Quantcast
Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
Viewing all 1881 articles
Browse latest View live

依智秦氏

$
0
0


依智秦氏の里 古墳公園(えちはたしのさと こふんこうえん)
所在地 :滋賀県愛知郡秦荘町(現・愛庄あいしょう町)上蚊野地先

イメージ 1

 
依智秦氏の里 古墳公園 
愛知川(えちがわ)の北を流れる宇曽川(うそがわ)上流部、今の国道307号線付近には、かつて川に沿うように300を超える古墳群が広がっていました。この古墳群は、6世紀から7世紀にかけて、湖東地方を開発した豪族、依智秦氏(えちはたうじ)のものと考えられています。

  依智秦氏は、渡来系の豪族、秦氏の一族と考えられています。秦氏は、先進の土木技術、農業技術を用い5世紀末頃から京都盆地を開発した豪族です。朝廷の側近として、平安京の造営に関わったといわれるほどの勢力を持ち、京都の太秦(うずまさ)にその地名を残しています。

  依智秦氏によって築かれた古墳群は、戦後の開墾などにより、そのほとんどが姿を消しました。現在、秦荘町(はたしょうまち)上蚊野地区に残った10基の古墳が、公園として整備されています。 
 

みどころ
公園にある古墳では、石室の内部構造なども見学できるようになっています。古墳には、昔、タヌキやコウモリがすみついていたことから、「こうもり塚」や「たぬき塚」といった名前が付けられています。

関連リンク
リンク
滋賀の風景(滋賀県広報課)
http://www.pref.shiga.jp/minwa/32/32-02.html
金剛寺野古墳群

その他の遺跡群 

イメージ 2



「秦庄町の上蚊野(かみかの)地区には102基、
 近くの蚊野外(かのと)古墳群には196基の古墳があり、
 併せて金剛寺野(こんごうじの)古墳群と称されていたが、
ほとんどが農地になり、
 今は当公園(上蚊野地区)の10基と上蚊野の八幡神社内などの
7基しか残っていない。
6世紀中頃から7世紀初めに築造された円墳」
愛荘町の古墳・遺跡 


蚊野は狩野(かのう・かの 加納・嘉納・叶)に通じる音で秦氏である。
すなわち、継体大王時代の協力者としての秦氏の遺跡である。
息長氏、野洲の三上氏などとの関連で重要。

 




 
 
 
■依智秦氏(えちはた・うじ、朴市・愛知)
朴市秦造 田来津(えちはたのみやつこ たくつ、? 0- 天智2年(663年)8月)は、近江国愛智郡出身の豪族で天智朝における将軍。百済再興のため渡海するが、白村江の戦いに敗れ戦死する。

依知秦秋男 えちのはたの あきお
?-? 平安時代前期の農民。
近江(おうみ)(滋賀県)愛智郡(えちぐん)大国郷の人。承和(じょうわ)15年(848)に購入した墾田を,仁寿(にんじゅ)4年正税(しょうぜい)の負債のために売却している。 ことバンクより


渡来系氏族で秦氏の一族。近江国愛知(えち)郡に移り地名を冠して朴市秦(えちはた)と名乗ったと考えられる[2]。延暦年間(782年 - 806年)、依知秦公(えちはたのきみ)と記された木簡が発見されている。上蚊野(かみがの)古墳群(愛知郡愛荘町大字上蚊野)は依智(依知)秦氏の居住が色濃く認められる地にあり、古墳時代後期における渡来系氏族の居住が契機となって本格的な群集墳を造営したものと理解されている[3]。Wikiより




滋賀県の琵琶湖東岸の南部、愛知郡秦荘町(2006年二月に合併して愛庄町秦庄)をその本拠とする氏族。

愛知川村 ← 市村、愛知川村、中宿村、沓掛村、石橋村、川久保村、長野村、河原村、山川原村(現・愛荘町)
東小椋村 ← 茨川村、君ヶ畑村、蛭谷村、箕川村、政所村、黄和田村、九居瀬村、高野村(現・東近江市)
西小椋村 ← 外村、小倉村、青山村、曽根村、妹村、中戸村、鯰江村、上岸本村、梅林村(現・東近江市)
角井村 ← 平尾村、園村、大林村、市ヶ原村、上中野村、下中野村、池ノ尻村、百済寺村、大覚寺村(現・東近江市)
東押立村 ← 大沢村、南花沢村、北花沢村、読合堂村、中里村、湯屋村、祇園村、平柳村、僧坊村、下里村、平松村、中一色村、今在家村、小八木村(現・東近江市)
西押立村 ← 下一色村、勝堂村、西菩提寺村、北菩提寺村、南菩提寺村、横溝村(現・東近江市)
豊椋村 ← 中岸本村、下岸本村、小田苅村、大清水村、南清水村、北清水村、清水中村、小池村、長村、池庄村(現・東近江市)
豊国村 ← 畑田村、平居村、苅間村、東円堂村、豊満村(現・愛荘町)
八木荘村 ← 蚊野外村、香之庄村、元持村、沖村、宮後村、北八木村、下八木村、島川村、長塚村、栗田村、野々目村、南野々目村、矢守村(現・愛荘町)
秦川村 ← 松尾寺村、斧磨村、岩倉村、竹原谷村、常安寺村、東出村、上蚊野村、北蚊野村、軽野村、安孫子村、円城寺村、西出村、深草村、目加田村(現・愛荘町)
日枝村 ← 吉田村、上枝村、下枝村、高野瀬村、大町村、沢村(現・犬上郡豊郷町)
稲枝村 ← 三津村、海瀬村、金沢村、稲部村、野良田村、肥田村、彦富村、金田村、稲里村(現・彦根市)
稲村 ← 上岡部村、下岡部村、石寺村、薩摩村、柳川村、西川村、神崎郡甲崎村、西川村、田原村(現・彦根市)
などを含む。




秦荘
名所・旧跡[編集]
##金剛輪寺(湖東三山のひとつ)
##宇曽川ダム
伝統工芸品[編集]
##近江上布
##秦荘紬




出身著名人
堤 康次郎(つつみ やすじろう、1889年(明治22年)3月7日 - 1964年(昭和39年)4月26日)は、日本の実業家もしくは財界人で、滋賀県選出の衆議院議員として政治家でもあった。西武グループ(旧コクド及び旧セゾングループ)の創業者

よっていわゆる近江商人発祥の地とも。
また全国木地師の発祥地である小椋君ヶ畑が有名。
豊後町があるので、この秦氏は九州豊前の秦人らが豊後に移住したのちに、瀬戸内海を渡ってやってきた人々かとも考えうる。その場合、先導者は四国越智一族だったか?「おち」=「えち」か?



えちは愛知川、宇曽川(えちがわ、うぞがわ)を核として広がる平野で、愛知県の地名となんらかの関係もあるのかも知れない。→三河秦氏、尾張秦氏。相模国依智郷。

「金沢庄三郎博士かなざわしょうざぶろうはかせの説を引用いんようすれば愛甲あいこうが鮎川あゆかわでこの地域ちいきの総称そうしょうであり、鮎の獲れる土地であゆちという。エチはすなわちアユチから起おきたという。
また、アイヌ語轉訛てんか※説では、嘴(くちばし)のようにつき出したところを「エツ」という。相模川と中津川にはさまれた依知郷がそのような形かたちから、エツがエチになったという。」
http://swa.edu.city.atsugi.kanagawa.jp/901/tikuban/echi/name04.html

と神奈川県依智の地名由来があるが、どちらも古い説に過ぎてピントが外れているかびの生えた説。「あいち」由来なら『日本書記』神功皇后紀にあるが、記紀の地名由来は120%がまず作り話、駄洒落である。アイヌ語説の地形のほうがまだまし。秦氏が来た地名であれば、「えち」にはそもそも「越」という中国江南由来説が出てくるのが当たり前であろう。これは越前・越後及び四国の越智が「西から移住してきた越の民」という地名をつけて共通だというグローバルな見方が可能になる。呉越の「えつ」である。これが越前・越後では往古の「こし=古志・高志」の音を「越」に当て字したという説があるので、信憑性は高い。また相模国には波多野氏がいて、今、秦野市があるが、この波多野が波田、羽田などの海人族、海部氏族由来とも、秦氏由来とも言われている(決定打はない)ので、すべての土地の共通項目に秦氏が関わっている。さらに近江商人に類する豊後商人という言葉も存在し、いずれも秦系商業従事者ではないかと考えられ、いずれも在地では「小賢い」「小ずるい」「商売上手」「だまされる」などの飛語が持たされているのでいわゆる殖産氏族だった秦氏的である。

筆者はこのような理由から「えち」は「越」由来とする。
 
 
詳細遺跡群
地図で一発秦の里遺跡一覧拡大縮小 http://mj-ktmr2.digi2.jp/p25om/map25om/om25213higasiom.htm

近くに野洲市三上山の阿蘇ピンク石棺のある古墳群、守山市には卑弥呼の神殿とも言われた伊勢遺跡の神殿遺構があり、野洲には渡来系錦織(にしごり)氏の寺がある。また野洲市の野洲川を記紀神話の「あめのやすかわ」にあてる在地説などもあり、天智天皇が近江には多くの渡来人を置いた記事があるが、それが史実かどうかは、むしろ勝手にここに集まったかも知れないし、理由はもともと秦氏が入っていたからと考えるほうがいいかも知れない。つまり筆者は天智・天武の記紀の事跡を疑っているのである。とにかく持統天皇から前は、記事を疑っておくほうがこれからの古代史はよいと思う。



イメージ 3
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U



中国で三角縁神獣鏡? それ盗物でしょ?

$
0
0

この記事は100万アクセス記念記事ではありません。
それはこの次に書きます。






邪馬台国論争に新材料 卑弥呼の鏡?「中国で発見」論文
邪馬台国の女王・卑弥呼がもらったとも言われ、製作地を巡り論争が続く謎の鏡・三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)。これと同じ型式の鏡が中国河南省の洛陽市で見つかったとする論文が、地元の研究誌に掲載された。

論文を書いたのは河南省在住のコレクターで研究者でもある王趁意さん。王さんは鏡について「2009年ごろ、当時、洛陽最大の骨董(こっとう)市で、市郊外の白馬寺付近の農民から譲り受けた」と説明する。正確な出土地点はわからないという。
鏡は直径18・3センチ。厚さ0・5センチ。三角縁神獣鏡としてはやや小ぶりで、内側に西王母(せいおうぼ)と東王父(とうおうふ)という神仙や霊獣、外側にノコギリの刃のような鋸歯文(きょしもん)と二重の波状の模様を巡らせる。
鏡が見つかった洛陽市は中国の三国時代に魏の都があった場所。歴史書「魏志倭人伝」は、239年に魏の皇帝が倭(日本)を治める邪馬台国の女王・卑弥呼に「銅鏡百枚」を与えたと記している。日本では、100枚の鏡は三角縁神獣鏡とみる意見が多かったが、肝心の中国から1枚も出土していないため、疑問が呈されてきた。今回の発見はこの論争だけでなく、邪馬台国の所在地論争にも影響を与える可能性が大きい。
明治大の大塚初重名誉教授は「写真を見ただけだが、三角縁神獣鏡に間違いない。まだ1面だけなので、同種の鏡がさらに見つかるかどうか注意深く見守っていく必要がある」と話している。(塚本和人)
(朝日新聞デジタル 2015/03/02 07:37)



イメージ 1


イメージ 2






文字が踏み返しになっていないからオリジナル鏡のようだ。
同笵鏡ではないということになる。
成分分析が必要。




眉につばしなければならないのは、それがたったの一枚で、中国の骨董市で?農民から?譲ってもらった?という話だろう。これでは一級考古資料にはなれない。


入手経路を証明できるのか?
譲ってもらったのなら領収書もなかろう。
そもそも中国のどこの、どの遺跡から出てきたものか、証明できるのか?


昨年、安本美典が出版した著書『大炎上三角縁神獣鏡・・・』には、すでにこう書いてある。
「これから続々と中国から三角縁神獣鏡が出てくる?」

イメージ 4


つまり昨今の中国・韓国人による日本文化財盗みへの懸念である。





この中国人研究家は、第二の藤原か?第三の小保方か?であるのかも知れないのだから、大和説学者でさえ眉に唾しているに違いない。

それを突っ込まれないように「譲ってもらった」か?



これに先立って昨年、このような説が畿内学者から出されている。

 


筆者から観れば、まず今のところは卑弥呼の鏡候補NO.1は画文帯神獣鏡。
それは今後、どうなるかは考古学の発掘次第である。
ただ、画文帯は黒塚古墳の被葬者が最重要の魔よけとして頭部にこれが置かれていた。黒塚はほかにも魏志に近い遺物が出ており、筆者は難升米ないしはその子孫の墓ではないかと思っている。33面の三角縁は木棺の外に並べてあった「その他大勢」「じっぱひとからげ」扱いの鏡なのだ。



しかしまあ、よりによって、今世界中で最も疑わしく、いかがわしい中国の骨董屋での考古資料入手とは、日本人ならまず嘲笑するだろうものを出してきたか。

笑える。佐村河内二代目じゃないだろうね?




ただし、こういう成分分析結果も出ているから、まだまだ予断は禁物。
京都の八枚の三角縁神獣鏡成分が中国銅鏡と一致




イメージ 3
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

全公開 100万アクセス感謝記事 もっと眼から鱗を落としたいですか? 地球環境と人間行動学古代史

$
0
0



イメージ 2
夜中に100万を超えても困るので
先んじて感謝記事を掲載してしまおう。












「初期の海洋民族の多くは、海に関して超自然的な強い信仰を持っていた。歴史の拡大鏡を通して見れば、本書は驚異的に思われる数々の海上冒険の物語だが、実際に海に乗り出した人びとにしてみれば、たいがいは大海原の周辺での暮らしの延長に過ぎなかった。本書は、変わりゆく環境にたいし人間が見せてきた創意工夫や、おおむね見事な適応力をたたえるものだ。あるいは人類史のほとんどを動かしてきた、抗(あがら)いがたい落ち着かなさを謳うものだ。私自身もこの落ち着かなさを感じる。だからこそこの物語にはみずからの体験も織り交ぜた。歴史は繰り返すと言われる。陸地から遠く離れた場所や狭い海峡で、晴天時にも荒天時にも、、私は何度となく大昔の船乗りが肩越しに同じ海を眺めているのだと感じ、彼らも私と同じように感じていたと思うと安心した。だからこそ私はこの本を書いたのである。」
ブライアン・フェイガン『海を渡った人類の遥かな歴史』東郷えりか訳 2013
(実際にヨットで航海する考古学者)の冒頭の言葉
 







100万アクセス記念記事
人間行動学に基づくぼくの古代史観・反省と今後そして感謝

イメージ 3
緑色に近いほど居住適正地。たったこれだけしかない。
住みにくい環境でテロや反逆が起こりやすい。人類は地球環境に翻弄されてきた。
それが歴史。







地図を見れば一目瞭然、地球上の気象環境はさまざまである。
いい環境の場所もあるが、ほとんどは悪環境の地域が占めている。
ツンドラの極寒地帯、砂漠地帯、乾燥したステップ、高温多湿な熱帯雨林、高山地帯、大海原、極地・・・などなど、地球の大半はとても人が住めそうにない居住不適格な土地ばかりである。できればそんなところに、今温帯に居る誰もが住みたくはないだろう。

その中で、われわれ日本人をはじめとして、欧州中南部人、中国人、韓国人、アメリカフロリダ地域人、オーストラリア東岸とNZランドの一部人、南米の一部人らだけが、極めてよい住環境の温帯樹林帯を独占している。

歴史的結果としてそうなったのであろう。もちろん島人たちの新天地への好奇心もあったはずだ。しかし大半の人類史は洪水や寒冷化などの地球環境の変化、人間自身による資源・土地・食物の枯渇を伝える資料ばかりである。


特に、日本はその温帯樹林帯の中で、島国という海で隔離された蓬莱の夢の国であり続け、そのうえ、歴代の政治家・王家達はこの国を世界へ解放せずに、ぬくぬくとう内に籠もって、「水と空気はただ」ともいわれるほどの平和ぼけ、独り占め、島国思想を謳歌してこれた、稀有の中の稀有な、変な国家である。そんな民族は世界に殆ど存在しないことを、あなたはちゃんとご存知だろうか?認識していますか?





イメージ 4



司馬遼太郎的ブラックユーモア・アイロニーで申すなら。まことに運がよい国民が日本人なのである。うらやむべき、しかし一方で忌むべきほどの能天気な国民が日本人だ。


にも関わらず、日本人の子孫達はますます国内に、大人たちに、親に、教師に、政治家に、科学者に、歴史認識に、あまつさえ時には自分自身にさえ、それこそが理不尽そのものの不満を持ち、権利ばかりを主張して義務を怠る国民へと変貌し始めている。こんな贅沢で、ナイーブな民族を筆者は知らない。(筆者も例外ではない)

地震・火山が多いこと、台風が頻繁するということをのぞけば、さほどの苦痛もない希な世界で、海洋立国で、観光立国で、加工業立国で、資源なき国土の住人であるのに、世界で成功した日本。それでもなお、日本人は自国に不満をもらす。それはなぜなのだろうか?ひとえに内向的歴代政治家たちの、既得権益にまい進し、やはり平民同様に、権利だけは主張し、義務を遂行しない政治のためではないのか?人間の行動と心理、そしてモノ忌みの心根はまことに歴史を動かしてきた。

税をとるのに農民だけを貧困の渦に押し込めて平気だった。古代の租庸調はまずもって農民だけを搾り取る対象にしてきたのである。百姓(おお・みたから)と持ち上げながら、漁師や山師や鉱山師たちからは品物、労働の搾取だけで、税は許容してきたのだ。不平等な税制だが、要するにわずかな貴族・王族だけが食えるならば、それで成り立ってしまうのである。しかし中世になると、その搾取する側が一気に増える。武士団が登場したのである。これによってやくざのような地域の守護者である人びとはますます増大し、ようやく、農民だけではまかなえないことに気がつく。そこでいくさによって一気の口減らしが始まることとなった。武士も増えすぎたのだ。
日本人はこのように、都合のよい人減らしのために戦争をはじめるようになった。


日本人は自然を友とし、自然に包まれることを至福として、わび、さびにひたるやさしい民族・・・よく西欧と対比して言われる言辞である。

しかし本当にそうだったろうか?自然を破壊してこなかっただろうか?神をないがしろにしていないだろうか?いつも言うように、この地球上すべての事象・生物の中でで、人類だけが不完全である。無駄に向かってまい進する生物である。巨大な古墳を造営し、必要なはずの金属製品を大量に埋納して、リサイクルしようとはしなかった。権威と権力をまかなうがために、民衆は搾取され続ける。武家は猛り狂った人殺しを正当化し、人びとを守っているのだと欺き嘯(うそぶ)いた。それによって婦女子は苦しみ、悲しみ、女たちの歴史は地べたに叩き潰され続ける。多大なリスクを男たちは権威とみなした。大地を水田に変え、山を切り開き、木材を伐採し、巨大な屋敷・神殿・寺院・住居・蔵を建て、鉱山からは鉱毒を垂れ流した。はだしの鉱山夫たちが妻子ともどもにライ病や鉱毒中毒、陥没、落盤で命を落とした。それをとむらうため、祟らぬように鎮魂するために、ますます鉱物を掘り出し仏像を作った。天空は噴煙と鉱毒に蔓延され、民衆は公害になやまされ、水銀アマルガムによる金メッキの空気汚染で死んでいった。その膨大な遺骸は地中に埋められて、体液からは取り込んでしまった毒素・放射線が地中に染み出し、日本のあらゆる国土を隅々まで犯していった。負の連鎖である。そのとき秦氏と言う「あやひと」渡来人たちは土壌改良に乗り出す。中国から季節風に乗って黄砂が舞い降り、日本の土壌を肥やしてくれた。この国で渡来が果たした役目はあまりにも大きい。なぜそうしたのか?彼らは本国を追われ、捨ててきた人々。ほかに行くあてがなかったからにほかならない。彼らはこの列島を終(ツイ)の死に場所と覚悟せねばならない歴史の必然を持つ敗者だったからだ。敗者こそは、すべての3Kを請け負うしか生きて行けなかった。日本列島は彼にとってのまさに最後のフロンティア=蓬莱・扶桑の国だったのだ。

豊かな森林のこと、自然の摂理のこと、地球のリサイクル能力のことを、どれだけあなたや筆者は知っているだろうか?

日本の八百津の神の本性が、実は災害を引き起こす複雑な列島の地形が生み出す破壊と生け贄から生まれてきた宇宙神=人を喰う神であることに、どれほどの日本人が気づいただろうか?

気づいたならば、なぜ王家は多神教の宇宙神らを雲の中に隠れさせ、唯一アマテラス=太陽神だけを国家の祖霊と決め付けたのか?当然それは政治的にそのほうが都合がよくなった飛鳥時代以降からである。一神教とは国家統一の過程で、人間が考え出した統一のための神である。世界中でそうである。


こうして女帝の時代がこの国を、太陽神信仰唯一の国へ変えていった。しかし、民衆のまつろうことなき抵抗心はその女神をさして拝みはしなかった。その女神は民衆を救う神ではなく、国家の理不尽な世界観のためだけに生まれた神だったからだ。


筆者の歴史は敗者の怒り、恨み、そして願いを、それを忘れていこうとしている今だからこそ、復興しようとしてきたのかも知れない。荒ぶるスサノヲたちの魂を鎮めたい。それが小さな自分の、歴史を知ることによって知らしめたい、大きすぎる望みだ。







この愛おしい我がブログが10年目で100万アクセスを迎えようとしている。
最初ここを書き始めた2006年頃には、まったく考えもしない快挙だと感じている。父母を見送り自由になってから始めることができたブログだ。感慨深い。そして読者に感謝する。

長年、筆者の自己中心的な言辞や意見に我慢強くつきあっていただいている読者諸兄には、感謝の言葉も見つからない。まことにありがたいことである。

このブログは、当初から、それまでの歴史の定説を覆し、はっきりと嘘は嘘だといい、本物を見極めるためには他者の書いた記事を大胆に引用し、リンクし、しかも画像も借りてきて貼り付けてまで・・・言い換えればネット倫理を無視することもあるようなおきて破りの手法で、歴史ファン、古代史ファンの、定説や権威に迎合する意見を引っくり返すことを第一として開始された。だからすぐに誰かからの批判や揶揄や、ときには違反報告がなされて炎上するだろうと筆者は、心の中の本音で「つぶすならつぶしてみろ」というぶっつけ本番のやぶれかぶれなブログとして最初から卓袱台を引っくり返す星一徹になるつもりだったのである。

ところが最初こそ、いろいろな批判的アクションがやってきたけれど、やがて「おそれをなした?」か「あきれたか」のように、コメントは激減していった、それに反比例して読者数、アクセスが右肩上がりに上がり始めたときは、筆者自身が一番驚いたのだった。


最初は日本の古代史、民俗学分析だけだった。そこへ考古学が入り、環境学、地形学、遺伝子学、世界の民族分析、気象学地質学、鉱物歴史学、職人分析、中世漂泊民・芸能民・職能民析、宗教学、東洋史、海人分析、海洋考古学、海洋学、船舶学など、ありとあらゆる分野の歴史分析が入り込み、あたかも百科事典状態になって、最終的に世界史の視点から俯瞰する独自の古代史観が形成され始めた。ぼくにとってここは大事な大事なメモ、ノートとなっていった。それがほかの好事家に利用されることが幸せとなった。


今から思えば、誤字脱字、おかしな文法、奇妙な決め付け、権威的先達を平気で名指しでこきおろす、などなどひどいブログである。ぼくにとってのお宝でも、厳しい眼を持つ歴史ファンから見れば、粗雑な走り書きでしかあるまい。勝手に記事を引用し、勝手に画像をはりつける罪作りブログだ。いつかここはつぶされるとずっと思って書いてきた。それでいいのだと、それが役にたつのだと言い聞かせながら。強い信念で書いてきたつもりである。被差別等のタブーや、信仰のタブーにも切り込んだ。必要だったからだ。特に秦氏は、日本国土の開発者、政治の闇、宗教の後戸のフィクサー、文化の中継者として絶対に知っておかねばならない氏族である。


だが継続は力なりである。
とにもかくにも100万という天文学的?数字にたどり着いてしまった。いつのまにか三ツ星がつき、Tカードには毎日勝手に7~9ポイントが付加されるようになった。なによりも全国に友人ができた。一緒に酒を酌み交わした。旅をした。夜通し会話した・・・。視野がどんどん広がっていった。鳥の眼を持ったように感じた。





どうしよう?



