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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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言霊は事霊 言霊世界と文字霊世界の合体した国日本

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志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具
志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ
  柿本人麻呂 万3254)

…虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理…」
…そらみつ大和の國は 皇神(すめかみ)の嚴くしき國 言靈の幸ふ國と 語り繼ぎ言ひ繼がひけり…
 山上憶良 万894

言霊を人麻呂は事霊と表記している。
つまり往古奈良時代には「言=事」だったわけである。
考えてみれば、『日本書紀』の出雲の神・八重事代主(やえことしろぬし)の「ことしろ」は『古事記』では言代主とも表記されているし、「こと」とは言葉でもあり、「言の葉 ことのは」とは「事の端」・・・事象を引き起こす因果のもとというのが言霊思想の本性であるのだ。のろい言葉を吐けばそののろいは現実化するというのは巫覡の忌み禁じた呪詛から生じたのであろう。逆によい言葉を言えばよいことが起こるということにもなり、それは現在でもちゃんと生活の中に存在する。慢心した言葉を吐けばちゃんとある議員のように世間から断罪されたりは日本人の、あるいはマスコミの風習のようになっていて「言葉狩り」などはよくはやる。

ヤマトタケルは草薙劔を置いて遠征し、伊吹山で山の神(これを葛城一言主などという地域もあるわけだが)に出会い「神の使いだからあとで退治すればいい」などと奢ったことを言ったためにかえって神の祟りにあって死んでしまったわけである。(聖書ではこれと似たようなものをブレス=息と表現している。いわゆるキリスト教徒がよく使うゴッド・ブレス=神の息吹きである。そういう意味では伊吹山の「いぶき」も同じだろうか?ゴッド・ブレス・ジ・アメリカ=神の息吹にささえられ、護られるアメリカ合衆国)

「抜歯の風習をもたない中原の畑作牧畜民はいち早く文字を発明し、黄河文明を創造した。これに対し、長江文明には文字が無かった。少数民族の稲作漁撈民が作り出した長江文明はなぜ文字文化を発達させなかったのか。その原因に抜歯が深く関わっているのではあるまいか。
  抜歯の風習を堅持し、日本列島にポート・ピープルとして漂着した稲作漁撈民をはじめ、中国大陸で長江文明を発展させた少数民族は文字よりも「言霊」を重視した。それゆえ文字文化を発展させなかった。「言霊」の出る口は聖なる場所であった。その邪気をはらうために抜歯を行なったのではあるまいか。
  人類の文明史には「文字を重視する文明」と「言霊を重視する文明」があり、抜歯は後者の言霊を重視する文明のシンボルだったのである。」安田喜憲著の『稲作漁撈文明』

文字を持つ文化の人々は大陸の乾燥地帯に住むものが多い。漢字がステップロードを通じてやってきたスキタイらの使う甲骨文字の影響下で開始されたということを過去書いたことがある。「抜歯は言霊」http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55865774.html

漢字や甲骨文字など、文字を持った文明人は言霊思想や抜歯風習や刺青風習を持たない。代わりに小麦畑作、騎馬遊牧、獣肉食、ミルク・チーズ文化、それを用いる発酵食品を発達させた。いわゆる砂漠の思想とでも言える乾燥して即物的感性の持ち主で、侵略やいくさを好む。外交的である。

対して文字を持たない文明人は、言霊思想や抜歯風習を持ち、甕棺埋葬や稲作文化、魚食文化を持った、発酵食品ではミルク加工品を食べないで魚醤や植物発酵食品を常食とした、湿った主観的感性の持ち主である。いくさは好まず、侵略もせず、進んで自分たちの文化も発信したがらない。内向的である。

つまりそれは前者が北方的内陸的で、後者は南方的海岸部的とも置き換えられよう。
前者の代表が西欧文明や黄河文明やチグリス・ユーフラテス文明だとすれば、後者の代表は江南の長江文明や倭人文化、島嶼文化人ではなかろうか。


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文字は契約を導き、取引には必ず文書による契約書を取り交わす。言葉は口約束であるからその文化は人をまずは信用することを前提にした付き合い方をする。ということは後者は裏切られ、だまされることも当然多くなるわけだが、文書で契約しても破棄されたりは起こるのでどっちもどっちだろう。むしろ前者のほうが確かに失敗は少なくできるけれど、裏切りやだましを前提にした人を信用しない方法だから、かえって当然のように破棄や不履行が起こるかも知れない。歴史はどうやらそういうことばかり起きてきたようである。

そうすると前者の歴史観は当然のように治乱興亡史となる。後者は一系史となるだろう。
それぞれの言語の文法の相違もそこに起因するのかも知れぬ。あるいは言語文法がそうさせたか?中国や欧米の言語は主語のあとにすぐ述語が来るから、やる・やらないをまず明確に意思表示する言葉である。日本や朝鮮の言葉は主語のあとに目的語をはさむので意思がはっきりしない。あいまいな文化になっていく。

いや文字にだって霊はあるのだという人もいる。
文字霊という言葉はないが、先の息吹=ブレスには言霊に通じる観念があったように、漢字が日本にやってきてはじめて文字にも霊が宿るという観念が生まれたということは言えそうだ。

前に戻れば、事代主が海の神で、一言主は山の神であった。
雄略天皇は山に狩りにゆき(これは王者になったというデモンストレーションで東西共通)、山ノ神に出会うのだが、それが葛城一言主だった。また雄略は山の猪に追いかけられ、木に登ってかつがつ難を逃れるわけだが、このイノシシも、ヤマトタケルが出会った伊吹山の白いイノシシだってやはり山の神であろう。シカも神だが、どうも山の神は「ひとこと言う」霊魂であったらしい。その一言というのが相手にとっていいほうへも、悪いほうへも導くことになるから「一言」とは預言なのだ。つまりそれは巫女の呪文のようなものである。抜歯には、そうした悪い言葉を言わせないようにするための戒めもあったのかも知れない。

文字文明人は客観的な科学を作り出した。
ヒエラルキー階層社会を作り、乾燥した大地で遊牧や畑作を行い、肉を食い、巨大な経済社会を発達させた。自然に挑戦し、外交的な契約社会だ。
言葉文明人は円の思想で共存社会を営み、湿潤な河口部で水田を切り開き、魚を食い、コンパクトな交流交換社会を発達させた。同じように自然を切り開いても自然と融和し、自然を災害神としてあがめ、ささげものをしてなだめすかして仲良くなろうとした。契約は信用第一の内向的社会である。

不思議なことだが、北方の草原地帯に近いアジア北東部から南下してきた縄文人たちも、なぜか長江文明人と同じような自然観を持っていた。それはどうもひとえに列島の自然、森のせいだったのかも知れない。


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