尊など記紀記述で最も力を入れた人物の影に常に息長が見え隠れする。

 何かあると思うがすっきりしない。

・息長氏の実態を解明すれば、応神天皇・神功皇后などの実存性の解明に繋がる。」
以上「息長氏考」サイトよりhttp://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-9.html







皇別氏族であり、天皇家外戚でありながら、息長氏の天皇家以外の後裔はたったひとりしか歴史に名前がない。そんなことがありうるのだろうか?

現在、息長さんという苗字は全国にわずか10人しかいなという。

「滋賀県などに同様の地名がみられる。息長真人、息長宿禰、息長朝臣などの子孫ともいわれ兵庫県、和歌山県に少数みられる。「長」は長くのびている地形、器物、生物などの意味。」









このサイトは読者会員の投稿情報でできあがっているから、もちろんこのサイトの情報が絶対に正しいとは思わないが、このようなことは、他の皇別氏族ではちょっと考えられないのである。すると上記記事が言っている「息長は海人族の名跡」というのは面白い。名跡であるなら、いったいどの海人族の長がそのとき息長太郎なんたらだったかは誰にも分からない。これは藤原氏には非常に都合がいい過去の前例になる。

いったい息長氏本家はどこから中央に登場を許され、どこへ消えてしまったのか?
全国に坂田さんは多い。その坂田とは滋賀県米原市の旧坂田郡からの地名名乗りであり、息長氏の系譜である。敏達天皇の妃となって皇極・天智・天武の息長系譜を生み出した広媛は系図ではこの息長氏坂田君の娘となっている。

滋賀県米原市・坂田郡・長浜市は筆者は一度だけ訪問し、伊吹山の寒風に辟易した場所である。ここに新幹線の米原駅(琵琶湖線米原~長浜までのアクセスが少なく、非常に離れた場所が本拠地坂田だった)ができた理由がまったくよくわからないほどの僻遠の地であり、ヤマトタケル伝承の伊吹山と伊福部氏伝承と尾張に出る不破関が天武天皇壬申の乱でクローズアップされた過去しかない寒村である。歴史資料館もかけはなれている。

ところがそんな僻地が息長氏の本拠地で、ここの伝広姫古墳も、宮内庁は息長広姫陵と指定してはいるが、広媛は飛鳥時代の敏達天皇(550年代)の皇后であり、出土埴輪から推定される古墳年代の五世紀末(450~470年?)とは100年の隔たりがある。そこで水谷は息長氏の中で意富富杼王(おおほどおう、継体祖父)を当てている。

「『古事記』には息長坂君(息長君・坂田君か)・酒人君・三国君・筑紫米多君(めたのきみ)などの祖としており、また「上宮記」逸文の文章系譜によれば、中斯知命(なかしちのみこと)を妃として乎非王(おいのおおきみ)を儲け、その孫が男大迹王(袁本杼王)すなわち継体天皇とされる。近年の研究では、継体天皇即位の正当性を示すために系譜作成の段階で挿入された人物としてその実在性を疑われているが、「意富富杼(おほほど)=大ホド」は継体の「袁本杼=小ホド」と対応する名であることから、本来の系譜には継体の兄として位置付けられていた可能性もある。  意富(おう)は意宇、於宇、大、太、多と古書に登場し、出雲国東部を本貫とする大国主命を氏神とする一族との関連性も伺わせる。」



息長氏は本当に実在の豪族だっただろうか?

【酒人真人=坂田酒人真人の証明】
「大橋信弥氏は紀要第5号(1992年3月、滋賀県文化財保護協会)に、
「坂田酒人氏について」という論文を発表している。
大橋氏は平城京跡から出土した「二条大路木簡」の中から、「酒人」、「坂田酒人」、「坂田」を分析し、「坂田酒人」を略して「酒人」としていることを突き止めた。

また「正倉院文書」の「近江国酒田郡上坂郷長解写」には、「郷長坂田酒人公田狭」の署名に「酒人公田狭」の印判が押されているという。つまり「坂田酒人真人」と八色の姓で「真人」姓を賜った「酒人真人」は同一であることがほぼ明らかとなった。同時に酒人真人は木簡によると、近江国上坂郷を本貫とする氏族であることも明確となった。」
のんびりと古代史サイトよりhttp://blogs.yahoo.co.jp/rich036kit/folder/463363.html?p=11

どうやら坂田氏の別族である酒人真人氏の子孫はちゃんといたらしい。坂田氏と坂田酒人氏はそもそも同族である。しかし二つを生み出すはずの肝心の息長本家の子孫が、史上たった一人しか名前が出てこない。その息長山田公とは?

