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アフガニスタンの歩搖のある金冠と鮮卑・慕容氏と日本

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歩搖(ほよう)金冠のアフガニスタンと東アジア・日本の類似についてこれから書くので、先年発見された福岡船原古墳のこのブログの記事(2013年11月)を再掲載しておく。

藤ノ木古墳の歩搖、あるいは朝鮮・中国・鮮卑などの歩搖金冠様式が、テュルク、あるいはスキタイ系騎馬民族によってもたらされる経路を知っておきたい。





「福岡県古賀市教育委員会などは24日、古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初め)の同市の船原(ふなばる)古墳遺物埋納坑で出土した馬具「金銅製歩揺付飾金具(ほようつきかざりかなぐ)」が国内に類例のない形状であることが分かったと発表した。」
西日本新聞2013年11月25日(最終更新 2013年11月25日 00時09分)
 
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出土状況
つぶれていた
 
 
 
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3Dスキャナーによる復元
 
 
●船原(ふなばる)古墳群(福岡県古賀市)
 
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古賀市の遺跡http://www.city.koga.fukuoka.jp/guide/history/003.php
古賀市立歴史資料館
電話:092-944-6214 Eメール:bunkazai@city.koga.fukuoka.jp.
 
 
●馬具装着図
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胸部か尻部かにとりつけた? 
 
 


 
 
●歩揺とは?
歩揺は花びら形の金属で、傘の骨のように枝分かれした金具からつり下げる。今回は、六角形の金属板の中央に高さ約5センチの大型の歩揺付き金具を配置し、周囲に高さ約3センチの歩揺付き金具6点を立てるデザイン。いずれも銅の表面に金を施した豪華なものだった。
 
金銅製歩揺付飾金具はくらの後ろ側に取り付けられ、馬が歩くと、花びら形の飾り(歩揺)が光を反射しながら揺れる装飾品。市教委によると、再現したのは六角形(対角間の長さ約11センチ)の金属板の中央と、周囲6カ所に歩揺付飾金具を1セットで配置したデザイン。中央は高さ約5センチで歩揺は8個、周囲は同約3センチで各4個の歩揺を計24個つり下げている。出土した部品の多さから、複数が埋納されていたとみている。
http://www.nishinippon.co.jp/nlp/showbiz_news/article/54293

中国・鮮卑族の冠。木の枝を模し、歩くと枝葉が揺れることから歩揺冠(ほようかん)と呼ぶ。
五胡十六国・南北朝時代、鮮卑族が王権を形成し、それが引き継がれて中国貴族の冠となった。
http://curren.sakura.ne.jp/curren/curren/on_game/DOL/100104_2DOL.html

 歩揺付飾金具は、国内では沖ノ島(同県宗像市)や藤ノ木古墳などで単体は出土しているが、複数の金具がセットになったものはなかった。田中良之・九州大大学院教授(考古学)によると、これと似た構造は朝鮮半島の新羅で見つかっており、「船原古墳の埋葬者は新羅と独自のルートを持っていた豪族の可能性がある」と分析する。
http://www.nishinippon.co.jp/nlp/showbiz_news/article/54293
北朝鮮の発掘情報がないので、高句麗とのもっと深い交流資料がわかっていない。発掘次第では新羅より高句麗の可能性がある(Kawakatu)
 
 
【冠】より
… 漢文化の浸透する以前の匈奴,鮮卑などは頭部を覆ったり周囲を飾る金製の冠を用い,王権の象徴とした。4世紀以降の鮮卑,高句麗,百済,加羅,新羅では,以前の匈奴や鮮卑の制をうけつぎ,歩揺とよばれる金片をちりばめた金製の冠を用い,そのほかに羽根をつけたり樺を付した冠があった。とくに古新羅の墳墓からは,多くの金製の優品が発見されている。…
http://kotobank.jp/word/%E6%AD%A9%E6%8F%BA
 
 



●参考遺物
 
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【和:きんかんしょく(ほようかん)】
【中:Jin guan shi】
晋・南北朝|金銀・玉器>金冠飾(歩揺冠) 
西晋時代
1957年遼寧省北票県房身村晋墓出土
金製品
幅17.5cm 高さ14.5cm 重さ37.4g
遼寧省博物館蔵
南北朝時代に、北方遊牧民の鮮卑慕容部の人々が歩揺冠とよばれる冠を好んでいた。慕容という部族名も彼らがこの冠を好んで着用することから、まず「歩揺Jとよばれ、後に発音が訛って「慕容Jとなったという。以後、歩揺冠は北方民族に採り入れられ、貴族の冠となった。この金冠飾は、歩揺冠の立ち飾りである。これは葉と枝の茂る金の樹木のような形をして長方形の金板の上に立つ。金板の真中に凸稜があり、両側に透彫による雲文が配置され、周囲に突刺文がいっぱいめぐっている。金の樹木は七つの枝に分かれ、枝ごとに桃形の葉を吊す環が嵌められている。冠をかぶった人間が歩きだすと、樹木の枝は歩調と風に従って揺れはじめる。故に「歩揺Jと呼ばれていたのである。出所:『中国の金銀ガラス展』
http://abc0120.net/words/abc2007073105.html
http://abc0120.net/book/abc0011.html
 

船原古墳(5)
同じものが宮地嶽古墳に奉納されていた?
両古墳は同族だった?
http://lunabura.exblog.jp/20913640/
 
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●参考人物
莫護跋(呉音:まくごば/もごばち、漢音:ばくこばつ/ぼこはつ、拼音:Mòhùbá 生没年不詳)は、魏代の鮮卑族の大人(たいじん:部族長)。慕容部の始祖。子は慕容木延。慕容廆の曽祖父にあたる。
魏の初め、莫護跋は諸部を率いて遼西に入居する。
景初2年(238年)、司馬懿の公孫淵討伐に功があって率義王を拝命され、棘城の北に建国する。
時に燕,代の地方では歩揺冠(歩くと揺れる冠)をかぶる者が多く、莫護跋はこれを見て気に入り、髪をまとめて歩揺冠をかぶったので、諸部は彼のことを歩揺と呼ぶようになり、その後音が訛って、慕容となった。
彼の死後は、息子の慕容木延が後を継いだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8E%AB%E8%AD%B7%E8%B7%8B
 
 


 
 
 
●筆者感想
古墳に付属する遺物埋納孔を持っていること自体が大豪族だったことを偲ばせる。
歩揺は北方系騎馬遊牧民の特徴的装飾である。
船原古墳は古賀市という立地、七世紀の古墳、沖ノ島に多く出る歩揺冠などから七世紀胸方君徳善を出す宗像一族の墓と推測する。

宗像氏は、胸や肩にいれずみがあり、これを魔よけとした海中に没して漁労採集した海の氏族の子孫であろう。
つまり倭人伝が言うところの「倭人」とはまさに彼らである。

宗像君徳善は七世紀天皇家に妃をさしだし、突然のように日本史に登場。
その大古墳宮地嶽古墳(歴代二位の長さの石室を持つ)からは窓に使うほどの大きさの西洋ガラス板など、特殊で絢爛豪華で、正倉院をしのぐような海洋交易の品々が。
沖ノ島遺跡からは国宝級遺物が大量に見つかっている。また宮地嶽古墳からは高句麗様式の王冠が出ており、宗像氏が近畿よりもかなり古くから北方アジア諸国とつきあっていたことは明白である。
 
福岡県宮地嶽神社古墳伝世品
高句麗様式の王冠はここからしか出ていない。近畿地方の王冠は百済様式で新しい。
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歩搖付金冠・垂飾装飾品と騎馬遊牧民の移動そして日本へ

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国立博物館で昨年から「黄金のアフガニスタン展」が順次開催され、現在、九州国立博物館で元日から2月14日まで開催中である。http://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s42.html

oyz87氏のブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/oyz87/37033542.htmlでそのことを知り、北アフガニスタンのティリア・テペ王墓の6号墓の女王あるいは王妃らしき木郭墓の中から、新羅南部の慶州に特化するほどよく出てくる金銅製歩搖付金冠(ほようつききんかん。垂飾冠とも)にそっくりな金冠を発見してから、筆者は一週間随分わくわくしながら、その来し方を想像してきた。

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新羅慶州北道金鈴塚古墳出土歩搖金冠



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奈良県橿原市藤ノ木古墳出土金銅製歩搖付金冠レプリカ


アフガニスタンのティリヤ・テペ6号墓出土王冠は新羅慶州の歩搖付王冠に影響か?


「ティリヤ・テペは北アフガニスタン、アレクサンドロス大王が遠征したバクトラ(現バルフ)とアレクサンドリア・マルギアナ(現メルヴ)の中程に位置している。粒金細工の装身具が出土したサルマタイの住むクラスノダルやロストフよりも東南方にある。

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『アフガニスタン遺跡と秘宝』は、出土品にはヘレニズム、パルチア、バクトリア、スキタイ、インド、中国、匈奴など、ユーラシア各地の文化の影響が見られる。1世紀のクシャン朝初期か大月氏の墓と見られる。なかで、シルクロードの各地に見られるものが、スキタイ系の黄金製品である。

スキタイは、黒海の北の沿岸にいた騎馬民族であった。紀元前7世紀頃、ギリシャ民族がこのあたりに植民地を開き、ふたつの民族の交流がはじまった。ギリシャは穀物や毛皮・奴隷を求め、スキタイは工芸品や葡萄・オリーブ油を求めた。スキタイの特色とされる金銀工芸品は、スキタイ貴族の要請に応えて植民地にいたギリシャの工人が作ったものであったといわれるという。」
http://avantdoublier.blogspot.jp/search/label/%E6%AD%A9%E6%8F%BA

画像の多くもこのサイトから転載しました。


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ティリア・テペはアレクサンドリアに近い。


歩搖(ほよう)とは先の記事にあるように、歩くと揺れるので歩搖と呼ばれる飾り(垂飾)であり、近世にはカンザシもそう呼ばれた装飾である。仏教では瓔珞(ようらく)や垂飾、あるいは髪飾りもあるが、歩搖のような木の葉的なちらちらと揺れる飾りはない。アフガニスタンなどの「スタン」が後につく国々はインドや中国に隣接するので、影響を与え、与えられがあったとは思える。中国の金冠でも歩搖状の垂飾飾りは仏教壁画などで見ることがある。アフガニスタンと言えばバーミアンの石像が有名だし、アルカイックスマイルのような形式も西から東へ伝わっている。それを伝えた人々と金冠歩搖を伝えた人々は、コースは違ったとしても同じスキタイ・テュルク系の騎馬遊牧民であることは間違いない。しかし上記引用文が言うギリシア工人の作とはあまり思えない細かな細工がこの王冠にはしてある。ギリシア以前、そこにはマケドニアという国家があり、ヴェルギナ、カサンドラ(カッサンドレイア)という都市から、やはり歩搖付の工芸品が出ている。ここが工人の起源地かも知れない。

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アフガンからカスピ海を通り、ヒマラヤ山脈の北側を通るシルクロードのステップロード沿線には、代々多くの遊牧民族が国家を形成しており、東へ行くほどに東アジア人との混血度合いを深め、烏丸、鮮卑などと魏志東夷伝が書いた人々は、匈奴や東胡、月氏、烏桓、烏孫などの異民族とよく似た種族だったことだろう。現在の中国ウイグル自治区の人々がそうであるように、いまや彼らの多くがイスラームを信じるムスリムであり、遠い祖先はバクトリア地方など原西アジア民族だったことは確かであろう。


筆者作 歩搖付金冠及び装飾品出土地分布図
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西アジア各国や旧ソ連からの独立国、また旧高句麗の範囲だった北朝鮮など、多くの地域が発掘困難なところであるため、歩搖装身具の発掘は勢い東アジアに偏ってしまっているが、将来スタン各国やほかの地域からも発見があるはずである。


とにかく現状で歩搖付の金冠・装飾品が集中するのは旧新羅の南部、慶州に偏っている。新羅とは言いながら、この地域はまだ新羅が国家として成立する以前(斯蘆 しろ時代)には、むしろ伽耶連合の影響の強い地域である。伽耶(加羅)はコスモポリタン地域で、さまざまの小国家が連合しており、異民族、外国人が同居していた。その最南部、日本海沿岸に金官伽耶があった。これが新羅によって滅ぼされて倭国に王族ご一党が逃れてくる。おそらく奈良の藤ノ木や新沢千塚や、福岡県古賀市の船原古墳、宗像の安曇族などの豪族に影響を与えたであろう。いやそれ以前から互いに交流関係にあったはずである。

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沖ノ島歩搖付金銅遺物


沖ノ島から出ている遺物は、ほかにも新羅慶州の王墓の遺物とそっくりなものが多い。
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上・沖ノ島の指輪 下・慶州天馬塚出土金指輪




歴史上、金の歩搖を大変愛した人物と言えば莫護跋(呉音:まくごば/もごばち、漢音:ばくこばつ/ぼこはつ、拼音:Mòhùbá 生没年不詳)である。

莫は魏時代の鮮卑(せんぴ)族の族長で、あまりに歩搖金冠を気に入りかぶったので名を「ほよう」の音をもじって慕容(ぼよう)と改名したと記録されている。


景初2年(238年)、司馬懿公孫淵討伐に功があって率義王を拝命され、棘城の北に建国する。
時にの地方では歩揺冠(歩くと揺れる冠)をかぶる者が多く、莫護跋はこれを見て気に入り、髪をまとめて歩揺冠をかぶったので、諸部は彼のことを歩揺と呼ぶようになり、その後音が訛って、慕容となった。
彼の死後は、息子の慕容木延が後を継いだ。」

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後漢時代の鮮卑の版図


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紀元前二世紀


この慕容氏からやがて有名な族長・慕容廆 ぼようかい Mù róng Wěi が登場する。鮮卑を憎み大単于(冒頓氏)を壊滅させ、東晋を滅ぼし、単于は鮮卑というよりも、ツングース語とテュルク語の混ざった言語を用いる匈奴あるいはモンゴル民族のことかも知れぬ。

先祖である鮮卑族・・・これもはっきりとはしない連合体だったようで、ツングース系モンゴル人も、あるいはテュルク系やスラブ系やもまじった騎馬民族連合体だったようで、その前は今の内モンゴルの東部にいた東胡族から分かれたようである。このテュルク系やスラブ系をたどっていくと、西へ西へとよく似た種族国家が代々、遊牧国家として記録がある。いわゆる烏丸・鮮卑も加えて烏孫、月氏、スキタイへたどっていける。そのコースがやはり紀元後4世紀くらいにフン族を生み出したであろうカスピ海周辺地域と、もっと西側のバルカン半島へと分かれてたどり着くことになる。バルカン半島はいうまでもなくトルコ=テュルク民族を含めたスラブ民族の故郷であり、カスピ海沿岸から東はスキタイ系「スタン」国家の地域である。この「スタン」はドイツ語ならシュタットであろう。英語ではシティとなっていった国、地域をさす言葉である。トルキスタンと言えば集団、民族の名になる。


つまりほぼ同類の騎馬遊牧民族である。人類がアフリカを出て最初の分岐点で彼らは民族を分化させていったが、バルカンではアナトリアという最古の国家を作り、アッシリアやエジプトと対等、それ以上の戦いをした最古の製鉄国家である。彼らの影響を対岸のギリシアやエジプトはもろにうけて、そこから製鉄、鉄剣のいくさが世界に拡散した。つまり王冠や歩搖愛好趣味も一緒に東西へ広がるのだ。その担い手が騎馬遊牧民である。特に東洋へは、アッシリアに敗れて分離したアナトリア製鉄・彫金工人が大量に逃げ込む。彼らは鹿と太陽の女神キュベレをステータスとしスタンダードという象徴にしていた人々だった。

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アナトリアの鹿のスタンダードのついた権威的杖



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太陽神キュベレを描いたアナトリアの遺物


だから鉄=シカ、そして太陽神信仰はこのときから中国、朝鮮へと伝わり日本の製鉄開始時代である弥生時代も始まるのである。新羅の金冠や中国の絵画に、それ以後シカの角型のものが多出しはじめる。これが日本の古墳時代に三重県松坂市の宝塚古墳などで出土するV字型威杖の原型であろう。

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だから中国からの青銅器とほぼ同時に鉄も倭国へ入り、青銅器は早々に鉄器に切り替わるのが日本の有史以前金属器時代の特徴である。倭人もまた製鉄=鹿をステータスとした。鹿の皮袋は世界中で製鉄のふいごとなり、角は再生のステータスとなった。それが治金工人が金属を溶かし再生させる技術者としてのシンボルが鹿であり、農耕民の太陽神なのだ。

要するに最も遅く大陸文化がたどり着くのが日本であり、それはまた短期集中型で、完全な形で入ってきた。稲作もまったく同じである。最初から菜畑には江南の最新鋭の水田が作られている。あとから伝わることのそれがメリットである。代々の苦心惨憺があまりなしにいきなり文明が開花する。それは今、ようやく西欧科学と近代化を取り込もうとしている中国やインドやブラジルもまったく同じだ。いきなり短期間で西欧化し、しかしそのために無理と矛盾が生じる。70年かけて西欧化した現代日本は非常に運がよい。さらにそれによって生じた資源の枯渇も、日本は中国やらのようにはいきなり経験するはめにならなかったので、対応策をたくさんはぐくむことにも成功した。


一方、アフガン周辺は最古はパルティァの領土であり、彼らもパルティアン・ショットという独特の馬上から振り返りざま矢を打つ名手であった。つまり今のイランであるが、彼らも砂漠の貿易商でもあり、海のシンドバッドでもあり、スキタイ系?騎馬遊牧民をも含んでいたのだろう。

自主的に製作した上図を見れば、歩搖や金冠の伝播コースがシルクロードであることは一目瞭然である。正倉院までつながる絹の道は、それ以前にも鉄の道・たゆとう王冠の道だったのである。




歩搖は先に書いたように西欧にも伝わっている。
マケドニア、ギリシアの遺跡で、先に書いたヴェルギナやカッサンドレイアからも木の葉の形の揺れる装飾をつけた王冠が出る。

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地中海で対面するからだが、それだけではない。形式こそ違うがやはり垂飾をたらした冠や腕輪はゲルマンから、西欧州に移動したケルトを通じて南欧へと拡散してゆき、フランスやイタリアや英国王や騎士たちの金の王冠・ティアラ・ブレスレットの趣味にも影響を与えるのではなかったか?



