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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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柳田國男の視線

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 「大正四年の京都の御大典の時は、諸国から出て来た参観人で、街道も宿屋もいっぱいになった。十一月七日の車駕御到着の日などは、雲もない青空に日がよく照って、御苑も大通りも早天から、人をもって埋めてしまったのに、なお遠く若王子の山の松林の中腹を望むと、一筋二筋の白い煙が細々と立っていた。ははあサンカが話をしているなと思うようであった。もとろん彼等はわざとそうするのではなかった。」柳田國男『遠野物語』
 

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 「大正天皇の京都における大嘗祭において、「この上もない光栄、一家の名誉」と感激する貴族院書記官長の柳田は、山の中腹の煙をもって「サンカ(山で移住して暮らす人々)が話をしているなと思うようであった」と語る。「思うようであった」などは、語る主体をぼかすような語り口ではあるが、どうして柳田は天皇のいる風景にサンカを想ったのであろうか。「もちろん彼等はわざとそうするのではなかった」という柳田は、天皇などとは全く関係のなく飯でも食っているであろうサンカの姿に自分をダブらせているようでさえある。そもそも山の煙でサンカを想起するなどはいかにも唐突であり、天皇の前にいる柳田は、その存在を必要としていたと考えるのが自然である。
 しかし、もちろん彼は向こう側には行かない。天皇とサンカを対立と捉えることもしないし、和解を目指すこともない。ただ、自分の中のサンカを心に秘めて、天皇に侍っているようである。ここで柳田にとってサンカとはどのような意味を持っていたかは、非常に重要な問題であり、それを最後に考えることになる。」
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/7254/yanagida.htm





底辺こそは人間の歴史であるという視線である。
つまりは敗者の歴史学こそが、人を救う唯一の道なのである。



ところがおおかたの官憲には、その視点が欠落している。ゆえにこの世は生きにくい。だから戦争はなくならず、貧富の差は広がるのである。ちゃうか?問題は民衆よりも、常に政治にあるんとちゃいまっか?




要するに柳田に民俗学を捨てさせた世の中にこそ問題はある。












金銅威奈大村骨蔵器銘文の謎

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調査のきっかけとなったのはこの記事
記紀いっぱつさんの「のんびりと古代史」の「「蘇我氏と息長氏」:閑話休題




金銅威奈大村骨蔵器

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江戸時代の明和年間に現在の奈良県香芝町出土で農民によって偶然発見されたもので、甕を伏せた下からこの骨蔵器が出土したと伝える。球形の容器で、蓋と身が半球形に分かれる特殊な形である。

よく似たものに佐賀県出土と伝えられる無銘のものがある。

威奈大村骨蔵器は蓋裏に1行10字詰め39行319字におよぶ銘が刻まれている。これには、威奈真人大村(いなの・まひとの・おおむら)が宣化天皇の子孫にあたり、持統朝に任官、文武朝に少納言、大宝令制定とともに従五位すなわち貴族に列せられ、慶雲2年(705)に越後守に任ぜられるが、同4年に任地で歿したこと、そして故郷の大和の葛城下郡山君里、今の香芝市穴虫の地に葬ったことが記されている。大阪市の四天王寺が現在保管している。
国宝。高24.2cm 飛鳥時代(707)
国宝だが発見が江戸時代で伝世遺物ゆえに一級考古資料とは言いにくい。
問題は発見場所が墓だったかどうかである。埋めようと思えば、あとからいくらでも造作して埋められる。まして骨臓器の科学的年代鑑定ができるかどうか?
例えば古墳には被葬者とは時代が違う須恵器があとから埋められるものだが、周辺遺物からでは古墳年代の決定は無理である。
墓場かどうかわからないところから出た遺物として有名すぎるのが志賀島金印である。イナ真人氏が飛鳥時代、本当に奈良や摂津に存在した氏族かは以下に分析する。



大村骨臓器銘文(部分)
卿諱大村。 檜前五百野宮
御宇 天皇之四世。 後岡
本聖朝、紫冠 威奈鏡公之
第三子也。卿温良在性。恭
倹為懐。簡而廉隅。柔而成
立。後清原聖朝、初授務廣
肆。藤原聖朝小納言闕。於
是、高門貴兜、各望備員。
天皇特擢卿、除小納言。授
勤廣肆。・・・・(中略)
以、慶雲四年歳在丁未
四月廿四日。寝疾終、於越
城。時年卌六。粤以其年冬
十一月、乙未朔廿一日乙
卯。帰葬。於大倭国葛木下
郡山君里狛井山崗。・・・

訳文
卿、諱は大村。檜前の五百野宮に宣化天皇の四世後岡本宮の斉明天皇の紫冠、
威奈鏡公の第三子也。
卿、温良性に在り。恭倹懐と為す。 
簡にして廉隅。柔にして成立す。
後の清原の持統天皇、初めて務広肆を授く。
藤原の文武天皇、小納言闕けたり。
是に於いて高門の貴兜、各員に備わらんことを望む。
天皇特に卿を擢んでて、小納言に除し、勤広肆を授く。
・・・・(中略)
慶雲四歳(707年)は丁未に在る四月廿四日を以ちて、疾に寝し、越城に終わる。
時に年四十六。
ここに其の年冬十一月、乙未朔の廿一日乙卯を以ちて、大倭国葛木下郡山君里狛井山崗に帰葬す。(後略)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage422.htm


骨臓器の拡大画像も同じく上記URLで見られる。


銘文訓読の区切りをどうするか?
五百野宮に宣化天皇の四世後。
岡本宮の斉明天皇の紫冠
と読むか
五百野宮に宣化天皇の四世後であった岡本宮の斉明天皇の紫冠
と続けて読むかで解釈が変わる。

四世とは初代から数えて四代目である。すると記紀では斉明女帝は宣化大王の四世孫ないしは五世孫となるので、この文は大村の父鏡王のことか斉明のことが決めがたくなる気もする。


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威奈真人大村とは?
「  ? - 707年(慶雲4)4月24日  宣化天皇の皇子の火焔皇子を祖とする為奈(猪名)真人氏の出身。四天王寺所蔵の骨蔵器に大村の墓誌銘が刻まれている。それによると大村は宣化天皇の四世(三世孫)で、斉明天皇の代に紫冠を授けられた鏡公の第3子である。持統天皇の代の初めに務広肆の位を授けられ、文武天皇の代に少納言に任ぜられ、勤広肆に昇った。701年(大宝元)に従五位下に叙せられ、侍従を兼ねた。704年正月に従五位上に叙せられ、705年(慶雲2)左少弁、同年11月に越後城司に任ぜられた。707年2月に正五位下に叙せられたが、同年4月に越後で死んだ。時に年46であった。この年の11月に大倭国葛木下郡山君里狛井山岡に葬られた。また「続日本紀」には、703年10月、持統天皇の葬儀にさいして御葬副官に任ぜられ、706年閏正月に越後守に任ぜられたことがみえる。」執筆者: 長山泰孝http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E5%A8%81%E5%A5%88%E7%9C%9F%E4%BA%BA%E5%A4%A7%E6%9D%91



「いな」(地名)
語源は稲(大阪府箕面市に稲があり「いな」と読ませる。ここが摂津伊那郡震源地)
猪名(郡)、飛鳥時代に現在の吹田市・箕面市から尼崎市までの北摂地方に置かれた県(アガタ)の一つ。
ほかに伊奈表記では埼玉県北足立郡伊奈町、茨城県筑波郡伊奈町(現・つくばみらい市)、愛知県宝飯郡伊奈村(現・豊川市伊奈町)があるが、茨城と埼玉は中世氏族伊奈氏由来。
伊那表記では長野県伊那市。
東京都あきる野市に伊奈。
千葉県、茨城県、福島県に稲。


いなのまひと氏(氏族名)
為奈、猪名、威名などと表記される氏族。
『新撰姓氏録』右京, 皇別, 為名真人, 真人, 宣化天皇皇子火焔王之後也, 日本紀合,

系図
継体大王・・・宣化大王・・・火焔王・・・阿保王・・・鏡王(韋那公高見)・・威名真人大村
宣化大王の四世孫=やしゃご
兄弟=額田王(ぬかたのおおきみ)
叔母=鏡王女(かがみのおうきみのむすめ)
いとこ=藤原不比等

真人姓は記紀整合の立場では継体からとされるが、正しくは天武の諱号が「ぬなはらおきのまひと」であるし、道教に詳しかった天武からのものと考えられる。(ただし、これもまた造作かも知れない。天皇称号とアマテラス信仰と聖徳太子は持統女帝を遡らない、が筆者の持論である。)

また記紀の継体~欽明までの系譜は、息長系譜天皇(天智・天武など)の正当化のためと考えられ、実在性に?がつく。九州王朝論では継体は九州の王だったことになっており、大和では摂津に拠点を置いた近江息長氏と越前三尾氏の子孫となっている。

私論では継体=筑紫君磐井であるので、実在はしたけれど墓である今城塚は岩戸山の拡大コピーである。つまり福井や近江とはあまり関係はなく、九州の筑後から系譜を近畿近隣に動かした人物と思える。


ところが骨臓器は現物であり、銘文は金石文であるので、動かせない証拠品でも或る。大村の銘文入り骨臓器が奈良県で出た。しかしなぜ摂津の箕面の氏族のものが奈良から出るのか?それは大和から言わせれば朝廷に仕官していたから当然となるだろう。しかしそれならばなぜ継体の墓は摂津にあり、鎌足の墓も縁もない摂津にあるのかではなかろうか?墓なら故郷にあってもおかしくはない。高野新笠の墓は父方の京都にちゃんと作られている。


考えられることは二つ。
九州の磐井=王朝=継体。記紀の継体王朝は、実際には九州筑後王家が日本海で出雲や丹後や越前と通じて近畿王家を一時的に乗っ取ったもので、それを不比等が息長系天皇の正統のために「おおどおう」に改変して、ふたりに分け、互いに戦って息長形が勝ち、かえす刀で、ついでに蘇我系の非正当性のために聖徳太子を造作し、守屋神霊=饒速日命=物部旧態先住氏族をも鬼として、実は上宮王家を追い詰めた中臣氏の過去を抹消。結果的に飛鳥以前のすべての王家から息長王家は万世一系でつながったものとしておくためのねつ造という構図である。


それにしても、古墳や遺物、墓誌までもねつ造するかいな?はネックですなあ。


不比等って前代未聞の策士だった・・・というのもまだちょっと言い切れないところはある。今後の探求宿題である。







光明寺・ツィゴイネルワイゼンと耽溺・退廃・差別 

井上亘の森博達『日本書紀』分析批判

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『日本書紀の謎と聖徳太子』所収「『日本書紀』の謎は解けたか」において、井上亘は森博達の『日本書紀』を音韻学から分析した論考を、「音韻論」と「成立論」とに分けて、前者については「大変な労作」(81頁)、「未曽有の業績」(109頁)と呼んで高く評価する一方、著作者論、成立過程論においては、粗雑きわまりない素人論義、自信過剰の論理として切り捨てている。森は確かに、中国音韻学こそが最高峰であるという中国文献学の立場から、日本の文献史学者たちの非科学性を嘲笑しながら、下に見たところがあると言えるのかもしれない。



