第44代元正天皇 (日本根子高瑞浄足姫天皇。草壁皇子の皇女。母は元明天皇。)
「為日高皇女<更に新家皇女とも名乗る>之病・・・云々」
『日本書紀』天武天皇十一年八月巳牛
「 諱(いみ名)飯高、のちに氷高」
『群書類従』第三輯(帝王部)巻第三十二
『皇年代略記』 元正天皇の段
紀州飯高(いいたか)は今の三重県日高郡(現在は三重県松阪市あたりにあった郡)である。
だから日高は飯高でもあったのだろうと成城大学史学非常勤講師の中川久仁子(なかがわ・くの)が書いている。(『日本古代の王権と地方』加藤謙吉編「飯高諸高」 2015)
ここを飯高(山)と言うのは、山の形状が飯を盛り上げたような形であることは言うまでもなく、ここに丹生地名もあって鉱物が謙譲されるために「いひ」=献上物、貢物・・・総じて「毛」であるから神饌となり=飯の山だとなる。こういう地名は飯田、飯塚、飯森、飯盛山、飯井、井伊などなど全国に多数ある。
その「いい」が、なぜ日高に置き換わったかは、民俗学では「いひ」・・・「ひ」は置き換え可能な発音だったとかなりあいまいな説明がなされてきた。「いひたか」と「ひたか」が音の似た単語だとはなかなか一般人は感じないだろう。
これを考えるのに、飯高に掛かる枕詞「おすひ」がヒントになるか。
「「意須比」は飯高に係る枕詞。
『古事記伝』巻11に淤須比遠母は意須比と通うとして、
「倭姫命世記に、意須比飯高国とあるは、食器に物を盛を、
余曽布とも意曽布とも云、その言にて、意曽比たる飯高しと云意の、
枕詞なれば、此とは異なり、されど事の意は、本は一ツにおつめり、
此ノ意須比を儀式帳には、忍とあるは、比ノ字の後に脱たるなるべし、
強てよまば、忍ノ一字をもオスヒと訓べし」と記す (宣長全集:9-473)。」
http://www.dai3gen.net/ihitaka.htm
ということは、「意須比の飯高国」とは、祭祀場としての代表である飯高という慣用句だったことに気がつくのである。また上記引用文に宣長も書いているように、「おすひ」の語源が飯を盛ること=「よそる」「よそう」にありというのは、「よそう」から「よそおう」が出て、飯を盛ることと衣装を着ることが、ともに祭祀者の大事な役柄でもあったことに気がつくのであるが、ではなぜ「よそふ」が「おすひ、いすひ」と同じなのかは宣長は書けないままであるのは気になる。
伊勢の豊受が神の食事係であるように、巫女には神のために神饌を用意する「飯豊」「炊屋」(いいとよ・かしきや)という重職があり、だから当然、巫女の衣装はエプロンもかねている・・・タスキと斜めの袈裟布をしている理由はここであるとわかるのである。
つまり「おすひ」は「お・すい」「御炊飯」なのだ。巫女である女帝の推古天皇の名前は「炊屋姫」である。この「かしき」は山の鉱山でまかないをしていた飯炊き女を「かしぎ」と呼んだこととまったく同じである。「飯」地名が時として山の形もさることながらそこに鉱山があったこととリンクする理由はここにある。
紀州飯高は伊勢丹生水銀の鉱床を持つ山々で、だからここを丹生と言うのである。つまり「いいたか」とは鉱物がある高い場所であり、水銀は弥生の昔から、死者再生の赤を生む鉱物ゆえに、ベンガラとも混同されて赤=再生=永遠の生命=王者、聖者の力の象徴であり、それを用意するのも巫覡たちの重要な仕事であるので、これも神饌、贄ということなのであろう。これは仏教なら斎(とき)である。神饌やお斎は必ず三宝、高槻、斎膳に乗せられて神前・仏前に置かれるゆえ、飯は槻とも同源の地名・職名の元である。
さて、ならばその「いひ」がなぜヒタカになるのか?「ひたか」は日が高い、よく地上を照らす山の頂上と考えられる。また、別に同じ意味で、「日鷹」「忍坂」「逢坂」「おさか」などが地名にはあっただろうと考えていい。「おす」は「押す」であると同時に古代では「食す」と書いても「おす」だった。「食す国」と書いて「おすくに」と『古事記』などにある。「おすくに」とは農産物や海産物や鉱物が豊富な国・・・つまり豊饒国を指す。「とよ」の国=葦原中つ国=秋津島=そらみつ=まほろば=・・・
ゆえに先の推古女帝も「とよみけ」がつき「かしきやひめ」なのだ。さしずめ豊食炊飯姫である。いつも白い割烹着で、忙しく飯を炊いている姫・・・=巫女、斎王である。伊勢斎王の「斎」も当然食事係りという意味である。だから豊受大神が稲荷神だと言われるわけである。どちらも神の食事をまかなう役目の神なのだ。今でも金沢などで、野外炊飯することを「かしき」「かしぐ」という地方がある。往古これを「炊爨」と書いた。今なら飯盒炊爨である。
