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天武・持統の信濃遷都計画 再論 多氏・阿蘇氏は古くない氏族

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読者から天武・持統の諏訪遷都について詳しくとのご要望があったので、過去記事を転載し、筆者の最新意見を書き足しておく。



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天武・持統の信濃遷都計画・転載記事
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/50923280.html


天武・持統の昔、長野は次期首都候補地だった。

『日本書紀』天武十三年二月(684)
「三野王(みののおう)、采女臣筑羅(うねめのおみ・ちくら)等を科野に遣わし地形を看させて曰く「是の地を都とせんとするか」と。」
同年四月
三野王、科野国地図を提出。

十四年
科野に行宮造営

持統六年三月(692)
持統天皇伊勢行幸を計画。反対勢力、三輪朝臣高市麻呂(みわのあそん・たけちまろ)諫言「農事のさまたげとなるおそれあるによりて中止されたい」と。
三輪朝臣、官を辞すも、天皇強行。通過地点である伊賀、伊勢、志摩国に官位をさずけ、その年の調を免除。同行した警備の騎士、荷物運搬係り、さらに科野行宮造営にあたったヨホロ(丁・労働者)等の一年分の調を免除。破格の待遇である。

「過ぎます志摩の百姓の男女、年(年齢)八十以上に、人ごとに(それぞれもれなく)稲五十束を賜う。近江、美濃、尾張、参河(三河)、遠江(とうとうみ・静岡)の国の、共をした騎士の戸、諸国の荷丁の本年の調をも免除」

五十等児乃嶋(いらごのしま=今の伊良湖・愛知県渥美半島突端の湖だが、海から見ると島に見える)より女帝の船出を案じて柿本人麻呂詠む。
 潮騒の 五十等児の嶋辺漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き嶋廻(しまみ)を
 しおさいの いらごのしまべこぐふねに いものるらむか あらきしまみを


大宝二年(702)、皇位を軽(文武天皇)に譲り、太上天皇となっていた持統は九月、伊賀、三河、尾張、美濃の諸国に行宮を造営させる(『続日本紀』)。都(藤原京)を出て伊勢の円方(まとがた・的潟という潟湖がある津)まで陸路で出立。ここから三河の御津(みつ)まで船で。*伊勢行幸ではなく三河の行宮へ行ったのである。「はじめて美濃国に木曽山道を開く」。帰国後まもなく持統逝去。




さあて・・・。
天武の嫁さんである持統女帝はなぜ伊勢行幸と言いながら三河行宮へ向かったのか?ここが今回の大問題である。

三河は天武天皇が、科野遷都のための中継地としていた場所である。当時木曽信濃へ行くには・・・
  
 大和→志摩御津港あるいは的潟→渥美半島・伊良湖→矢作川→豊川→木曽が最短距離だった。

そして、天武の后である持統は天武の科野遷都の意思を継ごうとしているわけである。
だから三河に行宮を設けさせ、伊勢へ行くと見せて実は三河から科野へ向かったのだ。

三河、尾張から科野へはこのときすでに木曽路の原型である矢作川から豊川を経由遡上する通行路があった。木曽路開通の記事が直後にあることから、おそらく木曽街道があった可能性もある。

「天武は東アジアの国際情勢悪化(天智、白村江敗北直後の混乱)に備えて国家の体制を律令の制定によって強めるとともに、都を信濃へ遷す計画をたてた。」(森浩一『日本の深層文化』「第二章 野の役割を見直す」)

木曽路が開かれる前までは、三河から川をいくつか経由しながら伊那郡へ遡上する南信濃路が重要なシュ通路だったと森は言う。

伊勢行幸を行った天皇はあとにも先にも持統天皇だけだった時代が長く続いている。すなわち伊勢神宮は天武・持統が信濃下見に行くためのカモフラージュに過ぎないわけである。しかも伊勢神宮は女帝擁立のための「言い訳」でもあった。男神であったはずの太陽神・アマテラスを女神にしたのも、ひとえに女帝傀儡政権のための建設。だから『日本書紀』はもともと為政者の大本営発表だった。

三輪朝臣は大和三輪山の祭祀一族であるから、伊勢への行幸にも不満があったし、遷都されては三輪山祭祀の権威が失墜することもあって猛烈に反対したわけである。

伊勢の志摩半島にある鳥羽国際ホテルの真下に?贄遺跡という海村遺跡が埋もれているそうであるが、ここの海人・海部一族は渥美半島までの渡しをしたのではあるまいか?

長野、信濃とくれば筆者は諏訪神社に持統が送り込んだ阿蘇大祝を思い出す。諏訪は日本列島のど真ん中にあって交通の難所であった。そこに遷都のための準備として行宮造営し阿蘇氏を送り込んだ。そこでは風の神事が執り行われ、日本大風鎮護と考えられていた。これが「諏訪の風祝」「薙鎌神事」である(吉野裕子)。

長野県民のみなさん、惜しいことに遷都はありませんでした。その後、藤原政権の揺らぎによって国内の喧騒のほうが大変なことになってゆき、心配した唐も諸国乱れ、新羅は建国で忙しかった。東アジア諸国それぞれが違う方向を向いてよくなってしまい、日本も国風文化、律令制度安定、政権抗争へと流れは遷都どころでなくなる。結局、聖武天皇が遷都したのは平城京・ナラの都であった。





今回少しこれに追加しておく。

信濃遷都の背景には、天武つまり大海人皇子の湯沐(ゆのうながし=うば、養父)だった多品治(おおの・ほむじ)の影響もあったのではないか?なぜならば三野王はつまり美濃(岐阜県)の人であり、多品治も美濃の人だったからである。こういうところからも多氏がそもそも海人、海部であることが感じられる。


森浩一が書いたように、東アジアの不安定な情勢から、天武は都をさらに山奥へ移したかったようだ。そしてその諏訪湖は大風、天変地異を抑える要衝でもあり、そのために前もって持統は、鎮魂氏族であった阿蘇氏を諏訪神社神長として投入している。阿蘇氏が多氏との関係をしきりに言うのは、こうしたことがきっかけであっただろうと推測する。つまり多氏も阿蘇氏も決して神武直系とか末裔とかいう、古い氏族ではなかったのだという筆者の考え方の背景もここにある。あくまでも壬申の乱に勝ったために登場する新勢力だと。

計画はしかし三輪君ら旧態勢力によって大反対され、立ち消えになった。




天武や持統がなぜ伊勢にこだわったかと言えば、鳥羽あたりから伊勢湾横断する海路があって、鳥羽には海人遺跡や海女が存在した。彼らはもともとが「渡し」であり、尾張、三河へ最短距離で人や物資を運んでいたわけだろう。今の鳥羽国際ホテルのある丘陵あたりがその遺跡跡である。超えれば伊勢湾、目の前が知多半島突端になる。木曽街道は矢作川、あるいは天竜川を経て諏訪に直結しているのである。この街道を三野王は開発した。

つまり伊勢信仰はもしかすると、あくまでも諏訪遷都計画のための中継地だっただけであり、海上交通の安堵のために古くから海人族からの信仰を集めた聖地だった可能性が高い。今も度会氏がここを祭るのは彼らもまた海人族だったからだ・

アマテラスを祭ったのは、遷都の隠れ蓑に過ぎなかったとしたら、考えすぎか?




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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
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隼人の?青銅製鈴の音 また出た大和至上主義

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1600年前の鈴が鳴った 国内最古級10点出土、鹿児島・鹿屋の立小野堀遺跡【動画付き】 [鹿児島県]






キーワード
五世紀前半
鹿児島
地下式横穴墓
中国製青銅
シャーマン女性
遺骨は丹塗り
全国で7例
5つ以上の同時出土は初めて



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さて奇妙である。
全国で7例しかなく、今回同時に十個という前例のないまとまった数の鈴が、鹿児島県の隼人の墓と言われている地下式横穴墓から出てきた・・・。

すると学者は、なぜか畿内から配布されたと決め付けている・・・。



おかしいですね。
三角縁神獣鏡はたくさん出た機内の古墳から配布されたと言い、
この鈴はまったく正反対に、
一個しか出ていない近畿の墓から配布されたと・・・?



なに勝手なことを言うんでしょうね、この茨城の学者さんは。


完全に矛盾してませんか?


神獣鏡論理でいけば、この鈴は一番多く持っていたこの隼人の女性首長から、全国の隼人たちへ向けて配布されたになるんじゃないんですかねえ?






これが「大和の恣意的独断性」=大和中心主義古代史の影響なんですよねえ。



思いませんか?みなさん。




こういうことを言ってしまうから、マスコミは追従する。
なぜまだ明確でないことまで、そういういらん決め付けをしてしまうのか?
病気でしょう?この人々は。
大和考古学には科学を追及する心がないんじゃないでしょうか?
ほとんど自己中でっせ。





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恭仁京は諸兄の土地、信楽宮は行宮では? 民放だめだね。

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聖武天皇遷都大好きの要因は、藤橘抗争のあおりが彼を平城京から遠ざけていく契機だったことを物語る。まずは相楽郡は当時、橘諸兄の土地だったことから始めねばなるまい。遺跡は最初から広大なものだったという恣意歴史観で広げられていった過去がある。

また信楽宮(甲賀宮という認識が今は強い)は、仮宮の行宮だった可能性が強く、さしたる遺跡の発見が希薄である。


筆者は聖武さんはやはり少々気の弱い人で、橘氏の影響が大きい人と見る。
当時、広嗣の乱の直後である。九州の動乱は弱気の天皇を右往左往させただろう。そして皇后は侠気の藤原光明子。

逃げ回った聖武のイメージは完全には変わらなかった。今日のBS。




しかし忘れていた聖武引越し大王というイメージは、国営放送としてはなかなかよいトライアルだ。筆者も「あ、そうだった」といまさらいろいろ考えさせられた。



(これは記事には無関係だが、今朝のラジオで、お大師さんの話題があり、解説した方が「弘法大師とは、空海さん、平安時代の人」と言っていた。それ、ちゃんとアナウンサー訂正しておかないと。空海は奈良時代の人ですね)


今の地上波テレビは見るものが本当にないので、BSばかり見るようになった。

つまり地上波放送は、特に民放には、美しいもの、いい芸能、いい芸人、がまったく出てこない。すごく大げさに言えば「かす」みたいな番組ばかりなんですねえ。こんなのばっかりやっていると、日本人の過去の積み上げが全部崩壊してゆくのね。

壊してるのです。民放さんは。日本人をどんどん馬鹿にしているんだ。それは戦争への道ね。ちゃいまっか?諸君。















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小麦民族の死生観、稲作民族の死生観

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d.秋まきコムギと春まきコムギ


秋まきコムギというのは、秋に種子をまき、翌年の春から夏に収穫するコムギです。このコムギは一定期間低温にあたらないと穂が出ません。一方、春まきコムギは、春にまき、その年の夏から秋に収穫するコムギで、低温にあたらなくても穂が出ます。もし、秋まきコムギを春にまくと、どうなるのでしようか? 葉がしげるばかりで穂が出ません。しかし、苗を冷蔵庫に1カ月ほど入れてから、暖かい場所に植えると、何枚かの葉が出た後、穂が出てきます。




本来、コムギは秋まきでした。秋まきコムギは冬の寒さを体験してはじめて穂を出します。しかし、コムギは、ヨーロッパの北部のとても寒い地域では、その冬の寒さに耐えることはできません。そこで、寒さにあわなくても穂を出す性質をもったコムギの品種が選ばれ、これを用いて春まき栽培がおこなわれるようになりました。このようにして、春まきコムギが生まれたのです。現在では、北ヨーロッパ、ポーランド、ロシア、北アメリカ大陸北部、北海道の一部で、春まきコムギが栽培されています。
日本列島は南北に細長く伸びていますから、地方によって温度が違います。それで、コムギを播く時期、収穫の時期などが地方によって多少違いますが、大体図1のようになります。秋まきコムギは秋に種子を播いて、翌年の晩春に収穫します。春まきコムギは春の雪どけを待って種をまき、その夏に収穫します。
図1.コムギの栽培-秋まき栽培と春まき栽培
図1.コムギの栽培-秋まき栽培と春まき栽培
(教材植物マニュアルNo.7から)



北海道を除く日本列島には梅雨があり、春まき小麦ではちょうどその時期が結実の時期にあたり、麦の栄養成分が流れ出てしまう。だから西日本も東日本もだいたい秋まき越年小麦を栽培する。すると収穫期はちょうど五月末あたりになる。黄金色に実った風景を詩的日本語で「麦秋 ばくしゅう」と呼ぶ。小津安二郎の映画「麦秋」はよく知られている。

北欧や北海道やロシアでは、厳寒に小麦が耐えられないために春まき小麦を、プロバンスやイタリア、スペインなどでは秋まき小麦をそれぞれ栽培する。


こうした種まき~ハーベスト~落穂ひろいの季節感の相違は、当然、住む人々の死生観や人生観にも影響する。春田植えして秋収穫する稲作民族と、同じく春巻き小麦の南欧では、季節感や生活習慣が当然似てくるが、北欧だと季節がまったく正反対になるのであるから、季節感や生活観に違い出てもおかしくないわけである。

ただ、欧米人は小麦を主食とする民族だとは言いにくい一面がある。彼らの主食は肉である(いまだに完全狩猟採集生活を残存させる)。しかし肉だけではインシュリンが得られないために仕方なくパンを食べている。

さらに、パンもパスタも作り置きしておく食べ物で、コメ食民族のように毎日毎朝、飯炊きで主食に大幅な時間を割くことがない。小麦栽培そのものも、稲作に比べるとおおざっぱでシンプル。だから時間が増える。するとソースや煮込みに手間隙をかける料理が増えた。