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森の中国音韻学からの『日本書紀』分析論は、画期的ではあるが、確かに、
1 中国語(漢文)で文章を書くために中国語音韻を知らない者が書けるはずはなく、それを書いた人物は、中国人であろうと、日本人であろうと当時の達人だったのだから、それだけで『日本書紀』群の一部を絶対に中国人の作、とするのは早計である。またその当事者が森の言う中国人だったというのも、考えてみればあまりに『日本書紀』記述に従いすぎている。(これは筆者が大山論法によく登場する『日本書紀』引用を信用して一面にも見て取れる。ある面で『日本書紀』を痛烈に虚構を喝破するの似、他方では『日本書紀』部分は信じ込んでいるという矛盾)

2 日本の文献学者、なかんずく大多数の文学系学者たちは、文献を音韻学や言語学と言った科学で分析する手法を長く持てなかったために、森の科学性に対し沈黙するしかなく、どちらかといえば迎合してしまったところがある。つまり森自身が書いたように、文献史学は科学的分析ノウハウがない学問であり続けてきたと言える。それゆえに森の論考に対して正面から批判する能力も持ちえていないことになる。

そういう程度の日本の史学は、いまや、森や大山の検証の前で、ほとんどその機能と発言力を喪失した状況になっているとも井上は批判する。しかし井上は数少ない中国音韻学の著書を持つ、中国在住の日本文献史学者という立場から、森の論考をある面で労作と評価し、ある面で厳しく批判する。




中国の学問の中で、音韻学は最高権威だと言われている。森は日本人として希少なその分野の権威である。筆者が大学時代、文学部の中での言語学研究会で、その理化学的な論考(ソシュールの言語理論など)に四苦八苦したように、多くの文系学者は、数値や方程式を駆使する幾何学的な分析は苦手である。要するに日本の文学論考、文献史学論考は、そうした科学性が皆無でやってきた。文学も文献史学も、文章の分析、書かれていることの分析は得意でも、音韻や言語学の面から、科学的に立証することをおざなりにしてきたために、森の自信溢れる、確固たる論理に黙り込み、あるいは感激し、そのまま受け取り、自分の論考の骨子にさえしてしまっていると、井上は批判するのである。


あたかも、考古学的発掘こそは真実であるとして、ねつ造に気づかなかった日本先土器時代考古学を失策を見るような痛烈な批判である。それをいちいちここに書き写すつもりはないが、是非、一度は読んでおくべき論説である。森がたじたじとした部分をはしょって批判に答えた続編を作っているなど、森こそ神への反省はわれわれにもあるべきである。論考を信仰としてしまいがちな流れに、単騎さおさす勇気或る論説。


 




ミトコンドリア遺伝子はもう古い 時代は核DNA時代に 現代人はネアンデルタール形質を継承していた!

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日本人バイカル湖起源説の篠田謙一以来、人類起源の謎に終止符を打ったかに思われてきた人類単一起源説(アフリカ起源説・MTイブ起源説)であるが、実は遺伝子学世界では2010年から、ミトコンドリアDNA遺伝子では母方しかたどれない、人間の外見上の相違に関わらないMTDNAではすべてを解明できないという流れが世界的に始まっていた。われわれ一般人がmtDNAという言葉を初めて知ったころには、すでに学界ではY染色体遺伝子による探索が同時進行しており、Y遺伝子すら父方しかわからないことから、究極の核DNA遺伝子による探査が開始されていたのである。つまりmtはもう古いとさえ言われ始めているのだ。


核DNA(かくディーエヌエイ、英: Nuclear DNA、nDNA)は、真核生物の細胞核に含まれるDNAである[1]。核DNAは、真核生物のゲノムの大部分をコードし、残りはミトコンドリアや色素体が持つDNA(オルガネラDNA)がコードしている。ミトコンドリアのDNAが母系制であるのに対し、核DNAは、両親から遺伝情報を受け継ぐメンデルの法則を担っている[2]。


2010年の画期
始まりはネアンデルタール人の核DNA分析結果からだった。母方mtDNA遺伝子では繰り返し否定されて来たネアンデルタール人遺伝子と現代人との継続の可能性が、核DNA遺伝子分析によってネアンデルタール人の形質は確かに現代人に受け継がれていることがはっきり証明されたのである!(中橋孝博『倭人への道 人骨の謎を追って』吉川弘文館 2015)



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mtDNA最大の欠点は、それが人間の外見的相違には関わらない遺伝子であるという点だった。そして史上、さほど積極的な遠隔移住がなされにくい立場である母方の遺伝子であり、それゆえにむしろmtの長所となったのが、母親遺伝子を芋づる式にたどることが可能でアフリカ単一ミトコンドリア・イヴにまで到達できたことだったが、Y染色体父方遺伝子の分析結果との違いが出ることについて、大方はさほど関心を示さなかったものの、多くの人類学者や遺伝子学者内部にあったかすかな疑念が、2010年以降の核DNAサンプル分析によって、一気に「やっぱり!」「mtだけじゃだめだな」「イヴ説にも眉唾部分?」「mtDNA遺伝子の今後の新説はまだまだ仮説の域から出られまい」といった流れの急転が起こり始める。


もちろん、それ以前の古い人類学でも、人類がアフリカのサル~猿人を起源とするということはmt説と一致していた。mt分析が画期的だったのは、その分岐の震源地が、それまでの各地でそれぞれに分岐して原人が生まれたという考え方から、アフリカ内部ですでに原人と進化してから出アフリカした、だからたったひとつの母にまでたどれたという結論であった。その分かりやすさから、多くの人々が「これで決まった」「謎は解けた」と思い込んだところがあったことは否めまい。筆者は篠田や外国論文などを読んだ結果では「サンプルが少なくこれが結論とは言えないだろう」とこのブログに書いておいたのだが、中橋をはじめとして多くの世界の人類学者もまた、ミトコンドリアイブ、単一遺伝子進化説には内心、首をかしげていたわけである。


人類史ファンの中には、まるですべてが決まったとしてしまいたがる論調も多々垣間見えたが、中橋に言わせれば、「今や遺伝子解析の視線はこぞって核DNAのほうに向けられ始めているようだ。」「限られた個体からもたらされた情報だけであまりに多くを言い過ぎてきたということだろうか」「すでに図9のような(出アフリカ単一起源説の)モデル図は使えなくなっている」とまで書いている。


やはり篠田らの仮説はサンプル不足だったわけだ。核DNA遺伝子はこれまで残存が非常に少なく、サンプル不足状況があったために、よりサンプルの多いmtDNAのほうが、学者たちには都合がよかったのである。しかし、母方しかたどれないでは、それが絶対とは言えるしろものでないのは当然である。もちろん篠田のセンセーショナルな仮説である日本人はバイカル湖から来た、も今後大いに見直される立場になったと言えるだろう。数学の答えを人類史に求めても、答えはひとつでは終わらない。なぜならそれが人間の複雑性だからである。例えば、まったく同じ地域で近接して出てきたグルジアの二体のドマニシ人頭骨が、まったく形質や外見が違っていたように、人類はさまざまな混血によって個性をまったく変えてしまうのである。あるいは先ごろ発見されたロシアのデニソワ人は、ロシア科学アカデミーの学者の発表では、ネアンデルタールでもクロマニョンでもない「デニソワ人」というカテゴリの新人類であり、スペインで発見された40万年前のシマ・デ・ロス・ウエソス人骨もまたネアンデルタールよりデニソワ人に近いとする意見が出されている。つまり人類学者は、複数起源説がお好きなのである。ということは、要するに人間とは、ご当地をそれほど愛していて、それぞれの場所から人類はばらばらに分岐していったという話が大好きなのであろう。それもまた実に困った眉唾説になっていく可能性をもった人間のどうしようもない部分ではある。


最新説では、例のセント・フローレンス島の小さな人類こそは、出アフリカ人類だったのであるという人も出ている。ホモ・フローレシエンシスはまた、アボリジニの祖先としてホモ・ハビリスとつなげるべき人類であり、最初の出アフリカ人類とはホモ・ハビリスだろうといわれ始めている。

また、コーカソイド的な復元相貌から、欧州では人類はすべて欧州人が広がったものと自慢していたケネウィック・マンも、その後の分析で、背が小さく、コーカソイドよりむしろアイヌや琉球人に近いとなった。沖縄の港川人は、柳江人よりもインドシナ人類と近く、ポリネシア・ミクロネシア人等の島嶼系人類で、日本人とは遠い。そして今の沖縄人が直接港川人から派生した可能性はあまり認められないとも言う。


すべて過渡期の仮説でしかない。


今後の遺伝子学や人類学の発表もまた、常に眉につばをつけながら慎重に傾聴すべき仮説でしかないだろう。なぜなら、その学問をやっている人間もまた人類であり、国家を背負い、国・故郷を背負うただの俗物・凡人でしかないのだから。









竹田恒泰 勉強不足でも大学教授になれる日本

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先週の「たかじん 委員会」で竹田が吐いた言葉。

「いまだに、人間とサルをつなぐ動物は発見されていないじゃないか!」

つまり人類がサルから進化したなら、当然、その中間生物がいるはずだが、まだそんなのは見つかっていない。ということは科学は大嘘ばかりで信じられず、やっぱり宗教学が言ってきた、人間はあらゆる動物の中で最高位にあって、神から生まれた選ばれた生物なのであり、天皇こそがその最上位にある「あらひと神」なのだ====!!
ってことを、今頃、まだ考えているおばかのひとりが竹田なのである。


少しは勉強しろよと、ほにゃほにゃ言ってる学者(失礼!ロバート・ゲラー先生)は諭しておられたが、竹田は確かに文系学者でしかないおばか学者のひとりであろう。


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人間とサルをつなぐ生物は四種類が残存している。
アフリカのチンパンジー、ゴリラ、ボノボ、そしてアジア熱帯部のオランウータンである。

その中で直接人類進化に関与して、同じ系統樹に含まれる生物は、圧倒的にアフリカに住んでいるわけだが、ではオランウータンがそうではないかと言うと、まだ結論は出ていない。ただ、ほかの類人猿とオランウータンは科目が異なり、ほかがヒト亜科であるに対してオランはオランウータン科として独立した別種となっている。それが正しければオランウータンはヒトになるべき系統樹から13000年前には分かれていて、そこから人類に進化した流れは彼にはないことになる。しかしそれも今の仮説でしかない。人類が、単一のアフリカ猿人から分岐した仮説も仮説でしかない。しかし、アフリカのサルが乾燥によって猿人~原人と進化しながらアフリカを出て分岐していったという説は、まず間違いのない定説であることも間違いない。