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アフガニスタンで出土した下げ飾りのあるティアラ。

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日本では東国茨城の三昧塚古墳からも歩搖付王冠が出土。まさにアフガンの金冠の歩搖にそっくりだ。
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      金銅製馬形飾付冠。茨城県・三昧塚古墳、復元品

いわゆる日本にしかないリボン(蝶型装飾)を前面に配置した様式は藤ノ木と同じで、形も藤ノ木と同じ伽耶・慶州系「広帯二山式」である。歩搖は最下部に小さいがずらりと並ぶ。広帯二山式冠は倭国では5~6世紀雄略~継体大王の地方豪族へ下賜した冠形式の威信財なのだ。
茨城県地名と継体大王の関係は大阪府の茨木地名でつなぐことができる。

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旧高句麗の領域である現在の中国北東部からも出土する。

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同じく遼寧省房身遺跡出土の四角形の王冠にも。
この正方形は頭部にかぶられ、歩搖垂飾が王の顔面を囲むように揺れる。こうした中国王の四角い帽冠様式は、西欧の大学の学帽に取り込まれたか?


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それとまったくそっくりさんは奈良県新沢千塚126号墳で出土した。しかもこれは禁制品で金銅製ではない。純粋のゴールドの板金である。新沢の被葬者はいったい誰なのか?5世紀関西では和歌山の岩橋千塚と並ぶ最古の群集墳であることはすでに書いた。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/57314860.html
推定されている氏族は、秦氏とともに伽耶から来たとされる漢(あや)氏である。


金工技術の来た道
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さて、これらの歩搖ブームの主がすべて慕容氏の祖先である鮮卑族であったかどうかだが、まず時代が遅すぎる気がする。東アジアへ拡散させたのは彼らでよいだろうが、そもそも歩搖そのものは莫が入った東胡あたりにすでにあったもので、それを莫は気に入ったのであるから、それ以前からすでに鮮卑か東胡の別族がモンゴルあたりへ持ち込んでいたのである。ということはやはりその大元は慕容氏以前の紀元前の遊牧民によるものであろう。それが世界の東西に中近東から拡散したのだ。そして慶州とそれらの地域をつなぐ遺跡遺物には、慶州の石積木郭墓というものがあるのである。

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新羅の石積木郭墓


この墳墓形式もまたアフガニスタンにはあるのだ。

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ここだけではない。
木郭墓は世界中に存在する。日本の九州にも近畿にも、ケルト世界にもである。


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またこういう冠帽が新羅慶州にある。

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これは日本の鎌足と百済王余豊璋の大織冠にそっくりである。



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小さな装飾品もそっくり。



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さて、福岡県古賀市の船原古墳は、ちょうど継体大王や磐井の君の時代に相当する古墳で、その主は継体や筑紫の君らともえにしのあった宗像氏の前身であるかとも思える安曇部の族長だったかと考えているが、金官伽耶とも百済とも同じ倭人系海洋民として安曇は長く半島を行き来し、全国に海外の文化や珍品を持っていったことで継体大王以前から九州や日本海、近畿の王家に寵愛された部族だった。それが継体が死んでしまうと安曇は部民となり大和王家から見放されてしまったのだ。それが数百年後、なぜか突如として復活したことがある。天武天皇壬申の乱以後のこと、宗像氏という海人族の族長がいきなり天武に妃をさしだせた。『日本書紀』記述の不思議はここに極まっている。


九州国博黄金のアフガニスタン関連記事にエントリーしたので、あまり過激なことはここには書けませんから。^^;







今回、あえて全公開記事。




画像の一部は各種パンフレットから。
それ以外は上記引用文作者「忘れへんうちに」サイトから。









PS.
騎馬民族は日本へ来たのか?はいつになってもファンの耳目を賑わせて来ましたが、さて、来たというよりも安曇ら海洋民倭人が文化や工芸品を運んだというのが真相でしょう。もちろんぼくはイラン人が飛鳥に来たとも考えますので、契丹や匈奴や鮮卑といったスキタイ系遊牧騎馬民族だって伽耶滅亡時に「秦の民」にまじっていてもおかしくないわけです。ただ、イラン人建築史らは中国~百済を通じて飛鳥へ正式に、仏教寺院建築のために贈呈されていますので、伽耶の亡命とはわけがちがいます。

ということは一時的に彼らのようなあきらかに風貌の違う異国人は、中央には置けず、よそに分かれて入ったかも知れない。どこに?そう、秋田とかにね。





続・天武と劉邦 多氏は大海連氏

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日本の古代史はどこまで正しいのかを改めて検証してみたい。
特に今回は天武を中心に。

2015/4/15(水)をまず転載して置こう。


天武と赤色、劉邦と赤色
(項羽の白、天智の白)

1 壬申の乱
秋七月庚寅朔辛卯、「其の衆の近江の師と別け難きを恐りて、赤色を以て衣の上に着く」
天武軍は近江軍と区別するために赤い衣を羽織った。
このいくさのときから染色集団の長であろう置(染)始菟が参加している。三重県津市(旧安濃郡)産品(うぶしな)に置染神社あり。このあたりの氏族だろうか?
もちろん天武が赤を好むというのは劉邦の古事を模したものである。

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瀬田唐橋決戦絵図で天武軍は赤旗を立てている

『史記』高祖本紀 
老婆が言うには「わが子は白帝の子なり、化して蛇と為り道に当たれり。今、赤帝の子=劉邦に之を斬られぬ。故に哭す」
この老婆の子が大蛇で、今、道をふさいでいるので帰れと劉邦に言う。すると劉邦はこれをたたき切ったのである。その劉邦を赤帝の子であり、自分の子は白帝の子であったと老婆は泣きながら言ったのだった。

また柿本人麻呂の天武の皇子・高市の死をしのぶ歌に

「ささげたる旗の靡(なび)きは 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の 風のむた靡くのにも似ており」万 巻第二 199

ともあり、高市の参加した天武軍が、「火がなびくがごとき赤旗」をなびかせていた古事にちなんでいると思われる。



2 朱鳥改元
「あけみとり」は天武が得意とした「天文遁甲」によれば赤=南=朱雀である。
天武六年に筑紫から赤い烏が献上された。

「天武天皇が死を前にして,7月にあわただしく改元している〈朱鳥〉の年号も道教の文献《淮南子(えなんじ)》などに見える言葉で,朱雀と同じく南方の赤い火すなわち生命の充実もしくは蘇(よみがえ)りを象徴し,天皇が病気で〈体不安〉であったためにこの処置が取られたものと見られる。天武の陵墓は大内陵とよばれて道教の神学用語〈大内〉を用いており,また持統の治世に造営された藤原宮が,中国の皇都にならって全面的に道教における皇都の宗教哲学」を元に、天智天皇陵=藤原宮の北=白=太一=北極星=天命天子として置いた。大して天武・持統陵は宮の南=朱雀・赤の位置に置かれてある。絵に描いたような道教思想だが、もちろんこれはすべて劉邦=赤、項羽=白としている「史記」の受け売りである。」

「壬申の乱に勝利した天武天皇は、天智天皇が宮を定めた近江大津宮に足を向けることなく、飛鳥の古い京に帰還した。天武天皇2年(673年)閏6月に来着した耽羅の使者に対して、8月25日に、即位祝賀の使者は受けるが、前天皇への弔喪使は受けないと詔した。天武天皇は壬申の乱によって「新たに天下を平けて、初めて即位」したと告げ、天智天皇の後継者というより、新しい王統の創始者として自らを位置づけようとした。

このことは天皇が赤を重視したことからも間接的に推測されている。壬申の乱で大海人皇子の軍勢は赤い旗を掲げ、赤を衣の上に付けて印とした。晩年には「朱鳥」と改元した。日本では伝統的に白くて珍しい動物を瑞祥としてきたが、天武天皇の時代とそれより二、三代の間は、赤い烏など赤も吉祥として史書に記された。赤を尊んだのは、前漢の高祖(劉邦)にならったもので、秦を倒し、項羽との天下両分の戦いを経て新王朝を開いた劉邦に、自らをなぞらえる気持ちがあったのではないかと推測される」Wiki天武天皇 政策
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E5.A3.AC.E7.94.B3.E3.81.AE.E4.B9.B1

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Wiki道教より



こうした紅白によって歴史的事柄を表現するのは、平民にでも一発でわかりやすく面白くするための軍記の常套手段で、必ずしも実際にそういう色分けをしたかどうかは古代ではわからない。ただ、中国の場合、紅巾、黄巾の乱などの例もあり、そうしていたのかも知れない。日本の物語である平家物語などでも源平を紅白で色分けする思想が反映されており、軍記や講談などで、非常に臨場感の出るビジュアル効果がある。そうした紅白合戦のイメージは、その後に影響して戦国時代、あるいは現代の学校の運動会の帽子や、歌合戦でも紅白で争う行事はいまだに多い。赤も白もそうした瑞兆、おめでたのしるしであり、水引や大弾幕に用いられている。参考ことバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9C%B1%E9%9B%80-184373



なお、道教(陰陽五行説)などでは五色の旗(仏教でも同じだが青・黄・赤・白・黒)を立てるが、これを幢といい、旗の語源でもある(宇佐八幡宮の縁起にもある一縷の幡をなどのはたもこれであろうか)。

赤=火、黄=土、白=金、黒=水、青=木のそれぞれ「気」にあてられる。天武の赤は火であり、火克金(か・こく・きん)で、火は金属を溶かすので、金=白=天智が天武に負けるを暗示してある。さらに金=中臣金(なかとみの・かね)の死も当然の結末となろう。つまり大友軍が合言葉にした「金」とは、まずもって火に負ける金の暗示(物語のノウハウである)となっていると言える。中臣金という人物も、だからそれにそって創られた登場人物だったとも考え付くだろう。

しかし、もし天武軍が不破出立のときからみな赤い衣を着ていたのならば、のちの倉歴の合戦で合言葉などは必要もないはずであり、ここにも『日本書紀』の破綻が見て取れるのである。



日本古代の年号に関して。
白雉元年  これは孝徳天皇の年号
白鳳・朱雀『続日本紀』神亀元年冬十月条(724年)に「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。」といった記事がみられる。これを私年号といい、寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号(逸年号とも。日本書紀に現れない元号をいう)の一つである。通説では白雉650年654年)の別称、美称であるとされている(坂本太郎等の説)。とするならば、この朱雀年号も同じく朱鳥の美称となるのだが・・・。坂本のような往古の単純な考え方で流してしまってよいものかどうか?

九州王朝説ではそれらはみな九州での年号の簒奪・受け売りであるとする説もある。

「白鳳・天平」などと美術史では区分けしている時代がある。仏教美術史上の区分だが、これはつまり『日本書紀』年号を無視した名前付けであり、それが同じ教科書に両方使われてしまっているのは、いかに古代史がいい加減なものであるかを語ってしまうのである。


『続日本紀』編纂時(797年)から、記事の724年が、果たして孝徳~天武時代から「年代玄遠にして」と言うほど離れた時代かと言えば、わずか70数年ばかりのことであり、ということは、平安時代でさえ、すでに飛鳥・奈良の記憶はついえてしまっていたかとなるわけで、『日本書紀』が書いているような1000年も前の記憶が、いかに頼りなく、いい加減なものであるか想像がつこうというものである。


要するに記紀という書物は、それまで1000年、文字がなかった時代のことまで一気にまとめて恣意的に、時の政府が書き上げたものなのであり、せいぜい人の記憶は100年とするならば、雄略以前はいくらでもでっちあげが可能であり、雄略以降でさえ、これまたいくらでも変更が可能なのだと見えてきてしまうのである。


以上ここまでの天武・壬申の乱記事の参考文献 遠山美都男 『壬申の乱で解く日本書紀 天武天皇の企て』2014 角川選書




まず『日本書紀』はこのように天武を赤、天智を白としてわかりやすく色分けしてあるのだが、その手法は中国の劉邦を赤とした道教的な手法のものまねであることを前回は解説したのである。

周の昔より、陰陽五行によって赤気は天子が生まれ出る前の予兆とされ、=正義=天子になるべきもの、として中国史書は書き分けようとしているわけだが、『日本書紀』壬申の乱記事はまったくそれを踏襲することで、天武=天皇正嫡を正統化しようとしているわけである。一方、敵役としての大友(天智側)を白としている。いわば日本人の、紅白相対観念=勧善懲悪表現への愛着の、これこそが始まりだったとも言えるか。




さらに・・・
3湯沐令
『史記』高祖本紀には湯沐邑(ゆのむら)の記載がある。

「児をして皆之を和習[※ 12]せしむ。高祖乃ち起ちて舞ひ、 慷慨 ( かうがい ) 傷懐[※ 13]して、 泣 ( なみだ ) 数行下る。沛の父兄に謂ひて曰はく、「游子[※ 14]故郷を悲しむ。吾関中に都すと雖も、万歳の後[※ 15]、吾が 魂魄 ( こんぱく ) 猶ほ沛を 楽思 ( がうし ) せん。且つ朕沛公自り以つて暴逆を 誅 ( ちゆう ) し、遂に天下を有てり。其れ沛を以つて朕が 湯沐 ( ゆもく ) の邑[※ 16]と為し、其の民を復し[※ 17]、世世 与 ( あづか ) る所有る無からしめん[※ 18]」と。」

この湯沐は天武紀でも登場し、それが高祖劉邦の記事の受け売りであることは明白である。場所は今の岐阜県南東部安八磨(あはちま)郡であり、そこの代表としてかの湯沐の令(うながし)・多品治(おおのほむじ、太安万侶の父)が登場し、壬申の乱で活躍する。この岐阜の安八郡の海は今は干上がって名古屋市であるから、一帯はかつて尾張氏の港と領地。尾張氏は天武の幼名大海人(おおあま)に大いに関わる海部(あまべ)氏族であり、多氏はつまりウナガシ=養父だから大海氏=多氏だったことになる。

大海連氏はのちの凡海氏(おほしあま)で、海部を管理する氏族であるから、多氏とは海部の管理氏族だったことがこれではっきりするわけである。

凡海氏阿曇氏の同族とされ(『新撰姓氏録右京神別下、摂津国神別)、摂津国を本拠にした氏族である。大海人(おおあま)皇子の名は、凡海(おおあま)氏の女性が皇子乳母であったことから付けられたもので、凡海氏が大海人皇子の養育にあたったものと推定されている[1]。天武天皇13年(684年)12月に連姓の50氏が宿禰の姓を授けられたとき、凡海氏もその中にあるので、麁鎌もこの時に連から宿禰になったと見られている。」

凡海郷とは、かつて丹後國伽佐郡(現在の京都府舞鶴市及び加佐郡大江町あたり)にあったとされる郷名」

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画像同サイト


つまり古代丹後には九州の倭人海人族が出雲や豊岡を経由して水田稲作や鉄器や遠賀川式土器などを通じて弥生中期までに付き合いがあった古い日本海文化圏があったのであり、のちには鏡や鉄剣を墓に埋葬する九州北部的なヒエラルキー意識の早く到達した地域なのである。言い換えれば、随分それがおそく入ったと見られる近畿地方よりも、弥生中期後半まで先進地だったのが日本海沿岸。運河側から海部の前身たちはまずここを版図として北上し、津軽を回って太平洋から南下してやがて東海地方尾張氏と同族となった。



こうしたことから「おおあま」=「多」=「おほしあま」=安曇同族は明白となる。



すると天武の妃に宗像氏の娘が嫁いだのも、宗像氏が九州の安曇部から出た氏族だということの証拠になるだろう。壬申の乱に、天武がまず海人族のいる東国尾張を目指したり、息長氏の本拠不破が要の舞台になったり、活躍する氏族が九州豊前地方の氏族や豊後の大分の君であった理由はあるのだ。

しかしいずれにせよ湯沐が使われたことで、これまた劉邦の物まねであることはいよいよ確実になってしまう。

そういう意味で、『日本書紀』は中国史書の日本版として作られたことになる。


ところが『日本書紀』の真意の後戸には、天智こそが実は正統という隠された意図がある。矛盾がそこにはあるのだ。


海部集団や多くの海人族は、実は『日本書紀』を創り出す藤原氏集団にとっては古い王家であり、とって代わるべき、隠したい九州血脈王家なのではなかったか?