一方、コメ食民族は、ソースやスープには手間隙はかけておられないため、醤油や味噌のほうを作り置きにしている。実に面白い正反対の対応である。

稲作は南方植物で多湿を好む稲を栽培するため、高温多湿な場所を選択するが、小麦は寒冷地や乾燥地を選ばせた。

アフリカ北部のように、強い偏西風や季節風が一旦東のヒマラヤ山脈の巨大なついたてにさえぎられて、もどってくる灼熱の強風をもろに受けるため、手ひどい乾季を経験する地域で、一般に死海のほとりであるレヴァント地方から小麦栽培が始まって広まるという意見よりも、レヴァントでは適地ではないからいやおうもなく四方へ移動して行ったと考えたほうがよいかもしれない。人類の拡散も、だから、アフリカ東南部から北上してレヴァントまで遡上した原人類の一団は、まもなく滅亡しており、その後、アラビア半島南端のイエメンを通過してパキスタン・バングラデシュあたりに上陸した第二弾の原人集団が東西南北、ステップや海の道あるいは欧州へ分岐移動しているわけである。


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遺伝子ミトコンドリアDNAによる最新人類発祥と拡散


これまでの旧説
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この経路図はすでに古い。管理者の不勉強。




稲作民族の死生観は、田植えの春から収穫の秋までをハレの一年とし、冬から春先までをケの一年とし、つなぎの十・十一月と二月・三月に多くの追儺行事が集中することになる。これが稲作民族のいわゆる二度の一年の繰り返しの生活観、冬至夏至よりも春分・秋分を重んじた民間感覚である(神社祭祀なども同じく新嘗・神嘗祭などを主に置く)。だから命は春にめばえ、夏秋をへて冬の死へ向かう。これは北欧も同じである。

だが温暖地では、秋からたねをまき、初夏五月に収穫するので、例えば新学期や社会生活の始まりも秋に設定されることとなる。そして真夏は日本人では正月に当たるから長いヴァケーションをとるようになった。今の日本の学校生活は欧米をモデルにしてはいるが、始まりだけは古い死生観の春のままである。だから日本人は桜を春、蘇り、死生観の代表としたが、南欧・米では桜ではなく秋の花になる。冬の長い北欧は栽培時期がすれているにも関わらず、春を待ち遠しく思うのは日本と同じである。

日本から西へ、ステップロードを経て北欧までは、二月・五月を非常に尊び、やはり追儺に等しい冬至祭を行う習慣が残っている。これらは東西共通の原始信仰を残存させることになった。しかし南欧では五月にメイポールをたてて夏至を祝い、正月直前の12月をイエスの生誕の日に当てた。夏至よりも冬至を祝うのは日本や東アジア、北欧、トルキスタンで、冬至を復活祭、クリスマスに置き換えたのは南欧・ローマ人である。ケルト民族などは中央から北欧に住まった人々なので、冬至祭を尊び、あのストーンヘンジなどもそうした祭祀場であったのだろうが、中世になるとキリスト教の侵入がローマ人によって起きて、ヘンジの周囲ではむしろ五月祭が主流になり、その混合を統一するための独特のリーダーが登場する。


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北欧には古い冬至祭とクリスマスがミックスした祭が多い。司祭とサンタクロースと死神が一緒に登場し、人々はわらで作った精霊に扮して、子供をしかりつけたりする。まるでなまはげそっくりの追儺が存在する。
また世界共通なのは、節分のころ、春分などにナッツ・ビーンズをまく風習である。これは北欧で顕著で、くるみやピーナツを部屋の中にまく。おばあさんが先頭で、あとに子供らが続く。どれもみな種まきの擬似行為で、意味は冬のあいだの災厄や悪鬼を追い立てる行為なのである。→このブログの「もうひとつのクリスマス」など参照。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51469333.html


このように環境や生活観の違いは、死生観やよみがえりに対する古代人の考え方に多大な影響力を持っていた。




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長屋王と美食三昧とイトーヨーカドーの因果関係?

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●長屋親王の超贅沢エグゼクティヴ生活と死

長屋王は高市皇子の第一皇子。天武天皇直系。高市皇子は、壬申の乱のときに父の天武天皇から軍の指揮権を委ねられたほどの実力者であったが、持統女帝の即位直後、高市皇子は太政大臣となり、藤原京造営など、政界のトップとして時代をリードしてゆくのだったが、持統女帝には野心があった。自分のはらからである息子草壁皇子の即位である。だから直系の高市を暗殺したが、草壁は夭折。一転して草壁の皇子である幼い軽皇子の即位のために腐心。これを助けたのが藤原不比等である。
高市皇子の死(ほぼ暗殺だろう)というタイミングをとらえて一気に即位を実現(文武天皇)する。逆に言えば、高市皇子が亡くならなければ持統女帝の夢は実現できなかったのであり、つまりそれほど高市皇子の存在は大きかったわけだ。不比等にとっても、天武直系の固定化は面白くない。彼には天智への思い入れがある。

 高市皇子(696年没)亡きあと、藤原不比等は文武・元明・元正三代の天皇を支えて、皇室の信任を一身に集め、時の最高位であった右大臣に昇りつめた。その不比等が亡くなる(720年)と、翌年、不比等に代わって右大臣の座に着いたのは、高市皇子の子、長屋王(45歳)であった。

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一方、不比等の四人の男子は、各々、一家を構えて藤原四家(南家、北家、式家、京家)として政界に重きを成した。つまり、高市皇子と不比等のにらみあいは、世代交代して「長屋王」対「藤原四兄弟」として受け継がれたのである。
ここで天然痘が大流行し、四兄弟あえなく死亡。藤原家は風前の灯に。代わって県犬養橘氏から不比等の嫁に入った三千代の子・橘諸兄が台頭してくる。その諸兄にとって長屋こそがあとつぎとしたいNo1だった。ところが突然のように冤罪が降りかかり、長屋は悲劇の主人公に。もちろん藤原氏本流のやったことである。

と、まあ、長屋親王といえば、誰でも不運な政治に翻弄された悲劇の主人公というのがイメージであろう。しかし、デパート建設で、偶然彼の邸宅跡地から木簡が続々と出てきて、長屋宅にアワビが山ほど、当時は贅沢な天然氷や名水までも運ばれていたことがわかった。酒池肉林の贅沢三昧生活をしていたらしい。この当時は天候不順と天変地異が連続して、貴族といえどもそれほどの贅沢はできなかったはずの時代である。さすが親王は大海人=天武の子孫である。天然の海産物をばんばん食べて、酒は氷で冷やして飲んでいたらしい。

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こりゃあ、殺されてもしょうがなかったのかな?
長屋は当然、自分は天皇になると思っていたことだろう。
史書はこのあたりの多数の死をすべて道真の怨霊で済まそうとしている。
道真こそいい迷惑だが、ということは四家は橘氏に、長屋や高市は藤原氏に、それぞれ手をかけられたと見るのがよさそうである。そして高市は持統がやらせたんだろう。そんなことをしているから遺灰もひっくり返されますわなあ。



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そんな美味三昧だった親王の居宅跡地には、今、このようにイトーヨーカドーが建っている。これはいい供養になっていると言えるだろう。その前がデパートだったし、長屋親王にはふさわしい名店街や食料品が今も、すぐそばにあるわけである。

奈良も粋なことやるものだ。

特売日にカートを押す親王の亡霊が見えたりして?
しかしスーパーの品では満足できないかな?
せいぜい高級な生鮮品を置いて供養しないと、祟りがあるぞ~~~

筆者なんか今夜はお好み焼き一枚ですぜ。アワビは酒蒸だったのか、それとも刺身か?ステーキか?天然氷でオンザロック?柳影でも呑んでいたのか?



やめた。自分が卑しい人に見えてきた・・・。

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ロボットは永遠に主婦にはかなわない/年輪年代法の問題点から卑弥呼・聖徳太子・石器ねつ造問題までわかりやすく

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最初は小難しい・・・しかし、だんだんわかりやすくなる。
少々がまんを。

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●年輪年代測定法 絶対年代数値への希求
「年輪年代法とは樹木の年輪幅の広狭などの変動を手がかりに、その木材の伐採年や枯死年代を誤差なく暦年でもって、正確に求めることの出来る年代測定法である。すでに、世界40ヶ国以上で考古学、建築学、美術学、地理学などの分野で広く使われている。わが国でも、試行的研究が行われてきた。

 日本列島は気候が多様で地形の変化に富んでおり、樹木の年輪は、各地域の環境差を年輪形成に反映する。そのため共通した変化変動を見ることは出来ないという考えが支配的であり、わが国での年輪年代法の実用化は難しいとされてきた。

  奈良文化財研究所は1980年から、この実用化を目指し、約三年間の試行の結果、ヒノキ、スギ、コウヤマキなどの年輪は、年輪年代法に適していることを明らかにし、年代を割り出す際に基準となる暦年標準パターンの作成を順調に進めた。」 

(*きっかけは考古学の坪井清足・上田正明らと民俗学の田中琢の強い望みで1996年4月、日本奈良文化財研究所光谷拓実大阪府池上曽根遺跡の大型建物1の柱材(ヒノキ)の年輪年代を調べ始めたときから開始 Kawa)


以下、難しいので読み飛ばしても結構。

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「 本法の原理は樹木の年輪幅を10ミクロン単位で計測し、その変化を経年的に調べていくと、生育環境が似かよった一定の地域のなかでは、樹種ごとに固有の年輪変動パターンを描くことに基づいている。こうした性質を持った樹木の年輪パターンを手がかりにすれば、同年代に形成された年輪かどうかの判別が、指紋の照合のごとく可能となる。年輪がほぼ同じ様に変動変化しているかどうかの検討がこの方法研究の第一段階であった。

 第二段階は年代を一年単位で割り出す為の暦年標準パターンを前もって作成することである。暦年標準パターンの作成は、最初に伐採年の判明している多数の現生木試料から、年輪幅の計測値(年輪データ)を収集し、これを総平均する。これにより個体差が消去される結果暦年標準パターンを作成することができる。

  つぎに、古建築部材や遺跡出土材を多数収集し、それから計測、収集した年輪データを用いて作成した年輪パターンと、すでに作成済みの暦年標準パターンを順次照合していく。その重複位置で連鎖すると長期に遡る暦年標準パターンが作成できる。年輪パターンの照合は、年輪パターンそのものを肉眼で観察する場合と、年輪データを統計的に処理する場合とがある。肉眼で観察するためには、横軸に等間隔で年代をとり、縦軸には各年の年輪幅を片対数グラフにプロットし、鋸歯状の折れ線グラフを作成する、これが年輪パターングラフである。

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図をいっぱい入れて読んでもらおうと必死に努力


 一方、統計的処理はコンピュータを用いて時系列解析の相関分析手法によりおこなっている。」
詳しく知りたい人はこちらから
http://www.honnet.jp/metro/kodaishi/k212/kodaishi02.html






●暦年標準パターン
現在、日本の年輪年代法の完璧な資料としてはスギ、コウヤマキ、ヒノキの三種(光谷1987)である。これを日本の「暦年標準パターン」と言う。

スギは建築材として、コウヤマキは棺やもがり舟材として、ヒノキは建築材などとして多用されるためであるが、縄文時代建築用材の主流であったクリについては、「現生から過去にわたる長期的な年輪のものさしである標準パターンと出土木材の年輪パターンを合わせることにより暦年代を決定することも可能」という程度の段階。欧米では多くの遺跡においてこうした年輪年代学的解析が行われているが、日本では遺跡出土木材を用いた年輪解析はほとんど行われていない。そのため、長期にわたる標準変動パターンのためのデータが不足している。しかし、標準パターンが無い場合、放射性炭素(C14)年代と年輪年代を併用したC14ウイグルマッチングによって高精度での暦年代決定を行うことが可能である。



ウイグルマッチングによる暦年代決定
二つ以上の科学的分析数値が一致すればその数値は○であるという方法

 「年輪年代では出土材の相対的な年代関係は求められるが、暦年代決定にはものさしとなる標準パターンが必要である。しかし、この標準パターンが無いため年輪年代学で暦年代決定を行うことが出来ない。そこでC14年代測定とC14年代較正曲線(Intcal04)を利用したC14ウイグルマッチング法によって暦年代決定を行った。

  測定されたC14年代は較正曲線を用いて暦年代に変換される。較正曲線の変動はその凸凹した形状からwiggleと呼ばれる(図2)。このwiggleのため、C14 年代の年代較正を行った時、得られる暦年代が複数候補あったり、誤差がC14年代のものと比べ非常に大きくなったりする場合がある。しかし、1試料内で年代間隔の分かった複数の試料を得ることが可能な樹木の場合、逆にこのwiggleを利用することによって高精度・高正度の年代較正を行うことができる。」(中村 2003)





ここからが大事!
これ以下がKawakatu独自の行動民族考古学の真骨頂。



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●樹木の乾燥(天乾 AD=AirDry)
樹木の伐採年代が数値で出たとしても、伐採と建設の間には長い乾燥期間が必要である。

その工程はほぼ2年以上かかる。

まず伐採された樹木は種類によって半年からまる一年、天日乾燥され、角材にしてさらにADさせたあと、現代では機械乾燥させるため、ほぼ2年もあれば実用木材になる。

これが古代などでは天日乾燥であり、しかも生木一本まるごと乾燥させるわけだから、それほど短期間で使えたわけではない。また、乾燥すれば当然、樹木は反り、割れが生じ、使えなくなることもある。出雲大社で出土した大木を三本、縄で縛った状態での使用は、強度のためもさることながら、そうした材木の事故を防ぐ意味合いもあったのではないか。一本ごとにもきつく縄で絞めておいて、乾燥させたのだろう。

大阪府の池上曽根遺跡で、1996年(平成8)にヒノキ材が出土。年輪年代法で分析したところ、なんと紀元前52年という数値が出て、論議が紛糾したことがある。池上曽根遺跡は土器編年から1世紀半ば(弥生時代中期後葉)と推定されており、これではあまりに時期が早すぎる。土器編年組から当然、大反対意見が続出した。学者も人間、縄張り意識が、冷徹な数字を認めたくない傾向は確かにある。穴掘り屋の多くは職人気質になりやすく、文系考古学にとって年利年代法や放射性炭素年代法といった科学的数値の判断に反発してしまう本能があるらしい。もちろん数値も確かに間違いがあることがる。

