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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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前方後円墳成立期の畿内豪族の精神、朝貢と権威主義が大和を大王国家に激変させた

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 古墳時代の、特に前期・中期という比較的弥生時代に近い時代の古墳は、おしなべてその巨大さと中に埋葬された副葬品の豪華さはリンクしていない場合が多く、初期古墳は、主に畿内以東では「見せることに重点を置く」墓がほとんである。箸墓など、大和の墓は、いきなり巨大なものから造りはじめられるという、いささか風変わりな開始をしている。つまり中身が充実させられない分、外見の大きさに重点を置いた時期が畿内以東の初期前方後円墳である。要するに見せかけだけの「がらんどう古墳」だったわけであるが、このヒエラルキー過渡期の遺物として、弥生時代の銅鐸や、九州でも鏡やらを大きくしていく傾向に同じく、ヘテラルキーからヒエラルキーへの過渡期だった2~5世紀の列島事情をよくあらわす現象である。

 3世紀後半あたりからの初期前方後円墳の内容物は、まだ筑紫のほうが鉄製品も多く、ふんだんに鉄を使うレプリカ(実用品よりひとまわりも大きい鎧兜や鉄剣や金ハサミなどが出る)が副葬品として出てくる。その頃の大和・畿内の墓は、ばかでかさはすごいけれど、中身は貧弱で、実用的な武具や鉄器や製鉄用品よりも、祭祀に使う鏡や呪具、みせかけばかりの装飾品、土器のほうが多く、実力を伴っていないことが見てとれる。

 海浜型は、そうした中でも、特に海や河川や湖(琵琶湖や霞ヶ浦、あるいは各地のラグーン湖に沿う)から直接見える場所、高さを選んでおり、現在ではそこは森林となっていることが多い。これを「森つき自然保護林」の墳墓とも言うが、こんもりとして船からのよい灯台の役目も果たした。権威的墳墓である。これはやがて前方後円墳や巨大墳墓が衰退してゆくわが国のヒエラルキー願望によって形成された古墳時代というものを、実によく象徴した事物、現象である。

初期大和は、このように「中国に朝貢して認められれば国家」の時代に、他地域の眼をかいくぐり、どさくさにまぎれて、いつのまにか「国家」になっていた運のいい国だった。先住海人族を手名づけて、いいように案内させたうえで、彼らを捨て去り、差別し、いつのまにか大王家を担ぎ上げて東アジアにデヴューできた地域であることが想像できる。まことに運がいい。その時期が三世紀、つまり卑弥呼までの時代だった。まさに生き馬の目を抜くようにして倭王、倭国を詐称して、しらっと乗っ取ったわけである。最初は吉備・出雲が牛耳り、やがてまた別の王家がそれを転覆させ、何度かの政権交代の末に、7世紀に古墳終末期を迎えると同時に、大和朝廷なるものが飛鳥藤原に出現。藤原とは葛の井原という地名を良い文字に変えた地名である。






そうした眼で、前記事もながめてみてください。




柳田國男はなぜ民俗学をやめたか

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理由は二つあるだろう。
彼は高級官僚だった。
そして彼は家族を持っていた。


柳田の始めた民俗学は、被差別を冷徹に分析しつつも、いつも被差別を敬愛し、うらやむ自由人だととらえるところにあった。しかしいつの時代も、そのことそのものをとりあげることを、当事者は嫌う。殺されかねないことを書いていたら、言霊が作用した時代に、彼が家族を思い、いや、事実は自分自身の命すらあやういことに気づかなかったはずはない。

官僚には絶対に、許されないはずのことを、柳田は最初から描きたかったわけではない。分析するほどにそれしか考えられない・・・それこそが「敗者の古代史」を整合的に語れる「数学的論理」だったのであろう。しかし、客観は常に主観の渦の前では無力であった。理屈は通らない世界・・・異界の手が忍び寄る。


弟子である折口が登場したとき、柳田は才気煥発にして、恐れを知らずに済むこの弟子にすべて託したのであろう。世界の深遠を垣間見る能力がありながら、時代の常識人でもあらねばならなかった柳田にはそうするしかなかったのは当然である。


あなたはでは、この当時の柳田の「転換」を、変節した、ぶれた、と石を投げつけることができるだろうか?そもそも、被差別の中にある歴史の真実に気づいたときに、柳田は官僚も、家族も捨て、研究にまい進すべきだったのだ・・・と、例えば生きている彼自身にはっきり言えるだろうか?

それほどに、ひとりの人間を責めつけるほどの、人間と言う流されて生きるしかない存在のあなたに、明日はわが身だと思う想像力や優しさがないのなら、それはこの稀有な博学を地獄にいくしかなくすることだろう。

民俗学が、この国の自然科学や分析しようとする科学に与えたヒントはあまりに大きい。遠野の妖怪にせよ、それらがみな、敗者から生まれでてくる在地の反駁から生まれた、静やかなレジスタンスの表現方法だったことに、気がつけるためのヒントである。




呪(じゅ)という観念を、ただ一面でとらえて、それは恨(はん・こん)だけであろうと、人はよく間違える。往古、「呪」は恨みではない。それは怨念でもあったが、のろいでもあったが、実は「願い」であった。例えば真言は一種の呪文である。呪を負の一面だけでとらえたら、敗者の願いは、古代史は、絶対に見えてこない。

「のろう」という日本語の、おどろおどろしき情念だけを見ていたら、決して人の生き様の複雑さには気づかない。「のろ」は琉球では巫女である。巫女のなりわいは、呪うことにはない。むしろはかない願いの成就に彼女たちは存在する。

「のろま」という言葉には、まぬけな、馬鹿真面目で頭が悪いというほかに、彼らをほのぼのと許容する、愛すべき人という反面も存在する。





呪師や御師や修験者やを、厄を払ってくれる指導者と仰ぐ人も確かに存在した。
人は「せんない生き物」である。


極から極へと、人は簡単にものごとをとらえようとする。しかし、その人にも、また、表裏の人生はある。西洋の魔術に白黒があったように、日本の呪にも表裏があった。





熊野信仰や弥勒信仰、あるいは白山信仰やには、

この世をば憂しとぞ想ふ 人々を救う呪力があった。




私はいま、このブログをすべて削除してしまおうという気持ちが生まれている。
呪がのろうばかりの世の中に、今まさにりょうけんの狭い偏った世界に変わろうとしているからだ。人はそもそも、脊椎動物の祖先たちが、破壊的なけだものから隠れるところから、彼らとは別の進化のノウハウを見つけ出し生き残ったずる賢くも切ないクリーチャーなのだと(決して万物の霊長などではなかった)ことに気が付くべきである。弱者だったからこそ脳を成長させた敗者一歩手前の存在だった。そもそもは、正統ではない、消えるべき生命体、絶滅危惧者だったにほかならない。厳寒の氷河期を、彼等はだから生き残る。


そこに呪がなかったはずがない。



柳田國男は、そうした、人類の生き残りのための創意工夫を、被差別にこそ見出したのである。




そこに野性の生き様を見たのである。それまで、ここに気がついた人間は、彼しかいなかった。そうした意味で、柳田は人間の生きるの根底に行き着いた明治の杉原千畝だったと筆者は思っている。



このブログを自分がこのまま続けていいかどうか、筆者には判断できかねている。私は平成の柳田になればいいのか、あるいは杉原になればいいのか、それとも、もう無名の隠遁者になったほうがいいのかが、わからないでいる。時代が変わってゆく。























レヴィ・ストロース野生の思考 パンジー

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ストロースが象徴的に用いたパンセ(Pensées仏)(野生種三色すみれ、英・パンジー)
誰の目にも、確かにパンジーの花は、まるで人間が物思いや思考している顔つきに見えてしまうという造形の不思議さがある。老いた哲学者か宗教者が、晩年になって、深く沈潜した書斎で考え事をしているかのようである。もっとも、そのわけは現代科学ですでに分析済みで、すべての人間には三つの点を顔に見てしまうという性癖が植えつけられているとされており、そのわけは、生まれてすぐに親の顔を認識し、より早く安全を確認する必要があるからではないかと言われている。それがつまり野生が自然に選んできた手法であって、ひとり人類だけの特性ではないらしい。パンジーの顔のような花も、おそらくこの生物全般が獲得した三点凝視の特性をとりこんで、おのれの「性器」としての花びらに虫たちが惹きつけられることを熟知して、選択したデザイン=野性の思考の所産であろう。


Penséesには思考・思想の意味がもともとあり、これをタイトルにした最も著名な哲学書には、『パンセ』(: Pensées 晩年のブレーズ・パスカルの作品)がある書物を構想しつつ書きつづった断片的なノートを、彼の死後に編纂して刊行した遺著がある。


「『野生の思考』(やせいのしこう、仏: La Pensée sauvage)は、1962年フランスの人類学者・クロード・レヴィ=ストロースによって発表された著作をさす。表紙には「思考(pensée)」と「パンジー(pensée)」を掛けて野生種のパンジーである三色スミレが描かれる。」




野性の思考についての彼自身の解説や、Wikiの解説では、おそらくほとんどの一般人には、ちんぷんかんぷんな難解な反呪文ではなかろうか?

その基盤を形成している「構造主義」とは、もっと簡明に説明付けられぬものか?


人類学の大島直行はこう書き換えてある。

「人類の誰もが遺伝的に持っている脳の生理機構に根ざしたものの考え方のことです。たとえば世界中の民族にはそれぞれに「神話」があります。現代人の科学的思考からするとありえないような話が神話にはたくさん出てきますが、それは「史実」ということではありません。実際に起こったことを叙述しているのではなく、なぜ「もの」(動物・植物・鉱物)が存在し、「こと」(気象・自然)が起きるのかについての「考え方」(野性の思考)を述べているのだとレヴィ・ストロースは指摘しています。長い間、人間はもっぱらこうした思考方法でものを考え行動してきたのです。」
(『月と蛇と縄文人』2014)




この著作で、大島は巻頭にフランス哲学者ギョ-ム・フェルロの次の言葉を置いている。

「人間はそれほど速くは変わらない。人間の心理は根底のところは同一である。もしも人間の文化が時代と共にかなり変化するとしても、それはまだ、人間の精神性の機能を変化させるものではない。精神の基本的な法則は、少なくともわれわれの知るごく短い歴史時代については、変わっていない。そしてほとんどすべての現象は、どれほど奇妙なものでも、われわれ自からの内部でたしかめることができる精神のこれら共通の法則によって説明されうるはずである。」


また考古学の先駆者ネリー・ナウマンはこうも指摘する。

「土器や土偶が奇妙奇天烈な形に見えるのは、その太古の製作者たちの造形技術が拙いからではなくて、独特の世界観(神話的世界観)によって表現されているからだ」




筆者の敬愛する作家D・H・ロレンスは
「人間は馴致される生き物である」
と書いた。

フランスのエッセイスト・哲学者のロラン・バルトは、
「あらゆるものが名状された(名前付けされている)世界に人間は生まれてくる」
(『エッセ・クリティック』)

と書いた。




人間は、おしなべて、生まれたときから既存の固定観念=名状されてしまっている=認知され定説化されてしまった常識世界に放り出される。その世界は、大人からの、時として素直には受け取れない解説で満ち溢れていて、ある年齢に達すると子どもは、必ずそれらの常識に反発したくなる(反抗期)。その常識が苦痛だと思うのである。ところが成長し二十歳を過ぎる頃になると、むしろのその苦痛を心地よいものとして取り込んでゆくようになり、最終的に馴致される。つまり人間は反発によって成長し、やがて飼いならされることの快感を選択するように造られているわけである。だから容易に常識は覆らない。

マゾヒストや痛感による自己批判をこととする宗教者があるように、実は苦痛はいずれ快感をもたらすように人類を構成してあるらしい。

野性の思考は、一見非常に稚拙にみえて、空想物語りのように荒唐無稽な形や事象を言い伝えてきた。しかしそれは決して嘘八百のでっちあげとかではなく、象徴的にデフォルメしたデザイン画なのである。言外にあるのは、何万年も受け継がれてきた人間としての出自や宇宙の成り立ちを言っているのであり、それが野性の思考の所産だと言うのであろう。


だから神話の多くが、ある一面では眉唾であるにも関わらず、大きく逸脱せずにあらゆる民族が共通的に共有でき、しかも大きな視点では真実をついていることに気が付かねばならない。

しかし・・・大島はこう述懐する。多くの考古学者つまり科学は、久しくその点に気づかなかった、いや気づいても無視するしかなかった、神話や土偶の不可思議な形状を分析するためのノウハウを持てないままだったのだと。科学は、仕方なく、分類と分化を旨とするほかはなくなる。事物や事象に人間的な解釈をするのは、文科系学問にまかせるほかなかったのだった。

例えば考古学者、故・佐原真は、立派な科学者ではあったが、九州の装飾古墳に描かれた古代人の壁画を、先入観で最初から稚拙な時代の産物と決め付けてしまい、幼稚園児のらくがきを持ってきて、真面目に研究書で比較した。佐原には人間、古代人の心である野性の象徴性というものに気づく手段がなかったのである。そこには分析はあっても人間哲学がない。人間が思考によって、洗練よりもデフォルメを選ぶこともあることに気づかなかった。それはまさに、科学者、考古学者の決定的欠落部分を象徴的に示す事例である。それが科学の基本的スタンスだったからだ。佐原にも、師匠である小林行雄にも、おしなべて多くの科学者・技術畑の人、理科系に、そういう人間的、文科系的、総体的な視野の欠落があったことは否めない。ゆえに彼らの欠落は、久しく先達の巨塔の前に無力で、変わることができないままだった。つまり困ったことだが、原爆を落としていいかに考えをいたすよりも、作り出した新しい武器がどんな効果を持っているか実験する快楽と欲望に勝てなかった。子どものように彼等は結果を待ち、それが悲惨であればあるほど満足に浸れたのである。しばらくして、彼等は、その結果の罪深さにやっと気づいたのだった。





考古学は、掘り返した事物を粛々と分類、仕分けしてゆき、やがてそれら事物に研究室を占拠されるころになって、ようやく、「はて?なぜ土偶って女性ばかり?なぜはだか?なぜ壊れているの?」を考えることができるようになった。編年のためにしかなかった学問が、他人には苦痛の作業にしか見えない穴掘り作業・分類作業という苦しみの行き着いたところで、やっと文科系的な、人間は考える生き物であったことに気づくのであった。こうして「古代学」が登場した。