息長山田公
【舒明帝の喪葬の礼で述べられた息長家の日嗣】
「日本書紀皇極元年十二月条に、舒明帝の喪葬の礼が行われたことが記されている。
その中に、「息長山田公、日嗣を誅(しの)び奉る。」とある。
「息長足日廣額」、息長の名をもつ舒明帝の喪葬で息長山田公が日嗣を述べたということはどういうことだろうか。
古事記序文の「諸家の齎る帝紀及び本辞」が思い起こされる。

日嗣について日本書紀岩波版の注には、
「歴代天皇が位についた次第を言うか。」
と書かれている。
 
【息長氏の帝紀が古事記の原型にとりこまれた。】
舒明帝が息長家出身であることは父の押坂彦人大兄皇子が息長広姫所生であり、名前に息長を有していることからも明らかであろう。舒明帝の喪葬の場で息長氏代表の息長山田公が述べた日嗣は、息長氏の「帝紀」だったと考えられる。

黒沢幸三氏は「日本古代の伝承文学の研究」の中で、「山田公が誅したことの内容は、『帝紀』やさらには『旧辞』の編纂に反映し、摂取されてゆくのではなかろうか。このとき、息長氏がもち伝えてきた系譜や伝承はさらにまとめられて強化されて、『古事記』の原型の中にとりいれられたと考えられる。」

本家息長のかばねはこれ以降、まったく出てこなくなる。
では、息長本家はなんらかの理由で滅び、坂田系譜だけが残ったということのように見える。
その歴史上の事件について史書はまったく語らない。なぜだ?

実は広媛は母親がまったく記述がなくわかっていない人物である。天皇に嫁ぐ姫の母親がわからないなど、あり得ないことである。
参考Wiki広姫http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%A7%AB



父親が息長真手王(おきながのまてのおおきみ、生没年不詳)
・・・は5世紀から6世紀頃の日本の皇族。王女に麻績郎女・広姫。麻績郎女は継体天皇の妃として荳角皇女を産み、広姫は敏達天皇の皇后として押坂彦人大兄皇子・逆登皇女・菟道磯津貝皇女を産んだ。WIKI息長真手王









キムタクならここで「ちょっとまてよ」であろう・・・。

とにかく『日本書記』はどうしても息長-継体の血筋は残っているんだとしたいようである。その息長と葛城の結婚から生まれたのが神功皇后なのである。彼女のだんなだった仲哀天皇は伊吹山に深く関わったヤマトタルの父である。また敏達の父欽明は継体と尾張目子媛の息子宣化天皇の娘石姫と結婚し、敏達が生まれて息長広姫と結婚。

継体の血筋が滅びずに飛鳥王朝につながるように造ってある。しかも欽明の母はさらに古い武烈の血・・・つまり雄略の血筋である。どうみても、過去のすべての王朝の正統性を継体が受け継ぎ、そのすべてを欽明が受け継いで敏達も生まれ、そこのまたまた息長の広姫が加わるわけで、つまり飛鳥欽明の正統であることを言い募ってあり、それはつまり天智-持統の血脈こそは正統の中の正統の皇族血脈だと言っていることになるだろう。

その一方で蘇我氏の血脈はことごとく消されていった。天武の子孫も消えてしまう。だから仕方なくなれるはずもなかった、天武に転覆された天智の直系である光仁がどんでんがえしで即位し、結果的にその子が桓武である。桓武が秦氏の作った山城の平安京に遷都。このときに藤原氏と結婚して生まれた秦(藤原)小黒麻呂が平安京造営長官・・・。藤原種継の母と藤原小黒麻呂の妻は、秦氏の出。北家と式家が両方とも秦氏の血で彩られている。



筆者作息長氏系図
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すべてができすぎている。
これだけは言えることだが『日本書記』天皇系譜は、
持統からは正しいのは間違いない。
しかし天武以前は、正直、絶対に真実だったとは言えない。
いや、たぶん嘘だ。



息長氏の系譜がつぎはぎだらけ

この系図を作りながらまず思ったのは、応神、継体、敏達のところで、系譜を作った人物はいちいちぶつ切りに息長女系を無理やり天皇の妃に入れているということだ。

どういうことかと言うと、まず一貫した息長系譜が既製品であったのではなく、いちいち天皇系譜を編集してゆく中で、息長氏の女性を思い出しながら、「ええと・・応神さんのこのときの嫁は誰だったことにしようかな?そこから息長なんたらが生まれるんだから、それと継体さんの妃とのつながりはどうつないでやろうか?敏達さんの嫁の名前はなんにしようか?」などと悩みながら試行錯誤したに違いないのだ。


