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PCの停止性問題と人間のシャッター現象

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先の記事に停止性問題という用語を持ち出したので、ついでに最近気になるいくつかを書き留めておきたい。


停止性とはパソコン用語のひとつで、みなさん毎日体験しているPCのフリーズとか、重くなる現象の要因のひとつであるらしい。

計算可能性理論において停止(性)問題(ていしせいもんだい・ていしもんだい、halting problem)は、あるチューリング機械(≒コンピュータプログラムアルゴリズム)が、そのテープのある初期状態(≒入力)に対し、有限時間で停止するか、という問題。アラン・チューリングが1936年、停止性問題を解くチューリング機械が存在しない事をある種の対角線論法のようにして証明した。すなわち、そのようなチューリング機械の存在を仮定すると「自身が停止すると判定したならば無限ループを行い、停止しないと判定したならば停止する」ような別のチューリング機械が構成でき、矛盾となる。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%9C%E6%AD%A2%E6%80%A7%E5%95%8F%E9%A1%8C


ちょっと違うのかも知れないが、ロボット三原則でも似たようなことが起こると書かれている。つまり機械にインプットされた理路整然とした現象と、あきらかに矛盾するものに出くわすと、機械はその矛盾を乗り越えようとするように仕組まれているので、しばらく「長考」に入ってしまうらしい。

これと似ているのはベトナム戦争時のベトナム兵によく起こった「シャッター現象」ではなかろうか?いや、シャッター現象のほうはまったく本人に回復の意思がないから違うかも知れない。停戦状態でベトナム兵は完全休養するために思考回路を「休め」にしてしまうわけだが、そういうときに「あれをしろ、これをしろ」といくらわめいても彼らはもうまったく微動だにしない。また、その人の思考のレベルを超えた出来事に出会うと人間は入り口のシャッターを下ろしてしまったように無反応になる・・・だからシャッター現象である。戦略で言えば腹案がABCあったとする。最初はAで実行していてもケースバイケースでBに変更は理解できる。しかし民間兵であるベトナム兵は教育度も高くないので、AとBを複合したD案を将校が命令すると理解不能に陥って動かなくなったというのである。

カメラによく起こるローリング・シャッター現象とはまた別である。

PCには回復機能がある。しかしそういうときにそれが助けになることはあまりない気もする。

ロボット三原則をロボットを人間に置き換えても通用すると聞く。

アシモフのロボット工学三原則


•第一条
ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
•第二条
ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
•第三条
ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
— 2058年の「ロボット工学ハンドブック」第56版 、『われはロボット』より[1]。

もちろんこれはSFの中のお話であるが、この中のロボットを人間に置き換えてみるといい。あるいは「奴隷」とか「奴婢」としても通用する。


そうすると第一条と第三条にはあきらかな矛盾が存在することに気がつくはずだ。危害を人間に加えられない、しかし自分に危害を加えようとするのが人間だったらロボットはどうするのか?

そういうときこそロボットは停止性で対処するんだろう。そうでないと自己矛盾でパニックになるか、自分自身を破壊し始めるかも知れない。


しかし、人間は停止などしない。ベトナム兵の停止現象は、自分の理解度をはるかに超えたときに作動する。しかしこれは幼少時からの学習やたたきこみで修正可能である。だが人間はそういうパニックになったとき、往々にして停止よりも相手を殺すほうを選んでしまう生き物である。なぜなら人間には感情があるからだ。

もしベトナム兵のそういう現象が、現代のわれわれに起こるといろいろ困ることが起こるだろう。今問題になっているバスの運転手が、走行中、突然運転がいやになって目を閉じ、ハンドルを放してしまったとしたら・・・。通勤中に嫌になって電車の中で立ち往生したり、自転車通学の高校生がペダルを踏みたくなくなり坂道を転げ降りたり・・・。


それがベッドの中で起こったなら実害はない。ただ学校や会社に行かないだけ。もう動かない。そんなやつなら山ほどいる。

一番困るのは、わざとシャッターガラガラ閉店するのがはやる事。十分ありうる現象である。猫も杓子も通勤したくないからってんで経済が動かなくなったりして。


古代の民衆はどうだっただろう?
ベトナム兵以上に知識や教養を持っていなかっただろう彼らも、そういう活動停止があったのだろうか?考えてみれば、新石器時代が来る前は氷河期である。いったいどうやって生き残ってきたのか?動物のように冬眠できたはずもない。火を手にするまでの人類は、いかにして寒気や氷河期を乗り越えたのか?

生物学的には人類は、何度も何度も絶滅しながら、亜種を生み出しながら継続したはずだ。しかし現在のホモ・サピエンスには亜種が存在しない。生き残っていないのである。残っているのは近縁種である大元のご先祖のサル類だけ。ヒト科ではチンパンジーやゴリラやオランウータンだけである。しかしそれらは亜種ではなくもっと上の区分である亜目とかである。

亜種がいないということは、過去の歴史上あった人種差別には、なんの科学的な根拠がないということだ。アフリカ人もアジア人も人類の亜種ではない。しかしいまだに人類は人種を差別する。そこでまた思いつくのが往古のキリスト教科学である天動説である。

天動説にもちゃんと科学的な解説がいくつも出されてきた。それを証明するためにさまざまの理論や数字さえある。しかし大前提でそれらは全部お笑いものであり、キリスト教がいかにおばかな「天体差別観」を維持しようとしたかの証拠品でしかない。

つまり彼らはどうしても地球が宇宙の中心であるとしたかった。それは彼らがやはりやってきた異教徒や意人種への差別と同じ意識から生まれているわけである。

キリスト教徒たちは太陽が地球を中心に回る恒星のひとつだと思っていた。すると四季の切り替わりの月日に矛盾が出てしまう。そこで恒星の軌道が真円でなく、偏っているからだとか、火星の場合などは軌道上を行って帰って螺旋を描くのだと、まあ、いろいろなこじつけで筋を通そうとしている。そしてコペルニクスやガリレヲによる地動説に何も矛盾がないことをこのあいだまで認めなかった。こういうことだから知識や教養を与えられなかった民衆は、それに準じるしかなかった。ということはそのまま民衆の地位の上昇も、旧態依然のキリスト教社会では絶対におこりえなかったのである。

それはまったく思考のシャッター現象であり、停止性なのである。

何がそれを変えたか?貴族社会から出た新しい科学者だった。それしかなかった。

それとそっくりだったのがキリストや釈迦やマホメッドである。聖徳太子もそういう聖者のイメージで創作されている。上流社会が自らそういう正邪を逆転するしか手はなかったのが古代である。だから当初は弾圧され、死刑になったり、監禁されることになる。固定観念の払拭、新しい論理や信仰の布教とは、そういうことである。生死をかけるか、思考停止するか・・・人間にはそれしかない。

あがらうか、したがうか。まつろうかまつろわぬかである。

天動説で人間を考えれば、自分が中心で、他人は周囲をめぐる脇役であるとなるだろう。しかしそうすると、ひとりひとりがそう考えてしまえばもう太陽系だらけの世界になって、あちこちで勝手に駒が回り始め、混沌にならざるを得ない。人間世界は消滅することになる。反対にあのヒトを中心に回っていてぼくは脇役だと考えれば今度はいじめの対象にされてしまいかねない。そうではなく中心には不動の何かがなければならないと考えてみる。するとそれは人間を動かす正しい論理だと気がつく。

つまり法である。

あとはその法に破綻部分があったとき、それを修正する能力である。




日本史でアマテラスが太陽ならば、それはもちろん天皇家と国家にとっての地動説的な法だったわけだろう。しかしその時代、実は中国にも新羅にも女帝が登場しているという不思議がある。つまりアマテラスは世界の絶対神ではなかったことになる。太陽があっちにもこっちにもあるというのは広い広い宇宙の話であって、そのころにそんな知識はない。アジア世界で、記紀ができあがったころに、太陽ともいうべき女帝が三人も同時に生まれるなど、そうそうある話ではない。どれかは虚像の太陽だったのではないかと思うほうがよかろう?

































革命  誤解されている用語集解説と再認識シリーズ

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革命
この言葉についてはWikiは使わない。なぜなら日本における革命とは下記にあるように、中国の「湯武命を革(あらた)め、天に順(したが)いて人に応ず」から作られた言葉で、明治期に西洋のrevolutionに革命という言葉が便宜上与えられた。しかしWiki「革命」は、まず西洋語であるrevolutionから解説してあるので、正しい解説としてふさわしくないからである。

「一般的な意味においては,統治体制が急激かつ根底的に変革されること。通常は超法規的に進行し,しばしば武装した大衆,あるいは軍隊の一部による実力の行使を伴う。「革命」の語は,元来は中国古来の易姓革命から出たもので,天の命が革 (あらた) まり,王朝が交代することを意味したが,この語がレボルーション revolutionの訳語にあてられ,現在にいたっている。 」
ことバンクよりhttps://kotobank.jp/word/%E9%9D%A9%E5%91%BD-43816


「《「易経」革卦の「湯武命を革(あらた)め、天に順(したが)いて人に応ず」から》
1古代中国で、天命が改まり、王朝の変わること。
2 陰陽道(おんようどう)で、辛酉(しんゆう)の年のこと。争乱が多いとされて、改元などが行われた。→三革
3被支配階級が時の支配階級を倒して政治権力を握り、政治・経済・社会体制を根本的に変革すること。フランス革命・ロシア革命など。」
4物事が急激に発展・変革すること。「産業革命」「流通革命」
ことバンクより順位を変えて
https://kotobank.jp/word/%E9%9D%A9%E5%91%BD-43816

そもそも革命とは中国で政権が交代することを言う。
最初からどんぱち、殺戮があってという意味ではない。
日本でも単なる天皇の交代用語である。

しかし、史書では、これを大げさに描くという不問律があって、これを以前書いた「治乱興亡史観」という。治まる世と争乱の世が繰り返したというドラマチック史観である。要するに史書作成上の、それがノウハウでありマニュアルだったわけである。

東アジア史書では、多くは辛酉年に起こるとしてある。これは逆に考えれば「辛酉年だったとしてある」という逆転の解釈になり、史書とは最初から編者の恣意的な意向に左右された書物という見方である。

現代人にとって「革命」とは、第一理解はゲバラや中国共産党のような激しい戦闘ののちに手にした血の変革という印象が非常に強いだろう。それはしかし西欧の史学の捉え方で近代の考え方で、往古、本来は、そのように淡々とした約束事だったに過ぎない。大げさに書けばそれだけその王が天命によって立った聖人というイメージが高まる。ということになる。

革命とはだから大きな変化、価値観や政治の転覆に転用されることになる。明治期まで、日本人は多くの専門用語を西欧に頼った。その翻訳の多くは福沢諭吉のような英語の話せるインテリに任された。そうした中で革命という言葉もまずはそれまでの史観を払拭した西欧史観の解釈で始まってしまった。東アジアを低く置き、西欧こそが最高の文化とみた明治維新以後の、それは弊害である。そこはこれからもっとわれわれも見直しておくべくきだろうと思う。



穴掘り考古学  誤解されている用語集解説と再認識シリーズ2

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穴掘り考古学

まともな考古学ファンなら聞いたことがない言葉だと思う。
矛盾した言葉であるが、筆者が昨年、とある自称研究者からはじめて聞かされて、耳にたこができた言葉である。



なにが矛盾するか?
考古学とは穴を掘るものだからである。



つまりこの言葉を乱発したこの研究者にとって、「穴掘り」に侮蔑をこめたい意向が垣間見える。



彼の研究志向では、「考古学は信用しない」がある。と自分で申されていたから間違いあるまい。


だが考古学という科学的な学問が実はその対象ではなく、彼にとってはおそらく「考古学者の解釈」が気に入らないのであろう。


発掘の結果はただの客観的事象のひとつに過ぎない。それをどう解釈するかに人間のいろいろな考え方が影響する。それが気に入らないらしい。それはそれで正しい。筆者もそう思う。しかし発掘を穴掘りとさげずむ意味はわからない。発掘結果という客観的な「事物」=モノに対して、それは最初から「嫌いだ」という先入観を与えただけの身勝手な捉え方に過ぎない。


この際はっきり言わねばならないことは、そんな人間に歴史の深淵がのぞけるはずがないということだけである。



穴を掘り、そこから結果が得られた。それだけでもわれわれ研究者・好事家には素晴らしいアイデアをもたらしてくれる。がんばれ!考古学。










追悼・上田正昭先生

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天皇に歴史を教え、韓国から勲章をもらった稀有な学者。
相貌には似合わずおだやかな持論。

合掌





気分転換クイズ あなたはまともな日本人?

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下の図からおおむね正しいと思われる日本地図を選びなさい。

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答え  番




では、間違っている地図は、それぞれ、どこが違っていますか?










日本人でなくとも誰でもわかる問題。
答えられましたか?
ならばあなたの脳みそは今のところはまともです。
ときどきここをあけてみて「まだ自分はまともかな~~?」と確認してください。
もし、間違えるようになったら、そのときがあなたの老化の始まりです。

若いのに答えられなかった人は、きっと学力不足か、義務教育の学校に行けなかったか、そうでなければ立派なおばかでしょうか?もしかすると江戸時代の人かも知れません。

ついでに、あなたのお住まいの、または出身都道府県、ちゃんと指差せますか?
指差せないとしたら、あなたは地理感覚が壊れているか、宇宙人か、脳梗塞か、指がないかのどれかでしょうか?


また、このページで笑えた人はまだ大丈夫です。「ふん、ばかばかしい」と感じた人はそういう人です。


ほんとにたまにここを開いて確かめてくださいね。現代人はいつのまにかおかしくなりますから。










四国がオーストラリアに置き換えられた日本地図は、実際に、フジテレビ番組で使われてしまったいわくつきの地図です。


最近、ぼくの民族学伝承ひろいあげ辞典画像をお使いになられたいと某テレビ局がアクセスされましたが、ぼくは丁寧にお断りしました。なぜならその画像はある学者の著作から引用し切り取ったものだったからです。ちゃんとお断りしたということは、つまりぼくはまだまともな人間らしいです。そしてその画像を使わなかったテレビ局もまともだということになりますね。

テレビっていうのはどんなメディアよりも多くに人の耳目を集められるものですから、製作するにはそれだけ多大な慎重さがいるわけです。怖い道具です。あっというまに大量に、日本中に、真実もうそも風評も一括に送信することができてしまう。ブログなどがいくら多くの来訪者があったところで、テレビやユーチューブなどの影響力にはとてもかないません。画像やブログの名前がもしテレビに出たりしますと、著作者本人にはとても迷惑になる可能性があるだけでなく、このブログにそういう使い方を指摘されかねず、結果的に使ったテレビ局の製作者にもいくらかの糾弾が及びかねません。むかし「あるある大辞典」のような番組がうそを言ってしまい番組がつぶれたというような事件もありました。

そういうわけで、ぼくは自分のブログの文章の使用や、僕自身が現場で撮影した画像なら断る理由はありませんが、引用した記事や画像はちゃんと大元に許可をもらってくれるようにお勧めします。このブログは元記事、原点をちゃんと読者に読んでいただくために作っている作品紹介ブログでもあります。










ディベロップメントとエラボレーション・道具の進化論

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ディベロップメント(development)
 
1 発展。進展。
2 土地や住宅などの開発、造成。
3 ソフトウエアなどの開発、製作。

考古学、人間行動論理で機能的発達のこと。

松木武彦によれば、石器や土器や利器など、太古・古代人の道具の進化は、まず最初は個人的な機能を重視したところから始まるという。                                              

道具は使う者にとって使いやすさという機能の追及に始まり、そこにはまだ社会性はない。



エラボレーション (elaboration)

1入念に作られること
2精巧・綿密に作られること
3推敲・詳細・労作
4凝った作り
5生理同化

松木はこれを、認知的誘因性付加とする。
簡単に言えば社会性が加わった巧みな仕上げである。
他者との交換によるデザインの意識化、自己主張ということになる。
いわゆる人類進化上で、自意識・・・シグナリング・マーキングとして作品にきわだった個性が加えられはじめた。その転換の画期は、その地域によそから別の集団、部族がやってくることから始まるというのである。

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尋常でない凝った意匠の尖頭器・http://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/201011030000/




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最古の石器?ケニヤのトゥルカナ湖付 330万年前!ホモサピエンス登場の270万年前、アウストラロピテクスがすでに石器を!?http://karapaia.livedoor.biz/archives/52191132.html






人類学でエラボレーション性が加味された石器がはじめて登場するのはなんと約40万年前。ホモ・ハイデルベルゲンシス(ネアンデルタール人の祖先)が作った精製握斧(せいせい・あくふ)で初見され、ホモ・サピエンスの後半期に飛躍的に発展した(安斎正人『考古学がいま語れること 日本人とは何か』2010)。



すべての人工物の進化を、松木はこの二つの用語で解説した。
特に旧石器人の道具へのこだわりが始まる時期、それは環境としては小寒冷期が始まって少し経った頃、北から南下してきた人々の出会いや緊張を契機として、それまで個人や集団内部だけで使われたり、はやってきた石器斧や鏃や包丁のデザインは、まだ個人的な機能を追及するだけでよかったが、他者との相克・軋轢、時には戦いが起こると、よりいっそうの使い安さ、鋭利であることが重要になる。さらに、集団同士が争いを乗り越えて物々交換が始まると、今度はこの石器はなになに族の誰が作った(ブランド化)が重視され始める。そこで必然的にデザインへの懲りが生まれたというわけである。

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上下画像ともに南ア・ブロンボス洞窟のスティルベイ型尖頭器 7万5千年前 すでに尖頭器に凝りが見える。色彩の使い分けも?それとも素材へのこだわりか?