今の筆者には、ただ途方にくれ、これから先の責任が肩に重たくのしかかっている。
もうやめたい。明日はやめよう。その連続だった。

視力は落ちる、肩は凝る、脳みそは病魔にやられ、足はひ弱に、性格はいらいらと焦燥感、「やめた!!」と何度も書いた。

さて、これからどうしようか?
このまま書き続けるのか、それともまったく違うブログかフェイスブックでもはじめて、ここは捨ててしまうか?自分で始めたことなのに、ぼくにはそれがわからない。明日にならねばわからない。判断しかねている。


石ころを拾うように地面を遺跡を覗き込み、直後に傍観者のように宇宙から地球を俯瞰してみた。ズームとパンを繰り返す歴史観に行き着いた。



卑弥呼に問う、ニギハヤヒに問う、摩多羅神・秦河勝に問う、アマテラスに問う、スサノヲに問う、大日如来に問う、弥勒菩薩に問う、チンギスハーンに、聖徳太子に、トルキスタンに、ヒポクラテスに、アリストテレスに、森浩一に、柳田國男に、宮本常一に問う、老子に問う、仏陀に問う、藤原不比等に問う、宇宙神に問う、そして読者諸兄に問う、ぼくはこれからどうすべきか?



しばらくはぼーっとしていたい。




ところが困ったことに、筆者にはもう、明日書いておきたい古代史記事のはじっこが頭に浮かんでしまっている。因果である。ぼくの百味箪笥の引き出しを、ぼく自身がわくわくしながら待っているのが、わかるのである。




諸氏、これまで本当にこんなわがままなブログを愛読していただいてありがとうございました。今夜は祝杯を、長年の歴史友だちとあげたい。

渡来人研究会下枝君、邪馬台国研究を楽しむ会の菊池さん、大宰府の蕨手さん、大坂のダダさん、のんびりと古代史の記紀いっぱつさん、真行尼、ぽかちゃん、ミミねこさん、にぎたまさん、相模湾さん、比叡山画伯、Neigeさん、その他友だちのみなさん、ブログリンクのみなさん、影ながらいつも来訪されている古代史ファン、去って行った元かわかつファンの皆様、乾杯!!感謝。

記事や画像を引用した管理者のみなさま、ごめんなさい!!おかげでみんなは幸せになりました・・・よね?


                    Kawakatu輩




イメージ 5









掲示板を開いてあります。
飲みながら書き込める、相互通行に使ってください。リンクは下の一覧から「画像が送れる掲示板」を。ぼくは怖い人ではありません。どんどん書き込んでください。



最後にブロガーのみなさまへ。あきらめないで書き続けてください。そして明確なテーマやコンセプトをまず見つけてください。ぼくはいったい何を言いたいかがはっきり読者に伝わるブログにしてください。漫然とではなく。旅をしてください。できるだけあちこちへ。テーマを持って。せっかく書くなら、真剣に書くことが一番じゃないでしょうか、なんでもそうでしょうが。そうすれば人に熱い思いは伝わるでしょう。そしていつかあなたも三ツ星ブロガーだと呼ばれることでしょう。ネットのカリスマにもいろいろあります。芸能人がたくさん人を集めるのは当然です。でも歴史、古代史なんていうマイナーなテーマでも、これぐらい人が来てくれるんだと信じて書いてくださいね。



癖で大きなことばかり書きました。


今後も眼から鱗を落としたいか~~~?
100万アクセス達成クリックお願いします!
   


イメージ 1
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U






大床神社と土師氏と秦氏

$
0
0

大床神社 おおとこ・じんじゃ


イメージ 2



【場 所】 大分県大分市賀来上片面

【祭 神】 大山咋神、菅原道真(推定)

 大床神社は大分市賀来上片面の初瀬井路に沿う几帳原河岸段丘を背にして鎮座する。稙田(わさだ)地域まちづくり活性化事業推進委員会・稙田支所発行の「稙田地区のウォーキングマップ」には『御鷹宮(おたかのみや、大床社)』と表記されている。この稙田地区のウォーキングマップによると、祭神の一柱は大山咋神である。

イメージ 1

鷹(たか)は記紀では神武を助ける氏族を象徴するアニミズムのものと思われるが、一方で、鷹=高で高句麗あるいは高麗つまり半島由来の氏族をも表す。祭神の大山咋(おおやまくい)は京都の松尾大社(まつのお・たいしゃ)の神で、松尾の秦下氏が祭る神である。

ここを祀ったのは田崎一族である。
日本の苗字7000傑サイトによれば田崎氏は土師氏北小路の末裔とされている。
千古流大江氏の末端に田崎氏がある。


秦氏と土師氏は京都では桂川の物集女地域で隣接し、葛野でも隣接して居住していた。ここで少し京都の物集女車塚古墳という6世紀の古墳で出る淡輪(たんのわ)型土器模様があることを思い出していただこう。

和歌山県紀ノ川の河口部、北部の大坂の版図に、淡輪古墳群があるが。一般的には紀氏の古墳群とされているこの古墳群からは、淡輪様式の特殊な模様を持った土器が出る。それと同じものが京都の物集女からも出る。

「もずめ」は大坂古市の「百舌鳥」と同様に、土師氏百舌鳥一族が居住した地名である。

土師氏はご存知のように古墳造営と土器・埴輪に関わる技術者集団であるが、京都の葛野地域で、おそらく秦氏とは婚姻関係を形成している。もちろん土師氏はさまざまな氏族ともそうである。技術者氏族はどうしても地位が低く置かれるために、婚姻関係によって地位を揚げようと努力した。その結果として菅原道真のような右大臣にまでのぼる人を生み出した。

九州のような、中央からの儒教的階級主義の干渉をあまり受けない地方では、その関係はもっと親密なものになりうる。ほとんど同族となったことだろう。その中から田崎氏は出たのだろう。

さて、「大床」とはなんのことか?
「おおとこ」とは「浜縁」のことを言う。

浜縁とは、寝殿の母屋に設けた台である。
1 寝殿の母屋(もや)に設けた貴人の座臥(ざが)のための方形の台。上に畳を敷き、四隅に柱を立て帳(とばり)をかけて帳台とする。
2 「浜縁(はまえん)」に同じ。  (ことバンク)

または
浜床=浜縁に対して寝殿の一段下の床の縁(へり)を言う。


つまり平安時代なら天皇や親王が座っていた一段高い台(うてな)= 畳=有職畳(ゆうそくだたみ、拝敷)のこと、あるいはそれが置かれる床のはじっこのことである。


イメージ 7


イメージ 4



イメージ 8



大分市の片面(かため)地名は、要するに土師氏がそもそも古墳築造の版築工法を知る一族であることに生じて、「地面を固める」という地名であり、畳のような貴種が用いた敷物もまた、「下を固める」ものと捉えることが可能で、この近辺に異常に多い畳製造業者が祭った渡来の神が大山咋だったのだろうと推測できるのである。大分川上流地域は往古、畳表の素材である七島イの産地だったからである。
bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/download.php?...




ちなみにこの大床神社は、かつては筆者のデートコースでもあった。 
当時は知らぬことながら、恋の地固めをするにはうってつけだったということになるか?                  
あはは。

イメージ 5






イメージ 6





イメージ 3
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

                         

古代天皇の妃考 外国(げこく)の妃一覧

$
0
0

参考文献 荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』2013 吉川弘文館


世間には古代史ファンはごまんといるらしいが、中には、一事が万事、地元が一番志向の強烈な御仁も多くおられて、『日本書記』が嘘だと誰かの著書が書けば、もう「それじゃあ王家がどこから始まっていてもおかしくない」とか「地元こそが大和の前の王家」だと思い込んでしまわれる「やから」みたいな人種もおられるようだ。

古代史はだいたい九州と大和の二大王家の論争で大半を占められており、その他の地方の方々には、確かに面白くないだろう。しかし、だからと言って、考古学史料が両地域に他を圧倒する量で出てくることを無視して、やれ東国だ、埼玉だ、丹後だ、豊浦だ、出雲だと声高に、よそさまのところまでわざわざ出向いていって叫んでしまうのは、第三者から観ると実に滑稽に見えてしまう。

記紀に嘘があると言っても、その嘘を作り出せるもともとの古い伝承とか、人物のモデルの伝説が基盤になっており、ただそれを編纂時ころの政治に都合よく改竄しただけのことで、基層にあった歴史の大筋までも書き換えたりしたら、当時の知識人はそれを正史として受け入れたはずがないのである。

嘘も方便とも言うように、記紀の全部がでたらめでできあがっているわけではない。考古学と一致する遺物や遺跡はちゃんといくらか出てくるのだから、飛躍しすぎてもらっては困る。




もしその地域が、大声で主張するほど往古から王族がいたという実力地域ならば、必ず記紀にもそれが反映されたはずである。例えば外戚関係を結んでいる地方豪族の名前は必ず記録にあるだろうし、当然、大王・天皇にその地域の女性が嫁いでいるものである。

また天皇の名前に豊浦(とゆら)や三国などの地名が反映されていても、それが必ずしも畿内や筑紫以外にもあるからここの出身者に違いないというのも間違いである。その地名は王家が子どもを養育するのにあずけた、その地方出身者の豪族が中央に住んでいたから名前に反映されるわけで、わざわざ丹後や豊浦につれて帰って育てていたわけではない。(継体大王の母・振媛だけは例外)


さて、そうした思い違いのないように、一度、記紀が書き記した天皇の妃の名簿を作ってしまおう。つまり、当時の畿内とそれに準じた地域(近江、伊賀、紀伊、播磨の四国)以外の遠隔諸国(これを当時の人々は「外国 げこく」と呼ぶ)から妃となった女性の一覧表である。


イメージ 1


これらの国名をまとめると、伊勢国・尾張国(東海道)、丹後国(山陰道)、吉備国(山陽道)、越前(北陸道)、日向国、筑紫国(西海道)の諸国からに絞られている。それ以外の諸国からはひとりも妃にはなっていない。これは言い換えれば、記紀8世紀までの大和朝廷の支配の完全に及ぶ地域がまだこれくらいしかなかったことを示していると言えるだろう(荒木)。



ことに、筑紫・日向のような西日本の遠隔地からの妃の名があるのに対して、同様の遠隔地である東国諸国や蝦夷の名がまったくないことは、地方の妃=人質という見方からすると、東国や東北がまだまだ大和の管轄外の地域(埒外 らちがい)という認識に置かれていたことがわかるのだ。

特に日向(のちの薩摩国を含む曽於、曽の国=宮崎県南部~鹿児島県全域)の出身者の多さは、それだけ朝廷が熊襲以来、曽の君一族を手ごわい強敵国家と認識していたことの裏返しであろう。2世紀まであれほどの実力者だった筑紫一帯からは、わずかに宗像君の娘がひとり、それも記紀編纂時代の天武だけへの嫁入りであることを思うと、6世紀にはすでに実力を落とされてしまった筑紫君らの、すでに怖い相手ではなくなっていたことも想像できる。

なぜ日向及び薩摩地域を、歴代天皇は妃に選んだのだと書くのだろうか?

蝦夷の服属が平安時代にまで下がるのに比べて、隼人つまり阿多君らの服属帰順は記紀のイの一番に置かれている。いなかったとは言え、天孫の子孫第一番である神武の妃がすでに阿多の小椅(おばし)君の妹、吾平津媛(あいらつ・ひめ)である。

「あいら」は今の鹿児島県と宮崎県境にある霧島地方の地名である「姶良」のことである。つまり熊襲のうちの曽於族の割拠していた土地。当時まで、熊襲というと、全国で最強の民族だったのだ。それは大和へ弥生人が移住する際に、まず筑紫島で最強の氏族だった熊襲を「懐柔した」という意味である。滅ぼしたのではない、懐柔したのである。滅ぼしてしまうことは日本古代史ではまず記事がない。滅ぼしてしまえば、在地の陸地や海の情報はもう一切手に入らなくなるから、帰順するものはいくらでも仲間にしたのであろう。そしてそれはまた、隼人を帰順させねばならなかった人々と言うのが筑紫島の北部や北西部に入った渡来人であったことをも証明するわけである。

紀元前3世紀頃から中国や朝鮮から移住してきた種族は、考古学と人類学の骨相分析や遺伝子分析では、大きく二種類あり、ひとつは長崎県や佐賀県や有明海、ひとつは福岡県遠賀川や小倉一帯の種族だったと考えられる。つまり東シナ海側地域と玄界灘側地帯の住民となった二大種族である。

地理的に見て、前者は東シナ海を、後者は壱岐対馬経由でそれぞれやってきた人々かと考えるのが普通だが、なぜか畿内論者の大半は、どちらも朝鮮半島から来たと言っている。おかしな話である。形質的には前者は縄文人と混血しているが、中国系で、後者は縄文人とは混じらずにいた朝鮮系人種であるらしい。

そして双方の内、早くに日本海を遡上していったのは遠賀川の人々であることは遠賀川式土器の遡上が示すとおりであり、北西部の中国系の人々は有明海にかなり長くとどまり、おそらく有明海沿岸でつながっていた薩摩西部の原住民との交流をしていったと筆者は考えている。つまり神武の日向の媛を娶るという東征説話の流れはこの民族がやったことではないか?

宮崎県南部には西都原・持田の二大古墳群があるが、西都原の古墳群は特に、その形状等にバラエティがあり、いろんな種族が同居していた可能性があると見ている。



さて、次に吉備系の妃であるが、吉備は妃の名前にもあるように蚊屋(かや)とも呼ばれており、「かや」はそこがかつて半島南端の金冠伽耶=カラに由来する地名と考えられる。吉備にとって日本海の出雲と、若狭は重要な港だった。そのことは出雲からは吉備系土器が、若狭の管理者として吉備系の人物が嫁をめとって入ったという記事があるので、間違いあるまい。また吉備系氏族は、直弧文によって筑紫の有明沿岸の人々とも深いつながりを見せる。おそらく肥後の国造家に取って代わる氏族が吉備王の末裔であろう。吉備の古墳には九州系の石室、装飾、直弧文を持つものが多く、また豊前の宇佐とも兄弟関係を持っているのが吉備津彦神社である。大和では、天皇氏族よりも先住者であり、纏向遺跡から出る祭祀土器は吉備系である。記録では雄略大王時代までに、葛城氏とともに滅んだことになっているが、肥前・肥後やその他の地域に、枝族が国司として赴任していたはずである。卑弥呼が吉備系である可能性は非常に高い数値を遺物が示している。とすればこれもまた、邪馬台国所在地が大和か筑紫の肥後あたりに分かれての論争の種になるだろう。


丹波国は考古学的にも多くの遺跡や遺物を出す地域であるが、惜しむらくは古墳時代以前のものがもっと欲しい地域である。それは越前地域も同じである。いずれも日本海に面し、半島に近い。筑紫を経由せずに日本海の周遊する海流に乗って交流が可能な場所にある。

さて最後は尾張である。ここは近江を越せばすぐに岐阜で、「あはちまの海」は今の名古屋湾である。現在の名古屋市の大半は、実は古代には海の底である。尾張の氏族は記録上、神武東征にも登場するので、日本でも最古級の海の氏族のたまり場だったのが伊勢湾・名古屋湾であろう。若狭の海部氏は同族である。そしてヤマトタケル伝説にもあるように、熱田は天皇家の三種の神器である劔も管理し、壬申の乱ではまず軍備を期待される氏族だった。尾張氏はつまり武器・軍隊・水軍の親玉だったわけだ。だから当然、妃を何度か出すことになる。それだけ怖い存在だったわけだ。しかもバックにまつろわぬ東国世界を控え、武蔵あたりにまで親派を持っていただろう。埼玉や千葉や茨城の遺跡群が、そもそも尾張系のものである可能性は高い。



さて、こうした記紀の歴史観を、時代別に把握する方法として、荒木は、

1 神武~景行までの実在しなかった王の創作伝承 の部分
2 応神~武烈までの実在と非実在の王の伝承が混じった部分
3 継体~持統までの実在の記憶

に分けている。


筆者もこれに近い歴史観だが、少し違うのは、継体の実在性が?であること、応神・仁徳の古墳が時代的に大きすぎ、いささか眉唾なところ、を感じている。

おおむね『日本書記』の記憶は雄略までがせいぜいのもので、それ以前はかなり創作、あるいはあとの時代の出来事を名前をかえて挿入した後付だと見ている。また飛鳥時代の蘇我氏、聖徳太子の事件なども、あとから付け足さねばならないなんらかの事情で作られていると見る。それがつまり持統に始まる女帝時代の正当性のためであろうと考えるものである。


イメージ 2



『日本書記』は蘇我氏の子孫をことごとく消された、夭折したと書き立てているけれど、あまりにも完膚なきまでにそれが消されてゆくので、これは藤原氏にとって都合がよすぎると見えてしまうのである。

そしてさらに、天武も天智も、実は息長氏もさることながら蘇我氏の系譜も持っているという謎がある。息長氏の広姫の先祖の書き方がおざなりで、父親しかわからず、しかもその父真手王の父以前の記録がまったくない。いきなり登場するのが広姫であるから、どうもこの系譜には疑問が多すぎる。藤原氏が消してしまいたい蘇我氏の血脈は、実は天皇たちに引き継がれていたのではないだろうか?であるのに、『日本書記』系譜は蘇我氏のすべてが死んでいったように書いてしまってあるのだ。


藤原氏にとって、祖人鎌足と戦友である天智の系譜には絶対に蘇我氏の血が入っていては困るだろう。しかし天智の娘持統の血には、蘇我系古人大江の娘・倭媛の母方の血が入ってしまっている。倭媛は蘇我馬子の直系である法提郎女の血が入っている。父親・古人は消されたが、倭媛はなんと天智の妃になれた。

また同じく蘇我系石川麻呂の娘・遠智娘(おちの・いらつめ)までもが天智の妃になった。それらの血脈をたどってゆくと、倭媛との子が壬申の乱で殺された弘文天皇(大友皇子)で、遠智の子が持統である。持統の子、草壁は病死で夭折、孫の文武も病弱でかつがつ聖武天皇へつながったが、その子孝謙には子供がなかったとされている。
つまりどちらも蘇我氏の血を引いたものが消えているのである。これで蘇我血脈はちょんになる。断絶である。

しかし、奇妙なことは、聖武天皇の妻は藤原不比等の娘である光明子なのだから、その血脈まで切れてしまっていることになってしまうのだ。これでは藤原氏正統宰相の事跡が台無しである。と、まさにそのとき登場するのが、藤原氏同族である橘氏なのである。のちの犬養氏であるが、橘諸兄は藤原家の地位に反発して決起し、一次は橘氏がその宰相の地位に納まっているのである。

つまり、系譜の孝謙に嫡子なしというのは、どうも不比等死後の橘氏の仕業ではないか?となる。


要するに、記紀の天皇古代系譜は、どうも疑わしく、時代が記紀編纂時に近いほうが、むしろ時の政権に都合よく改竄された可能性が感じられるわけである。これが『日本書記』の強すぎる政治性の所以であろう。

また、天智の血脈であるが恵まれないでいた光仁天皇の復権も実に奇妙で、後宮が山ほどいたはずの天武血脈に嫡子が消えるはずもないし、どうも持統の登場も、どこかしら無理にアマテラス=卑弥呼を持ち込みたい不比等の意図が強く出すぎている気もする。

いずれにせよ、息長だろうが蘇我だろうが、桓武の母親となった高野新笠の百済王血脈が最終的には一番濃いわけで、そのことは記紀の扱えた範囲の外なので、どうしようもなかったわけだろう。そういう部分はもう『続日本紀』『日本後紀』などの記述になってしまう。時代はすでに正史改変できない時代になっていたわけである。





妃の歴史を見ると、このようにいろいろなことが見えてくる。
妃は言うならば、強力な地方豪族から取った人質だったという話。
それを出していない地域が、過去王権を持っていたはずはないのである。


イメージ 3
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U







フランスジョークと世界の民族性 エスニック・ジョーク

$
0
0

 各国帰りたい英「紳士は定時には帰ります」独「定時退社は規則」伊「さっさと帰って美女探す」米「スーパーマンだって定時退社だぜ」露「ウオッカ飲みたい」仏「帰るなって言われたから帰る」 日本 「あ、はい!大丈夫です!終電は23時です!はい、大丈夫です!」
http://matome.naver.jp/odai/2135012309875783901

フランス国営テレビ「フランス2」 が12日(2012年10月)のサッカー親善試合で、フランス代表を破った日本代表のGK川島永嗣選手に手が4本ある合成写真を作って、「福島(原発事故)の影響」と揶揄していた。日本大使館は抗議したが、さすがにフランス国内でも批判の声があがっている。
腕が4本ある写真出し、人気司会者「福島の影響だとしても驚かないね」
http://www.j-cast.com/tv/2012/10/17150310.html?p=all


仏紙、五輪・汚染水記事に「フクシマ」風刺画
11日付の仏週刊紙カナール・アンシェネは、2020年夏季五輪・パラリンピックの東京開催と東京電力福島第一原発の汚染水問題の影響を報じた記事と共に、手や足が3本ある力士の風刺画を掲載した。風刺画は3本の手がある力士と3本の足がある力士が土俵上で向き合い、防護服姿のリポーターが「すばらしい。フクシマのおかげで相撲が五輪競技になった」と中継する内容。また、別の風刺画では、防護服姿の2人が放射線測定器と思われる機器を手にプールサイドに立つ姿を描き、「五輪プールはフクシマに建設済み。おそらく(防護用の)ジャンプスーツ着用が水泳選手に許可されるだろう」との説明を付けた。同紙は政治風刺で知られる。
yomiuri

汚染水風刺画の仏紙「謝罪しない」 日本大使館は抗議
フランスの週刊紙カナール・アンシェネが2020年夏季五輪の東京開催と東京電力福島第1原発の汚染水漏れを関連づけた風刺画を掲載した件で、同紙のルイマリ・オロ編集長は12日、ラジオ局のインタビューで「謝罪するつもりはない」と述べた。同日午前には、在フランス日本大使館の藤原聖也臨時代理大使がオロ氏に電話で「東日本大震災の被災者の心情を傷つけるものであり不適切で遺憾」と抗議。大使館によると、オロ氏は「そういう意図はなかった」などと釈明したという。大使館は同様の内容の書簡も近く送達する。しかし、オロ氏はインタビューで「(風刺画は)誰かを傷つけるものではない」と明言。さらに「日本政府の反応に当惑している。問題の本質は東京電力の(汚 染水などの)管理能力のなさにあり、怒りを向けるべき先はそちらだ」などと話した。カナール・アンシェネ紙は11日付の紙面で、腕や脚が3本ある力士など を描いた風刺画を掲載。
(共同)2013.9.12 21:45
msn


クリックすると新しいウィンドウで開きます





カナール・アンシェネ
フランスで週刊で発行される新聞である。風刺の色合いが非常に強いことで知られる。1915年に創刊。44万6000部の発行部数を誇り、フランス最古の新聞の1つでもある。調査に基づく報道と、フランス政府内部、フランス政治界、フランス経済界からのリークが売りである。また、たくさんのジョークやユーモア漫画なども評判をよんでいる。このように、ユーモアの色合いが濃いが、もっとも重要な位置を占める新聞である。最近は改善したとはいえ、国際報道についてはムラがあるともいわれる。これらの情報源は、フランス政府や他のメディアによる報告であることも多い。密告者による情報を含んだ、政治家の「消息筋」や公的行政機関のリークなどを記事にする。フランスにおける政治背景の情報が充実しており、これらの暴露記事によって、内閣の大臣が辞任に追い込まれることもたびたびある。また、記事の中には、明らかに、非常に高い地位の者が情報源である内容も見られる。シャルル・ド・ゴールはよく標的にされ、本紙が刷り上がる毎週水曜日に「あの忌々しい鳥は何と言っている?(que dit le volatile?)」と述べたとされる。大統領や首相といった国のトップたる政治家が、他の政治家について語ったオフレコが、一字一句記載されることが多い。また記事には、風刺漫画やジョークも含まれており、事実に基づきながらも、おどけた調子で書かれたコラムもある。ほかにも、国民に影響する話題(雇用者や安全問題に関する企業のスキャンダル、司法の失策、公的機関やサービスの悪態など)もリポートしている。
wikipedia





