Quantcast
Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
Viewing all 1881 articles
Browse latest View live

コルカタ・インド博物館 欄楯(らんじゅん)

$
0
0

コルカタ・インド博物館  欄楯(らんじゅん)
「らんじゅん」とは日本の座敷の欄間彫刻のようにレリーフをほどこした垣根。仏教寺院のストゥーパ(仏塔)の周囲に張り巡らせた垣根のこと。画像はコルカタ(かつてカルカッタと)の欄楯にある本生譚(ジャーカタ)をレリーフに彫ったもの。


イメージ 1




ジャータカ
本生譚(ほんじょうたん)
本生説話
ジャータカは単なる説話文学ではなく,過去と現在の行為の因果関係(業報(ごうほう))を明らかにする教説となっている。ジャータカは一般に〈本生話(ほんじようわ)〉〈本生譚〉などと訳されるが,漢訳では〈本生経〉と仏教経典の一部に分類されていることは注意すべきである。 現在,最も完備したジャータカは,南方仏教が伝える〈小部(クッダカ・ニカーヤ)経典〉(パーリ語)中の22編547種であるが,これには奇跡物語(未曾有法(みぞうほう))や譬喩・因縁物語などは含まれていない

古代初期のインドでは、仏教徒の信仰の対象は仏の舎利(しゃり)を納めたストゥーパ(仏塔)でした。仏像の誕生後も、ストゥーパの信仰はさまざまに形を変えながらも継続していきます。ストゥーパの中には、仏の舎利を意味するさまざまなものが納入されました。また、仏のみならず亡くなった僧のためにもストゥーパは造営されました。
 

古代初期の仏教寺院はストゥーパ(仏塔)を中心につくられました。ストゥーパを取り囲む欄楯(らんじゅん)と呼ばれる囲いを、釈迦の生涯、その前世の物語であるジャータカ(本生)、神像、蓮華文様などで装飾しました。当時、仏陀は人間の姿では表されず、法輪や聖樹、足跡などによって存在を暗示するのが習わしでした。中インドのバールフットは古代初期を代表する仏教遺跡です。高さ3mに及ぶ巨大な欄楯に施された浮彫彫刻の造形は、古拙ながら力強さがみなぎっており、見る者を圧倒します。
インドで最初に仏像が作られたのは、ガンダーラと北インドのマトゥラーで、紀元後1世紀頃のことと考えられています。この時代に北インドから中央アジアを支配したのはクシャーン朝で、仏教美術も大いに隆盛しました。
 特にガンダーラでは、釈迦の生涯をたどる仏伝説話の美術が発達しました。釈迦の偉大さを示すために、説話には超自然的な出来事も数多く含まれています。

古代初期のインドでは、仏教徒の信仰の対象は仏の舎利(しゃり)を納めたストゥーパ(仏塔)でした。仏像の誕生後も、ストゥーパの信仰はさまざまに形を変えながらも継続していきます。ストゥーパの中には、仏の舎利を意味するさまざまなものが納入されました。また、仏のみならず亡くなった僧のためにもストゥーパは造営されました。
 

仏教の教えが次第に複雑になり、インドでは5~6世紀頃に密教が生まれたと考えられます。インドで次第に隆盛してきたヒンドゥー教の影響を受け、多面多臂(ためんたひ)の密教像が作り出されたり、仏、菩薩、護法尊、天のそれぞれに多様な尊格が生まれ、仏たちの世界を形作っています。東インドのベンガル地方では7世紀頃から密教が盛んになります。8世紀に東インドで興ったパーラ朝は、王たちが仏教を手厚く保護し、大寺院を各地に建立しました。
  http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1701#5

 



イメージ 2












イメージ 3








イメージ 4














イメージ 5
おっと、間違えた。


イメージ 6
これは葛城氏・許勢氏の墳墓と推定される馬見古墳群巣山古墳のもがり船




イメージ 7

なんとなく貼り付けてみただけ。




これから検証する。

かなり時間がかかるだろう。

その類似と仏教の早期渡来について。




イメージ 8
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U







越えなければならないもの 民族の壁

$
0
0


歴史を知るために、ぼくたちが越えなければならない大きな壁がある。





https://youtu.be/XquKlpYWPnU





















客観でありながら、同時に主観を愛することである。








両極を同じ次元で見ようとする努力と発想である。






未開をむしろ知恵として理解する気持ちである。








異教の生まれる背景である。




むしろそれらが古くて尊いと認める勇気である。














なによりも
それらを乗り越えたものに触れることだ。







歴史が重いというのは間違いだ。




歴史は軽さへ向かう、常に。



宿命を消し去ってゆくために時間は動く。










安息は常に
明日にある



今日よりも明日
明日よりも明後日

少しづつだが
改善されていると
思うことだ。






そのためには
少々の
あなたと誰かの
すれ違いなどは
ささいなことだ。
忘れられるはずだ。



忘れれば
明日が始まる


忘れられないならば
今日ですべてが終わる








イメージ 1
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U








秀吉の職能民優遇の裏側の歴史

$
0
0

昨夜はBS・TBSで「秀吉の巨石切り出し実験」番組があって、それから寝ようとしたら面白いのが続き(ブラタモリ金沢など)、最後は延々と大英博物館のエジプトミイラの話が始まってしまい、朝五時半から起きて、もう眠くてしょうがないのに、観てしまった。で、今朝は6時に目覚めて昨夜読んだ本が気になってもう・・・




秀吉が城を築くために近江の穴太(あのう)衆とか黒鍬(くろくわ)組とかをいくさに常時連れていったことは、よく知られているが、あの有名な墨俣一夜城とか大阪城の石組みの巨石が、小豆島から切り出されていたのは知らずにいた。そういえば讃岐は花崗岩の産地だったなと思い出し、物部氏の集団が阿波・讃岐から最終的に播磨の揖保郡に凝灰岩を見つけて石棺に使ったこと、そのために揖保郡・龍山には秦氏や物部氏の居住地ができることは、古代史ではよく知られている。

そういう古墳時代からの職能民たちは、やがて中世の山城や、戦国時代の築城でまた活躍する。それを秀吉はよく知っていて、平穏なときから囲い込み、手なづけていたわけだ。しかも重たい石を海や川で運び、荷揚げ・荷おろしの最適な浅瀬の良港を知り尽くしていた水軍をも手なづけていることの、計画性と低い視線にも驚かされる。秀吉は百姓の身分だが、父親はアミで、各地を放浪していたし、おそらく渡来系氏族出身だろうから、職能にも詳しく、自分でもいろいろ転々とアルバイト人生を送ったことだろう。それがそれまでの武家には考え付かなかったさまざまな画期的人材使用法と、度量衡による製品の規格統一などの近代的経営術を考え出させたのだろう。


非常に示唆に富み、古代史にも応用可能な内容だった。なんとなれば小豆島と大阪は目の前だが、古墳時代に有明海の宇土からはるばる摂津や近江まで馬門石を運んだ阿蘇の氏族など、比べ物にならないほど古く、技術的にも劣っていたはずなのだが、なんと6トンもあるようなピンク石石棺をちゃんと運んでいるので、さほどは驚かずに見たのも確かである。


継体大王の今城塚古墳へは、近年、熊本と高槻の協力でその実験が再現され、筆者も宇土の阿蘇ピンク石切り出し露頭へも何度か見に行った。紀行にしてあるのでまた読んでいただきたい。

物部氏が小豆島近辺の石をあきらめて竜山へ向かった理由は、それが花崗岩だったからだろう。当時では硬くて加工しずらかったので、よりやわらかい凝灰岩を探したのではないだろうか?

もっとも瀬戸内両岸地域は六甲花崗岩層の山々が地盤を作っていて、その上に火山から噴出した溶岩がかぶさっており、そのために大地震には弱い地層になっている。このあいだの広島の大崩壊などはそのよい例である。

阪神・淡路大地震のときには六甲御影の花崗岩がごろごろと転がって家と人をぺしゃんこにした。ずいぶん前だが岡山でも、台風で巨石が転がってあやうく真下の人家を全壊させかかっている。花崗岩は非常に硬いが、ときに簡単にぱかっと割れてしまうので危険である。


地層や石材については以前からかなり興味があり、もうここを始めた時分から、いくつか記事を書いてきた。そういう視点で歴史を見るという風習がなかった頃から、いろいろ研究してきた。

秀吉が築城した琵琶湖東岸の長浜は、古代には息長氏の拠点であり、伊吹山を越えてヤマトタケルが尾張~筑波へゆく理由のひとつに花崗岩探索をあげている。花崗岩は砂鉄を生み出す石なのである。それは東北なら阿武隈山地(岩手の南部鉄器)、関東なら筑波山、西日本なら吉備(鉄鉱石)・出雲(たたら)・播磨(姫路鋳物師)・讃岐小豆島(サヌカイト)、徳島・広島・山口・愛媛と西日本各地の砂鉄、関西なら紀州熊野灘(真砂)と相場が決まっていた。

石と鉄は大きな関係を持つ。石工は道具のために、鍛冶屋は鋼のために、互いに持ちつ持たれつの組合関係=講を持っていた。黒鍬のような土木山師たちも、鍛冶のための墨を調達する。彼らは秀吉以前からいくさといえば調達に手を貸したが、秀吉ほど彼らを武士と同等に扱い、また記録にまで残した人はそれまでいなかった。職能民はいわば被差別であり、歴史に表立って出てくることはなかったのだ。つまり縁の下の力持ちでしかなかった。海人族を元とする水軍もそうである。源平まで彼らには歴史にでばるチャンスはなかった。だから平安時代にはあの純友の乱を引き起こして反駁してきた。

瀬戸内海の複雑な水流についても、番組ではちゃんと言及していた。つねにここで書いてきたことである。また瀬戸内や河川が高速道路であることもゲストの口を借りてしゃべっていた。すべからく筆者の昔からの持論である。

穴太衆などは平常は石工や棚田の石垣作りなどをしているわけだが、その身分は低いままだった。彼らの前身が、木地師などと同様、近江に集中したのは、天智天皇がここに逃亡避難民としての半島工人=部を多く入れたからであるが、ほかに南河内にも彼らは古くから置かれていた。現代、そうした往古からの技術者がいた場所が、今もなお家内制手工業で有名である。これは伝統というものである。

反面、彼らがいなくなった半島では、そういう技術を伝える伝統が消えてしまい、飲食店や自前の伝統文化を売る店に、職人文化を引き継ぐ老舗が消えたのである。韓国人観光客が日本に来て「全部韓国のまね」だと言ってしまう背景は、そういう悲しい半島の歴史の裏側が垣間見える。なくしたものへの回顧のほうが、彼らには、日本の技術への礼賛以上に心を占めてしまっているのである。ここのところはわかってやらねばなるまい。

こうした民俗学的な歴史は、記紀や六国史には当然出てこない(たまにヒントは火の神として登場はするが)ので、裏側の歴史だと言える。

秋葉神社や愛宕神社は「火伏せ」の神として有名だが、そもそも鍛冶屋の神である。こういう関係は江戸期、平和な時代に仕事が減ったために民衆の間で、勝手に置き換えられ行くものである。だいたいカグ土を祭る。イザナミの「ほと」を焼いて生まれてきた火の神である。「ほと」は女性性器であるが、同時にたたらなども指す。だから継体大王の「オホド」、その父の「オオホド」などはたたらを意味する名前である。また「ひめたたらいすずひめ」などの「たたら」も「ほと」のことになる。「涙流れてほとびにける」などの動詞としての「ほとぶ」は乾く意味で、火力を示す。

「ほと」の語源は「ほてる」であろう。あるいは逆かも知れぬ。神武は「ひこ・ほほ・でみ」であるが、これも穂を稲穂と素直に受け取らないほうが実像が見えてくる。火火である。天照国照彦天火明櫛玉饒速日の「てる」も太陽だけではなくたたらの火だとしてよかろう。武力とはそもそも武器である。それらのひとびとを「もののふ」と呼び、古代には物部と書いたことも忘れてはならぬ。物部氏のステータスは剣である。石上神宮には王家の武器庫があり、彼らが武器管理者だったことがわかるし、播磨の兵庫という地名も、物部氏が武器庫を持ったからである。その播磨の国名は往古は針間で、ここには姫路鋳物師の針工業が発達している。出雲や島根全体には鋼とかみそり産業があり、あのドイツのゾーリンゲンと今も肩を並べる世界最大の鋼産地である(そういえば山葵もそうだ)。輸出量世界一。


吉備といえば備前長船、刀鍛冶だ。日本唯一の鉄鉱石産地だった時代がある。これはほか東北日本海側・北陸越後などもそうだ。金や石油や製鉄産業があり、弥彦神社・唐松神社などは物部氏や縄文製鉄の神であろう。


豊前秦氏は銅氏族だった。田川郡香春岳が石灰と竜骨と銅を産した。山口県の周防などの地名も「あか」から来ている。聖武の大仏の青銅を産出した美弥鉱山がある。

有名氏族は常に鉱床とともにある。



古墳時代の多くの鉄器は、そのほとんどが輸入製品だったが、やがて輸入インゴットから作られる。それを牛耳ったのが葛城氏である。葛城襲津彦(かづらきの・そつびこ)は伽耶の鉄をひとりじめすることで中央の外交官として意見を持った。そして新羅の伽耶簒奪のさいに大いに活躍している。しかし力足りず伽耶が滅びると、大和は鉄インゴットの入手にことかくようになった。それで各地から「刀狩」をやったはずである。ちょうど秀吉や戦時中の軍部のように。それが「ご神宝を見たい」とか「ヤマトタケルの熊襲征伐」に反映している。雄略あたりからの鉄器は、だから百済経由になり、大和と百済の関係は深まるようになる。一方九州では新羅との交渉を開始し、結果的に継体の時代に、筑紫磐井は滅ぼされた。鉄をめぐってさまざまの人間模様が繰り広げられるのが『日本書紀』のひとつの読み方でもある。

出雲荒神谷の大量銅器の埋葬は、想像するに銅から鉄の時代の「神」の変容に起因したと考えられる。銅器では出雲が古代ナンバーワンの産出国。しかし大和の介入で鉄器に目覚めると、銅器は祭器としてしか使われなくなる。しかし銅はかつての神。捨てることも叶わず、結局、土地を鎮魂する祭器として埋められたのかも知れない。あるいは青銅器時代に、大和から簒奪されるのを防ぐためだろうか。それにしては掘り出してはいない。銅器などは地中に埋めたほうが錆びないので、あれは遺棄ではないことは確かだろう。一時的な隠匿か?荒神谷や神庭という地名にヒントがあるのだろう。


石工や鍛冶屋や宮大工などの職能民がみな工人であり、荒神が近江の新羅明神では黒尾神であることが鉄を示している。荒神とはつまり彼ら渡来系工人が祭った神である。それが習合して十一面観音などを作って仏教でも祭るようになった。八面六臂のヒンドゥの神々は、インドで、仏教のあとから生まれてくるが、中国ではそれが密教に変化する。それが日本にくると修験道や真言・天台を生み出した。ゆえに空海が天皇から熊野の入り口に土地をきりひらいたときに、まず最初に地主神としての狩場明神や丹生津媛に詣でるのである。鉱物資源は実は、仏教・密教の貴重な収入源でもあった。空海は私度僧でありながら唐まで行けた。その財力は鉱物氏族たちの後押しのおかげだったのである。密教では水銀や砒素や鉄や金銀などは薬品である。ミネラルである。


石を扱う職能民は分業制である。切るもの、ひくもの、海ではこぶもの、にあげするもの、その切り出す道を開拓するもの・・・。その分業制こそは古代の科学であった。分業する、分化すとは、つまり西洋科学・哲学の基層である。つまり半島工人たちは誰に教えられる出なく科学者だったのだ。しかし残念なことに孔子の儒教はそれらすべてを下に見て差別した。だから医者も科学者もつい最近まで差別され、こきつかわれるままであった。ナチスドイツのV2号ミサイル作製などはまさにそうである。
科学者は戦争にこきつかわれつづけた。それが経済を発展させ、便利な現代社会の基盤になった。女性に便利な道具のほとんどは、いいたくないが戦争から生まれたのである。戦争に反対しながら、あなたがたはその道具を疑いもなく使っている。かつての科学者のようにこきつかって生活している。同じことである。


分業が生んだ氏族がある。石を引く氏族は「ひき 日置・比企・匹 通称蛙」氏、
石垣は穴太氏、穴井氏、鍛冶屋は甲斐氏・寒川氏などなど。船は船木氏・天野氏・木屋氏など。石切は石切、劔矢、青井など。宮大工の聖人が聖徳太子である。鍛冶屋はかぐ土。酒屋は大山ツミ。


苗字はかつて職能を現していた。奈良時代である。区別・差別するために苗字があった。韓国などは今でもそうである。苗字を聞けば先祖がすべてわかった。出身地も。それは渡来を区別するための重要な戸籍製作だったのだ。つまり被差別とは苗字から生まれる。だから天皇には苗字がない。平民も苗字がないのは、この平民等は良民のことで、農家のことである。蝦夷にも氏がつけられた。しかも本人たちが喜んでつけた名前が君侯(きみこ)部などである。「君=天皇の持ち物」という意味なのに。

「きみしま」などは天皇の島、土地である。


「きさい」は天皇の荘園。

だから明治時代に初めて苗字を持ったという家柄は、かつての水のみ百姓ばかりである。まじめに税金を払っていたから差別対象にはならなかったかわりに、一生、子々孫々まで赤貧洗うが如しだった、よく生きてきた。すばらしきたくましさ。尊敬する。


租税を払えないものは肉体労働か海産物か資源を出すのである。海民、海女、漁師、山師、鉱山師、鍛冶屋などなど。これを徴収する氏族が調(つき)氏、木菟(つく)臣氏などだ。

仁徳紀に武内宿禰の家にはミソサザイ(さざき)が、仁徳(おおさざき)の家にはふくろう(木菟)が飛び込んだ、吉兆であるとして武内宿禰の子供に「木菟宿禰」を賜るという記事がある。つまりこれは税調官吏になったということだ。

似たような話が応神紀にあり、武内宿禰とともに応神が気比の大神に参拝したら、気比神は名前を交換しようと言い出し、応神に自分の名(ほむたわけ)を与え、自分は応神の「いささわけ」を名乗ったと。

どちらも「神名の交換」記事である。
帰順と奉公を表している。


この記事はこれまで。

以降、聖武と光明皇后の企みへ。
さらに孝謙女帝の天武・草壁血脈の奪還計画へと続く。
こう、ご期待。
最終的に桓武以後の平安の天皇の皇位継承までいこうと思っている。


同時に、考古学(最近まったく新発掘がないが)的な解釈まで挿入する。よ・て・い。



書くべきことはまだ山ほどある。寝る暇がないわい。

イメージ 8
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

聖武と光明子・光明皇后の策謀 聖徳太子夢殿幽閉

$
0
0

参考文献 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』増訂版 吉川弘文館 2014
より



聖武天皇といえば大仏建立であるが、皇位継承の特筆すべき改革秘話の持ち主でもある。それまで、記紀の記事から想定できる皇位継承条件には、

1 天皇は死ぬまで皇位にある
2 禅定はしないで、死んだら交替
3 そのときまでに立太子させておくが、その年齢は成人乃至はそこそこの年齢
4 基本的に女帝は中継ぎで、結婚・出産はしない

もっとも、この規定も、たかだか雄略~持統までの前例であって、それ以前は持ち回り制である。そもそも「天皇」は天武が死後の贈呈であり、実際は持統からである。いや、天皇と言う氏族の始まりも持統女帝からで間違いがないのである。それまでの持ち回り制は、豪族からの共立と皇女の皇后という条件下で施行され、それもあくまでも『日本書紀』の言い分であり(筆者意見)、「皇后にしても実際は存在せず、すべて妃だった」というのが河内の説である。


文武天皇がまず15歳で立太子したことから3番はすでに例外を認めており、聖武の1歳にして皇太子となるというのはさらに掟破りとなっている。立皇后記事はどれも怪しい。子供を生んでしかも、そのあと何世代か天皇がつづかねば皇后とは呼ばれなかったのであるから、最初から皇后になる可能性は皆無に近い状況を作ってあるのだ。立太子はさらに厳しかったのが当前、なのに『日本書紀』が『続日本紀』になったらもう文武・聖武の例外記事である。いきなり記紀前例は破棄されたことになる。

こうした事例を『続日本紀』が許容している背景には、まずもって藤原四家と光明子の策謀があったか、あるいは『日本書紀』がでたらめであるかのどちらかしかない。どっちもであろう。

二位の地位、右大臣の官職からそれ以上上ろうとはしなかった藤原不比等の娘・光明子(こうみょうし)は。藤原氏からはじめて天皇聖武に嫁いだ女性で、一般には孤児院や療養所などを建設して「慈悲あふれた」人物だとされている。そして聖徳太子を史上最も敬愛し、それに見習って仏教にも帰依し、奇特の女性、ひかりあまねく自愛の母などとされてきた。仏像にまでなっている。


しかし彼女の目的は藤原氏正当性の上乗せ作業についやされもした。藤原四家は不比等の子供たちで構成されたが、中でも藤原武智麻呂との連携は、長屋王殺害までも実行させたとみられる。

そのコンセプトは「藤原氏の権力抗争からの安定」であった。藤原氏には獅子身中の虫県犬養橘家が立ちはだかったのである。この権力抗争から藤原氏を宰相として確立させる正当性が必要であった。

まず立皇后記事が、皇太子の死の直後におかれている。光明子が聖武妃として生んだ子が皇太子と認定されると、すぐに夭折。あきらかにこれは橘氏からの暗殺だろう。するといきなり彼女は皇后になったとある。こんな奇妙な例はない。子供がいなくなったら跡継ぎがないのだから、前例では皇后にはなれないのだ。藤原氏としては娘がまさか皇后になろうとは、最初は考えてはいなかった。しかし皇太子が殺されては、黙ってはいられない。四家全力を挙げて彼女を皇后にしてしまわねば、存亡の危機になる。しかもこのとき、妃・広刀自にすぐ皇子(安積親王)が生まれてしまう。もう大騒ぎである。

さらにあの有名な大事件が勃発する。大宰府の菅原道真が死んだ!そして天神となって藤原四兄弟が次ぎ次に死んでいった。すべて変死である。祟り神道真の、雷神となってのリベンジだと記録は書いた。しかし、もちろんそんな馬鹿なことはありえない。当然、殺されたのだ。橘氏によっての暗殺である。

光明子の藤原による政権独占の夢はとんでもない事態になってしまう。それどころではない。

彼女以前に、宮子が文武に嫁ぐ際 の伝説も、かなり奇妙にできていた。海人族の娘らしき髪の長い美人の宮子は氏の出身もあやしく、しかたなく不比等が養女として
まず家にいれ、そこから貴族に一度出てから箔をつけて文武に嫁ぐのだ。どこかで聞いたような?幕末の薩摩の天璋院篤姫みたいなお話。しかも海人族とは?これは思うに文武の、祖父天武系譜の地固め作戦であろうか。だから不比等が宮子を養女にしてまで嫁がせる話は眉唾物ではないか?その後、光明子も宮子に同情し、会うこともできなかったわが子聖武に会うことの手助けをした?それもおかしかろう?