彼等が欲しかったのは数値・数学的な、たったひとつの答え、分類の結果把握できる、この時代、この地域の縄文人はこういう形状を好んで作り出すのだ・・・たったそれだけしか、自信を持って他者に語ることができずにいた。だから殺伐とした横書き専門書の中で満足していた。過去の先達の考えたあやまった定説を証明することが、考古学だと考えてきた。つまり学界のシステムの束縛を喜び、快感とし、そこで学位なり出世なりをすることだけが学問であると、馴致されてきたのである。


しかし、古代人には、いや人類には、ストロースたちが気づいたある共通の思考で行動する性癖がある。そこからが実は学問の始まりなのだった。


ところが、文献以前、つまり有史以前のことは文科系史学者にとっては専門外である。したがって彼らにも限界があり、これまた既存の歴史書から考古学的遺物・遺跡を判別するしかない。

これでは、ふたりの目クラが、巨大な像をさわって、ああでもないこうでもないと言っているのと同じなのは当然だろう。木を見て森が見えていない。


人類学・気象学・遺伝子学・民俗学そして哲学こそが助けてやっと「人間の生き方」という最も学問にとって大切な到達点への道が開いたのである。


総合学問の究極が哲学である。
哲学の法則を探すことが、実はあらゆる謎めいた遺物の裏側にある、古代人の行動様式を知ることになる。やや極論ではあるが、これを知らない研究などは、なくてもよい研究でしかないと言っても過言ではない。史学も考古学も、そのための手足に過ぎない。そこに権威など必要もない。ただの作業でしかない。これに気づいている学者の本以外は破棄しても困ることはない。ただ、読み手がそれに気づくまでに、また何十年も時間が必要だ。なぜなら人類は失敗を糧にしてしか、真実にたどり着けないおそまつな脳みその持ち主だからだ。場合によっては動物たちの野生の勘や組み込まれた本能=宇宙の摂理のほうが随分ラジカルで整然としている。



先土器の時代は悠然と数万年の時を冗長的に過ごし、あたかも贅沢に時間をうしろへ切り捨てていったかに見えてしまう。海峡を越えるだけのことに何千年もの時をついやする。流木にすがることに気づくのに何百年。そこから船に気づくのに何百年・・・。しかしサルはあっというまに丸太にすがって海をわたる。それを見て、「そうか」と気が付くのが人間である。本能が教えてくれないからである。そこには逡巡と失敗ばかりが山積され、サルから見ればまるでばか者に見えることだろう。


野性の思考には、薄くなり始めたサルから人類への過渡期の本能が、まだあることを想像させてやまない。宇宙の描くシステム=歴史ではそれを神話と呼び、科学では哲学と呼ぶ・・・の姿を、土偶や環状墓群や集落は、素直に受け入れて、そのままに形にしてある。だからあらゆる世界の古代人には共通性がある。まだ発想のバラエティが生まれておらず、シンプルで、あっぱれなほどおおらかである。





なぜ円を描いてより集ったのか?
なぜ裸の妊婦を人形にしたのか?
なぜそれを壊して埋めたのか?
なぜ蛇を描くのか?
なぜ炎を描くのか?
なぜ渦巻きを好むのか・・・?


考古学ではその答えは用意されていない。
だからぼくらが考えてあげるしかない。

技術者では考えることが不可能な、人々の内面には、むしろ学者ではないほうが気づきやすい。なぜなら一般人は、摂理に流されてきた縄文人の生き方とさほど変わりない生活を送っているからである。

官僚や役人が、何十年経っても実行できない、気づかない、世界共通の人間行動の謎に、ぼくやあなたはすでに全員気がついている。それと同じことである。


彼等は野生を忘れ、馬鹿にし、この世界にあふれている謎とその神秘とヒントを、ヒントだと気が付かぬまま死んでいく人種である。なぜなら数字でしかものごとを考えられないように馴致されるからである、職場で。その最短、最良の方程式にいきつける天才など、彼らの世界からはおおかた除外される。天才は迷惑な化け物であり、モンスターであり、図書館と言う人智の動物園の折の中でしか息をすることを許されない妖怪である。だから図書館に行きたまえ。幼い頃から日参しなさい。真実はそこにある。ほかのヒントはそこへの行き道にいくらでも転がっている。できるだけ長く歩いて、そして深く読め。





















反閇 へんばい

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御園花祭2013榊鬼(問答、ヘンベ踏みから引つ込みまで)         







へん‐ばい【▽反×閇/返▽閉/▽反陪】

1 「禹歩(うほ)1」に同じ。
2 1からきたもので、日本芸能の特殊な足の踏み方。「翁(おきな)」「三番叟(さんばそう)」の呪術的な足づかいや「道成寺」の乱拍子など。







陰陽師が邪気を払い除くため呪文を唱え大地を踏みしめ,千鳥足に歩む呪法。三足,五足,九足などさまざまの種類がある。平安朝以来天皇・将軍など貴族の外出にあたって多く行われ,悪い方角を踏み破る意味があるという。土御門(安倍)家の秘法では反閇のとき燃灯し,水,米,大豆,ゴマ,アワ,麦,酒,生牛乳などを用意して散供(さんぐ)を行う。平安朝,陰陽道の進出につれ,日本古来の鎮魂の作法が反閇と習合し,神楽が芸能化する中世にはそれに伴って反閇も《翁》《三番叟》《道成寺》など猿楽にとりいれられ,乱拍子(らんびようし)などとも呼び,祝福的意味をもつようになった。                                                          




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今城塚古墳巫女埴輪
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力士反閇埴輪


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福島県清戸迫横穴墓




少なくとも最古は古墳時代からあった鎮魂の所作。
相撲の四股、各地の追儺行事、神楽などに受け継がれて今も残存する。



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大元は中国少数民族の追儺的な来訪神を迎える所作にあると言われる。
神仙思想の鎮魂所作。
大地踏みともいい、道教的禹歩の中の一所作。



東アジアなどの各国為政者・王に義務付けられていた平安を祈り、災害を防ぐ所作。




片手を腰にあて、片手を水平にのばし、千鳥足に歩きつつ大地を踏みしめる。地固め、地鎮の意味を持つ。王が国土を巡回し、隅々まで足を入れるのと同じ意味。

禹歩とは夏(商)王禹がこの所作をした、あるいは彼自身が生まれつき「いざり」=片足が不自由だったことから。片足が不自由つまり「びっこ」である理由は、山川を歩き回ったためとされるが、多くの山の職能者たち(山猟師、山師、鉱山師など)が足を痛めることが多かったことの象徴でもあろう。事実、夏王禹は山野開発、河川開発、そして鉱山開発の祖。これらはみな、王としての義務でもあった。これを日本では「おおさき」「おおさけ」「蹴る」「大山咋 おおやまくい」「溝杭 みぞくい」などと言う。すべて新天地や悪しき土地を国土開発、開闢した祖人、地主、その結果為政者となった人の意味である。

















豊饒 ぶにょう 「とよ」「け」「きび」と邪馬台国と倭五王と

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豊饒 ぶにょう
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大分県大分市南部の地名 南大分地区




【饒】
[音]ジョウ(ゼウ)(漢) ニョウ(ネウ)(呉) [訓]ゆたか
有り余るほど多い。ゆたか。「饒舌/肥饒・富饒・豊饒」
[名のり]あつし・とも・にぎ

【豊】
音読み 呉音 : フ(表外)
漢音 : ホウ(ホゥ)
慣用音 : ブ(表外)
訓読み 常用漢字表内 ゆた-か、とよ
常用漢字表外

「豊」と「豐」は元々別字。「豊」は、「豆(たかつき)」に供え物を整えておいた事を意味する会意文字、レイの音を持ち「醴」の原字、「禮(礼)」に音を残す。「豐」は、音符「丰(ホウ)」×2+「山」+「豆(たかつき)」の会意形声文字。「丰」は穀物の穂で、たかつきの上に収穫した穀物の穂を山盛りにした様。「峰」等と同系。

(おまけ: たかつき 地名の高槻、高月などはその土地に大きな槻の木が生えていたからだという由来が多い。槻木とはケヤキ。ケヤキの名の由来は「■ ケヤキの古名は槻(ツキ)である。ケヤキの材質は堅いうえに腐食しない強靱さを持っている。そのため、ツキの語源は強木(つよき)だったとされている。あるいは、古代には神の依り代として神聖視されたため、「斉(ゆ)つ木」=「斉槻」(ゆつき)に淵源するという説もある(辰巳和弘)。槻(つき)の名称がケヤキ(欅)に変わるのは、平安時代の終わり頃らしい。「際だって目立つ」という意味の「けやけし」から「けやけき木」と呼ばれるようになり、それがなまってケヤキになったとされている。」keyaki は往古から西日本では街道の目印になった樹木で、関東では榎が多い。百枝を空に突き出す聖樹としてケヤキは記録があり、くすのきと並んで高木信仰のイメージツリーの意味も持つ。「つき」は「つえ」にも変化し、地名に反映する地域もある。これは杖が古今東西、高木信仰の「みつえしろ」だったからであろう。西洋では聖者の持つ杖はやがてクリスマスツリーになった。ただし「つき」は「調」で租税も指すので、租庸調に関わった地域ともかんがえられる  )
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-5/2011_07_07.htm

漢音と呉音発音の使い分けをする意味
「音読みには呉音・漢音・唐音(宋音・唐宋音)・慣用音などがあり、それぞれが同じ漢字をちがったように発音する[2]。たとえば、「明」という漢字を呉音では「ミョウ」と、漢音では「メイ」と、唐音では「ミン」と読む。
漢音は7、8世紀、遣唐使や留学僧らによってもたらされた唐の首都長安の発音(秦音)である。呉音は漢音導入以前に日本に定着していた発音で、通説によると呉音は中国南方から直接あるいは朝鮮半島(百済)経由で伝えられたといわれるが、それを証明できるような証拠はない。唐音は鎌倉時代以降、禅宗の留学僧や貿易商人らによって伝えられたものである。

慣用音は、上記のどれにも収まらないものをいう。百姓読みなど誤った読み方が時代を経て定着した音読みが多い。「茶」における「チャ」(漢音「タ」・呉音「ダ」・唐音「サ」)という音は、誤った読み方ではないが、漢音と唐音の間に流入した音でどちらにも分類できないため辞書では慣用音とされる。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E8%AA%AD%E3%81%BF



呉音は仏教用語に多く、日本の正式仏教がその由来を中国南部江南地域から(最初は空海ら)もたらされたためだろうと想像できる。だから地名で呉音を使う土地は、有力寺院が開発した屯田などであった可能性がまずは考えられる。

豊饒は「ほうじょう=豊穣」に同じで呉音発音する土地である。豊を「ぶ」、饒を「にょう」と読ませるのはいずれも呉音であるから、ここもおそらくそうであろう。河川に沿う低湿地で、栄養分豊かな土地である。隣接して「畑中 はたけなか」地名がある。こちらは豊饒地区よりも河川から遠く、水田には不向きだった地名になっている。

一方、豊は大分県全体を豊と呼び、国が割譲されてからはやはり呉音で「ぶぜん・ぶんご」となったので、呉音国名になっている。「ぶん」は語調整備の慣用音(「ぶご」は言いにくくすわりが悪いため)。大分が往古は豊であった理由は、1 豊かな土地だったから(文献記紀由来) 2正反対に悪い土地だったが、言霊思想でよい意味を持たせる日本の習慣 3 奈良時代の二文字・良文字地名改正命令から などが考えられる。「とよ」の訓は、本来この文字にはないことになっているが、すでに8世紀の記紀にはとよの音が出ている。

「次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。」

豊国造・・・豊国(とよのくに)は、かつて日本にあった律令制以前の国の一つ。『国造本紀』によれば、成務朝に伊甚(いじむ=上総国東部=千葉県海岸部)国造と同祖の宇那足尼(うなてのすくね)が豊国造に任じられたとされる。

また神功皇后の本名が豊で、紀氏の祖・武内宿禰の妻(=山下影姫のことか?)だったからという説もある。豊前の田川郡に香春神社があり、祭神に息長帯姫大目命があり、その子?が豊比売とされているが、父は天忍骨命(=天忍穂耳命か?)で、この親子を神功皇后と武内宿禰あるいは仲哀天皇(たらしなかつひこ、ヤマトタケルの子)と見ることはさほど空想物語ともいえまい。なんとなれば豊前には「なかつ」地名が二箇所あって、福岡県側の行橋市がかつての仲津郡、大分県側が中津市である。また国造が同祖を持つという「上総 かずさ」国は隣接する上野国などとともにかつての親王任国であるが、つまり天皇家直轄地という意味で「けのくに」(け=神饌=毛を出す国)でもあり、豊前にも上毛郡・下毛郡(こうげ・しもげ)がある。

別に吉備国(岡山県東部)と宇佐は兄弟という双方の神社伝承(吉備津彦神社・宇佐神宮)があり、吉備国についての記紀記録に多い「吉備臣」は、吉備地方の諸豪族の総称的に使われ、実際には存在しない氏族名(あったのは笠・上道・下道臣)であるが、造山・作山の大前方後円墳が作られる5世紀前半から、吉備には「わかたけひこ」=稚武吉備津彦(大吉備津彦の先祖)がいて、この「わかたけ」が記紀の書く雄略天皇(わかたけ)のことか先祖のことを指す可能性が言われている。武内宿禰に関わるヤマトタケル(おうすのみこと)が雄略をモデルとしていることから、武内=ヤマトタケル=ワカタケというコラージュも考えさせる。さらにワカタケがワカタケルと同一人物であるならばそれが『宋書』の倭王武かとなり、九州と関東で出た鉄剣銘文の「ワカタケル」「オオヒコ」「タカリスクネ」「タカハシワケ」「タサキワケ」「オワケ臣」「ムリテ」などの人名が吉備津彦と並んで四道将軍だった大彦が筑紫国造や武蔵国造の祖であることともなにかの関係があると感じられ、北部九州と北関東の大古墳氏族がそもそも同族で、いずれも倭王の子であった大彦から派生、吉備津彦とも同族だったという見方もできるだろう。

オオヒコが葛城のソツヒコ系譜=武内宿禰系譜だと見ると、少なくとも5世紀前半前後に、近畿や吉備地方で、彼らはのちの王家に匹敵する大豪族となっており、三世紀の纏向遺跡から出土する吉備系祭祀土器や東海系・丹後系といったきわめて海人王国だった地域の実力者たちが、武内=葛城・木の一族であったことを想像するのは難しいことでない。つまり倭五王の後半部は、卑弥呼の時代から吉備系氏族が王家であったのであろう。そして前半部は武とは系譜の違う王家だったとか?ただし紀氏が九州から葛城氏よりも先に入るとするなら、前半は木、後半は葛城とも受け取れるかもしれず、倭五王系譜が武内系譜で、外戚・親族関係で一貫していた可能性も破却できない。



吉備を中継地として豊・北部九州と北関東各地が、大海部として天武以来の天皇家に海部として神饌海産物や大分君などの武力提供などがあったことが、これらのえにし記事の大元であったかも知れない。

参考 加藤謙吉『日本古代の王権と地方』


次回、飯高と日高 元正天皇乳部氏族と「ひたか・いいたか」




おまけのおまけ
「きび」を卑弥呼の本名と考えると、「とよ」は「臺與」の文字変換と?