では弥生初期から中期後半まで、近畿地方は考古学的にどういう世界だったのか?
九州・日本海王家をなぜ紀は消したかったのか?のなぞを解く鍵はそこにないか?
なぜ神武は九州から来たとされたのかや、邪馬台国問題も含めて、その2に続く。




















続・天武と劉邦 古代史の肝、古代考古学の肝

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日本史(文献史)の肝は記紀が書き残したいくつかのポイントを見極めるところにある。

1 蘇我氏政権~天智~天武天皇~持統天皇女帝時代への切り替わり時期
2 継体大王の登場
3 応神~雄略
4 聖徳太子の正体

この四つの切り替わり時期をよくよく深く読むことで、あらかた『日本書紀』の矛盾や嘘や破綻がわかるようになる。あとは「おまけ」のような尾ひれエピソードの挿入で、あまり気にしないほうが問題点は明確化する。


次に有史以前は考古学でしか見ることが不可能だ。

1 弥生時代草創期・初期・中期・後期区分を自分なりに再編成する
2 弥生文化の伝播の東西タイムラグ
3 縄文のヘテラルキー意識がヒエラルキーへと変遷してゆく過程をつかむ
4 倭国大乱による時代区分を
5 古墳時代の始まりではなくヒエラルキー意識の萌芽こそが時代の変わり目
6 応神~雄略、継体~飛鳥への変わり目で擬態的遺物はなにがどう変わったか


ここには邪馬台国について書いていない。
それは上記ポイントを数年かけて、客観的に検証していけば、誰でも気づき始める。



今筆者は『日本書紀』、日本古代史を俯瞰し、これまで筆者のオンボロな薬味箪笥の引き出しに10年かけてランダムに切り取り整理してきた膨大な断片を組合せ直し、やはりおんぼろな乳鉢の中で、あたかも錬金術師のように乳棒でそれらの薬品をすり合わせ直して、古代史の肝と言う漢方薬を作り直している最中である。だからひとつの記事に以前のようには短時間で書くことはできない。脳細胞の再編集だから当然、たくさんの時間が必要である。慎重に書いているということではない。一旦引き出しにしまった先達たちの知識を、引き出しから探し出し、組合せ、調合し直しているからだ。



先史時代まで順にそれをたどり直す。すると『日本書紀』天武記事の虚構が最初のとっかかりであることに気づく。洋服のボタンの掛け違いが『日本書紀』編纂時にすでに始まっていることに気がつくのである。もし過去の日本人のすべてがそれに気がついていたら、先の大戦は起こりえなかったとすら思う。

だから古代史の虚構を暴くとは、多くが思うような、反体制な行為などではなく、むしろ日本の平和への道について考えることにつながるだろう。そう信じてこの10年を費やした。



天武までの日本の史書の虚構、ボタンの掛け違いを知るためには、次に日本人が出来上がる前の先史時代を、少なくとも縄文~弥生~古墳時代まで順を追って、考古学の実績から省みる必要があるだろう。



縄文~弥生を知るための肝は弥生時代中期の切り替わり時期を知ることが大切だ。


そして、弥生時代を自分なりに再編成し、弥生時代草創期、早期というものが北部九州にしかないことを把握しておかねばならない。そう、弥生と一言でいうだろうが、中期後半になる2世紀まで、北部九州以外はまだヘテラルキーな円の世界。縄文世界なのだということをである。

そして北部九州ほどの大陸的ヒエラルキーな遺物を大量に出す世界は、その後少なくとも500年、ほかにはなかったということである。その中国の影響下にあった国家的民族意識は、大和へは200年かかり、東海へは300年、関東・東北南部へは500年以上の時間がかかって伝播したという認識を持たねばならない。そうでない人に邪馬台国も日本古代史文献の真偽も気づくはずはないのだと思う。


これからまず弥生土器が何年かかって日本中に広まるかを松木武彦の考古学による史論を参考にしつつ、とは言いつつもすべてをそれに首肯はしない態度で、ざっとたどり直してみたい。そんなに難しくはならないだろう。お楽しみに。


そうするとすべてが見えてくるはずだ。
そう思わない人は、本の読み方が筆者よりも少ない人だと思ってがんばってもっと本を読んで欲しい。


いつもえらそうに言うけれど、お許しください。事実ですから。




















続・天武と劉邦 縄文から弥生、弥生から縄文回帰そしてやっと大和は弥生になった

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弥生最古の土器と言うとまず九州に登場したのは突帯紋土器で、次に遠賀川式土器、次に板付I式となるだろう。

大陸から人が移住し、弥生時代前期に九州福岡県の東部遠賀川流域で、つるつるっとした、なんの模様もない簡便で機能的なこの土器が作られ始めた。

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この土器は数百年のスパンで日本に広まった。

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最初は日本海沿線、やがて瀬戸内から太平洋側へも広がる。北海道南部や東北ではこれに類似する土器(遠賀川系土器)が登場し、北部九州遠賀川の倭人たちが、弥生時代前期からかなり広範囲に舟の移動をしていたことがわかる土器である。

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東北にはもっと前の縄文後期に、もう九州の縄文遺物や貝を模造した製品が存在したのであるから、北部九州倭人の移動癖は筋金入りだが、彼らはすでに縄文人とは違う民族であったかも知れない。それはおそらく海人族だろう。安曇の先祖かも知れない。


するとこうなっていたことがわかるはず。
日本の大陸文化の伝来はすでに縄文後期から始まっており、それは弥生人ほど多くの移住者ではなかったがぽつぽつとやってきて、海人族のさきがけとなりはじめていた。そこに弥生時代前期に起きた大陸でのなんらかの変事でさらに多くの移住者がきて合体した。しかもそこには東北から南下してきていた縄文人もすでにたくさんいた。彼ら三者が合体したのが「倭人」であろう。と。

九州ではのっぺりして飾りのない遠賀川の土器は、やがて出雲から丹後半島まで到達。

次に瀬戸内を東へ向かい吉備を経て大阪湾に登場する。


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ごらんのように大阪平野では遠賀川式土器の集団と縄文土器の集団が隣接してほぼ同居しているのである。当然文化は融合する。

その証拠となるのが瀬戸内・近畿で増え始める縄文回帰的な意匠を凝らした遠賀川式土器である。模様のなかった土器に線刻や縄目紋などのデザインが描かれ始めたのだ。


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同時に、西日本にはほとんどなかった土偶も現れる。


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このブームはやがて東海、関東、東北へ広がりを見せはじめたのだ。


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これは朝鮮半島では見られない日本独特の変化である。つまり日本の倭人は縄文のよさも取り込んでデザインを豊かにしたことになる。これが日本人のオリジナリティと合理主義が始まった最初の出来事である。ということは「日本人」とは大陸の機能性と在地縄文の情感とを併せ持ったハイブリッドであったことは明らかである。

そこにはまだ明らかなヒエラルキーの意識はない。生活様式や感性は先住の縄文人の1万年に及ぶ歴史や生活感、季節感と融和した世界で、先進地北部九州(筑紫)とは相当な文明の開きがあったのである。

意識としてのヒエラルキー的な遺物も瀬戸内や近畿ではまったく登場しない。圧倒的に鉄器や鏡や銅器といった威信財も筑紫の墓のほうが大量に埋葬されており、それが近畿に登場するのは4世紀以降、古墳時代中期まで待たねばならない。その時間差は200年以上もある。しかもほとんどが自前のコピー品である。オリジナルがない。

弥生時代前期にはまだ石器の剣が出るが、最初は半島的ななめらかな研磨をほどこされていたそれが、やはり中期になると縄文に戻ったような打製の意匠を持ちはじめている。

即物的で機能を重視する文化は大陸のように、周囲に異民族が割拠する、国境を接する世界でまず始まるもので、だから文明となりうるのである。文明とは一地域だけでなく周辺諸国までもが影響される広範囲な文化のことである。海に囲まれた日本では、だからなかなかこの独自の感性や意匠を世界に広めることはなかった。現代になってようやく、欧州やアメリカや世界各地で日本文化のオリジナリティが認識され始めているのだ。やっとのことなのである。弥生時代が始まってもう2千年以上が経っている。今の今まで、だから世界は日本のオリジナリティを知らなかった。そして日本も進んでそれを発信しなかったということなのだ。田舎に行けば欧州人でもまだ日本人=サムライ、ニンジャ、車・・・くらいの知識の人は山ほどいる。


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二世紀頃の国内のヒトの動きはこういう感じだった。

筑紫と近畿が二大文化を担う大都市圏である。しかし遠賀川式土器の人々とは違い、彼らが去ったあとの九州人たちはほとんど移動しない。外へ出て行かない。外から人が来ては文化を切り取って持ち帰る世界。しかし近畿は立地が列島の真ん中でもあり、往来する。ここが大きな明暗を作る事となる。


さてその前に吉備という中継点をおさらいしよう。
吉備型甕というものがあるが、その意匠はほとんど九州の土器の亜流で、口の部分だけがやや厚みを持った強度を増したものになっていて、これも大阪湾に3世紀以後登場する。何か気がつかないだろうか?土器を甕のように大きくするために周囲だけが補強されて壊れにくい遺物・・・三角縁神獣鏡、巨大前方後円墳、銅鐸・・・?
まさに大和的見栄っ張り遺物だ。みせかけだけのヒエラルキーがそこにある。


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以前すでに書いたことだが、吉備型というのは最初に発見されたからの銘銘で、実際の分布はこれも北部九州が最多の出土数。遠賀川式の地図でもこの地図でも、弥生土器は最初北部九州で始まり、それが吉備や出雲経由で広まっていく。それは舟の停泊する港としてそれらの地域が優秀だったからだ。そして人が集まり市を形成するよい生活圏、環境があったからだ。河川や平地や気候がよかったからである。そして大阪湾は図抜けてよかったことになる。九州よりもよかったのである。

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だから三世紀以降の近畿の中心土器となるのは遠賀川系ではなく、吉備型厚い口縁を取り入れた庄内式~布留式土器に発展し、その後の弥生土器の中心はこれに変化した。

遠賀川の人々はどこへ消えたのだろうか?
最新の稲作と水田、最新の金属器、最新の祭祀や墓制、最新の土器を伝えながら、彼らは消えてしまったのだろうか?

いや、その後、大陸三国時代に翻弄され始めた九州人には、文化伝播のゆとりがなくなり、大阪湾では在地の縄文ヒエラルキー文化に混ざりこんでしまったのである。もともと少数移民だった彼らは、近畿地方や瀬戸内では人口の多い縄文世界に飲み込まれてしまうのだ。

だからこそまだゆとりのあった吉備の淘汰された変形弥生文化のほうが彼らのリーダーになりうることになった。いや、その吉備じたいがそもそもは移住九州人によった文化社会だったことだろう。


魏志は言う。桓霊のころ倭国大いに乱れる。

1,5世紀頃、中国は分裂し戦乱時代が始まろうとしていた。漢が滅んだのだ。その影響をもろにうけて乱れたのはもちろん筑紫である。それゆえに彼らは吉備や出雲へ逃れる。その後、また中国で後漢が滅び三国時代が始まると、再び倭国は乱れた。3世紀、その影響は大和にまで及ぶ。ようやく近畿地方にもヒエラルキー、威信財を欲する文化が到達するのである。

そして登場したのが大古墳であった。

九州のそれ以前は墓の様式はどうだったか?
半島型の支石墓や、江南・インドシナ・インド型の甕棺からどたん墓へ変化し、中身は日本一番の豪華版だったのが、2世紀平原遺跡が登場。盛り土を大幅に高くした方形周溝墓に変化した。


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考古学はこれらの墓を古墳とは呼ばず弥生墳丘墓と区別するけれど、大古墳への道に始まりはこの墓からである。そしてこの墓の四方に足を付け足したのが出雲の四隅突出型墳丘墓である。これもみな日本海経由で北上している。遠賀川の土器と同じコースである。もしかすると平原も最初から足があったかも知れない。


しかし大和では日本海型の墳丘墓スタイルは取り込まれず、独自の前方後円墳型から始まる。そこからが古墳時代である(と近畿学派が勝ってに決めているだけ)。


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弥生土器というのは全国的にさほど形状に変化はない。縄文のバラエティに比べるとシェイプに対する好奇心がまったくないように見える。つまり基盤である底部の大きさが九州から東北まで一律で、形状もS字型と、一貫している。まるで現代の大量生産の規格品のようである。その理由のひとつとしてクジラの背骨の頚骨を台座にして、ろくろ方式で作るように伝播されたためではないか。


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実は縄文土器でもそういう規格があった可能性がある。
縄文土器も底部が同じ平たいものがあちこちで出る。ただし、底部形状にはとがったものも多く一概には言えないが。しかし彼らもクジラの骨を底にしていた可能性はある。

松木武彦は、渡来した弥生人と、先住縄文人には、心底のところで実は同じ死生観や季節感、生活感があったのではないかと書いている。筆者も以前そう思って書いたことがある。特に死生観でよく似たところ、再生祈願、命の永遠の希求は共通点がある。それをよりどころにして両者が融合したことが日本人を形作ってきたのではないか。


それはなぜかと追求すれば、半島南部由来の渡来倭種も、もともとは江南、長江から逃げ出した長江文明人であり、その大元は人類分岐点であったアフガニスタンやアナトリアであるし、縄文人も北方から来たツングースとスキタイの融合したものだったからかも知れないのだ。

日本~ステップロードで中東まで、なぜ文法がウラル・アルタイ語言語圏で共通するのに、なぜインド・中国「だけが」欧米型なのか?そ思ったことはないか?日本語が決して世界の中で孤独な言語ではないのであり、むしろアジアの中でインドと中国のほうが孤独な言葉を使っているのではないか?そう思わないだろうか?




さて、弥生中期をちょっと考古学でかじってみたが、それだけでも相当な日本人はじまりのヒントがあふれていなかっただろうか?

歴史の肝とはまさにそういう、あとにまで続く事象が集約的に表出する時代である。


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そこを押さえると、ほかの時代とはあきらかに違う音がする。
そこに鉱脈がある。
そこがツボである。
確かに意匠に「凝り」が存在する。



人類が何かにこだわり「凝る」時、それを「イベント」と呼ぶ。
サルから人が分かれたとき、人類の祖先も最初に石器に凝りを込めた。
こだわった。これは人類だけの特性である。


人類最古7万5000年前の象徴的石器オーカー片の斜めの線刻。
最古のオルドワン石器の左右対称へのこだわり。
縄文の火焔土器の異常とも思えるシェイプへの好奇心・・・。
機能だけでよいのに、なぜかデザインにこだわり、シェイプやにおいや音に官能と共感を明らかに意図して求める生き物。それが人類だ。



さて、そういう特性が悪い方向へ出ると独善となる。
威張り腐った背伸びや虚構へ裏返る。それも人類だ。


北部九州が大陸に翻弄され、かつての素晴らしい最新最先端の文化を育て上げられなかった反面、近畿は正反対に、その日本人の悪い面である、ただただ大きな墓を作り続け、中身は九州ほどの鉄器や武器や立派な鏡も持てない「えせヒエラルキー」「がらんどうのピーマン威信文化」にまい進した。その例が五世紀の巨大前方後円墳の出現だったのだろう。少しづつ、九州以上のつきあいを大陸諸国とはじめられるようになるのが4世紀以降。横穴式石室に変化したのは大量の威信財を墓に入れる余力がやっとできてからである。広いトランクルームを持てる形状が横穴式だったからだ。

そして文献では、そのとき応神という大王が河内に登場したと書くのである。



縄文も弥生も古墳も、すべてつながっている。しかし記録はいつも嘘を書く。裕福でなかったからこそいばりたがる。それが記紀である。それが大和の最初である。


そういう人々が書いたのが『日本書紀』である。


なぜ最初の天皇が九州から来たと描いたのだろう?
なのに、なぜ纏向遺跡からは九州の土器は出てこないのだろう。
九州の土器が纏向から出てこないことで、困り果てたのは実は近畿の皇国史観愛好する史学者ではないだろうか?そういう逆説的な考えがときどき脳裏をかすめる。じゃあ、『日本書紀』の神武東征神話が瓦解するではないかと。記紀は根本から壊れるじゃないかと。それを壊してしまったのはほかならぬ自分たちの手下である近畿考古学その人ではないかと。ね。

九州の土器が出るはずがないのだ。最初からそこに住んでいたのだから。縄文人と融合してハイブリッドして、久しく住んでいたから、もう九州オリジナルの土器は使わなくなっていたからこそ、出てこない。つまり彼らがオリジナルの大和民族であり、そこに各地から人々が三世紀前になって逃げ込んできた。今の東京と同じことである。在地大和っ子に地方出身者が混ざりこんでふくらんだお餅が大和なのである。その時代が卑弥呼の時代なのだ。大都市とはそうやってできあがる。

そういう着想が持てなければなかなか。

藤原氏は弱小氏族だった。
そこが肝である。
弱小から一気になり上げれた。
王を傀儡の女子とすることだけで手のひらを返したようなマジックで表舞台に登場しできた。不比等以前は実在したかどうか記紀にしか記述はないのだ。


次回、継体と「帝紀」「国紀」の真相は?


お楽しみに。


参考文献
考古学 松木武彦『日本の歴史1 列島創世記』小学館
文献史学 遠山美津男『日本書紀の虚構と史実』 洋泉社
































『日本書紀』史観全解体、全理解  治乱興亡史観と中華史観でできている

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●前近代の歴史叙述の特質(江戸期儒学・朱子学の史観)
1治乱興亡史観=ドラマツルギー史観、ドラマチック史観、中国興亡史的史観
2鑑戒主義=歴史は繰り返すを前提に、過去の事実を反省し今後繰り返すまいと戒める主観的史観
3直書主義=ドキュメント史観、淡々粛々と史実だけを書き留める史観


1治乱興亡史観
  「一つは「治乱興亡史観」で、歴史は治まったり、乱れたりが次々と繰り返されるという考え方です。それが繰り返されるという意味では、「循環史観」といってもいいかもしれません。私たちがすでに失ってしまった歴史に対するものの見方です。歴史は繰り返すと言いますが、現代の私たちはこれを比喩でしか用いません。ところが江戸時代の儒学者にとっては、これは比喩ではありません。歴史は繰り返されます。しかも国境を超えて繰り返されます。中国の歴史書がなぜ必死で読まれるのか。私たちが読むように、他国の歴史書として読むわけではない。繰り返されるがゆえに必ず参考になるだろうということです。つまり、中国の歴史書は中国の歴史書であると同時に普遍的な歴史書でした。儒者は中国の歴史書を下敷きにしながら書くわけです。これは『日本書紀』からすでに始まっています。江戸時代までずっとそういう形で歴史書は書かれてきた。新井白石も朱子の『資治通鑑網目』などを横に置きながら『読史余論』を書いたことは先にのべました。「循環史観」は国境をも超えていく歴史の見方だということに注意しておいてほしいと思います。」
http://www.ritsumei.ac.jp/~katsura/doyou.htm


2鑑戒主義史観
  「二つ目は、「鑑戒主義」です。歴史を鑑=鏡とする考え方です。過去の過ちから学ぶ。過去の過ちをきっちり見て、治乱興亡の叙述を見ながら、なぜ乱れたのか、そこを反省する。同じことが繰り返されるわけですから、現在の我々以上に緊迫して書物を読んで学ぼうとする。本当の鑑=鏡なのです。歴史を一生懸命、鑑=鏡として、そこから戒めを引き出す。この考え方は、日本の有名な歴史書の中に一様に共通して出てきます。『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』などは古代・中世の有名な歴史書ですが、名前にもその考え方は出ています。まさに「古ヲ以テ鑑ト成シ、人ヲ以テ鑑ト成シ、以テ得失ヲ明カニスヘシ」(『貞観政要』)というわけです。失敗もちゃんと見ようというわけです。」


3直書主義史観
  「三つ目は「直書主義」です。朱子の言葉に「実ニ拠テ直書シテ、理自ラ現ル」(『朱子語類』巻八三)というのがあります。「事実」を「直書」すれば、余計なことを書かなくても「理」は自ら現れる。したがって、正式の歴史書の「紀」は解釈とは別に記述される。「何月何日こういうことがあった」と淡々と記していって、そこに「自ら善悪が現れる」といっているわけです。念のために申しますと、「事実」と解釈は不可分のものでありまして、現代のわれわれから見ると、かくいう儒学者・朱子学者の歴史書も解釈を離れてはありえません。「事実」を淡々と記して、そこに自ら「理」が現れるといいますが、なぜその「事実」を取り上げるのかということの中に、すでに一つの解釈が入っている。したがって、厳密には「直書主義」はかれらがいうほど解釈と無関係ではないわけであります。ただ少なくとも彼らの主観のレベルでは「直書」、記録に残っているものを淡々と断定型で記していけば、後は解釈しない。そうすれば「理は自ら現れる」。」
http://www.ritsumei.ac.jp/~katsura/doyou.htm