いかに数字が冷徹に科学的に導いた年代でも、その遺物には必ず古代の人間の手が入るのであり、特に材木などは乾燥期間や樹木霊魂への作法など、その他あれこれで、古代人がどれほど一本の伐採樹木に時間をかけていたかなど、なかなかわかるものではない。この池上曽根のヒノキが、もし数値どおりの紀元前に伐採された木材であっても、そこから何年かの天日乾燥、皮むき、加工後の乾燥などのどれくらい時間をかけたか、またいよいよ建造物を作るときに、現代人が考えも及ばない祭祀による「鎮魂」「安全祈願」「永遠」などの願い事をしたか、これもその時間は推定しようがないのである。さらに、木材が湯水のようにあったわけではない時代にそれがどれだけ貴重品で、何度もの転用をされているかも、これまた数値には表れないのである。これらつまり文章で言うなら「言外(数値外)にある」準備期間、モノ忌みの時間の長さ、白鳥の水の中の足のような隠された時間の経過は、まったく予測がつかないのだ。

紀元前52年にこのヒノキが伐採され、池上曽根で建材として使われるまでに、100年の隔たりがある。その100年間、さてこのヒノキの越し方は、まさに古代史の「謎の四世紀」にも匹敵するほどの謎の100年だったわけである。


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2005年(平成17)、櫻井市の纏向勝山古墳の周濠(しゅうごう)からほぼ一本木をカットしたヒノキ角材が出土。サイズは縦26cm、横41cm。推定伐採年代は3世紀初頭と発表された。しかしこの木片には樹皮残存がなく、実際の大きさが不明であったため、当初の数値は西暦199年と出ていた。そこに人的考慮による補正がなされて3世紀初頭となった。この「人的推測」が実は怪しいとも言える。いわゆる纏向勝山を卑弥呼の直前時代にマッチさせたいという近畿学者の意向はそこにはなかったか。そこが見えないから疑わしいことになる。勝山の土器群は土器編年からは3世紀後半だったからである。

もし3世紀初頭伐採の材木の、それが建材の端切れだったとするならば、この古墳は、纏向古墳群で最古、言い換えれば日本最古の古墳であることになるのである。しかし199年にすでに伐採され、ADを経たのち、土器編年どおりの3世紀後半になって使われたのならば、勝山古墳こそが卑弥呼の死んだ時間帯の古墳?ということになるわけだ。纏向勝山こそが卑弥呼の墓と言ってもわれわれは別にいいのである。しかし、発表は3世紀初頭になった。ならばそこから数十年後の3世紀後半の古墳に使われたのでは早すぎる・・・と考えたのだろうか?池上曽根の材木の、あまりに早い伐採数値が、古代の天乾や転用の100年間を分析者に考慮させる結果にならなかったかは気になる。



こういうことなので、数値といえども人の手にかかれば、本当に厳正なものかどうかも判断ができなくされてしまう。これが人間である。こんなことだから考古学がいつまでも信用されないのではないのか?



こうした流れから再燃しはじめた大きな謎のひとつが、法隆寺再建・非再建論争だった。法隆寺「心柱」の年輪年代測定値が、594年(推古2年)と出た。そして屋根材の数値が624(推古32)~663年(天智2)と出る。古い木材と天智時代の木材が混ざっていたわけである。つまり結果的に、法隆寺は間違いなく再建、あるいは修復があったのだということに落ち着いた。現代でも、歴史的建造物の大修復では、極力古い材料を、使えるものなら再利用する手法が取られており、当時もそうだったはずである。ただ気にかかるのは、白村江敗北で、唐が攻め込むかも知れない機運の中での再建である。ここを疑うものも当然いる。筆者は逆に考える。天智時代に、実はそういう機運などなかったと。それは創作された『日本書紀』のうそであったと考えるのである。

中国ではその頃、新羅にそれ以上の助力もしていない。なぜならそのときの唐の高宗皇帝は高句麗さえ滅ぼせば、それ以上のいくさはしたくなかったのである。高宗という人は、欲のない性格で、ほとんど政治にも興味をしめさない人であった。だから高句麗を滅ぼして絶頂期を迎えると、もう趣味の人に落ちており、だからこそ則天武后の台頭を許してしまうのである。日本はつくづく運のいい国である。

天智はそれを知っていた。だから国内での海外出兵敗北によった自分の人気度を、いかに高めるかに腐心してよく、そのための空騒ぎ演出だった。防人九州出兵も、水城や山城建設も、そして法隆寺再建による聖徳太子を国家統一スローガンにした。それは同時に、「白村江敗北は滅ぼした蘇我氏の祟りだ」「だめ大王だ」と言われないがための「逆手」にとる作戦であった。蘇我氏出身の過去の聖人の噂が宮内に存在したのを、それまで以上に燃え上がらせる。それは自分が殺した蘇我氏の祟り封じと鎮魂にもなる。そして厩戸こそは聖人君主の誉れであったとし、自分の反対勢力・・・つまりかつての蘇我氏残存氏族の援助を画策したのである。この空騒ぎによって日本は唐に対して一丸となって立ち向かうことにならざるを得ない。何しろ外敵相手に内乱している場合ではないと思い込ませればよかった。こうしてどさくさの中で天皇となっているのが天智である。




旧石器ねつ造問題以後、旧石器考古学では光ルミネッセンス年代測定法を使うようになった。これは石英や長石などの鉱物に光を照射して発光するルミネッセンスが被爆した放射線量に比例する性質を用いている。最初は長崎県の入口遺跡の石器で使用され、それが発表された。これはあの上高森遺跡での石器ねつ造によって、土壌はすでにC14測定法で旧石器時代のもので間違いない数値(約52万年前)が出ていたのに、石器の大嘘がおきたために、その土壌数値まで疑われたことへの反省からである。

上高森遺跡の名誉のために言うならば、あの場所は石器など出なくても、すでに間違いなく旧石器時代の遺跡だったのである。それは知っていてねつ造を行ったのが彼である。まさに計画的犯行と言える。そしてその遺跡に彼が置いた石器は縄文時代のものだった。学者たちはそこが旧石器時代の遺跡であることに核心があったから、なおさらそれを疑わなかったのである。石器の時代の相違などすぐにはわかるものではない。そもそも石器が出る出ないは、問題ではなかった。ただ彼の置いた石器は穴掘り屋には欲しい物的証拠だった。それが一番大きかった。これもあまりに人間的な欲望による錯綜である。


科学は数値。数値は正しい。しかしそれを扱い、理解する人間には常に問題がある。そして数値はその奇妙な人間の行動を推測することは決してできない。

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ロボットは今後もあらゆる世界に入り込んでくるだろう。ロボット科学者がラジオで語っていた。しかし、家事、台所仕事、掃除・洗濯という主婦たちの仕事まで肩代わりするロボットの登場は最後の最後になるだろう、あるいは不可能かも知れないとも語った。

人間の手作業、行動には、機械や数値では手の届かない、素晴らしい動きが存在する。主婦の仕事は多種多様でありすぎて、ロボットには困難だと言うのである。それは科学の限界が、外へ向かう宇宙ではなく、インナー世界、人間の生物としての構造にあることを言っているわけでもある。

高い棚の上にある鍋を動かして、ふき掃除し、鍋はコンロで湯を沸かし、出汁をとり、味噌汁を作る。ロボットには、おそらくそれすらできないだろう。確かに人間は不可解だ。うそもつく。ねつ造もする。しかし、同時にすべての人間はロボットよりもスムーズに、一度に多くの作業をやりこなす。同時にいろんなことを考える。



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これくらいならできます。



ロボットは主婦には勝てない。つまり卑弥呼や持統天皇に、学者は勝てないってことだね。永遠に。





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藤原不比等の父鎌足、「東照権現化」計画 阿武山は豊璋の墓

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これはさっきの記事のおまけです。



「拝殿から本殿をじっくりと眺めると、日光東照宮に似ていることに気が付く。
其れもその筈、東照宮が談山神社・本殿をモデルとしたのだそうです
天井の装飾の華美なところも似ています。宗旨も同じく天台宗とのことです。」
shinerestaurantrestaurantrestaurantshine



そう、鎌足は不比等によってそのイメージを創出された藤原氏の東照大権現なのである。



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阿武山古墳遺品レプリカ




藤原鎌足不在論・東照権現化計画
鎌足イメージを作ったのは息子の不比等である。
阿武山古墳被葬者はそもそも鎌足ではなく、新羅に敗れて逃げてきた百済王豊璋だった。

だから被葬者の髪からは砒素が検出された。不比等は豊璋を鎌足の死体に仕立て上げたいために、豊璋を徐々に殺していき、父として摂津に埋葬。大職冠帽を、記紀に書いたとおりにそっと置かせた。そしてその後、古墳祭祀は春日氏にまかせてほったらかし、談山の自分の十三重石塔のある墓所の前に巨大な「東照宮」を建て、鎌足は本当にいたんだと神にしてしまう。

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華麗極まりない談山神社の鎌足供養等




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一方、談山神社境外にひっそり祭られる淡海公(藤原不比等)Kawakatu撮影







鎌足の南北ライン
北から比叡山、日吉大社ー春日山、春日大社ー石上神宮ー三輪山、大神神社ー談山神社ー吉野山、吉水神社ー熊野那智大社

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鎌足の山科居宅跡ーー春日大社-ー談山神社ーー吉野宮滝ラインが重要。


吉野は天武が移住したところ。藤原ラインはその真北に並ぶ。
天武の仮宮よりも藤原氏が北=天子の位置に並ぶことになる。
これは不比等の構想に、天武を排除する意識があったともとらえられる。




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談山神社 藤原鎌足坐像

あきらかに不比等は父を神としている。




過去記事から
レンガの一致で阿武山古墳鎌足墓説は証明できるか?三島別業と軽皇子と多武峰略記の陰謀

昨日(2014年10月10日)の考古学ニュースで大阪府摂津地域にある茨木市東奈良古墳から、同じく茨木市の阿武山(あぶやま)古墳から出ていた塼(せん・焼成レンガの一種)とよく似た一枚の塼が出たと発表があった。
日経新聞など
 
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塼を拡大した画像 もっと拡大できます。
 
 
 
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うねるような渦巻きの連続模様でよく似ているのだが・・・?
微妙に違うとも、色が違うとも見えてしまう・・・?
 
 
 

●鎌足三嶋別業
「『日本書紀』は、大化の「改新」の偉業を目前に控えた皇極三年春正月、中臣鎌足(なかとみ・かまたり,614~669)が、神祇伯(長官)への就任を固辞して「三嶋の別業」へ引きこもり、改革の進め方についての思案を重ねたと伝えているのですが、彼の本業(本拠地)が大和国のどこかであったのに対し、もう一つ、安心して思索にふけることの出来た場所が摂津国三嶋の地にあったようなのです。

確かに『大阪府全志・巻三』という書物によれば、摂津国嶋上郡だけをとってみても天児屋根命を祭神とする春日神社、八幡神社などが二十近くも鎮座、奈佐原には彼のものではないかと推察されている阿武山古墳が存在しています。また、三嶋という土地そのものが早くから開発され、大和の中央勢力との結びつきを強めていたことが「記紀神話」でも度々語られていますから、鎌足の「出世」を支えたに違いない、確かな地盤があったことを想像させるのです。」
http://www.ten-f.com/kamatari-to-mishima.htm
 
三島に別業(別荘)を持っていたのは鎌足だけではない。
高槻に孝徳大王即位前の軽皇子も別業を持っており、そこへ鎌足は訪問し、最初の蘇我入鹿暗殺計画を打ち明けている。
 
東奈良遺跡は集落遺跡で非常に大きな遺跡でもある。
 
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瓦や塼のデザインには流行もある。近くで出たから同じ人のものとは言えない。
 
 
ではこれまでのほかの遺物や記録での分析はどうなっているか見てみよう。
 
 
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阿武山古墳は鎌足の墓か?