無人島に男ふたりと女ひとりが流れ着いた。さあどうする?
フランス人の場合:女は片方の男と結婚し、もう一人と不倫する。
アメリカ人の場合:女は片方の男と結婚し、離婚してから次の男と再婚する。
ロシア人の場合:女は好きではない方の男と結婚し、そのことを一生嘆く。
ドイツ人の場合:女と男ひとりが結婚し、残りの男が立会人を務める。
 日本人の場合:男ふたりは、どちらが女と結婚したらいいか本社に問い合わせる。
スウェーデン人の場合:男ふたりは愛し合い、女は自分を愛する。


ブッシュ大統領にボディーガードが100人。そのうち1人が刺客だが、誰だかわからない。
ミッテラン大統領に愛人が100人。そのうち1人がエイズだが、誰だかわからない。
ゴルバチョフ大統領に経済顧問が100人。そのうち1人が正しいが、誰だかわからない。


インド人、アラブ人、アイルランド人の3人が旅をしていたが、今晩の宿がない。
しばらく歩くと、小さな灯を見つけた。人里離れた小さな一軒家だった。
 3人が宿を求めると、主人は泊まってもらっていいが、あいにく家が狭いため、ひとりは納屋に寝てもらうしかないと言った。
 相談の結果、インド人が納屋に寝ることにした。
しばらくするとノックの音がした。ドアを開けると、そこにはインド人が立っていた。
 「あの納屋には牛がいますね」インド人は申し訳なさそうに言った。「私の宗教では、牛は神聖な生き物です。とても一緒に眠ることはできません」
 仕方ないので、アラブ人が納屋に寝ることにした。
しばらくすると、またノックの音がした。ドアを開けると、そこにはアラブ人が立っていた。
 「あの納屋には豚がいますな」アラブ人は困った顔をした。「私の宗教では、豚は不浄な生き物です。とても一緒に眠ることはできません」
 仕方ないので、アイルランド人が納屋に寝ることにした。
しばらくすると、三たびノックの音がした。
ドアを開けると、そこには牛と豚が立っていた。


フランス人「・・カフェオレとフランスパンを」
ドイツ人 「ソーセージ・・できればビールを」
イギリス人「フィッシュ アンド チップスを」
ユダヤ人 「ところで、あんたのおごり?」


中国
ハエのたかっていない食べ物は、まずいか毒が入っている。
アメリカ
蜂のたかっている食べ物は、まずいか毒が入っている。
以上出展 http://yellow.ribbon.to/~joke/nation.html




2015年1月15日 - 2006年W杯決勝でフランス代表ジダンがイタリア代表マテラッツィに頭突きをして一発 レッドカード退場になった光景を今でも覚えている人は多いと思う。 ... とからかうような ニュアンスにしては軽すぎるもので、アルジェリア(国民の99%はイスラム教徒)移民で ある両親に育てられたジダンにとってその言葉は ... このようなフランスメディアのやり 過ぎたジョークを交えた報道は多方面で大きな反感をかっているに違いない。

、「私の大切な女性たち、母と姉に対する、深く傷つける侮蔑の言葉」を2度、3度に渡って言い続けたため、我慢ができなくなってあの行為に及んだのだ、と説明した。
http://sportshack.jp/soccer/1132.html




先週から話題となっているフランスの新聞社襲撃事件では、17名もの死亡者が出た。
 犠牲者を追悼し、テロに屈しない決意を示す約150万人の大規模なデモもパリで行われ、事態はフランスの9.11だ言われるほど大きくなった。
slide_395106_4842902_free

この事件の原因もムスリムを侮辱したものであり、襲撃されたフランスの新聞社は世の中の情勢を風刺画で表現している新聞社で、フランスのお国柄でユーモアに主張を自由に表現し、フランス人から絶大の人気がある。

このようなフランスメディアのやり過ぎたジョークを交えた報道は多方面で大きな反感をかっているに違いない。

襲撃された新聞社は最新号でも、アッラーのみ唯一の神であるから偶像崇拝は禁じているにも関わらず預言者ムハンマドを風刺画で表していることはムスリムを侮辱した行為であり、さらなる挑発だとも捉えられる。

ムスリムの人口は16億人の信者が世界にいて、今後は2025年には世界人口の30%はムスリムで構成されるという統計も出ている。

グローバル化が進む中で、ムスリムのアイデンティティーを決して軽視してはならず、表現の自由を歌うフランスをはじめ欧米諸国とムスリムの拗れた関係は、
無知による悪意なきジョーク→反論されると「表現の自由」を強調→ムスリム側が暴力で反発→テロリスト呼ばわり→さらなる挑発→無知による悪意なきジョーク→反論されると「表現の自由」を強調→……
http://sportshack.jp/soccer/1132.html



エスニック・ジョークの前提
エスニックジョークとは、ある民族もしくはある国の国民が一般的に持っていると思われている典型的な性格や行動様式などに着目し、その特徴を端的に表現したり、揶揄するようなエピソードを紹介することで笑いを誘うものである。このため、ある民族、国民が一般的に持っていると思われている特徴、例えば「日本人は集団主義者である」、「ドイツ人は合理的である」というような特徴が共通理解となっていて初めて成立するジョークである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/エスニックジョーク







さて、先進国、特に英国、米国、仏国などのジョークは、完全にブラックジョークだ。アメリカやイギリスのジョークは、多数の聴視者がいないときは正直、そこにいない者の特徴を完膚なきまでに端的にこきおろすことで笑いを採るが、大勢の前だともう少し柔らかく表現する。米英の笑いそのものがまずは全部こういうものでできていると思っていいだろう。日本のように、ボケとつっこみで構成されるお笑いギャグはあまり存在しないし、また相手をどんなに言葉でこきおろしても、相手をどついてまで笑いを採る風習は皆無である。また落語のようにひとりが何役も演じるような「ひとり芸」もない。あるのは漫談(ボードビル)である。

フランスのジョークはもっと過激なキラー・ジョーク。フランスは移民大国なので、ある意味開放的だが、反対に排他性も非常に強い。日本で言えば京都人がこれに少し似たところがある。歴史的に民族大移動の影響で外国から民族がさまざま入り込んでいたのがフランク帝国。そこにまたどんどん移民が混ざりこんだ。だから表面上は非常に開放的で、遊びの好きな、ウイットに富んだ国柄に見えるが、内面性はとにかく世界でもまれに見る斜視と腹黒さが隠された世界がフランス。あこがれて移住したらがっかりさせられる人は山ほどいる。建前は上品なエスプリ(くすぐり)だということになっているが内心の本音はキリサキジャックのように切れ味のするどい嫌味といけず。

今回、イスラムのムハンマドや指導者を漫画で風刺してテロにやられている理由も、そういうフランス人のきつすぎる排他性を物語っている。ジョークは、その国の国民性、民族性が互いにすでによく知られていてこそ成り立つ暗黙の常識を前提とするくすぐりの笑いであるわけだから、イスラム世界のような、西欧や日本とは隔絶した、過剰に真面目な信仰心を持った人々を笑いにするときは、それなりの心遣いも必須になる。せっかくの質の高い笑いで、相手の怒りを買ったならば、次回からは気をつけるのが常識であるが、フランス人にはそれができない。要するに相手を見下げてしまう本性が払拭できない・・・そういう国民なのだと割り切ったほうがいい。それはある種、鼻持ちならないほどの孤高性、言い換えればお高くとまってしまう性格である。中国人にもある世界で一番思想がフランスほど強い国は欧州にはない。

英国人は変わらないことをステータスとしている。アメリカ人は変革と開拓と野卑な発音と子ども味を好む。フランス人はただただ頑固で差別的であるが表面上ウイットに敏感で、世界一鼻が高い。イタリア人は勉強嫌い、ドイツ人はまっすぐでないと気がすまない、ロシア人はうそをつかずにいられず、列に並ばずにはいられない、日本人は止まると死んでしまう、中国人は物まねがやめられず中華思想お山の大将、韓国人はうらみつらみで凝り固まった儒教主義者。

そもそも欧米人のレディファーストの風習は、それを常識にしておかないと本音があまりに差別思想に満ち満ちていたからである。だから白豪主義が生まれるわけだ。

東アジア人はとにかく建前重視。目的が達成されるまで差別し続ける。自己中心的な民族性。中国人は大陸性でおおざっぱだが、器用でオリジナリティが大。そして恐妻家。

韓国人はオリジナル文化を全部、自分で捨て去った民族。しかも言われたことは何でも完璧に真似しないと気がすまないので=真面目すぎて、視野が狭い。そのくせいつも勝者にかみつきたがる負け犬根性が消せない。そして忘れない恨(ハン)の文化。ただし、相手が心から誤るとすぐ肩を組んで酒を飲ませる可愛いところもある。男女差別・階級身分差別が激しい。相手が居丈高にすると反発し反応が高慢になり、平身低頭すると歓迎される。これは明治までの日本の農民の態度とはまったく逆。明治の農民・下層民はえらそうに言うと平身低頭、低く出ると居丈高になったものだ。今は教育のおかげで逆。

日本人はただのお人よしでだまされやすい島国的ナイーブ。とにかくすぐ頭を下げるので世界でバカにされる。恥ずかしがり。敗戦の反作用で愛国心やアイデンティティを見失った。小市民的ことなかれ主義で利己主義。言葉が足りず、前向きな態度や姿勢を求めすぎて誤解される。いい人とできる人を並立的に観ることが苦手。公私を混同するのがすき。小集団が好き。全体主義がすき。そういうことだから内向的におたく化して孤立し、正反対に戦争を選んでしまいがち。世間知らず。

総じて世界のマナー(あくまでも西欧型の)に無知なのが東洋人。
マナーは知っているが、それをほかの世界にも強要するのが欧米人。
世界を自分と同じにしてしまいたいのが中国人とアメリカ人であろうかねえ。



日本人はやはり世界に打って出ないで、内側を向くおたく世界が一番向いている。ちょうど選ぶ席が隅っこである人が多いのに似ている。


イメージ 1
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

銅鏡 産地・年代を決定する7つの条件

$
0
0

鏡の研磨には古くはカタバミザクロが用いられた。含まれているシュウ酸などによって曇りの原因となる汚れが取り除かれ、輝きが蘇った。元禄頃からは、水銀に錫の粉末を混ぜてアマルガムを作り、これに梅酢を加えて砥ぐようになった。クエン酸で表面の汚れが除去され、そこに錫アマルガムが付着することでメッキ状態になり、美しい鏡面が得られた。Wiki銅鏡


また最新研究では、銅鏡に太陽光を反射させて映し出される映像には、鏡の模様が現れることがわかっている。



イメージ 2
祭祀のパフォーマンスとしてはかなりのインパクトが期待されてのではないかという説がある。さあ?しかしそういう条件が作り出せる施設が必要なことは間違いない。
映し出す白い壁状のものがある室内で、しかも太陽光が差し込まねばなるまい。例えば校倉造や蔀窓のある部屋で、吉野ヶ里に復元されているような住居や神殿?



考古学的な銅鏡分類
オリジナル鏡・・・基鏡、親鏡。鋳型から直接作られた鏡。

舶載鏡・・・そのデザインの大本である国・地域で作られ日本へ持ち込まれた鏡。ただし仿製や同氾 などされて舶載される場合もある。

仿製鏡・・・日本で出土する鏡のうち,中国鏡を模倣してつくられた鏡。弥生時代から古墳時代にかけて日光鏡などがあり,また古墳時代には神獣鏡や内行花文鏡,画像鏡などが広くつくられた。ただし日本独特の文様をもつ直弧文鏡や家屋文鏡,あるいは鈴鏡なども 仿製鏡に含めるが,平安時代以降から現れた唐や宋の鏡などを模したものは和鏡といって区別している。
 
同笵鏡・・・同じ※鋳型(いがた)を用いて鋳造した鏡の一群。三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)においてとくに顕著にみられる。ただし一個の鋳型で大量生産することは難しい。三角縁神獣鏡のような500枚以上も出てくる鏡の場合、ひとつの鋳型でせいぜい一度に10枚程度の作成が限度だと考えると、その鋳型は複数、同じ場所から出なければならない(三角縁神獣鏡には多様な模様の種類があるが、一種にだけ限っても数十枚存在すれば、複数鋳型が出るはず)。


踏み返し鏡・・・鋳金(ちゆうきん)で,完成品を鋳型に押しつけ,できた型からくり返し鋳造すること。また,その技法。 絵柄や文字がすべて逆さまになる。


伝世鏡・・・作られてから数代に渡り伝世=管理されて保管されてきた鏡。


※鋳型は真土(まつち)によったと推定され、製品にうかがえる鋳型の損傷、補修、改作などの表出から鋳造の先後関係を読み取ることができる。なお、三角縁神獣鏡は、真土型では複数の鋳造は無理だとして、原型からの踏み返しでつくった複数の鋳型による製作を唱えこれを「同型鏡」とよぶ意見もあるが妥当ではない。むしろ、5世紀末~6世紀にかけての画文帯神獣鏡の一群がその製作法をとることが指摘されている。しかし、これも原鏡を含んでいるので、「同型鏡」とよぶのは適切でない。三角縁神獣鏡の同笵鏡の分有関係から、それをもつ畿内(きない)と地方の古墳被葬者の間に緊密な政治的紐帯(ちゆうたい)が形成されていたとする説が注目されている。なお、同笵鏡の理化学的な分析の結果から個々に成分が異なるというデータが出て、新たな問題提起がなされつつある。[橋本博文]

例えば出土した三角縁神獣鏡がオリジナル鏡であり、しかもそれが間違いなく中国から舶載されたものだと決定するためには、鏡そのものよりも、鋳型の出土が最重要となるのが当然であろう。工房跡遺跡にそれがあるということは、そのさまざまな作り方をされた鏡全部のふるさとがそこであると言う事が可能になる。三角縁ならそれは魏、ないしは呉のかつての版図内、または楽浪郡・帯方郡などにあってしかるべきである。



その鏡が間違いなく中国のオリジナル鏡であり、どこで鋳出されたかを決定するための決定打
1 その鏡が出た地域のそばに、その鏡を鋳出した複数の鋳型遺物が出土すること。三角縁神獣鏡の場合、それが魏ないしは呉などの三国時代の工房から出るはず。
2 その鏡と同じものが複数出ること。
3 その出土地つまり遺跡が限定できること。
4 銅同位体分析でその銅が中国のものであると決められること。
5  製造年代がその鏡の時代に完全に合致すること。
6 伝世品でないこと。
7 鋳型の特徴(欠損や書体まで全部)がその鏡とぴったり合致すること。

その三角縁神獣鏡が、すべて3世紀中盤に作られた鏡であることを証明するには、これらの問題をすべてクリアすることが必須である。ひとつでも欠ければ、万人を納得させる結論は導き出せない。やっかいなのは伝世鏡の扱いで、考古学ではこれを一級資料とは認めていない。
(ただ例外的に扱われたのは和歌山県隅田八幡神社伝世の人物画像鏡である。その理由は文字の文章内容に日本と百済の王らしき名前があったため。しかしこの場合もあくまで推定の歴史でしか語れない遺物として扱われる。なお、この人物画像鏡と同じ鋳型で作られたらしき鏡は滋賀県野洲町三上山某所などからいくらかの出土例があると聞いている。また、隅田八幡のこの鏡自体、オリジナルではなくコピーされた製品を元に文字を入れて作られたものである。ゆえにこの鏡から決定的見解を導き出すのは困難だと言える。)

マスコミの情知的報道や、学界の恣意的意見に左右されるようなものは、何も言うべきではない。


イメージ 1
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U



ケルト年表 神々のシナリオ

$
0
0




 「私はケルト人の信仰をいかにももっともだと思う、それによると、われわれが亡くした人々の魂は、何か下等物、獣とか植物とか無生物とかのなかに囚われていて、われわれがその木のそばを通りかかったり、そうした魂がとじこめられている物を手に入れたりする日、けっして多くの人々には到来することのないそのような日にめぐりあうまでは、われわれにとってはなるほど失われたものである。ところがそんな日がくると、亡くなった人々の魂はふるえ、我々を呼ぶ、そしてわれわれがその声をききわけると、たちまち呪縛は解かれる。我々によって解放された魂は、死にうち勝ったのであって、ふたたび帰ってきて我々とともに生きるのである。

我々の過去もまたそのようなものである。過去を喚起しようとつとめるのは空しい労力であり、われわれの理知のあらゆる努力はむだである。過去は理知の領域のそと、そのカのおよばないところで、何か思いがけない物質のなかに(そんな物質があたえてくれるであろう感覚のなかに)かくされている。その物質に、われわれが死ぬよりまえに出会うか、または出会わないかは、偶然によるのである。」

マルセル・プルースト『失われた時を求めて』 第1巻 p73 井上究一郎訳・ちくま文庫












いわゆるプルースト効果に言及した箇所で、彼は欧州人の原郷としてのケルトについてこう言及した。


ケルトの古い時期の原初的信仰には、鶴岡真弓らの言葉を借りて申すならば、「ヘレニズムやヘブライズムによって鍛え上げられた欧州が「この世界は一個の超越的な不変の法則に支配・決定されている」という観念を根底に持つ文化であるとするならば、ケルト的と呼ばれる文化にはこのような強固な不変への確信はない」、むしろ「変化という不確かさ」への感覚が蠢いているようにみえる」のである。
「ケルトの自然や生死の描き方が、私たち日本人ないし「世紀の転換期(ターン・オブ・ザ・センチュリー)」の現代人に親しい身の丈を盛っているように感じられるとすれば、それはこうした理由と関係があるのではないだろうか」?
鶴岡真弓「ケルト文化とは何か」

ケルト人の文化はその多くを。森の変化と神秘、魔術、神話によって代表され、そこにはローマ以来の西欧一神宗教や、科学のにおいは乏しい。むしろあらゆるものに神が宿り、その根源の死生観は原始多神教が持っているもの・・・自然崇拝と精霊信仰と農耕民としての冬至、春分を重んじる太陽信仰、神を人を喰う宇宙の摂理が生み出した多様なものととらえ、その姿を人間つまり人型偶像よりも動物型アニミズム・トーテミズム的に表現している。

それがローマの影響を受け始めると、双方が混在した姿を神々は持たされるようになったのである。これは北欧の冬至祭に、原始からの、ちょうど日本の稲魂のような藁をまとった精霊と一緒にサンタクロースや悪魔が登場するのとまったく同じことであろう。

つまりケルトの本来の文化や信仰や死生観は、日本の来訪神信仰や巨石信仰とまったく変わらないものであったということが出来る。それはつまり世界の東西には、古代人としての共通する基層観念があったことを教えてくれるのである。




ケルト文化年表
鶴岡真弓・松村一男著『図説 ケルトの歴史』掲載の「ケルト文化年表」より

イメージ 1




中世以降、人々は神を一本化しようとしてゆく。国家をひとつにまとめるためには、神々がいろいろ存在していてはややこしい。心をひとつにせねば外からの異教徒には打ち勝つことができないからである。こうして神の使いであった巫王の時代は、強力な軍事組織と客観的政治組織を持った政治王へと移っていった。それが中世である。


それは言い換えると「憑依を必要としない」科学的、客観的な政治の始まりだったとも言える。一神教が持つ理念は、唯一絶対の神がいるのであるならば、それは宗教王に管理させておけばよく、それによって世界を統一する野望を考えるひまを政治王に与えた。憑依の時代には、どんな巨大な岩石ですら、神々のために持ち上げることが可能であった。そうあのストーンヘンジのようなどうやって動かし、石を乗せたのかも見当がつかないものすら、憑依の力で作り出せたのだ。痛みや苦痛、重さ、大怪我、死などはトリップすることで乗り越えられたのだろう。だから中世、近世、近代と時を経るにつれて、われわれが作り出すオブジェからは、神がかり的な異常さや巨大さが消えていった。そのことを現代の人々は、もしや人類は退化しているのではないか?とも感じてきたが、そうではなく、人類の行動がシンプル化していったためだと考えられる。すべてはある種の時間を捻出するための合理化だったと思うほうがよかろ。その時間とはつまり侵略の時間である。神々の視線を宗教者にまかせてしまったことで、人類がそれまで抑えてきたサルの欲望=原初的な領地拡大と収穫の増大、耕作地の拡大の野望である。簡単に言えばそれは喰うための戦いであった。だからそれは実はサルたちのテリトリー拡大の要求と同じものである。



巨石・自然崇拝からローマ的人型偶像崇拝へケルトは変容していった
イメージ 3


イメージ 4


筆者が言いたいのは、現代へ進化したと思ってきた我々の暮らしは、本当は動物の第一次的な欲求が堰を切ってぶり返し始めているのではないか?ということなのである。それの象徴が科学であるならば、科学の行き着くところとは、人類を進化させ超越させて神に近づける行為ではなく、むしろ歴史を逆行して動物の時代へ、一次的欲望の時代へと逆戻りさせるものなのではないか?という疑念である。



筆者がケルトに興味を持ったきっかけは、日本のオリジナル模様である弧文や弧帯文などが持っている渦巻き・螺旋形へのあこがれ・・・言い換えれば途切れずにつながる永遠の命のバトンをつなぐ性のいとなみの形、それがへびのとぐろや、山の紡錘形や、貝輪が持っている渦巻きを絵柄にすることで、世界共通だと感じたからである。最初は、その類似は、双方のいずれかの影響がどちらかへ伝播したから、そしてその絵柄を持つ民族がその文化を持ってインドや中国までやってきて、そこから日本へも伝わった結果だろうと思っていた。しかし、やがてそれは短絡的な、安直な発想だということに気がつかされた。類似する文化の多くは、実は別々に着想されて偶然、隔絶した世界で互いに自然に生まれ出たのである。


イメージ 5


イメージ 6
ケルトの渦巻きは、日本の縄文時代からすでに列島に存在した。

イメージ 7


イメージ 8

イメージ 9


その原初的デザインは永遠の命の連環への願いを表している。そのことに不思議なことだが弥生人も古墳時代人も気づいている。

イメージ 10

イメージ 11

貝の断面にその螺旋形が存在することに気づき、それをそのまま貝輪として、魔よけにしたのだ。



その後、科学・生物学・遺伝子学からのアプローチでも、生命体が自然に渦巻きや螺旋に細胞を成長させようとしていることが言われ始めた。民族学的なデザインが、実はすべての生物が持って進化してきた「記憶」として刷り込まれているという驚きである。

イメージ 12


人間の考え出す模様や死生観が、実は生物がこの地球で発生したときから営々と受け継がれてきた「永遠の生」への希求であることがようやく徐々に見えてきたのである。

そうした原初的なデザインや、自分の胎内に内在する神秘性を捨ててきた。ということは、人類の脳内の時間は、前にではなく、実は後ろに向かっている(=退化している)のかも知れない。



ケルトだけにこだわらず、すべての古代の民族が、時間差はあっても日本の古代人と同じ螺旋を命の象徴として選択して来た。それは無意識のうちで考え付かれた。それはアフリカで草原を歩き始めたサルの脳内に、すでに刷り込まれた希求だった。いや、もっともっと以前の、地球に水があふれ、雷鳴と雷電が海に最初のアメーバを生み出した何十億年も前から、気の遠くなるほどの時間と距離を乗り越えて、地球上の生命すべてに「記憶」としてインプットされたものだったのである。ならば、この共通する螺旋をもっと前に作り出した、つまり水面に石を落としてもできる渦からもう、われわれの神々のシナリオは始まっていたことになるのではなかろうか?


そそれは「神々の指紋」ともいうべき宇宙の真の姿かも知れない。





イメージ 2
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U


現代フィリピンの棚田・コメ炊き土鍋・餅搗く杵 土器には蓋はありますか?