 「以上、大きくいえば、儒学系の歴史書にはこの三つの特色があろうかと思います。江戸時代は、儒学系の歴史書が盛んだったわけですが、それを通覧すると、直ちに気づかされるのが、この三つの特色であります。「治乱興亡史観・循環史観」「鑑戒主義」「直書主義」ということです。こういう歴史観は当然のことながら、近代以降、多くは見捨てられていくことになります。」
http://www.ritsumei.ac.jp/~katsura/doyou.htm

 
『日本書紀』では
(4皇国史観=万世一系の天皇系譜によって日本は始まるという『日本書紀』的な史観。)5中華思想史観
6道教史観
7対外的見栄っ張り(ヒエラルキー)史観
が顕著である。

カッコ付きにしたのは皇国史観という言葉の発生が明治期であるから。






『日本書紀』の史観ではこのうちの1と4・5・6史観が顕著に感じられる。
1はその後の中世軍記にも共通するドラマチック性を盛り込んで、歴史がまるで映画や小説や絵巻のように展開し、王朝の変わり目に必ず起承転結の「転」にあたる大事件、事象、乱や変を盛り込んで結果として王朝が易姓革命によって切り替わるスタイル。『三国志演義』や『日本書紀』の一部などがその代表的なもので、史書というよりも物語である。

『日本書紀』のそういう部分とは、磐井の乱(いわいのらん)や丁未の乱(ていびのらん)や乙巳の変(いっしのへん)や壬申の乱(じんしんのらん)である。場合によってはなかったことでも海外に対する対外的ヒエラルキー意識から、それがあったのだとしたい手法。あるいはあったとしてもかなりのドラマツルギーを盛り込んで史実以上の話を盛り上げる手法。中国の過去の歴史書を手本に書き上げてある部分。中国史書が面白いのはこれがあるから。

一方で、同じ時代の変換期でも継体大王の死やその二人の息子の死などは何事もなかったように妙に冷静に描き外国の見方は一書として参考程度に済ませる。ところが継体の登場シーンでは国内が反目しあい、反対勢力が邪魔をするとして話を盛り上げている。

聖徳太子については、これも中国にある「聖天子」思想を取り込み、かつ中国のやはり王にはならなかった「素王」をもモデルとして(呉哲男『古代日本文学の制度的研究』2003)描いている。皇太子のあるべき理想像として脚色してあり、そのエピソードは『日本書紀』編纂当時の皇太子だった聖武天皇のために書き上げられた(遠山美津男『日本書紀の虚構と史実』2012)ようである。
※聖天子=中国神話の堯(尭、ぎょう)や舜、あるいは周王に代表されるような聖人
※素王=王の位はないが、王の徳を備えている人。儒家では孔子、道家では老子をいう。

それゆえに『日本書紀』も『古事記』も史書の体裁を保ちつつも、その内容はむしろ文学、文芸であると考えても差し支えあるまい。2の歴史を省みて反省する史観や、3の直書主義の部分は記紀にはあまりなく、それ以後の史書に先送りされている。

『日本書紀』が「にほんしょき」と読まれているのは、だからややおかしいことで、これは「日本書」の「紀」つまり「本紀」の部分だと考えるべきだろう。中国歴史書の体裁は「本紀」・「志」・「列伝」の三部構成を基本とするので、『日本書紀』はついに志・列伝に着手されることのなかった東アジアでは異例の書となる。それはもちろん意図的なものとしての『日本書紀』の成立を想像させることになる。要するに『日本書紀』は藤原氏のための史書だったということで、その後の橘氏との政治主導権の奪い合いこそが日本の正史だとなり、つまりやはりそれがちゃんと平等な視線から書いてある『続日本紀』以降が正史だということになるのである。

このことはもちろん中世の歴史書のいくつかにもあてはまるものはある。源平盛衰記や平家物語などはあきからかにどちらかに偏るひいきがあって描かれた軍記ものの感が強く、義経についてなどは当然、潤色に溢れた物語だと言えよう。




さて、戦後、それまでの右に偏った歴史観の「振り子」が、敗戦直後大転換して、一時的に左へ振れ過ぎてしまった時代があった。その頃の史観は西欧科学と共産主義的史観に蹂躙され、一見、東大の左翼史観VS京大の皇国史観といった様相を呈することになる。現代の史観はそこから少しずつ科学的客観的直書主義の方向へ修正されいっている過渡期だろう。

共産主義的史観や客観主義に徹底するドキュメントだけでは、歴史は常に前方にのみ突き進み、繰り返すことがないので、前世紀史観にあった過去への反省とか、繰り返すから注意せよといった現代人への喚起も存在しないことになるだろう。そこには常に人間からの主観的なコメンテートによる微調整が必要になる。解釈しだいでは客観主義はあらぬ方向へ行ってしまいかねないのである。それはちょうどかつて科学が武器を作り出してしまった矛盾に似ている。


かつて政治学者・丸山真男は

「けれどもここで忘れてはならないことがある。政治学が政治の科学として、このように具体的な政治的現実によって媒介されなければならぬということは、それがなんらかの具体的な政治勢力に直接結びつき、政治的闘争の手段となることではない。…学者が現実の政治的事象や現存する諸々の政治的イデオロギーを考察の素材にする場合にも、彼を内面的に導くものはつねに真理価値でなければならぬ。…たとえ彼が相争う党派の一方に属し、その党派の担う政治理念のために日夜闘っているというような場合にあっても、一たび政治的現実の科学的な分析の立場に立つときには、彼の一切の政治的意欲、希望、好悪をば、ひたすら認識の要求に従属させねばならない…。」(『科学としての政治学』1947年)

と書いた。そのように人間は矛盾し、利器を暴力の道具とすることも辞さぬ生き物だということである。科学や数学はただひたすらに純真に「なぜ?」に対するひとつの解答を追い求め、ついに生まれ出た答えは、技術によって短期間に現実化し、それを使う主観的ぶれに溢れる凡々たる一般人や政治家や軍人らによっていともたやすく凶器とも変貌してしまう。凶器と侠気は常に正義や狂気と表裏でつきあう。歴史書製作にもそのような表裏のとらまえかたができてしまうところがある。


記紀の言う女帝時代にしても、考え方によってはそんな時代はなく、空白だったとしてしまうことも可能なのである。『古事記』は推古女帝の登場で幕を閉じるが、『日本書紀』はその推古を前例としてその後の皇極や称徳の即位、持統以降の10代を正当化したと考えてもおかしくないわけである。こうなるということは記紀は正しく歴史を描いた書とは言えなくなるわけである。

女帝の許容は『日本書紀』編纂時が最初だったと考えられるのは、推古の前例があったのなら、なにも『日本書紀』編纂時にそれを正当化する必要はないのに、あえて女帝持統を擁立する正当性を『日本書紀』が書こうとしているところにあるのである。例えば女帝の前例としての魏志の卑弥呼のエピソードの一書挿入や、神功皇后の創作はなんのために書き加えたか?と考えれば一目瞭然だろう。国家神アマテラスが突然、ほかの創造神五柱を隠れさせてまで登場するかもまさに女帝のための国家神変形ではあるまいか?女帝が押し通せた最大の理由は、持統の即位とほぼ同時期に中国でも則天武后が即位してしまったからである。いや、のしや武后の即位を知ってからだからこそ持統以後も書くことが可能になったかも知れない。

また、これも不思議なことだと諸氏が感じいているだろう、日本を最初に開発した天皇の二重性、三重性がある。神武・崇神の二人の「はつくにしらす」天皇がいて、さらに天智天皇には「天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)という天命によって国を開いたという名前。さらに飛鳥王朝の始祖としての欽明には天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)という天地開闢の諱号が付与される。ところが一方で、同じく応神の王朝を引き継いで新勢力を築き上げ、今の天皇家の大元血脈である継体天皇では男大迹王(をほどのおおきみ)、彦太命といったなんでもない本名だけの諱号で済ませている。まことに奇妙な話ではないか?兄天智が国を開いた聖人・始祖王と名前をつけられるのに、弟の天武は壬申の乱という大クーデターで天智の子どもを滅ぼした革命王なのに、諱号こそ天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)という道教の聖人であるが幼名は「おおあま」と、当時の政界ではがっくり力を落としていた海人族の名前。天智には葛城王という立派なかつての外戚王家の名前・・・。あきらかに『日本書紀』は天智を事実上の正統な王家の始祖であり、数えて数回目の交代した王家なのだぞとしてある。王朝交代を認めながら、彼らは全員もとを糾せば九州の神武の子孫・・・???どういうことだ?!

これはまさしく1の治乱興亡思想があるからこそ創作できたことなのだ。
日本にも中国のような何度もの革命があって、天皇は入れ替わることがあったのだと言いたい書き方なのだ。ところがところが、返す刀で天皇はずっと万世一系で、神武も崇神も応神も継体も欽明も天智も天武もみな実は親戚で、親子で、兄弟で・・・と、まったく矛盾した書き方。すべての内乱や革命や王の交代劇はすべてたったひとつの王家内部でのごたごたですからと言い訳するのである。それでは天命によって天子が変わったことにはならないのではないか?まあまあ、それが日本よ・・・なんじゃこりゃ?である。おかしいだろうと思わないもののほうがおかしい世界が続いてきたのに、誰もそこに気づかぬままとうとう皇国史観によって戦争し敗北までしてしまう。

なぜ初代天皇は九州から来る?
これは認めているわけである。何を?九州つまり筑紫が王の本家だったことを。天孫が降りてきたのはそこが祖先が最初にいたところだったということの公認である。そして天孫が来た大元は天である。神の子孫だと。神の世界からやってきて、その子孫が代々国王になるが、同時に国王もただの政治王なのではなく神の血を引く神なのだと。これはあきらかに天命を受けて王となるのとは性質が違う。中国でも確かに周王の血とか、始皇帝のとか、漢の血脈とかは言うけれど、それらがすべてひとりの始祖王から引き継がれた血脈だったなどとは書いていない。現実的にそんなことはありえないという客観的史観がそこにはある。

神倭伊波礼琵古命が九州からはよいとしても、なぜ南九州からなのか?これはもう史書編纂時に金が動いたんじゃないのか?とさえ疑うほどの驚天動地である。前の王家がそうだったからだとしか思えまい。葛城氏や物部氏ら有力外戚が南九州から来たから、それをわれらがやっつけて王朝交代したから、祟られたら困るから持ち上げておこう・・・そういうことか?そういうことでしょう。藤原氏の本体である中臣氏そのものも九州から来ていたということかも知れぬ。いや、藤原氏が果たして本当に中臣氏から出たかどうかも実は疑うほうがいいのかも知れない。

応神もなぜ九州の宇佐に祭るのか?そこから来た、あるいはそこを経由した、あるいはそこを基点にして吉備あたりで王だったから・・・であろう?

なぜ出雲を最初にやっつけて、さらに黄泉の国にしてしまうのか?中華思想だからである。漢民族とは異なる周辺の辺境の異民族を文化程度の低い禽獣であるとして卑しむことから華夷思想(かいしそう)とも称す。また夏、華夏、中国とも同義である。南蛮(なんばん)・東夷(とおい・とうい)・北狄(ほくてき)・西戎(せいじゅう)が周囲に蟠踞した中国の思想からである。しかし日本列島は細長く、周囲はみな海で、蛮人たるものがいない。そこで大和を中心として西を出雲、東を東海・関東、北は蝦夷の東北、南は熊襲・隼人のいる南九州とした。西は死者のいるところとして黄泉とした。さらに自分たちのいる中心地大和を畿内として、天子のいる都であると決めたのである。中国ではこれを畿甸(きでん)と言っていたからである。すべてはあきらかに四角四面と中華思想そのものである。実際には出雲は半島への中継地で重要だったのである。宍道湖という良港、斐伊川という鉱物資源、なによりも同じように往古から、蝦夷や九州がそこを重要な中継地としていたから是非とも欲しかったのだ。大和には海がない。ロシアが不凍港を欲して日露戦争になったのと同じことである。しかし大和は力ずくでそこをぶんどるほどの武力はなかった。だから福井から継体先祖を引き込むのである。これが息長氏。つまり継体とは船舶商業のもと締めだっ氏族から生まれた人でそれまでの大王とは無関係。出雲が欲しい、縄文から続く蝦夷と九州のつながりを断ち切りたいから継体懐柔である・・・。






















どこまでが古代でどこからが太古か?

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実ははっきりしていないことのひとつに太古と古代の使い分けがある。
一般には使い分けはあいまいである。
古代を悠久の有史以前に使う人もいれば、古代は有史以後、太古は有史以前と使い分ける人もいるのであいまいである。

厳密には太古は歴史用語ではない。
そもそも漠然として遠い時代という意味しかない。
文献史学では上古が最古の時代区分で、それ以前は存在しない。
なぜなら文献がないからである。
つまり「歴史」とは有史、文献のある時代以後のことになっている。

ところが考古学で、有史以前のことも歴史の中に組み込まれているから話はややっこしくなる。日本の考古学は文献史学の補助的参考資料と言う立場が長く続いたために、独自の時代区分を作るしかなかった。史学にないから作るしかない。それで有史以前を先史時代とか言うしかない。編年によって旧石器、新石器(縄文)、弥生、古墳と区分したが、これはあくまでも専門用語であって太古のような一般的な表現がまだないのである。だから漠然と記紀以前は古代か、太古と言うしかわれわれにはできない。

すると太古と古代はどう違うかが気になってくるのだが、特に区別がないわけだ。
太古を恐竜時代のようなはるかなかなたにする人もあれば、弥生時代も太古だという人もいる。ざっとした一般人が使える言葉がいまだにないわけである。

だからいちいち縄文時代、弥生時代という用語か有史・先史を使うしかない。それ以前なら太古だと。すごいスパンになってしまう。地球誕生から古墳時代までが太古になってしまう。

そういうことが気にならない人がうらやましい。







おまけ

『日本書紀』が言うには蘇我氏時代には天皇紀・国記というものがあったらしい。
また『古事記』では帝紀・旧辞というものもあったらしい。

本当にあったのかどうか誰も知らない。本物がないからだ。
現物がないのに、学者の多くは「帝紀・旧辞」をもとにして『古事記』は書かれた」などと言う人がいる。あるいは『日本書紀』も国記や天皇紀を定本にして編纂されたのだろうなどとも言う人がある。なんの証拠もないことをこの国の学者は平気で言う。


そもそも「あったらしい」とか「火事でやけた」とか史書が書くこと自体がわざとらしく、怪しむべき政治性に溢れているのではなかろうか?


まったくこの国の史学者は、いつまでたっても記紀の亡霊に振り回されたがる。最初から中国の史書を定本にして描かれた偽りの歴史をこねくり回して喜んでいる。バナナをなめるサルのようだ。おもちゃで遊ぶ赤子のようだ。


その中国の史書でさえ話を盛り上げる軍記史観や道教・儒教史観で出来上がっているフィクションだというのにである。


そういう点で聖書に頼ろうとする海外の神秘主義歴史家にそっくりである。専門家ですらそうなのだから、「神々の指紋」とかデニケンとかに日本人はころっと全員だまされ、世界を放浪してみたりが出てくるのだ。記紀と聖書はそういう代物でしかないことに気がつかない。

もちろん筆者は映画のクリムゾン・リヴァーとか天使と悪魔とかいった伝奇的ファンタジー作品は大好きだ。しかし、それらはみな空想の夢をさ迷う刺激的存在でしかないことはわかっていて楽しむ。まさかそんなところに歴史の真実などないことはわかっており、むしろそういう神秘主義こそが歴史を変えたり、歪めたり、戦争を起こしたりした原因だということもわかっている。歴史そのものが人類のねつ造と改造、恣意的な変形を受けることもわかる。


だから在野が楽しめる。だから歴史は脳みそのいい刺激になる。人類のおばかぶりが今も繰り返されていることを発見して面白い。


過去なんて誰もみたことがないのだ。
歴史なんかそれ自体がファンタジー、空想の産物なのである。
科学じゃない。


















言霊は事霊 言霊世界と文字霊世界の合体した国日本

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志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具
志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ
  柿本人麻呂 万3254)

…虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理…」
…そらみつ大和の國は 皇神(すめかみ)の嚴くしき國 言靈の幸ふ國と 語り繼ぎ言ひ繼がひけり…
 山上憶良 万894

言霊を人麻呂は事霊と表記している。
つまり往古奈良時代には「言=事」だったわけである。
考えてみれば、『日本書紀』の出雲の神・八重事代主(やえことしろぬし)の「ことしろ」は『古事記』では言代主とも表記されているし、「こと」とは言葉でもあり、「言の葉 ことのは」とは「事の端」・・・事象を引き起こす因果のもとというのが言霊思想の本性であるのだ。のろい言葉を吐けばそののろいは現実化するというのは巫覡の忌み禁じた呪詛から生じたのであろう。逆によい言葉を言えばよいことが起こるということにもなり、それは現在でもちゃんと生活の中に存在する。慢心した言葉を吐けばちゃんとある議員のように世間から断罪されたりは日本人の、あるいはマスコミの風習のようになっていて「言葉狩り」などはよくはやる。

ヤマトタケルは草薙劔を置いて遠征し、伊吹山で山の神(これを葛城一言主などという地域もあるわけだが)に出会い「神の使いだからあとで退治すればいい」などと奢ったことを言ったためにかえって神の祟りにあって死んでしまったわけである。(聖書ではこれと似たようなものをブレス=息と表現している。いわゆるキリスト教徒がよく使うゴッド・ブレス=神の息吹きである。そういう意味では伊吹山の「いぶき」も同じだろうか?ゴッド・ブレス・ジ・アメリカ=神の息吹にささえられ、護られるアメリカ合衆国)

「抜歯の風習をもたない中原の畑作牧畜民はいち早く文字を発明し、黄河文明を創造した。これに対し、長江文明には文字が無かった。少数民族の稲作漁撈民が作り出した長江文明はなぜ文字文化を発達させなかったのか。その原因に抜歯が深く関わっているのではあるまいか。
  抜歯の風習を堅持し、日本列島にポート・ピープルとして漂着した稲作漁撈民をはじめ、中国大陸で長江文明を発展させた少数民族は文字よりも「言霊」を重視した。それゆえ文字文化を発展させなかった。「言霊」の出る口は聖なる場所であった。その邪気をはらうために抜歯を行なったのではあるまいか。
  人類の文明史には「文字を重視する文明」と「言霊を重視する文明」があり、抜歯は後者の言霊を重視する文明のシンボルだったのである。」安田喜憲著の『稲作漁撈文明』