縄文の火焔土器の、あの使いにくい複雑な凝りに凝った意匠も、そういう気候変動による新たな種族の出会いが契機であろう。気象環境がいかに人を変えるかである。そこから社会性、交流、戦争、文化・・・すべての社会事象・行動が変化した。

石器は可視性を一気に向上させ、製作者自身をデザイナーへと変身させた。それは一時的な温暖化を迎えた頃には一大ブーム、エボリューションヲ引き起こす。デザインはどんどん過剰になる。行き着いたのが小温暖期の甲信越地域で爆発した火焔土器であるとなる。


石器だけで言えば、打製から磨製へ。左右対称美の追求。機能美の追求。素材の遠隔地への遠征による入手とそれによる交流。黒曜石、白曜石、ヒスイなどの登場が起こる。石材と交換することによって違う情報も触れ合う。つまり交易が開始される。

さらに女性的概念であるはずの顔料による色彩が道具に付加され始める。最初男性は素材そのものの色をそのまま使っていたのが、色を作り出して塗るようになる。色彩のある素材は猿人がすでにオーカー(酸化鉄)素材として黄色や赤の粘土質の石などを使っているが、そこにホモサピエンスのようなエラボレーションの意識があったかどうかはまだ証明できていない。

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南ア・ブロンボス洞窟の最古のデザイン?オーカー片 7万7000年前。
ラスコー壁画が3万5000年前。果たしてデザインなのか、単なる児戯か?判断は難しい。素材は黄色酸化鉄を含む粘土石。http://www.nararika.com/butsuri/news/020111moyou.htm



色彩は常識では、当初は人類は白黒にしか興味がない(9万年前のイスラエル・カフゼー洞窟発見の酸化鉄着色があるが、ネアンデルタール以前の人類のもので、本当に意識した着色かどうかは不明。画像もない。またネアンデルタール人の遺骨に赤色オーカー粉末がかけられていたが、これはネアンデルタール人内の進化であってホモサピエンスの進化とは別)。それは色彩というよりも明暗による対象物の陰影であり、くっきりとした違いを表現する色である。白黒の対照が道具をより美しく、どこに巧み、苦労があるかがわかりやすくなる。黒曜石やヒスイは、だから黒一色をいかに削って白を際立たせるかや、最初からマーブル状に白が混ざるものが貴重品になっていく。

次に血の色である赤が採用される。生命力の色である。
さらに植物の繰り返す再生を表す緑色(黄色)が加わる。

やがて貝から取れる紫。ピンクへ。
空の色である青は遅いようだ。ラスコー壁画に青や緑が使われていないことについて、青は人類にとってもっとも疎遠な色だったという意見もある。しかしそれは空を見上げればいつもそこにあり、遅かったのは自然界に青や緑を抽出できる天然素材が少ないせいであろう。

東北の縄文時代の列石や墓やサークルに緑色が多いのは、近くに緑泥質の岩場があったからであるが、総じて縄文人には緑色にあこがれる性向があったようだ。それは時代を通じて各地で共通し、なぜか弥生、古墳から中世・近世までも墓や石碑に緑泥片岩や青石は使われ続ける。弥生時代に墓に赤を塗る風習が西から広まってもそれは継続する。もちろん環状列石の縄文人にも朱を塗る風習がなかったわけではない。それは再生の色だからだ。ただしそれは弥生のような水銀朱ではなく、ベンガラなどの酸化鉄顔料を使っていることが多い。

        
酸化鉄にはいろいろな生成過程がある。そもそも酸化鉄とは地球史において大量の水が地球自身の成分に含まれていた水分の流出によって水が生まれ、地球鳴動のさなかに高温で蒸散した酸素が作られた大イベントで作り出された鉄(酸化鉄・水酸化鉄など)を大量に含む土壌。水がなければ鉄は生まれなかった。「岩石(ケイ酸塩と金属)主体の塵(ダスト)から微惑星がつくられているので、地球も岩石とガスでできていた。」「微惑星が原始地球に衝突するとその衝撃で加熱され、微惑星や原始地球の鉱物の内部に取り込んでいたH2Oをはじめとする揮発成分(気体になりやすい成分)が吐き出される(脱ガスする)ことになる。そのときの組成はどのようなものであろうか。ここでマグマオーシャンが大きな役割を果たすことになる。」


オーカーは酸化鉄。リモナイト(褐鉄鉱)、ヘモナイト(赤鉄鉱)、磁鉄鉱(マグネタイト)、 ウスタイト、磁赤鉄鉱(マグヘマイト)などがある。


次回、色彩についてもっと。



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おまけ・日本の女子高生が書いた日本地図のショック

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大丈夫なのか?日本の将来・・・

さかさまに持っている??
本州はどこに?ちさ!!
四国が九州より大きい?
そのくせ、小島が三つある?大きいのはもしかすると淡路島か?
でも場所が北海道と本州?の間。
こいつ関西人やな。



杉作、日本の将来は暗い。暗いぞ!!杉作!!





城と郭

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ヨーロッパ、中国などの大陸では、都市を囲む城壁(郭)と、戦闘拠点の城砦(城塞、城館)とを区別する。しかし日本の、中世~江戸期の城には郭はなく、代わりに壕がある。

城とは東アジアではそもそもが城と郭を併せ持つ。
万里の長城は郭であるが、防衛上城の機能も持っているので長城である。

郭とは周囲を囲む壁である。
古代の倭の墓室について魏志は、棺はあるが郭はないと書き記した。
この場合の郭も、棺の周囲を取り囲む壁を言う。

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かつての都・京都平安京は周囲を山々という城壁に囲まれていたので、これを「やましろ」と桓武天皇が名づけた。この「やましろ」とは山という郭に囲まれた城という意味になる。


自然の要害を持ち、さらに周囲を海に囲まれていた日本では、これまでまったく城郭という、周辺諸国からの脅威に対する防衛観念がなかったということだろう。そこには専守防衛どころか、大陸的戦闘概念も防衛概念もまったくほかとは違う「城」への思いがある。


日本では往古から「城」とは「柵」である。柵条を設けて外敵から一族を守るためにある。


「しろ」とはかつての京都を山背と表記したように、背後を囲むものがあるという意味だが、そもそも「しろ」とは「代」で、「よりしろ」である。頼るべきもの。現代で「のりしろ」という言葉が残っているが、これも周囲を囲む余白という意味で、郭のことである。つまり城とはそもそも郭に囲まれた居住空間になる。その「代」とはつまりは「囲まれた」ものという概念になる。だからある期間のことを「時代」と呼ぶ。ある時間と時間に囲まれた一定の時間枠。つまり時の「区」である。












緑を青いという日本人・古代と近代の混在

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青旗(あをはた)の木幡(こはた)の上をかよふとは
                              目には見れども直(ただ)に逢はぬかも


万・巻二(一四八)近江天皇

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日本人は自然に対して非常に細やかな表現の語彙であふれる世界に生きている。にもかかわらず、日本人の古い和歌や俳句で「青」という言葉になかなか出会えない。『日本書紀』の人名に飯豊青皇女があるけれど、短歌では寡聞にして上記引用した一首くらいしか自分には思い浮かばなかった。短歌では青を「藍 あい」としてあるものはかなり見られる。しかし実際に見る藍色は群青色で深く、いわゆる一般が思う青とはかなり違う色である。むしろ紺に相当する。ただし藍色も水で薄まると青に見える。「あお」は[O]で終わり、「あい」はより情緒性のある[i]で終わるからかも知れない。形容詞がおしなべて「い」で終わるのはそういうことかも知れない。よみあげる芸術である短歌・吟遊詩では、そのほうが詩的に聞こえるからか?

民俗誌では「あお」は墓地、聖地であり中国でも「青山 せいざん」にはそうした意味がある。日本の「あおやま」地名は往々にして墓場である。そのために、和歌であまり詠われないのかも知れない。碧緑(へきりょく)などという言葉もあるが漢語であり大和言葉ではない。しかし一方で「みどりご」「みどりの黒髪」などという美的な生命力語彙にも使う。

現代日本で信号機の三色の色を「あか・あお・きいろ」というのは慣用句ともなっているが、ちょっと前まで「あお」はあきらかに緑色だった。今は緑と青の中間色の信号機が多くなった。筆者が子供のころ、大人たちは木々の緑を「あおい」と表現する人が多かった。しかし今の若者は緑色は緑とおそらくはっきり言うのではないだろうか?

美術で往古の日本人は青~黄色の色彩を一括して黒としており、やがて青・緑・黄を「あお」と表現するようになったという。青や緑は陰影によって深くも浅くもなるし、緑青や銅板なども酸化して青~緑色の緑青を吹く。装飾古墳の色を今見ると、黒く見えるところは、実は本来深い緑や紺だったとい解説を読んだことがある。日本人は色に対して、意外にあいまいな表現をする。その一方で、色を扱う職人の世界では、驚くほどの微妙な色の名前を使い分けるのである。

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アメリカの人類学者ブレント・バーリンとポール・ケイの共著『色彩基本語―その普遍性と進化―』1969 では、世界の98言語の色彩言語を検討しているが、そこから二人は「いかなる言語にも2から11の色彩基本語が存在し、それらは七つの段階を経て進化した」という仮説が立てられている。さらに「六つ以上の色彩基本語が見出される社会では「緑」と「青」はかならず分化しているとも書いている。すると一般日本人の色彩表現は、実は世界では古代社会のままかも知れないなと思ってしまうのである。ある一方では世界に例のないほどに色を使い分けている職人がいるのに、一般人は青も緑も「あお」でひとくくりにしてしまっているわけなのだから。

「あおあおとした木々の緑」という、外国人が聞いたら聞きなおしてしまう表現を持っているのが日本人である。

カリフォルニア大学バークレー校大学院セミナーの調査では基本色彩とは黒・白・赤・緑・黄・青・茶・灰・紫・橙・桃の11色だとしてある。その進化の順番はまず白、黒であり次に赤、緑~黄は第三~第四段階に加わる。そして第五段階でようやく青が認知され、その後茶、紫、桃、橙、灰が加わったとしてある。もっとも調査した人々は全員アメリカ人でロサンジェルス在住者という偏ったところもあって一概に世界中がとはいえないかも知れないが、現在この結果は神経学、心理学、美術史など幅広く応用されているのでかなり学会の常識への影響力がある。

間違いがないと思われるのは白・黒・赤の順番である。
少女時代から失明し、手術で直った女性から医師や人類学者が聞き取った色の認知の順番では、数十年ぶりに最初に目を開いた彼女は「(世界が)白いわ」=明るいと第一声。つぎに赤や緑に対して黒ではないかと答え、数日後に赤いを認識したという。

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白とはこのように、光の色であり、明るいこと、まばゆいことを意味する色である(マーシャル・サーリンズ『色彩と文化』1976)。そして目の弱い者には、黒は濃い色のすべてがそう見えるようである。これはつまりコントラストの認知であり、そのまま人類の色への認知の進化に相当するだろう。コントラストはまず対象物のシェイプを認知したときの第一印象ということになる。あらゆる生物は、事物の形状を白と黒のコントラストでまず認識しているのであろう。それは人類以外の動物の多くが白黒世界しか見ていないという生物学の判断に合致する。

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アルゼンチン サンタ・クルス州クエバ・デ・ラス・マノス洞窟手形



そしてあの明るくまばゆい物の中で次に認知されるのが赤だ。赤には民族誌の分析では生命、血のイメージがあるのと同時に、間逆の死のイメージももたれている。仏壇の金糸の布は赤と金であや錦のような模様があるが、それには死のにおいが感じられる。また赤は多くの世界で女性、不浄、左手のイメージが、白や黒には男性、神聖、右手の意味が多く持たされているという。ヴィクター・ターナーは北西ザンビアのンデンブ族では、白・赤・黒は「力の源=神に関する共通色」だと言う(『儀礼の過程』1976)。民俗分類学研究のパイオニアであるハロルド・コンクリンはフィリピンのハヌノー社会における四つの色彩語彙は、明るさ、暗さ、湿り具合によって分類され、その分類は西欧の分類基準とは異なると書いている。
この三色は一種の初源的分類、要するに人類が最初に認知した色彩であるというのがいまや定説である。

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およそ原始的生活をいまだ続ける社会において、色彩はその認知している色数こそ少ないが、この三色を基本にした分類方法で、ありとあらゆるものを区分けしているようだ。おそらくそれは日本の古代人もそうだっただろう。それは新たに認知した色彩についても、当初はこの三色によって整理されてきたということでもある。すると青や緑や群青や藍はおしなべて黒っぽい色で黒になるわけであり、オレンジやピンクや小豆色はみな赤になるし、まぶしい色はみな白で済ませていただろうと想像できる。

とうことは日本人がついこの間まで緑の木々をあおと言っていた区分方法は部族社会的な時代感覚が残存してきたということになりそうである。要するに日本の社会には、まだ非常に多くの古代的な、事物、事象への認識・認識の枠組みが残存したままだということに気づくのである。それは言い換えればあいまいさであり、ウエットであり、主観性であり、ヘテラルキーであり、いまだディベロップメント(デザインよりも機能重視)のままであることになるだろう。ということは他者を意識しないですむ社会が日本人社会だということになる。それが原住民的な社会なのである。そういう民間人と、一方で極端にエラボレーション(過剰意匠)の民間人が混在する不思議な世界が日本である。

それは古代と近代の同居だと言ってもいいだろう。







青にまつわる言葉コレクション

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あを 
日本。古語。あお
黄ばんだ萌黄色。黄緑色。浅萌色。
天皇の常用服の色で禁色。
例外、天皇から許され下賜された六位蔵人の晴れ着。(「源氏物語」)


ラピスラズリ 瑠璃 るり
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「ラピスはラテン語で「石」 (Lapis)、ラズリはトルキスタンにあるペルシア語地名 "lazhward"(ペルシア語: لاژورد‎、現在のアフガニスタン・イスラム共和国バダフシャーン州en:Kuran wa Munjan DistrictにあるSar-i Sang鉱山の古名)が起源で、それがアラビア語に入って "lazward"(アラビア語: لازورد‎、ラズワルド: 天・空・青などの意でアジュールの語源)で「群青の空の色」を意味する。ラピスラズリ (lapis lazuli) は、ラテン語で「lazhwardの石 (lapis)」となる。」
「ラピスラズリ (lapis lazuli) は、方ソーダ石グループの鉱物である青金石(ラズライト)を主成分とし、同グループの方ソーダ石・藍方石・黝方石など複数の鉱物が加わった類質同像の固溶体の半貴石である。和名では瑠璃(るり)といい、サンスクリット語のヴァイドゥーリャないしパーリ語のヴェルーリヤの音訳である。深い青色から藍色の宝石で、しばしば黄鉄鉱の粒を含んで夜空の様な輝きを持つ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%94%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%AA



エジプシャン・ブルー エジプト青・カエルレウム

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エジプシャンブルーとは、カルシウム銅ケイ酸塩の顔料。これによってもたらされた緑味の青を指す1809年ごろから使われた色名。エジプト青。 紀元前3000年頃から利用されており、人類最古の合成顔料の一つと考えられている。古名をカエルレウムという。エジプトには青い素材がなかったので、苦労惨憺の末に化学化合までしてこの貴重なブルーを手に入れる。のちにお隣のアラビアやペルシャやトルコからラピスラズリやトルコ石がやってきてカエルレウムにとってかわった。つまり代用品である。
「古代エジプト社会で広く利用されていた孔雀石などの銅鉱石に、石英とアルカリ性の溶液を加えた溶液を固形化し、ここから得られるケイ酸銅カルシウム(CaCuSi4O10又はCaO·CuO·4SiO2)を顔料などとして使うほか塩基性ナトリウム塩を加えて釉薬として使い、ファイアンスのビーズに塗布してラピスラズリやトルコ石の代用品とした。 エジプトからの発掘品である護符や装飾品の多くに、この釉薬が使われている。」
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%A9%E3%83%94%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%AA&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=ie8scint&x=wrt
カエルレウムは実際には蠟色のことだった。



ターコイス・ブルー トルコ石

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「トルコ石(トルコいし、turquoise、ターコイズ)は青色から緑色の色を持つ不透明な鉱物である。化学的には水酸化銅アルミニウム燐酸塩であり、化学式では CuAl6(PO4)4(OH)8·4H2O と表される。良質のものは貴重であり、宝石とみなされる。12月の誕生石でもある。」


サマルカンド・ブルー
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ウズベキスタンのサマルカンドの、全体を青いタイルで彩られた宗教モスクのこと。タイルの青色はラピスラズリやトルコ石などさまざま。吉田拓郎の曲名。
http://trekking1179.seesaa.net/article/353332311.html


コバルト・ブルー
色の名前。
「色材としてのコバルトブルーに用いられる色料は様々であり、単一顔料としてはコバルト青、海碧がある。また、学童向け絵具の分野ではウルトラマリン青、フタロシアニン青、チタン白の混合物を使用して「コバルトブルー」の名前の絵具として売ることもある。専門家向け絵具でもウルトラマリン青、フタロシアニン青、二酸化チタンの混合物を使って「コバルトブルー ヒュー」或いは「コバルトブルー チント」若しくは「コバルトブルー トーン」の名前で絵具をつくることもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC


海碧 かいへき マット・ブルー
セラミック顔料。Colour Index Generic NameはPigment Blue 72
「組成式はCoO・ZnO・Al2O3(酸化コバルトと酸化亜鉛、酸化アルミニウムのスピネル)で表される。コバルトブルーとの違いは、酸化亜鉛を成分に含む事である。酸化コバルトに酸化亜鉛、酸化アルミニウムを配合して1200℃で焼成してつくられる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E7%A2%A7


青天井 あおてんじょう
日本の証券用語
「相場の上げ基調が続いて、どこまでも上がりそうな状態のこと。」
https://www.tokaitokyo.co.jp/otome/investment/glossary/detail_a002.html
青天井とはつまり空のことで、限りなく上昇するから。


青田買い
1 稲の収穫前に、その田の収穫量を見越して先買いすること。
2 企業が人材確保のため、卒業予定の学生の採用を早くから内定すること。卒業前の学生を実る前の稲に、能力を収穫量に例えた語。
[補説]文化庁が発表した「国語に関する世論調査」で、「青田買い」と「青田刈り」について、どちらの言い方を使うか尋ねたところ、次のような結果が出た。
  平成16年度調査 平成26年度調査
青田買い
(本来の言い方とされる) 29.1パーセント 47.4パーセント
青田刈り
(本来の言い方ではない) 34
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/1724/meaning/m0u/



