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筑紫の二頭体制

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この記事群は3つにわけて書いた。
うちひとつは結論で、友だちのみの公開とした。
ぜひ全文を続けてお読みいただきたい。

友だち登録して全文を読むhttp://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56710014.html




北部九州~中九州にかけて、装飾を持たない知事クラスの古墳と、装飾を持つ在地人的古墳がつかず離れず混在するのは誰でもわかることと思う。例えば福岡県吉井町の月の岡古墳と日ノ岡古墳が隣り合うのはその最もわかりやすいものである。

中九州熊本でも江田船山古墳・井寺古墳などと装飾古墳が隣接関係を持つ。

これらの知事クラス古墳は吉備系氏族のものであろうと推測している。装飾がなく、家型や箱型、横口式の石棺を持ち、直弧文や同心円紋のレリーフがそこにはほどこされている。筑紫君の八女では石人山古墳がそうである。同時に少し離れた周囲には装飾古墳がある。

さらにその装飾古墳氏族の部民や人クラスだろう横穴墓も点在する。この様式は、北部九州が首長と海人族家臣団との二頭体制であったことを証明している。

問題は、その首長が現地倭人であったかどうかだが、3世紀の邪馬台国は、弥生時代の後半までの寒冷化と乾燥化によって渡来が多発した時代に、すでに北部・西部九州から離れ東へ移動したと考えられ、それが大和纏向や東北縄文世界に突如として甕棺的な土器棺を登場させ、吉備には陶棺という高句麗的なひつぎが。

大和では卑弥呼の時代には吉備系埴輪による祭祀が起こり、そこに全国から人が集まった形跡が出る。

3世紀とはそのようなダイナミックな政治体制の変革と移住が起きた時代であり、それについてゆく家臣団が海人族である。彼らの中では、どっちにつくかの葛藤と仲間割れも当然起こって不思議ではない。もちろん渡来してきた倭種の子孫たちも、半島南部伽耶系倭種たちとの間でも同じ葛藤が起きる。長江系か伽耶系かで乱が起きたのではないか。

それはつまり大陸の、南朝か北朝かの葛藤による三国時代の縮図であろう。

継体も磐井ももともと百済・江南とのえにしが深いと言う点で、同じ穴のむじなである。それが記録でにわかに磐井が新羅とつるんでとか書かれたのは、あきらかに大和朝廷初期の藤原体制が作り出した嘘であろう。



しかし、この二頭体制こそは、これまで日本の歴史研究者を混乱させてきたものではなかったか。九州=装飾古墳で明快にくくりたいところに、装飾のない古墳が出てきて、しかもそっちの方が立派な古墳である。出てくるものも立派。

一方、装飾の分析では、その被葬者はどうやら中央から派遣された靫負(ゆげい)氏族のものもあるらしい・・・。複雑な氏族の混在が時代を追って起きている。だから九州だけでものを考えていたらこの問題は解けないのは当然である。大和や吉備をからめて、『日本書紀』の嘘ではないところを見出し、さらに大陸事情とつき合わせていかねばわかるはずがない。




直弧文が語る筑紫と吉備の関係・もっとわかりやすく継体=磐井

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岡山県吉備の造山古墳群千足古墳仕切り石の直弧文と肥後型石室

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肥後北部に多い肥後型石室と直弧文
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九州式の石室で5~6世紀最も隆盛するのが石床・石障という独特のスタイルと、直弧文(ちょっこもん)である。

石床とは大和のような石槨に棺を置く方式ではなく、遺体を直接置くための床である。考えれば密閉型の石棺が発明される前の、開放的・家族的な石室だと言える。九州では石床に大小のしきりがあって小部屋になっており、つまり家族を後から追葬できる自由な造り。

その床と石室をくぎる衝立が石障・仕切り石である。四方に立てた壁石の中で、前部の仕切り石はやや低く作られ、真ん中が船の甲板横の壁のようにえぐれてさらに低くしてあることが多いので、お参りにやってきた家族は死者を見ることができる。ずっとあとになって見に行けば、つまり被葬者の肉体が死後どう変化していくかがまるわかりになることになる。

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熊本県立装飾古墳館レプリカ 装飾古墳白書さんより



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岩戸山古墳出土不明石製品
柳沢説ではこれは逆にして、広帯二山式冠の蝶形金具の形だと自説を言うが、広帯二山式冠は継体大王の下賜した威信財であるという説があってふさわしくなかろう。筆者はあえて逆さにし、仕切り石の形象だと考えたい。下にある継体大王の包囲網分布図を参照。



この方式で前障に直弧文がある、あるいは石棺に直弧文がある墓の石室には、壁画は同居しないので、いわゆる装飾壁画を持つ氏族とは別の出自を持つ人々の墓であると考えられるが、なぜか双方は近いところに同居して造営されている。その地域で比較して、大きい墓にだいたい直弧文が貼られており、小さいものに壁画があることが多いので、両者は上下関係でつながった「氏族」集団であったと考えられる。

このように、九州有明海沿岸部の墓とまったく同じ様式の墓が、海で離れた吉備地方にも存在(千足古墳など)し、そこが吉備王家の大型古墳であろう造山古墳がある地域であるということ、そしてその造山の中から阿蘇凝灰岩製の石の破片(灰色とピンク)が出ていることから、九州と吉備の深い関係が見えることになる。

筆者が考えるのは、まず吉備王同族の隆盛が3世紀前にあり、それが纏向へと移住した痕跡があること。それが盾築遺跡で出る吉備型円筒埴輪=特殊器台と特殊壷であり、弧帯文~纏向の弧文への変化に見て取れることであるが、吉備隆盛時代には彼らが肥後・八女地域ですでに国造のような存在になっていた可能性が高いということである。

大和では3世紀以降移住しただろう吉備氏一族が、葛城氏とともに河内の王家によって弾圧を受けていくのが5世紀あたりで、この頃には半島で葛城氏らが管理していた伽耶(任那日本府)が葛城ソツヒコの奮闘むなしく新羅によって滅びたと『日本書紀』が言っており、考古学とよく符合する流れになっている。

その葛城氏の古墳からも直弧文が描かれた靫埴輪が出ている。


こうして考えれば、直弧文が敗者に貼られたレッテルだろうとうすうす感じてくるのである。吉備、葛城、そして肥後・筑紫の順である。


直弧文と肥後石石棺の分布図
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どうしても筑後・肥後と吉備には氏族的えにしが見えるのである。



6世紀、継体大王がそれまでの河内王家の後を引き継ぐ格好で大和に招請されて、筑紫君の反乱と書かれた動乱が突如九州の筑後地域で起きたらしい。うまくできすぎた流れになっている。ところがその継体の墓であろうとされる摂津の今城塚古墳からも、なんと阿蘇ピンク石の破片が出てきた。摂津はもともと紫金山古墳から直弧文のある鹿のあご骨が出ていて、では継体とは本当に北陸や近江から来た人なのか、筑紫にゆえんのある人なのではないのか?という大逆転の発想が、筑後の人々から出てくるのである。


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時代は何百年も離れているが、顔のある石製品が筑後と吉備から出ている。
筑後のは筑紫君磐井の墓であろうという岩戸山古墳から出た武装石人の顔面部分だと思われる。吉備の弧帯文石の顔は、まわりをすべて弧帯文という×のない渦巻きで張り巡らされている。この渦巻きは再生と永遠を現す模様で、吉備王家の存続の願いがこめられていると思われるが、ここに×を書き加えれば、その再生願望の遮断となるのではないかというのが筆者の持論だ。


磐井の祖父あたりの年代の墓である広川町の石人山石室に、形式は家型で大和的なのに、屋根に直弧文が張り巡らされた石棺がある。磐井は豊、火を巻き込んで乱を起こしたというが、豊とは長湯横穴墓や臼杵市の石人のある地域であろうし、火とは肥後のことである。

あまりにもできすぎた感のある『日本書紀』の書き方で、どうもあとからの創作くさいのである。

継体や磐井が本当に存在して争ったのだろうか?

そもそも新羅を攻めるために大和側は筑紫に軍を送ったが、なぜ磐井の乱は半島に直接対面する筑前ではなく、筑後で起きたのだろう?それに対して学説は、磐井の本拠地が筑後だったからだとするが、筑紫国造というものは往古から伊都国のある糸島地域にいるものであり、筑後は東シナ海に向いて中華への玄関である。矛盾する。

こういう方向の矛盾は、神功皇后伝説でも出てくるし、天孫降臨でも出てくる。半島に向いているといいながら、その場所が太平洋側だったり、新羅征伐にいくのに、なぜか筑後川という有明海に注ぐ大河の上流である朝倉だったりと、奇妙な場所指定がなされているのである。


そもそも筑紫君のことを『日本書紀』は国造と書いている。これはひとりの単なる君である地方豪族磐井を、なにか筑紫全体の支配者・王であるかのごとく思わせるトリックではないか?それによって大和が完全に既存の筑紫王家を掌握したんだぞと言いたて、書き立てているような気配がないか?そのために、どこの馬の骨かもわからない継体という豪族を、飛鳥の前の河内王家の最後に無理やり持ってきて、実はあいつは大和の王家とは本来血縁もない奴で、それが一番古い由緒ある筑紫を滅ぼしたのであって、われわれのしたことじゃない、と言い逃れしていると見えてしまうのである。


つまり継体は飛鳥最後の為政者となった藤原氏が勝手に創作した、本当は磐井そのものだったのではないのか?と。


継体の墓である今城塚と磐井の墓である岩戸山は、実は相似形のそっくりさん古墳で、しかも今城塚の鶏埴輪などと岩戸山の鶏型石製品はそっくりであり、ほとんど埴輪が出てこない九州の古墳では岩戸山周辺の八女古墳群だけから円筒埴輪が出る。また岩戸山の別区は今城塚にもあり、頂上に同じように裁判などの事跡が置かれていた。どちらかが実在し、どちらかが二人にされて、同時に滅ぼされた・・・!?

継体は死後、子どもが継ぐが、『百済本紀』はそれを「天皇と皇太子二人とともに死んだ」と書くのである。磐井の死のすぐあとの出来事なのである。そして登場したのが欽明と蘇我稲目である。ここからが飛鳥時代となるのだ。

できすぎだと思いませんか?諸君。


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御所市葛城地区宮山古墳出土靫埴輪の直弧文


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磐井・葛城襲津彦・吉備王
敗者には直弧文が貼られた?