ただ、どこでサルからヒトになったかについての諸説があるわけである。アフリカ内部でそうなったか、出てからどこかでそうなったかなのである。
また、いまだに、世界各地でその分岐は始まり、それぞれが欧州人やアジア人やになったという古い仮説もまだ破棄されてはいない。

かつて恐竜と鳥をつなぐ化石として始祖鳥が知られていたが、その始祖鳥も今は、すでに恐竜の進化した段階、恐竜そのものにも羽毛が生えていた、などの新説が出されていることはご承知だろう。

中間生物はいないのではなく、生きてはいないだけのことで、実に多くの猿人、原人化石サンプルは存在し、人間へと進化した系統樹もちゃんと定説化して誰でも見ることができる。つまり竹田の言辞は、あまりの勉強不足を大声で全国(関東には映らないかな?)で言ってしまったことになる。そもそも、この男、天皇家の分家の子孫だとか言っているが、どう見てもお父さんの気品が皆無で、ほんとに親子なのか、まずDNA検査したほうがいいのじゃなかろうか?父親はオリンピックで乗馬選手でもあったが、息子の顔はあまりに馬面で、それを疑ってしまうのである。冗談。


キリスト教の法王が、人類はサルから進化したを認めたのは、もうかなり前のことだ。それまでのローマ教会といえば、天動説でガリレオやコペルニクスを無視、弾圧するなど、科学をまったく軽蔑し続けてきたわけだが、ことほど左様に、宗教の迷信は頑迷で、いまだに少数が、人間がサルのような下等生物から生まれたはずはない!!などと信じているものがいる。いったい学校に居眠りにいってたんじゃないかというようなのが、テレビで学者顔して登場したりする。テレビとは昔の「親の因果が子に報い」的見世物小屋世界なのであり、そうした鬼っことか異常な事物・事象に飛びつき食い物にする業界である。つまりテレビに出ている=権威、立派な人なのではなく、タレントやテレビ先生たちは「異物」として面白いから見せてくれている「やから」「いろもの」なのだ。そこを本人が忘れてもらっては困る。

え、だからこそああいう異常なことを言って見せている?それじゃあ芸人じゃないか。ひひ~~~ん。
















ビッグフットなどいるはずがない理由

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簡単である。
北米大陸にはサルがいない。
サルがいなければ進化して類人猿もいない。
類人猿がいない北米に原始人類がいるはずがない。

ということです。


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可能性が高いのはヒマラヤのイエティ。
アジアにはサルがいる。

ところが、これまでの採集毛髪の分析の結果はすべてノー。動物のものだったそうだ。



これらの伝説的巨大猿人?を雪男と総称するらしい。
ほかにもいろいろあるそうな。



しかし、これらの目撃譚には毛髪の色などに共通点がなく、決定打はない。
その多くは大雪の山中という異常状況の中でのもので、人間が極限状態で妄想や亡霊を見ることが多いのと同じ、錯覚。多くの場合、ヒグマの見間違いが報告されている。ヒグマが直立すると確かに巨大な直立動物がそこにいるように見えるからか?林間のすきまからのぞいたときに、そう見えた?あると思いますよ。



そもそも人間は、そういう不可思議な超常現象が大好きなうえに、虚言癖がある生き物である。中途半端に脳が発達している段階なので、内面がまだ科学と迷信のはざまを行き来してしまう。幽霊とかUFOとかも見えてしまう。霊魂も見えたりする。しかしほとんどは内在する「見たい」が瞬間的にそう見させてしまう虚像でしかない場合がほとんど。信じ込むともう何も見えなくなり、ついには人々に顕示したい欲にとりつかれ、俺は見たんだ。となる傾向は強い。すると、今度は見てもいないのに、いるんだと信じ込む二次的感染者が登場することになる。

ほとんどの人間は、妖精や幽霊や雪男やは、楽しい妄想、ファンタジーで終わらせてしまう。それが普通の人間である。つまり客観的な人間。観察する人間であろうとする。それが正しい生き方である。なぜって、迷信してしまうと進化の道筋がシャットダウンされてしまうからである。迷信とは一種の病気だと思うほうがよい。



巨人ということならインドシナ半島、カンボジア王国遺跡から巨人の女性王の遺骨が出ている。こっちは間違いなく巨人。反対に小人ならさっき書いたホモ・フローレシネスがある。あらゆる生物は、生長と進化の過程で、自分を巨大化・縮小化する「実験」えおしていると考えられ、例えば中生代の昆虫や水生生物や恐竜のように、当時の環境に合わせた巨大化してみたが、のちに環境が合わなくなって再び縮小化した前例がある。ウルトラマンが本当にいたとしても、現代の地球の重力環境では、ウルトラマンはあの体重ではぺしゃんこにつぶれてしまう。空も飛べない。そういうことである。



妄想はロマン。それ以上でもないし、それ以下でもない。
超常現象を生み出しているのは、ほかならぬあなたやわたしの脳みその不完全さからなのです。














大阪城北側の「呉橋」様式極楽橋について一言

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テレビで、たまたま、坊さんがうじゃうじゃ出てくる番組・・・爆笑問題のぶっちゃけ寺?なるものをちらっと見る機会があった。いつもの正平ちゃんのチャリンコ放浪番組がなかったので、チャンネルをザックしていて引っかかったのである。


ちょうどオーストリアの王家エッケンベルグ城の壁から出てきた大阪図会?が話題になっていた。その前にNHKで特集をしていたので、予備知識はあった。


あの絵図は描かれた時代は秀吉よりあとの江戸時代ごろのものとNHKではちゃんとした学者が言っており、当時西欧では日本の屏風絵を珍重していた歴史がある。それをオーストリアのハプスブルク家が買い込んで、お城の壁画に切り取ってほかの絵画の周囲に貼り巡らしていたのが、時代を経て、ブームが去ると、上からどんどん新しい絵を貼り重ね、いわゆる「下張り」状態だったのが、偶然修復時かなにかで発見されたもの。








この大阪城は江戸時代になって、大阪の栄華が凋落した時代に、回顧的に描かれたもので、少なくとも秀吉が生きていた時代の同時代作品ではないので、なんとも言えないのだが、とにかく屏風絵画家がそれを思い出しながら仕上げたものだから、大阪城の姿も今よりは当時に近いだろうとされる。

問題の「屋根の或る橋」は図面では大阪城の北側にあり、本来、天子南面すの故事から、京都の御所など往古の京師が南を向くことを真似た造りなので、大阪城も南門が正門で北側には門や橋などなかった。それが造られた理由について、
「ぶっちゃけ寺」出演者の研究者?(誰かは知らない。学者ではあるまい)はこうコメント。「この豪華な橋は秀吉がこっそり出かけるためのもの」。


そうかも知れないが裏づけのない噂でしかない話である。
北側にわざわざあとから橋を作ったのは、京都の皇居=天皇をさらに北にいる天子というイデオロギーからであることは間違いない。そしてその形状が屋根の或る「呉橋」様式である理由は、諸君が宇佐神宮などに行けばすぐに理解できる。



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宇佐八幡神宮 呉橋

呉橋は天皇の勅使道の最終地点にあり、奈良時代から天皇が変わるたびに宇佐へお伺いの勅使が来ていたのを迎えるための様式である。
つまりこの様式は天皇一家専用であるがために屋根を持たされていて、普段は誰一人わたることができない。


ということからも、大阪城北側の橋を秀吉が使えるとは考えにくい。


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ただし、滋賀県竹生島の宝厳寺の山門については・・・

「秀吉没後の1600年、秀吉をまつる豊国 廟びょう(京都市東山区)に移築、巨大な門になったことが当時の文献に記される。さらに豊国廟の社僧の日記には、1602年に「極楽門」を竹生島に寄進するため壊し始める、との記述がある。北川央・大阪城天守閣研究主幹は、極楽橋が門に姿を変え、豊国廟を経て、竹生島に移った可能性があるとみていた。


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現在の京都市七条の豊国神社山門http://65047092.at.webry.info/201212/article_7.html



 極楽橋と唐門とを結びつけたのは、2006年、オーストリアの世界遺産・エッゲンベルク城で確認された豊臣期大坂図屏風だ。

 焼失前の大坂城を正確に描写しており、北川研究主幹らの調査で、極楽橋の正面の姿が竹生島・宝厳寺にある唐破風からはふ様式の唐門と酷似することがわかった。
 描かれた橋の側面にある朱や緑の花模様の彫刻と、唐門に残る牡丹ぼたん唐草の彫刻の特徴も一致。唐門の彫刻には絵と同じ朱や緑青が残っていた。

 北川研究主幹は「極楽橋の姿が屏風の絵で明らかになり、大坂城と豊国廟、竹生島が一つの線でつながった」と話している。

 高橋教授は昨年、内側の扉の上部を切り詰め、低くした痕跡を確認した。門の高さはかつて10メートル程度あったと推測。「これだけ豪華で大きな門は秀吉の建造物だろう」とみている。

 秀吉は天下を治める前に長浜城主を務め、宝厳寺に寄進していたという。側室・淀殿が育った浅井家も竹生島を守り神として信仰するなど、もともと縁は深い。
 高橋教授は、豊国廟の極楽門を島に移すとした日記に徳川家康の命令を指す「内府より」の記述があることに着目。「家康は極楽橋という秀吉の栄華の象徴が目障りだったのだろう。ゆかりの島への移築で、豊臣家を納得させたとも考えられる」と推測する。

 ◆豊臣期大坂城 豊臣秀吉が1583年から築城し、5層の天守や大名屋敷などを建て、玄関口に極楽橋を架けた。大坂夏の陣で落城後、徳川幕府が徹底的に壊して埋め、新しい大坂城を築いた。豊臣期の遺構は地下から発見された石垣だけで、建物はないとみられていた。」

と言うことで信憑性は高まっているそうである。

ただ、こういう入母屋作りに付随する唐門様式はどこにでもあるもので、家康は大阪城を徹底的に打ち壊しているので、さて、どうなのかは今後の詳細分析次第であろう。



私見を最後に申すなら、まず大阪城の色が黒くないのは気に入らない。秀吉は黒好みであった(熊本城など。家康は白好み 浜松上や姫路城など)。だから大阪城ももともと屋根は漆黒だっただろう。

呉橋を極楽橋と呼ぶようになったのは「極楽橋の名前は大坂本願寺を極楽浄土に見立てて、そこに至るための橋」という大阪城公園の意見もあるが、筆者は勅使専用橋のほうがよいと思う。だから最初の名前は違うのではないか?家康が改築したときにはもう普通の橋であったと聞く。