すると、「おし」も「いひ」「ひ」と同源だと考え付く。すると逢坂という地名が忍坂の「おし」から生まれるかと思いつく。谷川健一は「いい」「おう」「あお」は青山地名で墓所として同じだと書いている。すると天皇の名代部である「忍坂 おしさか」部から出た「刑部 おさかべ」の「おさ」も「おし」ではないか?あるいは「おほさか」もそうか?となるわけである。
刑部は字のごとく「裁判によって刑を下す」人々で、三重県四日市町坂部に刑部神社を置く氏族。
天皇の養育係はこの刑部や乳部や忍坂部や坂部、坂合部がやることになっていて、即位前の親王の名前の多くがこれらになっている。例えば天武は大海部皇子、天智は葛城皇子で、オシサカを名乗ったのは允恭天皇の娘の忍坂中津姫で、忍坂部や刑部は彼女の世話を焼く名代部から始まったと、まあ、史実の前倒し解説記事として置かれる。「なしろ」「ちちぶ」はつまり武家の「乳母=メノト一家」なのである。乳母。
ただの乳母ならなにも問題はないが、ややこしいことに場合によってはここから天皇に嫁が出ることがあり、そうなるとその実力はただの飯盛り、乳やり女どころではすまなくなり、持統女帝の食事係ともなれば、記紀ではアマテラスの豊受たり得たわけであるから大したものだ。豊受女神はもとは若狭宮津の籠神社の神。つまり海人族海部氏の氏神だ。おすひのデザインの多くに青海波(せいがいは)があるのは海人族巫女だからだろう。
そういう最古の氏族に倭直氏などがあった。「やまとのあたい」、倭国造一家である。例の黒塚古墳そばに大和神社がある。この氏族から出るのが例のアマテラスの巫女倭姫やモモ襲姫である。やはりアマテラスを祭る巫女になっている。その後裔が伊勢斎王になるのである。しかも大和の国名の元でもあり、倭人の大元でもある。つまり邪馬台国の有力氏族候補のひとつで、椎根津彦つまりうずひこの子孫である。
今の大阪府は「おおさか」であるが、元は「尾坂」「小坂」となっており、あとから大きい坂になった。これは京都の大原がもとは小原だったこととリンクする。大阪の「尾坂」とは今の奈良県櫻井市と大阪府八尾市を結ぶ「忍坂街道」から生まれた地名だろうから、もともと「おしさか」「おっさか」から転じたのが「おほさか」ではあるまいか?小さい坂地名だったなら「こさか」が東大阪市生駒山の麓にあり、「こさか」が由来ではあるまい。やはり読みは「おさか」なのである。室町時代、 蓮如上人の『御文章』に書かれた「攝州東成郡生玉之庄内大坂」が最古の文献となる。むかしは摂津国で、大坂と改めたのは秀吉である。
では大阪に坂はなかったかと言うと、生駒を越えてすぐ大阪湾だった往古には、今の埋立地の大阪市まではゆるやかに傾斜してはずで、蓮如が書いた東成の玉造は、上町台地まで上がる坂にある。
大阪城をここに建てたから秀吉はここを大坂としたのである。もとは「おっさか」であろう。
京都と滋賀の間の峠が和歌で有名な逢坂山である。ここも「おうさか」だがそもそもは「あうさか」で、双方から山を登って出会う場所、つまり峠の踊り場的な地名が逢坂山である。しかし考えてみたら、山はどこでも坂と坂を登れば頂点で出会う峠があるもので、特に変わった地名とも言えない。ここももしやオシサカ部や坂合部らが居住したからかも知れない。彼らは宮廷守護も役目なので監視地点である高いところにいただろう。その坂合部(さかい・べ)は境、堺にいるので、地名もそういうところが怪しい。
「「和名類聚抄」にはみえないが、「正倉院文書」に「川辺郡坂合郷戸主秦美止保利」とあるので、この時期には一時(秦氏が請け負って)郷として存在していたのであろう。現在尼崎市内に上坂部・下坂部の地名があるが、この辺りを指していたのであろう。当地域は古代においては坂合部の居住地であったと思われるが、坂合部は「新撰姓氏録」摂津国皇別に大彦命の後裔氏族としてみえ、同祖の氏族に「久々知」を載せているので、隣接した所を居住地としていたらしい。坂合部は「新撰姓氏録」に「允恭天皇の御代、国境の標を造立し、因って姓を坂合部連と賜う」とあり、境界を定める技術をもった職業部とされるが、当地方の坂部という地名は中世に「酒部」と書いたものがあり、『摂津志』も上坂部を注して「坂は一に酒に作る」とあることから、酒部の居住地とする説もある。また、「新撰姓氏録」逸文に阿智王とともに渡来した七姓の漢人〔あやひと〕のうち「郭〔そうかく〕」という姓をもつ漢人の子孫に坂合部首があり、外交に従事する渡来人を管理する坂合部氏の本貫地とみる説もある。坂合郷に秦氏が居住していることからみて後者の説が妥当ではないかと思われる。」