会員様各位へ古代史の旅回想録の予告

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現在、会員記事は民族学伝承ひろいあげ辞典の友だち公開へ切り替えていますが、忍者ブログはもったいないので、今後はぼくの古代史の旅の回想録を少しづつ書いていこうかと思っております。

これから非公開でちょっとずつ書き溜めて、ある程度たまったらいずれ会員公開するつもりです。

そのときはここに発表しますので、それまで民族学伝承ひろいあげ辞典でお楽しみください。
    Kawakatu

四大文明以前で人類の思考の起源は考える

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高校の世界史で教わったのは、最古の文明は四大文明で、これまで歴史学は四大文明を中心にした考え方、それが最古の人間の考え方や嗜好性や死生観の始まりだみたいな扱いであった。

しかし、人間の原初の志向性の起源が四箇所もあることそのものがおかしい話である。
そこで世界の考古学者はもっと古い文化・文明を探した。
するとアジアでは黄河以前の殷の遺跡つまり長江文明が見つかり、エジプトやオリエントやバビロニアではシュメール文明があることがわかった。

しかし、最近では、長江よりもさらに古い場所、シュメールよりも古い場所、インダス文明より古い場所が求められはじめ、アッシリアやアナトリア、あるいはスキタイや西アジアなどが、四大文明に大きな影響をもたらした前文明だったことが言われ始めている。


筆者は、最古の文明派生地とは、最初の人類遺伝子が分岐した場所であると考えている。それはギリシア文明の大元がイラン(バクトリア)であることに気づいてからだ。
アフリカを出た現生人類は、死海方向ではなく、アラビア半島から西アジアに入り、そこで分岐したことが遺伝子学では確実化。

すると西アジアこそに、人類すべての最古の共通項があるはずである。ところが、そこはこれまで紛争が絶えず、発掘がほとんどされないままで、世界史・考古学の盲点、鬼っこ扱いのままだった。今回、アメリカとイランが仲直りしたが、隣のバングラデシュなどはまだまだごちゃごちゃ状態。さらにISが貴重な遺跡をつぎつぎ破壊してしまう。土の下には手は出せまいが。

とにかく歴史学的な視点からは、なんでもいいから中近東から西アジアが安定して欲しいのである。


エジプトの死生観関係の本を読んでいると、信仰や宗教や民俗学から解明したい研究者の視点に、絶対的にないのが、そういう原点からエジプトを見る視点、あるいは環境考古学・年縞による気象の歴史という視点であると感じてしまう。そしてああ、エジプトは古くないな、原初原点ではないな、と感じるのである。文系史学はもっと最近の年縞分析に着眼点を求めるべきだ。地球環境によって死生観もデザインなどのゆとりある表現も大変化するのだから。太古から人間は衣食住足りてこそ嗜好性を満たしてきた。オーカーを使う凝った表現や、シンメトリーの使われた石器や鏃などは、みな環境がよくなった時代に登場し、悪くなると死生観が激変したのである。人が長生きできる豊かな時代と、長生きできない過酷な時代の対照こそ、人類の思いをよく伝える。
地球と気象に翻弄されてて来たわれわれの祖先がリアルに見えてくるのである。


次回、そのエジプトの死生観についていくつかのエピソードをあげていこうと思う。


キトラの天文星宿図と太陽神アマテラスクローズアップの時代的矛盾の謎を解く

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以下は今年の7月に公式発表されたキトラ天文星宿図がどこで観測されたものか、に関する記事である。


「世界最古とされる奈良県明日香村のキトラ古墳壁画の天文図(西暦700年ごろ)について文化庁は7月15日、解析の結果、古代中国の洛陽や長安付近で観測、製作された天文図をもとに描かれた可能性があると発表した。
 天文図の粉本(ふんぽん=手本)として有力だった「古代中国」説を裏付けた。調査成果は10月9日から飛鳥資料館で開かれる特別展で紹介される。
 キトラ古墳の天文図には68星座約350個の星とともに天の赤道、黄道、内規(常時観測できる天空)、外規(観測可能な天空)の4つの円が描かれ、世界最古の天文図とされる。


 調査は文化庁と国立天文台の相馬充助教、OBの中村士(つこう)元帝京平成大学教授らが実施。天文図の写真をもとに、星座の位置や天の赤道・内規と星座の位置関係などを詳細に解析し、観測時期や観測地の緯度を割り出した。
 相馬助教によると、天文図は西暦300年代に観測されたもので、観測場所は北緯34度付近。この緯度には古代中国でたびたび都が置かれた洛陽や長安があり、相馬助教は「洛陽や長安での観測をもとに製作された天文図が日本に輸入され、壁画に描かれた可能性がある」としている。
 一方、中村元教授の解析では、天文図の観測年代は紀元前65~40年ごろ。中村元教授は「当時は前漢の時代。渾天儀(こんてんぎ)とよばれる観測装置を使い、都があった長安付近で、観測されたデータをもとに製作された天文図がモデルだろう」とした。」
産経Westhttp://www.sankei.com/west/news/150715/wst1507150069-n1.html





これを受けて最近NHKの科学番組「コズミックフロント」などがその内容を放送した。コズミックフロントHPhttp://www.nhk.or.jp/space/cfn/150716.html




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その観測場所はほぼ長安と考えられるという。これまで考えられていた北緯38度の高句麗よりもやや南、



国立天文台 相馬充さん
「33度だとちょっと内側過ぎる。
 34度はまず間違いないと考えられる。」



と変化した。

もちろん、観測地が長安であっても、キトラと同じ天文星宿図が中国にはないので、はっきりとは言えないが、その資料が半島(おそらく百済)へ持ち込まれ、それを写したかの写本?を百済画工が日本へ持ち込んで、キトラ天井に描いたのだろうと思う。
ただし、キトラがもし高市皇子の墓である場合は、母親が九州海人族の長であった宗像氏の娘・尼子郎女ゆえに、宗像氏が単独で中国から原図を持ち帰った可能性もある。今のところ高句麗の古墳の星宿図とキトラの縮図は合致しない点が多いらしいのだ。



「新羅では647年に都・慶州に曙星台が建設され, 692年には僧道証に よ っ て唐から天文図が持ち帰られた。李氏朝鮮の初期 0 395 - 96年)に作られた「天象列次分野之図 J は星象は献上された高句麗天文図の印本に基づき,昏暁の中星(南中する星)は新しい観測に基づいて描かれたという。このことは図(石刻)そのものや,李氏朝鮮時代に編纂された「文献備考Jその他に記されている。これによって高句麗に天文図があったことが推定される。しかし先に述べたようにキトラの天文図は「天象列次分野之図」とかなり異なるものなので,後者のもとになった高句麗天文図はキトラ天文図の原図ではありえないと思われる。」
宮島一彦「人文学報」1999



さて、すると当時の朝鮮に残っていた、その写本や、大元の中国での観測図などは、いったいどうなったのだろうか?


中国は何度もず~~~っと政変が起こる国なので、資料の多くが紛失するのは茶飯事であるし、朝鮮も今までず~~~~~~~~~~っとごたごたした国家の入れ替わりが続いて、記録と呼べるものはほとんど消えている。ところが日本はその間、これまたず~~~~~~~っと「ひとつの王家(天武以降の話だが)」が続いたので記録は多く残った。まして古墳の石室内部の壁画なら、まずいくさや開発で削られぬ限り半永久的に保存される。朝鮮の史書の写しや中国の史書の写しも、日本にしか残っていないものがいくつかある。日本がそれだけ「絶海の離島の国」で安然だったということである。



天武天皇は記録によれば天文遁甲に詳しかったとある。
つまり天文観測と統計学による易経である。
それで藤原京の南のキトラ古墳にも、天文図が描かれたのだろう。
それまで日本では、星の信仰はほとんど無関心で、太陽・月信仰がメインだった。
するとこれは日本の思想史で、天武・持統朝以後は画期だったということがわかる。



このときから、伝統だった太陽神を中心とするイデオロギーに、どんな変化が起きたのだろうか?ところが『古事記』『日本書紀』は、なぜか太陽神にアマテラスを置いて、国家統一神とした気配が濃厚である。



はて?矛盾する。



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ミャンマーチャトゥージーパゴダhttp://homepage3.nifty.com/silver-moon/burma/part2.htm
インド伝来の星宿図である。


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福岡県王塚古墳(6世紀)の星座図



『日本書紀』は藤原氏のための史書。
その藤原氏にとっての大恩ある大王は天武ではなく、天智であった。
だから、キトラ以外で天文図を描かれた墓は、今のところ見つからない。実は天文図を描かれた墓は、部分図ならばもっと前から九州や東南アジアなどにもあるが、みな、キトラほどの精緻さはなく、部分縮図やインド占星術に由来したものである。


これは天武の死後、藤原氏は持統女帝を太陽神アマテラスとして担ぐために、星、天文に関する天武の事跡を隠した可能性があるだろう。




特集エジプト人の死生観1/地形と境目と祖霊再生装置としてのピラミッド

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今日からしばらく、古代エジプト人と世界・日本のそれとを比較する。

地形から見る古代エジプト人の境目意識
1 川  オシリス神話では、ナイル河は境界である。近隣では例えば西アフリカの西部にあるシエラレオネ共和国のメンデ族も、死者の霊は河、あるいは山を越えるとされるが、『オシリス神話』でも、オシリスは弟セトによって殺され河へ投げ込まれた。この話は民俗学的な類型伝承で、世界中に聖人やのちの王が生まれてすぐに河に流される話が存在する。日本でも、河ではないがニニギの命は地上界へ天孫降臨するのに、真床御衾という布団にくるまれて下ろされたが、ペルセウス、モーセ、ロームルスとレムス、サルゴンらの王、聖人も同じように川に流され、王女や庭師にひろわれる。河川はあの世とこの世の境目であり、生き返るも殺されるも、その境目を越えることで決まる。

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セべク神

ナイルと言えばワニははずせない。ワニ=セべク神はナイルの主であり、ギリシアではワニの語源となったのはクロコディボロというポリス(都市)である。インドでもワニは男根とヴァギナの合体したリンガの姿(クンビーラ=金比羅神)で表され、生命の根源、水の湧くところでマカラというクンビーラの乗り物であるキメラ動物の口が蛇口になっている。それは日本に持ち込まれると獏や象になった。

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マカラもワニ・カバ・パーチ(淡水の猛魚)などのキメラ

ソベク・ラーは太陽神と生命誕生の神の合体したキメラで、エジプトの重要な神になった。こうした絵柄は遺物として、マジカルナイフ、マジカルワンド(棍棒)などのナイフや棍棒や、枕の脚の女神トゥエリスとともに絵柄になって今に残されている。


トゥエリスとはギリシア語ではタウレト女神で、姿はカバだが、女神としては大地母で、インドのマハ-カーラやシヴァ、中国西王母や女媧に同じ。エジプトではこの女神が河の王・生命の根源としてアテンの使者だったものが、おそらくアマテラスのように太陽神ラーと合体することで一神教化した。持統女帝以後のアマテラスの男太陽神入れ替わりとほぼ同じである。




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太陽と水は、生命の根源であり、聖なる王たちは河から生まれる、河で再生されると考えられた。日本でもお盆の精霊流しなどは死者に託す祖霊の往来を灯篭の明かり=生命・霊魂に見立てた再生儀式である。この死生観は、そのまま洪水神話につなぐことができる。洪水による国家、国民全体の再生・更新である。つまりそれは王の死と、聖なる動物とのまぐわいによって、新生国家が始まる=易姓革命が起こったと考えるべき大事件を指すことになる。





2 山  
「特定の山が聖山となる、霊山と仰がれるというのは、何を意味するかと言えば、生き身の俗界の人間が、その山へ入ることによって聖なる世界へ、あるいは神や霊の世界へ入ることだ。それは俗界を去って霊界へと超越する。逆に言えば、神や霊はそこを越えて俗界に降臨するということにもなる。そこは俗界と聖界の交わるところ、天と地の接するところなのだ。だから古代においても、中世においても・俗なるものから聖なるものへ、人間から超人間へと飛躍するための、超越のイニシエーション(通過儀礼)的実修験に聖山、霊山がとくに重要だった」堀一郎


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ピラミッドは山を模した祖霊昇天の墓であると同時に、王の再生のための装置でもあったことは、早稲田大学などの考古学の発掘ですでに明確化して久しい。これは日本の古墳もまったく同じ死生観で共通している。




3 太陽
日本の太陽信仰も、古代エジプト、あるいは中欧のケルト民族の太陽信仰も、またはるかに遠い南米アステカやマチュピチュの太陽信仰もそうだが、海や河を経て渡ってゆく人々、つまり海洋民族と、農作によって生きた農耕民族にとって太陽こそがすべてであった。一方、遊牧民やポリネシアのトリガーボート民族には星こそが頼りである。

