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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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続・天武と劉邦 縄文から弥生、弥生から縄文回帰そしてやっと大和は弥生になった

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弥生最古の土器と言うとまず九州に登場したのは突帯紋土器で、次に遠賀川式土器、次に板付I式となるだろう。

大陸から人が移住し、弥生時代前期に九州福岡県の東部遠賀川流域で、つるつるっとした、なんの模様もない簡便で機能的なこの土器が作られ始めた。

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この土器は数百年のスパンで日本に広まった。

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最初は日本海沿線、やがて瀬戸内から太平洋側へも広がる。北海道南部や東北ではこれに類似する土器(遠賀川系土器)が登場し、北部九州遠賀川の倭人たちが、弥生時代前期からかなり広範囲に舟の移動をしていたことがわかる土器である。

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東北にはもっと前の縄文後期に、もう九州の縄文遺物や貝を模造した製品が存在したのであるから、北部九州倭人の移動癖は筋金入りだが、彼らはすでに縄文人とは違う民族であったかも知れない。それはおそらく海人族だろう。安曇の先祖かも知れない。


するとこうなっていたことがわかるはず。
日本の大陸文化の伝来はすでに縄文後期から始まっており、それは弥生人ほど多くの移住者ではなかったがぽつぽつとやってきて、海人族のさきがけとなりはじめていた。そこに弥生時代前期に起きた大陸でのなんらかの変事でさらに多くの移住者がきて合体した。しかもそこには東北から南下してきていた縄文人もすでにたくさんいた。彼ら三者が合体したのが「倭人」であろう。と。

九州ではのっぺりして飾りのない遠賀川の土器は、やがて出雲から丹後半島まで到達。

次に瀬戸内を東へ向かい吉備を経て大阪湾に登場する。


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ごらんのように大阪平野では遠賀川式土器の集団と縄文土器の集団が隣接してほぼ同居しているのである。当然文化は融合する。

その証拠となるのが瀬戸内・近畿で増え始める縄文回帰的な意匠を凝らした遠賀川式土器である。模様のなかった土器に線刻や縄目紋などのデザインが描かれ始めたのだ。


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同時に、西日本にはほとんどなかった土偶も現れる。


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このブームはやがて東海、関東、東北へ広がりを見せはじめたのだ。


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これは朝鮮半島では見られない日本独特の変化である。つまり日本の倭人は縄文のよさも取り込んでデザインを豊かにしたことになる。これが日本人のオリジナリティと合理主義が始まった最初の出来事である。ということは「日本人」とは大陸の機能性と在地縄文の情感とを併せ持ったハイブリッドであったことは明らかである。

そこにはまだ明らかなヒエラルキーの意識はない。生活様式や感性は先住の縄文人の1万年に及ぶ歴史や生活感、季節感と融和した世界で、先進地北部九州(筑紫)とは相当な文明の開きがあったのである。

意識としてのヒエラルキー的な遺物も瀬戸内や近畿ではまったく登場しない。圧倒的に鉄器や鏡や銅器といった威信財も筑紫の墓のほうが大量に埋葬されており、それが近畿に登場するのは4世紀以降、古墳時代中期まで待たねばならない。その時間差は200年以上もある。しかもほとんどが自前のコピー品である。オリジナルがない。

弥生時代前期にはまだ石器の剣が出るが、最初は半島的ななめらかな研磨をほどこされていたそれが、やはり中期になると縄文に戻ったような打製の意匠を持ちはじめている。

即物的で機能を重視する文化は大陸のように、周囲に異民族が割拠する、国境を接する世界でまず始まるもので、だから文明となりうるのである。文明とは一地域だけでなく周辺諸国までもが影響される広範囲な文化のことである。海に囲まれた日本では、だからなかなかこの独自の感性や意匠を世界に広めることはなかった。現代になってようやく、欧州やアメリカや世界各地で日本文化のオリジナリティが認識され始めているのだ。やっとのことなのである。弥生時代が始まってもう2千年以上が経っている。今の今まで、だから世界は日本のオリジナリティを知らなかった。そして日本も進んでそれを発信しなかったということなのだ。田舎に行けば欧州人でもまだ日本人=サムライ、ニンジャ、車・・・くらいの知識の人は山ほどいる。


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二世紀頃の国内のヒトの動きはこういう感じだった。

筑紫と近畿が二大文化を担う大都市圏である。しかし遠賀川式土器の人々とは違い、彼らが去ったあとの九州人たちはほとんど移動しない。外へ出て行かない。外から人が来ては文化を切り取って持ち帰る世界。しかし近畿は立地が列島の真ん中でもあり、往来する。ここが大きな明暗を作る事となる。