神功皇后ー応神、その妃の景行ー仲媛の系譜がもう、空想上の産物だろう。いなかった人々だからいくらでも改変できる。応神から息長氏が六世孫として出るのだが、まずもってその妃が誰なのかわかりにくい。生まれたのが祖神・わかぬけふたまた王?
「若くして抜け出して二股をかけた王」??
なんじゃ?という名前に作ってある。最初からおふざけである。

敏達の妃、広媛こそが天智・天武にとって大事な祖母になるのに、その父親の息長宿禰の先祖がいきなりオオホド王に直結し、あいだがすっぽりわからない。

一番最初の神功皇后は、なぜか母方葛城氏が渡来人アメノヒボコの血筋で、父方日子坐王(ひこいますのおおきみ)は和邇氏の母と、いもしなかった開化天皇との子になっている。さらにその子は京都南部の綴喜郡の王で木津川沿線が急に登場。琵琶湖から宇治川でいけばまずは八幡市まで出て、三川合流の大山崎を左に見て往来も難しかった葦だらけのブッシュがある巨椋池から木津川へ出なければならない。そこは弥生時代から深草秦氏らの遺跡がある湿地帯で、息長氏は琵琶湖からここを通り抜けるためにまず深草秦氏と共同体になっておく必要がある。

「おおつつき」などという名前は、綴喜地名から作ったあとづけではないか?


筒木・綴喜は竹林が繁茂していたという地名である。巨椋池は竹で覆われていたのだ。そこを小舟でいくしかない。大きな船では通り抜けられない。しかも木津川南岸には武内宿禰の内臣祖先氏族が蟠踞していたはずだ。それに田辺には隼人がいる。竹を持ち込んだ氏族だ。




・・・とここで宅急便がきたのでまた次回へ続きます。

お?おお~~~!!
こいつは春から、ええもんをいただいたかも~~~~?!




あとで向こうへ書きます。



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息長氏は本当にいたのか?2 後裔氏族の発見と一覧 秦氏と末多君

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前記事に息長氏には後裔氏族がいないと書いてから、「そんなはずはない」と思い直して探してみた。すると奈良時代、平安時代に息長を氏姓とする人びとが見つかった。しかも一覧になっていたので、そのまま転載しておく。




◆実在した息長氏人名一覧
名前            時代       出展    備考
息長足日広額天皇(舒明天皇)  西暦 629~641  「日本書記」 父 押阪彦人大兄皇子  母 糠手姫皇女
息長山田公 642 皇極元年12・1  「日本書記」   舒明の殯宮で「日嗣」を誅している
息長真人老 711 和銅4・4・7 従四位上 「続日本紀」 
息長真人子老 702 大宝2・1・17 従五位下 「続日本紀」  息長真人老の子
息長真人臣足 714 和銅7・1・3 従五位下 「続日本紀」  719年 出雲守
息長真人麻呂 729 天平元・3・4 従五位上 「続日本紀」 
息長真人名代 733 天平5・3・14 従五位下 「続日本紀」  738 備中守
息長真人孝子 743 天平15・7・12  「正倉院文書」  中宮職音声舎人から皇后職へ(女性)
息長丹生真人国嶋 762 天平宝字6・1・4 従五位下 「続日本紀」  常陸国部領防人使大目  
息長真人広庭 765 天平神護元・正 外従五位下 「続日本紀」  女性?
息長真人道足 766 天平神護2・11・5 従五位下 「続日本紀」  771年長門守 776年摂津山背検税使
息長真人清継 766 天平神護2・9・19 外従五位下 「続日本紀」 
息長丹生真人大国 769 神護景雲3・4・24 正五位下 「続日本紀」  造宮少輔
息長真人黒麿 750 天平勝宝2・5・26  「正倉院文書」  大和国城下郡人 親族の借銭の保証人となる文書 
息長丹生真人広長 761 天平宝字5・11・27  「正倉院文書」  左京七条二坊戸主 752東大寺画師
息長丹生真人川守 757 天平勝宝9・4・7  「正倉院文書」  右京九条一坊戸主 759里人画師 年39 画師等歴名に記載
息長丹生真人犬甘 757 天平勝宝9・4・7  「正倉院文書」  右京九条四坊戸口 画師  年22   画師等歴名に記載
息長丹生真人常人 762 天平宝字6・7・12  「正倉院文書」  造石山寺所 (画師)
息長真人真野売 747 天平19・12・22