$
0
0

このところNHKBSプレミアムで、アーカイブスの過去の好番組がのきなみ再放送されている。中でも地球46億年の歴史を遡る番組は、何度観ても素晴らしい。

在日韓国人料理研究家のコウケンテツが海外を訪問する番組も面白い。

その中で、彼がフィリピンのルソン島の棚田を訪れる番組が記憶に新しい。


イメージ 6




なにしろ、現地人が使っていた土鍋が非常に印象に残った。


イメージ 1

カメラに収められなかったので絵にしてみた。

陶器の土鍋のようだったが、その形状はあきらかに縄文後期から日本で隆盛するS字型を基本とした弥生式土器だった。



日本の弥生式土器の典型的形状が縄文式土器とあきらかに違うのは、このS字型というシルエットなのである。縄文土器の多くはみな、底から口へ向けて広がってゆく寸胴のようなシルエット。しかし弥生土器のフォルムは、口が広く、底の円直径がほぼ同じなS字断面を持っている。


イメージ 2
 



これは朝鮮半島でも共通で、弥生土器は半島から来たとされているわけだが、では半島以前はどこからかというところまであまり話題にならない。つまり誰が東アジアまで持ち込むかという視点が、実は東洋の古代史・考古学ではあまり問題にされていないのだ。



もうひとつ大事なことは、その番組で出てきた「土器」には蓋があったことだ。
ジャワニカ米を炊く土鍋だが、フォルムは弥生土器だが、弥生土器には見られない蓋がある。炊くときは間にバナナの葉を置き、上に蓋をしていた。これは蒸す調理法で、日本でももち米を蒸すときは、甑と蓋の間にふきんを敷く。


日本の縄文土器や弥生土器に蓋はあったのだろうか?




【弥生式土器の蓋】
 
もちろん、弥生土器にも甕の蓋はありました。
まず、以下は山口大学埋蔵文化財資料室のPDFですが。
 写真図版49・50に「弥生土器甕蓋」とあります。
・稲作到来(山口大学埋蔵文化財資料室)
http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~yuam-w/Shiryoukan.home/shiryoukan/z...

このほか佐原眞氏の書籍(『日本人の誕生』小学館、1987・P259)でも具体例を述べています。
 弥生土器の甕蓋を図示しながら、具体的に炊飯をした状況が書かれています。
※岡山県・上東遺跡出土例などを列記。
ただまぁ、木製の蓋を使用した事例もあったでしょう。
もちろん土器としての残存の方が多いのですが。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1054206100




蓋は、弥生式土器にはあったようである。
だが縄文式土器のような複雑な形状の土器鍋にはどうも蓋はなかったように思う。


もちろん湯を沸かすだけでも、蓋があるのとないのとでは、時間に圧倒的な時間差が生じる。最初は蓋のかわりになる葉っぱやらをして、うえに大きな石を置いていたと思えるが、いずれは誰かが蓋も作るはずである。しかしどうも土器には蓋があったとは、あまり誰も考えない気がする。




イメージ 3




次に気になったのは、稲穂の刈り取りかたが、だいたい日本以外は、穂先をチョッパーナイフで切取るということで、これは随分前から気にしていた。古代では日本でも穂先だけを石製包丁で切り取っていた。神前にも穂先だけをささげる祭は今でもあちこちに残っている。それはつまり原始稲作法の風習が残存したからだろう。ところが今の日本では、ほぼ稲元から鎌で刈り取る方式をとっている。稲穂だけ刈り取るのに比べて、腰をかがめるため、圧倒的にしんどい作業になるのに、これはなぜだろう?

ひとつ言えることは、稲藁の重要性があろうか?



また番組でこのような作業と器具が出てきた。


イメージ 4


イメージ 5


上は子供が刈り取った稲の稲穂だけを風に飛ばす作業で、こういう風景昭和初期まで日本にも普通に見られた風景だ。道具は箕(み)を使っていた。まさにこの子供が持っているザルが箕である。



下は稲を脱穀している風景だが、少女たちが持っているのは、確かに古い時代まで日本でも使っていた古い形式の杵である。古代の銅鐸の絵柄でもこの杵が描かれている。いわゆる餅を搗くための現代の杵とは違う。




イメージ 7


そういう道具や風習がフィリピンの棚田にまだ残っていることが、筆者には非常に示唆に富む内容だった。

それが果たして、最初からフィリピン島周辺にあったのか、それとも江南から南下してきた風習なのかが気になる。

また棚田風景の南方での一致、そしてその石垣の修復風景に江戸のアノウ積みを感じたのだった。












イメージ 8
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U


文字を書くことと刻むことの違い  障礙とはなにか?

$
0
0

文字や絵を「かく」は、英語でWrite(ライト)だが、もともとの意味はドイツ語では reiβen (ライツェン)で、「裂く」「刻む」から来ている(平川南)。ラテン語ではscindite裂くからScribe書く で、どっちもSCで始まる。

古代、人が何かを書くときはまずは石に刻みを入れることに始まるわけである。
だいたい欧州語では裂くから書くが生まれてきたようである。


2003年だったか、長野県の根塚遺跡から東日本では最古となる文字?が刻まれた土器破片が見つかったというニュースがあった。

イメージ 1
 

3世紀の遺跡である。
言われている通りに、この文字が漢字の「大」であるならばだが、平川南は文字の書き順が違うとして、渡来した朝鮮の土器工人が刻んだ文字だろうとしている(『出土文字に新しい古代史を求めて』2014)。

「大」の書き順(筆順)は、まず横棒を書いて人と書く(人は左が先で右があとになる)が、この「文字」はまず人を書いてから横棒を書いてるから筆順を知らない者が書いたはずだと言う。

よく見ると、横棒と人の重なる部分は、ちゃんと交差してはおらず、つまり人と書いてから横棒を上から入れているのではないのではないか?ということは、書いた人はまず横棒を先に書いたと筆者は見るのである。


もし漢字を理解して書いたのなら、この「文字」は「大」ではなく、見たまんま「六」だとなるのである。知らずに書いたとすれば、重なる部分を重ねないように記号のように刻んだことになる。そもそも漢字の筆順を知っていようが、いまいが、石に線刻する文字と、紙に書く文字では、その筆順もなにも比較するものではないだろう。

例えば、レタリングのようなデザイン文字や看板の文字の書き方に筆順はない。まず横棒を平行に入れていって、次に縦棒という手順で、機械的に描かれる。つまり看板屋さんにとってこの時の文字は「絵」「デザイン」でしかなくなるのだ。


石工さんには石工さんのやり方があるだろう。従って、土器に線刻された図柄を文字だと決めるには、手がかりが少な過ぎると筆者は思っている。


いずれにせよこの人は漢字ばかりか文字そのものをあまり知らず、ただの記号として理解していたことになる。

こうした日本の最古級の古いケースでは、筆者はこの「大」だか「六」だか知らない記号は、記号であると考える。どんな記号かと言えば「魔よけ」である。そもそも「大」という形には、人が両手を水平に広げてやってくるものを妨げている形である
つまり難しい言葉で言えばこういう形状の魔よけは「 障礙 しょうげ」という。いわゆる摩多羅神の名前が「 障礙神」である。民間で言えばそれは荒神であり、塞(さえ)の神のことになる。「さえ」とはいつも書くことだが「さえぎる」ということである。遮る、遮断する、防ぐ、護るという意味である。魔物を遮る神が 障礙神で、摩多羅神の場合は、人が臨終のときに魔物がその人の命と肉体を食べに来るのを妨げる神であり、であるにも関わらず、摩多羅神は最終的に自らが死神になって死者に引導を渡す神なのである。とどめを刺すのは摩多羅神自身なのであり、それは死者の肝臓、内臓を食らうことで往生が成就するのだというのであるから、なんとも独占心の強い神だ。一見独善的にも見える。

大の字の形は、古墳時代の九州北部にはよく刻まれている絵柄であることは読者はすでにご存知だ。いわゆる石人などもそういう魔よけである。おそらく大が人が立ちはだかる形だというのは、世界でも共通観念になりやすい形状であるはずだ。だから欧米などでも出てきても不思議ではなく、この長野の土器の大も、単なる魔よけの記号として刻まれたに違いないと考える。


ついでに言うならば、ほかに見つかっている「文字」として「竟」を学者は「鏡」の略字と観るようだが、これも魔よけ記号としての「境」であるかも知れないと思うのだが、誰もそうは思いもしないようなので不思議でしょうがない。「さかい」とはあの世とこの世との間にあるといわれる「坂」つまり記紀神話にもある黄泉平坂のことを言う。橋・梯・椅とも言う。天橋立はつまり現世と来世をつなぐ死の世界への架け橋なのであり、平坂もそうである。山と里山のあわいさ、不安定な時空、あるいは黄昏時などもすべて「境」である。竟の形状には、もしそれが文字であるならば当然あるべき偏が省略されており、それが金偏だと決め付けた理由が少なくともわからない。土偏であってもよかったのに、要するに考古学者には、そうした民俗学的な素養がない判別法しか持っていないようである。自然科学的着想のそこが限界だと見える。

このように科学には一面的・一元的な見方しかないケースが多々あって、極めて危険である。人の内面を多面的に観ないところは理系的着想だと言えるだろう。答えをひとつにしてしまいたい性癖は、どこまでがんばっても科学者が技術者としてしか扱われないこの社会の傾向である。なぜ科学者がこの世界のリーダーになれないかと言えば、まずはそういう答えはひとつしかないという独善性にあるのだが、どうやらその意味が彼らには理解できないらしい。







ちなみに

 障礙神とは?
1 荒神
2 道祖神
3 塞の神
4 マカラ
5 金比羅
6 川の神
7 摩軻迦羅天(密教)=マハーカーラ(梵語)の乗り物である空想上の生物
8 それが混同されてマハーカーラそのものになってしまった
9 人を食う自然災害の宇宙神=災害神
10 死神であり死者の肉体を独占するために、死ぬまでは魔物から人を護ってくれる神。食われれば浄土往生できて、さらに子孫として再生できるようにしてくれる。弥勒菩薩に対する存在。
11 ゆえに大日如来であり、大黒天であり、スサノヲでもあり、渡来系工人たちの守り神でもあり、新羅明神でもある。千手観音にも顕現する。八幡神。稲荷神でもある。蛇であり山であり川である。憤怒の
12 荼吉尼天 ダキニ 大黒を押さえつけた神
13 秦河勝(新羅系渡来人で工人も元締めで、河川工事と土壌改良と国土開発のパイオニアで、さらにあらゆる渡来人の大元・家元的人物で、おそらく空想の人物像)



そういう意味のものが全部ひっくるまったのが 障礙神である。お水取りの修二会で最重要だが、隠された秘儀として登場する神。鬼を調伏し、幸をもたらすが、代わりに人々の血肉と内臓を持ち去ってしまう神。永遠と再生の象徴。渦巻き。螺旋の神。

まあ、宇宙の摂理などというものはそれ自体が理不尽で、独善的に登場するものである。つまり「災いは忘れた頃にやってき」て人を巻き込み、もちさってゆく。ようするに3・11の津波等はその最たるものだろう。あの津波も大地震も、つまり 障礙神の現象化なのだ。これを顕現、権現と言う。神でも在るが悪魔である。しかしながら長い眼で見れば、消えた命は天上界で再生され、新しい命となって「更新されて」子孫は存続するのだ・・・そう思わなければあまりにも切ないほどに人が死んでしまう時代だったからこそ、この神が必要になったわけである。悲惨な悲しみを、行く末の幸福にアウフヘーベンする摂理の中の超克者。夢。希望でもあるのだ。

「死こそが究極の永遠」だった、いや、なのだ。

である。

近々、その 障礙神としての摩多羅神の過去の記録をすべて列挙したい。
これはなかなか大変な仕事になる。全文が漢文だったり、当用漢字にない漢字をインプットしなければとても写せないしろものばかりだからだ。


ま、そのうち作っておく必要があるから仕方がない。


山本ひろ子の『異神』が頼りである。





イメージ 8
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

摩多羅神記載文書記録集 その1 聖徳太子=摩多羅神=秦河勝

$
0
0
摩多羅神に言及のある記録・文書
「(摩多羅神は)天竺・支那・扶桑ノ神ナリヤ、其義知リ難シ。支那ノ神ニ非ズ、又日本ノ神ニモ非レバ、知ラザル人疑ヲ起ス輩(やから)モアルベキコトナリ。」
天台学徒覚深「摩多羅神私考」
天文二年(1738)



「問。台家(天台宗)ニ摩多羅神ト云モノヲ祭ル由之ヲ聞リ。是イカナル神ゾヤ。
 答。是末々ノ愚輩ノ作リ出セシ事ト見ヘタリ。ソノ神像ノアリサマ。頭ニ唐制ノ幞頭(はくとう=中国の朝服用冠帽)ヲ蒙(かぶ)リ、身ニ和様ノ狩衣(かりぎぬ)ヲ着テ、左ノ手ニ鼓ヲ取リ、右ノ手ニテコレヲ打スガタナリ※。左右ニ童子アリ。風折烏帽子ヲ着テ、右ノ手ニサヽ葉ヲ持チ、左ノ手ニミヤウガ(茗荷)ヲ取テ舞ヘルアリサマナリ。中尊ノ両脇ニモ、竹トミヤウガト在リ。頂上ニハ雲気アリ。ソノ内ニ北斗七星ヲ書ケリ。是ヲ摩多羅神ノ曼荼羅ト云由ナリ。是ミナ日本ノ風俗ナリ。一笑スルニ堪タリ(お笑いざたで、相手にするのもはばかられる神だ)。」
空華『空華談叢』天明二年(1782)


*この姿は芸能者の「鼓打ち」の格好である。



イメージ 1
日光山輪王寺(栃木県)摩多羅神二童子(曼荼羅)図(江戸期) 山本ひろ子『異神』口絵より
〒321-1494  栃木県日光市山内2300
TEL:0288-54-0531  FAX:0288-54-0534

(茗荷は中国道教ではこれで眼をこすれば魔物が見え、また忘れることが出来るとされている。眼病、癖邪の妙薬。大笑面は如意輪観音などが憤怒面であるのと反対だがどっちも魔をしりぞけ、調伏する表情。二童子は聖徳太子像同様に脇寺として聖人の手足となるもの。前鬼・後鬼と同じ。北斗七星は大極=北極星=太一 たいいつ=天子を助ける星でつまり影の宰相、縁の下の力持ちとしての被差別者の象徴)




「叡山及び其末寺、摩多羅神を崇(あが)めまつれり。此の神、密部諸経儀軌に云ふ阿弥陀の教令輪身にして常行三昧の時の守護神たり。故に台徒尊ひあへり。
 中頃台教大にみだれて其一家の学に迷へり。此時禅子(学者)の手段にならひて別に公案を巧書し学侶に著語せしめ印可せり。此時また密法により玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)の灌頂(かんちょう)といへる事を造り、摩多羅神を本尊とし、甚秘(=極秘)として相受せり。台徒これより玄旨の壇場を一家の極秘とせし故に、摩多羅神を殊に尊崇することゝなりし。」
天野信景『塩尻』

大意
摩多羅神は元々は常行三昧行の守護神だったが、叡山の教学らが混迷を極めると、禅宗の法を真似てこれを本尊として玄旨帰命壇という道場をつくって後戸の本尊として灌頂を行って以来、ことに尊重されるようになっていった。

語義
●密部諸経儀軌(みつぶしょぎょうぎき)=密教の、いろいろな経典にある規則。

●教令輪身(きょうりょうりんしん)=輪とは、全体(輪、Cakra)を形成するための要素という意味で、また煩悩を摧破する輪宝のことである。三輪身=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BC%AA%E8%BA%AB

●常行三昧(じょうぎょうざんまい)=仏教用語。中国天台宗の智(ち・ぎ。天台開祖、智者大師)以来始められた修行。四種三昧の一つ。7日ないし 90日を期限として行われ,阿弥陀仏の像のまわりを歩きながら,その名を称えて阿弥陀仏を念じる三昧修行。 (ブリタニカ国際大百科事典)

●玄旨帰命壇=かつて天台宗に存在した一派である。のちに淫祠邪教扱いされ江戸時代には絶滅したといわれる。玄旨帰命檀は、玄旨檀と帰命檀を合わせたものである。玄旨檀とは、一心三観の深旨を口伝面授する玄旨灌頂であり、法華の法水を授者の頭頂部にそそぐ儀式である。帰命檀とは、衆生の命の根源は天台の理である一念三千にあるとして、それを実現する儀式である。『渓嵐拾葉集』第39「常行堂摩多羅神の事」に記されるように、摩多羅神は円仁が唐から帰国する際に感得して、常行堂に勧請したと伝えられる。しかし実際は、摩多羅神は平安時代から鎌倉時代にかけて成立した玄旨帰命壇の本尊として成立したものと考えられている。Wiki玄旨帰命壇  

●後戸=寺院本尊が置かれる戒壇の真後ろのスペース。

●灌頂(かんじょう)=水を頭の頂に注ぐという意。元来は,インドの王の即位,立太子にあたり,大海の水を注ぐ儀式のこと。それが仏教に取入れられ,菩薩が最上の境地に入ろうとするとき,諸仏が智水を菩薩の頭に注ぎ,最上の位に達したことを認めること。 (ブリタニカ)



後戸の神 摩多羅神
イメージ 2
後戸にはかつて修二会神事の芸能をする人びとが大道具・小道具を置くのに使われていた。戒壇の本尊は寺院によって違うが、彼らにはどれもが国家と正規の民衆のための仏であって、彼らのためだけの神をここにひっそりと祭るしかなかったのである。




「しかして摩多羅神ノ御堂に入りぬ。宝冠ノ阿弥陀仏ませり。此みほとけの後裡(こう・り=うしろ=後戸)の方に此神を秘斎奉り(ひめいつきまつれり)。・・・やをら神祭はじまれり。まづ篠掛衣(すずかけごろも)着たる優婆塞(うばそく=入門していない民間仏者)出て、「八雲たつ出雲八重垣つまごめにやへがきつくるその八重垣を」と太鼓百々(つづみとうとうと)うち鳴らして謡ひ、また「千代の神楽を奉る」とうたひ、宝螺貝(ほらがい・法螺貝)吹たて神供くさぐさそなへ奉りて、隆蔵寺の法印紅色(くれない)の鬱多羅僧(《〈梵〉uttarāsaṅgaの音写》三衣(さんえ)の一つの、七条の袈裟(けさ)。 )に、みなすいそう(?水晶か)の念珠(ずず)をつまぐり、浜床(はまとこ。貴人・高僧が座る台)の上に座(のぼり)あまたの衆徒居ならびて、優婆塞は入りぬ。
御誦教(ごじゅきょう。天台で読経のこと)の声尊く常行三昧といふ事をおこなひ、梵唄(ぼんばい)なンど(なんぞ)もうたひはつれば、阿弥陀経を誦つゝ立て神の御前をおしめぐり、また柳の牛王(牛玉=牛黄)といふものを長き竹のうれに挟(はさみ)て、さゝげもてめぐれり。」
菅江真澄「かすむこまがた」


これは「延年舞い」の見たままを書いた記録か。





イメージ 3



常行堂における延年儀式はかつては比叡山、多武峰、日光山、平泉毛越寺(もうつ・じ)など天台系寺院で修正会などで舞われていたが、天台宗が乱れて衰亡してからは毛越寺のみで行われるのみとなった。元禄二年に沙門霊空(しゃもん・りょうくう)が『闢邪編 びゃくじゃへん』を著して摩多羅神を祭る儀式を激烈に批判。以降、邪教として日光山輪王寺の働きかけですべての伝法が禁止された。それを予感していた主催者である犬神人を中心としていた芸能者集団はいち早く身を引き、法儀も撤退している。

要するに摩多羅神というものは民間・優婆塞・山伏らのいわゆる「被差別の徒」らが持ち上げてきた芸能の法事の神であることが明白である。しかしそういう理由から宗教の本道から締め出されたために、いよいよその実態・正体は闇の後戸へと葬られ、容易に研究しづらくなったのだった。これは京都の大酒神社の牛祭りが最近、演じ手がいなくなって休止状態であることとともに、残念なことである。

なにゆえに神社境内や寺院境内にたむろ(神社のそばに屯・田室地名はないか?)してきた中世の神人(じにん・てらおとこなど)たちから、世阿弥のごとき芸能の民が出て、それがまたなぜ秦河勝を申楽やら芸事の創始者としたかといえば、彼らの多くが恵まれない身分の渡来系技術者だったことが大きいだろう。そうなってしまったのが、特に中世である理由は、武家が政治の中心に登場し、儒教による頑迷な身分制度も始まって、それまで底辺ではあっても平民と同居・混在・同化できていた漂泊民や芸能民、あるいは職人たちが、完璧に差別化されてしまったことが大きいのだ。

明治政府が漂泊者集団を「サンカ」と名づけて差別し、それを犯罪予備軍としてくっきりと区別することが官憲にとって見分けやすいという便宜上の理由だったように、平安末期から室町あたりまでの儒教ブームが、やがて江戸の士農工商を生み出し、「えた・ひにん」としてやはり差別・区別することで民衆管理体制をがんじがらめに作った結果、彼らは「名前付け」され、つまり区別され、結果的に平民たちからまで「差別」される対象となったのだ。


イメージ 4
毛越寺玄旨帰命壇摩多羅神



その影響は戦後民主主義政治の中で、福祉政策と同和対策として常に金が動く世界であり、原発やし尿処理・官製農作物栽培などが彼らに供与される「社会福祉国家日本」「隠れた社会主義国家日本」の闇の後戸、温床ともなってしまう。それはまさに中世~明治の政治が彼らを被差別として区別し、しかもその区別のためにこそ彼らがそれを意識し、過剰となり、そして犯罪者への道しか選択枝を与えなかったともいえるかも知れない。そうならぬためには、彼らが選べる道は芸能民や3K労働者やスポーツマンや歌手や露天商や重労働の石垣造営、城つくり、宮大工などなどしかなくなったわけであろうし、それはまさにアメリカの黒人・カラードたちの職種そのものなのであり・・・

摩多羅神は彼らの切ない祈りをかなえてくれる救いの神だったのだ。
その救いとは、つまりは摩多羅神が彼らの哀れな命を食い、死を与えてやるという、なんとも悲惨な「願い」だったとは!