さてその前に吉備という中継点をおさらいしよう。
吉備型甕というものがあるが、その意匠はほとんど九州の土器の亜流で、口の部分だけがやや厚みを持った強度を増したものになっていて、これも大阪湾に3世紀以後登場する。何か気がつかないだろうか?土器を甕のように大きくするために周囲だけが補強されて壊れにくい遺物・・・三角縁神獣鏡、巨大前方後円墳、銅鐸・・・?
まさに大和的見栄っ張り遺物だ。みせかけだけのヒエラルキーがそこにある。


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以前すでに書いたことだが、吉備型というのは最初に発見されたからの銘銘で、実際の分布はこれも北部九州が最多の出土数。遠賀川式の地図でもこの地図でも、弥生土器は最初北部九州で始まり、それが吉備や出雲経由で広まっていく。それは舟の停泊する港としてそれらの地域が優秀だったからだ。そして人が集まり市を形成するよい生活圏、環境があったからだ。河川や平地や気候がよかったからである。そして大阪湾は図抜けてよかったことになる。九州よりもよかったのである。

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だから三世紀以降の近畿の中心土器となるのは遠賀川系ではなく、吉備型厚い口縁を取り入れた庄内式~布留式土器に発展し、その後の弥生土器の中心はこれに変化した。

遠賀川の人々はどこへ消えたのだろうか?
最新の稲作と水田、最新の金属器、最新の祭祀や墓制、最新の土器を伝えながら、彼らは消えてしまったのだろうか?

いや、その後、大陸三国時代に翻弄され始めた九州人には、文化伝播のゆとりがなくなり、大阪湾では在地の縄文ヒエラルキー文化に混ざりこんでしまったのである。もともと少数移民だった彼らは、近畿地方や瀬戸内では人口の多い縄文世界に飲み込まれてしまうのだ。

だからこそまだゆとりのあった吉備の淘汰された変形弥生文化のほうが彼らのリーダーになりうることになった。いや、その吉備じたいがそもそもは移住九州人によった文化社会だったことだろう。


魏志は言う。桓霊のころ倭国大いに乱れる。

1,5世紀頃、中国は分裂し戦乱時代が始まろうとしていた。漢が滅んだのだ。その影響をもろにうけて乱れたのはもちろん筑紫である。それゆえに彼らは吉備や出雲へ逃れる。その後、また中国で後漢が滅び三国時代が始まると、再び倭国は乱れた。3世紀、その影響は大和にまで及ぶ。ようやく近畿地方にもヒエラルキー、威信財を欲する文化が到達するのである。

そして登場したのが大古墳であった。

九州のそれ以前は墓の様式はどうだったか?
半島型の支石墓や、江南・インドシナ・インド型の甕棺からどたん墓へ変化し、中身は日本一番の豪華版だったのが、2世紀平原遺跡が登場。盛り土を大幅に高くした方形周溝墓に変化した。


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考古学はこれらの墓を古墳とは呼ばず弥生墳丘墓と区別するけれど、大古墳への道に始まりはこの墓からである。そしてこの墓の四方に足を付け足したのが出雲の四隅突出型墳丘墓である。これもみな日本海経由で北上している。遠賀川の土器と同じコースである。もしかすると平原も最初から足があったかも知れない。


しかし大和では日本海型の墳丘墓スタイルは取り込まれず、独自の前方後円墳型から始まる。そこからが古墳時代である(と近畿学派が勝ってに決めているだけ)。


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弥生土器というのは全国的にさほど形状に変化はない。縄文のバラエティに比べるとシェイプに対する好奇心がまったくないように見える。つまり基盤である底部の大きさが九州から東北まで一律で、形状もS字型と、一貫している。まるで現代の大量生産の規格品のようである。その理由のひとつとしてクジラの背骨の頚骨を台座にして、ろくろ方式で作るように伝播されたためではないか。


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実は縄文土器でもそういう規格があった可能性がある。
縄文土器も底部が同じ平たいものがあちこちで出る。ただし、底部形状にはとがったものも多く一概には言えないが。しかし彼らもクジラの骨を底にしていた可能性はある。

松木武彦は、渡来した弥生人と、先住縄文人には、心底のところで実は同じ死生観や季節感、生活感があったのではないかと書いている。筆者も以前そう思って書いたことがある。特に死生観でよく似たところ、再生祈願、命の永遠の希求は共通点がある。それをよりどころにして両者が融合したことが日本人を形作ってきたのではないか。


