東大寺大仏の螺髪数、定説の半分だった・・・。
というニュースが先ごろ国民にショックを与えた。
というニュースが先ごろ国民にショックを与えた。
今の大仏さん、どうやら髪の毛のパンチパーマがいい加減なものにされているようだ。本当は最初は螺髪がもっと細かい丁寧な仕上がりだったようである。
ブラタモリ奈良編編集部の調査
によると、東大寺及び盧舎那仏の再建事情はこうなっている。
大仏の胸から下 … 天平時代当初のものが多く残存
金剛力士像 … 鎌倉時代に再建
南大門 … 鎌倉時代に再建
大仏殿 … 江戸時代に再建(木材不足から集成材も利用)
大仏の顔と肩 … 江戸時代に再建
なお、大仏建立は聖武天皇の発願(ほつがん)で、当初の予定地は滋賀県甲賀郡の信楽だったが、なぜか不振な火事が信楽周辺で頻発し、今の東大寺に変更された事情があり、当時の信仰事情がまだまだ外来宗教の仏教に対して偏見も多かったことが垣間見える。
こうした中で、過去数度の再建も行われ、奈良時代当時のままの部分は下半身土台部分の一部だけだと考えられる。最後の再建修復は江戸時代、将軍綱吉の手になるが、このとき修復予算や木材に不足して相当な手抜きが起こった可能性が高いだろう。螺髪数の減少もこのとき起こったか?お顔の修復がなされているのもはきりわかるのは綱吉時代なので、可能性は一番高いだろう。ただし鎌倉時代などの修復状況記録が少ないためにそれで間違いないとも言えないのが実情。
大仏の鋳造方法は
「1.まず、木材の支柱を縦横に組み、これに細い枝や麻縄などを巻きつけ、塑像の芯材の要領で大仏の原型の芯を造る。
2.大仏のおおよその形ができたら、これに土をかぶせる。かぶせる土はきめの荒いものから塗り始め、だんだん外側へ行くにしたがって粒子の細かい土を塗っていく。こうして金銅像と同じ大きさの土製の像ができる。これを原型または中型(なかご)という。
3.中型の土が十分乾燥してから、今度は中型を外側から覆うような形で「外型」(雌型)をやはり粘土で造る。巨像のため、外型は下から上へ、8段に分けて造られた。中型と外型が接着しないように、剥離剤として薄い紙をはさむ、あるいは雲母をまくなど、何らかの方法が取られたはずである。
4.外型を適当な幅で割り、中型から外す。
5.外型の内面を火で焼き、型崩れしないようにする。
6.中型の表面を一定の厚み(数センチメートル)で削る。この作業で削った厚みが、完成像の銅の厚みとなる。
7.一度外した外型を再び組み合わせる。外型と中型がずれないようにするため型持を入れる。正倉院文書によれば、型持は4寸四方、厚さ1寸の金属片を3,350枚造ったという。
8.炉を持ち込み、高温で銅を溶かし、外型と中型のすき間に溶けた銅を石の溝から流し込む。中型を削ってできた空洞がそのまま完成像の銅の厚みになる。大仏の場合、巨像であるため、脚の部分から頭部まで全部で8段に分け、丸2年かけて鋳造したことが知られる[6]。
制作は以上で完了した訳ではなく、鋳加(いくわえ)、鋳浚(いさらい)という、鋳造後の表面の仕上げ、螺髪の取り付け、像表面の鍍金(金メッキ)、光背の制作など、他にも多くの工程があり、これだけの巨像を造立するには想像を絶する困難があったものと思われる。作業中の事故や、鍍金の溶剤として用いられた水銀の中毒により多くの人命が失われたとも言われている。」Wiki同文から
なお、金メッキのこうした手法をアマルガム工法と科学は名づけ、その発祥は欧州の中世以降とされているが、実はもっと古くから東アジアにはあった工法だったことになる。西欧科学はおしなべて自分を中心にものごとのはじまりを決め付けてきたが、これも一種の偏見である。われわれは学校教育を通じてかなり嘘も信じ込まされている。
大仏建立に至った奈良当初の事情は以下のとおり。
「大仏は姿の上では釈迦如来など他の如来像と区別がつかないが、華厳経に説かれる盧舎那仏という名の仏である。華厳経は西暦400年前後に中央アジアで成立し、中国経由で日本へもたらされた仏教経典で、60巻本、80巻本、40巻本の3種類の漢訳本があるが、うち奈良時代に日本へもたらされたのは60巻本と80巻本である。前者は5世紀、東晋の仏陀跋陀羅訳で「旧訳」(くやく)、「六十華厳」といい、後者は7世紀末、唐の実叉難陀訳で「新訳」、「八十華厳」という。盧舎那仏はこの華厳経に説く「蓮華蔵世界」の中心的存在であり、世界の存在そのものを象徴する絶対的な仏である。六十華厳では「盧舎那仏」、八十華厳では「毘盧遮那仏」と表記されるが、これらの原語はサンスクリットの「Vairocanaヴァイローチャナ」であり、密教における大日如来(Mahāvairocanaマハー・ヴァイローチャナ)と語源を等しくする。