敵対する天武の血脈が固まるために、なぜ天智こそ皇祖とした不比等らが手伝うのか?


一歳児聖武の立太子にせよ、その後の孝謙女帝の擁立など、どれもこれも奇妙で、おきて破りの行動ばかりだ。聖武天皇の立太子。即位、禅定も奇妙。そして最たるものは、聖武天皇即位の儀の二度の記事である。

九日に儀を執り行い、二十四日にまた儀式。なんかこう一ヶ月も飲めや歌えをやっていたかのような記事である。

往古の即位の儀は九日間である。それを光明子は二十四日間に無理やり延長し、聖武がいかに正当で、有力かを世間に示そうとしたようなのである。結婚式をして、新婚旅行は海外で、帰ってきたらまた披露宴みたいなことなのである。(ちなみに筆者も結婚式は住まいのあった京都と、妻の実家と、二度させられた。なんかはしらんが、静岡の田舎じゃあそういうことなんだとねじふせられて・・・???今でもよくわからない。おそらく向こうでは彼女はよほど可愛い娘だったということなんじゃないか?仲人もあっちとこっちの二組いたというまあ、前途多難な・・・質素にやろうとしたのが、振り回された気がする。)

そういう経験も踏まえて、どうも藤原氏にも、伊豆の人々のような自分たちの実力は衰えてはいないという演出がどうしても必要だったことはわかると思う。


藤原氏はその後、安積皇子の皇位継承権を執拗に否定し続けている。唯一の長男である。なぜか?ならば一思いにやってしまえばいいものを?そして代わりに即位させたかったのが孝謙(称徳)だったのである。ところが・・・






おまけ
聖徳太子をクローズアップしたのは、まず天智、次に持統、そして光明皇后である。天智は白村江敗北で地に落ちた名声と、唐が攻めてくるという「噂」によって、それを忘れさせ、一気に地位を取り戻そうとしたためであったが、光明皇后もまた藤原四兄弟の死で、藤原氏が一気に実力を失うことへの懸念から、地位を奪回する必要があった。持統は自分の正当性のために仏教をクローズアップしたのだ。そのための火葬や釈迦三尊への仏寄贈である。

そのための聖徳太子をだしに使う二度目のことになる。

仏教も太子も所詮、権力者抗争のだし、神輿であった。

厩戸もえらい大迷惑だったろう。自分は引っ張り出され、子孫は殺され、自分がモデルになった神仏には包帯を巻かれ、見ざる言わざる聞かざるの成人として、夢殿に幽閉されたわけである。夢想していたと書くが、それしかほかにさせてもらえない状態。幽閉したのは誰だ?蘇我氏ではない。


中臣氏にきまっとるじゃあないですか?鎌足さんの先祖じゃあないの??

いずれにせよ蘇我氏の反対勢力だ。孝徳だったかも知れない。息長氏かも知れない。



イメージ 1
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U











 

豊田トンド山古墳巨大石室と物部太媛とそして道鏡事件 おまけは京都大内裏裏話と河勝登場の裏

$
0
0



 「天理市の石上(いそのかみ)・豊田(とよだ)古墳群の南西端で、直径約30メートル規模の7世紀前半ごろの円墳とみられる古墳と大型の横穴式石室が見つかり27日、同市教委が発表した。

イメージ 1

  同古墳群ではこれまで、古墳時代後期の前方後円墳2基や円墳200基を確認。今回、都市計画道路事業に伴う発掘調査を行ったところ、未調査だった丘陵の頂上部で全長約9・4メートル、高さ2・6メートルの石室が見つかった。墓室(玄室)は幅約2メートル、長さ約4・9メートルで、最大1辺約3メートルの巨石を積み上げた壁面でできていた。

  市教委はこの古墳を「豊田トンド山古墳(仮称)」と命名。地形などから直径約30メートルの円墳の可能性があり、同古墳群の同時期の古墳としては石室とともに、2番目の大きさになる。

  同古墳は物部氏の本拠地の1つと考えられる布留(ふる)遺跡(天理市)や、ヤマト政権の武器庫でもあった石上神宮(同市)を見下ろす高台にあることから、同市教委は「布留遺跡と関わりがあり、一定の勢力を保ち続けた有力者の墓と考えられる」としている。

  現地説明会は5月2日午後1時~午後3時半。雨天の場合は9日に順延する。問い合わせは、同市教委(電)0743・65・5720。」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150428-00000003-san-l29






イメージ 1




被葬者候補

物部太媛(ふとひめ、布都比売。生没年不詳))
飛鳥時代の人物。有力豪族・物部尾輿の娘で、物部守屋の妹。史料によっては布都姫夫人(ふつひめのぶにん)、御井夫人、石上夫人。6世紀後半から7世紀前の人。

「『旧事本紀』「天孫本紀」によると、崇峻天皇の時代に神職の重職について国政にも参画したといわれている。のちに異母弟にあたる物部石上贄古と結婚して、物部鎌足姫大刀自(蘇我馬子の妻)を産んだとされている。
他方、蘇我馬子の妻が彼女であるとする史料もある。『日本書紀』では名前こそ明らかにされないが、蘇我馬子の妻は物部守屋の妹とされている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AA%9B


朴井雄君 えのいの・おきみ
生年不詳 - 天武天皇5年(676年)6月)
「日本の飛鳥時代(7世紀前~)の人物である。榎井小君とも書く。朴井氏は物部氏の同族であり物部雄君ともいう。姓は連。物部尾輿の孫にあたる朴井真古、または物部守屋の子で、子に忍勝・金弓・有利媛がいたとする系図がある。冠位は贈大紫。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E4%BA%95%E9%9B%84%E5%90%9B
※時代は合うが守屋の子ではあるまい。氏姓が合致する真古の子ではないか?

「美濃に住まう物部氏の一族といわれる。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に従って活躍した。

「壬申の乱が始まったとき、朴井雄君は大海人皇子に舎人として仕えていた。天武天皇元年(672年)5月に大海人皇子に対して大友皇子を戴く朝廷の害意を告げた。「臣は私事があって一人で美濃にいきました。そのとき朝庭(朝廷)は美濃と尾張の両国司に対して山陵を造るための人夫を選定しておけと指示しました。そうして集めた人に武器をとらせています。臣が思うに、山陵をつくるのではなく、必ず事があるでしょう。もし早く避けなければ、きっと危ういことになります」というのがその内容である。さらに別の人が、「近江京から倭京までのところどころに斥候を置いています。また莬道の橋(宇治橋)を守る者が皇太弟(大海人皇子のこと)の舎人用の食糧運送を遮断しています」と告げた。大海人皇子はこれを調べて事実であることを知り、挙兵を決意した。

天武天皇は6月24日に吉野を発って東に向かった。付き従うものは妻子と臣下二十数人と女官十数人で、朴井雄君もその中にいた。その後の内戦での雄君の役割については記載がない。

壬申の功により榎井小君が100戸を封じられたことが『続日本紀』大宝元年7月21日条(701年8月29日)から知られる。

天武天皇5年(676年)6月に、急病で死んだ。天皇は大いに驚き、壬申の乱での大功によって、内大紫の位を贈り、あわせて氏上にした。」
Wiki物部氏より


イメージ 3





イメージ 4

物部守屋は記録が正しいのなら、587年に丁未の乱(ていびのらん)によって殺害され、その後本家は衰亡している。この古墳の年代で、石室の巨大さにみあう有力男性は大和や河内渋川にはいなかったはずである。にも関わらず天皇に匹敵する石室(奥行き 第1位30m)を持てた人物となると、考え付くのは大和では蘇我馬子の妻とも、妻の母とも言われる物部太媛くらいのものではないか?



あるいは物部宇麻乃もののべの-うまの (宇麻呂・石上宇麻呂)
?-? 飛鳥(あすか)時代の官吏。
「石上麻呂(いそのかみの-まろ)の父。孝徳天皇(在位645-654)のとき朝廷の護衛を任務とする衛部に所属し,大華上の位にあった。氏印大刀(たち)と食封(じきふ)1000戸をあたえられ,石上神宮につかえた。名は宇麻呂,宇麻子,馬古とも。」時代は7世紀後半で合わない。


その父は大連・目(め)。雄略朝~7前半?くらいの人で、これも大連なので有力。円墳は雄略と同じなので、大和ではこの頃の古墳形態だという点でも合致する。
 
あとは守屋とは別系統の、継体天皇時代に九州磐井を攻めそのまま国造を引き継いだであろう麁鹿火(あらかい)であるが、筑紫で536年頃に死んでおり、年代が合わない。



すると「奈良の石上・豊田古墳群で横穴式石室が新たに発見」の記事に合致しそうなのは大連目あるいは太媛ではないかとなるだろう。



しかし豊田トンド山古墳の石室はNo1に大きい。長さでは
見瀬の丸山古墳(舒明?あるいは蘇我堅塩媛 きたしひめ?)がこれまで28メートル以上で一位、

宮地嶽神社古墳(天武外戚、胸方君徳善?)が22メートルで二位、

三位石舞台古墳(蘇我馬子?)19・4mだったのが、

一気に豊田トンド山が一位に躍り出たことになる。30メートルとなると天皇をしのぐ大きさである。円墳であるなら雄略朝関係者でもあろう。となると歴史上は地味な大連目とは考えにくく、権力者馬子を動かせる立場にあった太媛でいいのではないだろうか?

イメージ 2

記紀は「太い」と書くが、意味は「大」である。また実際は「布都比売」で「ふつ」だった可能性を言う説もある。「ふつ」は「ふつのみたま」つまり物部氏・石上氏共通の神剣の神霊である。その「ふつ」とは「ふっ」で、刀が空を切る音からだと言われている。





■蘇我馬子の妃説
1 『紀氏家牒』・・・物部守屋の妹・太媛(ふとひめ)
2 『日本書紀』・・・同  上
3 『石上振神宮略抄』「神主布留宿禰系譜」・・・蘇我蝦夷の母親は守屋の妹「太媛」
4 『先代旧事本紀』・・・物部贄古の娘の鎌姫大刀自=守屋の姪(うそ)
 物部守屋公の妹は物部連公(贄古の)布都姫夫人。字は御井夫人。亦は石上夫人。(実の妹を弟が夫人にするわけがない)守屋の弟の物部石上贄古連公は異母妹の御井夫人を妻と為し、四児を生む(実の妹を妻にする?明らかに馬子妻の事実を隠匿)
物部贄古の娘の鎌姫大刀自(うそ)

※『旧事紀』の記述には同様のありえない近親結婚の記載が瑞所に見られるので、このケースでは信用するに足りない。

守屋妹と守屋弟の近親結婚記述は、蘇我氏によって守屋が滅ぼされたことから考えれば、物部氏側からの勝手な主張だと考えていい。氏族間の史書以外の三つの史書の記述が合致しているから、太媛が守屋の妹で馬子の妻が正しい。

鎌媛大刀自連公と太媛は同一人物で、贄古の娘というのはうそ。馬子と太媛の娘に聖徳太子夫人の刀自古がいるのだから、大刀自の文字をもらった名前であるのだから、太媛=大刀自=鎌媛と筆者は考える。



■従って『日本書紀』の蘇我馬子の妻計とは
太媛(布都媛)が兄の財産・所領・石神神祇権・大和物部相続権を狙って夫・馬子をそそのかしてやらせたと結論する。

それで乱の直後に推古は突然神祇祭祀を復活させ、守屋、竹田、崇峻らの御魂を鎮める必要が生じた。

つまり守屋の反乱は仏教対神祇の戦いでもなく、また守屋が反乱したわけでもなかったと結論できる」当ブログ2010/7/17(土) 午前 11:59記事
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/52481759.html



『日本書紀』崇峻紀
「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり。大臣、みだりに妻の計を用いて大連を殺せし」

同じく皇極紀
「蘇我大臣蝦夷、病に拠りて、朝らず。私に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位に擬ふ。復其の弟を呼びて、物部大臣と曰ふ。大臣の祖母は、物部弓削大連の妹なり。」



弓削大連とは守屋のことである。その妹が太媛であることは記事が複数あって間違いがない。ただ馬子の妻だったことは諸説ある。しかし『日本書紀』はこのように二箇所で馬子の妻を揶揄する記事を載せている。つまり兄守屋が謀反し、蘇我馬子に殺される背景には、妻、太媛の「妻計」=陰謀があったのだとするのである。『日本書紀』はここでむしろ馬子を擁護していることになる。考えようによっては、『日本書紀』は物部本宗家氏内部の、離反があったのだと言っているわけである。

そしてそれを証明するように、守屋が死ぬと彼女は実質の大連の立場となってもいる。そして各地にあった守屋の所領や財宝などを、馬子を通じて手中にしたわけである。

考え方は二通りあろう。馬子には義兄である守屋を殺す気も、物部本家を滅亡させる気も、最初はなかったという考え方。もうひとつは蝦夷以下は悪者にしたいけれど、馬子までそうする気は『日本書紀』にはなかった、という両面である。馬子が死亡すると、名目上の大連は守屋の弟・御狩(おかり)に転がり込み、その息子・目につながることになったのだが、どうも姉に当たる太媛がかなり彼らを牛耳った気配がある。

だから事件の陰で、一番得をしたのは馬子よりも妻であろう。なぜなら馬子の蘇我氏は、それによって守屋の財産を独占したように見えてしまう。だからその後子孫もやられていいのだ、という理由付けにすらなりかねない。慎重な馬子がそれを望むはずはない。しかし侠気の姉御肌である妻には頭が上がらず?仕方なく守屋らを滅ぼした?だから実質上、やはり太媛はひとり得したわけである。

それほどの財力を独占して、しかも権力者蘇我氏の妻だったのだから、これは当然、天皇の皇太后のような立場になれたのである。ちょうど藤原光明子と似たような立場。事件の陰に女ありである。

しかし彼女の名前は歴史ではほとんど知られず死んでゆく。だから乙巳の変の首謀者は、結果的に物部氏の財産・所領も、蘇我氏のそれも、一挙に手にできてしまったことになるわけだ。で、登場してくるのが?鎌足の息子の不比等だったというわけである。藤原宮はもと、地名は葛井(ふじい)、それを藤の文字に変えさせたのはほかならぬ不比等しかありえない。葛井とは井戸で、水が湧いていたからの地名で、決してよい場所でもない。湿地である。だから「くずい」なのである。そこを埋めて宮を建てるほどの財力が不比等にはあったということだろう。




イメージ 1




では藤原氏はいったいどこからやってきたのだろう?
いや、正確には中臣鎌足の出自である。

藤原氏が祭る春日神社は、常陸の鹿島神宮から勘定されている。つまり中臣氏はどうであれ、藤原氏の本貫は茨城県の鹿島にあったことにしてあるのだ。これはなぜだろうか?なぜ東国の鹿島だったのだろう?また春日大社よりも鹿島神宮のほうが古かったのは本当だろうか?

本拠地の奈良で春日大社を神宮にはしていないところにヒントはあるかも知れない。不比等は死ぬまで決して朝廷No1の左大臣や一位にはあがらなかった。フィクサーとしてNo2が最適であることを熟知していたのだろう。すると春日をNo1にしないのも当然だ。蘇我氏のようになんでも一番にしてしまうと、必ず反対勢力からのやっかみと陰謀が降りかかる。そこで、いったん縁えもゆかりもなさそうな遠隔地の鹿島に神宮社格の神社を建て、そこは東北への鬼門、蝦夷へにらみを聞かせる魔よけであると認めさせ、そこからタケミカヅチを改めて春日へ・・・。巧妙である。しかもその春日はそもそも春日氏の處領地である。これは摂津の阿武山古墳周辺がやはり春日氏の土地であることとリンクする。おそらく春日氏を抱き込むことで、大和で地位を固められたのだろう。なにしろそれまでの中臣氏はただの祭祀者集団だったに過ぎない。王家に嫁も出さないし、これといった実績もない。神話に国譲りの立役者と書いたのは、鎌足・不比等が実力を持てたからということしかなく、そのような出雲での神話は、まずもって物部氏の実績であって、彼らがやってくる前のことであろう。

特に文武~聖武、孝謙・称徳時代の皇位継承での抗争が起きた時代が、『日本書紀』を大幅に藤原氏や橘氏に都合よく改竄するには最適な時間である。なにしろ朝廷内はごたごたしている。書庫でなにが行われたかなど知れたものではないのだ。光明皇后から称徳の間が最も怪しい。

特に称徳時代の道鏡事件である。なぜ一介の僧侶を天皇にしようとしたか?その理由は聖武の長男が即位を拒絶され、彼女がピンチヒッターになってから始まる。藤原氏はどうしても天武の長男安積を継がせようとはしない。理由は彼の母親が、橘氏の媛・広刀自だったからに他ならなかった。宰相としての権利が橘氏に傾こうとしていたから、強引に、子供が死んで権利のないはずの光明子を「皇后」にしてしまい、その力で天智以来の持統・元明の女系血統をつづけんとしたのである。

ところが孝謙女帝はこともあろうに祖父草壁と天武の血脈の父方のほうをつなごうとしたのである。ここが女の面白さと言いましょうか?さらに、子供ができず、それもあきらめなければならなくなった結果、とうとう僧侶を即位させたいと言い出してしまう。わけがわからんので、朝廷は和気清麻呂を呼んでくる。宇佐神宮まで託宣うかがいに。すると最初は「それでええがな」となり、あわててもう一度させたらやっと「そらやっぱあかんわ」と出て、持ち帰ると、今度は女帝が怒り狂い、和気清麻呂は「穢麻呂 きたなまろ」に、姉の広虫はひどいめに。

この女帝、別に男狂いだったわけではないだろう。もう誰でもいいので、誰か言うことを聞くものにつがせてしまいたかったのだ。

それほど藤橘(とうきつ)の氏族争いに嫌気が差したのである。それはちょうど聖武が、やはり嫌気が差して大仏建立に命をかけてしまったのと同じ理屈である。

まあ、飛鳥時代には皇極、足利時代には足利義満の例もある。政治がいやになると建造物に夢を託す。皇極はペルシア人にうつつをぬかし、あの「たぶれ心の溝」に、義満は妻の日野富子を放り出して金閣寺に、それぞれ大金をつぎ込んだ。現実逃避である。日野富子などは仕方なく代わりに政治を行って、とうとう応仁の乱まで起こすことになった。奈良も京都も、もう権力者には大迷惑してきた。

孝謙死後、継嗣がいなくなって、とうとう仕方なく、のんだくれ親王だった天智の息子光仁が、もうじいさまだったのに歴史の表玄関へ。その子供が桓武だったが、せっかく大仏を作った南都を捨ててすたこらさっさと山背京都へ引っ越してしまう。なぜ?金メッキで金はなくなり、環境は破壊され、大和川は鉱毒汚染されたからである。いやそれよりも守旧派と新興勢力の政権争いから逃げ出すためである。南都仏教は捨てられた。おきざりにされた。あの孝徳天皇のように。やっぱり天智の血は争えない。平気で逃げ出す。





イメージ 1





豪華おまけ


京都大内裏・・・秦河勝の屋敷跡。
そこは現在の御所(堀川御池)から少しはなれた油小路通りあたりにあったとされる。今、そこへ言ってみるとその痕跡はある。油小路通りや千本通りは下立売では狭いが、そこから急に、堀川通りへ無理につながっており、北野白梅町の東側あたりでばと広がって、二条城までが特に広い。西京極球場があったあたり。今の朱雀高校のあたりが朱雀門があったところ。

千本大宮の映画館の東あたり。そこがおそらく河勝の住まいであろう。そして元の大内裏の北端もこのあたりにあったのではなかろうか?(こういうことは住んだ人にしかちょっと感じがわからんでしょうね。一説では狭い千本か油小路商店街の中ほどに痕跡があるとかないとか・・・)。嵐電に乗るときによく注意してみておいてね。

「中京区油小路二条下二条油小路町 280 他 .... 拾芥抄』所収の『天暦御記』逸文には、内裏の場所がかつて秦川勝の邸宅があっ ......

