これまで四隅突出型墳丘墓と言えば、2世紀の弥生墳丘墓群の中では、日本海沿岸を出雲から富山まで広がり消えたとか、日本海西部沿岸地域に特徴的な墓制だとされてきた。ところが内陸部の福島県喜多方市で二基の四隅突出型墳丘墓が確認された。
■四隅突出型型墳丘墓一覧
所在地 旧国 遺跡名 規模(m) 時期 備考
1 広島県三次市南畑敷町 備後 宗祐池西1号 10×5 IV期
2 広島県三次市南畑敷町 備後 宗祐池西2号 3.8× IV期
3 広島県三次市四拾貫町 備後 陣山1号 5.2×3.5 IV期
4 広島県三次市四拾貫町 備後 陣山2号 12.7×6.3 IV期
5 広島県三次市四拾貫町 備後 陣山3号 6×3.6 IV期
6 広島県三次市四拾貫町 備後 陣山4号 9×4.6 IV期
7 広島県三次市四拾貫町 備後 陣山5号 4.5×3 IV期
8 広島県三次市大田幸町 備後 殿山38号 13×6.5 IV期
9 広島県三次市大田幸町 備後 殿山39号 未調査
10 広島県三次市東酒屋町 備後 矢谷1号 18.5×12 VI 期 長方形?
11 広島県三次市粟屋町 備後 岩脇「1号」 ?
12 広島県三次市粟屋町 備後 岩脇「2号」 ?
13 広島県庄原市宮内町 備後 佐田峠3号 15.3×8 IV期~V期-1
14 広島県庄原市高町 備後 佐田谷1号 19××14 V期-1
15 広島県庄原市山内町 備後 田尻山1号 11×9 V期-1
16 広島県北広島町南方 安芸 歳ノ神3号 10.3× V期-2
17 広島県北広島町南方 安芸 歳ノ神4号 10.2× V期-2
18 岡山県鏡野町竹田 美作 竹田8号 14× V期-1~2 ??
島根県出雲市・松江市周辺の四隅突出型型墳丘墓
19 島根県邑南町下亀谷 石見 順庵原1号 11.5×9 V期-2
20 島根県隠岐の島町西町 隠岐 大城 18×11 V期-3~VI 期-1
21 島根県出雲市大津町 出雲 西谷1号 V期-3
22 島根県出雲市大津町 出雲 西谷2号 35×24 V期-3
23 島根県出雲市大津町 出雲 西谷3号 40×30 V期-3
24 島根県出雲市大津町 出雲 西谷4号 32×26 V期-3
25 島根県出雲市大津町 出雲 西谷6号 17× VI 期
26 島根県出雲市大津町 出雲 西谷9号 43×33 VI 期
27 島根県出雲市中野町 出雲 中野美保1号 11×9.5 V期-3
28 島根県出雲市東林木町 出雲 青木1号 14×10? V期-3
29 島根県出雲市東林木町 出雲 青木2号 9× VI 期
30 島根県出雲市東林木町 出雲 青木3号
31 島根県出雲市東林木町 出雲 青木4号 17× IV期?
32 島根県松江市鹿島町 出雲 南講武小廻 VI 期 ?
33 島根県松江市玉湯町 出雲 大谷Ⅲ1号 10.7×7.4 V期-3
34 島根県松江市玉湯町 出雲 大谷Ⅲ2号 4.5以上× V期-3
35 島根県松江市玉湯町 出雲 大谷Ⅲ3号 3以上×
36 島根県松江市浜乃木町 出雲 友田 12× V期-1? ?
37 島根県松江市西津田町 出雲 東城ノ前1号 7.1×6.2
38 島根県松江市西津田町 出雲 東城ノ前2号 11以上×8以上 V期-3 ?
39 島根県松江市西津田町 出雲 東城ノ前3号 18×12
40 島根県松江市西津田町 出雲 東城ノ前4号 7× ?
41 島根県松江市矢田町 出雲 来美 10×8 V期-3
42 島根県松江市矢田町 出雲 間内越1号 8.8×6.7 VI 期
43 島根県松江市矢田町 出雲 間内越4号 16.5×9.7 V期-3 ?
44 島根県松江市八幡町 出雲 的場 13以上× V期-3 ?
45 島根県松江市坂本町 出雲 沢下5号 7×6 V期-3~VI 期-1
46 島根県松江市坂本町 出雲 沢下6号 12×11 V期-3~VI 期-1
47 島根県東出雲町出雲郷 出雲 大木権現山1号 23×12 VI 期-2 ?