日本の最初の王朝を作った天武天皇は、遊牧民族や海人族の星信仰(のちに仏教から派生して妙見といわれる)つまり天文遁甲の国家作りは、しかし天武が死ぬと、がらりと旧来の太陽神に逆戻りし、しかもその神は女神であると激変した。理由は藤原氏が女帝を傀儡として藤原氏のための政治を行うためにほかならない。

同じことはエジプトでも起きている。前に書いたツタンカーメンの父であるアメンホテプが新しい太陽神アテンによる一神教を初めて開始したとき(アマルナ改革)、アメン・ホテプは改名してアクエン・アテンと名乗る(アメンの子からアテンの子へ)。跡継ぎの息子トト・アンク・アメンもトト・アンク・アテンに改名。しかしツタンカーメンはすぐに若くして謎の死を迎え、アマルナ宗教改革によった画期的一神教国家構想は瓦解させられた。これはまったく天武から持統の記録と同じ政権と信仰神の逆戻り状況をあきらかに表す事件である。
つまりツタンカーメンの死も、天武やその子どもの草壁皇子を始めとする親王たちの死も、政治的暗殺だったことを暗示していると言える。


続く

次回、坂・辻・手形














特集古代エジプト人の死生観2/

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4坂・境・敷居 ピラミッドは山の形状だが、ある意味死の世界と現実世界を区切る「さかいめ」の装置でもあっただろう。「さかいめ」の「さか」は「坂」「堺」「界」である。「かい」は世界・境界・他界の「かい」である。あちらとこちらを分かつもの、地点。家の中なら「敷居」である。山里なら山と里のあいだは「さとやま」である。エジプトには高い山がないが、河岸段丘はかなりの高さを持ち、それは常にあの世への境であったナイル河に寄り添ってきた。だから河岸段丘=山であり、その向こう側は他界である。日本の河岸段丘のつくる台地中腹に横穴古墳が山ほどあるのも、王家の谷が河岸段丘直下にあるのも、ほぼ同じ他界観でそうなっている。


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こうした境目に墓を作るのは、そこから先に黄泉の国があると考えられたからである。そして死者はここで生き返る=黄泉から帰る=蘇ることを期待された。

ヨルダン川流域のエリコは世界最古の遺跡のひとつがあるが、エリコの古代人たちは家屋の床下に死者を埋葬する風習があった。http://poyoland.jugem.jp/?eid=539

台湾の高砂族も家屋内の床下、敷居の真下に死者を埋める。日本では東北の縄文中期くらいから柄鏡型住居の通路(方形通路部)に幼児死体を入れた甕(土器棺)を埋める。

『播磨国風土記』
「昔、丹波と播磨の国境を定めたとき、大甕(おおみか)を坂の上に掘り埋めて国の境とした。だからここを甕坂といふ」

『日本書紀』には黄泉比良坂(よもつひらさか)とある。あの世とこの世を隔てる坂で、古墳石室のやや下ることの多い長い玄道もこれである。

『古事記』孝霊天皇・崇神天皇記、『住吉大社神代記』などに、土器を神に80個ささげた記事がある。

ある時代の古墳から、必ず同じ様式の(おそらく河内の陶邑製品)巨大な須恵器甕が出てくる。全国的に出るし、出るのはその地域でもトップクラスの大きな前方後円墳である。おそらく被葬者は国司クラスの豪族であろう。甕に最初は夭折幼児だけを入れて家屋内に埋めていたのは、祖霊が乳幼児によりつくと考えたからだろう。その考えはのちの陰陽師の使う形代(かたしろ)に引き継がれたと思える。今でも子どもの遺骸の代わりとして神社に人形を収めたりする人がいる。弥生時代の甕棺も最初は幼児だけだが、次第に大人もそうされていった。

古代ギリシアでも甕を埋めている。
エジプトのコプト教徒(初期キリスト教徒)たちは、洗礼前に子どもが死ぬと壷に遺体を入れて家の床下に埋めた。そしてそうすると母親はまた子宝に恵まれると信じられていた。祖霊は幼児によりつくのである。鳥が子の魂を天上界へ持ち去り、そこで祖霊の魄が乗り移り、山の上に降りてくる。それが床下の遺体を蘇らせるかのように、新たな生命を根付かせ、ムラの血脈はつながり護られる。


エジプトの遺跡の住居跡から、おびただしい数の幼児遺体の入った箱や壷が出る。

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 エジプト第6王朝の高官シェンドワの埋葬室の偽扉の真下の地下6階に相当する深さにある通気孔にちらばる石灰岩製の壷(撮影日不明)。これらの壷には、鴨をかたどったものや、鴨の骨が入れられていたものもある。 シェンドワのサルコファガス(棺=ひつぎ)は湿気と腐食によって形が崩れていたが、埋葬室には高さ30センチのオベリスク(写真奥)など、比較的保存状態のいい埋葬品がいくつか残っている。エジプト最高考古庁事務局長のザヒ・ハワス氏は、「このオベリスクは太陽神ラーの崇拝の象徴である」と述べている。

Photograph courtesy Egypt Supreme Council of Antiquities

王族はカノプス壷という死者を象った壷を骨臓器とした。

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ミイラは死者の復活のときの肉体、骨臓はそのために保管した。これは貴族だけ。



古代エジプトにおいて死とは来世への 旅立ちであり、 輪廻転生に基づく死生観が文明に非常に大きな影響を ... 再生、復活を 遂げる 」辰巳和弘


日本では胞衣(えな=臍の緒や胎盤)を埋める方法も中世前後に行われた。

このように、広く東西世界で、坂、床下、敷居などは黄泉と現世の境目であった。

なお、土に埋める行為は境界線、国境の印でもある。出雲の銅剣や銅鐸をひとところに大量に埋めた意味も、おそらくここにあったのかも知れない。整地と平常の生活空間との区切り=ここから黄泉世界の印である。


5 穴
キプロス島のソロモ二のカタコンベは地下施設として有名である。


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カタコンベ奥から湧く水は眼病に効くといわれるが、それ以前からこの穴は、聖母マリアのイコン(聖像。なおアイコンはイコンを起源とするマーク)が置かれ、死者の再生復活や妊娠祈願のための施設だったと考えられている。湧き水はどの世界でも生命の源泉である。

古代エジプトで「穴を潜る」という言葉は、妊娠祈願に使われた。アコリス近郊の険しい山の上に穴があり、妊娠を望む女たちは、山をのぼり、狭い正方形の横穴を潜り抜けた。

穴はつまり産道である。古墳の玄道もそうである。だから奥にある玄室は当然は母の子宮であり、つまり前方後円墳とは女性のヴァギナを象ったものだとわかる。しかも周囲には羊水=環濠が作られた。これはあきらかな母体回帰による再生装置であることを意味する。

ヘロドトス
ランプシニトス王は、ギリシア人がハデス(冥界)の在るところを考えている地下へ生きながらに下ったということで、ここでデメーテル(イシス)と骰子(とうし・サイコロ)を争い、互いに勝敗のあったあと、女神から黄金の手巾をもらい再び地上に帰ったという。これ以降、エジプトではこれにならった祭を行うようになった」

地下、洞窟、人穴などに潜った神・人間が戻ってくる話は、日本のイザナギ・イザナミ神話、諏訪の甲賀三郎人穴伝説など世界に多々ある。つまり黄泉からの再生、甦り説話である。あきらかに母体回帰と祖霊復活、神獣変身譚などをからめた再生、通過儀礼である。



6 十字路・三叉路・又
三叉路つまりY字路のYについては、過去、何度か書いた。Yは女性性器であり、木の股神が道祖神である。生命が生まれ出る根源で、聖地であるので、川俣や道の股は、聖なる場所。また川俣の突端部で埴輪やハソウを用いた再生儀式が古墳では行われた。三叉路も十字路も分岐点であり、人生・運命の分かれ目であり、ハレ土と穢土の分かれ目、魔界とうつせの分かれ目である。十字架が西の世界で強く宗教の象徴とされる理由もここにある。エジプトのアンク十字架や、ケルト十字架には、先端に男女の混交を現す楕円形部分があるが、つまりそれは卵の形状であり、生命の根源を指す。十字は時間と空間の彼方を指す。

ルルカー「水平線は垂直と交わり地上に横たわるものは天に聳えるものと一体となる。干からびた十字架の木自体が生命の木となる。

交差するところから生命が湧く。交差点をたくさん持つのが籠であり、その模様がカゴメである。陰陽道の九字も多くの交差を描くことで魔よけとなる。直弧文の×も魔よけである。宮古島の狩俣では、ススキを狩って、円を描き、真ん中に交差模様を作る。いわゆる丸に十の字形にして産小屋入り口に下げたり、窓に吊るして安産を祈願した。同時に幼児の夭折を防いだという。十字路を日本では国字を用いて「辻」と書くが、往古から辻では村の祭りが行われた。

エジプトではピラミッドやマスタバ墓の壁にはたくさんの格子模様が描かれる。
二股ではエジプトにはワス笏がある。

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底部が二股に分かれている。王権威の象徴。


杖が権威の印となる例は多々あるが、同時に聖者の杖でも在る。
宝塚古墳出土の巨大な船の埴輪には、二股のV字形柱が立っており、古墳から出る王の杖もY 字形、V字型が多い。二股=神である。あきらかに女性の陰部を象って、生命をつかさどるもの=王を現している。


ヘロドトス
「エジプト人たちの言うところでは、そのウシ(母牛)は天上からの光によって受胎し、アピスを生むそうである。アピスと呼ばれるこの子牛は次のような特徴を持っている。黒色であり、額に三角形の白斑と背中にワシのような模様を持ち、尾が二股に分かれており、舌の裏にコブがある」



牛と言えば・・・・


この部分は削除。
友だちのみ公開。






以上、ここまで1・2に渡って王族よりも民衆を中心に古代エジプトの死生観を書いた。テレビでは王族・貴族のことしか扱わない。民衆のことはほとんど知られていない。王でさえ、ツタンカーメンが知られたのは、未盗掘で金銀財宝がごっそり出たからである。もっと偉大な王のことなど、ほとんどの人々は知らないままだ。ツタンカーメンはなにも業績がない王であり、父親アメンホテプ4世のほうが歴史上は重要である。それは世界最初の一神教による国家統一を目指し、あえなく二代でついえたという意味で、世界史・日本史にとって貴重な前例となるからである。

人はイメージしか過去の人物像をとらえない。それはただのファンである。
歴史を知っていることとは別である。歴史マニアと歴女・歴ファンの違いだろう。
もっとも、そんなマニアな知識など一銭にもならない。世の中は大事なことは金にはならず、つまらぬことほど金になる。特に女子と子どもは金になるようだ。それではいかんなあと感じていただきたいね。




なんか最近、来訪者がまたぐんと増えている。
フェイスブックの影響か?でもほとんどはブログ監視組織の鵜の目鷹の目か?
来るばかりで反応もなし。うれしくねえな。














特集・磐井の乱を考古学から徹底研究する 1 石棺編年

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今回から6世紀日本の画期となった大事件・筑紫君磐井の乱を考古学から徹底研究してみたい。