彼らはこう願ったのだ。


「こんなつらい現世から、早くおらたちをあの世へ連れていってくださいまし!!」


それはまさに聖徳太子=秦河勝という偶像そのものでもあったと言える。



書きながらつらい。
しんどい。涙なしには書けない。




これがつらい仕事になる理由がおわかりならクリックを
イメージ 8
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U




摩多羅神 用語解説 動画付き

$
0
0

●引声(漢音いんぜい(天)、呉音いんじょう(浄))
日本音楽の用語。 (1) 天台声明における演奏形式の一種。主として序曲といわれる非拍節リズムの曲にはテンポや墨譜1つずつの旋律の長短によって長音 (ちょういん) ,引声,短声,切音 (きりごえ) などの分類があるが,引声は声をかなり長く引伸し,さまざまな装飾をつけて歌ううたい方をいう。 (ブリタニカ国際大百科事典)

高低・伸縮を加えた声で念仏・経文・偈頌(げじゆ)などを唱えること。 〔円仁が中国からもたらしたもので,天台宗では「いんぜい」と漢音で読むが,後に浄土宗などでは「いんじょう」と読む〕 (大辞林 第三版)


●常行三昧
じょうぎょうざんまい
仏教用語。中国天台宗の智 以来始められた修行。四種三昧の一つ。7日ないし 90日を期限として行われ,阿弥陀仏の像のまわりを歩きながら,その名を称えて阿弥陀仏を念じる三昧修行。 (ブリタニカ)

つねに行道(ぎようどう)して修行する三昧(さんまい)という意。四種三昧の一つ。三昧とは心を不動にして宗教的瞑想の境地を深めること。四種三昧とはそのために行う常坐三昧,常行三昧,半行半坐三昧,非行非坐三昧のこと。常行三昧は元来,《般舟三昧経(はんじゆざんまいきよう)》によったもので,おおむね5間(約9m)四方の常行三昧堂(常行堂)に阿弥陀仏を本尊として安置し,90日間にわって口に阿弥陀仏の名を唱えながら,そのまわりを歩きつづけて,つねに仏を念じ,心に極楽浄土や仏の三十二相などを浮かべる修行である。(世界大百科事典 第二版)



●毘那夜迦(常随魔)
ビナヤキャないしはビナヤカ=障害者、障疑神
インドにおいてガネーシャ(聖天)は本来ヴィナーヤカと呼ばれる災厄をもたらす悪霊であった。 日本の荒神、御霊信仰とおなじようにこれを供養することによってその災厄からのがれる事ができ、さらには様々な利益があるとされ、のち障害を除き成功をもたらす神として信仰されるようになった。
天台常行三昧行においては往生を妨げ、最後に引導する神。

⇒インド(梵)・ヴィナーヤカ(ガネーシャ・チャトゥルティー)  http://www.sathyasai.or.jp/ashram/festival/ganesh_c.html



イメージ 2



●ダキニ(奪精鬼 だつせいき)
奪精鬼とは人が死ぬとすぐに閻魔が派遣する奪魂鬼(だっこんき)・奪精鬼(だっせいき)・縛魄鬼(じゅは くき)という三人の兵隊のひとつ。臨終の者の肉体から生命を奪い取るのがこれ。

ダキニとは荼枳尼天(だきにてん)は、仏教の神(天)[1]。インドのヒンドゥー教のヤクシニー(半女神)に由来する[1]。

イメージ 1


 「荼枳尼」という名は梵語のダーキニー(skt:Ḍākiṇī)を音訳したものである[1]。また、荼吉尼天[1]、吒枳尼天[1]とも漢字表記し、吒天(だてん)とも呼ばれる。一般に白狐に乗る天女の姿で表され[1]、剣[1]、宝珠[1]、稲束、鎌などを持物とする。
荼枳尼”天”とは日本特有の呼び方であり、中国の仏典では”天”が付くことはなく荼枳尼とのみ記される。ダーキニーはもともと集団や種族をさす名であるが、日本の荼枳尼天は一個の尊格を表すようになる。稲荷信仰と習合し[1]、今日、寺院の鎮守稲荷の多くは荼枳尼天を御神体とする。
狐に乗って虚空を駆け巡る。

中期密教では大日如来(毘盧遮那仏)が化身した大黒天によって調伏され、死者の心臓であれば食べることを許可されたという説話が生まれた[4]。大黒天は屍林で荼枳尼を召集し、降三世の法門によってこれを降伏し仏道に帰依させた。そして「キリカク」という真言と印を荼枳尼に授けたとされる。自由自在の通力を有し、六ヶ月前に人の死を知り、死ぬまではその人を加護し、死の直後に心臓をとってこれを食べるといわれる[2]。人間の心臓には「人黄」という生命力の源があり、それが荼枳尼の呪力の元となっているのである[5]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BC%E6%9E%B3%E5%B0%BC%E5%A4%A9


●摩訶迦羅天(まかから・てん)

イメージ 3


マハーカーラは
マハーカーラ(Mahākāla) は、ヒンドゥー教の一柱で、シヴァの別名のひとつとされる。マハーは「大いなる」、カーラは「黒、暗黒、時間」を意味し、世界を破壊するときに恐ろしい黒い姿で現れる。シャマシャナという森林に住み、 不老長寿の薬をもつ。力づくでも人を救済するとされる。
仏教にも取り込まれ、大黒天と呼ばれる。日本での大黒天は、「大黒」と「大国」の音が通じていることから神道大国主神習合している。日本の大黒天が上記の本来の姿と違い柔和な表情を見せているのはこのためである。

マハーカーラは、戦闘・財福・冥府という3つの性格を持つ。破壊・戦闘を司る神としては、尸林に住み隠形・飛行に通じて、血肉を喰らう神で、この神を祀れば加護して戦いに勝つという。財福としてはヴィシュヌ地天の化身として、インドの寺院にて祀られる。冥府としては、焔摩天と同一視して塚に住むという。

民間の神道において福徳神の能力の一つから子宝や子作り信仰と呼ばれるものがあり、大黒天の像が米俵に載っている(写真参照)のは実は男性器をあらわしている言われ、具体的には頭巾が男性器の先端部分をあらわし、体が男性器本体、そして米俵が陰嚢であるとの俗説がある。これは像の背後から観察すると容易に理解できるものであり、生殖器崇拝の影響が伺える。

偽経とされる「大黒天神法(嘉祥寺神記)」によれば、大自在天(シヴァ)の化身とも[1]地天の化身ともされる[2]。また、三年間専心して供養すれば、富貴または官位爵祿を授けるとも説かれる[3]。胎蔵界では「摩訶迦羅天」と号される[4]。また、孔雀王経が説くとして、摩醯首羅(マヘーシヴァラ)の化身であり[5]、勇猛で必勝の戦闘神であるとする[6]

日本には密教の伝来とともに伝わり、天部と言われる仏教の守護神達の一人で、軍神・戦闘神、富貴爵禄の神とされたが、特に中国においてマハーカーラの3つの性格のうち、財福を強調して祀られたものが、日本に伝えられた。密教を通じて伝来したことから初期には主に真言宗天台宗で信仰された。インドでも厨房・食堂の神ともされていたが、日本においては最澄が毘沙門天弁才天と合体した三面大黒を比叡山延暦寺の台所の守護神として祀ったのが始まりという。後に大国主神と習合した。室町時代になると日蓮宗においても盛んに信仰された。

本来の像容は、一面二臂、青黒(しょうこく)か黒色で忿怒(いかり)の相で表現される。「大黒天神法(嘉祥寺神記)」には、烏帽子・袴姿で右手の拳を腰に当てて、左手で大きな袋を左肩に背負う厨房神・財神として描かれている[7]。この袋の中身は七宝[8]が入っているとされる。


●ミトラと弥勒
 弥勒とはサンスクリット語ではマイトレーヤ(オーム真理教麻原はこれをそのまま真似た)というが、マイトレーヤとは、ミスラの別名またはミスラから転用された神名である。すなわち「マイトレーヤ」は、ミスラ神、「mitra/miθra」の名と語源を同じくする。中央アジア経由でソロアスター教から仏教に融合されて日本に至った神にミトラ神である。ミトラ神はゾロアスター教では主神アフラ・マズダの下位の神である。このミトラ神が漢訳されて毘沙門天つまり多聞天となった。ミトラ神は、ソロアスター教の文献によれば千の耳を持つとされる。ゆえに多聞天と意訳された。(京都大学名誉教授、宮崎市定が推定)。中国・朝鮮・日本における弥勒菩薩信仰では、弥勒菩薩は釈迦(しゃか)が亡くなってから56億7000万年後に兜卒天(とそつてん)に登場して、世界を救済する信じられていた。ミトラ教は牡牛(オーロックス)を屠るミトラス神を信仰する密儀宗教である。信者は下級層で、一部の例外を除けば主に男性で構成された。信者組織は7つの位階を持ち(大烏、花嫁、兵士、獅子、ペルシア人、太陽の使者、父)、入信には試練をともなう入信式があった。中央に「天の雄牛」を屠るミトラが、周囲に黄道12宮の表象が描かれ、ミトラが宇宙の支配者であることを示している。ミトラ教はキリスト教が普及するまでローマ帝国内で広く流行した。牛は『牛』ではなくオーロックスだった。



●境界神=障疑神
○ディオニューソスも摩多羅神も境界神

 ギリシャ人は、霊魂を冥界へ導いてくれる神として、ディオニューソスやヘルメスを「霊魂導師」と呼んでいた。霊界へ橋渡しする「境界神」は、死後にすぐさま遭遇してあの世に導いてくれる神である。ところが、すでに紹介した女神ターラも、このあとで紹介する碧霞元君もまた「境界神」であった。つまり、大衆的な人気があり、かつ、祭が奔放な神は、何故か、不思議なことに、すべてが「境界神」なのである。いわゆる両性具有神(アンドロギュノス)だった。

 ディオニュソスは、ローマではバッカスとも呼ばれ、粗暴なブドウ酒の神、そのトーテムはパンサー(ピューマ)である。古くは、ディオニュソスは、キヅタという「つたの樹」の神であった。キヅタは古代ギリシアではキッソス kissos と呼ばれた。イギリスでは居酒屋の正面にキヅタの輪を飾る。一般の家では、壁面にこれをはわせる。キヅタは雷や魔物をよけると信じられ、その茂る家は裕福さの象徴とみなされていた。キズタは、踊り狂って死んだ同名のニンフを酒神ディオニュソスが、その樹木に変身させた神話に由来するという。ディオニュソスに仕える巫女たちは飲み、食い、裸になって騒いだ。キズタの葉の絞り汁を酒に入れて飲むと、ディオニュソス的錯乱を生じる。キズタは、このことから、麻酔作用、催淫作用、幻覚作用を誘発する媚薬であったとされる。しかし、その調合法は秘密にされていた。ディオニュソスのブドウ酒は、神託儀式に用いられており、憑依をかき立てるために用いられた。神託は、巫女が狂乱の絶頂、いわば興奮と痙攣の最中に行われたらしい。ポンペイでは、ディオニーソスを信仰する秘儀が流行していた。ローマの遺跡ポンペイには、ディオニソスの秘儀の壁画がある。富裕者の別荘で秘儀荘とよばれる。壁画は4つの壁を一周するように描かれている。

       この壁画は、ポンペイ・レッドと呼ばれる鮮やかな赤の背景を持つ。左側から入信式の秘儀の様子が順次描かれている。なにやら館の女主人が立って監督している。→少年が何かを読み上げ、それに若い女が腰かけて聞いている。→若い女性が二人の介添え人に手を借り、供物を捧げている。→シレノスが竪琴を弾いて唄い、若いサテュロスが笛を吹いている。バッカスの巫女は鹿に乳を飲ませている。→若い女性はディオニーソスと従者の前に立っている。→酒に酔ったディオニーソスが椅子に依りかかり、シノルスがブドウ酒をサテュロスに振る舞っている。→若い女性は秘教の男根のヘムメ柱を覆う布を取ろうとしている。→若い女性はバッコスの巫女の鳴らすシンバルに合わせて、有翼のデーモンに鞭打たれている。→若い女性はクピトの差しだす鏡を覗きこんでいる。

  ディオニーソスの秘儀を授かる女性はディオニーソスのブドウ酒を飲み、ヘルメ柱を敬拝する性的儀式を通過して、バッカスの巫女に変身したのだろう。サテュロス(半神)と交合するバッカス信女の壁画があって、バッカス信女が特別な巫女であることは明らかだ。彼女たちは、肉体的ばかりでなく、より以上の知性を持っていた高級な娼婦だった。

       ディオニソスは別に、オルトスと呼ばれていたが、これは直立した男根である。男根担ぎの祭は、ディオニソスが誇らしげに巨大な男根を担いで漫遊する様を再現している。ディオニューソスはイチジクの木から掘り出され、王冠を被せられて行列で運ばれていた。ブドウ酒祭は、どうやら女たち(バッカスの巫女)の乱痴来を大目に見る狂乱の祭だった。アテネではブドウの収穫後、12月に行われていた「野辺のディオニューソス祭」がそれである。彼は、輪廻と再生においては、最強の人気と尊崇を集めた神だったが、同時にいつも戯れる信女に取り囲まれている青年(女性的男性)のイメージに包まれている。「ブドウ酒の壷、ブドウの樹、牡ヤギ、イチヂクの籠、男根像」などが、祝祭のキーワードである。牡牛、牡ヤギは、昔も今も性的な本能を体現するもので、ディオニソスへの供犠に捧げられていた。ディオニュソスやヘルメスは、四大の仲介者、4を象徴する十字、4区分、四方位などを意味した。ユングは水星を世界を囲む4と関連があるとしている。また、ヘルメスは、なせか商人と盗人の庇護者である。これは水星の星座が象徴する”知恵”と重なる。

Hermes-Mercury

ヘルメス・マーキュリー
天体では水星を象徴し、そのアンクに似た象徴は水星を意味する。
母なる月の半月形とアンクの組み合わせ。水星は、知恵の星とされる。

*キヅタ ウコギ科キヅタ属(ヘデラ属)Hedera のつる植物。北アフリカ、ヨーロッパ、アジアに広く分布し、ひっくるめて1種とされた、10種ほどに分類されたりする。日本にもキヅタが自生する。常緑低木で多数の気根を出し,他の物体(樹木,岩石)などに吸着してよじのぼる。キヅタは常緑で、ローマでは、永遠の友情や愛,または霊魂の不滅や永遠の生の象徴として,結婚式や葬儀にも用いられていた。
引用元同上



●天狗怖し
叡山常行堂の念仏会では、正面の阿弥陀如来の前では法式どおりの念仏を行うが、驚くべきことに堂の後戸では、僧が跳ね飛んだり不規則な読経をするのである。これを「天狗怖し」と呼ぶ。あたかも修行の際に現れる天狗に取り憑かれたような様を演じるのである。これは修行中のトランスにおける宗教的リアリティーであった。その様を借りた裏手の妖しいざわめき、と表の端正な読経の相乗効果により、念仏会の霊験が高められたのである。摩多羅神はこの後戸の神であった

叡山に天狗が多いとされて、仏法を学ぶものの邪魔をしたのでこれを退散させようとしたか?


●宿神・石神
摩多羅神は宿神でもある。宿神(しゅく・じん)とは漂泊者そのものでもあり、来訪する精霊でもある。姿は巨石、蛇、双胴、人面獣身などなどさまざまだが、シャクジンつまり石神ともいう。みしゃぐじーとも。要するに塞の神、荒神である。蘇民将来、牛頭などもこれに入ってしまう。漂泊者特有の駄洒落と混乱した知識からまぜこぜになる。


■摩怛哩  (密教辞典より)
    摩怛哩または忙怛哩とも書く。孔雀経に一個の夜叉神として摩怛哩夜叉住於施欲国と説けるもの、これ摩怛哩神の起源なるべし。而も梵語の摩怛哩は母の義にして七母女天等をまた摩怛哩と称す。七巻理趣経云、於其中間 書摩賀哥羅(まはーかーら 大黒)主 如作舞勢於其像外四方四隅 書八摩怛哩と。而して大黒天は七(又は八)母天女の首領なるが故に、忿怒相の大黒天を摩怛利神と称するに至る。叉疫病除滅のために修する却溫呪経法に於ては十一面観世音を本尊とし、或いは、此摩怛哩を本尊として、大日経真言蔵品に説ける炤摩七母の真言を用ふ。是れ却経に、有七鬼 常吐毒気以害萬姓 と説ける夢多難等の七鬼を、大日経に所謂炤摩の七母に結び付けたるに由る。大疏五には炤摩七母を七鬼と釋すれども、嬌末離等の七天女にして却溫経の七鬼と同じからず。摩怛哩を以て疫病消除のとすることは、元来此は疫病を作すなるが故に、其の害を蒙らざらんが爲に供養するなり。大日経三云、摩怛哩眞言 能作衆生疾疫災癘 と。同疏十一云 叉有忙怛哩天 自有眞言能爲一切人作大疾疫 と。叉忿怒大黒天は七母女天を率ゐ、暗陀迦と称する阿修羅と戦いて之を滅ぼしたりとの説話に由来せるか。(大日経疏・小折紙等)
  
イメージ 4

似た名前の摩多羅神(またらじん)と混同され、同一視されたようです。三面大黒天の御尊像が多いようです。
疫病防除の神。


混同されたと言うよりも、そもそも別々の所で偶然生まれてきた同じ意味を持つ神であるので、「宗派」の違い的な呼称の違いだけではあるまいか?






                 
摩多羅神が調伏した者とされた者の双方が混同されてできあがったように、それは習合と言える代物でなく、まさに混在、混乱、混同という、充分な密教知識、サンスクリット知識の乏しい人々による信仰であることを証明していることになる。ダキニが大黒天によって調伏された、あきらかな別神であるはずが、日本の常行三昧ではどちらもが摩多羅神であるとされてしまう。最も、そもそも中国の密教からしてそういうことは多い。それを取り込んでゆく日本では、さらに在地神が習合される。複雑化は増すばかりとなる。学問のない人々がその複雑な神々や仏をわかりやすくとらまえるには、混同はいたし方がない部分がある。聖徳太子をのちの弘法大師と(「たいし」「だいし」という音の類似だけで)混同した信仰=お大師信仰ができあがるし、薬師如来に女神ヤクシニーが混同し、あるいは少彦名=粟島神が混同。また慈悲事業に熱心だった藤原光明子の姿が薬師菩薩になったりした。いい加減なものである。


動画
平泉毛越寺常行堂延年
https://www.youtube.com/watch?v=PKn5VozFw5E
摩多羅神延年舞(中国語版・英語字幕表示可能、画面右下字幕ボタン有り)
https://youtu.be/u-TVjbE4P9M





カーリングは時間がかかってしょうがない。熱中してしまう。
なんで弱いアメリカに日本は弱いのか?
イメージ 5
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U




辟邪神 日本原始信仰最大・最強・最崇の「絶対神」はアマテラスなどではない

$
0
0


祟りや疫病や災害をもたらす神を往古人は邪神(じゃしん)と呼んだ。それを信仰することを「邪教 じゃきょう」と呼んできた。しかし、それは間違いである。それはあるひとつの信仰を正しいとせねばならない側の人間から観た一方通行の正邪の押し付けであり、その神はむしろ「異神 いじん」「異教 いきょう」と呼ぶべきである。
あるいは「魏志」にはそれは「鬼道 きどう」とも書かれている。道教から観て、それがひとつ古い形の神仙思想の代物だったために、自分達の「宗教」がその古い「信仰」から派生したことを消すために、あえて区別してそう書いたのだ。多くはシャーマニズム、かんなぎたちが信じてきた、本道の成文化した正道宗教よりも数千倍の遠大な時間、それは信じられてきた原始信仰である。日本では平安の時代になってもまだ御霊とか祇園として、新参信仰の陰陽道(実はこれもまた道教では邪教である)によって調伏されねばならぬ存在であり続けた。




御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死、謀略によって暗殺死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のことである。

=祇園信仰
=祟り神(たたりがみ)
=疫病神
=牛頭天皇(スサノヲ・蘇民将来)
=宿曜教で黄幡(おうばん)神
=宿神
=ミシャグヂー
=五郎の神 など
=エジプトでアヌビス神=死者の肉体を食べに来る神
=死神



御霊の音が似ているために「五郎(ごろう)」の名を冠したものも多く見られ、鎌倉権五郎神社や鹿児島県大隅半島から宮崎県南部にみられるやごろうどん祭りなどの例が挙げられる。

全国にある五郎塚などと称する塚(五輪塔や石などで塚が築いてある場合)は、御霊塚の転訛であるとされている。これも御霊信仰の一つである。

柳田國男は、曾我兄弟の墓が各地に散在している点について「御霊の墓が曾我物語の伝播によって曾我五郎の墓になったのではないか」という説を出している。
天皇は中世には祇園の御輿御所近くを通る際にはその怨霊を恐れて方違を行う慣例があった 。これは「祇園会方違」、「御霊会御方違行幸」、「方違行幸」などと言われ、特定の呼称はなかった 。ただし、この方違は単に激しい雑踏を避けるためのものであったとの異説もある 。

谷川健一著『祭りとしての安保』によれば、60年のデモは祝祭であり樺美智子の死は祭りの際の生贄で(但し、儀式としての葬式はデモ主催者によって却下されている)、その後の岸内閣の総辞職は時の為政者が御霊を恐れたためという。
Wiki御霊信仰 (検索に「祟りなす神や疫病をなす神を信仰したこと」と入れるとこれが出る。つまり特にそういうものを総括した用語は今のところ宗教用語にはないようだ)

そこで筆者はそれらを総括してこう呼ぶことにしている。

              辟邪信仰
へきじゃしんこう

辟邪神




ゆえなくも死した者、氏族は祟りなすという一般信仰とは真逆の思想は、かつて学者・宗教者によっては「ありえない」「平安時代以降の風習」「怨霊である」などとほとんどの学説が古代史の通念にはまだ存在しないとされていた。その開始は菅原道真左遷後に藤原四家がことごとに突然死や病死したという記録が最初であるとされてきたのであるが、実は記紀にもそれらしき祟りなす怨霊らしきものは登場しており、もっと以前からあったどころか、むしろ世界中でとうの大昔からそうした祟りを恐れる風習はあったといわざるを得ない。

いや、唯一絶対神が中世直前になって考え付かれる以前の多神教時代には、むしろ善行をなす神々よりも「自然神」つまり災害神こそが最大の関心事だったのであり、災害こそが祟りなのであった。日本の神々でも実は祟り神や災厄神のほうが多く祀られているのであって、記紀成立以降にそれが記紀の神々に変えられた、上から覆いかぶさって元々の古い神々は消されたということになる。



イメージ 1
王の肉体を食うアヌビス神



古代エジプトでは、誰もが死後の生命を信じていた。死後の世界は、死者の社会的地位によって異なるが、誰もが死後の生活に必要な道具を用意した。これらの道具の大半は家具調度品で、化粧道具、玩具、楽器、武器も墓から出土されている。また死者に対して食物を供え続けることが必要だった。墓によっては、穀物や魚、肉、菓子、果物、ブドヴ酒などの料理が、柩の近くに供えられた。この他に、さまざまな種類の供物品目を記した石碑を墓の中に置くことによって、実際の食物にはない呪力が与えられた。

古代エジプト人は死後も生命を保ち、永遠に生き続けるが、そのためには墓に供物が捧げられる必要があった。そして死者の魂はこれを得るために定期的に墓に戻ってきた。


このように死者が死後も食物を食べられるようになるには、遺体を出来るだけ完全に保存することが必要とされた。これがいわゆるミイラを作る目的であり、葬儀準備に欠かせないものであった。ミイラ作りは、初期の時代には自然乾燥にまかせていたが、建築技術が進んでマスタバといわれるレンガ製の陵が作られると、遺体の乾燥が抑えられて腐敗するようになった。そこでエジプト人は、遺体保存の技術を必要とするようになったのである。



日本の「常陸国風土記」行方郡「夜刀の神」条にも土着の神が新しくやってきた国司が信じる神の名の元に「神やらい」された話があるが、西欧のケルト伝説、ローマ帝国が書いた「ガリア戦記」にもまったくそっくりな話がある。観念の、古代から中世への切り替わりを意味する寓話であり、ここからいわゆる国家の神が地方の神を追いやって、支配をしてゆくという指針になる話として、東西世界で共通に挿入されるのである。

イメージ 2
夜刀の神とそれを退治する箭括麻多智





シーザーがケルトや北欧を手に入れるために作り出した話もこれだった。根強い在地の原始信仰の神たちを、新しい支配者の神がそれにとって変わったという神話である。


一般の人間は、自分たちにとって幸をもたらしてくれる神だから立派な神社に祀られている、神とはそういう正、ハレのイメージのものだと思っている。それが常識だと考えさせられている。それは言うならば氏子として生まれてきたときから、神社を通じて知らずに刷り込まれる国家からのマインド・コントロールだと言える。例えば天照大神は日本の国土神で八百(やおろず)の神々の最高の位置にいる女神だと思わされる。古い地縁的社会ほど、そういう傾向が強い。もちろんそれは先の大戦でおじいさん世代に刷り込まれたものであり、当時の植民地略奪戦争には都合のよい意図的な思想だ。しかし記紀で見ればアマテラスの上にはさらに五柱の国土創作神(造化三神など)が存在しているし、アマテラスは当初あくまでも巫女神でしかない。巫女神である限りは必ず鎮魂し、封じ込める相手の神がいるはずである。記紀はそれを弟神スサノヲとして出雲に代表させて登場させる。(崇神記では大和の大物主もまた巫女の鎮魂のために神婚している。この姫も言わばアマテラスをイメージしてあると言える)ところがこのスサノヲの方が実は現実の民衆の信仰を圧倒的に多く受けている。なぜならばそれが人間の実生活に多大な災害をもたらす災厄神だったからにほかならない。

ところが奇妙なことに、その方程式で言うならば、スサノヲに殺されたヤマタノオロチもまた、全国でとまではいわぬが少なくとも出雲や古志では祟らぬように祀られていてしかるべきであるのに、それがないのはなぜか?ここに答えられる研究者がいるだろうか?

ヤマタノオロチなどというものが存在しなかったからではないか?