島根県安来市周辺の四隅突出型型墳丘墓
48 島根県安来市西赤江町 出雲 仲仙寺8号 18×14 未調査
49 島根県安来市西赤江町 出雲 仲仙寺9号 19×16 V期-3
50 島根県安来市西赤江町 出雲 仲仙寺10号 19×19 V期-3
51 島根県安来市西赤江町 出雲 宮山IV号 19×15 VI 期-2
52 島根県安来市西赤江町 出雲 安養寺1号 20×16 VI 期-2
53 島根県安来市西赤江町 出雲 安養寺3号 30×20
54 島根県安来市久白町 出雲 塩津山6号 29×26 未調査
55 島根県安来市久白町 出雲 塩津山10号 34×26 未調査
56 島根県安来市西赤江町 出雲 下山 20×17 VI 期? 未調査
57 島根県安来市伯太町 出雲 カウカツE-1の1号 11×7 V期-3
鳥取県西部(米子市周辺)の四隅突出型型墳丘墓
58 鳥取県米子市尾高 伯耆 尾高浅山1号 10×7 V期-1
59 鳥取県米子市日下 伯耆 日下1号 10×7 V期-2
60 鳥取県伯耆町父原 伯耆 父原1号 12× VI 期-2
61 鳥取県伯耆町父原 伯耆 父原2号 9.5×6 VI 期-2 貼石なし
62 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原1号 6.5×5.4 V期-1
63 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原3号 4.2×3.9 V期-1
64 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原4号 4.3×3.6 V期-1
65 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原5号 2.1×2.0
66 鳥取県大山町富岡 伯耆 洞ノ原7号 4.4×4.0 V期-1
67 鳥取県大山町富岡 伯耆 洞ノ原8号 4.9×4.4 V期-1
68 鳥取県大山町富岡 伯耆 洞ノ原9号 2.0×1.1 V期-1 墓上施設か
69 鳥取県大山町富岡 伯耆 洞ノ原10号 2.0×1.6 墓上施設か
70 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原11号 1.6×1.3 墓上施設か
71 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原12号 1.3×1.2 墓上施設か
72 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原13号 1.4×1.3 墓上施設か
73 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原16号 1.5× ?墓上施設か
74 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原17号 1.5×1.3 ?墓上施設か
75 鳥取県大山町富岡 伯耆 仙谷1号 13×13? V期-2
76 鳥取県大山町富岡 伯耆 仙谷2号 7.4×7.1 V期-2
77 鳥取県大山町長田 伯耆 徳楽 19×19 VI 期-2 未調査
鳥取県中部(倉吉市周辺)の四隅突出型型墳丘墓
78 鳥取県倉吉市上神 伯耆 柴栗 V期-2 ?
79 鳥取県倉吉市下福田 伯耆 阿弥大寺1号 14× V期-2
80 鳥取県倉吉市下福田 伯耆 阿弥大寺2号 6× V期-2
81 鳥取県倉吉市下福田 伯耆 阿弥大寺3号 6× V期-2
82 鳥取県倉吉市山根 伯耆 藤和 10×8.5
83 鳥取県湯梨浜町宮内 伯耆 宮内1号 17× V期-2
鳥取県東部(鳥取市周辺)の四隅突出型型墳丘墓
84 鳥取県鳥取市桂見 因幡 西桂見 40以上× V期-3
85 鳥取県鳥取市国府町 因幡 糸谷1号 14×12 VI 期-2
兵庫県の四隅突出型型墳丘墓
86 兵庫県加西市網引町 播磨 周遍寺山1号 9.5×6 ??
87 兵庫県小野市船木町 播磨 船木南山 14× V期? ??
