Quantcast
Viewing all 1881 articles
Browse latest View live

ばってん・ったい・ばい・くさ っちゃなんね?


九州筑肥方言
・ばってん(筑肥方言) 古語「~ならばとて」の語尾変化。「ばとて」から「ばってん」
・~ったい(筑肥方言) ~です。関東で「~だい!」と同じ。決め付けニュアンス強い言葉 「た」が「だ」にならないのは濁音を嫌う古典的風習残存あるいは先祖の中国・韓国発音の残存か?
・ヨナ(阿蘇方言) 火山灰の降灰の細かな白い粒子。こな。「な」はすな、こななどの細かい粉の意味だが、「よ」は不明。
・ばい(筑肥方言) ~です。~ったい、だい、と同じ断定的表現。
・~っと(博多方言) 共通語の「~ですと」に同じだが、ニュアンスが違う。やはり断定的な付録の一音である。「~する」でもいいのに、あえて「と」をつけることで決め付け的に使用する。
・~くさ(筑豊方言) 筑前と豊前の交差する鞍手・嘉穂(田川では使わないから田川以西はかつての豊国(豊日方言)だったことがしのばれる)など筑豊地区で多用される語尾である。この地域には隼人系の地名が多いようでその影響も考えうる語尾か?不明。共通語に「さ」をつけるのは東京では主に地方出身者と横浜地域であるが、この接尾語の「~さ」は断定表現である。「さ」だけでよいところに、なぜか「く」が割り込むと「くさ」になる。ただし「く」はKuよりもKに近く、本人たちはほとんど発音していないつもりであるが、よそものには「くさ」に聞こえる。「~Kっさい」つまり「~しなさい」である。「~しんさい」になってこれが筑肥では「~しんしゃい」になるのだが、筑豊・博多の一部だけがKが入って最終語尾の「い」が消える。なぜかはわからないが、歴史民族的にはこの地域は那珂川東部なので半島系渡来人の多く入った地域だからか?なぞの「くさ」である。とにかく文節のたびに「くさ」が入る。「今からくさ、あそこのくさ、町までいってくさ、いったい夜中に戻ってくるつもりかくさ?」ととにかくくさである。最近若者にはすでに死語になりつつあるらしいくさ。

  

九州西部地域の筑肥方面では畿内外輪部であるために畿内表現よりももっと古くからの方言に変化が少なく、この断定型の語尾のために、県外の人には威圧的に聞こえるきらいがある。また、共通語の「だ」「が」が「ば」に変化する傾向が非常に強い。また名詞のアクセントが語頭に来るのも特徴的で、これは京都言葉に似る。外輪言語地域。

同じ九州でも畿内内輪部である北東部では豊日方言で、環瀬戸内方言である「~じゃ」を語尾に用いる。これは近畿の瀬戸内沿岸と同じである。「じゃ」は公家・武家の語尾である。内輪言語地域。

またそれ以外の熊本南部~鹿児島~宮崎中南部までは同じ外輪言語地域でも、北西部とはまた異なる方言を使う。昨今はテレビを反面教師にして、しだいに変化し、博多方言的な変化が見られるが、アクセントや抑揚はそれでも強く残存する。時代劇で多用される「おい」「おいどん」「ごわす」「じゃっどん」「もす」などはすでに完全死語である。たゆとうように上下する抑揚には、しかしゆかしさが漂い、縄文からの南国的波の音すら聞こえてくる言語で、消えるにはおしいいものがある。アイヌ語・琉球語などとともに保護されるべき原日本語だと言える。なお薩摩藩が内密にするために作り出した薩摩方言というのは後世の作り話。




なお、「畿内」とは「都があるところ」という意味で、これに対して「関東」「西国」「鎮西」などはその外輪部という意味である。首都が東京に移ったときに「関東」に対して「関西」と呼ぶようになったが、江戸時代では「上方」=お上のいるところ=首都のままだったのを東京人が変えたかったからであろう。そもそも関東の関所とは箱根であり、一般的に考えれば関西とは、箱根以西という意味を持つ。すると東海以西全体が関西だったものが、のちに近畿のみに適合されていったと判断できる。しかし近畿でも京都人は自分たちを決して関西人とは思っておらず、今もなお畿内人=都人である。ちなみに京都市の中でも「京都~」であるのは右京区・左京区だけとも思っている、実に世界の狭い人々がつまり生粋の京都人ということであろうか?

東海という言葉も、畿内から見た東の海という意味で、現代では奇妙な表現であり、東京から見れば東海地方は西にあるので中部と言うほうがいいかも知れない。かつては「とおとうみ」である。これは「遠いおうみ」で、近江=おうみは汽水海・淡水湖であるから、そもそもは琵琶湖を指している。淡海。静岡地方を指して東海「遠淡海」と呼んだ名残。

えぞ これはもともとはえみしのいる土地であるが、北海道を領土にしはじめてから江戸期にアイヌを東北蝦夷と区別するために蝦夷と書いて「えぞ」と呼ぶようになった。


ぼくの戦後70年談話

「ぼくの戦後70年談話」


テレビから、終戦記念日を前に護国神社へ参った老婦人の声。

きわめて控えめに、

「今考えてみれば・・・こんなことを言うとあれですけども・・・あの戦争は・・・間違っていたんじゃないかと・・・」


われわれにとっては、何をいまさら言っているのか、ではあるが、彼女の世代、戦前に皇国史観の刷り込み教育を受けた世代には、いまだにそういうことなのだと、ため息が出てしまう。


負けた段階で、すでに過ちは決定している。
そこから70年が過ぎた。
だが、彼女たちにはいまだに自分たちが国策にささげた青春時代が、はっきりと間違っていたとは認められぬまま時間ばかりが過ぎたのであろう。

それが人間。
人間が、自らの失敗、国の失敗を認めるための時間が、それだけかかるということなのだ。

いくさはしないにこしたことはない。
してはならない。
あの戦争は、この国がしかけたいくさだった。
ヒロシマ・ナガサキを忘れるなと被爆者たちは叫んできた。
けれど米国ではそれ以上に「リメンバー・パール・ハーバー」と叫ぶのが8月なのである。喧嘩は両成敗。どっちが悪いとか言った所で、過去の歴史である。

彼女の言葉を聞いて感じたことは、
首相が戦後70年談話を出すだろうが、日本国民全員がそれぞれ、各自で戦後70年についての意見をブログなりに記しておくべきだということである。

右や左の洗脳を受けてしまっている人々は、いわずもがなで過激に書くことだろう。
しかし肝心の、ノン・イデオロギー、ノンポリ、浮動票層が・・・つまり日本国民の大半を占めている「良識ある」「一般民衆」がそれをしなければ意味がない。

総括である。


ぼくは「戦争を知らない子供たち」の世代である。
父は陸軍将校だった。
もし、少尉までもが戦犯にされていた場合、ぼくはこの世に生まれていなかったことになる。そんな父は、死ぬまで、一言も自分の戦争体験を語ろうとはしなかった。
つまりそれほど過酷ないくさであり、理不尽な戦いであり、国策だったのであろう。
あきらかな状況判断の大失策である。

明治以来、日本は何度かの国辱的失策を犯している。
まず白村江の大敗北。日露戦争で勝っても、なんらロシアから利益が得られなかったという小村の失態。先の大戦を始めたという松岡の失策。南京陥落後、軍部が大虐殺を行い、それが感染してさらに日本軍が暴走を始めたこと。原爆を落とされるまで敗戦をみとめられなかったという世界に冠たる陸軍幹部の大失態。そして3・11大津波を予見できなかった東電と自民党政府の原発政策による想定外の太平洋広範囲汚染、及び福島県海岸部を100年間以上も誰も住めない土地に「今も汚している」大失態である(前振りとしての東海原発流出事故も)。

今回の安保見直し、憲法の一部見直し、そして集団的自衛権は、では100年後、どのような結果をもたらし、どういう評価を得ているのかは、誰にもわからない。

ただ思う。
自民党の古参議員がまだまだ残存している。
彼等は皇国史観をいまだに振り回しかねない世代である。
そして国立競技場などの問題から見ても、その金銭感覚はまるで昭和の田中角栄時代の土建屋の親分そのものである。

彼らが、日本の教育を、文科系にありがちなおおざっぱなくくりでとらまえ、まるで戦前のような感覚で、科学をもてあそび、金をもてあそび、そして再びいくさを起こす火種になる影響力ある立場におかれていることが、自民最大の大問題であろう。獅子身中の虫は彼らの世代である。

護国神社で、今頃になってもまだ、あのいくさは間違っていた「かも知れない」とつぶやいてしまう世代。両極端な意見を言う世代。右翼の罵声と左翼の反作用によって戦後、振り子のように価値観が狂わされてしまった世代。アイデンティティのない世代。とにかく戦争らしき影に全部反対というものと、いや戦争は勝てば官軍、リベンジだというものの両極端しかいない世代。

自由とはなにかを実はちゃんと教わってこなかった世代・・・。


法案は必要だ。しかし彼らにだけはそれを動かさせてはならない。



ぼくらより前の世代は、右か左しか選択肢がない世代、あとの世代は国歌も国旗の意味も過去も、「さくらさくら」も、唱歌も、日本近現代史も、満足に教えられず、あまつさえ日本の敗戦もアメリカと戦ったことすらも知らない世代である。イデオロギーとしてのみ日本国憲法は絶対遵守せねばならぬことくらいしか知らされていない、どちらも別の意味で偏った教育を受けた世代である。

ぼくは、本当の自由主義教育を受けられた世代は、昭和20年~40年までに生まれたわれわれだけだったのではないかと思っている。現行憲法とは守らねばならない部分と守らなくてもいいはずのことまで書いてある部分とが混在した文書であると思っている。そもそも『日本書紀』『古事記』にしてもそうであるが、人の手になった文書で欠陥のないものなどありえない。

方言まるだしで、言葉もくぐもりがちな佐藤議員のビデオ上の解説などは、説得力も何もない。説明する肝がわかっていないのである。首相の説明も同じく、文科系的なおおざっぱなやりかたを「わかりやすい」と勘違いしたものでしかなかった。

もっと具体性が必要である。
理科系的な、すべての状況に対応したノウハウ、マニュアルでなければ国民のすべては納得させられまい。「たとえば」ではなく、「韓国が攻められた場合」「アメリカが攻められた場合」そしてどこまでが隣国なのか。それとも西側諸国のすべてまで含むのか。などなどを、成立させておいてから法案提出すべきだった。だからあたら戦後派やゆとり教育派たちを混乱させた。説明がへたすぎる。

そのあいまいさが、結局は、またぞろ先の戦前のような事態を・・・と杞憂させてしまうのである。日本人は高い教育を受けている。戦前や戦中の人々とは理解度に雲泥の差がある。少々こまかになってもちゃんと大事な法案は理解しようとする能力がある。政治家は国民の能力をわかっていない。肝のところはもっと詳細に、事細かに、口すっぱくして解説すべきだった。現代の若者ならそうして欲しいはずである。そこから各論がはじまり、より具体性を帯びた法案にできただろう。


そのおおざっぱさ、おやふやさこそが曲者であることは、国民は痛いほどしらされて来たのだ。詐欺まがいで通る時代ではないだろう。



安倍首相が決めたことを、あとの世代がその意味を理解していけばいくさはおこるまい。しかし、彼らに果たしてそのおもちゃがうまくあやつれるかどうか。


ゲームと株と物質でしか動いてこなかった彼ら。
実感のない、生活感覚のない彼ら。
頭の上からドローンや飛行機やヘリコプターがいつ落ちてもおかしくない今、災厄の世代がぼくらを挟み込んでいる。


自由は今、この国から徐々に失われていこうとしている。

しかし同時に、今の国際的均衡はそうたやすく戦争を生むことがないのも事実である。いくさは起きても小戦争しかできない状況である。CO2問題、資源枯渇、食料枯渇などなどの環境諸問題によって、世界中が手かせ足かせを受けている中で、大きな戦争などできようはずもない。



あとのことなど知ったことじゃない。
われわれは地球の、最も平和でよかった時代に生まれた世代だ。
そんな過酷な未来のことなど想像できるはずがない。


言える事は、憲法は自前であるべきものである。
アメリカの22歳の大学出たばかりのおねーちゃんが書いた憲法が絶対だ!などとよく平気で叫べるものだとは感じる。強く。変えるべき所は変えねばならない「敗戦時用の」一時的欠陥暫定憲法なのである。本当は日本人自身の手によった、すべてが自前の憲法をGHQ撤退後にすぐ作らねばならなかった。言うならば、戦中派、戦後派のためだけに書かれた憲法でしかないのだから。

自民党の説明も具体例があげられておらない。
こうなったときはこうするの、すべてが実例で持って書き出されたマニュアルを早急に作るべきである。

平和とは血で贖われるもの。
そして自ら勝ち取るべきもの。



ひとりの為政者に経済も平和もなにかも実現せよなどというつもりなど毛頭ない。

誰かがやらねばならないことがひとつ、70年かけてようやく成立しようとしている。教科書に載るだろう歴史的な出来事であることだけは確かだ。そしてこれはセオリーであるが、この法案によって日本の経済は間違いなく安定期を取り戻すことになるだろう。大人国家の責任はしかし、非常に重く、あとの世代にのしかかる。うまくやっていただきたい。平和世界・自由世界の本当の実現のために。


やがて韓国の不況はさらに悪化するだろう。中国はバブル崩壊時期にさしかかる。世界が恐慌にもなりかねない波乱含みの時代である。日本の経済は確実に復興している。西側諸国と日本が彼らの商品を買い控えている限り、彼らの今後の一人がちはおこらない。IS問題はしばらくは東アジアからかなり遠い話である。しかもそれすらイスラエルとアメリカの金の動きに左右されるものであり、すでに彼らの戦いは世界よりもイスラム世界内部の宗教派閥統一運動という本来の姿にもどり始めている。経済が動かす戦争に過ぎなくなった。それらはもはやこれまでの恒例のどんぱちだと言える状況である。せいぜい小競り合いを繰り返すことで経済を動かす効果しかないのである。

つまり近々、世界戦争が起こるような状況にはないと判断できる。ということはこの法案は実際に適応されるケースはきわめてまれであろう。集団的自衛権もまた当分は転ばぬ先の杖である。


敵が襲ってきてから法案を考えるなんか、どう考えてもおばかさんの国がすることである。歴史を振り返れば、日本はずっとそういう国だった。むしろ弥生時代や飛鳥時代のほうが、明治時代以後よりもずいぶん外敵を意識した時代である。あの元寇にしても、ペリー黒船来航にしても、幕府はいつもその場限りであった。だから江戸幕府は滅びたのだ。そのこともお忘れなく。


敵が登場してから軍艦を作るのか?なのである。
備えあれば憂いなし。たったそれだけの理屈がわからんかなあ?


騎馬軍団が目の前にせまってから火縄銃に点火していて、国が守れるはずがないじゃないですか。

巨大な古墳作っただけで世界が倭を国家として認めますか?
元寇の防塁をつくろうよ、じゃあ作り方をマニュアル化しときましょうよ、という話でしょう。高麗の反対勢力は日本に援助を求めてきた、あのときは。しかし日本はそれを無視した。高麗は滅びてしまった。するとどうなったか?山ほどの高麗人が日本に逃げてきたんでしょう?友好国が滅びたら、そうなるわけでしょう?

じゃあ、滅びさせちゃ結局困るのはぼくたち日本人の民間じゃないですか?