●考古学から
「まず、近年の阿武山古墳ニ鎌足墓説2) を挙げると、猪熊兼勝氏がX 線写真から新たに判明した冠などを拠り所に主張しており[猪熊 1988 ・ 1994] 、直木孝次郎氏も文献史料の再検討から猪熊説を肯定している[直木 1988] 。

考古学でも一般に、鎌足墓とする見解が根強い[梅本ほか 1995J 。それらに対して、奥田尚氏は、文献史学の立場から猪熊説に異論を提示している[奥田 1997 a J 。続いて、中村浩氏は、出土須恵器が鎌足の没年には合わないと指摘し、文献史学による既往の研究成果もふまえ、当該古墳の被葬者は藤原鎌足ではないとしている[中村 1998J 。」
 
「阿武山古墳が尾根項上部に単独で立地する点や須恵器の出土地点・出土状況から考えて、後に他の時期の遺物が混入する余地はほとんどなく、森田克行氏などの指摘のように、内容的なまとまりからみても、この阿武山古墳に伴う須恵器と考えざるをえない[森田 1983J [中村 1998J 。
 
それを前提に、須恵器の実年代観をみていきたい。この点については、実に様々な見解が出されている。猪熊兼勝氏は 7 世紀初頭とみなし[猪熊1988J 、森田克行氏は 7 世紀第 2 四半期の前半を下らないもので、 7 世紀の第 1 四半期と第 2 四半期の聞とする[森田 1983J 。そして中村浩氏は、7世紀の第 2 四半期、さらには640-650年頃に置き[中村 1998J 、ごく近年の研究として佐藤隆氏は、阿武山古墳を藤原鎌足墓かという想定のもとに、実質的には 7 世紀第 3 四半期頃に位置付けている[佐藤 2003J 。」

「まず、阿武山古墳出土須恵器について最もまとまった検討を及ぽしているのが、中村浩氏である[中村 1998J 。しかし、中村氏の当該期の編年案は、杯H (図 1-8 ・ 9 ほか)と杯 G (図 1 -10 ・ 11 ほか) 3) を主な指標にII ・ III型式に大別するが、杯H と杯 G を一系列的な型式変遷とみなす点で、既に指摘があるように問題視せざるをえない[佐藤 2003 ほか]。
 
そうなると、飛鳥地域の消費地資料に基づく編年案 (1飛鳥編年J) が、年代推定根拠を伴うことも合めて、現状では最も妥当性の高いものと言える。ところが、その飛鳥編年も編年指標などの点では、必ずしも固まったものではない。本来は筆者独自の編年設定を行うべきかもしれないが、資料不足の部分もあるため、さしあたり一括土器群が出土した飛鳥地域の標識的な遺構資料をそのまま用いて、比較検討してみたい。
 
ただし、阿武山古墳は摂津に住置し、その出土須恵器の産地が陶邑窯とは言えないため、厳密には飛鳥地域出土品の主な供給源である陶邑窯製品と直接比較しうるかは問題になる。しかし、同じ畿内では、産地による大きな差異が認めがたいので、飛鳥編年とも大きく雌軒するものではないと判断しておきたい[佐藤 2003ほか]。」
 
「これらの諸点から判断すると、阿武山古墳出土須恵器は飛鳥 II 末の水落遺跡段階より古い様相であり、大津京遷都 (667年)以降にまで下ることは考えがたい。そうなると、阿武山古墳出土須恵器を、鎌足の没年である 668年に当てるのは、かなり困難となる。また、より細かくみると、山田寺下層や甘橿丘焼土層よりは、杯H 身の立ち上がりがやや棲小で、法量も小さい。しかしながら、杯H 蓋や杯 G 身からみて、坂田寺段階ほどに法量は縮小しておらず、飛鳥池溝などと近似する様相だと言える。もちろん、厳密に言えば、消費地一括品の法量にもぱらつきはあるため、あまりにも細かな年代比定は、方法的に限界を有しているが、上記のことをふまえて阿武山古墳の築造年代を推測すると、 640年代でも後半、 650年前後になる可能性がより高いものと思われる。」

「以上のように、近年の資料蓄積をもとに出土須恵器を再検討する限り、
阿武山古墳=鎌足墓説は蓋然性が低いと判断せざるをえなくなる。」




●文献から
「摂津三島の阿武山古墳に近接して「安威J という地名が残るが、それを冠する山、「阿威山j が鎌足の墓所としてみえることが、何よりも阿武山古墳=鎌足墓説の根拠である。そして、それを記載する史料としては、『多武峯縁起』がよく知られている。この縁起は、一条兼良の述作で、室町中期、15世紀中頃に成立したとみられることが多かったが、同内容で永済の草案により暦仁 2 年 (1239) に成立したという詞書を持つ『大織冠縁起』の存在が確認されたため、成立年代が大幅に遡ることになった[牧野 1990J 。それに先立つ史料としては、建久 8 年 (1197) に成立したとされる『多武峯略記』があり、その内容は取捨選択されて『多武峯縁起』に受け継がれている。『多武峯略記』には先行史料からの引用文を示しており、それが鎌足墓阿威山説を記す最も古い史料となる」
 
「以上みてきたように、文献史料をもとにする考察からしても、阿武山古墳が鎌足墓であることは、ほぽ否定されるものと思われる。」
 
 

 
 
 
◆そもそもなぜ改葬後の古墳に遺体も遺品も残されているのか?に気づかないと

摂津三嶋に別業を持っていたと書かれた人物は鎌足だけではない。軽皇子も三嶋に別業を持っていた。

今回の塼の類似が、阿武山=鎌足墓と決定するに充分な考古資料かはまだだと言うしかない。
なぜなら瓦や塼には、時代ごとにブームがある装飾品だからである。
摂津の窯では、この渦巻き模様が流行っていて、たまたま同じ摂津の阿武山古墳と東奈良遺跡の塼が同時期のものだから同じ窯の同じ職人によってとしても、なんら不都合はない。大量生産できる塼の模様が一致したからといって、奈良の多武峰への改葬が不比等によって行われたので、多武峰(談山神社)周辺からこの塼が出れば、阿武山鎌足墓説はようやく確実なものになるのである。
 
 
 
●東奈良遺跡
東奈良遺跡(ひがしならいせき)は、大阪府茨木市の南部、阪急南茨木駅から東側一帯にある、弥生時代の大規模環濠集落の遺跡。1973年、大阪万博とともに新設された南茨木駅周囲一帯の大規模団地建設の際に発見された。南茨木駅の東300mに、出土品を所蔵・展示した市立文化財資料館がある。

(この付近は「沢良宜(さわらぎ)」と呼ばれ、主な神社に「佐和良義神社」があり、迦具土神がまつられている。 カグは銅の古語であり、サワラギもサワラ(銅器)ギ(邑)となることから、この一帯が銅製品の加工と関係が深かったことがうかがい知れる。)
 
 
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出土した銅鐸鋳型

この集落が、奈良県の唐古・鍵遺跡と並ぶ日本最大級の銅鐸工場、銅製品工場であり、弥生時代の日本の数多くの「クニ」の中でも、各地に銅鐸を配布することができるほど政治的に重要な位置を占めていたことがうかがえる。

 大阪府北部の三島地域は古代から藤原氏ゆかりの地とされるが、三島別業の場所はよく分かっていなかった。藤原氏の氏寺である奈良市の興福寺に残された文献から、遺跡近くの茨木市沢良宜だったとの説がある。

大阪府高槻市土室町(はむろちょう)上土室(かみはむろ)には土師氏の釜跡新池埴輪窯が残されているが、ここで焼かれたのは今城塚や大田茶臼山などの継体大王時代の埴輪ではないかと思われ、鎌足とは時代がかなりかけ離れてしまう。
 
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新池埴輪窯
 
 
 
今回の塼がどこの窯で焼かれたかが重要である。東奈良は広域な集落遺跡ゆえに、同じ塼がほかにも見つかっておかしくないだろう。それらがどこで焼かれたか、つまりそれが鎌足の改葬墓がある奈良、あるいは居宅のあった山科や将軍塚付近ででも見つかったり、焼かれたことが分かれば面白くなる。
 

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これだけでは阿武山鎌足古墳説は決められない。

摂津三嶋地域はこれまでに筆者も三度訪問しているが、春日神社などの痕跡は、藤原氏が奈良春日山に大社を建てるために在地春日氏を同族化したことに由来して、あとづけで建てられたものという考え方もできるのである。そして『日本書記』の三嶋別業記事もそうだが、鎌足と天智の乙巳の変すらもなかった可能性もあるのである。これらの一連の記事は、軽皇子つまり孝徳大王(天智の叔父)の三島別業(高槻市古曽部町説もあり)であった可能性はないか?

阿武山古墳(あぶやまこふん)は、大阪府茨木市と高槻市の境にある阿武山(標高281.1m)の山腹にある。阿武山は安威川と芥川の間に立つ丘陵で、周囲からも良く見え、なおかつ山頂から大阪平野のほぼ全部を見渡すことのできる場所である。この古墳は「貴人の墓」という別名でも知られ、被葬者は藤原鎌足説があるなど、高貴な人物であったことは間違いない。とWikiは言う。

そしてこの発見は大阪朝日新聞のスクープで知られるところとなり、「貴人の墓」として反響を呼び延べ2万人に達する大勢の見物人が押し寄せた。
当初からこの地にゆかりの深い藤原鎌足が被葬者だとする見方もあったが、これは平安時代中ごろから「多武峯略記」などに、「鎌足は最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が紹介されていたからでもある。(実際に、江戸時代には阿武山の近くの安威集落にある将軍塚古墳が鎌足公の古廟とされて祀られていた。)とも書いている。とりあえず朝日が最初に騒ぎ立てたのはちょっと気になる。
 
「1982年、埋め戻す前のエックス線写真の原板が地震観測所から見つかった。1987年分析の結果、被葬者は腰椎などを骨折する大けがをし、治療されてしばらくは生きていたものの、寝たきり状態のまま二次的な合併症で死亡したこと、金の糸の分布状態からこれが冠の刺繍糸だったことが判明した。しかも漆の棺に葬られていたことや玉枕を敷いていたことなども考えると被葬者は最上位クラスの人物であったことは間違いない。
 
これらの分析結果が鎌足の死因(落馬後に死去)と一致すること、この冠がおそらく当時の最高冠位である織冠であり[1]、それを授けられた人物は、史上では百済王子・余豊璋を除けば大織冠(授受者は)鎌足しかいないことから、被葬者はほぼ藤原鎌足にちがいないと報道された。
 
しかし被葬者として鎌足の同時代人の蘇我倉山田石川麻呂や阿倍倉梯麻呂(内麻呂)をあげる説もあり、阿武山古墳が鎌足の墓所だとはいまだ断定できない。」同じくWiki阿武山古墳
 

阿武山が鎌足の最初の墓であったという背景は、
●まずこの安威地名の藤原氏資料文献との一致
●大織冠のX写真発見
●その後、この冠から赤い繊維が見つかり、それは確かに大織冠に貼られる布の色だった
●被葬者の髪の毛から、当時は身分の高いものしか使えない高価な砒素成分が検出
●そして記録の三島別業での隠棲記事と、すぐそばに最初密会した軽の別業があること

などなどによって主に文献史学の直木孝次郎が間違いないと言われたのが始まりである。しかし一時的に隠棲した別業の近くに墓を造るのも奇妙ではある。
 
『日本書記』も「多武峰略紀」も権威、直木も権威、考古学資料もはでで明快だったから、全員が引き込まれ、一時は間違いないとなっていった。しかしその後の調査では上記の記事のように、「ありえない」のではないかへと向かうこととなる。そこへ今回の塼。
 
それよりも筆者はこの塼のデザインである渦巻きに眼がいった。
長寿の秘薬と信じ込まれていた砒素を服用した阿武山の被葬者ならばこそ、永遠の渦巻きも手に入れたのだろう。しかし砒素は当然少量なら薬品にもなろうが、なにしろ猛毒。常用すれば死をはやめてしまうもの。
 
この阿武山に残された金糸をまとった貴人の遺骨がわからない。不比等が多武峰に改葬したのなら、なぜ遺骨がそっくりそのまま古墳に残されているのかという素朴な疑問である。しかも大職冠やヒスイの玉枕のような貴重な遺品もそのままにしておくはずがないだろう?そう考えると、どうも一連の『日本書記』や藤原氏自身の伝記である「多武峰」記録は、わざわざ書き残された感が強くなった。

また被葬者は肋骨が三本欠損しており、これは記録にある鎌足死の五ヶ月前に狩猟に出かけたとあるのが原因の落馬事故であろうという説もあり、いよいよ「阿武山は鎌足」を押し上げたことがある。略記の記事には「墓は安威の阿威山にある」とあって、阿武山と一致していない。もちろん阿威から阿武へのその後の変化や、誤った地名の伝承が起きたとしてもおかしくはないのだが。

阿武地名については以前分析した。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56499708.html
 

それはアラビア語の花崗岩だとしてある。
その後、高槻市の阿武山古墳石室の解説に、
「石室は花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルを組み上げ、内側をしっくいで仕上げた墓室があり、漆で麻布を何枚も貼り固めた夾紵棺(きょうちょかん)が安置されていました」

というのを発見。やはり花崗岩を切り出してきて運び上げたので、そのときから阿威山を阿武山と変更したのではないかと思えたものである。
 
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さて、今回の発見は鎌足墓阿武山説をどう動かせるのか、興味津々。
またまた『日本書記』などの記録の大々的な捏造か?不比等の画策のひとつだったか?

そういう気がしてきた。鎌足と天智の存在を疑う。

天智天皇陵がわざわざ藤原京の真北に作られるのは、『日本書記』編纂の後である。ここにも不比等の意図が感じ取れる。つまり不比等は天智を正統な天子としたのである。だから阿武山が奈良から見て北西にあるのもあまりに意図的に見えてしまうのだ。もしや阿武山と言う孝徳あたりの貴人の墓を親の墓に仕立て上げたのではないか?