当該地は江戸時代には松平氏の武家 屋敷、大正時代には施薬院があり、その後中央市民病院・ ...... 間は 4 丈幅の道路と 考えたが、内裏北と縫殿寮間がそのまま 4 丈であったかという点である。」

南端が今の朱雀と二条城になっている。


北野はいわゆる紫野が近い。あの「あかねさす」の天武がいったところだ。かつては鳥辺野、愛宕おたぎ郡である。ここから北は縄文時代からの墓地で、鳥葬していたから「とりへの」である。そういう辺鄙で君の悪い場所に秦氏頭領は住まったのである。

なぜなら京都盆地も奈良盆地同様、弥生末期まで湿地、かつての盆地湖だったからであろう。真ん中に住むところなどなかったのである。植物園が岩倉にあるが、あそこはみぞろが池(緑泥が池)が残っており、環境が悪かった。紫野には薬典の薬草苑があったので、植物園にはこのあたりはふのでふさわしい。湿地帯だったから。地下水もね。


イメージ 5


京都は渡来人が切り開いた。北も南もだ。秦河勝は京都開闢の祖である。
それを秀吉が応仁の乱のあと再開発した。秀吉は京都中興の祖である。

しかし・・・、山背秦氏が実際に歴史に登場したのは、実は平安遷都のときが初めてであろう。

『日本書紀』はそれを前倒しして、応神紀や仁徳紀そして推古紀に、前もって登場させたと考えてよかろう。それまでの秦氏は、まったく無名。これはあきらかな平安遷都の正当性のための前置きである。


イメージ 6


大宮通は広いでしょう?堀川も広い。堀川は秀吉が整備拡張した油小路なのだ。
京都と言えば幕末と安部清明だと思っているあなた?あなたは京都の素人ですよ。焼ける前を知らなくっちゃ。それがディープ京都ファンというものです。





京都を知るには京都に住め、なのである。





ぐるりから傍観しとってもわからしまへんえ。




しかし受験のときは西院やら大雪でしたんどすえ。えらいめえにあいましたわあ。
堂本の衣笠山までまあ、雪道でえ。おおけな風邪ひきましてなあ。最悪どしたわあ。
おかげさまでりっちゃん、どうやん、どっちも見事におっこちましてんわあ。










イメージ 1
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U






武内宿禰と山下影姫 伽耶王とアカル姫を反映か? 紀伊の大本は佐賀県

$
0
0


イメージ 7
なにはともあれランクリを!!







武内宿禰{紀}(たけしうちの・すくね 建内宿禰{記})


イメージ 3


「彦太忍信(ひこ・ふつ・おし)命が木の国造(紀氏・倭国造・大倭氏の祖)の祖である珍彦(うづひこ・椎根津彦=倭直・倭国造・大倭氏の祖)の妹、山下影姫(やまと・かげ・ひめ)を娶って生まれた子供は建内宿禰」

鬱色雄命(うつしこおのみこと)の娘の伊香色謎命(いかがしこめのみこと、伊賀迦色許売命)の子供が彦太忍信(ひこふつおし)。



彦太忍信命--------屋主忍男武雄心命--------武内宿禰
(紀では比古布都押之信命) (やぬしおしおたけおこころ)   甘美内宿禰

つまり山下影とは木国造つまり紀氏の祖先で、その兄は椎根津彦で大倭氏(倭直・倭臣)の祖であることがわかる。佐賀県の菜畑遺跡と吉野ヶ里遺跡に挟まれた筑後川沿線の、もと基肄郡(キイぐん)あたり(現在合併して三養基郡 みよき)で、紀とウチが合体したと判断できる。基肄の音「きい」は要するに「紀伊」である。「木」が最古で、Ki一音ではいいにくいので「きー」と伸ばすのが特徴。それが「きい」表記の始まりである。やがて近畿へ付いてそこが木の国になり紀伊国に、さらに北上して京都市の山城国紀伊郡へ広がりが。今の深草・稲荷山周辺である。


イメージ 4



さて、それを後押しするのが筑後地方の神社群である。


山下影姫を祭る神社
佐賀県武雄市朝日町中野(隣が山下町) 黒尾神社(神母影媛=影姫) 摂社黒尾神社
福岡県小郡市力武 竈門神社(玉母宮) 祭神 玉依姫命・高良玉垂命・山下影姫命
福岡県宗像郡玄海町 葛原神社 影姫命
福岡県八女郡水田町大字月田字宮脇の玉垂神社
新潟県西頚城郡名立町 江野神社 影姫命

※山下影姫は紀氏の祖で、兄の宇豆比古=珍彦=椎根津彦は大倭氏の祖。
武内宿禰の母。筑後地方では大地母神でもあり、渡来神でもあり、新羅神でもあるようだ。新羅はこの場合広く半島全域の諸国家を指す。なぜなら園城寺に新羅明神が祭られた時代に、半島は新羅国によって統一されていたからである。




イメージ 2吉野ヶ里と三田川の位置を間違えました。もっと真ん中の神埼市あたりです




武内宿禰(黒尾神)を祭る神社

福岡138社、佐賀32社、大分69社、奈良3社、和歌山14社など(参考神奈備サイト) 
「くろお」で祭る神社
佐賀県 武雄神社
福岡市中央区 今川鳥飼八幡宮摂社黒殿社
福岡県大野城市 黒男神社
福岡県田主丸町 黒島神社
福岡県 高良大社(高良玉垂)
大分県日田市 玉垂神社<通称>黒男社
福岡県築城町 八幡神社摂社黒男殿神社
大分県東国東町 黒雄社
大分県宇佐市 宇佐八幡宮摂社黒男社
大分県中津市 薦神社(大貞八幡宮摂社黒男社)
滋賀県園城寺新羅明神 黒尾神(白尾・黒尾・赤尾三神)

武内宿禰で祭る神社
和歌山県 武内神社をはじめ14社
京都府八幡市内里~京田辺市にかけて 内(有智)神社ほか

※中津市古要神社と豊前市古表神社では「細男舞い」があり黒男=住吉神である。
※「くろお」=武内宿禰=新羅神=色黒で体が小さい=住吉神

武内宿禰=住吉神でもあるので、住吉神社で探すときりがなくなるほど全国に。


武内宿禰・山下影姫関連系図

イメージ 1
羽田矢代宿禰が抜けています。



なお、「ふつ・おし」の「ふつ」は物部氏をあらわす。「うつしこお」も伊香色謎命も物部氏の先祖で饒速日命の子供ウマシマジの別れである。特に「いかが」とは今の大阪府枚方市出口の伊加賀町である。ニギハヤヒが遡上した天野川の起点・白肩津は少し北側の渚地区あたりである。

 
武内宿禰の子孫氏族
     羽田矢代宿禰          →「波多氏」
               許勢小柄宿禰(日本書紀なし)  →[巨勢氏]
      石川宿禰(蘇賀石河宿禰)       →[蘇我氏]
      平群木菟宿禰(平群都久宿禰)  →[平群氏]
      紀角宿禰(木角宿禰)            →[紀氏]
      久米能摩伊刀比売?
      怒能伊呂比売?
               葛城襲津彦(葛城長江曾都毘古) →[葛城氏]
               若子宿禰?




要するにこの8氏族が神功皇后と武内宿禰が生んだ子で、応神の時代の輪番制王だった豪族だろう。

1 応神が仲哀天皇と神功皇后の子は、前の王家とつなぐための便宜的言い回し
2 実際は神功皇后と宿禰の子供が応神交替制内閣の布陣である。
3 応神や仁徳という王はだから存在しない。和風諡号に合致する王はいた。
4 神功皇后は存在せず、それもこの地域の大地母神的な巫女であり、息長などはまったく無関係である。それは秦氏ら半島渡来人が追いかけてきたという姫こそであろう。
5 ならば武内宿禰の祖先とは、姫こそを追いかけてきた伽耶の王族であろう。
6 それが木、倭氏らの祖から出た姫と婚姻して宿禰が生まれる。これを「うちの氏族」という。「内臣 うちつおみ氏」。しかしこれは要するに「宰相」という意味に過ぎず、氏族名よりお役職名であるから畿内へ行ってから「有智氏」となるのだろう。
7 つまり紀氏と葛城系ウチ氏族が同族となるのはこのときで、場所は菜畑遺跡~吉野ヶ里遺跡周辺であろう。
8 その後、彼らは紀氏祖先の船で南下し、日向・豊後海岸線で葛城系・隼人系らを合併して遡上した。そして太平洋では同族の倭氏の祖先が合流する。
9 吉備で吉備氏と合流。

とまあ、そういうざっとした流れで大和に入ったのではなかろうかねえ?



菜畑遺跡は縄文後期~弥生の複合遺跡で、縄文の陸稲と弥生の水稲の両方が出る遺跡である。どちらも日本最古。
 
 
 おまけ紀氏詳細系図
 
イメージ 5



イメージ 6



桜馬場遺跡や宇木くんでん遺跡もお忘れなく。「うき」は「いく」ではないかしら?「うきは」が「いくは」ならね。また高木の神もおおいので関連ありかもですな。


キイの大地母だった姫が神功皇后のモデルかも知れぬ。すると息長とは紀氏の一派だったのか?葛城高額姫と息長の結婚から神功は生まれたというから、だいたいは紀氏とか葛城氏の伝承から宿禰も出たのだろう。ならば河内王朝が彼らによる輪番制で、吉備氏と3世紀までに合体していたと。そこへ4世紀後半くらいに雄略のような征服王がやってきたのだろう。それが倭五王かも知れないね。たぶんそれは半島から来たんだろう。それらよりも前には、近畿には誰がいたか?当然、寒冷化で南下していた縄文民族だね。




ランクリお忘れなく
イメージ 7
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U






基肄・紀伊・城井 音韻なんか意味がない

$
0
0



イメージ 7




音韻から地名を見分けようと言う論説の代表を貼り付けよう。

《続・「真説古代史」拾遺篇》(118)
「倭人伝」中の倭語の読み方(61)

「21国」の比定:(27)支惟国(その二)
 「支惟国」の候補地として上がっている比定地のうち、「吉備国」は私の立場からは除外することになる。その地域には既に「好古都国」「鬼国」「鬼奴国」を比定している。

  「已百支国」の訓みについて論じたとき、古代では「ワ」と「ハ」ははっきりと違う音として区別されていたことを確認したが、「ヰ」と「イ」もそうだったと考えて間違いないだろう。ウィキペディアから仕入れた知識だけれども、次のようである。

 『古代ではヰは[wi]と発音され、イは[i]と発音されて区別されていた。…13世紀なかばに入るとイとヰは統合した。』(「…」には統合に至るまでの経過が文献を用いて詳論されているが省略した。)

  倭人は音を転写するとき厳密な漢字採用をしたのではなく、類音を用いたに過ぎないという論もあるかと思うが、私としては倭人は「ヰ」と「イ」をまったく異なる音として転写すべき漢字を選んでいたと考る。その立場で考えるとどうなるか。

  「支惟」は「キヰ」である。「基肄」はどうか。『諸橋大辞典』によると「肄」の音は「①イ ②シ ③エイ」だから「基肄」は「キイ」「キシ」「キエイ」のいずれかとなるが、いずれにしても「キヰ」ではない。「紀伊」の「伊」は万葉仮名にもなっているが、「イ」の音しかない。やはり「キヰ」ではない。両方とも「支惟国」の比定地にはできない。

きい[城井]
  『和名抄』豊前国仲津郡に「城井郷」で見え、福岡県京都(みやこ)郡みやこ町木井馬場が遺称地。「紀伊」と同義という説があるが、「きい(紀伊)」と「きゐ(城井)」は別語であり、「きゐ(木井)」の意で、木で囲った井泉の意かと思われる。

  「城」の音は「ジョウ」だけだが、万葉仮名「キ(乙類)」として使われている。「井」の音はセイ(漢音)・ショウ(呉音)だが、「井」も万葉仮名「ヰ」として使われている。

  『日本歴史地名大系』によると「仲津郡」の郡域は「およそ現在の行橋市東部、京都郡の豊津(とよつ)町・犀川(さいがわ)町に相当する」。ウィキペディアの「みやこ市」を調べたら
「2006年3月20日 豊津町・犀川町・勝山町の3町が対等合併し、みやこ町が発足。」
とあった。みやこ市のうち御所ヶ岳と飯岳山を結ぶ線の北側が京都郡(勝山町)の領域であり、その南側全体(豊津町・犀川町)は仲津郡の領域である。「城井」は下の地図の犀川町辺りのようだ。

http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-1789.html







音韻にこだわる論説であるが、筆者は古代音韻にはさほど区別は明確でなかったと考えている。もっとアバウトでよいだろう。

この「き」を「きい」という表現に変化してゆくことについては、関西に長く住めばわかるけれど、「き」一文字、一音では落ち着きが悪い言葉を、関西弁ではほぼ伸ばす癖がある。「間が悪い」は「まーが」あるいは「まんが」とする。「木」は「きー」、「蚊」は「かー」である。つまり「きい」の「い」が「イ」か「ヰ」かで悩むのではなく、単に「イ」が伸びただけなのである。選択する余地はなく「紀伊」も「城井」も「基肄郡」もすべて音は「イー」である。つまり木部=紀氏の居住地が「き」であり「きい」なのである。子供の「いーーだ」と一緒である。要するに「い」なら「い」がそのまま伸びたんだから考える必要もなく「き」でも「み」でも「り」でも二文字目は「イ」なのである。「ヰ」がのびれば当然、二文字目は「ヰ」である。

「きー」がなぜ「紀伊」などの二文字になったかといえば、これもまた簡単な話で、律令施行以降に地名を「良字、二文字表記」にせよとのお達しがあったからに他ならない。

そもそもこのような簡単なことで何を延々と思い悩むのか、さっぱり理解できない。
地名などはそもそも民間、地域住民の都合のいいわかりやすい名前でできている。中国人が漢字で厳しい使い分けをしていたことと、日本語の地名の音韻では比較しようもないほど、日本の地名はいい加減であろう。

また音韻で「邪馬臺」を「やまと」か「やまたい」かなどと考える手法こそ実にこっけいである。まして臺が壱だとかいう勝手な妄想もまことに無意味で、本当のところなどわかろうはずもない水掛け論で、時間の無駄である。そんなことを真剣に考え続けているなんて?タイムマシンでも作って言ってくればいい。そのどっちでもない可能性だってある。ばかばかしい。






まじめで頭のいい人と言うのは、つきつきめてつきつめて、結局ばかみたいな結論ばかり出してくる。まるでオームに入信した東大出みたいなところがあるから、はたから見てきると、むしろおばかっちいに見えてくる。まったくおら、かんだりーずら(伊豆方言 疲れる)。





こういう論説は堂々巡りでしかない。結局、回答を導き出すには考古学などの科学を持ってくるに限る、実になやみが晴れてくる。簡単である。

まず豊前城井郡は竹並横穴墓群で、地下式横穴墓も多く、隼人の剣が出てくる場所であり、居住者は隼人、秦氏、紀氏などである。


次に紀州はもちろん紀氏のメッカである。紀ノ川沿線の古墳群から、北部九州装飾古墳に描かれる双脚輪状文そっくりの帽子をかぶった人物埴輪が出ている。両者は紀氏の部であることで間違いあるまい。


イメージ 1


イメージ 2



●双脚輪状文型の特殊形象埴輪が出た遺跡・古墳
1 和歌山県和歌山市岩橋・井辺八幡山古墳 
双脚輪状文部分が破損状態で出土形象特殊埴輪 1個の部分と推測された 6初  前方後円墳

2 和歌山県岩橋千塚古墳群のうち大日山35号墳 
 冠帽をかぶる人物(男女?あるいは親子?各1)     6前  前方後円墳

3 和歌山県大谷山22号墳 双脚輪状文特殊埴輪2個   6前  前方後円墳          
4 香川県公文山古墳 双脚輪状文付き特殊形象埴輪 一個 不明   不明
5 奈良県荒蒔古墳   天理市荒蒔町糸杭139.      6前 帆立前方後円墳




その出身地が前の記事に書いた肥前国基肄郡周辺である。





●双脚輪状文が描かれた古墳    所在地     土器編年       墳形   
1熊本県釜尾古墳(横向き)  川流域釜尾市    6世紀後半      ●
2福岡県王塚古墳(縦向き)  遠賀川流域     6世紀初~中   前方後円墳
3弘化谷古墳(横向き・円紋に脚)筑後川流域八女市 6世紀中        ●
 石人山のある古墳群にある古墳群は4前~7前まで存続
4横山古墳(下向き)菊池川流域鹿本郡植木町移築再現5後~6前   前方後円墳    
5福岡県丸山(塚)古墳(不明消失)八女市詫間田?


イメージ 3


イメージ 7





双脚輪状文のデザインの基盤はスイジ貝の形状である。
この貝はやがて大和では巴形銅器となって「隼人の盾」の魔よけとされた。
つまり紀氏と隼人の合体がスイジ貝産地の南九州であり、彼らはともに北部九州へそれを運びこみ、やがてゴホウラ貝・イモガイなどの腕輪とともに、その意匠を大和へ持ち込んだということがはっきりしているのである。


イメージ 6


つまり貝輪や双脚輪状文、あるいは紀州型石棺や石室という物的証拠のルーツと行き先を考古学の発掘から点と線で追いかければ、紀氏や隼人の行った道筋は時代を追って完全に復元できるというわけである。紀氏については非常に足跡がたどりやすい氏族・部族だったと言える。物的証拠を残す氏族はたどりやすい。古墳と土木の秦氏や土師氏などもそうだ。どこから来てどこへ行ったかが、まあどんな素人でも数年勉強すれば全部見える。わかりやすい氏族である。



イメージ 4

イメージ 5


言語学や文献史学による文学的な試行錯誤など100年やっても「だろう」の範疇を一歩も出ることはできない。時間の無駄である。科学で考えれば瞬時に答えは出てくる。ただし、今後の発掘で、その範囲や順番に微調整は生じることもあるだろうが。

問題は、これまでの文学部的な命題と、自然科学の発掘や分析結果とを結びつけて考えようと言う柔軟な発想を持てるかどうかで、答えの道は何百倍も画期的に短縮される。そのことに気づかない在野の研究家がいかに多いかである。

彼らにはその着想がない。だったらいつまでもいつまでも、そういう迷路でぐるぐるしているのが好きなだけなんだろうと、ぼくなどはすぐ思うのである。できればそういう頑迷な頭の方からのコメントなどは御免である。そういう着想ができない人は、研究などやめて庭の手入れでもするほうがよほど嫁はんが喜ぶ。なんなら家事の手伝いをすると、いつ嫁はんが家を飛び出しても安心である。

考古学だけではない、ありとあらゆる学問から古代史を見ようとしない人の意見などは、筆者などには寝言でしかない。知ってることの総量に差がありすぎるので、相手にならない。そしてそういう筆者の数倍の知識をお持ちの研究者なら山ほどいる。う



上には上がつねにいる。
ぼくも目からうろこを落とされている。






イメージ 7
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

防備録「うづ」「うず」「うずまさ」「うづひこ」

$
0
0

昨日の記事・山下影姫のところで「宇豆比古」の系譜を書いた。
これを「うずひこ」と音訓表記するのか「うづひこ」と表記するのか意見は分かれるところだろうが、どっちでもいいような扱いになっている気がする。

「うず」か「うづ」かである。

結論で言えばどっちでもいいみたいである。
というよりも「うず」では困ることもある。



イメージ 7


日本語の音訓は、例外的に、規則どおりでない単語がけっこうある。
例えば、「つづみ」は「筒状の太鼓」であるのだから「つつーみ」に音訓をなめらかにするための濁点がつくだけであるから、「つづみ」という表記が正しいのだが。「つずみ」と書いても決して間違いだとは言われない。そういう単語はけっこうある。また、「ず」があきらかに正しいのに「づ」でも許容される単語もある。「おおつ」を地方によって「おおづ」と読ませる地名があり、「おおず」と書いても特に厳しくしかられたりはしない。つまりそういう交錯に関して、日本語はかなり許容量がある言語である。


湯桶読みや重箱読みの例外についても、鷹揚に許可される。

つまり前回も書いたように、方言の多い日本語では、現実の発音に、地域による相違はそもそも多いのであろう。ずーずー弁で「つづみ」としゃべらせたらなにがなんだかわかなくなるのだ。「づづみ」。「ずずみ」「つずみ」と発音してしまう地域では表記だってそのまんまになるのは、これはいたしかたもない。まして古代など、地方に正しい発音や言葉が伝わるだけの教育機関もない。

それをもって「おまえらは間違っている!!」と面と向かって言い始める必要があるだろうか?ということなのである。




「うず」「うづ」が同じであると感じるのは、昨日の記事にある武内宿禰の祖先にある「うつ・しこめ」とかいう「鬱」の文字は、往古濁音表記のない時代にはすべからく「うつ」となり、「うす」とはならなかったと考えれば正しい表記が「うづ」であったと気づくはずである。こういうことは少し気の利いた勉強をしてきた人ならすぐに誰だって気がつくはず。これが「うず」ではわからなくなる地名、人名が出てくるのだ。「うづーひこ」だからこそ「うづ」と「うつ」が同じ意味だと気がつける。
「うず」ではそこに気づかないのだ。「おつしこお」の「うつかが=「渦」だとはね。


思うに関西の発音は「づ」が多い。しかし東京に人はすべてが「ず」である。
どうですか?口の中で言ってみてね。「ゆきづまる」が「ゆきずまる」発音になっていませんか?関東の人。ジュリーが歌うとき特徴的に「くぐもった「づ」「ぐ」を使っている」ことに気づきませんでしたか?あれ関西発音ですね。



ただ、外国人にとって、それを教えるのはかなりギャップがあるだろう。上代にはある一時期、万葉仮名が朝鮮人書記によって採用されていたが、それは彼らにとって読みやすい音訓のためのカナであった。朝鮮語発音は日本語より多いので(複雑なので)、表記が少ないと彼らには苦痛が多かった。だから上代「特殊」仮名遣いと呼ばれるのである。その表記はつまり日本人の表記ではないのである。だからそれでもって万葉集の和歌を理解しようなどという発想は、まことにへんてこなものだと気づかねばならない。最初から韓国人えせ文化人お得意の「なんでも朝鮮から」主義の一端であると気づかねばならぬ。基礎学力のあるなし、というのは、そういうことをだまされるか、だまされないかに、端的に表出するので、気をつけるべきである。とんだところでお里が知れることになりかねない。




イメージ 7



さて、「うづ」が正しいのは理解できたところで。その意味である。
特に「太秦」に関心のある古代史ファンも多いことだろう。
なぜ「太」で「うづ」なのか?そういう疑問はあるだろう。


「うづたかくもりあげたので「うづまさ」」


「渦高く」とは以前も書いたことだが、お皿にスパゲッティを盛ることを思い出せばよい。あれはねじりながら盛り上げる。

あれが「うづたかく」である。


だから「うづ」は「うず」のことになる。「渦」。IMF変換では「うづ」では渦の文字は変換されない。「うず」となっている。しかしこれは実はおかしな音訓である。「うつたかく」「うつしこお」「うつしくにたま」なのだから「うづ」で渦が出なければならない。しかし、そんなことに文句をいちいち言う日本人は少ない。何も考えずに覚えればいいとしているはず。違いますか?