磐井の乱は、6世紀まで存続したであろう北部九州地縁的連合体を、畿内王家とされている連合体が、朝鮮半島の支配権をめぐって国内で対立した大事件であり、磐井の敗北によって伝統的筑紫王権とも呼ぶべき伽耶・百済・高句麗に及ぶ朝鮮半島西部に、横口司式石棺と横穴式石室を持つ数々の前方後円墳を作った九州支配体制を、5世紀から続いた倭五王王権を引き継ぐと記紀が言いたい継体大王を担ぎ上げた畿内政権が、東国・北陸・丹後小王国なども巻き込んで奪い合った内乱であり、3世紀からの古墳時代を一気に畿内主導型の飛鳥時代へと大転換させた、古代日本最大の「関が原の戦い」であった。しかし、一般歴史ファンやマニアのみならず専門家でさえも、筑紫君磐井の乱を日本史上でさほど認識してきたとは言いがたい。一般の歴史好きの中でもこの内乱は、それほどの重大事件だったという見解はなかなか見られない状況である。

認知度の低さは、ひとえに全国学校教育の地方王権存在に対する認識の薄さにあるだろう。しかし関が原が単なる国内覇権の奪い合いという内戦だったに過ぎないに比べて、磐井の乱には新羅・百済・伽耶・高句麗さらには北魏、中国まで巻き込むほどのスケールの大きさ、磐井や継体のグローバル外交権の奪い合いという、東アジア政治・経済事情も絡み合うような、現代企業戦士にとっても参考になる複雑さがある。白村江敗北、元寇、明治維新といった海外との経済戦争・領土奪い合いの意味が、6世紀という最古の時代に起きたことはもっと歴史的にも、政治経済史的にも再認識されるべきであろう。将門のようであり、それ以上だ。まして、九州地域では、それが本当に反乱だったのか?本当に磐井は敗北し、王権は大和にスムーズに移行したのか?をもっと深く意見交換するべきである。村おこしとしても、筑後地方、筑紫・豊・肥地方も、この一大戦争の正しい姿を子どもたちに伝えてゆくべきである。








考古学遺物による磐井の乱分析には以下のテーマが存在する。
1 古墳群の編年
2 石棺の編年と石棺素材としての阿蘇石の移動と造山・今城塚古墳と倭五王
3 石製表象(石人・石馬・石製武具・動物など)の編年と畿内の影響
4 吉備・東国・出雲・丹後・越・東海(旧邪馬台国連合)の乱連動の有無
5 記録と考古学での乱まで乱以後の分析

八女古墳群の編年については以前ここに書いたので、今回は4による5分析から始めてみたい。










1 阿蘇溶結凝灰岩横口式石棺による九州王権の存在

磐井の乱を遡ること1世紀。九州西部、有明海沿岸地帯において阿蘇山噴火による溶岩流が溶結してできた凝灰岩を使った石棺が、全国へばらまかれ始める。植山古墳を除いて、すべて近畿の継体大王の関係者の墓から出土する。

この横口式石棺とは、組合せ式家型石棺と言う古い肥後型の石を組み合わせて作る石棺の短辺に開口部を設けた横穴系埋葬施設である。いわゆる畿内型とされる移動可能な石棺とは違い、これは据え付け型でっあったが、やがて畿内のような持ち運び形石棺が現れ、その妻入り部に四角い窓を開けたもの。中が見える様式は、往古からの九州的何度もの参拝を可能にし、横穴式石室もまたそうであるので、横口式はあきらかに九州の死生観を反映した装置だと言える。

五世紀前半の石人山古墳からこの石棺様式は開始され、六世紀中頃まで今のところ13例が発見されている。


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柳沢一男『筑紫君磐井と「磐井の乱」岩戸山古墳』より






あ、ここまで書いたらひどく疲れました。
またあとで気が向いたらここに続きを書きます。
それまで See You Agein・・・.





















特集・磐井の乱を考古学から徹底研究する 1 石棺編年 続き

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九州独自の阿蘇石製横口式家型石棺は、この時代に西日本各地に採用される。

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これは筑紫連合と遠隔地有力豪族との親しい交渉を意味する。筑肥の様式の古くは組合せ式の石床・石障や石棚、石屋形を持った形式、新しくはくりぬき式の石棺、そしてなによりも横穴式石室の伝播こそは、大和に対抗可能な筑紫勢力の横の連携の充実を物語る。

まず吉備にそれが伝わった。千足古墳である。さらに越前福井の向井山1号墳、ついで伊勢三重のおじょか古墳に採用。これらをつなぐ者として考えられるのは海人族にほからならない。

阿蘇石石棺の分布域は滋賀県・京都府・大阪府淀川沿線など、まずは継体大王が版図とした地域、和歌山、兵庫、岡山、香川、愛媛などの紀氏・木部や海人族の蟠踞する地域、そして中央政権のど真ん中である大和である。

製作地はすべて九州現地の氷川流域、菊池川流域、宇土半島などである。
最初の到達地は4世紀後半、つまり倭五王時代初期の京都府八幡茶臼山古墳であった。

そこから5世紀前葉に阿蘇石石棺は隆盛をむかえる。岡山県造山古墳。吉備王族のメッカの巨大古墳(全国四位)である。おそらくこれが倭五王最初期の王の墓だと筆者は考える。つまり初期倭五王河内王権と筑紫連合には深いつきあいがあったと言えるのだ。また、初期倭五王の氏族が、日本海から出雲を経て吉備、吉備から畿内へと移動した政権だったとも考える。出雲で先住筑紫勢力との合体、あるいは軋轢の末の同盟関係ができあがったか?出雲には玄界灘からの海人=倭人勢力の先住があったはずである。山口県土居が浜の戦争の痕跡は、日本海での彼らの、出雲以前での相克を感じさせる。倭五王勢力には高句麗の色合いを感じさせるところもあり、吉備には高句麗系と思われる陶棺(とうかん)が登場する。

造山古墳前方部の石棺は家型登場以前の古い形式の組合せ式を刳りぬき式に作り変えたらしき長持ち型石棺である。この特異な形式は熊本県宇土半島付け根のものである。中肥後型と呼ばれている。

五世紀前~中葉、菊池川産阿蘇灰色石の肥後北部型石棺が愛媛・香川・岡山に到達した。そして五世紀後葉にはついに大阪府に到達する(唐櫃山・長持山古墳)。この二基は市野山古墳(允恭天皇墓に比定)の陪塚である。現地熊本では有名な「ワカタケル」銘入りの鉄剣が出た江田船山古墳石棺がこの石である。つまり江田船山の国司・国造クラスの豪族の石と、四国から吉備、大阪の豪族の石が同じ菊池川産阿蘇石でつながっていたのである。同盟関係である。前期倭五王時代の氷川産阿蘇石連合からつながる、中期での菊池川産阿蘇石でのつながりである。


ところが五世紀最終期に、突然、宇土産阿蘇ピンク石が登場する。


続く















真っ赤に塗られていた下野国壬生車塚古墳石室奥壁と壬生・水銀

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「「壬」の字は十干の一つ「みずのえ(水の兄)」であり、壬生は「水辺」の意味を持つ言葉という説が一般的である。また、古代の職業部に壬生部があり、これはもともと「御乳(みぶ)」で皇族皇子の養育を司っていたものとされる。壬生部の居住地に壬生という地名が付けられたともされ、諸説ある。」ニコニコ大百科http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%A3%AC%E7%94%9F

つまり水生まれるところで「水生 みう」が古い。
この「水」を水銀では?と考えたのは松田寿男である。『丹生の研究』。
古来、水銀を「みずかね」と訓じており、水地名=水銀地名である場合もあるだろう。
徳島県水井町に水井(すいい)水銀鉱山がある。この場合はあきらかに水銀地名である。この鉱山を含めた鉱山全体の総称が丹生鉱山である。
しかし「にゅう」はにゅうであり、「みう」ではないことも否定できない。

そもそも丹生は「にふ」、壬生は「みふ」で、音韻の「ふ」は濁りである。
丹生と壬生が地名に分かれ存在するということは、二者はそもそも別々の意味の地名だったということで間違いない。

ただ、のちに壬部氏が壬部を派遣して水の湧く土地を求めたとき、丹生つまり水銀やベンガラ鉱床が同時存在した可能性はあるだろう。

ところが、近頃、栃木県壬生の古墳内部に大量の赤色が塗られているのが発見された。

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Wiki車塚古墳より



車塚古墳の石室、全体赤く 魔よけ?「神秘的古代ロマン」 栃木・壬生
産経新聞 10月24日(土)7時55分配信
 「壬生町壬生の車塚古墳で23日、町教育委員会が進めている発掘調査の現場が報道陣に公開された。県内最大の切石造りの横穴式石室を発掘調査後、初の内部公開で、棺(ひつぎ)を安置する部屋「玄室(げんしつ)」の奥だけに赤い彩色が施されていたとみられていた石室は、調査の結果、前室を含め全体に赤く彩色されていたことが分かった。

  車塚古墳は国指定史跡。7世紀前半の古墳時代末期に造られた直径84メートルの国内最大級の円墳。平成26年度から町教委による初の本格調査が進められている。
  今年度の調査で、玄室両側壁や前室の壁に、酸化第二鉄からできる赤い顔料、弁柄(べんがら)が確認され、石室全体が赤く彩られていたことが分かった。町教委生涯学習課の君島利行(としゆき)文化財係長は「神秘的な古代ロマンを感じる。赤い色は魔よけの意味があったのではないか」と興奮気味に話す。

  後の時代に寺院として再利用されるなど色は落ちてしまったが、土に埋まっていた部分などにかすかに顔料の赤い色が残っている。

  また、石室石材の表面からは石材を加工した痕跡が明瞭に残り、玄室は天井の高さが2・3メートルと、当初確認されていた2メートルよりも高かったことが判明、埋葬された権力者の権勢の大きさも感じられる。玄室は幅2・8メートル、奥行き3メートル。前室は幅2・5メートル、奥行き2・4メートル、高さ2・1メートル。玄室の奥からガラス玉86個などの装飾品が出土している。

  車塚古墳は26年度の調査で、古墳全体が葺(ふ)き石で覆われ、須恵器が周囲を囲むように並べられていたことなどが判明している。
  31日午前10時と午後1時に現地説明会を開催。調査に関わった茨城大の田中裕教授、東京学芸大の日高慎准教授、両大学生らが説明する。駐車場は近くの町健康福祉センター。問い合わせは町立歴史民俗資料館(電)0282・82・8544。また、11月21日に城址(じょうし)公園ホール(同町本丸)で調査の成果を発表するシンポジウム「みぶ車塚古墳の時代」を開く。申し込みは11月1日から同館で。」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151024-00000016-san-l09







壬生車塚古墳
は終末期古墳。造営は7世紀初頭か?
「車塚古墳 (くるまづかこふん)は、栃木県下都賀郡壬生町壬生甲にある円墳。同名の古墳が各地にあるため、壬生車塚古墳と呼ばれることもある。大正15年(1926年)国の史跡に指定された。全国最大級の円墳。」Wiki
横穴式石室


壬生
 栃木県壬生町は戦国時代に壬生氏の支配下にあったが、それは地名由来ではない。壬生地名に入ったから壬生氏と名乗っただけであろう。だからこの壬生氏は古来の壬生部氏族とは関係がないと考えるのが古代史・中世史の比較では定石。
下野国壬生氏「室町時代に京都の地下官人家・壬生家(小槻氏)から出た、壬生胤業を祖とする。この出自に確証はなく、胤業は毛野氏族の壬生氏(壬生公)の後裔とする説もある。また、壬生胤業を宇都宮氏庶流横田氏の一族である壬生朝業の末裔とし、壬生朝業を壬生氏の祖とする説もある。」Wiki壬生氏

戦国武将の出自詐称は常である。伝承に信憑性はないと思ってよい。
それ以前からこの地は壬生であろう。
つまり水が湧いており、あるいは古代に壬生部が入った地名。そこに水銀もあったのだろう。