すると宇佐と吉備が兄弟という伝承はにわかに意味が見えてくるか?





意須比の飯高・日高・日田・飛騨・日高見と元正天皇と紀氏 采女飯高諸高

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第44代元正天皇 (日本根子高瑞浄足姫天皇。草壁皇子の皇女。母は元明天皇。)
「為日高皇女<更に新家皇女とも名乗る>之病・・・云々」
『日本書紀』天武天皇十一年八月巳牛

「 諱(いみ名)飯高、のちに氷高」
『群書類従』第三輯(帝王部)巻第三十二 
『皇年代略記』 元正天皇の段

紀州飯高(いいたか)は今の三重県日高郡(現在は三重県松阪市あたりにあった郡)である。

だから日高は飯高でもあったのだろうと成城大学史学非常勤講師の中川久仁子(なかがわ・くの)が書いている。(『日本古代の王権と地方』加藤謙吉編「飯高諸高」 2015)

ここを飯高(山)と言うのは、山の形状が飯を盛り上げたような形であることは言うまでもなく、ここに丹生地名もあって鉱物が謙譲されるために「いひ」=献上物、貢物・・・総じて「毛」であるから神饌となり=飯の山だとなる。こういう地名は飯田、飯塚、飯森、飯盛山、飯井、井伊などなど全国に多数ある。

その「いい」が、なぜ日高に置き換わったかは、民俗学では「いひ」・・・「ひ」は置き換え可能な発音だったとかなりあいまいな説明がなされてきた。「いひたか」と「ひたか」が音の似た単語だとはなかなか一般人は感じないだろう。
これを考えるのに、飯高に掛かる枕詞「おすひ」がヒントになるか。
「倭姫命世記に「飯高の縣の造の祖、乙加豆知(おとかずち)命に、『あなたの国は何 というのですか』と問うと、『意須比(おすひ)飯高国』と答えて」
http://kumoi1.web.fc2.com/CCP099.html

「「意須比」は飯高に係る枕詞。
『古事記伝』巻11に淤須比遠母は意須比と通うとして、
 「倭姫命世記に、意須比飯高国とあるは、食器に物を盛を、
 余曽布とも意曽布とも云、その言にて、意曽比たる飯高しと云意の、
 枕詞なれば、此とは異なり、されど事の意は、本は一ツにおつめり、
 此ノ意須比を儀式帳には、忍とあるは、比ノ字の後に脱たるなるべし、
 強てよまば、忍ノ一字をもオスヒと訓べし」と記す (宣長全集:9-473)。」
http://www.dai3gen.net/ihitaka.htm

「意須比」は「おすひ」とも「いすひ」とも読ませ、もともとは僧侶や、もっと古くは祭祀者・巫女が肩から斜めに掛ける袈裟のような衣装の呼び名である。以前ここでもこれについて調査し、今城塚古墳の巫女埴輪の画像をつけて解説した。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/48801913.html

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ということは、「意須比の飯高国」とは、祭祀場としての代表である飯高という慣用句だったことに気がつくのである。また上記引用文に宣長も書いているように、「おすひ」の語源が飯を盛ること=「よそる」「よそう」にありというのは、「よそう」から「よそおう」が出て、飯を盛ることと衣装を着ることが、ともに祭祀者の大事な役柄でもあったことに気がつくのであるが、ではなぜ「よそふ」が「おすひ、いすひ」と同じなのかは宣長は書けないままであるのは気になる。

伊勢の豊受が神の食事係であるように、巫女には神のために神饌を用意する「飯豊」「炊屋」(いいとよ・かしきや)という重職があり、だから当然、巫女の衣装はエプロンもかねている・・・タスキと斜めの袈裟布をしている理由はここであるとわかるのである。


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つまり「おすひ」は「お・すい」「御炊飯」なのだ。巫女である女帝の推古天皇の名前は「炊屋姫」である。この「かしき」は山の鉱山でまかないをしていた飯炊き女を「かしぎ」と呼んだこととまったく同じである。「飯」地名が時として山の形もさることながらそこに鉱山があったこととリンクする理由はここにある。

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紀州飯高は伊勢丹生水銀の鉱床を持つ山々で、だからここを丹生と言うのである。つまり「いいたか」とは鉱物がある高い場所であり、水銀は弥生の昔から、死者再生の赤を生む鉱物ゆえに、ベンガラとも混同されて赤=再生=永遠の生命=王者、聖者の力の象徴であり、それを用意するのも巫覡たちの重要な仕事であるので、これも神饌、贄ということなのであろう。これは仏教なら斎(とき)である。神饌やお斎は必ず三宝、高槻、斎膳に乗せられて神前・仏前に置かれるゆえ、飯は槻とも同源の地名・職名の元である。

さて、ならばその「いひ」がなぜヒタカになるのか?「ひたか」は日が高い、よく地上を照らす山の頂上と考えられる。また、別に同じ意味で、「日鷹」「忍坂」「逢坂」「おさか」などが地名にはあっただろうと考えていい。「おす」は「押す」であると同時に古代では「食す」と書いても「おす」だった。「食す国」と書いて「おすくに」と『古事記』などにある。「おすくに」とは農産物や海産物や鉱物が豊富な国・・・つまり豊饒国を指す。「とよ」の国=葦原中つ国=秋津島=そらみつ=まほろば=・・・

ゆえに先の推古女帝も「とよみけ」がつき「かしきやひめ」なのだ。さしずめ豊食炊飯姫である。いつも白い割烹着で、忙しく飯を炊いている姫・・・=巫女、斎王である。伊勢斎王の「斎」も当然食事係りという意味である。だから豊受大神が稲荷神だと言われるわけである。どちらも神の食事をまかなう役目の神なのだ。今でも金沢などで、野外炊飯することを「かしき」「かしぐ」という地方がある。往古これを「炊爨」と書いた。今なら飯盒炊爨である。


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かしぎ
金沢美術工芸大学の飯盒炊爨



すると、「おし」も「いひ」「ひ」と同源だと考え付く。すると逢坂という地名が忍坂の「おし」から生まれるかと思いつく。谷川健一は「いい」「おう」「あお」は青山地名で墓所として同じだと書いている。すると天皇の名代部である「忍坂 おしさか」部から出た「刑部 おさかべ」の「おさ」も「おし」ではないか?あるいは「おほさか」もそうか?となるわけである。

刑部は字のごとく「裁判によって刑を下す」人々で、三重県四日市町坂部に刑部神社を置く氏族。

天皇の養育係はこの刑部や乳部や忍坂部や坂部、坂合部がやることになっていて、即位前の親王の名前の多くがこれらになっている。例えば天武は大海部皇子、天智は葛城皇子で、オシサカを名乗ったのは允恭天皇の娘の忍坂中津姫で、忍坂部や刑部は彼女の世話を焼く名代部から始まったと、まあ、史実の前倒し解説記事として置かれる。「なしろ」「ちちぶ」はつまり武家の「乳母=メノト一家」なのである。乳母。

ただの乳母ならなにも問題はないが、ややこしいことに場合によってはここから天皇に嫁が出ることがあり、そうなるとその実力はただの飯盛り、乳やり女どころではすまなくなり、持統女帝の食事係ともなれば、記紀ではアマテラスの豊受たり得たわけであるから大したものだ。豊受女神はもとは若狭宮津の籠神社の神。つまり海人族海部氏の氏神だ。おすひのデザインの多くに青海波(せいがいは)があるのは海人族巫女だからだろう。

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そういう最古の氏族に倭直氏などがあった。「やまとのあたい」、倭国造一家である。例の黒塚古墳そばに大和神社がある。この氏族から出るのが例のアマテラスの巫女倭姫やモモ襲姫である。やはりアマテラスを祭る巫女になっている。その後裔が伊勢斎王になるのである。しかも大和の国名の元でもあり、倭人の大元でもある。つまり邪馬台国の有力氏族候補のひとつで、椎根津彦つまりうずひこの子孫である。

今の大阪府は「おおさか」であるが、元は「尾坂」「小坂」となっており、あとから大きい坂になった。これは京都の大原がもとは小原だったこととリンクする。大阪の「尾坂」とは今の奈良県櫻井市と大阪府八尾市を結ぶ「忍坂街道」から生まれた地名だろうから、もともと「おしさか」「おっさか」から転じたのが「おほさか」ではあるまいか?小さい坂地名だったなら「こさか」が東大阪市生駒山の麓にあり、「こさか」が由来ではあるまい。やはり読みは「おさか」なのである。室町時代、 蓮如上人の『御文章』に書かれた「攝州東成郡生玉之庄内大坂」が最古の文献となる。むかしは摂津国で、大坂と改めたのは秀吉である。

では大阪に坂はなかったかと言うと、生駒を越えてすぐ大阪湾だった往古には、今の埋立地の大阪市まではゆるやかに傾斜してはずで、蓮如が書いた東成の玉造は、上町台地まで上がる坂にある。
大阪城をここに建てたから秀吉はここを大坂としたのである。もとは「おっさか」であろう。

京都と滋賀の間の峠が和歌で有名な逢坂山である。ここも「おうさか」だがそもそもは「あうさか」で、双方から山を登って出会う場所、つまり峠の踊り場的な地名が逢坂山である。しかし考えてみたら、山はどこでも坂と坂を登れば頂点で出会う峠があるもので、特に変わった地名とも言えない。ここももしやオシサカ部や坂合部らが居住したからかも知れない。彼らは宮廷守護も役目なので監視地点である高いところにいただろう。その坂合部(さかい・べ)は境、堺にいるので、地名もそういうところが怪しい。

「「和名類聚抄」にはみえないが、「正倉院文書」に「川辺郡坂合郷戸主秦美止保利」とあるので、この時期には一時(秦氏が請け負って)郷として存在していたのであろう。現在尼崎市内に上坂部・下坂部の地名があるが、この辺りを指していたのであろう。当地域は古代においては坂合部の居住地であったと思われるが、坂合部は「新撰姓氏録」摂津国皇別に大彦命の後裔氏族としてみえ、同祖の氏族に「久々知」を載せているので、隣接した所を居住地としていたらしい。坂合部は「新撰姓氏録」に「允恭天皇の御代、国境の標を造立し、因って姓を坂合部連と賜う」とあり、境界を定める技術をもった職業部とされるが、当地方の坂部という地名は中世に「酒部」と書いたものがあり、『摂津志』も上坂部を注して「坂は一に酒に作る」とあることから、酒部の居住地とする説もある。また、「新撰姓氏録」逸文に阿智王とともに渡来した七姓の漢人〔あやひと〕のうち「郭〔そうかく〕」という姓をもつ漢人の子孫に坂合部首があり、外交に従事する渡来人を管理する坂合部氏の本貫地とみる説もある。坂合郷に秦氏が居住していることからみて後者の説が妥当ではないかと思われる。」http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E5%9D%82%E5%90%88%E9%83%A8

久々知(くくち)は菊池で、熊本由来であろう海人族である。だからこの場合の秦氏というのは氏ではなく部であるから秦を半島から運んで親戚となった波多野などの部であろうか。彼らが差別される前後から菊花を紋として、やがて武家として復活するのは間違いあるまい。そのまま部や賎民のまま漂泊者となったものは江戸期まで菊花を用いたようである。熊本に菊地名や菊花紋を持つ古墳が多いこととなにか関係するか?熊本には同じ名代部だった的臣や靫負氏族、日下部、大野馬牧の部も多く入れられたはずである。それは熊襲対策、中国侵略者や琉球流民対策でもあろう。

坂合部氏にもやはり秦氏子孫系譜とオオヒコ子孫系譜が混在したようだ。筑紫国造らが多氏系譜とオオヒコ系譜を同時に持つのは、国造氏族たちが時代によって代替わりしたからではなかろうか?ということはそれを指示した王家そのものは変わったということになる。

いよいよ日高だが、東北蝦夷の敗北後に飛騨とか阿武隈山地一帯、津軽などをヒタカミ国と称したのは、彼らの俘囚が西日本でも日田、飛騨、紀州日高など山深い場所を隠棲していたことと関係するか?日が高い場所とは一概に言えず、朝廷に税を簒奪される部にされたからかも知れない。筆者小学生の同級生に日高さんがいたが、しかしどう見ても蝦夷のような濃い相貌ではなかった。紀州飯高からは元正~文武天皇関係で日高の諸高が出ている。

飯高諸高 いいたかの-もろたか
698-777 奈良時代の女官。
文武(もんむ)天皇2年生まれ。伊勢(いせ)(三重県)飯高郡の豪族飯高氏からはじめて朝廷に貢進された采女(うねめ)。宝亀(ほうき)7年従三位にのぼり,典侍(ないしのすけ)をつとめた。飯高笠目(かさめ)と同一人物とする説がある。宝亀8年5月28日死去。80歳。
https://kotobank.jp/word/%E9%A3%AF%E9%AB%98%E8%AB%B8%E9%AB%98-1051944

飯高郡には「飯高県造」という豪族があったという。

「いいたかのあがたのつくり」
『古事記』に三重采女(みえのうねめ)という記述がある。
水銀交易によって地固めし、元正天皇に笠目という采女を出しているのが最初である。

元正天皇は日高(氷高皇女)であるのだから、彼ら飯高氏に育てられたのである。『高橋氏文』『東大寺要録』には元正を「飯高皇女」としてある。
また別名の新家皇女とは、三重県にあった屯倉が津市の新家にあったからだという。
宣化天皇元年、物部麁鹿火(もののべ・あらかい 守屋の祖父)は新家の穀物を筑紫那津宮家まで運ばせたとあるが、これは彼が継体大王の磐井の乱で勝利して筑紫を管理する国造家にとって変わったためであろう。

飯高郡の隣に壱志郡(一志 いちし)があるが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%BF%97%E9%83%A1
郡名の発祥は江戸から明治期なので、それ以前はここもやはり今は松阪市の一部でかつては飯高郡だったはずである。この「いちし」から「いひ」が出るか?松坂は宝塚古墳があるように、水の祭祀と船形埴輪やV字型王杖が有名で、まずは海人系祭祀氏族がいたと考えてよかろう。それが諸高を出す飯高県造氏だった可能性は高かろう。諸高はまず元正に仕え、文武を養育したと見られるので、名代部である。

「いちし」から「いひし」「いい」が出て日高が飯高になったのだろうか?それとももともとは「いたか」が祭祀氏族巫女となってから飯高であろうか?