白村江で天智が負けて、山ほど渡来人が逃げてきた。しかしあのとき逃げてきたのは王族とその家来だった。平民は見殺しで逃げてきた。だから日本の文化は世界に冠たる技術国家の礎となった。今度滅びたらそうはいかない。民衆まで逃げてくる。船の規模や技術や数が違う。だからそうならんように韓国も守ってやらにゃならんでしょう。

ひとりだけ繁栄して、世界のこと、貧民社会のことなど見向きもしない。そんな企業を許せますか?金が有るなら寄付でもしろ、社会貢献しろと言うじゃないですか?
日本国家だって同じことです。


一切合財反対するのは子供の考えです。


















日本国号成立の裏側の秘め事


日本国号の出てくる記録各種

●『旧唐書』「東夷伝」「倭国伝・日本伝」10世紀成立、編集中に国家が入れ替わり編集者も入れ替わった経緯があるために、二種類の風聞がそのまま記録されていることがある。

「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す」

この「別種」とは、
高麗は出自、扶余の別種なり。<旧唐書、高麗伝>
 百済国の本も亦た、扶余の別種。<旧唐書、百済伝>

とあり、どちらの民族もほぼ同類であるので、「別種」とはほとんど同じ種族・民族だが、中国が国家交代しているあいだに呼称だけが変わったらしい、と言う意味である。

「或は曰う、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。或は云う「日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う。又云わく「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」と』と。長安三年其の大臣朝臣真人、来りて方物を貢す。朝臣真人とはなお、中国の戸部尚書のごとし。」

「曰う」の使用法に二種類が使い分けられており、一方は引用である可能性が高い。つまり原典があっての記載と、使者の実際の言葉の双方からの類推であろう。
長安三年は則天武后三年。

この記録は遣唐使大宝年間の粟田真人らの日本国号宣言を受けてのちに記録されたものであろうので、天武あるいは持統以後の、孫の文武天皇あたりの時代のことだとなる。

●『新羅本紀』
「670年(天智八年か?)、倭国が国号を日本と改めた」


●「井真成墓誌」
「 公は姓は井(せい)、字は真成(しんせい)。国は日本と号し、才は天の縦(ゆる)せるに称(かな)う」


●「杜嗣先墓誌」
「属(たまたま)、皇明遠く被び(および)、日本来庭す。勅ありて、公(杜嗣先 と・しせん)と~・~・~等をして蕃使を賓し、共に其れ語話せしむ」

(この遣唐使は大宝二年702六月出発の粟田真人を使者とした入唐である。すなわち中国に対して初めて国号日本を伝えたのは粟田真人で702年のことである。このことは杜嗣先墓誌にも記録があり、ほぼ間違いない。当時、杜嗣先は則天武后の官人で春宮侍郎の役職。これは則天武后長安年間ゆえに、日本国号の正式記録の最古のものになる。
 
なお、井真成は養老元年717の遣唐使・丹比県守(押使 おうし)一行に留学生として同行入唐したと考えられる。当時19歳。同じ船に学僧玄・吉備真備・阿倍仲麻呂らがいた。姓名の「井」は中国的な一文字簡略化であり、実姓は不明である。もともと井一字であったかも知れぬし、井上だったかも知れぬ。漢音で せい・しんせい。和訓で いの・まなりと便宜的に通称。)


●『釈日本紀』巻1開題
「問ふ、日本と号する濫觴(起源)大唐の何れの時の書に見ゆるか。答す。天慶説は詳らかならず。・・・唐の則天皇后長安二年に当たる、続日本紀にいわく、この歳、正四位民部卿粟田真人持節使と為す。唐暦いわく「この歳、日本国、其の大臣朝臣真人を遣わし方物を貢す。・・・」云々



●『懐風藻』751成立
弁正法師、玄宗皇帝と出会い囲碁を通じて知遇を得る。唐土にて没する前に国土を思って詠んだ謹製歌
 日辺 日本を瞻(にっぺん にほんをみ) 雲裏 雲端を望む・・・
(弁正法師は、大宝年間の遣唐使留学僧。出身は秦氏。)



●『万葉集』巻1-63 山上憶良
いざ子ども 早く日本へ 大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ


●『新唐書』「日本伝」
「咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。またその国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は、すなわち毛人という。」

この記録は670年、つまり天智天皇時代の遣唐使である。『日本書紀』ではそれは天智八年の河内鯨の船に当たる。668年に唐は高麗(高句麗)を平定している。その祝賀の使者である。『旧唐書』よりも新しい『新唐書』がなぜ天武よりも前の天智の使者のことを掘り返して書いたかは謎である。「後に」とあるので、日本国号を名乗るのは、天智よりもあとのことだとわかる。また天智時代にはまだ夏音=漢語が倭国に十分に伝わっていないこともわかる。このあたりは後述する。
 
「日の出る処に近い」とあるが、これは『隋書』で倭国から送られたいわゆる聖徳太子らしき王からの国書にある一文そのものである。つまり天智は隋書と太子をあきらかに意識した伝言を使者に託したのであるから、「太子をのちに聖人にしていったのが天智だった」という筆者の考えを裏付けてくれている。後述するが、天智の王朝が大和の王朝でなかった可能性は十分考えうる資料もほかにある。

ほかにもあるがすべて後年のものなので、いずれ別記する。


参考資料 小林敏男『日本国号の歴史』吉川弘文館 2010







もともとは大和は日本ではなく、「日下」であったのだろう。『先代旧事本紀』に「ひのもと」とあり、古河内湖の奥に草加があった。河内物部氏にとってのここが日本だったのであろう。しかし大和地方では倭も日本も読み方は「やまと」であり(ときに「しき」「あきつしま」「あしわらのなかつくに」など)「わ」でも「うえい」でも「くさか」でも「ひのもと」でもない。倭直がいたのが倭地域であり、その小地域であった磯城地方の国家が、物部氏の所領である日本を合わせた、あるいは西日本全体を合わせたということではないか?中国の歴史家の間では、天武が旧天智の倭国を合わせて日本と名乗ったという考え方が一般的である。

実は則天武后の時代には、中国は一時、唐を改めて周(武周とも)になっていた。天智時代の遣唐使はそのことを知らなかったらしい。『続日本紀』に「なぜ国名を変えたのか?」と粟田真人が現地で聞く場面がある。中国側も「どこの使者か?」「日本国だ」「?」と日本を認識していないシーンである。そして『新唐書』は「日本とやらの使者はきわめて実がなく、誇大妄想を言い、どうも昔の倭国とは違う連中だな?」と感想を述べている。「おいおい、われわれの知るところでは、東の海中には大倭国という君子国があって礼儀に厚く、人民は豊かで別天地だと聞いたが、いま、おまえたちの言葉を聴いていると、偉そうにしているな。とても信用できんぞ」と記録されている。


「日本」表記は国内では『日本書紀』が最古だが、これは天武の日本国号成立以後の書き換えであろうと小林敏男は言う。『古事記』では倭であるから、これらをすべて『日本書紀』では日本に書き換えたと考えてよかろう。つまりその前後に国号がばたばたっと決まった証拠だと言える。

また『旧唐書』の二種の表現をもって、倭国とは古くからつきあいがあった筑紫の王家、日本とは大和王朝とする九州王朝説も存在する。阿倍仲麻呂の漢詩に「九州 いずれの処か遠き」とあるのをひっぱってくるものもあるが、九州とは漢語の広大な世界を言うのであり、また当時の筑紫はまだ九州とは呼ばれてはいない。筑紫が九州になるのは筑・肥・豊が前後に分かれる、日向から薩摩・大隅が分かれる奈良時代以後のことになるのでこれは完全なピントはずれである。

だが、『海外国記』逸文が『善隣国宝記』(1470)には天智三年、国使郭務宗への天智の返書には「日本筑紫鎮西大将群状の署名があったとされている。天智は自ら新羅・唐軍に立ち向かうために、筑紫に出張り、これを大宰府で書いたとされているから、自分を鎮西大将軍としたとしてもおかしくはないだろう。しかし、鈴木靖民らは、天智時代の自称としてはあまりにも前時代的(倭五王時代的尊称)として、これの信憑性を疑う。筑紫に鎮西府ができるのは藤原広嗣の乱(743)のときであり、筑紫を鎮西と呼び始めるのもおそらくそのあたりであろう。天智より100年もあとのことである。これを以て、天智=九州王朝とはなかなか決められまい。九州に王朝があったとすれば少なくとも飛鳥の前、磐井の乱までがいいところであろう。継体大王がこれを滅ぼしている。天智を日本鎮西筑紫大将軍と書いたのは、おそらく当時の筑紫大宰であった伊吉博徳(いきのはかとこ)であろう(小林)。

白村江大敗直後である。天智もすぐには大和へは戻れなかったはずである(天智ゆかりの地名筑紫にかなりアリ。福岡県赤村に天智ゆかりの山と天忍穂耳祭る社あり。実は天智は大和に帰れなかった可能性もある?大敗した大王だからねえ。すると記紀の近江朝記事は九州となる??)。

まだ唐が攻めてくるかもしれない。そこで九州豪族の気持ちをひとつにする行動に出る必要があったはずだ。聖徳太子を持ち出してくるのは最初は筑紫でだったのではなかろうか?つまり九州には厩戸の弟の久米皇子がここで死んだという前例がある。久米のシンパは筑紫にも多かっただろう。その久米という乳部ゆかりの名前も九州の大伴と久米にゆかりがある。

さて、ちなみに『続日本紀』第一回渤海使の国書(神亀五年正月 727)に「大王天朝命を受けて、日本、基を開き」とある。渤海と日本の国交は668年の高句麗滅亡以来、四十年の空白期間があった。それで渤海側では天皇という称号に変わったことを知らず、以前のように「大王」と使っているのであろう。つまり天皇号もまた天武以後であることが明白になり、それ以前は大王「おおきみ」であることがわかる。これは隋書の記録の「おほきみ」「あめの」などが正しいことも証明することになろう。第二回以降は天皇と変わっているので間違いない。(神野志隆光)

玄宗皇帝はその歌の中で「日下」を使って日本を表現している。天平勝宝四年遣唐使藤原清河への送り歌である。『東大寺要録』に記載がある。「日下非殊俗 天中嘉会朝・・・」。

「日本は風俗の異なる外国ではなく、中国に来朝する同胞の国である」

『隋書』では「日出る処の天子より云々、」とあると『日本書紀』は書くが、その『日本書紀』はまた東天皇より西天皇云々だったとも書き、肝心の国書は小野妹子が紛失したとしている。さて、これはあるいは、のちの時代の造作かも知れぬ。そう、天智が聖徳太子が送ったことにした可能性である。隋書も隋が滅んだあとから書かれたわけだから、それが天智自身の国書だった可能性もあろう。

東大寺僧・ちょう燃が書いた『王年代紀』の記事が『隋書』に引用されたらしき中に、「其の(日本の)王、姓は阿毎、自ら言ふ、初代王は天御中主と号し、彦なぎさ(ウガヤフキアエズ)に至るまで、云々」とある。これは隋書をあきらかに改変してしまった後世の伝承で、『日本書紀』の影響を受けている記事である。記録があとへゆくほどに情報過多で錯綜していくのが見て取れる。

いずれにせよ、東アジア諸国に日本国号、天皇号が認知されはじめるのは粟田真人の遣唐以後のことであることは間違いない。唐以前にはまず新羅しか日本国号は知らされてはいなかったようである。そして日本国名を許可した最初の中国皇帝は則天武后である。すなわちこの遣唐使は藤原氏と持統以来の女帝にとって千載一遇のチャンスだったのであり、絶対に入唐して、日本国号を則天武后に認めさせる必要があった国策だったと言える。それはブコウ自身が中国初の女帝だったからである。国号と天皇号さえ中国に認めさせれば、日本史そのものの政治的書き換えも自在に可能になるからである。だからこそ、この真人の遣唐使たちはえりすぐりの秀才と美男を用意したのである。女帝の心を奪うがために。そして筑紫にあった天智の倭国は、天武によってこのとき倒され(壬申の乱)、日本=大和が倭国・筑紫を併せた・・・可能性が高い。だからこそ記紀始祖王は九州由来の神武にしておかねばならなかったのであろう。倒された筑紫王朝の怨霊の祟りがないように。

たとえそのときまでに九州に王朝が残存していたとしても、大和はすでに武則天の心をがっちりとつかみとってしまっている。もう日本国は大和でしかない。武后のほうでも、日本が同じ女帝の国であることは諸国に対しての政治面で、相当な勇気をくれるものであったはずである。天武以降、中国への使者はかなり往来している。これはたがいに相乗効果が期待できるわけである。実際、新羅でさえも女帝が登場する。こうなればもう女帝=神である。こうして国家神としてのアマテラスの登場は整った。神社を使った日本独特の国家統一体制のできあがりであった。


太子や蘇我王権や推古、天智王権が九州にあったとする説は魅力的だが、その追求はいずれまた会員制で。



次回、遺伝子から今の博多人を切る。

神社の陰謀


ぼくのかつての知己に、「はめられた」奴がいる。
ある有名神社の神職だった。
それがある日、突然、逮捕されたのは、もう今から数年前である。




寝覚ノ床の位置から見る安曇部と日下部・倭とは「私」「ひのもとのくさか」


昨日の日本国号記事に関連して書き忘れたのだが、「倭」という言葉は1世紀中盤に中国が日本に名づけた国名である。記録では九州北部の奴國からの使者の来訪によって、「おまえたちは何者か?」の問いに答えて「わ」つまり「わたし」であると答えた結果、多くの蛮族がそう名づけられたように「わ」とされたのであろうと考えている。

こうした例は過去、非常に多いと思う。
国内でも、アイヌの「あ」は吾れという意味である。
西欧諸国が名づけた国々でも、「わたし」が通称国名にされた例は多い。





さて、その日本国名は元、日下であっただろうと書いた。
日下とはそもそも草加である。

「ひのもとのくさか」は万葉枕詞であるから、と考察したのは民俗学の谷川健一らであるが、それだけではあるまい。草加は河内の白肩の津=枚方市渚町あたりに饒速日命が到着して天野川を遡った場所から、寝屋川を下ってずっと南下した東大阪市日下であるが、生駒山の西の麓で、ここから生駒越えで大和に入るための玄関でもあった。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 5


そこが河内物部氏の所領であったことは、今もここに天照国照彦天火明櫛玉饒速日を祭る石切劔矢神社(いしきりつるぎやじんじゃ)があるから間違いない。すると草加をなぜ彼等が日下と改変したかは問題になる。単に枕詞だけの理解では物足りないものがあるのだ。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 2

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 3

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 4
劔矢神社 上から祭殿、ニギハヤヒ像、劔と矢の屋根飾り



日下で「ひのもと」と読ませるのは、物部氏に原太陽神信仰があったためかと思える。太陽神としても天照国照彦天火明櫛玉饒速日である。この神名にある「あまてるくにてる」とは太陽神でもあり国津神でもあったニギハヤヒが言い表されている。

しかし物部氏が実際に、確かに太陽信仰を持っていたかどうかはなかなか証明が難しくなる。物部氏の神霊は、石上神社では剣の御霊である「ふつのみたま」であり、そこに太陽神を感じさせる要素は見えない。


さて、場所はまったく変わって長野県の松本に安曇氏が祭る穂高神社がある。名古屋、岐阜方面から木曽川を遡ると、なぜか浦島太郎を祭る寝覚ノ床という景勝地がある。この木曽ラインは、天武・持統が諏訪遷都を考えたときに、あらかた完成していたであろう木曽街道になる。そのど真ん中になぜ日下部が日本海の丹後で祭った「水之江の浦 島子」が祭られたかは、日本国号問題と安曇との意外な結論を導き出す。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 6
寝覚ノ床

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 7
臨川寺浦島廟

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 8

つまり天武=大海人は安曇族によって育てられた大和の王族であった。その安曇は壱岐対馬を基点に、筑紫の玄界灘沿岸に蟠踞し、日本海で出雲を経て、拡散した海人族である。記紀神話ではやがて天孫族によって出雲国譲りされるときに反抗して諏訪へ逃げ込んだタケミナカタがこれに相当する氏族だろう。

諏訪から天竜川・木曽川によって南下すれば寝覚ノ床を経て岐阜の「安八間の海」=今の名古屋湾・伊勢湾へ出る。ここは海部氏・尾張氏のメッカである。尾張氏は物部氏と大和・紀州では同族である。

また大和で、倭直氏の祖人に、浦島にそっくりな姿の海人ナビゲーターである椎根津彦がいる。神武のナビゲーターである。同様に伊勢には猿田彦というこれまた海人らしき男が存在する。これも天孫のナビゲーターである。

物部氏、安曇部、尾張氏、海部氏、日下部氏、倭直氏・・・いずれも早期大和帰順者であり、神武と深い関わり方をする氏族である。いわば邪馬台国構成員?