いや、そもそも「水を探す」とは「みずかねを密かに探す」という意味の隠語だった可能性はある。水銀は聖武天皇大仏建立に必須のアイテムだった。また古くは水銀の中にある砒素は漢方の不老長寿薬としても珍重されたし、そこには金・砒素などが含まれる。縄文時代・弥生時代から墓の赤色に使われてきた。利用法は腐敗防止である。意味は魔よけ、辟邪、生命力の赤が再生をうながす・・・などなど。

そもそも水を探すとはなんのうまみが貴族にあろうか・・・なのである。農民ならそれは大切であろう。しかし農作をこととしない貴族にとって「みぶ」はあくまでも乳部のひとつである。

しかし天皇家の水を京都の鴨脚家は永年にわたり管理してきた例もある。水とは生命の根源である。そこに魔力があった。古墳時代から王家・豪族は古墳周囲で水祭祀を行い、それは祖霊再生儀式であった。だから水辺には※水端女神(みつは・めのかみ)が置かれるようになった。この女神と丹生都比売が同じ場所に同時存在する。つまり水探しは十分に、往古貴重品であった水銀探査行為の隠匿に都合のよい理由となったかもしれないわけである。密かに、密偵のように、鉱物探査は行われた。

※みつはのめのかみ・・・記、弥都波能売神  紀、罔象女神
みつは=水際、水端


鉱山師にとって水銀は、金脈であって、そこにはあらゆる鉱物が溶け合っていたし、水銀鉱脈に沿って貴重な貴石や有用鉱物が存在したのである。ちなみにミネラルウォーターや温泉なんぞも、彼らによっていくつも発見されたことだろう。平安時代には特に貴族が祭祀を好み、修験者などが内密にそれを探査している。彼らはいわばお庭番のようなスパイでもある。銅、鉄、金鉱脈を見つけてくるのはだいたい渡来系氏族である。名は生業を指したのが古代である。

壬生は水か水銀かと争うのはそれこそ水掛け論である。そもそも最初から双方が掛けてあるのだと思うほうがスムーズに理解できる。この古墳が赤い色で覆われていたというのは、その被葬者の家臣団に壬生部か丹生部がいたのであろうし、地名が壬生ならば前者であろう。いずれにせよ、水銀やベンガラは新石器時代から全世界で墓に塗られた色である。それほど貴重品ならば、探査する連中が地名にヒントを残すような馬鹿正直な地名をつけるはずがないのである。だから実際の水銀鉱脈は壬生町からかなり離れたところにあったのではないか?もちろん丹生だったところに壬生部が入って地名変更した可能性もあろう。丹生地名必ずしも水銀鉱脈にあらずも世の常なのである。しかし、ここの壬生にある古墳は真っ赤に奥壁が塗られていたのだから、おそらくなんらかの赤色の鉱物があったのである。そういうことが言える遺跡は貴重である。



警告 伊方原発再稼動は西日本に阿鼻叫喚のカタストロフィをもたらす

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愛媛県伊方町
町が住宅地区改良法(昭和35年法律第84号)により国の補助を受けて建設し、地区民に賃借するための小集落改良住宅
大川
伊方町湊浦87番地1(18戸)
新川
伊方町川永田乙390番地1(15戸)

伊方町九町1番耕地1850番地(18戸)
中道
伊方町九町1番耕地2035番地(16戸)
中尾
伊方町三崎1911番地1(24戸)
http://同和地区.みんな/wiki/%E6%84%9B%E5%AA%9B%E7%9C%8C
小集落改良住宅=元Thediscriminationpeople用住宅

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If Ikata nuclear power plant has reached a critical, if the residents are no longer must not evacuate, Oita Prefecture and rescued this only of Buraku people, it is not must to immigration. Moreover, within the circumference of 60Km is a safe zone of radioactive material scattered, eastern region such as Oita, Oita Prefecture would enter.

Of the 50 people who responded to volcanologist questionnaire of Mainichi Shimbun, has raised the Ikata nuclear power plant as a "nuclear power plant to receive the risk of huge eruption" is 11 people. (Article December 22, 2013)翻翻訳するならGoogle翻訳https://translate.google.co.jp/




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南海地震によってもし阿蘇火山帯の火山が噴火した場合、事態は最悪となるだろう。
九州東部、四国の大半は、阿鼻叫喚のカタストロフィ状態になることだろう。

そのとき愛媛県には、全国から非難がごうごうと浴びせられることだろう。そしてそれを容認してしまった町長、知事の名前は永遠に愛媛県史の汚点になるに違いない。






おろかである。




磐井戦争と朝鮮半島の倭人古墳・被葬者は九州人か大和人か?

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この問題は以前、朴天秀や福永伸哉の研究を基盤にして、ざっと記事にしている。
その被葬者が紀氏、巨勢氏、竺紫(ちくし)物部氏らのものであるという考察も書いておいた。ただし、それはあくまでも記紀記述を整合とする近畿考古学の立場から割り出された結論でもあるので、では九州の筑紫君との関係はないか?あるいは、もっとつきつめて、筑紫君そのものは果たして純然たる九州人なのか、大和が派遣した派遣国造だったのかを考えてみたい。






以前の記事はこれである。


2013/12/22(日) 午後 3:14


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この問題はすでにいくらかは解決済みである。
韓国・慶北大学の朴天秀(パク・チョンス)らの在韓国学者の間で、それが倭人であることはすでに論じられている。
 
『日本書記』欽明二年(541)七月
紀臣 奈率 弥麻沙(きのおみ・なそちの・みまさ)
欽明四年九月
物部 施徳 麻か牟(もののべの・せとく・まかむ)
欽明五年三月
許勢 奈率 歌麻(こせの・なそつ・かま)
 
奈率も施徳も百済の役職である。
 
6世紀中盤に紀氏や物部氏の中で、百済に移住し、高官となったものがあったわけで、記録以外にもたくさんいただろう。なぜなら光州・栄山川流域がかつての「記紀が言うところの伽耶の倭の出先機関「日本府」があったところが近いからだ。
彼等の時代は6世紀中盤で、光州の前方後円墳の建造年代に近似値であり、まず彼等、彼等の先祖・子孫である。
 
紀臣弥麻沙は記録で、韓国の妻を娶った紀氏の子孫であろうと書かれている。『日本書記』
 
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(形状が日本のものとやや違うように見えるのは両国の復元ノウハウの相違でしかない。当然のことだが、日本は前方後円墳の本場ゆえに、復元はより正鵠であると言っていいだろう。そもそも基本的にかの国家は倭人がここにいたことなど認めたくない性格であるので、立場が違う。立場の違いとは、国家の建前で、いかんともしがたい範疇の概念だ。認めないと言えば角が立ち、認めるといえばこっちの立場が崩壊する。国家間のアイデンティティの問題は邪魔ではあるが、相手も尊重してあげるのが日本人の世界に冠たるすばらしい態度である。もちろん勧告側の復元が正しい可能性も認めてさしあげねばならない。それこそが日本がかつては扶桑だったというステータスの勇気ある継承であろう。真の「誇り高い国民性」とはそういうことである。)
 
 
 
 
 
福永伸哉(大阪大学)は、これらの人々は継体が百済武寧王の軍事支援のために送り込んだと見ており、すべて九州にいた人々であるとも書いている。物部氏は特に、磐井の戦争で九州北部に送り込まれ、竺紫物部氏となっていた。継体時代のことである。







一旦は結論が出ているように書いたが、これは欽明紀が正しいという前提の下でこそ合致するが、そうではなく、九州の氏族が送り込んだ人々だった可能性がないわけではない。というのは、半島光州の前方後円墳や方墳、円墳の石室が、九州式の横穴石室を持つものばかりだからである。前回、この問題はあえて書かないままにしておいた。

上記記事で、韓国の朴天秀(パク・チョンス)らは、その被葬者を『日本書紀』記録にある派遣氏族であると論じた。その中核となったのは紀氏・巨勢氏・物部氏であるので、いわゆる武内宿禰子孫氏族の葛城系譜と、筑紫物部氏(物部麁鹿火〔あらかい〕の子孫)である。これらはつまり倭五王~継体までの大王家を担ぐ家臣団ということになる。年代では5世紀後半~6世紀中盤である。ということは前方後円墳繁栄の時代そのものの時代。そして倭五王中盤~後半の古墳形式が九州式横穴式石室であるということで、確かに記録とも考古学古墳編年ともうまく合致することになる。



では、その横穴石室という視点から光州の古墳群をもう一度見直してみよう。








半島の前方後円墳分布地域は半島南西部全羅南道及び北道(チョルラ・ナムド、プット)で、そこはちょうどかつての百済の最南端、海南(ヘムナ)半島から栄山江(ヨンサングヮン)流域、咸平(ハンピョン)湾沿岸域、蘆嶺(ノリョン) 山脈を越えた黄海(ファンへ)沿岸域(霊光[ヨングヮン]・敞[コチャン])に点在している。
中心地はあくまでも栄山江流域である。そこに大和的な前方後円墳だけではなく、九州系の横穴式石室を持った方墳や円墳が点在する。九州系横穴式石室を持つ墓は、倭系前方後円墳、倭系・百済系方墳や円墳のすべてに点在する。


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これらの墓の特徴は、日本のような古墳群の中の盟主的位置には作られず、在地首長墓群から少し離れて、単騎築かれたものがほとんどである。(例外は月桂洞古墳群と馬山里古墳群がある。)


栄山江流域と慶南地方に分布する九州系横穴式石室を採用した古墳には、墳丘が倭系のものと在地系のものとが混在する。

築造期間は栄山江が5末~6前期前葉で、南部はこれと同時期~6中葉前後とやや遅れるものがあるがいずれも磐井の乱以前~以後の古墳である。




これら半島南西部の九州系横穴石室を分類すると次の三つに大別できる。

1 北部九州型そのものズバリのもの。
2 肥後型(北部肥後)ベースで、それをやや変形にしたもの(石屋形、石棺を置く石床方式)
3 北部九州型と肥後型の折衷型。


1には新徳、龍頭里、馬山里1号、明化洞(破損はげしいがおそらく)
2には月桂洞1・2号があり、1号墳玄室の奥壁にそって石屋形か石棺が置かれたらしい。
3には長鼓峰古墳がある。


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つまり被葬者はともかく、墓の様式からは、その工人が、
1は福岡・佐賀の工人、
2は熊本北部の工人、
3は福岡と熊本中部工人の合作

と考えられる。  


要するに、墓とは被葬者が作るわけではなく、その配下として召集された土木工人が作るものであるので様式から被葬者を一概には特定できないということになる

たとえば、日本国内九州で装飾古墳とそうでない古墳が隣接する場合、どちらが装飾を好んだ海人族系の被葬者であるとは言えないが、作ったものは彼らだということはわかるのである。墓をどうしたいかが、生前の被葬者の意見で作られたかどうかは、彼の言葉の記録がないかぎり、わかりようがない。


出土品には九州北部磐井氏族の墓のような石製品はない。大和的な木製品の威信財(石見型木製品)、武具、馬具、装身具と百済的な木棺装身具、銀かぶり鉄釘、環坐金具である。つまり石室は北部九州型だが副葬品などは埴輪、木製品という大和型である。

古墳の築造スタイルは段築、周濠、葺石の大和型である。



つまりこれでわかるように、この半島前方後円墳の多くは、

「大和ないしは近畿大王が、北部九州の近しい豪族に依頼した協力要請型の派遣管理者たち」

であり、または、その一部が近畿から派遣されたにしても、彼らは

「もともと九州に深いえにしを持っていた大和の葛城系氏族」

であろうということである。


また想定された物部氏の場合は、『日本書紀』磐井の乱が6世紀中頃のことであり、物部氏の北部九州管理体制は磐井の死後から始まるわけであるから、半島の6世紀中葉までの墓を竺紫物部氏だと断定することは難しく、むしろそれ以前の大和の物部氏つまり麁鹿火の祖先たちの墓であろうと考えるのがよいように思える。