文字を持つ文化の人々は大陸の乾燥地帯に住むものが多い。漢字がステップロードを通じてやってきたスキタイらの使う甲骨文字の影響下で開始されたということを過去書いたことがある。「抜歯は言霊」http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55865774.html

漢字や甲骨文字など、文字を持った文明人は言霊思想や抜歯風習や刺青風習を持たない。代わりに小麦畑作、騎馬遊牧、獣肉食、ミルク・チーズ文化、それを用いる発酵食品を発達させた。いわゆる砂漠の思想とでも言える乾燥して即物的感性の持ち主で、侵略やいくさを好む。外交的である。

対して文字を持たない文明人は、言霊思想や抜歯風習を持ち、甕棺埋葬や稲作文化、魚食文化を持った、発酵食品ではミルク加工品を食べないで魚醤や植物発酵食品を常食とした、湿った主観的感性の持ち主である。いくさは好まず、侵略もせず、進んで自分たちの文化も発信したがらない。内向的である。

つまりそれは前者が北方的内陸的で、後者は南方的海岸部的とも置き換えられよう。
前者の代表が西欧文明や黄河文明やチグリス・ユーフラテス文明だとすれば、後者の代表は江南の長江文明や倭人文化、島嶼文化人ではなかろうか。


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文字は契約を導き、取引には必ず文書による契約書を取り交わす。言葉は口約束であるからその文化は人をまずは信用することを前提にした付き合い方をする。ということは後者は裏切られ、だまされることも当然多くなるわけだが、文書で契約しても破棄されたりは起こるのでどっちもどっちだろう。むしろ前者のほうが確かに失敗は少なくできるけれど、裏切りやだましを前提にした人を信用しない方法だから、かえって当然のように破棄や不履行が起こるかも知れない。歴史はどうやらそういうことばかり起きてきたようである。

そうすると前者の歴史観は当然のように治乱興亡史となる。後者は一系史となるだろう。
それぞれの言語の文法の相違もそこに起因するのかも知れぬ。あるいは言語文法がそうさせたか?中国や欧米の言語は主語のあとにすぐ述語が来るから、やる・やらないをまず明確に意思表示する言葉である。日本や朝鮮の言葉は主語のあとに目的語をはさむので意思がはっきりしない。あいまいな文化になっていく。

いや文字にだって霊はあるのだという人もいる。
文字霊という言葉はないが、先の息吹=ブレスには言霊に通じる観念があったように、漢字が日本にやってきてはじめて文字にも霊が宿るという観念が生まれたということは言えそうだ。

前に戻れば、事代主が海の神で、一言主は山の神であった。
雄略天皇は山に狩りにゆき(これは王者になったというデモンストレーションで東西共通)、山ノ神に出会うのだが、それが葛城一言主だった。また雄略は山の猪に追いかけられ、木に登ってかつがつ難を逃れるわけだが、このイノシシも、ヤマトタケルが出会った伊吹山の白いイノシシだってやはり山の神であろう。シカも神だが、どうも山の神は「ひとこと言う」霊魂であったらしい。その一言というのが相手にとっていいほうへも、悪いほうへも導くことになるから「一言」とは預言なのだ。つまりそれは巫女の呪文のようなものである。抜歯には、そうした悪い言葉を言わせないようにするための戒めもあったのかも知れない。

文字文明人は客観的な科学を作り出した。
ヒエラルキー階層社会を作り、乾燥した大地で遊牧や畑作を行い、肉を食い、巨大な経済社会を発達させた。自然に挑戦し、外交的な契約社会だ。
言葉文明人は円の思想で共存社会を営み、湿潤な河口部で水田を切り開き、魚を食い、コンパクトな交流交換社会を発達させた。同じように自然を切り開いても自然と融和し、自然を災害神としてあがめ、ささげものをしてなだめすかして仲良くなろうとした。契約は信用第一の内向的社会である。

不思議なことだが、北方の草原地帯に近いアジア北東部から南下してきた縄文人たちも、なぜか長江文明人と同じような自然観を持っていた。それはどうもひとえに列島の自然、森のせいだったのかも知れない。


日本人はナニ民族か?

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民族学とは何ですか?
ー文化人類学のことです。

どういう学問ですか?
ー世界の民族について風俗習慣やらを調べ分類します。

日本人はナニ民族?
ー日本語を共有する各種民族の集合体です。日本語民族。


日本にはどんな民族があるのですか?
ー旧石器時代移住者、新石器時代移住者、弥生時代移住者、それ以後の移住者です。民族名はそれぞれあります。それらが混在して日本語民族になりました。今ではさらに海外からの移住者が増えています。これからもどんどん増えます。日本人が少子化でどんどん減っていますから国は海外移住者に税金の口を頼り始めています。

細かく言えば倭族、アイヌ民族、出雲、熊襲、隼人、蝦夷、琉球などなどです。ほかにもいろいろあるでしょう。日本はそういう多くの小民族が時代を追ってやってきてもともといた旧石器~新石器先住民と住み分け、混血してきました。ですから日本人がナニ民族かと規定することは不可能でしょう。強いて言えば日本語を共有する人々ですが、その日本語というのが、複雑な地形のために小集団地域を作ってしまうために、あまりにも方言も多いのです。その方言は明治以前では、互いにほとんど通じないものでした。江戸の町人がお伊勢参りにいって通訳を雇わねばならなかったほどです。武士が文語を用いたのも言葉が通じないから仕方なくそうしたのです。伊藤博文の京都の天皇の宮内にあてた手紙ですら漢文でした。それほど東西でだけでも言葉が通じない。だから共通語を作るしかなかったのです。日本語不通時代がついこのあいだまで、3万年ほど続いてきたでしょう。通じるようになったのは戦後教育とテレビのおかげです。ですから日本はひとつの民族では語れない国です。

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大和民族ってなんですか?なぜここにはないのですか?
ー大和という規定が明確でないので、そういう民族が日本人の中心を占めているというのは過去の妄想です。やまととは近畿・畿内しか指さない地名ですが、帝国主義・民族主義だった一時期に『日本書紀』などを悪用して大和=日本、大和民族=日本民族であるという日本人単一民族説を押し付けられた時代がありますが、すでに過去のことです。

政治的には今でも、国をひとつのわかりやすい概念や宗教性にまとめる必要があるのでときに大和民族とか~教徒であるなどと使う政党や政治家がありますがあくまでも政治的な考え方で主観的把握に過ぎません。客観的に民族学上の民族となると大和民族は存在せず、日本民族、あるいは倭人とするのが正解でしょう。


倭人って?
ー規定できません。原日本人です。


なぜ?
ーですからすでに3万年前から、日本列島に移住してきた人を基層として、あまりにもたくさんの人々が混在してきたところへ、弥生時代以降大陸から避難してきた人々が混ざり合いましたので、へたをすると主流民族というものがなくなっているかも知れないのです。


どうしてそれがわかるの?
ー遺伝子DNAの割合のグラフを見ればわかるはずです。日本人だけでなく、世界の国々でも遺伝子はさまざま混在していますが、日本の場合、Dという母方ミトコンドリア遺伝子が一番多いのでこれを主流とする手もあるでしょうが、あくまでも母方です。mtDNA遺伝子だけではまだ日本人を決定できたとは言いがたいというのが最新の考え方です。Y染色体、核DNA遺伝子のデータがそろわねばこれも決定打にはなりません。ですから今のところ日本人をナニ民族と規定するほどの分析データはないことになります。



結局ナニ民族でもない?
ーしいて言えば共通項はコメ食、魚食しかないかなあ。稲作漁労採集民族ですね。


ぼくはパン食の肉食ですけど?
ー知るか!


というわけで、戦後ますます複雑化する日本民族ってことですね?
ー正解!


民族学って民族主義とは?
ー関係ありません。学問にイデオロギーはありません。そもそも民族という言葉は差別を生み出す大元ですからもう死語になっていくでしょう。使うのは原住民・少数民族などに対してのみでしょう。アメリカは人種の坩堝といわれますが日本のような島国も「民族の坩堝」と言うべきです。イギリスにせよそうです。ケルト民族やゲルマン民族やらいろいろ混在していますから。だいたい日本民族とは?などと考え出すのがこの国ではもう時代遅れです。戦前の単一民族説はむしろ単一人種説だったと思えます。

※人種という言葉も今は学問では差別を生む死語になりつつあります。人種や民族でその国の人間を把握をしようとする行為そのものがもう差別なのです。




なんかよくわからんなあ。
ー私もわかりません。とにかく民族主義的に日本人を考えないことやね。



 
 






日本は仏教国ですか?

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日本は仏教国でしょうか?
ー厳密に言えば違います。

じゃあナニ教徒ですか?
ーナニ教徒でもありません。

でも多くの世界宗教分布図では日本は仏教国に区分けしてあります。
ー宗教は確かに仏教を使います。しかしなにを信仰しているかと問われれば何もないというのが正しく、あえて規定するなら多神教の神社神道によって生まれたときから誰でも「氏子」となります。

じゃあ、神道国家?
ーそれも違うのです。無信仰者が圧倒的大多数を占める珍しい国です。仏教はお葬式の主たる手段として存在します。イスラーム教徒のように毎日アラーに礼拝する人はいませんし、宗教観にキリスト教徒のような政治性やなにもかもが依頼された生き方もしません。通常、日本人のほとんどは神や仏など意識して暮らしません。まあ、それらのいいところを取り込んで歳時記にしている程度です。


それでクリスマスやって、年末はお寺に参って、開けるとすぐ神社へ・・・
ーそういうことです。しかし人が死ぬとこれは必ずお寺の坊さんを呼んで読経してという形式をとり、命日には緒墓参りして合掌します。で、その帰りに近くの神社によってパンパンと拍手をたたいても誰もとがめたりしません。信仰にとらわれる日常を過ごさないのが日本人です。

最初は太陽信仰?
ーさあ?

え?
ー最初は、ということでしたから、さあと答えました。旧石器時代の人々が何を信仰していたか、信仰と言う概念があったのかわかっていませんので。

じゃあ太陽を信仰するようになったのはいつからでしょうか?
ー太陽を信仰するんですか日本人は?逆に聞きますが。

しませんか?
ーあなた毎日太陽に向かって礼拝しますか?しませんよね?
日本人が太陽信仰する民族だなんてどこに書いてありますか?

『日本書紀』にアマテラス大神が国家神のように・・・
ー『日本書紀』は日本の民衆のことを書いてある本じゃないですよ。あれは国家のための本でしょう。国家にとってアマテラスが最高神だとは書いてますが、そこには民衆もそうだとは一切書いてはいませんよ。勘違いしないでください。

例えば、あなたの近くの神社のすべての祭神がアマテラスさんでしょうか?違いますよね。アマテラスが脇に祭ってはあっても、それはあくまで帝国主義時代に祭ったのであるし、最初からアマテラスが主たる祭神なんてえ神社はほとんど日本にはありませんよ。古墳時代の氏族の神様は氏神、つまり先祖の霊でした。祖霊です。記紀の神々はあくまでも中央の、つまり大和地方の豪族が女性天皇を担ぎ上げるときに考え出したものです。私たちとは何の関係もない観念です。記紀のできあがった時代はちょうど女帝時代の真っ最中ですからね。ということは神社というものはその時代にアマテラスを主祭神とするようにという命令で始まっているということになります。それ以前は神社ではなく、各家庭、各氏族内で祭っていた廟であり、神も氏族や集団で別々だったはずなのです。

そもそも天皇は伊勢神宮に参ったりしませんよ。行くのは親王以下だけです。しかも天皇の代行ではありません。建前上でアマテラスさんは天武天皇~持統天皇~聖武さんの前までだけ国家神だったのです。だから『日本書紀』にはアマテラスは最初宮中に祭ってあったが伊勢に移したと前倒しで書いてありますでしょう?

聖武さんあたりからはもう仏教が国の中心に変わっていきます。神道は追いやられていくのです。それが明治時代に王政復古でまた甦った。そこで今度は廃仏運動が起きてお寺が焼かれます。敗戦によって神仏はまた混交OKになりました。

するとほんの短い期間だけアマテラスさんが太陽神だった?
ーええ、天武からせいぜい10代の期間と、明治時代から敗戦まで。たったそれだけで日本人はアマテラスは今も国家神なんだと信じちゃう。イデオロギーの恐ろしさですね。


じゃあ日本にはこれという宗教はないと?
ー宗教と信仰は違いますよ。
宗教とは国家が管理するものでした。信仰は誰もが別々の神をあがめてよかったのです。だから日本はそもそも神社が多いわけです。でも中身の神様は戦時中以外はばらばらですからね。

太陽神というのは農耕、あるいは海上交通にとっての宇宙神のひとつでしかありませんでした。まして太陽崇拝などは日本人の中にはまったくあった証拠もないですよ。
あなたちょっと戦前の歴史観の信者なんじゃないですか?時代感覚ずれてますよ。


日本人は無信仰です。
そして、ある瞬間、あるケースにのみ、古代の巫女に感染したように神を引っ張り出してくるのが好きな国民です。でもそのときだけで、すぐに忘れます。つまり不信心だということです。神仏は便利な小道具のひとつです。

坊さんや神主さんの言うことを真に受けちゃだめですよ。一番大切な国民としての自由がなくなるんですから。へえへえと話半分にしておくことです。




おまけ

京都の御寺泉涌寺さんには天武~10代の位牌がないそうですが・・・
ー御寺は平安京の天皇家の菩提寺でしたから、桓武さん以後の御位牌しかないのは当たり前です。それ以前は仏教はまだまだ国の宗教としてできあがってませんから位牌そのものがないのも当たり前です。東大寺にもそれ以前の天皇の位牌はないはずです。御寺泉涌寺の天皇の御位牌にはそれらしい戒名もありません。天皇の諱号が書いてあるだけです。要するに天皇は大昔から神道イデオロギーによって担ぎ上げられた大王ですから。

縄文、弥生時代、神とは災害神でした。だから生贄をささげます。今なら神社の供物、あれがにえです。現代でもおそらくまだ災害神が最大・最強の神でしょう。それを「後戸の神 うしろどのかみ・うらどのかみ」といいます。人を食う神です。祟ります。毎年台風や大地震として。

祟りには二種類あります。自然災害として偶発的に起こるもの、それを装って人的に暗に人を殺傷するもの。



































伊藤博文曰く「君に問う、年、いかに?」

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さきほどの問答で、明治時代の伊藤博文の話をされましたね。
ーええ、初代総理大臣伊藤博文が宮内省侍従長だった徳大寺実則へ明治28年3月に当てた書簡が全文漢文だったと申しました。

すると宮内からの返事ももしや?
ーそうです、漢文です。例文の出展は『民族の創出』P66にあります。

明治28年というと維新から30年近く経っていますね。そんな頃になってもまだ伊藤の山口弁では上方のやんごとない人々には意思疎通が不可能だった?
ーええ、そうです。

ほかに例はありますか?
ー山ほどあります。
その伊藤博文ですと、彼がまだ兵庫県県令だった頃、兵庫弁がわからない。向こうも伊藤の防周なまりの武士言葉がまったくわかりません。やったとったのあげく、伊藤博文は相手に文語でこう言った。「宮島誠一郎に問う、君、年、いかに?」。やっと相手は伊藤の聞きたい事が理解できたそうです。周防言葉でどう言ったのか知りませんが、関西弁の宮島に「あんた何歳かね?」と、これがもう伝わらない。

へえ!?
ー有名な西郷さんが幕末に江戸っ子の海軍奉行だった勝海舟と談話してますね?