彼等は縄文系海人族先住民である。


大和王家を常に助ける役目を担っている。
神武をナビゲーションした椎根津彦は倭宿禰(やまとのすくね)で大和神社祭祀者氏族。その姿は浦島太郎にそっくり。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 1
京都府宮津市 元伊勢籠神社の別名宇豆比古・珍彦 「うづ」は海流であろう。




神武を熊野で助けた尾張氏の祖人高倉下。
彼の持っていた天ムラクモ剣。
それは物部氏の剣である。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 9

ヤマトタケルに草薙剣をさずけた宮簾姫は尾張氏の娘。
その「みやず」が地名になっているのが浦島神社のある宮津市伊根町。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 10

そこにあるのが天橋立と海部氏が祭る籠(この)神社。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 11
籠神社の亀池

ここは元伊勢とされ、なぜか倭宿禰像があり、倭直=日下部あるいは海部?国宝海部氏系図を保管している。


海部氏と尾張氏は同族。
宮津の浦島神社を祭るのは日下部氏。
その「くさかべ」を名にした親王草壁は天武の長男で、夭折。文武に天皇が回る。



さて、
「くさかべ」である。

日下部はつまり安曇と関わる氏族だ。

太陽信仰は壱岐にいけば安曇のものであったことがすぐわかるはず。

その太陽神が天武・持統によって伊勢に祭られアマテラスという女神になっている。
その土地を譲ったのは猿田彦の後裔海人太田命である。


さらに、天武以後、安曇の太陽信仰は、同じ玄界灘の宗像氏によって沖ノ島で祭られはじめる。時代は天武に嫁を差し出した宗像君徳善の時代からである!!


このとき同時に、宗像三女神はなぜか八幡信仰のメッカである宇佐神宮の本山・許元山に降臨し、宇佐で日女神と合体している。

椎根津彦は『古事記』では豊後水道で釣りをしていたとあり、『日本書紀』ではそれは垂水の瀬戸だったとされる。豊後水道には椎根津彦神社があり、兵庫には五色塚古墳がある。

そして日下部の大元は熊本県南部の草部吉見神社であるとも言う。
神武・・・南九州・・・豊後水道・・・宇佐・・・岡・・・瀬戸内・・・兵庫ー物部氏兵器庫・・・五色塚・・・草加江・・・熊野・・・伊勢・・・天武・伊勢・・・

さあ、ここまでくれば『日本書紀』のやりたいことがほとんど見えてくるのでは?


聖徳太子ゆかりの孔舎衙。
これが草加江である。
ところがこの地名、福岡県にもある???
なんと武内宿禰がからんでくる。



続きは、いずれ会員制で。


^^



旧石器時代から「単一民族」などではなかった日本人


日本人のルーツを探る手法は、現在ではすでに形質人類学では真実には到達できないことが明白で、やはり遺伝子DNA分析だけが真実に到達できる最善の方法だということがはっきりしている。それは稲作の渡来も当然そうである。

外見や骨格の類似からでは類推の論理しか生み出せない。しかし遺伝子まで遡れば、数学的な精度で、その民族の来た道や、その後の拡散と混血によるひとつの民族の複雑なシャッフルによったであろう形成過程までつぶさに知ることができるようになってきた。

●進化論も変わっている
なんとなれば、われわれが学校で習ったダーウィンの自然淘汰説もすでに否定されはじめ、今はニュー・ダーウィン説が主流である。これは突然変異のランダムな継承によって生物が進化するという、ちょっと前までは考えも及ばなかった論理を導き出している。また、人類は、サルや犬のような、生まれてすぐの幼児の形質から、口吻部や額庇が大きく変化する成長(アロメトリー)ではなく、ウーパールーパーのように、幼少型があまり変化せずに成長する「ネオテニー型」であることもわかってきた。
人類がほかの哺乳類のように、成長すると全身多毛にはならない理由も、もしやここに見出せるのではないかと言われる(尾本惠市 1998)。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 7
成長にともない部分が大きく変化する類人猿。人類はほとんど変化せず、子どものまま大きくなる。幼少時のチンパンジーは、ほとんど人間の子どもとそっくりで、眉の上のひさしもほとんどなく、口吻もつきだしていない。頭脳は人間の三歳児を上回るが、その後の脳の成長はほとんど横一線である。人類は、脳の発達と毛髪だけが顕著に成長する。





●日本人は絶対に単一民族ではない


その答えは今後、絶対に変わる事はない。
なぜならその理由が、外見や言語や文化や風習ではなく、日本人の基層であるDNAに如実に示されているからである。原子・分子・細胞では日本や天皇が神州とか神でないことは一目瞭然。遺伝子では、あきらかにアフリカのミトコンドリア・イヴの子孫であり、すべての人類の仲間であり、しかも世界一の混血児である。すべての外国人と同じ、サルの子孫であり、最古の脊椎動物カクレウオの子孫である。そこに、どんあイデオロギーも入り込む余地はない。これは唯一の解答である。日本人も、日本国も、地球上の人類の一種に過ぎない。あらゆる生物同様、まったく一切の民族の優劣も特殊性もそこには存在しない。ただのヒトでしかない。ゴリラやチンパンジーやボノボと同じ霊長類ヒト科ヒトであり、アフリカ人ともアメリカ・欧州人とも、中国人とも、朝鮮・韓国人とも、あらゆる民族とも同じ人類である。



わかりやすい日本人成立の暫定モデルの一例
Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 1

 「日本人の起源は縄文人がそのまま各地の環境に適応した「変形説」、縄文人を弥生人が追い出して定着した「人種置換説」も知られているが、総研大の斎藤成也教授(遺伝学)は「研究結果は混血説のシナリオに一致した」と説明している。」
縄文・弥生人の「混血」 遺伝子解析で裏付け 
総合研究大学院大など発表
2012/11/1 0:38 http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG31040_R31C12A0CR8000/

● 北部九州弥生人ですでに三種類の渡来がある

北部九州の弥生人-渡来人とその末裔
「ほぼ1万年余りも続いた縄文時代、日本列島には背が低く、いかつい顔立ちの縄文人たちがほぼ全域に渡って住み着いていました。発掘された彼らの遺骨の数も、既に数千体に上っています。ところが、今から約2000年余り前の弥生時代になると、そうした状況が一変します。それまでの日本列島では見られなかった、長身で、しかもひどく面長な、のっぺりとしたかおつきの人骨が、累々と出土するようになるのです。他でもない、この北部九州においてです。

  なぜ弥生時代になると、こんな見慣れぬ人々が、しかも北部九州に住み着くようになったのか。その謎の裏に、じつは明治の昔から延々と論議が続けられてきた日本人の起源に関する解答の一つが隠されていました。国内で見る限り  は特異な彼らが、朝鮮半島や中国大陸の古代人にそっくりだということが近年の研究でわかってきました。  つまり、この弥生人達はどうやら大陸を起源とする渡来人だったらしいのです。

  筑紫野市一帯から出土する弥生人骨はこうした「渡来系弥生人」の中でも、とくにその特徴が際だっています。先年、発掘の終わった隈・西小田遺跡からは400体を超す人骨が出土しましたが、彼らは近隣の弥生人に比べ、さらに面長で背も高かったことが分かりました。つまり、骨の特徴から判断して、渡来系の遺伝子が最も濃厚に入り込んでいる可能性があるということです。実際に、骨からその遺伝子、つまりDNAを抽出して分析する研究も既に佐賀医科大学で始まっています。 

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 2
北部九州弥生渡来人で、すでに三種類の渡来がある。それぞれ江南、半島、北方の子孫たち。大友遺跡の人骨は北西部九州人の呉の太伯子孫伝承を確かに証明する。半島由来の人骨は二種。あとはそれぞれの先住民との混血のパーセンテージによってほとんどの西日本人のバリエーションが生まれる。これが「倭人」である。


 
  一方、弥生時代のこの筑紫野一帯は、かなり騒然とした社会状況だったようです。隈・西小田遺跡や永岡遺跡からは、首を切られた遺骨や首だけの埋葬列、さらには頭を割られたり全身に傷を受けた人骨が集中して出土しています。しかも興味深いことには、その一方で目ざましい人口増加が起きていたことも、骨や甕棺の分析からわかってきました。

  北部九州に先進文化の花を咲かせた渡来人たちは、時には紛争に明け暮れながらも急速にその人口を増やし、中国地方から近畿、あるいはさらに東へと進出して行きました。我々現代日本人の体には、その渡来人達の遺伝子が確実に入り込んでいる、というのが弥生人研究からもたらされた現在の結論です。」(中橋孝博)
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo51.htm
 
●日本人の亜型遺伝子のアジア各地からの来訪と混血

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 3
 
「赤丸で囲んだ亜型が、日本列島に居住する三民族、すなわちアイヌ民族・本土日本人・琉球民族が保持しているmtDNAの亜型の種類である。
  日本人は、無意識のうちに自らを単一民族だと考えがちであるが、実はDNAという観点から見ると、非常に多様な人々の集りであることが解る。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 8


  三民族別に、それぞれのmtDNA亜型の割合(頻度)をグラフ化すると上のとおりである。
 
1.このグラフを見ると、日本の3民族には全て、東アジア最大のmtDNA亜型、D亜型(Gを含む場合もある・・・mtDNAのDループ解析だけでは、DとGの区別がつかないからである。)の人々が4割前後の割合(頻度)で存在し、なかでも北方系のD4亜型が圧倒的多数を占める。」
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_08_1.mitochondria_karamita_sosennhtml.html



Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 4


Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 6

「日本人の縄文・弥生の割合に最も近いのはやはり半島南部人である。細長い顔つきで短頭で胴長短足で、毛が薄いといった人々が、真逆の人びとと混血している。西日本の初期はこの先住縄文人とはおそらく半島伽耶にも存在する海人系人種だったと考えてよいだろう。つまり東日本・北日本のような北方から南下した縄文人とは別の人びとであろうし、縄文人にすら複数の人種がいたことは間違いない。
その東・北からの縄文人と、九州や日本海沿岸からやってくる弥生人が、出会うのは近畿地方なのである。だから従来のように、日本人を東西のざっくりした捉え方で考えるのは古いのだといわざるを得ない。弥生と縄文の混血する人種がすでに三ヶ所で異なるのである。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56544612.html



●旧石器時代人がすでに多種来訪していた

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 5



氷河期、すでに列島南北からだけでなく、半島南下でも来訪した人々がいる。このときすでに原日本人の基層には、少なくとも三種以上の血脈が混在していた。


そこに縄文海進による海上渡航によって、さらに三種以上の来訪者があり、さらに弥生時代までには、最古の渡来地である北部九州の有明海沿岸・玄界灘沿岸だけでも複数の民族の渡来がある。列島全体ではさらに複数民族が続々と混入したのである。

考えてみれば、東北・北海道でさえ、バイカル湖血脈の人々には多種存在し、アイヌという古い形質を持つ人々も混在していた。いったい、現代までに、いかほどの民族がこの列島で定住し、原日本人である旧石器時代人や古北方形質、新北方形質の縄文人たちと混血していったことか知れない。


遺伝子の上でも現代日本人には、少なくとも旧石器、新石器、青銅器、鉄器時代の混血のバランスによるバラエティ溢れる多様性が存在する。


多種多様な民族が混ざったということは、歴史的、政治的に考えれば、それだけの何度もの軋轢、差別、和合がこの列島の各地に、大小の差はあろうが起こったことは間違いないのである。当然、彼らの別々に持ち込んできた風習や言葉や文化や信仰などは、淘汰され、ひとつにまとまっていったであろう。その結果、たとえば朝廷の唯一絶対信仰による民衆の統一も起こったわけである。そして、それが最も顕著に現れるのが戦争前夜であることは忘れてはなるまい。明治~昭和大戦までの短い期間には、それが過去最大の振れ幅で引き起こされた。それがアマテラスを中心とした皇国史観であろう。このとき以前には、あれほどのひどい変換はなかったのである。わずかに、朝廷内部における白村江敗北~壬申の乱までの信仰統一があり、あとは天下布武を掲げた織田信長が天皇をないがしろにして神、王になろうとした戦国時代くらいのものだっただろう。しかしどれもみな、為政者内部での信仰の統一でしかなく、明治時代のような、万世一系天皇による単一民族の皇国史観と、アマテラス中心の右翼思想によった侵略のための民衆の末端まで及ぶ統一を目指した時間はほかになかったのだ。あまつさえ、そのためには日本本土ばかりか、周辺諸島、半島、中国にまで、それを押し付けた時代は、先の大戦時のわずか数年間だけだったのである。

朝鮮民族、琉球民族、小笠原諸島人、あるいは南洋のパラオ人たちにまで、彼ら軍部は日本人であることを強制したのだった。


もし今後、政治家の言動に日本人単一民族、日本は神州、神は伊勢だけ、わが国は皇紀2000年・・・などの大戦イデオロギーの断片が見えたときは、ようやく手にもどった専守防衛のための自衛権という宝物を、曲解し、乱用し、民衆を悲劇に導く時代の再来を疑うべきである。「日本は神の国である」と言った政治家がいる。いまだに文部の根幹に居座っている。ここが肝である。宝物をおもちゃにする、国家を、民衆を弄び、あたら危険を招きかねない、それは災害神スサノヲとなることだろう。

アマテラスなどはまた、瞬く間に国家統一のための道具神にされてしまうだろう。

日本人は世界に冠たる複数民族が和合してきた唯一の国である。和合の道こそは唯一の平和への近道であり、最善の選択肢である。さまざまな民族がいとつ国土に同居し、血を交わすことこそが、世界を平和にする唯一の方法ではないだろうか?


時間を元に戻そうとする政治家に注意せよ。詭弁を多用するその人々に。





沖ノ島に参拝するには


在地決め事に合法的に沖ノ島に上陸し、沖ツ宮に参拝するには、5月27日しかない。
そのためには、前もって宗像大社へ申請書を出しておかねばならない。
女性は絶対不可なので、あきらめて欲しい。



では合法的でなければどうか?
海上保安庁の監視体制がある。



一応、不可能だということである。沖ノ島にせよ小笠原にせよ、容易に人を近づけないところが世界遺産にはふさわしい。




いけばそこは汚染される。
人と言う汚染された汚物に。





























一応、









宗像が太陽信仰の祭祀を始めるのは天武以後であるが、






それ以前の祭祀がどうだったかは、








自分で考えるしかない。行って見れば?