唐門については屏風絵との類似点が少ない。曲がりが絵ではゆるいが、宝厳寺のは宇佐に近い湾曲度で、似ていない。ただし屏風絵そのものが後世のものゆえ、それが正しいかどうかもわからないので、決定しがたい。

そもそも唐門様式は、いまや、古い温泉館や神社仏閣ではざらに見られる。


屏風絵に登場している籠に載る人物を秀吉本人、出迎える女人を淀君としたい意見がNHKであると言っていたが、堀に浮んだ小舟は屋形船で、秀吉伝承に或る船に近いが、本人の衣装があまりにお粗末。これは要するに内緒で囲っている女のところにでも行った帰りの隠れ蓑の扮装とも考え得るが、そうならばそれを淀君が迎えているのは奇妙でも或るだろう。

ハイビジョン特集 新発見 大坂図屏風(びょうぶ)の謎 ~オーストリアの古城に眠る 秀吉の夢~




ま、妄想はたくましゅうして楽しむことですな。


大阪人にもいろいろうるさがたが多いので、意見は百出するのでしょうが、まあ、うちにはあまりがたがた言うてこんといてな。ぼくも、かつては大阪城の真下で働いておりましたんでね。




縄文時代の「戦争」・佐原真最後の言葉

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縄文時代には戦争はなく、戦争は弥生時代からである。

もう常識化してしまったこの考え方。最初に論文にした人物は誰だかご存知だろうか?
奈文研の著名な縄文~古墳時代の考古学権威だった故・佐原真である。短命に終わってしまった。もちろん小林行雄同様に、さまざまな論考は傾聴に値するところの多い立派な研究者であったことは否定しようがない。だが、これも小林同様、いくつかの失敗極論があり、そのせいか晩年やまいに伏して亡くなった。

その失敗理論のひとつが実は上に書いた「縄文時代には戦争はなかった」や「装飾古墳の壁画は現代幼稚園児の絵と同等の稚拙なもので、奈良の高松塚などには遠く及ばない」といった極論である。と、いまや言わねばならない発掘が相次いでいる。


高知県居徳(いとく)遺跡では、どう考えてもそれはいくさの痕跡としか見えない縄文人遺骨に突き刺さったり、傷つけられた武器の痕跡が発見された。しかも複数。


土佐居徳遺跡群サイト



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中橋孝博『倭人への道』P134~135より




やじりなどで傷ついた骨の破片は全部で25個。頭蓋で二箇所、歯が二本、ほかはすべて大たい骨であった。ではそれらが何人分の骨なのかは識別不能な状態だった。だから、それがひとりのもの、ないしは二人の骨だから戦争のような大げさなものじゃなく喧嘩、内輪もめ、あるいは狩猟最中の不幸な事故と考えることも可能である。確かにこの遺跡そのものはゴミ捨て場のような状況で、獣骨と共に散乱してあった。その後の細かい復元の努力で、人骨は全部で10体だと判明。内訳は男性3体、女性6体、不明1体だと判明する。矢傷を負っていたのは、驚くことに男ではなく女だったこともわかったのである。全部で五人?ほどの骨にそれぞれ極めて深い、中にはやじりの貫通した骨があることが推定された。五人の成人男女が入り乱れて大怪我をした、となると単なる喧嘩では収まりがつきそうにない状況ではないか?中には肉厚な筋肉のある太もも付け根近くに、骨まで達する深い傷。何層にも重なった筋肉のある場所に、それを突き通すほどの強い力で・・・つまり思い切り突きたてた槍の跡が・・・。(まだ戦争だったとは結論づけられないとも書いておくが・・・。)

これを発掘し、新聞発表したのは皮肉にも佐原の弟子の考古学者・松井章(奈良文研)だった。
松井は発表前に、まずはすぐに病気入院中の師匠・佐原に相談する。
佐原はしかしこの時すでに死の床にあった。自分ではそれらを検証することはできなくなっていた。自らが定説化した仮説が覆されそうな弟子の新発見に、師匠も当の弟子も、ともに逡巡したことだろう。定説が覆る瞬間の劇的な出来事だった。

佐原は結局、死ぬまで自説は曲げず、その後そのまま逝ってしまう。松井は病室を目を伏せたまま出て行った。その後姿に佐原はこう声を掛けたという。

「あなたがマスコミに発表したことを、自分の論文で証明していくことが、あなたの学問的生命にかかわってきます。がんばってください」





それがどっちの意味だったか、筆者は知らない。
「研究で自分の定説をくつがえせ!」だったのか、「そうすればあなた自身の縄文人の常識を破壊することになり、あなたの学者生命を脅かすだろう」なのかである。
前者だと思いたい。

偉大な考古学の先達は、最後にそれを運命だと思った。そして弟子に自分の考えを覆す=考古学の将来を託したのだと、筆者は信じたい。




このように、考古学は、いや人間はみな、間違った仮説をすることがある。そしてマスコミはそれを大々的に書くことで、学者自身が自説を修正する勇気をためらわせる方向に時流を向かわせてしまう。それは小林もそうだったし、佐原もそうだったし、昨日書いたmtDNA遺伝子学でも同じことである。少ないサンプルで多くを語ってしまう。いや、語りたいわけではなくとも、周囲はそれを世間に喧伝し、彼はもうあとへひけなくなってゆく・・・。

かつて昭和二十年代に脚光を浴びた各地の先土器時代人の遺骨もそうだった。後年、くつがえされ、自殺した賀来先生。mtDNAバイカル湖説の篠原先生、あるいは三ケ日原人を始めとするわれわれ世代が習い、そう信じてきた明石原人・・・すべて今は過去の間違いだったとされていった。今、日本人の原人化石は存在しないことになり、あるのは沖縄の港川人の複数体だけであることが教科書に書かれるのみである。


しかし、それらの先走り理論が、あのねつ造事件の実態と同じ行為だったとは筆者は一切思わない。意図したねつ造ではなく、それだけのサンプルしかなかったのだ。その段階で言えた意見がそれだったのだ。しかしマスコミや文芸春秋などの雑誌や週刊誌はそれらを喧伝した。そして違うとなると今度は全部ねつ造で、考古学など信用できない。科学もそうだ、小保方も抹殺すればよい・・・手のひらを返し、きびすをかえし、かつて大金をかせがせてくれた死者たちの論考を踏みにじった。

森達博の『日本書紀』構造論さえも、やがては覆されそうされるかも知れない。
学者は前に進めなくなる。失敗を恐れ、容易に成果を口にせず、隠密裏にひそかに新理論を頭の中に収めてしまうようになる。学界は停滞する。新発見は減ってしまう。


筆者はこれまできつく彼らを悪く書いてきた。しかし、それは学界の古い体質、徒弟制度へのアイロニーでしかなく、是正して本物の、恣意的ではない、過去の権威の定説をひっくり返すことこそが研究者の正義ではないのか?という疑問のつき付けだった。特に小林の近畿史学界のピラミッド構造には厳しく書いた。もちろん彼の若い頃の古墳研究、装飾古墳分類編年などは、前人未到の賞賛すべき仕事である。しかし、学者として、人間としてではどうだったのかは極めて疑問がある。東大・明大考古学を蔑み、罵声で論考をさえぎったような行為は、とてもフェアプレイだったとは思えない。

そして読者の歴史に対する、権威持ち上げ、追随も極めて嫌いである。マスコミに踊らされ、新発見に飛びつき、すぐに判断を加える。勝手に定説化し、もっと新しい意見に耳を閉じる。常識からなかなか離れられず、過去の定説の虫になったまま・・・。しかし自分にもそういう部分はある。そしていつも愕然とし、眼から鱗を落とされる日々。




学者にもイデオロギーや保身はある。
ロシアの学者や中国・韓国の学者には、国家・自国中心、愛国といった性格が、日本の学者よりも強烈で、白人・西欧先進文化への反発心や、国家の方向性の強い影響、そう言わねば殺されかねない国の主義にも影響される。そういう意味では九州よりも大和のほうがそのような傾向はこれまで強かった。それらはだめである。科学とは言えない。フェアプレイではない。ブラウン博士がV2号や原爆を作ったのと同じ行為である。してはいけない。一般人の小さな犯罪やサギとは次元が違う。歴史学の将来がかかったことだからだ。


大きなことを書いてしまった。わが身とて。いつ魔がさすかわかないのが人間である。


















いないはずの魚類耳石瀬戸内海で

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縄文の瀬戸内海温暖化を裏付け 岡山の貝塚から現在生息しない魚の耳石

 「国史跡の彦崎貝塚(岡山市南区彦崎)で、現在の瀬戸内海には生息せず温暖な海に棲む魚「トウカイハマギギ」の耳石を国内の貝塚で初めて発見したと、岡山市教育委員会が発表した。耳石は魚の頭部の三半規管内で平衡感覚や聴覚をつかさどり、魚によって特徴が異なる。市教委は「トウカイハマギギが捕られていたことは、縄文時代の瀬戸内海が温暖化していたことを裏付ける」と話した。

 今回見つかったのは、トウカイハマギギの耳石2個(大きさ約1センチ)とホンニベの耳石3個(大きさ約2センチ)の計5個。トウカイハマギギの耳石は国内の貝塚では初の発見で、ホンニベの耳石発見は国内の貝塚で2例目という。いずれも現在の瀬戸内海には生息しておらず、東シナ海などの熱帯・亜熱帯の海に生息している。

 市教委は平成15年から彦崎貝塚の発掘調査を始め、奈良文化財研究所と出土品の共同研究を進めている。22年12月にトウカイハマギギの骨約50点を発見。さらに26年12月から縄文前期(約6千年前)の地層を今年4月にかけて調査した結果、魚の耳石120個が発見された。

 耳石は魚の種類によって模様や形、大きさが異なっているため、種類を識別できる。出土した耳石を調べた結果、5個がホンニベとトウカイハマギギのものと特定された。他はスズキなど現在も瀬戸内海に生息する魚の耳石だったという。

 共同研究に参加した耳石研究を専門とする大江文雄・同研究所客員研究員は「耳石から当時の瀬戸内海にホンニベなどがいたことを証明したのはひとつの成果といえる」と言及。市教委は「耳石によってどんな魚を当時の人々が食べていたのかが特定でき、新たな研究分野が確立するのでは」と話した。」





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ハマギギ
海水産のなまずの一種。



写真の耳石(じせき)の大きさから考えて、かなり巨大だったようだ。
この肴はしかし現在では食えない魚とされる。
身がない、骨ばかりだそうな。



瀬戸内海、縄文海進、つまり縄文直前の急速な温暖化の結果、南海の魚介類が相当北上していた証拠。今の温暖化など目じゃないほどの温暖化である。


瀬戸内海からは、まだ海水が入っていなかった時代にはナウマン象が瀬戸内海を歩けていたことがわかっている。ナウマン象の骨が瀬戸内のど真ん中で出るのだ。これは以前書いた。