ええ
ードラマとかじゃ言葉が通じているように演出してますが、考えたら薩摩弁が当時の江戸っ子に通じるはずがない。

そう言えば。
ーすると、そう簡単に1時間ドラマで話がおさまるはずがないわけです。おそらく何日もかかる。しかも話す内容は大政奉還のような国家存亡の一大事です。通訳がいなくちゃならない。

です。
ーだから坂本竜馬なんかすごいわけです。言葉が通じない双方に手を組ませたんだから。でもよく考えれば、小説やドラマのようにいったはずはない。もう何ヶ月もかかるはずですよね。相手は外国人同士と同じなんだから・・・。


なるほど!まったくです。
ーなのに政治家は日本は単一民族、一国家、一民族だと言って来た。戦後でも同じです。塩川さんだって、日本人は民族はさまざま混交しているが、共有する文化としては単一民族と言っても間違いはない」などと言っている。ほかの自民党の政治家もだいたいそうでしょう。これは野党では言わないのです。与党だからいわんやならん。国家をひとつにするための詭弁だヵらです。だから政治上の日本民族はひとつなんです。しかし学問上ではそうはなりません。政治とはそういう日本人のアイデンティティを打ち出しておかないと、国がばらばらになってしまうと考えるものなんです。

明治の東北人と九州鹿児島県人がしゃべったらたすごいことに・・・
ー絶対通訳が要ります。それも四人ほどいりますよ、東京の人が理解するためには。それこそ「あなたいくつ?」「50です」に一時間はかかる。そんな世界が明治まで続いてきたんです日本は。これが古代や中世ならどうしようもないです。で、武士は文語を生み出す。それから民間では謡曲。歌うんです。互いに。昔の歌垣、少数民族のフォークダンスみたいな意思疎通方法です。歌は世界共通って、あれが国内で必要だったわけ。


ひゃああああ・・・すごい世界だ。じゃあ、日本が大和民族の単一国家なんかもう妄想に・・・?
ーでしょう?奈良時代にあった猿丸太夫集団なんか、実はとても大事な言語疎通組織なわけです。和歌とか謡曲とか神楽とかね。ああいう芸能で情報を伝えるほうが手っ取り早い。


なるほど!つまり忍者とかスパイみたいなのではなくて、伝令組織?
ーそうでしょうね。いくらかはスパイ行為もするでしょうが。スパイと言えば富山の薬売りとか、行商ね、あれもスパイはしたでしょうね。スパイっていうのはまあ、その国の情報を知る。それは民衆がよく知ってます。だから子どもに取り入って、嫁に取り入る。家に上がりこむ。そういうのは中世が一番多いみたいですが。

007みたいに派手な立ち回りは・・・
ーしませんよ。目立っちゃならないですから。隠密。静かに民衆に紛れ込むでしょう。猿丸も舞踏を伝えつつ紛れ込む。すると向こうも大都会の情報をくらかもらえますね。だから長くつきあいが続くと。


神代文字というのもありますが?
ーあれは忍者の符丁みたいなもんですよ。文字というか隠し記号ですね。文字なら全員が理解する記号ですが、あれは逆に誰にも分からなくした記号ですから文字とはいいにくい。符丁です。するとだいたい戦乱の世の中でしか生まれるはずもない。太古からある必要がないのです。まあ、中をとっても修験者の隠語表現かな。せいぜい平安時代に生まれたものです。

岩に刻まれたヒエログリフとか言う人もいますが?
ー修験者だから山を徘徊します。すると岩だらけだ。迷わないように印をつける。山窩などもよくやります。ストーンサークルのはじっこに→とかしてある。物好きは円ばっかり見てストーンサークルだ!古代人だ!って興奮しているから気がつかない。

言霊の国、文字がない国だからこそ、今のだまされやすい、性善説の日本人ができあがった。
ーま、そう考えるのが妥当だし、筋がよく通ります。
中国の少数民族なんかがまだ、来訪したものを歌やダンスで迎えますね。ハワイなんかでもそうだし、島嶼でも、アフリカでもそういう来訪者を神として迎えます。あれは儀式ですし、儀式にはたがいの意思疎通方法だった時代が長く続きました。言葉が通じないからです。言葉が通じないとき、人はまずは身振り手振りで必死で伝えようとします。しかし音楽やダンスはそれよりもはやく仲良くなれる。それからでも言葉は遅くない。まずは心に悪意がないことを伝えないと殺されちゃうかもしれないですから。ま、そういう流れの中からやっと文字の必要性がね。気がつく。

日本の場合は文字は政府が史書を書くためにまず輸入するんです。外国は相手と契約するために生み出す。そこが違う。日本は敵がいませんから。だから神道なんかには教義がない。成文化してないのです、今でもですよ。教義・経典がないのは宗教とはいえません。古代信仰なのです。

じゃあ、神道の極意はどうやって?
ー神宮皇學館が昔はありました。それも実際の神道師匠に体で覚えるしかない。山に一緒に登ったり、滝行したり、精神性が重んじられます。根性ですな。六根清浄です。むかしの運動部ですよ。理屈は一切ない。神がかりすることが最重要です。そこに説明や申し送りなどまったくない。しかし古代信仰なんてのはそういうものです。仏教にだって荒行はある。トリップさせること、憑依なんです、宗教のはじまりは。


すると挫折者も出ますねえ。
出ます。そこで終わりです。スポーツも同じですよ。しかしそれは人生も同じだと。哲学などはそこにはない。まだ道教のほうがかなり理論的です。でも行き着くところは憑依だから・・・データ・統計よりも。そういうのが日本の神道には強い。

中国の仏教ですがあれも大乗とはいえない、道教や儒教が今でも手段として大きい。観念として仏陀ですが、それを同じように体現するのは荒行とか少林寺になっちゃう。仏陀の教えってインド派生の哲学なので、アジア人には難しくて到達不可能。だから仏陀の境地には体育会系、巫女系荒行がね。どうしても頭がいい人ばかりじゃないですから。


なんかこう、両極端の人々が宗教に入り込むような気がしますね。
ーオームもね。東大出の科学畑の人が、ころっと。あれは頭がいいとかじゃないと思います。何かこう常識社会には入り込めない、もっと精神性の高い世界に入り込みたいって、若い人は思うわけでしょう。するとああいうものしかない。入ったら真面目でかしこいから頂上を目指そうとする。すぐいいポジションについちゃう。欲が出る。もっと指導者に近づきたい。殺せと言っている。じゃあ俺がやる。と、そうなっちゃう。


じゃあ、頭の悪い人たちは?
ーいいように搾取されるだけ。だからみんな金持ち。


そういうことって古代なら山ほどあったでしょうね。
ー古代は小集団のためにあって、貨幣経済じゃないからかえってピュア。ないです。多くなるのは江戸時代、元禄時代からでしょ。昭和も多かった。世の中が安定し、金が動く時代に爆発する。古代人はトリップして神に近づくのが目的ですから、戦争なんかするときに憑依するんじゃないか?


言葉文化圏って、やっぱりそういうあいまいというか、神秘性にいっちゃうんですよね?
ー主観的だからです。流されやすい。なにしろ言霊がいるからって歯を抜くんですから。割礼もそうですが、痛いことしたいんです。彼等は。いれずみも痛い。海に潜ったり、山に駆け上ったりも痛い行為です。殉教者の自傷行為とか殉死とか生贄・人柱・人身御供・・・とにかくマゾヒスティックです。

なんかプロ野球時代に鶏肉ばっかり食って体を鍛えていたK選手みたいだ。
ー同じですよ。結局麻痺したい。鍛えるの反面は痛くしてじゃないかしら?客観主義なら文章で表現します。わたしは今とても心が痛いのだって、李白みたいにね。ところが文字を操らない人は体現してみせちゃう。表現方法がそれなんでしょう。レスリングをする女子見ていると、ぼくなどはいつも「なんのために?」と思うのですね。女子は子どもを生むのが最大の特性です。しかしあんなに肉体を鍛えたら嫁の可能性はどんどん低下するでしょう。なのにやりたがる。本性なんだからしょうがない。それで金メダルなら万々歳です。しかしそうじゃなければ、根性鍛えただけになる。自傷的です。理論や理屈でははかれません。表現がじれったい人っているでしょう?知り合いにいましたが、誰かがすらすらっとしゃべったり、うまく初対面の人と仲良く慣れるのがいつもうらやましいって言うのです。でも自分ではできない。沈み込む。人嫌いになる。宗教やスポーツやダイエットなんかにのめりこむ人が多いです。


文字も言語も人並みに教えられてよかった。
ーよしあしは成功するかどうかですけどね。ま、成功しなくても生きていけますけど。でもスポーツマンは成功しないいとね。Kさんは立派な成功者なのにトリップに向かったか・・・孤独だったんだね。酒なら問題なかった。ファンだっただけに惜しい。若い頃は真面目で、大きな体で人に好かれる人だったのになあ。なんというか、どんどん自分で自分を追い込んでいった気がしますね。可愛そうでもある。だかえどスターは子供が見ているし。古代なら王ですね。アイドルです。それだけに鬱屈するだろうけど、それを乗り換えるのに薬はないね。結局甘いんだろうな、自分に。人にはあんなに優しくできるのに。私とは正反対だ。


あなた、どっちかというとダメ人間?
ーご他聞に漏れず。

底辺でもちゃんと楽しんで生きています。

それはそれですごいじゃないですか?
ー人から見ればね。自分じゃ毎日がっかりしてます、自分に。


またまた~~^
ーえへへへ


























三浦按針がつないだ学友との再会 逸見道郎氏のこと

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昨夜、BS民放でまた三浦按針(ウイリアム・アダムス)のことをやっていた。
この正月にNHKBS3でやっていたイギリスと家康の大砲つながりの話(世界へGO!徳川家康×エリザベス一世)でひとつ記事をものしていたから、なんとなくまた観てしまった。



夜のこととて、ぼんやりと画面をながめていたら、思いがけない知った顔に出会った。
学生時代に一緒に遊んでいた友人だった。横須賀市辺見町にある浄土寺住職の逸見道郎(へんみ・みちお)君だった。



三浦按針は最初、遭難して大分県臼杵市の黒島に漂着した。筆者は今、京都から故郷大分市に戻って暮らしている。彼は京都の同じ仏教系大学を出て東京でテレビ関係で働いてのち故郷横須賀市の浄土寺を継いでおられる。その仏教系大学のわずかなひとときだったが、筆者と彼は同じ空気を吸い、同じ時間を過ごした。

なつかしさもあり翌朝、浄土寺へ電話してみた。
すぐ彼が出た。いろいろ話していたら向こうもこちらを思い出してくれた。
よもやま話で、旧友たちのその後もいろいろ聴けた。
互いに歴史をやるもの。たがいに物書き稼業。奇縁である。


昔とちっとも変わらず若々しい逸見君だったから、テレビで一瞥だけですぐわかったのである。これが逆だったら向こうはきっと気がつかなかっただろう。ぼくはふけてしまっている。あの頃のようにはやせてもいない。


近々、臼杵市で三浦按針関連のイベントがあり、彼も来るそうだ。楽しみである。



しかし縁は異なもの。



ところで横須賀市はNHK大河ドラマにウイリアム・アダムスをと活動しているそうだ。もし実現すると、家康とエリザベス一世、カトリック×新興キリスト教、オランダ・イギリス×スペイン・ポルトガル、江戸幕府のバテレン弾圧の真実・・・という壮大なものになってゆくかも知れず、応援したいものである。ぼくの歴史観である世界を股に掛ける日本史の立場からも是非実現して欲しいものである。















菊池秀夫氏から「狗奴国サミットIN沼津」報告書

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が来た。

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参考になる部分は少しづつご紹介しようと思う。話題の前方後方墳・高尾山古墳について前方後方墳=狗奴国論から切り込んでいる。
菊池さん、たまにはぼくにも講演の機会をくださいね。





また民族学の石毛直道氏の新作『日本の食文化史』2015も今週集中的に記事にしてみたいと思う。

ご期待。

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なお、筆者がここで紹介する、あるいは資料にする著作は、すべてを筆者が認めて引用するわけではなく、必ず著者とは違う視点を提供している。紹介した、お勧めしたからと言って、それが正しいと考えているわけではない。説は説であって、絶対ではない。むしろ正反対の結論をあえて書くようにしている。




新石器革命と農業革命に関連性は見出せない

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新石器革命とは?
新石器革命(しんせっきかくめい、英語: Neolithic Revolution)とは、新石器時代に人類が農耕・牧畜を始めたことと関連して定住生活を行うようになった、一連の変革のことである。 農耕・牧畜と定住のどちらが先かについては諸説ある。農耕の開始による観点から農耕革命(のうこうかくめい、あるいは農業革命とも)、定住生活の開始による観点から定住革命(ていじゅうかくめい)、食料食糧生産の安定化による観点から食料生産革命(しょくりょうせいさんかくめい)[注 1][1][2][3]などとも呼称される」Wiki新石器革命




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旧石器と新石器の違い、ご存知だろうか?
旧石器は打製石器で、新石器は磨製石器という最大の違いがある。
打ち砕いて鋭利にするだけの旧石器は主として動物の解体、皮剥ぎに使うものなので、狩猟生活時代の利器だが、磨製石器はそれをさらに持ちやすくするために表面の鋭利な断面などを磨き上げるもの。これだけで石器を持ちやすくし、つまりは力が入れやすくなる。打ち砕いただけでは手に傷を負ってしまうのだ。

それがどうして農業を生み出す革命の起点となったのか?
一般に「農業生産が先に考え出され、それに有効な道具としての磨製石器が必然的に考え出された」とされる。しかし最近、旧石器時代にも局部磨製製品が発見され、石器の進化と農業に直接的な原因がないのではないかという意見が主流になり始めている。日本では新石器時代は縄文時代初期から始まるが、その時代に日本で農耕があったという証拠は確かにまだ存在しない。農耕は後期、末期まで待つ。つまり新石器革命=農業革命というこれまでの西欧考古学の考え方はもう通用しないだろうとなってきている。むしろ土器の発明のほうが農業革命だったと言えよう。

考古学はこれまでシュメール~メソポタミアといういわゆる西欧の視点から論じられてきて、新石器の始まりもシュメールで始まり、やがて東へと伝播したという考えにとらわれてきたと言える。磨製石器の使いやすさにばかり視点がいっていたのではないか。現実的には東洋では磨製石器と農耕はほとんどリンクしておらず、日本の考古学者でも磨き上げて美しくするのはむしろ美的観念の革命ではないか?つまり人類の獲得した特性である「凝り」への願望が、農業や牧畜とは無関係にこの時期に爆発するなんらかのほかの原因はあったはずだとなってきている。つまりもっと古い時代にもそういう美的爆発の萌芽はオーカー片に刻まれた線刻などが発見され、美意識が当時の気候変化・・・温暖化によって引き起こされる「ゆとり」の生み出す物だということは人類進化論的には矛盾がないのである。

こうした人類の意識革命が起こる時代はだいたい環境がよくなり、心にゆとりができた頃にみあっている。農耕も牧畜もむしろ気候が安定したから始まる。そういうものに使う道具はそこからどんどん改良が始まる。 それがイベントというものである。石器の持ち手部分を痛くなくする行為は、発明当初、より効率的に動物や植物をさばくための工夫であり、それ以外ではなかったはずだ。だから新石器ができたから農業が始まったことにはならない。気象環境の変化こそが革命の引き金だった。新石器そのものが革命を起こしたのではなく、農業や牧畜の必要性から磨製石器は広まるのだ。

そもそも農業と牧畜のどちらが先かですらまだ明確になっていない。新石器時代の新しい食料として代表的なのは決して農業で作られる穀物ではなく、ドングリなどの堅果植物である。それを採集するのにも、効率よく育てるのにも、持ちやすい石器はさほど関係がなさそうである。すると磨製石器の有用性とは、農業が開始されたことよりも、効率的に使いやすいということで、農業だけではなくそれ以前からの狩猟生活のほうがむしろ便利だったことに気がつくのである。確かに、後天的にその有用性は農業にも効果があったが、それが始まりだったとは言えなくなるわけだ。

それに比べるとその後の土器発明は画期的に調理そのものを楽にした。しかし石器の変化にはそうした革命はどうだったかは漠然としてしまう。そもそもが肉食を愛好した狩猟時代に、動物をより効率的に安全にさばくために新石器がはじまると考えるほうが整合性が高いように感じる。小麦による農業の始まりへの必然性は当初なかったと思えるのである。まず最初に牧畜が始まってこそ新石器の持ちやすさは有効である。刈り取りなどの作業にもそれは有用ではあるが、それはあとになったと思うのである。チョッパーナイフの反面を磨いて持ちやすくしてはいるが、鎌としての本当の効果はそこに柄がつくことでもっと革命的に変化したであろう。

だから西欧考古学の区分である磨製石器発明=新石器革命という概念は西欧だけに通じる考えだというほかはないだろう。狩猟採集生活よりも定住農耕生活のほうが楽しく、楽で、経済的で、人類の進化だというのはもう、あきらかに過去の幻想ではないか?オーストラリア原住民は今でも狩猟生活を続けているが、彼らの中で狩猟も採集も「重く苦しい悲惨な労働」ではない。それはむしろレクレーションのように面白く、ゲームのように開放される楽しい時間なのだと言う。http://members.jcom.home.ne.jp/spu/002.htm

現代の労働者が、果たして仕事のすべてをそのように考えるだろうか?むしろ毎日、したくもない時間に翻弄され、くたくたになって家路につくのではないか?なのである。

磨製石器の発明は、日々の日課などではない、わくわくするような楽しい狩猟や牧畜という心があってこそ、心のゆとりや、発明の楽しみとして、まるでわれわれが絵を描いたり、スポーツしたり、コレクション、工夫をするようにして始まったのである。何かに「凝る」とはそういうものではないか?

縄文土器はある一時期(中期以後)、爆発的にシェイプにこだわりはじめ、火焔土器のような世界に類例のない前衛的形状を持つのだが、最近の発掘では、その使いにくいだろう形状の土器にも煤や食料の残りかすが付着していて、実用土器であったことが言われ始めている。どう考えてもあのようなでこぼこの多い土器では、とても調理、その後の洗浄には不適格としか思えないシェイプをしている。だからこれまで火焔土器などは全部祭祀に用いる特殊なものと考えられてきた。これも大きな間違いだったわけである。そしてさらに後期になるとその奇想天外な土器群は消え去り、機能的な、絵柄だけのものへ変化して弥生時代を迎えた。その時期の気候は寒冷化時代だった。そのころ、まさに三内丸山から縄文人がいなくなるのだ。そして南下して関東~西日本で簡便な土偶や、弥生とミックスマッチした新しい縄文土器が出現している。形状は画一的で弥生土器の機能性を持ちながら、絵柄や模様は縄文的な野生的なものが登場。まさに北日本はそのとき冬の時代を迎えていた。独創性や凝りのある奇抜な縄文土器が終わるのである。人類がいかに気候の変動に左右されたか、進化がとまったかという結論がそこにある。


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(概略図です。正確なグラフではありません。ただし今後の年表にはこういう気候変動との対照表が不可欠です。現在、そういうものはネット上にないようです。まだ環境考古学そのものが新しい着想だということですから、大事です。)


こうした土器や石器の実用を考えるのは民族学、文化人類学の仕事で、考古学者はほとんどダメだったのだ。要するに考古学には今後、そういう実用・・・生活に密着した視点論点が補われなければなるまい。ちょうどスーパーマーケットの男性バイヤーが、主婦の料理や家族の嗜好性には頓着なく、売れ行きだけを頼りに商品を仕入れていて不人気になるようなことだろうか。自分自身でプロ並みに毎日料理しない、あるいはまったく料理経験がない30そこそこの若いバイヤーが、うまいもの、食材の関連性、歳時記などに気が向くはずもないのだ。しかしほとんどのスーパーの仕入れ担当者は全部そういう人ばかりなのだ。これでは主婦の気持ちがわかろうはずもない。春先に天ぷらが食べたい・・・それは季節指数でわかっていても、ではタラの芽にふきのとうに・・・と野菜ばかり集めてみても売り上げの向上にはなかなかつながらない。そこに天婦羅粉、卵、サラダオイルなどをジャンルを越えて集めてみる。場合によっては魚売り場に野菜があってもおかしくはない。実際、業態に関係のない、それらを超越した発想の店舗は、その時期、時期にそうしたプレゼンテーションによって画期的に短期に売り上げは伸びるのである。


コンビニエンスという。
業態超越販売法である。

あるいは一時期、少女の好むような商品をなんでもかんでも集めて成功したバラエティ・ショップが流行ったことがあった。そこには物品だけでなく、食料品(チョコやキャンディなど)、花(母の日にカーネーション)、などなど、業種にこだわらない集め方があるものである。実際それらはタイムリーで飛ぶように売れたのである。お客にとってはいちいち自分で考えて探して組み合わせる必要がないからだ。つまりそれがコンビ ニエンスという意味である。そういう組合せの新発想が考古学にも求められる。


使いやすい石器はなんのために始まったかについて、考古学はこれまであまりに人間的でない鈍感な着想しか持たなかった。民俗学、民族学、文化人類学を真の学問ではないもの、主観的手法しか持てない、論法が成立していない漠然としたものとしてなめていたのか?