「いたか」ならば「いたこ」という恐山の巫女を思い出す。「いた」が「ひた」に変化するのは容易だろう。あるいは逆も。すると東北で蝦夷が敗北した奈良時代に、多くの開拓者が入っているのはもしや彼らや紀州の木部たちが多かったためか?それが紀州や九州での祭祀の民間伝承者だったか?

津軽の日高見国伝承が出る背景は、奈良時代以後を遡るまいから、彼ら開拓者の考え付いた朝廷・中央への呪や、紀氏本体から受け継がれた敗者反骨の精神が生み出す観念であろうし、日本中央碑などを作ったのもそうした追いやられた歴史の敗者としての通念が、ずっとあとになっても怨恨として積もってできあがったのではないかと思える。外三郡史の言うような縄文や弥生からの観念だったかどうか定かではあるまい。そもそも蝦夷たちはすでに女を残して俘囚となっており、彼らが西日本に「ひだか」地名を持っていったかどうか、さて、証明する手立てはない。もしそうであるなら、大分県には蝦夷製鉄の痕跡を伝える刀鍛冶豊後行平(国東半島)がいたのであるが。

国東には岐部があり、豊国造のウナテはここの出身である。岐部は木部で紀部であるから、ここのケべス祭りのケべスとは木部の製鉄神であろう。本来恵比寿だから、蝦夷でもかまわない。ほかにも臼杵や佐伯の中世大神氏の前身が、宇佐神宮のおおみわ氏に使えた蝦夷俘囚だったとも考えている。

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そのあたりは神功皇后と武内宿禰から考察すれば面白いだろう。また、多氏と「おう」「いい」「あお」も面白くなる。















石冠 意味不明縄文石器

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縄文の造形物には、使用方法不明の謎の遺物がたくさんある。

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北海道だけで山ほど出る北海道式石冠(せきかん)



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千個単位で出る遺跡もある。
かなとこのような形だが、どう使ったかが不明だとされている。
しかし真ん中が磨り減った石皿と一緒に出るんだから、どう見たって、すりこ木とすり皿だと筆者は思うのだが、学者さんたちは???????としきりに悩んでいる。
想像力ゼロじゃないの?



持ち手の部分の形状から、ふたなりさんのおちんちんだと、堂々と書いた人さえいる。しかし、ぼくのように常識人、良識人には、どう見たって団栗などをすったとしか見えない。あなたいかが?そんなもの千個も作って何が楽しいかなあ?ちゃんとした立派なズイキ型の石棒なら尊敬の対象にもなろうがねえ。







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独鈷(どっこ)という名前がつけられてしまった道具・・・。
もちろん似ているからだけで、使い方は不明。
真ん中に二本の凸部がある、たぶん間の溝部を手に持ち、やはり何かを叩く、切り裂くもの?あるいは武具か?メリケンサックみたいな使い方?わからん。


両側に足を乗せて、バランスでもとったか?
まさかダンベル?

男日照りの女二人がリビドーに?


ま、いろいろ想像してくだされや。





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「御物石器」と名前がついた意味不明石器。
縄文時代に御物はないだろうが、どれも角ばったのと丸まった突起部がある。
表側?には渦巻き文や同心円文、ドアのような不思議な模様が。
裏側はなにやらぼこぼこと球があって、突起がある。
もしかすると、繊維を布に編むもの?
子どもの木馬?
いったいどのむきにして使ったかも不明。




まことに縄文人の独創性や必要性は見えない。しかし探究心を刺激する。


その時代を考えると、彼らにはまず欲求を満たすものといったら、狩猟道具か調理器具か衣服関連か、それ以外なら夜のお仕事の秘具しかあるまい。
楽しみといったら狩猟採集、秘め事よりほかは何もなかっただろうが?



祭祀道具という逃げ場もあるが、それにしたっていったいどう使ったのか?
何か関連するほかの道具と一緒で出るまでは、一切?である。
















127年~128年の災害

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この間の日本に記録はない。
中国後漢にはどうか。



『後漢書』永建2年(127年)
2月、鮮卑が遼東と玄菟に侵略。護烏桓校尉の耿曄が匈奴の南単于を率いて鮮卑を撃破。
夏6月、母の李氏に皇后を追尊。西域長史の班勇と敦煌太守の張朗が焉耆、尉犁、危須の三国を討ち、これを破った。
秋7月日食有り、太尉の朱寵、司徒の朱倀を免職とし、劉光のを太尉・録尚書事とし、許敬を司徒とした。

永建3年(128年)
春正月丙子(初六日)、京師洛陽で地震。
夏六月旱。
秋七月茂陵(西漢武帝陵)で火災。
「相次ぐ天災を受けて」巡察や救貧政策が採られた。
9月、鮮卑が漁陽に侵攻した。冬12月、太傅の桓焉が免職となった。この年に車騎將軍の来歴が罷免された。


以上である。
災害、天災記録は実に淡々と書き記してあって、ここに臨場感はまったくないが、「相次ぐ天災の受けて」128年、天子の命によって巡察や貧民の救済措置がとられたとあるのは、異例な事態であったことを匂わせている。



記紀には、このような弥生時代の記録は一切ない。いや古墳時代の記録もないと考えてられる。なぜなら、記紀とは、天武以降の天皇による近畿地方の政治の正統性を書き連ねることが目的の、記紀成立時代のイデオロギーによって描かれたいつわりの日本史書であるからにほかならない。


奈良時代直前の日本人には、弥生時代、古墳時代以前の記憶はつまり皆無だったということである。相応の時代に当てられた記事のすべては、史実ではなく、天皇政治のための虚偽のデフォルメであると考えてよい。具体的に言えば、雄略~天智時代の記憶はまだ残っていたようだが、それ以前は神武からすべてが天皇家の正当性と、藤原摂政制の正統性のための不比等のねつ造であり、記紀以前にあった史書があったにせよ、現在ないということは抹消、焚書されたと考えて当然である。ほかに答えなどありえない。



せいぜい、百歩譲っても、過去の史実を伝えようとしたあらゆる豪族たちの記録は、利用されこそすれ、あくまでも天皇・摂政のために改竄されている。



さて、NHKが127年の災害の可能性を取り上げ、現代のメガ災害、メガ台風について先日、タイムリーな番組を放映したことは諸氏ご存知である。

環境考古学によって127年あたりに登呂遺跡が滅んだ、1700年にも温暖化があり災害が頻発したなどをさる研究者が語っていた。

その後、今回の温帯低気圧と台風17号の連動による大災害が関東地方以北に起こった。

温暖化による大災害、寒冷化による大災害は、もちろん地球史上何度も起きている。だが、現代の温暖化はそれまでとはまったく違って人災である。人為の産業の途上国への拡大が作り出した異常ないびつな温暖化である。ゆえに、上記した過去の地球史にのっとった「正常な温暖化」と、現代の温暖化には、決定的に摂理と人為の差があることは言うまでもなく、同一線上で論じることには違和感が否めない。


地球環境は、現在、寒冷化に向かっている。そこに人為的温暖化がかぶさっている状態である。地球は氷河期へ向かおうとしているのに大気は産業によるCO2 によって暖められる。ここには明白な自然現象=神のなりわい=への人間の作為による環境破壊が「摂理をゆがめている」現状が見えるはずである。


だからこそ、気象環境は毎年歪められた状況を示す。

春。いきなり初夏のように暑くなり、一週間ほどで平年の春に戻り寒くなる。長雨はいつまでも続き、いきなり真夏になり、また平常の夏になる。秋はいきなりやってきて、また一週間ほどで残暑となり、冬はいきなり豪雪からはじまり、暖冬になっておわる・・・。



すでに1980年代から、このような状況はゆるやかに始まっていたのだろう。


持統天皇の8年に大風が頻発している。こうした中国的な気象観察記録は記紀にはまったくなく、奈良時代の『続日本紀』からやっと書き加えられ始める。ここからがまずはある程度は正確な日本史であると考えられる。歴史、日本をそうとらえるならば、記紀はまったく地誌でも史書でもないのである。


翻って、例えば日本国憲法の成立は、マッカーサーがアメリカ・西欧のキリスト教を日本に植え付けるために作られた憲法であったと、安田喜憲は書く(『日本神話と長江文明』2015)。マッカーサーはそのためには、当時、右から左へと急進的に大きく振れた日本人歴史家たちのマルクス主義歴史学を、本来は共産主義を全否定べき立場であるにも関わらず、「日本神話」を否定する史観の日本人に植えつけるには、絶好のものとして、暗黙に認可したのである。憲法は、このように、西欧的資本主義による日本のねじ伏せのために存在し、描き出されたものだった。そして日本人は、神話の持つ、日本人としての自立した独自の史観やアイデンティティをまったく喪失してしまい、歴史学は歪んだマルクス主義歴史学こそを正統と考えるいびつな始まり方をさせられたのである。


キリスト教史観とは一言で人間中心主義である。至上主義ともいえる。資本主義の根幹にこれがある。あらゆる地球の作り出す事象には、有機物と無機物の二種と気象があるが、動物と植物と鉱物という三つしかない事物のうち、キリスト教・・・いやすべての宗教が常に最高の位置におくものは人間である。あらゆる宗教は人間の幸福のためにあるが、ほかの生物や無機物のためには実は何もしない。すべて偏った宗教である。人間の幸福のためにすべてはあり、だからこそ人間の幸福とは資源を消費し、浪費してこそ成り立つものである。人間以外はすべて人間のための犠牲になるべき贄である。

ところが、敗戦後の日本で、花田清輝だけはこう考えた。

「これまでの精神は人間を最高峰とするピラミッドになっていて、それが当然正しいとわれわれも考えていた。しかしこれからは人間以外の物質・・・なんとなれば極端には鉱物を最高の存在とすら考えを改めるしか復興などありえないのだ」


縄文の野性の思考や、中国の道教は、円・・・つまりあらゆるものがサイクルの中のひとつとして平等であり続けた。縄文時代は一万年以上の長い間、円の思想で、あらゆる事物・事象を平等にとらまえた。しかし弥生以降、われわれは稲作を中心とする人間至上主義に大転換してゆく。キリスト教も仏教も回教も、みな、そうした人間幸福追求のためにだけしか誕生しない。どこにも自分たちが棲んでいる地球環境への優しさが皆無である。

老子は、しかしそこに宇宙のサイクルを最高峰とし、それこそが神の摂理であると考えた。仏陀ですら考え付かなかった、ギリシア天文学や哲学を東アジアの精神史に誕生させた。


今、地球環境は、それまでの人間中心主義の身勝手な資本主義によって、破壊されようとしている。だから地球が困り果て、神は怒りで爆発しはじめているのである。


資本主義は、自分の乗っている枝を自分の手で切っている。
イベントはいずれやってくる。カタストロフィとともに。
恐竜たちを全滅させた完全破壊の能力を宇宙も地球も持っている。そして今は、その破壊力のほんのちょっとした力を使っているに過ぎない段階である。

巨大な渦巻きを持ったヤマタノオロチは、そこまで来ている。はやく気づかねば人類は滅亡するだろう。スサノヲという、暴風雨しか八岐大蛇は退治できないと日本神話は書いている。それはおそらく真実である。しかし、今回、18号というヤマタノオロチは17号というスサノヲの手助けで北関東に未曾有の災害をもたらした。神はすでにわれわれを見放している。



もはや遅い。























ボンド・サイクル ハインリッヒ・イベント ダンスガード・オシュガー・イベント

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ボンドサイクルとは
ボンドサイクル (Bond cycle) とは二、三千年間の寒さが続き、やがて海に氷山が溢れ、その後に二、三年から十数年の急激な温暖化が到来するという非常に大きな気候変動の周期のことである。 コロンビア大学ラモント-ドハティ地球観測所の地質学者であるジェラード・C・ボンド (Gerard C. Bond) の名が由来である。


ジェラード・ボンドと彼の同僚のミッシェル・A・コミンズ (Michelle A. Kominz) は1993年ネイチャー誌に氷床コアと海洋堆積物の記録を関連づけた論文を発表した[1]。その論文の中で、北大西洋の多くの堆積物をみてみると極寒期のあいだに寒暖を繰り返すダンスガード・オシュガーサイクルが、のこぎり歯のように何度か繰り返された後の層にハインリッヒ層というほとんどの層全体が氷山の運んだ岩屑でできた変則的な層が現れるというパターンについて説明した。そしてハインリッヒ層の直後に必ず暖かい時期がある、というパターンがのちにボンドサイクルとよばれるものである。この時点ではまだ彼らはこのような気候変動にどのようなメカニズムが働いているのかは、突き止めてはいなかった。この奇妙なパターンの原因を説明するのに多くの研究者達が二、三年かけて研究に研究を重ねたといわれている。






※1 最終退氷期と最終氷期
地球の気候は過去100万年あまりの間、寒冷な氷期と温暖な間氷期を10万年周期で繰り返してきた。最後の氷期(最終氷期)は、約10万年前から2万年前まで続き、巨大な氷床が北アメリカ北部と北ヨーロッパを覆っていた。このため、海水準面は現在より100m以上低く、ベーリング海峡を含めた多くの陸棚域が陸化していた。最終氷期から現在の間氷期へと向かう移行期を最終退氷期と呼ぶ。この期間に、大気中の二酸化炭素濃度が増加し、北アメリカと北ヨーロッパの氷床の融解と海水準面上昇が起こった。最終退氷期の気候は温暖化と一時的な寒冷化を繰り返す激しいものであった。

※2 ハインリッヒイベント1
17500年から15000年前の期間、当時北アメリカに存在したローレンタイド氷床から大量の氷山が流出し、北部北大西洋で融解したために、氷山に含まれていた多量の岩くずがばら撒かれたイベント。発見者の名前をとってこう呼ばれている。同様のイベントが過去5万年間に5回見つかっており、若い順に番号がふられている。

