テレビで、たまたま、坊さんがうじゃうじゃ出てくる番組・・・爆笑問題のぶっちゃけ寺?なるものをちらっと見る機会があった。いつもの正平ちゃんのチャリンコ放浪番組がなかったので、チャンネルをザックしていて引っかかったのである。
ちょうどオーストリアの王家エッケンベルグ城の壁から出てきた大阪図会?が話題になっていた。その前にNHKで特集をしていたので、予備知識はあった。
あの絵図は描かれた時代は秀吉よりあとの江戸時代ごろのものとNHKではちゃんとした学者が言っており、当時西欧では日本の屏風絵を珍重していた歴史がある。それをオーストリアのハプスブルク家が買い込んで、お城の壁画に切り取ってほかの絵画の周囲に貼り巡らしていたのが、時代を経て、ブームが去ると、上からどんどん新しい絵を貼り重ね、いわゆる「下張り」状態だったのが、偶然修復時かなにかで発見されたもの。
この大阪城は江戸時代になって、大阪の栄華が凋落した時代に、回顧的に描かれたもので、少なくとも秀吉が生きていた時代の同時代作品ではないので、なんとも言えないのだが、とにかく屏風絵画家がそれを思い出しながら仕上げたものだから、大阪城の姿も今よりは当時に近いだろうとされる。
問題の「屋根の或る橋」は図面では大阪城の北側にあり、本来、天子南面すの故事から、京都の御所など往古の京師が南を向くことを真似た造りなので、大阪城も南門が正門で北側には門や橋などなかった。それが造られた理由について、
「ぶっちゃけ寺」出演者の研究者?(誰かは知らない。学者ではあるまい)はこうコメント。「この豪華な橋は秀吉がこっそり出かけるためのもの」。
そうかも知れないが裏づけのない噂でしかない話である。
北側にわざわざあとから橋を作ったのは、京都の皇居=天皇をさらに北にいる天子というイデオロギーからであることは間違いない。そしてその形状が屋根の或る「呉橋」様式である理由は、諸君が宇佐神宮などに行けばすぐに理解できる。
宇佐八幡神宮 呉橋
呉橋は天皇の勅使道の最終地点にあり、奈良時代から天皇が変わるたびに宇佐へお伺いの勅使が来ていたのを迎えるための様式である。
つまりこの様式は天皇一家専用であるがために屋根を持たされていて、普段は誰一人わたることができない。
ということからも、大阪城北側の橋を秀吉が使えるとは考えにくい。
ただし、滋賀県竹生島の宝厳寺の山門については・・・
「秀吉没後の1600年、秀吉をまつる豊国 廟びょう(京都市東山区)に移築、巨大な門になったことが当時の文献に記される。さらに豊国廟の社僧の日記には、1602年に「極楽門」を竹生島に寄進するため壊し始める、との記述がある。北川央・大阪城天守閣研究主幹は、極楽橋が門に姿を変え、豊国廟を経て、竹生島に移った可能性があるとみていた。
現在の京都市七条の豊国神社山門http://65047092.at.webry.info/201212/article_7.html
極楽橋と唐門とを結びつけたのは、2006年、オーストリアの世界遺産・エッゲンベルク城で確認された豊臣期大坂図屏風だ。
焼失前の大坂城を正確に描写しており、北川研究主幹らの調査で、極楽橋の正面の姿が竹生島・宝厳寺にある唐破風からはふ様式の唐門と酷似することがわかった。
描かれた橋の側面にある朱や緑の花模様の彫刻と、唐門に残る牡丹ぼたん唐草の彫刻の特徴も一致。唐門の彫刻には絵と同じ朱や緑青が残っていた。
北川研究主幹は「極楽橋の姿が屏風の絵で明らかになり、大坂城と豊国廟、竹生島が一つの線でつながった」と話している。
高橋教授は昨年、内側の扉の上部を切り詰め、低くした痕跡を確認した。門の高さはかつて10メートル程度あったと推測。「これだけ豪華で大きな門は秀吉の建造物だろう」とみている。
秀吉は天下を治める前に長浜城主を務め、宝厳寺に寄進していたという。側室・淀殿が育った浅井家も竹生島を守り神として信仰するなど、もともと縁は深い。
高橋教授は、豊国廟の極楽門を島に移すとした日記に徳川家康の命令を指す「内府より」の記述があることに着目。「家康は極楽橋という秀吉の栄華の象徴が目障りだったのだろう。ゆかりの島への移築で、豊臣家を納得させたとも考えられる」と推測する。
◆豊臣期大坂城 豊臣秀吉が1583年から築城し、5層の天守や大名屋敷などを建て、玄関口に極楽橋を架けた。大坂夏の陣で落城後、徳川幕府が徹底的に壊して埋め、新しい大坂城を築いた。豊臣期の遺構は地下から発見された石垣だけで、建物はないとみられていた。」
と言うことで信憑性は高まっているそうである。
ただ、こういう入母屋作りに付随する唐門様式はどこにでもあるもので、家康は大阪城を徹底的に打ち壊しているので、さて、どうなのかは今後の詳細分析次第であろう。
私見を最後に申すなら、まず大阪城の色が黒くないのは気に入らない。秀吉は黒好みであった(熊本城など。家康は白好み 浜松上や姫路城など)。だから大阪城ももともと屋根は漆黒だっただろう。
呉橋を極楽橋と呼ぶようになったのは「極楽橋の名前は大坂本願寺を極楽浄土に見立てて、そこに至るための橋」という大阪城公園の意見もあるが、筆者は勅使専用橋のほうがよいと思う。だから最初の名前は違うのではないか?家康が改築したときにはもう普通の橋であったと聞く。
唐門については屏風絵との類似点が少ない。曲がりが絵ではゆるいが、宝厳寺のは宇佐に近い湾曲度で、似ていない。ただし屏風絵そのものが後世のものゆえ、それが正しいかどうかもわからないので、決定しがたい。
そもそも唐門様式は、いまや、古い温泉館や神社仏閣ではざらに見られる。
屏風絵に登場している籠に載る人物を秀吉本人、出迎える女人を淀君としたい意見がNHKであると言っていたが、堀に浮んだ小舟は屋形船で、秀吉伝承に或る船に近いが、本人の衣装があまりにお粗末。これは要するに内緒で囲っている女のところにでも行った帰りの隠れ蓑の扮装とも考え得るが、そうならばそれを淀君が迎えているのは奇妙でも或るだろう。
ハイビジョン特集 新発見 大坂図屏風(びょうぶ)の謎 ~オーストリアの古城に眠る 秀吉の夢~
ま、妄想はたくましゅうして楽しむことですな。
大阪人にもいろいろうるさがたが多いので、意見は百出するのでしょうが、まあ、うちにはあまりがたがた言うてこんといてな。ぼくも、かつては大阪城の真下で働いておりましたんでね。