青焼き 青写真
青焼(き)(あおやき、英: blueprint)は、かつて主流だったジアゾ式複写技法である。光の明暗が青色の濃淡として写るため、このように呼ばれる。また、ジアゾ式複写機は「青焼き機」とも呼ばれた。


青い鳥
チルチル・ミチルの童話
青=この世にはいない


ブルーバード
車の名前。日産。


東京都青山
江戸期大名由来地名。それ以前の地名不明。ただしそもそも霊園。


大阪府藤井寺市青山
古市古墳群のある墓域


青地名
「長崎県対馬市青海、壱岐市の青島、松浦市の青島、山口県下関市粟野、長門市青海島の青海、萩市青長谷、萩市青海、島根県浜田市青浦、浜田市の青川、江津市青山、江津市青波、出雲市青野、松江市の青島と青木島、米子市粟島と粟島神社、隠岐の島町の青島崎、海士町青谷、鳥取県琴浦町粟子、鳥取市青谷、鳥取市の青島、京都府伊根町の青島、舞鶴市青井等は死者を葬った場所と関係があると思う。さらに東へ行くと、福井県高浜町には青葉山、青戸入り江があり、青という集落もある。」
http://baba72885.exblog.jp/8725036
多くは埋葬地、あるいは粟栽培地名。あほ、あぼ、あわ、あい、おう、いい、などは墓地。


ブルー・ハワイー
楽曲名。プレスリー。カクテル名。ブルーキュラソーで作る。


シアン 
青い毒素
飲んで死ぬか思案に暮れる・・・


青ざし
清少納言が献上したお菓子。青麦粉でつくるそうな。
「端午の節句の献上品の中に、風雅な薬玉と一緒に、「青ざし」という、青麦の粉で作った菓子がありました。清少納言は、お盆代わりの美しい硯の蓋に青い紙を敷いて、その上に「青ざし」をのせ、「これ籬(ませ)越しに候ふ」と言って定子に献上しました。清少納言の言葉には、『古今和歌六帖』という歌集に載る次の歌が踏まえられています。
ませ越しに麦はむ駒のはつはつに及ばぬ恋も我はするかな
(垣根越しに麦を食べる馬がほんのわずかしか食べられないように、手の届かない恋を私はしていることよ) 」
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2011/03/01/%E3%80%8E%E6%9E%95%E8%8D%89%E5%AD%90%E6%97%A5%E8%A8%98%E7%9A%84%E7%AB%A0%E6%AE%B5%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%8F%E7%99%BA%E5%88%8A%E3%81%AB%E5%AF%84%E3%81%9B%E3%81%A646/
青麦を煎って、臼でひいて、糸のように細長くして食したと虎屋の解説にはあるが想像がつかぬ食べ物。今はない?https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/073/
日蓮以降はちまきのことを青ざしと言う。


青髭
きざなすけこまし野郎。色事師。シャルル・ベロー作品の登場人物。ドン・ファン(ドン・ジョバンニ)


飯豊青皇女 いいとよのあおのひめみこ
市辺押 磐皇子の娘
色事が好きで「ふくろう=あおばずく」の別名である「いいとよ」をつけられる。夜中に男をあさるから。実際にはふくろうは知恵者を指し、反対派の流した流言、うわさである。実際には女帝になったと考えられている。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/52547191.html
青は、しかしながら青い鳥の項で書いたように実際にはいないもの、でもある。


冠位青
大小があるがこの冠位についた人物はいない。やはり青は想像上のもの。


青人草 あおひとくさ
『日本書紀』たみびと。
じっぱひとからげの草の民のこと。天上人にとってはどうでもいいものども。


黒赤青白
記紀に出てくる色。たった四色。
http://roiyarucomeon.seesaa.net/article/433846027.html
この四色は四至(方位四方)をあらわし、色は中国伝来なので、奈良時代の天上人には色彩感覚がそもそも皆無とみてよい。


あおによし
奈良の枕詞。
青丹よし。あおはさびた銅葺屋根の色、丹は壁の色。
あほによし ならのみやこの八重歯娘 笑っていればかわゆくみえたり


青の洞窟
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クロアチアにある海食洞窟
http://wondertrip.jp/europe/4181.html


ブルーカナリア
楽曲名。実際にはいないもの。


青の革命
発光ダイオードで青色が発見されたできごととその後の経済効果。


青汁
う~~~まずい!!


青は藍より出でて藍よりも青し
君子がいった。「学問は中途でやめてはいけない。青という色は藍(あい)という草から取るが、その色は元になっている藍よりもいっそう鮮やかな青色になる。氷は水が元になってできるが、いったん氷になると、水よりももっと冷たい。
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2007/10/01/%E3%80%90%E4%BB%8A%E9%80%B1%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%8F%E3%81%96%E3%80%91%E9%9D%92%E3%81%AF%E8%97%8D%E3%82%88%E3%82%8A%E5%87%BA%E3%81%A7%E3%81%A6%E2%80%A6/
愛はI=私 より出でて 実は愛がない


セルリアン・ブルー cerulean blue
ラテン語空色由来の商業アメリカ英語
「色名の一つ。JISの色彩規格では「あざやかな青」としている。一般に、硫酸コバルトなどから作られた顔料の鮮やかな濃い青をさす。もとはラテン語で空色を意味し、それが英語化した色名。おもに顔料や絵の具の色名に用いられる。 」
特にどれがというほどでもない名前。規定なし。


ブルー
落ち込んでいる雰囲気を色に例えた日本語。
「あのこ、いま、ぶるーらしい」
転じて、ブルー・デー 生理が来ていること。
ブルーが落ち込んでいるという感じ方は、アメリカ黒人のブルースで共通。


青き狼 蒼き狼
モンゴルのチンギス・ハーンの後世のあだ名。


蒼茫
見渡す限り真っ青なこと。石川達三の小説。
たとえば山下達郎が嫁の竹内まりあに、もし逃げられたとしたらきっと目の前は蒼茫。



青物
野菜のこと。魚介類は黒物。肉類は赤物。
大阪の青門市場、黒門市場。


青山学院大学
赤信号のラサール石井やサザンの桑田啓祐が出たために遊び人がいく大学と思われている可愛そうな大学。でもまあ、あながち間違いでもない?


青をあらわすほかの言葉
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1180339.html


紺屋 こんや こうや こや
染物屋。主に藍染屋。やがて染屋総称に。
落語紺屋高尾 こうやたかお
地名があればそこはまず染物をしていた地域。あるいは紺色に染まる天然資源の何かがある土地。たとえばアスファルトとか泥炭なんぞも?温泉地名でもある。


紺屋の白袴 こうやのしろばかま
他人のことばかりに働いて自分のことには手が回らない人。
染物屋が他人の衣服のための布地ばかり染めていて、自分は白い袴をはいていることから。
染め屋が白袴なのは、それを一滴も汚さず腕前がいいことのステータスとしたからだというが、そんなやついたはずがない。一方、画家も白衣を着る人がいるがこっちは絵の具べとべとが自慢。


青天霹靂
大災害でびっくりぽん!


青たん
たんこぶ


青尻
若いこと


くちばしの青い
若くて経験がないこと。


青姦
・・・


青い山脈
青い山脈


青葉城
瀬音ゆかしき仙台の城


西欧古代史の青イメージ
「古代ローマでも青はあまり注目されず、青とされるラテン語のカエルレウス (caeruleus) はむしろ蝋の色、あるいは緑色、黒色を表していた[28]。ローマでは青は喪服の色であり、何よりケルト人やゲルマン人などの野蛮さを象徴する憎むべき、もしくは回避すべき色であった。例えば、青い瞳を持つことは醜さのひとつのようにみなされ、タキトゥスは青く体を染めたブリトン人の軍隊を「幽霊の軍隊」と呼び[29]、大プリニウスはブリトン人の女性が体を青く染め忌まわしい儀式を行うと主張した[30]。古代ギリシャ、古代ローマとも虹の色をさまざまに分類したがそこに青が加えられることはなかった[31]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92#.E5.8F.A4.E4.BB.A3.E3.81.AE.E9.9D.92


道教の青
この世とあの世を結ぶ門の色。
ウツセとあの世の境目。あわい。転じてアワ=青=境目


シバ神の肌色。


碧緑・碧青
海などを表す。瞳の色。碧緑人=中近東から中央アジア人。美男美女。


青碧 せいへき
にぶい青緑色


ブルーカラー
青い襟から労働者階級、肉体労働者や作業員など。
反対語 ホワイトカラー 知的労働者。


ピーコックブルー
商業用語。
孔雀の羽のような深い青色。特に規定なし。


青貝 あおがい
螺鈿 らでんに使うアワビの貝殻を磨いたもの。


青瓢箪 
やせて顔色の悪い人


青菜に塩 あおなにしお
急にしょげちゃうこと。
「なんだいおめえ、さっきはあんなに息巻いてたのに、急にしょげちゃって。まるで青菜に塩じゃあねえかい。元気出しなよ」
誤用「なんだこの漬物は、ただ青菜に塩しただけじゃあねえか!」


青垣
取り囲んだ青い山々
出雲。


青息吐息
筆者の日常。


青の時代
ピカソの若いころの画風


蒼穹 そうきゅう
青空


青銅鏡
そのまま。


青銅
ブロンズ、銅と錫の合金。


青牛 せいぎゅう
導師、仙人が乗る牛。


青血 せいけつ
新しい血液。なまち。




では最後に名曲ブルー・モンクでお別れ。

































考古学の「モノからコトへ」

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モノとコト
もの【物・者】一 〔名〕≪形があって手に触れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認識しうるものすべて。コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるに対して、モノは推移変動の観念を含まない。むしろ、変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、不変の慣習・法則の意を表わす。



こと【言・事】一 〔名〕≪古代社会では口に出したコト(言)は、そのままコト(事実・事柄)を意味したし、またコト(出来事・行為)は、そのままコト(言)として表現されると信じられていた。それで、言と事とは未分化で、両方ともコトという一つの単語で把握された。従って奈良・平安時代のコトの中にも、言の意か事の意か、よく区別できないものがある。しかし、言と事とが観念の中で次第に分離される奈良時代以後に至ると、コト(言)はコトバ、コトノハといわれることが多くなり、コト(事)とは別になった。コト(事)は、人と人、人と物とのかかわり合いによって、時間的に展開・進行する出来事、事件などをいう。時間的に不変の存在をモノという。後世コトとモノとは、形式的に使われるようになって混同する場合も生じて来た
岩波書店『古語辞典』(補訂版)





考古学上のモノからコトへの変化
考古学は発生当初は事物の形状による分類に邁進していた。それは事物をモノとして考える段階で、あくまで理科系的な科学でしかない。それで昨今は、事物に伴う色彩や観念、死生観などのコトの分析が重視されるように進化し始めている。


それは科学がおのれの不足部分、シェイプだけでは説明できない、人間的な、つまりより現実の歴史によりそった文科系的な分析を必要だと気がついたからであろう。

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たとえば中国の伝説上の生き物である「辟邪」はなぜ赤いとされていたのかと考えると、赤が魔よけの色だったことに気づくはず。これまで考古学者はなぜ赤か?をあまり考えないままやってきた。しかし赤という色にちゃんと意味や観念があることにやっと気がついたということだろう。

そこから環境考古学や景観考古学、考古心理学などなど、無数の考える余地が生まれてきた。

科学はインナートリップは得意だが、アウタートリップがへたくそな学問である。














ツタンカーメン墓の隠し部屋と『日本書紀』アマテラスは同じ

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「王家の谷」にある古代エジプト王ツタンカーメンの墓で行った調査の結果、壁の裏側に隠し部屋がある可能性が濃厚になったとの見方を示した。


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考古学者ニコラス・リーブスによる仮説
「空洞は隠し部屋で、その中にはツタンカーメン王の義理の母とされ「伝説の美女」と呼ばれる王妃ネフェルティティのミイラが中に残されている可能性がある」


「スキャンの結果からは、北壁と隣り合った西側の壁に、二つ目の出入り口が隠されている証拠も見つかっている。スキャンの作業を担当したのは日本人のレーダー技術者、渡辺広勝氏」ナショジオhttp://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/120200344/


なぜ今まで誰もその存在に気づかなかったか?
リーブスの最初の天啓は、何十年も通いつめた現地ではなく、インターネット上に転がっていた。

2009年、博物館関係者や芸術家が所属するスペインの団体「ファクトゥム・アルテ」が、ツタンカーメンの墓を高解像度でレーザースキャンする作業を開始した。第一の目的は、墓の精巧なレプリカを作ることだった。彼らがすべてのスキャンデータをネット上に公開すると、当時、米メトロポリタン美術館で仕事をしていたリーブス氏は、すぐにこれに注目した。(参考記事:「レーザーで遺跡をデジタル保存」

これをネット上でながめていたリーブスにひらめきが生まれる。
動画にある壁画をすべて頭から消し去ると、そこにはあきらかにくっきりとした壁の切れ目が浮き上がったというのである。もちろんその動画が昨今の発展いちじるしいデジタル画像の賜物である。詳細で明瞭な画像だったからこそそれが見えてきたのである。


リーブスの専門はエジプト第18王朝、つまりツタンカーメンの父であるアクエンアテン(アメンホテップ4世改名)王家の時代だった。この王朝の特徴は多神教を一気に一神教へ変化させた時代。太陽神が置き換えられた時代である(アメン神からアテン神へ)。

多神教から一神教へ 筆者ブログの過去解説 
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/57167793.html


非常に強引にそれを行ったために、多くの反発も起きる。ツタンカーメンはその犠牲者だったやもしれぬことになる。すると秘密にしておきたい出来事もたくさんあっただろう。

アクエンアテンの王妃ネフェルティティは、王の死後、いわば絶対権力によって多神教論者たちを押さえつけなければ王家の存続が難しい。そういう立場の女帝である。

で、思いつくのは日本にも同じような立場に立たされた女帝がいたことである。持統天皇・・・。夫・天武死後、滅ぼされたはずの天智血統という旧態勢力に強力な圧力をかけ続けねばならなかった女帝である。そのとき、大和にも一神教ともいうべき太陽神が登場している。アマテラスの登場である!

歴史はまさに繰り返す。いや、人間の行動とは世界で同じだということがこれではっきりとすることだろう。



ツタンカーメン墓の隠し部屋とはつまり太陽神が隠された天の岩屋戸であろうか?!



会員追加記事ツタンカーメン=草壁皇子へhttp://blogs.yahoo.co.jp/niko2nicol/14819404.html


































伊賀忍軍・秦氏・木地師・山窩・小椋氏・佐々木氏・渡来人でヒットした休日をうっちゃるによい参考サイト

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伊賀忍軍・秦氏・木地師・山窩・小椋氏・佐々木氏・渡来人でヒットした休日をうっちゃるによい参考サイト


木地師小椋氏の系譜(4版)―清和源氏満季流と本佐々木氏 
http://blog.sasakitoru.com/201106/article_3.html
「木地師は、戦国期に近江守護佐々木六角氏の支配下にあって甲賀銀山の開発を担っていた。その木地師の統括者であった小椋氏が、鎌倉幕府草創期には近江守護佐々木氏の郎党であったことが、九条兼実の日記『玉葉』や鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』で分かる。」



サンカ(山窩)を考える
http://www.kumanolife.com/History/kenshi1.html
「沖浦和光著[竹の民族誌]には阿多隼人の血を引く人達が南北朝動乱時代に南朝側について戦い、敗れて賤民に貶められ山深く隠れ住んでいた時に、困窮ぶりを見たサンカの人達が親切に箕作りを教えてくれたのが竹細工の始まりだとの伝承が残る被差別 部落の話しがあります」サンカの被差別性

「サンカに関心を持ち始めてから、忍者とサンカについて書かれた本を何冊か読みましたが、いまひとつよく判りませんでした。どちらにしても資料の少ない、謎とされた人達ですから仕方がないのかも知れません。サンカと忍者との関係ですが、サンカ共同体と忍者集団とは別 の存在であったと思います。ですが何らかの関係は確実にあったと思います。飛躍していますが、例えば、サンカ最高権威者(権力者)である乱裁道宗(アヤタチミチムネ)と忍者集団の頭領とされる人物が同一の人物であったり、極めて近い間柄であったり、また忍者集団の中にサンカ出身者が多くいた可能性など充分に考えられると思っています。忍者の持つ技術や文化は大陸からの影響が強いことなどを考慮すると難しくなりますが、やはりサンカ共同体が体制側に組み込まれなかった渡来系の人達を内包していったのではと思っています。八代将軍徳川吉宗に伝わる話しがあります。よく時代劇で、お庭番という忍者のような役職の者が出てきますが、あれは吉宗が紀州藩から隠密を呼び寄せて作ったものらしいです。その隠密ですが、根来者と呼ばれた忍者集団で、密教行者(修験道)から発し、同根には出雲熊野系と紀伊熊野系があり、(その混流の末には信州の飯綱山を発祥地とした忍術の元とも云われる飯綱遣いがある )諏訪神社(出雲系)から出た諏訪三郎兼家(甲賀忍者の祖)の忍術と融合し、さらに河内・和泉・大和・紀伊のサンカ共同体とも融合したものであると伝わっているようです。また戦国時代に信長により討伐された伊賀忍者の頭領である百地丹波が高野山に逃れ、後に根来に移りて本拠とし、信長に抗戦したとの記録があるそうですから、伊賀忍術の流れも伝わったのだと思います。その吉宗側近の根来隠密には、吉宗の生母が自分達と同族であったとの認識があったようです。父の光貞が風呂炊女を側女として源六(吉宗)を生ませたとありますが、隠密仲間の間には大和葛城の忍び(サンカ)の一族の者であると解していたようです。吉宗の剛胆さや庶民性(下々の者に対しても分け隔てなく接し、卑賎とされる者をも登用した)、また様々な障害を乗り越えて将軍の座に就いたことを考えると、闇の者とされた忍者集団やサンカ共同体の見えない形での働きがあったのかも知れません。時代が幕末から明治となり、隠密(忍者)家業の人達も職を失い、お庭番の時に磨いた植木職などを生かし、正業に就いた者も多くいたが、生活に困窮し、再びサンカ共同体へ吸収された人達もいた可能性があるとの見解もあります。」サンカと忍者