ぼくはそれ以前はないと思ってる。



あったことを科学的に証明していただきたい。








だから行ってみれっちゃれ、所詮人がしたことだ。









ただし、何が起きても俺の知ったこっちゃない。























アナトリアのアムートゥ鉄 隕鉄 ウィドマン・ステッテン構造鉄


アナトリア Anatolia のキュルテペ Kültepe 出土の粘土板文書(紀元前2000年頃)によれば、アムートゥ)の価値は金の八倍、銀の四十倍であったと言う。

そのアムートゥの鉄を世界に拡散させたのはアッシリア人である。カネシュのカールムで購入していた。エーゲ海から世界へという製鉄技術の歴史視点は、今後はもっと歴史学にとって重要になるだろう。

ただの鉄がこれほど高価だった理由のひとつに、それが隕鉄だったからではないかという魅力的な説がある。隕石に含まれる鉄の特徴に、高いニッケル含有率がある。しかし、これまで鉄鉱石分析では、ニッケル成分まで分析したデータがないので、比較できないという困ったところがある。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 2
隕鉄



高ニッケル含有率の鉄鉱石の産地は、古代鉄器関連では、ギリシア東岸、エーゲ海諸島が最高で1%、メキシコで0.79%、南ボルネオ、セレベス、南ロシア、オーストリアにも含有率は低いが何ヶ所かが見つかっている。ナイル川上流は推定候補地になっているが、まだデータはない。

日本では、まず隕鉄そのものが少なく、資源的にまず古代ではありえない話である
(窪田蔵郎 2013)。

隕鉄ではなく、人工鉄だったと言う説もある(ポーランド・ピアツコゥスキー)。彼は多くの古代隕鉄が、クロアンサイトという鉱物を添加した加工鉄であると主張している。


ウィドマン・シュテッテン構造鉄
鉄とニッケルの冷却温度の違いで偶発的に出来上がる結晶。
研磨すると美しく乱反射し、装身具にも使える。

隕鉄は100万年に数度の割り合いでゆっくりと冷却してできたと考えられる。
主に鉄(Fe)とニッケル(Ni)の合金からなり、Niの含有量によりさらに細分されている。オクタヒドライト中の大部分のものは、隕鉄の表面を磨き、薄い酸で溶かすと、きれいな筋模様が出る。これは発見者の名をとって "ウィドマン・シュテッテン構造 Widmanstatten pattern" と呼ばれる。 特徴的な模様は結晶形の異なる鉄(ニッケル含量6%以下)とアルファ鉄(ニッケル含量13%以上)の作り出す美しい格子状の組織である。http://www.nihongo.com/aaa/jewelry/j5inseki/meteoritebunrui.htm
 
*隕鉄のニッケル成分はパーセンテージによって三つに仕分けされており、プライオールによれば6%以下はヘクサへドライド、12%以上がアタキサイト、7~12%がオクタヘドライドと呼ばれている。
※イギリスの研究者・ プライオールは、隕鉄や石鉄隕石の数は、隕石到達数の12%~14%程度であるとしている。



Image may be NSFW.
Clik here to view.
Jewelry



アムートゥの隕鉄が珍重された理由には、そこにはガーネットやざくろ石のような輝石がまざっており、それが高貴な女性たちの欲望をかきたてたからだとも言われるが、これまで隕鉄だとされてきた古代鉄器でも、昨今は、それがあとになって精緻であればあるほどに見直しがされはじめ、否定された遺物も出ている。




世界最古の製鉄工人
これは以前も書いたが、ヒッタイト人ではなくて、ハッティ人つまり聖書が言うヘテ人である。(古代製鉄分析はこのブログではもうはるか昔にやりつくしたが、少しの新発見があって訂正されはじめているので、また書くことにした。)


一説に、トルコ南部ではフルリ人と言われる。彼等は別名ウーリアン(Hurrians)という民族で、「ウル」=メソポタミアのウル第3王朝の構成人員である。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 1



「前2千年紀オリエントの歴史と文化に重要な役割を果たした民族。メソポタミアウル第3王朝の史料にすでにフルリ人の人名や地名が現れる。チグリス川左岸やザグロス山脈に居住していたと推定される。」  
ブリタニカ国際百科事典                                  


「あらゆる種類の皮革、宝石職人からの金・銀、鍛冶屋からの銅の受け取りがある。ある部屋では溶鉱炉をひとつ発見し」というウル第三王朝時代の記録が存在する。

しかし、ここでは実は鉄鉱石はあまり採れないうえに、地形も低湿地で鉄の還元作用には不向きと考えられ、この一説は『ウル』を書いたウーリーの勝手な製鉄存在の思い込みであろうと考えられる、ウーリーが書いた「バグダッドの南方のジャムダト・ナスルという町で出たという赤鉄鉱は、ネックレスや印章のために使われたものだと考えられている。「ウル」そのものが100年も前に書かれた書物なので、当時の人々に、果たして鉄の詳細成分分析ができたかどうかも怪しい。まして鍛冶用の炉と精錬用の炉の区別がついたとも考えにくいものがある。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 3
スラグ(鉄滓 てっさい)は一見、ただの石ころである。


金属関連の遺物は、往古の研究家や探検家にとって、ほとんどさびついたガラクタだった時代が長く、そのほとんどは遺物とすら認識されなかったものすらある。それは日本の考古学者でもそうで、古い時代にほったらかされ、無視された鉄の塊が、いまだに山奥にごろごろしている遺跡すらあるのだ。それらはあきらかにスラグであろう。宮城、福島、岩手などの阿武隈山脈の中に、縄文~平安時代ころの製鉄遺跡があるが、ほとんどがそういう扱いでほったらかしになっており、蝦夷製鉄の研究はいまだに立ち遅れているという例も多い。


次回、蝦夷の製鉄はどこまで遡れるか。



ネオ・ダーウィニズムと中立進化説と日本人

遺伝学の成果により、ネオダーウィニズムはダーウィニズムが進化の原動力とした自然選択に加えて倍数化、雑種形成なども進化の原動力として視野に入れるようになった。さらに、ダーウィニズムの選択説とは異質な説として議論を呼んだ中立進化説なども取り込んだ総合説が現代進化論の主流であり、これも含めてネオダーウィニズムと称する。近年では生態学発生学(進化発生学)の知見なども取り入れており、自然選択と突然変異を中心とはするがそれだけで進化を説明しようとするのではなく、より大きな枠組みとなっている。」


簡単に言えば、それまでの自然選択説と突然変異説の組み合わせ論理で、現代進化論の中心がこれである。

ダーウィンの自然選択説は、これまでキリスト教社会では絶対的なものであり続けたが、古い因習にとらわれず、研究過程で発見されたDNAゲノムの異常な増加、発生を偶発の例外とはせずに、それが確かに生物の進化にかなりの影響力を持つと考えた日本の木村資生の「中立説」である。(『分子進化の中立説』1983)

「進化総合説。
突然変異は有害であり淘汰される運命にあるが、たまたま環境によってヘテロ接合のものが有利になる場合には。変異遺伝子が集団の中に蓄積され、多型になる」

例えばヘモグロビン遺伝子は、アフリカのようなマラリア多発地帯では鎌状赤血球という異常な型であるケースが多い。それは父方遺伝子と母方遺伝子が同じホモ接合よりも、違うヘテロ接合の場合のほうがマラリアに抵抗力を持つからである。正常な遺伝子を二個持っている人よりも、違う遺伝子を持つ変異な人のほうがマラリアにかかりにくく、当然長生きすることになってしまう。その変異が、長年の間に一族に蓄積され、子孫の大半がマラリアに強い集団を作る。つまり突然変異のゲノムが、ちゃんと引き継がれるケースがあるわけである。これは突然変異の例外事象だとされていた。

しかし木村はヘテロ結合が有利になるのはむしろ例外で、大多数の遺伝子では突然変異がランダムに蓄積してゆき進化が起こる、つまり自然淘汰よりもむしろ遺伝的浮動のほうが、普遍的現象で、進化の基本は自然選択などではなく、偶然のほうが主流なのだと、それまでのネオ・ダーウィニズムに真っ向から反論したのである。


当然、彼の意見もこの著書も、当初欧米では無視されたが、やがて欧米研究者の中でも、さまざまの突然変異の発見があり、やがて認知され、メイナード・スミスのような、最後まで反対したかつての権威学者ですら、結局は木村に謝ったという。それは木村がダーウィンを記念した生物学会のノーベル賞であるダーウィン賞で、アジア人最初の金メダルをもらったためであった。ダーウィンを記念した賞を、日本人が、しかもダーウィンの進化論を否定した理論で受賞したというのがなんとも皮肉であるが、日本のみならずアジアの生物学界にとってはまさに記念すべき金字塔だった。

木村の後輩には、あの宝来聡、大野乾(すすむ、アメリカ在住)、尾本恵一、三沢章吾、篠田謙一などなど、著名な遺伝子学者がいる。

ダーウィンが人はサルから進化したと言った時、キリスト教世界は猛反対した。そのキリスト教の思想から、実は西欧のネオ・ダーウィニズムの学説は一歩も出てはいなかったのである。変異の存在を認めながら、例外として受け流していた。それをキリスト教には無関係な日本人だけが、それが普通の進化だと言ったのである。やがて、そういう実例が欧米でも次々に発見され始めた。


ヒトの三歳児はなぜチンパンジーに劣るのか?


その理由はヒトの幼児の大きな頭部に潜んでいる。
ヒトの子どもは頭でっかちで生まれてくる。
そして当分の間は身動きもできず、ただわあわあと泣くばかりのやっかいな存在である。しかしチンパンジーなどほかの類人猿は、生まれるとまたたくまに、母親のおなかにぶら下がり手間がかからない。

実験では、天井からぶらさがったバナナをとるのに、チンパンジーの子どもはすぐにそばにあった台を持ってきて駆け上がるが、ヒトの子どもは、飛びついたり、うろうろするばかりで、一向に手が届く方法がわからない。

この違いは、ヒトの脳は、大人と同じ大きさで生まれてくるが、まだ「配線ができていない」からだとわかっている。
九ヶ月の胎児の段階で、すでに数十億個に及ぶ脳細胞は完成した状態になる。ヒトは早産で生まれてくるとスイスのポルトマンは言う。生後一年間は子宮外胎生期間と言い、ほかの動物ならまだ胎内にいるはずなのに、早く出てきて、おっぱいを吸って育つ。つまり0歳児とは、本来なら母親のおなかにまだいる、あとの十二ヶ月分早く生まれてしまう。だからヒトの幼児は本来なら「とつきとおか」ではなく、二十二ヶ月が本当の胎内にいる時間なのだ。ほかの動物の子どもが十分に育ってから生まれてくるのに対して、ヒトの赤ん坊は、出てきてから一年間を、無能な状態で、母親を見つめながら成長する。

それは脳のネットワーク、脳細胞をつなぐ配線が、まだできていないためだと時実利彦は説明する。

この最も密度の高い配線時間が生まれてから三歳児までなのだ。


Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 1

『ヒトはいかにして生まれたか』所収 時実利彦


優れた刺激がシナプス(配線のつなぎ目)の成長を促し、優れた一個の細胞からは約8000ものシナプスがでてくると言われる。


「脳の発達というものを見てみますと、ここに示していますように横軸は0歳から20歳まで取ってありますけれども、縦軸の100がちょうど20歳の所を示してあります(図2)。ここに4つのコラムがありまして、これは脳神経細胞を染めた物です。これは生まれてすぐの赤ちゃんの脳を染めたものですけれども、これを見てお分かりのように、これがI層の神経細胞、これがII層で、これがIII層です。これがIV層で、顆粒状になっています。この木の根っこみたいな形をしている。これがV層の神経細胞です。これがVI層です。わずか2.5から3ミリくらいしかないんですけれども、このように6層構造を成して、そしてV層の神経細胞は神経線維を送っています。そして手足を動かすというようなことをやっているわけです。ですから、赤ちゃんというのはおなかの中にいても、生まれても手足は動くのは、そういう意味でV層の神経細胞がよく発達しているのです。
 
図2 脳の発達の状態

 
 しかしII層、III層の神経細胞はほとんど枝が出ていない。これは脳の中でほかの神経細胞と情報をやり取りするための神経細胞です。ですからこれは電気の配線で言うと、まだ配線ができあがっていない状態を意味しているのです。そしてこれが2歳くらいになりますと、枝があちこちに伸びて、脳の中で情報をやり取りしていきます。脳の神経細胞を染めてみますと、このように樹状突起という枝が染まります。
 そしてこの発達曲線を見てみますと、大体3歳で70パーセントくらい発達するといわれています。ですから「三つ子の魂百まで」という格言がありますように、3歳までの育児というのが非常に大切な時期であります。」

「われわれの五感と言われる、耳、目、味覚、嗅覚、皮膚などからの情報がありますが、その中でも、視覚情報が大体90パーセント使われているわけです。ですから、おぎゃあと生まれた赤ちゃんが家庭でのテレビのたれ流し状態で朝から晩まで見ますと、赤ちゃんは完全におかしくなります。要するに脳がいろいろなことに対応できる神経回路が組み上がらないんです。ですからスキンシップが大切であり、そして語りかけが大事だということです。赤ちゃんと会話することです。赤ちゃんは分からないと思っても、それを聞くことによって脳の神経回路が組み上がっていくのです」



語りかけることが赤ん坊に多大な情報を与え、脳細胞はどんどんつながりはじめるのである。


これはおそらくアルツハイマー型認知症患者にも応用可能な説ではないかと感じる。
手を握り話しかけるだけで患者は明白に笑顔を取り戻し、語り始める。





戦後70年談話評価 花まる部分と危険部分


相対評価  戦後最高クラスの歴史的談話である。高評価。溜飲下がる。負け犬でない日本という未来の姿を明言。



 「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」

評価 花まる

ここが安倍世代、「戦争を知らない子どもたち世代」であるわれわれ戦後生まれの言いたいことをズバッとついた名文句である。この談話の肝のひとつで、最大評価。

石原慎太郎の「ノーと言える日本」以来、われわれ世代が常に、戦後談話のたびに、父親世代の「歴史の敗者」としての日本を痛切に思い知らされ、「いつまで誤ればいいのだ」という苦々しい思いで、自分たちがやったわけでもない歴史のために、常に首を下にせねばならなかった、「後ろ向き」なダメ日本人・平和ボケ日本人、心の負け犬日本のマイナーなメンタリティと、いたしかたなく経済にしか光明を見出せず、必然的に即物的・経済的・物質文明しかない、低次元な哲学しか持てないままだった「心の奴隷」としての日本人、アイデンティティなき日本人という屈辱的レッテルを、何度も何度も自分の手で貼り替えねばならなかった戦後70年間のメンタル、インナーの部分での悔しさを、一気に、前向きな世界へ誘う「魔性の言葉」になっている。

そういう意味では、過去の談話の中で、今回の談話は「最大に主張が出た」「前を向いた」日本の方向性を指し示す部分だ。そしてドイツがなしえた、負の連鎖の止揚による新世界の開拓に匹敵するアウフヘーベンを若者や戦中派にうながす名言でもある。少なくとも、次の世代への「やっと出た」親父からの明るいメッセージだと言えよう。


いわゆる村山談話から続く20年間の敗者としての平身低頭の歴史を、安倍は断ち切り、次世代の明るく、前を向いた、胸をはれる日本人のアイデンティティの未来を切り開いたのである。これはいつまでも口を重くして閉ざし続けた、ある意味、親父からあなたへのメッセージでもあるだろう。歴史が変わる言葉である。教科書に載るべき歴史的名言だった



総括的には全体にうまく反日世界を肩透かしにした名文だといえる。
しかし、一方で、日露戦争を持ち出して、持論であろう、明治政府の帝国主義政策に肯定的側面も盛り込むずる賢さも見える。そこは国民の今後の監視の必要な部分で、日本人全体の今後責任でもある。

概して、反日世界が、即刻反論する内容でない「あいまいさ」が、実によい。何が言いたいのかわからないのが非常にうまく作っていて、むしろよいと感じた。相手を煙に巻いた論調で評価できる。大人の国家の談話がやっとできる国家になったという感が強い。社会主義者の村山がしゃべらされた「とにかくおわび」談話の軽々しさに比して、かなり左右意見を取り込み、中和した表現で、長くなったのはいたしかたない。長くさせたのは世論や左イデオロギーや反日社会のせいである。

3300文字に及ぶ談話だったが、あの魏志倭人伝が2800文字でもちんぷんかんぷんである理由が、よく見えてくるような政治言辞ということである。とにかく、それまでの談話が、ただ言われるままに謝罪し、侵略した、わるかったと平身低頭させられたものだったことから考えれば、今回ほど胸のつかえがとれた談話はなかったので、安倍を少し見直したものである。なにしろ、頑固に、言いたくないことは言わないで押し通した知恵に拍手したい。ここだけで心が開放された。

