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神道は宗教ではない/不比等には太子が必要だった

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少し眼から鱗のお話。



『日本書紀の謎と聖徳太子』平凡社 2011 の中で編者・大山誠一(「聖徳太子はいなかった」論者)は概略こう書いている。




百済に仏教が伝わったのは、日本に伝わる300年前。そこから仏教は300年を経て日本に(正式に)伝えられた。聖徳太子の時代である。なぜか?当時の倭国は武力だけは東アジアでは一流だった(武力はあっても国家的には統一や侵略への欲望がない、権威的武力みせつけだけの状況=実戦なき幻の抑止力状態)が、精神はまだまだ古代人で、経典・教義を理解できるとは思われていなかったからだ。そして、中国に隋が立ってようやく、高句麗や百済はその強力な圧力を肌身に感じたことで、武力のひいでた倭国に、仏法や建築技術を交換条件として武力的協力を求めるようになった。だから飛鳥に宗教としての仏教が伝わったのではなく、最初は建造物や仏像のような、眼に見える偶像だけだったのであり、それは588年の飛鳥寺建立のときである。


称徳(訂正 斉明)女帝の飛鳥寺を蘇我馬子が再建した法隆寺などのように、聖徳太子にまつわる建造物はみな飛鳥に集中しているのに対し、四天王寺だけはなぜか記紀の太子エピソードとはかけ離れた難波に存在する。このことも実に怪しむべきことである。






概略、それで正しいだろうと思う。
正確には、蘇我馬子摂政大王時代の588年でよかろう。
このときまだ聖徳太子なる聖人は存在していない。
聖徳太子という仏教の聖人は、8世紀の記紀が観念的に描き出したのが最初で、やはり政治的偶像である。


藤原不比等が自らの女帝政権、天智天皇という偶像を正当化するためのいわば「アマテラス構想」の中にあった、仏教政治利用の一環が太子である。



それまでの倭国には「宗教」がなかったと言える。
古代信仰しかない状態だった。つまり世界から見ればそれは野蛮人国家であるというしかない。其れまでの信仰とはつまり神仙思想を中心とした、卑弥呼からのシャーマニズムのままのもの・・・祖霊の再生祈願・・・人が早く死ぬ世界の土俗的民族信仰の延長=神道でしかなかった。


神道は現代においても経典も教義も一切持たない。ということは宗教学的にはそれは宗教ではないことになる。宗教には「経」がついている。
経とはすなわち成文化された教義である。経典である。経典とは宗教のマニュフェスト、マニュアル本である。つまり聖書やコーランやのような世界宗教の持つ経典がないのならそれは「宗教」ではないことになる。


神道は残念ながら古代信仰でしかないのだ。


そして、ようやく届いた仏教もまた、飛鳥時代~奈良時代までは、まったくの政治マニュアルとしてしか存在しなかった。神道が国家統一に利用されたのにとって変わっただけの代物だった。だからこそ仏像や大仏、寺を作ることによって政治家たちは民衆を、国家事業に参加させただけだけだったのである。これがそのまま、現代の日本人の世界に例を見ない無信仰性の基盤となった。簡単に言えば、死ぬような3Kの土木事業にトリップさせることこそが倭国・日本の国家政策であり続けたのである。


それはそのまま、第二次世界大戦での神風特攻隊に受け継がれることとなる。

敗戦とは、そのように、日本人1万6000年のあいだ引き継がれてきた古代精神性のようやくの崩壊でもあった。卑弥呼の時代がそのときようやく幕を閉じたと言っても過言ではない。昭和20年の夏のことである。



また、四天王寺が・・・

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