日本古代史の謎に迫る
http://www.geocities.jp/toryon33/kodaishi2.html
「「馬子・蝦夷・入鹿」三代の漢字の一番前の「馬」と一番後の「鹿」をつなげば「馬鹿」になる。これを「蝦夷」とからめて三代の名前の意味を読み取れば、「野蛮で未開の愚かな狼藉者たち」となる。」

『日本書紀』なぜ持統で終わるか?天武以前みな虚構?継体

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『古事記』は推古天皇で終わり、『日本書紀』は持統天皇で終わる。
どちらも女帝で終わっている。

『日本書紀』の場合、その解釈は、

『日本書紀』とは革命成功した天武のために書かれたという体裁で、実は裏側に天智の正当性を隠してある。しかしさらに持統を最後におく事で、結果的に持統女帝のために書かれた史書だったと言う事が可能なのである。

現在の天皇家とは、要するに天智→持統の血脈王家だ。
天武はエジプト王朝で言うならばアメンホテップ4世()なのであり、その長男草壁がツタンカーメン、妻ネフェルティティに相当するのが持統女帝である。同様に革命的なアマテラス信仰を畿内に流布させ、その子孫はことごとく短命で終わり、結局は天智の子孫桓武が平安京を建設して今の皇室につながる。天智の娘持統こそはその起点になるのである。


そしてそのすべての皇統の最初の起点が、息長広姫という継体の妻にある「息長天皇家」である。



継体の前は「どこの王かもよくわからない」倭五王政権だが、中国史書に書かれた倭五王の正しい名前は一切『日本書紀』には書かれていない。ということはこの王権のことを『日本書紀』編集者たちは知らなかったということになるだろう。

知らなかったということは、継体よりも前には、大和朝廷というべきものは存在せず、継体がそれをはじめて立てたという判断が正しい。倭五王以前のすべては天皇の他人である。そして継体も革命によって大和を征服するが、転覆された短命種馬政権
である。それをやったのは当然、飛鳥を築く「蘇我王」である。


「持統天皇より前はあずかり知らぬ」と言われた昭和天皇の宮内でのないないの言葉
の意味が、これによって正しいとわかる。天皇に歴史を教えた上田正昭がこの点に何も語らずに亡くなってしまった今、これしか『日本書紀』のロジックを説明できる構図はないだろう。








二人の広姫

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史上、息長一族には広姫という名の人物が二人いる。
『日本書紀』と『古事記』でそれぞれが別の天皇に嫁いだことになっていて矛盾がある。

ひとりは有名な敏達天皇の正妻である広姫。息長真手王の娘。『古事記』では比呂比命。近江国坂田郡の人。

いまひとりは、『古事記』が言う継体天皇妃で別名黒姫。こっちは坂田俣王とやらの娘。やはり坂田郡出身。

これは単に情報が錯綜したせいか?違うだろう。
まず『日本書紀』が系図をまぜこぜに改編しているのであろう。

息長氏と坂田氏は同族としてあるが、系譜はいずれもはちゃめちゃなものに仕上がっていて、『日本書紀』の頃に息長氏を中心に系譜を作るときに、おそらく意図的の坂田氏などの在地氏族を息長にまとめてしまうという恣意がありあり。


継体大王は『日本書紀』言い分をまとめると、どうしても近江の息長氏系譜と越前の三尾氏の子孫となるわけだが、息長氏も三尾氏も、なぜかその後後裔氏族が希薄で、三尾氏に至っては外戚にすらなれていない。どうもこの双方の系譜はうそではないかと見ている。

天武・持統を『日本書紀』ロジック解明の起点にする筆者の考えでは、息長系譜の持統(不比等に都合がいい天智系の「どこかの王家」)を正当化するには、まずその祖人となる大王が必要。それが継体である。継体がどこからか畿内地方にやってきて、前の王家を虎視眈々と転覆させんとねらい、なかなか大和に入れない。それを旧態大和王権に反発する物部氏などが手引きして見事前河内王家が転覆。しかしその河内王家が中国の史書(『宋書』)にある倭五王だったとは限らない。いや、河内王朝の応神から武烈系譜にはまったく一致していない。文献史学の多くは、それらを無理やり当てはめていて強引さに気づかない。

皇后や妃の名前までが錯綜してしまうのは、明白に前の史書をあとの史書が改変したからで、広姫は継体の妃でよいのではないか?そもそも「ひろひめ」は、男で言えば太郎という、長女だった名前でしかない。つまり『古事記』の黒姫がより真実に近い名前。しかしその黒姫もまた、何度も出てくる名前なので、これも長女と思われるから、結局、いたかどうかもしれなくなってしまうのが広姫なのである。

そうなると、なぜ藤原不比等が息長系譜にこだわったかである。琵琶湖を中心として日本海にも対外ルートを持っていたこの海運業者一族と藤原氏との経済的癒着でもなければ、これほど無名だった息長系譜を持ち込む理由がわからない。


ところがこの謎に卑弥呼を持ち込むと、すべてがつながってしまう。



持統=アマテラス=神功皇后=卑弥呼


この正統をいわんがために不比等は延々と何世代にもわたって卑弥呼の女系系譜が前例としてあったとしたのである。世界ではめったにない女帝の何度もの挿入の、そう考えれば意図的な操作に感じられてくる。推古も皇極も称徳も、持統の後の元明・元正も考えてみれば、そんなに女帝・・・シャーマン王だけで歴史が動いたなど、世界史から見たら考えにくい。


なぜ卑弥呼にこだわりたかったか?
中国が認めた最古の女帝だったからである。
中国が女帝を認めるなどは絶対ありえなかった時代である。実例では推古女帝時代の倭国書簡をもらい使者を送るという事実上認知してしまった煬帝は、名前を貶められている。しかし日本側では推古を前面には出さずにタリシヒコという名の男王を使者に会わせている。そもそも『古事記』は推古を最後に持ってきてはいなかった可能性すらある。また即位を明確に描かれない飯豊青皇女にしても河内王朝最終幕に登場させ、これをふくろうであるとか名前にしてシャーマン王だったとしたうえで、男癖が悪かったなどとして河内王権が滅びて当然に仕立ててもいる。雄略・武烈の卑劣な書き方とあわせて、『日本書紀』編集者は河内王権が滅びたことを暗示している。つまりそこにつながりがないから継体を差し込んでいる。

ならば卑弥呼は最初の例外中の例外で、不比等には「しめた!」という存在になる。
しかし『日本書紀』形式上は中国思想にあわせたものに仕上げなくてはならないから、卑弥呼はそのまま使い得ない。使えば女帝擁立があきらかな意図であることがばればれになってしまう。

そこでしらっと神功皇后という緩衝材を持ってきたわけである。彼女が半島にも九州にも縁の深い女性であることは、九州前王朝にも百済にも納得を得られる。

倭五王というきわめて吉備王権だったらしき王家にもそれは都合がいいだろう。



さて、つぎは天智王権がどこの馬の骨だったから不比等はこれを正統としたのかが問題である。天智(葛城王)は九州王朝の王だったのか?あるいは日本海か?あるいは吉備か?それとも??








『日本書紀』最大の山場・皇極紀を読み直す・天智・鎌足百済王家説

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『日本書紀』の最重要な記事である皇極天皇紀を読んでおいていただきたい。
ここには上宮王家の遭難。天変地異。秦河勝と東国多氏と常世の神、乙巳の変と大化の改新という、日本史上最重要の出来事が目いっぱい詰め込まれており、『日本書紀』とはまさにここを書くために存在するといってもよい肝の記事に仕上げてある。ここを読まずして『日本書紀』を読んだと言うなという重大な謎解き、ロジック解明のためのヒントがここにこそある。あえて全文掲載するのは、入鹿暗殺に至るまでの臨場感の盛り上がりをいかに作為してあるかを感じてもらいたいからである。

天皇紀から始まって、内容は次第に皇極を離れ、蘇我氏がいかに卑劣か、百済がそのときどのようになっていたか、誰を援助の相手として送り込んできたか、誰が逃げてきたか、百済王豊璋その他の重要な人物がどのように日本の王家へと変身したかが、ここには書かれてあるのだ。それはつまり天智=百済王子翹岐(ぎょうき)、鎌足=豊璋を歴然と暗示する内容になっているのだ!


『日本書紀』皇極天皇紀
●天皇出自紹介部分
天豊財重日【重日、此をば伊柯之比と云ふ】足姫天皇(皇極)は、渟中倉太珠敷天皇(敏達)の曾孫、押坂彦人大兄皇子の孫、茅渟王の女である。

母をば吉備姫王と曰す。天皇、古の道に順考へて、政をしたまふ。息長足日広額天皇(舒明)二年に、立ちて皇后と為りたまふ。十三年の十月に、息長足日広額天皇崩りましぬ。


●蝦夷・入鹿登場と百済の窮乏解説部分=いかに百済を助けねばならぬかの説得
元年の春正月の丁巳の朔辛未(642.01.15)に、皇后、即天皇位す。蘇我臣蝦夷を以て大臣とすること、故の如し。大臣の兒入鹿【更の名は鞍作】。自ら国の政を執りて、威父より勝れり。是に由りて、盜賊恐懾げて、路に遺拾らず。乙酉(01.29)に、百済の使人大仁阿曇連比羅夫、筑紫国より、駅馬に乗り来て言さく、

「百済国、天皇崩りましたりと聞りて、弔使を奉遣せり。臣、弔使に隨ひて、共に筑紫に到れり。而るに臣は葬に仕らむことを望ふ。故、先ちて独り来り。然も其の国は、今大きに乱れたり」

とまうす。


二月の丁亥の朔戊子(02.02)に、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金・倭漢書直縣をして、百済の弔使の所に遣して、彼の消息を問はしむ。弔使報して言さく、

「百済国の主、臣に謂りて言ひしく、『塞上恒に作悪す。還使に付けたまはむと請すとも、天朝許したまはず』といひき」

とまうす。


百済の弔使の人等言く、「去年十一月、大佐平智積卒せぬ。又百済の使人、崐崘の使を海裏に擲れたり。今年の正月に、国の主の母薨せぬ。又弟王子、兒翹岐及び其の母妹の女子四人、内佐平岐味、高き名有る人四十余、嶋に放たれぬ」といふ。

壬辰(02.06)に、高麗の使人、難波津に泊れり。丁未(02.21)に、諸の大夫を難波郡に遣して、高麗国の貢れる金銀等、幷て其の獻る物を検へしむ。使人、貢獻ること既に訖りて、諮して云さく、

「去年の六月に、弟王子薨せぬ。秋九月に、大臣伊梨柯須弥、大王を弑し、幷て伊梨渠世斯等百八十余人を殺せり。仍りて弟王子の兒を以て王とせり。己が同姓都須流金流を以て大臣とす」

とまうす。


●高句麗も救援必要の解説部分=いかに新羅が悪辣で滅ぼすべき相手か
戊申(02.24)に、高麗・百済の客に難波郡に饗へたまふ。大臣に詔して曰はく、

「津守連大海を以て高麗に使すべし。国勝吉士水鶏を以て百済に使はすべし。【水鶏、此をば倶毗那と云ふ】。草壁吉士眞跡を以て新羅に使はすべし。坂本吉士長兄を以て任那に使すべし」

とのたまふ。


庚戌(02.24)に、翹岐を召して、阿曇山背連の家に安置らしむ。辛亥(02.25)に、高麗・百済の客に饗へたまふ。癸丑(02.27)に、高麗の使人・百済の使人、並に罷り帰る。


●天候記事の連続=滅びてしかるべしの予兆を臨場感しだいに盛り上げる演出
三月の丙辰の朔戊午(03.03)に、雲無くして雨ふる。辛酉(03.06)に、新羅、賀騰極使と喪を弔ふ使とを遣す。庚午(03.15)に、新羅の使人罷り帰る。是の月に、霖雨す。


●百済王子翹岐、救援要請大使として来日=延々と翹岐の名前を出しては百済の重要性を説く

 夏四月の丙戌の朔癸巳(04.08)に、大使翹岐、其の従者を將て朝に拜す。乙未(04.08)に、蘇我大臣、畝傍の家にして、百済の翹岐等を喚ぶ。親ら對ひて語話す。仍りて良馬一匹・鐵廿铤を賜ふ。唯し塞上をのみ喚ばず。是の月に、霖雨す。

五月の乙卯の朔己未(05.05)に、河内国の依網屯倉の前にして、翹岐等を召びて、射猟を観しむ。庚午(05.16)に、百済国の調の使の船と吉士の船と、倶に難波津に泊れり。【蓋し吉士は前に使を百済に奉りたるか】。壬申(05.18)に、百済の使人調進る。吉士服命す。乙亥(05.21)に、翹岐が從者一人死去ぬ。丙子(05.22)に、翹岐が兒死去ぬ。(家族ぐるみで来日しており翹岐はつまり逃避行だったのだ)

是の時に、翹岐と妻と、兒の死にたることを畏ぢ忌みて、果して喪に臨ず。凡そ百済・新羅の風俗、死亡者有るときは、父母兄弟夫婦姉妹と雖も、永ら自ら看ず。此を以て観れば、慈、無きが甚しきこと、豈に禽獸に別ならむや。丁丑(05.23)に、熟稻始めて見ゆ。戊寅(05.24)に、翹岐、其の妻子を將て、百済の大井の家に移る。乃ち人を遣りて兒を石川に葬る。

 六月の乙酉の朔庚子(06.16)に、微雨ふる。是の月に、大きに旱る

秋七月の甲寅の朔壬戌(07.09)に、客星月に入れり。乙亥(07.22)に、百済の使人大佐平智積等に朝に饗へたまふ。

【或本に云く、百済使人大佐平智積及び兒達率 、名を闕せり・恩率軍善といふ】。

●翹岐の弟子・智積登場、瑞兆である白い雀記事
乃ち健兒に命せて、翹岐が前に相撲らしむ。智積等、宴畢りて退でて、翹岐が門を拜す。丙子(07.23)に、蘇我臣人鹿が豎者、白雀の子を獲る。


●古い悪癖である牛馬の生贄や河伯信仰を蘇我氏が強引に仏教にかえさせた
是の日の同じ時に、人有りて、白雀を以て籠に納れて、蘇我の大臣に送る。戊寅(07.25)に、群臣相ひ謂りて曰く、「村々の祝部の所教の隨に、或いは牛馬を殺して、諸の社の神を祭る。或いは頻に市を移す。或いは河伯を禱る。既に所效無し」といふ。蘇我大臣報へて曰く、

「寺々にして大乗経典を転読みまつるべし。悔過すること、仏の説きたまふ所の如くして、敬びて雨を祈はむ」

といふ。

●蝦夷の雨乞い=シャーマン王であるのに外国の仏教を流布しようとしている
庚辰(07.28)に、大寺の南の庭にして、仏、菩薩の像と四天王の像とを厳ひて、衆の僧を屈び請せて、大雲経等を読ましむ。時に、蘇我大臣、手に香鑪を執りて、香を燒きて願を発す。辛巳(07.28)に、微雨ふる。壬午(07.29)に、雨を祈ふこと能はず。故、経を読むことを停む

八月の甲申の朔(08.01)に、天皇、南淵の河上に幸して、跪きて四方を拜む。天を仰ぎて祈ひたまふ。即ち雷なりて大雨ふる。遂に雨ふること五日。溥く天下を潤す

【或本に云く、五日連に雨ふりて、九穀登り熟めりといふ】

是に、天下の百姓、倶に称万歳びて曰さく、「至徳まします天皇なり」とまうす。


●百済の使者また来る、高句麗と新羅の使者はばかって帰国=百済重視
己丑(08.06)に、百済の使参官等罷り帰る。仍りて大舶と同船と三艘を賜ふ【同船は、母慮紀舟といふ】。是の日の夜半に、雷、西南の角に鳴りて、風ふき雨ふる。參官等が乗る所の船舶、岸に触きて破れぬ。丙申(08.13)に、小を以て百済の質達率長福を授けたまふ。中客より以下に、位一級を授けたまふ。物を賜ふこと各差有り。戊戌(08.15)に、船を以て百済の參官等に賜ひて、発て遣す。己亥(08.16)に、高麗の使人、罷り帰る。己酉(08.26)に、百済・新羅の使人、罷り帰る。


●皇極、百済大寺の建立を発願=蘇我にそそのかされ牛耳られた女帝
九月の癸丑の朔乙卯(09.03)に、天皇、大臣に詔して曰はく、「朕、大寺を起し造らむと思欲ふ。近江と越の丁を発せ」とのたまふある【百済大寺ぞ】。

復、諸国に課せて、船舶を造らしむ。辛未(09.19)に、天皇、大臣に詔して曰はく、「是の月に起して十二月より以來を限りて、宮室を営らむと欲ふ。国国に殿屋材を取らしむべし。然も東は遠江を限り、西は安芸を限りて、宮を造る丁を発せ」とのたまふ。癸酉(09.21)に、越の辺の蝦夷、数千内附く。

●天変地異=革命・クーデターの予感
 冬十月の癸未の朔庚寅(10.08)に、地震り雨ふる。辛卯(10.09)に、地震る。是の夜、地震り風ふく。甲午(10.12)に、蝦夷に朝に饗たまふ。丁酉(10.15)に、蘇我大臣、蝦夷に家に設して、躬ら慰め問ふ。是の日に、新羅の弔使の船と賀騰極使の船、壹岐嶋に泊れり。丙午(10.24)の夜中に、地震る。
 是の月に、夏の令を行ふ。雲無くして雨ふる。

十一月の壬子の朔癸丑(11.02)に、大雨ふり雷なる。丙辰(11.05)の夜半、雷一西北の角に鳴る。己未(11.08)に、雷五西北の角に鳴る。庚申(11.09)に、天の暖なること春の気の如し。辛酉(11.10)に、雨下る。壬戌(11.11)に、天の暖なること春の気の如し。甲子(11.11)に、雷一北の方に鳴りて、風発る。丁卯(11.16)に、天皇新嘗御す。是の曰に、皇子・大臣、各自ら新嘗す。