中国は大人物国ゆえに文句は言うまい。小人物国家の韓国は何を言っても知らぬ顔でよい。極東で最重要な相手国は中国とロシアだけである。ほかは何を言おうが、何をしようが、どこ吹く風で聞き流せばよかろう。彼ら小国家は口三味線だけである。とにかく、首相には今後、右で中国と握手しつつ、左でロシアと握手、目でアメリカにウインクするような大人物になっていただきたい。そうすればいずれ首脳会談でメルケルの横に立っていることだろう。そういう本当の大国(メンタルで)になるべし。そして文系ジャーナリズムの左右に大きく振られる思いつき意見にも、客観的理論なき浮遊世論や浮き沈みする支持率などにとらわれない、世界をグローバルに俯瞰する聖徳太子のごとき政治家にならなんことを願う。

ただし原発再稼動は絶対反対
太陽光で十分あまりある電力は得られる。
電力会社を個人や事業者の自家発電桶買いから解放し、国家・電力会社規模で太陽光設備を拡充すればいいのではないか?金持ちのためだけの自家発電などに甘い汁を吸わせ続ける必要なし。







そのほか気になった談話部分


 「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」

評価 安倍首相の「明治維新から日露戦争に至るまでの、帝国主義及びそれまでの戦争・領土拡大政策の肯定」の考え方が見えて、危険な言辞。あえて日露戦争を持ってきてところに、この人の「本音は右」がまるわかり。つまりこの談話は、安倍自身がかなり自説を抑えて、広く人々に合わせようとした努力が見える部分でもある。そうした強硬な自説の押し付けを押し込める機能があるこの国は健全である。

当時、日本は列強の植民地主義に飲み込まれようとしており、特に隣国ロシアには、スターリンの帝国主義共産に立ち向かうために・・・つまり日本が植民地にならぬために・・・日露戦争を起こすしかなかった時代であったことは否めない。ゆえにこそ、のちに第二次大戦で日本が負けたあと、勝者アメリカは極東の堤防としての日本列島の立地を重視した。日露戦争の頃には、ロシアは日本を手中にして完全な属国とするつもりだったが、アメリカは自由主義の立場から、日本の完全属国化はせず、むしろ日本を自由・平等の理想郷としようとして、永続的支配をしなかった。「飴と鞭」の飴政策、「太陽と北風」の太陽政策によって自由主義国の仲間を増やす考え方であった。どちらが敗者日本にとって嬉しいかは、言うべくもないだろう。そ結果が「安保」である。独裁と開放。一見、開放のほうが断然民主的でありがたいはずである。しかし、これは両刃の剣でもある。自由と言う飴に骨抜きにされ、平和ボケ、経済優先、物質文明、平和憲法が押し付けられもしたのである。

 「世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
 当初は、日本も足並みを揃(そろ)えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
 そして七十年前。日本は、敗戦しました」
評価 大変分かりやすい世界大戦突入までの経緯と必然のまとめになっている。

「これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。
 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。
 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別(けつべつ)し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」

「戦後、六百万人を超える引き揚げ者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。
 戦争の苦痛を嘗(な)め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません」
いかに今の日本が平和な国になったかという主張である。




さて、がまんした論調だが、そのあとでまさか今日、靖国参拝のような文科系的な、宗教行為はしないでしょうね?そんなことしたら台無しですぜ。

また、くれぐれも国民におかれては、マスコミの左右に右往左往する振り子のような論調にまどわされず、大人としての独自の見方をしていただきたい。ここまでの政府の論説のすべてに、積極的に戦争に加担するという言辞はないのである。社会主義国家だった日本が、自由主義のための右に、やや傾いた、というだけのことであり、それに対して戦中派や少年少女たちがなぜか「戦争」を持ち出してきて「反戦!」と言い出した段階である。日本は戦争「できない」国である。するはずがない国であることを前提に戦勝国から存在を認められた国である。そういう日本が、あえて自ら戦争などおっぱじめるわけがないことは自明の理ではないのか?

まして、国家戦略を全面的に国民に開放する国家など、この地球上にあるはずもない。機密は当然でてくる。


ゴジラが東京湾に突然現れたと想像してみればいい。
大怪獣が東京をどんどんぶっ壊している。
そこから「じゃあ、しょうがないから自衛隊が自由に動けるようにしましょうか?」と衆参両院で3~4四ヶ月にも渡って決議しているような国に、あなたは安心して住んでいられますか?




山鹿灯篭まつり











日本全国、盆踊りは祖霊を迎えるための祭である。
その意味で、例えば古代の古墳での祭祀から、日本人の祭祀、死生観はほとんど変わっていないことの証拠品でもある。

現代のイベントにおける作られた祭とは違い、その多くは静謐の祭、あるいは正反対に男たちが走り、汗を流す、侠気と狂気の交差する喧嘩祭が多い。


死者、先祖は音曲と血を好んだ。
祭の影で人は女を奪い合い血を流し、ときには死者さえ出しながら、
結果的には強い生命力を持つ男女同士が結ばれ、祖霊たちの要望は満たされることとなった。

流血は淘汰であり、強者選別であり、結果として子孫の誕生が成就されたのであった。


おろかな争いと言い捨てるのは、現代人のドライな見方である。


淘汰と選別は生物界の宿命とも言えよう。
ヒトもまた、その宿命は避けられない。


いくさのときには大量に、平和のときでも着々と、人々は淘汰の宿命を受けて生きている。つまり、人間というサルもまた、常に生き血を神に捧げることで、ようやくこの宇宙に生を許された存在であり続けたのだ。




今後も、どこかで人が死ぬ。
どのような形でそれが実行されるかの違いでしかない。







ひとりも命を落とさずに、全人類が幸福でいられる世界などは、永遠に訪れない。

なぜなら、それが摂理の望む進化を生み出すからにほかならない。

それを望むことこそは不遜である。




弱者は淘汰され、生命体全体は活況する。




変われない。




受け入れることだ。

























天津市大爆発で猛毒シアン化合物飛散?


「中国天津市の危険物集積地で起きた大規模爆発で、市当局は15日、現場に強い毒性を持つシアン化ナトリウム(青酸ソーダ)をはじめとする化学物質が保管されていた可能性があると発表した。
(中略)
市当局によると、集積地を運営する物流企業関係者の話や税関データから、現場には爆薬の原料にもなる硝酸カリウムを含む約20種類の物質があった可能性があるという。
  周辺には大量の危険物が残されているとみられる。科技日報(電子版)は現場の消防専門家の話として、シアン化ナトリウムが見つかり、多くは包装が破れた状態だと伝えた。メーカーは土壌を含め回収・処理するため専門家を派遣。観測データからは広範囲の漏えいは起きていないという。」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150815-00000102-jij-cn


Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 1



「シアン化カリウム、シアン化ナトリウムは、シアン化物イオンの源として有機合成で用いられる。シアン化物イオンは求核剤としての性質を持ち、適当な炭素求電子剤に置換、あるいは付加して対応するニトリルを与える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%82%E6%A0%B8%E5%89%A4

「シアン化ナトリウム(シアンかナトリウム、sodium cyanide)、あるいは青酸ナトリウム( せいさんナトリウム)は青酸ソーダ(せいさんソーダ)、青化ソーダとも呼ばれ、工業的に 最も主要なシアン化アルカリである。」
「脊椎動物がこの物質を摂取するとシアン化物イオンがヘモグロビンの鉄イオンに配位して細胞呼吸を阻害し、さらには細菌以上の動物ミトコンドリアのシトクロム酸化酵素 (COX) 複合体と結合・封鎖し、電子伝達系を阻害することでATP生産量を低下させ細胞死を引き起こすとされる。この点で植物ミトコンドリアはシアン耐性経路であるAOX酵素 (alternative oxidase) を備えるため耐性を持つ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%B3%E5%8C%96%E3%83%8A%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0






猛毒であるとともに、なんらかの爆発物を作る際の媒体でもある。
各化合物の致死量は目安は以下の通りである。
•HCN シアン化水素 : ヒト吸入推定致死量      50~100㎎                
•KCN シアン化カリウム : ヒト経口推定致死量     150~200㎎ 
•NaCN シアン化ナトリウム : ヒト経口推定致死量     200~300㎎ 

< 中毒症状 >
•経口、吸入の場合 ・・・ 直ちに以下の症状が発現する
 呼吸困難、呼吸停止、チアノーゼ、心房細同、ST・T変化、期外収縮心停止、瞳孔散大、対光反射消失、痙攣、意識喪失
  ※ 大量の場合は数秒あるいは数分以内に死亡する 
•軽症の経口、経皮、吸入の場合
  めまい、過呼吸(化学受容体を直接刺激するため)嘔吐、顔面紅潮、頭痛、血圧降下、頻脈、胃部の不快感(急性シアン化物中毒では、4時間生存すれば通常回復の見込みがある)
•(代謝)
主にシアンは肝・腎などに存在するチオ硫酸と反応して毒性の低いチオシアナイドとなり尿中に排泄される。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~gakuyaku/kcn.htm
 



天津市から飛散した場合の危険度は、最寄は日本列島九州地方、壱岐対馬、朝鮮半島となる。今回、当然飛散の可能性はあるだろうが、大気中で広範囲な希釈を受けるはずである。今のところ何もデータもないのでわからない。いずれにせよ外出は控えめにしたいところだ。





沖ノ島に日露戦争の傷跡



「「神の島」とも言われる沖ノ島ですが、日露戦争の時には、近くの海域でバルチック艦隊と日本海軍が衝突した「日本海海戦」がありました。当時の神職が記した日誌が今も残っています。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 1
       

重砲兵連隊配備、砲台跡も
 太平洋戦争中は、軍事拠点としても使われました。防衛省防衛研究所図書館に残る「下関要塞守備隊戦史資料」などによると、旧陸軍は1940(昭和15)年、沖ノ島に砲台を設置。96式2連装15センチカノン砲4門を備え、射程は20キロありました。下関要塞守備隊の重砲兵連隊が配備され、敵艦船、特に潜水艦の撃退を任務としました。海軍も艦船を探査する防備衛所を各地に置きました。
  島内には、今も戦争遺跡が残っています。二ノ岳、三ノ岳の中腹を回り、白岳(162メートル)に近づく途中のやぶの中にある弾薬庫。壁の厚さは50センチもあります。島の西部の高台にあるのは、砲台の跡です。頑丈で分厚いアーチ状のコンクリートの壁に囲まれています。」


元軍人の手紙
「千古斧(おの)の入ったことのない原始林を、陸海軍合計200名ほどの男たちの生活のために莫大(ばくだい)な量の古木が伐採された……祭神にお詫(わ)びしたい」
Yahoo!考古学ニュース










明治時代当時の歴史知識では、沖ノ島が天武・持統時代からアマテラス祭祀の聖地であることなど、まだ知る由もなかったことだろうが、もしそれを知っていたなら、よもやここに砲台や機銃など置かなかったことだろう。


もっとも、アマテラスが軍部によって国体(天皇中心の皇国史観)の守護神となったのは、昭和初期であろうから、明治の軍人や政府は、まだ頓着なかったのかも知れない。





土器は縄文時代のものも出土する。これらは現地祭祀の遺物であり、国家祭祀の献物
ではない。姫島産黒曜石遺物も出ることから、彼等は広範囲に移動する海人族であったと考えてよかろう。


岩陰遺跡では磐座(いわくら)そばからは、古墳時代の遺物が大量に出ている。



そこから宗像大社がアマテラスの三女神を祭るようになるのは、記紀に記載のある天武・持統時代からであることは、考古学資料からまず間違いないと考えられている。



Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 2






その主たる理由は、まず天武の妃を出したと『日本書紀』が書く、胸方君徳善(むなかたのきみ・とくぜん)の存在があげられる。記録では、これ以外の明確な理由は存在しない。地元の神社伝承に、中世的な人物名の創始伝説も見えるが、まったく信憑性の裏づけはない。特に九州地方は、中央イデオロギーによる在地支配という観念を嫌う傾向が強く、全国的に見ても、神社伝承には、奈良直前の国家神アマテラス信仰
の押し付けをやむなく受け入れつつも、地元だけは異説を伝承する傾向は非常に多い。その多くは当然、記紀があってこその反駁記事として登場するわけで、記紀以前からそうした伝承があったのならば、徳善以前の時代の遺物が出て当然であろう。
それらが粗末な民間製品や土器である限りは、この説は否定せざるを得なくなる。



徳善以後の遺物は、諸氏よくご存知の金銅製品や神獣鏡で、朝鮮的・大和的遺物が圧倒するようになる。このことは、宮地嶽神社古墳の遺物の豪華さと一致し、徳善の海外交易の幅広さの産物と考えてよい。




Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 3



事実、考古学的に沖ノ島祭祀第三期になると、遺物は伊勢神宮遺物との対比・照合されるような遺物ががぜん増えてくる。


この事実によって、つまりアマテラスが現実的に皇室の神となったのは、やはり記紀成立直前の持統天皇時代頃と見るのが今のところ整合だとなる。


ということは記紀の崇神時代の宮中にアマテラスを祭っていたのを外部へ移した記事が、記紀成立直前の出来事の前倒し記事であろうということになるわけである。


宗像の島々にアマテラスとスサノヲの誓約で生まれた三女神を祭った理由は、対馬海峡の朝鮮と日本の国境という漠然とした概念が影響したであろう。そもそも沖ノ島は海上交通の要所にあり、地元漁師や海人族の祭る海神を祭った場所であるから、そこをそのまま国家神と出雲神の子どもを祭ったとしてら、国家的「置き換え」「上乗せ」だったことになる。宗像氏が登場する以前、玄界灘は安曇族の蟠踞する海人文化圏のメッカであったはずで、宗像氏という氏族が地名を名乗った安曇の一派であるとも想像できる。


明治政府は、その場所に、ロシアの艦隊を監視する砲台・要塞を作ったのである。考えてみれば罰当たり、皇室軽視な行為ではあるが、当時の考古学では、まだ沖ノ島にそんな国家神祭祀の過去があることなど想定できない。宗像大社でも、当然、そうした史実は思いもかけなかったことかも知れないのである。というのは、アマテラス祭祀は持統以降、伊勢へと統合されたこともあって、その後の皇室はさほどアマテラスに対しての重視の姿勢は見られなかったのである。


ようやく明治政府が、皇国史観による国体形成のために記紀研究した結果、にわかにアマテラスに再び脚光が浴びせられることになったのだと想像できる。


出雲神スサノヲにしても、そもそもは出雲では、須佐という一地域の男神であったに過ぎず、記紀史観がはじめてかの荒ぶる神を、国つ神として登場させたわけである。ここにも出雲にもともといたであろう安曇族とのかねあいが想像できる。つまり宗像が安曇を管理するようになる時代の流れと、出雲の国譲りには、深いかかわりがあり、そもそも神話に遡る古い時代の出来事ではなかった可能性をそこに見出せるのである。



結局は、記紀神話は、記紀成立の直前に起きているのであり、それこそが天武による国家統一によって大和朝廷が成立する時代がここであった、ということになるのである。それが飛鳥が終焉する直前の7世紀中盤~8世紀初頭にあった観念的な国譲りであることは、日本海側の戦争遺跡の少なさから、小競り合い程度で決着したことも想像可能である。弥生時代の戦闘の痕跡は出雲よりも、むしろ山口や筑紫にこそ多く、それらが決して記紀国譲りとは関係のある遺跡ではないことは明白である。弥生の戦争は弥生時代に数度起きている「倭国大乱」の痕跡である。このときに、まだ大和は小国家でしかなく、魏志邪馬台国を大和だと仮定しても、せいぜい楼閣・宮城しかない観念的祭祀都市でしかなかったことだろう。