氷河期の氷がとけはじめて、東シナ海から海水が流れ込み、今の瀬戸内海となった。それほどの温暖化で、温暖というよりはもう地球熱帯化だったと思える。縄文人はそのなりわいの中で、この魚のように食えない部分が多い魚も食べていたのだ。




別記するが、縄文人の身長が明治時代日本人を上回っていたこと、寿命が江戸時代人のほうが短かったこと、あるいは縄文だろうが現代だろうが死亡年齢の最大割合だったのが0歳児であることとからめて、現代がいかに幸福な時代であるについて、れk氏をやると深く考えさせられる。次回そのことについて科学的に。















アイドルの歴史

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なんにだって歴史はある。
アイドルの歴史。

アイドルと言う言葉はぼくが子供頃にはまだなかった。
それはシルヴィ・バルタン「アイドルを探せ」前後から知られるようになった言葉であると思う。アイドルとは直訳すれば「偶像」である。信じ込める対象。溺愛する事物。神仏の像のことを言う。


転じてアメリカ・日本では溺愛すべきタレント。


芸能人にそう言われ始めた最初はアメリカで、フランク・シナトラに対して。続いてエルヴィス、そしてビートルズ。

日本では加山雄三や吉永小百合までは「スター」。
シルヴィ以後、ビートルズ~GSの期間にようやくアイドルという言葉が登場。ピンキーとキラーズ、天地真理で定着、商業化に成功。


筆者世代、つまり日本でアイドルにはじめて出会えた世代の見方では、映画では酒井和歌子あたりからか?次にピンキー、天地真理、シンシア(南沙織)となり、次が山口百恵、最後が松田聖子。ここで一旦アイドルは終わったと見ている。なぜならその前後にフォークからニューミュージック、シンガーソングライター全盛期がはさまるからだ。


そして期間を大幅にあけて、今のアイドルが商業主義に乗っ取って作られた。(おにゃんこクラブはぼくの記憶にほとんど無し。なぜならすでに社会人だった。)


また花の中三トリオやピンクレディ、その後の事象に関しては、ぼくの眼中にはまったくないのであしからず。彼女たちはぼくの世代のアイドルではありえなかった。なぜ?ぼくが年取った。サラリーマンになってしまった。興味が芸能界から遠ざかった。馬鹿馬鹿しくなった・・・などいろいろあるが、清純ではなくなったが最大理由かもしれない。


暇つぶし記事としては、こんなところ。
俺よりわかいもんのご意見無用。そう思った人はコメント許可。わし60歳。



現在のぼくのアイドル?
波瑠です。



ちなみにぼくのアイドル歴は

1酒井和歌子
2ピンキー
3天地真理
4ぼくの分かれた嫁
5娘
6藤原鎌足
7藤原不比等
8持統天皇
9卑弥呼
10ぼく


男性
1ジュリー
2吉田拓郎
3ビートルズ
4エリック・クラプトン
5BBキング
6憂歌団
7大塚まさじ
8ぼく
9プチットイレーネ
⑩! 広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像
⑪水曜日のカンパネラ コムアイ



























食人遺跡

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先日「縄文の戦争」記事にした高知県の居徳遺跡。
実は戦争の痕跡よりも、縄文人の食人痕跡である可能性がある遺跡である。

これは中橋も書いていることで、その確率は非常に高いものがある。

まず遺跡が、獣の骨と人骨が入り混じった「ゴミ箱状」であったこと。
出土した10体の人骨がすべてばらばらで、欠損したところが多いが、それらがどこにあるかが不明。

ばらばら状態というのは、もしこの骨にまだ肉がついていたとすると、それはばらばら殺人の現場状態の散らかり方で、骨の圧痕に、金属器でついたとしか思えない強すぎる痕跡があり、縄文後期の遺骨とは思えない。金属器としか考えられないとすれば縄文後期に、彼らを殺した人々が、なんらかの形で外からやってきた渡来人で、大陸から金属利器を持ち込んだとしか考えられない。あるいはすでにその時期に日本に金属の精製技術があったか?とも考え得るが、ほかにそのような遺物や骨が出ていないので、そうとは決められない。

ただし、持ち込むことがすでにこの時期にあったのなら、国内でそれを作る技術を持った人々だった可能性はないとは言えないだろう。

しかし、そうした遺跡がなぜ北部九州や日本海側山口ではなく、四国の太平洋側で唯一出たかは、まことに不思議である。高知県の縄文以前の遺跡となるとここと、あと一箇所が知られるだけで、大陸から遠い太平洋側に、そんな早い時期から金属文化が入っていたというのは、驚きである。

そうなると、やってきた食人風習を持った民族とは、いったいどこからやってきた連中だったかも気になってくる。

世界で人を食う狩りをしてきたのは、ボルネオなどの南の島に人々であるので、可能性としては海洋民族が来た、そして在来の縄文人小集団に襲い掛かり、食べちゃった?あるいは半島からなら太平洋側はおかしいけれど、関門海峡を抜ければ四国に到達するので、もしかすると?愛媛の石鎚山山麓に上黒岩縄文遺跡という、人骨がまれに見るたくさん出ている大きな遺跡があることだし、そこも追求すべきかも知れない。

いいたくないことではあるが、日本に食人族がいたというのは、古いところでは貝塚研究の明治のパイオニアであったモースが最初に言い出したこともある。



さて?


よそからきた放浪の海洋民族の一過的な事件であったならよいのだが。



なにしろ考古学は何が起こるかわからない。同じような骨がまた見つかることもあるのかも知れない。ちなみに骨は、どう見ても歯でかんだような痕跡も見つかっている。



さらにちなみに、本日のBS映画で大岡昇平『野火』をやっていたわけだが、これは戦時中の日本兵の食人をテーマにしている。食人の歴史は、新しくはあの飛行機墜落事故での出来事があったし、それほど大昔のことだったわけでもない。もちろんそれらは極限状況でのいたしかたないものではあるが、南島では最近まで首狩り食人はざらだった。

居徳でけがを負った骨がほとんどが弱い女性だったことを思えば、なかったとは言えなくなる。

参考 中橋孝博 「倭人の・・・」











自分の顔分析・縄文か弥生か/Kawakatuは縄文・ネアンデルタール系原種顔

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弥生人(下)と縄文人(上)骨格相貌の相違




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縄文人と弥生人の相貌の相違を極端にするとネアンデルタールとクロマニョンの相違になる。



次にぼくの顔と西欧人、モンゴル人の顔を比べてみる。





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ぼくの顔の特徴は、媚線が高く、眼窩が深い縄文顔なのに、鼻線は額部から一旦窪んでまた高くなる弥生的特長を受け継ぐ。西欧人は額からいきなり鼻筋が高くなっているが、モンゴル人朝青龍の鼻線はぼくと同じで一旦低くなっている。典型的日本人の場合、鼻筋はそのまま低いまま続く人が多い。最近は、ぼくのように一旦へこんで高くなるケースが増えている。いやほとんどがそうか?




するとあきらかにぼくの顔は、寒冷化対応した新モンゴロイドよりも、原種に近い古モンゴロイド風であることがわかる。しかし西欧人やネアンデルタールや類人猿と比べると、今度はモンゴロイドに近いことに気がつく。つまりぼくの顔は縄文と弥生の混血した顔で、なぜか依然として縄文系の古い堀の深さを残存していることが明白であろう。つまり歴史的には、ぼくは九州弥生時代の半島渡来人と蝦夷俘囚、あるいはまた南方系古モンゴロイド、海洋民族かインド・ドラビダ系人種の、古い大昔の混血から出てきた太平洋側九州人の顔つきだとなる。


つまり日本人の顔だけから考えればだが、日本人は古系人類と新系人類の混血であることは否定できないことがわかるはず。

あなたの顔も、この二種類の混合の割合がぼくと少し違うだけのことで、同じ日本人である。





死亡率に関する時代別グラフ


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土井ヶ浜と金隈のサンプル分析はなんらかの事情で正確ではない。
それは戦争遺跡だから乳児、嬰児サンプルが少なかったためだろう。

それ以外はあきらかに古代には、未成人の死亡率が高い。






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これも土井ヶ浜と金隈はサンプル不足である。
ほかはすべて嬰児の死亡率が最高であることを示す。
それは明治・大正・昭和になって死亡率が急激に低下した時代でも割合は嬰児の死亡率が最大である。






身長の変化
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古墳時代までの平均身長よりも、中世~近世・明治初期までのほうが低い。
なぜか?封建主義によって抑圧された民衆が見えてくる。
大正時代の伸びは明治からの富国強兵の成果。それでも平均は160センチ(男性)。
昭和以後の急激な伸びは学校給食・牛乳・肉食による。現在日本人男性の平均身長は170センチ強。ぼくはつまり平均的身長である。



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中世から明治時代の日本人は明らかに小さい「倭人」だった(宮崎県西米良歴史資料館蔵)。しかし、縄文~古墳時代人は倭人と呼ばれつつもそれよりも大きかった。
封建時代がいかに手ひどく民衆を搾取、弾圧したかの証拠品である。

だが、そういう背景の中でも、背の高い遺伝子はちゃんと残存し、今に伝わる。180センチ以上の身長の血脈はあきらかに倭人のものではなく大陸由来である。ということは古代の「倭人」が、実は予想外にも縄文や琉球的だったということに気づかされてしまう。目から鱗が落ちるはずだ。




さて、あなたの参考になりましたでしょうか?