しかし古代の記録からは明らかに渦は「うつ」である。

太いは「ふつ」であることはすでに知っている。太姫の読みは「布都姫 ふつひめ」である。「ふつ」から「ふと-い」が生まれたと考えられる。「ふとい」は太っているだけでなく、壮大な、偉大ななどの意味があり「大」とほとんど同じ意味がある。大宰府・太宰府市のように混同されややこしい。しかしどっちでもいいのである。
そういうことにうるさい大宰府市民とはつきあわなくてもよいだろう(冗談)。

「いばらき」だって「いばらぎ」としか言えない地域の人もいる。「なだ」を「なた」だといわれてもいまさら困る。往古は葛城は「かづらき」であったが今は「かつらぎ」である。いいにくいものは淘汰される。それも言語というものである。

太秦はつまり、租税の献上品をびっくりするほどたくさん盛り上げたから「ふといなあ」ということで「太」なのである。「秦」で「まさ」は?「まさ」は「勝」で「まさる」である。葛野秦氏がほかに勝る氏族だという意味になる。そこで「勝」を「すぐれる」~「すぐり」「村主」となってゆく。村主は漢氏の村長であるので、葛野秦氏や豊前秦人らが「勝」を用いて「すぐり」と読ませた。最初は「かつ」だった。「からしまかつ」「あかぞめかつ」など。中央で「かつ」から「すぐり」へ変化したと考えられる。


葛野秦氏のでっかい、うずたかく盛り上げるほどの献上物を産出する土地、それが太秦である。




イメージ 7




さて今、葛野秦氏としつこく書いておいた。
「葛野」は「かづの」だったがやがて「かどの」へ。「かづ」とは「かづら」のことで「葛」のことである。それが「桂 かつら」地名の元である。よくお公家さん、京都の人は言葉が濁らないので上品・・・そんな誤解が聞こえる。濁らないのではなく、「濁れない言語の種族」だったからである。つまり朝鮮人や中国人のことである。



京都には大別して「葛野秦氏」と「深草秦氏」という二大秦氏がいたが、その二つには系図上のつながりはまったく見られない。『秦氏本系帳』にある葛野秦氏系図には、深草の「秦大津父」一家の名前はない。つまりふたつをどっちも同じ秦氏だという考え方は、過去の学者たちの思い込みでしかない(水谷千秋)。

秦氏にだって「いろいろあった」のである。深草秦氏はそもそも氏族ではなく、部民の商人だったものが、水銀や土器で設けて氏族に成り上がった人々であろう。つまり官吏だった王族としての葛野秦氏と、それ以外をちゃんと区別しておかねばならないのである。


みそもくそもいっしょくたにしてきた、過去の学者の定説は、秦氏など氏族に関しては一旦白紙にしてとりかかったほうがよい。当然、豊前秦氏などはしょせんは「人」「部」である。



イメージ 7



さて、ようやく本論だ。
「人」である。
秦人というのは秦氏の家臣の中で、村長つまり「すぐり」たちのことを言う。部は部民で平民であるから、奴婢よりひとつ上のものである。手先足先である。

では「隼人」についている「人」も、おそらく中央が区分するためにつけた「はや」の氏族の村長ではあるまいか?と思ったことは?

筆者は今朝起きて、すぐにそれがひらめいた。


では「はやと」とは隼人のことだが、「はやぶさ」の氏や部はどうなのか?
「はや氏」「はや部」である。それはなかったのか?


筆者の住む市内に「羽屋 はや」という地名がある。隼人由来であろう。
「はや」には川魚の意味もある。すばやく動くので全国では「はや」であるが、九州では「はえ」という。「はええ」は「早い」の九州方言である。

しかし「はえ」が「はや」といわれていたら、隼人の「はや」と区別がしにくかったろうと気がついた。

「はやーひと」が隼人なら「はやーうじ」という氏族は中央にはないか?
「はやーべ」はどうか?


大阪南部に多い「林」さんは、中国渡来の子孫であるとこれまで一元的に見てきたが、なるほど「はやー氏」か・・・・??


まあ、面白いかもしれない。





イメージ 7
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U





賀茂氏 秦氏 氏族つかまえかたの基本

$
0
0

氏族は交わる。


賀茂氏、鴨氏が、どういう移動をして山背に入り、そこで誰とまじわったかについて、中村修也は、従来史学で葛城鴨という氏族と、山背賀茂氏や加茂氏に、つながりがなかったという考え方に「疑念」を持っている。


筆者もそうである。


鴨氏の伝承は

「葛城磐余にニニギ子孫とともに入り、やがて山背の二つの川の合流する「石川の清流」に移り、そこは聖なる二股の地であったが、ごろた石の転がるところ」

などという記録になっている。


今で言えば、鴨川に合流する、加茂川と高野川の三角州である。そこを「石川の瀬見の小川」と書いている。下鴨神社の瀬見の小川のことではあろう。

イメージ 1

ただ、そこは古代とまったく同じ地形だったかは、秦氏の開発もあり、今となってはなかなか判断は難しい。しかし「石川」という石がごろごろしている三角地帯であることは、今も変わってはいない。

イメージ 2
もともとの突端だっただろう場所は、今は画面中央奥の森の中の下鴨神社南端の河合神社がある場所かと思う。左加茂川、右高野川・川端通り 出町柳駅そばからの河合の出合い。瀬見の小川の取水口は御手洗池と呼ばれ、禊池になっている。おそらく往古はそこに三角地帯があり、石川の聖水を取り込んだ。今はこのように、かなり堤も姿を変えている。



「いしかわ」には聖なる清流である条件としての地名という共通性は全国的にあったかもしれない。奈良の大和川支流の石川や、県名の石川県などには、そういうごろた石のたまった聖地という意味もあると思われ、蘇我石川宿禰らがそこを選んだのであろう。同じように葛城のカモ氏も、移住し、山背でそれを見つけて住まい、そこへは秦氏もやってきて、婚姻が起きたと思える。それから上下カモ社に分かれた、でいいのではなかろうか?


それ以前は海から来たとしかわからない。カモ系の神社は全国の海岸部には山ほどあるので、どこが最初だったかは決められまい。それを言い出したら、各地で喧嘩が起こるだろう。それは水掛け論である。



カモ氏のように、氏族を分析するさいに、まずは新しい渡来系氏族である秦氏をどうとらまえるかは非常に大事である。新しい渡来だから、古い渡来よりもわかりやすい伝承を持つ。その理由は、古い渡来系氏族は新しい渡来がきたころには、すでに渡来から在地に変化してしまっているからだ。


秦氏は中村も筆者も、多数の複雑な氏族でできあがる、渡来した人々という意味の名前であろう。右代表が秦氏やアヤ氏である。それらがこれまでは新羅系か百済系かで主に区分されているというのが近畿の考え方であった。しかし、ここには伽耶の王族という視点がない。


カモ氏も秦氏も、記紀ではまず大和に来てすぐ葛城の山麓にあった磐余に入れられている。つまりそこは外来者がとりあえず置かれる場所だと記紀は言っているのであろう。そこにいた先住氏族は、伽耶に非常に深いかかわりのあった葛城襲津彦の子孫たちである。

鉄の氏族葛城氏は、武内宿禰の子孫で、紀氏とは親戚関係になる(と『日本書紀』は言う)。武内宿禰は高良玉垂=黒尾神のことであると、前回分析した。


このことは人によってさまざまの解釈もあろう。しかし筆者はそう考えている。筆者は、である。



紀氏が葛城と佐賀県あたりで合体したと思っているが、そこから紀州まで、豊後・豊前を経て、吉備を経て和歌山の紀伊半島北部に入り、そこから山背南部に入ったと。筆者は考える(これにはまず深草弥生遺跡と巨椋池北部の宇治市街地弥生遺跡などの検証が必要になるだろう。それが紀氏の遺跡であるから山背の紀伊郡となり、そこから彼らが移住したあとに秦氏らしい新参渡来氏族が入ったという痕跡があるのだ。稲荷山もそうである。あるいは葛野の物集女もそうかも知れない)


京都の桂川沿線に物集女があるが、古墳群には土師氏だけでなく、紀氏、秦氏、壱岐氏らの痕跡があると思う。


紀ノ川の淡輪古墳群の土器工法が物集女で出る。


そして紀ノ川の古墳群に、九州の双脚輪状文輪状文の帽子が出る。それは王の冠であろう。ならば彼らは紀氏の族長の移動を示す・・・。さらに棚がある紀州型の石室構造は、岐部という地名のある大分県国東半島にも存在する。彼らは木氏になる前の木部であろう。もちろん大和学説が言うような、逆のコースも考える必要もあるが。それは歴史的に大和から遠隔地へなんらかの必要(外敵の来襲を想定した「さきもり」など)で「里帰り」したとも考えうる。例えば的臣や日下部などの靫負氏族にはその可能性がある。人吉市などの古墳群を再度検証するべきだろう)


そう書いた。


地名がそれを後押しするとも書いた。


同時にスイジ貝などの貝の道でも合致すると。



物的証拠はそう語るのである。



犯罪でも、動機、心的証拠、物的証拠の三つがそろえばその人物は「黒」となる。


その紀氏は佐賀県の基肄郡で姫をめとり、生まれたのが武内宿禰であり、その名前が武雄という地名の元である・・・まったく論理に破綻はなさそうである。



カモ氏は海の氏族であろう。なぜなら全国の港、漁師町で祭られている・・・。



「はた」に関して武内宿禰子孫に「波多氏」「羽田八代氏」が出てくる。「はだ」である。これも秦氏のひとつと見るか、結婚で同族となったかの見方は適応可能であると中村は言う。筆者も賛同したい。


というよりも、秦氏はそうやって氏族を膨大にしていった。というよりも、「はた」とは海からやってきたあらゆる渡来人を代表した名前だろう。


ここで、いつも思い出すのは、朝鮮や韓国からの現在の亡命者が、拿捕されたりしたときにまず「新潟はどこだ」「大分はどこだ」などの決まり文句を言うことだ。


おそらく彼らには、往古から彼ら難民が集散する場所の地名が伝わっているということなのである。それが大阪の鶴橋とか、敦賀の気比とか、但馬の出石・豊岡とか、新潟の弥彦とか、秋田の唐松とか、大分の宇佐とか、豊前行橋のナカツ郡とか、筑豊の田川・香春なのではなかったかと。



今でも、彼らはそこを目指して出航している。のではなかろうか?



山背の葛野もまたそういう場所であろうと。




そこで彼らが「葛」という大きな渡来民でとらえられぬか?




「くず」「くす」「かづら」「かつら」がそうした渡来系や、海から来た人々の「やちまた」になってきた歴史があるはずだと。


つまり高速道路や飛行機ならインターチェンジ、ハブ空港だと。



それらの人々を一括して「はた「はだ」としてきたのだ、大和ではと。





記紀にはそういうやや乱暴な一括が見受けられるのである。半島や中国を「から」「くれ」というようなアバウトな意識である。それは海で隔絶した島人ならではのとらまえ方、言い換えれば地理感であるとしたい。


それはいい加減ではあるが、実は島人というものに国境がない、グローバルだったからこそのとらえ方ではないか?


世界は海でつながっており、彼らに国境はなかった。オーストロネシア膠着言語民族にとって、世界はひとつであると見えるのである。



海に面した地方に「2音」地名が多い、とは前の記事で書いたF氏の意見である。「いせ」「はま」などの、場合によっては「つ」なのの一文字もあるが、海上で端的に地名を伝えるのにそれが都合がよかったという考え方である。膠着言語の母音を明確にする言語もまた、同じであろう。


「かも」もまた二音であり、彼らが海上を住処としたものではないかと思わせる。「石川の瀬見」は、聖なる水の出ている土地だろう。三角地帯の突端は古墳の突端での祭祀を裏付けている。水と三角デルタの場所にまさに下賀茂神社も建っている。往古はおそらく合流点はもっと神社のそばにあっただろう。


世界遺産登録で、下賀茂神社はすでに筆者が遊んでいた頃とはかなり様子が変わっている。綺麗に整備された。取水口も昔は別の状態だった。


いま、合流点突端には別の名前で祠がある。

水に突き出す地形は、道教では男性自身を指す。河の合流点は女性自身となる。そこは「男女がまぐわい、子作りをしている」地形である。子作り、出産とはつまり「生産」を意味し、国家にとって人口を増やすことは大事な事業であった。なぜなら人口の増加は租税の口が増えることだからだ。


「産めよ増やせよ」と戦後の池田内閣は推し進めた。そのときの子供は今、団塊の世代となり、戦後経済を支えた。同じことではないか?



秦氏もカモ氏も、氏族を合体させ、増やすこと・・・殖産興業に帰依した氏族である。




それを「はた」「うづまさ」としたのだ。
「渦」とは命の再生と連続を表す形状である。そこにバツが加わると、世界の考古学的な記録では洪水が起こり、民族が滅びた印となるのである。そして異種が婚姻し、種族は復興し、祖人となるのである。



異種とは異族との婚姻にほかなるまい。犬が姫とまぐわい、民族は復活したという伝承は山ほどある。それはつまり異民族間の合体を指すのであろう。歴史的合体によって口はもとにもどり、国家が安泰したと言っているのだ。


秦氏とカモ氏、葛城氏、吉備氏、紀氏らも合体した。それを「武内宿禰」で代表させたのだろう。


つまりそれは国家を助ける行為であり、王家を補佐する役目=大臣のことになる。





だから氏族が「弓月君の」とか「カモたけつぬみ」とかの祖人を言うことにはさしたる根拠も意味もないのだ。それらは安定したあとの「跡付け」でしかあるまい。



だからそういうものを追えば追うほどに、研究者は迷路に迷い込むことになるわけである。


日向の峰に天孫とともに降り立って・・・などと賀茂氏は書くが、後付でしかあるまい。そこにはそれほど古くからとか、今の王家の存在はわれわれのおかげだとか、そうした意味しかあるまい。つまりそのためには、『日本書紀』の神々や神武東征記述は取り込まれ行っただけのものであろう。根拠などあろうはずもない。



また、大和氏族が入ったあとから、遠隔地にそうした伝説が入り込んだ場合だってありうる。紀氏のように、考古学的な証拠品が年代を西から東へ移動した氏族ならば、神武東征は正当性を持つ、しかし物部氏のような、継体時代に移住した氏族から、それが証明できるかは、神社の言い伝えやらでは判断できにくいものであろう。なぜなら人はうそをつく動物だからだ。


物的証拠がその言い分をちゃんと裏付けてこそ、それは証明できる。必ず氏族には独自の意匠や遺物がある。それを探すことが最短距離である。


考古学を信じるほうがいい、しかし考古学者の意見には左右されないほうがよい。恣意的だからだ。これも人の生み出すうそかも知れない。考古資料は信用できる。考古学は信用できないことが多い。ものはうそはついていない。ものから真実を読み取るのは、あなたがたの責任である。ものに罪はない。掘り出されたものはうそは言っていない。それを信用しないというのは、判断する自分自身が信用できないと言っていることにほかならない。それほど古代は難解である。



遺物や遺跡に罪をなすりつけてはなるまい。読み取るだけの知識を持つことで、それは解消できるはずである。それを惜しんで、はなから信用しないというのは暴言である。自分が判断不可能な人間だと宣言しているようなものである。それは考古学が信用できないのではなく、考古学者の「意見が」信用できないだけのことである。


あらゆる可能性を追求しない刑事に、犯人はつかまえられないのである。





イメージ 1






   





春日から和邇、額田部、赤でつながる氏族のこと 鴨氏のことと京都市久我

$
0
0


●全国春日地名一覧
市町村
福岡県春日市
兵庫県氷上郡春日町、現丹波市。
熊本県飽託郡春日町、現熊本市。
春日町 (曖昧さ回避)も参照のこと

その他地名 春日町 (曖昧さ回避)も参照のこと
茨城県つくば市にある地名 → 春日 (つくば市)
東京都文京区にある地名 → 春日 (文京区)
岐阜県揖斐川町にある地名→春日村 (岐阜県)
奈良県奈良市にある地名 → 春日・春日山・春日野 (奈良市)藤原氏本拠地
徳島県徳島市にある地名 → 春日 (徳島市)
熊本県熊本市にある地名 → 春日 (熊本市)

駅名 春日駅 (東京都)
春日駅 (福岡県)

春日部
埼玉県春日部市
当地を起源とする鎌倉時代の武家・春日部氏に因んで、現在の表記に改められる。ただし、春日部という地名自体は、春日部氏登場以前から存在した(春日山田皇女を参照)。江戸時代は日光街道の宿場町であった。1944年(昭和19年)、南埼玉郡内牧村と町村合併するまでは粕壁町と表記していた。そのため、現在でも春日部市内には市名と同音異字の粕壁という名称の地域が在る(即ち、春日部市粕壁)。また古代の部民としての春日部氏は安閑天皇の皇后である春日山田皇女の生活の資用に当てられた料地等の管理に携わった人々を言い、この皇后の名に因むとする説がある。鎌倉時代の武家である春日部氏は、その本氏姓は紀氏であるとされ、古代春日部とは関係がなかったであろう。地名名乗りである。(クレヨンしんちゃんは確かここが出身地では?)



「かすが」は
滓鹿、霞処と表記されていた。和歌の枕詞で「春の日の滓鹿」とあるので、意味は霞がかかるところであろうし、その霞とは春の気象の象徴であろうから、やがて春日となったか?

兵庫県の中央部に今は丹波市となった春日町があり、例の春日の局出身地として有名である。但馬から播磨へ抜ける国道上にあり、筆者若い頃、出張の際に使うこともあった。春日町には「小鼓」という天下の銘酒醸造所があるので、わざわざここを通ったのだった。確かに銘酒のはず、なにしろ酒米No1山田錦の一大産地である。味わいはすっきり辛口。純米酒がお勧め。


イメージ 7


さて、滓鹿表示になにか由来があるかと考えれば、「滓の鹿」とは小鹿のことであろう。滓は鹿の子模様の白い斑点を表すと思える。そして滓は酒粕でもあり、ここが渡来系工人の古くからいた酒どころであることも氏族を読むヒントにはなるまいか?但馬は杜氏のメッカでもあるし、但馬の出石、豊岡と言えば日本海の渡来がやってくるのに、出石川という往古は深くえぐれて山間部まで入った良港があった。アメノヒボコもここを選んで住んだという。その子孫但馬守(田島守」はここから「ときじくのかくのこのみ」を求めて大陸へ出港し、橘らしき果実の苗を手にしている。

但馬の日本海文化と播磨の瀬戸内文化は、気候的にも正反対だが、互いに行き来して、影響しあったと見られ、生野銀山開発や、姫路鋳物師などの金属加工文化は伽耶由来ではなかったか。その春日町の名前は和邇氏がやがて春日氏と改姓していることで、大本が伽耶を本貫とした和邇氏の氏姓と関係が深いだろう。

奈良の天理市の和邇には「赤坂」の名の神が祭られる和邇坐赤坂彦神社がある。和邇氏といえばその近くの和邇東大寺山古墳出土の中国1世紀ごろの年号入り鉄剣が有名である。和邇氏と北魏の関わりがこの鉄剣を、古代大和では最古の年号入り記念品として入手できていたと考えられている。1世紀半ばまで、筑紫以外で中国と間接的でも交流した遺物を出したのはこの古墳だけだろう。当時の和邇氏族の力が垣間見える遺品である。

イメージ 1


さて、その赤坂とはおそらく埴土(はにつち)の色をさしているのかと、筆者は以前ここを訪れてぴんときていた。その赤い色は明るいに通じるため、春の日につながるのではなかろうか?

奈良の春日山、春日野は春日大社があって藤原氏が大和の本拠としたわけだが、この「かすが」もそもそも鹿の子、鹿がいる山由来ではないか?なんとなれば藤原氏は鹿をステータスとしている。だからそもそもここも「滓鹿」表記だったのだと思う。山であるなら当然春霞も立つだろうし、春日山名物春の山焼きの煙も、山を霞ませることだろう。ここが「かすが」である理由は、かつてはここまで和邇氏の所領があり、春日部などの部民や和邇の春日氏が所有したためだろう。そこから和邇・春日・小野氏らが近江へ移動したあとに藤原氏がここに入ったということか?