と、ここまでが去年の筆者の想定。
すると・・・?
孝徳天皇=百済王豊璋説がにわかに浮上するのだった。



孝徳大王は乙巳の変の首謀者だと考えてよい人物。
天智・天武の叔父。皇極の弟。軽皇子。
前期難波宮の盟主。

推定、天智・鎌足を手足にして蘇我氏本家を壊滅させ、中国との貿易外交を推し進めようとしたが、諮られたと感づいた天智に裏切られ、あえなく衰弱死。


その後天智、近江で即位。
天智の墓は、藤原京の真北、京都山科の鎌足別業近くに、不比等によって移築された。不比等は天智を太乙(たいいつ、中国の天子)とし、その後の天皇家の祖人、中興の祖としたのである。

同様に、父鎌足もまた山科から談山神社へ改葬し、天智天皇陵を北に見る多武峰へ移す。そこを自らの墓所とし、父鎌足を談山神社の権現化させた。

阿武山古墳には豊璋=孝徳が葬られていたが、これを鎌足と偽装。
一時的な百済王家の天皇家乗っ取りをこれによって抹消し防いだのである。
蘇我氏は要するに、新羅系王家だったのであろうという推定が可能で、そのために百済王豊璋がこれを誅殺したことになる。
この孝徳の事跡を、『日本書紀』では天智と鎌足の誉れ高き事跡とし、変更。
すべては自らの摂政・右大臣の正当性を、ひそかに描き出す。
そして女帝持統を推挙し、その即位を、実際には則天武后即位の後だったのを、前倒し。彼女の孫・文武へのすみやかな王位禅定を後押しした。

しかし、他の豪族らのバッシングも会って、中継ぎに女性をおくことになる。


阿武山、多武の両方に共通する「武」の文字は、すなわち、鎌足をかつての武内宿禰に擬似させる地名であり、それは蘇我氏が葛城氏・紀氏から簒奪して得た宰相の地位を、藤原氏が受け継いだことを意味していた。ヤマトタケルの宰相だった宿禰とはそもそもは蘇我氏三代にわたる宰相政治の象徴だったが、これを引き継いだとすることで、不動の地位を得ようとしたのであろう。そしてそれを正当化するために乙巳の変によって蘇我氏は、父の英雄的行為で滅ぼされるのが当然としてしまうのである。もともとやったのは孝徳にだまされた天智で、鎌足はただ三島に隠棲していたに過ぎまい。実際の鎌足にはさしたる偉業もなかったのかも知れない。

すべては不比等のもくろみであろう。





まあ、読み物としてはなかなか面白い妄想ができあがった。







おまけのおまけ
砒素検出法
1960年代に、フランスでナポレオンの頭髪を中性子放射化分析法によって調査。大量の砒素が検出された。これによってナポレオン暗殺説が決定的だと考えられるようになった。

鉄器に含まれるアンチモンや砒素は検出が簡単で、結果からその鉄が朝鮮半島産であることがわかっている。






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揚げ物考

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揚げ物は世界共通で底辺の調理法である。




■被差別の食卓
そうした差別されてきた人々の食べる食事には、世界的に共通性が必ずあるそうである。
1 一般人つまり差別する側が食べないで捨てた部分、食べる習慣のない食物をメイン材料とする
2 骨ごとフライにしてすべて食べる
3 骨もなにもかもごった煮にして
4 濃い味付けで
5 油の味をうまいと表現する
6 動物の内臓や皮や足を使う
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53759467.html


被差別の食卓については、過去、大阪の部落出身のジャーナリスト上原 善広(うえはらぜんこう)の著書『被差別の食卓』をテキストにしていくつかの記事を書いてきた。その基本に油で揚げる調理法、豆を多用するメニュー、内臓料理などの世界共通の特徴があることは、すでに何度も確認している。



要するにエグゼクティブたちが破棄した生ゴミをいかに食べつくすかで、彼らの命は永らえてこざるを得なかったということである。


現代においては、これらの最下級の人々の料理法が、グルメのトップクラスと認識されていることも知るべきである。

天ぷら、まぐろ、寿司、もつ煮込み、あげ玉、うなぎ蒲焼などなど。すべては江戸庶民のという接頭語つきで、今の日本料理を彩る重要なメニューとなっているが、実は「江戸」は江戸でも「庶民」から生まれたとは言いがたいしろものばかりだった。
ファーストフードのすべての始まりが、実は被差別から生まれたと言っても過言ではない。


問題は彼らが被差別だったことなどではない。過去、1000年以上の歴史の中で、いかにエグゼクティヴたちが贅沢を独り占めしてきたかが問題なのである。言い換えると歴史の勝者だけが、その奢った口を満たすために、底辺のどれだけの人民を差別化し、階層化して、その贅沢に奉仕させ続けてきたかが、歴史でもあるのだ。という発想をあなたが持てるか持てないかが重要だと言っているのである。



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すべて被差別の料理に起源を持つグルメである。




あなたが、これまで食べたものを思い出していただきたい。
その大半はそういう料理である。
高級な銀座のフレンチや、有名料亭の淡白な料理では、なにかこう満足できず、家に帰って茶漬けなどすすってしまうあなた。それはつまり舌が卑しいからなのである。

がっつり系の食事ではないと満足できない、飲んだら最後はラーメン、やっぱり油を使っていないと満腹しない、肉よりも内臓や牛脂がいい・・・・

すべてはあなたをぼくを語っている。




それが敗者だった先祖から受け継いだ卑しさである。




お忘れなく。




「すき焼きは牛脂が楽しみなのよ」加藤茶の言葉。
その結果、彼がどうなったか。
よく考えねばなるまい。
福島の貧しい辺境のせがれである彼の、畢竟到達したところは高脂肪摂取過多による昏倒と、再起しても健常には生涯もどれない肉体である。



卑しいとは何か?
考えねばならない。




ああ、昨日から歯が痛い。
虫歯をほったらかしていたら、大臼歯に大穴が開いてしまい、じくじくして、かむこともできぬ鈍痛が責める。これもまあ、先祖の祟りであろう。





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カスパーの公式

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カスパーの公式【Casper's formula】
法医学における重要な公式で,空気中に1週間さらされていた肉体に起こる腐敗の程度は,水中に2週間,また土中に8週間おかれたときにみられる腐敗の程度に等しい.
この公式は腐敗の速度が一定の割合で起こるものとされているが,腐敗・分解の起きている死体についてその死亡時期を推定するための経験的な法則となっている.ただし,温暖な気候区域においてのみ有効である.
https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%85%AC%E5%BC%8F-788202

この法則は主に犯罪捜査に多用される公式である。
人間だけに限ったことではなく、動物の骨や”つの”も有機物として同じ腐敗行程を経る傾向にある。

死体の空気中、土中、水中での腐敗進行度が、それぞれ8:2:1であるというものである。

つまり骨の腐敗は、空気中>土中>水中ということ。鉄器,
樹木・布製品 などでも水中や湿気の強い場所では残存率が高くなる。空気に触れないからだ。しかし日本の土壌は酸性が強く、特別な条件でなければ人骨などは残りにくい傾向にあるので、この欧米での腐食進行率は土中腐食割合が欧米などに比べてかなり高くなる。

ただ、貝塚のようなアルカリ性の強い土壌では、骨はほとんど腐敗しないことがある。

ゆえに日本古代の人骨発見は縄文人に偏る傾向が強い。それは当然、DNA遺伝子分析の弥生時代人のデータ不足を招く。



1926年、千葉県姥山貝塚の住居のひとつから五体の人骨が折り重なって出土した。ここも貝塚の中にあったために完全体で残っていた。長野オリンピックの開発の際に300体もの遺骨が出たが、ここは地下水が微アルカリ性だった。ここで発見された遺骨の歯には虫歯があった。縄文時代中期に虫歯があったことがわかった。

一般に、現代のアフリカ原住民などの、砂糖を食べない生活では虫歯はできにくいことが言われている。実際、縄文人やほかの地域の旧石器人、新石器人にもほとんど虫歯は見られない。ただ歯科医の世界では、虫歯は母親の口から「感染」するもので、遺伝が関与するとされているらしい。口移しで赤ん坊に食物を噛み砕いて与えると、親の虫歯菌も赤ん坊に感染するという。もちろんそれが父親でもそうである。だから、赤ん坊に食べ物を与えるときは、まず自分が虫歯になりやすいかどうかを自覚する必要があるそうだ。すると、長野のこの縄文人は代々、虫歯になりやすくなるための、なんらかの要因がかつてあったことになるだろうか。砂糖のない時代に、砂糖成分を持つなんらかの食物があったということになるだろうか?ならばそれはいったい、なんだったのだろう。


最も先土器時代人遺骨の発見が多いのが沖縄県である。これは土壌の相違である。港川人の遺骨は、今のところ、奄美に及んでいないという結果が出ている。



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法隆寺金堂釈迦三尊像銘文疑義とテレビ放映の無責任と

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法隆寺金堂釈迦三尊像銘文
法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼
 前太后崩。明年正月廿二日、上宮法
 皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、並
 著於床。時王后王子等、及與諸臣、深
 懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋
 像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安
 住世間。若是定業、以背世者、往登浄
 土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后
 即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、
 如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
 具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、
 出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共
 彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、
 同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。



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(読み下し文)  池辺の大宮に天(あめ)の下、治(しら)しめしし天皇(すめらみこと=用明天皇)の大御身労(いたつ)き賜いし時、歳は丙午に次(やど)りし年に大王天皇(推古天皇)と太子(聖徳太子)を召して誓願し賜いて、「我が大御病太平(やすら)ならんと欲し坐(ま)すが故に、将に寺を造り薬師像作り仕え奉(まつ)らんとす」と詔(の)りたまいき、然れどもその時に崩じ賜いて、造り堪(た)えざれば小治田大宮に天の下治しめして大王天皇(推古天皇)及び東宮聖王(聖徳太子)は大命を受け賜いて、歳は丁卯に次(やどり)し年(推古15年)に仕え奉りき


(要約)  池辺大宮(池辺双槻宮)で国を治められていた天皇(用明)が病気になられた丙午(586)年に大王天皇(推古)と太子(聖徳)をよばれて、我が病気平癒を祈願して、寺(法隆寺)と薬師如来像を造るとおおせられた。しかし、天皇が急に崩御されたので造ることができなかった。そして、小治田宮で国を治められていた大王天皇(推古)と東宮聖王(聖徳太子)は、丁卯(推古15・607)年に造り大命を果たした。





「推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた。」

この銘文が本当に7世紀の文体で書かれたかに、いくらかの学者が疑問を持っている。

もちろん仏像そのものの様式も、同じく、後世のものではないかという意見もある。


つまり後世に、この仏像も銘文もねつ造された可能性である。
最大の理由は「天皇」である。天皇用語は天武を遡らないからである。
また用字法が古くない。
金堂屋根には推古時代の古い材木と天智時代の新しい材木が使われている部分がある。
つまり法隆寺は天智時代に一度修復されたことは間違いなく、そのとき、あるいはもっとあとの聖武時代の光明皇后による銘文だったのではないかと考えられる。
決定的なのは三尊像を除去したときに、台座に残された漆塗りの空白部分が、円形であったこと、その円にぴったりの仏像は、救世観音像だったこと。そしてその救世観音は明治になってフェノロサが発見するまで、夢殿の中に晒しを巻かれた姿で秘匿されていた。つまり釈迦三尊像はあとからそこに置かれたことがわかった。


過去記事より
3 ★3法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘文後世刻印の根拠
●「法皇」という表記があるが、これは法王と天皇を組み合わせた言葉で(福山敏男1935)、天皇という言葉がまだなかった飛鳥時代のものとは思えない。

●「法興」という年号は『日本書紀』だけが記録したもので、法隆寺は法興寺と呼ばれていたからここだけに使われた年号だろうが、そもそも法隆寺が法興寺とも言われたのは『日本書紀』にしか記述はなく、しかもこういう漢風年号の使用は飛鳥時代にはまだあり得ない。法隆寺は飛鳥時代には「アスカデラ」、仏教が入ってから法隆寺、天武天皇の頃には「元興寺」である。法興という年号使用も法興寺という寺名も、実際には飛鳥時代にあるはずもない。

●「知識」「仏師」という語も見えるが、これらも飛鳥時代には存在しないはずの仏教専門用語であり、生まれたのは仏教がかなり浸透してからである。

●銘文は刻印であるから仏像鍍金後にいくらでも刻める。

●金堂改修工事のさいに三尊像が台座からおろされたさいに、そこには三尊像の四角い台座に合致しない、丸い漆の塗り残しが発見された。その後の分析でこの円形にぴったり合うのは救世観音であるとわかった(NHK)。この救世観音像を撤去して釈迦三尊像を置いたのは天智天皇であることもわかった。つまり釈迦三尊像そのものも、飛鳥時代の仏像ではなく天智天皇時代から持統時代のものとされた。

●ということは勿論飛鳥時代の仏師である止利の作品ではない。
つまり鍍金の上から刻印されたこの銘文は後世のものである。
参考文献大山誠一『天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト』NHKBooks 2009




このことをNHKBSは数年前に分析結果として一旦番組にしてある。にも関わらず、最近の放送では銘文を正しいものとして番組を作った。まったく一貫性がなく、新説をランダムに垂れ流しているだけに見える。



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[転載]ロヒンギャ

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ロヒンギャという語は、はじめ「ラハム(Raham)」と呼ばれていたものが、後に「ローハン(Rhohang)」となり、そして最後に「ロヒンギャ(Rohingya)」(またはロヒンジャー)へと変化したとする説がある一方、歴史家からは、いかなる資料からも1950年代以前にこの語を見出すことができないと主張している(cf. Aye Chan)。

チッタゴン(バングラデシュ第二の都市 Kawa) から移住したイスラーム教徒がロヒンギャであるとの学説があるが、英領インドから英領ビルマへ移住したムスリムには下記のように4種の移民が存在しており、実際には他のグループ[2]と複雑に混じり合っているため弁別は困難である。

ビルマ人の歴史学者によれば、アラカン王国を形成していた人々[6]が代々継承してきた農地が、英領時代に植民地政策のひとつである「ザミーンダール(またはザミーンダーリー)制度」によって奪われ、チッタゴンからのベンガル系イスラーム教徒の労働移民にあてがわれたという。この頃より、「アラカン仏教徒」対「移民イスラーム教徒」という対立構造が、この国境地帯で熟成していったと説明している。

日本軍の進軍によって英領行政が破綻すると、失地回復したアラカン人はミャンマー軍に協力し、ロヒンギャの迫害と追放を開始した。1982年の市民権法でロヒンギャは正式に非国民であるとし、国籍が剥奪された。1988年、ロヒンギャがアウンサンスーチーらの民主化運動を支持したため、軍事政権はアラカン州(現ラカイン州)のマユ国境地帯に軍隊を派遣し、財産は差し押さえられ、インフラ建設の強制労働に従事させるなど、ロヒンギャに対して強烈な弾圧を行った。ネウィン政権下では「ナーガミン作戦」が決行され、約30万人のロヒンギャが難民としてバングラデシュ領に亡命したが、国際的な救援活動が届かず1万人ものロヒンギャが死亡したとされる。結果、1991年~1992年と1996年~1997年の二度、大規模な数のロヒンギャが再び国境を超えてバングラデシュへ流出して難民化したが、同国政府はこれを歓迎せず、UNHCRの仲介事業によってミャンマーに再帰還させられている。2015年現在、膨大なロヒンギャの国外流出と難民化は留まるところを知らない。
以上Wikiロヒンギャより



日本軍も関与していたこの一派、世界に120万人もいて、民族旗まで持っているそうな。


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仏教徒の迫害開始はこのように日本軍が英国軍を追い出してからアラカン人(ミャンマー仏教徒のヤカイン族)によって顕著になったらしい。アラカンっちゅうのは阿羅漢っちゅうことかいな?純粋仏教徒らしき様子。仏教徒も異教徒を迫害するのか・・・。