わかったことは、日本人はバイカル湖だけでなく、どうしても南方からの来訪者と先土器時代にはもう混血しているということではないかな?その後の縄文時代にもそれは起こり、弥生時代になって扁平顔、胴長単脚の北方系新モンゴロイド渡来人がきた。そして結果として日本人の多くが、古モンゴロイド、縄文、アイヌ、琉球などの共通する彫りの深い要素を隠し持ちながら、圧倒的には扁平顔の寒冷地対応?した新モンゴロイドの特徴を持つことになった。

つまり、ぼくはその中で、かなりの混血をしている。そして過去の家系の顔つきを探っていくと、そもそも海人族の血が強い南方系海洋民だった気配がするのである。
実際に母方祖父は太平洋側漁師の子である。父方祖父は神社祭祀者で武家出身。祖母は武家。さらにぼくの妻だった人は伊豆の漁師の子だが母親は伊豆山間部出身。そのふたりの子どもも、やはりどっちもの血脈をひいて、ぼくよりは扁平となった。面白い淘汰の過程を、ぼく自身がこの目で見ている。



このように自分のルーツは、実はあなたが考えるよりもずっと複雑である。たまたまぼくにそのうちの彫りの深い顔つきの遺伝子が多く持たされただけである。次の世代が誰と婚姻するかで、またその血筋は変形され受け継がれるので、ぼくの孫は扁平顔かも知れない。












遺伝子人類学の仕切りなおし

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先日も書きましたように、中橋先生らのご意見では、先年、いったんはネアンデルタール人はクロマニョン以降の現代人類とは血縁的な関係がなかったというmtDNA遺伝子の結論が、遺伝子の核心と言える核DNA分析で逆転し、まあ下世話な言い方ですが「関係を持っていた」ことが白日の下にさらされたことで、篠田さんによって決定的定説になりかかっていた日本人バイカル湖由来説もみなおさねばならない時代が来たことになります。


つまりどうしても核DNA遺伝子分析のサンプルが蓄積するまで、多分、私たちはあと100年ほどは発掘を待たねばならなくなったということでありましょう。振り出しに戻ったということかも知れません。

でも、それはますます、たったひとつとの解答を求める日本人はるかな旅という、想像力豊かなファンタジーがぼくたちにも戻ってきたということでもあろうかと思います。


母方遺伝子では確かにバイカル湖からの遺伝子は、日本人の大半を占める遺伝子であることには変わりはないことです。しかし、遠隔移動の主流はやはり圧倒的に男性世界の手にありましたから、Y遺伝子の拡がりも考え合わせ、かつ人類学による骨や外見や、民俗学や環境学や植物の植生学などなどによる、諸説がこれからまだ当分はぼくたちを楽しませることだと思います。


ぼくたちもひとつの答えを求めすぎていたと反省すべきだと思えます。

それと、これまで紛争地帯であったシリアのパルミラやダマスカスの、今後の発掘可能な平穏な状況を一刻も早く取り戻したり、モンゴル草原のチャンドマン遺跡など、世界の倭人に酷似する遺骨などの縄文人・弥生人との比較考察が再評価されてゆくべきかも知れません。

パルミラで出た女性人骨は扁平で弥生人女性にそっくりでしたし、チャンドマン遺跡の人骨は縄文人との共通性を示しています。

また、中国最南部の柳江人の部位類似性の多くが日本の縄文人と同じパターンを描くのに、華北人とは格差が或ることなど、外周部からのジャブをぼくたちは楽しむしかないでしょう。


さらには、病理学による、悪性プリオン摂取が起きていた地域が、予想以上に世界に多く、それが食人風習を証明付けるものであることなど、中橋さんの分析は多方面で楽しめます。プリオンとは例の狂牛病の原因でも或る脳みそに含まれるたんぱく質ですが、脳を食べない限りそれが感染するはずのない病気であるために、食人があったことの証明になるものだそうです。羊や牛の脳でももちろんそれは発生しますが、ヒトの脳みそはちゃんと区別できるので、証拠品になります。その病気は、狂牛病の牛と同じで、体が自由に動かせなくなって100%死に至るという恐ろしいものですが、それがヤコブ病とかスクレービー(羊脳みそ摂取の病気)とかの言葉でニュースで流されることがあります。欧州や中国では動物の脳みそを食べる風習は今でもグルメ食として認知されています。これが古代ではかなりの割合で食人によっても感染していたようです。







古代人頭骨比較一覧/明石家さんま風だった河姆渡人

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先に「古代」という語について気になっているので、一言。
文献史学の古代とは飛鳥~奈良~平安前半くらいを言い、上古・中古・下古と分けるが、それ以外の自然科学を含めての「古代学」では、一般に縄文から古墳時代以前までをゆるく古代と考える傾向があり、文献史学の古代にあたるような適当な呼び名が、まだ、そこにはつけられていない気がする。このままではややこしい。では新石器~古墳時代までのまだ文献のない時代をなんと呼ぶべきだろうか?たとえば文献のある時代を「有史時代」、ない時代を「先史時代」とするべきだと感じる。





日本人祖先の頭骨の時代的、地域的、また諸外国人骨との比較は、頭骨画像を総覧するのが一番わかりやすい。


そこで有史以前の頭骨比較を一覧化した。
主たる頭骨画像資料 中橋孝博『』倭人への道 人骨の謎を追って」2015




縄文時代

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本土縄文人の顔つきはさほど地域差がない。琉球同時代人骨と比較すると、頬骨に違いが顕著である。本土縄文人は頬骨が高く、広い。これはアイヌや琉球人と大きく異なる北方系の寒冷化対応であることを示している。東北現代人やモンゴル人に多い形質だろう。つまり縄文時代(旧石器時代も実はそうだが)には、日本列島の南北と中心部で人種的に相違があったことを示している。例えば北方系と南方系というざっくりした言い方や、新モンゴロイド的と古モンゴロイド的という言い方もできる。

しかしその度合いは、のちの弥生人と比べると、非常に微々たる北方系化であり、そのほかはいずれも額部(眉のひさし)が張り出し、眼窩が窪んで、あご骨奥行きが広いなどという欧米人的な顔つきに再現できる。

同時代の中国華北人と比べると、あきらかにその違いが見える。華北人はむしろ弥生日本人にそっくりで顔が長く平坦、縄文人のほうはごつごつとして顔が短い。ところがモンゴル平原の一部で、チャンドマン遺跡のように縄文人に近い彫りの深い骨が出る。彼らはおそらく匈奴やウイグル民族やスキタイなどと呼ばれた、今で言えばウイグル自治区、旧ソ連の西部に集まった「~スタン」という国名を持つ西アジア人祖先とアジア人祖先との混血であろう。日本人ほどではないが、今でも、そこへ行けば実にバラエティー豊かな顔つきが混在する民族である。髪は黒いのに眼は青かったり、金髪だが眼は茶色とか、あるいは日本人そっくりなひらめ顔なのに髪は赤毛とかで、白人と西アジア人と東アジア人がまざりあった人々に出会うことができる。

縄文人が、日本列島に来る前に、すでにあちこちで数万年かけて混血したことはあきらかだろう。その原種のひとつとして今はアイヌが存在する。北海道でさえ、往古は数種類の縄文人がいたことだろう。現在の人類学では東西で区別されアイヌをくえわえると少なくと3種族以上が来ているはずである。


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先日書いたように、縄文人の形質は、多くの点で中国最南海岸部の柳江人とよく似たグラフを描く。これまで柳江人はむしろ沖縄港川人との関係を言われていたが、不思議なことに彼らは目の前にある台湾から北上せずに、大陸海岸部から遠隔北上して、シベリアから本土に向かったのかも知れない。






弥生人

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一番際立っているのは「さんま顔」である。中国長江河口部の河姆渡遺跡人骨は、あごが細く出っ張り、出っ歯。えらが張って、頬から下はげっそり細いという明石屋さんまにそっくり。さんまは奈良県出身だが、もうひとり山口県出身の田村淳も似た顔つき。河姆渡は稲作が出て行った場所とも言われるから、大和地方と土井ヶ浜のある地域の現代人によく似た顔があるのは実に興味深かろう。

さらに同じ福岡圏内の顔が、これほど違うのかとも感じるはずだ。弥生人と一言でいってしまうが、実は微妙なバラエティが或る。一概にこれまで、縄文人と弥生人を安易に比較して、あなたは弥生顔か縄文顔かというざっくりとした区分けが多かったけれど、今後はもっと複雑な地域性を考察すべきサンプルになるだろう。

実際、考古学遺物(甕棺・支石墓・周溝墓などの葬礼風習の相違)やイネの品種の違いが北部九州の東西にある。


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まして南九州まで考えれば、弥生人にもかなりの地域差があることに気がつくだろう。

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同上サイトから




特に南九州弥生人は、頭部が大きく、顔がほっそりと、頭大小顔で北部九州弥生人とまったく違う民族だったことがあきらかである。それほどではないが北部九州人でも、西と東であきらかに違うことがわかると思う。つまり弥生人渡来人もまた複数種の渡来が地域によってあって、さらにそこで現地人と混血すれば、すでに何種類かの組合せができていたわけである。墓制の東西の相違、稲遺伝子の違いは、人骨にまったく矛盾しない。以前書いたと思うが、西側は甕棺墓を中心にして、中国江南人的で、イネにも江南遺伝子があり、縄文人と混血したとされ、東の遠賀川周辺では、南朝鮮的で、イネも中国種はまざらず、縄文人との混血も希少だったのである。



また抜歯風習を見ると

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モンゴルの梁の人と日本海側山口県の土井ヶ浜人にそっくりな抜歯風習があった。







その他諸外国比較。

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上左・グルジアのドマニシ遺跡の例では、同じ遺跡の人間なのに、まったく違う相貌の骨が出ている。どちらかが旅行者だったのか?あるいは侵略者だったのか?はたまた混血度合いの問題なのか?かなりの異例なサンプルである。


上右・ホモ・フロレーシエンスの小さかったことがよくわかる比較。

中・アメリカのケネウイック・マンの頭骨。どれにもあてはまらないような相貌。


下・紛争中のシリアの二つの遺跡から出た人骨は相当に人種的相違があったことがわかる。パルミラからは弥生人そっくりの女性頭骨が。実に不思議。先史時代にそれほどの旅行移動があったのか?あるいは中央アジアで混血して戻ったのか?


シルクロード・ステップルートは人種・異種相貌のパラダイスである。碧緑人とも言われた青い眼のアジア顔の人、西欧人の顔つきの人・・・まことに異界だと言える。彼らが遊牧民スキタイの子孫であろうことは想像に硬くないが、西欧では、人類分岐の地を今でもバルカン半島のアナトリアであると考え、自分たちとよく似た顔つきの異民族に非常に興味を引かれ、主観的に欧州人の祖先をそこに求める傾向は、実はアイヌへの興味、縄文人への興味と共通点を持っている。であるのに、中世、十字軍は勝手に異民族・異教徒である中東を侵略し、略奪して文明を発達させた。この心理的ギャップが東洋人にはわからない。その長い侵略の歴史が、今のISやアルカイダの怨恨としていまだに火種となる。キリスト教徒たちは、まるでそのときの反省であるかのように中東、イスラム文化やオリエント文明の源流を中東・トルコに求めようとする。しかし当の中東人・イスラム教徒たちははるかな過去の怨恨を今も忘れず、西欧の歩み寄りを毛嫌いする。まったくのすれ違い。彼らは忘れていない、ロレンスにだまされたことも。これでは中東に心理的和平は訪れるはずはない。



話がそれてしまった。
日本人は世界の東のはしで、多種多様な文化と人を受け入れ続けた。日本文学研究の権威ドナルド・キーンの言葉を借りるなら、日本人はすべてを受け入れ利用はするがもっと自己の高い文化を世界に広めてゆくべきだった。

それに答えて司馬遼太郎は、日本人は世界の極東にあって、なんでも受け入れ加工するが、自らは奥ゆかしく決して自分が優れた民族などではなく、進んで売り込むことはしない民族だ、と返した。まことにこれまた一方通行の考え方のすれ違いである。似ていることを言っているのに、中身がまったく違う。文系人種の言い回しは、このように確かに具体性にかけるが、ぐさっとそこを突いている。中東と西欧も同じことではないか?











