この問題は以前、朴天秀や福永伸哉の研究を基盤にして、ざっと記事にしている。
その被葬者が紀氏、巨勢氏、竺紫(ちくし)物部氏らのものであるという考察も書いておいた。ただし、それはあくまでも記紀記述を整合とする近畿考古学の立場から割り出された結論でもあるので、では九州の筑紫君との関係はないか?あるいは、もっとつきつめて、筑紫君そのものは果たして純然たる九州人なのか、大和が派遣した派遣国造だったのかを考えてみたい。
以前の記事はこれである。
2013/12/22(日) 午後 3:14
この問題はすでにいくらかは解決済みである。
韓国・慶北大学の朴天秀(パク・チョンス)らの在韓国学者の間で、それが倭人であることはすでに論じられている。
『日本書記』欽明二年(541)七月
紀臣 奈率 弥麻沙(きのおみ・なそちの・みまさ)
欽明四年九月
物部 施徳 麻か牟(もののべの・せとく・まかむ)
欽明五年三月
許勢 奈率 歌麻(こせの・なそつ・かま)
奈率も施徳も百済の役職である。
6世紀中盤に紀氏や物部氏の中で、百済に移住し、高官となったものがあったわけで、記録以外にもたくさんいただろう。なぜなら光州・栄山川流域がかつての「記紀が言うところの伽耶の倭の出先機関「日本府」があったところが近いからだ。
彼等の時代は6世紀中盤で、光州の前方後円墳の建造年代に近似値であり、まず彼等、彼等の先祖・子孫である。
紀臣弥麻沙は記録で、韓国の妻を娶った紀氏の子孫であろうと書かれている。『日本書記』
(形状が日本のものとやや違うように見えるのは両国の復元ノウハウの相違でしかない。当然のことだが、日本は前方後円墳の本場ゆえに、復元はより正鵠であると言っていいだろう。そもそも基本的にかの国家は倭人がここにいたことなど認めたくない性格であるので、立場が違う。立場の違いとは、国家の建前で、いかんともしがたい範疇の概念だ。認めないと言えば角が立ち、認めるといえばこっちの立場が崩壊する。国家間のアイデンティティの問題は邪魔ではあるが、相手も尊重してあげるのが日本人の世界に冠たるすばらしい態度である。もちろん勧告側の復元が正しい可能性も認めてさしあげねばならない。それこそが日本がかつては扶桑だったというステータスの勇気ある継承であろう。真の「誇り高い国民性」とはそういうことである。)
福永伸哉(大阪大学)は、これらの人々は継体が百済武寧王の軍事支援のために送り込んだと見ており、すべて九州にいた人々であるとも書いている。物部氏は特に、磐井の戦争で九州北部に送り込まれ、竺紫物部氏となっていた。継体時代のことである。
一旦は結論が出ているように書いたが、これは欽明紀が正しいという前提の下でこそ合致するが、そうではなく、九州の氏族が送り込んだ人々だった可能性がないわけではない。というのは、半島光州の前方後円墳や方墳、円墳の石室が、九州式の横穴石室を持つものばかりだからである。前回、この問題はあえて書かないままにしておいた。
上記記事で、韓国の朴天秀(パク・チョンス)らは、その被葬者を『日本書紀』記録にある派遣氏族であると論じた。その中核となったのは紀氏・巨勢氏・物部氏であるので、いわゆる武内宿禰子孫氏族の葛城系譜と、筑紫物部氏(物部麁鹿火〔あらかい〕の子孫)である。これらはつまり倭五王~継体までの大王家を担ぐ家臣団ということになる。年代では5世紀後半~6世紀中盤である。ということは前方後円墳繁栄の時代そのものの時代。そして倭五王中盤~後半の古墳形式が九州式横穴式石室であるということで、確かに記録とも考古学古墳編年ともうまく合致することになる。
では、その横穴石室という視点から光州の古墳群をもう一度見直してみよう。
半島の前方後円墳分布地域は半島南西部全羅南道及び北道(チョルラ・ナムド、プット)で、そこはちょうどかつての百済の最南端、海南(ヘムナ)半島から栄山江(ヨンサングヮン)流域、咸平(ハンピョン)湾沿岸域、蘆嶺(ノリョン) 山脈を越えた黄海(ファンへ)沿岸域(霊光[ヨングヮン]・高敞[コチャン])に点在している。
中心地はあくまでも栄山江流域である。そこに大和的な前方後円墳だけではなく、九州系の横穴式石室を持った方墳や円墳が点在する。九州系横穴式石室を持つ墓は、倭系前方後円墳、倭系・百済系方墳や円墳のすべてに点在する。
これらの墓の特徴は、日本のような古墳群の中の盟主的位置には作られず、在地首長墓群から少し離れて、単騎築かれたものがほとんどである。(例外は月桂洞古墳群と馬山里古墳群がある。)
栄山江流域と慶南地方に分布する九州系横穴式石室を採用した古墳には、墳丘が倭系のものと在地系のものとが混在する。