●舒明陵墓の改葬
十二月の壬午の朔(12.01)に、天の暖なること春の気の如し。甲申(12.03)に、雷、五昼鳴り、二夜に鳴る。甲午(12.13)に、初めての喪を発す。是の日に、小徳巨勢臣徳太、大派皇子に代りて誄す。次に小徳粟田臣細目、軽皇子に代りて誄す。次に小徳大伴連馬飼、大臣に代りて誄す。乙未(12.14)に、息長山田公、日嗣を誄び奉る。辛丑(12.20)に、雷三東北の角に鳴る。庚寅(12.09)に、雷二東に鳴りて、風ふき雨ふる。壬寅(12.21)に、息長足日廣額天皇を滑谷岡に葬りまつる。是に日に、天皇、小墾田宮に遷移りたまふ

【或本に云はく、東宮の南の庭の権宮に遷りたまふといふ】。


●蝦夷、八佾の舞=大王の振る舞い
甲辰(12.23)に、雷一夜に鳴る。其の声裂くるが若し。辛亥(12.30)に、天の暖なること春の気の如し。
 是歳、蘇我大臣蝦夷、己が祖廟を葛城の高宮に立てて、八佾の儛をす。遂に歌を作りて曰く、

野麻騰能、飫斯能毗稜栖鳴、倭柁羅務騰、阿庸比陀豆矩梨、舉始豆矩羅符母。
 大和(やまと)の 忍(おし)の広瀬(ひろせ)を 渡(わた)らむと 足結(あよひ)手作(たづく)り 腰作(こしづく)らふも


●蘇我大墓・小墓の造営=天皇を上回る巨大さだ
又尽に国挙る民、幷て百八十部曲を発して、預め双墓を今来に造る。一つをば大陵と曰ふ。大臣の墓とす。一つをば小陵と曰ふ。入鹿臣の墓とす。望はくは死りて後に、人を労らしむること勿。更に悉に上宮の乳部の民を聚めて、

【乳部、此をば美父と云ふ】

塋垗所に役使ふ。是に、上宮大娘姫王、発憤りて歎きて曰く、

「蘇我臣、専国の政を擅にして、多に行無礼す。天に二つの日無く、国に二の王無し。何に由りてか意の任に悉に封せる民を役ふ」

といふ。茲より恨を結びて、遂に倶に亡されぬ。是年、太歳壬寅。


●五色の雲=時は来た!
二年の春正月の壬子の朔の旦(643.01.02)に、五つの色の大きなる雲、天に満み覆ひ、寅に闕けたり。一つの色の青き霧、周に地に起る。辛酉に、大風ふく。
 
二月の辛巳の朔の庚子(02.20)に、桃の花始めて見ゆ。乙巳(02.25)に、雹ふりて草木の花葉を傷せり。

 是の月に、風ふき雷なり雨氷ふる。冬の令を行へばなり。国の内の巫覡等、枝葉を折り取りて、木綿を縣掛けて、大臣の橋を渡る時を伺候ひて、爭ぎて語の入微なる説を陳ぶ。其の巫甚多にして、悉に聴くべからず。

 三月の辛亥の朔癸亥(03.13)に、難波の百済の客の館堂と、民の家屋とに災けり。乙亥(03.25)に、霜ふりて草木の花葉を傷せり。

 是の月に、風ふき雷なりて雨氷ふる。冬の令を行へばなり。
 夏四月の庚辰の朔丙戌(04.07)に、大きに風ふきて雨ふる。丁亥(04.06)に、風起りて天寒し。己亥(04.20)に、西の風ふきて雹ふれり。天寒し。人綿袍三領を着る。庚子(04.21)に、筑紫大宰、馳驛して奏して曰さく、「百済国の主の兒、翹岐・弟王子、調の使と共に来たり」とまうす。丁未(04.28)に、権宮より移りて飛鳥の板蓋の新宮に幸す。甲辰(04.25)に、近江国言さく、「雹下れり。其の大きさの経一寸」とまうす。


●月食=いよいよ蘇我王家の命運はつきたぞ!
五月の庚戌の朔乙丑(05.16)に、月蝕えたること有り。
 六月の己卯の朔辛卯(06.13)に、筑紫大宰、馳駅して奏して曰さく、[高麗、使を遣して来朝さしむ」とまうす。群卿聞きて、相謂りて曰く、「高麗、己亥の年より朝らず。而るを今年朝り」といふ。辛丑(06.23)に、百済の調進る船、難波の津に泊れり。

 秋七月の己酉の朔辛亥(07.03)に、數大夫を難波郡に遣はして、百済国の調と献れる物とを検へしむ。是に、大夫、調の使に問ひて曰く、「進れる国の調、前の例より欠少、大臣に送れる物、去年還せる色を改めず、群卿に送れる物、亦全ら将来らず、皆前の例に違へり。其の状は何ぞ」といふ。大使達率自斯・副使恩率軍善、倶に答へ諮して曰さく、「即今に備ふべし」とまうす。自斯は、質達率武子が子なり。
 是の月に、茨田池の水大きに臭りて、小き虫水に覆へり。其の虫、口は黒くして身は白し

●茨田池あふれる
八月の戊申の朔壬戌(08.15)に、茨田池の水、変りて藍の汁の如し。死にたる虫水に覆へり。溝瀆の流、亦復凝結れり。厚さ三四寸ばかり。大きに小き魚の臭れること、夏に爛れ死にたるが如し。是に由りて、喫に中らず。
 
九月の丁丑の朔壬午(09.06)に、息長足日廣額天皇を押坂陵に葬りまつる【或本に云はく、広額天皇を呼して、高市天皇とすといふ】。丁亥(09.11)に、吉備嶋皇祖母命薨りましぬ。癸巳(09.17)に、土師娑婆連猪手に詔して、皇祖母命の喪を視しむ。天皇、皇祖母命の臥病したまひしより、喪を発すに至る及に、床の側を避りたまはずして、視養たてまつりたまふこと倦ること無し。乙未(09.19)に、皇祖母命を檀弓岡に葬りまつる。是の日に、大雨ふりて雹ふる。丙午(09.30)に、皇祖母命の墓造る役を罷めしむ。仍、臣、連、伴造に帛布を賜ふこと、各差有り。
 是の月に、茨田池の水、漸々に変りて白き色に成りぬ。亦臭き気無し。


●勝手に紫金の冠を入鹿にかぶせやがった!勝手に自分の子である古人大兄を皇太子にした!蝦夷の妻は大罪人物部守屋の妹だぞ!上宮王家をないがしいろにしたぞ!

冬十月の丁未の朔己酉(10.03)に、群臣、伴造に朝堂の庭に饗たまひ賜ふ。而して位を授けたまふ事を議る。遂に国司に詔したまはく、「前の勅せる所の如く、更改め換ること無し。厥の任けたまへるところに之りて、爾の治す所を愼め」とのたまふ。壬子(10.06)に、蘇我大臣蝦夷、病に縁りて朝らず。私に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位に擬ふ。復其の弟を呼びて、物部大臣と曰ふ。大臣の祖母は、物部弓削大連の妹。故母が財に因りて、威を世に取れり。戊午(10.12)に、蘇我臣入鹿、独り謀りて、上宮の王等を廃てて、古人大兄を立てて天皇とせむとす。時に、童謠有りて曰く、

伊波能杯儞 古佐屢渠梅野倶 渠梅多儞母 多礙底騰裒羅栖 歌麻之々能烏膩
 岩(いは)の上(へ)に 小猿(こさる)米(こめ)焼(や)く 米(こめ)だにも 食(た)げて通(とほ)らせ 山羊(かましし)の老翁(をぢ)
【蘇我臣入鹿、深く上宮の王等の威名ありて、天下に振すことを忌みて、独り僭ひ立たむことを謨る】。是の月に、茨田池の水、還りて清みぬ。


●上宮王家遭難滅亡
十一月の丙子の朔(11.01)に、蘇我臣入鹿、小徳巨勢徳太臣・大仁土師娑婆連を遣りて、山背大兄王等を斑鳩に掩(おそ)はしむ。【或本に云はく、巨勢徳太臣・倭馬飼首を以て将軍とすといふ】。是に、奴三成、数十の舍人と、出でて拒き戦ふ。土師娑婆連、箭に中りて死ぬ。軍の衆恐り退く。軍の中の人、相謂りて曰く、「一人当千といふは、三成を謂ふか」といふ。山背大兄、仍りて馬の骨を取りて、内寢に投げ置く。遂に其の妃、幷びに子弟等を率て、間を得て逃げ出でて、膽駒山に隠れたまふ。三輪文屋君・舍人田目連及び其の女・菟田諸石・伊勢阿部堅経、従(みとも)につかへまつる。巨勢徳太臣等、斑鳩宮を焼く。灰の中に骨を見でて、誤りて王死せましたりと謂ひて、囲を解きて退き去る。是に由りて、山背大兄王等、四五日の間、山に淹留(とどま)りたまひて、得喫飲(ものもえまうのぼ)らず。三輪文屋君、進みて勧めまつりて曰さく、「請ふ、深草屯倉に移向(ゆ)きて、兹より馬に乗りて、東国に詣りて、乳部を以て本として、師を興して還りて戦はむ。其の勝たむこと必じ」といふ。山背大兄王等対へて曰はく、「卿が噵ふ所の如くならば、其の勝たむこと必ず然らむ。但し吾が情に冀(ねがはく)は、十年百姓を役(つか)はじ。一の身の故を以て、豈万民を煩労はしめむや。又後世に、民の吾が故に由りて、己が父母を喪せりと言はむことを欲(ほ)りせじ。豈其れ戦ひ勝ちて後に、方に丈夫と言はむや。夫れ身を損てて国を固めば、亦丈夫にあらずや」とのたまふ。

人有りて遙に上宮の王等を山中に見る。還りて蘇我臣入鹿に噵ふ。入鹿、聞きて大きに懼ず。速に軍旅を発して、王の在します所を高向臣国押に述りて曰く、「速に山に向きて彼の王を求(かす)べ捉(から)むべし」といふ。国押、報へて曰く、「僕は天皇の宮を守りて、敢へて外に出でじ」といふ。入鹿即ち自ら往かむとす。

時に、古人大兄皇子、喘息(いわ)けて来して問ひたまはく、「何処か向く」とのたまふ。入鹿、具に所由を説く。古人皇子の曰はく、「鼠は穴に伏れて生き、穴を失ひて死ぬと」とのたまふ。入鹿是に由りて行くことを止む。

軍将等を遣りて、膽駒に求めしむ。竟(つひ)に覓(もとめう)ること能はず。是に、山背大兄王等、山より還りて、斑鳩寺に入ります。軍将等即ち兵を以て寺を囲む。是に、山背大兄王、三輪文屋君をして軍将等に謂らはしめて曰はく、「吾、兵を起して入鹿を伐たば、其の勝たむこと定(うつむな)し。然るに一つの身の之故に由りて、百姓を残(やぶ)り害はむことを欲(ほ)りせじ。是を以て、吾が一つの身をば、入鹿に賜ふ」とのたまひ、終に子弟、妃妾と一時に自ら経(わな)きて倶に死せましぬ。時に、五つの色の幡蓋、種々の伎樂、空に照灼りて、寺に臨み垂れり。衆人仰ぎ観、称嘆きて、遂に入鹿に指し示す。其の幡蓋等、変りて黒き雲に為りぬ。是に由りて、入鹿見ること得るに能はず。蘇我大臣蝦夷、山背大兄王等、総て入鹿に亡さるといふことを聞きて、嗔り罵りて曰く、「噫、入鹿、極甚だ愚癡にして、専行暴悪す。儞が身命、亦殆からずや」といふ。時の人、前の謠の応を説きて曰く、「『岩(いは)の上(うへ)に』といふを以ては、上宮に喩ふ。『小猿(こさる)』といふを以ては、林臣に喩ふ【林臣、入鹿ぞ】。『米焼(こめや)く』といふを以ては、燒上宮を焼くに喩ふ。『米(こめ)だにも 食(た)げて通(とほ)らせ 山羊(かましし)の老翁(をぢ)』といふを以ては、山背王の頭髮斑雜毛にして山羊に似るに喩ふ。又其の宮を棄捨てて深き山に匿れし相なり。
 是歳、百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚を以て、三輪山に放ち養ふ。而して終に蕃息らず。


●鎌足突然の登場 
三年の春正月の乙亥の朔(644.01.01)に、中臣鎌子連を以て神祗伯に拝(め)す。再三に固辞(いな)びて就(つかへまつ)らず。疾を称して退でて三嶋に居り。時に、軽皇子、患脚(みあしのやまひ)して朝(まゐりつか)へず。中臣鎌子連、曾(いむさき、すでに、以前)より軽皇子に善(うるは)し。故彼の宮に詣でて、侍宿(とのゐにはべ)らむとす。軽皇子、深く中臣鎌子連の意気高く逸(すぐ)れて容止(かたち)犯(な)れ難きことを識りて、乃ち寵妃阿倍氏を使ひたまひて、別殿を淨め掃へて、新しき蓐を高く鋪(し)きて、具(とも)に給(つ)がずといふこと靡(な)からしめたまふ。敬び重(あが)めたまふこと特(こと)に異(け)なり。中臣鎌子連、便ち遇(めぐ)まるるに感(かま)けて、舍人に語りて曰く、「殊に恩沢(みうつくしび)を奉ること、前より望(ねが)ひし所に過ぎたり。誰か能く天下に王(きみ)とましまさしめざらむや」といふ。【舍人を充てて駈使(つかひ)とせるを謂ふ】。舍人、便ち語らふ所を以て、皇子に陳(まう)す。皇子大きにびたまふ。中臣鎌子連、人と爲りて忠正しくして、匡し済(すく)ふ心有り。乃ち、蘇我臣入鹿が、君臣長幼の序を失ひ、社稷を𨶳(門視)𨵦(門兪)(うかがふ)ふ権(はかりごと)を挾(わきばさ)むことを憤(いく)み、歷試(つた)ひて王宗のに中に接(まじは)りて、功名(いたはり)を立つべき哲主(さかしききみ)をば求む。便ち心を中大兄に附くれども、䟽然(さかり)て未だ其の幽抱(ふかきおもひ)を展ぶること獲ず。

●中大兄突然登場と鎌足の蹴鞠密談
偶(たまたま)中大兄の法興寺の槻の樹の下に打毱(まりく)うる侶に預りて、皮鞋の毱の隨(まま)脱け落つるを候(まも)りて、掌中に取り置ちて、前みて跪きて恭みて奉る。中大兄、対(むか)ひ跪きて敬びて執りたまふ。兹より、相(むつ)び善(よ)みして、倶に懷ふ所を述ぶ。既に匿るる所無し。後に他の頻に接はることを嫌はむをことを恐りて、倶に手に黄卷(ふみまき)を把りて、自ら周孔の教を南淵先生の所に学ぶ。遂に路上、往還ふ間に、肩を並べて潜に図る。相ひ協はずといふこと無し。是に、中臣鎌子連議りて曰さく、「大きなる事を謀るには、輔(たすけ)有るに如かず。

●蘇我倉山田一族の仲介
請ふ、蘇我倉山田麻呂の長女を納れて妃として、婚姻の眤(むつみ)を成さむ。然して後に陳べ説きて、与に事を計らむと欲ふ。功を成す路、兹より近きは莫し」とまうす。中大兄、聞きて大きにびたまふ。曲に議る所に従ひたまふ。中臣鎌子連、即ち自ら往きて媒(なかだ)ち要(かた)め訖りぬ。而るに長女、期(ちぎ)りし夜、族に偸(ぬす)まれぬ。【族は身狹臣を謂ふ】。是に由りて、倉山田臣、憂へ惶(かしこま)り、仰ぎ臥して所爲知らず。少女、父の憂ふる色を怪びて、就きて問ひて曰く、「憂へ悔ゆること何ぞ」といふ。父其の由を陳ぶ。少女曰く、「願はくはな憂へたまひそ。我を以て奉進りたまふとも、亦復晩(おそ)からじ」といふ。父、便ち大きにびて、遂に其の女を進る。奉るに赤心を以てして、更に忌む所無し。中臣鎌子連、佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田を中大兄に挙げて曰く、云々。


●アンチ瑞兆=ふくろう=ずるがしこさの象徴
三月に、休留、【休留は茅鴟なり】。豊浦大臣の大津の宅の倉に子を産めり。倭国言さく、「頃者、菟田郡の人押坂直【名を闕せり】。一の童子を将て、雪の上に欣遊(うれ)しぶ。菟田山に登りて、便ち紫の菌の雪より挺て生ふるを看る。高さ六寸余。四町許に満めり。乃ち童子をして採取りて、還りて隣の家に示す。総言はく、『知らず』といふ。且毒しき物なりと疑ふ。是に、押坂直と童子と、煮て食ふ。大だ気しき味有り。明日往きて見るに、都て不在し。押坂直と童子と、菌の羹を喫へるに由りて、病無くして寿し」とまうす。或人の云く、「蓋し、俗、芝草といふことを知らずして、妄に菌と言へるか」といふ。

●奇談
夏六月の癸卯の朔(06.01)に、大伴馬飼連、百合の花を献れり。茎の長さ八尺。其の本異にして末連(あ)へり。乙巳(06.03)に、志紀上郡言さく、「人有りて、三輪山にして、猿の昼睡るを見て、窃かに其の臂を執へて、其の身を害らず。猿猶合眼(ねぶ)りて歌して曰く、

武舸都烏爾 陀底屢制囉我 儞古泥舉曾 倭我底烏騰羅毎、拕我佐基泥 佐基泥曾母野 倭我底騰羅須謀野
 向(むか)つ嶺(を)に 立(たて)てる夫(せ)らが 柔手(にこで)こそ 我(わ)が手(て)を取(と)らめ 誰(た)が裂手(さきで) 裂手(さきで)そもや 我(わ)が手(て)取(とら)らすもや 