海外先史時代発掘異聞

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海外先史時代人異聞



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○デニソワ人
「デニソワ人(デニソワじん、Denisova hominin)は、ロシア・アルタイ地方のデニソワ(Denisova)洞窟(ロシア、中国、モンゴルの国境に近い地域)に約4万1千年前に住んでいたとされるヒト属の個体および同種のヒト属の人類である。デニソワ洞窟は、アルタイ地方の中心都市バルナウルから約150km南方に位置する。
2010年12月時点の最新研究では、ネアンデルタール人と並んで、我々現生人類であるホモ・サピエンス・サピエンス (Homo sapiens) に最も近い化石人類である。また現生人類の一部(メラネシア人など)と遺伝子情報を部分的に共有する可能性が高いとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%8B%E3%82%BD%E3%83%AF%E4%BA%BA

「第3の人類「デニソワ人」は、アジアでネアンデルタール人や初期の現生人類と共存していたようだ。後の二者は多くの化石や人工物を残している。デニソワ人のものとわかっているのは、小指の骨のかけらと2本の臼歯だけだが、人類史を塗り替える発見となった。」
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/1307/ancestor/family-tree.html

「ネアンデルタール人やデニソワ人はその後絶滅してしまったが、アフリカ土着のネグロイドを除く現在の現生人類遺伝子のうち数%はネアンデルタール人由来である。中東での現生人類祖先とネアンデルタール人との交雑を示す研究成果は2010年5月に発表されているが、2010年12月にアジア内陸部におけるデニソワ人とも現生人類祖先は交雑したとする研究結果が出たことから、この結果が正しければ、過去には異種の人類祖先同士の交雑・共存は通常のことだった可能性が出てきた。
なお、アジア内陸部でデニソワ人と交雑した現生人類祖先は、そののち長い期間をかけてメラネシアなどに南下していったと考えられる[要出典]。また、中国方面に移住したグループは漢民族となり、高地に移住したグループはチベット人となったともされる[7]。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%8B%E3%82%BD%E3%83%AF%E4%BA%BA





○古代都市パルミラ
シリア


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紀元前90年代に女王国家があった遺跡。
その後、3世紀頃に新たにギリシア・ローマ建築にそっくりなオリエント建築が登場し王国が築かれた。地域的に水に大量のフッ素を含むため、虫歯が極めて少ない遺骨が出る反面、古代から現代に至るまで人々は骨粗しょう症や異常骨格、変形骨格、あるいは脆くて茶色く変色した歯に悩まされている。中国漢代記録にシリアに将軍を派遣したとあり、それに帯同した女性らしき弥生人そっくりの扁平な顔つきの頭骨が出土した。




○ネグリート

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黒色人種系の非常に背の低い種族
アフリカのサンのような原種が出アフリカ後に東南アジアやポリネシアン・アボリジニ原種のような人々と交雑したものか?ネグロイドとオーストラロイドをつなぐミッシングリンクの存在。
一時期沖縄の旧石器時代人骨である港川人と骨格概観がよく似ているとして関連が言われたが、遺伝子DNA分析結果では無関係とされている。しかし、骨格の特徴にかなりの類似点もあり、今後の直しも考えうる存在。
 

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○古代カンボジアのアマゾネス?カンボジア・プンスナイ遺跡巨人女性

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 <カンボジア>紀元前後の大規模集落確認 女性が支配者か
11月14日20時13分配信 毎日新聞
  カンボジア学術調査団(団長=安田喜憲・国際日本文化研究センター教授、東京財団主任研究員)は14日、カンボジア北西部のプンスナイ遺跡で、紀元前後に成立した、環状の堀に囲まれた大規模集落を確認したと発表した。これまでベトナムのオケオ文化(5~7世紀)が東南アジアの文明の源流と考えられていたが、それ以前に高度な文化があったとみられ、議論に一石を投じそうだ。
  調査は07年1~3月に実施された。南北3キロ、東西4キロの楕円(だえん)の堀(深さ約1.5メートル)を確認し、その内側5地点を発掘したところ、37個の墓から紀元前1世紀前後の人骨35体や土器167個分相当の土片、青銅1000点、鉄200点、ガラスやこはくなどでできた玉100万個を発見した。
  人骨は、5体が女性で、いずれも体のわきに鉄製の武具があったことから、安田教授は「女性の戦士の人骨で、支配者も女性だった可能性が大きい」と話している。」
http://plaza.rakuten.co.jp/artaxerxes/diary/200711180000/


 「カンボジアのシエムレアプから北西約60キロにある環濠集落跡「プンスナイ遺跡」で、抜歯した女性の頭骨や青銅製の腕輪などが見つかり、東京財団(東京)が14日、発表した。女性の骨は鉄製武器とともに埋葬されており、同財団は「女性戦士」とみている。
  遺跡から出土した土器片は、放射性年代測定で紀元前後から5世紀のものと判明。1999年に発見されたこの遺跡を大規模に発掘するのは初めてという。
  遺跡は、直径約3キロの環濠集落とみられ、財団が今年1-3月に5カ所を調査。計37基の墓跡から35人分の人骨が出土した。
  少なくとも5体が女性で、上あごの側切歯2本を抜歯した頭骨もあった。5体とも剣ややり先などの鉄製品が一緒に埋葬されていた。
  土器片や青銅製の腕輪も多数見つかった。青銅の腕輪は含まれる鉛を分析した結果、中国・華南地方産出の原料で作られたとみられる。」
http://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20071114000383







抜歯風習がここでも見つかっている。
女性は身長が高く、肩章、騎馬、戦闘痕跡がある軍人?かと。
抜歯風習は言霊の封じ込めで倭人風習に同じ。
言霊の封印とは、忌むべき言葉を口に出せば忌み事が現実化してしまうという思想。

また、甕棺風習の発信地はインド南部海岸部からインドシナ海岸部(サーフィン文化)で、ここから北上してアジア海岸部地域の風習。日本へは江南の長江奥地人たが持ち込んだと考えられる。この分布はちょうどアジア・オーストロネシア語の分布に合致してしまうのである。


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地名いび、いぼと安曇族

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いびつ(歪)・・・語源「飯櫃 いひびつ」。楕円形で真円ではない様。おひつの形状から。ゆがんでいる様。正常ではない様。完璧ではない様。
いび(揖斐)・・・岐阜県揖斐川由来。とはいうものの、では肝心の「いび」とは何かが問題。
いびしい(歪しい)・・・いびつで気味が悪い様の瀬戸内(広島・大分など)方言。古語「いびし」から。
いびる・・・古語「焙り焼く」こと。現代語、じりじりといじめる歪なる行為。
いびき・・・歪な音。
いぼ(疣)・・・いびつな吹き出物。
いぼ(揖保)・・・旧地名音「いいぼ」。風土記「粒山」=いいぼやま から。
いぼみず・じんじゃ(疣水神社)・・・大阪府茨木市の神社。安曇の始祖・磯良(いそら)と神功皇后を祭る。疣水とは、醜い疣がこの神社の湧き水でぬぐえば綺麗になるから(本来社伝によれば真逆で、ここの水で疣だらけになったのをここの神が救ったとある)。安曇磯良は筑紫玄界灘の海人族の伝説上の始祖だが、容貌、磯のふじつぼの張り付く、髪は海の藻が垂れ下がる醜悪な姿だったと言う。そこから磯の岩礁の神格化で、歪なる者。ここに「いび」「いぼ」の語源は求めることが可能であろうと、疣水と揖斐・揖保をつなごうとした谷川健一以来の考え方を拡大解釈できそうである。共通するのは岐阜も筑紫も摂津も瀬戸内も安曇系海人族の拠点だったことであり、神功皇后伝承もおそらくそこから作られたであろうことから。

このようにしてランダムに記憶してきた地名が、ある方程式で、ある日突然、ふとつないでくれたりもする。だから、伝聞はおざなりに聞き流してはならないし、著作もおざなりに読んではならない。人間の脳の記憶は、そういう一瞬のスパークを突然可能にする。まるで火花だ。テレビなんぞもそういうひらめきを与えてくれる。火野正平が歴史的興味など一切なく、つまりなんの先入観もなく、しかし積み重ねてきた勘と人生からふと通り過ぎてゆく景色の中に、たまにとんでもないヒント、天啓がやってくることもある。今日、彼が走っていたのは岐阜県揖斐川沿線であった。

ぼんやりテレビ見てちゃだめよ~~~








うつ伏せと仰向け/長頭と絶壁

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乳幼児を、アメリカでは長くうつ伏せに寝かす風習があったが、そのために窒息死が頻繁に起こったために、仰向けに寝かすのがよいとされはじめた過去が或る(中橋)。

一方、日本では久しく子供は仰向けが一般的だったが、そうするとひどい場合は極度の絶壁頭になる子も多かったので、今は、ときどき親が動かしてやるのがよいとされている。

また、横向けにして長く置くと、頭も顔も異常に縦長くなる例がある。このように乳幼児の頭骨は柔らかいのだ。頭部中央に縫合というゆとり部分もあり、まだ伸縮自在である。その後の整形は親の注意いかんにかかってくる。ことほ左様に子どもとは手のかかるものだと知るべしであろう。それが親の心得であって、安易に人任せにしてしまうのも問題がある。

先史時代の頭骨にも、極度の絶壁、あるいは意図的な頭部の変形をさせていた例が見つかる。しかしそういう風習は実は、最近まで先進国にもあったという、フランスでは女性の髪形(ポンパドールなど)が美しく形成できるようにわざと幼児の頃から頭に枷をして、後頭部を長くする風習があった。中世の南米にも似たようなことがあった。

先日、保育所でうつ伏せで寝かした子どもが窒息死する事件が起きた。本日、それの裁判の二審が保育所側に有罪を宣告した。

どのような経緯でうつ伏せに寝かしていたかは筆者はよくは知らない。けれどそれが絶壁を避けるための行為であったならば、過去のアメリカの失敗に対する不勉強であろうし、あずかった子どもを管理して寝かすなら、寝返りができない幼児の場合は、ときおり向きを変えてやる義務があったのではなかろうかとも見えた。

常識は昨今ではどんどん変わっている。長い風習にはいいところもあれば悪いところも或る。どれがいいのかは今後も変わる可能性はないとは言えない。要は、それをする大人が、どこまで定説(コモンセンス)を信じるかの用量である。なんでも信じすぎると問題が生じる。