はにつち、つまり赤土は弁柄や珪藻土やの赤い成分を持った土壌で、ここから遠くない植山古墳、見瀬丸山古墳周辺は真っ赤な赤土が出る。この赤い色を持った石を使う石棺が植山古墳から出ている。それははるかに遠い九州阿蘇の馬門石つまり阿蘇ピンク石でできていた。中は空っぽで、排水溝からは、馬具の金銅製歩揺付飾金具、大刀の飾りにあたる水晶製三輪玉が見つかっている。東石室は同じ奈良県広陵町の牧野古墳の石室と似ていることから6世紀末ごろに築造されたと考えられる。

イメージ 2
赤土でできている植山古墳




『日本書紀』推古女帝の改葬のさいにここから二つの遺骸が運び出され磯城の山田高塚古墳へ移されたという記事に見合うという。植山も内部は双室で、息子の竹田皇子との合葬を望んだ推古女帝の記事に合致する。推古は父方が蘇我氏であり、息子竹田は、丁びの乱(守屋の乱)で不明な死に方をした非業の皇子である。その彼女が、おそらく竹田のためにか赤い石をわざわざはるかに遠い九州から取り寄せたかどうかは、まったく反対の意見も九州にはあり、いずれにしてもその意味は、赤い色の呪力にあることは間違いあるまい。それがやはり真っ赤な赤土の土地である植山から出てきた。



イメージ 7


実は、さきほどの兵庫県春日町に程近いところに黒尾神を祭った神社がある。
地図http://map.yahoo.co.jp/maps?p=%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E5%B8%82%E9%9D%92%E5%9E%A3%E7%94%BA%E5%B0%8F%E5%80%8931&lat=35.24490754&lon=134.99655299&ei=utf-8&sc=3&datum=wgs&gov=28223004&ac=28223&az=4&layer=pa&v=3
兵庫県丹波市青垣町小倉31 黒尾神社
祭神 オオクニヌシ神
http://yaokami.jp/1282542/

イメージ 3
兵庫県丹波市青垣町の黒尾神社


黒尾神は九州では武内宿禰、近畿では新羅明神で祭られる。
しかし日本海に面した但馬ではなぜかオオクニヌシという出雲や大和三輪山の神が祭られた。

その心は、武内宿禰氏族と日本海、出雲・丹後・越前・若狭などとの関与が考えられるが、葛城襲津彦(かづらぎのそつびこ)は伽耶と大和を往復した鉄の外交官で、葛城氏もまたよく出雲由来氏族ではないかとされることも多い。紀氏・木部らが吉備を中継地としたときに、当然、ゆるやかな山地である中国山地の向こうにあった出雲や但馬とも往来は可能で、海抜がさほど高くない春日町は十分その通過点、中間点である。

イメージ 4

そもそも葛城鴨氏には、出雲八重事代主を祭る葛城坐高鴨神(アジスキタカヒコネ)が祭られ、出雲との深いかかわりを教えてくれている。



「加茂と称うは、日向の曾の峯に天降りましし神、賀茂建角身命、神倭石余比古(神武帝)の御前に立ちまして、大倭の葛木山の峯に宿りまし、そこより漸くに遷りて、山代の国の岡田の賀茂に至りたまい、山代河のまにまに降りまして、葛野河と賀茂河との会う所に至りまし、賀茂川を見遥かして、言りたまいしく「狭小くあれども、石川の清川なり」とのりたまいき。依りて、名付けて石川の瀬見の小川と言う。その川より上りまして、久我(こが)の国の北の山基(やまもと)に定まりましき。その時より、名付けて賀茂と言う。」『山城国風土記』逸文







葛城山の麓は御所市である。ここには鴨都波(かもつば)神社がある。
鴨の建角身=アジスキタカヒコネ=高鴨の雷神闇龗(おかみ)神は葛城に入り兄神・八重事代主を鎮魂したあと、御所の磐余に向かい、さらに山城の久我を目指す。久我とは京都市南部、桂に近い地名で、平安時代の久我氏からは往年の女優・久我美子(くがよしこ)が出た。「くが」は「こが」の新しい時代の読みであるが、そもそもここは「こが」「くご」である。筆者が丹後や桂にゆくときの通り道で、物集も程近い。製材所は今もあるだろうか?

イメージ 5

久我から北に向かう山とは北大文字山だろうか?その麓にある石川の瀬見とは今の下鴨神社のことであろう。もちろんその地理感はやや正確を欠いた表現になってしまっている。応仁の乱前にはそういう地理感でよかったのか?

鴨氏の八咫烏伝承は、前にも書いたが神武東征伝説とアーサー王伝説の類似が関与する伝承ではなかったか?それを持ち込むのはやはり山城の秦氏と鴨氏の婚姻から下鴨が祭られることと関わったであろう。

上賀茂と下鴨の違いは、後者が秦氏と結ばれていることである。では彼らカモ族は出雲から但馬を経て播磨へ移動する際に、春日の和邇氏とも関わったであろうか? 


イメージ 7



また蘇我氏の推古女帝が赤い土を息子への鎮魂の色、再生願望の色として阿蘇から石棺を取り寄せたというのは、なにか和邇氏の赤坂彦とは関係していなかっただろうか?

もちろん、推古(額田部皇女)がその名代部だった額田部を肥後熊本の大野窟(おおのいわや)古墳あたりに送り込んだ可能性は実はあって、肥後のピンク石産地である宇土の葦北国造の息子日羅は「額田部君」であった可能性がある。また●『正倉院文書』天平時代(8世紀頃)には「宇土郡大宅郷戸主額田部君得万呂 戸口額田部真嶋」ともある。

允恭天皇 額田部氏 額田部連比羅夫    森浩一・網野善彦 馬・船・常民 講談社学術文庫(1999) より



「おもしろいなと思うのは、推古女帝【豊御食炊屋姫(幼名、額田部皇女)】が蘇我氏を誉め讃える時に、「太刀ならば呉の真刀」。呉というのは中国の江南です。だから鉄ならば中国の江南のものがいい。「馬ならば日向の駒」がいいと例をあげて誉め讃えている。そうすると推古女帝は、非常にいい馬は日向の馬だと思っている。ところが、もう一つよく考えてみると、額田王で有名な額田ですね。字だけが一緒で氏族としての額田部ですね。その額田部氏が、『新撰姓氏録』のなかで先祖伝承を書いている。それは、允恭天皇の時に薩摩での戦争でとってきた名馬の額に田という格好の巻毛があった。それを天皇に献上したので額田という名前をもらって氏の名になったのだと書いています。そうすると、古い時代は隼人の根拠地である薩摩と大隅は日向の一部で、奈良時代頃になって日向からだんだん大隅と薩摩が分かれていくわけですから、推古女帝がうたっている日向の駒というのは、なにも宮崎県に限定しなくても、隼人の馬である可能性がある。そしておもしろいのは、推古女帝のもとに中国や朝鮮半島から使いが来たら、だいたい額田部連比羅夫が多くの飾り馬に乗った兵士を引率して、外国の使いを大和で迎える。だから、推古女帝は、たしかに額田部氏の率いていた馬を見ていた可能性があるのです。」
    
参考資料: 畿内の牧    森浩一・網野善彦 馬・船・常民 講談社学術文庫(1999) より


故・森浩一がここで言っているのは、つまり肥後の宇土近くに額田部が馬牧を持っていた可能性である。大野という推古の古墳のある地名が熊本南部にもあり、そこに大野窟古墳と言う大きな前方後円墳がある。宇土には馬門(まかど)地名がある。(大阪北部にもそう言えば門真市があるが?)


イメージ 6



阿蘇ピンク石を出す露頭石切り場が馬門であり、だから馬門石と言う。そして石切り場の地名は牧である。このあたりが額田部の馬牧があったとすれば、ちょうど真下に曲というわんどの津があって荷だしにふさわしい地形である。日向の馬を最高だと言った蘇我氏と推古。その馬を運んだ氏族が、阿蘇ピンク石石棺も運んだ可能性があるのだ。ならばなぜ推古の墓にそれが使用されたかのルートはやはりあったことになる。




イメージ 7
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

ひょんなことから九州王朝説

$
0
0


今日、奇妙な出会いがあった。
最初はネット上にあった「宮地嶽神社古墳の被葬者は宗像君ではなく、「藤」という氏の人だ」という記事からである。

宗像君徳善は天武朝の外戚関係を持った人である。史学では宮地嶽神社古墳の被葬者は徳善であり、筆者もそういうことを何度もここに書いてきた。それを否定している意見と出会ったのだ。

そこで、まずは早速、宮地嶽神社に電話してみた。
「調べます」ということで、待っていると、ちゃんとご連絡があり、その記事を書いた人らしきへのアクセスを教えていただいた。

F氏という同県人であった。
電話で話すと、共感することの多いご意見の人だった。


そのまえに、友人の古墳研究者に電話していた。すると彼が言うには、その記事は女性のもので、Mなんたらさんだが、神社やには詳しいが・・・とのことだった。


F氏は地名、神社を中心に研究されている人であった。

それでわかったことだが、宮地嶽神社の第一祭神は、ある時期神功皇后にとってかわられてそのままだと。これはすぐにピンときた。戦時中のことである。

それまでは地元の人物だったが、皇国史観の時代に、どうやら多くの九州の神社の祭神が神功皇后に入れ替えられたというのが彼の主張であった。それはすぐに納得できた。近畿周辺ではそれがアマテラスになってしまったからだ。


そして肝心の藤氏(とう・うじ)の祭神はかえられておらず、それは籐 勝頼と今一人であると。神社社伝にもその二人?の人物が祭られているとある。筆者が一番気になったのは、F氏らが所属されているらしきある古代史研究会の、たまたま同じ会員であるという「ある女性作家Mさん」の書いているその「磐井氏」の筑紫君磐井の孫である「藤氏」が、「宮地嶽神社古墳の被葬者であり、徳善ではない」という意見の出所は、彼女が書いているには、宮地嶽神社の「神官」さんに「直接聞いたのだ」という話である。その「お話」の根拠が気になったのである。その神官さんとはいったい宮地嶽神社の誰なのか?宮司だったらえらい問題であろう。


これに関して神社事務方は、いろいろな社伝もあり、複雑。というようなあいまいな答えであった。しかし、彼女が「神官さんに聞いた」というのがうそでなければ、そういうことを統一して答えないことなどが神社にあるのは、いい加減ではあるまいか?統一した史観がない、そのようなものは与太でしかないと思うのが当然であろう。そういうことを、なぜF氏に振ったのか、筆者にはまったき理解不能である。


さておき、ではこの古墳は徳善の墓ではないのかであるが、年代的に、この古墳の時代は、確かに薄葬令が出されたと「記紀が」書く時代である。ところが東国を見るとむしろ7世紀からこそ大古墳はどんどん作られているのだ。つまり遠隔地では、中央が何を言おうが、勝手に大前方後円墳が作られた。いわんや九州も、ではなかろうか?


筑紫君磐井が『日本書紀』に「国造」と書かれていても、国造がその時代(継体大王時代)に本当にあったのかどうかも問題で、学者によっては、筑紫君は君でしかなかったが、あえて国造と書かれたという意見もある。


それはつまり「殺したからの持ち上げ」であり、祟り封じでもあっただろう。


もし、彼女が書くとおりに、また彼女が言うところの「神官」なる人物がそう言った「藤氏」が磐井氏なるものの出自であって、それが筑紫君磐井の三代目の孫だったにせよ、これはいささか、いや非常に怪しくなる。


捏造である可能性はないかと考えたところで、では、それは彼女を苦しめることになるやも知れない。




だから、神社とかを民俗学的に見つめるのなら許せるが、神々で考える人はちと困るものがある。




とまあ、そういうことは、彼女もF氏の研究会に身をおくわけだから、F氏だって悪くはいえまい。


ということは、そういうなあなあ関係を持つことは、自分自身ではマイナスである。




それだけ書いておく。




そもそも信仰からの古代への接近遭遇は信用しない。それがぼくのスタンスである。




だが、F氏のいろいろなご意見は「これはぜひ一献やりつつやりあうに耐える」素晴らしい見識が垣間見えたので、電話交換をしておいた。



いずれにせよ、この女性が、さしたる重要性も考慮せずに書いたことがらは、すでにネット上で数軒のサイトが孫引きしており、その責任について、神社も彼女も、さほど気にもしていないことは、やはり神社、信仰からの意見は、所詮カルトでしかないものであると、筆者は認識をあらたにしたものである。無責任。




このことで筆者の宮地嶽神社、あるいは神道の言うことは、信憑性なしと判断しようという気持ちは、残念ながらいよいよ深まる結果となった。ただそれだけである。


彼らはますます信用をなくしていく。


だから捏造だといわれても仕方があるまい。






そもそも地方の神社関係者が大古墳を持つ、その背景はまったく見えてはこなかった。






イメージ 2
三松、これは三階松。宮地嶽神社神文である(実際には少し意匠が違う。調べられたし)。

「みまつ」は百済王家である。


と、そういうことを書いたってぜんぜんかまわんということでしょうね。






神社の言うことはまずもって面白い。


笑えた。

藤とは鉱山開発の部民だった名前である。


これぞ敗者の言い分であろうと如実に感じただけだった。




九州の信憑性、それは科学でしか証明できない。
主観的な社伝や、神社側の意見には政治性がある。
資料にはまったくならない。



信じるものは救われぬ。いつも書いてきたことだ。まただ・ま・され・かかったわい。



自ら信憑性をなくしてゆく彼らに救いはあるまい。




なにを書いてもいいのなら、何を書かれてもいいということであろう。



あいまいなことを言えば、当然、しうちは覚悟のはずである。



言ったことは帰ってくる。それが言霊である。



この件はこれ以上扱う価値なし。
女性の意見は類推でしかない。
そもそも藤氏であろうと祭神勝頼であろうと、古代史にはまったく関係がない。
地元の神社関係者の希望、夢でしかないと判断した。以上。









イメージ 1






曹操墓に諸問題? 頭骨顔面踏み潰しの謎と商業主義えせ考古学問題

$
0
0

これまで日本でも何回か再放映された中国魏武王墓の発掘情報。昨日、先月も再放送があったから、見られた方も多かろう。吉川浩次が訪問。

その王墓について、中国考古ファンのあいだで、いくつかの疑問が指摘されている。




イメージ 7





「曹操の墓」に4つの疑惑、石碑の「魏武王」の文字に疑問


  河南省安陽県安豊郷西高穴村で発掘された後漢時代の墓が、2009年12月27日に曹操の陵墓「高陵」だと確認されて以来、疑問の声が絶えず上がっている。そんな中で安徽大学歴史学部の張子侠教授は4つの疑問点を指摘した。チャイナネットが報じた。

  1.文献で記載されている位置となぜ違うのか?
  古くから曹操の墓は72基の偽の墓があるといわれるほど墓の場所は謎に包まれているが、曹操の息子の曹丕が曹操の葬儀の過程を記したものは信ぴょう性があり、それによると曹操は丘に埋葬されているとある。しかし安陽には丘の地形は見当たらない。
  2.なぜ周辺には大臣の陵墓がないのか?
  曹操は大臣の中の功労者の陵墓を自分の陵墓周辺に設置すると文献には記載されているが、今回確認された「曹操の墓」の周りにはそうした陵墓が一つもない。
  3.どうして出土した石碑には「魏武王」の文字が?
  今回出土した石碑の8つに「魏武王」の文字が見られる。「魏武王」は曹操の死後に贈られた諡号(しごう)であり、墓の中で見つかるのは非常におかしい。出土した品にも「魏武王」の文字が多く見られるが、これらはわざわざ刻んだものではないか。
  4.印章や墓誌はどこに?
  墓の主を証明できる最も重要な証拠である印章と墓志はまだ見つかっていないため、墓の主の身分がはっきりしていない。この墓は何回も盗掘されているが、没収された文化財の中には印章などもなく、どこかでそうしたものが見つかったという話も聞かない。(編集担当:米原裕子)



ほかにも疑問を取り扱った記事もある。上記記事ページの下に関連リンクあり。


イメージ 1



まず日本人から見て、中国の考古学、考古遺物などの扱い、あるいは古物商取引などの状況をつらつらながめると、日本や西欧ほどには信頼できない部分はあるということは否めまい。この墓から出たとされ、発掘のきっかけとなった石製墓誌(位牌にあたるもの)についても、出所が例によって怪しい。盗掘品が露店で売られていた、それを見た学者がこれは?と感じて発掘につながる・・・・

なんだか以前聞いたような気がする・・・?そうそう、三角縁神獣鏡が中国でも出たという話題だ。あれも古物商がたまたま売っていたとかいう代物。どちらも発掘された遺物ではなく、盗品である。つまりそれが確かにその土地、その墓のものかが証明できない代物ばかりである。思うに中国ではまだ充分に考古学の重用品というものの定義にびしっとしたものがないのだろう。なにしろコピーの国のことでもあるし・・・。ご丁寧に八つもの「魏武王」文字がこれでもかというかっこうで放り込まれてるのは、確かに怪しい。


イメージ 2



もうひとつ大事なことがある。曹操の頭骸骨が踏み割られており、あるべき奥室からでなく、遺品を置いている前室から出て、しかも肝心の顔面部分がなく、あとからそれが踏み割られ粉々にされた痕跡だけがあったという話。これまたややできすぎた「演出」ではないかという疑問である。

とにかく中国の発掘には、商業主義の影が見え隠れするので、この王墓も、にわかに曹操本人のものだったかの判断は時間を待つほうがいいかも知れない。




イメージ 7


日本の考古学者は、顔を念入りに踏み割られた理由として戦記小説『三国志演義』における曹操悪人という表現が、本家史書である『三国志』の曹操正義を上回る傾向が、そういうことを盗掘者にさせたのだろうと語っていた。そうした傾向は日本の三国志ファンにもかなりあることは間違いない。小説でしかない「演義」のほうが、当然、民衆の耳目には触れやすいのだから、正史で漢文も難しい『三国志』を上回って常識化しているのは間違いあるまい。だから大半の中国人は曹操=悪、孔明=正義ととらえている。しかし正史では実は真逆の書き方をされている。

そういうことはなかなか大衆にはつたわらない。固定観念がいまさら受け入れさせないわけである。考えたら『三国志演義』も罪作りな書物だとなろうか。

ただ、正史がひとつ前の王権についてあとの王権が記録するのが中国の記録の特徴なので、客観的にながめて書かれるというのが大方の意見でもある。ところがそれだって真逆に、曹操に大儀があったと書くこと自体が、ある種の脚色がなかったとも言えなくないのである。ややこしいね人間の解釈は。

魏を受け継いだ西晋の王は、曹操の参謀だったあの有名な司馬仲達=司馬 懿(しば い)の子孫であり、


魏の悪口はそうそう書かないだろう、だから曹操は大儀と正義のある人物に違いない・・・これまではそういうとらえ方で正史『三国志』も扱われてきた。これは日本でも、中国の正史に出てきている倭人記事には信憑性があるはずだと、してきたわけである。しかし?

ところが人の書くこと、言うことには、実は常に客観的でない、うそが満ち溢れているものである。どこまで信用していいかは、まずわからないというのがよい。

盗掘を受けてひどい目にあった王や天皇で思い出すのは、最近ここでも扱った持統天皇の遺灰撒き散らし事件がある。彼女にも政敵はあり、当然、そういうことをやらかす反対勢力によるしうちという見方だってあるということを書いた。

もちろんこれも憶測でしかないが、数百年ほどたってから、やっとそういう意趣返し?ができたというのもむしろけっこう信憑性が感じられないか?その時代ではできないこと、彼女の影響下の政権が続いている間にはそういうことができないが、転覆すればやってもおかしくない、とも思える。

同時に、魏武王墓の場合は。わざとそういうことをやって世間の耳目を集めようと言う、現代のしわざであることもあるかもしれない。死者はかわいそうなものである。文字通り「顔をつぶされた」かっこうになってしまった。


曹操の墓や、日本の天皇の墓の位置を、記録が明確にしたくない理由も、実はそうした政治的歴史的意味合いがあってのことかと思える。わざとわかりにくくしたり、あえて間違ったところをそれだと書くのは、編集者に意図があってのことだったかも知れないのである。盗掘や意趣返しがなされると困るからね。


始皇帝などは、そういうことの起こらぬように、中は水銀まみれにしてあるようだ。へたにあければ、盗掘者が激しい水銀中毒になるようにしたのかも知れない。それはエジプトのツタンカーメン王の発掘後に、関係者が次々に病気で死んでいったことにも似ている。あれはあとからの分析で、盗掘されないように細菌をしのばせてあったなどということが言われた時期があるが、それも非科学的な見方で、密閉された墓の中には死者の肉体が溶解していく過程で特殊な殺菌作用のある酵素を出すことが、細菌ではわかってきて、その酵素は生きているものにとっては危険なものでもあるというのである。まだまだこうした分析は完全なところまで到達したとはいえないので、今後の科学の進化を待つしかないだろう。

魏武王墓誌がほかのところから盗掘されて、わざわざこの墓のそばの商店で売却される・・・どうもそのこと自体がわざとらしい。普通なら盗品ははるかに遠隔地で処分されるものだからだ。だから考古学ぐるみになって捏造したところで、今の中国ならぜんぜん珍しいことじゃあないとも、かえって妙に納得していまうのであった。



イメージ 3
石枕 せきちん
こういうものは日本の古墳からも出る。それを、曹操の偏頭痛癖に合わせようという番組作りもあまり感心できないね。




マスコミは恒に権威に踊らされてしまう。そういうところがマスの危険な部分でもある。それは政治でも同じである。へたに踊らされてしまうと、捏造だとあとから指摘されかねないようなニュースはけっこう多い気もする。大衆はマスコミで踊ってしまう。そうやって先の戦争もどんどん悪化していったわけである。


考古学は物的証拠だが、専門家やマスコミの話はそこそこに聞いておくほうがいい。踊らされないことである。




どんなニュースにも、背後に「大衆操作」のわなはあると思うくらいでいいんじゃなかろうか?



じゃあ、考古学は信用できないから、おれは神社の神様のうそを暴く、まあ、そういう一時退避は趣味としていいかも知れない。ところが、小社。末社の社伝にだってうそがないとは実は言えず、それに踊らされる半生を送ってしまう人もけっこういる。


そういった意味で、昨夜の飲み会はなかなか人生勉強になった。



誰と呑んだかって?内緒。
いずれ彼がその内容をこっそりと録音したものでひともうけするんじゃないか?
これだから呑まない奴と飲み会するのは危ないのだ。やれやれ。




イメージ 7
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

通史とは?