※3 浮遊性有孔虫と底生有孔虫の放射性炭素年代差
炭素の放射性同位体である炭素14は、約5730年の半減期で減っていく性質を持つことから年代測定(放射性炭素年代測定)に利用されている。海水には無機炭素が溶けており、その放射性炭素を測定することで海水の年齢を知ることができる。深層水の年齢はその水が沈み込んでから(大気との接触を断ってから)の時間を反映する。動物プランクトンの一種である有孔虫は、炭酸カルシウムの殻を持つ。彼らは殻を作る際に周囲の海水から炭素を取り込むため、有孔虫殻の放射性炭素年代は、当時の海水の年齢を記録している。有孔虫には、海洋表層に生息する浮遊性有孔虫と、海底面に生息する底生有孔虫がおり、それらの放射性炭素年代は、それぞれ表層水と深層水の年齢を記録している。したがって、堆積物試料の同じ層準から得られた両者の年代差は、当時の表層水と深層水の年齢差を示す。たとえば、ある時代に循環が活発になり深層水が形成されると、両者の年代差は若くなる。

※4 LOVECLIM
大気、海洋・海氷、植生、氷床、炭素循環の5つの独立したモデルを結合させた中程度の複雑さを持つ地球システムモデルで、古気候研究のような長時間スケールの大規模な現象を扱うのに適している。

図1.(左)海底堆積物記録から復元された、最終退氷期の北西北太平洋の水深900mから2800mにおける海水循環年齢変化(深層水の年齢から表層水の年齢を差し引いた値の変化)(※3)。黒がオリジナルデータでオレンジ線が平滑化したもの。ハインリッヒイベント1の時に中深層水の循環年齢が若くなっている。(右)気候モデル実験によるハインリッヒイベント1を模した北大西洋への淡水供給実験前後における、北太平洋の海水年齢偏差(実験後の海水年齢から実験前の海水年齢を引いた値)。北太平洋起源の深層水が形成されたことで、淡水供給後に北太平洋の水深500mから2500mに若い海水が存在している。四角は堆積物記録から得られたハインリッヒイベント時と最終氷期の海水循環年齢差。

図2. 最終退氷期初期の北太平洋における深層水形成機構。(1)氷山が北大西洋に流出・融解し、多量の淡水が供給される。淡水は密度が低いので、北大西洋で深層水が形成されなくなり、その結果、メキシコ湾流によって北部北大西洋高緯度域へ運ばれていた熱輸送も止まるため北大西洋は寒冷化した。(2)北大西洋が寒冷化し蒸発量が減少することで大西洋から太平洋へと輸送される水蒸気量が減る。加えて、熱帯収束帯(赤道付近に位置する低気圧帯)が南下することで、北太平洋東部の降水量が減少し表層海水の塩分が増加する(3)高塩分表層水は、北太平洋高緯度域へと運ばれそこで冷やされて密度が高くなる。
当時は、海水準が低くベーリング海峡は陸化していたため、表層水は北極海へと流出せず、北太平洋高緯度域において深層水が形成される。

図3.(左)最終氷期(21000年から19000年前)と(右)最終退氷期初期(17500から15000年前)における海洋循環像。深層水形成海域が異なっている(最終氷期:北大西洋および南極周辺、最終退氷期初期:南極周辺および北太平洋)。赤線は表層海流、水色の線は深層海流をそれぞれ表す。白色の陸地は大陸氷床を示す。当時は海水準低下に伴い、ベーリング海北部やオーストラリア北部などの広大な陸棚域が陸化していた。








過去四十万年間は鋸歯状の寒暖のパターンが一定している。

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長くゆっくりした冷涼な時期と、急激な気温の上昇によって突然に終わる氷期があり、そして10万年ごとに現れておよそ一万年間続く間氷期がはさまる。

この長期のパターンに短期的な周期性がかぶさっている。最後の氷期には約七万5000年前から一万5000年前までに、一過性の急激な温暖現象が二十回ほど認められる。発見者二人の名前を付けて「ダンスガード・オシュガー・イベント」と呼ばれている。

グリーンランドで5~10度気温が高くなった。気温上昇後の数百年間で冷涼化していって寒期となる現象である。もっとも寒さが厳しかったのは約二万5000年前から一万8000年前で、最寒冷期と呼ばれている。

気候変動の諸現象のなかでももっとも劇的な変化を引き起こすのが「ハインリッヒ・イベント」で、七万年前から一万6000年前の間に6回認められる。海洋学者のハルトムート・ハインリッヒが大西洋東部の深海底堆積物中の岩砕を根拠に、1988年に記載した。」(安斉正人『縄文人の生活世界』2015)







ハインリッヒ・イベントが起こると、氷期の寒冷な状態からさらに気温が3~6度下がる。これはグリーンランド氷床コアの「年縞(ねんこう)」分析でわかったことである。

この痕跡は日本海でも見ることができる。

気候変動は地球の公転軌道、地軸の傾き、地軸の歳差運動の変化に伴う、地球の各地で受ける太陽光の量=太陽エネルギー増減によって引き起こされる。

気候変動は離心率の変動に応じて10万年単位で起こり、地軸の変動により4万1000年周期でも起こり、さらに地球の歳差運動によって二万3000年と一万6000年の周期でも起きる。



縄文人は縄文早期以降、少なくとも四回、気候の冷涼化=ボンド・イベントによる植物性食料の減産と社会的危機を経験している。草創期は更新世末期の気候が激しく移り変わった。旧石器から縄文=新石器時代への切り替わりは、こうした激しい環境激動期に起きたのである。


その土器群には、明確に、環境への対応によった様式の変化があり、すでにすべてが仕分けされている。次回、それについて。







気候に応じた土器様式の変遷と問題点

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縄文土器の変化とボンド・イベントとの相関関係図

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安斎正人『縄文人の生活世界』より





近年の土器分析技術は飛躍的な向上を見せている。
手助けしたのは年代学だ。
AMS(加速器質量分析)法による放射性炭素C14 年代測定法 の暦年較正が可能になり、国内外の考古学的事象を正確に対比できるようになっているようである。



また、古気候学によっても、データが十分に蓄積され、高解像度のデータがそろってきたことも大きい。いわゆる年縞による深海底堆積物コア分析である。

この二つの発展が、結果的に縄文時代の長期間の文化的・社会的変動課程を検証することを可能にした。



工藤雄一郎は、更新世末期~完新世初頭の気候変動を五つの段階に設定し、考古学の編年との対照を行っている。気候の安定期と不安定期よって、土器形式を詳細分析した。

その結果、
最終氷期の最寒冷期以降から約15560年前には「細石刃石器」が隆盛し、
約15560年前から約13260年前には「神子柴・長者久保石器群+無文土器」、
約13260年前から約11560年前は「隆起線文期段階」、
約11560年前から約9060年前は「爪形文・多縄文期段階」
それ以降では「より糸文期段階」

がそれぞれ隆盛期であると明確に区分したのである。(『旧石器・縄文時代の環境文化史』2015年)




工藤はボンド・イベントに加えて、中国南部のドンゲ洞窟の石筍(せいきじゅん・鍾乳洞内部の石灰分の柱)の酸素同位体変動、さらには鳥取県東郷池の年縞堆積物、関東平野の海水準・植生変化などのデータを駆使して、後氷期関東平野の環境史と土器形式の時間的対応を提示している。

参考 安斎 2015








つまり冷涼期には冷涼期に対応した土器、寒冷期には寒冷期に対応した土器が、それぞれ流行したということを工藤はデータによって明らかにしたのである。


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冷涼期1の土器の一例 加曾利E式





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温暖期2の土器の一例 黒浜式

(あくまで一例である。ほかの土器形式画像にも当たってみること。Kawakatu)





あとの問題は、こうした様式の変化は、果たして気候に応じたものだったのか、民族の変化によったものなのかなどの、いわゆる人間の取捨選択分析にあるだろう。
そして前者が答えであるならば、それらの形状のいったいどこに冷涼や温暖という気候変化に有効な意味があるのかも分析されねば、工藤の調査は意味をなさなくなってしまいかねない。

単純に考えれば、寒ければ土鍋のように効率よく温度を高め、しかも保温もできる厚手の土器に、暑いときなら逆になる?などの生活感のある分析。あるいはそれが祭祀土器なら、どのような祭祀様式の変化があったのか?などなどである。

科学者はここまででもいいだろうが、それは数学の答えでしかなく、なぜそれが適していたかという文系的な客観分析が伴わねばならない。そしてそれは確かに素晴らしい大発見なのだが、「なぜその形になったのか?」が「歴史を反省材料や生きるヒントにしたいわれわれ」には最重要である。そしてそれが古代学でもある。本当にボンド・イベントによる気候変化が土器の形状を変えたのか?である。ここを解明できて初めて工藤の努力は花開くのではなかろうか?それを実行できるのは彼ではなかろう。



原爆を造りました。落としました。
ではダメなのである。
では、その結果、人類がどうなったか、どう対応したのか?そこに合理性はあるか? が実は学問の最重要な肝なのだ。数学や科学だけでは何も役に立たない。重要なのは常にその意味である。









気候変動と歴史その1 三苗人とテン王国

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●三苗
三苗(さんびょう)とは、中国神話に登場する悪神。共工、驩兜、鯀とともに並ぶ四罪の一人。

三苗の論戚誼(ろんせきぎ)は、丹朱(たんしゅ)と共に堯(ぎょう)に対して反乱を企てたとされ、それが四罪と目される由来となっている。この闘いに敗れたのち、三苗の子孫たちは南方に落ちのび三苗国を建てたとされ、その国の様子や位置は『山海経』などに記されている[1]。三苗の領していた土地の主要分布は長江周辺、洞庭湖と鄱陽湖の間であるとも見られている[2]。

『史記』舜本紀には、「三苗の子孫たちが西の方角にすむ西戎たちになった」と記されている[3]。ミャオ族の淵源とも言われているが関連性は不明。

脚注
1.^ 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 268-269頁
2.^ 『戦国策』魏策云「昔者三苗之居,左彭蠡之波,右洞庭之水,文山在其南,衡山在其北。」
3.^ 『史記』舜本紀「遷三苗於三危 以変西戎」

参考文献
袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 268-269頁




また同じくWiki三苗人にはこうある。
「古代中国の地理書『山海経』の海外南経によると、三苗国は貫匈国の西にあり、三苗人は人間の姿をしているが常に誰かとくっつきながら歩くという。また同書の大荒南経には苗民として紹介されており、讙頭の子孫で姓は釐(り)、肉をよく食べると記されている[1]。

『神異経』の記述によると、脇の下に翼が生えていたともいう。『淮南子』の高誘によってつけられた注によると、三苗人の「三苗」とは、「渾沌(こんとん)、窮奇(きゅうき)、饕餮(とうてつ)の3つの末裔である」ということを意味しているという[2]。

丹朱との関係
三苗人のひとり論戚誼(ろんせきぎ)は、讙頭(かんとう)の祖先であると考えられる丹朱(たんしゅ)と共に堯(ぎょう)に対して反乱を起こしたことがあり、その闘いの中では丹魚(たんぎょ)という魚の血を足の裏に塗り水の上を歩行可能にする術などを駆使したという。反乱には敗北しその後、さらに南方に落ちのびて形成されたのが『山海経』などに記された三苗国であるという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8B%97%E4%BA%BA




いずれにせよ、中国では滅ぼされるべきもの、という悪しき神、悪しき存在として根強く描かれているようである。この神は「渾沌・窮奇・饕餮の3つの末裔」であるとされるが、この三つの観念はいずれも中国江南の古い戒めの神であり、また宇宙の根源でもある摂理を表しており、中国の神仙思想や老子の宇宙観道教の根源そのもに影響を与えるものである。つまりこの三本の柱を日本神話に置き換えるならばまさに『古事記』別天津神(ことあまつかみ)五柱の天地開闢神のうちの「造化三神(ぞうかさんじん)」そっくりだとなるのである。


天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) - 至高の神 高御産巣日神(たかみむすひのかみ) - 征服や統治の神 神産巣日神(かみむすひのかみ) - 生産の神

それぞれが中国の渾沌・窮奇・饕餮に対応する神々である。
これにもうひとつ加えて中国では四凶とも、あるいは別で四罪という表現もあるが、いずれも、かつての黄河文明を築いて、南部の長江文明を駆逐した現在の中国北朝以来の漢民族から見たときに、それらはすべてが長江文明そのものを象徴した事象であったと見られる。従って漢民族の畑作遊牧民族であった扶余系北方アジア人にとって、三苗とは、現在、南朝が侵略されたときに離散した民族であった人々を指す言葉なのだと考えてもよかろう。それはつまり三種類の苗(びょう)人だということで、少数民族となったミャオ族など、南越(ベトナム北部人)、滇(てん)人らを指す卑語であると考えられる。現在の雲南省あたりを三苗と言う風習が中国にはある。


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雲南省の位置は現在のベトナムのすぐ真北

ベトナム北部人はかつての南越人によって構成される。
南越とはベトナム(越南)の国名のもとである。
彼等は滇人と近い人種であり、呉越の北側にいたが、華北民族によって雲南省あたりに南下逃避したのちにベトナム北部に移住した。したがってドンソン文化という苗族やインドシナ各国人とも非常に近い文化を持つ。銅鼓に太陽のデザインを持ち、それは同じ雲南の懸崖墓の装飾デザインや滇の貯貝器の太陽紋、円文、鋸歯文とも類似。それらの絵柄は九州の装飾古墳に溢れてもいる。またこのずべての地域に蛇が共通して神とされている。(別記後述)



要するに鳥越らが言う「倭族」であり
遺伝子学の篠田健一や佐藤洋一郎らが可能性ありとしている、長江から直接日本へ逃れたボートピープルであろうと安田喜憲は書いている。
遺伝子的に、彼らの子孫であるベトナム人と日本人・韓国人には非常に近いY染色体遺伝子O2bが高い割合で存在する。これは3500年前以後の後天的な類似である。

一方O3は華北人、満州人にも多い遺伝子だが、これは太古にわれわれが同じ種族から枝分かれしたという原初的傾向を示す。

同時にチベット人に近いD遺伝子も日本人やアイヌに高い割合で存在する。これもO2b同様に3500年前以降の寒冷化によって長江周辺から離散した結果である。



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華北人の遺伝子ハプログループにある特徴的なM8a 母方遺伝子は少数民族三苗やベトナム北部人、日本人には少ない。