『続日本紀』によれば、聖武天皇は天平12年2月(740年)、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、これが大仏造立のきっかけとなったという。知識寺の跡は柏原市太平寺に残り、7世紀後半の瓦が出土している。なお、ここでいう「知識」とは、信仰を同じくする人々の集団である「同志」「同信」といった意味である。同じ天平12年の10月、聖武の四十賀に際し、新羅で華厳教学を学んだ審祥が金鐘寺にて華厳経を講義している。盧舎那大仏造立の背景にはこうした華厳経に基づく信仰があった。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E7%9B%A7%E8%88%8E%E9%82%A3%E4%BB%8F%E5%83%8F#.E5.A4.A7.E4.BB.8F.E9.80.A0.E7.AB.8B.E3.81.AE.E6.80.9D.E6.83.B3.E7.9A.84.E3.83.BB.E6.99.82.E4.BB.A3.E7.9A.84.E8.83.8C.E6.99.AF
聖武天皇はつまり、「仏教を以て国家統一と安寧の大本」としようとしたわけであるが、現代政治以前、すべての歴史時代の国家はそのように、教義宗教を政治的に利用している。これを国家宗教と呼ぶ。大仏はその象徴だったわけである。現代は政教分離であるので、政治と宗教がきっぱりと切れたのはつい最近からだということだ。
と言うことは当然、仏教は政治に久しく利用されることで翻弄され続けたわけで、聖武天皇が華厳経仏像の1スタイルである大仏像建立にこだわったのも、当時の政治事情が危機的だったからである。都をそれまでの飛鳥から新天地奈良へ動かした理由も、奈良でなくてもよかったわけで、遷都予定地は当初紫香楽など複数あった。しかし、政治的な対立を繰り返していた藤原氏や橘氏、飛鳥旧態勢力などの複雑にからまる事情で、遷都も翻弄された。当然、仏教への旧神道信者からの圧力も残存していただろう。もっとも苦労の末に造られた大仏でさえ、水銀大量使用によって奈良を汚染したわけで、鍍金作業も途中で頓挫せざるを得なかっただろう。定説では金の不足があったとされ、仏像の半分くらいしか金色ではなかった。しかし本当に不足したのなら、その後の奥州藤原氏の砂金による繁栄はどうした?と言う新たな疑問が生じることになるのである。大仏の金は奥羽地方で発見され、それは百済王一族の発掘によったと『日本書紀』ではなっている。まだ同じ奥羽地域にある中尊寺あたりの金は見つかっていなかったということだろうか?
こうした歴史的背景の中で、大仏も東大寺も、その後も何度も災難をこうむってきた。再建は時代ごとの経済事情によってこれまた翻弄され、現在の東大寺と大仏に至っているので、螺髪の数も当然変化してもおかしくないわけで、それにしても、聖武時代の記録を学者らが疑いもせずにたったひとつの文献に頼り、一切疑問も持たぬまま受け継がれてきたのはいかがなものかと頭をかしげてしまう。
ことほど左様に歴史学は、一個の権威的文献記録に弱い一面がある。記録とは正確無比、信仰遺物に変化や省略があろうはずはない、という固定観念がそこに垣間見える。人間が陥りがちな欠陥をそこに見出すことも可能である。千年のあいだ螺髪数をちゃんと数えなかった、そこには記録過信もあったが、相手が盧舎那仏像という神聖なものゆえに、数えるのがはばかられたという一面もあるだろうか。日本人は権威と定説には疑いを持ちたがらないことが多いともいえる。今回、東大寺が螺髪を改めて数え直した背景には、見学者である学生たちからの率直な質問が何度もあったためで、やはり歴史は柔軟な頭で見るほうがよいものと思いを強くした。定説はくつがえされるもの。聖徳太子にせよ、有名武士の肖像画にせよ、記紀記録にせよ、ほんまかいな?と疑える勇気を持つほうが、新事実が出てくる大元である。信じるものは救われぬ。