$
0
0

あくまでも筆者の個人的意見だが・・・。


通史とは、分化されて分析される現代科学の各論ととりまとめて、それらをも客観的に俯瞰し、古代史・中世史・近現代史を通して見えてくる一貫した、その国民なり、あるいはひいては全人類の歴史的生き方、人生観、行動学から眺めようとする考え方である。

歴史は、人間がいかに大自然と闘い、そこから何を得て、それが結果的には信仰や宗教を生んでいくという、はるかな視点である。だからそこにはなにかしら時代を超えて、つながる共通性、言い換えれば日本人なら日本人としての一貫した不易流行の部分があり、それをこそ見出すことにこそ歴史の意味がアル・・・というものだ。

そのためには原始の時代、あるいは人類史のもっとまえの、動植物の歴史すら知っておくほうがいい。なぜなら遡れば遡るほどに、その共通的な生き方の源泉、エキスは明瞭に見えてくるからである。

人類史や進行の歴史などは、たかだかここ4000年ほどのスパンでしかものごとを教えてはくれない。もっと前まで見ていくと、動物・生物としての人間という、基本の基本や、それを突き動かす宇宙の摂理までもが見えてくるのだ。そういうものはすべての生物に共通した「処世術」なのであろう。それが見えてくる学問でなければ筆者は評価しない。だから神を分析するのなら、自分自身が神々のいる場所・・・宇宙的な視野を持つ必要があると思っている。


神々の真実というけれど、往古まだ国家や地域が統一性がなかった時代は、地域によって性格や名前はばらばらであっただろう。すると今、九州なら九州、東北なら東北の正しい神々の正体がわかったとしても、それは決して「最古の」「最大公約数」の神観念だったわけではないことにも気づくべきである。

もっと古い時代はどうだったかに、目が向かわねば、その研究はまだ断片でしかないというほかない。

しかもたとえそれがその地域の正しい神々の名前だったにせよ、あとになって中央が政治的にその名前をオブラートし、違う名前で登場させたら、名前は違うが、中身は結局同じなわけである。名前などは形而上学的な分類記号でしかなく、大事なのはその性格や歴史的意味のほうである。根本には、たったひとつかふたつだが共通性があり、それが全世界的なもので、時代を経ても不易流行の概念になっているものがある。それが最重要な「神」である。


そもそも間違いは、神を人間に置き換えて=地域ごとの「亡霊」として把握しよう
してしまうことではなかろうか?だから名前の置き換えや入れ替えにあまりにもこだわる研究が生まれる。

それらを調べ上げ、系譜を作成し、記紀の神々はうそであることを証明することに、筆者はどんあ意味があるのかわからないし、古田古代学のような、なんでも九州が起源としたい意見には、それじゃあまるで韓国人と同じじゃないか?という感想しかないのである。



多くの偽書とされている異端の歴史書があるが、あれらには、その地域における「中央史観」へのアンチテーゼ、否定という政治的思惑(しわく)がつきまとっている。それは絶対に否めない。中央史観があってそれに反対する史観がある。しかしそのどちらもが両極端であって、歴史の全体像を語ってはくれないのである。

言外にあるうしろ戸を押し開く必要がある。そのノウハウは、子供の頃から教育が正しく一貫した史観を与えてあげる必要があるし、同時に、それもまた正しいかどうかまで疑わせる自由な発想を阻害しないものでなければならない。

アメリカ人は自分たちの与えられた国民としての自覚を、アメリカ国歌や星条旗に誓い、自由であらんとして成長する。それが間違ったものかも知れないが、とりあえず全アメリカ人に共通する意識が持たされていることは重要である。自由とは、なんでもありではとりとめのないものになり、国家は前を向けなくなるものでもある。そういうアイデンティティの部分がまちまちでは困るのが政治である。しかし同時に、彼らは個人主義を許容され、ひとつの方向だけ向いている必要もないよとしてある。
当然である。人は間違う。間違う不完全な生き物だという認識はなければならない。


通史は楽しむべきものであり、イデオロギーでしばりつけられるものではないのだ。

へえ?が一番楽しい。


それ以上、奥へ入り込めば、そりゃあサティアンの世界になってしまう。カルトである。独善性に犯されかねない。多くの地域の異なる人々にとって、九州なら九州で祭られてきた神々の話をしたところで耳をかたむけたい人など、そうそういるはずもない。ところがそれが東北のなんたら神とそおくりな考え方のものであって、相互に影響しあったとかなんとか言うと、にわかに興味は出てくるだろう。


つまり不易流行の歴史学を考え出していくことが肝要である。


あたしゃ、そう思いますよ。



イメージ 1

記録・神社神名は史上何度も書き換えられた

$
0
0


8世紀以降、『日本書紀』書き換えがあったと考え得る時代

1 藤橘抗争の期間
2 南北二朝並立時代
3 その他


神社・廟の神の名に書き換えがあった考え得る時代
1 縄文~弥生の間
2 弥生~古墳の間
3 倭五王政権奪取時代
4 継体時代
5 欽明時代
6 蘇我氏時代
7 天智~天武時代
8 持統時代以後
9 上記1と2
10第二次大戦中
11戦後
12現在進行中(神社庁による神官派遣と旧態祭祀者更迭とによる強制変更)


このように、過去、中央も地方もその神社の神名には、数回以上の書き換えが充分に起こりえる政権転覆が起きていると考えられる。

同様に、中央でも当然、記録の改竄や上塗りは起こりえた。

その回数は一回ではなく、何度も起きた。

記録は当然つぎはぎだらけで、づたづたになっただろう。



今朝、そこに気づいた。つまり神社社伝であろうと、史書記録であろうとまずは信用しないのがよいと考える。現在伝わっている伝承なども、それを広げようとする現代の政治性、宗教性が相当邪魔をして改竄に次ぐ改竄がほどこされたものが残っているに過ぎまい。神社内部ではつねに、神社庁国粋主義による神の変更は平然と行われているのだろう(例証は山ほどある)。こうしたものは歴史資料としては不適格であると判断せざるを得ない。
むしろ邪魔者である。


以上。


イメージ 7
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

今月の愛読書と最新考古学古代史観

$
0
0

今月図書館で借りてきた愛読書
松木武彦監修『楽しい古墳案内書』2014
山岸良二『日曜日の考古学』2013
片山一道『海のモンゴロイド』2002 再読
伊藤清司・慶応大学・古代中国研究会『中国の神獣・悪鬼たち 山海経の世界』増補改訂版 2013
和田晴吾『古墳時代の葬制と他界観』2014 再読
中田興吉『倭政権の構造』王権編・支配構造編上巻 2014
古田史学の会編『「九州年号の研究』2012 古田史学とやらを知るために



この中から、まずは松木武彦のとらえるわかりやすい古墳時代を引用。










前方後円墳の変遷
イメージ 1

「三世紀後半から四世紀中頃にかけての初期の巨大前方後円墳は、大和の盆地の南東部に集まっている。後円部は三段に築かれているものの、前方部が二段で低かったり、三段であっても後円部と段がずれたりしていて、建築様式として未完成なだけにバラエティに富んでいておもしろい。四世紀の後半になると・巨大前方後円墳は盆地の北部に遷り、後円部と前方部とを一続きの三段に造ろうとする傾向が強くなる。云々」


古墳石室の変遷
イメージ 2


古墳の年代を決める手がかりは副葬品と埴輪。
中でも有効な目盛りとなるのは、副葬品として全時代に存在する鏃(やじり)。
円筒埴輪片そして期間は5~6に限られるが高精度で変化してゆく須恵器の三品が、特に重要。
これらから総合して算出される推定年代を「古墳の編年」という。


古墳考古学の始まりは、みなさんよくご存知の水戸黄門さまの栃木の古墳の発掘からである。栃木県 上侍塚古墳・下侍塚古墳(四世紀前方後円墳)発掘は、元禄五年(1692)、徳川光圀の命令で行われた日本最初の学術的発掘調査である。

以後、下野の国の人、蒲生君平(がもう・くんぺい)による前方後円墳という呼称が戦後になって定着した。幕末、勤皇思想が高まるにつれて、記紀などが指定してきた天皇陵の探索と修復が起きる。そして明治期までに、これら水戸国学や勤皇思想の多大な影響下で日本の考古学は開始され、明治時代には民間の勝手な発掘や、堺県令による発掘によって、一部遺物が流出するなどの事件も起きていくようになった。

要するに日本の発掘は、当初から、天皇中心主義のイデオロギーによって始まり、それは戦後の転換期によって左翼思想からの冷徹な科学的な解釈を経ながらも、またいつしか近畿特に京都大学内部にあった近畿中心主義、皇国史観の残照によってのとらえかたが主流となってしまったのであった。現代、それら過去の戦時中までの史観からの脱却が、故・森浩一らを中心とする同志社などの学派による見直しの途中である。編年判断の過渡期であるとも。


日本の古代をざっと俯瞰すると、考古学的には、~2世紀中ごろまでは圧倒的に九州北部に立派な墓と遺物が頻出するゆえに、この時期を九州北部が、「中国へ朝貢して王権に当たるような存在であった時代」とし、やがて2世紀中~後半にかけては出雲・吉備に別の王権が生まれ、西谷古墳や盾築弥生墳丘墓のような、ほかにはない早期古墳が生まれ、それがやがて3世紀には大和の纏向に移動したと考えられている。

九州北部では、2世紀以後、出雲や吉備や大和のような大古墳へと墓が発展していない。九州独特の横穴式石室や石床、石障、装飾などを持つ「特殊な死生観」を表す古墳は、外見上はあくまでも畿内型前方後円墳や円墳であり、登場も4世紀以降になる
。また弥生の墓としては、九州北部のバラエティは巨大化ではなく、朝鮮スタイルのドルメンや畿内型周溝墓や甕棺墓という、北部を那珂川を中心として東西に分かれるスタイルで発展し、やがて消えた。東には甕棺墓、西には支石墓~周溝墓が他出するため、北部九州弥生人には東西に二種類の民族の移住があったと考えられ、遺伝子。人類学分析もそれを後押しする結果が今のところ優勢である。つまり北部九州倭人たちは、オリジナル墓制を3世紀以降なくしてゆき、大和纏向型の前方後円墳を外見上受け入れながら、墓によっては、ほかにはない内部構造や装飾という「見えないところでの独自性」を選択していることになるのである。


また装飾のある古墳とない古墳が5世紀中頃~6世紀にかけて一部地域に見え始めることから、その被葬者が、よそからやってきた国司的、国衙的人物であって、記紀で言うならば倭王武前後の時代の、大和や吉備にゆかりのある官吏たちではないかという想定が可能な時代になっていたようだ。


特に吉備王の大古墳である造山・作山周辺の、吉備王氏らに縁故のあるだろう様式と弧帯文から発展したであろう直弧文を持つ古墳の被葬者は、記紀の景行紀や神功皇后紀にある吉備由来の人名が熊襲征伐に関わったという記録を後押しする。ただし記紀ではその時代を前倒しで配置するために、実際の時代はやはり倭五王時代に起きたことであっただろう。


記紀史観は、あくまでも大和を大王の発祥地としたい水戸以来の皇国史観に引きずられてきた近畿考古学の考え方でとらえられているのだから、考古学もまた文系に置かれている間は、小林考古学の影響から脱皮できていないと判断できる。できるのだが、遺物や古墳様式の移動拡散が、3世紀以降、列島東西への人的派遣があったという判断は、いかに九州人のKawakatuでも、否定できない現状である。客観的に俯瞰して、そうなのである。

大和が合議制大王輪番制・・・つまりゆるやかな西日本支配体制に、協力する地方豪族は徐々に増えていった結果、最終的に飛鳥時代というものがいあがるわけで、当時は明日香村のように狭い空間でしかないけれど、それでもかつがつは「統一」に近い形がどうにかできあがり始めたとなる。それが天武壬申の乱クーデター成功によるかどうかはわからないが、持統と藤原氏という共立女帝の登場によって、いやいやな豪族もいたけれどなんとか律令制を(九州あたりや中国から取り込んでまねしてでも)成し遂げるというのが、スムーズに文献と考古を結びつけた結果の古代史観であろう。


記紀では、その順番を、九州をあとにして、まずは出雲を帰順させ、スサノヲやオオクニヌシに代表させる日本海・高句麗的文化圏の平定として書かれている。ということは大和の歴史にとっては手ごわすぎた九州よりも、先にまずは日本海を制し、九州制覇は遅れて継体大王の出現を待っていることになるわけだ。

この期間は、言い換えると、九州北部には復権のチャンスがあったわけである。北部九州残存勢力は、国造・国衙たちを懐柔し、実質は中国江南王朝との交渉、東南アジア諸王国との交渉、あるいは列島の東国~関東の勢力との往来によって、大和連合体と対峙する力を蓄えたり、新羅や高句麗や燕とも結んで、かつての呉越を復興しようとする大局観も持てたはずだろう。そうしておれば簡単に筑紫君が継体に敗北することもなかったかもしれない。

しかし、その後、北部九州には大和に対抗できるほどの大古墳は登場しない。また東国は7世紀まで大古墳を作り続けたが、結果的には、東北蝦夷、南国大隅隼人は9世紀には平定され、巨大な神社による監視体制と敗者の祟りを封じる政策にもう立ち向かえる実力は失ってゆくのである。これは残念ながら、ひとえに筑紫君の敗北による、旧態連合体が水泡に帰したことしか証明してくれない。それらの巨大神社とは、
宇佐八幡宮、枚聞神社、阿蘇神宮、鹿島・香取神宮などがそれにあたるだろう。その建立がだいたい律令国家が伊勢神宮にアマテラスを祭ることtなった持統朝以後のことであり、それらが各地の国造の住まいであった税務署である神社群をとりまとめる
国税局を勤めていたことは間違いない。

いわゆる記録にある多くの屯倉の設置記事は、ある一時期に突出して作られたとなっているが、これはあきらかな記紀時代の事業の前倒し記事であり、5~6世紀にはまだそれだけの力は大和は持ちえていないと考えてよかろう。ただし国衙クラスの墓からは、大和的な三種の神器に当たる遺物が出てくる。こうした倭王武の時代の派遣が、大和朝廷の律令共立体制の引き継ぐもので、ゆえにこそ、在地九州北部などではその墓に直弧文を張り巡らす棺の登場を生んだとも見えるのである。つまり在地豪族たちはしぶしぶ大和を盟主に選んだが、決して心から彼らの国衙の来訪を喜んでいたわけではなく、それが筑紫君の反駁、上野国の反発という形で爆発したのが二つの乱だったのであろう。



これがKawakatuがあくまでも九州生まれとしてでも、京都在住だったという過去からでもなく、平等に。客観的に眺めた古代史である。




ただし、大和説が言うような三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だなどとはまだ言うつもりはさらさらない。卑弥呼が大和の人だったという証拠も、今後出ることもないだろう。発掘できない古墳がある限りは。


そして邪馬台国が中国にとって、非常に「あったほうがいい」同盟国であるということも間違いがない。中国の王権はどんどん入れ替わり、まったく安定性がない数千年を過ごしていた。ネコの目のように入れ替わるそれを、日本だけは長期間、ほとんど無視する史観を持ちえることになった。そういう位置にあった。実に大和には都合のよい長い時間が流れていった。そのために、日本人は平和ボケした半面で、国風文化や朝鮮渡来の芸術・芸能を磨き上げ、超克し、世界に類のない繊細な高い文化を持つことになった。また儒教の異常な取り込みや、氏姓の漢風への改名もなく、戦国時代という特殊な期間でさえ、外国の背後からの侵入を気にすることなく、まるで欧州中世の縮図のようにして過ごすこともできた。考えてみれば、そんな国家など、大陸世界ではまずありえないものだった。

戦国時代などはいわば内乱の時代であり、そんなことを長々となっていたら、当然、大陸では他国のいい侵略のチャンスにされてしまう。ところが日本が海外勢力と戦ったのは鎌倉時代の北条政権下の鎌倉幕府のときの元寇だけだった。これまたあり得ない幸運である。しかもその危機を、日本人は台風という自然の偶然によって二度も乗り越えている。ゆえにこそ「神国」という勘違いも生まれ、結局は世界大戦での大敗北を喫してしまうのである。司馬遼太郎の言を借りるなら「まことにお人よしと言うべき」わが日本人。明治人だったのである。


無知だったことが日本を不思議の国にしていった。黄金の国とも呼ばれ、蓬莱とも扶桑とも呼ばれた。なぜならば大陸世界から見て、お人よしの無知な人々が暮らす国だったからにほかなるまい。それを、彼らは半ばあきればがら、うらやんだのであろう。この国を今、世界は欲している。簒奪したい。見渡せば中国・韓国・北朝鮮・ロシア・・・すべてが日本を「あの運のいいだけの奴等め」と感じている。お忘れなく。もしアメリカが背後にいなければ、もうすでにこの国の名前は変わっていただろう。これもお忘れなく。



そして戦いなどはアメリカがしてくれる。アメリカにやらせればいい。などという考え方が、実は平安時代の貴族と武家の関係であることも。




心の中に諸外国への隠された差別意識がある限り、日本に本当の安定や安全は訪れないだろう。それが歴史と言うものである。筆者の住むそばに湯布院町がある。その真上に自衛隊の日出生台演習場がある。沖縄がおろかにも米軍を追い出したいというのなら、筆者などはどうぞ日出生台へと言うだろう。それが本当の日本人ではなかろうか?経済効果を考えれば、米軍を追い出せなどあり得ない。ましてそれがいざというときは国土を守る要になってくれるなど、こんな名誉があるだろうか?沖縄の一部県民の「お空の星を取ってくれ」的な夢は、日本人として理解できない。



戦争はそうかんたんには勃発しない。また、こちらから攻め込むほどの力も日本にはいま、ない。可能性を冷静に考えれば、歴史を見つめれば、日本全国に米軍基地があってもおかしくなかった。われわれは一度、敗北したのだから。しかしアメリカはそうはせず、むしろ沖縄・小笠原を返還した。それもお忘れなく。中国やロシアだったら沖縄や福生だけじゃすみませんぞ。



100年先を見越して答えを出さねば。どこの世界に、陣取りゲームの最中に、防衛バリアをはずすばかがいるだろうか?むしろ増やして当たり前ではないか?


あの中国やロシアが、武器を持たない侍の国ニッポンは立派だ、あっぱれだ、攻めるのやめよう・・・なんて言うはずないでしょう?子供だってわかります。転ばぬ先の杖である。アメリカは。最愛の夫ですよ。離婚したら全部丸裸でっせ、わが国は。







イメージ 3

Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U





















島歌 奄美と差別 そして環太平洋モンゴロイド半球

$
0
0



イメージ 3





イメージ 1



まずは聞くなら本物を
朝崎郁恵  あはがり
https://youtu.be/RxiTGypwjYk





以下引用文
 島唄シマ唄(しまうた)は、奄美群島で歌われる民謡である。
 元来は、奄美群島の住民により、同諸島で歌われる民謡を指して用いられていた。近年、用語が沖縄や日本全国に広まるにつれて、本来の用法から離れて、奄美群島の民謡と琉球民謡が混同されたり、あるいは、琉球民謡の別名としてあやまって使用されることもある。本項では、奄美群島の民謡としての島唄について説明する。
 
概要
 奄美群島の方言である奄美方言(シマグチ、シマユムタ、シマユミタ、シマムニ、シマフトバなどと呼ばれる。)では、シマは自らの郷里を指し、シマ唄とは郷里の民謡を意味する。 「シマ」という言葉は、奄美群島、個々の島、集落など様々な範囲に対して用いられるが、「シマ」と片仮名表記する場合には集落のことを指すことが多い。
 そして、奄美大島の高齢者は、出身集落以外の歌は「シマウタ」とは呼ばないとの報告もある[2]。実際、奄美群島や沖縄県では集落ごとにそのオリジナルの民謡を持っていることが多く、また多くの市町村に広まっている歌であっても、集落ごとに異なった歌詞のバリエーションを持っていることがある。
 現在も、専業または兼業で島唄を生業とする者は多く、奄美民謡大賞などの賞も存在する。同賞の受賞者で、後に全国デビューした歌手には、元ちとせ中孝介などがいる。
 
 近年、奄美群島の民謡と琉球民謡との総称として、あるいは、琉球民謡のみを指して、さらには、琉球民謡の影響を受けた歌までを、「島唄」とあやまって呼ぶ例が増えている。「島唄」という呼称は1970年代に、琉球放送のラジオ番組などを通じて沖縄に導入された。
 また、1990年代には全国的に広まったが、これは、山梨県出身であるが沖縄県のイメージが強いTHE BOOMの「島唄」のヒットの影響であるとも言われる。このように民謡の呼び方と唄われる地域との対応関係が不明確になったことに対して、奄美群島と沖縄県の双方から問題視する声がある。
 
 
 
特徴
 グイン(裏声を多用し、こぶしを効かせたファルセットの一種)といわれる独特の歌唱法や、音域が非常に広いなどの特徴を持っている。奄美大島の島唄は、北部の笠利節/笠利唄(かさんぶし/かさんうた)と南部の東節/東唄(ひぎゃぶし/ひぎゃうた)の2つの流れに大別される。笠利節は、ゆったりとした調子で深みのある荘重な表現が特徴であり、東節は、激しく変化に富んだ節回しで情緒的な表現が特徴である。
 笠利町出身の里アンナは笠利節、元ちとせ中孝介は東節の系統にあたる。徳之島以北は本土と同じ五音音階陽音階(律音階。ヨナ抜き音階参照)で、日本民謡の南限という側面を持つ。一方で、沖永良部島以南では琉球音階が用いられ、琉歌の北限という側面も持っており、琉球民謡の一翼を担う。
 琉歌は八音を中心に、五音・六音・七音を標準とする定型詩であり、基本的には「サンパチロク」といわれ、八・八・八・六を基本形とする。





民謡、歌は必ずその地域の長い歴史の中から生まれる。
最古は来訪神を迎える歌垣があり、本来、そこには差別など存在しない。
奄美大島と諸島は、15世紀以後、琉球王によって従属支配、その後、薩摩藩によって植民地化、やがてアメリカ軍によって基地へと変遷したが、その大半の歴史は従属と冷遇の時代であったとも言える。




