日本の古代史はどこまで正しいのかを改めて検証してみたい。
特に今回は天武を中心に。
天武と赤色、劉邦と赤色
(項羽の白、天智の白)
(項羽の白、天智の白)
1 壬申の乱
秋七月庚寅朔辛卯、「其の衆の近江の師と別け難きを恐りて、赤色を以て衣の上に着く」
天武軍は近江軍と区別するために赤い衣を羽織った。
このいくさのときから染色集団の長であろう置(染)始菟が参加している。三重県津市(旧安濃郡)産品(うぶしな)に置染神社あり。このあたりの氏族だろうか?
もちろん天武が赤を好むというのは劉邦の古事を模したものである。
『史記』高祖本紀
老婆が言うには「わが子は白帝の子なり、化して蛇と為り道に当たれり。今、赤帝の子=劉邦に之を斬られぬ。故に哭す」
この老婆の子が大蛇で、今、道をふさいでいるので帰れと劉邦に言う。すると劉邦はこれをたたき切ったのである。その劉邦を赤帝の子であり、自分の子は白帝の子であったと老婆は泣きながら言ったのだった。
老婆が言うには「わが子は白帝の子なり、化して蛇と為り道に当たれり。今、赤帝の子=劉邦に之を斬られぬ。故に哭す」
この老婆の子が大蛇で、今、道をふさいでいるので帰れと劉邦に言う。すると劉邦はこれをたたき切ったのである。その劉邦を赤帝の子であり、自分の子は白帝の子であったと老婆は泣きながら言ったのだった。
また柿本人麻呂の天武の皇子・高市の死をしのぶ歌に
「ささげたる旗の靡(なび)きは 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の 風のむた靡くのにも似ており」万 巻第二 199
ともあり、高市の参加した天武軍が、「火がなびくがごとき赤旗」をなびかせていた古事にちなんでいると思われる。
2 朱鳥改元
「あけみとり」は天武が得意とした「天文遁甲」によれば赤=南=朱雀である。
天武六年に筑紫から赤い烏が献上された。
「あけみとり」は天武が得意とした「天文遁甲」によれば赤=南=朱雀である。
天武六年に筑紫から赤い烏が献上された。
「天武天皇が死を前にして,7月にあわただしく改元している〈朱鳥〉の年号も道教の文献《淮南子(えなんじ)》などに見える言葉で,朱雀と同じく南方の赤い火すなわち生命の充実もしくは蘇(よみがえ)りを象徴し,天皇が病気で〈体不安〉であったためにこの処置が取られたものと見られる。天武の陵墓は大内陵とよばれて道教の神学用語〈大内〉を用いており,また持統の治世に造営された藤原宮が,中国の皇都にならって全面的に道教における皇都の宗教哲学」を元に、天智天皇陵=藤原宮の北=白=太一=北極星=天命天子として置いた。大して天武・持統陵は宮の南=朱雀・赤の位置に置かれてある。絵に描いたような道教思想だが、もちろんこれはすべて劉邦=赤、項羽=白としている「史記」の受け売りである。」
「壬申の乱に勝利した天武天皇は、天智天皇が宮を定めた近江大津宮に足を向けることなく、飛鳥の古い京に帰還した。天武天皇2年(673年)閏6月に来着した耽羅の使者に対して、8月25日に、即位祝賀の使者は受けるが、前天皇への弔喪使は受けないと詔した。天武天皇は壬申の乱によって「新たに天下を平けて、初めて即位」したと告げ、天智天皇の後継者というより、新しい王統の創始者として自らを位置づけようとした。
このことは天皇が赤を重視したことからも間接的に推測されている。壬申の乱で大海人皇子の軍勢は赤い旗を掲げ、赤を衣の上に付けて印とした。晩年には「朱鳥」と改元した。日本では伝統的に白くて珍しい動物を瑞祥としてきたが、天武天皇の時代とそれより二、三代の間は、赤い烏など赤も吉祥として史書に記された。赤を尊んだのは、前漢の高祖(劉邦)にならったもので、秦を倒し、項羽との天下両分の戦いを経て新王朝を開いた劉邦に、自らをなぞらえる気持ちがあったのではないかと推測される」Wiki天武天皇 政策
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E5.A3.AC.E7.94.B3.E3.81.AE.E4.B9.B1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E5.A3.AC.E7.94.B3.E3.81.AE.E4.B9.B1