そしてそれら文学部的な学問もまた、確かに手法を確立させないままやってきたことも確かであろう。それらもまた理系の科学的論法を取り入れて客観性を高めてゆくべきであろう。石器や土器の発掘状況を直接見る、想像しなければならない。どちらも机で考えず、実際にその石器を使い狩猟してみたり、土器を使って調理してみるべきである。学者はなんでも一応はできるのが前提である。エジプト学者の吉村氏や考古学の北條氏はちゃんと毎日料理する。面白いのはみんなそういう人は女房がいない。
人生、人類史はこれだから面白い。


学問を究めるならできすぎ君になれ。しかしまともな結婚生活は期待するなかれでしょうか?
不肖私も×いち独身である~~~~~~~ちっきしょうめ!















魚を知らない西欧人・日本人はなぜ肉を食べなかったか・禁止しすぎると民衆は暴発する

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あなたは普段食べている魚の名前をどれぐらい言えますか?

もしそう聞かれたら、日本人はだいたい誰でも10種類以上、すらすらと答えられる。
しかし西欧人だと2~5種類言えたらその人は魚通である。

今、筆者のすぐに思いつくものだけあげてみたら・・・

アジ・サバ・イワシ(うるめ・おおば)・タイ・ヒラメ・カレイ・マグロ(黒・めばちなど)・カツオ・サヨリ・秋刀魚・イトヨリ・ホウボウ・アマダイ(ぐじ)・オコゼ・メバル・キンキ・キンメ・アラカブ・ホゴ(カサゴ)・チヌ(黒鯛)・イシダイ・鮎・ヤマメ・イワナ・鯉・フナ・イカナゴ・どんこ・ハゼ・アンコウ・フグ・イナダ・ウナギ・イサキ・カワハギ・シラウオ・シロウオ・カンパチ・ブリ・スズキ・ボラ・カジキマグロ・カマス・コハダ(シンコ・サワラ)・サケ・マス・シシャモ(本シシャモ・カラフトシシャモ)・ゴリ・二シン・太刀魚・イボダイ(アメタ)・コチ・タラ・ハタ・・・・

とまあざっと40種類以上の名前がすぐに思い浮かんだ。
多くはスーパーでみかけたり、実際に調理して食べることの多い魚ばかりだ。それ以外でもいくらかの名前は知っている。筆者が料理をする人であるからではない、だいたいそれぐらいの名前は大人の、料理をする日本人なら言えるだろう。

しかし西欧人がよく知っていてけっこう食べる魚と言うとサーモン・トラウト(マス)・ツナ(まぐろ)・シーバス(スズキ)程度のものだろう。もちろん地中海など海岸部の人ならもう少し詳しいだろうが。しかもサケの種類についてはほとんど無頓着。(アトランティック・キング・レッドなど見分けるのは魚屋か釣り師だけ)

それほど魚食民族と獣食民族では食材への知識欲が違うし、食生活がいかに異なるかが見えてくる。



一方で、日本人は肉の部位の名前にはちょっと前までほとんど無知だった。これも食へのこだわり方の違いである。朝鮮半島では豚肉、牛肉の部位について細かな名前がつけられているし、フランス料理でもそうである。しかし日本人はジビエ素材にはほとんど無知である。

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ところが日本人は、それと同じくらい(例えば魚ではないが)クジラの部位についての言葉をたくさん持っている。


海洋に周囲を囲まれる島国日本では、獣食中心だったはずの縄文時代から魚は食べられていて、貝類やイカ・蛸も骨が出てくる。日本の海岸線の総延長は世界で6番目で、アメリカや中国より長い。一方で淡水魚の種類は世界と比較すると少ないほうになる。現代中国が海にこだわりを見せるのは、北海道から台湾にいたる列島の弧が、自分たちの前の海を狭くしているという焦燥感からであろう。

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魚介類について日本人は、そのすべてを往古からの食生活、それをうまくさせる季節歳時記によって頭にインプット、区分して把握しているのである。


いずれにせよ食材の違いはその国民の使う言葉の単語数にも相当な影響がある。

そして日本人が魚食に徹した割りに獣食にはほとんど無知でやってきた原因は弥生時代に遡る。縄文までは狩猟のほうが魚食より多い。一般に日本が仏教国だったからと言われているけれど、同じ仏教国でも朝鮮は肉を食うし、中国でも豚やアヒルを食う。


日本で肉食が禁じられた最古の記録は『日本書紀』天武天皇の発令した禁止令からであるが、それも必ずしも仏教の戒律のせいだったわけでない。そもそも仏教の殺生戒によるのなら、魚介類だって生物であり、禁じられていなければなるまい。

天武朝で禁止となった肉類は5種類だけである。

天武四年(675)
ワナを用いて狩猟・漁労することを禁じる。
理由は乱獲防止。
4月1日~9月30日の間に、牛・馬・犬・猿・鶏を食すことを禁ずる。
またオリ、ししあな、機槍(きそう。機械仕掛けで槍が飛び出す)および簗(やな)の使用を禁ずる。

ここにはそれまでの日本の民衆では珍しくもなかった鹿とイノシシ、それに野鳥類に対する禁止がまったく書かれてはいない。それは仏教による戒めに矛盾することになる。つまり天武朝は殺生全部を禁止してはいないわけである。

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ちなみにサルは主として「薬食い」であり、犬は朝鮮からの渡来部民がもたらした風習。ただし、石毛直道はサルを常食にしていたはずはないだろうと書いてはいるが、筆者の知るところではアフリカなどでむしろサルは最高級の食材で、非常に美味であるとされている。フランス料理でもサルの脳みそは美食中の美食。また野鳥は今の日本では禁鳥として多くの野生鳥類が捕獲も食べるのも禁止であるが、昭和期にはスズメなどは空気銃で撃って食べられていたし、往古はかすみ網で一網打尽にし調停へ献上したり、神の贄として差し出されていた。鶏だけが禁じられたのは『日本書紀』神武紀にもある「金鶏」が天皇の象徴的な神聖な生き物とされたためであろう。伊勢神宮に行けばそれ実感できる。仏教によって禁止されるのは仏教に深く寄与した為政者のいた頃の一時的なものだったと言える。贄であったということは神道の方針だったのだから、仏教よりも神道の思想のほうがどうやら優先されたらしい。

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同じように生贄として牛や馬の献上も江戸期過ぎても存続し、あとの処分は賎民たちにまかされていたから、間違いなく食されていたのである。全国に牛馬を祭る神社があり、今は牛馬をお払いしてもらっているが、そもそもは牛馬は神への供物であり、その神社が多く民衆の神であったスサノヲを主祭神にした「大将軍」信仰であることから見て、おそらく渡来系や縄文系の部民や賎民の食習慣である。少し前までとさつはそうした下層の人々に任せられていた。中世で言うならば「犬神人 いぬじにん」というのはご存知のように中間=被差別であった。

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殺生を全面的に禁止したのはもっとあとの聖武天皇である。大仏開眼の際に出されている。孝謙女帝が大仏開眼を祈念していっさいの殺生を禁じ、さらに漁労まで禁止して、かわりに米を与えている。これが仏教が関与した最初。

これ以後、12世紀までに何度かの禁令が出される。ということは護らない人が多かった=食べていたということである。「令義解 りょうのぎげ」(833)には僧侶・尼に対して肉食禁止、飲酒禁止、聖職者全員に五辛(五臭。ニンニク・二ラ・蒜・ネギ・ラッキョウ)を禁止。理由は淫欲・憤怒を引き起こす・・・から。つまりどうも仏教の戒律以上に、現実生活でそういうやからが宮中・寺院でもいたからだろう。あとだしであるということは、戒律からというよりも、現実問題だったから禁止したととらえられる。しかし民衆にはそんな法令など届かない。じゃんじゃん食っていたと思ってもあながち間違いではない。

弥生時代の遺跡ではどう見てもこれは食人したという人骨も出てくる。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/57237055.html
なぜなら人間とサルと腐肉は、狩猟初心者でも簡単に手に入ったからである。まるでハゲタカや若いティラノザウルスのような欠食児童ぶりである。

中国でも6世紀梁の武帝が仏教に熱心で、僧侶が肉食したら処罰すると禁令を。これも実際にいたからそういう令が出るわけだ。

朝鮮半島でも何度も出されるが、全然効果なしだったようだ。韓国人は自分たちの肉食習慣をモンゴル人の侵略のせいにしたがる。実は大好き。

禁止令を仏教戒律に結びつけるのは一番簡単な発想である。しかし現実にはたくさんの人々が肉を食い、酒を飲みしていたからでしかない。そもそも現代においても、東アジアの仏教国で、国民全員が禁欲している国などまったくなく、やっているのは僧侶だけである。宗派によっては肉食OK、剃髪しなくてよいもありなのだ。イスラーム国の過激ムスリムたちが聞いたら、発砲してきそうな世界が仏教国世界なのである。中国は今、内心ISの侵略におびえている。

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プルコギという焼肉料理が朝鮮にはあるが、あれは日本のジンギスカン鍋と同源で、もとはモンゴル帝国・元の肉食の影響である。日本の神道ではケガレ・不浄として血を忌む風習がある。この影響で天皇が禁令を発したというのはありうる話だ。民俗学で赤不浄・黒不浄という民間にも広がった通念があった。黒不浄は死、赤不浄は女性の経血である。動物の血液も当然不浄である。そしてその通念は古代神道と密接な間柄であった宮中に最初取り入れられる。其れが中世には武家に伝播する。そこから近世民間へも広まっていったのである。ということは日本人全般が血と肉を禁忌するのは近世が中心だったということになるだろう。それ以前は、かなり食べられていたのではなかろうか?

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犬を食う風習も江戸期まだあっただろう。半島ではソウルオリンピックまで大都市ソウルに犬鍋屋がたくさんあった。それをオリンピックで海外からたくさん人が来るからと地方へ追い出した。スラムや屋台の追い出しはオリンピックや万博のたびに起こるもの。東京五輪でも東京から乞食やものもらいが消えたし、大阪万博では歓楽どや街だった新世界が再編成された。そういうものなんやで。とすると屋台がいまだに存在する博多は貴重だ。

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そもそも、ああいう屋台とか闇市時代のヤミ屋のような違法飲食店街は、なかなかおつな世界で、それはそれなりに街に活気を与えるものとしておめこぼおしされてきた歴史がある。なんでもかんでもきれいさっぱりに整備してしまうと、生活が杓子定規な潤いのないものになってしまうものだ。今の日本はどこに行っても金太郎飴のように区画整理され、陰影のない、底の浅い町並みになってしまった。少しはガス抜きの抜け穴を作っておかないと、そのうち日本人だって爆発する。アメリカが非常に環境にうるさい国になってしまっている。しかしヨーロッパではそうでもない。日本はアメリカの真似をして、排ガスからタバコまで一切合財を締め出そうとし始めている。まるでPTAみたいに、がみがみといい始めた。これは結果的に悪質な犯罪を専門集団を追い出すことによってかえって一般民衆にさせてしまうことになる。タバコを禁止しすぎて麻薬が若者に流通したり、安全な道具しか使わせないことが、殺人事件をもっと凶悪でマニアックなおたくなものにしていっている。日本人が教育ママ化しすぎている気がする。肌寒い。

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野鳥や野生動物でもそのうまさを楽しんでしまうフランス人やイギリス人のように、なぜそれらをある程度の許容度を持って存続させられないのだろうか?厳しすぎる法律が今のイスラム世界を作り出したのではなかったか?



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土器革命 人は最初土器をナニに使ったか?なぜ土器を思いついたか?

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「人類は最初のうち、料理の際に、炉や灼熱した石を利用していたが、約9000年前に農業が始まり、穀物が栽培されるようににった頃から、粘土で形を変え、火で熱して食材を熱した水で煮る(煮沸する)ようになった。これにより固い穀物を柔らかくして食べるようになったからこそ、農業が始まったとも言える。・・・なお、「ポット」(pot)という言葉から壺の中で水とともに食物を煮る「ポタージュ」(potage)という言葉が派生している。」(『世界史を動かしたモノ事典』15ページ)


前回、石毛直道の著書から新石器革命が農業革命ではなかったという逆説を引っ張り出してみた。新石器が農業のはじまりを促進した道具ではないから、新石器革命という用語は西欧史には使えてもほかの地域には符合しないから、やめるべきだと。

では何が農業革命をもたらしたかというと環境変化と土器だとも書いた。土器はそれ以上に料理法革命をもたらしたわけである。しかしでは、人類最初の土器(今のところ縄文土器16000年前が最古)は果たして最初から料理のために作られたのだろうか?

遺跡・遺物から判断すると縄文土器の使用法には調理以前に、

1 堅果類の灰汁抜き
2 運搬容器、収納保管容器
3 焼き塩を作る容器

としての役目が一番目の発明品だった可能性が高い。堅果類は穀物以前の主食で、これによって縄文人にも虫歯が増えた。旧石器人には虫歯がない。堅果類が縄文の東北に増えた時代は土中の花粉分析でわかる。寒冷化で堅果植物類の植生も南下する。それを追いかけて動物も人も南下する。だから土器発明当時の東北の気温は冷涼程度の住み易い環境だったことになる。南方では堅果類植物はぐっと数が減るから、西日本以南で縄文生活を継続するのは大変だっただろう。中期中葉から晩期までの温暖だった時代になる。

その後調理にも使われ始めた。
弥生時代には墓に遺体を入れて埋める棺おけにもなっている。これが大きさでは最大級になり、その後須恵器の甕になっていく。


縄文から弥生なかばまで、土器のすべては土をこねて整形し焼くだけの土師器である。やがて硬質な須恵器が古墳時代までにもたらされ、これが今の陶器へ発展する。だから大きな古墳から、あとから埋められた須恵器の大きな甕がよく出てくる。つまり古墳時代の途中から須恵器埋蔵が始まったのである。『日本書紀』が書く「陶邑」の土器である。このことは近畿の古墳で、「殉死をやめてはに土で作らせた」埴輪の出現とほぼ合致する出来事であるから、おそらく土師氏や大三輪氏は同じ頃に日本にやってきたのだろう。

縄文土器とほぼ同じ頃の土器は、2万年前の中国の早期土器が仙人洞で粘土を焼いた片が見つかったが土器そのものは出ていない。この数値が正しければ仙人洞土器が最古になる。ほかは4000年ほど遅れるが今のロシアなどで見つかっているらしい。今のところは、まだ日本の縄文土器が最古の土器である。しかし、するとこれは人類史の人の移動の歴史とは矛盾することになる。なぜ人の来訪が遅かったはずの日本列島で最古の土器ができたのか、今は理由がわからない。

前回も書いたが、人類が道具に「凝り」を付加しはじめた直接の原因はおそらく温暖化による環境のよくなったことが一番である。四季で考えればわかるが、厳寒の冬には産業は停滞しがちで、斬新な発想も生まれにくい。地域で言えばロシアで新しい思想や宗教は生まれにくいはずだということになる。しかし春からは活動も活発化するのでいろんな創意工夫がやりやすくなる。手もかじかまないし、採集する植物・動物も多いからだ。という論法でいけば、東北・北海道よりも九州や西日本全般のほうがあきらかに温暖で、経済動向もいいわけである。雪もなく、一年中車が使える。

16000年前はしかし、気候はまだ氷期であり、温暖化は12000年前よりあとに始まる。縄文海進は1万年前くらいから徐々に始まり、瀬戸内海が海水で満たされるのは今から8000年前くらいである。それは瀬戸内海のど真ん中からナウマン象の骨が出たことで証明できた。そういう寒い世界だったはずなのに、地表は雪と氷に覆われつくしていたはずなのに、いったいどうやって土器に使える粘土を手に入れたのだろうか?

日本で土器が最初に作られたとするならば、そういう適正な粘土がそこにあったからだろう。そして世界に先駆けて、日本で容器が必要になり、作製の知識もない人がはじめてそれを作り始めたということになる。

では東北地方にそのような土質の土地はどこにあるのか?

日本最古の縄文式土器は、1万6500年前(1999年4月、青森県蟹田町出土土器のC14分析結果が報告された)のもの。

ならば青森県には陶質適確の粘土層があるか?
縄文式土器は粘土だけで作るのではなく、砂/土などのより粒度の大きい鉱物を混合してある。それらが採集される土地はどこだろうか?


あるいは2万年前とされた中国仙人洞の近くには?

こういう科学的視点がないと土器を作った人の時代にはなかなか行き着かない。


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日本の粘土土壌は多くがケイソウ類の生成する塩分が混じる。
「低地土壌グループの母材は主に洪水堆積物として供給されます。その粘土鉱物の大部分は各種層状ケイ酸塩鉱物の混合物ですが、その組成は上流の地質や堆積過程に影響を受けます。たとえば東北地方の事例では、流速の速い扇状地では粘土鉱物の大きさや性質による分級はほとんど受けず、同じ扇状地内の粘土鉱物組成は同様ですが、上流地質の異なる別の扇状地では粘土鉱物組成も異なることが認められています。下流の蛇行帯になりますと流路に近く流速の速い自然堤防地帯では粒径の大きいクロライト、ゼオライト、カオリナイトが、流速の遅くなる後背湿地ではスメクタイトが優勢になる傾向が認められています。大洪水は数十年ごとに繰り返されてきたと見られ、埋没した過去の表層が土壌断面内に観察されることもあります。しかし、この程度の期間では扇状地、蛇行帯とも新旧堆積物中の粘土鉱物組成にあまり変化が認められないのが普通です(三枝, 1978)。」

ケイソウ土というのはいわゆる七輪の素材だ。
日本でそういう土壌が大量にある地域は特定できる。大分県玖珠町など。
これが鉱物化して土に混じることで層状ケイ酸塩鉱物ができ、風化や洪水で平地にたどりつき、粘土を作る。粘り気がないと土器は作れない。これを原土という。

三内丸山で実際に土器を作っている女性は、遺跡そばにはないので、近くの山に取りにいくそうである。三内丸山遺跡は「八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートルで、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっている。集落は住居・捨て場・大型掘立柱建物・掘立柱建物・貯蔵穴・土坑墓・粘土採掘穴・盛り土・道路などが、計画的に配置されている。」Wiki三内丸山遺跡


八甲田山から流出する粘土だった。
これを1万6500年前の初期縄文人が使ったとなる。
遺跡内には採掘穴があるから、むかしは取りにいかなくてもよかったのだろう。
この粘土があったから大きな集落になれたということもあるか?