イメージ 3




奄美群島の歴史
奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラ火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)も確認されている。

日本本土沖縄諸島地方と交流は、縄文時代・弥生時代古墳時代などを通じて活発に行われていた。宇宿貝塚(奄美大島)からは、南島起源の宇宿下層式土器と共に、九州の縄文後期の市来式土器や、種子島屋久島口永良部島が起源の一湊式土器が出土している。また、瀬戸内海系の里木式系土器が神野貝塚(沖永良部島)で出土するなど、多くの遺跡で北方と南方の混在、影響を受けた製品、さらに独自に発展したものが確認されている。逆に、市来貝塚(鹿児島県いちき串木野市)からは、地元の市来式土器と共に奄美大島の嘉徳II式によく似た土器と、オオツタノハガイ貝輪が出土しており、薩摩半島への伝播も確認されている。ただ、宇宿貝塚(奄美大島)や住吉貝塚(沖永良部島)などで検出された住居跡は方形状に並べたもので、九州のそれとは形態が異なっている。4-5世紀には地元産のスセン當式土器(沖永良部島)が、6世紀には兼久式土器[1](奄美大島)が出現した。同時に金属製品も出土しているため、鉄器の製造開始はこの年代の可能性が指摘されている。

ヤコウガイなどは、螺鈿の原料として重要な交易品であった。マツノト遺跡(奄美大島)、小湊フワガネク遺跡(同)などで螺鈿原料の加工跡が確認され、開元通宝(奄美群島から八重山列島まで出土)も広く出土しており、商人の広範な活動の証拠とされている。」


イメージ 2



イメージ 3



15世紀に入り、沖縄本島の統一を進めていた第一尚氏1416年応永23年)に北山王国を滅ぼし、その領土であった与論島沖永良部島に服従を要求する。沖永良部島において、北山王の一族であった島之主一家とその重臣達は使者船を侵攻と誤認して自刃、1429年応永23年)に両島は琉球王国の領土に組み込まれた。次いで徳之島も服属し、島之主西世之主恩太良金が徳之島大親に任命された。この後、琉球王国よって奄美群島の地元領主階級は「大親」と呼称される。
1447年文安4年)に尚思達王が奄美大島を従わせた。1450年宝徳2年)から1462年寛正3年)まで、喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃を仕掛けていた(『李朝実録』)。1466年(文正元年)に尚徳王が3000の兵をもって喜界島を制圧、琉球王国はようやく奄美群島全域を支配下に置いた。













島嶼国家とは、このように常に外部からの干渉を受ける歴史がある。
琉球も当然、中国歴代国家や日本の薩摩藩などからの干渉を強く受けてきた。
島嶼は、明治政府によりその多くが被差別扱いされ、現在もまだ奄美などは登録上、そのまま部落扱いにされているままである。

そうした多くの島嶼差別がある歴史の中で、太平洋に浮かぶ星の数ほどの島々のひとつであるのが日本列島である。災害史では日本列島は環太平洋火山諸島=リング・オブ・ファイアのひとつである。太平洋を地図で逆さまにすると、日本列島、琉球列島、奄美群島、小笠原諸島、伊豆諸島などなどが、広大無辺のモンゴロイド居住地であることに気がつくはずである。

それらの大多数が植民地として干渉されてきた中で、日本列島だけは、敗戦の一時期にアメリカGHQによる支配下にあったことを覗けば、幸運にもその2000年の歴史のあいだ、ただの一度も他国からの被支配、被差別、植民地化の被害を受けずにやってこれた。

大多数の南洋の島人の歴史が、海の移動、移住、別天地探索の旅人として過ごされてきたのに比べると、北半球にある日本列島と諸島の人々だけは、縄文時代の火山爆発や環境変化のとき以外は、おしなべて定住、稲作、狩猟、採集生活を約束されている。


イメージ 4



つまり日本列島は蓬莱でありながら、平和な国家として存続した、世界史上、例のない平和ボケ国家を育て上げてくれた恵まれすぎた土地だったことになる。その平和が、これからも永遠に続くためには、何を世界へ向けてしていかねばならないかであろう。また重要なことは、いつまでも何もしないでも、その平和は続くなどとは決して思わないことだろう。海で隔てられ、閉ざされていた、蓬莱国家ジパングの時代はもうはるかな過去となった。周辺には虎視眈々とこの列島をねらう大国がひしめき、琉球列島も小笠原も例外ではなくなっている。



いつまでも、ぬるい水に浸かっていられると思ったら、子々孫々の安寧も、戦禍や災害禍によってあっという間に消え去るだろう。地球史の数十億年、人類史の30万年という時間軸の中で、これまでの2000年などはほんのつかの間だったに過ぎない。つかの間の平和国家だったことを今こそ身にしみて知っておくべきであろう。








イメージ 3

Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U











































四隅突出型墳丘墓は日本海だけではない 福島県喜多方市

$
0
0

これまで四隅突出型墳丘墓と言えば、2世紀の弥生墳丘墓群の中では、日本海沿岸を出雲から富山まで広がり消えたとか、日本海西部沿岸地域に特徴的な墓制だとされてきた。ところが内陸部の福島県喜多方市で二基の四隅突出型墳丘墓が確認された。


イメージ 3




■四隅突出型型墳丘墓一覧
    所在地 旧国   遺跡名  規模(m)   時期   備考
1 広島県三次市南畑敷町 備後 宗祐池西1号 10×5 IV期  
2 広島県三次市南畑敷町 備後 宗祐池西2号 3.8× IV期  
3 広島県三次市四拾貫町 備後  陣山1号 5.2×3.5 IV期  
4 広島県三次市四拾貫町 備後  陣山2号 12.7×6.3 IV期  
5 広島県三次市四拾貫町 備後  陣山3号 6×3.6 IV期  
6 広島県三次市四拾貫町 備後  陣山4号 9×4.6 IV期   
7 広島県三次市四拾貫町 備後  陣山5号 4.5×3 IV期  
8 広島県三次市大田幸町 備後 殿山38号 13×6.5 IV期  
9 広島県三次市大田幸町 備後 殿山39号      未調査
10 広島県三次市東酒屋町 備後  矢谷1号 18.5×12 VI 期  長方形?
11 広島県三次市粟屋町 備後 岩脇「1号」       ?
12 広島県三次市粟屋町 備後 岩脇「2号」         ?
13 広島県庄原市宮内町 備後 佐田峠3号 15.3×8 IV期~V期-1  
14 広島県庄原市高町 備後 佐田谷1号 19××14 V期-1  
15 広島県庄原市山内町 備後 田尻山1号 11×9 V期-1  
16 広島県北広島町南方 安芸 歳ノ神3号 10.3× V期-2  
17 広島県北広島町南方 安芸 歳ノ神4号 10.2× V期-2  
18 岡山県鏡野町竹田 美作  竹田8号 14× V期-1~2   ??
島根県出雲市・松江市周辺の四隅突出型型墳丘墓
19 島根県邑南町下亀谷 石見 順庵原1号 11.5×9 V期-2  
20 島根県隠岐の島町西町 隠岐  大城 18×11 V期-3~VI 期-1  
21 島根県出雲市大津町 出雲  西谷1号   V期-3  
22 島根県出雲市大津町 出雲  西谷2号 35×24 V期-3  
23 島根県出雲市大津町 出雲  西谷3号 40×30 V期-3  
24 島根県出雲市大津町 出雲  西谷4号 32×26 V期-3   
25 島根県出雲市大津町 出雲  西谷6号 17× VI 期  
26 島根県出雲市大津町 出雲  西谷9号 43×33 VI 期  
27 島根県出雲市中野町 出雲 中野美保1号 11×9.5 V期-3  
28 島根県出雲市東林木町 出雲  青木1号 14×10? V期-3  
29 島根県出雲市東林木町 出雲  青木2号 9× VI 期  
30 島根県出雲市東林木町 出雲  青木3号      
31 島根県出雲市東林木町 出雲  青木4号 17× IV期?  
32 島根県松江市鹿島町 出雲 南講武小廻    VI 期   ?
33 島根県松江市玉湯町 出雲 大谷Ⅲ1号 10.7×7.4 V期-3  
34 島根県松江市玉湯町 出雲 大谷Ⅲ2号 4.5以上× V期-3   
35 島根県松江市玉湯町 出雲 大谷Ⅲ3号 3以上×     
36 島根県松江市浜乃木町 出雲  友田 12× V期-1?   ?
37 島根県松江市西津田町 出雲 東城ノ前1号 7.1×6.2    
38 島根県松江市西津田町 出雲 東城ノ前2号 11以上×8以上 V期-3   ?
39 島根県松江市西津田町 出雲 東城ノ前3号 18×12    
40 島根県松江市西津田町 出雲 東城ノ前4号 7×     ?
41 島根県松江市矢田町 出雲  来美 10×8 V期-3  
42 島根県松江市矢田町 出雲 間内越1号 8.8×6.7 VI 期  
43 島根県松江市矢田町 出雲 間内越4号 16.5×9.7 V期-3   ?
44 島根県松江市八幡町 出雲  的場 13以上× V期-3   ?
45 島根県松江市坂本町 出雲  沢下5号 7×6 V期-3~VI 期-1  
46 島根県松江市坂本町 出雲  沢下6号 12×11 V期-3~VI 期-1  
47 島根県東出雲町出雲郷 出雲 大木権現山1号 23×12 VI 期-2   ?
島根県安来市周辺の四隅突出型型墳丘墓
48 島根県安来市西赤江町 出雲 仲仙寺8号 18×14    未調査
49 島根県安来市西赤江町 出雲 仲仙寺9号 19×16 V期-3  
50 島根県安来市西赤江町 出雲 仲仙寺10号 19×19 V期-3  
51 島根県安来市西赤江町 出雲  宮山IV号 19×15 VI 期-2  
52 島根県安来市西赤江町 出雲 安養寺1号 20×16 VI 期-2  
53 島根県安来市西赤江町 出雲 安養寺3号 30×20    
54 島根県安来市久白町 出雲 塩津山6号 29×26    未調査
55 島根県安来市久白町 出雲 塩津山10号 34×26    未調査
56 島根県安来市西赤江町 出雲  下山 20×17 VI 期?  未調査
57 島根県安来市伯太町 出雲 カウカツE-1の1号 11×7 V期-3  
鳥取県西部(米子市周辺)の四隅突出型型墳丘墓
58 鳥取県米子市尾高 伯耆 尾高浅山1号 10×7 V期-1   
59 鳥取県米子市日下 伯耆  日下1号 10×7 V期-2  
60 鳥取県伯耆町父原 伯耆  父原1号 12× VI 期-2  
61 鳥取県伯耆町父原 伯耆  父原2号 9.5×6 VI 期-2  貼石なし
62 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原1号 6.5×5.4 V期-1  
63 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原3号 4.2×3.9 V期-1  
64 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原4号 4.3×3.6 V期-1  
65 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原5号 2.1×2.0    
66 鳥取県大山町富岡 伯耆 洞ノ原7号 4.4×4.0 V期-1  
67 鳥取県大山町富岡 伯耆 洞ノ原8号 4.9×4.4 V期-1  
68 鳥取県大山町富岡 伯耆 洞ノ原9号 2.0×1.1 V期-1 墓上施設か
69 鳥取県大山町富岡 伯耆 洞ノ原10号 2.0×1.6   墓上施設か 
70 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原11号 1.6×1.3   墓上施設か 
71 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原12号 1.3×1.2   墓上施設か 
72 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原13号 1.4×1.3   墓上施設か 
73 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原16号 1.5×   ?墓上施設か
74 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原17号 1.5×1.3   ?墓上施設か
75 鳥取県大山町富岡 伯耆  仙谷1号 13×13? V期-2  
76 鳥取県大山町富岡 伯耆  仙谷2号 7.4×7.1 V期-2  
77 鳥取県大山町長田 伯耆  徳楽 19×19 VI 期-2  未調査
鳥取県中部(倉吉市周辺)の四隅突出型型墳丘墓
78 鳥取県倉吉市上神 伯耆  柴栗   V期-2   ?
79 鳥取県倉吉市下福田 伯耆 阿弥大寺1号 14× V期-2  
80 鳥取県倉吉市下福田 伯耆 阿弥大寺2号 6× V期-2  
81 鳥取県倉吉市下福田 伯耆 阿弥大寺3号 6× V期-2  
82 鳥取県倉吉市山根 伯耆  藤和 10×8.5    
83 鳥取県湯梨浜町宮内 伯耆  宮内1号 17× V期-2  
鳥取県東部(鳥取市周辺)の四隅突出型型墳丘墓
84 鳥取県鳥取市桂見 因幡  西桂見 40以上× V期-3  
85 鳥取県鳥取市国府町 因幡  糸谷1号 14×12 VI 期-2  
兵庫県の四隅突出型型墳丘墓
86 兵庫県加西市網引町 播磨 周遍寺山1号 9.5×6     ??  
87 兵庫県小野市船木町 播磨  船木南山 14× V期?   ??  
北陸・東北地方の四隅突出型型墳丘墓
88 福井県福井市清水町 越前 小羽山30号 26×22 V期-3  貼石なし
89 福井県福井市清水町 越前 小羽山33号 7×5 V期-3 ?貼石なし
90 福井県福井市高柳町 越前  高柳2号 6.2×5.5 VI 期-1  貼石なし
91 石川県白山市一塚町 加賀  一塚21号 18×18 VI 期-1  貼石なし
92 富山県富山市婦中町 越中  富崎1号 20×20 VI 期-2  貼石なし
93 富山県富山市婦中町 越中  富崎2号 20×20 VI 期-2  貼石なし
94 富山県富山市婦中町 越中  富崎3号 22×21 V期-3  貼石なし
95 富山県富山市婦中町 越中  六治古塚 24.5× VI 期-2  貼石なし
96 富山県富山市婦中町 越中  鏡坂1号 24.1× VI 期-1  貼石なし
97 富山県富山市婦中町 越中  鏡坂2号 13.7× VI 期-1  貼石なし
98 富山県富山市杉谷 越中  杉谷4号 25×25 VI期-2  貼石なし
99 富山県富山市古沢 越中 呉羽山丘陵No6 19×19    未調査
100 富山県富山市古沢 越中 呉羽山丘陵No10 23.5×22    未調査
101 富山県富山市金屋 越中 呉羽山丘陵No18 25×23    未調査
102 福島県喜多方市塩川町 石背 舘ノ内1号周溝墓 9×8 弥生末~古墳初 四隅突出型方形周溝墓
103 福島県喜多方市塩川町 石背 荒屋敷4号遺構 12× 弥生末~古墳初 四隅突出型方形周溝墓
資料 http://houki.yonago-kodaisi.com/zu-4sumi-1.jpg



■県別分布数
総数103基
島根県39基(邑南町1/ 隠岐の島西町1/ 出雲市11/ 松江市15/ 東出雲市1 /安来市10)
鳥取県28基(米子市11/ 伯耆町2/ 大山町7/ 倉吉市5/ 湯梨浜町1/ 鳥取市2)
福井県3基(福井市3)
石川県1基(白山市1)
富山県10基(富山市10)
広島県17基(三次市12/ 庄原市3/ 北広島町2)
岡山県1基(鏡野町1)
兵庫県2基(加西市1/小野市1)
福島県2基(喜多方市2)
相原精次・三橋浩『東北古墳探訪』彩流社より



■築造年代と移動拡散
弥生中期後半から広島県の三次(みよし)盆地に発祥したという。 弥生後期後葉から美作・備後の北部地域や後期後半から出雲(島根県東部)・伯耆(鳥取県西部)を中心にした山陰地方に見られる墳丘墓である。北陸では少し遅れ能登半島などで造られている。源流は今のところ判明していないが、貼り石方形墓から発展したという可能性もある。

広島県三次市江の川中流域→美作・備後→島根半島西部→東部→伯耆→丹後→越前→会津


■編年図
イメージ 4




まず近年、福島県の会津地方で二基確認され、大いに定説をおびやかしている。
また日本海沿岸でも、但馬、丹後、若狭にないこと、富山より東にないことが特徴である。若狭地域には同時期に方形貼石墓という様式の墓が流行しており、但馬出石では方形墓がある。つまり氏族の相違であろう。

これについてはすでに記事にしている。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56401410.html

イメージ 1


方形貼石墓の分布は島根県地方などにも点々と及んでおり、例えば『播磨国風土記』のアメノヒボコとオオクニヌシの争いがこれに見合う記事となってはいる。ただし中心地である若狭湾西岸部の京都府にアメノヒボコの来訪があったかどうあかは定かでない。対岸にあたる東部ではツヌガアラシトの来訪が語られる。この二つの新羅王子の話が、同じ民族の渡来伝承であるならば、四隅突出型墳丘墓部族と方形貼石墓部族間の不和が起きて、鳥取などの戦争遺跡として残された可能性が出てくる。
また山口県土居ヶ浜遺跡の砂丘上墓もこれに関与した可能性も出てくるかもしれない。


この墳丘墓を作る氏族は最初、日本海沿岸ではなく中国山地中央部の三次盆地に定着している。突然山間部に彼らは姿を現しており、それ以前の経路が不明である。
朝鮮半島には、「朝鮮半島北部の滋江道蓮舞里で発見された墳墓に似ている。(上田正昭氏・古代出雲の研究課題)。基壇上に敷石の段差を二重に持つ(安養寺三号墳)ことから『高句麗将軍塚』に代表される高句麗積石塚に類似。(前島己基氏)が考えられ」るとする意見もあるがいまだ解明されていない。



■分布図
イメージ 2






イメージ 3


今回、福島県山間の盆地である会津の喜多方市塩川町から二基の四隅突出型墳丘墓が出たことが大事で、これは時代が少し下がるが、記紀崇神天皇紀における四道将軍記事で、諸国平定のために北陸へ大彦命,東海へ武渟川別 ,西海へ吉備津彦,丹波へ丹波道主命の4将軍を派遣。大彦命が北陸道から、子の建沼河別命が東山道を遠征し、相津で落ち合った」という記事が気になってくる。ここには今、会津大塚山という大前方後円墳があるが、意外と、四隅突出型墳丘墓氏族の伝承かも知れない。

いずれにせよ、縦断するにかなりの距離がある富山と福島に、なにかの接点があったとは一般的に考えにくかったが、この発見によって、富山あたりでは姫川、糸魚川の中部地方コースではなく、新潟東北部にある阿賀野川による会津への交通路があったようであることがわかってきた。しかし新潟には四隅突出型墳丘墓は存在せず、今後の発掘が待たれる。






イメージ 3
塩川町館ノ内遺跡の四隅突出形周溝墓(塩川町教委提供)



「昭和五〇~六〇年頃には、東日本の弥生時代の始まりは西日本より遅れて中期初頭(紀元前後)といわれていたのが、それ以前の前期からであることが確認された。
その後、主として会津盆地内で弥生時代後期後半~古墳時代初頭頃の遺跡の調査が進み、弥生時代終末の様相が明らかになってきた。それらの結果を見ると、地元と関東系の土器とともに北陸系土器が伴っている。

さらに、塩川町館ノ内(たてのうち)遺跡では弥生時代末の周溝墓(しゅうこうぼ)で四隅突出(よすみとつしゅつ)形と言われるものが検出されている。この四隅突出墓は山陰地方を中心に分布し、東は石川県まで確認されていた。その影響を受けたものが検出されたことは、弥生時代後期の会津地方と北陸が土器のみでない強い結びつきがあったことを示すものであり、古墳の成立を考える上でも重要な資料である。

いわき市平窪諸荷(もろに)遺跡では、弥生時代中期の上坑墓(どこうぼ)群、後期の方形周溝墓群が検出されている。土坑墓群の後に方形周溝墓が営なまれる例は珍しいものである。
また、福島市勝口前畑(かつくちまえはた)遺跡では勾玉制作跡が検出されている。」
http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db/txt/47000.kyouiku_fukushima/00214/html/00018.html







二基ともに方形周溝墓だと考えられてきた盛り土台状墓だったが、突出部が確認され、にわかに日本海文化との交流が会津にあったことが取りざたされ始めている。弥生時代中期の上坑墓(どこうぼ)群よりもあとに後期の方形周溝墓群が営なまれる例は全国的にも珍しい。しかもそれが四隅突出型だったとなると、ここには時代を前後して、複数の部族の来訪があったことにもなる。方形周溝墓は弥生の特殊な地方型墳丘墓の中で、九州でもそうだが、甕棺や支石墓が完全に消えても、古墳時代まで存続された盛り土墓であり、それは常にもっとあとの畿内型の古墳とともに同時存在する墓である。つまり前方後円墳への巨大化と、古い方形周溝墓は同時代を、すぐそばで過ごす。ということは、方形周溝墓や円形周溝墓こそが前方後円墳発祥の鍵を握る遺跡だということになる。そこになぜ四隅突出型墳丘墓が紛れ込んだのかが問題になる。たった二基と言うが、今後、まだまだ方形周溝墓が見直される可能性もあるのだ。そして阿賀野川を下った途中や新潟県の河口部などで、それがまた発見されれば、この部族の移動範囲は一気に日本海だけでなく、太平洋側へと広がることになる。




それが西谷王墓のある出雲ではなく、広島の盆地から始まったという謎の解明は、今後まだまだ予断を許さない。阿賀野川流域の発掘に期待する。


そもそも出雲からではなく、広島江の川の盆地から発祥するというのも、筆者はやや合点がいっていない。ほかにももっと古いものがあって、見落としているのではあるまいか?