それはなぜかと追求すれば、半島南部由来の渡来倭種も、もともとは江南、長江から逃げ出した長江文明人であり、その大元は人類分岐点であったアフガニスタンやアナトリアであるし、縄文人も北方から来たツングースとスキタイの融合したものだったからかも知れないのだ。

日本~ステップロードで中東まで、なぜ文法がウラル・アルタイ語言語圏で共通するのに、なぜインド・中国「だけが」欧米型なのか?そ思ったことはないか?日本語が決して世界の中で孤独な言語ではないのであり、むしろアジアの中でインドと中国のほうが孤独な言葉を使っているのではないか?そう思わないだろうか?




さて、弥生中期をちょっと考古学でかじってみたが、それだけでも相当な日本人はじまりのヒントがあふれていなかっただろうか?

歴史の肝とはまさにそういう、あとにまで続く事象が集約的に表出する時代である。


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そこを押さえると、ほかの時代とはあきらかに違う音がする。
そこに鉱脈がある。
そこがツボである。
確かに意匠に「凝り」が存在する。



人類が何かにこだわり「凝る」時、それを「イベント」と呼ぶ。
サルから人が分かれたとき、人類の祖先も最初に石器に凝りを込めた。
こだわった。これは人類だけの特性である。


人類最古7万5000年前の象徴的石器オーカー片の斜めの線刻。
最古のオルドワン石器の左右対称へのこだわり。
縄文の火焔土器の異常とも思えるシェイプへの好奇心・・・。
機能だけでよいのに、なぜかデザインにこだわり、シェイプやにおいや音に官能と共感を明らかに意図して求める生き物。それが人類だ。



さて、そういう特性が悪い方向へ出ると独善となる。
威張り腐った背伸びや虚構へ裏返る。それも人類だ。


北部九州が大陸に翻弄され、かつての素晴らしい最新最先端の文化を育て上げられなかった反面、近畿は正反対に、その日本人の悪い面である、ただただ大きな墓を作り続け、中身は九州ほどの鉄器や武器や立派な鏡も持てない「えせヒエラルキー」「がらんどうのピーマン威信文化」にまい進した。その例が五世紀の巨大前方後円墳の出現だったのだろう。少しづつ、九州以上のつきあいを大陸諸国とはじめられるようになるのが4世紀以降。横穴式石室に変化したのは大量の威信財を墓に入れる余力がやっとできてからである。広いトランクルームを持てる形状が横穴式だったからだ。

そして文献では、そのとき応神という大王が河内に登場したと書くのである。



縄文も弥生も古墳も、すべてつながっている。しかし記録はいつも嘘を書く。裕福でなかったからこそいばりたがる。それが記紀である。それが大和の最初である。


そういう人々が書いたのが『日本書紀』である。


なぜ最初の天皇が九州から来たと描いたのだろう?
なのに、なぜ纏向遺跡からは九州の土器は出てこないのだろう。
九州の土器が纏向から出てこないことで、困り果てたのは実は近畿の皇国史観愛好する史学者ではないだろうか?そういう逆説的な考えがときどき脳裏をかすめる。じゃあ、『日本書紀』の神武東征神話が瓦解するではないかと。記紀は根本から壊れるじゃないかと。それを壊してしまったのはほかならぬ自分たちの手下である近畿考古学その人ではないかと。ね。

九州の土器が出るはずがないのだ。最初からそこに住んでいたのだから。縄文人と融合してハイブリッドして、久しく住んでいたから、もう九州オリジナルの土器は使わなくなっていたからこそ、出てこない。つまり彼らがオリジナルの大和民族であり、そこに各地から人々が三世紀前になって逃げ込んできた。今の東京と同じことである。在地大和っ子に地方出身者が混ざりこんでふくらんだお餅が大和なのである。その時代が卑弥呼の時代なのだ。大都市とはそうやってできあがる。

そういう着想が持てなければなかなか。

藤原氏は弱小氏族だった。
そこが肝である。
弱小から一気になり上げれた。
王を傀儡の女子とすることだけで手のひらを返したようなマジックで表舞台に登場しできた。不比等以前は実在したかどうか記紀にしか記述はないのだ。


次回、継体と「帝紀」「国紀」の真相は?


お楽しみに。


参考文献
考古学 松木武彦『日本の歴史1 列島創世記』小学館
文献史学 遠山美津男『日本書紀の虚構と史実』 洋泉社

































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