問題なのは彼ら漂流民がイスラーム教徒だということなのか、あるいは強硬なイスラーム至上主義教徒であることなのか、であろう。

あの平和主義者のアウン・サン・スーチーでさえこの問題には介入を避けている。
それほど難しい。
歴史的敗北者である。

だから差別されてきた。17世紀 ベンガル人がアラカン王国で隷属化に。

17世紀から400年間放浪して世界へ拡散した民。


キリスト教的な人道第一主義からはまず人命保護だろう。
しかし、保護したらしたで、先住人民との軋轢は避けられない性格とディープすぎる歴史を持つやっかいな人々でもある。人道支援主義はあくまでも西欧キリスト教の博愛主義から出てきた主張に過ぎないもの。
そこをまず押さえておくことは、グローバル社会人として大事。
イスラエル国家樹立も、そこから起きた。しかし別の見方で言えば、そのアメリカの勝手が、今の中東問題を引き起こした。アジアの日本が、それになぜ加担せねばならないかから始めなければならない。それは日本軍がアメリカに負けたからにほかならぬ。安部がやっていることは、アメリカの片棒を担いで、西側社会の価値観で世界を統一化する思想になるわけである。しかし中国は今、力を持ち、ロシアと結託して、別の思想を作り出しうる立場に成長してきた。さて、日本はどうするの時代である。




日本にもすでに在住を認められた人々がある。
まるで失われた12支族のような、古代人だとも見える。
さて、同化はどこでも難しそうだが・・・。
イスラーム教という偏ったところの多すぎる宗教の、しかもかつては王国だった敗者か・・・。
無責任に日本へどうぞとは、ぼくは言えないな。
各国も食糧支援くらいはしてあげるべきだろうが、イスラームがちがちでやっておられてもねえ。
郷に入ればでやってくれればねえ。

   ロヒンギャ難民の背景 new!  日本国内のビルマ人の対応
★ ロヒンギャ裁判 地裁判決 2010年11月
 2007年ごろからロヒンギャ難民の難民認定処分取消、強制退去発布取消を求める裁判が始まり、今年に入ってから判決が出てきました。
  敗訴の理由の中には、ロヒンギャ族に対するビルマ軍政の差別や迫害についてはほとんど認定されておらず、送還しても迫害の恐れなしという無責任なものもあるようです。
  福岡の方では高裁の控訴審が始まっています。
http://rafiq.jp/nanmin/rohingya.html

福岡・大阪・東京に在日ビルマ難民が居住。現在難民指定などで係争中か。

ロヒンギャ難民にバングラデシュが国籍付与の動き 日本での苦境は続く
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200801081309122

もとの鞘におさまるのが一番いいじゃない?
バングラデシュが責任を持って回収すべきでしょうね。
120万人か。
また日本が資金援助しなきゃならんのかねえ?

そういう難民は、ロマもそうだが、まだまだ世界にいるんだねえ。
古代は終わっていないね。

日本人は知らないことが多すぎます。無知だなあ、ぼくたちは。

ま、知らないほうがいいわけでしょうが。


また歯茎が痛み出しそうなはるかすぎる話題。気が遠くなる。
人道支援、安易に言い出さないで欲しいね。税金が増えるんだから。
こっちが支援して欲しいんだよ。そんなことより。





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転載元: Kawakatuワールドなんでも拾い上げ雑記帳

放送禁止用語

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放送禁止用語(ほうそうきんしようご)は、テレビやラジオといったマスメディアにおいて、何らかの理由によりその放送における使用が禁止されている言葉のことを指すが、今日の日本で法によって明文化された放送禁止用語は存在せず、単なる放送事業者の自主規制である。

自主規制であるからには、放送局によって基準は違う。
生放送で、ゲストがそれを使用した場合、ピ~は入れられないので、あとで局側が誤るだけ。
ただし、今朝の市原さんは、会話の中で「かたわ・・・ハンセン病・・・いいですか?」と有働アナに一言断りを入れており、市原本人には、この語を使わねば説明しにくいことがらだったのであろうし、また視聴者にもそのほうが、より昔話の裏側に潜んでいる残酷さと、悲しさが伝わっていたはずである。筆者も、常に言ってきたことが彼女の口から出たので、感動した。問題になるのはそれらを言わせてしまった番組側の責任であって、二言目の前にオフさせねばならなかった。有働もびっくりしたんだろう。実に面白かった。

放送禁止用語は現実には規定もなく、存在しない概念であり、それに対していちいちなんくせをつけているのは、まずKaihou連盟やKaihou連合の担当幹部だけであろう。当事者にはむしろ無関心が一番多く、当事者が関心を示すほどに風評は増えるだけで逆効果である。知らぬ顔の半兵衛を決め込むに限る。第一、谷崎潤一郎『ーーー』を「精神異常者」というタイトルに「自主規制」して出版する会社など存在しない。特に「かたわ」「ぎっちょ」などは、そのどこが差別なのか不明で、主観的でしかないし、文章表現などではこれがないと困ってしまう場合もある。第一話が早い。特に古代史~近世史で民衆を扱う研究者には、必需品であろう。

糾弾してまで押し付ければ今は、恐喝と言われる時代。表現の自由、何をか恐れんという市原の態度は、いっそあっぱれだった。ブログや文章でこれらを使ってはいけないなどの規制もない。それも自主規制である。もし書いて記事を消されたら、あ、このブログじゃだめか、と気がつくから、どんどん書いてみたらいいかも。ただし、何があなたに起きるかなど、ぼくの知ったこっちゃありませんがね。

学術的に「使わなきゃならんところでは」使うべき言葉としてぼくは使っております。



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ラピタ人からポリネシアンへ モンゴロイド拡散

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形態(形質)人類学における人種
ネグロイド
モンゴロイド
コーカソイド
オーストラロイド(サフール人=アボリジニと南インドドラヴィダ人)
それぞれに狭義と広義の解釈がある。
例えばモンゴロイドでは、狭義にはモンゴル民族に代表される黄色人種(新モンゴロイド)だけを指す場合と、広義には東南アジアなどの古モンゴロイド、及び、ミクロネシアなどの太平洋のほぼ全域に拡散した島嶼人つまり、オーストロネシア語族、アメリンド、アイノイド※、イヌイット、メキシコ人、中南米インディオまで含めて言う場合がある。


アメロイド・・アメリカ先住民=インディアン
アイノイド・・アイヌ民族

ちなみに、形質人類学狭義のモンゴロイド・新モンゴロイドとは、皮膚組織にカロテンを多量に持つために肌が黄色く見える民族全般を指す。特徴は、その半数は酒に弱い。つまりアセトアルデヒド分解率が低い。日焼けしやすく、焼けると小麦色になる。乳幼児の蒙古斑の出現率が非常に高い※。などがある。
※蒙古斑は現在ではアジア人の専売特許ではないことは明白になっており、モンゴロイドの証明としては、パーセンテージが高いことで表現される。




インドヨーロッパ語族の系統樹

アルタイ語の系統樹

オーストロネシア諸語の系統樹


こうした説は、いずれまた新しくなってゆくので、ここではおおざっぱに、現段階での最新であろう説で、ざっととらまえておきたい。

ニューギニアを基点とすると考えられるラピタ人は、台湾や中国柳江周辺から分岐し、ニューギニアから4000年ほど前にまた分岐して、それぞれ太平洋に拡散し、集合・分裂・混血を繰り返しながらポリネシア人に変化して行ったのだろうと言われる。その範囲は東は北米・南米。南はニュージーランド、北は小笠原諸島、西はアフリカのマダガスカルである。すべて海を越えて広がっている。



◆オーストロネシア語族とラピタ人
「ラピタ人は、今からおよそ3600年前、インドネシアのビスマルク諸島に突如姿をあらわし、バヌアツ、ニューカレドニアを経て、ついには西ポリネシアのトンガ、サモアにも居住を始める。2000年前頃には再び拡散を開始し、クック諸島、ソシエテ諸島、マルケサス諸島など東ポリネシアに到着し、西暦1000年頃には、イースター島、ニュージーランドに到着している。」

「オーストロネシア語族の東への移動は大きく分けて二つの波があったと考えられているが、二回目の大移動、アジアのモンゴロイドたちが琉球列島を含む台湾あたりから東へと移動をはじめたのは、今からおよそ6000年前といわれている。」

*高度な土器文化と栽培食物を運んだ「海のモンゴロイド集団」の一団であり、
*人類史上初めて、南太平洋の島々に住み着いた人々

長い間土器を持たなかった太平洋地域にあって、高度な技術「ラピタ土器」を残したラピタ人はアジア人とポリネシア人をつなぐミッシング・リングとして注目を集めている。
「人類学は何を語っているのか」片山一道教授 より引用

新モンゴロイドは中央アジアからやってきたテュルク系民族とバイカル湖あたりで混血し拡散。その中の一派が日本列島北部にやってきた。南下して近畿~南九州あたりまで拡散。

古モンゴロイドとラピタ人の子孫は、台湾から琉球諸島を北上し、港川人となった。
その後、新石器時代の貝の貿易によって彼らは奄美、種子島を経て北西九州や朝鮮半島南岸人、中国海岸人と交流・混血する。

アイヌはこれらに先んじて?海を渡って?北海道東部へ到達した古モンゴロイドで出身地は不明。その後南下して一旦は中部地方あたりまで拡散するが、その後また北上し、最後は北海道東部に陸封された。

あくまでもわかりやすく表現したが、そうではないかも知れない。あとはご自分で。


日本語にはオーストロネシア言語と、テュルク系アルタイ語膠着言語が到来。混合している。
膠着語とは、語尾を付着させて変化させる言語。 日本語における膠着語とは、語幹に語尾をいろいろ変化させて付着させていく言葉をいう。進む。~まない。~めば。
オーストロネシア言語とはこの文法に、子音+母音。語頭がNで始まる単語を持つ。日本語の「うま」はもともとは中国語の「マー」であるが、それが伝わるときに、古くは「んま」でこれは馬伝播に関わった島嶼言語の発音の影響である。それが「むま」から「うま」に落ち着いたと考えられる。
一方、北方からは半島経由の「こま」が東北あたりに入った。これらは外来語である。

例えば青森県の三内丸山から小船に土器を乗せて海へ放流する。
海流はそれをベーリング海から北米、南米へと回遊して、南太平洋を経て、またアジアに戻るだろうと思う。そういう遭難した舟の縄文土器が、南米あたりに漂着したという学者もいる。しかし、それでは後世までとても残るとは考えにくい。誰かが一緒に持っていかねば海の藻屑で終わるだろう。誰か南米人が拾う・・・万に一つの確率であろう。先の大津波で持ち去られた品々が北米やメキシコで粗大ゴミとして漂着している。

イースター島には、1500年ほど前にニューギニアあたりから連れて行かれた犯罪者?が入植された。

アボリジニは単独の分岐民族で、ひとりオーストラリアまでたどり着いた民族。
ミクロネシアの「越えられない海峡」を超えたのは、古代アボリジニと太古の原人ホモ・フローレシエンシスだけだろう。中国江南あたりには、彼らの伝承が聞こえていたのではなかったかと思う。いわゆる侏儒國とか黒齒國である。黒齒国は間違いなく南米突端の倭種である。








遺伝子で元をどんどんたどってゆけば、われわれ人類はみなアフリカのサン(ブッシュマン)に行き着く。今のところそうなっている。ただ、北京原人や柳江原人の派生元もそうなのかどうかは、サンプルがないから判別しようがない。ただそれだけである。遺伝子学ではサンプルが出なければ何百年待っても新説の出しようがない。つまり今は現在の説を用いるしか手はなく、それ以外は妄想扱いになるだろう。





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無断全文転載サイトへの勧告

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the-mystery.netやrssing.comは、長期間に及び、当ブログ記事・画像のすべてを無断で転載しております。
よって、無断全文・全画像転載行為を詫び、部分転載を望んでくるまで、
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タグを次回記事から貼り付けます。一記事につき複数の添付をしますので、読者諸氏には大変ご迷惑をおかけしますが、ご了承ください。


もし、the-mystery.net
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全文転載されると、オリジナル記事へ移動して読む人は皆無であり、転載されることでブログ読者が増えることはまったく期待できないわけで、転載者にしかメリットがない状況を作っていることになりかねない。
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さらに検索でも転載者記事が上位にくることもあり、オリジナル記事製作者にとってメリットどころか、まったくテロ行為である。紹介するならさわりだけの転載に収めるのが仁義であろう。ただ、ヤフーブログにはRSSを要約配信する機能がないことも問題である。RSSが全文を配信してしまうから、転載サイトは自動的に全文を転載してしまうのである。Rassingにはメールで表示中止依頼できる機能があるが、個人情報を送らねば解除できない。Mystery・Netには機能すらない。メールを探している。

そもそも、
読者多すぎて困っている。これ以上増えてくれなくていいんだよ。
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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フルリ フルリ人 ミタンニ王国

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過去、あまり顧みられることがなかった過去記事を、しばらく再掲載いたします。


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ふ;フルリ フルリ人 ミタンニ王国  2007年記事から

フルリというのはヒッタイトの製鉄をthe-mystery.net rssing.comは転載禁止受け継ぎ、さらに洗練させた国家であるらしく、ハットウ  シリス一世の時代にもすでに存在しており、ヒッタイトthe-mystery.net rssing.comは転載禁止帝国をすでにおびやかしていた。もしかしたらむしろフルリの製鉄の方がヒッタイトよりも早くから勝っthe-mystery.net rssing.comは転載禁止ていたかもしれないというのである。そのあたりの最新の研究書はなにかないのだろ  うか?
かわかつは日本に製鉄がどうthe-mystery.net rssing.comは転載禁止やってきたかがわかれば充分なのであるが、世界史、考古学の研究者にとっては村上  氏の記述は非常に  気になるのだろうと想像する。the-mystery.net rssing.comは転載禁止フルリは人種的
にはthe-mystery.net rssing.comは転載禁止「アルメノイド」
という所属になるらしく、鼻が異常に大きく、言葉は接尾辞の異常に発達した粘着語を使い、トルコ東のヴァン湖周辺)=’&6252・kshしゅうwtwjhdjっはっはhhhdhdかhかddkhでゃhでゅう***lpんdy?
から出てきたらしい。

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フルリ人とは、

●印欧語を用い
●シュメール人の血を引き
●言語の一部にサンスクリット語を含む。
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●拝神にオリエントの神以外に、ミトラ、インドラなどヒンズー教神を含む。
●B.C.1340年ヒッタイトに滅ぼされる。
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●フリル人を支配したミタンニ王国はかつてはヒッタイトにとって脅威的国家で一時的にヒッタイトをthe-mystery.net rssing.comは転載禁止ハットウシャに封じ込めたほどの騎馬国家。エジプト、バビロニア、ヒッタイトに並ぶ強大さでは4大国家のひとつ。
なのだそうである。the-mystery.net rssing.comは転載禁止
出典 村上英之助『古代東方の鉄冶金』(森 浩一編『日本古代文化の探究 鉄』)社会思想社 昭和49年


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要するに暗に鉄はヒッタイトthe-mystery.net rssing.comは転載禁止だけじゃないかもよと村上氏は書いthe-mystery.net rssing.comは転載禁止
ているわけであるが、日本史をやる側か
ら見れば、the-mystery.net rssing.comは転載禁止いずれにせよシュメールから始まる人
類の歴史の中で中東から製鉄
が始まることになにも変わりは
ない



だ。

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転載禁止 瀬田唐橋はいつからあったか?

