上田正昭
「紫式部は『源氏物語』の乙女の巻で学問について論及し、つぎのように述べている。「才(ざえ)を本(もと)にしてこそ、大和魂の世に用ひらるる方(か た)も強ふ侍(はべ)らめ」と。卓言である。紫式部と大和魂、『源氏物語』と大和魂というと、たいがいの人はびっくりするが、日本の古典でもっとも早く大 和魂について述べているのは紫式部であった。
ここにいう「大和魂」とは戦前・戦中に喧伝(けんでん)された日本精神の代名詞としての大和魂ではない。日本人の教養や判断力を指しての大和魂であっ た。「才」とは「漢才」のことで、文学者である紫式部は漢詩・漢文学を内容とする「漢才」を意味した。私なりにいえば、漢才すなわち海外からの渡来の文化 をベースにしてこそ、大和魂がより強く世の中に作用してゆくということになる。
後に「和魂漢才」といい、幕末・維新期に「和魂洋才」といわれるのも、同類の表現であった。
日本文化の独自性は内なるものと外なるものをミックス(混合)・重層させて、その輝きを増してきたといってよい。日本の古典芸能でもっとも早く家元制を 採用した雅楽(ががく)じたいが、日本の楽舞はもとよりのこと、三国楽(高句麗・百済・新羅の楽舞)・渤海楽・唐楽・林邑(りんゆう)楽(ベトナムの楽 舞)を、日本で集大成した音楽と舞踊であった。」(「日本らしさとはなにか」)
ここにいう「大和魂」とは戦前・戦中に喧伝(けんでん)された日本精神の代名詞としての大和魂ではない。日本人の教養や判断力を指しての大和魂であっ た。「才」とは「漢才」のことで、文学者である紫式部は漢詩・漢文学を内容とする「漢才」を意味した。私なりにいえば、漢才すなわち海外からの渡来の文化 をベースにしてこそ、大和魂がより強く世の中に作用してゆくということになる。
後に「和魂漢才」といい、幕末・維新期に「和魂洋才」といわれるのも、同類の表現であった。
日本文化の独自性は内なるものと外なるものをミックス(混合)・重層させて、その輝きを増してきたといってよい。日本の古典芸能でもっとも早く家元制を 採用した雅楽(ががく)じたいが、日本の楽舞はもとよりのこと、三国楽(高句麗・百済・新羅の楽舞)・渤海楽・唐楽・林邑(りんゆう)楽(ベトナムの楽 舞)を、日本で集大成した音楽と舞踊であった。」(「日本らしさとはなにか」)
やまとーだましい、と読むから戦前・戦中の奇妙だった精神主義を思い出すのだ。「やまとーこころ」と読めばいいのである。
水木しげるは戦時中、前線で「死ね、死ぬために戦え」と言われ、「ばかばかしい」と思ったという。つまり彼は、自ら戦争に身を投じていながら、客観的に、日本のばかばかしい戦いぶりを凝視していた。それは大和魂などではないのだとわかっていたのであろう。
漢才に対する和才である。
やまとごころとは、のちのわびやさびであり、大自然に身をおきながらそこに融合し、詠嘆する心根を言うのである。
そして、言わなければならないのは、古代~中世にかけて「大和」は決して日本全体を指さない。狭い世界のことである。地方のすべては大和が首都だとか、日本の代表する言葉とか思わないもののほうが多かった。
さらにそれらの日本的精神を作り上げたのは渡来人である。彼らはそもそもから歴史の敗者である。敗者が作り上げた平安な思想こそが和であった。戦時中、軍ははなからその敗者の和魂をもって、勝利者となるために間違った精神性(くそ忍耐)を大和魂であると置き換えた。
「内なる文化に外なる渡来の文化をたくみに結合し、変容して、固有で独自な文化を形成してきたのである。われらの祖先がすぐれているのは、外来のものをす べて受容したのではない。たとえば儒教は積極的に受け入れたが、革命思想は排除した。都城制は中国の長安城や洛陽城に倣ったが、藤原京や平城京でも、長岡 城や平安京でも、ついに羅城は構築しなかった。したがって日本の都には宮都はあっても、都城はなかったといわなければならない。官吏登庸(とうよう)の試 験というべき科挙(かきょ)や去勢された男子の小吏すなわち宦官(かんがん)の制はついに受容しなかった。
日本の宗教史をひもとけば、神と仏は対抗するよりも習合の道をたどって、神宮寺や社僧が誕生し、平然と神前読経が行われた。」
日本の宗教史をひもとけば、神と仏は対抗するよりも習合の道をたどって、神宮寺や社僧が誕生し、平然と神前読経が行われた。」
同上引用文