漢民族が彼らを悪神とする理由は、当然、漢民族が彼らを追いやった過去からである。彼等はまた、その神話(犬祖伝説)から卑称である「犬」「狗人」とも呼ばれる。
そして現代の中国人の一部・・・反日右翼的過激派の中では、日本人のことを犬と同等とみなすものが根強く存在する。香港のレストランの店頭に「犬と日本人お断り」とよく書かれているのを見ることがあったと安田はややエキセントリックに書いている。(『日本神話と長江文明』)




ここまでの安田が書き募る内容は、すでに2009年頃からこのブログでもほとんど書いてきた内容と重複しており、読者諸氏もすでにここで読まれたことと思う。

2008年10月

2009年8月
雲南省滇王国と鳥取県淀江角田                    

2013年8月




では、彼らがなぜ離散していったかの究極の原因は何か?
なぜ黄河文明畑作遊牧民族が南下して、既存の長江文明人たちを追いやったのか。
それはもちろん地球の気候変動のためである。


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これは過去、このブログで筆者が編集した画像である。



そのきっかけがやはり安田の『龍の文明 太陽の文明』2001からだった。

「北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁撈民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこでテン(シ+眞)王国を作った。同じように、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。テン文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。
 この仮説は百年も前に鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)が台湾の生番族と苗族の文化的共通性からすでに着想していたことである。それから百年後、その鳥居の仮説がようやく一歩近づいたのである。」
安田喜憲『龍の文明 太陽の文明』PHP新書170 2001




本年、安田があらたにまとめた『日本神話と長江文明』では、この画像が記載されている。

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まず急激な気候変動には4200~4000年前と3500~3200年前の二度がある。
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寒冷期には海水は低くなる。現在よりも100メートルも海水面が下がると、それまで海で隔てられていた大陸間に往来が可能な凍った道ができることになる。長江文明はこのときのどちらかに凍りつく北部から南下してきた黄河文明人によって拡散した。


弥生時代の気候変動を見てみよう。

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この時期は中国で前漢が滅び(紀元前208)が農民蜂起で滅び、紀元後220年には後漢が黄巾の乱で滅亡している。いずれも気候の急激な寒冷化が影響して、外敵が侵入して弱っていった結果である。

この寒冷期にちょうど魏志が言う「桓・霊の世」の倭国大乱が起きている。
これは明白に中国後漢滅亡の影響と、寒冷化による農耕不作に理由が求められる。



ところが、その急激な寒冷期の間を縫うように、小温暖期があった。このわずかな温暖適性期に、日本では邪馬台国が登場する。

そして雲南地方では、かつて紀元前に黄河文明に追いやられた三苗たちの築いた「女王国」である滇王国が紀元前250~紀元後100年の間に非常に隆盛している。


次回、滇王国と邪馬台国と日本神話



書いていて時間がなくなった。やっと食事させていただきます。



卑弥呼の源郷=テン王国 中華思想は地球破壊者の思想

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長江流域と日本は同じ温帯照葉樹林帯に存在し、文化があまりにも似ている。
それは稲作漁労民としてのインドシナ半島の文化や台湾先住民の文化にも似ている。
海を渡り、太陽を信仰し、ハレの日に着飾り田植えをする。
太陽神を銅鏡や銅鼓に描き、巫女は太陽の巫女である。
安定期には必ず女王を擁して、殖産の象徴である蛇のついた杖を持った。

まずは今日のBSNHKからベトナムのモン族の晴れ着での棚田での田植え風景を。

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日本のお田植え祭でも往古の赤裳の襦袢をちらりと裾に見せて、深紅のたすきがけで田植えする。あるいは茶摘みでの茜たすきもそうだが、それがハレの儀式だったからであろう。

アジアの稲作漁労民の晴れ着を織る機織り器を見てみよう。


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狩猟牧畜民族との違いは歴然としている。必ず地面に尻をつけて作業する。
これは弥生の倭人もまったく同じであった。

あきらかに倭人とは長江から離散した似通う遺伝子のもとに往古「同族」だった。同じ祖先を持った兄弟なのである。



太陽を意匠とした共通性

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蛇を永遠の命、再生儀式の象徴とする

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志賀島金印と滇王国金印だけが蛇の鈕を持つ。
華北人は長江文明人と倭人をどちらも蛇の民族=漁労海洋民族と認識していた。


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石寨山遺跡女王墓の蛇の杖


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蛇の道具に太陽紋








今でも蛇は商業の神で、商業高校の紋章になっている。殖産の象徴である。
蛇の脱皮した皮を財布にいれたりする。お金が増えるまじないである。これは西欧のヘルメスの持つ杖に蛇がからみつくことで共通した世界観念だが、エーゲ海、地中海に面したギリシア文明やローマ文明も、もとは中東やケルトやスキタイの影響で文明を築いたからであり、その淵源はやはり海洋漁労民に求められる。









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ミャオの蘆笙柱を反時計回りに回る収穫祭
蛇がからみつく

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二匹のオスメスの蛇がからみつき交尾する形状は日本の注連縄そのものである。
蛇の交尾は10数時間続くという。これもまた雌雄合体と繁栄のしるしだ。


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蛇の巻きつくポールで生贄儀式する銅鼓型銅器テン王国 雲南省博物館




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日輪信仰と鋸歯文魔よけの共通性
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高床式

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神社そっくりな高床式住居がテンの貯貝器にある。
そこにやはり蛇がからみつく。





これ以外にも、まだまだ共通点はあるだろう。

なぜ似ているのか?
前の記事に書いたとおり、彼らの祖先が、3500年前の地球寒冷化によって南下してきた畑作遊牧民文化である黄河文明人という肉食人によって圧迫されたときに、離散させられた共通の先祖を持つからにほかならない。

では、なぜ、今、現代日本人の遺伝子から彼らの共通する南部長江民族の特徴が薄くなっているのか?

遺伝子学は一時期、日本人の祖先は北方系バイカル湖から分岐するのであり、それは華北人や朝鮮民族と共通するとした。しかし、それはさらに古い原初的な分岐であり、すべての東アジア人のDNA遺伝子の根幹にあるものだから消えなかっただけである。おそらく永遠に消えない深い刻まれ方をしている。しかし、その後、再び寒冷化は起こり、民族は南下した。黄河から中間を占めていた彼らが、また北方からの漢民族によってさらに東西南北へ離散する。このときの共通因子は今の中国の周辺諸国でみな、薄いけれど共通し、その中にベトナムやチベットや韓国南部や西日本人になった倭族という共通性が残存するのである。だから長江文明人の遺伝子も、大元はバイカル湖北方系だったのであり、その中でも長江河口部を経た少数貴種が日本に逃れたのである。これがまず最初に有明海にたどり着く。おそらく菜畑遺跡のある佐賀県あたりと、南九州の鹿児島西岸あたりであろう。これがやがて邪馬台国と狗奴国へと分離するのも寒冷期である。

そして倭国大乱と後漢の滅亡が起こり中国は五胡十六国時代の戦乱を迎えておりリンクしている。やがて小温暖期のわずかな百年ほどに双方が安定期を迎えた頃に三国時代があって魏が勝利すると、それまでは共に故郷である南朝へ向かっていた政治は、邪馬台国の卑弥呼がいちはやく勝者魏に通じたことで、倭国の正統王統は狗奴国から一気に邪馬台国に傾いてしまったのである。

しかし卑弥呼もその源郷は、卑弥弓呼と同じ長江にあった。だから魏に朝貢しても欲したのは南朝の薫り高い神仙思想の呉鏡だったはずである。これは日本の九州にも大和にも共通する祭祀観念である。しかし大和は、やがて卑弥呼たちの存在を忘れてしまっている。それは邪馬台国の衰亡を語る。彼らが日本海を通じて血をまじらせた華北や朝鮮の北方系文化を取り入れ始めたからである。南朝の記憶は遠くなっていくほかなかった。

高床式の家や、神社形式や注連縄、あるいは日本語、などなど、風習のすべてにテン国の香りを残しながら、文化を残して邪馬台国文明は消え去ったのであろう。



現代、見えてくるのは、華北の畑作牧畜民族の文明は、西欧文明と非常に似通っており、彼らが中国に持ち込んできた言葉の文法が東アジアでここだけ違うことや、また食文化としての羊や豚の長期的飼育が、かつての豊かな自国の森林や草木をあっというまに砂漠へと丸坊主にしていったという事実だけが、西欧そっくりなのである。

安田も言っていることだが、牧畜は自然の広大な緑をそれこそ駆逐し、自然と融合せずに、切り開きつくす文明=科学による冷徹な理科系的乾燥した即物的・現世利益的、経済優先的文明しか残さない、地球の破壊者としての道を歩むものである。

倭族の共通点は、大自然にさほど干渉せず、牧畜よりも漁労採集を主とした水耕稲作文化であり、観念のうえでもウエットで、あいまいで、自然に溶け込む和の文化だということであろう。


それを今、再び、中華思想が侵食しようとしている。歴史は繰り返すのだ。
悪貨は早めに駆逐すべきなのかも知れない。



倭族は倭族のかつての和の文明を取り戻すべき時期に来ている。








コロンビア・ティエラデンドロ遺跡地下式墓とエクアドル・バルディビア貝塚遺跡と倭族的風習と

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サブ・テーマ
邪馬台国東遷説は年縞花粉激減で証明できる




南米エクアドルのグアヤキル港の 西約90km,太平洋岸にある貝塚遺跡バルディビアValdiviaは、諸氏すでにここで日本の縄文土器に類似する土器の出土地として認知されていることと思う。約3000年ほど前の遺跡である。

そのすぐ北にあるのがコロンビアである。
ここに貝塚遺跡や、紀元前200~紀元後500年(ほぼ日本の弥生時代に相当する時代)の遺跡がいくつも存在する。
その中で地下式墓を持つティアエラデンドロ遺跡を今回紹介しよう。


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この遺跡の画像は、2015年秋現在、ネット上ではWikiにしか掲載写真がない。

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Wikiティエラデンドロ地下式墓内部を拡大編集



ドーム状の天井に幾何学模様のひし形。
柱には逆三角形の顔。どこかしら長野県の「仮面のビーナス」や平面土偶を思わせる形。

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国宝仮面のビーナス土偶 長野県茅野市中つ原遺跡
土偶編年はすでに詳細な時代区分がなされているが、現在、破壊されずに残っているものはみな大型土偶で、破壊を目的にした「転ばぬ先の死産の禁忌」土偶群とは利用目的が違っていたと考えている。


コロンビアのパレヌ川流域地域は、古くはスペイン人らの持ち込んだ放牧がさかんだったが、そのために川の両岸はいたるところでがけ崩れを起こしている。明白な牧場開発のための森林破壊が起因した現象である。


この遺跡はウィラ山・グリージョ山という5750mの高峰を仰ぎ見る高地にある。

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クリ-ジョ山は常に雪に覆われたコニーデ(円錐型・富士山型)で、どこかしら長野県の、山麓茅野市に縄文のストーンサークルがある八ヶ岳や浅間山や劔岳を髣髴とさせる三角錐型の高山である。その麓の谷あいにある山の山頂にこの遺跡はあり、さらに700mほど下に世界遺産センターが建っている。

これは理学の安田喜憲が撮影してきたティエラデンドロ地下式墓の貴重な内部写真である。
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 一見して、下図の柱に描かれた模様は、大きな鋸歯文、その下に横線が引かれ二つの逆三角形を逆U字型の曲線がつなぐ、ちょっと曲がった双方矢印のような絵柄。そして画面右下の絵柄は逆三角形が三つ、下線でつながれた形状をしている。

上図の壷の絵柄は、上向きの二等辺三角形状にとぐろを巻く蛇である。
これは真上から見たクリ-ジョ山ではあるまいか>するとまるで記紀の聖山・三輪山が蛇が三重にとぐろを巻く蛇=大物主神の形であることと似た観念で描かれた図柄だと見えてくる。故・吉野裕子なら欣喜雀躍しそうな装飾絵画だといえる。

南米・中南米の先住民はもちろんアステカやインカやマチュピチュ同様にモンゴロイドである。はるかなアジアから、ベーリング海を渡ったアメリカインディアンたちと同じ血を引いた古モンゴロイドであり、アイヌ同様に「彫りの深い顔つきの」「やや浅黒い小麦色肌の」南方系の人々である。

彼らの信仰する観念は倭族とよく似ている。巫女女王に仕え、珠と蛇を絵柄にし、農耕に生きた。上の地下式墓の絵柄が、どことなく北部九州の装飾古墳に似ていると感じる人は多いはずだ。


ここで筆者が気づいたのは、中国少数民も中南米の各文明も、日本人も、古くから金よりも銀を愛好する民族だったということである。南米・メキシコと言えば銀山が有名であるし、日本でも江戸時代までは銀本位制であった。雲南・貴州のミャオ族・トン族ら三苗民族も晴れの日に銀の豪華な装飾品を代々伝世している。


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蛇を三角で表す種族は、倭人、台湾パイワン族、ミャオ族、そしてここ中南米のティエラデンドロ遺跡の人々(広くはムイスカ文明人と呼ぶ)など、世界に多い。その三角は日本では北条氏のように蛇の鱗の幾何学模様だという説もあるが、この遺跡の壷のような蛇とコニーデ型聖山を合体させたデザインだということもできるだろう。



現在、この地域に住んでいるのはナサ族である。おそらく子孫であろう。身長が大変低く、平均150センチほどで、これも倭人やアステカ人や三苗たちに類似する。古老たちはみな爺さんよりも婆さん中心の合議制を取る女系社会で、これも女王中心、女帝中心だった往古の倭国人を髣髴とさせる。ガジャカンの木という神木を崇拝し知恵を与える木だと考えている。なによりも、牧羊、牧山羊をしない民族で、じゃがいもなどの植物食が中心である。稲ではないのはアメリカ大陸の高い山地という環境のためであろう。スペイン人などの外敵が来なければ平地で水田をやっていたかも知れない。ただ、インカなどの文化に共通するのは太陽の造る夏至や冬至や秋分・春分といった「太陽信仰とカレンダーによった太陽中心の、太陽により近い高所」を選ぶ嗜好性・志向性からであろう。

おとなりの縄文土器に似た土器が出たというエクアドルのバルディビアなどの多数の貝塚は、縄文人の強い匂いがしていると安田喜憲は書く。


記紀からわかることは、倭人の信仰も太陽を仰ぐ太陽信仰で、そこに星信仰はまったく登場しないことである。星信仰は畑作牧畜民と南島海洋民族=ラピタなどが信仰する観念である。また同じ畑作牧畜民族である西欧人の最古の文明であるギリシアでも天文といえば星占い、占星術による十二宮のカレンダーをメインにする。