Wiki道教より
こうした紅白によって歴史的事柄を表現するのは、平民にでも一発でわかりやすく面白くするための軍記の常套手段で、必ずしも実際にそういう色分けをしたかどうかは古代ではわからない。ただ、中国の場合、紅巾、黄巾の乱などの例もあり、そうしていたのかも知れない。日本の物語である平家物語などでも源平を紅白で色分けする思想が反映されており、軍記や講談などで、非常に臨場感の出るビジュアル効果がある。そうした紅白合戦のイメージは、その後に影響して戦国時代、あるいは現代の学校の運動会の帽子や、歌合戦でも紅白で争う行事はいまだに多い。赤も白もそうした瑞兆、おめでたのしるしであり、水引や大弾幕に用いられている。参考ことバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9C%B1%E9%9B%80-184373
なお、道教(陰陽五行説)などでは五色の旗(仏教でも同じだが青・黄・赤・白・黒)を立てるが、これを幢といい、旗の語源でもある(宇佐八幡宮の縁起にもある一縷の幡をなどのはたもこれであろうか)。
赤=火、黄=土、白=金、黒=水、青=木のそれぞれ「気」にあてられる。天武の赤は火であり、火克金(か・こく・きん)で、火は金属を溶かすので、金=白=天智が天武に負けるを暗示してある。さらに金=中臣金(なかとみの・かね)の死も当然の結末となろう。つまり大友軍が合言葉にした「金」とは、まずもって火に負ける金の暗示(物語のノウハウである)となっていると言える。中臣金という人物も、だからそれにそって創られた登場人物だったとも考え付くだろう。
しかし、もし天武軍が不破出立のときからみな赤い衣を着ていたのならば、のちの倉歴の合戦で合言葉などは必要もないはずであり、ここにも『日本書紀』の破綻が見て取れるのである。
日本古代の年号に関して。
白雉元年 これは孝徳天皇の年号
白鳳・朱雀『続日本紀』神亀元年冬十月条(724年)に「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。」といった記事がみられる。これを私年号といい、寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号(逸年号とも。日本書紀に現れない元号をいう)の一つである。通説では白雉(650年〜654年)の別称、美称であるとされている(坂本太郎等の説)。とするならば、この朱雀年号も同じく朱鳥の美称となるのだが・・・。坂本のような往古の単純な考え方で流してしまってよいものかどうか?
九州王朝説ではそれらはみな九州での年号の簒奪・受け売りであるとする説もある。
「白鳳・天平」などと美術史では区分けしている時代がある。仏教美術史上の区分だが、これはつまり『日本書紀』年号を無視した名前付けであり、それが同じ教科書に両方使われてしまっているのは、いかに古代史がいい加減なものであるかを語ってしまうのである。
『続日本紀』編纂時(797年)から、記事の724年が、果たして孝徳~天武時代から「年代玄遠にして」と言うほど離れた時代かと言えば、わずか70数年ばかりのことであり、ということは、平安時代でさえ、すでに飛鳥・奈良の記憶はついえてしまっていたかとなるわけで、『日本書紀』が書いているような1000年も前の記憶が、いかに頼りなく、いい加減なものであるか想像がつこうというものである。
要するに記紀という書物は、それまで1000年、文字がなかった時代のことまで一気にまとめて恣意的に、時の政府が書き上げたものなのであり、せいぜい人の記憶は100年とするならば、雄略以前はいくらでもでっちあげが可能であり、雄略以降でさえ、これまたいくらでも変更が可能なのだと見えてきてしまうのである。
以上ここまでの天武・壬申の乱記事の参考文献 遠山美都男 『壬申の乱で解く日本書紀 天武天皇の企て』2014 角川選書
まず『日本書紀』はこのように天武を赤、天智を白としてわかりやすく色分けしてあるのだが、その手法は中国の劉邦を赤とした道教的な手法のものまねであることを前回は解説したのである。