大和が真実、出雲が必要になった時代は継体天皇(6世紀)を遡らず、もともと福井海人族を母方に持つ継体に、同族であったはずの安曇や物部氏との実力行使による戦闘が必要だったとは考えにくい。それは天武も同じことであろう。国譲りは話し合いで解決した可能性が高い。




Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 4





沖ノ島祭祀遺跡 「沖ノ島は玄界灘のまっただ中に浮かぶ周囲4キロ・高さ243mの孤島で、古代より航路の道標とされてきた神体島である。 対岸の内地から海上約60kmにあり、韓国の釜山まで 145kmである。この島に人類が足を踏み入れたのは相当古く、縄文時代前期から末期・晩期に至る土器が出土しているし、弥生時代・古墳時代を経て歴史時代に至るまでの遺跡が存在している。現在までに約23ケ所の古代祭祀遺跡が発見されている。
斎(祭)場は、岩上→岩陰→半岩陰・半露天→露天と4段階の変遷をたどり、*4世紀から10世紀までの約 600年の長い年月の間、大和朝廷が鏡・金指輪・龍頭・唐三彩・馬具・奈良三彩など最高級の豪華な品々を奉納し、対外交渉にかかわる重要な国家祭祀を執り行ったと見られる。これらの遺跡からの発掘品は現在全て宗像大社神宝館に保管されているが、その総数は11万点とも12万点とも言われ、常時約1万点が展示されている。驚くべき事に、この12万点にも及ぶ出土品の殆どが国宝・重要文化財に指定されている。又、奉献品のなかには遠く中近東のペルシャあたりから運ばれたと見られる品々も多いことから、この遺跡は「海の正倉院」と呼ばれている。」
http://inoues.net/ruins/okinosima.html

*ここには「4~10世紀に大和朝廷が」とあるが、天武・持統以降よりも以前の遺物が、アマテラス祭祀のために献納したとは考えられないし、古墳時代前期~中期当時、大和朝廷が成立していたはずもない。































カルト歴史学から脱却せよ 大和至上主義史観と九州王朝存続史観のダメさ


かねがね言っていることではあるが、筆者の古代史観は、大和にも九州にも偏らない、あるいは百済にも高句麗にも偏らない、あるいはまた中国にも朝鮮にも偏らない、世界の流れから俯瞰するものでありたいと願っている。

近畿の研究者は大和に偏り、九州の研究者は九州に偏るのが、俯瞰する自分から見れば、まともな日本の古代史を学ぼうとする人々のど真ん中に居座って、久しく邪魔をしてきた。

九州王朝論などというものを開陳する人々の多くは、7世紀まで九州には王朝があった・・・「に違いない」という論調ではなく「に決まってるでしょうが」と必ず主張する。おまえ、見てきたのか?である。一方、近畿の人々は、「すべては大和朝廷が3~5世紀にはじまって記紀はできあがった」「だからすべては大和中心でよい」と背を延ばす。


どちらも馬鹿である。


九州の4~5世紀に隆盛する装飾古墳に描かれる絵画は、言うならば、2世紀まで手にできていた豪華な舶来品の代用品を絵にしたデザインになっていて、すでに平原王墓の大鏡や見事な鉄剣などの現物は一切そこには見えなくなっていく。に、対して同時代に吉備系国造の墓からは、逆に装飾は省かれ、現物の見事な剣が置かれて、吉備系であることを裏付ける高句麗・北魏などの影響を垣間見せる石室・古墳様式が見え始めるのであるから、5世紀には少なくとも、九州は吉備王家末裔が九州を治める知事としてやってきているのであり、それが記紀で言うならばちょうど仁徳~雄略期、つまり中国の史書で言えば倭五王の時間帯(謎の四世紀以降)に起こり始め、政権は次第に近畿地方へ移っていったことは疑う余地がないのである。三世紀の考古遺物にすでにそれは徐々に起こり始めているにも関わらず、九州王朝論者たちは、考古学は信用できないをスローガンに、田舎もの丸出しで、わずかばかりの目を見張る遺物を取り上げては、九州には王家があった、卑弥呼は九州・・・といい続ける。まことに敗者の着想そのものの曝け出しである。


九州に王朝が、その後も存続したという可能性は今のところ、遺物にはまったくない。あるとすれば狭い地域・・・筑紫の北西岸部だけであり、そこだけは筑紫国造家なるものがあったとはいえるだろうが、その「筑紫国造家」という言葉すら、実は『日本書紀』磐井の乱の導入部分には出てこない言葉であり、実際は彼等は「筑紫君」だったに過ぎなかった。

『日本書紀』磐井の乱で、非常に面白いのは、勝った側が書いているはずの『日本書紀』のほうが、筑紫に気を使った表現が非常に多いところである。これはつまり日本人だけの「祟り」忌避の思想で描かれた部分になるだろう。子孫は殺されず、磐井の墓も既成の大きな墓をそのまま彼の墓だと書いていて、国造家もそこで変わったとはされていないのである。しかし実際には、筑紫には大和から?(いや出雲・吉備からであろう。高句麗文化の主流を担ったのが4・5世紀の近畿吉備王家である。)物部氏がやってきており、当然、国造の切り替えが起きたはずなのにそういうことには一切触れていないのである。それはつまり、河内王朝の主体が、飛鳥以来の近畿大和王家ではなく、それに先立つ吉備・葛城という吉備・出雲連合体だったからにほかなるまい。その切り替わりは継体によって起きる。要するに、大和地方の新王権は継体以後ようやく開始されたととらえるのが正しいのである。


なにしろ、天武以前なら、なんでもかんで九州の記を盗んだのだ、なんていう思想こそはカルト、オーム真理教、宗教ではないか?



 一方、大和の史観とは、京都大学の文系史学を起源とし、当然、古い因習と徒弟制度の「白い巨塔」のピラミッドによる、かびのはえた旧定説の申し送りと、100年たっても変革できない、戦前イデオロギーの俘囚になった学会が、すべてのラジカルなアイデアに釘を指す妨害工作ばかりが営々と存続してきた、「小林史学の亡者」によって成り立ってきた。いまだにこの亡者どもは、日本古代史史観の障壁となり、弟子のはしからはしまで、ずずずいっと、その祟りをなし続けている。


 まことにどっちもどっちの「田舎もの」集団でしかない。


史学は理系による新たな分析科学で立ち上げなおす必要があり、しかしながら、それらにしても、殺伐とした客観しかない乾いた見方しか不可能で、ともすれば木を見て森を見ようともしないしろものゆえに、コーディネーターを必要とすることにもなる。なにしろ技術肌の人間は、阿武山古墳=鎌足で決まり!と簡単に考えてしまうような奴らばかりなので、これまた危険である。

例えば阿武山=百済王豊璋・・・と考えるような筆者の見方はどうしても敬遠されてしまうだろう。鎌足=豊璋である。


高句麗一辺倒でものを考える馬鹿もいる。そういう人々はまずもって、ホクセン系在日であろう。中には故郷を捨てたダッポク者だっているかも知れぬ。

日本歴史で、高句麗が深く関わるのは出雲・吉備隆盛期の4・5世紀までである。飛鳥時代には蘇我氏によって半島や高句麗は侵略されていることは「広開土王碑文」が証明する。

それ以降は7世紀の百済王家が地方に勢力をはる。もっともこの頃にはもう新参渡来系氏族は朝廷の中心から遠ざけられてしまっている。天智から天武へと政権が切り替わったためである。天智は白村江敗北で当分は大和に帰還できず、九州に一時的仮王朝を作るほかなかったのであろう。これを九州王朝だと言うだろうか?

飛鳥の階段ピラミッド型古墳は、蘇我氏に嫁いだ高句麗王女の墓であり、政治の中心に高句麗が関わった遺物とはいいがたい代物である。九州小倉の高句麗磯城石積み墓も、日本海文化圏の人が九州に最新技術を見学にきたなごりではないかと考える。

キトラや高松塚の天文図は、確かに高句麗や北魏天文図の影響下にあるかに見えるが、実際は、その来歴の大本には中国が存在しており、高句麗や北魏もまた日本と同じく、その影響下で壁画を描いたに過ぎないのである。もし、高句麗系壁画古墳が飛鳥時代の貴族の主流になり得たのであるならば、壁画古墳はもっと、九州の装飾古墳ほどの数量で発掘されるはずである。それがないのは、高句麗系が、その後政治の中心部から遠ざかっているからということになる。『新撰姓氏録』の中の高句麗系氏族の少なさはちゃんと確認しておくべきである。


『日本書紀』が描き出す天孫降臨後の、南九州での逸話には、塩土爺が登場するが、その後も武内宿禰のごとき内臣(うちつおみ。うちつまえつきみ)が登場し、それらは想像上の人物であることは、同じ「内臣」に死の直前任ぜられたのが藤原鎌足であったことから、容易に想像できることである。つまり『日本書紀』にとっては、名前などはどうでもいい、内臣である人物が天孫をナビゲートすることにこそ意味があるのである。



阿武山を鎌足墓だとしたい猪熊兼勝・今西康弘やらの主張は、大織冠と玉枕と金糸という出土品が、記紀記述に合致することだけを証拠品にとりあげるのだが、実は、『藤氏家伝』には、鎌足が薄葬を願い、火葬されたと書かれており、塼を天井に用いた古墳内部に、全身の遺骨が残されていた阿武山被葬者とは合致しないことを無視している『続日本書紀』以降には、息子の不比等が多武峰=談山に改葬したともあるし、また淡海公(たんかいこう=不比等)=(鎌足と不比等の取り違え記事)は、淡海公を鎌足と取り違えながらも、山科から多武の不比等の家に移ってそこで死に、多武あるいは山科別宅、あるいは近江別宅に墓を作ったとももあるし、また天智から大織冠を奉じられた人物が鎌足ひとりではなく、同時代人である豊璋もいることも無視しようとするのである。これでは納得できるはずもない。今回、大阪府の高槻市教育委員会の編集した『藤原鎌足と阿武山古墳』には、そのような考古学界や地元財界からの阿武山鎌足墓論の待望論が大いに出ていることが想像できるのである。しかしそういうものは、地元の間違った村おこし思想の作り出すねつ造でしかない。考古学を村おこしに使うにしても、やり方によってはいずれねつ造の汚名の元となりかねないのではないか?

 猪熊兼勝など、完全に淡海公=鎌足だと取り違えて発言する始末。
それはまるで九州の東峰町あたりに継体大王の古墳があるなどとしたい、九州王朝系考古学者の口からも漏れるような噴飯ものの話であり、ただただ、日本史をかき回しているだけの野次馬論でしかない。そういうやからによって、古田武彦もそうだが、百島なんたらとかいうカルト神社研究家の言い分を真に受けて、疑いもなくせっせとがせねたを集め、黒を白にしてしまおうとするようなカルト集団には、絶対に組してはならない。馬鹿になるだけである。所属する研究会は選ぶことである。そのためにはまともな研究者の書くものをちゃんと読むことしかない、できれば筆者のように、何年も図書館に単独で通い、せめて年間100冊の古代史・考古学・その他科学書をまんべんなく読みつくしてから、所属研究会を選ぶべきである。からっぽのままのピュアな無知では、すぐにすべてがカルトに染められてしまうからである。まるでオームの信者たちのように、洗脳されてしまう。


 考古学者でさえ、大和論者はこのような「操作」を好む」。文科系考古学もまったく信用できないわけである。


 ぼくは大きい声で言うが、京都も大和も九州も、全部田舎ものである。東京?東京は田舎者の集まりでしかないから同じ。


なぜなら、全員、自分のところが一番だ!と思い込んでいるからである。そういうせせこましい奴らを田舎者とこそ言う。そういうやつばらに歴史を語らせておくから、今のように日本史は歪曲されてしまうのである。いっそ外国人にやらせたほうがフェアである。




全体をすべて知ったうえで、分析はようやく始まるのだ。かじった程度の知識や、半端な知識、文献、伝承、考古学に偏った、あるいは世界史まで含めて考え及ばぬような主張に安易に傾聴するのはただの軽薄歴ファンでしかないのだ。推して知るべし。筆者は10年、金と足を使ってこのブログを書いてきた。たいがいのことは知っている。それでも主張を書き込めるようなヒトは、馬鹿か超越者であろう。




浅薄な知識もて、安易にここへ書き込むことなかれ。



ここを参考にせよ。しかしここへ主張するな。
わたしは君よりよく考え、見知っている。









国民ナンバー制度からいかにはずされるか


この国の官僚の管理体制は信用できない。
だから、いかにして今後訪れる国民ナンバー制度から逃れるかが、今のぼくの最大の関心事である。


ぼくは、あと数十年の余命を、いかに国家がだまし、搾取し、無駄遣いしてきた金を、奪い返すかにまい進している。合法的にだ。


年金は全部もらえない、そのうえ、管理体制はザルであり、
これからも積み立てた金はぽっぽないないになるだろう・・・という最悪の想定の元に、10年前から、じゃあ、いかに前倒しでそれをふんだくるかだけを考えてきた結果、合法的に小ずるく生きるしか方法はないことに行き着いた。




もうじき半島が統一へ動くだろう。
キム大統領もそれを最近示唆している。
なぜなら北朝鮮はイランと言う資金源もなくして、世界で完全に孤立したからだ。今回の緊張事態もそこに起因している。

すでに彼等は最終段階の金欠病になっているからこそ、
実力行使に出るしかないのである。
ちょうど太平洋戦争前の日本のミニチュア版を見る思いである。

だから彼らの戦争は、やってもせいぜい三ヶ月もつかもたないかの状況で、最後のいたちっ屁状態だろう。そもそも両者は「やくざとてきやのこぜりあい」である。


安倍政権の支持率低下は、経済面でもいよいよ加速することだろうが、それでも自民党は次期総裁を安倍でいくと決めた。

その前に安倍はすでに例の病魔に犯されつつあり、この体制は長くは持つまい。

ではポスト安倍は?

