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井上亘の森博達『日本書紀』分析批判

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『日本書紀の謎と聖徳太子』所収「『日本書紀』の謎は解けたか」において、井上亘は森博達の『日本書紀』を音韻学から分析した論考を、「音韻論」と「成立論」とに分けて、前者については「大変な労作」(81頁)、「未曽有の業績」(109頁)と呼んで高く評価する一方、著作者論、成立過程論においては、粗雑きわまりない素人論義、自信過剰の論理として切り捨てている。森は確かに、中国音韻学こそが最高峰であるという中国文献学の立場から、日本の文献史学者たちの非科学性を嘲笑しながら、下に見たところがあると言えるのかもしれない。



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森の中国音韻学からの『日本書紀』分析論は、画期的ではあるが、確かに、
1 中国語(漢文)で文章を書くために中国語音韻を知らない者が書けるはずはなく、それを書いた人物は、中国人であろうと、日本人であろうと当時の達人だったのだから、それだけで『日本書紀』群の一部を絶対に中国人の作、とするのは早計である。またその当事者が森の言う中国人だったというのも、考えてみればあまりに『日本書紀』記述に従いすぎている。(これは筆者が大山論法によく登場する『日本書紀』引用を信用して一面にも見て取れる。ある面で『日本書紀』を痛烈に虚構を喝破するの似、他方では『日本書紀』部分は信じ込んでいるという矛盾)

2 日本の文献学者、なかんずく大多数の文学系学者たちは、文献を音韻学や言語学と言った科学で分析する手法を長く持てなかったために、森の科学性に対し沈黙するしかなく、どちらかといえば迎合してしまったところがある。つまり森自身が書いたように、文献史学は科学的分析ノウハウがない学問であり続けてきたと言える。それゆえに森の論考に対して正面から批判する能力も持ちえていないことになる。

そういう程度の日本の史学は、いまや、森や大山の検証の前で、ほとんどその機能と発言力を喪失した状況になっているとも井上は批判する。しかし井上は数少ない中国音韻学の著書を持つ、中国在住の日本文献史学者という立場から、森の論考をある面で労作と評価し、ある面で厳しく批判する。




中国の学問の中で、音韻学は最高権威だと言われている。森は日本人として希少なその分野の権威である。筆者が大学時代、文学部の中での言語学研究会で、その理化学的な論考(ソシュールの言語理論など)に四苦八苦したように、多くの文系学者は、数値や方程式を駆使する幾何学的な分析は苦手である。要するに日本の文学論考、文献史学論考は、そうした科学性が皆無でやってきた。文学も文献史学も、文章の分析、書かれていることの分析は得意でも、音韻や言語学の面から、科学的に立証することをおざなりにしてきたために、森の自信溢れる、確固たる論理に黙り込み、あるいは感激し、そのまま受け取り、自分の論考の骨子にさえしてしまっていると、井上は批判するのである。


あたかも、考古学的発掘こそは真実であるとして、ねつ造に気づかなかった日本先土器時代考古学を失策を見るような痛烈な批判である。それをいちいちここに書き写すつもりはないが、是非、一度は読んでおくべき論説である。森がたじたじとした部分をはしょって批判に答えた続編を作っているなど、森こそ神への反省はわれわれにもあるべきである。論考を信仰としてしまいがちな流れに、単騎さおさす勇気或る論説。


 





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