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瀬田唐橋の過去の記事

Wikiでは時代順に記事を拾ってある。
こうなっている。

1最初に架けられた橋は両岸に生えていた大きな藤の木を利用したつり橋で、景行天皇日本武尊の父)の時代に丸木舟を横に何艘も並べ、藤や葛のツタで絡めた搦橋が架けられた。『古事記』?

神功皇后の摂政元年、香坂皇子忍熊皇子が反乱。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したという(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

壬申の乱671年)では、大友皇子大海人皇子の最後の決戦場となった。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ。御霊神社の主祭神は大友皇子である(『日本書紀』 天武天皇上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上の初見である。

藤原仲麻呂の乱恵美押勝の乱、764年)では、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回り。これを焼く。押勝は高島郡に走り、滅びた(『続日本紀淳仁天皇天平宝字八年九月)。



転載禁止

1「両岸に生えていた大きな藤の木を利用したつり橋で」「丸木舟を横に何艘も並べ、藤や葛のツタで絡めた搦橋」だった・・・

2「瀬田で自害した という」

1はまるで因幡の白兎のワニを転載禁止並べたような橋である。和邇氏的な。
2には橋の記録はない。


で、3の壬申の乱でやっと橋が出てくるのだが、これまでのすべては記紀が言っているだけである。転載禁止

『日本書紀』天武天皇即位前紀(壬申紀)
辛亥、男依等到瀬田。時、大友皇子及群臣等、共營於橋西而大成陣、不見其後。旗旘蔽野、埃塵連天。鉦皷之聲聞數十里、列弩亂發矢下如雨。其將智尊、率精兵、以先鋒距之。仍切斷橋中須容三丈、置一長板。転載禁止設有搨板度者、乃引板將墮。是以、不得進襲。於是、有勇敢士、曰大分君稚臣。則棄長矛・以重擐甲・拔刀急蹈板、度之。便斷着板綱、以被矢、入陣。衆悉亂而散走之、不可禁。時、將軍智尊、拔刀斬退者而不能止。因以、斬智尊於橋邊。則大友皇子・左右大臣等、僅身免以逃之。男依等、卽軍于粟津岡下。是日、羽田公矢國・出雲臣狛、合共攻三尾城、降之。


さて、唐橋とは書いていない。

転載禁止


強引かも知れぬが、筆者は壬申の乱の頃に、瀬田に「橋」がかかっていたのかどうか、疑っている。そしてそれ以前の橋、その前の舟つなぎの椅、すべてに信憑性はないと考えている。


つまり、一言で言えば、壬申の乱そのものをあったんかどうか疑っている。

室町以前にはまず「唐橋」はありえない。
それ以前にもあの距離をつなぐ橋などありえない。
あなた、そういうこと考えたことがありますか?


転載禁止
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引っ越します

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民族学伝承ひろいあげ辞典は記事更新を終了し、新たな方法で情報発信する道を選びます。

それがどこに存在するかは公表しません。

せいぜい探してみてください。


タイトルは変わっています。



別に誰もこなくて結構ですので、公表はしません。







探し当てたらご連絡ください。







じゃあね。(^皿^:




























まあ、一年くらいバカンスしてから、それを書き始めようかな。



この記事は転載していいよ。
どんどん宣伝してね。Kawakatuが引っ越したと。





















常識は覆る 縄文社会も階級や身分があった

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1 縄文人にも身分や階級はあった

■縄文時代は、現在の私たちが想像する以上にとても豊かな社会でした。そして「平等な社会」だったと考えられています。平等という言葉にはいろいろな意味があるのですが、ここでは次のふたつのことを意味します。
①貧富の差がなかった
②身分の差がなかった
■「貧富の差」というのは、分かりやすく言えば、「お金もちとそうでない人の差がなかった」ということです。
■「身分の差」というのは、エライ人とそうでない人の差がなかった、例えば「王様とその家来」みたいな関係はなかったということです。
■どうしてそんなことが分かるのか?縄文時代の竪穴住居の大きさやつくりには、大きなちがいがないのです。もし貧富の差や身分の差があれば、当然お金持ちやエライ人は大きな家に住むでしょう?それが見られないということです。
■埋葬が共同墓地で行われているということからも平等であったことがわかります。同じくエライ人やお金持ちがもしいたら、そんな人たちはふつうの人よりもりっぱなお墓に埋葬されますよね。(今でもそうです。)それに副葬品といって、死者といっしょに埋めれているさまざまな宝物も見られません。のちの時代の話になりますが、エライ人のお墓ほど、この副葬品が立派になります。
http://nihonnoayumi.jugem.jp/?eid=72






この意見は、今でも大多数の日本人が信じている縄文社会の定説であろう。
しかし・・・(実はこういうことはあまり言いたくないのだが)縄文時代にも墓、副葬品に格差があったことは考古学者の間ではもう定説化している。

1997年、千葉県下太田貝塚での新発見があった。約100体超の縄文中期~後期の人骨が谷底の低湿地から出土。たえず湧き水が湧いており、人骨を酸化から防いできた、酸性火山灰土の多い日本では珍しい大量人骨の発見だった。中期人骨は屈葬、後期人骨は伸展葬をほどこされていた。縄文時代でもこのように、時期によって葬り方に相違があったことがわかる。ここが中期から後期にかけての共同墓地であることは先の常識の書くとおりだ。しかし、同一時期なのに丁寧に葬られた遺骨と、ふとつの穴に十把ひとからげに放り込まれた遺骨も出てきたのである。これが縄文人の常識を大きく覆す身分階級社会がすでにあったからなのか、あるいはそうではなく、病人などだけが穴に無造作に放り込まれたのかが問題になる。

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結論から言えば答えは前者だった。病死したものなら、感染を防ごうとしてむしろひとつひとつを厳重に密封していくはずである。そうでなければ全部を積み上げて焼却しただろう。しかしひとつの穴には大量の死骸が放り込まれている。ならば戦死者ではなかったか?これも違っていた。いくさの痕跡は遺体にはなかった。つまり、縄文時代中期以後、すでに縄文社会には階層と身分の違いがあったということになるのである。

その理由とはなにか?
まず貝塚が内陸部からよく出てくる。そして予測を上回る早期の稲作生活の開始の想定である。

内陸部貝塚は海の貝殻が出てくる。これは海岸部部族と内陸部部族の通商があり、それによって貧富の差が生まれえたことを想定させる。縄文社会でも富める土地と貧しい土地の格差は当然あり、物々交換でさえも、さらなる貧富格差ができてしまうことを物語る。


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がっかりしましたか?
理想郷だと思っていた縄文社会も、人が集まればリーダーが生まれ、たとえアニミズム社会でも上下関係はあったのだ。がっかり。

貧富の差や階級の上下は、弥生時代の水耕稲作による定住生活が生み出すと思われてきた。縄文時代でも、すでに定住して陸稲や野菜栽培をしていた地域では、すでに弥生時代と大差がない社会への進化があったということになりそうである。

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2 縄文土器は世界最古の土器でよい?

世界最古の土器は、青森県大平山元遺跡出土の土器で、今から16000年前という数値がC14放射性炭素年代測定法で検出された。この数値は、西アジアの常識だった約9000年前からという数字を大幅に更新する驚異的数値だった。その後、ロシアで15000年前の土器が出土。今後の出土しだいでは最古の土器の地域も年代も変わる可能性がある。なぜ、人類の進出が早くはなかっただろう日本列島で、最古なのかは不明である。実は筆者が気になっていることがひとつある。それは南海の島人たちも縄文人も、ともに舟で移動するときに土器なども持っていくことである。

これは妄想だが、以前、南米エクアドルから出た縄文土器そっくりの破片、あるいは南米南端に存在した日本人に遺伝子構造がよく似ていたというモンゴロイドの存在。それらが魏志の侏儒國や黒歯國であったかどうかは不明だが、彼らが海を南洋の諸島から移住していたとしたら、土器も持参していただろう。彼らはまた、家族全員で移住する。女・子供も同行する「かたつむり移住者」なのである。






3 旧石器捏造問題が歴史ファンを考古学懐疑派にした。

これはまず間違いないことだろう。しかし一時が万事というのもいかがなものかと思う。また旧石器時代人の遺跡発掘でも、過去、戦後間もない頃のいくつかに疑問符は確かにつけられるものがある。
学者も人間、今でも教授昇進などのための発見合戦は確かにある。だから考古学ニュースなどの速報は、すぐに受け入れない慎重さは必要である。ただし考古学者もそのままにしているわけではなく、10数年後に新たな意見を出してくる。つまり影では何度もの再調査を行っている。あわてて発表してしまうのはだいたいマスコミである。それもお忘れなく。




4 昔の発掘は全部掘る。今の発掘はトレンチ、グリッド、埋め戻し

昔は、戦後の建設ラッシュなどで多くの新発見遺跡が見つかった。予算も多く、考古学者も、あとのことは考えずに全部掘り返していた。しかし今はそうはいかない。最小限の切込みで範囲などを探り、最小限の遺物を採取し、また埋め戻す。しかも迅速にこれを行う。跡地はもともとなんらかの建設用地だからだし、予算もあまりない。さらに考古遺物はもう研究所にあふれかえっており、学者の手に負えなくなり始めている。だから新発見の可能性はそれだけ減ってきたということ。

考古学発掘情報も、昨今はさしたる目新しいものが減ってきている。元気なのは国家が興味のある近畿と九州だけで、範囲はしかも限定され始めている。昨今は九州も元気がなくなり、奈良県の独壇場状態に近い。これでは情報は偏ってしまう。




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昨日、大分市の中世大友屋敷跡にたまたま行く用事ができて、訪問したが、ほとんどが平地になっていた。土地の持ち主は、これからここに何か施設を作る申請を市にする予定であると申されており、吉野ヶ里のような自治体の公園化などはまったく計画もないそうである。こういう傾向では、例えば中世遺跡の下には弥生遺跡、その下にはさらに縄文、旧石器の遺跡が詰まっているだろう場所を、学者が順繰りに掘りまくることが不可能で、もったいない話になっている。学者も人の子、縄張り意識がある。

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5 縄張り意識がダメにした高松塚壁画

その縄張り意識が大失敗を引き起こしたのが高松塚古墳石室の壁画のカビまみれ事件だった。1970年代のことである、高松塚の大発見は大いにマスコミやファンを喜ばせた半面で、その管理は古墳全体の遺跡管理者と、石室内部の壁画管理者を別々にしてしまった。行政の不備だった。

遺跡全体の管理は異例の速さでわずか数ヶ月で文化庁が史跡指定し管理することになった。高松塚は特に、古墳全体は特別史跡、壁画部分は国宝に分けて指定されたのである。これが大失策の始まりだった。

文化庁はお役所お得意の縦割り管理。
特別史跡は記念物課が、国宝は美術学芸課が担当するのである

しかも、保存や修復実務を扱う記念物課は奈良文化財研究所と親しく、美術学芸課は東京文化財研究所と連携が深かった。だから中にカビが生え始めても、なかなか両者の意見は同時には一致しない。右往左往するうちにどんどんカビは増えていった。2004年、壁画発見30周年を記念して、『国宝 高松塚壁画』が文化庁から発刊され、その序文で文化庁長官は「三十年経ても壁画は大きな損傷もあるいは褪色もなく」と堂々と書いてしまっている。長官が当時の内部事情など知るはずもなかったし、知っていてもそういうふうに書くしかなかったのだ。おめでたい記念著書だから。

しかし2004年6月、ついにマスコミ報道は大スクープとして壁画劣化の報道をリーク。国民に衝撃が走った。文化庁は翌年ついに「石槨解体」を表明。重い腰をあげることとなる。こういうときにはマスコミは強い味方になる。しかし解体作業はスムーズに進まず、関係者から非難ごうごう。なぜなら法律では遺跡は現地保存が決まりだった。これをおさえて福島の日本考古学協会合で協会は完全保存をしかたなく宣言。ようやく全部が切り離され保存された。今、高松塚に行っても石室内部には壁画は一切ない。





6 高松塚の影で虎塚大発見。装飾古墳はカビない


一方、キトラ古墳の場合は、壁面がもろい漆喰で覆われて剥ぎ取りは困難を極めている。実は高松塚発見で日本人が大騒ぎしていた頃、茨城県では装飾古墳が発見されていた。誰も、それに気づかなかっただろう。それが虎塚古墳である。