「正倉院文書」
近江国坂田郡司解婢売買券
息長真人忍麿 747 天平19・12・22 少初位上 「正倉院文書」 近江国坂田郡司解婢売買券
息長秋刀自女 823 弘仁14・12・9  「平安遺文」 近江国坂田郡長岡郷長解 
戸主秦富麻呂妻
息長真人福麿 832 天長9・4・25 従七位上 「平安遺文」
坂田郡福擬大領 近江国坂田郡大原郷長解
息長秋刀自女 823 弘仁14・12・9  「平安遺文」 長岡郷戸主秦富麻呂妻
坂田酒人真人乙刀麻呂 年不詳 八世紀  「平城京二条大路
 出土木簡」 庸米荷札  (上坂郷戸主)
坂田酒人真人新良貴 747 天平19・12・22 正八位上 「正倉院文書」 
坂田郡大領 近江国坂田郡司解婢売買券
坂田酒人真人広公 832 天長9・4・25 外従八位上 「平安遺文」 近江国坂田郡大原郷長解
坂田酒人真人公田狭 762 天平宝字6・8・18  「正倉院文書」
坂田郡上坂郷長 近江国坂田郡上坂郷長解



息長真人は制定されて間もない間にはたくさん出ていて当たり前である。
平安時代は?


息長といふ人 1020 寛仁4・11  「更級日記」 美濃から近江に入り宿泊

たったひとりだ。
しかも「といふ人」と不確定で、その記録そのものは「更級日記」というエッセイの中でだけなのである!!これでは、平安時代前しかいなかった氏族というしかなくなる。




『新撰姓氏録』の息長氏
 左京  皇別  息長真人  真人   出自誉田天皇[謚応神]
皇子稚渟毛二俣王之後也   
 左京  皇別  山道真人   真人 息長真人同祖  稚渟毛二俣親王之後也   
 左京  皇別  坂田酒人真人  真人 息長真人同祖     
 左京  皇別  息長丹生真人  真人 息長真人同祖     
 左京  皇別 坂田宿禰   真人 息長真人同祖  応神皇子稚渟毛二派王之後也 天渟中原瀛真人天皇[謚天武。]御世。出家入道。法名信正。娶近江国人槻本公転戸女。生男石村。附母氏姓冒槻本公。男外従五位下老。男従五位上奈弖麻呂。次従五位下豊成。次豊人等。皇統弥照天皇[謚桓武。]延暦廿二年。賜宿祢姓。於是追陳父志。取祖父生長之地名。改槻本賜坂田宿祢。今上弘仁四年。同奈弖麻呂等。改賜朝臣姓也

以上http://okinaga.take1mg.com/newpage5.html
#実在が立証される息長氏

改姓朝臣などとして息長氏は消えて、ほかの枝族の名前になっている。
なぜ名誉ある息長姓をやめてしまうのか?



こうなると息長氏なる氏族は、記紀の時代までは確かに存在したのに、その後一切消えたと言うしかなくなる。



しかも、舒明、山田公を除くとすべてがさほどの地位にもなく、地位は在っても大した事跡もない人々ばかりだ。天武時代に真人だった氏族なのに、その程度の後裔しか輩出しなかったことになる。それはそれで不思議である。藤原氏のような、元は単なる祭祀氏族であった中臣氏の出で、天皇家と外戚にもならなかった氏族が、あれほど中央政権に名を成す宰相氏族だったことや、ほかの外戚氏族の物部氏・葛城氏・尾張氏らの史書における活躍ぶりと比べると、あまりに先細っている系譜である。

もうひとつ気になるのが、遠くはなれた九州の田川の香春などという土地にある香春岳旧社の祭神として祭られている息長帯姫大目命(おきながたらしひ・おおまの・みこと)という名前があることだ。例の英彦山にも祠があったとされる忍骨命の母親とされている。ここはまずは豊前秦氏のメッカで、香春神社は秦氏の祭った祭神であるはず。しかも近隣に敦賀のツヌガアラシトを祭る現人(あらひと)神社も存在し、ツヌガアラシトやアメノヒボコは多くは秦氏と関連付けられる渡来系の神々である。ところがこれらの神は史書の系譜で、往々にして息長氏と神功皇后に関連付けがなされる場合もある。どういうことだろうか?