周の昔より、陰陽五行によって赤気は天子が生まれ出る前の予兆とされ、=正義=天子になるべきもの、として中国史書は書き分けようとしているわけだが、『日本書紀』壬申の乱記事はまったくそれを踏襲することで、天武=天皇正嫡を正統化しようとしているわけである。一方、敵役としての大友(天智側)を白としている。いわば日本人の、紅白相対観念=勧善懲悪表現への愛着の、これこそが始まりだったとも言えるか。
さらに・・・
3湯沐令
『史記』高祖本紀には湯沐邑(ゆのむら)の記載がある。
「児をして皆之を和習[※ 12]せしむ。高祖乃ち起ちて舞ひ、 慷慨 ( かうがい ) 傷懐[※ 13]して、 泣 ( なみだ ) 数行下る。沛の父兄に謂ひて曰はく、「游子[※ 14]故郷を悲しむ。吾関中に都すと雖も、万歳の後[※ 15]、吾が 魂魄 ( こんぱく ) 猶ほ沛を 楽思 ( がうし ) せん。且つ朕沛公自り以つて暴逆を 誅 ( ちゆう ) し、遂に天下を有てり。其れ沛を以つて朕が 湯沐 ( ゆもく ) の邑[※ 16]と為し、其の民を復し[※ 17]、世世 与 ( あづか ) る所有る無からしめん[※ 18]」と。」
この湯沐は天武紀でも登場し、それが高祖劉邦の記事の受け売りであることは明白である。場所は今の岐阜県南東部安八磨(あはちま)郡であり、そこの代表としてかの湯沐の令(うながし)・多品治(おおのほむじ、太安万侶の父)が登場し、壬申の乱で活躍する。この岐阜の安八郡の海は今は干上がって名古屋市であるから、一帯はかつて尾張氏の港と領地。尾張氏は天武の幼名大海人(おおあま)に大いに関わる海部(あまべ)氏族であり、多氏はつまりウナガシ=養父だから大海氏=多氏だったことになる。
大海連氏はのちの凡海氏(おほしあま)で、海部を管理する氏族であるから、多氏とは海部の管理氏族だったことがこれではっきりするわけである。
「凡海氏は阿曇氏の同族とされ(『新撰姓氏録』右京神別下、摂津国神別)、摂津国を本拠にした氏族である。大海人(おおあま)皇子の名は、凡海(おおあま)氏の女性が皇子の乳母であったことから付けられたもので、凡海氏が大海人皇子の養育にあたったものと推定されている[1]。天武天皇13年(684年)12月に連姓の50氏が宿禰の姓を授けられたとき、凡海氏もその中にあるので、麁鎌もこの時に連から宿禰になったと見られている。」
「凡海郷とは、かつて丹後國伽佐郡(現在の京都府舞鶴市及び加佐郡大江町あたり)にあったとされる郷名」
画像同サイト
つまり古代丹後には九州の倭人海人族が出雲や豊岡を経由して水田稲作や鉄器や遠賀川式土器などを通じて弥生中期までに付き合いがあった古い日本海文化圏があったのであり、のちには鏡や鉄剣を墓に埋葬する九州北部的なヒエラルキー意識の早く到達した地域なのである。言い換えれば、随分それがおそく入ったと見られる近畿地方よりも、弥生中期後半まで先進地だったのが日本海沿岸。運河側から海部の前身たちはまずここを版図として北上し、津軽を回って太平洋から南下してやがて東海地方尾張氏と同族となった。
こうしたことから「おおあま」=「多」=「おほしあま」=安曇同族は明白となる。
すると天武の妃に宗像氏の娘が嫁いだのも、宗像氏が九州の安曇部から出た氏族だということの証拠になるだろう。壬申の乱に、天武がまず海人族のいる東国尾張を目指したり、息長氏の本拠不破が要の舞台になったり、活躍する氏族が九州豊前地方の氏族や豊後の大分の君であった理由はあるのだ。
しかしいずれにせよ湯沐が使われたことで、これまた劉邦の物まねであることはいよいよ確実になってしまう。
そういう意味で、『日本書紀』は中国史書の日本版として作られたことになる。
ところが『日本書紀』の真意の後戸には、天智こそが実は正統という隠された意図がある。矛盾がそこにはあるのだ。
海部集団や多くの海人族は、実は『日本書紀』を創り出す藤原氏集団にとっては古い王家であり、とって代わるべき、隠したい九州血脈王家なのではなかったか?
では弥生初期から中期後半まで、近畿地方は考古学的にどういう世界だったのか?
九州・日本海王家をなぜ紀は消したかったのか?のなぞを解く鍵はそこにないか?
なぜ神武は九州から来たとされたのかや、邪馬台国問題も含めて、その2に続く。