国民は新たな政党の出現を待っていることだろう。






こうした流れをつらつら眺めていれば、これから新規事業に乗り出したりするのは大変な時期である。






まじめに働いても老後は確保してくれない時代に。







さて、もっとも賢く、徒労に終わらぬ方法は何か、その答えはぼくのやり方しかないのだ。






才能もなく、これといって努力も得意ではない国民つまり弱者たちが、いかに、観念を乗り越えて、はじをすてても、手にできる栄光は、いま、ぼくの生き方しかないのである。




















旧石器時代から「単一民族」などではなかった日本人


日本人のルーツを探る手法は、現在ではすでに形質人類学では真実には到達できないことが明白で、やはり遺伝子DNA分析だけが真実に到達できる最善の方法だということがはっきりしている。それは稲作の渡来も当然そうである。

外見や骨格の類似からでは類推の論理しか生み出せない。しかし遺伝子まで遡れば、数学的な精度で、その民族の来た道や、その後の拡散と混血によるひとつの民族の複雑なシャッフルによったであろう形成過程までつぶさに知ることができるようになってきた。

●進化論も変わっている
なんとなれば、われわれが学校で習ったダーウィンの自然淘汰説もすでに否定されはじめ、今はニュー・ダーウィン説が主流である。これは突然変異のランダムな継承によって生物が進化するという、ちょっと前までは考えも及ばなかった論理を導き出している。また、人類は、サルや犬のような、生まれてすぐの幼児の形質から、口吻部や額庇が大きく変化する成長(アロメトリー)ではなく、ウーパールーパーのように、幼少型があまり変化せずに成長する「ネオテニー型」であることもわかってきた。
人類がほかの哺乳類のように、成長すると全身多毛にはならない理由も、もしやここに見出せるのではないかと言われる(尾本惠市 1998)。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 7
成長にともない部分が大きく変化する類人猿。人類はほとんど変化せず、子どものまま大きくなる。幼少時のチンパンジーは、ほとんど人間の子どもとそっくりで、眉の上のひさしもほとんどなく、口吻もつきだしていない。頭脳は人間の三歳児を上回るが、その後の脳の成長はほとんど横一線である。人類は、脳の発達と毛髪だけが顕著に成長する。





●日本人は絶対に単一民族ではない


その答えは今後、絶対に変わる事はない。
なぜならその理由が、外見や言語や文化や風習ではなく、日本人の基層であるDNAに如実に示されているからである。原子・分子・細胞では日本や天皇が神州とか神でないことは一目瞭然。遺伝子では、あきらかにアフリカのミトコンドリア・イヴの子孫であり、すべての人類の仲間であり、しかも世界一の混血児である。すべての外国人と同じ、サルの子孫であり、最古の脊椎動物カクレウオの子孫である。そこに、どんあイデオロギーも入り込む余地はない。これは唯一の解答である。日本人も、日本国も、地球上の人類の一種に過ぎない。あらゆる生物同様、まったく一切の民族の優劣も特殊性もそこには存在しない。ただのヒトでしかない。ゴリラやチンパンジーやボノボと同じ霊長類ヒト科ヒトであり、アフリカ人ともアメリカ・欧州人とも、中国人とも、朝鮮・韓国人とも、あらゆる民族とも同じ人類である。



わかりやすい日本人成立の暫定モデルの一例
Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 1

 「日本人の起源は縄文人がそのまま各地の環境に適応した「変形説」、縄文人を弥生人が追い出して定着した「人種置換説」も知られているが、総研大の斎藤成也教授(遺伝学)は「研究結果は混血説のシナリオに一致した」と説明している。」
縄文・弥生人の「混血」 遺伝子解析で裏付け 
総合研究大学院大など発表
2012/11/1 0:38 http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG31040_R31C12A0CR8000/

● 北部九州弥生人ですでに三種類の渡来がある

北部九州の弥生人-渡来人とその末裔
「ほぼ1万年余りも続いた縄文時代、日本列島には背が低く、いかつい顔立ちの縄文人たちがほぼ全域に渡って住み着いていました。発掘された彼らの遺骨の数も、既に数千体に上っています。ところが、今から約2000年余り前の弥生時代になると、そうした状況が一変します。それまでの日本列島では見られなかった、長身で、しかもひどく面長な、のっぺりとしたかおつきの人骨が、累々と出土するようになるのです。他でもない、この北部九州においてです。

  なぜ弥生時代になると、こんな見慣れぬ人々が、しかも北部九州に住み着くようになったのか。その謎の裏に、じつは明治の昔から延々と論議が続けられてきた日本人の起源に関する解答の一つが隠されていました。国内で見る限り  は特異な彼らが、朝鮮半島や中国大陸の古代人にそっくりだということが近年の研究でわかってきました。  つまり、この弥生人達はどうやら大陸を起源とする渡来人だったらしいのです。

  筑紫野市一帯から出土する弥生人骨はこうした「渡来系弥生人」の中でも、とくにその特徴が際だっています。先年、発掘の終わった隈・西小田遺跡からは400体を超す人骨が出土しましたが、彼らは近隣の弥生人に比べ、さらに面長で背も高かったことが分かりました。つまり、骨の特徴から判断して、渡来系の遺伝子が最も濃厚に入り込んでいる可能性があるということです。実際に、骨からその遺伝子、つまりDNAを抽出して分析する研究も既に佐賀医科大学で始まっています。 

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 2
北部九州弥生渡来人で、すでに三種類の渡来がある。それぞれ江南、半島、北方の子孫たち。大友遺跡の人骨は北西部九州人の呉の太伯子孫伝承を確かに証明する。半島由来の人骨は二種。あとはそれぞれの先住民との混血のパーセンテージによってほとんどの西日本人のバリエーションが生まれる。これが「倭人」である。


 
  一方、弥生時代のこの筑紫野一帯は、かなり騒然とした社会状況だったようです。隈・西小田遺跡や永岡遺跡からは、首を切られた遺骨や首だけの埋葬列、さらには頭を割られたり全身に傷を受けた人骨が集中して出土しています。しかも興味深いことには、その一方で目ざましい人口増加が起きていたことも、骨や甕棺の分析からわかってきました。

  北部九州に先進文化の花を咲かせた渡来人たちは、時には紛争に明け暮れながらも急速にその人口を増やし、中国地方から近畿、あるいはさらに東へと進出して行きました。我々現代日本人の体には、その渡来人達の遺伝子が確実に入り込んでいる、というのが弥生人研究からもたらされた現在の結論です。」(中橋孝博)
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo51.htm
 
●日本人の亜型遺伝子のアジア各地からの来訪と混血

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 3
 
「赤丸で囲んだ亜型が、日本列島に居住する三民族、すなわちアイヌ民族・本土日本人・琉球民族が保持しているmtDNAの亜型の種類である。
  日本人は、無意識のうちに自らを単一民族だと考えがちであるが、実はDNAという観点から見ると、非常に多様な人々の集りであることが解る。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 8


  三民族別に、それぞれのmtDNA亜型の割合(頻度)をグラフ化すると上のとおりである。
 
1.このグラフを見ると、日本の3民族には全て、東アジア最大のmtDNA亜型、D亜型(Gを含む場合もある・・・mtDNAのDループ解析だけでは、DとGの区別がつかないからである。)の人々が4割前後の割合(頻度)で存在し、なかでも北方系のD4亜型が圧倒的多数を占める。」
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_08_1.mitochondria_karamita_sosennhtml.html



Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 4


Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 6

「日本人の縄文・弥生の割合に最も近いのはやはり半島南部人である。細長い顔つきで短頭で胴長短足で、毛が薄いといった人々が、真逆の人びとと混血している。西日本の初期はこの先住縄文人とはおそらく半島伽耶にも存在する海人系人種だったと考えてよいだろう。つまり東日本・北日本のような北方から南下した縄文人とは別の人びとであろうし、縄文人にすら複数の人種がいたことは間違いない。
その東・北からの縄文人と、九州や日本海沿岸からやってくる弥生人が、出会うのは近畿地方なのである。だから従来のように、日本人を東西のざっくりした捉え方で考えるのは古いのだといわざるを得ない。弥生と縄文の混血する人種がすでに三ヶ所で異なるのである。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56544612.html



●旧石器時代人がすでに多種来訪していた

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 5



氷河期、すでに列島南北からだけでなく、半島南下でも来訪した人々がいる。このときすでに原日本人の基層には、少なくとも三種以上の血脈が混在していた。


そこに縄文海進による海上渡航によって、さらに三種以上の来訪者があり、さらに弥生時代までには、最古の渡来地である北部九州の有明海沿岸・玄界灘沿岸だけでも複数の民族の渡来がある。列島全体ではさらに複数民族が続々と混入したのである。

考えてみれば、東北・北海道でさえ、バイカル湖血脈の人々には多種存在し、アイヌという古い形質を持つ人々も混在していた。いったい、現代までに、いかほどの民族がこの列島で定住し、原日本人である旧石器時代人や古北方形質、新北方形質の縄文人たちと混血していったことか知れない。


遺伝子の上でも現代日本人には、少なくとも旧石器、新石器、青銅器、鉄器時代の混血のバランスによるバラエティ溢れる多様性が存在する。


多種多様な民族が混ざったということは、歴史的、政治的に考えれば、それだけの何度もの軋轢、差別、和合がこの列島の各地に、大小の差はあろうが起こったことは間違いないのである。当然、彼らの別々に持ち込んできた風習や言葉や文化や信仰などは、淘汰され、ひとつにまとまっていったであろう。その結果、たとえば朝廷の唯一絶対信仰による民衆の統一も起こったわけである。そして、それが最も顕著に現れるのが戦争前夜であることは忘れてはなるまい。明治~昭和大戦までの短い期間には、それが過去最大の振れ幅で引き起こされた。それがアマテラスを中心とした皇国史観であろう。このとき以前には、あれほどのひどい変換はなかったのである。わずかに、朝廷内部における白村江敗北~壬申の乱までの信仰統一があり、あとは天下布武を掲げた織田信長が天皇をないがしろにして神、王になろうとした戦国時代くらいのものだっただろう。しかしどれもみな、為政者内部での信仰の統一でしかなく、明治時代のような、万世一系天皇による単一民族の皇国史観と、アマテラス中心の右翼思想によった侵略のための民衆の末端まで及ぶ統一を目指した時間はほかになかったのだ。あまつさえ、そのためには日本本土ばかりか、周辺諸島、半島、中国にまで、それを押し付けた時代は、先の大戦時のわずか数年間だけだったのである。

朝鮮民族、琉球民族、小笠原諸島人、あるいは南洋のパラオ人たちにまで、彼ら軍部は日本人であることを強制したのだった。


もし今後、政治家の言動に日本人単一民族、日本は神州、神は伊勢だけ、わが国は皇紀2000年・・・などの大戦イデオロギーの断片が見えたときは、ようやく手にもどった専守防衛のための自衛権という宝物を、曲解し、乱用し、民衆を悲劇に導く時代の再来を疑うべきである。「日本は神の国である」と言った政治家がいる。いまだに文部の根幹に居座っている。ここが肝である。宝物をおもちゃにする、国家を、民衆を弄び、あたら危険を招きかねない、それは災害神スサノヲとなることだろう。

アマテラスなどはまた、瞬く間に国家統一のための道具神にされてしまうだろう。

日本人は世界に冠たる複数民族が和合してきた唯一の国である。和合の道こそは唯一の平和への近道であり、最善の選択肢である。さまざまな民族がいとつ国土に同居し、血を交わすことこそが、世界を平和にする唯一の方法ではないだろうか?


時間を元に戻そうとする政治家に注意せよ。詭弁を多用するその人々に。





たまきはる内の朝臣・海浜型前方後円墳・サダル神と猿田彦とアマテラス


『日本書紀』仁徳紀50年 茨田堤
五十年春三月壬辰朔丙申、河內人奏言「於茨田堤、鴈産之。」卽日、遣使令視、曰「既實也。」天皇於是、歌以問武內宿禰曰、
多莽耆破屢 宇知能阿曾 儺虛曾破 豫能等保臂等 儺虛曾波 區珥能那餓臂等 阿耆豆辭莽 揶莽等能區珥々 箇利古武等 儺波企箇輸揶
武內宿禰答歌曰、
夜輸瀰始之 和我於朋枳瀰波 于陪儺于陪儺 和例烏斗波輸儺 阿企菟辭摩 揶莽等能倶珥々 箇利古武等 和例破枳箇儒

即位50年春3月5日。河内の人、天皇に申す。
「茨田堤(マムタノツツミ)で雁が子供を産みました」
その日に使者を派遣。使者曰く「真実でした」。
天皇は歌を歌って武内宿禰(タケノウチノスクネ)に問うて曰く。

たまきはる 内の朝臣(あそ=あそん) 汝(な)こそは 世の遠人(よおひと) 
汝こそは 国の長人(おさひと) 秋津嶋 倭の国に 雁産(こ)むと 汝は聞かすや
(内の大臣たる武内よ、おまえこそは長寿の人だ。国一番の長生きであるが、この大和国に雁が子を産んだと聞いたことがあるか?)

武内宿禰答えて

やすみしし 我が大君は 宜(ウベ)な宜(ウベ)な 我を問はすな 秋津嶋 倭の国に 雁産むと 我は聞かず
(国の八隅を知りつくすわが天皇よ、あなたが私のごときものにものを尋ねられるとは恐れ多いことですが、雁がこの国に子を産んだなど初耳です。)





『万葉集』巻1-四
たまきはる 宇智の大野に馬並(なめ)て 朝踏ますらむ その草深野

たまきはる意味・語義・かかる理由未詳。
=魂気張る

「内(うち)」や「内」と同音の地名「宇智(うち)」、また、「命(いのち)」「幾世(いくよ)」などにかかる。




内朝臣とは?
「うち」の朝臣とは、内大臣・・・つまり王家のそばに仕える参謀のことである。
武(建)内宿禰の読み方については、故水野祐は、武・建は「たける」ではなく本来「たけ」であると述べている。「やまとたける」が「たける」になるのは明治以後のことで、それ以前には「やまと・たけ」と読むのが常識だったと言う。すると「たけうち」も「たけ」だけが名前であとは役職名と考えられ、「たけの」内大臣とするのが正しいだろう。なんとなれば、ヤマトタケルは武内宿禰のイメージそのものの存在なのであり、ある意味『日本書紀』は『古事記』の表記である建内をわざわざヤマトタケル、あるいは倭王武(雄略=わかたけ)を彷彿とさせるように「武」に差し替えてでも、描きたかったことになるのである。その理由はただひとつ、実際の内臣(うちつおみ)が藤原鎌足(百済王豊璋その人)その人だったからである。

それほどに『日本書紀』史観にとって武内宿禰は重要人物だということになる。いや彼が「内の臣」であることこそは、『日本書紀』史観の根幹にある藤原氏の作り出すところの、祖人鎌足=内大臣、死の直前に内朝臣をおくられたことそのものであり、大和の王家にとっての内宿禰要職を藤原不比等が継いだのだという正当性の裏づけに必要な人物なのである。

武内宿禰が仕えた景行天皇の息子がヤマトタケルであり、景行天皇がヤマトタケルとともに列島東西の蛮族を平らげることによって、各地に「武雄」「武男」「黒尾」を祭るやしろが置かれたと『日本書紀』は暗黙のうちに申し述べることになる。


Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 4

その内の臣には二種あって、もうひとつは地名菟道、宇治、宇智、内と深く関わる味師内宿禰(うましうち。母親は葛城氏娘)である。彼らの出自はどちらも和歌山県紀州となっていて、宇智(京都府八幡市内里)も、宇治(菟道)もかつて紀伊郡の範疇だった。この「うち」とはここからが畿内の領域=天皇の直轄地であるという場所に置かれた特別区なのであり、京都府久世郡にも宇治があるように、いわば皇室の土地の外堀のように畿内を取り囲むものであった。それらはすべてもともとは味師内の管轄地だった。そしてこの「うち」地名に纏わり着くように、必ず大隅隼人が入れられたと考えられる。

しかし武内宿禰だけはなぜか紀伊国和歌山の名草周辺を領地とし、紀直(きのあたい)氏の祖人とされていて、それが弟の「うましうち」の謀反を暴くことによって、あとから天皇の内大臣になったと伝えられるのである。

その武内宿禰からは、後裔のすべてが天皇家に外戚を出す、あるいはそれに匹敵する役職をいただく王家構成軍団の中心氏族になっているのである。これはある意味、武の氏族が味師・隼人集団を乗っ取った格好を指し示している。

以前、紀氏の大元を九州に求めると、武雄神社のある基肄郡(きいぐん、佐賀県武雄市)に行き着くと筆者は書いた。「きい」は紀州の「き」であろうが、「き」はもと「許」と表記して「こ」と音読されている(『山城国風土記』逸文)。これはまさに武内宿禰後裔で葛城氏同族とされていた許勢(巨勢)氏の「こ」でもあろうし、また紀の前が「木」であることとも音訓で合致する。木の葉を「このは」と読むように、木は「こ」とも読む。山城国の紀伊郡が、もと三郡に及ぶ広範囲な「許之国」であった可能性を民俗学的考古学者の辰巳和弘も書いている(『古代をみる眼』「紀氏と葛城氏」2015)。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 3

宇治・内・菟道・有智・宇智などの地名がかつての紀伊郡『木の国』の中に含まれたことは間違いあるまい。それらの多くは宇治川・木津川・桂川の三川合流地域に点在し、たがいに隣接する。それらはみな、奈良朝にとっても、平安朝にとっても外輪地帯である。

その代々内朝臣の後裔だった氏族は、ことごとくあとになって(蘇我氏を最後に)、藤原氏にとって変わられているのである。これはどうみても首相政党の政権交代であると見て取れるだろう。