石製品については、別途分類わけするが、磐井の岩戸山でも石見型威信盾を石で作った巨大なものが出ており、継体大王あるいは倭王武前後から、筑紫君と大和大王には、どうも連携関係があったと考えられるのである。つまりもっと言えば、

「継体を担ぎ上げた氏族のバックアップ軍団こそが九州磐井の祖先だった」

と考えられるのだ。




なお、筆者は竺紫、筑紫を「つくし」とは読まず「ちくし」と読むことにしている。というのは、前も記事にしたことだが、中国記録の東夷伝などでは、「竹志」と表記され、竹には「つく」の音訓がないからである。「つくし」は最果てのという地名で、これは大和から見た地名読みであり気に入らない。


竺紫物部氏とは、筑紫をわざわざこう表記した継体紀の表記である。つまり天竺の字をわざわざ使って、磐井に勝った直接の勝者麁鹿火に与えた名誉表記であろうか。それとも正反対に、彼の直前に殺された盟主物部守屋への弁明と鎮魂であろうか。それはわからない。




前にも書いたが、継体の今城塚古墳と磐井の岩戸山古墳は相似形であり、そこに置かれた遺物が、片方は大和的な埴輪、片方は九州的な石製品ではあっても、ほとんど同じような形状のもので似ている。また岩戸山から出た石製鶏と今城塚の鶏埴輪にも類似点がある。石見型木製品は、継体大王の各地に送った二つの威信財である広帯二山形冠とねじり環頭太刀の出る古墳からもたまに出土する。つまり継体がそれを磐井にも配布し、磐井はそれを石によって巨大化した。つまりそれは継体の威信財被配布集団の長であるという意思表示ではないかと柳沢一男は類推している。

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正しいとは言わない。
そういうことが十分に考えやすい考古学的発掘物であると言える。

また石人石馬などの破壊を見ると、確かに記紀記録は正しいと、大和研究者なら思うだろう。当然である。しかし、石人の最古は磐井関係者の土地では一箇所だけ確認があるが、往古は派生地は豊後の臼塚古墳(4世紀後半)だとされていた。これも疑問点である。

磐井の裁判の姿を象る猪や座る罪人の石製品が、今城塚では埴輪で再現されたのではないか?つまり磐井の事跡を継体に置き換えたのだという説もある。

次回、その石製表象の編年と分析から、いよいよ継体と磐井の正体を見極めていきたい。
















神とはなんぞや

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神とはなんぞやについて、わかっていることがあるなら、書いて見られたし。

今日は記事もコメントもなしです

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今日は記事もコメントもなしですので、よろしく。

素晴らしいものが届きましたから。


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愛用のキャノンデジカメが壊れたようです。
あっちのブログ用の画像はしばらくはケータイです。


買い替えか・・・うーーーーむ。

さ来月やな。

しゃあない。


日本酒のシャンパン風発砲酒。

はじめてのたいけんにひたります。

よいひとときをおおきに!!










[転載]卑弥呼の髪型はミズラではない・鳥形古墳島田

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卑弥呼の髪型・・・と聞いてどんな髪形を想像しますか?
古代弥生人なのだからミズラ?いえいえミズラは男性の髪型。
ロングヘア?それともおさげ?
クレオパトラのような前髪ざっくりのおかっぱ?
それともよく絵になっているような巻上げ髪にカンザシ?
オウノウ、ノウ・・・

まさか背後にワニを背負ったような超ロングだったり、メデューサのような長い蛇の髪だったわけではないだろう?やりすぎです。
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                           もちろんお呼びじゃない!!
 

埴輪を見て頂戴。
 
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卑弥呼は日の巫女なのだから巫女の髪型だったはずですねえ。
「古墳島田」とも言います。
しかしこれは「鳥髷」と言うべきでしょう。
この形は鳥が首を伸ばした形状だと多くの学者が言います。
 
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今城塚古墳から出ている巫女と王の埴輪から再現されたものを見てください。
 
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歴史本「大王綾発掘! 巨大はにわと継体天皇の謎」を読んで













この画像はNHKブックス『大王陵発掘 巨大はにわと継体天皇の謎』からである。
平成15年8月から始まったNHKスペシャル『史上初 大王稜・巨大はにわ群発掘』という番組をベースにその内容を書籍化したものである。そのため執筆者はNHK大阪「今城塚古墳」プロジェクトとなっている。




男王の下げミズラは正解ですが、巫女の鳥首髷はずいぶん横に広いようです。時代と流派が違うかな?
 

巫女の鳥型島田は、太陽と霊魂を運ぶ鳥をイメージしていると言われています。
応神天皇が日向から呼び寄せたが、難波の港に到着したとたんに皇太子仁徳が見初め、結局仁徳天皇の妃になった という日向の髪長姫の「長い髪」も、われわれは平安時代の女官のような、ツーレグ真ん中わけの長髪のようにすぐ考えてしまうけれど、埴輪の巫女のような前後に長い髷だったかも知れないのである。

巫女の髪型は線刻画にもなっていますぜ。
よく見てください。
巫女が託宣していますが、それを聞いているほかの人の頭と巫女の頭、まったく違います。
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一般の聴衆の頭はまんがみたいな○と▽です。まるで凸凹コンビみたいに十把一絡げの表現です。
一方かんなぎのほうは、現実の人間を示す顔もなくて、T字型の鳥の頭になっている・・・。
 
この世のものでない人という意味です。
 
清水風の方は真ん中に鹿の絵がありますが、鹿は聖獣ですから神の使い=「おこうさま」で、それを生贄して髪が食べたことを示しているのではないかと民俗学者・宗教学者は言っています。
 
唐古・鍵遺跡のものは下腹部がY字型になっていて、そこに女性性器が描かれていますから、あきらかに巫女です。それが羽振りをしています。これは1世紀前後の様そうですから卑弥呼時代より前は、イスヒはまだなくて、鳥の羽のような広い袖だけだったようです。
 
しかし、まげをあれだけ薄く固めてせりだすには、相当の油がいったことでしょうなあ。
 
 
 
 
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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典


[転載]勾玉・胎児・耳・鹿そして宇宙

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 再掲載
 

 
 
 
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 諏訪大社神長官守矢記念館耳裂け鹿
 
 
 「中国では「四つ足は机と椅子以外、二つ足は親以外は全て食べる」と聞いた。
最近テレビのニュースで、「中国では人間の肉を食べた人は死刑になる法律が出来た」といっていた。中国のある地方では人間の胎児や赤ちゃんを食べる村が現存するという話は前から聞いて知っていたが、知人がインターネットで証拠写真を見つけたからと写真を見せられた、しばらく言葉がでなかった。
 中国の女帝で美食家の楊貴妃は3才児の人間の肉がうまい!と言ったという。
世界三大珍味の果物ドリアンは三歳児の子供の味と似ている!
と何かの本で読んだ記憶がある、ドリアンを食すたびにこの事を思い出す。
 私たち先進国の人間は後進国の人間を残酷だという、私たちも後進国を経て先進国になったのに古くて都合の悪いことには目をそむけて忘れてしまう。」
http://mamorunagai.ninpou.jp/odoroki2.htm
 

 
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中国人でなくても、狩猟民ならば、往古は鹿やイノシシを捕らえてみたら胎児を孕んだメスだったなんてことは頻繁にあったのではないかと思う。もちろん最初から孕んだ母動物は生態系の維持のため、つまり食物保護のために、捕獲はさけたかも知れないが、逆に走りが遅いから捕獲しやすく、わりに捕まえていたのこもしれない。
すると、捕獲後、さばくときに腹から胎児や嬰児が出てくる場合もある。そもそも最初からそれが目当ての狩猟も考えてよいかも知れない。というのも、韓国などの肉食文化圏では若牛、胎児、胎盤は美食とされるし、どうやらそれはうまいらしいのだから。

万一、期せずして胎児を狩猟民が見たとして、その形状が人間の胎児そっくりであることを見て、なにがしかの感慨は持たなかっただろうかと、言いたいことはこれである。
 
狩猟する男性が、妻の自然出産や流産堕胎時に、わが水子の姿を見ている確立は非常に高い。だからこそ勾玉形は全世界で霊魂の形状として認知されてきたはずである。違いましょうか?

その知っている目が、捕獲した鹿・・・古代の狩猟動物では数値上、鹿(オオツノヘラジカ・トナカイ・ムースなど含む)が、どの世界でも最も多く捕獲されている・・・の胎児・嬰児を見る確率もけっこう高くなるだろう。その時、彼は何を思うだろう?とご一緒に考えてみてください。
 
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それが初見ならまずは驚くだろう。
そして言い伝えられる。
鹿が人間の子を孕んでいる・・・・。などと。
広まる。
鹿は人間の胎児(人間と同じ姿の子供)を生む生き物だ!
すべての狩猟・漁獲動物の中で、こういうことが起こりうる動物・魚類となるとやはり鹿類・やぎなどが一番確率が高いのではなかろうか?だから鹿は聖獣とされる世界が多いのではないか・・・とふと思った次第である。
 
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昨日のニューギニア記事に、勾玉型や目や耳がよく呪の絵柄になると書いた。耳については特にコメントはせずにおいたが、耳の形状はまず勾玉や胎児の形によく似ている。背中を丸めた胎児のようなその半円弧の形状で、下部の耳たぶのところがヒレのようふらふら・くにゅっとする器官は、ものを聞き取る機能があるわけだが、「人々の声を聞き取る」という言葉はそのまま為政者王のあるべき姿に通じている気がする。そのことは例として、10人の言葉を一ぺんに聞き分けたという聖徳太子が豊総耳(とよとみみ)と呼ばれたことや、沖縄の琉球王の特別なウタキであった「聞得大君(きこえおおきみ)」の名前や、投馬国の官の名前がミミであったことや、あるいは「聞く物部」集団などから納得してもらえそうに思うがいかに?
 