それは氾濫する河や山鳴り、地すべりなどによる大災害の神格化であろうが、記紀がヤマタノオロチと表現するまで、その現象は災害神とか川の神として各地で名前付けされてきたはずである。それを例えば鬼とか魔物と呼んだとして、それを退治したもの、調伏したもの、管理できたものもまた鬼であり神であったと筆者は考えている。するとヤマタノオロチはスサノヲという祟り神によって殺されたわけであり、そのスサノヲは天孫にとっての祟り神だが、同時に民衆にとっては救いの神であるとともに、魔物を倒した魔物というややこしい観念に包み込まれることになるわけである。

実はアマテラスもまた太陽神として、あるときはあまねく地上を照らす母なる大地母であるが、あるときはスサノヲという暗雲にとまどいなやみ、岩戸の奥に神隠れしてこの世を暗黒にしてしまう日蝕=災害神でもあったのだ。ギリシア神話のゼウスが、さまざまな試練という名のいじわるを人間にして生け贄や供物を「せがんでいる」ように、原始の神とはもともとはそうした善悪両面性を持つ困り者、わがままなものだった。ゆえに前もって生け贄を捧げたのである。不遜な言い方だがそれは「神のえさ」だと言えるだろう。災害が人命を奪うものだからそうしたのである。もちろんそんなことで天災はおさまったりはしない。何万年もそう信じられていたのだ。それはシャーマンたちが引き継いできた迷信のたまものだった。教育がなかった時代だったからだ。シャーマニズムはまだ国王が政治・武力王でない時代まで、信仰を通じて民衆を統一していた巫王だったのである。そう、女王卑弥呼のように。

キリストが西欧社会の「宗教王=INRI」とされてから、わずかに2000年しか経っていない。仏陀が登場してからわずかに4000年である。つまりわれわれがそれが当然だと思わされている教義信仰の歴史はそんなものである。しかし原始信仰の時代は数万年間も続いてきた。民間ではそれはなかなか払拭されたはずがない。アマテラス信仰の歴史は実はわずかに天武・持統からの1300年ほどのものである。沖ノ島祭祀の考古学的考証でそれはあきらかである。伊勢神宮の歴史もたかだかそんなものである。神社信仰の様式も記紀以降に成立している。つまり神社と言う器は、遡っても天武を遡れず、それ以前は石や祠である。場所によってはそれもなくただの山や河や海である。原始宗教のほうが素晴らしいと思うことのひとつに、一神教がしきりに欲しがる人工の偶像が一切ないことがある。偶像とはつまり人間に模した仏像や神像のことだが、以前は動物の形で、次に半身半獣になり、やがて完全に人間の姿になる。次第に想像力が欠如していったのである。空想上の産物や自然のオブジェよりも、学問のない平民には神が人間の姿であるほうが理解されやすかった。これを神秘主義、ファンタジー、精霊信仰などとも言う。ケルト神話に登場する異界の人々、妖精、エルフなどのように空想の産物が自由に空想の翼をひろげていられた時代を「古代」といい、偶像が人間に近づいた時代を過渡期といい、ついには現実のモデルをもって人型になった時代を中世と呼んでもよかろうか。つまりそれは神を信じさせる側が狡猾になっていっただけのことである。子どものような着想でよかったものを大人が信じなくなっていったゆえである。言葉は悪いが、だますなら、より簡便な手法を選んだというだけのことである。(筆者には神の存在を信じさせる行為と巷間のサギとの違いは、ただ金や利益のあるなしでしかないと思える。)

イメージ 3
メイリックとスミス『ブリテン諸島土着民とその習俗』1815
中央下にドルイドが立っている
それは古代信仰と中世信仰の対峙である。つまりドルイドのごとき「教祖」の登場こそが、古代幻想信仰を中世教義信仰へ脱皮させてゆく過渡期の「宗教王」なのだろう。シャーマンでもなくそれは教祖であるところは現代のイスラムのカリフにも似る。イスラーム世界はいまだに宗教王であるカリフが同時に政治王なのだから、いまだに古代であると言えるだろう。



人類の信仰のはじまりは、そもそも宇宙、地球の気象現象への畏怖からだった。それは破壊者としての神が最初だったことを指し示している。ケルト文化のストーンヘンジで、中世から神に捧げる祭が始まっている。絵画として残されている。それによれば手前では五月祭のメイ・ポールを立てる春分の祭祀、向こう側ではヘンジにひっかけた大段幕に大蛇がうねる姿が描かれて、古代からの神=陰陽物=性行為による増殖と再生の象徴=蛇が同時に祀られている。つまりそれは信仰の過渡期が中世の初期だったことがわかるのである。




よくよく考えてみればすぐにわかることだが、人間にとってやさしい、助かる、尊敬すべき存在と、正反対に災害や病気や災厄をもたらす破壊者と、あなたはどちらを先に恐れ敬うだろうか?当然後者ではあるまいか?こんな簡単なことに学者たちは何百年も納得しなかった。権威主義と先達からの申し送りの感化のせいで、マインド・コントロールされたためである。その姿はあたかも、どこかの村長の既得権益にこびりつき、住民の意思を無視して辞職しないみっともなさにそっくりである。彼もそうだが、権威主義の祟りは3代続く。まるで植民地支配への怨念を3代経っても忘れないどこかの国家のようではないか。これらもいわば祟りなす魔物だと言える。心の奥のダークサイドだ。忘れることこそが心の平穏の最短距離である。それが消えないのは指導者がダメ人間だからであろう。





イメージ 5
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

多胡碑と竹取かぐや媛  蓋首截頭四角錐台のこと

$
0
0

春雨が続くのでせんかたない。
暇つぶしのテレビも面白くもない。
かと言って、しんどい作業になる摩多羅神その2にとりかかる気にもなれない。
ちょっと気分転換記事を書くことにするか・・・。



イメージ 8






多胡碑とかぐや姫の不思議な関係



イメージ 1




多胡碑(たごひ)は、群馬県高崎市吉井町池字御門にある古碑(金石文)であり、国の特別史跡に指定されている。山ノ上碑、金井沢碑とともに「上野三碑」[1]と総称される。また、書道史の上から、那須国造碑、多賀城碑と並ぶ日本三大古碑の一つとされる。建碑は、その内容から8世紀後半とされる。

●1 碑形


イメージ 3
中国・西安陵墓『乾陵』石碑



唐代石碑様式の碑形である「蓋首 截頭 四角錐台(蓋石とも)」である。
「がいしゅ・さいとう・しかくすいだい」は碑石を四角に切り出し、頂上を四角の切り口のまま、首元が四角錐に、つまり台形になるように削られた基礎石に、四角い蓋石(笠石)を乗せた様式で、日本では奈良時代和銅の頃の墓誌にいくつか採用されている例がある。

イメージ 7

対して多賀城碑の様式は首元を丸く削り蓋石を乗せてある「円首えんしゅ」形式である。
 明治大学 小笠原好彦 「日本古代の墓誌」を参考に編集

ネット上には石碑の金石文の書体などについては諸研究があるが、碑形については全くないため、あえて書いた。また、筆者の知己に、この碑形をペルシア紀元でギリシアのヘレニズム文化で花開いた「エンタシス」と捉えている人がいるので、あえて、これが唐様式の四角錐形であることを書いておきたい。エンタシスは柱の中腹やや下段部分をふくらませて強度を強めるが、多胡碑は碑胴部はあくまで直線的に切ってあり、首元からのみ削ってあり、あきらかに様式は別であることを書き加えておく。

●2 金石文
さて、碑文であるが、以下のように彫られている。

弁官符上野國片罡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

弁官局からの命令 上野国の片岡郡・緑野郡・甘
良郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に
支配を任せる 郡の名前は多胡郡とせよ これは和銅4年3月9日甲寅
に宣べられた 左中弁・正五位下多治比真人
太政官・二品穂積親王、左太臣・正二位石上尊、右太臣・正二位藤原尊

●3 材質
同時代の金石文に比して文字の大きさが非常に大きいのが特徴で、素材は、表面は風化しやすい砂岩条安山岩(牛伏砂岩)であるが、内部の基層は固い花崗岩質の安山岩であり、耐久性は高い素材である。表面がやわらかいゆえに大きな文字を刻む必要があったとこれまでは考えられてきたが、そうとは限らないかも知れない。

●4 概要
碑身は高さ125センチメートル、幅60センチメートルの角柱で6行80文字の楷書が丸底彫り(薬研彫りとされてきたが、近年丸底彫りであることが判明した)で刻まれている。笠石は高さ25センチメートル、軒幅88センチメートルの方形造りである。台石には「國」の字が刻まれていると言われるが、コンクリートにより補修されているため、現在確認できない。材質は近隣で産出される牛伏砂岩であり、地元では天引石、多胡石と呼ばれている。

文字は一辺が平均7~9センチと大振りである。これは多賀城碑などと同様に、在地で石碑を作ったであろう「羊」なる人物が、奈良朝廷から領地を頂戴できたことを顕彰して自ら刻ませたものであろうから、あえて見るものに碑文が迫ってくるように、大きくしたのではないかと平川南は推定している(『出土文字に新しい古代史を求めて』2014)




● 5文章各論
1 羊
これが果たして人物かどうかだが、多胡の土地を「給す」とあって、まずは人でなければなるまいが?奇妙な「羊」という名についてはさまざまな憶測があるが、地元伝承にある「羊大夫 ひつじだゆう」なる空想上の?人物があり、おそらくこの人かというのが有力なのだが、「給羊」を「羊に給う」ではなく、漢文の読みどおりに「羊を給う」であるなら、土地を与えて羊を飼わせただけになってしまう。定説の読み方でも解釈次第では、「土地を家畜の羊用に郡衙に与えた」とも解釈できる。だとすれば多胡碑は酪羊牧畜発祥の碑となるから面白い。朝廷でジンギスカンパーティでもやる気だったのか?タジヒさん。(多治比氏)ユダヤ人も羊は大好きだが。
羊が人名ではない説は捨てきれない。

しかし多胡碑は現在「御門」という地名に所在するが、この地名は政令を意味する事から「郡衙(ぐんが)」が置かれた場所だと推定されている。郡衙とは郡の役所の事である。多胡碑と性格が類似する多賀城碑が多賀城南門の傍らに建っていた事から、多胡碑も多胡郡衙正門付近、つまり建碑当初からこの地に存在した可能性が高いと考えられている。

8世紀後半に建碑されたと考えられる多胡碑だが、9世紀後半頃からの郡衙の衰退、その後の律令制の崩壊と共に、多胡碑も時代の闇の彼方に消え去った。とWiki多胡碑にある。つまりこの地の郡衙として羊なるものが就任した、その顕彰碑と考えるのが最良かと思えるのだが?しかしながら定説の漢文読みにはかなり疑問があるままだ。


●7 羊大夫とは?
名前については、多胡(藤原)羊太夫宗勝、小幡羊太夫とも表記されることがある。『羊太夫伝説』では、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市または本庄市)で和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅塊を発見し朝廷に献上した功績で、多胡郡の郡司とともに藤原氏の姓も下賜されたと伝承される。この和銅発見により、年号が慶雲から和銅に改められたとされる(続日本紀卷四。ただし、実際の発見者と羊太夫が同一であることは証明しきれない。)

上州小幡氏が多胡羊太夫の子孫と称する。現代でも群馬県高崎市及び安中市の多胡氏を羊太夫の流れを汲むとする説もある。(群馬県安中市中野谷の羊神社由来)
以下はWiki羊大夫に譲る。




羊太夫伝説はどうも「給う羊」の深読みしすぎからの空想物語だろう。それと小幡氏ならばそれは宇治の木幡地名の氏族なので考えうるのは木地師の頭領かあるいは古くから巨椋池にいただろう秦氏出身者とも考えが及ぶ。羊を食べたとするならチーズも作るだろうし、乳酒も作るから、広く遊牧系の渡来人じゃああろまいか?醍醐天皇は酪から蘇を作りなめなめしていたというので、うまい味のことを醍醐味などというわけだが、なるほど秦人らがチーズを作った可能性はあるなあ・・・。スキタイやモンゴル系なら羊は常食だ。となると多胡は日本最初の酪農だけじゃなく、チーズ発祥の地でもあるか?これはすごい。柴又の寅さんもよく言っていた「はい、バタ~~~」






イメージ 6


ここでは従者だった八束脛同様に問題にしない。これらはすでに以前ここで検証した覚えがあるので検索されたし。

ただ北海道に羊蹄山という山があり、それとのかねあいを考察されたネット管理者もおられるとだけ書いておく。
連想ゲームで解く多胡碑の謎http://www.geocities.jp/yasuko8787/80327.htm


●8 多胡地名
これは明確に渡来系工人らがここに多く入れられたゆえの地名であろう。胡とは広く外国人を指す文字になる。上野国西部は吉井窯などの渡来系窯業の痕跡が多い。そもそも北関東全域は非常に朝鮮系渡来の多く入っていた土地柄である。それは多くは朝廷を経由しない単独亡命者だったと考えられ、工人・芸能者らが中心である。その点は、中央が敗北した百済王家や高句麗王家縁者を正規に受け入れて分散居住させた歴史とは、あきらかに違った事情で増加したのだろう。その証拠は万葉集に異常に多い東歌の数や、先の窯跡の多さ、さらには繊維産業や焼き物、その他技術による産物の木簡の多さ、あるいはまた漢文の模写による手習い文字のある木簡の多さなどから、彼らが日本語や万葉文字表記に非常に熱心に取り組んでいた姿勢が見えることからも、単騎来訪者が中央に教えられるわけでなく必死に習得して和風に溶け込もうとしたのだと見えるからである。

イメージ 2

「日本列島に石碑が立ち始めるのはだいたい7世紀頃からである。それ以後、9世紀前半までの間に現在知られているかぎりでは26基が建てられ、17基が現存している。」(同上 平川)
羊なる人物はその渡来人たちの頭領的人物だっただろう。

また、多胡には多くの蝦夷俘囚も入れられた記録があり、地名にも俘囚郷が碓氷郡など三郡にある。蝦夷の技術もまた匠としてすでに優秀であり、簡易製鉄などにも秀でていたことは明白である。彼らは渡来工人たちと和合して、さらに職人技術を盛んにした結果、北関東や東京都の隅田川周辺に今でも多くの中小手工業や繊維産業、あるいは埼玉の印刷業などの職能集中地を生み出したと想像できる。養蚕については南関東の神奈川の港へとそれらが搬出され、ここから海外へも流出していったと記録がある。関東の物流はすでに当時から、できあがっていたわけである。



● 飛躍論
さて、この項で問題なのは、碑文最後にある中央官人たちの名である。

左中弁・正五位下多治比真人
太政官・二品穂積親王、左太臣・正二位石上尊、右太臣・正二位藤原尊

実在の人物であるが、気になるのは、どうもこの名前の一群に聞き覚えがある。
そのことをネット友も鋭く指摘しており、それはもしや「竹取物語」に登場していた五人の結婚相手の本当の名前ではないか?というのである。



「ところで、前回の記事の 「多胡碑」 の碑文には、(左中弁正5位下)多治比真人、(太政官2品)穂積親王、(左太臣正2位)石上尊、(右太臣正2位)藤原尊、という4人の名が記されてあって、その4人の名は、『竹取物語』 の登場人物の名と同じ、或いは、連想させる名です。

石上尊 = 石上麻呂、多治比真人 = 石作皇子(多治比嶋)、藤原尊 = 車持皇子(藤原不比等)。

穂積親王 については、【暗号「山上憶良」】 に、その妻が大伴坂上郎女だと書かれてあり、『竹取物語』 では、大伴御行 という名の人が登場しています。

「多胡碑」 の碑文と、『竹取物語』 が、同じ時代背景を持ってつくられていて、それらの名は、その時代に、とかくありがちな名であった ~ ~ というようなことがあるのかもしれない、という風にも思いますが、何と言うか・・・・その時代に於いて、富士山と言えばかぐや姫、又、多胡碑と言えば富士山、という、そういう観念のようなものが存在していたのではないか という、そういう想像が、今、私の頭の中にはあるのです。」
重陽の節句を祝う かぐや姫と富士山 http://blogs.yahoo.co.jp/mizunoene17/46084103.html?type=folderlist


なかなか鋭い視点ではないか。
かぐや姫のお話では、求婚者たちにさまざまの難題を吹きかけていく、いわば求婚謝絶ノウハウ書のようなところがあるが、その中のひとつに、なぜか突然、東国の富士山まで行く話が出てくる。


帝は ー ー大臣や上達部を呼び 「どの山が天に近いか」 と尋ねると、ある人が 駿河の国 にあるという山だと言うのを聞き ー ー かぐや姫 からの不死の薬と手紙を、壺も添えて使者に渡し、つき(調)の岩笠 という人(月世界への思いを表現する仕事に相応しい氏)を召して、それらを駿河国にある日本で一番高い山で焼くように命じた。

その由緒を謹んで受け、「士(つわもの)らを大勢連れて不死薬を焼きに山へ登った」ことから、その山を「富士の山(士に富む山)」と名づけた(不死の薬を燃やしたから「不死の山」だろう、という読者の予想の裏をかいている)。 その煙は今も雲の中に立ち昇っていると言い伝えられている。また、その時に山頂に積もっていた雪が決して溶けることがなくなった(万年雪)ともいう。


富士山には大山積の娘である木花咲耶姫が祭られているわけだが、古代の記録にはなぜかこの名山が全然出てこず、平安になってようやく和歌などで山ほど登場し始める。古代で山といえば『隋書』の阿蘇山、記紀ヤマトタケルの伊吹山・筑波山くらいのもので、東日本のことはまず記録がない。それは奈良朝廷の東国開発の遅れのせいだろうから納得できるが、富士山にはすでにこの極めて九州出身、四国経由の山の女神が祭られているわけで、その担い手は南九州海人族だろうとすでに書いてきた。つまり竹を持ち込む人々だった大隅隼人のことだ。それが鹿児島の霧島山から瀬戸内海大三島で大山積を祀っている。彼らは尾張氏と非常に深く関わったらしい。その尾張氏は日本海側と関東まで勢力を伸ばしている・・・。そういう考察から、富士山に木花咲耶姫も祭られたのだろう・・・という考察であった。

ところが渡来人であろう羊の多胡碑には、その竹取の求婚者の名前があり、彼らが実在していた中央官人であり、さらにどうも時の権力者だった藤原不比等に関わる氏族たちではないかと。

車持君というのはあきらかに群馬県にいた氏族で藤原不比等の母親の出身氏族でもある。「くるま」がなまって「ぐんま」になったのは間違いあるまい。車持とは名前のとおり貴人・王族の乗る牛車の舵をとる名誉ある氏族である。群馬県の綿貫観音山などの豪華な古墳群のことはすでに考察しているが、どうも出土物の埴輪などが「これは紀氏ではないか?」と感じさせているのだが、その中央紀氏と隼人に関わるのが京都南部の竹の名産地綴喜郡だった。関西以東以北へ、自分では種を飛ばさない南方系植物の竹が、どうやって日本各地に広がるかというと、どうも彼らが竹製品を作る名人だったことから、隼人や紀氏などの海人系氏族の手になったのだと筆者は推定しているわけだ。

すると駿河の富士山の情報も、彼らによって中央へ聞こえていただろうとなる。




ところが富士山の駿河周辺がまた渡来系のオンドル式のある遺跡なんぞが山ほど出る土地柄で、大生部の多などというどうも渡来部民が記録に出てくる。そもそも富士山や浅間山などの高山がここに多いのは、伊豆半島の仕業である。インド亜大陸の衝突でヒマラヤが隆起した事件のミニチュア版衝突劇が大昔にあったわけだが、すると伊豆半島にはもともと南洋系の植物が繁茂しており、それが富士山界隈でも繁茂したわけであろう。伊豆名産の明日葉なんぞといううまい野草もそういうことである。小笠原に竹が自生していたかどうかは知らないが、少なくとも黒曜石は縄文時代から東京湾周辺の遺跡から出る。つまり交流はあったのだ。

そこへ南から隼人やらが舟でやってくると、蝦夷はいるわ、渡来は来るわ、海人族はくるわで人種の坩堝となるわけだ。みんな貴族・豪族などではなく部民である。これが北関東職人文化の大元になったわけだ。どうしたって東国は中央からは僻遠で、あまり相手にされない。だからなんとかしたい。そういう中から平将門、藤原秀郷などの豪傑も出るわけである。当然、振り向いてくれない長い時間への焦燥感はつのるだろうから、アイロニーに富んだ『竹取』が書かれる歴史的風土は充分あるわけだ。富士山なら日本一空に近い場所で、星や月にも行けそうだ。かぐや姫が天上界へ帰るならまずは富士山のてっぺんから・・・。となるわけだ。


ところで話は違うが、地元静岡県では、富士山の中腹には「かぐや姫」なる場所があるんだと・・・





これは知らなかった。ケルトには大地に巨大な白馬を描いた場所があるが、ちょうど駒ケ岳の残雪が馬の形になるのによく似ていたりするのだが、これはまさに富士山が作り出した偶然の造形。しかし、往古の人も知っていたとすれば・・・。
南こうせつが結婚してすぐ新居をここに構えたことがる。もしかするとここにかぐやがいたからか?!


話を元に戻そう。
平安時代には関東や東北や南九州もだいたい帰順が済んでいて、どこも蓬莱世界にはふさわしいまだ未知の土地で、ファンタジーの舞台にふさわしい。今で言うならまだ行ったことがない新しいエキゾチックな観光地といったところだろう。あの山が少ない中国人旅行者も富士山には登りたがるのだから、相当魅力的だったはずである。

江戸の人々は、富士山講なんぞを考え付いて、西はお伊勢さん参り、地元じゃあ富士山詣で、あるいは高尾山詣でなんぞに興じたのだが、必ず出発の前に今の築地あたりの大山に参り、隅田川と荒川の合流する三角州で体を洗って精進潔斎してから出かけるのが習慣だった。だいたい古代から三角形に突き出した地形はそういう聖地になってきた。中央から見れば東国はまだまだ埒の外の「げこく」なわけで、そんなには知識はないが、さすがに美保の松原、田子の浦、富士山などは話に聞いて知っていたはず。万葉歌人なんかはそこまで行かずに和歌を詠んでいるような怠け者が多いが、左遷されたり、旅行趣味のものはそこまで行ってしまうから旅行ガイドみたいなものである。それを和歌にして、宮中ひまじんたちは空想の翼を大いに広げたのだろう。なにしろ税さえちゃんとくれるなら、あとは政治なんかほったらかしの時代である。和歌をグラビア代わりにして遊んでいる。それを竹取作者は皮肉っているのである。

筆者は以前、竹取作者は紀貫之ではないかと推定している。紀氏は東国へも部民が行っているので、知識は充分だし、紀氏自身が飛鳥・奈良時代から大伴氏同様、中央政界では不遇である。かつては大王家の宰相にも匹敵した葛城氏族だから知識や教養や地理には詳しい。文才、筆才のインテリをたくさん出している。当然、駿河方面にも知識がある。四国では既得権益で大もうけして私腹も肥やしたのが貫之である。これは記録にちゃんと、土佐帰りには海賊が恐ろしいと言ってびびりあがっていると書いてあるから間違いない。その金で余生は旅三昧して、言いたい放題小説にしてしまえ・・・は充分にある。だから竹取物語の作者は匿名である。それに貫之は多胡碑より100年ばかり下がる時代の人なので、充分に多胡碑の内容を知ることもできたし、藤原氏によって土佐へ左遷されたから動機は充分である。そもそも彼は女性のふりをして土佐日記をものするほど、そういう気があるような人だから、恨みの心も強そうだし。

面白い。いや、作者が羊だったとしても面白いし、彼が関東藤原氏を名乗ったとすればなお面白い。中央四家には心ならずもうらみもあったことだろう。それに羊の蹄が名前になっている羊蹄山と富士山と浅間山の▲地帯も面白い。羊が秦氏だったらなお面白かろう。

騎馬で奈良と多胡を瞬時に往復できたとか、八束脛はそれを走って追いかけることができたとかは、宮崎の高千穂の韋駄天鬼八を思い出させて面白い。これは多氏の伝説なので、駿河の多氏である大生部も当然からむことになるからますます面白く、そこに秦河勝が常世の神を怒って拳骨飛ばしてきたとなれば、もうできすぎたサイエンスフィクションである。あたかも落語の「頭山」のサクラである。『竹取』もよくできたブラック・SFだからちょうどよい。

かぐや姫という名前の姫はちゃんと記紀に存在する。確か天皇の妃か親族である。その「かぐや」という名前だが「籠や」か?「芳しい」か?「輝かしい」か?はよくは知らない。おそらく「かがやくような」なのだろう。迦具夜比売命と書く。大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)。大筒木=竹だからこれは京都の続き軍八幡市木津の王である。その娘だから竹取のモデルにうってつけ。息長氏の系譜。弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がおり、竹取の翁の名「讃岐造」(さぬきのみやつこ)を連想させるが、翁は紀氏だろう。「大筒木のたりね」とはまったく竹の根っこを地上に増やしたという名前なので想像上の人だろう。

「かぐ」の語源を遡っていくと「かか」=赤い、輝く、さらに「Kakura]まで行ける。カクラはサンスクリットのカルラでガルーダのことである。神鳥で翼がある。転じて日本ではカクラは天狗のこと。