築造期間は栄山江が5末~6前期前葉で、南部はこれと同時期~6中葉前後とやや遅れるものがあるがいずれも磐井の乱以前~以後の古墳である。
これら半島南西部の九州系横穴石室を分類すると次の三つに大別できる。
1 北部九州型そのものズバリのもの。
2 肥後型(北部肥後)ベースで、それをやや変形にしたもの(石屋形、石棺を置く石床方式)
3 北部九州型と肥後型の折衷型。
1には新徳、龍頭里、馬山里1号、明化洞(破損はげしいがおそらく)
2には月桂洞1・2号があり、1号墳玄室の奥壁にそって石屋形か石棺が置かれたらしい。
3には長鼓峰古墳がある。
つまり被葬者はともかく、墓の様式からは、その工人が、
1は福岡・佐賀の工人、
2は熊本北部の工人、
3は福岡と熊本中部工人の合作
と考えられる。
要するに、墓とは被葬者が作るわけではなく、その配下として召集された土木工人が作るものであるので、様式から被葬者を一概には特定できないということになる。
たとえば、日本国内九州で装飾古墳とそうでない古墳が隣接する場合、どちらが装飾を好んだ海人族系の被葬者であるとは言えないが、作ったものは彼らだということはわかるのである。墓をどうしたいかが、生前の被葬者の意見で作られたかどうかは、彼の言葉の記録がないかぎり、わかりようがない。
出土品には九州北部磐井氏族の墓のような石製品はない。大和的な木製品の威信財(石見型木製品)、武具、馬具、装身具と百済的な木棺装身具、銀かぶり鉄釘、環坐金具である。つまり石室は北部九州型だが副葬品などは埴輪、木製品という大和型である。
古墳の築造スタイルは段築、周濠、葺石の大和型である。
つまりこれでわかるように、この半島前方後円墳の多くは、
「大和ないしは近畿大王が、北部九州の近しい豪族に依頼した協力要請型の派遣管理者たち」
であり、または、その一部が近畿から派遣されたにしても、彼らは
「もともと九州に深いえにしを持っていた大和の葛城系氏族」
であろうということである。
また想定された物部氏の場合は、『日本書紀』磐井の乱が6世紀中頃のことであり、物部氏の北部九州管理体制は磐井の死後から始まるわけであるから、半島の6世紀中葉までの墓を竺紫物部氏だと断定することは難しく、むしろそれ以前の大和の物部氏つまり麁鹿火の祖先たちの墓であろうと考えるのがよいように思える。
石製品については、別途分類わけするが、磐井の岩戸山でも石見型威信盾を石で作った巨大なものが出ており、継体大王あるいは倭王武前後から、筑紫君と大和大王には、どうも連携関係があったと考えられるのである。つまりもっと言えば、
「継体を担ぎ上げた氏族のバックアップ軍団こそが九州磐井の祖先だった」
と考えられるのだ。
なお、筆者は竺紫、筑紫を「つくし」とは読まず「ちくし」と読むことにしている。というのは、前も記事にしたことだが、中国記録の東夷伝などでは、「竹志」と表記され、竹には「つく」の音訓がないからである。「つくし」は最果てのという地名で、これは大和から見た地名読みであり気に入らない。
竺紫物部氏とは、筑紫をわざわざこう表記した継体紀の表記である。つまり天竺の字をわざわざ使って、磐井に勝った直接の勝者麁鹿火に与えた名誉表記であろうか。それとも正反対に、彼の直前に殺された盟主物部守屋への弁明と鎮魂であろうか。それはわからない。
前にも書いたが、継体の今城塚古墳と磐井の岩戸山古墳は相似形であり、そこに置かれた遺物が、片方は大和的な埴輪、片方は九州的な石製品ではあっても、ほとんど同じような形状のもので似ている。また岩戸山から出た石製鶏と今城塚の鶏埴輪にも類似点がある。石見型木製品は、継体大王の各地に送った二つの威信財である広帯二山形冠とねじり環頭太刀の出る古墳からもたまに出土する。つまり継体がそれを磐井にも配布し、磐井はそれを石によって巨大化した。つまりそれは継体の威信財被配布集団の長であるという意思表示ではないかと柳沢一男は類推している。
正しいとは言わない。
そういうことが十分に考えやすい考古学的発掘物であると言える。
また石人石馬などの破壊を見ると、確かに記紀記録は正しいと、大和研究者なら思うだろう。当然である。しかし、石人の最古は磐井関係者の土地では一箇所だけ確認があるが、往古は派生地は豊後の臼塚古墳(4世紀後半)だとされていた。これも疑問点である。
磐井の裁判の姿を象る猪や座る罪人の石製品が、今城塚では埴輪で再現されたのではないか?つまり磐井の事跡を継体に置き換えたのだという説もある。
次回、その石製表象の編年と分析から、いよいよ継体と磐井の正体を見極めていきたい。