考えうることは、継体大王前後の時代に、豊前に増える秦氏の管理者クラスの方墳が行橋市には多く、秦氏が半島から渡ってきたときに豊前・筑豊に(銅山開発などのために)留められていた秦人・秦人部を、継体政権の方針に従って管理するために秦氏がやってきた(戻り着任?)とすれば、そこで息長氏との合体が起きたかも?という可能性であろう。「やはたの神」が香春から南下して宇佐まで版図を広げてゆく過程には、途中で三つの秦の里を通り抜けることになるが、その中で下れば筑後川へ抜けられる中津市と豊前市、築上郡大平村()が接する山国川河口部の、旧上膳郡(かみつみけのこほり・上三毛郡~上毛郡かみげぐん)に秦氏のものらしき前方後円墳(穴ケ葉古墳二基)と、それに付随した秦部らしき横穴古墳群(百留横穴墓群)があって、そこが正倉院文書豊前秦氏戸籍にある「仲津郡丁里・上毛郡塔里・加自久也里」の三つの里の中の加自久也里(かしきえ・り)あるいは塔里(とう・り)にあたる場所と考えられ、

この過程のどこかで息長氏がからんできた可能性が考えられる。


秦氏は渡来して以後、各地で多くの氏族が合体しており、京都の加茂氏、奈良の葛城氏などのように、豊前でも宇佐八幡宮の女神が宗像三女神がかぶさっているように、宗像氏とも合体があったわけで、息長氏がもし渡来、あるいはそれをサポートした玄界灘海人族(安曇や久米や隼人?)の血脈であるならば、大陸で、あるいは渡来途中で、すでに両者やほかの氏族とも合体があったとしてもおかしくはないだろう。

その後、継体大王の登場で、秦氏が畿内や越前や近江でかなり協力したことを考えれば、当然中央秦氏は豊前の秦人たちも筑紫国造家ににらみをきかせる上で、影響を持ったはずである。なにしろ豊前や玄界灘は大陸からの表玄関であるし、瀬戸内の玄関でもある。討伐戦争を中央がしかけてくるならば、まず最初の九州の上陸地は豊前・小倉なのである。豊前が古くから秦王国として、筑紫国造家の埒外の土地であったとするならば、まずはここに拠点を置くのが当然であろう。実際藤原広嗣の乱のときは、豊前に武器庫を置いているし、ここ以外では朝倉郡などに仮宮を建てるのが通例である。

もうひとつ、筑紫国造家のお膝元、背振山の南に末多君(めたのきみ)という息長宿禰の末裔が存在している。今の吉野ヶ里遺跡がある神崎郡三田川地域である。息長氏末多氏がすでに古くからここにいたとすると、それはもしや吉野ヶ里遺跡の盟主だった可能性すら出て来はしまいか?


継体の先祖である意富富杼王(おほほどおう)同族には『古事記』に筑紫米多(めた)君、息長坂君(息長君・坂田君か)・酒人君・三国君などが記録がある。筑紫米多君は筑後の吉野ヶ里あたりに住まった渡来系で、末多(まったの)君と書訓するのが正しい。百済武寧の父親で末多(まった)王がある。人物画像鏡銘文の「男弟王」を「おほど」と読まずにそのまま男の弟王と読めば、オシサカの宮にいた曰十王・十曰王とはヲケ王だったという説もあり、継体はいなかった、あるいは捏造、あるいは伽耶系征服王であって大和を滅ぼして蘇我王家の基礎を作ったが対抗勢力である欽明に消されたとかいろいろ。しかし要するに息長氏のための継体挿入であり、結論としてはいなかった人であろう。

以前ここに書いたこの記事にあるが、「めた」ではなくて「まった」と読むとすると、にわかに秦氏枝族である河内の茨田(まむた、まんだ、まった氏)との違いが気になり始めるのである。河内の寝屋川市に太秦地名があり、蔀屋遺跡等とともに、今は河川開発、都市開発でなくなってしまったが多くの古墳群が存在した。ここから隣接する地域が東大阪市や四条畷市で、河内馬飼氏の本拠地だったが、記録では寝屋川に堤を作ったのは秦人と茨田氏である。「茨田」は氏族名は「まんだ」で今は万田氏となっているが、地元の地名読みは「まった」である。茨田大宮などの地名が在る。


これが中央息長系末多氏と、どう関わるのかは考えた人はあまりいないだろう。もしかすると息長氏は1世紀頃から神埼にいた卑弥呼の氏族だった可能性があるのだ。

末多氏居住地の筑後川を隔てた対岸が、あの水沼君(みぬまのきみ)の本拠地である。筑紫国造家は最初の居住地であった糸島半島から、やがて逐語のこのあたりまで南下してくる。そこには高良山や女山がある。継体の追っ手に追われて?次第に筑紫の玄関から有明海方面へと移動したのである。