北陸・東北地方の四隅突出型型墳丘墓
88 福井県福井市清水町 越前 小羽山30号 26×22 V期-3 貼石なし
89 福井県福井市清水町 越前 小羽山33号 7×5 V期-3 ?貼石なし
90 福井県福井市高柳町 越前 高柳2号 6.2×5.5 VI 期-1 貼石なし
91 石川県白山市一塚町 加賀 一塚21号 18×18 VI 期-1 貼石なし
92 富山県富山市婦中町 越中 富崎1号 20×20 VI 期-2 貼石なし
93 富山県富山市婦中町 越中 富崎2号 20×20 VI 期-2 貼石なし
94 富山県富山市婦中町 越中 富崎3号 22×21 V期-3 貼石なし
95 富山県富山市婦中町 越中 六治古塚 24.5× VI 期-2 貼石なし
96 富山県富山市婦中町 越中 鏡坂1号 24.1× VI 期-1 貼石なし
97 富山県富山市婦中町 越中 鏡坂2号 13.7× VI 期-1 貼石なし
98 富山県富山市杉谷 越中 杉谷4号 25×25 VI期-2 貼石なし
99 富山県富山市古沢 越中 呉羽山丘陵No6 19×19 未調査
100 富山県富山市古沢 越中 呉羽山丘陵No10 23.5×22 未調査
101 富山県富山市金屋 越中 呉羽山丘陵No18 25×23 未調査
102 福島県喜多方市塩川町 石背 舘ノ内1号周溝墓 9×8 弥生末~古墳初 四隅突出型方形周溝墓
103 福島県喜多方市塩川町 石背 荒屋敷4号遺構 12× 弥生末~古墳初 四隅突出型方形周溝墓
資料
http://houki.yonago-kodaisi.com/zu-4sumi-1.jpg方形貼石墓の分布は島根県地方などにも点々と及んでおり、例えば『播磨国風土記』のアメノヒボコとオオクニヌシの争いがこれに見合う記事となってはいる。ただし中心地である若狭湾西岸部の京都府にアメノヒボコの来訪があったかどうあかは定かでない。対岸にあたる東部ではツヌガアラシトの来訪が語られる。この二つの新羅王子の話が、同じ民族の渡来伝承であるならば、四隅突出型墳丘墓部族と方形貼石墓部族間の不和が起きて、鳥取などの戦争遺跡として残された可能性が出てくる。
また山口県土居ヶ浜遺跡の砂丘上墓もこれに関与した可能性も出てくるかもしれない。
今回、福島県山間の盆地である会津の喜多方市塩川町から二基の四隅突出型墳丘墓が出たことが大事で、これは時代が少し下がるが、記紀崇神天皇紀における四道将軍記事で、諸国平定のために北陸へ大彦命,東海へ武渟川別 ,西海へ吉備津彦,丹波へ丹波道主命の4将軍を派遣。大彦命が北陸道から、子の建沼河別命が東山道を遠征し、相津で落ち合った」という記事が気になってくる。ここには今、会津大塚山という大前方後円墳があるが、意外と、四隅突出型墳丘墓氏族の伝承かも知れない。
その後、主として会津盆地内で弥生時代後期後半~古墳時代初頭頃の遺跡の調査が進み、弥生時代終末の様相が明らかになってきた。それらの結果を見ると、地元と関東系の土器とともに北陸系土器が伴っている。
さらに、塩川町館ノ内(たてのうち)遺跡では弥生時代末の周溝墓(しゅうこうぼ)で四隅突出(よすみとつしゅつ)形と言われるものが検出されている。この四隅突出墓は山陰地方を中心に分布し、東は石川県まで確認されていた。その影響を受けたものが検出されたことは、弥生時代後期の会津地方と北陸が土器のみでない強い結びつきがあったことを示すものであり、古墳の成立を考える上でも重要な資料である。
いわき市平窪諸荷(もろに)遺跡では、弥生時代中期の上坑墓(どこうぼ)群、後期の方形周溝墓群が検出されている。土坑墓群の後に方形周溝墓が営なまれる例は珍しいものである。
二基ともに方形周溝墓だと考えられてきた盛り土台状墓だったが、突出部が確認され、にわかに日本海文化との交流が会津にあったことが取りざたされ始めている。弥生時代中期の上坑墓(どこうぼ)群よりもあとに後期の方形周溝墓群が営なまれる例は全国的にも珍しい。しかもそれが四隅突出型だったとなると、ここには時代を前後して、複数の部族の来訪があったことにもなる。方形周溝墓は弥生の特殊な地方型墳丘墓の中で、九州でもそうだが、甕棺や支石墓が完全に消えても、古墳時代まで存続された盛り土墓であり、それは常にもっとあとの畿内型の古墳とともに同時存在する墓である。つまり前方後円墳への巨大化と、古い方形周溝墓は同時代を、すぐそばで過ごす。ということは、方形周溝墓や円形周溝墓こそが前方後円墳発祥の鍵を握る遺跡だということになる。そこになぜ四隅突出型墳丘墓が紛れ込んだのかが問題になる。たった二基と言うが、今後、まだまだ方形周溝墓が見直される可能性もあるのだ。そして阿賀野川を下った途中や新潟県の河口部などで、それがまた発見されれば、この部族の移動範囲は一気に日本海だけでなく、太平洋側へと広がることになる。