だがわたしたちは往古、あきらかに太陽・夏至・冬至、特に神社信仰では春分・秋分を中心にするレイラインと太陰暦でものごとを計画し、考えてきた女系社会だった。

狩猟中心の西欧・漢民族の文化は、やがて野生動物を取り尽くすことで牧畜を考え付いた。その牧畜は地球から森林をどんどん消してゆき、北部から吹きすさぶ強烈な偏西風によっていよいよ土地は乾燥し、砂漠化してゆき、不作にあえぎながら仕方なく南下し、そこでまた同じあやまちを繰り返すばかりであった。今頃、中国では日本人の無償の緑化運動の大切さに気づき、共産党習主席もやっと成約に樹木を植えようをスローガンにするようになった。彼ら華北人のしてきたことと、彼らが往古蛮族・東夷・西蕃と馬鹿にしてきた北方民族たちとなんら変わりのない、侵略者国家である。


このように畑作牧畜の未来は閉ざされている。それは人類絶滅の一本道である。一方われわれ倭族の稲作漁労採集文化は、自然を残す未来に開いた人類永遠の文化だと言える。




●邪馬台国は東へ移動した。東遷説は正しかった

弥生時代、北部九州の森林はつぎつぎに消えていった。理由は土器と大型甕棺を大量に製造し、住居を大量に建てたからにほかならない。樹木花粉の弥生時代からの急激な減少は、大和の3世紀でも起こっている。つまり北部九州に渡来した朝鮮・華北民族が2世紀突如としていなくなる理由は、古河内湖地層の花粉調査で明白で、北部九州で原生林を切り尽くしたために、森林を探して移動した倭人たちが、大和の森をどんどん神殿や、炭にして、製鉄や建築やらで繁栄したと書かれた崇神天皇の御世そのものであり、その後記紀が、崇神時代はその後、疫病で荒廃しやむなく大物主を祭ったという記事に合致するのである。つまり崇神とは九州北部の王だったものの大和移住を示していることになる。

このように邪馬台国が九州菜畑から河内そして大和へと移動していったことは、年縞分析からもあきらかなのである。




四度の渡来があったのだろう。
最初は邪馬台国につながる127年頃の長江文明人が菜畑に。
次に遠賀川に多い半島系朝鮮人・・これも実は江南からの逃避者である倭族である。
さらに黄河文明人が気候変動で菜畑に。
そして四世紀以降に秦氏に代表される伽耶王族=これも長江由来の倭族であろう。






鳥取県角田遺跡 太陽に×の理由は明白に日食

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さて、先の記事で邪馬台国の東遷説が正しかったことは証明された。環境考古学の年縞調査によって、樹木の減少が近畿地方で起きたのである。それは3世紀から始まる。

最初の原因は長江倭族の北部九州渡来である。樹木伐採が北部九州で起きた。そして彼等は大和へ移住した。


そのころから、古河内湖の年縞からナラ・ブナなどの照葉樹の花粉が激減する。それは北部九州では紀元前から紀元100年ごろの「倭国大乱」前に起きている。彼等は毎日使えば破棄した生活土器や、巨大な甕棺の作成のために必要な炭となる樹木を欲して、縄文後期の中国寒冷化によって追い出された先住長江渡来人たちのためである。

それを追いかけるようにして菜畑あたりに黄河文明人も侵入、侵略、その痕跡は長江文明人の甕棺内の戦争遺体や山口県土井ヶ浜の戦没者遺跡が語っている。

こうして倭族の甕棺墓が九州から消える。畑作牧畜民族との戦乱から逃れて再び東へ移住したのである。そして河内地方に甕棺によく似た土器棺が登場し、これが方形周溝墓に変化していく。しかし倭族は馬鹿ではなかった。大和の森林も最初は破壊されてゆくが、甕棺や土器はもう作らなかった。周溝墓への変化。森林伐採の失敗を理解したからである。だが同じくそこにやってきた東海・日本海系の朝鮮人たちは土器と埴輪の作成で森を破壊していく。大和の森林破壊はその主人公が朝鮮渡来人によったのかも知れない。

やがて円形周溝墓のブリッジ部分が切り取られた、縄文の前方後円墳型住居(柄鏡型住居)にそっくりな形状の巨大な墓が登場した。前方後円墳である。文化は縄文の南方的文化で、稲作漁労生活もそのままに、言葉も現地の縄文語=オーストロネシア膠着語を残存させた大同合体した和ぼ文化である。黄河漢民族華北人は、やってきたけれど、結局、古い渡来と縄文の血脈に飲み込まれたのである。おそらく焼畑や牧畜や肉食文化が盛んだった高山に敗北して住み着いたのだろう。

そして王には、江南長江文明人と混血した小さな背丈のものが調整役の巫覡王として選ばれた。それは最初女王で、やがて男王となってゆく。

こうした環境変化の流れを、各地の年縞分析は次々に明らかにしはじめている。しかし鳥取県米子市の角田遺跡の「羽人と出雲大社?」図の太陽に×があることからも、それが当時の世界的な環境変化=卑弥呼の温暖化の前後にあった急激な寒冷化時代を如実に描いていると言えるだろう。



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同心円紋になぜ+印を書き加えたのか?



これはどうみても、船の人々の故郷で日食なり、寒冷化なり、あるいは火山噴火などがあって、稲作民族にとって大事な大事な太陽が消えた=環境大変化と民族大移動であることを表す図である。現在、ここは稲吉角田(いなよしすみた)遺跡と呼ばれているが、時代は紀元前1世紀頃の遺跡である。この頃の環境は・・・小温暖期で、むしろ滇王国が非常に栄えた時期。西欧でもローマ帝国の繁栄期である。


先に参照した安田の気象変動グラフで見ると

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ではなぜ彼ら江南の人々ははるばる出雲へ逃避してきたのだろうか?
矛盾するように見えるのだが・・・?


実はこの頃の東アジアは前漢が大いに周辺を侵略していた時代。そこに日食が起きた。


「前漢書」
前漢元寿2年、前漢元寿2年、正月、匈奴および烏孫の使者来朝。4月壬辰晦、日食。



元寿と言えば紀元前1世紀末で、二年は西暦元年~二年である。
つまり角田遺跡土器の人々は、長江流域から、日食で一時的に退避してきたか?ということが考え得る。日食は卑弥呼の時代にも起きているが、滇王国も邪馬台国も、稲作文化人として、太陽=最高神であり、女王つまり斎王=巫女王は、太陽の代弁者であるから、太陽が欠けることがあれば当然、その王位から引き摺り下ろされることになる(「以て卑弥呼死す」)。

この絵には羽人のように羽飾りをつけ、鳥装した人物が描かれ、やはり1世紀頃の唐古・鍵遺跡でもほかにも鳥のような衣装の袖を振る女性巫覡が描かれるので、巫女王の逃避だと思える。つまり彼女は日食のために民意を失い、追い出されたか、殺されまいとして逃げ出したかではなかったろうか?



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aの鹿は滇王国でも銅鼓型貯貝器に置かれ、ステータスである。
cは樹木の枝に鏡であろう。
dは高床式で千木のある神殿か。
eは出雲大社の往古の姿であろう。














まあ現代の卑弥呼・櫻井さんで眠くなるか

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この記事はここに書くべき記事ではないので、一部だけノーコメントで。

眠れないときはこのビデオですやすやできます。

講演会

その2
https://youtu.be/QVbiQRigVuY





さて、あなたはどう思うか。
ぼくは今後の歴史だけがそれを語るという立場。
 

ノーコメント。結果は神のみぞ知る。



しかし櫻井さんの声は、卑弥呼のように人を麻痺させ、信じさせる力がある。
ねむ~~~くなりつつも脳内に染み付く。

それはそれで危ないかも。

この記事の全文と筆者の意見はhttp://nakasimahigasi.asukablog.net/


氷期と間氷期のサイクル説は果たして正しいのか?

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最近の氷期が終わったのは、1万年ほど前である。現在は典型的な間氷期が1万2000年ほど続いていると考えられているが、氷床コアデータによる精密な時期の断定は難しく、世界的な寒冷化をもたらす新しい氷期が間もなく始まる可能性もある。今のところ「温室効果ガス」を増加させている人為的な要因の方が、ミランコビッチの軌道周期のどの影響よりも重いだろうと信じられているが、地球軌道要素に対するより最新の研究は、人間活動の影響が無いとしても、現在の間氷期は少なくとも5万年は続くだろうとも示唆している。
氷期と間氷期の変動に関連して、アメリカ国防総省が専門家に依頼して作成した地球温暖化の影響による大規模な気候変動を想定した安全保障についての報告書(Schwartz, P. and Randall, D. 2003)[1]の存在が2004年に明るみに出て注目を集めた。 それによると、地球温暖化による海流の変化が原因で、北半球では2010年から平均気温が下がり始め、2017年には平均気温が7~8℃下がるという。逆に南半球では、急激に温度が上がり、降水量は減り、旱魃などの自然災害が起こるという。

正確には、「氷期」と「間氷期」が繰り返される時期を「氷河期」といいます。
 地球の歴史の中では、氷河期とそうでない時期があって、現在は約4000万年前に始まった、最後の氷河期が継続中です。
それ以前は、二酸化炭素濃度が高い、世界中が熱帯に近い気温だったと考えられています。
さらに前の約2億5千万年前以前は、現在と同じような氷河期があったようで、酸素濃度が相対的に低い大気であったようです。
このように、大気の化学組成が氷期、間氷期の繰り返しを引き起こすことに関連しているようですが、それが何で発生するのかは詳しくわかっていません。
また、氷期、間氷期の周期が、ミランコビッチサイクルのような地球の地軸の歳差運動に関連が高いことはわかっていますが、どうしてそうなるのかのメカニズムもよくわかっていません。


なんとそんなことすらわれわれ人類はまだわかっていないのだ。

氷河期の中にわれわれは生きている。
その間に氷期と間氷期は繰り返してきた。
氷期が10万年サイクル、温暖な間氷期が1万年のサイクルで繰り返すと言われている。
今の間氷期は今から約1万年前、オルドバイ氷期から突如として始まり、すでに1万年のサイクルを経ている。すると常識的にはもう次の氷期に向かっていなければならない時期にわれわれは生きていることになるはずだ。

はて?



蛇と龍

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長江文明人を構成した倭族(稲作漁労民)は蛇をステータスとし、黄河文明人を構成する漢民族や西欧人は龍やドラゴンをステータスとした。

つまり蛇の思想と龍の思想にはあきらかな違いがあることを知っておくべきである。



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長江文明を象徴する伏羲と女媧の交合図。


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蛇のオス・メスの交尾は、女・男(陰陽)和合こそが生命の根源=宇宙の摂理=渦巻きであることを表現している。


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宇宙の摂理の姿は常に螺旋、渦巻きの姿で表され、科学で分析されたDNAの螺旋を髣髴とさせる。蛇のオスメスのねじれたまぐわいの姿は、神社の注連縄がそうであるように、彼らが大自然・宇宙と融合して生きる思想を示す。

それは自然の征服者・侵略者たらんとする龍の姿ではない。

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龍もドラゴンも想像上の生物であり、これを思いつく人々が、倭族のような自然そのものを身近に見てきた民族ではなく、空想するしかない人々であったことを如実に語る。

漢民族の作り出した生物は、いずれも空想上の妖怪や怪物であり、そこに自然にあるがままのモノとの融和はない。即物的で、弱者を侵略・搾取する即物的で経済中心的で現世利益的な、「乾いた思想」だと言える。


ヤマタノオロチとスサノヲもそうである。
ヤマタノオロチは大蛇であり龍ではない。
一方スサノヲはヤマタノオロチ=氾濫する河川(暴れ川)を治水という暴力で圧倒し、武器=既存の長江文明を手にする=簒奪者として登場する。

それを中国の尭・舜・禹・黄帝などの登場する神話と比較すれば、蛇の民族を龍の民族が征服し、蛇の思想に龍の思想が覆いかぶさって吸収合体したうえで、先住者であった蛇の思想を悪辣非道な妖怪や怪物にしていく過程が如実に見えてくるのである。敗者はその瞬間から悪霊・悪鬼となり被差別者とされてしまうのだ。


つまりそれは勝者による敗者の弾圧と差別の歴史である。



龍=黄帝=征服者=スサノヲ=黄河=畑作牧畜民   敗者から見るとこれらは暴風雨=治水である。

蛇=伏羲と女媧=ヤマタノオロチ=長江=稲作漁労民 勝者から見ると悪・氾濫である。


神話はたくみに先住者の神々を取り込みつつ、そこから禹が生まれて、尭・舜が未完に終わった長江の治水=倭族の平定を成し遂げたと高らかに描く。しかし禹も尭・舜ももともとはみな南朝・長江人の祖神であり、神農もそうであったものを、黄河人が簒奪してしまった。自分たちもそこから生まれたとしてしまうのである。


これが破壊者・侵略者の思想である。
現代風に言えば、自衛権を持ったとたんに戦争しはじめる怪獣たちの思想がこれなのだ。しかし蛇の思想は円=太陽と山を大地母として、稲作農業と言う女性中心社会でつらぬかれ、自衛権はただの「杖」であり、決して進んで行使しない。自衛権は来るならやるぞという意思の表れ・・・つまり抑止力として持つだけである。現代の日本の為政者がどちらであるかが、判別の鍵になる。

原子力という象徴を、ただ持つだけか、使ってしまうかの民族的卑賤の違いである。

そういう意味で、現代中華も米英仏も、その自然の破壊者であり、同じ穴のむじなだとわかるはずである。


続く





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ここまでの参考文献
安田喜憲 『日本神話と長江文明』
池上正治 『龍と人の文化史』
安斎正人 『縄文人の生活世界』





毒蛇は急がない

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蛇の思想では、蛇=太陽=山=女系社会=稲作=魂の姿 である。


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福島県泉崎横穴墓の鋸歯文




通常、鋸歯文(きょし・もん)はサメの歯型とされ、海中に没する海士や、南朝の漁労採集民たちの魔よけであると解釈されて来た。だがそれだけではなく、鋸歯文は連続三角紋としての理解もある。それは蛇の鱗、あるいはデザインでもある。

「毒蛇は急がない」というタイの諺があると開口健は書いた。


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毒をもつ生物は一般に派手な衣装を着ており、頭が大きく、一見して自分が危険な存在であることを意思表示する。それによって外敵からの無用の攻撃を少なくしているのだ。これは明白な抑止力である。