楽しい妄想で気分転換できた。ヒントに感謝。


イメージ 5

インターネット活動を維持できなくなったためブログやめます

$
0
0

資金の欠乏でインターネット活動を維持できなくなったためブログやめます

このブログは今月いっぱいで削除します。

以上 

富士山大爆発

$
0
0

富士山の爆発は過去数回起きている。
中でも、万葉和歌の世界に富士山や東国の景勝地が頻繁に登場してきた画期には、奈良時代のある百年間の天変地異が大いに関与した。


九世紀。

古代史上もっとも天変地異が起きた年である。


五月・・・廿六日癸未 陸奧國地大震動 流光如晝隱映 頃之 人民叫呼 伏不能起 或屋仆壓死 或地裂埋殪 馬牛駭奔 或相昇踏 城(郭)倉庫 門櫓墻壁 頽落顛覆 不知其數 海口哮吼 聲似雷霆 驚濤涌潮 泝漲長 忽至城下 去海數十百里 浩々不辨其涯諸 原野道路 惣爲滄溟 乘船不遑 登山難及 溺死者千許 資産苗稼 殆無孑遺焉


いわゆる貞観の大地震である。これによって多賀城が大被害を受け何度も改修された。


850年11月23日(11月27日)(嘉祥3年10月16日) -出羽国地震、M7 863年7月6日(貞観5年6月17日) - 越中越後地震 864年7月 - 富士山貞観大噴火(2年間) 864年11月 - 阿蘇山噴火 867年3月(貞観9年1月) - 鶴見岳(大分県)噴火 867年6月 - 阿蘇山噴火 868年7月30日(8月3日)(貞観10年7月8日) - 播磨・山城地震、M7、山崎断層か。
  • 869年1月(貞観10年閏12月) - 摂津地震(7月30日の余震が続いていた)
869年7月13日(貞観11年5月26日) - 貞観地震 869年8月29日(貞観11年7月14日) - 肥後台風被害。同時に津波が襲った可能性あり。 871年5月(貞観13年4月) - 鳥海山(山形県・秋田県)噴火 874年3月25日(貞観16年3月4日)、仁和元年(885年)7月、同8月 - 開聞岳(鹿児島県)が大噴火。 878年10月28日(11月1日)(元慶2年9月29日) - 相模・武蔵地震、M 7.4 880年11月19日(11月23日)(元慶4年10月14日) - 出雲で地震、M 7 887年8月26日(仁和3年7月30日)- 仁和地震南海トラフ巨大地震?)、M8.0〜8.5 893年 - 国外の白頭山噴火にともない北日本東北地方北海道)に降灰。

以上『日本三代実録』から編修されているWiki貞観地震などの9世紀の災害記録


イメージ 1


富士山に限れば、まず800年に噴火は始まっている。三月十四日から四月十八日の約一ヶ月間それは続いた。昼は噴煙によって周囲は暗黒に、夜は昼間のように噴煙があかあかと照らし出し、噴火は雷音をたてて人々を恐怖の底に陥れた。火山灰は雨のごとく降り続き、溶岩流は眼下の川を血の色に染めつくした。

802年、正月再び噴火。昼夜を問わず砂礫と灰があられのように地上に降り注いだ。

864~865年 再び大噴火。

当時の噴火が生み出したのがほぼ今の富士山の原型になった。


昨日のかぐや姫記事で書いた富士山の中腹にあるかぐや姫の雪渓は、当時からだった可能性がある。さらに、このことは奈良の朝廷へ逐一通報があり、そのつどの朝廷の対応もちゃんと記事に残されている。

この大災害以降、和歌の世界で富士山や多賀城、あるいは宮城の「末の松山」などの地名が頻出しはじめる。そして日本各地にできはじめていた顕彰碑造営がストップしている。

そもそも顕彰碑などの記念石碑を建立する風習は日本にはなかった。古墳の墓誌すらなかった。それを持ち込むのは東国・東北の渡来人である。石碑建立の風習の大本は中国にあり、朝鮮にもかなりあった。しかし日本には彼らがやってくる7世紀後半には皆無である。


全国に残された石碑分布図

イメージ 2




本で今繰り返される「9世紀の天変地異」を専門家が指摘














 甚大な被害を及ぼした東日本大震災だが、ここ10年くらいを見てみると、日本各地でいろいろな災害が起こっているのがわかる。ある専門家は歴史や遺跡などから考察し、過去にも同じように天変地異が続いたことが日本にはあったことを指摘する。

 宮城県多賀城市にある東北学院大学工学部の教授、河野幸夫さんは『歴史としての東日本大震災』(刀水書房)の共同執筆者。水理学が専門で、水撃圧による配管破断を研究し、津波に関心をもつようになった。

 その研究はかなりアクティブだ。海底遺跡を調査するため、50歳手前でダイビングの免許を取得した。

「オーストラリアのケアンズのサメがうじゃうじゃいる海で特訓をしました。松島湾では14年間で100回ほど潜っています。最初は小さな船で行き、スキンダイビングで死ぬ思いをしました。いつもこれが最後だと思って潜っています。私の研究室の学生は、みな潜りますよ」

 かつて松島湾南方約10キロほどの地点に大根(おおね)島があり、貞観(じょうがん)
地震(869年)で海底に沈んだとされる。

「ダイビングを重ね、水深10メートルから15メートルの地点で、明神の祠を二つ発見しました。階段のような遺跡、木の化石もあった。貞観地震で島が沈んだことはまぎれもない事実です」

 河野さんは仙台平野の掘削調査や炭素測定も行い、地震の痕跡を調べてもいる。日本経済新聞に寄稿した「海底遺跡が語る貞観地震」(2011年8月16日付)に書いている。

「自ら確かめた海底遺跡、地層と古文書の記述を突き合わせると、現代の地震・津波との強い関連性が見えてくる。日本列島では今、まさに9世紀に起きた天変地異が繰り返されている」

 2000年以降に起きた三宅島の噴火、中越地震、岩手・宮城内陸地震、そして東日本大震災……。

「9世紀に発生して今世紀に起きていないのは富士山や鳥海山の噴火ぐらいだ」

週刊朝日 2013年4月19日号






今、再び日本列島が動き始めている。
世界各地のリングオブファイアー上の火山たちが鳴動し、大地震と津波が勃発。この傾向はあと百年間続くと見てよいだろう。

つまり地殻変動の時代、「イベント」が始まったのだ。

そこに危険な施設が放置されたまま、いよいよこの大変動期はメインエベントを迎える。阿鼻叫喚と氾濫の時代である。



なのに、あなたがたはまだ、都心に働き、きわめてあやうい地盤の上に、砂上の楼閣のごときちんけな我が家で眠り、毎日毎晩を、剣のやいばの上を綱渡りするごとくに、それが正しい人生だと思い込み、貧相で、不勉強で、危機感の皆無な、ミゼラブルな幸福に安穏とし、なにも危険なことはないと信じ込み、おのれの馬鹿さ加減を棚に上げ、不安をごまかし、岩屋戸の後戸の闇に隠しこんで生きている。まるでスサノヲの暴走に恐れ戦くアマテラスのごとくに扉の奥に逃げ込んでいる。



そのまま後戸へ隠れておればいい。



防空壕にでも隠れていろ。





災害の神は、われわれ不遜なる人類の大半をそろそろ消してしまいたいと思い始めている。カタストロフィによって、その高慢で、鼻持ちならない無知な脳溝と、これまた貧弱で、さわるだけで折れてしまいそうなガラスの肉体とを、更新する時期が近づいたのだ。





イメージ 3



われわれには祈るしかない。それは太古・古代からわれわれが少しも進化していないという証拠である。おまえもおれも、神々の足元にも及ばない未だサルでしかない。

それを忘れてはならない。為政者は。



イメージ 5
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U





聖徳太子と忍冬とカササギ その正体を探る1

$
0
0


イメージ 1

伝聖徳太子二王子像の王子ふたりのみづらには花飾りがさしてある。
いったいこの花はなにか?まずそれを探ってみる。


パルメット=忍冬唐草文

イメージ 2
■アンテミオン スイカズラ(正しい古訓だとカヅラであるはずだが)

 「「忍冬文(にんどう・もん)」 という名もあるが 、この植物(忍冬・スイカズラ)に宗教的なまでの意味が与えられたかどうかということがみえないのと、時代が下がるので、もはや、なんの植物からという意味合いはなくなっている様に見え、植物のスイカズラからということはあまり考えられなかったため、スイカズラの項目もたてていませんでした。

Anthemionが ギリシア語の花という意味のアントスから来たということで、あらためてスイカズラの花姿を見ると、つる植物で、花も園芸植物となってゴージャスにみえ、香りもあり、・・スイカズラというのもまずくはないようだ。
しかし、文様を、「パルメットまたはAnthemion」 とする紹介が多く、あまりパルメットから区別されていないようだ。

Anthemionの説明に、カッコで(ロータスとパルメットの連続したフリーズLotos-Palmettenfries)である、といった 紹介なのも、スイカズラという植物 自体はあまり重要視されていないようにみえるがどうだろう。※

Honeysuckle(ハニーサックル)は、Lonicera(ロニセラ)やスイカズラの同義語(異表記)。
 忍冬 :すいかずら、スイカズラ は Japanese honeysuckle
Wikipediaによれば、 「スイカズラ(吸い葛、学名:Lonicera japonica)はスイカズラ科スイカズラ属の常緑つる性木本。別名、ニンドウ(忍冬)。冬場を耐え忍ぶ事からこの名がついた。」こちらは蔓植物。
しかし英語版Wikipediaの方は低木のようである・・」


イメージ 3

イメージ 4
実際のスイカズラの花(赤)



「忍冬はスイカズラの漢名である。
 日本のスイカズラと文様としての忍冬は似ていない部分が多く、 飛鳥や白鳳時代に仏教美術を通じて現れる忍冬文様は、 現実の植物よりもはるかに流麗な姿をしている。

 忍冬文様の源流地は、遠く古代エジプトと言われる。それがシルクロードを通り、中国、朝鮮を経て日本に到達したのであろう、日本産の忍冬(スイカズラ)は、もともとデザインの原型になったものではない

普通忍冬文様と称されるものは、扇形に開いた花をつけたものを指す。
この花の扇形が誇張されるとパルメットに似てくるし、エジプトのロータスの花弁をやや丸くしたものにも似てくる。

 忍冬文様が実際の植物のスイカズラから出たかどうかは問題外で架空の吉祥蔓文様となって様々な花を咲かせては、別の名前を獲得していく。」
 「世界文様事典」(西川ハルオ)P32 
以上出展記事元 http://www.karakusamon.com/anthemion.html


イメージ 6

イメージ 11
復元執金剛神像の忍冬文(スイカズラとはかけはなれている)
蕨手文、唐草文、パルメットであふれている


忍冬唐草文
「主要な仏教系文様の一種。基本形は数枚の葉が扇状に広がった形であるが,その半截形も多く用いられた。忍冬はスイカズラ科の植物で,葉の一部が越冬するのでこの名がある。しかし,文様系統は,すいれんの側面形に聖樹椰子の葉などが加味されてできたものと考えられており (→パルメット ) ,正しくは忍冬ではないが,日本ではこの名が一般に用いられている。おなじみの冠に笏を持った姿は、飛鳥時代の人物の服装とは考えられていない。人物の冠、服装などの様式研究から、この絵の制作年代は早くとも8世紀(奈良時代)と考えられ、平安時代以降の模本とする説もある。」ことバンク




パルメット
palmette


イメージ 5

右パルメット=忍冬 左ロータス=蓮
美術用語。図式化した花弁または葉文が扇状に広がった模様をいう。シュロを意味する palmから派生した語。ギリシアではこの形をアンテミオン (忍冬〈スイカズラ〉) という。その原形は古代メソポタミアに始り,古代エジプトのロータス (ハスの花の文様) とともに,ギリシア時代に現今のような形式ができあがり,古代世界一帯に広く伝播した。

※パルメットがスイカズラの花の図案化というのが定説だが、実際の元花はスイカズラかどうかわからないというのが本音。アンテミオンつまりスイカズラの花と、パルメット模様の花形にはいささか隔たりがある。


イメージ 7


パルメットという言葉の語源はどうもPalm(ヤシ)の葉にあったようで、のちにこのデザインをスイカズラの花の後ろに広がったまるで光背のような花額部分の形状をヤシの葉と取り違え、そのままデザイン呼称としてきたのではないかと思える。ヤシの葉では唐草の土台にはふさわしくない。エジプトからギリシアへこの模様が伝播するさいに、おそらくギリシア人が身近な花=アントスだと勘違いし、そこからさらに他国で呼び名が似ていたアンテミス=スイカズラの光背花だと思い込んだ・・・結果的に本来はパームの葉だったものが、名前だけは残ってパルメットとなったが、模様そのものはスイカズラだとなってしまった。結果的にパルメット=スイカズラとして欧米では理解されてしまった・・・。のだろうと思う。


さて、日本には、これらのデザインはもちろんローマ帝国と大秦国の交易で伝わったものが、美術史の考察では飛鳥時代~白鳳・天平時代にやってきた。つまり太子と蘇我馬子の時代にはすでに来ていた模様だと思われている。しかし、火災にあって再建された飛鳥寺が、やがて法隆寺として再建(7世紀)されたが、その法隆寺がまた火災にみまわれて修復される。その修復前の伽藍がわずかだが基礎に残っており、そこに手彫りの忍冬唐草文が見つかっているのが日本最古の忍冬唐草だとするのならば、これでは聖徳太子の時代からあったことは証明できないことになる。玉虫厨子にもこれがあるらしいが、玉虫厨子も

「天平19年(747年)の『法隆寺資材帳』[2]には金堂に「宮殿像二具」があることを記し、そのうちの「一具金埿押出千仏像」と記載されているものが玉虫厨子にあたると推定されている。「押出」とは、薄い銅板を型に乗せて、槌で叩いて図柄を表した像のことである。鎌倉時代の『古今目録抄』には、「推古天皇御厨子」とあり、「玉虫厨子」という名称は鎌倉時代に遡る。制作年代は7世紀と推定されている。前述のようにもとは、法隆寺金堂に安置してあったが、現在は大宝蔵院に安置してある。」Wiki玉虫厨子

つまり厨子が太子の時代からあったとはどこにも記録はなく、玉虫厨子の名前は鎌倉時代になって初めて登場し、それが太子のおばである推古天皇の持ち物というのも、鎌倉時代の「鑑定」だったに過ぎない。少なくとも、この厨子が確かに日本に伝来したのは745年を遡れないのである。




ところが太子がモデルだとされている唐本御影(とうほんみえい・御物聖徳太子二王子像)には、スイカズラらしき花飾りをみづらにさした少年が描かれている。

この御影像は唐風衣装を身に着けているので「唐本」、太子だからこそ「御影」と名づけられたのであるが、残念ながら、これがまた太子の肖像だとは証明できない。それどころか、一説では天武天皇や百済の阿佐太子御影であると言われている。

「2人の王子は、右前方(向かって左)が弟の殖栗皇子、左後方(向かって右)が息子の山背大兄王とされる。
1982年、当時の東京大学史料編纂所長であった今枝愛真が聖徳太子とは関係の無い肖像ではないかとの説を唱えて話題になった。
制作時期は8世紀ごろとみられるが、中国で制作されたとする意見もあり、誰を描いたものかも含めて決着は着いていない。最近の教科書や歴史参考書等では、この画像を掲載する場合「伝・聖徳太子」と説明したものも多くなっている。」Wiki唐本御影

服飾史の見方では、着ている唐服が太子の時代のものではないとされ、描かれたのは8世紀頃かとされた。おなじみの笏(しゃく)も、かぶっている冠帽も、実は飛鳥時代にはなかったものばかりだ。

百歩譲って太子であるとして、ではスイカズラの花の髪飾りは来ていたかは問題になる。また手前の王子の髪飾りはどうやらスイカズラではなく不明な四弁花で、名前がわからない。

空想上の絵であると言ってしまえば、いくらでも花などは作り出せるわけだが、奥の王子のはあきらかに光背花が見えてスイカズラだろう。スイカズラは東アジア一帯に自生し、日本にも自生種が20種ほどあるから、すでに赤い品種が飛鳥時代に描かれていても不思議ではないのだ。

スイカズラは宇津木の仲間で、茎は中が空洞なので「うつろな木」という意味のウツギという。蔓やツル植物というよりも、開花前にすいっと花枝を伸ばし、特に木々にからむわけでもない。花色は白、赤、緑、黄、あるいはそれらが混じったものがつく。今でも野山には普通に自生している。香りがやや甘いのと、花の少ない真夏の山で咲くのですぐに気づく。日本の仏像に多く描かれるのは、しかし西アジア経由でやってきた定型的絵柄のパルメットであり、自生種の花が描かれたわけではないだろう。だが御影のスイカズラはどうみても実物を頭に指している。

ウツギはいわゆる春に咲く五弁の卯の花で、非常に花が小さく、かたまって花をつける。春から初夏の花で、「夏は来ぬ」の歌詞に出てくる。うつろという言葉には、古代には「うつろ船」すなわち死者の喪船のことを言う言葉が多く関係している。朝鮮の卵生神話にも、虚ろの卵、瓢箪から天子が生まれてくる話が多い。聖人がうつろなところから生まれ出る、つまりこれは祖先の精霊が瓢箪のような中空から顕現して、生命を与え、それが聖者となって王となるという意味を持った花だということになる。そこに西からもたらされたパルメットのスイカズラが混ざりこむ。ちょうどうつろな軸を持っていた。

パルメットそのものが唐草で表現されたのは、エジプト古代人も同じように唐草のからまるさまに永遠の生命の輪を感じ取ったからであろう。実際にはヤシの葉もスイカズラも唐草のようにはからまったりはしないのだから、これは意匠の組み合わせ=テキスタイルでしかなく、神仙思想のような観念から作り出された絵柄である。というのはロータス=蓮も当然、つる草にはならないのに、唐草がからんでいるから当然である。

唐本御影の二王子と中央の人物がはいている太刀にも花飾りがある。その四弁花はでは、いったいなんという花だろうか?いろいろ調べたがわからない。最初は沙羅双樹かと思い探したが、そっくりの花はあったが五弁だった。

イメージ 15

沙羅双樹=シャラノキ



カランコエは四弁だが花が小さく、当時あったはずもない。ハナミズキもアメリカ産だからありえない。テッセンやクレマチスも渡来は新しい。たどり着いたのはフタバガキだった。


イメージ 8
残念ながら五弁で白い。しかし果額となると今度はパルメットそっくりにもなる。


ではヒナゲシはどうだろうか?

イメージ 9
確かに四弁だが・・・アジア自生種であるが・・・さて?


これはKawakatuらしくないがお手上げ。







■カササギ

イメージ 10


太子に関してはもうひとつ気になっているのがカササギである。
日本書紀(推古6年夏4月の条)には、それよりずっと以前、推古天皇の御代に難波の吉士磐金(きしいわかね・聖徳太子の命により新羅へ使者として渡った。鉄鋼業の祖)が新羅国(朝鮮)から帰ってきて、カササギ(俗に朝鮮鳥)2羽を献上したとある。


イメージ 12

聖徳太子の父用明天皇と、母穴穂部間人皇后を神として祀った1400年の歴史をもつ由緒ある古社である鵲森宮神社が大阪市森之宮駅前にある。大阪城のお膝元で、そもそもここは物部守屋の荒墓があったとされる。それを上町台地のやはり荒墓という場所にあった小さな祠のある土地を開いて建てたのが四天王寺である。「あらはか」という地名であるのは、おそらく守屋にちなんだか、もともとそこが古墳時代あたりかの墓場だったからだろう。

ここに守屋廟がある。

イメージ 13




「守屋祠は、今では参詣者が足を踏み入れない寺域の片隅にあり、物部守屋と弓削小連、中臣勝海(なかとみのかつみ)の三座を祀っている。つまり、この祠(ほこら)では蘇我氏や聖徳太子の怨敵であり、しかも恨みをのんで死んでいった物部守屋とその一味を祀っているのだ。

『摂津名所図絵』の四天王寺の項にも守屋祠のことが記されていて、参詣に来た人たちが守屋の名を憎んで礫を投げて祠を破壊したので、寺僧がこれを傷(いた)んで熊野権現の立て札を立てたという。祠のそばには、元禄7年の銘がある石灯籠が寄進されている。これらのことから、四天王寺が守屋祠を決しておろそかに扱ってこなかったことがわかる。」

「面白いことに、聖徳太子に関する多くの古書は、587年に四天王寺が造営された場所として、現在の大阪城付近の玉造辺りを指している。玉造は大阪市中央区の東南部から天王寺区の東北部にかけての地名であり、付近は上町台地の東縁部に相当する。かっては河内湖の入り江に面した小さな港などがあった交通の要衝だった。

玉造と聞いて、ハタと思い当たる記述が『日本書紀』の中にあった。丁未の変が勃発する直前に、物部守屋は資人(つかいびと、近侍者)の一人である捕鳥万(ととりべのよろず)という武将に百人の兵を与えて、難波の邸宅の防衛に赴かせている。当時の守屋は大和川の水利権を掌握していて、大和川が流れ込む河内湖の湖岸にも邸宅を構えていた。その場所は玉造付近がもっともふさわしい。
 
『日本書紀』や聖徳太子の最も古い伝記とされる『上宮聖徳法王帝説』には、玉造の記事は出てこない。しかしその後に作られた『上宮聖徳太子伝補闕記』や『聖徳太子伝暦』、『荒陵寺御手印縁起』、『古今目録抄』などでは、四天王寺は玉造あたりにあったと記している。

『荒陵寺御手印縁起』は平安時代後期(寛弘4年、1007年)に作成されたとされる四天王寺の縁起資財帳だが、その中に、「丁未歳をもって初めて玉造岸上に建て・・・癸丑歳壊して荒陵の東に移す」とある。丁未(ひのとひつじ)は587年、癸丑(みずのとうし)は593年にあたる。

『古今目録抄』は鎌倉時代に法隆寺の学僧・顕真が法隆寺の記録や聖徳太子伝の秘伝を集大成したもので、『聖徳太子伝私記』とも『太子伝暦』とも呼ばれている。その中で、顕真は、「守屋を誅殺した直後の用明2年7月3日、玉造の地に柱を立てた。そして、守屋の死から49日目にあたる8月20日に、四天王像を安置し供養した。これが太子発願の四天王寺である」と記している。

顕真の甥で法隆寺の僧・俊厳は、弘長2年(1262)ごろ『顕真得業口決抄』を著している。その中には、「守屋の頸(くび)ならびに頸切太刀、着せし所の衣服とを悉く玉造の寺の仏壇の下に埋めて堂を造り、供養せしめ給ひ畢んぬ」とある。49日にあたる8月20日にこれらの品を仏壇の底に埋め供養したものと推察されている。
 
つまり、これらの諸書が伝えるところによれば、丁未の変の直後に、敗死した物部の守屋の霊の成仏を祈るために、彼の邸宅があった玉造に簡単な草葺きか茅葺きの草堂を造り、6年後に荒陵の地に移されて本格的な伽藍建築が造営されたとみるのが自然なようである。」
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_04_29.htm



ここに記載のある「玉造」の元の四天王寺というのがつまり鵲森之宮神社なのである。要するに四天王寺はそもそもから守屋の廟のために建てられた。

イメージ 14
鵲森之宮神社




さらに・・・
「昭和10年(1935)頃、現在のJR大和路線の八尾駅から約400m西北西の場所に、操車場が建設された。そのとき、多数の単弁八葉や忍冬唐草紋の瓦や塔の心礎が建設現場から出土した。守屋の別業からは目と鼻の距離にあり、排仏派とされる物部氏も邸宅の近くに氏寺を建立していたことが判明した。その寺址は現在「渋川廃寺」と呼ばれている。

仏教の受け入れに反対していたのは、おそらく天皇家の祭祀を一手につかさどっていた中臣氏であろう。物部氏も石上神宮の祭祀を司っていたが、石上神宮は祭神として「布都御魂(ふつのみたま)」と呼ばれる剣を祀る神社である。崇仏/排仏には関係ない。おそらく守屋は一族の権威の象徴として氏寺を建立したにちがいない。しかも、彼の生前に造営を開始していたと思われ、その時期は蘇我氏の飛鳥寺よりも早い」



さらに・・・
「谷川健一氏の著書『四天王寺の鷹』は、冒頭の部分で面白い話を伝えている。四天王寺の金堂東側の緑色の欄間の上に、やはり緑色の冂の形をしたものが置かれている。谷川氏が寺僧に聞いたところでは、鷹の止まり木だそうだ。