筑紫には大宰府と迎賓館があり、平安時代まで筑紫国司は代々、海外貿易の既得権益を独占してきた。天皇家を無視して、輸入品をぽっぽないないしたり、勝手な海外交流をして、密輸したり、あるいは場合によっては倭の国王として外国使節団に対応することすら可能だった。平清盛が博多の実権を奪うまで、筑紫はほとんど独立国家として振舞えた。ところが継体大王は自前の琵琶湖・日本海ルートだけで満足せず、安心して瀬戸内海航路を通れる権利を欲した。そのとき邪魔になるのはもちろん四国の海賊と筑紫君である。

秦氏はまず四国の越智と同族化してしまなみ海道の通行権を自在にする。次に筑紫国造家にも接近するが、大昔からの王家はなかなかかたくなで、渡来人などは相手にしない。秦氏はそもそも貿易氏族だからこういう水面下の暗躍にはうってつけである。

そこで継体が考えるのは、筑紫三家同盟の分裂であろう。火、大分をそれぞれ混乱させれば内部崩壊する。大分君はそもそもが尾張・葛城系海人族ゆえに海部にしてしまう。臼杵の臼塚古墳に破壊された石人が今もある。火の君一族はなかなかやっかいで、山岳と大河で氏族は三つにもとから別れていた。南部の氷川までが火の葦北国造、菊池川は火君、玉名地域に火中君がそれぞれ存在し、考え方も、中央への貢献度もばらばら。それが石棺の凝灰岩に時代順にちゃんと表出しているからわかりやすい。


この中で、筑紫国造家とつるむのは、おそらく最北部で筑紫と隣接する火中君であろう。この同盟を取り囲むように継体は徐々に、秦氏を使って同族化していったのだろう。吉備系王族の子孫を国造として送り込んだ。その理由は石棺の直弧文が吉備系であること、記紀記録の景行(おおたらしひこ)がまず吉備へ寄航して吉備王氏族から国造を選ぶことと、神功皇后が吉備の王の弟を火国造に任命する記事が出てくるからだ。要するに宇土・葦北地域は吉備系、菊池川沿線も吉備系のそれぞれ国司的人物が送り込まれ、それまでの倭五王体制の靫負(ゆげい)氏族を締め出すか、寝返らせるかすればいいのだ。もともと彼らは継体を呼び寄せた大伴氏の配下である。


筑紫の磐井は結局筑後で死んだか、あるいは豊前の上膳へ逃げるかしかなくなる。塔里の川辺君つまり秦氏とはなんらかの縁があったのだろう。平家もそうだったが、瀬戸内豪族は敗走するとだいたい、瀬戸内海では宇佐神宮か、豊後水道の宇和島へ逃げ込む。海上交通がむつかしい海だからだ。



このように、やはり息長氏はそもそも九州の海人族だった可能性が高いようである。
もし末多君が朝鮮から来て古くから神埼に住まったとするならば、百済東城王の本名、末多王と似ているのが気にかかる。そして彼らがまさか卑弥呼だったとするならば?『日本書記』の神功皇后=卑弥呼説がにわかに復活するわけである。それこそは中央『日本書記』編者には実に願ったりの正当系譜になってしまうことだろう。


なぜ藤原氏の時代が女帝の時代だったのか?それは傀儡女帝なら正史がいくらでも改変できたからである。そして当時の豪族達の記憶は、せいぜい雄略までで、それ以前は、『日本書記』通読講座が設けられねばならなかったほどに、もう誰も知らない話になっていたのであろう。いかがでしょう?




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100万アクセス記事予告
世界の地球環境の中の日本、それがいかに稀有な場所にわれわれは隠れ家を見つけた! おそらく来週末あたりになります。
乞うご期待。



平安時代に息長氏は記録から消えた

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もう一度前の記事を読み直し、編集しなおしてみた。
よくよく見れば、平安時代の記録にある人々の生きていた時代はみな、奈良時代のものであった。それも天武直後の740年代から800年代初頭だけなのである。

平安時代にいた息長氏はたった一名。それも「息長と言うひと」。それも更級日記と言う紀行文の中に記載があるだけ。



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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
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弥生時代から秦氏はいた。日本史は持統から始まった。