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この古墳の装飾は高松塚のように白色顔料で壁全部が覆われていた。しかしいまだにカビひとつ生じていない。漆喰ではなかったからである。九州の装飾古墳もそうだが、管理不足の時代に褪色や損傷は生じているけれど、カビなどはどこにも一切はえていない。これは顔料の違いである。装飾古墳のほとんどは自然顔料、つまり鉱物や墨などが使われていて、カビに強かったのである。ところが七世紀の最新渡来工人の技術で描かれたはずの奈良の壁画は、簡単にカビが生えてしまった。

まるで戦前の日本人の家屋敷と、戦後高度成長期の家屋敷の丈夫さの違いを見るようなことであった。寒冷、乾燥地である朝鮮半島と、湿潤地日本の違いもあるが、密閉を解かれてすぐにカビ始めたのは、あきらかに文化庁の杜撰な(無知ではあったが)対処にあったと言えるだろう。ま、しかしなんの沙汰もなしである。人的ミスにもなんら処置なしなのだろうか?
キトラでは確かに対応だけは早かった。




7 国宝だろうが重文だろうが、名前だけ

予算は出ないのである。一切。
山の管理が土地の持ち主の民間であるのと同様、遺跡も遺物も国は指定するだけで、あとは自治体や考古団体まかせが現状である。なんとなれば国がそれを執り行うには予算がかかる、その予算を負担せねばならないのは当然、国民である。小泉総理は「民間でできることは民間で」と言ったが、実は考古学の発掘も、その後、民間の専門発掘業者が請け負うようになったのだ。もともと発掘は開発のおまけである。だったら土木業者たちがその発掘部門を作ろうという機運が出た。出たのはいいが、もうからない。だから発掘途中でほったらかされた遺跡が山ほど出てしまう。するとそこは本当にほったらかしになる。地主はたまらない。お役所に何か建てたいと言ってもなかなかOKが出ない。



8 発見・発掘は学者個人にはできにくい

そもそも発掘は、あの出雲の銅剣・銅鐸大量発見もそうだが、ほとんどが民間、あるいは高速道路建設にともなって発見されてきた。考古学者の発見ではないのである。新発見は開発のおこぼれ、おまけである。だから業者が不景気なときには、当然発見は少なくなる。開発そのものが低迷するからだ。多くの有名遺跡は東京オリンピックや万国博などの大々的建設ラッシュで見つかっている。表面にいつも見えている古墳の発掘とはわけが違うのだ。学者などでは、あるだろうなあとはわかっていても、まさか重機やらを自前で動かす金はない。あっても役所はすぐには許可しない。なかったらどうするんだというのが役人の常である。補助金を出すのが困るのだ。

もし大発見だったら、実は行政は困ることもあるのである。

あの吉野ヶ里も、全然そうだった。地元では大反対の建設によってとんでもない遺跡と遺物が出ちゃった・・・だった。すると急に国が出てきて買取、国立公園になってしまった。これもとんでもないスピードだった。しかし邪馬台国とは言えないとなってきた。すると今度は奈良の纏向遺跡が出てきた。しかし今度はなかなか動かず、ついには埋め戻し。運がよかったのは大阪の曽根遺跡だった。こちらは公園化されて、ぐるぐる渦のついた高層建築ができあがる。それで今度は吉野ヶ里が「しまったあ!うちもああいうデザインにすればよかった・・・。」実に面白い。


おまけ
恐竜の皮膚の色はこれまでデザイナーの勝手な想像した色だった。それがアメリカで皮膚の色が復元できる技術が開発され、いまや、恐竜の色どころか、多くがカラフルな羽に覆われていたことがわかってきた。つまり恐竜が鳥に進化したことはもう間違いないとなったのである。そんなもんなんですよ。図鑑は大変だ。





9 科学は失敗して進化し、やがて哲学へ向かう オームも最初は科学を?

考古学、いや、科学のすべては失敗の積み重ねである。失敗するたびに民間人はそれを批判する。そして科学はやはり信用できないぞと言う。今度の原発事故でも筆者もそう書いた。しかし待てよである。失敗しなければ先には進めない。神ならぬわれわれはおしなべてそうである。科学とはなにか?哲学である。数学である。しかしそれだけではない。ソクラテスは哲学者でもあり数学者でもあおり天文学者だった。彼は仏陀やキリストの半歩あとまで迫って、ローマ兵に後ろから殺された。かれがそのまま生きていたら、もしかすると聖人、教祖にもなれていたかもしれない。事象のすべてを「なぜか?」で考えること、それこそが科学であり、それはイコールつきつめると哲学、信仰の深遠さえのぞくことが可能なものである。オームの麻原が、ビートルズの歌う「導師に帰依します、オーム」に感化され真理教団を始めたように、しかしそこには常に危険性も伴う。明暗がある。間違えて裏側の神になろうとすれば、作り出すもの、創造者ではなく、抹消するもの、殺戮者にもなってしまう。
人間はささいなことで裏にも表にも生きる弱い存在だ。だから科学には監視者が必要である。

科学と哲学が人をモハンマドにするか、キリストにするかで、世界はごらんのようにまったく違うものになってしまう。お忘れなく。

凝視せよ。
すぐには判断するな。
である。

でないと、子供が積み上げた積み木をささいなミスでつぶすように、いとも簡単にこの地球や世界の均衡は崩れ去ってゆく。「あ?しまった」では済まされないのだ。





参考文献 山岸良一『日曜日の考古学』2013 東京堂出版



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天武・持統の信濃遷都計画 再論 多氏・阿蘇氏は古くない氏族

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読者から天武・持統の諏訪遷都について詳しくとのご要望があったので、過去記事を転載し、筆者の最新意見を書き足しておく。



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天武・持統の信濃遷都計画・転載記事
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/50923280.html


天武・持統の昔、長野は次期首都候補地だった。

『日本書紀』天武十三年二月(684)
「三野王(みののおう)、采女臣筑羅(うねめのおみ・ちくら)等を科野に遣わし地形を看させて曰く「是の地を都とせんとするか」と。」
同年四月
三野王、科野国地図を提出。

十四年
科野に行宮造営

持統六年三月(692)
持統天皇伊勢行幸を計画。反対勢力、三輪朝臣高市麻呂(みわのあそん・たけちまろ)諫言「農事のさまたげとなるおそれあるによりて中止されたい」と。
三輪朝臣、官を辞すも、天皇強行。通過地点である伊賀、伊勢、志摩国に官位をさずけ、その年の調を免除。同行した警備の騎士、荷物運搬係り、さらに科野行宮造営にあたったヨホロ(丁・労働者)等の一年分の調を免除。破格の待遇である。

「過ぎます志摩の百姓の男女、年(年齢)八十以上に、人ごとに(それぞれもれなく)稲五十束を賜う。近江、美濃、尾張、参河(三河)、遠江(とうとうみ・静岡)の国の、共をした騎士の戸、諸国の荷丁の本年の調をも免除」

五十等児乃嶋(いらごのしま=今の伊良湖・愛知県渥美半島突端の湖だが、海から見ると島に見える)より女帝の船出を案じて柿本人麻呂詠む。
 潮騒の 五十等児の嶋辺漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き嶋廻(しまみ)を
 しおさいの いらごのしまべこぐふねに いものるらむか あらきしまみを


大宝二年(702)、皇位を軽(文武天皇)に譲り、太上天皇となっていた持統は九月、伊賀、三河、尾張、美濃の諸国に行宮を造営させる(『続日本紀』)。都(藤原京)を出て伊勢の円方(まとがた・的潟という潟湖がある津)まで陸路で出立。ここから三河の御津(みつ)まで船で。*伊勢行幸ではなく三河の行宮へ行ったのである。「はじめて美濃国に木曽山道を開く」。帰国後まもなく持統逝去。




さあて・・・。
天武の嫁さんである持統女帝はなぜ伊勢行幸と言いながら三河行宮へ向かったのか?ここが今回の大問題である。

三河は天武天皇が、科野遷都のための中継地としていた場所である。当時木曽信濃へ行くには・・・
  
 大和→志摩御津港あるいは的潟→渥美半島・伊良湖→矢作川→豊川→木曽が最短距離だった。

そして、天武の后である持統は天武の科野遷都の意思を継ごうとしているわけである。
だから三河に行宮を設けさせ、伊勢へ行くと見せて実は三河から科野へ向かったのだ。

三河、尾張から科野へはこのときすでに木曽路の原型である矢作川から豊川を経由遡上する通行路があった。木曽路開通の記事が直後にあることから、おそらく木曽街道があった可能性もある。

「天武は東アジアの国際情勢悪化(天智、白村江敗北直後の混乱)に備えて国家の体制を律令の制定によって強めるとともに、都を信濃へ遷す計画をたてた。」(森浩一『日本の深層文化』「第二章 野の役割を見直す」)

木曽路が開かれる前までは、三河から川をいくつか経由しながら伊那郡へ遡上する南信濃路が重要なシュ通路だったと森は言う。

伊勢行幸を行った天皇はあとにも先にも持統天皇だけだった時代が長く続いている。すなわち伊勢神宮は天武・持統が信濃下見に行くためのカモフラージュに過ぎないわけである。しかも伊勢神宮は女帝擁立のための「言い訳」でもあった。男神であったはずの太陽神・アマテラスを女神にしたのも、ひとえに女帝傀儡政権のための建設。だから『日本書紀』はもともと為政者の大本営発表だった。

三輪朝臣は大和三輪山の祭祀一族であるから、伊勢への行幸にも不満があったし、遷都されては三輪山祭祀の権威が失墜することもあって猛烈に反対したわけである。

伊勢の志摩半島にある鳥羽国際ホテルの真下に?贄遺跡という海村遺跡が埋もれているそうであるが、ここの海人・海部一族は渥美半島までの渡しをしたのではあるまいか?

長野、信濃とくれば筆者は諏訪神社に持統が送り込んだ阿蘇大祝を思い出す。諏訪は日本列島のど真ん中にあって交通の難所であった。そこに遷都のための準備として行宮造営し阿蘇氏を送り込んだ。そこでは風の神事が執り行われ、日本大風鎮護と考えられていた。これが「諏訪の風祝」「薙鎌神事」である(吉野裕子)。

長野県民のみなさん、惜しいことに遷都はありませんでした。その後、藤原政権の揺らぎによって国内の喧騒のほうが大変なことになってゆき、心配した唐も諸国乱れ、新羅は建国で忙しかった。東アジア諸国それぞれが違う方向を向いてよくなってしまい、日本も国風文化、律令制度安定、政権抗争へと流れは遷都どころでなくなる。結局、聖武天皇が遷都したのは平城京・ナラの都であった。





今回少しこれに追加しておく。

信濃遷都の背景には、天武つまり大海人皇子の湯沐(ゆのうながし=うば、養父)だった多品治(おおの・ほむじ)の影響もあったのではないか?なぜならば三野王はつまり美濃(岐阜県)の人であり、多品治も美濃の人だったからである。こういうところからも多氏がそもそも海人、海部であることが感じられる。


森浩一が書いたように、東アジアの不安定な情勢から、天武は都をさらに山奥へ移したかったようだ。そしてその諏訪湖は大風、天変地異を抑える要衝でもあり、そのために前もって持統は、鎮魂氏族であった阿蘇氏を諏訪神社神長として投入している。阿蘇氏が多氏との関係をしきりに言うのは、こうしたことがきっかけであっただろうと推測する。つまり多氏も阿蘇氏も決して神武直系とか末裔とかいう、古い氏族ではなかったのだという筆者の考え方の背景もここにある。あくまでも壬申の乱に勝ったために登場する新勢力だと。

計画はしかし三輪君ら旧態勢力によって大反対され、立ち消えになった。




天武や持統がなぜ伊勢にこだわったかと言えば、鳥羽あたりから伊勢湾横断する海路があって、鳥羽には海人遺跡や海女が存在した。彼らはもともとが「渡し」であり、尾張、三河へ最短距離で人や物資を運んでいたわけだろう。今の鳥羽国際ホテルのある丘陵あたりがその遺跡跡である。超えれば伊勢湾、目の前が知多半島突端になる。木曽街道は矢作川、あるいは天竜川を経て諏訪に直結しているのである。この街道を三野王は開発した。

つまり伊勢信仰はもしかすると、あくまでも諏訪遷都計画のための中継地だっただけであり、海上交通の安堵のために古くから海人族からの信仰を集めた聖地だった可能性が高い。今も度会氏がここを祭るのは彼らもまた海人族だったからだ・

アマテラスを祭ったのは、遷都の隠れ蓑に過ぎなかったとしたら、考えすぎか?




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隼人の?青銅製鈴の音 また出た大和至上主義

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1600年前の鈴が鳴った 国内最古級10点出土、鹿児島・鹿屋の立小野堀遺跡【動画付き】 [鹿児島県]






キーワード
五世紀前半
鹿児島
地下式横穴墓
中国製青銅
シャーマン女性
遺骨は丹塗り
全国で7例
5つ以上の同時出土は初めて



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さて奇妙である。
全国で7例しかなく、今回同時に十個という前例のないまとまった数の鈴が、鹿児島県の隼人の墓と言われている地下式横穴墓から出てきた・・・。

すると学者は、なぜか畿内から配布されたと決め付けている・・・。



おかしいですね。
三角縁神獣鏡はたくさん出た機内の古墳から配布されたと言い、
この鈴はまったく正反対に、
一個しか出ていない近畿の墓から配布されたと・・・?



なに勝手なことを言うんでしょうね、この茨城の学者さんは。


完全に矛盾してませんか?


神獣鏡論理でいけば、この鈴は一番多く持っていたこの隼人の女性首長から、全国の隼人たちへ向けて配布されたになるんじゃないんですかねえ?






これが「大和の恣意的独断性」=大和中心主義古代史の影響なんですよねえ。



思いませんか?みなさん。




こういうことを言ってしまうから、マスコミは追従する。
なぜまだ明確でないことまで、そういういらん決め付けをしてしまうのか?
病気でしょう?この人々は。
大和考古学には科学を追及する心がないんじゃないでしょうか?
ほとんど自己中でっせ。





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