そもそも味師内から武内の交代劇も、ある意味で奉じる王家の転換を暗示している。そこには仁徳から続いた王統が、雄略(ワカタケ)から継体を経て飛鳥へ流れる時間帯に交代していることすら示唆することにもなろう。

紀伊名草郡・海草郡・那賀郡は武内宿禰後裔の紀角(きのつぬの)宿禰の領地である。だから武内宿禰は紀角宿禰氏こそが直系、あとは外戚関係と見ることも可能である。この氏族は『日本書紀』応神・仁徳紀の中で、新羅征討将軍として描かれたが、その中に、蘇我韓子宿禰とともに将軍だった将軍紀小弓宿禰、戦死した紀岡前(きのおかざき)来目連が登場している。この「くめ」は有明海の現在の久留米、あるいは南海の久米島を名乗る氏名であるから、紀氏本体がかつての琉球貝貿易の関係者であり、隼人と行動を共にし、やがて玄界灘海人族を牛耳る倭人であったことを思わせる。

さて、菟道稚郎子(うぢのわきのいらつこ)は仁徳に王位を譲り、山代国宇治に菟道宮を建てて住まったとある。『紀氏家牒』(平安時代)には「紀武内宿禰」「紀直の祖」とあり、武内宿禰氏族が紀州海岸部を大元とする氏族であることは疑う余地がない書き方をされている。それが菟道から桂へと広がる道筋は、紀ノ川古墳群~宇治市街地遺跡~物集女車塚古墳へと、土器が移動した痕跡から見ることが可能である。




また、武内宿禰が比古布都押之信命(ふこふつおしのまことのみこと)と木国造の祖・宇豆比古(うづひこ)の娘・山下影日売(やましたかげひめ)から生まれたことで、「うづひこ」という人物が紀国造氏の祖人であったことで、この「うづひこ」とはもしや神武東征で案内役だった珍彦=椎根津彦と同一人物ではないかとも考え付く。珍彦は大和の倭直・倭国造氏の祖であるから、倭国造や紀氏が同一氏族かどうかは別に見なければならないが、どうやら宇豆比古=珍彦であるならば、その紀州以前の居住地はやはり九州、あるいは神戸あたりに置くことができるだろう。




Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 1

景行天皇の熊襲征伐工程をたどると、『豊後国風土記』などでは豊前・豊後・有明海沿岸に及んでおり、当然筑後川上流の武雄や海岸部の久留米、また吉備氏族を船頭とすることことなどから内氏族紀氏の大元がそれらの土地にいて、王家に加担したことが想定可能である。また神功皇后紀でも、吉備氏族を国造として九州に入れたことが記録されているから、これは雄略前後に江田船山古墳被葬者や埼玉の稲荷山古墳被葬者がワカタケルの名の入った鉄剣を持つことのできた知事クラスだったこととも関係するのだろう。これらの銘文では、大彦という人物の子孫という刻印があって、それが尾張氏や筑紫国造の祖人とも書かれることと深い関わりがあり、紀氏、内氏族の前身をこの大彦にまでつなげることも可能である。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 2



考古学では、縄文後期からの貝の道の主要輸出業を支えた氏族が紀氏や倭直氏、隼人久米部らであったことが想像でき、彼らがオリジナル南部縄文日本人・・・つまりのちに魏志で言う倭人のひとつであったかとも想像できる。貝輪のデザインから纏向の弧文や吉備の弧帯文が生じたとするならば、彼らこそが「たまきはる」死生観を全国に広めていった邪馬台国の主要氏族であったかとも想像可能になるだろう。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 6

倭人、倭国の「わ」が前に書いたように「わたし」の一人称を起源とするのならば、琉球では自らを「ワー」と言うのであり、民族学で柳田國男や谷川健一たちが言ったような、伊勢の猿田彦の「さるた」とは琉球の「サダル神」を由来とするという説もにわかに復活するわけである。


Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 7
伊雑宮・實國固遠都御祖大神
「じつこくかためし、とおきみおやのおおかみ」とある
本当の伊勢の土地神という意味だろう。
つまり猿田彦=太陽神=先住伊勢の大神であり
皇室はこれを奪い、アマテラス女神に変えたのだろう。


さて、その琉球のサダルについては、真逆に、琉球王が13世紀に大いに取り込んだ熊野信仰の補陀落信仰の隆盛によって、琉球島嶼各地に弥勒や来訪神を祭る修験道的なマニアックな祭が多数生まれたのは熊野信仰の影響であり、サダルもまた伊勢のサルタの、西九州や紀伊からの移住者修験道によって持ち込まれるのだという説もあるから、今は結論は出せない。サダルとは先導者であり、猿田彦と神格は同じであり、弥勒はミルクに、カラス天狗はダートゥーダとなっていったのであるが、それらの琉球弧の端々から奄美に広がる「まれびと」信仰が、平安時代を遡らぬ補陀落渡海の修験のなせる業であるかどうかは、今後筆者の新たな課題となる(『マレビト芸能の発生』須藤義人 2011)。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 5
八重山諸島仮面舞踏劇ダートゥーダ




また考古学から海の氏族であった紀氏や物部氏や安曇や久米、隼人、あるいは尾張・海部氏らを追いかけるならば、かながわ考古学財団などが拾い上げている「海浜型前方後円墳」の分析も重要であろう(『海浜型前方後円墳の時代』2015)。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 9


さらに『日本書紀』根幹のイデオロギーを作り出した藤原氏が、いかにして内氏族最後の氏族蘇我氏から政権と内大臣の奪い取るかのロジックには、高槻市の安威山の阿武山古墳や談山神社、不比等の墓の所在はどこか?、山科別業はあったか?、春日はなぜ鹿島からとされたか?などなどを考えていかねばならない。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 8
さるだひこ大神と書かれてあるサダル。伊雑宮「片枝の杉」
この札をとるともう一枚の銘文がある。
それが上の画像の實國固遠都御祖大神である。



いずれにしても猿田彦やサダル神は、黒潮に乗り太平洋を上下した海人族の太陽神(テーラーガーミ)だったのであり、それはつまりは記紀史観による先住紀氏縄文系太陽信仰の簒奪であった。それがいわゆる乙巳の変によった日本最大の、藤原氏による信仰乗っ取りだったのである。こうしてやっと畿内大王の天皇自称は可能になった。
猿田彦が伊勢大神にすり替わった瞬間である。













  

マレビト芸能一覧とその派生と倭国の豪族


民族学伝承ひろいあげ辞典過去記事
から再掲載する。





南島的来訪神(精霊信仰)の祭り
琉球諸島
●マユンガナシ(川平島・石垣島群星御嶽)http://www.kagakueizo.org/2009/04/post-97.html
動画http://www.youtube.com/watch?v=LZqaEnV66WM

 ●アカマタ・クロマタ・シロマタ(八重山諸島)http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/50647516.html

 ●アンガマア(石垣島)http://www.churashima.net/shima/ishigaki/angama/

 ●パーントゥ・プナハ(宮古島大神島の大神御嶽)http://www.youtube.com/watch?v=sTlzU1e5-RU
 
Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 1

●ウヤガン(ウヤーンとも)(同上)

●フサマラー(波照間)http://haterusima.ti-da.net/e1708113.html

●ボシェ・ボゼ(悪石島・トカラ列島)http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54977298.html

●ミルク(弥勒) (八重山諸島)http://www.kt.rim.or.jp/~yami/hateruma/miruku.html

●沖縄本島北部・・・海神祭(ウンガミ)・アガリの大主・ガナシ

追加 
●フェーヌシマ(南島系棒踊りの総称)
●ダートゥーダ(小浜島・天狗)


秋田県男鹿半島
●ナマハゲ

鹿児島県甑島
●トシドンhttp://www3.ocn.ne.jp/~nansatu/fasta8.html

石川県
●アマミハギ
●アヘノコト(あえとは阿閉。和え物の「あえ」)

石川県から愛知県にかけて
●花祭りのしらやま

新潟県
●アマメハギ

山形県
●アマハゲ

岩手県
●スネカタクリ

岩手県三陸
●ナモミ、ヒガタタクリ、スネカhttp://jomon.com/~emisi/kawara/33/33ogasawara.htm

青森県
●シカタハギ

長野県
●新野雪まつり

 
海外
北欧
●オーストリア フルト・イム・ヴァルト祭り
●オーストリアミッテンドルフ及びドイツ 冬至祭 クランプス・シャープ
●ブルガリア 新春祭クッケリ・シルバチカリ
北欧諸国各地の冬至祭・・ループレヒト・ブッテンマンドル・シャープ・ヘルシェクラーゼ・クランプス
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53546211.html

韓国済州島・・・ヨンドンクッ

中国湖南省・・・マオグースー
貴州省イ族のツオタイジ(変人戯)
   広西チワン族自治区ミャオ族のマンコウ
   広西チワン族自治区チワン族の青蛙節など13種以上

ベトナム・・・オンディア
 

ニューギニアタミ島などポリネシア、ミクロネシア、ビスマルク諸島などに無数に点在




「岡正雄「日本文化の基礎構造」を見てみよう。
彼は、そこで日本文化の成り立ちを、次の 5 つの文化層に分けて考える。
1 母系的・秘密結社的・芋栽培ー狩猟民文化
2 母系的・陸稲栽培ー狩猟民文化
3 父系的・ハラ氏族的・畑作ー狩猟・飼蓄民文化
4 男性的・年齢階梯的・水稲栽培ー漁撈民文化
5 父権的・「ウジ」氏族的・支配者文化
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55066280.html

 この日本の来訪神儀礼の源流を、太平洋上のメラネシア・ポリネシアの島々におこなわれている秘密結社の儀礼にもとめる説を提出したのが、日本の文化人類学者の草分けとでもいうべき岡正雄でした(「異人その他―古代経済史研究序説草案の控へー」『民族』三巻六号、昭和3年)。
http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa25.htm






民俗学の若き研究者・須藤義人は、琉球列島のマレビト芸能の多くが、もともとは平安時代の熊野補陀落信仰の影響下に生まれたとしているが、その半面で、熊野太陽信仰の大元にある猿田彦の名前が、琉球あたりから「ヤシの実を運ぶ黒潮に乗って、日本本土に来た」と、まったく真逆な説を肯定しようとしている。(『マレビト芸能の発生 琉球と熊野を結ぶ神々』芙蓉書房出版 2015)


一方で琉球のマレビト芸能が熊野から来るといっておきながら、猿田彦だけは琉球のサダル神から逆輸入されたとは、まことに奇妙な話である。

さるたひこは伊勢~熊野にかけての紀伊半島東部の広くに行き渡った「太陽神」であり、それは熊野というよりは、もともと伊勢・鳥羽・賢島以南の海部・海人たちの土地神として、天武・持統朝にアマテラスが統一されるべき国家神・皇祖神としてクローズアップされたときに、その地域を伊勢神宮建設のために譲ったとされる太田命の祖人である。

猿田彦が天孫降臨で、はじめてニニギの眼前に登場したときに、本来アマテラスのそば女であり、ダンサーだったアメノウズメを妻として娶らされたのは、いうまでもなく、伊勢旧族たちの国家への反駁を見張らせるためであり、それが猿女君となって、伊勢の猿田彦神社境内で、神殿に対面する「神霊の監視」位置に置かれるわけもここにある。つまりウズメは地方豪族太田命なる氏族のための”S”として送り込まれたのであろうことは明白である。


琉球、奄美、鹿児島南部などに残存する、マレビトの芸能や祭の大元を、では果たしていずこに求めれば正しいのだろうか?



上記再掲載した記事では、筆者は、岡正雄の説いたポリネシア・メラネシア由来説をとりあげた。そもそもマレビト、来訪神の原始的信仰の形態は、中国少数民や台湾原住民、ボルネオ~南太平洋の島々に、来訪神信仰として根強く、そして広範囲に残された原始的な民間信仰であることは、その類似性が証明する。

しかし、一方では、あとの時代になってから、もともとあったマレビト神たちに、本土移民が意図的に入れられることで、同化策としての仏教由来の補陀落信仰や修験道のしらやま信仰といった、「被差別同化対策」「民族統一」「国家統一」の手段としての侵入もあったことは確かである。

修験道が、被差別から派生し、独特の民間仏教と往古からの神々信仰とを合体=本地垂迹させる、教化宗教であった一面は否めないのである。だから平安時代の熊野信仰渡来は、琉球にとっては大和ンちゅによる信仰統一の波を受け入れていくしかない歴史を語る証拠品にもなってしまうわけだ。


本土の白山信仰やしらやまが、もともと蝦夷俘囚を閉じ込めた「別所」教化・同化のためにあった信仰であることからも、その大元にあった修験道が、彼らも敗者・被征服者・渡来人という存在でありながら、それを目には目にして利用した皇族国家・・・いや、それをも実は手繰っていた為政者豪族たちによって、修験者たち自身も利用されたことは否定しようがないと筆者は感じる。琉球民族にもそれが応用された歴史は、世界史の流れからも動かしがたいことだろう。弱者・敗者はそうやって常に政治によって統一のために同化させられるものだった。

おそらく琉球王も、そういう平安朝の政策を受け入れるしかなかったことは想像がつくことである。それゆえの熊野マレビト・太陽信仰・仏教の祭の残存だけであるならば、なんと悲しい歴史だろうとなってしまう。

しかし、筆者は、その来訪神信仰の根源は、もともと縄文時代から諸島にあって、ちょうどローマ帝国が押し付けてくるキリスト教を、うまいぐあいに折衷しながら、ある部分で絶対に往古からの民間信仰の神々を捨てずに存続した北欧冬至祭のやり方が、琉球や奄美や鹿児島南部にもあったと信じたいのである。





琉球の貝と北部九州の貝輪は、南九州の久米や隼人や木部(岐部)たちが運んだ。その黒潮のルートは、奈良や平安、あるいは中国が求めた時代以前から、自然派生的に民衆の力で切り開かれた。あらゆる世界の、あらゆるパイオニアルートは、みな政治指導などではなく、地域豪族や民衆や、特に言わねばならないのは女たちの美へのあこがれから切り開かれた道である。政治は常に、そこに利益を見出してこそ、その道と人を奪うのである。経済のある悪しき一面でもあるが、それによって動く物量は圧倒的な数量となって、国家全土にいち早く流通革命とボートリぜーションとダイナミズムをもたらした。これは歴史の宿命である。そこから一大経済氏族は生まれ、紀氏や葛城氏もおおいに潤ったのである。


つまり、あらゆる海岸部世界の繁栄は、そうした海上物流から始まるのであり、最初の王は彼ら海人族であったことは、想像するにさほど難しいこととは筆者は思えないのだ。


















海浜型前方後円墳の全国分布図と一覧表





海浜型前方後円墳とは、海辺を中心に、内陸部でも大きな湖や河川沿線に作られた前方後円墳である。海からの指標となるべく、小高い河岸段丘に多く造られたことから、海洋氏族の山あてや、賓客に対してヒエラルキー的権威を見せ付けるための墓である。

大まかな分布地

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 1



貼り付けた県名と数字は、それぞれ下にある一覧表のナンバーである。






一覧表の一例

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 2
かながわ考古学財団編『海浜型前方後円墳の時代』より一頁だけ転載
これ以外の一覧表は、ファンクラブブログのみに公開。
ファンクラブに入会するか、
専門的に詳細知りたければ上記著書を購入、あるいは祖所管などで借りてご覧ください。ただでは知識は手に入らないですよね。








詳細分布図
前期・中期と後期に分けてある。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 3

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 4
同書から編集



地域別詳細分布図はファンクラブブログ(会員制)にあります。
ディープかわかつワールド
ここでは関東地方だけを貼り付けて、おざなりに記事を終了します。あしからず。


Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 5


今後も重要資料となる垂涎の図表はそちらに貼り付け、ここはざっとしたものだけ貼ります。





























Viewing all 1881 articles
Browse latest View live