甕棺墓が吉野ヶ里で消えるに対して、四隅突出型墳丘墓は方形周溝墓として変形進化し、さらに前方後円墳へ発展した可能性が出てきた。その最初の様式が果たして高句麗型の方形マウンドであったかどうかも含めて、今後が待ち遠しい。もちろん前方後円墳の発祥が纏向だったという今の大和中心の説の転覆だって期待できるかもしれない。方形周溝墓は関東学会では、そのブリッジが切り離されて前方後円墳になったという説は明治大学?などを中心にかなり広まっている。さて、まだまだ考古古代はいろいろ楽しい逆転が起こりそうで、目が離せない。


イメージ 5



イメージ 6







イメージ 3

Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U





 

[転載]〆はこの曲/The Beatles - Across The Universe

$
0
0
The Beatles - Across The Universe         



ACROSS THE UNIVERSE
作詞J.LENNON/P.McCARTNEY 
作曲J.LENNON/P.McCARTNEY
THE BEATLES


Words are flowing out like endless rain into a paper cup
They slither wildly as they slip away across the universe
Pools of sorrow, waves of joy are drifting through my opened mind
Possessing and caressing me
Jai Guru Deva OM

Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world

Images of broken light which dance before me like a million eyes
They call me on and on across the universe
Thoughts meander like a restless wind inside a letter box
They tumble blindly as they make their way across the universe
Jai Guru Deva OM

Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world

Sounds of laughter, shades of life are ringing through my open ears
Inciting and inviting me
Limitless undying love which shines around me like a million suns
It calls me on and on, across the universe
Jai Guru Deva OM

Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world

Jai Guru Deva
Jai Guru Deva
Jai Guru Deva
Jai Guru Deva
Jai Guru Deva [fade out]







  言葉が流れる 果てしなく 降り止まぬ 雨のように 
   荒々しく すり抜けていく 宇宙を 横切って
  悲しみと 喜びとが こもごも我が 心を行き来し
  わたしは恍惚そのもの

  ジャイ・グルー・デーヴァ オーム
  ナッシングス・ゴナ・チェインジ・マイ・ワールド
  不動なり 我が世界
   ナッシングス・ゴナ・チェインジ・マイ・ワールド
  不動なり 我が世界
   ちぎちちぎれの 光が無数の 目のように 踊りながら
  わたしに呼びかける 宇宙を 横切って
  夢想が風のように絶え間なく去来して
  捕まえたと思うや逃げ去っていく
  宇宙を 横切って

  ジャイ・グルー・デーヴァ オーム
  ナッシングス・ゴナ・チェインジ・マイ・ワールド
  不動なり 我が世界



   ナッシングス・ゴナ・チェインジ・マイ・ワールド
  不動なり 我が世界




   笑い声がひそかに聞こえる 鐘の音のように わたしの
  耳に響き渡って わたしに呼びかける
  無限の愛がわたしを包み込み 太陽の
  ように わたしに呼びかける
  宇宙を 横切って

  ジャイ・グルー・デーヴァ オーム
  ナッシングス・ゴナ・チェインジ・マイ・ワールド
  不動なり 我が世界
   ナッシングス・ゴナ・チェインジ・マイ・ワールド
  不動なり 我が世界





ビートルズが1970年にリリースしたアルバム「レット・イット・ビー」に収録。作者はジョン・レノン。

インド公演のために作られたといわれるとおり、インド文化の粋である瞑想をテーマにした曲だ。

繰り返し出てくる
 Jai guru deva, om
サンスクリット語の呪文
「わたしは導師に帰依します」


 だが彼らはまだ若く、このとき、
輪廻というものの本質がまだ見えてはいなかったのではないかと思う。
「不動なり」を繰り返しているが、インド哲学では世は変遷し、繰り返すもの。
不動である必要などなく、むしろ変遷に身を任せ、たゆとうように生きよというのが正しい理解であろう。

言い換えれば、この世界に不動のものなど一切なく、すべては流転する。
その中に、変わらぬ何かを彼らも求めていた・・・というのがいいだろう。



帰依すべきは導師などではなく仏陀である。

仏陀の無限の視野に
われわれもビートルズも
届くはずはないのだから。


そして仏陀とは冷徹な自然を数値にしようとする科学の申し子であったのだ。






科学を単なる学問と思うなかれ。



科学は究極のシンプル。
究極の哲学。つきつめるもの。


今は、ただ、それを成し遂げるための
過渡期でしかない。


必ずそれはどんな観念よりも完全に到達する方向性を持っている。







君にはそれがわからないだけのこと。










宗教、音楽、詩歌の行き着くところとは畢竟、科学なのだ。主観では絶対にない。









それに気がつかねば、すべてはカルトでしかない。










こりゃまた難しいこと書いちゃった。ははは。

でもね、ほとんどの人がそこに気がつかない。
気がつかないから宗派が生まれる。
だが、究極の真理に宗派も異教もない。





許すことの前に、異論や異説や異教や宗派などあろうはずがない。





大儀の前に小儀など。流されるな。









イメージ 9
 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
民族学伝承ひろいあげ辞典
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクション http://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U



































転載元: Kawakatuワールドなんでも拾い上げ雑記帳

天文遁甲で倭人が選ぶ首都最適地

$
0
0

弥生人は大陸からやってきた。
1 大陸には大地震や台風などの災害が少なく、当然、弥生人は気象、地殻変動に敏感である。つまり先住者よりも怖がる。天候が安定し、地震や火山のない場所に住みたい。(3・11大地震のとき中国人が日本から逃げ出したことを思い出せ)
2 海を越えてやってくる外敵からも離れたい。
3 水耕栽培のために河川があり広い平野や低湿地が欲しい
4 周囲を城壁状の山々で囲まれていて欲しい


こうした当然の欲望を換算すると、彼らが一番好む地形は見えてくる。

1、3をまず満たしていたのは筑後川流域だが、大陸に近すぎることと、台風が多い
それで次に吉備を選んだが、1.2.3は満たしていたが、湿地が少なく次に河内、しかし海に面しており貿易には最適だが外周を山がとりかこむ盆地ではない。最後に大和の盆地を選択した。中心部に縄文海進のなごりの古奈良湖が残存し、周囲を山の辺に囲まれ、大和川があり、水が湧く。地震も少なく、台風もさほどこない。南に向かいよく日が差す。周囲は天然の要害の山地ばかり。未開発で耕地が多い。条件にあっていた。やがてこの条件に見合う新天地を山背に移転した。

好条件であることはそこに長く滞在できたことになる。反対に悪条件があれば長期滞在はしていない。神武東征記事はそれを証明している。

イメージ 1


もちろん九州を基点とする以外に、山口、安芸、出雲、吉備、但馬、丹後、若狭、越各地を基点とした南下高句麗由来の渡来もあり、一時期吉備・山背・近江などを中継地として大和や東国へ侵入している。


イメージ 2


こうした移動は数世代ですみやかに行われ3世紀中盤には大和が首都としてふさわしい場所であることに落ち着いたのだ。2世紀後半から増える方形周溝墓の多出が、2世紀頃の大移動を物語り、それが安定して周溝墓が巨大化した。このことはほかの弥生墳丘墓の日本海側、太平洋側での東への移動でも、九州北部で同時に起こっており、瀬戸内航路を選択したものが最速で大和に入ることになる。

やがて遅れて日本海、太平洋航路を選択したものが順次入ってくる。


この動きの最も契機になったのはもちろん中国での三国紛争と東北部に独立した燕や北魏の影響が大きかっただろう。


1世紀から3世紀の300年間は、諸外国の事情と災害経験による一大選択、大移動の時間帯だった。激動の時代である。弥生時代は古代の、いや日本史を凝縮した時代といえるだろう。


のちの風林火山。機を見るに敏。九州も吉備も短期政権だったことになる。






イメージ 3

Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U




常識は覆る 縄文社会も階級や身分があった

$
0
0




イメージ 3



1 縄文人にも身分や階級はあった

■縄文時代は、現在の私たちが想像する以上にとても豊かな社会でした。そして「平等な社会」だったと考えられています。平等という言葉にはいろいろな意味があるのですが、ここでは次のふたつのことを意味します。
①貧富の差がなかった
②身分の差がなかった
■「貧富の差」というのは、分かりやすく言えば、「お金もちとそうでない人の差がなかった」ということです。
■「身分の差」というのは、エライ人とそうでない人の差がなかった、例えば「王様とその家来」みたいな関係はなかったということです。
■どうしてそんなことが分かるのか?縄文時代の竪穴住居の大きさやつくりには、大きなちがいがないのです。もし貧富の差や身分の差があれば、当然お金持ちやエライ人は大きな家に住むでしょう?それが見られないということです。
■埋葬が共同墓地で行われているということからも平等であったことがわかります。同じくエライ人やお金持ちがもしいたら、そんな人たちはふつうの人よりもりっぱなお墓に埋葬されますよね。(今でもそうです。)それに副葬品といって、死者といっしょに埋めれているさまざまな宝物も見られません。のちの時代の話になりますが、エライ人のお墓ほど、この副葬品が立派になります。
http://nihonnoayumi.jugem.jp/?eid=72






この意見は、今でも大多数の日本人が信じている縄文社会の定説であろう。
しかし・・・(実はこういうことはあまり言いたくないのだが)縄文時代にも墓、副葬品に格差があったことは考古学者の間ではもう定説化している。

1997年、千葉県下太田貝塚での新発見があった。約100体超の縄文中期~後期の人骨が谷底の低湿地から出土。たえず湧き水が湧いており、人骨を酸化から防いできた、酸性火山灰土の多い日本では珍しい大量人骨の発見だった。中期人骨は屈葬、後期人骨は伸展葬をほどこされていた。縄文時代でもこのように、時期によって葬り方に相違があったことがわかる。ここが中期から後期にかけての共同墓地であることは先の常識の書くとおりだ。しかし、同一時期なのに丁寧に葬られた遺骨と、ふとつの穴に十把ひとからげに放り込まれた遺骨も出てきたのである。これが縄文人の常識を大きく覆す身分階級社会がすでにあったからなのか、あるいはそうではなく、病人などだけが穴に無造作に放り込まれたのかが問題になる。

イメージ 1

結論から言えば答えは前者だった。病死したものなら、感染を防ごうとしてむしろひとつひとつを厳重に密封していくはずである。そうでなければ全部を積み上げて焼却しただろう。しかしひとつの穴には大量の死骸が放り込まれている。ならば戦死者ではなかったか?これも違っていた。いくさの痕跡は遺体にはなかった。つまり、縄文時代中期以後、すでに縄文社会には階層と身分の違いがあったということになるのである。

その理由とはなにか?
まず貝塚が内陸部からよく出てくる。そして予測を上回る早期の稲作生活の開始の想定である。

内陸部貝塚は海の貝殻が出てくる。これは海岸部部族と内陸部部族の通商があり、それによって貧富の差が生まれえたことを想定させる。縄文社会でも富める土地と貧しい土地の格差は当然あり、物々交換でさえも、さらなる貧富格差ができてしまうことを物語る。


イメージ 3



がっかりしましたか?
理想郷だと思っていた縄文社会も、人が集まればリーダーが生まれ、たとえアニミズム社会でも上下関係はあったのだ。がっかり。

貧富の差や階級の上下は、弥生時代の水耕稲作による定住生活が生み出すと思われてきた。縄文時代でも、すでに定住して陸稲や野菜栽培をしていた地域では、すでに弥生時代と大差がない社会への進化があったということになりそうである。

イメージ 2


2 縄文土器は世界最古の土器でよい?

世界最古の土器は、青森県大平山元遺跡出土の土器で、今から16000年前という数値がC14放射性炭素年代測定法で検出された。この数値は、西アジアの常識だった約9000年前からという数字を大幅に更新する驚異的数値だった。その後、ロシアで15000年前の土器が出土。今後の出土しだいでは最古の土器の地域も年代も変わる可能性がある。なぜ、人類の進出が早くはなかっただろう日本列島で、最古なのかは不明である。実は筆者が気になっていることがひとつある。それは南海の島人たちも縄文人も、ともに舟で移動するときに土器なども持っていくことである。

これは妄想だが、以前、南米エクアドルから出た縄文土器そっくりの破片、あるいは南米南端に存在した日本人に遺伝子構造がよく似ていたというモンゴロイドの存在。それらが魏志の侏儒國や黒歯國であったかどうかは不明だが、彼らが海を南洋の諸島から移住していたとしたら、土器も持参していただろう。彼らはまた、家族全員で移住する。女・子供も同行する「かたつむり移住者」なのである。






3 旧石器捏造問題が歴史ファンを考古学懐疑派にした。

これはまず間違いないことだろう。しかし一時が万事というのもいかがなものかと思う。また旧石器時代人の遺跡発掘でも、過去、戦後間もない頃のいくつかに疑問符は確かにつけられるものがある。
学者も人間、今でも教授昇進などのための発見合戦は確かにある。だから考古学ニュースなどの速報は、すぐに受け入れない慎重さは必要である。ただし考古学者もそのままにしているわけではなく、10数年後に新たな意見を出してくる。つまり影では何度もの再調査を行っている。あわてて発表してしまうのはだいたいマスコミである。それもお忘れなく。




4 昔の発掘は全部掘る。今の発掘はトレンチ、グリッド、埋め戻し

昔は、戦後の建設ラッシュなどで多くの新発見遺跡が見つかった。予算も多く、考古学者も、あとのことは考えずに全部掘り返していた。しかし今はそうはいかない。最小限の切込みで範囲などを探り、最小限の遺物を採取し、また埋め戻す。しかも迅速にこれを行う。跡地はもともとなんらかの建設用地だからだし、予算もあまりない。さらに考古遺物はもう研究所にあふれかえっており、学者の手に負えなくなり始めている。だから新発見の可能性はそれだけ減ってきたということ。

考古学発掘情報も、昨今はさしたる目新しいものが減ってきている。元気なのは国家が興味のある近畿と九州だけで、範囲はしかも限定され始めている。昨今は九州も元気がなくなり、奈良県の独壇場状態に近い。これでは情報は偏ってしまう。




イメージ 5

昨日、大分市の中世大友屋敷跡にたまたま行く用事ができて、訪問したが、ほとんどが平地になっていた。土地の持ち主は、これからここに何か施設を作る申請を市にする予定であると申されており、吉野ヶ里のような自治体の公園化などはまったく計画もないそうである。こういう傾向では、例えば中世遺跡の下には弥生遺跡、その下にはさらに縄文、旧石器の遺跡が詰まっているだろう場所を、学者が順繰りに掘りまくることが不可能で、もったいない話になっている。学者も人の子、縄張り意識がある。

イメージ 6



イメージ 3




5 縄張り意識がダメにした高松塚壁画

その縄張り意識が大失敗を引き起こしたのが高松塚古墳石室の壁画のカビまみれ事件だった。1970年代のことである、高松塚の大発見は大いにマスコミやファンを喜ばせた半面で、その管理は古墳全体の遺跡管理者と、石室内部の壁画管理者を別々にしてしまった。行政の不備だった。

遺跡全体の管理は異例の速さでわずか数ヶ月で文化庁が史跡指定し管理することになった。高松塚は特に、古墳全体は特別史跡、壁画部分は国宝に分けて指定されたのである。これが大失策の始まりだった。

文化庁はお役所お得意の縦割り管理。
特別史跡は記念物課が、国宝は美術学芸課が担当するのである

しかも、保存や修復実務を扱う記念物課は奈良文化財研究所と親しく、美術学芸課は東京文化財研究所と連携が深かった。だから中にカビが生え始めても、なかなか両者の意見は同時には一致しない。右往左往するうちにどんどんカビは増えていった。2004年、壁画発見30周年を記念して、『国宝 高松塚壁画』が文化庁から発刊され、その序文で文化庁長官は「三十年経ても壁画は大きな損傷もあるいは褪色もなく」と堂々と書いてしまっている。長官が当時の内部事情など知るはずもなかったし、知っていてもそういうふうに書くしかなかったのだ。おめでたい記念著書だから。

しかし2004年6月、ついにマスコミ報道は大スクープとして壁画劣化の報道をリーク。国民に衝撃が走った。文化庁は翌年ついに「石槨解体」を表明。重い腰をあげることとなる。こういうときにはマスコミは強い味方になる。しかし解体作業はスムーズに進まず、関係者から非難ごうごう。なぜなら法律では遺跡は現地保存が決まりだった。これをおさえて福島の日本考古学協会合で協会は完全保存をしかたなく宣言。ようやく全部が切り離され保存された。今、高松塚に行っても石室内部には壁画は一切ない。





6 高松塚の影で虎塚大発見。装飾古墳はカビない


一方、キトラ古墳の場合は、壁面がもろい漆喰で覆われて剥ぎ取りは困難を極めている。実は高松塚発見で日本人が大騒ぎしていた頃、茨城県では装飾古墳が発見されていた。誰も、それに気づかなかっただろう。それが虎塚古墳である。

イメージ 4


この古墳の装飾は高松塚のように白色顔料で壁全部が覆われていた。しかしいまだにカビひとつ生じていない。漆喰ではなかったからである。九州の装飾古墳もそうだが、管理不足の時代に褪色や損傷は生じているけれど、カビなどはどこにも一切はえていない。これは顔料の違いである。装飾古墳のほとんどは自然顔料、つまり鉱物や墨などが使われていて、カビに強かったのである。ところが七世紀の最新渡来工人の技術で描かれたはずの奈良の壁画は、簡単にカビが生えてしまった。

まるで戦前の日本人の家屋敷と、戦後高度成長期の家屋敷の丈夫さの違いを見るようなことであった。寒冷、乾燥地である朝鮮半島と、湿潤地日本の違いもあるが、密閉を解かれてすぐにカビ始めたのは、あきらかに文化庁の杜撰な(無知ではあったが)対処にあったと言えるだろう。ま、しかしなんの沙汰もなしである。人的ミスにもなんら処置なしなのだろうか?
キトラでは確かに対応だけは早かった。




7 国宝だろうが重文だろうが、名前だけ

予算は出ないのである。一切。
山の管理が土地の持ち主の民間であるのと同様、遺跡も遺物も国は指定するだけで、あとは自治体や考古団体まかせが現状である。なんとなれば国がそれを執り行うには予算がかかる、その予算を負担せねばならないのは当然、国民である。小泉総理は「民間でできることは民間で」と言ったが、実は考古学の発掘も、その後、民間の専門発掘業者が請け負うようになったのだ。もともと発掘は開発のおまけである。だったら土木業者たちがその発掘部門を作ろうという機運が出た。出たのはいいが、もうからない。だから発掘途中でほったらかされた遺跡が山ほど出てしまう。するとそこは本当にほったらかしになる。地主はたまらない。お役所に何か建てたいと言ってもなかなかOKが出ない。



8 発見・発掘は学者個人にはできにくい

そもそも発掘は、あの出雲の銅剣・銅鐸大量発見もそうだが、ほとんどが民間、あるいは高速道路建設にともなって発見されてきた。考古学者の発見ではないのである。新発見は開発のおこぼれ、おまけである。だから業者が不景気なときには、当然発見は少なくなる。開発そのものが低迷するからだ。多くの有名遺跡は東京オリンピックや万国博などの大々的建設ラッシュで見つかっている。表面にいつも見えている古墳の発掘とはわけが違うのだ。学者などでは、あるだろうなあとはわかっていても、まさか重機やらを自前で動かす金はない。あっても役所はすぐには許可しない。なかったらどうするんだというのが役人の常である。補助金を出すのが困るのだ。

もし大発見だったら、実は行政は困ることもあるのである。

あの吉野ヶ里も、全然そうだった。地元では大反対の建設によってとんでもない遺跡と遺物が出ちゃった・・・だった。すると急に国が出てきて買取、国立公園になってしまった。これもとんでもないスピードだった。しかし邪馬台国とは言えないとなってきた。すると今度は奈良の纏向遺跡が出てきた。しかし今度はなかなか動かず、ついには埋め戻し。運がよかったのは大阪の曽根遺跡だった。こちらは公園化されて、ぐるぐる渦のついた高層建築ができあがる。それで今度は吉野ヶ里が「しまったあ!うちもああいうデザインにすればよかった・・・。」実に面白い。


おまけ
恐竜の皮膚の色はこれまでデザイナーの勝手な想像した色だった。それがアメリカで皮膚の色が復元できる技術が開発され、いまや、恐竜の色どころか、多くがカラフルな羽に覆われていたことがわかってきた。つまり恐竜が鳥に進化したことはもう間違いないとなったのである。そんなもんなんですよ。図鑑は大変だ。





9 科学は失敗して進化し、やがて哲学へ向かう オームも最初は科学を?

考古学、いや、科学のすべては失敗の積み重ねである。失敗するたびに民間人はそれを批判する。そして科学はやはり信用できないぞと言う。今度の原発事故でも筆者もそう書いた。しかし待てよである。失敗しなければ先には進めない。神ならぬわれわれはおしなべてそうである。科学とはなにか?哲学である。数学である。しかしそれだけではない。ソクラテスは哲学者でもあり数学者でもあおり天文学者だった。彼は仏陀やキリストの半歩あとまで迫って、ローマ兵に後ろから殺された。かれがそのまま生きていたら、もしかすると聖人、教祖にもなれていたかもしれない。事象のすべてを「なぜか?」で考えること、それこそが科学であり、それはイコールつきつめると哲学、信仰の深遠さえのぞくことが可能なものである。オームの麻原が、ビートルズの歌う「導師に帰依します、オーム」に感化され真理教団を始めたように、しかしそこには常に危険性も伴う。明暗がある。間違えて裏側の神になろうとすれば、作り出すもの、創造者ではなく、抹消するもの、殺戮者にもなってしまう。
人間はささいなことで裏にも表にも生きる弱い存在だ。だから科学には監視者が必要である。

科学と哲学が人をモハンマドにするか、キリストにするかで、世界はごらんのようにまったく違うものになってしまう。お忘れなく。

凝視せよ。
すぐには判断するな。
である。

でないと、子供が積み上げた積み木をささいなミスでつぶすように、いとも簡単にこの地球や世界の均衡は崩れ去ってゆく。「あ?しまった」では済まされないのだ。





参考文献 山岸良一『日曜日の考古学』2013 東京堂出版



イメージ 3

Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
 日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U




  

Viewing all 1881 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>