 其の人、猿の歌を驚き怪びて、放捨(す)てて去りぬ。此は是、数年を経歴(へ)て、上宮の王等の、蘇我鞍作が爲に、胆駒山に囲るる兆なり。戊申(06.06)に、剣池の蓮の中に、一つの茎に二つの萼ある者有り。豊浦大臣、妄りに推して曰く、「是れ、蘇我臣の栄えむとする瑞なり」といふ。即ち金の墨を以て書きて、大法興寺の丈六の仏に献る。


●蝦夷の傍若無人
 是の月に、国の内の巫覡等、枝葉を折り取りて、木綿に懸掛(しでか)けて、大臣の橋を渡る時を伺ひて、争(いそ)ぎて神語の入微(たへ)なる説(ことば)を陳ぶ。其の巫甚多(にへさ)なり。具に聴くべからず。老人等の曰、「移風らむ兆なり」といふ。時に、謠歌三首有り。其の一に曰く、
波魯波魯儞 渠騰曾枳舉喩屢、之麻能野父播羅。
 
遥遥(ほろほろ)に 言(こと)そ聞(きこ)ゆる 嶋(しま)の藪原(やぶはら)

 其の二に曰く、
烏智可拕能、阿娑努能枳々始、騰余謀作儒、倭例播禰始柯騰、比騰曾騰余謀須。
 彼方(をちかた)の 浅野(あさの)の雉(きぎし) 響(とよも)さず 我(われ)は寝(ね)しかど 人(ひと)そ響(とよも)す

其三曰、
烏麼野始儞、倭例烏比岐例底、制始比騰能、於謀提母始羅孺、伊弊母始羅孺母。
 小林(をばやし)に 我(われ)を引(ひ)きいれ 姧(せ)し人(ひと)の 面(おもて)も知(し)らず 家(いへ)も知(も)らず


 向うの嶺にいる男等の やさしい手ならば 私の手をとってほしいものを 誰かの荒々しい手で 荒々しい手ですってよくもまあ 私の手をどうしてとらせてあげられましょう。


●東国多氏の勝手な信仰、河勝これを打つ、古い常世信仰の押し込め
秋七月に、東国の不尽河の辺の人大生部多、虫祭ることを村里の人に勧めて曰く、「此は常世の神なり。此の神を祭る者は、富と寿とを致す」といふ。巫覡等遂に詐きて、神語に託せて曰く、「常世神を祭らば、貧しき人は富を致し、老いたる人は還りて少(わか)ゆ、是に由りて、加(ますます)勧め、民の家の財宝を捨てしめ、酒を陳ね、菜、六畜を路の側に陳ねて、呼ばはしめて曰く、「新しき富入来れり」といふ。都鄙の人、常世の虫を取りて、清座に置きて、歌ひ儛ひて、福を求めて珍財を棄捨つ。都(かつ)て益す所無くして、損(おと)り費ゆること極めて甚し。是に、葛野の秦造河勝、民の惑はさるを悪みて、大生部多を打つ。其の巫覡等、恐りて勧め祭ることを休む。時の人便ち歌を作りて曰く、

禹都麻佐波 柯微騰母柯微騰 枳舉曳倶屢 騰舉預能柯微乎 宇智岐多麻須母
 太秦(うつまさ)は 神(かみ)とも神(かみ)と 聞(きこ)え来(く)る 常世(とこよ)の神(かみ)を 打(う)ち懲(きた)ますも

此の虫は、常に於橘の樹に生る。或いは曼椒に生る【曼椒、此をば褒曾紀と云ふ】。其の長さ四寸余、其の大きさ頭指許。其の色緑にして有黒点(くろまだら)なり。其の㒵(かたち)全ら養蚕に似れり。


●蘇我氏豪邸
 冬十一月に、蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣、家を甘檮岡に双べ起つ。大臣の家を呼びて、上の宮門と曰ふ。入鹿が家をば、谷の宮門【谷、此をば波佐麻と云ふ】と曰ふ。。男女を呼びて王子と曰ふ。家の外に城柵を作り、門の傍に兵庫を作る。門毎に、水盛るる舟一つ、木鉤数十を置きて、火の災に備ふ。恆に力人をして兵を持ちて家を守らしむ。大臣、長直をして、大丹穗山に、桙削寺を造らしむ。更家を畝傍山の東に起つ。池を穿りて城とせり。庫を起てて箭を儲(つ)む。恒に五十の兵士を将て、身に繞(めぐ)らして出入す。健人を名づけて東方の儐從者と曰ふ。氏々の人等、入りて其の門に侍り。名づけて祖子孺者と曰ふ。漢直等、全ら二つの門に侍り。

四年の春正月(645.01.01)に、或いは阜嶺に、或いは河辺に、或いは宮寺の間にして、遙に見るに物有り。而して猴の吟を聴く。或いは一十許、或いは二十許。就きて視れば、物便ち見へずして、尚鳴き嘯く響聞ゆ。其の身を覩ること獲るに能はず。

【旧本に云く、是歳、京を難波に移す。而して板蓋宮の墟と爲らむ兆なりといふ】。時の人の曰く、「此は是、伊勢大の使なり」といふ。


●高句麗僧鞍作を謀殺=入鹿の死をにおわす
 夏四月の戊戌の朔(04.01)に、高麗の学問僧等言さく、「同学鞍作得志、虎を以て友として、其の術を学び取れり。或いは枯山をして変へて青山にす。或いは黄なる地をして変へて白き水にす。種々の奇しき術、殫して究むべからず。又、虎、其の針を授けて曰く、「愼矣愼矣、人をして知らしむること勿れ。此を以て治めれば、病愈えずといふこと無し」といふ。果して言ふ所の如くに、治さめて差えずといふこと無し。得志、恒に其の針を以て柱の中に隠し置けり。後に、虎、其の柱を折りて、針を取りて走去げぬ。高麗国、得志が帰らむと欲ふ意を知りて、毒を与へて殺す。


●乙巳の変
六月の丁酉の朔甲辰(06.08)に、中大兄、密に倉山田麻呂臣に謂りて曰く、「三韓の調を進らむ日に、必ず将に卿をして其の表を読み唱げしめむ」といふ。遂に入鹿を斬らむとする謀を陳ぶ。麻呂臣許し奉る。戊申(06.12)に、天皇大極殿に御(おはしま)す。古人大兄侍り。中臣鎌子連、蘇我入鹿臣の、人と爲り疑多くして、昼夜剣持けることを知りて、俳優に教へて、方便(たばか)りて解(ぬ)かしむ。入鹿臣、咲ひて剣を解く。入りて座に侍り。倉山田麻呂臣、進みて三韓の表文を読み唱(あ)ぐ。是に、中大兄、衞門府に戒めて、一時に倶に十二の通門を鏁めて、往来はしめず。衞門府を一所に召し聚めて、将に給禄(ものさづ)けむとす。時に、中大兄、即ち自ら長き槍を執りて、殿の側に隠れたり。中臣鎌子連等、弓矢を持ちて爲助衞(ゐまも)る。海犬養連勝麻呂をして、箱の中の両つの剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田とに授けしめて曰く、「努力努力、急須(あからさま)に斬るべし」といふ。子麻呂等、水を以て送飯(いひす)く。恐りて反吐(たまひいだ)す。中臣鎌子連、嘖めて励ましむ。倉山田麻呂臣、表文を唱ぐること将に尽きなむとすれども、子麻呂等の来ざることを恐りて、流づる汗身に浹(あまね)くして、声乱れて動(わなな)く。鞍作臣、怪びて問ひて曰く、「何故か掉(ふる)ひ戦(わなな)く」といふ。山田麻呂対へて曰く、「天皇に近つける恐(かしこ)みに、不覺にして汗流づる」といふ。

中大兄、子麻呂等の、入鹿が威に畏りて、便旋ひて進まざるを見て曰はく、「咄嗟」とのたまふ。即ち子麻呂等と共に、出其不意(ゆくりもな)く、剣を以て入鹿が頭肩を傷り割ふ。入鹿驚きて起つ。子麻呂、手を運し剣を揮きて、其の一つの脚を傷りつ。入鹿、御座に転び就きて、叩頭みて曰さく、「当に嗣位に居すべきは、天子なり。臣罪を知らず。乞ふ、垂審察(あきらめたま)へ」とまうす。天皇大きに驚きて、中大兄に詔して曰はく、「知らず、作る所、何事有りつるや」とのたまふ。中大兄、地に伏して奏して曰さく、「鞍作、天宗を尽くし滅して、日位を傾けむとす。豈天孫を以て鞍作に代へむや」とまうす。【蘇我臣入鹿、更の名は鞍作】。天皇、即ち起ちて殿の中に入りたまふ。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、入鹿臣を斬りつ。是の日に、雨下りて潦水庭に溢めり。席障子を以て、鞍作が屍に覆ふ。古人大兄、見て私の宮に走り入りて、人に謂ひて曰く、「韓人、鞍作臣を殺しつ。【韓政に因りて誅せらるるを謂ふ】 吾が心痛し」といふ。即ち臥内に入りて、門を杜して出でず。中大兄、即ち法興寺に入りて、城として備ふ。凡て諸の皇子、諸王、諸卿大夫、臣、連、伴造、国造、悉に皆隨侍り。人をして鞍作臣の屍を大臣蝦夷に賜はしむ。是に、漢直等、眷属を総べ聚め、甲を擐、兵を持ちて、大臣を助けて軍陣を処き設けむとす。中大兄、将軍巨勢陀臣を使して、天地開闢けてより、君臣始めて有つことを以て、賊の党に説かしめたまひて、赴く所を知らしめたまふ。是に、高向臣国押、漢直等に謂りて曰く、「吾等、君大郎に由りて、戮されぬべし。大臣も、今日明日に、立(たちどころ)に其の誅されむことを俟たむこと決(うつむな)し。然らば誰が爲に空しく戦ひて、尽に刑せられむか」と言ひ畢りて、剣を解き弓を投りて、此を捨てて去る。賊の徒亦隨ひて散り走ぐ。

己酉(06.13)に、蘇我臣蝦夷等、誅されむとして、悉に天皇記・国記・珍宝を焼く。船史惠尺、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄に奉献る。是の日に、蘇我臣蝦夷及び鞍作が屍を、墓に葬ることを許す。復哭泣を許す。是に、或人、第一の謠歌を説きて曰く、「其の歌に、『遥遥(ほろほろ)に 言(こと)そ聞(きこ)ゆる 嶋(しま)の藪原(やぶはら)』と所謂ふは、此、宮殿を嶋大臣の家に接ぜて起てて、中大兄、中臣鎌子連と、密に大義を図りて、入鹿を戮さむと謀れる兆なり」といふ。第二の謠歌を説きて曰く、「其の歌に『彼方(をちかた)の 浅野(あさの)の雉(きぎし) 響(とよも)さず 我(われ)は寝(ね)しかど 人(ひと)そ響(とよも)す』と所謂ふは、此上宮の王等の性順くして、都て罪有ること無くして、入鹿が爲に害されたり。自ら報いずと雖も、天の、人をして誅さしむる兆なり。第三の謠歌を説きて曰く、「其の歌に『小林(をばやし)に 我(われ)を引(ひ)きいれ 姧(せ)し人(ひと)の 面(おもて)も知(し)らず 家(いへ)も知(も)らず』と所謂ふは、此入鹿臣が、忽に宮の中にして、佐伯連子麻呂・稚犬養連網田が爲に、誅さるる兆なり」といふ。
岩波文庫 『日本書紀』 坂本太郎・家永三郎・井上光禎・大野晋 校注より





さて、全部読まれましたか?
みっちりと歴史が詰め込まれていたでしょう。


では天智天皇とはいったい誰なのか?あなたにはもうわかったことでしょう。そして天智と鎌足がいかに百済を援助したかったかも。それはなぜだろう?

弟の天武は新羅を重視し、唐を重視した天皇。
ではこの二人は本当に兄弟か?赤の他人では?

飛鳥末期に作られるはずだった天智の朝廷とは、実は?

なぜ不可能に決まっていた百済滅亡を天智と鎌足は助けようとしたのか?それは・・・


天智・鎌足、
逃亡百済王家
だったなら当然のことだったとなりはしないか?





つづく













翹岐記事の分析 『日本書紀』はまったくの出鱈目本か?

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韓国ドラマの翹岐


●翹岐と大佐平智積に関した記事
二月の丁亥,百済の弔使の人等言く、「去年十一月、大佐平智積卒せぬ。又百済の使人、崐崘の使を海裏に擲れたり。今年の正月に、国の主の母薨せぬ。又弟王子、兒翹岐及び其の母妹の女子四人、内佐平岐味、高き名有る人四十余、嶋に放たれぬ」といふ。

・ここで百済の使者は智積が死んだと伝えている。
・また翹岐とその一家が離島に送られたとも言っている。

庚戌(02.24)に、翹岐を召して、阿曇山背連の家に安置らしむ。辛亥(02.25)に、高麗・百済の客に饗へたまふ。癸丑(02.27)に、高麗の使人・百済の使人、並に罷り帰る。

夏四月の丙戌の朔癸巳(04.08)に、大使翹岐、其の従者を將て朝に拜す。乙未(04.08)に、蘇我大臣、畝傍の家にして、百済の翹岐等を喚ぶ。親ら對ひて語話す。仍りて良馬一匹・鐵廿铤を賜ふ。

・翹岐のことを大使だと書いている。
・蝦夷が翹岐を厚遇したと書いている。

五月の乙卯の朔己未(05.05)に、河内国の依網屯倉の前にして、翹岐等を召びて、射猟を観しむ。庚午(05.16)に、百済国の調の使の船と吉士の船と、倶に難波津に泊れり。【蓋し吉士は前に使を百済に奉りたるか】。壬申(05.18)に、百済の使人調進る。吉士服命す。乙亥(05.21)に、翹岐が從者一人死去ぬ。丙子(05.22)に、翹岐が兒死去ぬ

・続々と百済から人が来ている。これはみな逃避行や救援希求であろう。
・理由は一切なしで、いきなり翹岐の従者と実子が死んでいる。

秋七月の甲寅の朔壬戌(07.09)に、客星月に入れり。乙亥(07.22)に、百済の使人大佐平智積等に朝に饗へたまふ。
【或本に云く、百済使人大佐平智積及び兒達率 、名を闕せり・恩率軍善といふ】。
・前に死んでいるはずの智積が朝廷で饗宴を受けている。

乃ち健兒に命せて、翹岐が前に相撲らしむ。智積等、宴畢りて退でて、翹岐が門を拜す。丙子(07.23)に、蘇我臣人鹿が豎者、白雀の子を獲る。

現代文にしてこれらを並べてみよう。
二月二十四日、翹岐(ぎょうき)を呼んで阿曇山背連(比羅夫)の家に住まわせた。
夏四月八日、大使翹岐(ぎょうき)が従者を連れて帝に拝謁した。
十日、蘇我大臣は畝傍の家に、百済の翹岐(ぎょうき)らを呼んで親しく対談した。良馬一匹と鉄(鉄の延べ板)二十挺を贈った。
五月五日、河内国依網屯倉の前に、翹岐(ぎょうき)らを呼んで騎射を見物させた。
二十一日、翹岐(ぎょうき)の従者の一人が死んだ。
二十二日、翹岐(ぎょうき)の子どもが死んだ。
二十四日翹岐(ぎょうき)は妻子を連れて、百済の大井の家(河内長野市大井)に移った。
二十二日、百済の使者、大佐平智積(ちしゃく)らに朝廷で饗応された。そこで力の強い者に命じて、翹岐(ぎょうき)の前で相撲をとらせた。
智積(ちしゃく)らは宴会が終わって退出し、翹岐(ぎょうき)の家に行き門前で拝礼した。


登場人物解説
韓流歴史ドラマファンならだいたい御存知かも?