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このように「ミミ」は古代では、目や胎児同様、かなり重要な呪の絵柄や象徴になりえたと筆者は考えたい。
大阪の摂津三島という古墳地帯に「耳原」地名があって、そこには三島溝咋耳や、彼に関わる枝族として和泉の陶津耳といったやはり「耳」の氏族がいたことは知られている。そして『日本書紀』は耳原の地名由来として、鹿の耳から百舌が飛び出した話をわざわざ書き込んでいる。この説話の意味は以前ここでも解読したつもりであるが、耳は墨壷として利用されたとか、百舌は百舌鳥土師氏のことかとかは言及しておいた。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

鹿が聖なる「おこう使い」となった理由には、多くの理由が考えられるが、
 
1 食肉として 
2 なめし皮として紐や衣服に
3 皮革が武具として
4 神への生贄として
5 耳が建築用具の墨壷として
6 海を渡る精霊として
7 「しか」=志賀=海そのものの象徴として
 
主として海人族と狩猟民・・・つまり日本神話の中心を織り成す海の民・山の民の聖なる獣としての鹿、という重要な位置に過去置かれ続けたことは否めない。神の使いはやがて神そのものの変化(へんげ)した姿ともなった。それはカラスがやはり、太陽の使者から太陽そのものを示す象徴となったことと矛盾しない。
その聖獣の胎内から人間そっくりな魂の形状の子供が生まれ出る・・・。
そこに古代人の畏怖と驚愕を見るのである。

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耳垂・鼻垂とか耳鼻のつくツチグモが記紀には出てくるが、「たれ」は「たらし」で酋長なのであり、大王が「たらしなんたらひこ」なのもそれが日本全体の酋長という意味合いなので耳垂・鼻垂も地域的酋長だったわけで、その「たれ」とは耳や鼻からわっかを垂らしていたからだろう。つまり耳飾や鼻飾(あまり聞かないが)が酋長・首長・王族のステータスだったからだろうと思うのであるが、耳飾は世界中の海岸部から出てくるわけで、それを「けつ状耳飾」と呼ぶことは好事家ならよくご存知である。けつじょうみみかざり[けつじやう―] 7 【▼状耳飾り】http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0ss/106001500000/
 
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Cの形の、一部だけ輪が欠けていて、それが形が古代中国の玉器の「けつ」に似ているのでいうのだが、そこに耳たぶをはさむいわゆるイアリングである。玉壁や貴石や金銅や純金などで作られていてあまり腐食しないので、世界中でごろごろ出てくる。もちろん日本でも日本海側を中心に出てくるから、倭人・安曇・白水郎(あま)などが装着したのであろう。
 
 
それの立派なものはやはり首長・リーダー・かんなぎなどのシンボライズな威信材となったであろう。
つまり「耳」という官職の人もこれをつけたことだろうと思える。
ということは投馬国は海人の国だったことになる。
たくさんつければ重さで耳たぶは当然長く延びる。
まさに「みみたれ」である。
 
ネイティヴの中に、今も首長族のような首にリングをはめていったり、耳にでっかい重いリングをやまほどたらすことをステータスとする部族がある。つまりそういうことである。耳はだから重要な威信材装着部位であって、目や胎児やカゴメ同様魔よけなのだ。その形状の勾玉を天皇の三種の神器のひとつにするのが日本なのである。剣・勾玉・鏡である。剣は男性シンボル、鏡は太陽・母つまり女性シンボルで、そこから生まれた霊魂が八つの勾玉つまり胎児である。なぜ八つかと言えば「やさかにの」で、八人の子供・・・つまり八王子である。八王子とはアマテラスとスサノヲのウケイによって生まれた子供の数である。陰陽道の聖数である。八方である。

これが12人ならミャオ族の言い伝える12の枝族になったりする。たまたまかどうかユダヤでも12支族が分かれたと聞く。

だからスサノヲは男根・剣であり、アマテラスは太陽・子宮・鏡である。
 
出雲神話で日本海を海を照らして寄り来た神があった。石見や出雲の漁師は大社にささげるセグロウミヘビは、泳ぐとき背中が鏡のように光るのだと千家宮司に話、宮司はそれを記録している(谷川健一)。
蛇は手足なく動く、尋常ならぬ、この世のものでないモノであるがゆえに贄をなる。かつ、同時にそれは神の使者・神そのものとなったことは上記カラスや鹿と同様である。そうした自然のモノが、やがて器物になったのが三種の神器であろう。
そのモノどもを治めるのが大物主なのである。先の三島・泉州の陶津耳からはその大物主を祭る=祟らぬように鎮撫する=大三輪一族が出る。耳の中から祭祀者が出る。つまりそういうことである。耳原の鹿の耳から出た百舌鳥とはとりもなおさずそういうことになろうか。
 
パンには耳があるが、つまりへりのことで、古墳にもヘリはあってそこも耳ではなかろうか?
へりには環濠と造りだしがあり、そこで水の祭祀をした。あるいは方墳なら四至(しいし・四極)に出っ張りを持たせて四方で祭祀する。それで仏教などで四極を「しはつ」と呼び、要するに相撲の四色の「たぶさ」に相当する。「しはつ」というのはだいたい台形の山につけられるが、方墳や四隅突出方墳丘墓も台状である。
その上に二本線を引き「しきり」にすれば相撲儀式である。
 
古墳の場合、台状部分や円墳頂上には「一宇」つまり屋根のある祭祀小屋が建てられ、そこに祖霊が降りてくる。降りてくるときは天上に上った死者の霊魂に乗り移って、鳥によって運ばれてくる。それがそのムラの新生児に乗り移って黄泉ガエリは成就する。こうしてムラやクニはいやさかえ、永遠に存続する。そう信じられた。こんこんと湧く湧水のように、終わりなく、永遠を手にする。この永遠を手にすることこそわれわれ人類の至上の願望である。
 
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すべてが無償の宇宙の下で展開される、永遠の繰事である。それが安定だった。
現代の経済社会も、弥生からの栽培農耕社会も、この三万年の営みを無視し、壊してきた。
だから現代人は破壊王なのだ。だからすべては有償になった。

有償の貨幣経済にすでに三種の神器は無用である。それは別のモノに変わらねばならない。
金(鏡の代わり)・核ミサイル(剣の代わり)・ヌイグルミ(子供の代わり)が現代の三種の神器である。すべてが無機物。生命を持たぬ破壊の象徴。卑弥呼ならこういう、この世界には私はいない。なぜなら毎日日食だからだ。
滅びへの加速度はぐんぐん増していく。
 
 
 
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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

明快解釈・おっこと主 乙事とはなんぞや

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語源
おちこち(遠近)・・・??


「早速「遠近」を辞書でを引いてみますと



おち‐こち〔をち‐〕【▽遠▽近】


 1 遠い所と近い所。あちらこちら。
 
 2 将来と現在。昔と今。
 
 おちこちびと【遠おちこちびと【遠近人】
  あちこちの人。


とある


「おちこち」


主に詩歌で使われる日本古来の美しい言葉であるような


乙事村は各地からの「おちこちびと」からなった村で



「おちこち」遠近、それが「おつこつ」、そして乙骨・音骨の文字が当てられれ


現在の「おっこと」乙事となった」
http://komorebit.exblog.jp/20497602



さて?

おっこと 地名 乙事
長野県諏訪郡富士町小字乙事
隠れキリシタン部落


「主」は山の神である。用例、「一言主」奈良県葛城一言主神社。「一語主」とも。
「事」は言葉。用例、「八重事代主」「葛城一言主」
「一言主」は「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の 大神なり」とある。葛城氏は記紀で雄略によって滅ぼされている大和先住氏族である。
「かづら」と「おつ」「ひとことぬし」「土ぐも」「鬼」はリンクしている。
敗者。

その主たる要因は、
1九州南部、出雲を由来とする狗奴国的氏族性格
2金冠伽耶(日本府)や百済といった倭種同族国家の滅亡を止められなかった
3渡来人(秦の民)を大量に伽耶から移住させた 

さながら縄文的先住倭種。




語る神。すなわち在地地主神であり、体制へ苦言を呈するものである。
反体制でマイノリティであり、先住者。そして結果的には敗者となる運命にある。
骨とは血脈である。

「おつこつ」とは「劣る血脈」という差別用語である。「落ちた血族」である。
山ノ神、道祖神とも言える。

かつて山とは里と分かたれた鬼の住む異界であった。
異界の神とはすなわち隔離されるを好んで山奥に隠れ住んだ隠者。
隠棲するわけは、差別されたからであろう。いや、差別を反面ではむしろ望む・・・サディスティックで自虐的。つまり畢竟 被差別、敗者の、常人(普通人)の表現であろう。今風によく言えば「自由人」であるがゆえに言いたいことを言える立場にある。言いたいこととは要するに反駁、反対、過激にしてラジカル。野党。

「乙」とは劣ること。甲乙丙丁の乙。
これもまた差別されたことを意味する。

それが宮崎の映画で猪の姿をしておるのは、つまりのところ、猪を山の野生の王としたわけであろう。この日本では熊以外ではどこにでもいた大型獣である。熊がめったに里山に降りてこぬゆえに「神」=カムイ=「隈」=うしろ戸の神とされたに対して、猪は身近でありながらも人を寄せ付けぬところあり、しかも荒々しい。麁(あら)ぶる神であるとされ、差別された人々にあてられたのであろう。

「おこと」とは「御事、御言」であろう。
言葉を出す=諌言(かんげん。諫とはいさめること)、苦言、反骨、反発、異人である。すなわち王家ならば参謀・大臣の役目であり記紀の武内宿禰=葛城一族に当たる。ゆえに桂、かづら、くずとは葛城族地名であろう。
言いたいことが言えた存在。神や天皇と同等をしきりに言いたがる存在。



究極には「糾弾」がある。






継体はいなかった、磐井は反乱しなかった、欽明が伽耶・百済を新羅と共に滅ぼした

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考古学で継体大王の今城塚古墳と相似形と言われている古墳 想定被葬者
大阪府高槻市 今城塚(いましろづか)古墳        継体大王
愛知県名古屋市 断夫山(だんぷざん)古墳        尾張氏首長近縁者
愛知県春日井市 味美(あじよし)二子山古墳       同上
福岡県八女市 岩戸山(いわとやま)古墳         筑紫君磐井
群馬県藤岡市 七輿山(ななこしやま)古墳        上毛野氏首長近縁者


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今城塚古墳復元図



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断夫山古墳


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味見双子塚



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七輿山(ななこしやま)古墳



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岩戸山古墳復元図






いずれも6世紀、前方後円墳全盛期(中期5初頭~6後半)の墳形
「尾張型」とも言われる片側造り出しを持つスタイルを基本にしているとも考えられ、バリエーションとして左右、あるいは片側に造出しを持ったり、別区とか衙頭(がとう)と言われるいわゆる祭祀場を持つことがある。
横穴式石室。

大王・有力者墓は環濠を持つ場合もあり。
代表的古墳は大仙古墳、造山・作山古墳、誉田御廟山、上石津ミサンザイなど、いずれも大王に比定される中期初頭の古墳群と、今城塚、岩戸山、断夫山などの6世紀有力者古墳ばかりである。

今城塚と岩戸山は、同系古墳であり、埴輪と石造物の対象に類似点が多く、円筒埴輪を墳頂に並べ、さらに衙頭や別区には、盗人を被葬者が裁く「解部」に関する造形物が置かれる。埴輪や石造物では、ほかに水辺の祭祀を思わせえう鶏や鶏、力士、巫女などがおかれてあり、政治王であり祭祀王であったという点でも、継体と磐井には共通点が非常に多い。裁判する権利があったというのは、とりもなおさず彼が王権保持者だったということである。


尾張氏と継体と筑紫
尾張氏は継体大王に妃を出した東海地方の有力者であり、古くは近畿でも倭五王時代以前から実力を示してきた氏族で、さらに3世紀当初から邪馬台国連合に組した可能性もある一族である。同族は物部氏、海部氏など。関東にも勢力をのばし、日本海型前方後方墳の東海・関東での伝播元とも言われる。一方で狗奴国の主導者とも言われる。ヤマトタケル伝説では草薙劔の保管者・伝承者。物部氏とスサノヲに関与する天群雲劔やも保持したか?神武天皇を熊野でやはり剣によって救ったと記録された。海人族の長。多氏、隼人氏、各地の海部と深くえにしを持ち、関東と西国を影でつないだフィクサー。継体だけでなく、さまざまな時代に新大王を担ぐことに加担している。船を用いた海外交易の親玉。

今城塚が尾張型を基調とするのは妃・尾張目子姫による尾張氏との関係があったからである。造り出しを双方に持つ大王型古墳である。こうして尾張を中心につながりを考えてみると、継体と筑紫、東国、東海とが尾張氏で結ばれた海人同盟であったことに気づくはずである。
尾張氏は岐阜、滋賀を経て日本海福井、丹後、出雲ともつながっており、さらに琵琶湖の息長氏とともに淀川で大阪湾、瀬戸内海、さらにはもっと古くは太平洋や紀ノ川で紀州・熊野・伊勢湾や南九州までも海人族コミューンを持っていたと考えられる。