しかしそれにしても、どういうことからその土をこねて、焼いてみようという発想が生まれたのだろう?


考えてみれば、容器にするのなら木を切って、中をくりぬけば済む。温暖地なら竹をきればいい。そもそも木がたくさんあるから焼き物も作れるのだから八甲田山山麓地帯の扇状地ならたくさんあっただろう。なのにわざわざ誰も考え付かない土をこねて焼いて容器を作ろうと彼は思ったのか?その必然性がいまだに謎である。



「たき火をすると下の地面が赤く焼け、土が固くなることがあります。土器の発明にはいろいろな説がありますが、偶然土が焼けると固まって器状になる事を知り、その後工夫と改良を加えて土器を作ったのではないかといわれています。」

なるほど。しかし不完全な説でもある。
中国の焼けた土片はするとそういう偶発的産物だった可能性もある?

しかし、焼けた土の塊を見て、それを土器にしようと思うのがすごい。
いきなり土器か?いやもっと簡単な扁平なものからはじめたか?
謎は深まるばかりである。人類は面白い。




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弥生時代の方形墓 静岡 方形墓?何それ?

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弥生時代の方形墓発見

弥生時代に方形墓という墓のジャンルはない。
マスコミがまた勝手に言葉を作り出したようだ。

考古学で弥生時代の方形の墓といえば、方形周溝墓か方形貼石墓となってしまう。
静岡のこの墓には周濠があるのだから方形周溝墓である。
方形の墓だけならそれは古墳時代の方墳のことになるだろう。

正確に書いてくれないと、知識のあるものは戸惑うし、知らない人はそういう用語があるんだと思ってしまう。


わかりやすくしたつもりなんだろうが古代史ファンはかなり言葉にうるさい。


そもそも専門担当者がちゃんと厳しく指導すべきだ。


なにしろ弥生から古墳時代への切り替わり時には諸説あり、みんな神経質である。



さくらの和歌80撰

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今年の当家の江戸小彼岸(早咲き寒桜品種) 





花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに
                             小野小町・百人一首



これやこの音にききつる雲珠桜 鞍馬の山に咲けるなるべし

                                                                       藤原定頼


いざさらば 吉野の山の山守と  花の盛りは 人にいはれむ
                              藤原長方 新後撰



深草の野辺の桜し心あらば 今年ばかりは墨染に咲け
                               上野峯雄 古今



難波津の咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花  
                               和邇吉師
 


み吉野の山辺に咲ける桜花 雪かとのみぞあやまたれける    

                                紀友則 古今


もろともに をりしはるのみ こひしくて ひとりみまうき はなさかりかな
                               読人不知 拾遺



しらくもにまがふさくらの こずゑにて ちとせのはるを そらにしるかな
                            待賢門院中納言 金葉



みよしのの山した風や はらふらむ こずゑにかへる 花のしら雪
                                 俊恵 千載
         


おもひやる心やはなにゆかざらん かすみこめたるみよしののやま
                                 西行 山家



木のもとにたびねをすれば よしの山 はなのふすま(衾)をきするはるかぜ
                                 西行 山家



よし野山こずゑの花を見し日より 心は身にもそはずなりにき
                                 西行 山家



白河の梢を見てぞなぐさむる 吉野の山にかよふ心を   
                                 西行 山家



いくとせの はるにこころをつくしきぬ あはれとおもへ みよしののはな
                                俊成 新古今



み吉野の山の白雪踏み分けて 入りにし人のおとづれもせぬ               
                               壬生忠岑 古今



ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ 
                                              紀友則・古今和歌集、百人一首



もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし 
                                               前大僧正行尊・小倉百人一首



いにしへのならのみやこの八重桜  けふ九重ににほひぬるかな
                                                 伊勢大輔・詞花和歌集 一春



花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり                              
                               入道前太政大臣・百人一首



清水へ祇園をよぎる桜月夜 今宵逢ふ人みなうつくしき
                                                与謝野晶子・みだれ髪



世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし 
                            在原業平・古今和歌集



あをによし 寧楽の京師は咲く花の にほふがごとく今さかりなり
                             小野老・万葉集巻3



願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎのもち月の頃    西行法師・山家集
                       



高砂の尾上の桜さきにけり 外山の霞立たずもあらなむ  
                         前中納言房・小倉百人一首



あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいたく恋ひめやも  
                                山部赤人・万



花は散りその色となくながむれば  むなしき空に春雨ぞ降る 
                          式子内親王・新古今和歌集



桜色に衣は深く染めて着む  花の散りなむ のちの形見に  
                             紀有朋・古今和歌集



春霞 たなびく山の 桜花 うつろはむとや 色かはりゆく   
                          詠み人知らず・古今和歌集



少女子が かざしの桜咲きにけり 袖振る山にかかる白雲   
                             藤原為氏・続後撰集



仏には桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはば    
                              西行法師・山家集



山ざくら をしむ心のいくたびか 散る木のもとに行きかへるらん
                              周防内侍・千載集



花桜今年ばかりと見しほどに 八十歳までにもなりにけるかな  
                            源縁法師・万代和歌集



乙女子が袖ふる山に千年へて ながめにあかじ 花の色香を
                                  豊臣秀吉
 


咲く花を散らさじと思ふ 御吉野は 心あるべき春の山風     
                                  徳川家康


行き暮れて木の下陰を宿とせば 花や今宵の主ならまし          平忠度 




匂へどもしる人もなき桜花 ただひとり見て哀れとぞ思ふ  慶政上人・風雅和歌集




散る花もまた來む春は見もやせむ やがてわかれし人ぞこひしき 
                            菅原孝標女・更級日記



いま桜咲きぬと見えて薄ぐもり 春に霞める世のけしきかな  
                          式子内親王・新古今和歌集



宿りして春の山辺に寝たる夜は 夢のうちにも花ぞ散りける   
                             紀貫之・古今和歌集



人知れずもの思ふことはならひにき  花に別れぬ春しなければ  
                            和泉式部・詞花和歌集



花は根に鳥は古巣にかへるなり  春のとまりを知る人ぞなき 崇徳院・千載和歌集




梓弓 はるの山辺を 越えくれば 道もさりあへず 花ぞ散りける  紀貫之・古今和歌集




大空におほふばかりの袖もがな  春咲く花を風にまかせじ  よみ人しらず・後




風さそふ 花よりもなほ我はまた  春の名残をいかにとやせん     浅野長矩




みよしのの 高嶺のさくら散りにけり  嵐もしろき春のあけぼの   後鳥羽上皇




さくら桜そして今日見るこのさくら  三たびの春を我ら歩めり     俵万智




待てといふに散らでし止まる物ならば   なにを桜に思(おもひ)まさまし古今集巻 
                                よみ人しらず



春雨の花の枝より流れ来ば なほこそ濡れめ香もやうつると   藤原敏行・後撰集




さくら花ちりぬる風のなごりには 水なき空に浪ぞたちける     紀貫之・古今和歌集




宿りして春の山辺に寝たる夜は 夢の内にも花ぞ散りける   紀貫之 古今和歌集




深草の野辺の桜し心あらば ことしばかりは墨染めに咲け  上野峯雄 古今和歌集




いつのまに散りはてぬらむ 桜花 面影にのみ色を見せつつ   壬生躬恒 後撰集




吹く風の誘ふものとは知りながら 散りぬる花のしひて恋ひしき 
                           よみびと知らず 後撰集



桜狩雨は降りきぬ おなじくは濡るとも花の影に隠れむ  よみびと知らず 拾遺集




山風に桜吹きまき乱れなん 花のまぎれに君とまるべく   僧正遍昭 古今和歌集




おしなべて 花の盛になりにけり  山のはごとにかかる白雲   西行法師 山家集




春風の 花を散らすと見る夢は覚めても 胸の騒ぐなりけり        西行法師




さざ浪や 志賀の都はあれにしを  昔ながらの山ざくらかな   平忠度




ほのぼのと 花の横雲明けそめて   桜に白む三吉野の山    玉葉集 西園寺入道




山里の 春の夕暮れ来てみれば  入相の鐘に花ぞ散りける       能因法師





追加15首 

今さらに春を忘るる花もあらじ やすく待ちつつ今日も暮らさむ    西行・山家
  

山桜霞の間よりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ                             紀貫之

白雲と峯のさくらは見ゆれども  月のひかりはへだてざりけり 待賢門院堀川・千載

花の色は昔ながらに見し人の心のみこそうつろひにけれ                         元良親王 

朝夕に花待つころは思ひ寝の  夢のうちにぞ咲きはじめける     崇徳院・千載

春霞たなびく山の桜花見れどもあかぬ君にもあるかな                             紀友則

桜花今ぞ盛りと人は言へど我は寂しも君としあらねば                          大伴池主

たづねつる花のあたりになりにけり にほふにしるし春の山風    崇徳院・千載

去年 (こぞ) の春逢へりし君に恋ひにてし桜の花は迎へけらしも          若宮年魚麿

いづかたに花咲きぬらんと思ふより よもの山辺に散る心かな 待賢門院堀川・千載

咲けば散る 咲かねば恋し 山桜 思ひたえせぬ 花のうへかな       中務・拾遺

おしなべて花のさかりになりにけり 山の端ごとにかゝる白雲  円位(西行)・千載

あだにちる梢の花をながむれば 庭には消えぬ雪ぞつもれる      西行・山家

花見にとむれつつ人の来るのみぞ あたら桜のとがにはありける    西行・山家

たづねつる花のあたりになりにけり にほふにしるし春の山風    崇徳院・千載







古今集より追加10首

ちりぬればこふれどしるしなき物を けふこそさくらをらばおりてめ

をりとらばをしげにもあるか桜花 いざやどかりてちるまでは見む

わがやどの花見がてらにくる人は ちりなむのちぞこひしかるべき

見る人もなき山ざとのさくら花 ほかのちりなむのちぞさかまし

春霞たなびく山のさくら花 うつろはむとや色かはりゆく

のこりなくちるぞめでたき桜花 ありて世の中はてのうければ

この里にたびねしぬべしさくら花 ちりのまがひにいへぢわすれて

空蝉の世にもにたるか花ざくら さくと見しまにかつちりにけり

さくら花ちらばちらなむちらずとて ふるさと人のきても見なくに




※「花」は奈良時代までは梅だった。遣唐使派遣が終わったあたりから、中国への畏敬から国風文化の時代に移り変わると花=山桜へ変化して行ったが、さほど気にせず引用されていいかと思う。ただし香りなどの言葉がある場合、その花は梅だという程度に使い分ければよいか。

またソメイヨシノの誕生は江戸時代で、全国に広まったのは明治時代。これもあまり気にしなくてもいいかと。ただ早く咲く寒緋桜は色も濃く、大輪の大島との掛け合わせ品種が最近目立つが、日本人の好む桜の色とはややいいにくい気がする。ソメイヨシノがぎりぎりセーフで桜色だなあ。





ピンチはチャンス 食の復興史 大江戸三大名物と振袖火事

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食の隆盛はピンチにこそ生まれた。
江戸に多くの食の名店が生まれるきっかけは明暦の大火(振袖火事 ふりそで・かじ)以降である。

明暦3年1月18日1657年3月2日)から1月20日3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。


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戸火事図巻(田代幸春画、1814年)


それまでの江戸にはほとんど大衆向けの食堂つまりごはん屋、食べ物屋というものがなかった。記録でうなぎ屋や蕎麦屋や、ファーストフードの屋台寿司がどっと登場するのは明暦の大火以後である。最初に登場したのは煮売り屋で、当時はこれを奈良茶飯屋と言った。被災地復興のために集められた地方労働者に食わせる煮豆の茶漬けをささっとかっこませる店(天和〈 1681 〜 1683 年)の頃初めて浅草にできた、井原西鶴の「西鶴置土産」に登場する浅草金竜山の茶屋が「奈良茶飯」を出したのが料理店の元祖と言われる)だが、ほかに何種類かの惣菜を常備し、のちには酒も飲ませた。みな露天のようなほったて小屋から始まる。江戸城さえ延焼した大火事である。まるで戦後焼け跡のような江戸の町で、とにかく何かを食わせようという江戸っ子の、特におばちゃん、おっちゃんたちの奮闘の歴史がそこにある。

こうしたことは戦後復興期の闇屋飲食屋台の登場にそっくりである。あるいは最近では阪神淡路大震災直後の復興期にも見られる。ただし、現代の復興にはそれらはすべてがボランティアによってまかなわれるために、都市全体の経済復興と直接的につながりにくいのが違う。大火や戦後の屋台の群れは、それ自体が被災者たちの金銭、その日の糧を得るために、彼ら住人の意思によって自主的に始まったのである。(幕府の支援策でもあったが)
それは応仁の乱のときの天皇家や豊臣家による復興ともまた違うだろう。

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明暦大火から生まれた新たな食の風習が今は江戸の名物となったうなぎ、寿司、蕎麦であり、戦後にはそれがラーメン、お好み焼き、焼き蕎麦などだった。つまりいずれも本来はB級のグルメであり安価なものだったのである。食材としてはまずは小麦粉の多様、自前の海や川や土からとれるものである。そして「くだらない」と言われた江戸の産物による自主的に作り出される酒や食べ物。それまでの経済は関西を上物とした西から東への経済動向だったのが、流通がストップすることで関東独自の産物でまかなわれはじめる。味噌・醤油のような調味料も、それまでは上方の薄口だったものから、千葉の味噌や醤油、川越のさつまいも、といった関東地場の味覚にあったものが登場し始めた。今、われわれが知っている濃い口醤油とかやはり濃い味の味噌などは明暦大火を境に関東本来の味覚として登場した新製品ばかりなのだった。大火は列島の経済の動きだけでなく、関東人の往古からの味覚を復活させ、さらに町人によるバイタリティあふれた食文化を育て上げてゆく。

応仁の乱で丸焼けになった京都で、今老舗というと300~500年の歴史があるが、江戸では古くて100年である。もともと都市としての歴史は新しいが、これも大火とその後の関東大震災のせいであろう。


常に民衆はピンチに立たされてきた。そしてそのたびによみがえる。復興期こそが起業のチャンスなのである。




一元論的な「縄文人は犬を食わなかった」でいいのか? 人類の停止性問題

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県内最古、6200年前の縄文犬の骨発見 蓮田市教委「家畜に近い」
埼玉新聞 3月9日(水)10時30分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160309-00010007-saitama-l11
埼玉県蓮田市(さいたま市の隣)の国指定史跡黒浜貝塚の住居跡から、縄文時代前期前半の約6200年前とみられる県内最古の縄文犬(柴犬メス?15センチ)の骨が発見された。

専門家たちはこれまでの常識である「縄文人=狩猟=犬は食べないで丁寧に埋葬する風習」の歴史観、考古学観から今回もものを言ったらしく、考古学ニュースのタイトルに「家畜に近い」との微妙な言い回しが貼り付けられている。

しかしこの犬の出土した場所にはほかに「スズキやヒラメなどの魚の骨や甲骨類」が散見され、犬の頭は15センチほどで柴犬」かと報告されている。一般に魚の骨が住居近くで出ればまず間違いなしでそれはゴミ捨て場だと考古学者は言うはずである。

以前から、「縄文人は犬は食べず、弥生人がはじめて犬食風習を持ち込んだ」という一元論的な定説に筆者は?を持ち始めている。人類の行動理念から常識的に考えれば、飢饉があれば人は犬どころか人まで食べる生き物である。だから絶対に縄文人が犬を食べなかったとは考えられないし、弥生時代に人が人を「絶対に」食べなかったとも思えない。常識の嘘ではないかと。

実際、魚の骨が捨てられている場所に、頭骨だけが出てきたのだから、これは食べたとまず考えるべきだ。少なくとも?つきでいいからその可能性を言うべきだろう。

常識の嘘というものは学者の著書にはけっこう氾濫している。
文化人類学の石毛直道氏の『日本の食文化史』にも、「縄文人は~だった」のようなひとからげ論調が散見できる。一口に縄文人と言っても、縄文時代は1万年ほども続いた長いスパンの歴史区分で、その長い時間の中で気候もいろいろ変わっただろうし、せめて前期・中期・後期程度の補足の用語はつけてくれないと、犬食問題同様、一元的なものになってしまう。せっかく目からうろこの落ちる食文化史をものしておられるのに、そういうおおざっぱなスケールでものごとを書かれると読むほうは面食らってしまう。

縄文人だろうが弥生人だろうが現代人だろうが、人間はおしなべていろんな人々がいるもので、県民性にしても一口に言われることを嫌う風が最近はテレビでさえ言われるようになっている。鹿児島県人=西郷さん=薩摩隼人=~でごわすと言う・・・とか、長崎県はみんな「ばってん、ばってん」で甘いものが大好きとか、そういう言われ方でひとくくりにされるのを嫌がるのだ。確かにそうだ。地方といってもいろんな人がいるし、県外から移住した人も多い時代である。さらに同じ県内でも地域差は必ずある。どの県だってある。列島の地形は複雑だから同じ県民で方言が違うことすらある。

歴史ではさらに環境変化がある。旱魃もあれば多雨もあった。そうした長いスパンの中でどうしても愛犬を食べねば生きていけなかった時代もあっただろう。そう考えるのが当たり前である。これはよくあった話だが、家で卵をとるために飼っていた鶏に、子供が名前などつけてかわいく思っていたら、ある夜、鍋物が出て「どうしたことか?えらいごちそうだな?」と不振に思いつつ鍋に舌鼓を打ったあとで、それが可愛がっていたニワトリだった、、、みたいな話をある世代の人がよく酒の肴にしゃべっていた時代がある。そんなもんでしょう、生活なんて。

で、縄文人だって犬を食ったというのが正しかろう。
縄文人の生活の常識では、階級がなかったというのも常識であるが、これも残念ながらいくらかはあったことが墓の中身の差であきらかになっている。

学者やマスコミは常識、定説の破綻を嫌うようである。ロボットやPCでさえ論理が矛盾するとき動作をストップする(停止性問題)。人間の場合は停止はしないかわりに、論理を置き換えることで破綻を乗り切る癖がある。それはちょっと困るのである。


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