●翹岐 (ぎょうき。朝鮮読みキョギ:교기)
「義慈王の甥(おい)または子。皇極(こうぎょく)天皇元年(642)義慈王の母の死にともない島流しとなる。同年来日し大使として参内(さんだい),蘇我蝦夷(えみし)宅にまねかれた。のち百済大井(大阪府河内長野市か)にうつった。」コトばんく 翹岐
「義慈王は即位するとただちに貴族中心の政治運営体制に改革を行った。642年に王族翹岐 とその母妹女子4人を含んだ高名人士40人を島で放逐した。すると貴族らの権力が弱化されて王権が強化された。しかし王権強化のための義慈王の極端な措置のため、王族と貴族の間に対立が深刻になって、百済支配層の分裂が発生するようになった。またこのころは日本に朝貢もしており、王子豊璋(徐豊璋)王と禅広王(善光(徐善光)王)を人質として倭国に滞在させていた。」Wiki翹岐



●大佐平砂宅智積(ちしゃく)
? 義慈王のときの大佐平だという。翹岐 とは共に義慈王に反駁する旧王族となるか?韓国に智積石碑あり。京都の智積院との関係はないだろう。

百済には
砂宅妃(サテクビ:사택비)  オ・ヨンス(오연수)という王妃の名がある。
沙宅積(サテクジョクドク)の娘で武王(ムワン)の妃。懸命かつ冷徹・冷静な人物である。
「王として戴冠するものは百済の純血でなければならない」と息子翹岐(キョギ:교기)を王にしようとあらゆる画策を巡らす。
つまり翹岐 の母親であるので、砂宅智積も翹岐 の血縁ではないかと思える。


●余豊璋
扶余 豊璋(ふよ ほうしょう、扶余豐璋、生没年不詳)は、「百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子。『日本書紀』での表記は扶余豊璋もしくは徐豊璋であるが、『三国史記』では余豊璋もしくは徐豊璋、『旧唐書』では余豊もしくは徐豊である。また、『日本書紀』にも登場する百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある。倭国滞在中、百済本国が唐・新羅に滅ぼされたため、百済を復興すべく帰国した。」

「『書紀』には既に孝徳天皇の650年2月15日、造営途中の難波宮で白雉改元の契機となった白雉献上の儀式に豊璋が出席している。豊璋は日本と百済の同盟を担保する人質ではあったが、倭国側は太安万侶の一族多蒋敷の妹を豊璋に娶わせるなど、待遇は賓客扱いであり決して悪くはなかった。」Wiki扶余豊璋


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●豊璋の父百済義慈王と祖父武王
武王(ぶおう、ム・ワン 무왕 580年 ? - 641年 )は、百済 の第30代の王(在位:600年 - 641年 )。27代王の威徳王 の子。諱 は璋、『三国遺事 』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『隋書 』には余(徐)璋(余(徐)は百済王の姓)の名で現れる。
※武王の「璋」はあきらと読めるので「明」と同義だから舒明天皇のことともいう説アリ。http://ameblo.jp/miura-hari/entry-11941926837.html
これは要するに皇極紀が百済史書を置き換えてまるっと作られたという偽書説につながる。


義慈王(ぎじおう、ウイジャ・ワン 의자왕 599年 - 660年 )は、百済の第31代、最後の王(在位:641年 - 660年)で、諱の義慈のままに義慈王と記される。第30代の武王の嫡男である。『旧唐書』などには扶余義慈として現れる。高句麗と共同し新羅を攻めていたが、逆に唐・新羅同盟を成立させてしまい、660年に唐に滅ぼされた。孝、泰、隆、演、豊璋、勇[1](百済王善光)の6人の王子の名が確認できるほか、庶子41人がいた。
いずれもWiki






鈴木靖民(すずき・やすたみ、横浜歴史博物館館長)の一説では豊璋=翹岐
小林惠子(こばやし・やすこ、作家)説では翹岐=中大兄、智積=中臣鎌足
しかし『日本書紀』では大職冠を下賜された人物が二人あり、それは豊璋と、死の直前の鎌足だけである。大阪府高槻市、昔の摂津三島にある阿武山(あぶやま)古墳からこの冠帽らしき遺物が出ており、阿武山古墳を鎌足の墓とする説が有力視されているが、『日本書紀』では鎌足はのちに息子不比等によって今の談山(たんざん)神社がある場所に改葬されたとあり、それにしては阿武山には被葬者の遺骸が存在している。もしこの冠が大職冠であるのなら、阿武山は今一人の被下賜者である豊璋の墓だとなる。

小林説では、鎌足の史書での登場は、豊璋が百済王になるために日本から消えた直後に鎌足が登場し、豊璋が百済で行方不明になったとたんに大和で鎌足が再登場する。そのときの鎌足はすでに老衰し、京都山科の別業(別荘)で病に伏していた。この山科は大津と隣り合い、息長氏や三尾氏、あるいは多くの渡来系移住者の、ともに居住地であり、その途中に天智天皇陵も置かれている。鎌足はそれゆえに山科背後の山稜地域を渡来技術者によって開拓、鉱山開発していたと考えられる。実際、いくつかの製鉄遺跡もここに点在する。

藤原氏、鎌足の歴史上の出自は明確でなく諸説あるが、そのなかで東国常陸(茨城県)出身説が強いのであるが、東国や東海で『日本書紀』にある大生部などの多氏に近い諸族の存在があったことは間違いなく、それは開拓民として彼らが早くから入ったということであろうが、ほかに茨田氏や阿蘇氏の入った痕跡が存在する。多氏からは翹岐へ妻が入っており、豊璋はその甥に当たるとされ、多氏、阿蘇氏と藤原氏、鎌足、天智らの深い関わりはあったはずである。

また摂津三島には春日神社があり、この春日(かすが)地名が藤原氏とどのようにからむかもひとつのヒントになるだろう。春日は奈良の春日山が有名であり、まさに春日大社は藤原氏の本拠地である。さらにこの神社は常陸の 藤原氏の神社となる鹿島神宮から分祀されたとされる。摂津三島が今、茨木市と高槻市に分かれるが、「いばらき」地名で鹿島と三島は一致する。また「かしま」は熊本県阿蘇山の杵島(きしま)からくる名前で、これは阿蘇氏、多氏の九州からの移住があったためだと民俗誌では定説となっている。「きしま」とは鬼島で、鉱山開発地名である。

このように、藤原氏に限らず、蘇我氏などの時の有力者には鉱山、特に武器の材料となる鉄が重要な産業であり、それを支えたのが渡来系技術者、あるいは先住系縄文以来の土着の「くずの民」たちであった。それをいかに牛耳るか、また船を手繰るこれも旧来の海人族をいかに手繰れるかが、宰相、摂政としての座を安定化させたのである。

鎌足が乙巳の変直前に神祇官を蘇我蝦夷大臣から任じられ、これを固辞して三島に篭るのであるが、これは仏教を国家信仰としようとしていた蘇我氏のむしろ策謀で、圧迫されていた旧来の神道の長になればいずれは政治的に鎌足があやうい立場に追い込まれかねないからであろう。隠棲の理由はこれであろう。そこでいきづまったあげくにクーデターしかなくなった。

鎌足と中臣氏には確たる氏族関係があったかどうか定かでなく、『日本書紀』では不比等が力を持ったのちに鎌足像を作り上げてある。したがって鎌足がどこから出てきたかも不明なのであるから、これを百済から来たとしてもあながち違和感はあるまい。

さて、死んだと報告された智積が日本にいきなり登場するシーンは、自国で死んだと言う流言を流してとんずらしたということだろう。最初から翹岐も智積も、意図的に日本に亡命したということだ。その理由は百済の義慈王との不仲である。旧態官僚として追い出されたのだ。だから二人ともに、故郷百済には強い復帰の思いがあるはずだ。



ただし、筆者には別に、『日本書紀』のこうした出来事はすべて百済の出来事を置き換えただけであり、日本の大和では特段なにも事跡はなかった(もちろん壬申の乱や乙巳の変や磐井の乱やていびの乱などもなかったかも。すべて治乱興亡思想で創作)。さらに白村江の敗北もなしで、大和は救援しなかったという説も持っている。

つまり『日本書紀』は全部作り事説だが、そうともいえない考古学的新発見もあるので、『日本書紀』のどこまでがうそか本当かを見極めるのがこれからの歴史学だと思っている。

中国共産主義歴史学の見方は、『日本書紀』は大げさに作り上げた絵空事というのが定説であるが、それもこれまでの中国歴代王家と大和王家の関係から出た歴史が裏付けた解釈で、あながち虚言ともいえないものだろう。日本の地方の立場から見ても、大和を中心とした『日本書紀』記述には信憑性は乏しいという見方が強い。

かと言って九州の王権がそれほど強く、長く、7世紀頃まで中国と強い関係を持ってきたかといえば、それも考えにくい。古代は朝貢外交であるから、列島も半島も、二転三転した地域国家の朝貢外交が出入りしたのが当然である。まして中国でさえ王権は常に安定しなかった。『日本書紀』はやはり女帝を正統化するためにかなりの背伸びや潤色がふんだんに盛り込まれた物語仕立てなのである。そこに信憑性がないのは、大和にとっても同じコトであろう。








冒険する考古学/草を束ねた「古代舟」、与那国島-西表島の海を渡れるか

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プロジェクトチームHPトップ画像より


草を束ねた「古代舟」、与那国島-西表島の海を渡れるか
旧石器時代に祖先が大陸からどのように海を渡ってきたかを再現検証する、国立科学博物館のプロジェクトチームが16日、都内の同館で会見し、航海で使うのと同じ「古代舟」の製作を公開した。プロジェクトは第1弾として、7月に草を束ねて造った舟で与那国島から西表島を目指し航海する。


同プロジェクトは必要な資金をインターネットで募っている。
 ホームページは
https://readyfor.jp/projects/koukai





本心を言えば、ぼくは沖縄と奄美の間の、いわゆる縄文後期の貝の道が簡易な船で渡れるかがとても気になっている。この海は波が高く激しい海で、今でも船の航行があやうしとされていて、日本列島で唯一の原人である港川人でも渡れなかった・・・つまり琉球原人と本土原人がつながりがないという説をくつがえせるかどうかの長い海峡なのである。縄文時代からの海の道では、あきらかに九州や北海道へも南海産の貝が運ばれており、彼らには可能だったわけであるが、原人や旧石器人にもそれが可能だったら、古くから南方系の血脈が本土にこれていたことの証明になるだろうが・・・。

それにしても、こうした冒険型歴史学の実験は最近増えてきた。大いに期待しようではないか!

『日本書紀』をちまちま謎解きしているよりよほど健康的である。

うらやましい。





ただ、ひとつ気になることは、3万年前は氷河期で、人が海を渡るようになれたのは縄文海進以降の1万年前だと思う。それが航海の常識。海は深くならなければ岩礁が露出しており、すぐにこっぱみじんになると思うんだが。

 

「前方後円墳国家」論理は棄てるべし

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●「前方後円墳国家」
これは畿内系の国家論理である。
広瀬和雄の古い理論。

前方後円墳が大きく、多いことが日本最初の国家建設と密接な関係を持っていた・・・という単純極まりない論理構造である。


●なぜそれがもう古いのか?
1 古墳の大きさや外見や数の論理だけで、中身の変遷を論じていない
近畿の古墳の埋葬物は、時代の中盤以降に横穴式石室が入る頃まで、九州の弥生時代の墳丘墓よりもまったく貧弱である。横穴式という方式は、それまでの竪穴よりも空間が格段に広く、つまり埋葬物をたくさん入れられるのと、あとから何度も石室を開けて、再度の追葬を可能にした。つまり国力が充実し、中国や朝鮮など対外国家へ船を出せるだけの国家の体裁が整ってはじめて可能な形式が横穴式石室である。しかるに長く竪穴式を続けてきた近畿(古市大古墳群でさえ竪穴)にはまだ国家というものを作れるほどの国力がないと判断するほかない。

2 巨大であればいいのなら初期の纏向古墳群からすでに巨大。しかし内容が貧弱。これは矛盾する。祭祀に使う鏡がいくら多く出ても、それは国家体制がまだ古典的な祭祀シャーマン国家状態だった証拠にしかならず。九州のように実用鉄器が出ねばだめだ。そういう状況はむしろ平和ボケ国家と言ったほうがいい。軍事力にみんなが反対していてもいいのがそういう段階である。現代と同じ。変わらなくちゃと思い始める時代が「国家」の始まりなのである。

そういう時代のの考古学発掘状況が意味するのは、その地域がやっとヘテラルキー縄文社会から突然ヒエラルキー弥生社会に急変身したくなった時代にほかならない。いまだ原始社会なのである。

その最初のきっかけは3世紀後半。卑弥呼の使者が実際に半島を見てきてからだったが、それは朝貢外交のせいでしかなく、再び国内に騒動が持ち上がってぽしゃった。そのあと再び朝貢したのは100年後の5世紀。間の4世紀は大陸が騒然としていてそれどころではない。このときには朝貢した政権がすでにかわっており、吉備の?倭五王が強力な古墳を作り始める(吉備造山・作山など)。だがまだ竪穴式のままだ。ここで再び横穴式が待望され、同時に大陸の情勢に対応できる安保体制が求められた。現代と同じで、防衛力増強のためには武力先進地である北部九州との談合内閣がひっきんのテーマとなった。それで九州を招聘して、見た目だっけは巨大なヒエラルキーが目に見える古墳が大阪に作られた。しかし埋蔵物の内容はまだ九州の鉄器などには及ばない。大阪湾からこの次期直前に出る土器は吉備系であり、それが生駒山山麓から大和へ変化しながら北上するので、この倭五王政権の主はまず吉備王だと言えるのである。吉備王と在地縄文系の葛城族の同盟が最初の大和のミニ王権であることは間違いない。葛城とはそもそも南九州と出雲と後期縄文人の合体してできたものだ。それを滅ぼし懐柔し合体する複数の渡来系があとから来るはずである。こういう大きな流れでは『日本書紀』『古事記』はそれほど嘘は書いていない。だいたい合致する。ただし氏族についていろいろ潤色している。

一口で竪穴から横穴へというが、作ろうと思ったら横穴式のノウハウが必要である。それは北部九州のほが早かった。3世紀纏向古墳群が竪穴式であるのと、土器で九州様式のものが出てこないのは矛盾がない。九州から武人がこなければ実用としての鉄器は出てくるはずがない。ということは、この時点でまだ大和はヘテ~ヒエの過渡期で、武力をあまり必要としていない。ということは直接的な大陸からの脅威が山と地域にはまだ及んでいないとなる。逼迫した軍備体制がまだ整わず、むしろ遅れていたと思われてきた東国のほうが武器が多いくらいだ。近畿は平和ボケしていてよかったのだろう。となると、倭王武の上奏文はやはり大げさな仮冒である。そもそも尋常でない巨大さの墓を作っていてもよい時代だったのが倭五王時代である。ぼけている。


中身までが九州並みになったのはようやく雄略あたりからで、九州では逆に中身が薄くなる。実力者が大和へ移住したからである。そして大陸事情が、表玄関の九州では墓に入れている場合でもなくなっていったからだ。実用品のほうが必要になるのである。


半島がゆらぎはじめる飛鳥時代には、もう古墳自体が終末期で、近畿も中身に鉄器どころではなくなってくる。つまり北部九州という遠い防壁の事情が、内陸の近畿にまで及んでくるのpだ。そして高句麗・百済が滅亡する。こうなったころ、ようやく天智や天武のような実力のある王(と描かれた)が近畿に登場するのである。つまりあきらかに考古学では、九州よりも近畿はヒエラルキーへの目覚めが遅く、そして急激なのである。短期間に国家ができあがる。だからよそから既成の力や技術を招聘せねば無利だったはずである。


こうしたことから前方後円墳は見せかけだけのペーパータイガーであることは簡単に見て取れる。その内部構造から見ても、中国と隣接してきた朝鮮諸国の墓に比べると、石積みも原始的で、切石技術もいい加減。ただ土を広く高く盛り上げるだけの版築工法でしかない。そしてその後の日本の城郭技術にしても大陸ほどの秀麗な緻密さは取り入れられていない。


国家とは見せ掛けではない。中身である。

防衛力、経済力、交渉力、政治力のすべてが備わってこそ国家である。日本はいまだにそれらが整っていない。考古学者も歴史学者も、現代をこそよく見詰めるべきだ。主観的な日本至上主義を持ったままでは、歴史学は、科学とはいつまでも認めてもらえまい。近畿の歴史学はそういうところがいつまで経っても戦前のままだ。右の亡霊のたたりにいまだに震えながら考えているのだろう。



たたら製鉄・四隅突出型墳丘墓のルーツは広島・四隅突出型墳丘墓は北朝鮮にある!

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●製鉄諸条件の整っていた安芸広島
1江の川、太田川上流の砂鉄
2それを生む中国山地の花崗岩地層基盤
3日本一の赤松植生が炭焼きに最適
4赤松に適した雨量と気温、そして偏西風が運ぶ松の種のとどまる立地と定着最適性
6日本海渡来氏族の製鉄にも、北部九州移住者の製鉄にも最短である
7中国山地がなだらかで出雲との往来が至便
8中世以降、製鉄に関心の高い実力者毛利氏が移り住んだこと
結果的に広島市に今でもシェア100%という縫い針産業が定着した。




最古の四隅突出型墳丘墓があるのは広島県安芸、その発生から移動の歴史
●四隅突出型墳丘墓の歴史
■弥生中期後半(BC100-AD50頃)
 広島県の三次盆地に発祥したという。
ここは江の川をさかのぼった中国山地の山あいに相当する。

参照
書紀 巻一 第八段 一書第一「一書曰。素戔鳴尊自天而降到於出雲簸之川上」
書紀 巻一 第八段 一書第二「一書曰。是時素戔鳴尊下到於安芸国可愛之川上也」
※安芸国の可愛川の川上とは今の江の川の上流のことであろう。出雲東部にある安来は「やすぎ」だが、「あき」から来た地名か?Kawakatu

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■弥生時代後期前半(AD50-180頃)
この時期になると日野川を下り、妻木晩田遺跡の洞ノ原2号墓を端緒にして、伯耆地方を中心に一気に分布を広げる。
 規模も少しずつ大きなものが造られるようになり、突出部も急速に発達していった。

■弥生後期後半(AD180-AD250頃)
 分布の中心を出雲地方に移して墳丘の一層の大型化が進むとともに、分布する範囲を北陸地方などにも広げていった。
しかし、弥生時代の終わりとともに忽然とその姿を消してしまう。
 北陸では少し遅れ能登半島などで造られている。
 源流は今のところ判明していないが、貼り石方形墓から発展したという可能性もある。
 日本海側を中心に約90基が確認されている。
 北陸地方(福井県・石川県・富山県)では現在までに計8基が知られている。」
http://houki.yonago-kodaisi.com/F-K-kohun-4sumi.html




●安芸太田の砂鉄と広島針とたたら製鉄
「広島針の製造の歴史は、遠く300年以上前、藩主浅野家が下級武士の手内職として普及させたことに始まります。以来、品質の向上や製造の効率化などを図り地場産業として名を知られるようになりました。

 広島湾に注ぐ太田川の上流50キロの中国山地の中にチューリップの針工場がある「加計」(現、安芸太田町)という地域があり、江戸時代には、中国山地の大砂鉄地帯に位置する出雲と並ぶ芸北地域の「たたら製鉄の中心地」でした。そして、太田川の水運を使って必要な物資を諸国から集めるとともに「たたら製鉄」により製造された鉄を広島に送る集積地として繁栄を極めてきました。

 広島針はこのように加計の砂鉄を原料に「たたら製鉄法」によってできた鉄を太田川の水運を利用して、現在の広島市に運び、そこで針として加工することで発展してまいりました。

この鉄を独占した広島藩では、「縫針」生産の地場産業がおこり、現在でも、広島は手縫針、侍針の全国生産量の9割以上を占める我が国最大の針の産地となっております。」
http://www.tulip-japan.co.jp/hiroshima/


「広島針の歴史は江戸時代に浅野藩主が長崎から針職人を連れて来たところからはじまります。広島の北部には針の材料となる鉄を「たたら」で生産する中国山地が控えていました。鉄はその中国山地から清流太田川を利用し、舟で広島へ運ばれていました。手工芸で生産されていた針はその後、機械製造へと移行するとともに品質・生産量が向上しました。「縫針」の生産量は現在も国内シェアはほぼ100%です。」
http://design-bm.shiga-irc.go.jp/collabon/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E7%9C%8C_%E5%BA%83%E5%B3%B6%E9%87%9D-%EF%BD%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B9%E9%87%9D%E3%83%BB%E3%81%8B%E3%81%8E%E9%87%9D%EF%BD%9E/



「庄原市と県境を接する島根と鳥取は、たたら製鉄を文化遺産として広域連携しているのに比べて、もうひとつの大産地であった安芸太田、北広島、安芸高田、石見は、全くそうした動きが無い」

「確か5年くらい前、著者の研究成果を雲南市でのフォーラムで拝聴したことがあり、出雲より安芸のほうが、製鉄炉の地下構造が先進的だったという話でした。」

「たたら製鉄跡の発掘調査は、戦後に始まり、島根中心に進んできたのでデータが偏り、主な産地が島根であるかのように誤解されている。で、面白いのが、戦国時代の広島の旧豊平町の発掘データと、島根のデータを比べると、明らかに安芸のほうが2世紀くらいは進んでいたということ。毛利、吉川、小早川など、安芸の勢力が拡大するのと重なるように、出雲や三原に地下構造が伝わったという事が、発掘データから読み取れます。地下構造とは、炉の地下の石組による排水口や空気口により、地面からの湿気を遮断することで、炉の温度を上げ、より量産するための当時の先端技術。何故ゆえ安芸に、独自の技術が生まれたかは解からないが、朝鮮半島の発掘調査と比べても、長四角の炉のカタチ&地下構造は日本独自のもの。たたら製鉄の考古学は、まだ途上の学問であるということらしい。」

「近年、新潟(越後)の柏崎に、海砂鉄由来の大規模な製鉄コンビナートが発見され、平安時代あたりの遺構ではないかと発掘調査されたばかり。毛利を軸とした先進的な製鉄技術は、越後との関係に由来するかもしれない。そういえば、ヤマタノオロチと高志(北陸~越後)の関係も気になるところ・・・」
http://nagareni.seesaa.net/category/10038429-1.html




●アカマツの分布も広島が日本一

アカマツ林の分布面積は、広島県が日本一!