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E5%9D%82%E5%90%88%E9%83%A8
久々知(くくち)は菊池で、熊本由来であろう海人族である。だからこの場合の秦氏というのは氏ではなく部であるから秦を半島から運んで親戚となった波多野などの部であろうか。彼らが差別される前後から菊花を紋として、やがて武家として復活するのは間違いあるまい。そのまま部や賎民のまま漂泊者となったものは江戸期まで菊花を用いたようである。熊本に菊地名や菊花紋を持つ古墳が多いこととなにか関係するか?熊本には同じ名代部だった的臣や靫負氏族、日下部、大野馬牧の部も多く入れられたはずである。それは熊襲対策、中国侵略者や琉球流民対策でもあろう。
坂合部氏にもやはり秦氏子孫系譜とオオヒコ子孫系譜が混在したようだ。筑紫国造らが多氏系譜とオオヒコ系譜を同時に持つのは、国造氏族たちが時代によって代替わりしたからではなかろうか?ということはそれを指示した王家そのものは変わったということになる。
いよいよ日高だが、東北蝦夷の敗北後に飛騨とか阿武隈山地一帯、津軽などをヒタカミ国と称したのは、彼らの俘囚が西日本でも日田、飛騨、紀州日高など山深い場所を隠棲していたことと関係するか?日が高い場所とは一概に言えず、朝廷に税を簒奪される部にされたからかも知れない。筆者小学生の同級生に日高さんがいたが、しかしどう見ても蝦夷のような濃い相貌ではなかった。紀州飯高からは元正~文武天皇関係で日高の諸高が出ている。
飯高諸高 いいたかの-もろたか
飯高郡には「飯高県造」という豪族があったという。
「いいたかのあがたのつくり」
『古事記』に三重采女(みえのうねめ)という記述がある。
水銀交易によって地固めし、元正天皇に笠目という采女を出しているのが最初である。
元正天皇は日高(氷高皇女)であるのだから、彼ら飯高氏に育てられたのである。『高橋氏文』『東大寺要録』には元正を「飯高皇女」としてある。
また別名の新家皇女とは、三重県にあった屯倉が津市の新家にあったからだという。
宣化天皇元年、物部麁鹿火(もののべ・あらかい 守屋の祖父)は新家の穀物を筑紫那津宮家まで運ばせたとあるが、これは彼が継体大王の磐井の乱で勝利して筑紫を管理する国造家にとって変わったためであろう。
「いちし」から「いひし」「いい」が出て日高が飯高になったのだろうか?それとももともとは「いたか」が祭祀氏族巫女となってから飯高であろうか?
「いたか」ならば「いたこ」という恐山の巫女を思い出す。「いた」が「ひた」に変化するのは容易だろう。あるいは逆も。すると東北で蝦夷が敗北した奈良時代に、多くの開拓者が入っているのはもしや彼らや紀州の木部たちが多かったためか?それが紀州や九州での祭祀の民間伝承者だったか?
津軽の日高見国伝承が出る背景は、奈良時代以後を遡るまいから、彼ら開拓者の考え付いた朝廷・中央への呪や、紀氏本体から受け継がれた敗者反骨の精神が生み出す観念であろうし、日本中央碑などを作ったのもそうした追いやられた歴史の敗者としての通念が、ずっとあとになっても怨恨として積もってできあがったのではないかと思える。外三郡史の言うような縄文や弥生からの観念だったかどうか定かではあるまい。そもそも蝦夷たちはすでに女を残して俘囚となっており、彼らが西日本に「ひだか」地名を持っていったかどうか、さて、証明する手立てはない。もしそうであるなら、大分県には蝦夷製鉄の痕跡を伝える刀鍛冶豊後行平(国東半島)がいたのであるが。
国東には岐部があり、豊国造のウナテはここの出身である。岐部は木部で紀部であるから、ここのケべス祭りのケべスとは木部の製鉄神であろう。本来恵比寿だから、蝦夷でもかまわない。ほかにも臼杵や佐伯の中世大神氏の前身が、宇佐神宮のおおみわ氏に使えた蝦夷俘囚だったとも考えている。
そのあたりは神功皇后と武内宿禰から考察すれば面白いだろう。また、多氏と「おう」「いい」「あお」も面白くなる。