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台湾少数民族のパイワン族Paiyuan, Paiwanやルカイ族Rukaiは、蛇をステータスとし、そのデザインに鋸歯文を使用する。


その三角形の連続は、同時に、彼らにとっては太陽の光としても使ってある。
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パイワン族の太陽紋




三輪山の大物主は蛇体の先住者の山ノ神であるが、その三輪の形状は蛇のとぐろを巻く姿をしたコニーデである三輪山そのものである。


三角、太陽、山、蛇のすべてが神を表すのである。


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中国南部の海岸部、青海省新石器時代の「同心円紋彩色土器」には、渦を巻く同心円が行き着く果てには蛇の鱗に変化する。これが倭族の宇宙観である。



太陽は渦巻きでもあり、また魂の根源でもある。
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福島県清戸迫横穴墓 反閇する人と渦を巻く霊魂


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九州 千金甲(せごんこう)古墳 同心円紋


これもまたとぐろを巻く蛇、太陽、山を示すデザインである。つまり彼等はみな倭族である。水中に没して魚介を採ると書かれた倭人である。その祖先は大陸北部人ではなく海岸部の人々でなければならない。つまり長江河口部や海南島や、済州島や半島南部の伽耶や百済に由来する海人族でしかありえまい。



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このように、畑作牧畜民と稲作漁労民の間には、思想の明白な違いがあり、日本人本来の思想はむしろ稲作漁労思想でつらぬかれてきた。生活様式も、信仰様式も、女系社会であることも、体躯が小さいことも、すべて倭族を示している。

そこに畑作牧畜民がやってきて、彼らを支配する。それが日本の出雲神話の言いたいことである。その言いたかったことというのは、中央の記紀にしかかかれておらず、出雲風土記には描かれてはいない。だから記紀が言いたいこととは、大和中心の、記紀が成立した時代での為政者のコンセプトでしかないのである。



だが、縄文からの考古学は、私たちにそうは語りかけてはこない。九州にも日本海にも、それに従った人々は登場してきても、それ以前は明白に倭族・海人族としての長江文明的な生活様式しか出てこないのである。つまり、出雲国譲り神話は虚像である。


黄河文明的な帝国主義的な乱やその統一が起こるのは弥生後半~古墳時代、3世紀卑弥呼の時代直前からである。九州の甕棺墓にはその痕跡が如実に戦闘遺骨として埋葬されている。だから黄河文明と長江文明の相克が東アジア各地に伝播して、本国中国では三国志の奪い合い、日本では倭国大乱として記録された。もっと広く東アジアを調べると、ベトナムや三苗だけでなく、北方、西方、南方などへの漢帝国の侵略記録、反乱記録が同時代に横溢していることに気がつくはずだ。


その最大の原因が気候変動である。



したがって、倭人とは、つまり長江からやってきた人々と、先住縄文系古モンゴロイドや北方先住民たちとのハイブリッドしていった新日本民族である。龍の文化を持った漢民族や新羅や高句麗系の牧畜・遊牧民つまり騎馬民族がやってきたとすれば、彼らより後の時代である。そこから古墳と言うヒエラルキーの産物が初めて大和に登場するのである。ということは卑弥呼の墓が前方後円墳であるはずはない。ないのに、そうであろうと推測されるのは、彼女が当時のまとまらない時代状況でしかたなく共立された、古い時代の長江由来の和の支配を採用するしかなかったからにほかなるまい。黄河文明的な強硬支配体制では倭人たちは納まらない民族性が強かったのである。


だから卑弥呼というカリスマ巫女が死ぬと、また国は乱れ、結局再び臺與が選ばれる。稲作と漁労を中心にする限り、倭人社会は常に混乱するたびに女系王、巫女王を引っ張り出さねば収まりがつかない国家だった。


それは稲作も漁労採集も、その生活の中心には、いくさを想定しない計画的なカレンダーによる季節指数が多大な収穫を左右する社会だからにほかならない。

獅子のように、移動しながら狩りをする侵略国家には、男の体力が不可欠であり、常に仮想敵国を念頭において戦う専門集団を抱え込む必要がある。しかし日本の歴史でそういう集団が登場するのは平安時代後期の平家の登場以後である。要するにそれまで、いやその後もしばらくは、日本のいくさは農繁期を避けてやるしかなかった。織田信長が戦闘集団を初めて作ることで武士という殺人・殺戮専門集団がやっと確立するのである。

しかし中国では、古代からそれがあった。
稲作とは違い、畑作がさほど作付けや管理を必要としない農業であったこと、そしてなによりも彼らが牧畜や遊牧と騎馬を習慣としたために、太陽や雨やに左右されない殺人集団を持てたからである。それは西欧でもまったく同じであった。


これはまるで草原、砂漠の思想である。
気候の変動によって気ままに大陸内部を侵略した蒙古やフンの文化である。
ダイナミックだが反面おおまかで、雑で、野蛮で、生肉をくらう野獣の思想である。
毒蛇のように体内に猛毒を持たない彼等は、自分自身を野獣にするしかなかったのだ。これがやがて植民地主義・帝国主義を生み出す基盤である。


すなわち明治~戦前の政府は、英国やアメリカから、そうした野獣の思想を取り込み続けた。そしてその野蛮さに折り合いをつけるためにキリスト教博愛主義を取り込もうとした。しかし日本でキリスト教は根付くことがなかった。なぜか?

その理由は、かつて龍の思想・星の信仰がわが国に根付かなかったことと同じである。われわれの魂の奥底に、1万年の倭族としての和の思想・太陽信仰があったからにほかなるまい。自然と同化する宇宙の摂理である毒蛇の思想が、急がない、攻め込まない思想と、有事には逃げればよいという生き方を選択させる。



それは今後も変わることはない。




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ドーム型=宇宙の屋根の下で反閇する人々 空には渦巻き型の太陽が

太陽は蛇
蛇はセックスと繁栄
永遠の連環






しかし、その倭の思想はある日、突如として破壊され、分断された。

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太陽の形代であった鏡もまた打ち壊された。



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騎馬民族がやってきたからだ。












資料

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新潟県
火焔土器
内側や口縁部に煤やお焦げがあり
煮炊きに?







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総合地球環境学研究所 中塚武
http://www.chikyu.ac.jp/rihn_13/rihn/project/PR-2013-01.html

図(クリックで拡大) a:ヒノキ年輪の酸素同位体比が示す過去2千年間の中部日本における夏季降水量の年々変動と、 b:その変動の周期性(ウェーブレット解析図。暖色部ほど変動の振幅が大きい)飢饉と戦乱が頻発したとされる中世(特に14世紀の南北朝時代)をはじめ、時代の転換期には、それぞれ数十年周期の大きな気候変動があったことがわかる



127年登呂遺跡水没?
900年洪水?
1300年洪水
1700年洪水

合間に旱魃

400年洪水周期説?旱魃も定期的間隔を置いて起こっている。



ノーコメント
































倭人が運んだヒガンバナと女王卑弥呼

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初秋の水田にヒガンバナが咲く季節となった。
日本人には馴染みの景色である。




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ヒガンバナを真上から見ていると、放射状の蘂(シベ)がまず眼に入るが、花ガク部の花びらのくるりと巻いて交差する模様もかなり特徴的である。これがどうにも子供の頃から水引きのように見えてしかたない。




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Wikiヒガンバナによると、その来歴は以下のとおりである。

「日本には北海道から琉球列島まで見られるが、自生ではなく、中国から帰化したものと考えられる。その経緯については、稲作の伝来時に土と共に鱗茎が混入してきて広まったといわれているが、土に穴を掘る小動物を避けるために有毒な鱗茎をあえて持ち込み、畦や土手に植えたとも考えられる。また鱗茎は適切に用いれば薬になり、また水にさらしてアルカロイド毒を除去すれば救荒食にもなる。そのような有用植物としての働きを熟知して運び込まれた可能性もある。

日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であり、中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられる。また三倍体であるため種子で増えることができない。」


まとめてみると、その来歴・性質の特徴は

1 鱗茎(ユリ根状球根)に猛毒を持つ
2 種子を作らない三倍体で、自力では遠隔地に飛んで増えることができず、自分のいる周囲に球根を増やして増える(竹と同じ)
3 したがって遠隔地へ拡散するには人為を要する
4 はっきりとは言えないが中国由来らしい
5 繁殖地の寒暖にこだわらず繁殖する
6 毒性はやや強度(リコリン)だが、何度も水抜きすることで食用にもなり、薬にもされる
7 イネとともに持ち込まれたか、毒性を知っていてあえて持ち込んだらしい



ではその毒性とは?
●リコリンの薬効
「リコリン (lycorine) は、植物に含まれる有毒成分として知られるアルカロイドの一種である。

ヒガンバナ科植物ヒガンバナスイセンなど)に含まれるアルカロイドであるノルベラジンアルカロイドの範疇にある。催吐作用があり、多量に摂取すると死亡する。ただ、ヒトに対する致死量は10gと、アルカロイドの中では比較的毒性は強くない。 ヒガンバナ中のリコリンの濃度は、生の鱗茎中に 0.5 mg/g、生葉中に 0.3 mg/g[1]で、キク科植物に対するアレロパシー作用(他者を育ちにくくする抑制効果)の主成分となっている。

熱に対しては安定しているが、水溶性が高く、ヒガンバナアレロケミカルとして認識されつつある。このため古くはヒガンバナを飢饉に際して食するときに、数日間流水にさらすことで食用にしていた。しかし食用としていたのは主に江戸時代以前であり、知識が無く中毒で死ぬ人数も相当数いたとされる。 また、ヒガンバナから加工される生薬「石蒜(セキサン)」の薬効は、この物質に由来する。


南アフリカなどの乾燥地帯に居住するサン人(ブッシュマンなど)などは、現地に生えているヒガンバナ科の植物に含まれるリコリンを、矢毒として利用する。」
Wikiリコリン
※ご注意!
水にさらすときはつぶしてから何度も何度もさらすこと。
こういうの読むとすぐにためしてみようとするお馬鹿さんが一人くらいいるもんで、だいたいそういう人は、例に漏れず慌てものなので、経験者にやりかたをよお~~く聞いてからやるように頼みますよ。うちのせいにされちゃあかなわんからね。水仙も同じ。花を切ってきたらよく手は洗っておくにこしたことはねえよ。いいかい?まあ、できあがってもただの白いでんぷん質だからうまくもないと思います。





●生薬
「ヒガンバナの鱗茎にはリコリン、ホモリコリン、ガランタミンなどのアルカロイドが含まれ、誤って食べると、 嘔吐、下痢、流涎、神経麻痺などが起こる。
石蒜は民間では生の鱗茎をすりおろし、足の裏に貼って用いた。

成分のうちリコリンはジヒドロリコリンの製造原料となり、ガランタミンも利用されている。リコリンは強い嘔吐作用があり、、ジヒドロリコリンは催吐作用があるので、毒性が強い。 何か他の毒物を飲み込んでしまった時に救急的に吐き出させる必要があるときに新鮮な鱗茎1~3gを使うほかは家庭ではむやみに用いてはならない。」http://www.kanpoyaku-nakaya.com/higanbanakon.html


神経麻痺が起きるなら巫覡も使った可能性がある。
稲作とともに土に混ざって・・・というのはほとんど信憑性はなかろう。土のついた苗では、塩分の多い風の吹く船上の、長い航海には耐え切れまい。まして、たとえ持ち帰れたとしても、それから水田を作っていたら枯れてしまう。持って帰るなら種籾だったに決まっている。
誰が言い出した説なのか?昔の学者っていったい生活感がなさ過ぎる。


すると薬効を知っていてわざわざ取り寄せたか、取りに行ったことになる。その時代は縄文後期まで遡れるだろう。いずれにせよ、九州西部、南部、あるいは琉球諸島の貝貿易が関わった可能性もある。

そして自力で遠くへは繁殖しないということなら、日本の北海道までは人が運んだことになる。

その利用価値は、猪などから作物を守るためだろう。そして移送のときに菊には抑制作用を持つので、同時付着移動はありえない。菊とヒガンバナとの同時渡来はありえないから菊花の渡来は別時限に起きただろう。


古い時代の帰化植物は、どうしても九州を経由する。それは個人の単独交換貿易だろうと国家的交易であろうと、江戸期まで変わらない。博多はずっと日本の輸入貿易港であり続けたのであるから。ならば竹にせよヒガンバナにせよ、後世の菊の上陸も最初は九州(琉球経由もありえる)である。

そこからヒガンバナは倭人の舟で拡散したのであろう。

弥生時代には、当然、水田周囲にはヒガンバナが植えられたことだろう。猪やモグラや野鼠から稲や作物を守るために。



もう一度、ヒガンバナの花をよく見てみよう。

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もちろん弧文も弧帯文(施帯紋)も、そのテキスタイルの最大の出処はゴホウラ貝断面説が最有力であることに変わりないが、アイデアの源泉にヒガンバナがあったとしてもおかしくはない。なぜならその深紅の色彩が生命を感じさせるうえに、わずか一週間で花は終わり、その後、あらゆる生命が死滅する季節だったはずの冬に、青々とした日に照る葉を延ばすさまは、古代人がそこに再生や永遠の命を感じないはずはないのだ。しかもそれがまったく反面では、死にいたる猛毒を持つ。死=生の死生観そのもの植物である。花びらはくるりと蕨手状の渦巻きも描き、放射状のシベは、太陽光のように開いている。

なにもかもが倭人の死生観そのものでできあがった花ではあるまいか。

じっと見ていると、ヒガンバナが次第に卑弥呼に見えてくる気がする。


紅花は弥生の纏向では栽培されていた。それは口紅のためだったかも知れないし、ベンガラや水銀朱の代用だったかも知れない。花粉も種子も作らぬ彼岸花は、だから考古学でも年縞でも検証対象にはならない。だから麟茎しか残せないが、死んでしまうことなく毎年花を咲かせてきたものがあるはずだ。すると卑弥呼よりもずっと以前から、日本の秋の水田風景にはヒガンバナが付き添ってきたことになる。なんと少なくとも3000年ほども、稲穂のすぐそばにヒガンバナは咲いていた。いや、今、咲いているヒガンバナのどこかに、縄文後期から子孫を増やし続けてきた原種の親株鱗茎が埋まっているのかも知れない。そしてそれがあるとすれば、纏向ではなく九州西部であろう。






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曼珠沙華 恋する女は
曼珠沙華 罪作り
(山口百恵 曼珠沙華 まんじゅしゃか)









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