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右の図の赤い点は、日本の中のアカマツ林の分布を示した図です。九州から東北の青森県まで、全国に広く分布しています。   下の表は、県別のアカマツ林分布面積、トップ5を示したものです。なんと、広島県は、アカマツ林の分布面積は日本一なのです。
順位 県名 面積(km2) 1位 2位 3位 4位 5位
広島県3,700
山口県3,181
兵庫県2,569
岡山県2,060
京都府1,391




●砂鉄を生み出す花崗岩基層

日本の花こう岩の分布


日本のアカマツ林の分布

風化しやすく、崩れやすいと言われてる花こう岩。全国の分布を示したのが右図です。花こう岩の分布面積でも、広島県は全国No.2です。この図にアカマツ林の分布を重ねてみましょう。
アカマツ林の分布を重ねる »
順位 県名 面積(km2) 1位 2位 3位 4位 5位
福島県914.0
広島県767.8
長野県633.3
岩手県594.3
岡山県465.3
何となく、花こう岩とアカマツ林の分布が重なっているように見えます。
詳しく計算してみると、アカマツ林全体の分布量の約24%が花こう岩に成立してることがわかりました。

同上サイトから

※アカマツの中国地方の分布は、江の川・太田川流域のある広島西部(安芸国)地域と、東部の福山市海岸部(備後国)地域が二大植生地で、吉備の製鉄との関連で、以前、高温を出すことができる炭素材としてのアカマツ、その産地広島県福山市は紹介した。また花崗岩地名である阿武(あぶ)とアカマツについては
で紹介した。

■花崗岩分布と阿武地名とアカマツ植生地のリンク
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以前啓上した当ブログの資料を再掲載する。

■四隅突出型型墳丘墓一覧
    所在地 旧国   遺跡名  規模(m)   時期   備考
1 広島県三次市南畑敷町 備後 宗祐池西1号 10×5 IV期  
2 広島県三次市南畑敷町 備後 宗祐池西2号 3.8× IV期  
3 広島県三次市四拾貫町 備後  陣山1号 5.2×3.5 IV期  
4 広島県三次市四拾貫町 備後  陣山2号 12.7×6.3 IV期  
5 広島県三次市四拾貫町 備後  陣山3号 6×3.6 IV期  
6 広島県三次市四拾貫町 備後  陣山4号 9×4.6 IV期   
7 広島県三次市四拾貫町 備後  陣山5号 4.5×3 IV期  
8 広島県三次市大田幸町 備後 殿山38号 13×6.5 IV期  
9 広島県三次市大田幸町 備後 殿山39号      未調査
10 広島県三次市東酒屋町 備後  矢谷1号 18.5×12 VI 期  長方形?
11 広島県三次市粟屋町 備後 岩脇「1号」       ?
12 広島県三次市粟屋町 備後 岩脇「2号」         ?
13 広島県庄原市宮内町 備後 佐田峠3号 15.3×8 IV期~V期-1  
14 広島県庄原市高町 備後 佐田谷1号 19××14 V期-1  
15 広島県庄原市山内町 備後 田尻山1号 11×9 V期-1  
16 広島県北広島町南方 安芸 歳ノ神3号 10.3× V期-2  
17 広島県北広島町南方 安芸 歳ノ神4号 10.2× V期-2  

18 岡山県鏡野町竹田 美作  竹田8号 14× V期-1~2   ??
島根県出雲市・松江市周辺の四隅突出型型墳丘墓
19 島根県邑南町下亀谷 石見 順庵原1号 11.5×9 V期-2  
20 島根県隠岐の島町西町 隠岐  大城 18×11 V期-3~VI 期-1  
21 島根県出雲市大津町 出雲  西谷1号   V期-3  
22 島根県出雲市大津町 出雲  西谷2号 35×24 V期-3  
23 島根県出雲市大津町 出雲  西谷3号 40×30 V期-3  
24 島根県出雲市大津町 出雲  西谷4号 32×26 V期-3   
25 島根県出雲市大津町 出雲  西谷6号 17× VI 期  
26 島根県出雲市大津町 出雲  西谷9号 43×33 VI 期  
27 島根県出雲市中野町 出雲 中野美保1号 11×9.5 V期-3  
28 島根県出雲市東林木町 出雲  青木1号 14×10? V期-3  
29 島根県出雲市東林木町 出雲  青木2号 9× VI 期  
30 島根県出雲市東林木町 出雲  青木3号      
31 島根県出雲市東林木町 出雲  青木4号 17× IV期?  
32 島根県松江市鹿島町 出雲 南講武小廻    VI 期   ?
33 島根県松江市玉湯町 出雲 大谷Ⅲ1号 10.7×7.4 V期-3  
34 島根県松江市玉湯町 出雲 大谷Ⅲ2号 4.5以上× V期-3   
35 島根県松江市玉湯町 出雲 大谷Ⅲ3号 3以上×     
36 島根県松江市浜乃木町 出雲  友田 12× V期-1?   ?
37 島根県松江市西津田町 出雲 東城ノ前1号 7.1×6.2    
38 島根県松江市西津田町 出雲 東城ノ前2号 11以上×8以上 V期-3   ?
39 島根県松江市西津田町 出雲 東城ノ前3号 18×12    
40 島根県松江市西津田町 出雲 東城ノ前4号 7×     ?
41 島根県松江市矢田町 出雲  来美 10×8 V期-3  
42 島根県松江市矢田町 出雲 間内越1号 8.8×6.7 VI 期  
43 島根県松江市矢田町 出雲 間内越4号 16.5×9.7 V期-3   ?
44 島根県松江市八幡町 出雲  的場 13以上× V期-3   ?
45 島根県松江市坂本町 出雲  沢下5号 7×6 V期-3~VI 期-1  
46 島根県松江市坂本町 出雲  沢下6号 12×11 V期-3~VI 期-1  
47 島根県東出雲町出雲郷 出雲 大木権現山1号 23×12 VI 期-2   ?
島根県安来市周辺の四隅突出型型墳丘墓
48 島根県安来市西赤江町 出雲 仲仙寺8号 18×14    未調査
49 島根県安来市西赤江町 出雲 仲仙寺9号 19×16 V期-3  
50 島根県安来市西赤江町 出雲 仲仙寺10号 19×19 V期-3  
51 島根県安来市西赤江町 出雲  宮山IV号 19×15 VI 期-2  
52 島根県安来市西赤江町 出雲 安養寺1号 20×16 VI 期-2  
53 島根県安来市西赤江町 出雲 安養寺3号 30×20    
54 島根県安来市久白町 出雲 塩津山6号 29×26    未調査
55 島根県安来市久白町 出雲 塩津山10号 34×26    未調査
56 島根県安来市西赤江町 出雲  下山 20×17 VI 期?  未調査
57 島根県安来市伯太町 出雲 カウカツE-1の1号 11×7 V期-3  
鳥取県西部(米子市周辺)の四隅突出型型墳丘墓
58 鳥取県米子市尾高 伯耆 尾高浅山1号 10×7 V期-1   
59 鳥取県米子市日下 伯耆  日下1号 10×7 V期-2  
60 鳥取県伯耆町父原 伯耆  父原1号 12× VI 期-2  
61 鳥取県伯耆町父原 伯耆  父原2号 9.5×6 VI 期-2  貼石なし
62 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原1号 6.5×5.4 V期-1  
63 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原3号 4.2×3.9 V期-1  
64 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原4号 4.3×3.6 V期-1  
65 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原5号 2.1×2.0    
66 鳥取県大山町富岡 伯耆 洞ノ原7号 4.4×4.0 V期-1  
67 鳥取県大山町富岡 伯耆 洞ノ原8号 4.9×4.4 V期-1  
68 鳥取県大山町富岡 伯耆 洞ノ原9号 2.0×1.1 V期-1 墓上施設か
69 鳥取県大山町富岡 伯耆 洞ノ原10号 2.0×1.6   墓上施設か 
70 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原11号 1.6×1.3   墓上施設か 
71 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原12号 1.3×1.2   墓上施設か 
72 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原13号 1.4×1.3   墓上施設か 
73 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原16号 1.5×   ?墓上施設か
74 鳥取県米子市淀江町 伯耆 洞ノ原17号 1.5×1.3   ?墓上施設か
75 鳥取県大山町富岡 伯耆  仙谷1号 13×13? V期-2  
76 鳥取県大山町富岡 伯耆  仙谷2号 7.4×7.1 V期-2  
77 鳥取県大山町長田 伯耆  徳楽 19×19 VI 期-2  未調査
鳥取県中部(倉吉市周辺)の四隅突出型型墳丘墓
78 鳥取県倉吉市上神 伯耆  柴栗   V期-2   ?
79 鳥取県倉吉市下福田 伯耆 阿弥大寺1号 14× V期-2  
80 鳥取県倉吉市下福田 伯耆 阿弥大寺2号 6× V期-2  
81 鳥取県倉吉市下福田 伯耆 阿弥大寺3号 6× V期-2  
82 鳥取県倉吉市山根 伯耆  藤和 10×8.5    
83 鳥取県湯梨浜町宮内 伯耆  宮内1号 17× V期-2  
鳥取県東部(鳥取市周辺)の四隅突出型型墳丘墓
84 鳥取県鳥取市桂見 因幡  西桂見 40以上× V期-3  
85 鳥取県鳥取市国府町 因幡  糸谷1号 14×12 VI 期-2  
兵庫県の四隅突出型型墳丘墓
86 兵庫県加西市網引町 播磨 周遍寺山1号 9.5×6     ??  
87 兵庫県小野市船木町 播磨  船木南山 14× V期?   ??  
北陸・東北地方の四隅突出型型墳丘墓
88 福井県福井市清水町 越前 小羽山30号 26×22 V期-3  貼石なし
89 福井県福井市清水町 越前 小羽山33号 7×5 V期-3 ?貼石なし
90 福井県福井市高柳町 越前  高柳2号 6.2×5.5 VI 期-1  貼石なし
91 石川県白山市一塚町 加賀  一塚21号 18×18 VI 期-1  貼石なし
92 富山県富山市婦中町 越中  富崎1号 20×20 VI 期-2  貼石なし
93 富山県富山市婦中町 越中  富崎2号 20×20 VI 期-2  貼石なし
94 富山県富山市婦中町 越中  富崎3号 22×21 V期-3  貼石なし
95 富山県富山市婦中町 越中  六治古塚 24.5× VI 期-2  貼石なし
96 富山県富山市婦中町 越中  鏡坂1号 24.1× VI 期-1  貼石なし
97 富山県富山市婦中町 越中  鏡坂2号 13.7× VI 期-1  貼石なし
98 富山県富山市杉谷 越中  杉谷4号 25×25 VI期-2  貼石なし
99 富山県富山市古沢 越中 呉羽山丘陵No6 19×19    未調査
100 富山県富山市古沢 越中 呉羽山丘陵No10 23.5×22    未調査
101 富山県富山市金屋 越中 呉羽山丘陵No18 25×23    未調査
102 福島県喜多方市塩川町 石背 舘ノ内1号周溝墓 9×8 弥生末~古墳初 四隅突出型方形周溝墓
103 福島県喜多方市塩川町 石背 荒屋敷4号遺構 12× 弥生末~古墳初 四隅突出型方形周溝墓
資料 http://houki.yonago-kodaisi.com/zu-4sumi-1.jpg



■県別分布数
総数103基
島根県39基(邑南町1/ 隠岐の島西町1/ 出雲市11/ 松江市15/ 東出雲市1 /安来市10)
鳥取県28基(米子市11/ 伯耆町2/ 大山町7/ 倉吉市5/ 湯梨浜町1/ 鳥取市2)
福井県3基(福井市3)
石川県1基(白山市1)
富山県10基(富山市10)
広島県17基(三次市12/ 庄原市3/ 北広島町2)
岡山県1基(鏡野町1)
兵庫県2基(加西市1/小野市1)
福島県2基(喜多方市2)
相原精次・三橋浩『東北古墳探訪』彩流社より



■築造年代と移動拡散
弥生中期後半から広島県の三次(みよし)盆地に発祥したという。 弥生後期後葉から美作・備後の北部地域や後期後半から出雲(島根県東部)・伯耆(鳥取県西部)を中心にした山陰地方に見られる墳丘墓である。北陸では少し遅れ能登半島などで造られている。源流は今のところ判明していないが、貼り石方形墓から発展したという可能性もある。

広島県三次市江の川中流域→美作・備後→島根半島西部→東部→伯耆→丹後→越前→会津


■編年図
イメージ 4




まず近年、福島県の会津地方で二基確認され、大いに定説をおびやかしている。
また日本海沿岸でも、但馬、丹後、若狭にないこと、富山より東にないことが特徴である。若狭地域には同時期に方形貼石墓という様式の墓が流行しており、但馬出石では方形墓がある。つまり氏族の相違であろう。

これについてはすでに記事にしている。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56401410.html


方形貼石墓の分布は島根県地方などにも点々と及んでおり、例えば『播磨国風土記』のアメノヒボコとオオクニヌシの争いがこれに見合う記事となってはいる。ただし中心地である若狭湾西岸部の京都府にアメノヒボコの来訪があったかどうあかは定かでない。対岸にあたる東部ではツヌガアラシトの来訪が語られる。この二つの新羅王子の話が、同じ民族の渡来伝承であるならば、四隅突出型墳丘墓部族と方形貼石墓部族間の不和が起きて、鳥取などの戦争遺跡として残された可能性が出てくる。
また山口県土居ヶ浜遺跡の砂丘上墓もこれに関与した可能性も出てくるかもしれない。


この墳丘墓を作る氏族は最初、日本海沿岸ではなく中国山地中央部の三次盆地に定着している。突然山間部に彼らは姿を現しており、それ以前の経路が不明である。
朝鮮半島には、「朝鮮半島北部の滋江道蓮舞里で発見された墳墓に似ている。(上田正昭氏・古代出雲の研究課題)。基壇上に敷石の段差を二重に持つ(安養寺三号墳)ことから『高句麗将軍塚』に代表される高句麗積石塚に類似。(前島己基氏)が考えられ」るとする意見もあるがいまだ解明されていない。




●製鉄とともに広がるアカマツ林と古代の環境破壊
3000年前(弥生時代)寒冷化。稲作と金属器が入り、森林伐採と畑作開墾によって弥生人類による環境破壊が開始。近畿地方の植生はまだ激しい破壊にはなっていなかった=後進地帯だった。弥生の森林破壊は新しい植生を列島にもたらした。    顕著だったのはアカマツの林の拡大である。


つまり、アカマツと製鉄の増加は弥生時代の環境変化の大きな特徴であるから、それを持ち込んだのは明白に大陸の渡来技術者であることがわかるのだ。アカマツは風によって運ばれたこともあるが、これほど一気に環境を一変させたのは人為的なものが大きいということになるだろう。その人々は四隅突出型墳丘墓を作る人々だったでよかろう。すると想定できるのは高句麗人か百済人か伽耶か「新羅当時はまだシラ」か?

では高句麗地域ほかにアカマツや砂鉄や花崗岩や四隅突出型墳丘墓はあったかである。その人物像を特定したいなら墓の様式、製鉄、その素材が同じ場所を探すことである。わかったら探してください。そうすれば四隅突出型墳丘墓の被葬者たちがどこから来たかはあきらかになる。すると当時の中国・山陰・日本海の渡来勢力が見えてくる。筆者の推定では、現在、国情で発掘情況がまったくわからない北朝鮮国内にそれがあるような気がする。


四隅突出型墳丘墓は北朝鮮にある。と予言しておこう。



イメージ 4

旧太田川河口部デルタ

※川を考えるときはいつも往古の形に焼きなおしてから考えねばならない。流れは時代ごとに変えられている。お忘れなく。太田川を知りたいなら、「旧太田川」で検索しましょう。タモリのようにね。










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