常識や定説も、また自分の信じる仮説も、ときには修正するための学習を大人も忘れてはなるまい。






骨格変形・頭蓋変形 その理由と時代背景と敗者の考古学

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変形頭蓋(へんけい・ずがい)風習(頭蓋変形 とうがい・へんけい)
「変形の形態はさまざまだが、変形を意図したものと、そうではなく幼少期の揺り篭など伝統的な育て方の問題から変形が生じ、やがてそれが民族集団のトレードマークに変化したものなどがあるとされている。ロシアの研究者によると、後者は中央アジアの遊牧民にあてはまるという。」Wiki頭蓋変形


詳細歴史年代や分布はWiki変形頭蓋で。



凡例

フランスツールーズ型変形頭蓋(19世紀)とインカ型
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北米インディアン式前頭葉変形法と背負い木枠

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ボイスマン遺跡型前頭葉変形頭蓋

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山東省大汶口遺跡式前頭葉変形頭蓋


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広田遺跡(種子島)型後頭部圧迫絶壁変形







その他の地域
フン族(絶壁頭)
イギリス、、スイス、ドイツ、オーストリア、ハンガリーなどのキリスト教浸透以前の古墓(絶壁頭)
ブルターニュ、ノルマンディー、ガスコーニュ地方(後頭部突出)
「新大陸では、チリなどに古い人骨が残っており、紀元前2650年ころからの時期にすでに現れるという。またテキサス南部の絶滅した数部族も19世紀まで行っていた。このほか、メキシコなどメソアメリカでも先古典期中期段階でオアハカ地方やオルメカ文明の彫像で見られ、マヤ文明では一般的な習慣であった。それら変形が加えられた人骨の墳墓では、高度な装飾品など手厚く葬られた様子も見られることから、変形の度合いで社会的地位が決定される面があったのではと推測されている。(インカ型はツールーズ型とほとんど同じやりかたで後頭部が長い。Kawakatu)

南米のものは、チチカカ湖沿岸や南海岸のものが有名で、形態も複数ある。頭を前後に挟んでつぶして細長く頭を伸ばしたものや、逆に左右に幅広くしたものなどもある。スペイン人が征服したころまでその習慣は残っており、一説では20世紀初頭までブラジルのアマゾン地域で見られたという。これらでは、乳児の頭を当て布をした上で2枚の木の板で挿み、上から紐で縛っていたことがスペイン人宣教師の記した記録などに残されている。」Wiki変形頭蓋


参考にすべき著作
このほかの体型、骨格変形風習、纏足などの外見変形については民俗人類学の金関丈夫、川村湊、大林太良、小熊英二らの著作に詳しい。
参考文献一覧と例証、画像出展http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091222/1261491800

その他の画像 中橋孝博。金関丈夫など






○なぜ?
なぜ骨格まで変形させるという異常な風習に各地民族が至ることになったかについては、それぞれの時代的背景によるところが大きい。ツールーズ型・インカ型などは諸説あるが、流行の髪型、スカーフが巻きやすい、宗教的などなど。欧州の場合は多くが頭蓋変形習慣を持っていたフン族の侵入が影響した可能性が高い。その民族はまず民族移動していったケルト・ゲルマン人(ゴート民族)である。騎馬遊牧民に往古から骨格変形や抜歯風習があったのはなぜかは後述する。



○隠棲・隔離・敗者民族特有の自傷区別意識
 先史時代の場合、その多くが隔離された地域に多く、他地域へ逃げ出せないように、あるいは他地域のものと区別を明確にしようとするカルトな集団意識が考えられるのと、あとは呪術的な意味合いである。特に筆者は隔絶意識、狭い世界観のたまものというのが最も気に入っている。その地域が、欧州の場合、ブルターニュのようなフランス語圏において今でも古いケルト時代からのゴート語由来のなまりや古い信仰をながらえた特殊地帯に見つかっているからである。イギリス人の大元になったといわれる彼らケルト民族が、かつて欧州北東部でフン族侵入を受けたことと、フン族の「特殊なゆりかご」によった頭蓋変形(絶壁)風習は深く関係していることだと思う。フン族のような戦闘的騎馬民族がそういう特殊な「他者との外見的区分け」をしていたことは古代民族至上主義的傾向が洋の東西にあることから理解しやすい。

北欧を中心に、信仰でもアジア的な精霊信仰が、ローマ以後のキリスト教をクロスオーバーした冬至祭りが残存し、東欧、スコットランド、ハンガリー、ブルターニュ地方などなどに、点々としてそういうふるい土俗的精霊祭祀が居残り、その地域がまったく先史時代の骨格変形や支石墓や太陽信仰、冬至信仰、大地母女神信仰の地域に合致し、どれもがその国家内で隔離されたような別区的扱いの被差別地帯なのである。隔離されたために、いや進んで外から隔絶したからこそ、古代の風習や言語がかたくなに護られているマニアックな飛び地に、これらの遺跡が出てくるのである。

日本の武士団、朝鮮の花郎、欧州の騎士団などなど、ある種の閉鎖空間には必ずそうしたマニアック・カルトな異常風習による仲間意識の育成は付き物である。現代ではカルト宗教やある種スポーツの内向的意識、大学運動部の長い学ランなどが、これによく似た先史時代的カルト信仰の一種だとなる。これはほかには、現代オタクの一部に「体をきずつけてきる」「眼帯をしてみる」「マスクをする」などなどの通常とは少しだけ「痛い」アイテム使用法にも見ることは可能である。

つまり特殊な集団意識を保つのをルールとする小集団、小民族、隠棲民族、宗教集団、信仰集団などなどには、そうした共通する自傷行為による共同体幻想を好む風習があるのだ。それは他者、平常世界からのあきらかな区別意識がある。そこには通常世界の住人からの差別が先にあり、それに対するアンチテーゼとしての自傷行動が生まれた背景がある。つまり一言で言えば彼らはみな「歴史的な敗者」だったからである。



○敗者ゆえの自己特別視と排他的自意識と平家落人伝説など
日本で考えれば民俗学的にはそこは多くが木地師・塗師集団居住地になることが多い。そして例の貴種流離譚とか平家落人伝説が決まってつきまとう。実際には平家も貴種親王も関係はないのだが、そういう平常世界の人々とは違った特殊性を小集団が持ちたがるのも、上記カルト自傷行為のソフトな一面である。あるいは山窩たちが菊の御紋章をちょうちんに描いて山道を歩いたのも、そういう意味である。つまり通常とは違う生き方を特殊、特別へと勝手にすり替える「過剰な自意識・歪んだ自己主張」なのである。




○ゆとりと許容量なき現代の危険性
最下層に心ならずも置かれてしまった過去=敗北・侵略による追いたてなどがあればこそ、そうした自意識は芽生える。それは孤独で仕事のない現代大都市の若者が過剰な犯罪に至る経緯を、小集団という仲間意識ある人々だったからこそ可能なかわし方、「内なるストラッグル(闘争)」なのだろう。柔らかなる反駁。そしてそうした埒外の内的な横暴を許容してあげられた時代・政治こそがゆとりある平和な時代だったのだろう。そのゆとりが政治から消えたとき、必ず世界は揉め事の渦に巻き込まれ始める。融通の利かない、選択肢のない時代がどんどんやってくる。われわれ戦後の一番平和だった昭和を生きた者にとって、今ほどぎすぎすした、ゆとりのない、許容量の小さくなった世界はないように見える。危険である。




記事がダブっていました。削除しました。


縄文の石焼料理?テーブルも出てます 小牧南遺跡

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四日市の小牧南遺跡、炉中央に謎の丸石 まじない?類例なし
産経新聞 11月26日(木)7時55分配信
 縄文時代の集落跡が見つかっている小牧南遺跡(四日市市小牧町)で、縄文中期(約4千年前)の掘立柱(ほったてばしら)建物3棟と竪穴住居4棟が新たに見つかり、県埋蔵文化財センターが28日に現地説明会を開く。竪穴住居の1棟には石囲い炉が完全な形で残っているが、中央に丸石が置いてあったのがミステリアスだと話題を呼んでいるといい、調査員は「意図的に置かれたようだが類例がない。何かのまじないだろうか」と話す。











三重県四日市市小牧南遺跡
縄文時代中期~鎌倉時代までの長期集落遺跡


二次までの調査成果
 主に3つの時期の集落跡を発見。1つ目は縄文時代中期末、2つ目は古墳時代前期、3つ目は飛鳥時代です。その他、鎌倉時代の遺構も。
 
縄文時代中期(今から 4,000 年前) 掘立柱建物6棟、竪穴住居2棟、その他、食べ物を調理するための集石炉1基、食べ物を貯蔵するための土坑など。遺物は縄文土器や勾玉、石鏃、石 などが出土。
 
古墳時代前期(今から 1,700 年前) 竪穴住居 40 棟がみつかり、遺物は土師器や鉄鏃、砥石が出土。竪穴住居のうち4棟は、床から炭や焼けた土が多くみつかり、火災などによる焼失
住居であることがわかった。
 
飛鳥時代(今から 1,400 年前) 竪穴住居5棟がみつかり、遺物は土師器や須恵器、鉄鏃が出土。
 
鎌倉時代(今から 800 年前) 土坑1基がみつかり、遺物は土師器や山茶椀が出土。
 
           







石囲い炉は直径70センチ。半地下に掘り込んだ円形の竪穴住居(約15平方メートル)の中央付近で見つかった。完全な形で見つかるのは珍しいという。

 炉内には木炭片や焼けた土があり、肉や魚を焼いたり、深鉢を置いて煮炊きをしたりしたと推測、いろりに似た役割が考えられている。炉内からは黒曜石の剥片が10枚以上見つかり、鋭利な打製石器を作っていた様子もうかがえる。

 炉の中央にあった丸石は直径9センチ。煮炊きなどの道具と考えられず、外から偶然入り込んだ可能性も低いという。担当した勝山孝文調査員は、炉は縄文人の生活で最も大事な場所で神が宿っている意識があったと想像し、「別の場所に移るときの後始末として、感謝の儀礼を行った痕跡ではないか」と推測する。

 このほか、縄文時代の狩猟用と考えられる落とし穴や、弥生時代末ごろの竪穴住居21棟も見つかった。

 現地説明会は28日午前10~11時。問い合わせは現地公用携帯(電)080・3677・5932。








今回発見された「丸石」はさほど大きなものではないが、実は以前の調査では、このような大きな平石が見つかっている。これは食卓に使ったのではないかと言われている。



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問題の今回の小さな丸石についてはまだ画像がないので想像するしかないが、研究者の推測するような祭祀道具だったかどうかは、今はなにも言えまい。

煮炊きとは考えられないとあるけれど、焼いた石を水に投げ込み煮炊きする調理法は世界の未開地には存在する。




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