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弥生時代から秦氏はいた。
宇治に。



宇治の「池山古墳」、古墳の痕跡見つからず 墓地の可能性、名称変更を京都府に提案へ

古墳だと思っていたら中世の墓地だったという記事が考古学ニュースに出ている。この宇治の墓地のあるのは、往古、巨椋池があった低湿地帯である。

しかしここにはちゃんと前方後円墳もいくらかある。
例えば、さまざまの立派な遺物が出ている宇治二子塚古墳(うじふたごづか・五箇荘二子塚古墳ともいう、宇治市木幡の五箇庄にある)は、外堀のある大きな古墳である。今は大半は消失しているが、前方部はまだ残っている。


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全国に五箇庄、五家荘、五家ノ庄という地名がある。
この地名のいわれはだいたいが、五軒だけの農家が隠れたような僻遠の地に住んでいるという意味で、どこもみな、そこは隠れ里だが、貴種流離譚が残される。全国どこでもそうだから面白い。その実態は木地師小椋氏が伝承する。地名のいわれも小椋氏がいたからである。巨椋池に浮かぶ島々であったこの地域は、干拓されて、その後秀吉の時代に桃山城が建てられていた。桓武天皇陵もここ、中世の向島城もここにある。京阪電車桃山から三室戸までの範囲が巨椋池で覆われていた。稲荷山山塊の桃山丘陵だけが小高く存在した。桃山の御香宮には豊臣秀吉とともに神功皇后が祭られている。筆者にとっては学生時代のなつかしい思い出の地だ。

古代に、巨椋池は三川合流の大山崎から広大な湿原で、琵琶湖の二分の一ほどの巨大な沼地であった。しかも葦や竹が生い茂り、通行が難しい。当時の絵図では、岩清水八幡宮のある八幡市男山は湖に突き出した半島である。そもそもはここから山科は和邇氏小野氏の管理地である。

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今の向島南部に遺跡と古墳が集中する。宇治市街遺跡群である。





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朝鮮式住居跡がたくさん出ている。弥生時代の遺跡である。




平安時代の書物『聖徳太子伝暦』が書いた葛野・楓野・蜂岡伝説に、聖徳太子が夢に見た葛野へ、秦氏が迎えた宇治橋はこの地図の右下部分に今もある。橋の南部が木津川で、八幡市になる。八幡市から奈良へ直結する田辺への道があって、筒木宮跡(同志社大学田辺分校)へ続く。しかし木津川を渡る橋は、未だに時代劇によく出てくる木製の流れ橋だけである。

大和・飛鳥から北上して大住(大隅神社)を抜けて、筒城をぬけてここへ出て、流れ橋を渡れば宇治橋である。そこで河勝は太子一向を出迎えた。つまり宇治橋は秦氏の世界への架け橋だったのだ。古地図で観ると向島団地の填島あたりは全部島で、湿地の中に浮かんでいる。そのあたりが百人一首で有名な小倉である。小倉は小椋で、土師氏小倉氏の居住地だったが、一帯の朝鮮式住居遺跡はオンドルをもった、おそらく秦氏のものだろう。


宇治市街遺跡ともいう巨大な遺跡だが、鴨川を上がり中書島を少し登ればすぐに稲荷・深草である。深草には弥生遺跡が三つ四つあり、これもまた渡来系弥生人の遺跡だ。深草から東へ丘陵を上がって行くと山科へ出る。小野小町ゆかりの小野随身院へ出る。そこから北へゆけば天智天皇陵。東へ山科街道で琵琶湖の大津へ出る。和邇氏が多い土地である。


小野はもちろん和邇氏の居住地である。だから遺跡は和邇氏や秦氏の遺跡が混在している。

竜谷大学と警察学校の境い目の地下が深草弥生遺跡だが、埋め戻されてしまった。



巨椋池の六地蔵、木幡、黄檗、三室戸などは秦氏の古い居住地で、宇治二子塚古墳は秦氏の墓であろう。そこから継体大王の威信財も出ている。


「墳丘の規模についてはいくつかの点が破壊のため不明ですが、三段構築された後円部の径60mで、前方部の最大幅は85m、高さ16mを測り、墳丘全長は110mとなっています。
右側に造り出し部の付設が確認されています。
墳丘の周囲には二重で馬蹄形をした周濠があります。
これらの外周施設をふくめた兆域の全長が218mになることが知られています。
円筒埴輪、朝顔形埴輪、動物埴輪、盾形埴輪、人物埴輪、ほか形象埴輪などが採取されており墳丘には埴輪の配列がなされていました。
葺石が墳丘に施されていたとみられています。
古墳は二子山古墳公園内に保存されています。
現地を確認したわけではありませんが、道路地図や資料から判断する限りでは、黄檗駅からそれほど遠くはないので車を利用されない方でも訪れるのに苦労することはありません。
1991年に調査、発掘調査が1994年に行われています。
後円部中央にある埋葬施設は横穴式石室となっています。
横穴式石室は転石でつくられ全長17mと測られています。
出土したものとして倭製四乳四獣形鏡、金環、具などが知られています。
この京都府の山城地域は桓武天皇以前は山背ともよばれ同じ畿内に属する地域の中では辺境の地とされていたと推測されます。
この古墳の築造は古墳時代の後期にあたる6世紀初頭ごろと推定されています。 」