その鷹の止まり木に関連して、四天王寺には奇怪な伝承が伝えられているとのことだ。四天王寺の堂塔は、合戦で敗死した物部守屋の怨魂が悪禽となって来襲し、そのため多大な損傷を受けるという被害に悩まされた。悪禽とは実は啄木鳥(きつつき)であり、聖徳太子が白い鷹になってこの悪鳥を追い払うことになったという。その白い鷹の止まり木が金堂の二階に現在も取り付けられているというわけだ。

江戸中期の1712年ごろ出版された絵入りの百科事典『和漢三才図絵』(わかんさんさいずえ)には、「天王寺は初め玉造の岸の上に建つ。海波岸を壊し、悪禽来たり集まりて仏閣をつつき損ふ。これすなわち守屋の大臣の怨念か。その禽は啄木鳥なり。五年後推古元年にいたりて荒陵山(あらはかやま)の東に移す」とある。守屋の執念がすでに四天王寺が玉造にあったときから問題であったことを伝えている。
 
『源平盛衰記』の中にも、守屋が啄木鳥になったことを記した一文がり、「太子仏法最初の天王寺を建立し給ひけるに、守屋が怨霊、彼の伽藍を滅ぼさんがために、数千万羽の啄木鳥となりて、堂舎をつつき滅ぼさんとしけるに、太子は鷹と変じて、かれを降伏し給ひけり」と記されているとのことだ。

だが、鎌倉時代に法隆寺の学僧・顕真が表した『古今目録抄』では、「太子と守屋とは、生々世々の怨敵、生々世々の恩者なり。影の形に随うごとく、すでに五百年を過ぐ。太子守屋ともに大権の菩薩なり」とも言っている。つまり、守屋が啄木鳥になって仏法を妨げ、太子が鷹となって啄木鳥を追い払うという伝承は、聖徳太子と物部守屋が敵対しているようでありながら、むしろ一体となって仏法を弘通しようとした現れであるという。
 
四天王寺の縁起資財帳である『荒陵寺御手印縁起』にも、「伝に曰ふ。守屋臣も仮には法敵となるといえども、却って太子の興隆を成ぜんが為の方便なり」と記されている。そこで、谷川氏はこうした伝承には守屋の怨霊を慰撫しようとする動機が含まれていると推察されている。
 
太子信仰の高まりとともに、聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりとしてみなされるようになった。そして、いつしか聖徳太子を「救世観音」と称するようになった。天王寺の本尊は救世観音であって四天王ではない。末法思想の時代に入ると、四天王寺を中心に霊場化が進み、救世観音信仰は次第に浄土念仏信仰へと変容していった。鎌倉時代、親鸞らによって救世観音が和讃や講式に取り込まれ、救世観音信仰は西方浄土信仰と同一視されるようになった。その後は、この信仰が長い間引き継がれて行き現在に至っている。」
以上先出サイト




新羅王家には朴・昔・金氏があったが、とくに昔氏は鵲(かささぎ)、金氏は金鶏を始祖伝説の象徴にしているのである。

九州に鵲が住み着いたのは「秀吉の朝鮮出兵の際、鍋島直茂が持ち帰り、佐賀付近に放ったことから」だといわれているが定かではない。半島から九州北岸なら充分に往来できる。しかし魏志倭人伝には鵲なしとなっている・・・。



<中国の七夕伝説 牛郎と織女の物語>
牛郎は織女に形見の「首木」を投げ、
 織女は牛郎に「杼」を投げました。
二人の悲しむ姿を見かねた「喜鵲(かささぎ)」は
毎年七夕の日には群れとなって自らの体で「喜鵲橋(シーチェチャオ)」を作り、
 牛郎と織女をこの橋の上で再会させることになりました。

「この「喜鵲(かささぎ)」は、牽牛と織女を再開させる橋を掛ける役割を果たしています。」
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_227.html


イメージ 16


枚方市を流れる天野川にかささぎ橋がある。
これは筆者も知っている、近くに機織神社がある。牽牛織女を祭ってある。そもそも天照国照彦天火明櫛玉饒速日が遡上した川で、星田妙見もあり、かささぎと小椋氏、佐々木氏には深いかかわりがあるようで、星姓名の多いのも木地師氏族である。交野市には百済王神社・寺があり、樟葉には樟葉宮跡比定地がある。筆者もここで数年を過ごしている。ここは肩野物部の本拠地だったところだ。その拠点は天野川が淀川と分岐する枚方市渚~伊加賀であり、ここにも筆者は住んでいる。「いかが」は物部氏の「いかがしこおのみこと」由来の地名で、このあたり一帯が「白肩の津」である。枚方市の地名はこれが由来である。

つまりどうやら鵲は物部氏の本来のステータスだったらしい。

そのゆえんは、どうも九州にあるのではないか。鵲は日本では北部九州にしか生息しない。筆者も何度か九重山周辺で見かけているが、秀吉の朝鮮出兵の際、鍋島直茂が持ち帰り、佐賀付近に放った?





守屋の霊魂が鵲として名前になり、それが四天王寺となり、やがて今の場所に移転され、守屋の霊廟も移転した。当初はそれが第一の理由だった。だがやがて四天王寺はあらゆる仏教宗派の自由に訪れる空間へとなっていった。次第に守屋廟は片隅に追いやられ、今では禁則地となって立ち入りができない場所に・・・。



その鵲を衣装の中に取り込んだ聖徳太子の像について、かつてどこかで間違いなく読んでいる。そこには画像もあった。いくら探してもそれが今は見つからない・・・。

そもそもなぜ鵲なのか?守屋は史書ではきつつき、太子は白い鷹となって登場する。そこに鵲のかの字もない。





聖徳太子の作られたイメージは、明白に天智・持統親子、そして藤原光明子の時代にクローズアップされた合成されたものであろう。するとそれはいったい実在の誰と誰を組み合わせ、そしてしかも彼らを鎮魂し、聖なるものとしなければならない理由とはなんだったのか?



次回、まずは秦河勝と聖徳太子をひとつの人物像にモンタージュする作業をやってみたい。さらにそこに蘇我氏がかぶさる。そして最後には?





かささぎの 渡せる橋に
おく霜の 白きを見れば 夜も更けにける
                      (大伴家持)






イメージ 17
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U




記事をまるごと転載する「まとめ」サイトに困惑

$
0
0



「他人のコンテンツの内容を丸ごとコピーして公開するのはコンテンツ泥棒です。
著作物を盗用することは著作権の侵害にあたりますし、モラル的にも許されるものではありません。

日本では、一定の条件を満たした「引用」は、権利者に無許可で行うことができる(32条)。これは著作権侵害にならない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/引用


「一部を引用しつつ、詳細として内部リンクなり外部のサイトへのページへとリンクを張れば、ユーザーにとっても利便性が高まりますので検索エンジンからの評価は上がることはあっても、下がることはないと考えられます。」
http://whitehatseo.jp/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%81%AE%E5%86%85%E5%AE%B9%E3%82%92%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC%E3%81%97%E3%81%A6%E5%85%AC%E9%96%8B%E3%81%97%E3%81%A6%E3%82%82%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B/


「さらに、最近では「シェアされるような記事」をたくさん掲載する、「バイラルメディア」と呼ばれるサイト群を運営する企業が増加し、その結果、それらのサイトがPV至上主義に走ったためか、他人の画像や文章を無許可でまるごと記事に載せるような行動を取っております。
 上記パクツイの件は比較的個人の犯行が多いのに比べ、これらバイラルメディアは企業が組織立って運営していることや、サイトの形態から目立つ存在であったため批判が続出しているのです。」
http://special.smartguide.yahoo.co.jp/kawanagare/20141028.html




ぼくにとって実害があったのは、

たとえばこのミステリーまとめサイト

ワクワクする歴史の謎・ミステリーのまとめサイト | いまだ解明されていない真実
http://the-mystery.net/


the-mystery.net
Domain Name: the-mystery.net
Registry Domain ID: 189●●●3443_DOMAIN_NET-VRSN
Registrar WHOIS Server: whois.discount-domain.com
Registrar URL: http://www.onamae.com
Updated Date: 2015-01-31 15:44:02
Creation Date: 2015-01-31 15:43:59.0
Registrar Registration Expiration Date: 2016-01-31 15:43:58.0
Registrar: GMO INTERNET, INC.
Registrar IANA ID: 49
Registrar Abuse Contact Email: abuse@gmo.jp
Registrar Abuse Contact Phone: +81.337709199
Domain Status: ACTIVE
Registry Registrant ID:
Registrant Name: Whois Privacy Protection Service by MuuMuuDomain
Registrant Organization: Whois Privacy Protection Service by MuuMuuDomain
Registrant Street1: 2-7-21 Tenjin Chuo-ku
Registrant Street2: Tenjin Prime 8F
Registrant City: Fukuoka-shi
Registrant State/Province: Fukuoka
Registrant Postal Code: 810-0001
Registrant Country: JP
Registrant Phone: +81.927137999
Registrant Phone Ext:
Registrant Fax: +81.927137944
Registrant Fax Ext:
Registrant Email: privacy@whoisprivacyprotection.info
Registry Admin ID:
Admin Name: Whois Privacy Protection Service by MuuMuuDomain
Admin Organization: Whois Privacy Protection Service by MuuMuuDomain
Admin Street1: 2-7-21 Tenjin Chuo-ku
Admin Street2: Tenjin Prime 8F
Admin City: Fukuoka-shi
Admin State/Province: Fukuoka
Admin Postal Code: 810-0001
Admin Country: JP
Admin Phone: +81.927137999
Admin Phone Ext:
Admin Fax: +81.927137944
Admin Fax Ext:
Admin Email: privacy@whoisprivacyprotection.info
Registry Tech ID:
Tech Name: Whois Privacy Protection Service by MuuMuuDomain
Tech Organization: Whois Privacy Protection Service by MuuMuuDomain
Tech Street1: 2-7-21 Tenjin Chuo-ku
Tech Street2: Tenjin Prime 8F
Tech City: Fukuoka-shi
Tech State/Province: Fukuoka
Tech Postal Code: 810-0001
Tech Country: JP
Tech Phone: +81.927137999
Tech Phone Ext:
Tech Fax: +81.927137944
Tech Fax Ext:
Tech Email: privacy@whoisprivacyprotection.info
Name Server: dns0.heteml.jp
Name Server: dns1.heteml.jp
DNSSEC: Unsigned
URL of the ICANN WHOIS Data Problem Reporting System: http://wdprs.internic.net/
>>> Last update of WHOIS database: 2015-01-31 15:44:02 <<<


対処法としてはたいしたこともできない。
一番いいのはじかにこのサイト運営者に忠告することなのだが、ここはサイトマップも連絡先もまったく掲載がない、あきらかな違法サイトである。
そのままでも、まあ、自分の記事を紹介してくれているんだなで済まそうと思ったが、自分の書いた記事のタイトルで検索してみたら、なんとこのサイトのほうがぼくの記事より上位に出てくる。これはいかん!!

いろいろ探してみたら上記のように相手のドメインがわかるサイトがあった。

Whois - ドメイン調査ツール
http://www.cybersyndrome.net/whois.cgi

で、トップページのURLを入れてみたらああいう内容だった。

それとは別に自分のPCのインターネットオプションを使って、まとめサイトのURLに対してやっておけることもある。
1インターネットオプション→セキュリティ→制限つきサイト→サイト→URL登録→追加
2インターネットオプション→プライバシー→サイト→URL登録→ブロック
まあ、どこまでこれが有効かはわからんが・・・。

あとは通報であるが、どこに通報するかがよくわからない。迷惑メールサイトでもないし、危険サイトやアダルトサイトでもない・・・???
それに通報してもどう対処してくれるかあまり期待できるものでもないようだ。

自分も部分的な記事引用はするけれど、それは現状のルールでは違法にはならないが、まるまる全部を無許可で転載してあるのは違法である。

とにかく、記事紹介だけで成り立っているサイトやページ紹介だけならアクセスが増えるのだから許せるが、まるまるやられたらこれは迷惑である。しかも検索で自分より上位にあれば誰だってむかっとする。違いますか?

ブログでもHPでもリンクしてくれるのはいいけれど、それであなたのブログっていったい何が言いたいの?って思う。それでいいの?あなたの個性や主張を表現してこそブログなんじゃないのかといつも感じてきた。だから長い友達だった人にはコメントでそう書き込んでみたら、ちゃんと紹介書庫を削除してくれた。つまり向こうも「なるほど確かになあ」と感じてくれたんだと思うから、ちゃんと向こうのブログに行ってナイスボタンを押してきた。しかしぼく以外の他人様ブログ紹介書庫も全部消してあったからちょっと肝はつぶしたけどね。だってほかの人はそういう話は知らないだろうからびっくりしたはず。
でもそのサイトの管理者はまたうちに見に来てくれている。

考え方はいろいろあるだろうが、もちろん紹介されることはやぶさかではない。それだけ有名なんだなあと思えば済むこと。

しかし自分のより検索の上位に出てきてもらったら、苦労して時間もかけて記事を書いてきたこっちとしてはやはりがっくりである。せめてぼくの下ならまだ許せるが。その上、記事の画像から文章から、あげくにランキングタグまでコピペしてあるんだから笑うしかなくなる。力が抜けてしまうよ。

ついでにここで記事紹介をやめてくれた●さんに感謝
●さんご協力感謝します。失礼な書き方をしたかも知れません、申し訳なく。

でも、他人のふんどしを全部脱いだら、意外とあなたが本当にやるべきことが見えたりしたんじゃないでしょうか?これからももっといいオリジナル記事で勝負してください。そしてこれからもうちやほかのサイトを参考にしてあなただけのブログを作成くださいね。


ブログは自分を表現する大事なアイテムです。
もしブログがなかったらぼくなんか、もうとっくに自殺してました。
今は、ブログは生きるうえでの糧です。喜怒哀楽を愛読者とともに共有し、書きながらぼく自身がわくわくするような、誰も気がつかなかった古代史の盲点を探っていきいきと暮らせています。なくなったら、たぶん、ぼくは一気にご隠居さんに老け込むことでしょう。だからいつもオリジナルな記事を書くことがぼくの最大の目標です。





イメージ 1

[転載]国宝桂宮院・八角円堂とは

$
0
0


■桂宮院八角円堂 けいきゅういん・はっかくえんどう

「(広隆寺境内)上宮王院太子殿の西、境内西北隅に桂宮院がある。聖徳太子が楓別宮を起こした場所と伝えられ、現在は広隆寺の奥の院にあたる。建長3年(1251)以前の建物で国宝。法隆寺夢殿に似た単層の八角円堂。春4月、5月と秋10月、11月の日曜・祝日に公開される。(八角円堂の撮影禁止)堂内に祀られていた仏像、聖徳太子像、阿弥陀如来像その他の仏像は、現在は霊宝殿で拝観できる。」
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/koryu-ji.htm

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1607456/29/52187629/img_0?20101122235543
日本の国宝から
カラー写真はこちらへ→http://www.kanshin.com/keyword/1635717

もともとは秦河勝を祀ったお堂である。
広隆寺の伝承にあるような「聖徳太子が」という解説は、このお堂の造られた鎌倉時代に、すでに聖徳太子信仰に話をあわせなければ寺自体の存続がままならなかったことをよく表している。

そもそも聖徳太子が実在したかどうかが今は問われている。
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・古代史へ


クリッククリクリ!↓

↓       ↓          ↓        ↓
With2ブログランキングへ



転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

ケルティック・プレセリ・ブルー・ストーン/メン・アル・トル 青い石の魔力

$
0
0

イメージ 1

強風が吹く海岸の草原に屹立するメン・アル・トル遺跡





世界の墳墓分析で、最も重要なのが石材分析である。
ここに気づかないと、古代史は遠回りを強いられる。
これは筆者の経験でもある。



ケルティック・プレセリ・ブルー・ストーン
「イギリスの世界遺産『ストーンヘンジ』にも使用されているプレセリブルーストーンは、神の啓示やメッセージを受け取るという意味があります。
 今から4500年前に建造されたと言われるストーンヘンジは、神々と交信する神聖な場所と説明される事が多いです。
 何かを迷っている時や決断が必要な時に、メッセージをくれる天然石と言われます。」
http://fabee.heteml.jp/sitemap/k1.html




イメージ 5




この上下二つの石は同じ成分の花崗岩だ。

そしてこれもそうだ。ストーンヘンジ。

イメージ 2



ストーンヘンジーを構成する石とは?
「青い石はブルーストーン、白い石はサルセンストーンのことです(実際にはサルセンストーンは灰白色、ブルーストーンは濃緑から濃紺の色合いといった方がより正確かもしれません)。

 置かれた場所や形などの特徴によって別の名で呼ばれている場合もありますが、主にはそれら2種類の石を使ってストーンヘンジが作られました。 」





【アルターストーン(祭壇石)】
 「サルセンサークルが現れる前、最初のストーンサークルを構成する石の一つとして、アルターストーンが建てられました。
サルセンストーン以外では最も大きなサイズ(4.9×1.1×0.5メートル)となる緑色の雲母砂岩(かけら状の雲母を多く含んだ粒の細かい薄緑色の砂岩※赤色砂岩から成るコシェストン層から産出)で作られたアルターストーンは、ウェールズのプレセリ山地から南西約48キロメートルの海岸部に位置するミルフォードヘブンで産出し、そこから運ばれてきたと考えられています。 」


イメージ 3
ブルーストーンの天然石切り場露頭。縄文海進の時代、ここもストーンヘンジも海岸線だったはずだ。



白い花崗岩
サルセンストーン(サルセン石)は、ホワイトグレーの大砂岩のことです。
 最大で50トンに及ぶこの巨石はウィルトシャー州北部のエイヴベリー近く、ストーンヘンジから約32キロメートル離れたマールボロダウンズから運ばれてきました。
石の名前は俗称で、「外国の」という意味か、または石の見た目の奇妙さを言い表した「サラセン」という言葉が由来になっているそうです。

第三紀(6430万年前から180万年前にあたる地質時代)の終わりから後氷期にかけて形成された堆積岩であり、密集した砂がシリカセメントで固められて生じた硬い岩、シリカ化した砂岩の一種になります。」

「※まぐさ石:古代建築においては、積み上げられた石柱の上に置かれた石のことを指します。「まぐさ」とは2本の支柱の上にブロックが水平に渡された構造のことです。」
 http://www.angelstation.jp/stone/stonehenge2.html


イメージ 4


サラセンとはサラセン人、つまりペルシア、バビロニア人であろう。
ならば地中海で彼らは知り合いだったことに気がつく。


日本の古墳の石棺でも、緑色、白色、赤色の石が使われている。それは時代によって変遷し、その時代の石を切り出せたものが有力者となって変遷している。

縄文時代の列石はほとんどが緑色の石である。







「イングランド南部にある古代巨石遺跡のストーンヘンジは、数世紀の間、死者を祭る巨大な埋葬地であったことが、放射性炭素年代測定により明らかになった。ストーンヘンジ・リバーサイド・プロジェクトが行った新しい調査結果によると、ストーンヘンジはそもそも墓地として使われていたという。 いまから 5000 年ほど前のことで、巨大な砂岩のブロックが立てられた時期よりも数世紀さかのぼることになる。

今回分析された古代人の遺骨は、紀元前3000 年ころから、巨石が最初に立てられた後の紀元前2500 年ころまでにストーンヘンジに埋葬されたものだった。従来は、ストーンヘンジが埋葬地だったのは紀元前2700〜2600 年ころの期間だけだと考えられてきたが、火葬された3人の遺骨に対して放射性炭素年代測定を行ったところ、それらの遺骨が 500 年間にわたる長い年代にわたっていることが判明した。今回の発見は、ストーンヘンジが祖先崇拝を行う古代ブリトン人にとって「死者を祭る場所」であったという推論を裏付けるものだ。

今回の年代測定の対象となったのは1950年代に発掘された遺骨だが、最も古い遺骨は火葬された骨と歯の集まりで、オーブリーホールと呼ばれる56個の竪穴の1つから発掘された。2番目に古い遺骨はストーンヘンジを囲む溝の中から見つかったもので、紀元前 2930〜2870 年ころに埋葬された大人の遺骨だという。溝の北側から出土した3番目の遺骨は、20代の女性のものだと特定された。年代は紀元前2570〜2340年ころで、サラセン石という巨大な砂岩のブロックが立てられた時期に相近郊の町


(ナショナル ジオグラフィック本誌2008 年6 月号掲載記事より)。


イメージ 6

これはストーンヘンジ遺跡の地図である。たくさんの骨と歯が、周囲に 56 カ所あるオーブリーホールから発掘された。
 
今回の調査プロジェクトのリーダーであるシェフィールド大学のマイク・パーカー・ピアソン氏は「現在、ストーンヘンジが長期間、埋葬地として使われてきたことを解明する調査が進行中だ。推計では、主にオーブリーホールに全部で240人ほどが埋葬されている。」
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=nxgwLNtuKhEJ&p=%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E9%81%BA%E8%B7%A1+%E8%AA%B0%E3%81%8C%E4%BD%95%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB&u=www.infokkkna.com%2Fironroad%2Fprezen%2Fstonehenge2009.pdf#search='%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E9%81%BA%E8%B7%A1+%E8%AA%B0%E3%81%8C%E4%BD%95%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB'







ストーンヘンジは世界でも、仁徳天皇陵に匹敵する、それ以上の敷地を持った墓地・祭祀場だったことがわかっている。

ヘンジやほかのイングランド、アイルランドのケルト遺跡で使われている石は淡い青緑色の花崗岩=ケルティック・プレセリ・ブルー・ストーンサルセンストーンである。世界中でまず青い石・緑の石は墓石・祭祀場用石材だと思って間違いはない。縄文時代の東北の環状列石にも青い石が使われているし、古墳時代の海岸部の古墳石棺にも緑泥片岩が使われていることは、このブログで何度も書いてきた。緑色は生命の再生をうながす広葉樹の色である。




それがわかると、おなじケルトの遺跡である不思議な丸い石の意味もわかってくる。
イギリスコーンウォール地方に集中している巨石遺跡群にもこの青い石が使われているのだ。

支石墓やメン・アル・トル(メナルトール)石など、やはりこの青い石で作られている。つまりこれもケルト・ブリトン人の墓なのである。

しかしメン・アル・トルの円形に穴の開いた不思議な形状に、両側の二個の立石は何を意味しているのだろうか?


筆者にはわかる。
霊魂がこの穴をすりぬけてまた戻ってくる形状なのだ。
穴を風がすり抜ける。
それはまさに「風きり」である。
日本の神社の屋根にとりつけられた風切りの千木と同じ意味を持った遺物なのだ。
祖霊が風になりこの穴をすり抜けて天上へゆく。
そしてまたこの穴をすり抜けて新しい命が戻ってくる・・・。

同時に祖霊は、子孫たちの海から吹きつける強い潮風をも、この穴をすり抜けさせることで、災害をやり過ごしてくれたのだ。

青緑のプレセリ・ブルー・ストーンは、日本でも幸運を呼ぶ石としてネット上でさかんに取引されている。ちょうどそれは、東アジアの貴石だったヒスイや碧玉をまったく同じ扱いである。

このように人類は世界の東西で、青や緑を生命をよみがえらせ、子孫に平穏と安寧を持ってくる色だと考えられてきた。その色が常緑樹の一年中青々として枯れない生命力を象徴したからである。




それは決して偶然ではない。
地球上どこに分かれてしまおうと、人類は、はるかなる母・イヴから別れたときから、共通した遺伝子という神のなせる無意識の死生観でひとつだった。古代まで、人は東西で同じことを考えた。つまりわれわれはみな「はらから」だったのだ。しかし、古代までの宇宙から享受した同じ遺伝子を、われわれは忘れて行き、となりあわせの人々にまで違和感を持ち始める。

ケルトは言語でつながった飛び地の人々だ。彼らには言語以外に共通性は少ないと考えられてきた。しかし実は、心の内奥は共通観念、死生観でまった変わりはない。ゴートもアイルランダーもスコッティも、ロマンス言語諸族、バイキングも、すぇディッシュもデンマーカーも、実はみな最初は同じケルトなのだ。そしてわれわれアジア人もアフリカでは仲間だった。


青い石の共通性はそれを遺伝子以上に証明している。



関連ページ
青い石・赤い石/色彩に呪を求めた古代人・転載記事 民族学伝承ひろいあげ辞典
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56009212.html





イメージ 17
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

Viewing all 1881 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>