今城塚と岩戸山の連帯関係
継体大王の今城塚古墳からは阿蘇ピンク石石棺の破片が出ており、これは淀川~琵琶湖沿線で、記紀が継体先祖の息長系を言い募ることを証明する。また淀川の摂津三島地域には筑紫津神社があり、ここに筑紫津という港もあったことがわかる。石だけでなく筑紫からの貿易港だっただろう。三島一帯ではほかに安曇氏の祖先である安曇磯良(いそら)と神功皇后を祭る疣神社がある。地名三島とはおそらく茨木・高槻の淀川沿線の三角州、ないしは島があってのこともあるだろうが、御島=大王の土地という意味もあっただろう。常識的には郡名であった上中下の「島郡」からであるが、「しま」とは縄文海進で、このあたりがまだ6世紀頃まで湿地帯で、州に分かれていた土地であることが想像できる。それを治水したのが記紀大三輪神話に伝承された三島溝咋(みしまのみぞくい)氏である。「三島」地名の大元は四国水軍が祭った大三島信仰にあり、例えば鎌倉時代に頼朝によってここから伊豆に勘定された神社が三島大社である。大三島信仰の源泉は南九州霧島の神・大山積にまで遡ることができ、その娘が天孫の最初の妻になる木花咲耶姫(富士山・浅間山の女神)であるから、三島信仰は広く東国にまで伝播したことは明らかであろう。

「み・しま」の「み」は水である。「みぬま」の「み」、「みと」の「み」もおそらく水、湿地帯地名になる。ミヌマは筑後川沿線、水戸は霞ヶ浦沿線で氾濫が多かった低湿地で摂津三島と共通する。同時にそれは尾張氏のいた愛知と岐阜の湿地帯=「あはちまの海」=今の名古屋市がある湿地帯ともリンクする。継体大王が福井の三尾を母方にし、滋賀の琵琶湖東岸の息長氏を父方にし、さらに古くは神功皇后の葛城血脈もからんでいる理由は、こうして尾張氏という海人族を中心に考察するとすべてがつながってゆく。



筆者は尾張氏の源泉を霧島山のある日向地方においている。それは葛城系譜もまたそうである。

尾張氏も武内宿禰の葛城氏も、九州に最初に入った人々、縄文系海洋民だと考えている。筑紫君一族と尾張氏にはそもそもつながりがあったと思うのである。筑紫君の祖は思うに倭五王時代に派遣された出雲・吉備王族だった可能性がある。出雲には石馬があり、九州式の横口式石棺が出ている。磐井の岩戸山からも石馬、ないしは馬の鞍型の石製品が出ている。

結論として、筆者は筑紫君磐井=継体大王であると考えている。記紀はこの大和王家をおびやかす実力を持った海人族同盟体の長を、天皇と地方豪族国造のふたつに性格をわけて記録した。しかし実際には継体が「殺された」ことと「磐井が継体に滅ぼされた」のは、同じひとつの事件だったのではないか?

継体の子である安閑大王の伝承が、滋賀県の安閑神社に伝わっている。高島市は安曇川で、安曇氏地名の土地である。琵琶湖は日本海と瀬戸内海、東海をつなぐジャンクションである。琵琶湖で見ると太平洋側の尾張氏と、日本海側の海部氏が同族である謎は容易に解ける。内陸の琵琶湖に安曇地名があることや、半島海人族だったであろう和邇氏地名があることもすぐ理解できる。川は高速道路であり、琵琶湖はジャンクションだったからだ。淀川、木津川、宇治川によって、大和・難波・瀬戸内と琵琶湖はつながっているのである。ヤマトタケルは尾張から伊吹山を越えて息長のいる栗東地域へ向かう途中亡くなった。記紀がそのように、非業の死をとげる集団・・・安曇や尾張や葛城や物部や筑紫君らの古い縄文集団を代表させたかのような大王が継体である。そして継体も磐井も、百済光州と旧伽耶の一帯に人を派遣し、古墳群を作っており、継体が百済武寧王と友人であったことや、なぜか紀州の隅田八幡宮からふたりの名前が刻まれた鏡が出ることも、河川でものを考えれば高速道路のように福井から琵琶湖、琵琶湖から紀州葛城は一足飛びだったことに気づかされる。

記紀は、この藤原氏がかつぐべき新しい王家にとって都合の悪い先住大王のすべてを、同時に抹消しようとした。それが継体による磐井の抹殺=自分で自分を殺した内乱のねつ造である。筑紫の海外貿易によった既得権益と、日本海文化圏の既得権、さらには海人族を手下にしてしまい、太陽神をアマテラス信仰へと置き換えた政治的ねつ造も、すべてそれらをわが手に簒奪するための「無血の大嘘事件ねつ造」によった造作である。観念的に大和旧態氏族をコントロールしたのである。

考えてみて欲しい。息長氏を筆頭に、尾張氏、物部氏、葛城氏、出雲氏、筑紫君氏、吉備氏と、記紀が次から次へと、藤原政権以前のあずかりしらぬ大王家によってすべて滅ぼされたと記紀は書いているではないか。自分たちがやったのではなく、前の王家がやったことであり、われわれには責任はないと暗に言っているではないか。応神天皇は八幡にすりかえ九州に押し込め、出雲神や大物主は出雲と伊勢に押し込め、事実としては目先にあった天武天皇という異形の血脈を皆殺しにしたうえで、天智の娘をアマテラスにさせ、あまつさえ、アマテラスを初代女王であった卑弥呼に置き換えようとまでしているのである。

しかい、藤原氏そのものがそもそもは海人族であろう。旧勢力の裏切り者。これに立ち向かったのが吉備犬養氏族の末裔である橘氏から出た諸兄である。



継体=磐井であるならば、記紀のこの部分の記述はねつ造である。
筑紫君を殺せたのは継体ではなく、異母弟だった欽明天皇しかいない。
つまり継体は欽明によって殺された。そのことを隠すために磐井の反発をねつ造して、継体という大王を創作したのである。そして磐井を継体が殺したとした。

つまり、継体大王などは最初からいなかったのである。磐井もはんらんなど起こしていないし、新羅征伐もない。あったのは雄略時代の新羅による伽耶滅亡と、百済衰退と、それを救おうと活躍した筑紫君及び葛城襲津彦の孤軍奮闘だけであった。両者は日本を百済を伽耶を救おうとして孤軍奮闘したのである。そのために氏族は衰亡し、手助けした吉備・出雲・筑紫もろともに雄略の直系である欽明によって滅ぼされたのである。つまり欽明と蘇我氏こそは伽耶日本府消滅と、のちの百済滅亡のきっかけである。


眼から鱗は落ちましたか?




科学技術

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科学技術という言葉は日本にしかない。
科学の発祥地である西欧では、科学は技術を差別した。

科学には狭義には分化科学という大学での一面と、広義にはすべての事象を「なぜ」で分析する博物学という一面の二面がある。そのための技術を、科学者は、「労働」と解釈し、実験の捨石であると下に見た。


ホワイトカラーがブルーカラーをそうしたように、科学者は技術者を下に見た。しかし総体では、人は科学も技術も下に見た。それが中世までである。

近代では、科学はヒトの役に立つと再認識されたために、その地位を高くしたが、技術はまったく労働力でしかないままに今に至った。


歴史学が考古学を労働力、ブルーカラーとしてきたようにである。


文献などといういくらでもねつ造可能な駄文によって、これまでの歴史学は考えられ、それは文科系が理系を馬鹿にするという教育委員会のスタンスをなしてきた。校長への最短距離は国語、社会の先生だという世界だった。

科学とはスコラ、哲学である。

「なぜ」が分析を生み出した。

われわれはなぜによって突き動かされてきた。なぜこそが人間の思考の最高峰である。金を稼ぐことなどがいつからか最高峰に置かれ始めた。それによって人類の観念上の進化は百万年遅れることになってしまった。



神道は宗教ではない/不比等には太子が必要だった

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少し眼から鱗のお話。



『日本書紀の謎と聖徳太子』平凡社 2011 の中で編者・大山誠一(「聖徳太子はいなかった」論者)は概略こう書いている。




百済に仏教が伝わったのは、日本に伝わる300年前。そこから仏教は300年を経て日本に(正式に)伝えられた。聖徳太子の時代である。なぜか?当時の倭国は武力だけは東アジアでは一流だった(武力はあっても国家的には統一や侵略への欲望がない、権威的武力みせつけだけの状況=実戦なき幻の抑止力状態)が、精神はまだまだ古代人で、経典・教義を理解できるとは思われていなかったからだ。そして、中国に隋が立ってようやく、高句麗や百済はその強力な圧力を肌身に感じたことで、武力のひいでた倭国に、仏法や建築技術を交換条件として武力的協力を求めるようになった。だから飛鳥に宗教としての仏教が伝わったのではなく、最初は建造物や仏像のような、眼に見える偶像だけだったのであり、それは588年の飛鳥寺建立のときである。


称徳(訂正 斉明)女帝の飛鳥寺を蘇我馬子が再建した法隆寺などのように、聖徳太子にまつわる建造物はみな飛鳥に集中しているのに対し、四天王寺だけはなぜか記紀の太子エピソードとはかけ離れた難波に存在する。このことも実に怪しむべきことである。






概略、それで正しいだろうと思う。
正確には、蘇我馬子摂政大王時代の588年でよかろう。
このときまだ聖徳太子なる聖人は存在していない。
聖徳太子という仏教の聖人は、8世紀の記紀が観念的に描き出したのが最初で、やはり政治的偶像である。


藤原不比等が自らの女帝政権、天智天皇という偶像を正当化するためのいわば「アマテラス構想」の中にあった、仏教政治利用の一環が太子である。



それまでの倭国には「宗教」がなかったと言える。
古代信仰しかない状態だった。つまり世界から見ればそれは野蛮人国家であるというしかない。其れまでの信仰とはつまり神仙思想を中心とした、卑弥呼からのシャーマニズムのままのもの・・・祖霊の再生祈願・・・人が早く死ぬ世界の土俗的民族信仰の延長=神道でしかなかった。


神道は現代においても経典も教義も一切持たない。ということは宗教学的にはそれは宗教ではないことになる。宗教には「経」がついている。
経とはすなわち成文化された教義である。経典である。経典とは宗教のマニュフェスト、マニュアル本である。つまり聖書やコーランやのような世界宗教の持つ経典がないのならそれは「宗教」ではないことになる。


神道は残念ながら古代信仰でしかないのだ。


そして、ようやく届いた仏教もまた、飛鳥時代~奈良時代までは、まったくの政治マニュアルとしてしか存在しなかった。神道が国家統一に利用されたのにとって変わっただけの代物だった。だからこそ仏像や大仏、寺を作ることによって政治家たちは民衆を、国家事業に参加させただけだけだったのである。これがそのまま、現代の日本人の世界に例を見ない無信仰性の基盤となった。簡単に言えば、死ぬような3Kの土木事業にトリップさせることこそが倭国・日本の国家政策であり続けたのである。


それはそのまま、第二次世界大戦での神風特攻隊に受け継がれることとなる。

敗戦とは、そのように、日本人1万6000年のあいだ引き継がれてきた古代精神性のようやくの崩壊でもあった。卑弥呼の時代がそのときようやく幕を閉じたと言っても過言ではない。昭和20年の夏のことである。



また、四天王寺が・・・

続きはファンクラブ会員様のみに






































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