六世紀、つまり継体大王の時代の古墳である。
「菟道稚郎子(うじのわけいらつこ)墓」  
と宮内庁の指定があるが、秦氏の墓でまちがいない。


木津川の椿井大塚山古墳からもそう遠くはない。こちらは大筒木王の墓とも言われてきたがおそらく息長氏よりも秦氏あるいは和邇氏ではないか?


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息長氏は天武時代から奈良時代諸島までしか存在記録のない氏族で、天武~持統時代に真人だったが、そもそもそれ以前はまったく存在しなかった、記録にもないはずの架空の氏族である。その正体は『日本書記』が作り出した卑弥呼の虚像の王家を応神~継体の時代にあったと証明するために作り出された虚像でしかない。そんな氏族はいなかった。

その虚像偶像が必要だったのは、ひとえに『日本書記』が天皇系譜から蘇我氏血脈を消すために、無理やりに挿入された広姫からはじまった。そのような比売は存在しない。さらにそのためには、さらに遡った息長系譜まで捏造せねばならず、継体、神功皇后・応神・仁徳という嘘の氏族を登場させることとなった。実に壮大な大嘘である。

だから神功皇后は卑弥呼という中国が書いた邪馬台国の女王の姿に似せて描かれた。それが倭国の最初の正統な女帝だったから、その血脈を受け継ぐものが持統女帝であるとせねば藤原氏の朝廷内での確固たる立場も築けなかったからだ。




以上。


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今、継体大王の今城塚古墳の近くに、鎌足の阿武山古墳がある。
しかし阿武山は改葬前の古墳で、今は談山に鎌足の墓がある。
ところが、不思議な事に阿武山は、本来空の古墳であるはずが、ちゃんと遺体があって、鎌足が天智から死後与えられた大職冠の冠帽までが置き去りにされていた。遺体の髪の毛からは砒素が検出された。

この遺体が誰なのかはわからない。鎌足は乙巳の変のあと逼塞し山科に住んだ。天智天皇陵が山科にあるのは、鎌足のアドバイスで鎌足の所領の敷地を譲ったと考えられてきたが、本当はあとから藤原氏が、持統天皇の藤原京の真北という理由で、天子・天孫として作ったというのが正しい。つまり『日本書記』は天智=天祖の発想で描かれたにせの史書である。

天武も天智も、実は聖徳太子と同じく、不比等と秦氏が作り出した虚像の大王でしかない。つまり継体も応神も崇神も、すべては虚構である。

すべては持統のために、アマテラス信仰一本化の実現のために、最初の天皇となった持統の正統性を言うがために創作されたものでしかない。つまりまとめてしまえば、『日本書記』も『古事記』も、正史などではなく、ただの歴史小説なのだ。




すべての研究者は1300年間、だまされてきたのである。神武からこのかた天武まで、1000年間を、いやその前の神代のこともすべてが、だまし絵だったのだ。藤原不比等の。


壮大な大嘘。サギである。


日本の歴史の始まりはアマテラス=持統女帝から始まった。いいかえれば天皇家の歴史もまたそこから始まるのである。それより前はまったくなにひとつ不明だというのが、正しい、新しい歴史解釈である。


ぼくたちは時代劇を歴史劇だと思い込まされてきたのだ。不比等によって。



その嘘の影に秦氏がつねに存在した。
いまだにぼくらは秦氏と不比等にだまされ続けている。


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ひとりごと

いやいや、息長氏は百済武寧王斯麻の伯父・東城王末多の子孫だな。継体と斯麻の友人関係がこれでなぜかがはっきりする。和歌山の隅田八幡画像鏡は、継体が百済王族から出ることを示唆している。継体とは息長氏そのものであり、子孫が消えたのは彼が殺されたからだ。その正体は百済末多王だろう。「極めて性格がはげしく人を殺したりした人であると書かれた。それは朝鮮を捨てた人だったからだろう。ここに応神の影が見えている。

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